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北畠具教を討った面々のその後

2022年04月12日 17:46

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 22:57:48.74 ID:Tpen1w6e
勢州軍記」から北畠具教を討った面々のその後

・(藤方刑部少輔の父である)藤方慶由のこと
藤方慶由は人質として信雄の田丸城に留め置かれていたが、北畠家没落に嘆き悲しんだ。
こともあろうに子息の刑部少輔が北畠具教卿暗殺という不義の企てに加わっていたと知ると
「去年の夏、孫が長嶋城を落としてしまい家名を失ったというのに、今、お前の不義があらわれてしまい、当家の名は失墜してしまった。
主君であり、一族(藤方氏は北畠氏の分家)であるというのに嘆かずにいられようか。
報いはやがて子孫にこよう、長生きしたばかりに、このようなことを見ようとは。わしは早死にすべきだった」
息子の刑部少輔「私も本意ではなかったのですが、父上が人質に取られているため、御命をお助けするために逆意を企てたのです」
慶由「お前がそのように言うのであれば、わしは三瀬主君(北畠具教卿)に対して追腹を斬る!
これで少しは当家の面目も立つだろうし、武道の本望というものだろう。」
と言い、そののち「風呂に入ってくる」と言って部屋を出、深い淵に身を投げて死んでしまった。
その名誉と義心に対し、世の人はこぞってこれを賞賛した。
その子孫については慶由が言った通り、落魄して大津でボロ屋に住むようになり、ついに滅亡したという。

また実際に討ち手に加わった藤方家の軽野左京進は、刑部少輔に逆心を唆した張本人でもあった。
国司を討ったのちほどなく重病にかかり、五体・四肢が癰(膿瘍)や痪(「やまいだれに奐」麻痺)に侵されて死んだということだ。
末世といえども因果応報は歴然の理である。

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 22:59:50.89 ID:Tpen1w6e
奥山常陸介のこと

奥山常陸介北畠具教卿を討った時の褒美として、あらかじめ信雄から三千石の朱印状を賜り、常陸介も誓紙を書いた。
しかし譜代相伝の主君を討つに忍びず、心変わりし、仮病を理由に国司追討に参加しなかった。
信雄に朱印状を返して辞去し、そのまま出家した。
具教卿暗殺ののち、信雄が奥山を召すと、剃髪染衣の姿で田丸に現れた。
信雄はその義心に感心し、三百石の朱印状を渡したが、
奥山は「もはや現世において領地の望みはありません、後生を願うのみです」と朱印状を受け取らなかった。
そののちも道心は変わらず、真盛上人の開山した摂津の西来寺の近くで庵室を構え、具教卿の後生菩提を祈った。
一生念仏を唱え続け、ついに往生を遂げたという。



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「具教兵法の事」

2022年04月11日 18:03

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 11:58:15.48 ID:Tpen1w6e
勢州軍記」から>>430の続き
「具教兵法の事」

北畠具教卿は塚原卜伝入道の弟子であり、兵法を極め、奥義・一の太刀を習得していた。
しかし用心を怠ったために、このような害を受けてしまった。
このようなことがあるから張良は漢皇を立てたのち身をひいたのだ。
これこそが武士の奥義といえよう。
さて兵法剣術については、近来常陸国住人の飯篠長威入道が天より真の伝(天真伝?)を受け、一流を起こした。
かの卜伝は長威から相伝されること四代目にあたり、秘伝をものとしていた。
その伝を新たに世間に広め、諸国を修行し、常陸に帰ってきた。
最終的に家督を三人の息子たちのうちの誰かに譲ろうと考え、
嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。
まず長男を招いた。長男は開ける前に木枕を見つけたため、木枕を下ろし、入室し座った。
同様に次男を招いた。次男は嚢連を開けた時に木枕が落ちてきたため、とっさに飛び退いて手を刀にかけ、怒りながら入室し座った。
同じく三男を招いたところ、三男は嚢連を開けたら木枕が落ちてきたため、すぐに抜刀して木枕を斬った。
塚原卜伝は、次男、三男に対しては「木枕を見て驚くとは何たることだ!」と怒り、長男には感心して家督を譲ることにした。
卜伝「しかし奥義の一の太刀は伝授するのは一人だけ、ということになっておる。
すでにわしは伊勢国司・北畠具教卿に伝授してしまったから、汝は伊勢に行って習ってこい」
と遺言して死んだ。
そののち、長男の塚原彦四郎は伊勢に上り、北畠具教卿に会い
「私の父が私に一の太刀を伝授してくれたのですが、相違がないか確認させていただけませんか?」
と言うと、北畠具教卿はその意図を知らず、一の太刀を実演して見せてしまったということだ。



