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見てすみがたき露の下帯

2019年05月30日 15:27

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 14:44:28.01 ID:nwVL6DOv
戦場での物見の者は、途中敵に逢ったとしても討ち取らないのが軍法である。であるが今川義元の士(名忘)、
物見に行き敵に出会って戦い、頸を取った。然れども軍法に背いた故に、還って一首の歌を首に添えて出した

 刈かやの 身にしむ色はなけれども 見てすみがたき露の下帯

義元はこれを見て、違法の罪を赦したという。

(甲子夜話)



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乱世忠臣を知る

2018年12月01日 16:52

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 02:17:48.70 ID:bbVzbbEl
(今川氏真の駿府退去後)

駿府の西にある花沢城には小原肥前守鎮実、遠江掛川城に朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)、藤枝の城(徳之
一色城)には長谷川次郎右衛門(正長)一族21人がいた。これらは流石で数代の深恩を思って、金鉄の心を
現したが、小原は使者を立てて掛川城に申し送ったことには、

「“乱世忠臣を知る”という古語を今眼前に覚えている。今川家が数代恩を与え恵みをかけて、将士を養った
甲斐もなく、譜代老臣どもはその恩を忘れて義に背き、この大切に臨んで敵に内通降参し、主君を追い出して

国郡を奪わんとしている。人面獣心論ずるに足らず。鎮実は義を守り節を変ぜず、信玄に錆矢一筋を射掛けて
君恩に報ぜんとの志である」と申した。朝比奈はこれを聞いて「申し越されたことは節義の御志、返す返すも

感じ入っております。しかしながら只今味方は尽く離散し、この小勢をもって武田の大軍と決戦して討死する
ことは、義は潔しとしても謀拙きにあらずとも言えまい。氏真は未だ存命であるのに妄りに一身の名を惜しみ

討死するのは無益のようなもの。幸い掛川城は要害堅固で、兵糧玉薬も乏しくはない。泰能の所存は、氏真を
当城に迎え取って厳重に守護すれば、敵が幾万の兵で日夜激しく攻めたとしても、容易に落城はすまい。

その内には小田原の北条氏康父子もよもや捨て置かれはしないだろう。きっと後詰をもなさるはずだ。その時
は氏真も回復の運を開くであろうと存ずる。“死は易く生は難し”と申しますから、一旦の恥辱を忍び会稽の

恥をそそいでこそ、勇士の誉れと申すべきである。必ず短慮があってはならない」と、心中を残さず返答した。
泰能はその後、砥城の山家へ使者を立てて氏真を迎え取り、掛川城中の軍勢7千余人は各々が鉄石の如く志を
一致して約束し、節義を守って氏真を守護した。泰能こそ類少なき義士と見えたのである。

――『改正三河後風土記』


叛臣たちの末路

2018年11月30日 20:02

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/30(金) 16:35:16.50 ID:Ny+xzMJX
さてまた今川家譜代恩顧の老臣どもは利禄のために誘われ、大節に臨んでその志を奪われた輩多き中でも、
葛山備中守(氏元)は「かねてからの内約通り、駿河を下し賜われたい」と願い出た。

ところが信玄は頭を振り「汝は如何なる忠節があって左様な願いを申し出すぞ。数代恩義を蒙った主君を
捨てて叛逆したことを大功と思っているのか。君恩を知らざる禽獣に駿河を取らせるくらいなら、

甥の氏真へ返し渡す!」と、大いに嘲笑って罵った。葛山は大いに怨み悔いてもどうしようもなく、年を
経て後に北条氏康へ内通し、氏康の手引きをして信玄を滅ぼし怨みを報じようと計略を巡らせた。しかし、
その事は露見して生け捕られ、信濃諏訪で磔に掛けられたのである。

瀬名陸奥守(氏俊)は程なく不療の病を受けて病死し、その子・中務大輔(信輝)は信玄の心に違えて
甲斐を追い出され小田原へ逃げて行くが、氏康もその不忠を憎んで扶助せず、ついに民間に落ち入った。

朝比奈兵衛太夫(信置)はしばらくの間駿河にいたが、武田勝頼滅亡の後に徳川家の誅を蒙ったのである。
その他大身小身ともに信玄へ内通した者を信玄は称美せず、あるいは誅せられ、あるいは飢死し、あるい
は民間に流浪した。不忠無道の天誅逃れざるこそ恐ろしけれ。

――『改正三河後風土記』



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 20:05:06.68 ID:Xogi4/3p
>>486
信玄を信じてはいかんということか

