まず尾張を攻め平らげて攻め上らん

2017年03月05日 18:31

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:53:36.53 ID:yOjylQgb
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

――『織田軍記(総見記)』



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 05:13:29.81 ID:q0qI5IAz
長門が死んでるw

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:11:26.90 ID:xAM+rR9g
ザルすぎる防衛網
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“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”

2017年03月02日 18:56

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:45:07.35 ID:Erhdus88
心省よりこの方、(今川家は)代々公方家の族臣として、武功の将種であるが故に世々
公方の御懇志を受け、戦国の最中にも世を奪われず威勢は甚だ盛んなので、

武恩に誇るのみならず、弓馬の道は言うに及ばず、和歌、連歌、蹴鞠、茶湯の事までも
この家には名人が多く、その家風は他より優れて、代々器量の臣下は少なくない。古き
高家であればこそである。

それ故、世俗の諺にも、“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”と言われて
いるのである。もっとも、さもあらんことではなかろうか。

心省入道より七代の後胤・今川五郎氏親、後には上総介と号す。氏親は先祖に劣らぬ
名将であって、戦国の時代に巡り逢い、駿河・遠江2ヵ国を領知して、

三河国をも大半は切り従え、あまつさえ戦国の世の一統を志し、公方家を再興せんが
ために、上洛の望みを持っていた。尾張の守護代・織田一党は主君・武衛(斯波義達。
左兵衛佐)の命を受けて今川に敵対し、三河を争い、合戦に年月を送るところで、

氏親はいつしか病死した。増善寺というのがこれである。その子・氏輝は早世した。
臨済寺がこれである。氏輝は実子がいなかったので、その弟の禅僧で、善徳寺に
いたのを還俗させて家督を継がせ、これを今川治部大輔義元と号す。

義元はよく父の志を継ぎ、よく父のことを述べ、文武に達した名将なので、なんとしても
三河・尾張の両国を切り従え、上洛せんと心掛けていたところ、三河岡崎の城主・松平
三郎清康は、幸い今川の味方となって尾張へ向かって敵対し、たびたび合戦に及ぶ
ことがあった。

ついに天文4年乙未12月、清康は大軍を率いなさり、織田筑前守が籠る尾張森山の
城を攻めなさった時、清康はにわかに卒去なされたので、たちまち三河の諸勢は森山
を退陣して、分国へ引き返した。その折、尾張の将・織田備後守信秀は、

筑前守の急を救い、かつまた、先君・武衛を助けて三河を治めようと自身で8千の人数
を率い、三河伊田の郷まで相働き一戦を遂げ、青山、植村、林、高力父子を討ち取った。

――『織田軍記(総見記)』



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:59:26.81 ID:Q1IiyxCV
当時の織田家に8000も動員できたんか

今川義元。足みじかく。胴ながく

2017年02月27日 18:29

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:47:37.65 ID:izwNANYm
今川義元は足が短く、胴は長く、片端であるとして臨済寺の喝食に致し
置かれたけれども、大将の器量ありとして取り立てられたという。

今川義元。足みじかく。胴ながく片輪なりとて。臨濟寺の喝食にいたし
置かれたれども。大將の器量ありとて。取立られし由。)

――『武功雑記』



618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:53:26.09 ID:j+Q6XpeV
胴長短足のほうが馬上では見栄えが良かったんじゃなかったっけ

たぶん輿に乗っててもカッコついたんだろう

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:29:21.37 ID:lnr7vVWg
義元公が輿に乗っていたのは足が短いからじゃない
駿河遠江三河の太守としての格式から乗っていただけ
肥満で馬に乗れなかったのは肥前のクマもん

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:18:04.90 ID:qZOgaZXR
雷神さん「輿に乗って戦場往来とか名将ぽくね?」

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:29:28.79 ID:lnr7vVWg
輿に乗って采配をふるい戦場を縦横無尽に駆け巡るとか実際に見てみたいわ
男塾の民明書房に騎馬戦の起源であるとか書かれてそうw

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 03:06:00.05 ID:1AOZFTBW
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 04:41:45.64 ID:cCpF6CPC
>>620
瘡頭「ですよねー」

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 07:32:58.92 ID:JdNMgBd3
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?

高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

2017年01月15日 16:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:18:30.66 ID:NkP02+Hg
高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

 十月二十四日は高家今川氏の先祖祝いとして、今川の親戚が寄り合う祝儀がある。
予も招かれて会いに行った。
(注:当時の今川家の当主義用の嫡男・義順の正室は甲子夜話の作者の松浦静山の娘の機)

 その祝儀でとある話をした。
松浦静山「その先祖とは義元君ですか?」、
今川関係者「いやそうではありません。中頃の祖の某〔その名は忘れた〕です。」

 以下にその中興の祖の話として聞いたことを記す。
その祖は刑部大輔と称していたとか。
日光山の神号が初めは東照社と宣下あったので、
すぐに御使を奉じて上京し、朝廷と争議して遂に宮号を申し下したことがあった。
これに付き添いの林春斎〔林氏二代〕と一緒に遣わされていったという。
典故を引いた廷議は彼にとってはなはだ難しいことであったとか。
その勲賞として三河数ヶ所の地を賜り、春斎も禄が加えられたという。
これからこの人を今も中興の祖として祝うこととなった。
いずれにしても、今川衰微の時に労が有った祖先なので、
このように親族を招くのも理である。

