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小田原に御牢人となった

2023年01月06日 19:24

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/05(木) 20:43:07.28 ID:nzcqadR2
永禄十二年の初めの、五月二十六日に、今川氏真徳川家康とは扱い(和睦)となり、掛川を家康に渡し、
その上遠州一円が家康の支配となった。そして「氏真を今一度駿河の主にしてほしい」と頼まれて、
氏真公は遠州掛川より船に乗り、小田原の北条氏康が氏真の舅であった故に、これを頼んで小田原に
御牢人となった。

さて、氏真公の元で随一の出頭人であった三浦右衛門介は、諸侍に慮外を仕った人罰が当たった。
(氏真の駿府没落後も)彼は猶も分別を違えており、高天神城の小笠原(與八郎)が、氏真公の時代と変わらず、
自分の用に立つと三浦右衛門介は考えていた。そして氏真を見放し高天神城へ走り込んだが、そこで
小笠原は彼を搦め捕り、しかも縛り首とした。以上。

甲陽軍鑑



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義元公と弾正忠子息の和睦が

2022年10月30日 17:36

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/30(日) 15:26:26.72 ID:dLte+MCx
尾州の織田弾正忠(信秀)が死して、その子息、今の信長であるが、彼は今川義元公の旗下とならず、
挙げ句義元公がお持ちの国であった三河の内、吉良の城へ取り掛け、附城を造ってこれを攻めた。

この事態に義元公は御馬を出されたが、跡を気遣い遠州引馬に逗留され、先衆を以て弾正忠子息(織田信広)の
拵えたる砦を包囲し、既に攻め殺さんとする所に、織田は降参して父の如く義元公へ逆義あるまじきと
起請を書き詫び言したため、義元公と弾正忠子息の和睦が成立したのであるが、これは尾州侍である
笠寺の新右衛門(戸部政直)がかねてより義元公を大切に存じており、この折に仲介した御蔭だという。

またこの時義元公は
「三州岡崎の城主・松平広忠の子、竹千代当年十三歳になるを、一両年以前より盗み取り、熱田に
隠し置くという。それも早々にこちらへ渡せ」
と仰せになり、義元公はこの松平竹千代を駿府に召し置かれた。今の遠州浜松まで平定して浜松に在る
徳川家康が、この竹千代である。

甲陽軍鑑

いわゆる第二次小豆坂の戦いについてのお話。この時点では織田信秀はまだ生きているのと、
どうも信長と織田信広を混同していたフシがありますね。



中々に世をも人をも恨むまじ

2021年12月05日 18:52

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/05(日) 16:25:39.70 ID:J7djUx9K
北条氏康の死後)

氏康御病気の頃より今に至って、譜代重恩の輩は申すに及ばず、関八州御旗下の大名は群をなした。
その他に甲州、越後、佐竹、方々の使者は往来して止まず。
御中陰の日数がようやく過ぎ、氏政(北条氏政)は伊豆の三島へ鷹狩りに御出になったところへ甲州より使者が来たる。

氏真(今川氏真)と氏政は親しき間柄で小田原に居住しており、そのうえ譜代の侍はいまだに多く、
また家康公も内々氏真に御芳志があった。そのため信玄(武田信玄)は行末を難しく思われたのだろうか、
氏真を討ち申したいと密かに氏政へ人を遣わしたのである。
氏政はいかに思し召されたのかその旨を合点なさり、すでに甲州より忍んで討手の者どもが来ると聞こえた。

悪事千里を走る習い、やがてその事を聞き付けなさり、氏真の御前(早川殿)は氏政の御姉なので
この上なく御恨みになり、氏真その他下々に至るまで「氏政は人倫に非ず」と立腹限りなし。
ここにいてはならないと氏真は小田原を引き払い、家康公を御頼みになって妻子を引き連れて浜松へ落ちなさった。
また、御心の内はさぞかしと思いやられる一首を詠んだ。

「中々に世をも人をも恨むまじ、時にあはぬを身の科にして、氏真」

家康公は先年の御言葉もあり、屋形を作って氏真を据え、御懇情浅からず御労りを施しなさった。
これぞまことに仁政たるべし。

そもそも今川の家は代々小田原と縁者であり、早雲氏綱二代重恩を受け、特に氏真は御兄弟の契りあり。
何によって信玄に語らわれたのか今川殿を追い出し、このような情け無き振る舞いは謂れなし。
まことに頼む木の本に雨も溜まらぬ風情かな。中陰の折で誰か言う人もなし。
末の世まで嘲弄を受けるだろう、当家の運は末になったと小田原の諸臣は悲しんだ。

――『北条五代実記北条盛衰記)』

よく氏真の辞世の句と紹介される一首だがこの本書では小田原出奔時の無念を詠んだものになっている。



219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/05(日) 16:49:21.21 ID:fzcOOjCi
元亀二年十月、氏康死亡
元亀三年五月、氏真が施主として義元の十三回忌を小田原の早河久翁寺で施行

