米子城の伝説

2016年12月23日 21:07

456 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 07:54:36.77 ID:a79PnZ+I
米子城の伝説

吉川広家中村一忠の築城で米子城の本丸が飯山から湊山へと移り変わった頃の事。
米子城に夜な夜な化け物が出ると噂が立った。
ある時村河与一衛門と言う勇気有る侍が化け物の正体を暴いてやろうと、夜の城を見回っていると、
本丸付近の鉄(くろがね)御門をくぐって石段を上に上がろうとしたその時、暗闇の中に突如灯りが立った。
よく見ると、白衣に緋袴を履いた女が灯りを持ち立っているのが見えた。与一衛門が
「怪しい奴、何者か!?」
と強く誰何すると女は
「私はこの城の主人である。我が城の見回り中じゃ」
と言って与一衛門を見向きもせず去ろうとした。
与一衛門は「この城の主人は殿様じゃ」
と刀を抜いて斬りかかり、女と暫し攻防が続いた。暫くして女は
「私の負けだ。私は飯山の主の大蛇でこの湊山に城が移って飯山は廃れてしまい、それを恨みに思って化けて出たのだ。
そなたは強い、今夜限りにもう姿を現わすのはやめにする。これはその証じゃ」
と言うと、与一衛門に二枚の皿を渡して大きな音と共に姿を消した。
明るくなって与一衛門が二枚の皿を確認すると、それは大きな蛇の鱗であったという。
村河家では代々その鱗を大事にした。



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中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~

2016年12月23日 21:06

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 19:45:13.14 ID:uDiWfu+v
中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9105.html

にも少し書いてある話になるが、

中村一忠は11歳で家督を継ぎ、伯父で執政家老の横田内膳が政務を取り仕切っていた。独裁的であったようだが、米子城を完成し、新たに城下町をつくり、現在の米子の基礎固めを行っている。
重臣の安井清一郎や、茶道の師である天野宗把など、内膳のやりかたに不満のある者たちが、一忠にそろそろ政務をご自分の手に、とそそのかした。
これにのった一忠は、慶長八年(一六〇三)十一月十四日に、一忠と於さめ姫との許婚の儀が米子城で盛大に行われたあとで内膳にいきなり斬りつけた。
しかし、一忠は仕損じてしまい、次の間に控えていた家臣がようやく斬り伏せ殺害した。
直後、横田内膳の息子や柳生但馬守宗矩の兄、五郎右衛門らによる米子騒動が起き、隣国出雲月山富田城城主、
堀尾吉晴の助けもあって事態は一忠側の勝利で収集したものの幕府は、安井、天野の両人に切腹を命じた。
また江戸へ呼び出された一忠はさまざまに弁明したものの、品川宿で謹慎を命じられた後許されている。
一忠の叔父中村一栄(かずよし)は、家臣の梅里伯清の娘を一忠の側室にと推挙し慶長九年(一六〇四)、梅里の娘は十四歳で米子城へお国御前として上がる。
正室於さめ姫は江戸屋敷に常住した為お国御前は正室に次ぐ格があった。

一忠には京にも京屋敷があり、これは豊臣時代からの屋敷で一忠の生まれ育った所であった。

京屋敷の家老矢野正倫(まさとも)も京の側室を推挙した。庄屋の娘であったが、美人で物腰やわらかな、明るい娘であったようだ。

余談だが家康は大名たちの側室の人数について、大名は八人という目安をもうけている。一忠も江戸、京、米子と、上屋敷、下屋敷に八人くらいの側室はいたのかもしれない。

元服の際一忠は、松平の称号を許され、将軍秀忠の諱名を賜り、忠一と名乗りを改めた。

於さめ姫には、姫つきの女中があまた随ってきたが、それとは別に忠一付きの側女中が二人、どこからか配置されてきた。この二人はこまめに忠一の身の回りの世話をした。周囲の者に明かすことのできない、重要な任務を帯びて中村家に乗り込んできていた。

側女中の二人がきてより、忠一の体調はしだいに悪くなり、疲労感が色濃くなっていった。

江戸屋敷にいる於さめ姫は、忠一が江戸にあっても、別棟の御主殿にいて、昼間は忠一と会うことはなかったが、輝姫という女の子を産んでいる。ついで、京の側室も出産し、こちらは男子で小武と名づけられた。

慶長十四年(一六〇九)五月、江戸、京、とまわって米子へ帰国した忠一は、だれの目にもわかるほど衰弱していた。

旅の道中に例の側女中もつき従い、十二分に忠一の面倒をみたが、お国御前の側室が側女中をあやしんで、見張り役を派遣したが、確証は得られなかった。

川狩りに行くと気分もよく元気が出るような気がして、忠一は最後の川狩りに出かけた。だがほどなく帰ってきた忠一は、すぐ寝所に入った。近習がかけつけた時、忠一はすでに死んでいた。いまだ二十歳の若い藩主の死去であった。

忠一の顔には薄く斑点が浮き、それを消すためにか、側女中は顔や身体中をなでさすっていた。これをとがめられた側女中は逃げ出して再びその姿を見た者はいなかった。

この後藩主の亡くなった米子城に幕府の裁定が下り、中村家は子なき故断絶と決まった。

京の側室には、男子の小武がありながら、また米子の御国御前も当時忠一の子を妊娠していたのにである。
これは正室である於さめ姫が「おおかた、どこからか連れてきた子であろう。けしからぬことだ」
と、柳眉をさかだてた鶴の一声の為であり、この為十八万石の米子中村家は、お取り潰しになってしまった。
中村忠一の死後、妊娠していた米子の御国御前も隠棲して男子を産んだがこれらの子らのその後に関しては九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、
また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられたと言う。
正室、於さめの方に関してはこの四年後の慶長十八年(1613年)に毛利秀元の継室(浄明院)として嫁いだとされる。

(因伯戦国時代の女性たち、鳥取県史より)

451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 19:58:11.05 ID:uDiWfu+v
>>450
追記として、米子騒動の横田内膳は既出の話にある通り藩主を蔑ろにした奸臣と言う風に中村記などの中村家側の資料に書かれているが、
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、
更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとされている。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 20:56:32.91 ID:iLzbCdiU
自分が任命した補佐役の村詮を殺されたから家康は怒ったんでしょ?