武田軍、駿河侵攻

2018年11月29日 21:02

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 20:16:21.24 ID:/TtpzPNN
今川諸将が氏真を見限り朝比奈兵衛太夫も逐電する内に、武田先陣の山県三郎兵衛昌景・馬場美濃守氏勝(信房)・
小山田右兵衛尉信茂・小幡上総介信実(信貞)・真田源太左衛門信綱・同兵部少輔達連(昌輝)・内藤修理亮昌豊ら

3千5百余騎は江尻を越えて宇和原まで寄せ来たる。駿河の町人・百姓どもは「これは何事なるや!」と上から下へ
と騒動して資材雑具を東西へ持ち運び、あるいは幼き子を背負い老いた父母の手を引き南北へ逃げ迷う。城中の女童
も慌て騒ぐこと限りなし。武士も妻子を持て余して逃げ支度ばかりし、合戦を心掛ける者はなし。

大将の氏真も近習どもが騒ぐのを見て呆れ果てるばかりである。そんなところへ三浦右衛門佐(義鎮)が慌ただしく
馳せ来たり、手の舞い足の踏むところも覚えず、顔色は土の如くになって申すことには、「主君は未だ世の有様をも

御存知ないまま、そのように御過ごしなのですか! 21人の逆臣どもは皆々信玄に降参し、主君に向けて弓を引き、
矛を逆様にして攻めようとしています! これを防ぐ味方はおりません! 退くべきところは退き、進むべき時は進み、
進退節に応じますのを良将の振舞いとします! そのように座しながら敵の虜となり給うのは口惜しいことではあり

ませんか! 急ぎこの城を立ち出て砥城の山家へ身を潜めて計略を巡らし、重ねて快復の功を顕してください!」と
例の利口巧言をもって知恵有顔で申せば、何事も三浦の申すところに背かぬ氏真はこれをもっともと得心し、近習
わずかに50余騎を召し連れて、代々住み慣れた駿府を立ち出て、砥城の山家へ落ちて行ったのである。

城中の女童は皆歩行素足で走り出たが、道も分からずにかれこれさまよっているのを、情けも知らぬ下部(身分の
低い者)どもがここかしこに追い詰めて、打ち倒し押し伏せ衣服を剥ぎ取り、物を持っていれば奪い取って赤裸に
した。喚き叫んで泣き悲しめば、そのまま息絶える者もおり、目も当てられぬ有様であった。

――『改正三河後風土記』


氏真はこの事を夢にも知らず

2018年11月28日 18:53

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 21:54:05.37 ID:x04VAUwX
薩た峠の戦いにて殆どの今川諸将は今川氏真を見限り駿府へ逃げ入り、その後の軍議で存慮を口にしなかった。
その中でも今川随一と人に知られた朝比奈兵衛太夫(信置)は軍議の席へ出座もせず、料理の間の長炉に背中

を向けて居眠りしていた。岡部忠兵衛(土屋貞綱)と小倉内蔵助(資久)らは、この様子を見て不思議に思い、
「兵衛太夫には逆心があるかと見及びます」と、氏真へ告げた。「それには何ぞ証拠ありや」と、氏真が尋ね
られると両人は答えて「兵衛太夫は無双の剛士。数度の名誉を人に知られた身が、今回は武田の旗色も見ずに

一番に逃げ帰ったこと、これ一つ。次に武田の軍勢はすでに当国へ乱入し、事の急に臨み軍議の席にも出ない
こと、これ第二なり。またこの騒動の最中に、当家随一の老臣が具足も身に着けず炉を囲んで座眠りしている
こと。この3ヶ条をもって、不審がないとは言えません。みるからに21人の侍大将は尽く信玄に内通したと

見えて合戦を気遣う様子もなく、敵を恐れる様子をも見えません。兵衛太夫1人を誅戮すれば、残る輩はこれ
を見て懲りるのではないでしょうか」と述べれば氏真ももっともだと得心し、日根野備中守(弘就)ならびに

内蔵助の嫡子・小倉与助両人に命じて、「兵衛太夫にいよいよ逆意の形勢あれば、速やかに討ち果たすべし。
もしもそうでなければ、軽卒な騒擾を起こしてはならない」と指示を加えた。両人は畏まりやがて料理の間に
来ると座睡している朝比奈の側へ立ち寄ったが、朝比奈はまったく用心する様子も見えず。日根野は小倉を

差し招き、「朝比奈に逆位があれば我ら両人の形勢を見て少しは用心するはず。しかし、さらさらその様子も
ない。この上は朝比奈は逆心にあらざるか」と言う。小倉は聞いて「私もそう存ずるので軽卒な振舞いをして
はならない」と相談し、氏真へその有様を告げた。その間に兵衛太夫は密かに座を立って宿所へ帰り、