四十九日からかなり経っても氏真夫妻が小田原に残っているような

氏真さんカワイソス(´・ω・`)

2021年10月10日 17:38

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 21:45:42.09 ID:82Wlary0
767 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワントンキン MM0b-g+3k) sage 2021/10/09(土) 03:21:43.58 ID:KUrCYZSAM
氏真さんカワイソス(´・ω・`)

「駿河を失い没落した氏真は、かねて音信のあった越後上杉氏に書状を送ったものの返信が無い。そこで、上杉氏の取次(外交の担当者)に連絡を取ったところ「書札慮外」と一蹴されてしまったという。つまり、没落した氏真ごときがいつまで越後国主と対等の立場でいるつもりかとその無礼を咎められてしまったのだ。氏真の心中いかばかりか。」



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 22:38:28.68 ID:Yey6uiW7
今川サイドの対上杉窓口は朝比奈か三浦だっけ?
まあどっちもいないんじゃしゃあない

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 22:48:16.74 ID:l66jBKe8
大名権威の保持のためにももう大名じゃない人間を大名扱いするのは厳しいわね
まあそもそも氏真がこうなったのは
弔い合戦したいタイミングで同盟国北条に攻めかかったやつがいたり
そんなやつと同盟したのに味方になったら殆ど動かないとか
その辺もあるんで確かに心中如何ばかりか

今川家には真範という僧の霊がついており

2021年06月02日 18:05

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 20:00:27.28 ID:fcUfUgk9
今川家には真範という僧の霊がついており、同家に凶事が起こるときには、必ずこの僧が現れた。
桶狭間戦の時も、今川勢が安倍川を渡るとき真範が現れ、義元の眼を遮った。
また、駿府城の城の庭のあたりで、女の声で、
「熟し柿なるみの果てぞ悲しけれ」
と泣く声がしていたそうだ。
「なるみ」は尾張鳴海のことで、義元はその近くで生涯を終えたのだった。
(嶽南史)

世界人物逸話大事典」の「今川義元」の逸話からの孫引きだけど、この「今川義元」の項の執筆者が、
今川義元に処刑された戸部新左衛門の子孫の戸部新十郎氏というのがちょっとおもしろい



793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 21:25:49.10 ID:2sfPirx1
>>792
先祖の恨みが地味に残ってるのかなw
そういや、桶狭間前に玄広恵探の霊が現れたって話もなかったか。今川に坊主の霊多すぎ

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/05(土) 13:59:10.54 ID:zH0P2W0K
>>792
恨んでるのに凶事の警告しに来てくれる優しい坊さんで草

かるかやに 見にしむ色は なけれとも

2021年01月05日 17:37

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/05(火) 15:34:53.17 ID:hOMWL+6l
今川義元が戦場において、何某とやらを召し「先手の様子を見て急ぎ罷り帰るように。」と命じたが、
先手では早くも戦の半ばであるのに行き合い、逃れがたい状況であったので、鑓を入れて首一つを
取って帰り、義元の見参に入れてその成り行きを語った所、義元は大いに怒り

「様体を見計らって急ぎ帰れとこそ言ったのに、その身の働き、私に対して忠の所は少しも無い!
軍法に任せて、きっと計らうべし!」

そのように仰せに成られた。かの使いの者はしおれたような顔で、謹んで義元の前に侍ふ人に向かい、
小声で藤原家隆の歌をつぶやいた

「かるかやに 見にしむ色は なけれとも 見てすてかたき 露の下をれ」
(秋の苅萱は、心惹かれるような色ではありませんが、露の光るしなだれた様子を見れば、捨て難いものなのです)

この様子に義元はさらに怒り、「何を言っているのか!?」と怒鳴ると、近習の者がそれを申し上げた。
これを聞いて義元は暫く考え、気色和らぎ、

「とどかざる仕形であるが、急なるに臨み、奇特に家隆の歌を思い出した事は名誉である。」

として赦したという。
昔の人はこのようにやさしき事があった。ただし、「時によるべき事である。一様には定めがたい。」
という人も有る。

備前老人物語



今川仮名目録より、喧嘩について

2020年12月03日 18:20

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/03(木) 12:44:44.22 ID:rvcPObyw
一、喧嘩に及ぶ輩は、その理非を論ぜず両方ともに死罪が行われる。また相手が喧嘩をけしかけてきても
  堪忍し、それによって疵を受けた場合、それ自体は武士にとって非儀ではあるが、当座の穏便の働きは、
  その人物にとって、罪を免じられる利運と成る。
  かつ又、与力の輩が喧嘩の場において疵を蒙り、又は死んだとしても、相手に対して訴訟することは
  出来ないと、先年既に定めている。
  喧嘩をした人物の成敗は、とりあえずはその当人一人の所罪であるのだから、妻子、家内等に罪をかける
  べきではない。但し当人がその場から逃走した場合は、妻子もその咎にかかるべきであるが、その場合も
  死罪まで申し付けるべきではない。