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 21:06:02.20 ID:TmvAbk2q
よくあることとはいえまるっきり話が違うw

454 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 21:14:22.59 ID:uDiWfu+v
>>452
それも有るし、養女とは言え娘の婚礼の宴を利用して功臣の排斥行ったらそりゃあもう味噌様だって怒りが有頂天でしょうよ

465 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 16:53:28.04 ID:+Oh64i4Z
>>454
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8378.html

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 19:43:17.14 ID:RwZ7R4NO
>>454
まてまて「怒りが有頂天」は無いだろう。
「怒り心頭」とか「怒髪天を衝く」がごっちゃになってるよ

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 20:17:22.79 ID:B+sxctzO
>>466
ネットスラングだよ。こういうスレで使うのもどうかと思うがw

468 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/25(日) 06:35:18.93 ID:DQ39pmTE
怒りが頂点に達した時に使用するネットスラング。

元ネタはブロントさんと呼ばれる2chネトゲ実況版に書き込みを行っていたユーザーの書き込みから。


75 名前:既にその名前は使われています投稿日:03/10/30 16:38 ID:QcBxXqoc
お前らは一級廃人のおれの足元にも及ばない貧弱一般人
その一般人どもが一級廃人のおれに対してナメタ言葉を使うことでおれの怒りが有頂天になった
この怒りはしばらくおさまる事を知らない


76 名前:既にその名前は使われています 投稿日:03/10/30 16:39 xu+t+yG6
有頂天になるんか。

http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/%B2%B6%A4%CE%C5%DC%A4%EA%A4%AC%CD%AD%C4%BA%C5%B7





ブロントさんが初めて使ってから13年か…
知らない人も出て来る時期なんだなぁ…

『蜻蛉不留(とんぼとまらず)』

2015年03月20日 18:41

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/19(木) 21:48:56.97 ID:Xlo9luNo
『蜻蛉不留(とんぼとまらず)』

中村一氏の家臣に、飯田新右衛門正国という剛勇の侍があった。
この人の父は越後守正義といい、父子共に一氏に仕えて度々の戦功を現した。

一氏は長男が誕生した時、この飯田正国を命名親として、幼名を一角とつけさせたほど、
正国を信任していた。

その頃、豊臣秀吉は正宗作の鑓を秘蔵し、これを「蜻蛉不留」と名づけた。
それは、ある時この槍の先に蜻蛉が止まると、たちまち二つに断たれ地に落ちたという事から、
天晴天下の名器なりと名付けられたものであった。
そして紀州根来退治の時、一氏の軍功に、秀吉より「わが秘蔵の鑓であるが汝に与える」と
下賜したのである。

一氏の嫡男一角が元服して一忠と名乗った時、この槍も一氏より譲られた。
しかし一忠は
「飯田新右衛門は、私が幼少の頃より武芸の指南をし。万事忠勤を尽くしています。
ですのでこの蜻蛉不留の鑓は、新右衛門に与えたいと思います。」と言った。

一氏も尤もだと思ったが、秀吉に一度伺いを立ててからでないと後日の咎もも測りがたいと思い、
その旨お伺いを立てると
「あの新右衛門か!彼は先年小田原討ち入りの時、二子山にて数ヶ所の敵の篝火を消した男だ。
その時の働き比類なかった。あの鑓は天下に二つ無きものだが、あの男が持つ事に
少しも仔細はない。

ただし、あれは鹿の腹籠の革で鞘を作っているのだが、他に同じものがあっては新右衛門の面目にも
係るであろう。であれば、今後天下に触れて、鹿の腹籠の革で鑓の鞘を作ることを禁止する!」

そう言って飯田新右衛門に与えることを許可した。この事は彼の評判を更に輝かせた。

時に、福島正則の家臣に可児才蔵という者があった、彼も名高き鑓の名人であったのだが、
飯田新右衛門が天下無双の鑓を賜ったと聞くと激しく怒り
「この才蔵を差し置いて新右衛門に天下の鑓を与えるというのは心得がたい!一度新右衛門と
鑓の試合をなし、何れが優れているか世の人に知らせ、かの鑓は私が奪い取る!」
そう人々に吹聴していた。

そしてある時、箱根の山中で偶然にもこの二人が鉢合わせと成った。
可児才蔵は言った「良い折りだ、私と試合をして腕前を試そう!よろしいか?私が勝てばその鑓申し受ける!」
これに飯田新右衛門「言うに及ばず!」と両人鑓を取って突き合う。
一時ばかりの間に、才蔵は三ヶ所、新右衛門は四ヶ所を負傷したが、勝負はついに決せず、
互いに再開を約し物別れと成った。
この事も、正国の名をさらに高くしたという。

(刀剣談)



756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 02:26:54.07 ID:CQ3hmjb2
また蜻蛉が切られてしまったのか

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 09:20:24.00 ID:tR6y122d
可児才蔵って何で自信過剰だったんだろう
主君から干されまくってるのに

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 09:27:42.27 ID:3QC19a9C
試合形式だと宝蔵院の方が強そう

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 09:56:35.68 ID:bS4Zoia5
日本号の時は何もしてないのにな

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 15:12:52.01 ID:2aJzZiA7
正宗の時代に槍・・・あ(察し)

中村一忠、横田内膳成敗の事

2015年02月24日 18:28

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 06:48:04.59 ID:lsITlDED
中村一忠、横田内膳成敗の事

慶長8年(1603)11月14日、伯耆国米子において、中村一学(一忠)の内儀の額直しの儀(元服)の時の事。
この時一学は14歳、重臣である横田内膳(村詮)一人が奥へと通り、西の丸にて番の小姓を伴って戻り、
奥での祝の終わる頃には夜に入っていた。

横田内膳が退出しようとすると、一学は広間まで見送った。そこで内膳は「刀を預かって頂いていたので、
それをお返しいただきたい。」と言った所を、一学が突然斬りつけた。