 また今の表高家の中に品川氏がある。
〔この家は、元禄の頃は歴々たる高家であり、豊前守四位侍従であった。〕
かの日にも予は彼らと面会した。
この家は元々今川氏次男の家であった。
今川の祖は上の逸話のように寵遇があり、芝品川御殿山の地一円はかの屋敷であった。
その頃に品川氏の先祖がかの屋敷で出生したので上意で品川と称したのだとか。
ならば本氏は全くもって今川である。
よって家紋は、円の内に今川の家紋五七の花桐をつく。これも上意によるとか。
品川氏は先日も、この紋の小袖に肩衣は今川氏の紋である円に二引両をつけていた。


(甲子夜話続編)

これ、氏真の話ですよね。
中興の祖として子孫から敬われていたのですね。
しかし、ものすごく博学なのに氏真の名をしらない静山さん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:41:07.06 ID:NkP02+Hg
と、思ったら>>458でちゃんと名前を知っているね。ごめんなさい。



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 03:23:47.53 ID:k/jsDdax
武将としては下の下だからな。偉大な義元の名を出すのが礼儀。

今川氏領地の事

2016年12月24日 09:54

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 05:42:05.24 ID:bDvjbosn
今川氏領地の事

 今川太郎〔刑部大輔の子、名を義順〕が来られたとき、彼の領地はどこかと尋ねてみた。
「王子村の近所です。」
「おお、それは近いですね。」
「この他にも近江に五百石の領地があります。」

『ではその地をなぜ所領しているのだろうか』と不審が晴れていなかったところ、
先年彼が古い書付を捜してくれて、その一通を見ることができた。

 その書付によると、義元が次男を若王寺という方へ遣わしていたが、
義元の家が衰微した後にかの若王寺の方から見かねてかの祖先の方に帰し与えた地が
近江の地の理由であるという。

 この事は彼の旧記で分かっていたので、
今では江州の采地から少しばかりの物をかの若王寺の末へ分け与え、
余りを今川氏に収めたという。
太郎の先祖は義元で、氏真の嫡流である。

(甲子夜話続編)



氏真の蹴鞠

2016年07月31日 19:30

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:14:33.69 ID:dTisZ1jN
天正三年2月下旬、織田信長は岐阜を立ち、3月2日に上洛して、相国寺に滞在した。
同月16日、今川氏真が駿河より上洛して信長のもとに出仕し、千鳥の香炉、宗祇香炉などを進上した。

その後信長は、氏真が蹴鞠の上手であると聞き、蹴鞠の興行を行ってそれを見物した。
氏真に対し、三条大納言父子、烏丸殿、藤の宰相殿、飛鳥井殿父子、広橋殿、五辻殿、庭田殿といった
蹴鞠において名のある錚々たる人々が入れ替わり立ち変わり挑戦したが、氏真の足さばきは、
どこで区切りがあるのかすらわからないものであった。

(甫庵信長記)

今川氏真、信長の前で想像を絶する蹴鞠の実力を見せつけたらしい、というお話。



22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:21:00.54 ID:Jt9IzM1X
この話読むたび、親の仇の前でよくやるなと思うが

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 20:57:28.09 ID:yzm9L0zP
>>21 甫庵信長記ということは、信長公記にも原文の記載があるはず。ぐぐってみた。

3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。
それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆(香炉または何らかの宝物)
を持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも
千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は
千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。
かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか
氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・
庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

甫庵やっぱり加筆してやがる。

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/01(月) 11:05:42.86 ID:as7OLeEf
>>23の中で、「会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き」とあるので、
氏真が自分から蹴鞠のことを宣伝したようだ。
だから、親の仇の前でやらされたのではなく、親の仇の前でパフォーマンスか
「戦では負けたが、信長よ、これがお前にできるか?。できまいて。本当は俺の勝ちだ」
ってか。

今川の物見、首取て歌よむ事

2016年07月03日 13:06

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 08:07:23.18 ID:mN7HvAUH
今川の物見、首取て歌よむ事

戦場見物の者は、途中に敵に逢っても打ち取らないのが軍法である。

だが今川義元の士〔名は忘れた〕が物見に行き、

敵に出会って戦い首を取った。

しかし軍令に背いたので、帰って一首の歌を首に添えて出した。

刈かやの 身にしむ色は なけれども 見てすみがたき 露の下帯

義元はこれを見て、違法の罪を許したという。

(甲子夜話)

しかし物見は首級を挙げてはならないという決まりなんてあったんですかね

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1184.html

この逸話では、普通に褒められていますけどね



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 11:08:13.53 ID:uDm6PxsQ
>>901
物見は偵察役だろ。

