西美濃三人衆の寝返り

2016年02月21日 18:53

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 17:59:48.90 ID:BiwxmhRL
斎藤龍興の家臣である、西美濃三人衆と呼ばれた氏家常陸介(直元)、稲葉伊予守(良通)、
伊賀伊賀守(安藤守就)がある時会合し、伊賀守は言った

「今の斎藤龍興の所業を見るに、日を追いつきを経るに従って、諌めを行い国家の為よろしき人と言うほどの
人物には、皆出仕を停止させ、阿諛追従する者ほど威名盛んである。不順、これより甚だしい物はない。
このようにして滅んでいった国々は、指を折っても数えきれない。

一方、織田信長は仁義の道を行われ、武勇智謀、最も優れている。この人を頼んで武功に励み、
奮功した家臣たちを撫育しようではないか!」


しかし氏家は
「承った話は、何れも至当であり、これに異議を唱えるものではない。しかしながら一度も
諫言に及ばずしてこのような事をするのは、ただ自分の身を立てようとするだけで、義に非ず。
先ず諫書を上げて、もし用いられなかった時は、そのようにしようではないか。」

こうして彼らは諫書を作り、龍興に差し上げた

一、君たる道を真の儒者に能く問われて、行いを然るべくされますように。
一、近習に侍っている執権たちは、国家の為には鴆毒です。急ぎ薬言の臣を用いられますように。
一、幽悪を察し、微善を試み、お心持ち至誠に、賞罰を行われますように。


このように諌めたが、阿諛する家臣たちは、却って之を取り消させるように讒言したので、
翌年になって三人衆は信長に使者を出し、味方に参る由を申し上げると、信長も「願う所の幸い、
天の与えるところである。」と、村井民部丞、島田所助の二人を派遣し能く語らしめた。

永禄七年八月朔日、信長は三河に攻め込む旨を触れ、小牧山に勢揃いした所で、三河には一言も触れず
「美濃国において然るべきこと有るぞ!進めや!」と宣言し、出陣し、瑞龍寺山へと駆け上がった。

この突然の軍勢の出現に、稲葉山城の者たち慌て騒いで「こは何者ぞ、敵か味方か?」と怪しむほどであった。
信長は片端より火をかけ、即座に裸城にした。このような所に三人衆もはせ参り、臣従を許したお礼を申し上げ
「この城攻めも苦労すると思っていましたが、このように何の問題もなく押し詰められた事、誠に御名誉です」
と申し上げた。

その日は強風が吹き雨も降りだしたので、翌日諸方の手分けをして、鹿垣を二重三重に結い廻し、
「一人も漏らすな」と下知した。
城内は、兵糧の支度もなく逃げ入ったものだから、早くも以ての外に弱り、「命を助けて頂ければ
城を明け渡します。」と様々に詫び言を申してきた。
信長は家臣を呼び集め、どうすべきかを尋ねた所、
「先ず龍興の一命を助けられ、この城を請取あって、国々太平の功を励ますことこそ宜しいかと思います。」
と、人々一致したため、信長も之に同意し稲葉山城を受け取り、龍興を退去させた。

こうして信長の武威は、飛竜が天に上がるがごとくであった。

(甫庵信長記)
まあ実際に稲葉山城を退去した永禄八年でも、まだ17歳なんですけどね龍興。



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斎藤山城守は、山崎の油商の子であった

2015年12月07日 14:23

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/07(月) 12:44:29.40 ID:asqd5g/2
斎藤山城守(道三)は、山崎の油商の子であった。この父が、妻を連れて美濃に移住し、そこで
山城守を産んだ。そして土岐(美濃国主)に取り行って仕えていたが、土岐氏は末に至り、国も乱れる中、
どのようにしたのか、遂に美濃の国主となった。その時の落書に

 ときはれと のりたちもせず四の袴 三のはやぶれてひとのにぞなる

と云ったそうだ、彼は信長の舅であった。

(老人雑話)

斎藤道三二代説、老人雑話にとっくに出ていたんですね。




あなたの身より出た罪です

2015年01月08日 18:46

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 23:01:55.13 ID:0XHGkLLF
美濃の斎藤道三には3人の家督候補の子があった。長男は新九郎(義龍)といい、これは先腹であった。
二男は孫四郎、三男は喜平次といい、これは当腹であった。
そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

父道三は三男を愛し、彼を一色氏の跡目とし、一色右兵衛大夫として将軍の御供衆と成した。
その上で、家督には孫四郎を据えようと内室とした私語したのを、6歳になる弟が聞いて、
意味もわからず兄の新九郎に語ってしまった。

新九郎はこれを聞くと仮病を構えて引き篭もり平臥し、万事を伺って観察すると、はたして父道三が
末子を家督に立てる準備が見えたため、道三が鷹狩のため稲葉山城より出かけたのを見計らって、
新九郎は重臣である長井隼人佐と密談し、謀をはじめた。

新九郎は弟達に書状を出した。『私は既に、存命不定の重病に及んでいる。二人の弟に遺言を申し渡したいので
ここに来てほしい。』

そして隼人佐が二人を謀って新九郎のもとに連れてくると、盃を出し末期の名残と酒を進めた。
その時、日根野備中、同弥吉の二人が屏風の影より跳ね出た。日根野備中は孫四郎を一太刀で斬り臥せ、
隼人佐と弥吉は一色兵衛太夫を斬り倒した。

この事を父道三は聞くと大いに驚きはせ帰り、貝を吹いて人数を集め、四方の町の末より放火して
稲葉山城を裸城にして、川を打ち越え山方という山中に引き籠もった。ここに父子の合戦が始まったのである。