一学は内膳に3度切りつけたが、3度とも内膳に当たらなかった。一学は若年であり、力弱かったために
刀もうまく使えなかったのである。内膳は身に当たらなかったためにその場から逃げ出した。
ここで一学の太鼓の師匠である安井誠一郎、当時700石を取っていたが、彼が内膳に立ち向かった。
安井も一学と談合し、横田内膳の襲撃に加わっていたのである。しかし内膳によって左の拳を斬られ
後ずさり行燈を踏み倒した。そこには奥の殿原が二人居たが、この太刀合わせに驚き逃げ出した。

しかし内膳が潜り戸を上げて外に出ようとした所を、近藤善右衛門が長刀にて突き殺した。

この近藤善右衛門に対し、横田内膳はかつて恩義を与えたことがあったのだが、近藤はそのことを
全く知らなかった。かつて中村一氏が、当時6千石を与えていた垣見豊後を扶持放しした時、
その6千石の内、3千石を家老たちに分配し、残りの3千石を物頭6人に使わすようにと命じた。
ここで横田内膳は、「近藤善右衛門にも500石を遣わされますように。」と申し上げたが、
一氏は同意せず座敷を起ってしまった。しかし内膳はこれに追いかけ、無理に願い上げ善右衛門に
500石加増するとの一筆を書かせた。しかしこの事は加増に関わる大事の事だったので、内膳も
善右衛門に一言も語らなかった。
近藤善右衛門は後に、もしこの事を知っていれば、長刀で内膳を突き殺すようなことはなかったのにと、
語ったそうである。

中村一学が内膳に斬りつけた時、内膳の茶道が一楽を後ろから斬りつけた。そこをとっさに、
一学の茶道である宗把という者が気づきこれを斬り殺した。後でその褒美として千石が与えられた。

横田内膳という人は、元は三好殿に仕えた牢人であったのを、中村一氏が咄物(御伽衆)として抱えた。
ある時重大事があり、中村一氏も焦燥し悩んでおり、この時「内膳の考えも聞かせてみよ」と言った所、
内膳の申し上げた意見は非常に優れており、その後数度試した後、一氏は彼に三千石を遣わし、さらに
妹婿に迎え、国の仕置を申し付けた。
内膳の仕置は、家中の者への対応も国郡の政治も非常に良きものであったので、門前市を成す状況となり、
人からの賞賛は大方成らぬものであった。

しかし、中村一氏の跡を継いだ一学が幼少であったこともあり、内膳も驕り、甥の横田勘解由・主馬などの
高い知行を遣わし、聟に六千石を取らせるなど驕りを極めたため、薮内匠、服部小膳などの他の重臣は
用心のため身を引き引退した。
そして内膳は歌舞伎踊り、物見遊山などの享楽も好んだ。これら故にこのように成敗されたのである。

(中村一氏記)

中村一忠による、重臣横田村詮成敗についての記事である。



438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 08:35:35.02 ID:Wnf+Ge+k
長刀の優秀さが証明されてしまったか

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 09:45:54.04 ID:2arNW6pY
格闘茶道の心得も必要なんだな

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 10:16:15.82 ID:mjEsQPk+
目潰しに茶を吹きかけるのだな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 16:19:39.76 ID:kZLRFJwv
横田内膳って家康にも目をかけられた人物で、ていうか家康の指図で中村家の家老に命じられているんで、その辺も影響してるんだろうな
「横田って将軍に気に入られてるからって態度でかくね?」
「ていうかスパイじゃね?」
みたいな

当然、家康が自分が命じた横田が殺されたことを看過するわけもなく、中村家はあっさり取り潰しになりましたとさ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 23:46:59.10 ID:NBwyUHkk
スパイというなら客将の柳生宗章だろ
こいつ家康の誘いに応じず小早川秀秋のとこで警護役してんじゃん
柳生一族をも殺したのは不味いよなあ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:00:54.08 ID:ts3EH1ea
柳生宗章はくさい。
小早川に中村と、豊臣恩顧の大名のもとをぶらぶらしてるとこを見ると、ほんとうにスパイ臭い。
家康の誘いを断ったんじゃなく「スパイして来い。その功で取り立ててやる」とでも言われたんじゃないか。

同じような例に本田政重がいる。
こいつも豊臣恩顧の大名を渡り歩き、関ヶ原でも西軍として参加しているが、なぜか罪に問われず、どんどん出世していった。
最後は加賀藩の家老として7万石を領している。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:06:18.12 ID:ts3EH1ea
>>442
まあそのスパイ臭い柳生を、家康に目をかけられていた横田が客将として受け入れていたんだから、ますますスパイ疑惑も深まるというもの。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:34:50.73 ID:FByVptBU
>>441
この件で中村家は取り潰されてないんだが…。
中村家はこの事件から5年後、一忠の急逝に伴う無嗣改易だぞ。

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 01:48:32.37 ID:ts3EH1ea
>>446
15歳の幼君だし、まだまだ諸大名の動向も不穏だったから、一時的に猶予されただけだと思うよ
一忠がくたばると、妾腹の男子があったが、正室が断固反対したため、無嗣扱いになって終了
ちなみに正室は徳川家康の養女w
家康―養女―横田―柳生のラインに逆らっちゃ生きていけないよ

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 01:54:09.98 ID:FByVptBU
>>447
そもそも5年前に20で急逝するなんて誰が解るんだよ。君みたいな考え方を「陰謀論」と呼ぶ。
根拠も一切無い、印象論だけで何でもかんでも決め付ける、学問として最もやってはいけない態度だ。

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:09:13.37 ID:ts3EH1ea
>>448
一忠が生きてても懲罰的減封ぐらいはされていただろうということ
猶予与えたけどダメで、そのまま死んじゃったから、正室と家康が組んで中村家潰した
家康目線だと、横田と柳生を殺した反徳川の家臣を排除にしたにもかかわらず駄目だったんで、
中村家自体が存続させる意味のないクズ家だと認識したんだろうさ