偵察役が戦闘に加入して必要な敵の情報を持ち帰れないのは
本末転倒だからな。

威力偵察ならば戦闘も有りだが、その場合は部隊編成が変わるだろ。

今川氏真の楽市令

2016年05月13日 18:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 14:31:29.91 ID:c/w+KYiQ
今川氏真の楽市令
「富士大宮で毎月6度開かれている六斎市において、
既得権益層(座)の押し買いや狼藉等の問題行動が横行し
市の運営に差し障りがあるとの申し出があったので、
今後は諸役を停止して楽市(誰でも商売しやすく)とすることを申し付ける。
また、近くの神田橋の通行料も停止させて、商人の通行もしやすくする。
もし違反する者がいたら訴え出なさい。」富士文書他

永禄九年に今川氏真が富士信忠(富士山本宮浅間大社の富士大宮司)宛に出した
この楽市令は、織田信長よりおよそ一年早く、信長も参考にしたと言われている。
さらに早く六角定頼が楽市を布いたという話もあるけれど、
ともかく今川氏真は義元ゆずりの名政治家だったのかもしれない。



619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 15:25:50.57 ID:kt7LzU2e
並以上の器量だったとしても、家康と信玄が同時に攻めて来たらな・・・
まあ、相手が悪かったよな氏真は

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 16:46:25.06 ID:oqTRUCOe
家を潰した、領地を失った=無能
という評価方法もそろそろ見直される頃合いかもしれんね

匂坂吉政の「思い切りのいい」お話

2016年03月25日 18:25

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 16:34:22.16 ID:3HFhF8Id
桶狭間の敗戦により、今川氏は急速に衰えを見せ始め、いわゆる「三州錯乱」、
続いて「遠州惣劇」といった事態に陥る。当主氏真は必死に挽回をはかるが、
状況は悪化するばかりであった。

遠江匂坂城主匂坂長能は今川氏輝時代からの信任厚い武将であり、井伊・飯尾・
堀越・天野といった諸将が叛乱を起こす中、最後まで氏真のために働いていた。その
長能が永禄9年(1566年)に亡くなると、三男の六郎五郎吉政が後継者となる。

永禄11年(1568年)12月、遂に武田信玄による駿河侵攻が始まり、秋山虎繁の
率いる別働隊は伊奈を経て二俣に到達した。遠江の諸侍はこぞって参集し、帳面に
己の氏名を記入した。今川氏に忠義を立ててきた吉政も、ここが潮時と二俣に赴き
帳面に「匂坂ノ惣領ナリ」と書き記した。なお、二人の兄、政信・政通は混乱の中、
掛川城に篭城していたようである。

ところが、吉政が退出した後、兄政信の息子十左衛門政祐もまた秋山のもとにやって来た。
不審に思った吉政がこれを窺っていると…
政祐「匂坂の嫡流は某にございます。このことは遠江の者なら誰でも存じております!」
秋山「吉政が惣領ということで、本人もそう記しておったが…まあ信玄公にお執り成しする
    ことにしましょう」
これを知った吉政は城門のあたりで待ちうけ、色よい返事に上機嫌の政祐をたたき斬った!
その足で掛川城まで駆け行くとと、二人の兄を指差し「先に徳川につくからなあーッ!」と
叫びそのまま家康のもとへと遁走した。状況を包み隠さず家康に述べると、家康も喜んで
12月22日付で本領安堵の感状を出している。


匂坂吉政の「思い切りのいい」お話。

この後、姉川で三兄弟で真柄十郎左衛門と死闘を演ずるのですが、お兄ちゃんの政信、
心が広かったんだねえ…

なお、お兄ちゃんの度量はその孫には受け継がれず、政祐の遺児は吉政暗殺を企てる。
不穏を察知した家康は用心のため出仕を控えるよう吉政に命じたが、吉政は意に介さず
出仕を続けたため、結局鉄砲にて暗殺されたようです。



鵜殿坂

2015年07月02日 15:39

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 11:45:07.80 ID:G9NiJJ1v
鵜殿坂

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が斃れると松平元康、後の徳川家康は独立を果たすべく
西三河の親今川勢力の攻撃を開始する。まず、三河西南部の幡豆郡を攻撃、調略・合戦と様々な手段を
使い、永禄4年(1561年)の間に西尾城に籠もる今川の駐屯軍、東条城の吉良義昭の駆逐に成功した。

次の目標は宝飯郡西部、現在の蒲郡市を勢力下におく鵜殿氏である。鵜殿氏は上ノ郷城の宗家を中心に
下ノ郷・不相・柏原といった分家が蒲郡市内に城を構え支配を行っていた。宗家の当主は桶狭間の戦いの折、
大高城でクッキング城代http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1370.htmlとしてちょっと
いいところ見せた鵜殿長照、今川義元の妹の子である。親父の鵜殿長持がまだ生きていたという説もあるが、
まあ置いておく。

永禄5年(1562年)、本格的な攻撃が開始される。長照は吉良義昭らがまだ健在な頃より連絡を取り合って
対応を練っていたが、味方になるはずの分家の面々が残らず敵方に奔ってしまった。求心力無いぞ長照!
もともと蒲郡は鵜殿・松平勢力が混在する地であり、今川義元健在の頃、同じ陣営ということもあり、双方で
縁組をすることも多かったから血縁をたどって調略されやすい面もあったし、なによりも幡豆郡の今川方敗退の
影響が大きかったのだろう。上ノ郷城は敵方に取り囲まれてしまった。