433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 17:42:12.30 ID:C16sIoNI
賢いな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 22:12:30.19 ID:Dj17yKJA
>嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。

教室の入り口に黒板消し挟むやつの由緒?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 22:21:12.59 ID:zwR4m/VE
七人の侍に似たシーンがあったな

北畠具教の最期

2022年04月08日 16:28

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/08(金) 14:12:26.88 ID:8NMoyGPa
勢州軍記」から北畠具教の最期

伊勢国司であり三瀬大御所の北畠中納言源具教入道は不智不慮であり、当家を織田に渡したことを悔いていた。
(続群書類従では「不智不慮」としているが、北畠具教の法号が「不智斎」であるため不智で切るべき?)
信長公と仲が悪く、信雄朝臣を蔑んでいた。
そのため先年武田信玄と合心し謀叛を企てていたという。
またある時、信雄の小姓が小鳥をとりに国司屋敷に入ってきたため、具教の家臣は小姓をひどく打擲したところ、信雄は憤った。
信長公は北畠具教に野心があるとみなし、織田掃部助(忠寛)に北畠具教親子、坂内入道親子を討つように命じた。
信雄が諸侍に謀ったが、天野佐左衛門尉と柘植三郎左衛門尉が城門の外でこれについて相談したのが、門の陰にいた下女に聞かれてしまい、ことが公になってしまった。
そのため急いで討ち手を招集した。
まず北畠具教への討ち手として藤方刑部少輔、奥山常陸介、滝川三郎兵衛尉、長野左京亮が命じられたが、藤方は名代として軽野左京進を出した。
彼らは領地の朱印を頂いたが、みな北畠譜代重恩の臣であり、欲のために理を捨てたのであった。
ただ奥山常陸介は心を翻し、仮病で討ち手には加わらなかった。
こうして天正四年十一月二十五日の朝、三人は三瀬御所に参じた。
北畠具教卿は炬燵に当たり、夜衣を着て、三歳と今年生まれたばかりの若君を膝においてあやしていた。
近習である佐々木四郎左衛門尉が御前に参じ、出仕のよしを言上した。
具教卿は若君を乳母に預け、出座しようとしたところで長野左京亮が具教卿御愛用の槍で具教卿を突いた。
具教卿は兵法の名人であったため、太刀を抜こうとしたが、小姓の佐々木四郎左衛門尉も企てに加わっており、あらかじめ太刀を抜けないように細工をしていた。
具教卿は徒手空拳であったが肝が据わっており、長野に対して
「わしは常々、お前がいつか裏切ると思っておったわ!」と言った。
そのとき滝川・軽野も太刀を抜いて斬りかかってきた。
具教卿は憤怒の面持ちでついに死んだ。御年四十九であった。
若君は乳母に抱えられ裏庭に向かったが追手により害された。
今年生まれた若君も乳母が懐中に入れて雪隠に隠れたが、探し当てられ殺された?(尋求奉失之)
北の方や乳母や女房たちも泣き喚きながら逃げ回り、聞く人で涙を流さぬ者はなかったという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12389.html
北畠具教の滅亡
こっちと違って刀も抜けずに殺されてしまっている

続き
「具教兵法の事」


諸木野弓の事

2022年04月07日 16:03

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/06(水) 22:39:17.57 ID:CeypfKfb
「勢州軍記」から「諸木野弓の事」という、
織田と北畠具教・具房親子との戦いである大河内城の合戦の一コマ

あるとき信長卿本陣・桂瀬山にて、織田軍の一人が松の大木にもたれながら北畠軍の城中に向かって
「大腹御所(北畠具房、肥満体であったという)の餅食い!」
と嘲ったため、城兵たちは腹を立て「矢で射てしまえ!」と考えた。
その頃、大和秋山家の侍に射手が三人おり、諸木野弥三郎、秋山万助、秋山志摩介、といった。
その中でも諸木野が召し出され、諸木野弥三郎はおそれいりながら大弓に大きな矢をつがえ、射った。
敵味方ともに見物していたところ、矢はあやまたず四、五町(500m前後)を越えて、嘲った者を松の木ごと射抜いた。
信長卿は感心し、その矢を抜いて城中に返還した。
敵味方ともに大いに感悦したということだ。




120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/06(水) 23:55:03.22 ID:Vw+cZHK+
よっぽど細い松の幹だったのか
あるいは作り話か