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:51:47.33 ID:FByVptBU
>>449
だから根拠が一切ないじゃないか。君の主張を裏付ける史料は何?
最低限それの傍証となる同時代史料を提示しないと。
それが出来ないのなら君の主張は全部、ただの思い込みに過ぎない。

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:55:44.98 ID:LTObXFfO
横田は家康に駿府を明け渡した人だからな~
家康のお気に入りであることは間違いなかろう
また先代の妹御を室にして外戚でもあり家老として申し分ない
戦国の世なら下剋上もあったろうが江戸じゃね
まあ子供がいなきゃ養子縁組が可能だろうが…
横田をスパイとするのは見当外れもいいとこ

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フロイス日本史より、岸和田城の戦い

2015年02月01日 17:36

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 21:18:35.19 ID:yxZSJj8x
羽柴がこのたびの戦いのために大坂を出発した後、根来および雑賀と称する仏僧らは、
かねがね自分たちが羽柴から好ましからず思われているのを承知していたので、
彼が戦争から凱旋してきた暁には来襲するであろうと見なし、彼の不在に乗じ、約一万五千名が一団となって出撃し、
羽柴が大坂に築いた新しい都市をすべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。
そして城を占拠したうえは、かつて信長が五年も六年も攻囲したかの僧(=顕如)を再びそこへおらしめることにした。
城と市には少なくとも戦えるほどの者とてはほとんど居なかったのみならず、当時はなお新たに建築中であったので、
城全体が開放されていた。
敵は徐々に前進し、途上幾つかの場所を破壊したり、焼いて行ったりで、四日ないし五日もかかった。
大坂にいた人々は、この有様では市は全滅してしまいまともな物は何一つ残るまいと思えたので、
あとう限り家財や衣服を搬出し、火の手が迫った家屋を放棄した。
市内外の街路には、すでに盗賊が充満しており、物を携えて歩行する者は、ただちに襲われて略奪される外はなかった。
こうした街路での略奪は、かつて安土山が焼き尽くされた時(=本能寺の変)とほとんど同じような様相を帯びるに至った。

当時大阪にはオルガンティーノ師が、いま一人の司祭および二人の修道士とともにいたが、急きょ家財をまとめて乗船することとし、
教会は火勢の赴くままに任せることにした。
もとよりオルガンティーノ師はそこから去るつもりは毛頭なかったが、キリシタンたちは、
「司祭らはたとえ同所に残留したとて不必要に死ぬだけであり、自分たちに多大の苦痛と悲嘆を及ぼすに過ぎぬ」
と言って退去することを強要したからであった。

この状況下に、羽柴は和泉国のキシワダという城に六、七千名の兵を率いる一司令官を配置した。
この司令官はすこぶる勇敢で著名であり、名をマゴイチ(=孫一、中村孫平次一氏)と称した。
そして同城は敵が必ず通過せねばならぬ道にあったのだが、敵は羽柴がそこに守備隊を置いていることを知らず、
実際に彼らが味わうことになったような強硬な抵抗のことを予想していなかったので、城は容易に奪取できるものと考えていた。
だが孫一は全軍を挙げて攻撃に出、敵に非常な損害を与え、短時間に四千余名ほどの敵兵を殺戮した。
五畿内においては、自らが討ち取った敵の首級を指揮官に差し出す習わしであったが、各兵士はすでに疲れていたので、
敵兵の耳だけを切り取って行った。
こうしたことは敵兵が大坂に到着する五、六里手前で起こったのであるが、
後方から進んできた連中のこの敗北はただちに大いなる反響を生むに至り、
前方を進んでいた連中は失望落胆して急ぎ引き返した。
彼らに対しては、足が悪い者や片腕の者、さらに老人や少年たちまでが立ち向かい、
彼らは勇気百倍して敵兵を片端から殴殺して行った。
もしも彼らに(夜間が迫るというような)都合の良いことが生じなければ、ほとんど誰も逃れることはできなかったであろう。


フロイス日本史より、>>609と同じ戦いの様子



616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/01(日) 09:02:54.29 ID:LLpilcH7
>>613
非常時に盗賊が跋扈するって見るたびに、やっぱりそれが普通でいまの日本人が世界的に見ても異質なんかなあと感じる

岸和田合戦

2015年01月31日 17:03

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 13:56:14.66 ID:u+cnralg
秀吉が小牧に陣を出す時、紀州の根来・雑賀の一揆を抑えるために、中村式部少輔一氏を
岸和田の城に置きなされた。

紀州の一揆は秀吉が大坂を打ち立つと聞いて、2万3千ほどの勢が二手に分かれ、一手は
東の山際から堺に向かい、一手は岸和田に押し寄せた。すると、血気にはやる若者たち
2,3騎が城を出て、攻め寄せる軍勢に向かって行った。

士大将の早川助右衛門、川毛惣左衛門は「引き返せ!」と、使いを送ったが、それを聞いた
一氏は、「このような時に、行き続く武者を引かせようとすれば、敗北するものだよ。
さあ、打ち出よう!」と、言って、“鉄蓋が峯”と名付けた兜の緒を締めて、城を乗り出した。

先に進んだ者たちは、菅笠の馬印を振り返って見て、「あっ、殿がお出になれた! この戦は
勝ったぞ!」と、言う間こそあったが、1万余りの紀州勢に対して面も振らず切りかかって
打ち破り、敵が七筋に分かれて逃げるのを追った。

一氏は3百ほどの勢で堂の池という所に控えて、先陣が帰るのを待った。そんな折に、堺海道に
馬煙が暗く見えた。これは堺に向かった敵が返して来たのだ。「新手の大軍に駆け合って戦う
なんて、思いも寄らないことだ。早く城に立て籠もろう!」と、人々が口々に言うと、一氏は、

「いやいや、退けば味方の気力が挫けて打ち負けることだろう。一寸でも退く時は、
先陣を捨て殺すことになり、城をも攻め落とされることになる。一揆は何百万といても、
先陣をさえ切り崩したならば、二陣はたちまち敗北することであろう。私に任せよ!」