だが、さすがはクッキング城代、城兵を叱咤し敵に付け入る隙を見せない。松平方は一旦攻撃を諦め出直す
ことにした。二度目の攻撃は、松平元康直々の出馬である。初戦不首尾の報告を受けていた元康は策を巡らす。

「忍びの者を使おう」

元康が雇った忍びの者は甲賀者だったらしい。江戸期に入ってから、自分たちが上ノ郷城落城に貢献しました、と
奉行に報告書を提出している。忍びの者たちは敵兵に紛れて城内に忍び込むと、頃合を見計らって放火、城兵を
斬っておいて「裏切り者が出たぞーッ!」と触れ回り混乱を誘った。これに乗って本当の裏切り者も出たようだが…。

この状態を見てヤバイと思ったか、長照は城を出て落ち延びようとした。しかしその途中、安楽寺という寺の横にある
坂まで来たところを甲賀者の伴資定により討ち取られてしまった。上ノ郷城は落城し、長照の子、鵜殿氏長・氏次
兄弟は生け捕りになり、後に築山殿・松平信康との人質交換に使われた。

えげつない計略にかかったこと、討ち取られたことがよほど悔しかったのか、長照の怨念は討たれた場所である坂に籠もり、
「この坂で転んだ者は怪我が一生治らなくなる」という、地元民にとってははなはだはた迷惑な、「鵜殿坂」と言う
伝説を残すに到る。地縛霊モドキにならんでつかあさい。



『今川の赤薬』

2015年05月12日 17:13

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/11(月) 19:23:16.44 ID:C/newK1P
こっちか

『今川家の赤薬』と言えば、世の中では急病に用いた場合効能の在る薬だと言われている。
この薬はそもそも、足利将軍光源院(足利義輝)の馬が患った時、乞食斎の僧が三条河原で
この馬を見て「たやすく治せる病なのに」と言っているのを、義輝が聞いて治療を望んだ所、
乞食が薬を用いると、たちまち患いは癒えた。

この時、義輝は一宮随巴という弓の師に言って、その薬法を学ばせ書き留めさせた。
そののち義輝が。永禄の変で斃れると、一宮随巴は駿河に下った。
駿河において、今川氏真は薬法などを面白がる人であったので、一宮は氏真にこれを教え、
そうして今川家の薬として世に広まったのである。

(明良洪範)



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/12(火) 06:26:14.78 ID:VtUQjXB1
なぜ専門の医者ではなく、弓の師範の武士に学ばせたのか謎だ

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/12(火) 06:53:31.95 ID:5z1PL6WJ
すでに出家してるかもしれんじゃろ

猿のような侍を氏真公は崇め敬ったので

2015年03月14日 16:13

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 05:19:06.27 ID:iuG8ON4R
 駿河の義元公は、過度に増長して信長に負け、討たれなさった後、
良き家臣衆は脇へ押しやられ、猿のような侍を氏真公は崇め敬ったので、諸侍は良い作法を失ってしまった。
厩別当の小身である三田村が、茶碗一つを三千貫で買ったのを、氏真公の側近衆がこれを観たがり、三田村茶碗と名づけた。
これを買うのは七度の槍働きより手柄であると褒めた。
これ皆作法の知らない猿のような侍が、身の程も知らず、大身衆や富裕者のような真似をして、堺の紹鴎が茶の湯を好んだためである。
(甲陽軍鑑)



今川義元の討死

2014年09月14日 18:54

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 22:53:07.71 ID:Uftp3aAu
義元の討死の事を記した書物に『最期は机にかかり、少しも動かずにおられたところを
服部小平太と毛利新助が討ち取った』というのは、虚説である。元来、義元は勇将では
あるが、床机の周りを固める者もいないのに、一人で床机におられることだろうか。
もし、その通りならば無謀の死である。

信長は今川家の虚を察しなさり、本陣の後ろの山根を押し回って、後ろから攻め寄せ、
馬武者で義元の本陣を縦横に乗り破り、騒動に乗じて突き崩した。今川方はただ上下
とも驚いて慌てふためき、槍を取る間もなく、皆太刀打ちした。

織田方は槍を揃えて突き立てたので、真っ先に進んだ者たちは枕を並べて討死した。
その他にも、負傷や逃亡によってまばらになったことだろう。それまでも義元は
床机に腰をかけ、周りを命じておられた。そこに庵原左近と同庄次郎が馳せて来て、

「本陣の軍士は過半が討死し、備えもまばらになりましたので、何と思し召され
ましても叶いますまい。ここは一先ずお退きになってください」と、申し上げて
馬を引き寄せ、義元をかき乗せた。

この時、元康公がお付け置いた松平某も義元の前へ来て、「元康は大高の城に
おられますので、そこへお引き取りください」と申し上げ、庵原兄弟と松平某の三人が
供をして、大高を目指して退いて行った。

これを見て、島田左京、澤田長門守、岡崎十兵衛、上和田雲平、今井主馬、
平山十之丞、長瀬吉右衛門、平川左兵衛、福原主税らが馳せ来たり、同じく供をして
退いた。しかし、馬備えが散乱したため、馬に乗る手立てが無く、皆々歩行で従った。