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/07(木) 07:07:24.27 ID:YDHzngnu
たぶん射抜いて松の木に突き刺さったのかと

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/07(木) 07:37:33.95 ID:oTEmwTn/
500mも離れて罵り合いしてたのか?
拡声器もない時代に
松だけに嘘松

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/07(木) 07:39:37.33 ID:YDHzngnu
ついでに原文では
彼人与松共射貫也(彼の人、松と共に射貫くなり)となってます

伊勢宮川の戦い

2020年05月21日 17:55

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/20(水) 21:02:57.43 ID:6jvJY+1A
その頃、伊勢の国司・北畠晴具卿は勢南の多気に住し、武威専ら盛んにして、和州へも討ち入り、
宇智郡の諸士を靡かせた。これに対し大和の国人、越智、十市、久世、満西等は畠山家の家人であるため、
これを防いで合戦に及んだ所、北畠氏の分国である勢州にまた一揆が勃興し、先ずこれを鎮めん為に、
和州への出陣成り難く、ただ勢州の中で戦い暮らした。

中でも、当国度会郡の山田庄は、大神宮(伊勢神宮)の神領なのだが、当所の禰宜、神主等が悉く横領して、
祭用を遂げず、国司の政事に違背してその下知を用いず、剰え一揆を起こし。国中へ討ち入って武士の領地を
相妨げた。その中でも、山田の住人である村山掃部助という神官は大剛の者にて、一揆の大将となり、
宇治、山田、湊、河崎、二見、朝熊の諸勢を催し、国中へ討ち出ようとしていた。彼に同心する神官は、
堤、春木、上部、久志、本龍、福井、益、三日市、喜多、山田、大路、檜垣、橋村、窪倉などという者達が
悉く一味した。

かくて天文三年(1534)の春正月晦日、国司晴具は南方の諸勢を催しかの一揆を攻めた。
一揆の輩は宇治山田に屯し、宮川の東川原に陣取って防戦をした所に、国司方の先陣である
澤、秋山らが川を渡って頻りに駆け入り、速攻にて討ち取ると、一揆等は忽ちに打ち負けて悉く敗北した。

彼等の頭領である村山掃部助は大神宮の社中へ逃げ入り、拝殿に腰を掛けて腹を切って死んだ。
浅ましいというもなお余れる事である。剰え火を放ち掛けて、終に当社は一片の煙として焼失した。
ここに、この村山は稀代の悪人、極罪の匹夫と成った。

それより一揆の残党たちは、二見、塩合など所々において撃殺され、終に手を束ねて国司家へ降参した。
そして徐々に恩免を蒙り、元の如くに神職を相勤め、その後数年を経て、社頭も再建成就した。

續應仁後記

伊勢での一揆との戦いについて。



一向一揆の伊勢乱入

2020年05月19日 19:46

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/19(火) 12:33:55.69 ID:Bf5WeBmv
天文元年(1532)の秋、和州において一揆勃興し、当国高取城を攻めたが、城主の越智某は随分に防ぎ戦って、
終に一揆を追い払った。
同年十月、南都(奈良)の町中が一揆を企て、(興福寺)僧房を焼立てたため、僧房よりこの返報として、
また町中を焼き払った。
この一揆の大将は、一向宗の門徒である鴈金屋願了、同余五郎という者であった。

このような中、当国宇多、吉野、伊賀国名張の一揆等が悉く組み合って、伊勢国へ乱入した。
国司の北畠晴具はこれを防ぎ留めようとしたが、老臣たちは思案して
「あのような賤しき土民の奴原に、当家歴々の侍たちを差し向け防がせるという事は、本意ではありません、
その損害は少なからぬものとなります。」
(懸ル賤キ土民ノ奴原当家歴々ノ侍計を差向テ防カスヘキ事本意ニ非ス其損寡カラス)

と言って、当国山田庄の穢多非人を相催し、乞食多勢に紙小旗を指し連ねさせ、その旗には一様に『穢多』と
いう文字を書き付けて、武士の先に押し立て進ませた。
この勢に対し、流石の和州の一揆もこの小旗の文字を見ると
「いかなる賤しき我々と言っても、穢多非人を相手にして合戦は出来ない」
(イカナル賤キ我々ニテモ穢多非人ヲ相手ニシ合戦ハ成マシ)