弟の金七郎に向かい「私は今日、ようやく虎口を逃れて帰ったのだ。その故は日根野備中守と小倉与助は両人
で我が身の側に立ち寄り、しばらく佇み立っていた。その様子は事ありげに見えたので、必ず主君の命を蒙り
秀盛(信置)の形勢を窺い見て、もし私に怪しい体でもあれば、討ち果たそうとする様子だった。

秀盛はこれを推察して、もしもこちらで用心の体をすれば身の災難は逃れられないと心付き、わざと知らぬ体
で座眠りしていた。それを見て両人は不審の顔色で立ち去ったのだ。今や陰謀の露見は程近い。そうなったら

甚だ危うい。私は速やかにここを立ち退く。其の方は私めの人質を盗み出してどこかへ落ち行かせよ」と申し
含めて、兵衛太夫はその夜に逐電した。氏真はこの事を夢にも知らず、重ねての軍議をするとして宿老どもを
召し集めると、秀盛はすでに逐電したと聞こえて氏真は呆れ果て、とかくの沙汰にも及ばなかった。けれども

21人の宿老どもは各々が敵への内通露見を恐れて、皆が武田に従った。秀盛の弟・金七郎は兄の人質を盗み
出して逃げたものの、これを聞いた氏真が大いに怒って手分けして追い掛けさせれば、金七郎は取り逃したが
人質は取り返して来た。このため氏真は諸人を懲らしめるためとして、かの人質の首を刎ねたのであった。

――『改正三河後風土記』


今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた

2018年08月25日 18:17

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 13:27:40.22 ID:jvrexpct
今川上総介氏真が小田原を逃げ出て浜松に来たると、神君(徳川家康)は旧好を
思し召して懇意に御扶助なさったが、氏真は、

「近頃の都には歌や連歌、蹴鞠の朋友も多いし、退屈の慰みにもなるだろうか」

と京洛の方に徘徊し、今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた。

神君はなおも旧好を捨てなさらず、氏真は今は雲水に任せて浪々としているのを
このように懇意にもてなしなさり、天正7年(1579)10月9日、

浜松城へ氏真を御招きになり、善美を尽くして饗応なされた。御仁心ありがたき
ことなりと、氏真は申すまでもなく見聞きする者で感嘆しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(基業編年大成記)』



清見寺の膏薬

2018年07月07日 17:01

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/06(金) 21:44:23.21 ID:XoIoRDXe
清見寺の膏薬は、今川氏真の家臣が、駿河滅亡の後に剃髪して清見に庵を結んだのだが、
この者は膏薬を調合し、往来の人、在々の者に施して、その対価として銭、又は五穀を貰うことで
飢えをしのぎ身命を繋いでいた。

彼は里の童たちを誘い、薬草を集めると子供に頼って松脂を取り調合の手伝いをさせた。
このため、調合の方法まで子供たちは見習い、自分たちで調合し売り広めるように成った。
この由緒を以て、今でも清見の膏薬は子供の商売となっている。

この膏薬を作り始めた庵主は弟子に跡を譲り、この商売は次第に繁盛して、かつての庵は、今は
寺と成っている。

(渡邊幸庵對書)

こんな今川の遺臣のお話が



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/06(金) 21:52:27.29 ID:1GYT3Z0c
今川旧臣による一大産業の創出。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 00:53:45.30 ID:9OdgJgq+
清見寺かよく前を通るけどなそんなの知らんかった

戸部の蛙

2018年05月05日 18:01

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 14:26:37.41 ID:f58LFITG
戸部新左衛門「なぜか人を斬りまくったとか、蛙だけは斬れなかったとか変な伝説が残ってしまった」
花房すけべえ「泳いでこないでいいです、ちゃんと米あげますから」


714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 18:08:17.69 ID:SD8FkVKO
>>703
の戸部新左衛門と蛙の話
https://i.imgur.com/fPPL0Pq.jpg
fPPL0Pq.jpg

戸部の蛙
愛知県名古屋市産の土製手捻りの蛙。
二、三〇種あって二匹組み合わせ物や、蛙の相撲などが優れている。
その昔、市外に戸部城のあったころ、凶暴な城主(注:戸部新左衛門政直)がいて、
隣接の山崎から入ってくる旅人などが、その行列を横切ると差別なく切り捨てたので、
それを揶揄して「山崎越えたら飛べ飛べ(戸部)」と、この辺一帯に多く棲息していた蛙にかけて洒落たのが由来という。
斎藤良輔「日本人形玩具辞典」より
https://i.imgur.com/HozJxBh.jpg
HozJxBh.jpg