義元は胸白の鎧に、金で八龍を打った五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着ていた。
また今川重代の2尺8寸の松倉卿(松倉郷)の太刀と、1尺8寸の左文字の脇差を
帯びて、5才の青毛の馬には金履輪の鞍を置き、紅の尻繋を掛けてお乗りになった
ので美しく、遠目にも「これこそ大将である」と思わぬ者はいなかった。

信長方は四方へ落ち行く者には目もかけず、「どこまでも逃がさぬ」と先を争って
追いかけた。そのため、島田左京や澤田長門守を始め12人の者たちはとって返して
戦うも、徒歩であるうえに戦いには疲れて皆々討死し、義元は一騎となられた。

そこへ服部小平太は一番に追い付き、言葉をかけて近寄った。義元も「心得た」と
馬を引き返しなさったところを、小平太は駆け寄って朱柄の長刀の槍で、義元の
弓手の脇腹をひどく突いた。

けれども、義元は聞こえた強将なので少しもひるまずに太刀を抜き、小平太の槍の柄を
切り折り、馬から下り立った。小平太が槍を捨てて組み合おうとすると、義元は抜き
放っていた太刀で払い切りになされ、太刀先が下って小平太の膝口を切り付けなさった。

小平太は少しも堪えられずに後ろに倒れたため、あわや討たれてしまうと見えた
ところに、毛利新助がすかさず横合から駆けて来て、むんずと義元と組み合った。
義元は初めに小平太が突いた槍で傷を負ったままで、最後には新助が組み勝って
義元を討ったということである。

――『明良洪範続編』




778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 02:38:03.48 ID:Ilnqnsko
「少しも」良く使うね

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:05:57.39 ID:VFSr4d1f
今川義元はちゃんと馬に乗ってるな
良く言われる、今川義元が馬に乗れないなんてどっから出て来たんだろな

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:13:51.36 ID:Wq8euVbd
室町幕府から有力大名として塗輿を許される
→輿に乗っているから馬に乗れない、と曲解される

今川氏真、不信爆発

2013年11月01日 19:00

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 20:02:56.32 ID:NiG3gLLp
永禄11年(1568)5月初め、武田信玄は駿河の今川氏真に使者を出し伝えた

『今川殿が所領されている、東三河を私に下されよ。
東三河は信州伊那より続いている地である。そこを私が持てば、氏真殿が以前から念願している
義元殿の弔い合戦をなされる場合でも、この信玄が加勢に出陣するのに活動しやすいからである。

ところで、昨今松平元康という興味深い人物が勢力を広げ、今川殿への恩を忘れ、
元康の元という字も投げ打って、そのかわり全く別な、徳川三河守家康となり、
三河国の大半を支配していると聞く。

その家康に取られるよりも、この信玄に進呈してはどうか?』

この書状の内容に、氏真は返答した

「信玄殿のお言葉、かたじけない。
しかしながら父義元の弔い合戦については、信玄殿をお頼み申すには及ばない。
良い時期を見てこの氏真自身で目的を達するつもりである。ことさら、氏真の敵である
織田信長と、信玄殿が縁者に成られた(永禄8年の武田勝頼と信長養女との婚姻)と聞いては、
信玄殿ももはや、半ば敵であると考えるものである。
そのため、東三河が例え家康に取られたとしても、信玄殿に進呈する気はない!

それに、家康など小身の者故、今年でも来年でも思うままに退治することが出来る。
しかし信玄殿に東三河を渡しては、その後遠州までも取られることに成るだろう。
その証拠に、あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、酒に酔ったふりをして
お取りになった。
我が父義元も、『信玄は謀略の才覚において恐るべき者だ』と仰っていた。

信玄殿は、この氏真との叔父甥の関係などもはや無視されよ。今後は書状の取り交わしも不要である!
あなたはこの頃も、家康の伯父である水野弥平大夫と親密であったそうではないか。
また、我が配下であった梶水彦介を甲府まで呼び、鉄砲10丁に甲府名物を添え、さらに木綿の布200反まで
与えて、『信玄が三河に進出すれば手を引くように』と言ったそうではないか!私はそれを
詳しく聞いている!」

実は去年の冬、氏真は水野弥平大夫を成敗した。その時、信玄が水野弥平大夫に出した多くの書状を
押収したのであった。

氏真はこの返書に、水野弥平大夫から押収した書状を添えて信玄に返した。
このため、今川と武田の関係は更に悪化した。

(甲陽軍鑑)

今川氏真、信玄への不信を爆発させる、というお話である。




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 22:32:37.58 ID:DhARhHe+
甲府名物がちょっと気になる

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 00:17:39.23 ID:JFcFpmTh
まあ領土割譲しろなんて要求に対しちゃ、本人の置かれてた状況はともかく当然の反応だわな
甲府名物は多分あれだよ、黒川とか湯之奥からの産地直送の材料を使った山吹色のお菓子なんじゃないかな

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 13:25:19.27 ID:cSGgquSp
>あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、酒に酔ったふりをして
お取りになった。

信玄が自らパクったって読めるんですが…え?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 18:40:16.19 ID:5XK1ent5
いや、普通に信用しちゃあかんだろう。あの真田パパンの師匠だぞ。信用するほうがどうかしてるw

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:05:06.86 ID:XrwX/CnJ
ところで武田家って今川・北条・織田・徳川と同盟相手を裏切ってるけど
同盟相手から裏切られた事ってあるのかな?