と、それより散り散りに成った所を、先に進んでいた穢多を押しのけ、後ろから武士たちが進み出て
一揆を追い掛け追い詰めて、悉く討ち取り退治した。

『續應仁後記』

いわゆる一向一揆の伊勢乱入についてのお話。



70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/19(火) 15:18:53.47 ID:q4f1rUzL
鴈金屋(雁金、かりがね)が
贋金屋に見えてしまった

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/19(火) 19:15:42.69 ID:k6h9sKFp
エタ・ヒニン相手に合戦はできないって価値観
今の俺たちには分かりにくいな
庶民にとってすら「合わぬ敵」ってことなのかな

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/19(火) 22:56:37.49 ID:SLuxWB2U
武家が相手の戦なら武功を主張できるし、それを基に利権を得る事もできるが、
利権を持たない穢多非人を討った所で得られる利権もない、といった感じなのかな。

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/20(水) 21:01:31.00 ID:5ay5kml+
元寇で恩賞を貰えなかったのに近いかも

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/21(木) 17:52:36.05 ID:sLaPQUAP
>>72
関わることが恥になるから。

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 09:50:29.77 ID:XBGq6bG5
>>72
女兵士の首は手柄として認められないから女と戦うの嫌がったようなもんじゃね

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 13:53:59.98 ID:oTO4WNcs
戊辰戦争でも、農民兵を相手にできるか、って武士が言ってたって話もあるな。
なお、長州がエタヒニンで組織した部隊に、井伊の赤備えは壊滅させられた模様

北畠具教の滅亡

2020年03月07日 16:31

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:03:05.01 ID:4mIamn/1
天正四年には、織田信長公は近江国安土山に城を拵え給いて、岐阜は御子信忠へ譲られた。
同五月に大阪を攻め勝利を得られた。
またその年、伊勢国司北畠権中納言具教卿をも討った。

この北畠具教卿と申すは、心剛にして力も強く、塚原卜伝の一の弟子であり、兵法は一の太刀をも極められていた。
そのような人物であったので、信長の次男・信雄を養子にされたと雖も、自分の孫婿として田丸に置かれ、
主城である大河内には自らが居し、多気には子息の左中将信意(具房)を置いた。

信長はこの状況を然るべからずと思われたのか、去々年より、長島城に北伊勢四郡を副えて置いていた
滝川左近将監一益に、「国司(具教)並びに一味の大名共を謀り討て」と宣うた。
そこで一益は信雄と申し合わせ、鐘を合図として、ある朝国司の御所に押し寄せ、また同時に、北畠、大河内、坂、
名井、三瀬、羽瀬、長野などという一族を始めとして大名十三人を、味方の大名十三人の方へ呼び寄せて討った。

こうして北畠具教卿には味方が一人も無くなり、居合わせていた下臈たちも皆落ちていった。
しかし彼は究竟の強弓であったので、只一人門外に進み出て、差しつめ引きつめ、散々に射られると、矢庭に
鎧武者を多く射倒した。
そして殿中につつと入ると、大長刀を振るい斬って出て、また大勢の敵を薙ぎ伏せ、或いは十文字の鑓をかついで出、
或いは太刀を打ち振り斬って出、このように道具を持ち替え持ち替え兵法の秘術を尽くし給いし有様は、実に
雄々しく見えた。

卯の刻(午前六時ころ)から巳の刻(午前十時頃)まで戦い、遂に四十九歳にして討たれた。

こうして信雄は大河内城へ移った。国司の嫡男である北畠左中将信意については、「本より村上源氏の公家であるから」
として、京都に置かれた。次男は出家して奈良の東門院の御院家と申していたが、この事を聞いて、「如何様恨みを
散らさん」と、還俗して北畠具親と名乗り潜伏したが、恨みを遂げる力があるとも思われなかった。(この北畠具親に
ついては実在を確認できない)

氏鄕記



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:24:49.62 ID:D3fNQvLL
人間50年か
まるでドラマでのノブさんの最後のようだ

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:04:51.91 ID:oyNgTpDB
>>896
北畠信意は信雄ではないんだ

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:27:33.61 ID:4mIamn/1
>>898
どうもこの『氏郷記』は具房と信意(信雄)の諱を混同していると思われます。

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 13:08:04.80 ID:3FlUNxOP
https://i.imgur.com/RM8snGg.jpg
「信長の忍び」の具教暗殺場面
ドラマチックではない「刀も抜けずに殺された」
の方が真実な気がする

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:22:51.38 ID:z5ApWnH5
>>896
剣豪将軍らしい最後でこっちのが夢がある