しかし国中の人質は新九郎方にあったため、皆新九郎方に馳せ集まり、そのためその後は度々合戦があったものの
次第次第に道三方の人数は少なくなり、弘治2年(1556)、稲葉山から三里離れた場所に高山が在ったが、
道三はこの山に登り陣取ると、婿の上総介信長に美濃国を譲ると申し送った。
これを受け取った信長も、合戦のため大良まで出陣したという。

道三入道もこれが最後と思ったのであろう、その夜、多年にわたり肌身離さず持っていた本尊を、
お守りより取り出し、幼い末子に贈った。それに添えた書状に

『美濃国については織田上総介の存分に任せる。譲り状は信長にもう渡してある。
そのため織田勢は、明日は必ず下口まで出陣してくるであろう。

その方の身の上は、かねてから約束していたように、京の妙覚寺に上り出家するように。
一子出家すれば九族天生すると言われる。この山城入道は、明日一戦に及び遂に討ち死にするであろう。
法華妙体であり、五体満足ではないが、成仏するのに何の疑いがあるだろうか。

卯月十九日        道三入道』

道三は弘治二年四月十八日、鶴山に登って陣取って居たところ、新九郎がこれに向かって陣を出したため、
道三も山を下りこれに馳せ向かった。

この合戦は始め入り乱れ、火花を散らして戦っていたが、やがて道三方が崩れた。
新九郎方の長井十左衛門は大力であり、道三入道と渡り合って太刀打ちをしたが、なんとしてでも
生け捕りにしようとし躊躇していた所に、小牧源太と言う者が後から来て道三の脛を薙ぎ払い
そのまま首を取った。長井十左衛門は躊躇したため人に高名させられて何とも口惜しく思い、
後の証拠として道三の首から鼻を削いで取ったという。

新九郎方は勝利し首実検をしていた所に、父道三の首が持ち込まれた。
新九郎は首に向かって

「あなたの身より出た罪です。私を恨まないように。」

そう語りかけたという。

(江濃記)



199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 22:28:56.20 ID:6dv8G/Ex
>>197
>そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

しかし次の行から鬼になるあたりがやはり親父の子なのだなあ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:24:38.15 ID:VvZLYwRU
蝮は経済政策が苦手で、家臣の総意で隠居を余儀なくされ再起を図った結果、息子に勝てなかったと学者だか小説家だかが書いてたなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:39:50.22 ID:6zDYv1ng
>>199
廃嫡されたら従ってきた家臣は冷飯食いだからな
主君を脅してでも強行するさ

202 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/09(金) 03:00:18.78 ID:GN5xfV0A
武田信玄の親父追い出しがうまくいかずに内戦になったバージョン

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 03:37:36.82 ID:GN5xfV0A
武田晴信と武田信虎は骨肉の争いを繰り返すも、信虎が敗死
死の間際に娘婿の今川義元に「甲斐を譲り渡す」と遺言書を送ったのであった
義元は援軍を連れて進軍中だったが、義父の死を知ると兵を返す
父信虎を討った晴信は、生来の病弱が祟りその後5年ほどで急死した
家督は晴信の義信が継ぐが、義元の甲斐侵攻を受けて国を失った

てなことにもなったかもしれない

斉藤妙椿、死去の反応

2013年02月23日 19:56

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 03:24:38.25 ID:bgqSXdkM
文明十二年(1480年)、斉藤妙椿死去。享年70。
東常縁と歌のやりとりで城を返したあのひとだ。

応仁の乱をきっかけに美濃の荘園を横領して所領にし、飛騨・近江を暴れまわって、
守護代家の舎弟でありながら守護も守護代もしのぐ勢力を持った。

その報を聞いて公家の大宮長興はこう書いている。
「応仁の乱のさなか、数々の行いを強行し、(そのせいで)いまだに東の騒乱が収まらない。
今出川大納言どのを擁立していまだに自国においている。(このころ、足利義視・義材親子は
入京できず美濃にいた)
この間死んだということで、世の中も平和になるだろう」
(「此者一乱中種々張行、于今東近国煩不休、今出川大納言殿奉扶持、于今御在国、
如此之間、於死去者、世間静謐之由有其沙汰者也」)

もちろん戦乱が終るどころか、全国的には荘園制の崩壊で戦国時代へと本格移行し
美濃国内では守護代家と妙椿の持是院家の争いが泥沼化してせっかく妙椿が建てた威勢も
衰えてしまうんだけどね。







美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた

2012年12月25日 19:30

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 23:49:29.11 ID:UoAYNgIu
美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた。主君は斎藤道三で多年膝元にて宮仕した。
ところが傍輩の嫉妬によって讒言され、道三はこれを信じて角弥の出仕を止めてしまった。
角弥は迷惑して「それがしの誤りは何でありましょう。承りたい」と人を介して尋ねるが、
道三の返事はなかった。角弥は「もはや主君との縁は尽きたのだ」と悟り別の縁を求めた。

その後、角弥は摂政殿に奉公することになった。彼は器量・骨柄・心様ともに人よりも
優れていたので、摂政殿は角弥を最も重用した。かくして角弥は二年の間御所にあった。
道三はそのことを聞きつけ、摂政殿に使者を送り「角弥を賜りたい」と申し上げた。しかし、
摂政殿は「呼び返す程欲しき者をどうして追い出したのだろう。叶えられないことだ」と断った。
道三は諦めずに千度百度頼んだが、摂政殿は「この者だけは出すことはない」と断固拒否した。