と言い、敵が同時に攻め掛かり難い地の利を推量し、堂の池を前にして大敵をお待ちになった。

一氏は、「馬をことごとく城へ返すのだ。馬を引き付けておくと、引き退きたい心が生じるぞ」
と言って、床几に腰かけ、本陣3百ほどの勢は槍を膝の上に置いて片ひざをついた。

新藤勘左衛門は強弓、矢継早の手利きであった。彼はこの時、散々に射た。敵が射られて怯み、
手負いや死人が倒れ重なって躊躇った時、一氏は、「弓の者の羽壺(矢入れ具)を、勘左衛門に
渡せ!」と下知なされたので、勘左衛門はますますつがえては引いて、つがえては引いて、
矢に空矢は無かった。一氏は麾(ざい)を取り、「掛かれ!」と言って立ち上がった。

ところで、黒田如水は大坂にいたのだが、岸和田に敵が押し寄せると聞き、14歳になった
息子の長政が岸和田にいたので「いざ救うぞ!」と言って、7百ほどの勢で敵の後ろに駆けて来た。
これを見て一氏はますます進んで、喚き叫んで切って掛かり追い立てて、8百余りの首を取った。

如水が「長政はどうしているだろう」と思っていると、長政は黄羅紗の羽織を着て鹿毛の馬に乗り、
今朝討ち取った首を鞍の四方手に付けて馳せ巡った。それを見て如水はたいへんお喜びになった。

秀吉は一氏に感状を賜った。一氏は豊臣家諸将の中でも優れた勇将なので、加藤嘉明も羨み慕い、
息子の明成を式部少輔にしたということである。

――『常山紀談』



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 14:32:25.26 ID:9HoDTP3/
信長を苦しめた雑賀衆が中村一氏ごときに追い散らされる様子が想像出来ない

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 21:11:47.00 ID:vlWoQ0Mm
孫一とかは秀吉側でしょ?
本能寺の時に逃げ出してから勢力を維持してるとも思えないけど

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:08:49.07 ID:23jTJFzj
>>610
根来雑賀は籠城戦では力を発揮するが野戦だとてんでダメなんだよなぁ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:28:31.87 ID:TtK/bThA
つか雑賀は石山本合戦の講和のあと、内部分裂して争い始めてるしなあ。
それで雑賀の鷺森に退去してた本願寺顕如の身の回りも危険になって、信長がわざわざ警備兵派遣したりしてる

式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた

2015年01月23日 18:52

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 01:11:00.74 ID:TqpKgmMl
小田原の陣において、北条方の支城である山中城が激戦の上攻略されると、太閤様(豊臣秀吉)は
内府公(徳川家康)、信雄公を相手にしながら、中納言殿(豊臣秀次)、次に丹波の少将殿(豊臣秀勝)より
戦いの模様を聞いた。その中でも特に奮戦した中村式部少輔(一氏)に関しては
「式部少輔は中納言(秀次)に付けていたが、今度の手柄をよく吟味して、相応の取り計らいをするように。」
と申し付けた。その上で今度の戦いの褒美として、中納言殿に御腰物、御太刀、御馬、少将殿に御腰物、御馬を
遣わされた。

そうして太閤様は中村式部少輔を召し出し、自身が着ていた唐織の羽織を脱ぐと、式部少輔に手づから着させ、
「今度の手柄を奉行に申し付け、褒美として国を与える。」と直々に伝えた。
これに、その場に居並ぶ諸大名衆、残らず「尤もなことである」と、感じ入った体で、式部少輔の
冥加に叶いたる段、身に余ることであった。

所がそれに続いて、太閤様が仰ることには
「中納言に付いた人持ち(部隊長)には、私から羽織を与える。今回、山中に早く着いた順番に呼び出し、
式部少輔より渡すように。」
と仰せになり、小姓衆が羽織を一つ一つ運び、式部少輔の脇に置いていった。

これは内府公、信雄公を始めとした諸大名の面前で行われていたが、この事について誰も特に言い出す
様子はなかった。そこで式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた

「今度の合戦の様子、軍勢についても如才無く運用されたと言いましても、早い遅いは、それぞれの心に任せて
出来るものではありません。何れの者達も、油断していたわけではないのです。そのことは御眼前にて
ご理解されていると思います。
従って、御羽織を拝領して頂く事については、一同に召し出して拝領させて頂きたいのです。」

これを聞いて、内府公は信雄公の方を向いて言った
「式部少輔の申し上げた事、尤もな発言であります。」

諸大名もこれに、どよめきたって同意した。そこで太閤様も「では、そのようにしよう」と仰せられた。

これは中村式部少輔が、私(渡辺勘兵衛了)を相手に語ったことである。

(渡邊水庵覚書)



592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:51:16.13 ID:+CjCiSmu
これって中村一氏が一番乗りを果たした渡辺了への知行を値切る口実に使われた
「悪い話」じゃないの?

中村一氏、三成の挙兵のタイミングについて

2013年04月26日 19:50

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 20:59:27.35 ID:56dO5KAK
慶長5年(1600)、関ヶ原の役
上杉征伐に向かっていた家康とその軍勢は、下野国小山で石田三成の挙兵を知る
この時、従軍していた中村式部少輔(一氏)はこのように言った

「石田の企ては、30日遅く、30日早かった。もし我々が上杉勢と交戦している最中に挙兵すれば、
彼の計画は図にあたっただろう。
また我々が江戸に到着する以前に挙兵し追い打ちをしかければ、大いに利があっただろう。」
(紀伊國物語)

中村一氏の、三成の挙兵のタイミングについての感想である。




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:45:30.46 ID:/G2hYSqy
上杉と交戦しなかった家康がスゴイと思う

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:47:50.82 ID:y4biFIZl
小山まで従軍してたのか、亡くなる前後のはずだからてっきり駿府で臥せってるのかと

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:59:49.78 ID:uQnskR5u
>>392
交戦しようとした矢先に三成挙兵の報が入っただけ
それがなかったらそのまま上杉と交戦してる