一、喧嘩の双方の相手の方人より様々に申し立て、その張本人が分明に成らないことが有る。その時は、
  その現場において喧嘩をとりもち走り回り、あまつさえ疵を被った者を、張本人として成敗に及ぶ
  べきである。
  また、その処分の後から実際の張本人が露呈した場合は、その主人の覚悟によって処分しなければならない。

一、被官人による喧嘩、並びに盗賊の咎がその主人に及ばないのは勿論であるが、それらの罪状の仔細が
  明らかではなく、その仔細を尋ねると称してそのまま置いている内に、その者が逃亡した場合は
  その主人の所領一ヶ所を没収し、またその所領を持たない場合は罪過に処す。

一、童が誤って友を殺害し、それについて意趣の無い場合は、成敗には及ばない。但し十五歳以上の者は
  罪を免れない。

今川仮名目録

今川仮名目録の、喧嘩両成敗を始めとした喧嘩についての記述



今川義忠討死の後の内乱と和睦

2020年12月02日 19:36

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/02(水) 12:52:32.92 ID:X4bDmgcV
駿河国は、今川義忠討死の後大いに乱れ、合戦が数度に及んだこと関東に聞こえると。伊豆の御所より
上杉治部少輔政憲を大将として、三百余騎にて馳せ向かった。また上杉扇谷修理太夫殿(定正)より
代官として、太田左衛門大夫(道灌)、三百余騎にて馳せ登り、両陣は狐ヶ崎八幡山に陣取って、
対立している駿河衆の両陣へ使いを以て申した

『今度、豆州様(足利政知)、扇谷殿より我々が派遣された理由は、今川殿御討死の跡、御息幼少にて
上を軽んじ、各々わたくしの闘争を行うとは何事であろうか。どちらであっても、今川殿に逆心ある方に
向かって一矢仕り候との上命をふくみ、罷り向かったのである。定めて一方は御敵であろう。
御返答次第に、一合戦仕るべし。』

と、委細申し送ったが、今川の両陣ともその返答に及ばず、きまりも悪くなり陣を引いた。しかし
猶も和談はなかったため、大田、上杉は御館へ参り評定し、和談のはかりごとをめぐらせていた。

このような所に、今川義忠の嫡男である龍王殿の御母は、北川殿と申して、京公方の御執事である
伊勢守殿の御姪であり、先年、義忠御上洛の時、ふとしたことで御迎えになり、若君が誕生されたため、
北川殿として新殿を作りそこに居られた。

この北川殿の弟は、伊勢新九郎長氏と申す人で、その頃備中国より京に上り、今出川殿(足利義視)に
付けられていたが、今出川殿が伊勢御下向の時お供をして下り、それより姉君を尋ねて駿河国に下向されたが、
折節この乱に参り遭い、関東より加勢の両大将に相談をした

「かように家来の人々が二つに分かれて合戦をするのは、今川家滅亡の基となります。尤も主人に対して
意趣が無いのであれば、謀反人では有りませんが、主の家を滅ぼすのは、これに過ぎる悪事はありません。
各々の御扱いを用いず、和融の儀が無いのであれば、京都の御下知を承り、豆州様と申し合わせ、一方を
退治仕りましょう。
もし又、御扱いを承り、尤もと一同し、和談のことが定まれば、私は龍王殿の御在所を存じておりますので、
お迎えに参り御館へ返し奉ります。」

これに関東の両大将も、尤もであると一同し、この条々を駿河衆の両陣へ申し送った。駿河衆も、よしなき
私の戦を起こし、主の行方さえ知れず迷惑の砌に、このような扱いが有ることを大いに喜び、早々に両陣を
引いて、御館より共に、惣社浅間の神前にて神水を呑み、両方和談は相調った。

この時龍王殿は、山西の有徳人と聞こえる小川法栄の元に御座していた、法栄は「このような乱が
なければ、どうして譜代の主君が、このような山家に入られ、数日も御座あるべきでしょうか。」と、
龍王殿、御母公諸共に色々ともてなし慰められていた。そして和談が調うと伊勢新九郎が迎えにまいったため、
「これは目出度き次第である。」と喜び、新九郎を初めとして、御迎えの人々に、馬鞍以下、数々の引出物を
贈り、法栄父子も御供申し、駿府の御館は入り奉った。

駿府に戻られるとすぐに、龍王殿は御元服あり、今川新五郎氏親と申し奉った。
その頃、豆州様が御改名あり、始めは政知と申していたのを、『氏満』と御改めになっていた。これは
鎌倉殿(鎌倉公方)の御名乗り(通字)であり、御早世の御一門の御名乗りを、この方で取るのは、
かの幸いをこの方にて継ぐという事であり、必ず御名乗りを取るという習慣が有ったのである。
これによって氏満と御改名されたという。
龍王殿は、豆州様を御烏帽子親に頼まれた故に、氏満の氏の字を付けられ給いて、『氏親』と名乗られたと
聞こえる。

法栄の子は、今川殿近習となった、長谷川等是である。
伊勢新九郎は今度の忠功莫大であるとして、富士郡下方庄を給わり、高国寺(興国寺)の城に在城した。

今川記

今川記』より、今川義忠討死の後の内乱と和睦について



753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/06(日) 17:46:00.04 ID:DKqmNioT
>>751

ここまで詳しい記述があるのに北条早雲が牢人扱いされていたのは何故?