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:17:47.28 ID:O1BToJTb
>>630
武田側から見ると今川も北条も織田も徳川も、先に相手が武田に対して裏切り行為をしていることに成ってる

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:25:24.32 ID:Av2fqQ3E
アホの氏真にも五分の魂があったかw お屋形さまに攻められて一瞬で今川が瓦解した時どんな顔してたんだろうな

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 20:14:04.80 ID:1B/uX1D2
>>630
対織田の時は、両属状態の遠山を取り込んだ信長が原因じゃないかなぁ
対北条は原因作ったのは信玄だけど、手切れにしたのは北条だし

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 20:54:22.97 ID:JzdkwTEZ
>>632
氏真の記録はそこそこ残ってるけど一般の人のイメージはバカ殿で気の毒だと思う
軍事はともかく内政関連は優秀なほうなのにね

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 21:01:23.78 ID:7g70p10d
信長の対信玄イメージもちょっと気の毒だな
同盟破棄して攻め込んできたので迎え撃つ準備して待ち構えてたら信玄病死で撤退
後の流れが「信玄が生きてるときは手も足も出なかったくせに…」になってしまった

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 22:19:45.60 ID:h0b2577Z
待ち構えるも何も、あの頃の信長って周りじゅう敵だらけの上、内応者も相当いただろう。
そんな状況の中、三方原直後に信長と信玄が野戦してたら、
まず間違いなく信玄が勝ったと思うがw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 22:58:59.92 ID:1B/uX1D2
信長の所へたどり着くまで1年以上かかりそうだがなぁ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 01:40:00.94 ID:YVkFNXzE
徳川から人質とって東美濃で信長と信玄が戦に及ぶ
織田軍が敗北すれば反信長軍が勢いを増しさらに各地で蜂起するから早々に瓦解するね

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 01:58:29.59 ID:J/fD+e5Z
信長が本気だしたら最低でも6万は兵力集められるし
万に一つも信玄に勝ち目ないだろ

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 02:07:11.05 ID:qmOoGxEd
史実の信玄上洛でももちろん本気でしたが

今川氏真「だまされ仕まじ」

2013年04月22日 19:50

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:24:45.22 ID:cte9qme1
永禄12年(1569)、今川氏真は掛川城を逃れ、小田原の北条氏の元に亡命した。
武田信玄は小田原に氏真がいることは自らの行動にとって邪魔だと考え、彼を追い出す策略を立てた。

小田原の氏真の元に、とある町人が訪れ密かに申し上げた
「今度甲州から原隼人が信玄の使者として小田原を訪れ、氏真様に腹を斬らせることについて、
北条側と内談を行い、その後内藤修理が派遣され、氏真様に腹を斬らせる、という事が決まったそうです。」

この言葉を氏真は恐れた。するとその話を聞いてからまもなく、甲州より原隼人が使いとして小田原を訪れ、
これに心もとなく思っていたが、重ねて内藤修理が訪れるとの情報を聞いた。

これは町人の言うことに間違いはないと考え、氏真は小田原から船で逃亡した。
無論、町人も含めて信玄の謀略である。氏真はまんまと騙されたわけである。

さて、船で逃亡する途中、風が悪かったために遠江国浜松に吹き留まり、下十連時にて10日ばかり
逗留した。困り果て仕方なく、徳川家康に使いを出し

『私は伊勢まで所要によって参る所に、風向きが悪いため船で進むことが困難になりました。
そこで陸路を使いたいので、伝馬や人足を使わして頂きたい。』

と申し込んだ。家康は「昔のよしみである。仕方がない」と、望みどおりに人馬を遣わし、その上で
「暫くご逗留あるように」と、様々に饗した。
氏真は小田原出奔以来、たいへん心許なく思っていたのだが、この様子に安堵し、遠州にゆるゆると
逗留した。

そのうちに家康から信長へもこの事の報告があり、信長からも
「どうかいつまでも御逗留あるように。後々には駿河に帰参と言うこともあるでしょう。」
と、懇ろな言葉をかけられ、これは幸いなことであると考えて、さらに緩々と逗留を続けた。

ある時上方の方へ参ったが、ここでは相国寺に滞在し、公家衆などと歌会などを行い、また
蹴鞠などをして過ごしていた所、信長がこのことを聞いて、こちらに来て蹴鞠をして欲しいと
所望された。信長は氏真の蹴鞠の様子を緩々と見物され、その上で振る舞いの用意があり、
信長自身の出で馳走もされた。

長篠の合戦の時も信長に同道し、誰かの手に居たそうである。
その後、武田勝頼が滅亡したため、氏真は信長に対し

『初めに言われたように、駿河を氏真に遣わして頂きたい。』

と申し遣わした所、

「あの頃とは違い、今や何の役にも立たない氏真に、どうして駿河を与えなければならないのか!?
要らぬ人間を生かして置いておくなど無駄な事だ!あいつに腹を斬らせろ!」