このくだらない駄洒落も元ネタがあったのだ



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 11:38:59.92 ID:JYFcNoJe
>>714
作者の友達が戸部新左衛門の子孫で祖先の話を聞いてキャラにしたとか
良い話なのか悪い話なのか・・・

「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は

2017年12月31日 19:16

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/30(土) 22:38:38.22 ID:aGIvmbNZ
今川義元が、桶狭間で討死した時のことでした。
義元の臣松井五郎八郎(宗信)は、あまりのことに茫然として落ちのびてゆく途中、井伊信濃守(直盛)に遭いました。
「いずこに行かれる。」
と、松井宗信は声をかけました。
「本陣にまいり申す。」
「御無用でござろう。大将は討死でござるぞ。本陣もすでに総崩れでござる。拙者たしかに見届けてまいり申した。」
松井宗信の悲痛な声を井伊直盛は、にっこりうけて、
「お言葉ではござるが、拙者は兄肥後守(直親?)の命をうけて、本陣に見廻りに参るものでござる。味方総崩れと聞いて、このまま立ち帰っては、
兄にもうしわけござりませぬ。敗軍を見物して逃げ戻ったなどと言わるるも本意でござらぬ。」
こういいながら進むのでした。
「お待ちくだされ。」
松井宗信井伊直盛に追いすがりました。
「お言葉御もっともでござる。思えば拙者ここまで落ちのび申したが、武士として潔からぬことと思いつき申した。
この上は、ご一緒に引き返して、武士らしく、最後の一戦いたしとうござる。」
「拙者と同道なされるか。」
二人は、馬をならべて、本陣の方へ駆け出しました。蹄の音が、野面にかつかつと響きわたりました。
しかし、二人の健気な振る舞いも、大勢を覆すなんの役にも立ちません。
渦巻く硝煙のなかに、別れ別れになった二人はやがて後に、叢を染めた二つの死骸となっていたのでありました。
死場所を得ることは、武士の最後を飾るものであり、これあってこそ武士道が確立されるのであります。
「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は、こうしていついかなるときもまもられるのであります。

『明良洪範』(良将言行録)



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 02:30:08.57 ID:NdEwIQCr
葉隠の作者が言ってるのとはやや意味が違っている気がする>「武士道とは死ぬことなり」

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:29:45.16 ID:R8OCKHGT
明良洪範は元禄の頃(1688ー1704年)に書かれたもので、
葉隠は1716年頃のもので当時は一般的には受け入れられなかったからね

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:35:34.95 ID:mOqI3VfN
まとめの7007
「血気の勇であった」
だと、良将言行録では上の話の紹介の後

>井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
>しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
>終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
>これは五郎八郎の不孝である。
>
>初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
>でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

って書いてるな

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:37:29.20 ID:mOqI3VfN
てよく見たらまとめと同じ良将言行録だった
活字化されたのが明良洪範だったのか

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 07:26:46.90 ID:e/F9/q5y
誰のエピソードだったか思い出せなくて、知ってる人居ないかな

単身で伝令役として敵の城に行った際、
逃げずに役目をちゃんと果たした事を証明出来るように、
鎧?を置いてったっていうエピソードなんだけど

556 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/01(月) 11:10:31.94 ID:d70Ojd9I
>>554
明良洪範と続編を再編集したのが良将言行録だったかな
要は異本だね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 22:31:44.45 ID:RsVfPdse
「良将言行録」は、真田増誉の著述にかかる。
慶長元和に始まり、徳川五代将軍綱吉の頃に至る、名将及び武士の言行事跡が挙げられている、
十巻にまとめてあるが、同じ著者の「明良洪範」四十巻中の抄出といわれる。

今川家崩壊

2017年03月30日 18:03

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 03:58:40.21 ID:4eoO7xGb
12月(永禄11年)、武田信玄は駿河に出張し、当国の主・氏真の近親(瀬名信輝)や葛山(氏元)、
ならびに朝比奈右兵衛大夫(信置)が信玄に属した。氏真は一戦及ばず、遠江掛川へ退きなさった。

掛川城主・朝比奈備中守(泰朝)は氏真の臣下で遠江国の郡代であり、氏真を本城に引き入れて
籠城した。翌年春まで上下の人数に酒肴以下までも怠りなくもてなし、奇特であると言われたという。

その後、小田原に氏真が退きなさった時に連れ立った。氏康・氏政が言ったことには、「臣下として
主人の氏真を相抱えて籠城したこと、人臣の名誉である」との由で、懇志に致しなさったという。