大いに立腹した道三は「それならば討手を上らせる」と決意し、山本伝左衛門と須田忠兵衛
という二人の大剛の者を京都に派遣した。二人は中々角弥を見つけられなかったが、
ある御節会の時、禁中に渡る摂政殿に角弥も供奉していた。この時、二人は角弥を見つけ、
角弥も見合わせてお互いに「あっ」と思ったが、摂政殿の警固は厳重で両人は手を出せず、
その日は空しく諦めた。それからの二人は角弥を討つ機会を毎日窺った。

一方の角弥は「あれは討手に違いない。殿下にこのことを申し上げたほうが善いのではないか」
と思い、ある時摂政殿の様子を窺ってその旨を申し上げた。摂政殿は直ちに奉行所へ
「かかる者が京都にいる。厳重に捜査して洛中より追い払え」と命じ、長高と貞親が洛中に
「この者を一時でも抱えた輩は処罰する」と触れを出した。この状況に両人は是非もなく帰国し
道三に報告すると、道三もどうしようもなく、そのまま角弥殺害を諦めてしまった。

――『室町殿物語』




894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/25(火) 20:57:29.83 ID:vJy29klx
>>888
斉藤家は京都に刺客送ると失敗するフラグでも立ってるのか?

斎藤家内訌

2011年08月07日 23:00

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:36:49.44 ID:MLR7INB2
斎藤家内訌


天文24年(1555年)当時、美濃の大名である斎藤家の家督は「蝮」の異名をとった道三から嫡男である義龍に既に譲渡されていた。
しかし、道三は前妻の子である義龍より後妻の子である孫四郎、喜平次兄弟を愛しており、
特に喜平次には官を進めて「一色右兵衛太輔」と名乗らせるなど優遇していた。
道三がこんな調子であったので孫四郎、喜平次兄弟はすっかり奢り高ぶり、義龍を侮るようになってしまったのである。
そうした情勢の中で同年10月13日、義龍は病を患ったと称して引き篭もってしまい、床に伏せる毎日を送った。

しかし11月22日、道三が稲葉山城から山下の別邸に移ったという知らせを聞くとここで義龍は動く。
義龍は叔父の長井道利と語らって、道利に孫四郎、喜平次兄弟へ使者を出させた。
「義龍は重病を患っており、後は時を待つのみ。ついては今後のことについて相談があるので入来されたし。」
使者がこう伝えると孫四郎、喜平次兄弟は義龍に対面するべく稲葉山城へと参上した。

長井道利は孫四郎、喜平次兄弟が同じ部屋に来ると次室に入ったが、ここで道利は刀を外し、また奥の間へと入った。
それを見た孫四郎、喜平次兄弟も同じように次室で刀を外し、奥の間で道利と対面するように座る。
その後、道利は孫四郎、喜平次兄弟に酒を振る舞い、二人がすっかりと酔ったところで一人の男が部屋に飛び込んできた。

部屋に上がりこんで来た男は義龍に側近として重用されていた日根野弘就であった。
弘就は上がりこむや否や刀を抜き放つと上座にいる孫四郎を斬り伏せ、返す刀で喜平次も斬殺した。
孫四郎、喜平次兄弟は叔父の長井道利を巻き込んだ義龍の謀略にまんまと嵌められたのである。
そして義龍はこの事件の一報をあえて父道三へと届けさせたが、この知らせにはさしもの道三も仰天し、また深く落胆したという。



超有名なエピソードだけどまだ投下されてなかったみたいなので。




343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:58:43.97 ID:5bOHQTY1
一応、名目上は見舞いに来てるのに酒宴してるってのも失礼な話だなw

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 22:06:21.71 ID:ZVv93d8k
いくら一族とは言えもう少し警戒しないとな宇喜多直家に対する忠家のように

美濃の蝮と尾張のたわけ、その邂逅

2010年01月20日 00:05

820 名前:1/2[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 23:10:48 ID:DOyHMIQJ
美濃の梟雄、斎藤道三の婿は世に大たわけとの評判が高かったが、道三は信じなかった。
「皆が皆たわけと申すような者は、存外たわけでは無いものよ。俺みずから婿に会い、
事実を確かめてやろう。」

美濃と尾張の国境、正徳寺で婿と会見することになった道三は、婿を脅かしてやろうと、
寺の門前の街道に衣服を整えた八百人の家臣を並べて、自分は街道沿いの町屋に隠れ
婿の来るのを覗き見ようと、待ち構えた。

「こ、これはw」やって来た婿を見た美濃衆は、苦笑せざるを得なかった。

"…萌黄の平打にて茶筅の髪を巻き立て、湯帷子の袖を外し、のし付の太刀脇差、二つ
ながら長束に、みご縄にて巻かせ、太き芋縄、腕ぬきにさせられ、お腰の周りには猿使いの
様に火燵袋、瓢箪七つ八つ付けさせられ、虎革・豹革四つばかりの半袴を召し…''

現代で言えば、舅との食事会に金髪無造作ヘアに上半身は裸の上にアロハだけ、下は
ポケットパンパン、アクセジャラジャラのハーフパンツで来たようなものだ。
さらに「老人雑話」によると、"広袖の浴衣に、陰茎の図を大きく染めて…''となっている。
裸アロハにチ○コのバックプリントとか、道行くオバサンに汚い物でも見るような目を
向けられるレベルである。

821 名前:2/2[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 23:12:05 ID:DOyHMIQJ
だが、会見の場に姿を見せた道三の婿を見て、美濃衆は度肝を抜かれた。
"御髪折曲げに、一世の始めに結わせられ、何染置かれ候知る人無き褐色の長袴召し…''
先程までの金髪アロハが、黒髪オールバックにタキシードで現れたようなものである。