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 22:05:04.88 ID:MI+/cINI
>>394
そういえば中田正光先生の『北の関ヶ原合戦 ~北関東・東北地方で戦われた「天下分け目」の前哨戦』で、
「上杉は家康と戦う気はなかった」と断言してた。上杉の面子を保つ範囲で家康との講和を目指していたとか。

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 23:49:24.50 ID:o7TINGEP
>>393
史実では西軍が決起した頃に死んでる。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 01:40:35.58 ID:FkzD9Ro4
>>397
そうか…
関ヶ原まで生きていてくれれば、タコを召喚して面白いことになっていたのに

藪内匠正照と渡辺勘兵衛

2011年07月11日 23:20

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 22:22:08.62 ID:ktV8s8B2
中村一氏の家臣、藪内匠正照は、秀吉の中国攻めのころから武功をもって知られた歴戦の士であり、
主家が駿府14万石をつかむきっかけとなった山中城攻めにおいても、一番乗りの大功を立ててのけた。

ところが、この攻城戦に同じく一氏に仕えていた渡辺勘兵衛も参加しており、その大半月の前立が
関白秀吉の目にも止まり、勘兵衛こそ一番乗りということになってしまった。
事実を知っていた一氏は転封後、内匠に5千石、勘兵衛に3千石を給したが、勘兵衛はこれを不満とした。


そんなある日、勘兵衛から内匠に書状が届いた。

“拙者儀、貴殿存じよりの子細ありて、中村家を立退く。ついては顔を合わせたく、町外れにて待つ。”

内匠は、ただちに両刀を携えると、町外れに向かった。そこには、完全武装の勘兵衛が愛馬に乗り、
抜き身の長刀を引っさげて待ち構えていた。

「おぅ来たか。わしはこれにてご当家を立退くが、一言の挨拶も無く去るのは、わしの本意ではない。
…が、わしが足を止めてまで頭を下げようと思うのは、お主の他におらなんだわ。」
「ふん、言うてくれるわ。」
「まぁ、これまでの我らが間柄に臆せず、良くぞ来てくれた。これを置き土産にくれてやろう。」

勘兵衛は、手に持った抜き身の長刀を内匠の目前に突きつけた。
「ならば、わしも餞別せん。」
内匠は全く動じる事なく自分の脇差を抜くと、同じく勘兵衛の鼻先に突きつけた。

「かたじけなし。」「痛み入る。」
長刀と脇差を取り換えた二人は丁寧に礼を交わしつつも、互いに油断無く睨み合いながら立ち別れた。
(明良洪範より)

その後、渡辺勘兵衛は増田家・藤堂家と仕えた後、牢人となるも、天下の名士として知られた。
藪内匠正照は中村家改易後、細川忠興に仕え、その子孫は細川家・紀州徳川家で重く用いられた。




563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 22:26:36.06 ID:wxEGIBHV
藪内、リーチなげえな

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 23:08:03.18 ID:q/mwT7a6
藪さんだろ

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 23:40:38.01 ID:MOeCiGZF
難しい間柄だな
今更恨みはないけど、去り際に何かやってやりたいって感じなのかな

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 00:57:04.82 ID:EqiZO4Y2
関白に認められた意地と、きちんと評価してくれる主人をもった誇りとですれちがったけど、相手を認めてるから
挨拶しておきたかったんじゃないのかな

竹田五兵衛の大指物

2010年07月08日 00:00

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/07(水) 18:49:07 ID:BVbUiaie
中村一忠の家臣、竹田五兵衛は、一忠の父、中村式部小輔一氏の姪の子であり、
当時、無双の大力として有名であった。
彼は2間(約3,6メートル)余りもある、大鳥毛の指物を用いていた。

慶長五年(1600)、家康の会津征伐に中村一忠は従軍することとなる。
当時、重い病の床にあった中村一氏も、出陣の行列を観兵するため駿河城の
玄関まで出てきた。

この時竹田五兵衛は、誇らしげに件の大指物を指していた。
しかしこれを見た一氏は苦言を発した

「五兵衛よ、そんな大指物を指していては、戦場での機敏な駆け引きがおぼつかないではないか。」

これを聞いた五兵衛は返答もせず、突然その指物をつけたまま、側の塀に飛び上がった。
そこからまた軽々と飛び降り、側にいた弟の三十郎に向かって語った

「殿は武士に対して、軽率なことを言われるものだ。私は今回の陣できっと、忠死することに
なるであろうよ。」

自分はこの指物をつけたまま大いに働く自信がある、だがもし今回の軍陣で働きが悪ければ、
大指物を着けることは間違っているという、一氏の発言を肯定してしまうことに成る。
武士としてそのような恥辱を受けることは耐えられない。そのため自分は今回の戦で、
討死を覚悟した働きをする。五兵衛は、そう言っているのだ。

後でこの事を聞いた一氏は、自分の発言に、大変に後悔したと言う。


竹田五兵衛は一忠と共に家康に付き従い、言葉の通り晴れがましく戦い、関ヶ原において
見事な討死を遂げたという。享年、23歳であった。

一方、中村一氏は出陣式の後病状を悪化させ、関ヶ原の戦いの直前、慶長5年7月17日
(1600年8月25日)に死んだ。


武士への言葉というものの重さ、という話である。




752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/07(水) 20:13:53 ID:dvWyR56M
>>749
中村さんは有能なんだろうけど
失言も多いイメージだなあ

中村一氏と加藤明成、二人の式部少輔

2010年05月17日 00:04

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/16(日) 21:03:20 ID:hUh25fK5
中村一氏は秀吉の最も古くからの家臣の一人であり、様々な戦いに参加し、武功を挙げてきた。
小牧長久手の戦いの際に雑賀・根来衆の一揆から岸和田城を守り抜いた功により、翌年には近江水口城主となり、
従五位下式部少輔に叙任される。

一氏は秀吉の家臣団の中でも、とくに武勇に優れた人としてその名を知られていた。
賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明などは、一氏の武勇にあやかりたいと思って、息子の明成を式部少輔にしたほどであった。