遠江へも信玄より秋山伯耆守(虎繁)に伊那郡(信濃国)の人数を相添え遠江へ出軍させた。すると
山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏)は信玄に属し、秋山に伴って遠江に出張したのであった。

引間の人数は三方ヶ原へ出て合戦し、三河の山家三方衆と合戦に及んで引間衆は敗北し、数多討ち
取られた。そうして引間衆は懇望して秋山に一味し、氏真は掛川へ籠城しなさった。その勢3千余。

家康はこの冬、遠江へ出張しなさった。同月、三浦右衛門大夫という人は氏真の取り分けての寵人
であったのだが、掛川へ籠ろうとしたところ、日頃から城主の朝比奈備中守と間柄が悪かったため、
城へ入らず馬伏塚を頼って行った。

ところが、かの地の主・小笠原美作守(氏興)は日頃の契盟を違えて右衛門大夫の首を切り家康公
へ献上した。翌年の春、小笠原は病死した。時の人口はもっぱらこれを憎んだ。

さてまた、駿府の氏真の居城には岡部次郎右衛門(正綱)が相籠ったので、残党はこれに従った。

――『当代記』



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 12:44:17.38 ID:Q4RK4yIB
朝比奈泰朝は小田原で死んだのかな

まず尾張を攻め平らげて攻め上らん

2017年03月05日 18:31

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:53:36.53 ID:yOjylQgb
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

――『織田軍記(総見記)』



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 05:13:29.81 ID:q0qI5IAz
長門が死んでるw

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:11:26.90 ID:xAM+rR9g
ザルすぎる防衛網

“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”

2017年03月02日 18:56

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:45:07.35 ID:Erhdus88
心省よりこの方、(今川家は)代々公方家の族臣として、武功の将種であるが故に世々
公方の御懇志を受け、戦国の最中にも世を奪われず威勢は甚だ盛んなので、

武恩に誇るのみならず、弓馬の道は言うに及ばず、和歌、連歌、蹴鞠、茶湯の事までも
この家には名人が多く、その家風は他より優れて、代々器量の臣下は少なくない。古き
高家であればこそである。

それ故、世俗の諺にも、“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”と言われて
いるのである。もっとも、さもあらんことではなかろうか。

心省入道より七代の後胤・今川五郎氏親、後には上総介と号す。氏親は先祖に劣らぬ
名将であって、戦国の時代に巡り逢い、駿河・遠江2ヵ国を領知して、

三河国をも大半は切り従え、あまつさえ戦国の世の一統を志し、公方家を再興せんが
ために、上洛の望みを持っていた。尾張の守護代・織田一党は主君・武衛(斯波義達。
左兵衛佐)の命を受けて今川に敵対し、三河を争い、合戦に年月を送るところで、

氏親はいつしか病死した。増善寺というのがこれである。その子・氏輝は早世した。
臨済寺がこれである。氏輝は実子がいなかったので、その弟の禅僧で、善徳寺に
いたのを還俗させて家督を継がせ、これを今川治部大輔義元と号す。

義元はよく父の志を継ぎ、よく父のことを述べ、文武に達した名将なので、なんとしても
三河・尾張の両国を切り従え、上洛せんと心掛けていたところ、三河岡崎の城主・松平
三郎清康は、幸い今川の味方となって尾張へ向かって敵対し、たびたび合戦に及ぶ
ことがあった。

ついに天文4年乙未12月、清康は大軍を率いなさり、織田筑前守が籠る尾張森山の
城を攻めなさった時、清康はにわかに卒去なされたので、たちまち三河の諸勢は森山
を退陣して、分国へ引き返した。その折、尾張の将・織田備後守信秀は、

筑前守の急を救い、かつまた、先君・武衛を助けて三河を治めようと自身で8千の人数
を率い、三河伊田の郷まで相働き一戦を遂げ、青山、植村、林、高力父子を討ち取った。

――『織田軍記(総見記)』



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:59:26.81 ID:Q1IiyxCV
当時の織田家に8000も動員できたんか

今川義元。足みじかく。胴ながく

2017年02月27日 18:29

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:47:37.65 ID:izwNANYm
今川義元は足が短く、胴は長く、片端であるとして臨済寺の喝食に致し
置かれたけれども、大将の器量ありとして取り立てられたという。

今川義元。足みじかく。胴ながく片輪なりとて。臨濟寺の喝食にいたし
置かれたれども。大將の器量ありとて。取立られし由。)