驚く美濃衆を尻目に、婿は広間を通り抜け、縁側の柱に背をもたせかけた。
道三が着座しても態度を改めぬ婿に、たまりかねた仲介役の堀田道空が声をかけた。
「こちらが、斎藤山城入道殿にござるぞ。」
「…で、あるか。」婿は道三に軽く一礼すると、席に着いた。
ようやく対面した舅と婿は、形ばかり食事を共にし、言葉を交わして別れた。

帰国の途上で、側近の猪子兵介が道三をなだめるように言った。
「いや、あの態度!やはりどう見ても、あれはうつけにござりましょう。」
「………」
あの早変わりも、無礼を承知で縁側に陣取ったのも、こちらを警戒し虚を突くため、入念に
準備してきたものだろう。
別れ際、美濃兵と尾張兵がすれ違ったが、尾張兵の槍の方が長かった。槍ぶすま主体の
歩兵の槍は、長い方が有利である。しかも長槍を整然と揃えて行軍するのは、かなりの
調練を必要とする。
…が、わが配下どもは、あの男の立居振舞いに気を取られ、そんな事は気付こうともせん。

"無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候。''
道三の苦い予言は、十数年後に現実のものとなる。




822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 23:19:31 ID:F7C5rwlq
有名な話だけど、この話まだ出てなかったのか…
この話で散々扱き下ろされてる猪子さんは、
本能寺の時まで信長の側近として仕えて死んでるんだよな
それだけ長い間信長の配下で居れたのだから、
結構優秀な人だったはずなんだけど…この扱いはかなり可哀想だ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 00:27:19 ID:un1BsL3u
一番かわいそうなのは義龍だと思うんだ。
このお話が広まった結果、
義龍時代は信長は美濃に足がかりも築けなかったこととかガン無視されることが多いし

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 01:23:46 ID:3aXtO5nr
>>823
そりゃ、義龍時代の信長は美濃にはまったくノータッチなんだから
信長の視点で語るのなら、義龍時代が触れられないのは当然だろ

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 01:33:53 ID:un1BsL3u
>>825
長良川合戦の後と永禄三年の桶狭間の後、
東側の脅威が少ない時期に頻繁にちょっかい出してるよ>信長

結果は得るところなく敗退してる
(長良川合戦の起きた弘治二年ごろは、三河で田峯菅沼氏や西郷氏、
奥平氏などによる大規模な反今川反乱が起きてて織田家はフリーハンドだった)

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斉藤道三の「虎の巻」

2009年09月18日 00:30

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/17(木) 01:33:19 ID:yVpyvjG5
斉藤道三の「虎の巻」

兵法書の六韜のうち「虎韜」はその極意といわれ、虎の巻の由来でもある。
しかし、斉藤道三が肌身離さず持っていたのはこの「虎韜」ではなく、
「武韜」であった。
この「武韜」は字に反して謀略に関する巻である。
曰く、

一、相手の歓心を買い、意を迎えて逆らわないこと。
二、主の信頼する側近に近づき、仲たがいさせること。
三、賄賂を周囲に渡して、仲良くなること。
四、酒色におぼれさせること。
五、忠臣を主から遠ざけること。




(原文はこちら、http://kanbun.info/shibu02/rikutou15.html)


道三は表裏に謀略をめぐらし、最終的に美濃守護の土岐頼芸を追放して
美濃を手に入れることになるが、
この「武韜」を自らの「虎の巻」として大事にしたという。

道三の(国盗りにおいて学問が役に立った)いい話。




536 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/17(木) 06:27:32 ID:pn19NlLH
兵法書はあれは今すぐ発禁処分にすべきだな
読んだ後に権謀術数どころか暗殺に対して抵抗がなくなる


斉藤妙椿の頭巾

2009年09月14日 00:25

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 11:53:34 ID:D3rIz3S8
戦国初期の名将として有名な、美濃の斉藤妙椿。彼は常に頭巾をつけていたが、
頭巾の裏に、用心のためとして鉄を張っていた。

「頭巾と言うのは頭を暖めるためのものなのに、かえって冷やすとはどうなんだ?」

世の人々はこのように言い合い、これは妙椿の耳にも入ったが、それを聞いても、
妙椿は、ただほくそ笑むばかりであった。

さて、ある時の事。人々が集まり、
『兜の重さは何百目ほどが良いか?』と言う事について議論していた。
この時妙椿が

「何百目の鉢は、これこれの時間かぶり続けても疲れを覚えることは無い。
また、何百目の鉢であれば、これをかぶったままこれだけの距離の道を移動しても
大丈夫だ。」

と、実に仔細に解説した。

人々は「何故あなたはそのようなことを知っているのですか?」と尋ねると、

「いやとよ、頭巾に張る鉄の重さで、常日ごろからそれを計っているのさ。
『武士の物具は平日無事のときに身に適う如く作るべし』って、これは私の先祖、
鎮守府将軍藤原利仁の遺戒でね、それを実践しているのさ。」

斉藤妙椿、常在戦地の心がけであった。





366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 12:13:11 ID:dU817lbf
首が鍛えられて太くなってそうだな


斎藤道三と槍

2009年08月18日 00:07

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 01:02:17 ID:ndt+Y0c8
稲富さんは本番になると指がプルプルするタイプ



517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 10:28:38 ID:hd7VlS60
>>507
孫には任せておけないと稲富祐秀がアップを始めたようです

とまぁ、何かの達人繋がり、というと少々苦しいが
まとめに載ってなかったようなので斎藤道三のお話でも

斎藤道三といえば戦国時代に名を馳せた下克上の梟雄、最近では
父・新左衛門尉から二代に渡った親子鷹だったとも言われているが、
何も謀略一本の人ではない。美濃でも屈指の槍名人でもあった。