しかし、式部少輔を受け継いだ加藤明成という人物は、どうにも評判が良くない人物であった。
家臣団と対立し、度重なる城郭改築からくる財政難のために圧制を敷き、民から金を巻き上げていった。

それもただ金銀を集めるのではなく、彼が集めたのは一分金ばかりであった。
人々は官名の式部少輔に引っ掛けて、加藤一分殿と揶揄したという。



式部少輔にまつわる、中村一氏のいい話と加藤明成の悪い話。




中村一氏、山中城攻めで・悪い話

2009年06月09日 00:06

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 22:46:56 ID:jrJ0angC
小田原の役で堀尾吉晴が山中城を攻めた時のこと。
吉晴は好条件な場所を陣地にしていた。ところで中村一氏も参戦していたのだが、
一氏は吉晴の場所を見て「あそこいいなぁ」と思っていた。そこで一氏は・・・

「秀次様。あそこを俺の陣地にしたいんですけど」

「ん?まぁ、いいんじゃない」

なんと秀次に頼んで吉晴の場所を横取りしちまった!?
かくて一氏は一番乗りの武功を立てたのであった。

堀尾吉晴といえば温和な性格で知られ、仏の茂助と呼ばれた男だ。
しかしさすがの彼も怒った。いや怒ったどころじゃない。キレた。

「ザケンな一氏ィ!!」

吉晴は秀次の前だというのに一氏と差し違えようとした。
その勢いは秀次の家臣が懸命に引き止めるほどの怒りようだったとか。
おとなしい人を怒らせてはいけないぞ、というお話。




135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 22:55:35 ID:KL0xxXjL
>>134
中村一氏はこの山中城での功で、戦後駿河14万石頂いちゃったんだよなー。
そりゃ流石の堀尾も怒るわw

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 22:56:05 ID:P4hiK0IA
>134
中村さんは一氏の倅が関ヶ原後にやらかしてしかも夭折、改易だっけか。

中村一忠、柳生宗章を巻き添えにして

親父殿のこすい行いが倅に伝染してしまったのか……

とか言いながら堀尾氏も途中で絶えちゃったんだよな。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 23:01:16 ID:KL0xxXjL
堀尾さんは色々と松江の祟りにやられた。

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 23:01:43 ID:8fQmjvGF
仏の茂助も切れるのか…

139 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/09(火) 00:02:13 ID:Q17yXt8x
>>74
山中城に言った事があるが、北条時代の空堀がよく残っているんだよ。
まさか仏の茂助や中村一氏が攻めたとは思わなかったが。
攻撃側は相当無理して攻撃したかも知れないな。

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 00:09:26 ID:ZPMP6IPT
>山中城攻略戦
一柳直末が戦死しているが、攻城側の名のある武将が戦死するってかなり異例だよね

141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/09(火) 00:36:30 ID:VTjbFHJF
>>138
きっと以前に二回ほどなにかをやらかしてたんだよw

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 00:42:51 ID:mB4i2aZh
最後の大戦功立てるチャンスだからねえ。関東攻略

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 01:12:21 ID:49Ug6RmU
と思ったら、その後に朝鮮半島が待っていたのでした
(結果は戦功以前に飢餓地獄だったけど)

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 02:10:12 ID:cs9ufI6K
一方、残る中老生駒親正は秀吉の命を無視して十河の遺児をぬっころして領地を横取りした

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 03:10:50 ID:FO0+bYog
親は友に陣地を奪われ、
子は親の友に進言を横取りされて・・・

友達は選ぼうぜ

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 06:57:20 ID:E6TC8WQI
中村一氏といえば戦国幻想曲

「のう勘兵衛、その陣羽織をわしに、くれぬか」
「なんと、しわくさい殿様か・・・」
「あっ、勘兵衛待て」
「我が主には、不足も不足」
「待てって」
「ふん!!」であった。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 11:43:58 ID:N1xcUQqr
>>136
そのこすい倅のアイデアを盗んだ奴は明治維新どころか現代まで家を残してるんだよなw

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 13:08:43 ID:vS3yEoUU
>147
それ堀尾の倅ぢゃ……

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 19:05:35 ID:tdMDg3Of
中村一氏の嫁ってそういえば鬼武蔵の嫁でもあったな。

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 23:45:02 ID:N+Ch1Reh
>>134
亀レス失礼。
堀尾さんって、顔立ちが「美婦人」のように優しく、平素は柔和温厚なので「仏茂助」と言われとったが、
戦に望んで敵をぶっ殺したり、人と理を争う時の威勢は半端じゃなくて、ラスボスをして
「鬼茂助の方があっているだろ」と言わしめた存在だぞ。

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 23:54:54 ID:EgGF1ZR6
ラスボス公認の鬼だって~!
まさにKingOf鬼称号

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 23:57:03 ID:PttN1fTh
秀吉は天下一とか天下無双とか、称号ほいほい与え過ぎて、イマイチ有難味が無い。


中村一氏の一番槍・ちょっとかっこ悪い話

2008年11月07日 00:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 10:01:54 ID:Plj2b5at
無数の蛸に命を救われた逸話を持つことで有名な男中村一氏さんの数少ないお話