――『武功雑記』



618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:53:26.09 ID:j+Q6XpeV
胴長短足のほうが馬上では見栄えが良かったんじゃなかったっけ

たぶん輿に乗っててもカッコついたんだろう

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:29:21.37 ID:lnr7vVWg
義元公が輿に乗っていたのは足が短いからじゃない
駿河遠江三河の太守としての格式から乗っていただけ
肥満で馬に乗れなかったのは肥前のクマもん

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:18:04.90 ID:qZOgaZXR
雷神さん「輿に乗って戦場往来とか名将ぽくね?」

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:29:28.79 ID:lnr7vVWg
輿に乗って采配をふるい戦場を縦横無尽に駆け巡るとか実際に見てみたいわ
男塾の民明書房に騎馬戦の起源であるとか書かれてそうw

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 03:06:00.05 ID:1AOZFTBW
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 04:41:45.64 ID:cCpF6CPC
>>620
瘡頭「ですよねー」

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 07:32:58.92 ID:JdNMgBd3
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?

高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

2017年01月15日 16:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:18:30.66 ID:NkP02+Hg
高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

 十月二十四日は高家今川氏の先祖祝いとして、今川の親戚が寄り合う祝儀がある。
予も招かれて会いに行った。
(注:当時の今川家の当主義用の嫡男・義順の正室は甲子夜話の作者の松浦静山の娘の機)

 その祝儀でとある話をした。
松浦静山「その先祖とは義元君ですか?」、
今川関係者「いやそうではありません。中頃の祖の某〔その名は忘れた〕です。」

 以下にその中興の祖の話として聞いたことを記す。
その祖は刑部大輔と称していたとか。
日光山の神号が初めは東照社と宣下あったので、
すぐに御使を奉じて上京し、朝廷と争議して遂に宮号を申し下したことがあった。
これに付き添いの林春斎〔林氏二代〕と一緒に遣わされていったという。
典故を引いた廷議は彼にとってはなはだ難しいことであったとか。
その勲賞として三河数ヶ所の地を賜り、春斎も禄が加えられたという。
これからこの人を今も中興の祖として祝うこととなった。
いずれにしても、今川衰微の時に労が有った祖先なので、
このように親族を招くのも理である。

 また今の表高家の中に品川氏がある。
〔この家は、元禄の頃は歴々たる高家であり、豊前守四位侍従であった。〕
かの日にも予は彼らと面会した。
この家は元々今川氏次男の家であった。
今川の祖は上の逸話のように寵遇があり、芝品川御殿山の地一円はかの屋敷であった。
その頃に品川氏の先祖がかの屋敷で出生したので上意で品川と称したのだとか。
ならば本氏は全くもって今川である。
よって家紋は、円の内に今川の家紋五七の花桐をつく。これも上意によるとか。
品川氏は先日も、この紋の小袖に肩衣は今川氏の紋である円に二引両をつけていた。


(甲子夜話続編)

これ、氏真の話ですよね。
中興の祖として子孫から敬われていたのですね。
しかし、ものすごく博学なのに氏真の名をしらない静山さん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:41:07.06 ID:NkP02+Hg
と、思ったら>>458でちゃんと名前を知っているね。ごめんなさい。



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 03:23:47.53 ID:k/jsDdax
武将としては下の下だからな。偉大な義元の名を出すのが礼儀。

今川氏領地の事

2016年12月24日 09:54

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 05:42:05.24 ID:bDvjbosn
今川氏領地の事

 今川太郎〔刑部大輔の子、名を義順〕が来られたとき、彼の領地はどこかと尋ねてみた。
「王子村の近所です。」
「おお、それは近いですね。」
「この他にも近江に五百石の領地があります。」

『ではその地をなぜ所領しているのだろうか』と不審が晴れていなかったところ、
先年彼が古い書付を捜してくれて、その一通を見ることができた。

 その書付によると、義元が次男を若王寺という方へ遣わしていたが、
義元の家が衰微した後にかの若王寺の方から見かねてかの祖先の方に帰し与えた地が
近江の地の理由であるという。

 この事は彼の旧記で分かっていたので、
今では江州の采地から少しばかりの物をかの若王寺の末へ分け与え、
余りを今川氏に収めたという。
太郎の先祖は義元で、氏真の嫡流である。

(甲子夜話続編)



氏真の蹴鞠

2016年07月31日 19:30

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:14:33.69 ID:dTisZ1jN
天正三年2月下旬、織田信長は岐阜を立ち、3月2日に上洛して、相国寺に滞在した。
同月16日、今川氏真が駿河より上洛して信長のもとに出仕し、千鳥の香炉、宗祇香炉などを進上した。