若い時、各地を放浪し数多の合戦を目にしてきた斎藤道三、
阿鼻叫喚の合戦場で見出したことは、槍という武器の有能さだった。
合戦場でもっとも敵兵を殺傷したのは弓矢だと言われているが、遠巻きに
矢を射て大将を落としたとて首級が取れねば意味が無い
その点、槍は遠距離からの突き以外にも薙ぎ払い、叩き、騎馬突撃にすら
対応できる武器であった。

斎藤道三>>これからは、槍の時代だ。m9っ;・`ω・´)っ━━lコ三ヲ

それに勘付いた道三、その日から猛稽古を始める。
長さ3㍍はある竹竿の先に太い針を縛り付けると、家の軒先から糸で結んだ
一文銭を吊り下げ、それを催眠術よろしく左右に揺らす。一文銭の中心には
四角い穴が開いているが、この穴に先ほど造った稽古用の槍、その先端が
確実に突き刺さるように毎日数百回という気の遠くなるような稽古内容だった。

やがて、道三の槍は百発百中で一文銭の穴を突き抜くようになり
戦場に赴けば道三の往く処、胴丸の合わせ目や咽喉輪の隙間を一撃された
敵の骸が山を成すようになった。
そして、この武勲が美濃の長井家や守護職土岐家への仕官・栄達に繋がり、
はては美濃一国を掠め取る基盤となったのだった。

また、斎藤道三という人は自分の槍をとても大切に扱う人だったという。
戦国初期頃の当時、槍というものは嵩張るものなので普段は屋敷内に置かず
軒下に置いておくものだったそうだが、湿気や害獣がはびこる場所だけに
柄が腐ったり穂先が錆びることが多かったという。
道三はそうならないように、節をくり貫いた竹に槍を納め布袋に包んで
軒下に置くようにしていたといい、この心がけは主君にも多いに褒められたという。

…現代日本でも誇れる"サムライ"の一人にシアトルマリナーズのイチロー選手が
挙げられるが、彼は野球選手として栄達するのはどうしたら良いかと問われると
こんな教訓の言葉を口にするという。

イチロー>>練習をしろ、野球道具を磨け、宿題はちゃんとやれ。

達人の精神は五百年過ぎても先年経っても、変わらないもの。
そんな斎藤道三の、(成り上がるための心がけについての)良い話。




518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 11:56:42 ID:ItKTqfJ2
それがこうじて一文銭の油売りなんて芸当が出来たのかな?
逆か?

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 12:49:45 ID:xRhvI38n
>>517
その槍を入れた竹に土岐頼芸の鷹がとまった事から
頼芸と道三は知り合った、って話もあったよね。


道三は町末の小家に忍居て

2009年07月22日 00:08

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 01:10:17 ID:jj4va/YI
道三は町末の小家に忍居て
 
 
斎藤道三と織田信長の、いわゆる正徳寺の会見。
正徳寺とは信長公記における表記で、正しくは七寶山聖徳寺というが、それはともかく。
舞台となったのは町家七百軒を数える富貴の地であったという富田。聖徳寺の門前町である。
道三は会見の直前、その町外れの小屋に潜み、信長一行の様子を覗き見たというのは
有名な逸話である。
ところが、これに異を唱えたのが聖徳寺の故地、愛知県中島郡の旧・起町が
昭和29年刊行した起町史だ。
 
「道三たるべきものが、即刻會見すべき信長を、(中略)その道中を隙見する必要は
ないかに思はれる――」
 
聖徳寺所蔵の羽柴秀吉制札によれば、富田には天正12(1584)年当時、月に6度の市が立ったという。
尾張と美濃の国境の町、また当時の水運交通の動脈である木曽川に面した町として
往時の繁栄が偲ばれる。
この富田に絹屋長者または日比野長者と呼ばれる豪商、日比野氏の屋敷があったと伝えられる。
そして地元の伝承では、道三が信長一行を見かけたのは、この日比野長者屋敷からであったという。
つまり、起町史によれば、道三は信長公記が描くように「町末の小家」にわざわざ「忍居」たわけではない。
美濃から「遠来の道三が到着の仮宿所として、当家を用ひたのではあるまいか」、
その際に偶然に信長一行を見かけただけではないか、というのである。
 
道三ほどの人物が、聖徳寺で待っていれば会える信長を、こそこそ隠れて覗き見る必要もねーだろ?
 
……いや、それはそうなんだけど、そもそも「正徳寺の会見」自体のソースが信長公記だし。
「小屋から覗いてうつけプゲラ」→「会見場での変貌にポカーン」のほうが話として面白いし。
地元の伝承以外に斎藤道三と日比野長者の繋がりを示すものもないわけで。
結局、道三の名誉回復には至っていないという話。
いまなら無難に「地元では~と言い伝えられている」程度で済ませるのだろうな市町村史の記述的に……






聖徳寺は何処に

2009年07月22日 00:08

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 07:51:49 ID:W8CUIJ8N
聖徳寺は何処に
 