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/06(日) 21:08:16.61 ID:zY8ldDsB
>>753
北条氏や伊勢氏、今川氏に伝わる系図などで食い違いが多くあやふやな部分が多かったことと講談の影響
今川記』の記事だけ見ても、
「幕府の意向で今川家の調停に派遣された幕臣」って近年の(蓋然性が高いとされる)説も全く触れられていないし
伊勢で義視の元を致仕し姉の縁を頼って駿河に下ったと解釈すれば、身分は牢人といえる

桶狭間の戦いと熱田町口の紛争

2020年06月08日 17:10

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 03:16:57.31 ID:ZQsC5wnO
(桶狭間の戦いの時)

ここに尾州河内二の郷の一向宗、鯏浦の服部左京(友貞。織田家に属さない尾張国人)
は此度の合戦で義元に力を合わすべしと一向宗を数多引き連れ、武者舟数十艘に取り
乗って大高の下、黒末の河まで乗って来た。

まず大高城に兵糧を多く運び入れて松平元康に力添えし、自身は戦場へ赴いたところ、
19日の未の刻、はや義元討死なれば力を失い、舟に乗って帰りがけに熱田の港へ舟
どもを寄せ掛けて、遠浅の所から下り立ち町口を放火しようとした。

町人どもはこれを見て、味方の勝ち戦に力を得て、大勢が出て来て追い払ったところ、
服部の者どもは駆け散らされて数十人が討たれ、また舟に取り乗り、河内を目指して
引き入った。

――『織田軍記総見記)』



『松平記』より、桶狭間の戦い

2020年06月07日 17:21

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 22:40:28.14 ID:TUf8uXey
永禄3年(1560)5月19日、昼の時分に大雨しきりに降る。(今川義元は)今朝の御合戦
御勝利で目出度いと、鳴海桶狭間で昼弁当に参る。そこへその辺りの寺社方より酒肴を進上仕り、
御馬廻の面々に御盃を下されたが、その時、信長が急に攻め来たる。

笠寺の東の道を押し出で、善昭寺城より二手となって一手は御先衆へ押し来たり、一手は本陣の、
しかも油断しているところへ押し来たる。鉄砲を撃ち掛ければ、味方は思いも寄らぬことなので、
ことごとく敗軍して騒ぐところに、上の山からも百余人程が突いて下った。

服部小平太(一忠)という者が長身の槍で義元を突き申すと、義元は刀を抜いて青貝柄の槍を切
り折り、小平太の膝の口を割り付け給う。毛利新助(良勝)という者が義元の首を取ったが、新
助の左手の指を義元は口へ差し入れ、食い切られたと聞く。

義元の御馬廻衆も随分働いたため尾州の物頭の佐々隼人正(政次)、千秋新四郎(季忠)、岩室
長門守、織田左馬允、一色などと申す良き者が、数多その場で討死した。

御先衆で討死致した衆は、三浦左馬助、斎藤掃部助、庵原右近、同荘二郎、朝比奈主計、西郷内
蔵助、富塚修理、松平摂津守、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門八、井伊信濃守(直盛)、松
平兵部、温井蔵人、松平治右衛門、その他60余人、近習1人も残らずその場で討死なり。

――『松平記



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 04:41:47.74 ID:Jsn8uRP9
>>114
大雨だと鉄砲使えなくね?

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 15:24:03.51 ID:FjC4Cc4v
俄か大雨に紛れて接近→晴れてから襲撃ってのが桶狭間の流れ
まあ、所詮は他家と他家の話の上
義元本陣にほとんど家康系がいなかったとかの事情で詳細には書く気がないのかも

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 17:25:34.03 ID:E7+MQt/A
>>116
信長公記が底本と分かるな

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 17:30:27.64 ID:60NDTf3c
信長公記とは内容違うよ

汝の運命尽きたることを告げんがために

2020年05月31日 17:25

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/30(土) 19:11:42.69 ID:GvcTHadk
(桶狭間の戦いの頃)

かように義元(今川義元)勝利の威勢日々強くなりけれども、不思議の事々も多かった。

まず、今川家には往古より“真範公”という出家の亡霊がいた。国主に凶事ある時は出現すると申し
伝えた。しかるに今回、義元が駿府を打ち立ち給うところで、かの真範の亡霊がまさしく阿辺川の
ほとりに現れたのを見た人が多かった。