その後信長は、氏真が蹴鞠の上手であると聞き、蹴鞠の興行を行ってそれを見物した。
氏真に対し、三条大納言父子、烏丸殿、藤の宰相殿、飛鳥井殿父子、広橋殿、五辻殿、庭田殿といった
蹴鞠において名のある錚々たる人々が入れ替わり立ち変わり挑戦したが、氏真の足さばきは、
どこで区切りがあるのかすらわからないものであった。

(甫庵信長記)

今川氏真、信長の前で想像を絶する蹴鞠の実力を見せつけたらしい、というお話。



22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:21:00.54 ID:Jt9IzM1X
この話読むたび、親の仇の前でよくやるなと思うが

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 20:57:28.09 ID:yzm9L0zP
>>21 甫庵信長記ということは、信長公記にも原文の記載があるはず。ぐぐってみた。

3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。
それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆(香炉または何らかの宝物)
を持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも
千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は
千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。
かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか
氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・
庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

甫庵やっぱり加筆してやがる。

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/01(月) 11:05:42.86 ID:as7OLeEf
>>23の中で、「会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き」とあるので、
氏真が自分から蹴鞠のことを宣伝したようだ。
だから、親の仇の前でやらされたのではなく、親の仇の前でパフォーマンスか
「戦では負けたが、信長よ、これがお前にできるか?。できまいて。本当は俺の勝ちだ」
ってか。

今川の物見、首取て歌よむ事

2016年07月03日 13:06

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 08:07:23.18 ID:mN7HvAUH
今川の物見、首取て歌よむ事

戦場見物の者は、途中に敵に逢っても打ち取らないのが軍法である。

だが今川義元の士〔名は忘れた〕が物見に行き、

敵に出会って戦い首を取った。

しかし軍令に背いたので、帰って一首の歌を首に添えて出した。

刈かやの 身にしむ色は なけれども 見てすみがたき 露の下帯

義元はこれを見て、違法の罪を許したという。

(甲子夜話)

しかし物見は首級を挙げてはならないという決まりなんてあったんですかね

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1184.html

この逸話では、普通に褒められていますけどね



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 11:08:13.53 ID:uDm6PxsQ
>>901
物見は偵察役だろ。

偵察役が戦闘に加入して必要な敵の情報を持ち帰れないのは
本末転倒だからな。

威力偵察ならば戦闘も有りだが、その場合は部隊編成が変わるだろ。

今川氏真の楽市令

2016年05月13日 18:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 14:31:29.91 ID:c/w+KYiQ
今川氏真の楽市令
「富士大宮で毎月6度開かれている六斎市において、
既得権益層(座)の押し買いや狼藉等の問題行動が横行し
市の運営に差し障りがあるとの申し出があったので、
今後は諸役を停止して楽市(誰でも商売しやすく)とすることを申し付ける。
また、近くの神田橋の通行料も停止させて、商人の通行もしやすくする。
もし違反する者がいたら訴え出なさい。」富士文書他

永禄九年に今川氏真が富士信忠(富士山本宮浅間大社の富士大宮司)宛に出した
この楽市令は、織田信長よりおよそ一年早く、信長も参考にしたと言われている。
さらに早く六角定頼が楽市を布いたという話もあるけれど、
ともかく今川氏真は義元ゆずりの名政治家だったのかもしれない。



619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 15:25:50.57 ID:kt7LzU2e
並以上の器量だったとしても、家康と信玄が同時に攻めて来たらな・・・
まあ、相手が悪かったよな氏真は

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 16:46:25.06 ID:oqTRUCOe
家を潰した、領地を失った=無能
という評価方法もそろそろ見直される頃合いかもしれんね

匂坂吉政の「思い切りのいい」お話

2016年03月25日 18:25

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 16:34:22.16 ID:3HFhF8Id
桶狭間の敗戦により、今川氏は急速に衰えを見せ始め、いわゆる「三州錯乱」、
続いて「遠州惣劇」といった事態に陥る。当主氏真は必死に挽回をはかるが、
状況は悪化するばかりであった。

遠江匂坂城主匂坂長能は今川氏輝時代からの信任厚い武将であり、井伊・飯尾・
堀越・天野といった諸将が叛乱を起こす中、最後まで氏真のために働いていた。その
長能が永禄9年(1566年)に亡くなると、三男の六郎五郎吉政が後継者となる。