後北条攻めの時山中城攻略を一柳直末さん(ここで戦死。秀吉が「直末死んじゃたら
関東得ても全然うれしくないぉ。・゚・(ノД`)・゚・。」と数日口をきかなかったという)らとともに担当した時
家臣の渡辺さん「この辺が殿の正念場ですな。ここで味方出し抜いてでもものすごい手柄立てましょうや」といわれ
最初は「いやこっち大軍だし・・・」と渋っていたものの乗せられて出撃
渡辺さんは中村さんを引きずるようにして軍勢の先頭を駆け城壁に到達
引きずられてきた中村さんは「ちょ、ちょっと頼むからやすませて」とぜーはー状態
渡辺さんはしょうがなく「なら殿はここで好きなだけ休んでなさい!」とそばにいた中村家の旗担当の成合さんをひっつかみ
成合さんが突っ込みいれるまもなく引きずりながら突撃。そのまま城内に到達すると
「中村式部少輔一氏、一番乗り―ー!!!」と叫んだ
モチロンのお手柄である上に中村さんは水口城主の大名で攻めての大将の一人
それ自らが一番のりをしたということで豊臣軍全員超びっくり
結果山中城は他の人の頑張りもあって落城。秀吉は御褒美に羽織を中村さんに与えました。
中村さんは「これはお前の手柄だからお前が受け取るべき」と渡辺さんに与えようとしましたが
「俺は殿に手柄立てさせようとしてやったの。それに合戦は俺の趣味なんでそんなもんいらん」と拒否
「それじゃ家来の手柄奪ったみたいで心苦しいし」といっても断固拒否
しまいには「そんなにいらなけりゃその辺の犬猫にでもあげれば」と言われ中村さん、
出したものをひっこめる羽目になり大いに面目を失う
その後渡辺さんは中村家を辞した。中村さんは
「もったいない人だったけどわしの器じゃあいつの手綱はさばけないよね(´・ω・`)」と嘆息したという

中村一氏さんのちょっと(かっこ)悪い話
でもちょい前のドラマではこの中村さんたちのお手柄は
主役の山内さんの活躍に奪われてしまい(山内さんもいたのは事実だけどね
ただこのあと駿府14万石になった中村さんと掛川6万石の山内さんでは
どっちのほうが活躍していたかはこれみても一目瞭然)山中攻めのシーンでは取り上げらることもなかった
ただでさえ逸話が少ない上に子孫は大名として残れなかった人なのにカワイソス('A`)
ちなみに渡辺さんはこの後中村→増田→藤堂といずれも数千石から万石級で仕え
最終的に京都で銭湯(のようなもの)の経営者として1640年に世を終えました



612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 10:16:22 ID:QoMNwvO6
>>610
渡辺さんが(かっこ)いい話でもあるね。

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 10:32:26 ID:zTiDNPRw
>>610
渡辺勘兵衛はその武勇を持って戦闘に明け暮れ、晩年は銭湯に明け暮れたということですね
わかります

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 10:37:49 ID:ZWw68KdZ
結構良い人生だな戦国にしては

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 11:05:28 ID:A9s9D/RD
るいよ・・・もんよ・・・

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 12:33:46 ID:AjQij0V+
>無数の蛸に命を救われた逸話を持つことで有名な男中村一氏さん
戦国初心者の俺知らないw何なのコレ気になるw
前スレとかにあったっけ?

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 22:24:29 ID:u3cnNSau
>>616
戦国幻想曲
結局妹二人の消息わからず仕舞いだったよなw

中村一氏と蛸地蔵さま・むかし話

2008年11月07日 00:07

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 12:33:46 ID:AjQij0V+
>無数の蛸に命を救われた逸話を持つことで有名な男中村一氏さん
戦国初心者の俺知らないw何なのコレ気になるw
前スレとかにあったっけ?


618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 13:11:27 ID:XD3awMaP
>>617
蛸地蔵のお話

むかしむかし、おおむかし、岸和田にはお地蔵様の奉納されている立派なお寺がありましたが、
洪水で海に沈んでしまいました

天正の時代になると岸和田に立派な城ができ、中村一氏が城主になりました(松浦氏の話もあり)
あるときその城に。雑賀から大軍が攻めてきました。このままではお城が持たない。そのときです

海の方から巨大な蛸に乗った、大法師があらわれ、敵陣の中につっこみ縦横無尽に暴れました。
しかし敵は大群、大法師も取り囲まれ、これまでかと思われました。すると、

地鳴りのようなものが起こったかと思うと、今度は海から、何千何万とも知れない
蛸の大軍が現れました。
蛸の大軍は雑賀の軍隊に向かって次々と墨を吐き、彼らはたまらず退却して行きました。

岸和田城の人たちが喜んでいると、蛸と大法師はいつの間にか、消え去っていました。

その後、岸和田城のお堀で、大きな蛸を見た、と言う者が現れました。そのころお殿様の夢に、
お地蔵様が現れて『この間の戦いで敵を負かしたのは、この地を守る地蔵であるぞ』と
おっしゃいました。

不思議に思った殿様は、城の堀を隅々までさらわせると、そこから泥にまみれた
お地蔵様が出てきました。

殿様はこれをきれいに磨き、立派なお寺を立てそこに安置ししました。
このお地蔵様は「蛸地蔵」と呼ばれ、岸和田の守り神として、
今も人々に深く信仰されておるそうじゃ。

4m1h6h6[1]



619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 13:45:35 ID:AjQij0V+
>>618
こんな話だったんだ、現実味が無い良い話?だw
わざわざありがとう!

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 15:36:02 ID:esXwpYEn
地蔵の人助けは普通としても、タコがシュールすぎるw

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 15:41:10 ID:3Y+nM+lz
何か雑賀衆にとったらホラーだなwww


622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 16:05:36 ID:EF95JZad
雑賀衆といえば銃。
タコといえば触手。
…まんまエイリアンじゃん。

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 16:23:18 ID:7/3KENL6
映画化したら歴史物だかホラーだか昔話だかよくわからんものができそうだ。

因みに現在の岸和田でも蛸断ちつって蛸食わないらしい。
でもたこ焼きつったら大阪名物だし、蛸食えないのはストレスたまりそうだが。

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 16:36:32 ID:7G8/OZfl
>>618
後に実写化され名作オクトパスIN N.Y.が誕生するとは・・・

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 16:59:45 ID:QXBcOoGk
普通の昔話なら巨大タコに乗った法師様が出てきてびっくりした敵兵が総崩れ、
めでたしめでたしになりそうなもんだが
敵に囲まれて法師様まで苦戦しちゃってるのが妙なシュールさを醸し出してるな。

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 18:35:47 ID:Yjgk98/e
海外版だと巨大タコに絡め取られた大法師が湖に沈んでいくエンディング

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 18:54:19 ID:CtWeh1XG
触手プレイハアハア

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 19:06:28 ID:U0CSg4wZ
まず北斎漫画が頭に浮かんだオレはもうダメかもしれんねw