また駿州の鎮守総社大明神は霊験無双の神なり。かの社の山の中に白狐の奇怪あり。いつもの白狐
を所の者どもは「神の遣わし者なり」と言ったが、その白狐の胸おのずから裂け破れて、自ら死し
て社壇にありけり。

また花倉といって義元の兄弟(玄広恵探)の死霊あり。かの花倉はうつつに出でて、義元にまみえ
来たる。義元はこの時、枕元に立て置いた松倉郷の刀を抜いて切り払い給えば花倉は飛び上がって
「汝の運命尽きたることを告げんがために来た」と言う。

義元もさすがに強き大将なれば少しも騒がず、はったと睨んで「汝は我が怨敵なり。何ぞ我に吉凶
を告げん。ただ我を悩まさんがために来たのであろう」と宣えば、花倉また言うには「汝はもっと
も怨みあれども、今川の家運尽きんこと甚だもって悲しければ、今まみえ来たる」と言い捨て、掻
き消すように失い果てた。

かように怪異ひとかたならず、未然に凶事を現したのは不思議なりし事々である。

――『織田軍記総見記)』



遠江をめぐる今川と斯波の争い

2020年05月10日 16:46

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 00:45:09.72 ID:ZHTYZdfR
斯波家の領国は越前、尾張であった。遠江は元今川家が領地していたが、中頃より斯波家の領と成ったので
あるが、今また斯波家衰え、今川家は応仁に乱に交わらず、威盛んにあいて、遠州を押領しようとした。

その頃、三河国臥蝶の住人に、大河内肥前守欠綱(貞綱)という者があった。元は当国の守護・吉良氏の
家礼であったのだが、近年国中に武威を振るって、遠三両国の士と相親しみ、一揆を語らい党を結んで、
悪逆度々に及んだ。この欠綱、先祖は源三位頼政の二男、源太夫判官兼綱から十一代の末孫であり、
家の紋は丸の内に十六葉の菊を付けていたため、人は皆『菊一揆』と号した。

この時、今川修理太夫氏親は領国駿河に居住していたが、「如何にもして大内介義興の如くに、
上洛し公方家への忠を尽し、大功を立てんと企てていたが、路次の遠州尾州はみな斯波家の領国であり、
度々決戦に及んでいたため、その功を遂げられ無かった。
そのような中、大河内欠綱は斯波家の味方となり、信濃三河の勢を語らい遠州を横領したのだが、氏親は
先ずこれを退治の為、永正10年(1513)の春、一万の兵を率いて遠州に討ち入り、笠井の庄楞厳寺陣を取った。

斯波治部大輔義達は尾州の兵を率い、遠州の井伊次郎直親を相伴い、深嶽の城に籠もったのを、今川の
先陣、朝比奈十郎泰以という者、ただ一手にて深嶽山に寄り来たり、案内を以て一夜討ちし、忽ち城をも
攻め落として、数百人を討ち取った。尾州勢は悉く打ち負け、同国奥の山へ引き退いた。
大河内欠綱等も散々に落失した。

翌年、また甲州の武田次郎信昌兄弟矛楯して合戦に及び、今川氏親も加勢を請われたため、駿遠両国の勢
二千余騎を差し遣わした。この勢は甲州勝山の城に籠もり、戦いに隙無く、これを見た大河内欠綱は、
残る今川家の兵は無勢であると推量し、同正月より再び蜂起し、信濃三河尾張の一族、並びに浪人共を相語らい、
又々尾州より斯波義達を請待して、遠州浜松の庄引間の城に立て籠もり、天龍川の前後在々所々を押領した。

今川氏親はこれを聞いて、六千余騎の兵を率いて、同年五月下旬、遠州へ発向したが、ちょうどこの頃
洪水夥しく、天龍川が非常に増水していたのを、氏親は川船三百余艘を竹の大綱にて悉く結びつけ、
船橋を拵えて多勢一斉に押し渡った。
斯波勢も川端に打ち出、大河内、高橋といった者たちは矢軍して防いだが、散々に切り立てられ、また
悉く敗軍した。今度は遠引も叶わず、僅か五十余町の中に悉く追い囲み、城四つ五つに立て籠もり。同六月から
八月まで相戦ったが、後には今川勢が、駿州安倍川の金堀の者を呼び寄せ城中の井戸を悉く掘り崩させ、
水一滴も無くなったため、城兵は術計尽き果て、同八月十九日、引間の城を攻め落とされ、大河内欠綱、
同弟・巨海新右衛門(道綱)、高橋以下、立て籠もる軍兵千余人討ち死にし、斯波治部大輔義達は
降人となって出てきたのを、氏親の下知として一命を助け、普済寺という禅寺に入れ置き、
『義達、今日より遠州に望む事無く、自今以後、堅く今川家へ向て敵対すべからず』
との警約の起請文を取り堅めて、剃髪黒衣を着せ、太刀、刀を奪い取って後、尾州へ送り返した。
これより斯波家の武威衰え、尾張の国人も皆、義達を疎んじたため、彼の下知に従う者は居なく成った。