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:34:24.41 ID:R5CMkxWC
>>901
剣豪将軍の話じゃないんだが?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 23:35:06.84 ID:jDbW28ko
ロマンと実際どうだったかって別やしなぁ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 08:46:07.12 ID:A/2T+4ly
>>902
将軍じゃなくて大名でした、失礼

飛騨の蛻庵狐

2014年03月29日 18:39

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/28(金) 20:55:12.83 ID:QvbjpiGx
今は昔の物語
飛騨の松倉城に三木秀綱という殿さまがいた。
殿様はある日、城の中に一匹の白狐を見つけた。
「白狐は稲荷神の使いと言うぞ」
と、白狐を大事にし、蛻庵(ぜいあん)と名付けた。
白狐も人を恐れる様子もなく、よく懐いていた。
奥方も若様も蛻庵を可愛がり、蛻庵もまだ幼い若様の相手をしたりして遊んでいた。
蛻庵はとても、幸せだった。

しかし世は戦国乱世。松倉城も、金森長近という荒武者に攻められた。
殿様は討死し、優しかった奥方も、若様も行方知れずになってしまった。
蛻庵も、もはやこれまでと思い燃え落ちてくる火をかいくぐって城から逃げ出した。
しかし、行くあてなど無い。蛻庵は家族も家も失った。

山をいくつも越え、ふらふらとさまよううち、蛻庵はとうとう信濃まで来てしまった。
その頃はもう冬のまっ最中、冷たい風が吹き荒れて一面真っ白な雪野原。
蛻庵はこのままでは死んでしまう、と思い切って人間に化けて、諏訪公に仕える千野兵庫という者の家に住み込んだという。
千野家では思いがけず、気のきく小者を雇ったと大喜びで、何かにつけて
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、呼び重宝がった。
ところがすっかり安心した蛻庵は、つい尻尾を出してしまった。
「もし、殿さま。蛻庵が尻尾を出しておりますが。」
家の人が主人に言いつけると、
「おいおい、声が大きいぞ。蛻庵に知れたらなんとする。わしもとうに気づいておるわ。蛻庵は白狐じゃ。だが狐でありながら、熱心に奉公しておるではないか。何か事情があるのだろうよ、そのままにしておけ。」
と、家人をたしなめた。
ところが蛻庵はこの話を物陰から、じっと聞いていた。
「なんと優しき殿さまか・・・狐と知りながら、こんなにも大事にしてくださる。末長くこの家で働きたい。しかし、狐とばれてしまっては、殿さまにどのような噂がたつともわからない・・・」
蛻庵は書き置きを残し、そっと千野家を抜け出していった。
手紙には涙の跡が、残っていた。
そしてまた、蛻庵のあてのない旅が始まった。

つづく

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/28(金) 20:58:26.07 ID:QvbjpiGx
つづき

そして流れ流れて木曽の興禅寺に辿り着いた。
蛻庵は今度は僧侶に化け
「修行中の者です。蛻庵と申します。どうぞ私を使ってください。」
と、頼んだ。
住職の桂岳和尚は、大変に偉い人で蛻庵をすぐ狐と見破った。
しかし、蛻庵の正直な心根も見抜いていた。                  
そこでなにくわぬ顔で、
「ふむ、なかなか見どころがありそうじゃ、では当寺の手伝いをしてもらおう。」
と、寺に住み込めることになった。
もとより利口な蛻庵のこと、よく気がつくし、陰日向なく一生懸命に働き、お寺では、
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、大事にされた。
小坊主たちや檀家の人たちにも、親切に接するので、
「蛻庵さま、蛻庵さま」
と、したわれておったという。
とうとう人柄を見込んだ商家の主が
「蛻庵さまを是非わが家の婿に」
と言い出したが、これは和尚様が角が立たぬよう断ってくれた。
蛻庵はやっと、穏やかな日々を手に入れた。

831 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:13:25.28 ID:QvbjpiGx
ある冬の日のこと、興禅寺では下呂の安国寺に用ができ、その使いに蛻庵が選ばれた。
和尚「蛻庵よ、道中くれぐれも気をつけて行って来ておくれ。お主のことだから心配は無いがの。」
蛻庵「はい、和尚さま。きっとやり遂げます。」
蛻庵は旅支度を整え、和尚様からの大切な手紙はしっかりと油紙にくるんで、懐に縫い付けた。
次の朝、蛻庵は暗いうちに興禅寺を出た。
信濃を抜け、なつかしき飛騨の山々を見ながら旅を続け、日和田に着いた頃には、短い冬の日は、とっぷりと暮れていた。」
蛻庵は、とある農家を訪ね、宿を請うた。
ところが飛騨の山中のこと、冬は猟師をして暮らしをたてている農家は多い。
この家の主人もまた猟師だった。
夕飯も終え、囲炉裏火に手をかざすと蛻庵は、旅の疲れから、うつらうつらと眠ってしまった。
実は主人は手練れの猟師だったために、蛻庵の正体を見抜いていた。
「この古狐め、うまく化けたと思っても、わしの目はごまかせんぞ。」
主人は、そうっと鉄砲に弾を込めた。
蛻庵は旅の疲れからか気づく様子もなく眠ったまま。
主人は銃をかまえ
「ズダーン」