 
聖徳寺は寛喜年間(1229~32年)、尾張国葉栗郡大浦(現岐阜県羽島市)で創建された。
開基は信濃国出身の元武士で親鸞聖人の直弟子となった小笠原長顕、法名閑善。
山号は七寶山といって、親鸞から七つの寺宝を授けられたことに由来するという。
浄土真宗においては本願寺の直参と格付けられた有力寺院である。
その後、木曽川の洪水によって寺堂が流出したため尾張国中島郡苅安賀(現愛知県一宮市)に
移転。
さらに再び大浦へ戻ったが、永正14(1517)年、中島郡富田へと移った。
この富田は、先に「道三は町末の小家に忍居て」の逸話で紹介した旧愛知県起町に所在した。
(現在は市町村の合併により、旧尾西市を経て一宮市に属している。)
ここまでの移転の経緯は聖徳寺の寺伝で語られているところである。
そして真宗本山の本願寺側の文書や聖徳寺自身の所蔵文書でも、寺が移転を繰り返したことは
確認できる。
「苅安賀聖徳寺」「大浦郷聖徳寺」「富田寺内聖徳寺」「中島郡留田郷(=富田?)聖徳寺」
……等々。
 
ただし、各文書に記載された日付と、寺伝による移転の経緯は必ずしも一致しない。
寺伝では永正14年に聖徳寺は富田へ移転した筈である。
しかし本願寺側の文書では、天文12(1543)年時点の所在地を苅安賀としているのだ。
さらにややこしいのは、富田という地名自体は尾張国のあちこちに存在していたことである。
そして、苅安賀にも富田という土地があった。
このため史家の中には「正徳寺の会見」の舞台となった「富田」は苅安賀の富田だと説く者もいる。
起町史や尾西市史では、自身の行政区域に属した木曽川沿いの富田を聖徳寺の故地とする。
(尾西市は昭和30年、1955年に起町と朝日村の合併で誕生。)
だが、平成の大合併で尾西市が一宮市に編入された現在。
新たに一宮市史が編纂されるとすれば、「正徳寺の会見」の舞台をどこに置くのだろうか。
 
……まあ、一般的には旧起町の富田がそれだとされているので。
「苅安賀説もあるんだよ」と軽く紹介しておく程度が無難だろうけど。
 
ところで、その後の聖徳寺である。
天正12(1584)年当時、富田は月に6度の市が立つ繁栄ぶりであったという(聖徳寺所蔵羽柴秀吉制札)。
ところが天正14年、木曽川の大洪水によって富田は水没。
聖徳寺は三屋村(現岐阜県笠松町)へ移転することになった。
そこから一時、尾張国清州へ移り、寛永15(1638)年に現在の名古屋市中区錦町へ移転した。
そして近年になって、さらに名古屋市天白区へと移転したのである。
 
結構な由緒のある寺なのに、こんなにあちこち移転しまくっているのもどうなのだろう。
聖徳寺のなんとも収まりの悪い話。






手柄争いと斉藤義龍・悪い話?

2009年04月20日 00:06

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 02:43:30 ID:AU3TS5xe
斉藤義龍がその父、斉藤道三を討つため挙兵した時のこと。

稲葉山より川を越え出撃した部隊は、待ち受けた道三側に手ひどくやられ、七段の備えのうち、
六段まで崩されると言う惨状になった。
この時、崩壊寸前の義龍側を、国枝助右衛門がその一手で支えた。

さて、義龍本陣では戦況に付いての詮議が続いていたが、ここで長谷川越中守進み出て、

「今は是非を論ずる段階ではない!全軍、川を越え一気に勝負をつけるべきである!
それがし、先に渡河させていただく!」

と、たちまち部隊を率いて川を超えて行った。
この長谷川の行為に義龍たちも引きずられ、軍を移動させる。
これに前線で耐えていた国枝も力を得、先に渡ってきた長谷川と一緒になり
道三の軍に押し掛かり、義龍側はついに大勝を得た。


さて、問題はその後であった。論功行賞である。

国枝は言う
「今日の勝利は私一人の働きに極ります!
あの、七段の備えのうち六段まで破られた状況の中、私が耐えきったからこそ、
後続部隊が川を渡り、この勝利を得たのです!」

長谷川も言う
「今日の勝利は私一人の勇謀のおかげです!
私の行動こそがお屋形様を動かし、敗北寸前の国枝の命を助け、今日の勝利を得たのです!」

双方、自分が一番だと譲らない。
そこで義龍

「国枝が支え、長谷川が川を越えた。これは確かである。だがな、
余が麾下の大軍を、川を越えよと下知しなければ、今日の勝ちはありえなかった。
これはすなわち、今日の勝利の一番の功は、余、自身にあるということだ。
そうではないか?」

これには両人とも言葉に詰まり、二人は年が明けてからようやく賞せられたとの事である。

手柄の独り占めを主張して、かえって不利を被った、と言うお話。




斎藤龍興、キリスト教への疑問・いい話

2009年01月13日 00:10

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 17:54:45 ID:/Lh5eS9x
斎藤龍興の疑問に、宣教師はどんな顔をしただろう。稲葉山城退去から
人生の幕を引く迄の数年間、畿内各地を放浪し続けた"美濃の蝮"の末裔のお話。

斎藤龍興は奸臣・斎藤飛騨守を寵愛し、美濃三人衆や竹中重治らに愛想を尽かされ
美濃から追い遣られてしまった。その人となりは『愚鈍で吃音、小太りな風采の上がらない人物』と
散々なもので、まさに暗愚の象徴だと言わんばかり。信長飛躍の踏み台の様に揶揄される
そんな龍興であるが、伊勢長島や三好三人衆の元へと身を寄せるうち、キリスト教に興味を持った。

落ちぶれても『蝮』の孫だったらしい。キリシタンを目指した龍興はルイス=フロイスから
キリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に
教会へ姿を現した際にはその総べてを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来た
といい、教会の信者達はとても驚いたそうである。

また、ガスパル=ヴィレラ司教に対してはこんな質問もしたと言う。

斎藤龍興>>人間がデウスによって祝福され、万物の霊長であると保障されて居ると師は言う。
ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか。
万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのだろうか。

こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が現世では何ら報いも受けられないのは、何故なのか。(..´・ω・)

ヴィレラは龍興の疑問に対し『その総べてに納得がいく様な道理を上げて説明した』と記録されて居るが、どうなのだろう。
龍興が疑問に思った"なぜ"は、本当に解決したのだろうか。

1573年(天正元年)8月13日、龍興は朝倉義景の食客として刀禰坂の合戦で討死した。
祖父・斎藤道三が美濃国を奪い下克上大名になりあがってから、31年の月日が流れていた。

そんな斎藤龍興の、(実は)いい(才気の持ち主だったという)話。




87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 18:00:29 ID:xrae+U1J
歴史上の人物ってのは一方からのあるいは一面しか語られないことが少なくないけど
龍興も若い頃はアレだが大器晩成の人物だったかもね

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 19:24:27 ID:b4rwt1OJ
フロイスの日本史によると黒田長政も入信してからもキリスト教に数々の疑問を持ってたとか

>特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があると
>いうことが納得できなかった。彼には、人間は道理に従って正しく生きさえ
>すれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。

この疑問も日本人修道士が解いた、ということだが…。
しかし現代人としてはその後黒田長政が弾圧側に回ることを知っているからか、
龍興の疑問からは純粋さとか真摯さが感じられるが
この長政の疑問からは「結局あんたらの勢力を拡張するために都合のいいこと
言ってるんじゃないっすかー?」という問いかけを感じ取ってしまうw
後の政治家ぶりを窺わせるものがあるというか。

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 19:36:18 ID:5DuivToW
ザビエルが日本にキリスト教の布教に来たとき農民に
「全知全能の神であるならば貴方がはるばる遠くまで布教に来なくても我々に伝える事も出来るのではないか」
と聞かれて返答に困った

ザビエルが道端でキリストの教えを説いていると一人の男が質問してきた。
「キリストの教えを信じない不信仰者は死後に地獄へ落ちるそうだが、それなら、去年亡くなった
うちの祖父はキリストの存在自体知らなかったのだから地獄へ落ちてしまうのか?
祖父はとても良い人で周りから尊敬されていたのにおかしいではないか。あなたの説く教えが
それほど素晴らしいものなら、なぜもっと早く来てくれなかったのだ?」
この質問にはさすがのザビエルも返答に困り、後に本国への手紙で、日本において布教するには
論理学の知識が必要である、と報告した。



有能と評判のザビエルですら困ってんのに86の司教が答えられるとは思えないけどなぁ

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 19:51:13 ID:rLI9LeI5
スレ違いだけどキリスト教がゲルマン人に布教する際にも同じ問題があって
それで煉獄(キリスト以前の聖書登場人物とか異教徒の偉人が罪を贖って天国にいくための場所)の概念が出来たとか。


91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 19:58:23 ID:5DuivToW
それも変な話だけどな
地獄と言うほどでもない辺獄で家族が一緒にいるならそっちのほうが楽土って人もいるだろうし
いずれ天国に行けるならわざわざ信仰に従わなくても道徳的に生きてれば問題ないし
天国にいるが辺獄や地獄にいる先祖を気に掛けながら暮らすのは幸福か?って問題が出るし

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:03:23 ID:jD7waOZE
ちなみにこの斎藤龍興の事も、フロイスは『日本史』に記録している。
曰く、『非常に有能で思慮深い。』との事。

まぁ尤も、このおっさんに掛かるとアンチキリストはみんな莫迦で残虐で低脳に
されてしまうわけだがw

>>89
後年になって、宣教師達は『実はデウスも毘盧遮那仏も同一体だから、日本国民が昔から信奉してた
神様はキリスト教の神様と一緒だったんだよ!!(AA略)とかいうかなり苦しい言い訳を編み出したらしい
ヴィレラの頃には、突っ込まれた際のテンプレートみたいなものがもう出来てたのかも知れない。
流石はイエズス会、イタリア語のスラングで『詐欺師』という意味があるのは、伊達じゃないw


93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:06:45 ID:OrQOsDPc
本地垂迹と大差ないけどもw

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:07:04 ID:ymayBMY4
>流石はイエズス会、イタリア語のスラングで『詐欺師』という意味があるのは、伊達じゃないw

な、なんだってー(AAry

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:11:48 ID:AdBbZHpd
ほんちすいじゃくは異端もいいところだと思うんだが宣教師でもありなのか

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:20:33 ID:OrQOsDPc
>>95
ローマでは絶対に認められんだろうがなw清では典礼論争とかあったし。
異端と考えるのはやっぱり現代人だからだろうなぁ。
徳川家康=東照大権現=薬師如来
こんな民族ですから。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:20:37 ID:5DuivToW
ホントは無しだけどアジアで布教するにはそれしか手段が無かった
これらの地域にはヒンドゥーや仏教、儒教といったキリスト教並みに体系化された宗教が既にあったから
現代のキリスト教の分布をみてもアフリカ、フィリピン、オセアニア等体系化された宗教の無かった地域
もっともそのせいで本国から糾弾される事になるが

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:21:35 ID:bTm4Q1iF
>>92
>宣教師達は『実はデウスも毘盧遮那仏も同一体だから
わざわざキリスト教徒になる必要性ねええええ

102 名前:86[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 21:22:45 ID:jD7waOZE

>>94
引用参考文献によれば厳密にはイタリア語でイエズス会=『ペテン師』というスラングらしい。

大航海時代、ポルトガルやイスパニアは航海の末辿りついた未踏の地で、まず
キリスト教を流行させ、狂信者を育成。後は彼らを適当にだまくらかして
武装蜂起させて現地政権を転覆させると言う手を何度も使ったそうだ。