然れども、三州の住人・戸田弾正少弼、諏訪信濃守らは猶も、大河内の残党を催し遠州へ乱入して
合戦度々に及んだ。その中で、三州の境、船方山の城代・多末又三郎という者が今川方であったのを、
かの一揆等が攻め落とし、又三郎は討ち死にしたため、掛川城主の朝比奈備中守泰以が、また兵を率い
寄せ来て船方の城を攻め取った。このように遠州も合戦に隙も無かったが、遂には国人等、今川家に帰服して、
斯波家は衰え果てた。

應仁後記

遠江をめぐる今川と斯波の争いについて。



見てすみがたき露の下帯

2019年05月30日 15:27

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 14:44:28.01 ID:nwVL6DOv
戦場での物見の者は、途中敵に逢ったとしても討ち取らないのが軍法である。であるが今川義元の士(名忘)、
物見に行き敵に出会って戦い、頸を取った。然れども軍法に背いた故に、還って一首の歌を首に添えて出した

 刈かやの 身にしむ色はなけれども 見てすみがたき露の下帯

義元はこれを見て、違法の罪を赦したという。

(甲子夜話)



乱世忠臣を知る

2018年12月01日 16:52

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 02:17:48.70 ID:bbVzbbEl
(今川氏真の駿府退去後)

駿府の西にある花沢城には小原肥前守鎮実、遠江掛川城に朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)、藤枝の城(徳之
一色城)には長谷川次郎右衛門(正長)一族21人がいた。これらは流石で数代の深恩を思って、金鉄の心を
現したが、小原は使者を立てて掛川城に申し送ったことには、

「“乱世忠臣を知る”という古語を今眼前に覚えている。今川家が数代恩を与え恵みをかけて、将士を養った
甲斐もなく、譜代老臣どもはその恩を忘れて義に背き、この大切に臨んで敵に内通降参し、主君を追い出して

国郡を奪わんとしている。人面獣心論ずるに足らず。鎮実は義を守り節を変ぜず、信玄に錆矢一筋を射掛けて
君恩に報ぜんとの志である」と申した。朝比奈はこれを聞いて「申し越されたことは節義の御志、返す返すも

感じ入っております。しかしながら只今味方は尽く離散し、この小勢をもって武田の大軍と決戦して討死する
ことは、義は潔しとしても謀拙きにあらずとも言えまい。氏真は未だ存命であるのに妄りに一身の名を惜しみ

討死するのは無益のようなもの。幸い掛川城は要害堅固で、兵糧玉薬も乏しくはない。泰能の所存は、氏真を
当城に迎え取って厳重に守護すれば、敵が幾万の兵で日夜激しく攻めたとしても、容易に落城はすまい。

その内には小田原の北条氏康父子もよもや捨て置かれはしないだろう。きっと後詰をもなさるはずだ。その時
は氏真も回復の運を開くであろうと存ずる。“死は易く生は難し”と申しますから、一旦の恥辱を忍び会稽の

恥をそそいでこそ、勇士の誉れと申すべきである。必ず短慮があってはならない」と、心中を残さず返答した。
泰能はその後、砥城の山家へ使者を立てて氏真を迎え取り、掛川城中の軍勢7千余人は各々が鉄石の如く志を
一致して約束し、節義を守って氏真を守護した。泰能こそ類少なき義士と見えたのである。

――『改正三河後風土記』


叛臣たちの末路

2018年11月30日 20:02

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/30(金) 16:35:16.50 ID:Ny+xzMJX
さてまた今川家譜代恩顧の老臣どもは利禄のために誘われ、大節に臨んでその志を奪われた輩多き中でも、
葛山備中守(氏元)は「かねてからの内約通り、駿河を下し賜われたい」と願い出た。

ところが信玄は頭を振り「汝は如何なる忠節があって左様な願いを申し出すぞ。数代恩義を蒙った主君を
捨てて叛逆したことを大功と思っているのか。君恩を知らざる禽獣に駿河を取らせるくらいなら、

甥の氏真へ返し渡す!」と、大いに嘲笑って罵った。葛山は大いに怨み悔いてもどうしようもなく、年を
経て後に北条氏康へ内通し、氏康の手引きをして信玄を滅ぼし怨みを報じようと計略を巡らせた。しかし、
その事は露見して生け捕られ、信濃諏訪で磔に掛けられたのである。

瀬名陸奥守(氏俊)は程なく不療の病を受けて病死し、その子・中務大輔(信輝)は信玄の心に違えて
甲斐を追い出され小田原へ逃げて行くが、氏康もその不忠を憎んで扶助せず、ついに民間に落ち入った。

朝比奈兵衛太夫(信置)はしばらくの間駿河にいたが、武田勝頼滅亡の後に徳川家の誅を蒙ったのである。
その他大身小身ともに信玄へ内通した者を信玄は称美せず、あるいは誅せられ、あるいは飢死し、あるい
は民間に流浪した。不忠無道の天誅逃れざるこそ恐ろしけれ。