と、激怒して命じた。氏真はこれを聞いて驚き、直ぐ様どこかに逃亡した。

そうしている内に、信長が切腹したという話が伝わってきた。本能寺の変である。
しかしこれを聞いた氏真は

「信長が私に腹を斬らせるために、このような虚報を流したのだ。騙されはしないぞ!
こんな真似をしなくても腹を斬れというのなら、私は尋常に斬る!」

と言ったそうである。
(内々信長より腹を切せらるべき気遣の所に是を聞て、だまされ仕まじ、腹をきれとの
事ならば尋常にきるべしと被申よし)
(紀伊國物語)




332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:29:40.27 ID:buMIUTJM
氏真のゆるキャラぶり

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:34:17.69 ID:8ZPr5FF9
甲相駿三国同盟による政略結婚で唯一最期まで夫婦連れ添った氏真と早川殿

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:38:27.81 ID:86cNlbDF
親の敵の前で蹴鞠とか
誰か止めてやれよ、といつも思う

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:39:59.82 ID:x/ofBZEZ
生き恥さらせば長生きだけはできるってことか

武士じゃねぇわw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:46:23.49 ID:xVTYET0X
泥水啜ってでもきのこる!ってのもそれもまた武士だと思うがここまでくればあかんわなw・・・開き直って戦場で槍働きでもすれば一国は無理でも村一個はいけるんじゃないか?とりあえず1対1なら負けないとは思うし

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:51:01.94 ID:q0Uxl8Mt
TERU「これ以上こっち来るな。こっちだって逃げ出したいんだから。」

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:23:13.29 ID:7GMytiRI
ピンチはあったものの、楽しげに長生きできたんならいいじゃないか

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:27:58.02 ID:spFTitzx
>>334
まあ親父は自分から攻め込んで討ち取られたから仕方ない
これで恨んでたら、とんだ逆恨み野郎だ

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:54:26.77 ID:spFTitzx
あ、なんか的外れなこと言ってしまったな
敵に反応してしまったが、恨んでるとかそんな話じゃないなスマン

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:58:52.12 ID:PZe0+X17
慈善事業で戦国やってんじゃないってことだ
手柄もないやつに国をやるわきゃない まして国を滅ぼして生き恥さらすぼんくらを

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:03:49.29 ID:pzslSECG
言われてみると氏真は、武田は結構恨んでそうだけど織田や徳川はたいして恨んでないよな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:11:01.22 ID:PZe0+X17
親父のこと一番恨んでそうw

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:19:21.97 ID:8ZPr5FF9
>>343
テル「親父が若死にするから叔父さんに折檻されたお」

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:46:48.69 ID:pOlXsqRu
相手が悪かっただけで氏真は頑張ってたほうだと思うんだよなあ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:53:01.21 ID:PZe0+X17
裏切り者家康め!滅ぼしてやるぅ! 

数年後 
蹴鞠蹴るから雇ってください… 

なぜなのか?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:07:37.57 ID:pzslSECG
氏真は周囲からカモだと思われたせいで寄ってたかって潰された印象

しかしいざ戦国時代が終わってみれば、武田は味方裏切りまくり一族死にまくりで滅亡、
一方信玄がカモってた氏真は家が潰れた後も人望あったうえに夫婦円満で
さらに高家になったあげく孫が出世しまくるのを見ながら畳の上で天寿全うしたとか
信玄に教えたらどういう顔をするだろうか

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:13:05.29 ID:pzslSECG
ああ、氏真は孫が出世しまくってる頃にはもうあの世か・・・
正しくは「順調に成長していくのを見ながら」だな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:15:29.32 ID:0GbOcKHp
後世にバカとして語り継がれる今川を笑うだろう

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:18:39.13 ID:Q4fmg1Fn
捨扶持で生きながらえて羨ましがられるかねぇ

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:23:05.77 ID:0GbOcKHp
今川の子孫とかいてもバカにされるだろうし
詐称する価値もないか

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:45:43.97 ID:QzCm68ap
幕府滅んで早々に断絶してたような

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 02:21:02.65 ID:Q9n2j4T6
武田を追い出したら駿河に復帰ってのは、氏真が掛川城を開城したときの条件だっけか

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 12:24:32.14 ID:RtZQFnNI
子孫って年末に討ち取られてるアレだっけ?

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 17:32:05.35 ID:VGnTz/Tr
武田の子孫だって高家だろ

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 16:09:29.49 ID:WvFxLpzM
>>354
年末に打ち取られる吉良って今川の本家筋だっけ

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 16:17:18.23 ID:TtJMyvBm
本家筋で今川義元の子孫>吉良義央
しかしなぜか浅野内匠頭や義士たちは
今川義元の供養のために建てられた泉岳寺に埋葬されている

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:46:13.96 ID:mQIJTpyV
権現様も結構いい人なんだな、
桜田門の目と鼻の先に義元公の供養の寺を立てるなんて・・。
三河物語なんかではボロクソだが案外、竹千代&岡崎衆は優遇されていたのじゃまいか?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:10:07.79 ID:iT1uOT/c
>>369
人間は幼少の頃に嫌な思い出があった地には近づきたがらないんだってさ
駿府は家康の自由意志で終の棲家に選んだくらいだから、
苦労はしてても辛い思いはしてなかったんじゃないかな