永禄11年(1568年)12月、遂に武田信玄による駿河侵攻が始まり、秋山虎繁の
率いる別働隊は伊奈を経て二俣に到達した。遠江の諸侍はこぞって参集し、帳面に
己の氏名を記入した。今川氏に忠義を立ててきた吉政も、ここが潮時と二俣に赴き
帳面に「匂坂ノ惣領ナリ」と書き記した。なお、二人の兄、政信・政通は混乱の中、
掛川城に篭城していたようである。

ところが、吉政が退出した後、兄政信の息子十左衛門政祐もまた秋山のもとにやって来た。
不審に思った吉政がこれを窺っていると…
政祐「匂坂の嫡流は某にございます。このことは遠江の者なら誰でも存じております!」
秋山「吉政が惣領ということで、本人もそう記しておったが…まあ信玄公にお執り成しする
    ことにしましょう」
これを知った吉政は城門のあたりで待ちうけ、色よい返事に上機嫌の政祐をたたき斬った!
その足で掛川城まで駆け行くとと、二人の兄を指差し「先に徳川につくからなあーッ!」と
叫びそのまま家康のもとへと遁走した。状況を包み隠さず家康に述べると、家康も喜んで
12月22日付で本領安堵の感状を出している。


匂坂吉政の「思い切りのいい」お話。

この後、姉川で三兄弟で真柄十郎左衛門と死闘を演ずるのですが、お兄ちゃんの政信、
心が広かったんだねえ…

なお、お兄ちゃんの度量はその孫には受け継がれず、政祐の遺児は吉政暗殺を企てる。
不穏を察知した家康は用心のため出仕を控えるよう吉政に命じたが、吉政は意に介さず
出仕を続けたため、結局鉄砲にて暗殺されたようです。



鵜殿坂

2015年07月02日 15:39

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 11:45:07.80 ID:G9NiJJ1v
鵜殿坂

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が斃れると松平元康、後の徳川家康は独立を果たすべく
西三河の親今川勢力の攻撃を開始する。まず、三河西南部の幡豆郡を攻撃、調略・合戦と様々な手段を
使い、永禄4年(1561年)の間に西尾城に籠もる今川の駐屯軍、東条城の吉良義昭の駆逐に成功した。

次の目標は宝飯郡西部、現在の蒲郡市を勢力下におく鵜殿氏である。鵜殿氏は上ノ郷城の宗家を中心に
下ノ郷・不相・柏原といった分家が蒲郡市内に城を構え支配を行っていた。宗家の当主は桶狭間の戦いの折、
大高城でクッキング城代http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1370.htmlとしてちょっと
いいところ見せた鵜殿長照、今川義元の妹の子である。親父の鵜殿長持がまだ生きていたという説もあるが、
まあ置いておく。

永禄5年(1562年)、本格的な攻撃が開始される。長照は吉良義昭らがまだ健在な頃より連絡を取り合って
対応を練っていたが、味方になるはずの分家の面々が残らず敵方に奔ってしまった。求心力無いぞ長照!
もともと蒲郡は鵜殿・松平勢力が混在する地であり、今川義元健在の頃、同じ陣営ということもあり、双方で
縁組をすることも多かったから血縁をたどって調略されやすい面もあったし、なによりも幡豆郡の今川方敗退の
影響が大きかったのだろう。上ノ郷城は敵方に取り囲まれてしまった。

だが、さすがはクッキング城代、城兵を叱咤し敵に付け入る隙を見せない。松平方は一旦攻撃を諦め出直す
ことにした。二度目の攻撃は、松平元康直々の出馬である。初戦不首尾の報告を受けていた元康は策を巡らす。

「忍びの者を使おう」

元康が雇った忍びの者は甲賀者だったらしい。江戸期に入ってから、自分たちが上ノ郷城落城に貢献しました、と
奉行に報告書を提出している。忍びの者たちは敵兵に紛れて城内に忍び込むと、頃合を見計らって放火、城兵を
斬っておいて「裏切り者が出たぞーッ!」と触れ回り混乱を誘った。これに乗って本当の裏切り者も出たようだが…。

この状態を見てヤバイと思ったか、長照は城を出て落ち延びようとした。しかしその途中、安楽寺という寺の横にある
坂まで来たところを甲賀者の伴資定により討ち取られてしまった。上ノ郷城は落城し、長照の子、鵜殿氏長・氏次
兄弟は生け捕りになり、後に築山殿・松平信康との人質交換に使われた。

えげつない計略にかかったこと、討ち取られたことがよほど悔しかったのか、長照の怨念は討たれた場所である坂に籠もり、
「この坂で転んだ者は怪我が一生治らなくなる」という、地元民にとってははなはだはた迷惑な、「鵜殿坂」と言う
伝説を残すに到る。地縛霊モドキにならんでつかあさい。