――『改正三河後風土記』



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 20:05:06.68 ID:Xogi4/3p
>>486
信玄を信じてはいかんということか

武田軍、駿河侵攻

2018年11月29日 21:02

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 20:16:21.24 ID:/TtpzPNN
今川諸将が氏真を見限り朝比奈兵衛太夫も逐電する内に、武田先陣の山県三郎兵衛昌景・馬場美濃守氏勝(信房)・
小山田右兵衛尉信茂・小幡上総介信実(信貞)・真田源太左衛門信綱・同兵部少輔達連(昌輝)・内藤修理亮昌豊ら

3千5百余騎は江尻を越えて宇和原まで寄せ来たる。駿河の町人・百姓どもは「これは何事なるや!」と上から下へ
と騒動して資材雑具を東西へ持ち運び、あるいは幼き子を背負い老いた父母の手を引き南北へ逃げ迷う。城中の女童
も慌て騒ぐこと限りなし。武士も妻子を持て余して逃げ支度ばかりし、合戦を心掛ける者はなし。

大将の氏真も近習どもが騒ぐのを見て呆れ果てるばかりである。そんなところへ三浦右衛門佐(義鎮)が慌ただしく
馳せ来たり、手の舞い足の踏むところも覚えず、顔色は土の如くになって申すことには、「主君は未だ世の有様をも

御存知ないまま、そのように御過ごしなのですか! 21人の逆臣どもは皆々信玄に降参し、主君に向けて弓を引き、
矛を逆様にして攻めようとしています! これを防ぐ味方はおりません! 退くべきところは退き、進むべき時は進み、
進退節に応じますのを良将の振舞いとします! そのように座しながら敵の虜となり給うのは口惜しいことではあり

ませんか! 急ぎこの城を立ち出て砥城の山家へ身を潜めて計略を巡らし、重ねて快復の功を顕してください!」と
例の利口巧言をもって知恵有顔で申せば、何事も三浦の申すところに背かぬ氏真はこれをもっともと得心し、近習
わずかに50余騎を召し連れて、代々住み慣れた駿府を立ち出て、砥城の山家へ落ちて行ったのである。

城中の女童は皆歩行素足で走り出たが、道も分からずにかれこれさまよっているのを、情けも知らぬ下部(身分の
低い者)どもがここかしこに追い詰めて、打ち倒し押し伏せ衣服を剥ぎ取り、物を持っていれば奪い取って赤裸に
した。喚き叫んで泣き悲しめば、そのまま息絶える者もおり、目も当てられぬ有様であった。

――『改正三河後風土記』


氏真はこの事を夢にも知らず

2018年11月28日 18:53

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 21:54:05.37 ID:x04VAUwX
薩た峠の戦いにて殆どの今川諸将は今川氏真を見限り駿府へ逃げ入り、その後の軍議で存慮を口にしなかった。
その中でも今川随一と人に知られた朝比奈兵衛太夫(信置)は軍議の席へ出座もせず、料理の間の長炉に背中

を向けて居眠りしていた。岡部忠兵衛(土屋貞綱)と小倉内蔵助(資久)らは、この様子を見て不思議に思い、
「兵衛太夫には逆心があるかと見及びます」と、氏真へ告げた。「それには何ぞ証拠ありや」と、氏真が尋ね
られると両人は答えて「兵衛太夫は無双の剛士。数度の名誉を人に知られた身が、今回は武田の旗色も見ずに

一番に逃げ帰ったこと、これ一つ。次に武田の軍勢はすでに当国へ乱入し、事の急に臨み軍議の席にも出ない
こと、これ第二なり。またこの騒動の最中に、当家随一の老臣が具足も身に着けず炉を囲んで座眠りしている
こと。この3ヶ条をもって、不審がないとは言えません。みるからに21人の侍大将は尽く信玄に内通したと

見えて合戦を気遣う様子もなく、敵を恐れる様子をも見えません。兵衛太夫1人を誅戮すれば、残る輩はこれ
を見て懲りるのではないでしょうか」と述べれば氏真ももっともだと得心し、日根野備中守(弘就)ならびに

内蔵助の嫡子・小倉与助両人に命じて、「兵衛太夫にいよいよ逆意の形勢あれば、速やかに討ち果たすべし。
もしもそうでなければ、軽卒な騒擾を起こしてはならない」と指示を加えた。両人は畏まりやがて料理の間に
来ると座睡している朝比奈の側へ立ち寄ったが、朝比奈はまったく用心する様子も見えず。日根野は小倉を

差し招き、「朝比奈に逆位があれば我ら両人の形勢を見て少しは用心するはず。しかし、さらさらその様子も
ない。この上は朝比奈は逆心にあらざるか」と言う。小倉は聞いて「私もそう存ずるので軽卒な振舞いをして
はならない」と相談し、氏真へその有様を告げた。その間に兵衛太夫は密かに座を立って宿所へ帰り、