つまり、宣教師顔して片手で聖書の教えを説きながら、もう片方の手では植民地政策を
振りかざして居たというわけ。よって、宣教師の顔した侵略者の手先=詐欺師とそんな感じだそうな

1542年にはイスパニアがフィリピンまで陥落させて居たし、秀吉が本能寺以後
信長の政権を受け継いだ頃には、フェリペ二世の統括する『陽の沈まない帝国』が世界を
席巻して居た。1580年のポルトガル併合後のスペインの領地はざっと説明しても
現在のイベリア半島・オランダ・ドイツ・イタリアの一部・シチリア・カリブ海及び中南米・アフリカ沿岸・インド・東南アジア。

そもそもフィリピンの国名の由来が『もう此処は"フェリペ二世のものだから"って意味なんだから
直ぐ隣だった日本の統治者、秀吉や家康がびびってキリスト教禁止にしちゃったのも頷ける話で
チラシの裏申し訳なす

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 21:28:34 ID:5DuivToW
当時のスペインは太陽の沈まない帝国だしな
その座はイギリスに奪われることになるが
現代の西洋人は宣教師が侵略の先鋒だとは自覚してないらしいが
時代は下って清代末期の中国では裁判にまで口出すようになってる

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 03:29:40 ID:Go//U01N
>>102
家康も伊達政宗も、遣欧使節だすまでにフランシスコ会のソテロはんだっけ。
耶蘇会以外の宣教師と出会ってけっこうマメに会っていたらしいし

家康はその前にウィリアム・アダムス(三浦按針)とか新教徒の当時いう紅毛人とも付き合いがあったんよね。

こう言ってはナンだが、耶蘇会に騙されるクラスの大名じゃ天下は狙えないよな

斉藤道三への落書・悪い話

2009年01月10日 00:08

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 19:10:11 ID:Z68yCiyN
斉藤道三と言えば、彼が生きていた当時の京都では、悪人の代表のように思われていたらしい。

当時の京の町に出た落書

・美濃の土岐頼次は、斉藤道三の婿であったのを、道三が騙して殺したとき

「とき世とて 婿を殺すはみのおわり 昔は長田今は山城

(”土岐”と”とき”、”身の終わり”と”美濃尾張”をかけている。長田は主の源義朝と婿の鎌田政家を
だまし討ちにした尾張の長田忠致)


・天文十一年(1542)土岐頼芸が斉藤道三に美濃を追い出されたとき

「ときはれど 糊たてもせぬ四布袴(よのはかま) 三布(みの)は破れて一布(ひとの)にぞなる

(”土岐はる”と”解き張る”、”三布”と”美濃”、”一布”と”人の”をかけている。)


で、道三関係はなぜか、このように後世まで残る傑作が多いw


斎藤龍興の「それから」・いい話

2008年12月25日 01:19

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 14:48:35 ID:18XEt6fK
美濃斎藤氏最後の当主斎藤龍興

稲葉山城を落とされて長島へ逃亡その後本圀寺で足利義昭を襲撃して返り討ちなったりと
大名時代とは打って変わって精力的に信長に抵抗するが刀禰坂の戦いで
かつての臣氏家卜全の子にたたっ切られて死亡(26歳)

一説によると死んでなかったという
彼は脱出し名前を変えて越中へ
現在の富山市のあたりで原野の開墾事業に従事
「仏様は見てるから」「お経の力でたくさん米とれるようになるから」などと
その辺の人たちを励ましながらいつの間にか開墾チームのリーダーのようになる
天正8年ごろにその事業もかたがつき元龍興は一帯を経力と名づけた
また鶴に導かれて地面を掘ってみると温泉がわいたのでここを整備した(霊鶴源泉)
その後彼は出家し興国寺の住職となり中興の祖となり寛永9年に87歳で亡くなったという
世はすでに徳川家光の時代であった



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 18:57:20 ID:EhQ7Ma4m
九右ェ門伝説ですなぁ。

これが事実なら龍興の評価はうなぎ登りなのにw

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 19:01:00 ID:mcD1Tz5r
龍興かは兎も角、その元となる人は居た訳だ・・・夢のある話だな

斉藤道三の道化者・悪い話

2008年12月20日 00:02

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 00:13:17 ID:BEZ0P6ve
道化者

斎藤家の家臣に道化(道家とも)六郎左衛門という侍がいた。

道三は息子の義龍と不和になり、やがて家を二分した争いになった。

義龍は戦いに望んで自ら剃髪し、
「ワシに味方する者はみな剃髪せよ。」と言った。

そんな中、六郎左衛門は珍妙な髪型で義龍に挨拶に来た。

義龍は六郎左衛門のヘンテコな髪型の理由を尋ねると、
「殿様は道三様と親子ですから、斎藤家の家臣としていずれを味方、いずれを敵
と決めることはできません。
ゆえに頭髪の半分だけ剃髪したのです。」

六郎左衛門は頭髪の右半分はフサフサ、左半分がツルツルの訳をこう説明したの
だ。

結局、六郎左衛門は義龍の勧誘を断り、道三に味方して討ち死にした。
「道化者」の語源はこの逸話に由来する
(世に異装の者を称し道化というは是なり)。
(武家事紀)

(かっこ)悪い髪形の話



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 00:44:12 ID:4gOWRL0e
髪形はかっこ悪いかもしれんが、かっこいい話だな

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 02:10:10 ID:/G0Q5Ucy
>>459

民明書房のような終わり方に吹いてしまったw