832 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:16:54.72 ID:QvbjpiGx
蛻庵は悲鳴をあげると、みるみる狐に姿を変え、そのまま息が絶えた。
主人がしてやったりと死骸をあらためてみると、懐から血染めの手紙が出て来た。
表書きを見ると、下呂の安国寺の住職あて、木曽の興禅寺の桂岳和尚よりではないか。
「これには何か深いわけがあるに違いない」
主人は殺した狐をあらためて見直した。
よくよく見れば、銀色に光るふさふさした毛の見事さ、狐とはいえ気品の高い白狐ではないか。
主人は急いで、狐の死骸を興禅寺へ運び、和尚さまに、わけを話しねんごろに弔ってもらった。

しかしそれから日和田村に、恐ろしい病がはやり出し、蛻庵を殺した猟師の家が真っ先に死に絶えてしまった。
「これは罪もない蛻庵を殺した祟りに違いない」
と村人は興禅寺に駆けつけ、事の次第を話し、蛻庵の供養をねんごろにしてもらった。
すると疫病はみるみる収まり、村は助かった。
そしてこの時以来、日和田村は興禅寺の檀家になっているという。

そしてこの話の証拠に、興禅寺には蛻庵が書き写した般若経があるそうな。

833 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:20:09.94 ID:QvbjpiGx
飛騨の蛻庵狐って昔話です。
長話スマン




834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 01:33:10.51 ID:6qWEkOw+
化けるのが下手な狐だな。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:46:18.18 ID:AD0ukCy7
>>832
悲しいけどいい話じゃないのかと思ったら祟るんかいw
狐が恐れられるのも無理からぬ話じゃ

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:57:01.58 ID:IoZIcL5Q
狐が憑いて金持ちになっても要求を満たさなくなったらご破算になるし
わしはここ数年、競馬に行っておらんから狐に憑いてもらっておらんが

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:57:41.39 ID:uzzzTD31
四国は大師様が狐を追い出したからその心配はなし

川原御所の事件

2013年09月11日 20:09

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 18:01:38.78 ID:4Inlku3Z
永禄5年正月六日、晴天で東風が少し吹いていた。
同二日浪岡御所様(北畠具運)は昨夜至極の悪夢を御覧になり、
奥方も悪夢を見られた為、御祈祷を色々と被りなされた所、
三日には雪が降り大風が吹いて全く不思議なことであると人々は言っていたが、

四月五日に川原の御所(北畠具信)御親子は大御所へ切り入り、
大騒動となり城中防いでいたが終に大御所を殺害し川原の御所御親子も切られて、
家中の者は散々に逃げ去った。
御所様の御息子三郎殿(北畠顕村)は当時五歳であり、
北畠左近の計らいで養育して三郎兵衛殿と改名なさったが、その後浪岡譜代の武士も多く浪人となった。

『本藩通観日記』より、名門浪岡北畠氏の衰退が決定的となった川原御所の事件でした。





信長の伊勢攻めと鳥屋尾満栄

2010年11月07日 00:00

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 01:51:38 ID:AWA8RrQz
攻めるも守るも伊勢侍

鳥屋尾満栄さんのカテゴリーが単独でないようなので一筆。

織田信長の伊勢侵攻で北畠具教の立て籠もる大河内城が包囲された。
立て籠もるのは筆頭家老鳥屋尾満栄他伊勢の豪族衆。
これを包囲するのは羽柴秀吉によって津・関から集められた柘植・神戸などの伊勢衆であった。

満栄の機転で大河内城には事前に兵糧が蓄えられていたが
兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が信長に寝返るなどの悪条件も重なり、圧倒的兵力による
包囲で城は落ち、北畠家は信長の次男・織田信雄が養子として入り、満栄も信雄に付けられた。

後に具教は信雄に謀殺されたが満栄は北畠遺児を山名家に匿い、
後に御家再興を果たしている。




424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 07:54:26 ID:OokD/8Qd
信長の伊勢侵攻って小説等では大概さらっと流されちゃうよねw
どうしてなんだ?