弟の金七郎に向かい「私は今日、ようやく虎口を逃れて帰ったのだ。その故は日根野備中守と小倉与助は両人
で我が身の側に立ち寄り、しばらく佇み立っていた。その様子は事ありげに見えたので、必ず主君の命を蒙り
秀盛(信置)の形勢を窺い見て、もし私に怪しい体でもあれば、討ち果たそうとする様子だった。

秀盛はこれを推察して、もしもこちらで用心の体をすれば身の災難は逃れられないと心付き、わざと知らぬ体
で座眠りしていた。それを見て両人は不審の顔色で立ち去ったのだ。今や陰謀の露見は程近い。そうなったら

甚だ危うい。私は速やかにここを立ち退く。其の方は私めの人質を盗み出してどこかへ落ち行かせよ」と申し
含めて、兵衛太夫はその夜に逐電した。氏真はこの事を夢にも知らず、重ねての軍議をするとして宿老どもを
召し集めると、秀盛はすでに逐電したと聞こえて氏真は呆れ果て、とかくの沙汰にも及ばなかった。けれども

21人の宿老どもは各々が敵への内通露見を恐れて、皆が武田に従った。秀盛の弟・金七郎は兄の人質を盗み
出して逃げたものの、これを聞いた氏真が大いに怒って手分けして追い掛けさせれば、金七郎は取り逃したが
人質は取り返して来た。このため氏真は諸人を懲らしめるためとして、かの人質の首を刎ねたのであった。

――『改正三河後風土記』


今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた

2018年08月25日 18:17

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 13:27:40.22 ID:jvrexpct
今川上総介氏真が小田原を逃げ出て浜松に来たると、神君(徳川家康)は旧好を
思し召して懇意に御扶助なさったが、氏真は、

「近頃の都には歌や連歌、蹴鞠の朋友も多いし、退屈の慰みにもなるだろうか」

と京洛の方に徘徊し、今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた。

神君はなおも旧好を捨てなさらず、氏真は今は雲水に任せて浪々としているのを
このように懇意にもてなしなさり、天正7年(1579)10月9日、

浜松城へ氏真を御招きになり、善美を尽くして饗応なされた。御仁心ありがたき
ことなりと、氏真は申すまでもなく見聞きする者で感嘆しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(基業編年大成記)』



清見寺の膏薬

2018年07月07日 17:01

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/06(金) 21:44:23.21 ID:XoIoRDXe
清見寺の膏薬は、今川氏真の家臣が、駿河滅亡の後に剃髪して清見に庵を結んだのだが、
この者は膏薬を調合し、往来の人、在々の者に施して、その対価として銭、又は五穀を貰うことで
飢えをしのぎ身命を繋いでいた。

彼は里の童たちを誘い、薬草を集めると子供に頼って松脂を取り調合の手伝いをさせた。
このため、調合の方法まで子供たちは見習い、自分たちで調合し売り広めるように成った。
この由緒を以て、今でも清見の膏薬は子供の商売となっている。

この膏薬を作り始めた庵主は弟子に跡を譲り、この商売は次第に繁盛して、かつての庵は、今は
寺と成っている。

(渡邊幸庵對書)

こんな今川の遺臣のお話が



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/06(金) 21:52:27.29 ID:1GYT3Z0c
今川旧臣による一大産業の創出。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 00:53:45.30 ID:9OdgJgq+
清見寺かよく前を通るけどなそんなの知らんかった

戸部の蛙

2018年05月05日 18:01

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 14:26:37.41 ID:f58LFITG
戸部新左衛門「なぜか人を斬りまくったとか、蛙だけは斬れなかったとか変な伝説が残ってしまった」
花房すけべえ「泳いでこないでいいです、ちゃんと米あげますから」


714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 18:08:17.69 ID:SD8FkVKO
>>703
の戸部新左衛門と蛙の話
https://i.imgur.com/fPPL0Pq.jpg
fPPL0Pq.jpg

戸部の蛙
愛知県名古屋市産の土製手捻りの蛙。
二、三〇種あって二匹組み合わせ物や、蛙の相撲などが優れている。
その昔、市外に戸部城のあったころ、凶暴な城主(注:戸部新左衛門政直)がいて、
隣接の山崎から入ってくる旅人などが、その行列を横切ると差別なく切り捨てたので、
それを揶揄して「山崎越えたら飛べ飛べ(戸部)」と、この辺一帯に多く棲息していた蛙にかけて洒落たのが由来という。
斎藤良輔「日本人形玩具辞典」より
https://i.imgur.com/HozJxBh.jpg
HozJxBh.jpg

このくだらない駄洒落も元ネタがあったのだ



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 11:38:59.92 ID:JYFcNoJe
>>714
作者の友達が戸部新左衛門の子孫で祖先の話を聞いてキャラにしたとか
良い話なのか悪い話なのか・・・