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:23:23.81 ID:7RO21V+k
>>369
時代的には彦左が物心つく前の話だし、三河物語のあの辺は一次史料とも
食い違ってる事が多いから、創作程度におもっといた方が良いのかも

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:49:21.77 ID:3mSfHB9G
そもそも面倒くさい人だから事実を知っていたとしてもそれを素直に解釈している保証は無い

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:56:38.87 ID:TC7QpK/b
まあ史実と言うよりも、当時未だ名誉回復がなされていなかった大久保家の正当性を訴えるのが目的の著作だからなあ>三河物語

徳川家康の語る、今川家のこと

2012年12月18日 19:59

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 06:45:34.06 ID:7grfk2Zi
徳川家康がある時語ったことである

「今川義元は、臨済寺の雪斎和尚(太原雪斎)と相談して領内の統治などを行なっていた。
この頃は本当に国もよく治まっていた。

しかし雪斎は累代の家老というわけではなかったので、彼が遷化されたあとは、その政治を受け継ぐものが無く、
それ以前の状況に戻ってしまった。

それでも義元が生きているうちは、今川家の武備が衰えることはなかったが、義元が討死にした後は
諸人に今川家に対する疑念が起こり、また氏真の代になってからは風流婆娑羅のみにて日を送り、
終に家国を失ってしまった。

諸人に疑念を持たせた、というのは、主将の依怙から起こったものだった。」

(武野燭談)

家康の語る、今川家のこと、である





807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 08:15:20.17 ID:YZoRbVHX
>>806
攻め込んだ当人が語ってるから悪い話なのかな?

血気の勇であった

2012年11月11日 18:59

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 13:33:40.62 ID:bj8WhPIj
桶狭間の戦いの折、遠州二股の城主・松井五郎八郎
義元の討死によって呆然として落ちて行ったところで井伊信濃守と出くわした。

「信濃殿、大将は討死された。本陣は崩れてしまったから見届けずともよい」

松井が声をかけると井伊はにっこりと笑って…

「兄の肥後守の申し付けで本陣へ見廻りに参るところでした。
味方が崩れたからとこのまま立ち帰るのはそれがしの本意ではありません。
兄に敗軍を見物して帰りましたとは申し難いのです」

「そうか…そうだな、いざ共に参ろうか」

松井は井伊の言葉に励まされて取って返し、両人とも討死した。

井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
これは五郎八郎の不孝である。

初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

――『良将言行録』




302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 13:48:46.76 ID:/GWsp2jW
政宗「いろは郎とは変わった名だな」
井伊直盛「娘に男子名をつけるな」

ところで桶狭間で死んだのって、井伊家当主の信濃守直盛じゃなかったっけ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 15:49:09.12 ID:Z+QhB4y6
井伊肥後守は井伊信濃守直盛の兄ではなく
娘である直虎の婚約者の井伊直親だよね?

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 16:23:37.77 ID:kV/M+FxC
>>301
葉隠マンが聞いたらよくやったと褒めてくれるよ

花倉の警告

2012年10月10日 20:12

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 21:56:34.95 ID:sRAIjwt0
今川義元が三河表に発向するという時の事、不思議な夢を見たことがあった。
夢のなかに花倉(花倉の乱で義元と家督を争った玄広恵探)が現れ、義元に対し

『今度の出陣は止めるべきだ』

と云った。
義元はこれに

『貴様は私への敵愾心からそんな事を言うのだろう!そんな話を聞くことは出来ない!』

そう答えたが、花倉は更に云う

『今川の家が滅びるということを、どうして憂わざるか!』

そこで目が覚めた。

その後、駿河の藤枝を通った時、義元は突然刀に手をかけた

「町中に花倉が立っている!」

しかし周りの者達には何も見えなかった。
不思議な事である。

(当代記)





今川義元は子息氏真に書を贈り諌めて曰く

2012年10月01日 20:29

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 18:53:40.26 ID:gR1Zw0A2

今川義元は子息氏真に書を贈り諌めて曰く、

「お前はすでに成長したというのに未だに童心を失わず、
鶏を闘わせたり狗を走らせるばかりで、第一になすべき文武を疎かにしている。
今これを改めなければ、必ずや国は覆り、家を滅ぼすことになるぞ」

しかし、氏真は父の言葉を意に介さず、ついには滅亡するに至った。

――『名将言行録』




661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:00:23.42 ID:kzckAfJY
氏真も一応やる事はやってるんだけどね。敵が強すぎただけで。

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:23:02.65 ID:+FJ8prk4
たぬきにお屋形様に北条か・・・ノブヤボなら引っ越し考えるな

地元に残る、関口氏広のお話

2012年02月25日 21:52

67 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/24(金) 21:45:25.19 ID:zjFqp70B
地元に残る、今川家の忠臣で有名な関口氏広のお話。

義元を追い自殺されたという氏広。しかし武蔵国に落ち延びたという伝説が残っている。
義元亡き後の今川家に見切りを付け、出奔した氏広。彼は武蔵国杉戸を永住の地と定め名主となった。
現在も杉戸町には関口氏広の子孫が暮らしている。




68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 02:17:32.07 ID:MF0kr2pE
>>67
関口ひろしって見えて二度見した