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 09:09:18 ID:JXdQMnCt
>>424
盛り上がりにかけるからじゃね?
瞬殺されてるだけだし

六角承禎戦もさらっと流すよね

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 09:54:57 ID:C7OpFNAB
政治的な根回しが上手いからどんどん切り崩しちゃうんだよね

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 10:03:32 ID:4Yj7Rl2q
北畠って国司が戦国大名やってるレアな例なのにあっさり滅亡は
なんかもったいない

北畠信雄、神戸信孝も伊勢調略の産物だよな

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 10:10:03 ID:6Dfm35oK
>>426
瞬殺って事より、北畠も神戸も信長は、最終的に騙し討と言っていいえげつない方法で
処理してるからねえ。
信長主人公にするなら見てて気分の良いものではないから、そのへんあえてスルーするんだろうな。

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 10:17:53 ID:0dUyMYLw
どの小説も大きく扱うポイントが大体一緒だよねぇ
三国志もそうだけど同じ視点の小説ばっかってつまんない……ってスレ違いか

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 10:32:56 ID:A50hw+HU
信長の伊勢攻略は海道龍一朗の「乱世疾走 禁中御庭者綺譚」という小説が北畠側の視点から
比較的詳しく扱ってたなあ。
http://lounge.cafe.coocan.jp/novels/isbn4101250421.php

視点的に面白い切り口だったんで期待していたのだが、続き物のはずなのに続きが出ず
あまつさえ絶版だがw;

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 12:07:50 ID:V6VLCovx
以前にテレビで今でも地元は信長怨み節だということをやっていたような>伊勢侵攻

姉小路秀綱の呪い

2010年04月07日 00:04

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/06(火) 20:01:50 ID:+pcusfxy
姉小路秀綱の呪い

姉小路氏は柴田勝家、佐々成政と手を結んで羽柴秀吉と対立したため
1583年羽柴方の金森長近の攻撃を受ける。

姉小路頼綱は早々に降伏したが、その息子である秀綱は居城松倉城に篭城し
金森軍と激闘を繰り広げた。
しかし城方に内通者が出たため城は落城、秀綱は妻等を連れて信州方面へ落ち延びた。
その途中金品目当ての土民達の襲撃を受け、一行は秀綱を除き皆殺しにされ
秀綱も瀕死の重傷を負ってしまう。

土民達が金品を取り上げようとする前に秀綱は最後の力を振り絞り
呪詛の言葉を唱え、金品が入った袋を川に投げ入れると力尽きた。
土民達は金品を回収しようと川を捜したが、結局見つけることは出来なかった。

そして数日後
襲撃に参加した土民達は口々にあらぬことを口走るようになり、ついには狂い死にしてしまった。
このような事がたびたび続いたためこれは人々は秀綱の怨霊の仕業であるとして
秀綱の霊を慰めるため秀綱神社を建立したという。




903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/06(火) 21:59:33 ID:WYgum1Dj
こういう呪いの神社系は地域ごとに結構あるもんだな
金田一探偵が活躍できたわけだ

とある倭臣の禁書目録

2010年01月24日 00:02

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/23(土) 07:03:01 ID:gRMr77lU
とある倭臣の禁書目録

永禄11年、織田信長軍の伊勢侵攻の折に伊勢国司である北畠具教の
弟,木造具政は一つの決断を迫られていた。
具政「このまま兄と共に織田軍と戦うか,それとも思い切って反旗を翻し織田家に与するか」
この重大な決断に際して織田派か北畠派か意見が分かれる中,木造家重臣である
柘植三郎左衛門保重は口を開いた
柘植「主家に叛き織田に付き従えましょう」
具政「うむ、しかしそなたの息子は北畠家に人質として残っておる
 もし兄に叛いたら,そなたの子もただでは済むまい。。良いのか?」
柘植「重々承知しております」


かくして木造具政は北畠を捨て織田家に寝返り織田軍の伊勢侵攻の道案内役を
勤めることになる。もちろん人質の保重の息子はry

そしてこの人物,主君である具政を織田家に味方させた功を認められ北畠の名跡を継いだ信雄の直臣に
抜擢される事となる。しかし人質であった息子の命を掛けてまで主君を説得し出世を遂げた
彼の栄光はそう長くは続かなかった

時は下り天正7年、伊賀の豪族の不穏な動きを察知した保重は信雄に一つの提案を持ちかけた
保重「伊賀国の情勢が不穏な今こそ,討伐の軍を起こすべきです」
信雄「しかし勝手に軍を動かすことは父上に止められておる」
保重「此度が絶好の好機でございまする。相手は所詮,片田舎の土豪共,精強な伊勢の兵と
  強力な鉄砲部隊の前には手も足も出ますまい」
信雄「そ,そこまで言うなら,よし出陣の準備じゃ」

実は何故に保重がここまで伊賀侵攻にこだわったかと言うと、この人の領地の
すぐ近くであり,伊賀の土豪達が目障りであったから主君を巻き込んで討伐を進言した
とういう説がある。ちなみにこれが俗にいう第一次天正伊賀の乱ある

しかし結果はご存知のとうり信雄1万は伊賀の諸豪族の奇襲作戦の前に惨敗を喫し
保重にいたっては伊賀豪族の植田光次の強襲をうけ討ち死。
さらに,この責任を問われた信雄は信長の叱責を受け信頼を失うこととなる

主家である北畠を裏切り,息子を死なせ,状況を見誤った判断で主君の株を
下げた悲しい家臣の末路です。やはり人間は人道に背いてはいけない,そんなお話し




962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 13:56:33 ID:Ax3i9TjJ
>>959
人道に叛かなければ叛かないで「馬鹿だから滅んだ」になるから困るw

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 16:31:49 ID:ndM7juZQ
突出した戦上手だと人道を守って零落しても復活したり出来るし滅んでも武名上がるだけ

戦国の世の中結局力か

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 16:43:18 ID:FhkcJgLR
>>963
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/index.html
高橋、立花軍は、作戦も陣形も上手。
でも立花の家来はいろいろ有名な武将が多いけど、玉砕した高橋の家来は無名なのが多い。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 16:53:10 ID:QCziW0Pb
別に離反自体は非難されることでもないし、戦に負けたのは人道とかの問題じゃないしねえ

そんなこと言っていたら、信長秀吉家康信玄謙信元就その他はどうなるのかと

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 16:55:31 ID:nofcY51S
他家を乗っ取って前線で戦わされて半独立行動を許される様な立場だから
作戦立案とか陣立に長じるのは当たり前というか、状況が許さないだろう
というか、そうでなかったら家が絶えてる

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 17:34:40 ID:ViykMY8V
>>965
宇喜多直家「まったく非道い奴らだな」

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 18:36:56 ID:i8/hBlDC
>>965
松永久秀「まったく。武士の風上にも置けんな」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 18:58:29 ID:smOWn7FJ
>>965
伊達政宗「そうそう、毎度バレてパフォーマンスでごまかすなんて無いわ」

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 19:06:31 ID:uZwM5JsV
>>965
藤堂高虎「武士たるもの、一人の主君に忠節を尽くすべきだよね」

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 19:08:04 ID:MTDGHYid
お前たちwwwいつまでwww

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 19:17:41 ID:ePs8T7i6
>>965
小田氏治「日頃の行いさえ正しければ、百戦百勝さ。」

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 20:06:19 ID:vcTfwB+/
>>959
目先の欲に釣られて自滅した典型とも言えるね。

藤方入道慶田の「武士の義」

2009年12月29日 00:41

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:05:03 ID:XvFNtzYV
天正4年(1576)11月25日、織田信長の命による北畠具教の謀殺。
後世に言う「三瀬の変」が起こる。

元の国司、北畠具教に対し、北畠譜代の士である藤方刑部少輔朝成、滝川三郎兵衛、長野左京亮らが
刺客として向かうことを命ぜられ、彼らは元の主君を殺した。
藤方は自らは出向かず、家臣の加留左京を名代として行かせた。

この頃、藤方朝成の父、入道慶田は、北畠家に送り込まれた織田信雄の居城、田丸城に
人質としてとられていた。
具教謀殺を聞いた慶田は悲嘆にくれ、それに参加した息子朝成を口を極めて批判した。
曰く、人倫に非らず。

朝成これに
「私も本意ではありませんでした。が、父上が人質として田丸におられたのです!
その為仕方なく、この企てに参加したのです!」

「それが間違っておる!」

慶田は言う
「この企てを聞いたとき、お前は速やかに具教様にご報告し、共に織田と戦い命を捨てるべきであった。
そのうえでわしが磔になれば、それこそ当家の面目と言うべきではないか!
お主は武士の義を知らぬ!」

入道慶田はその後、自ら命を絶った。切腹だとも、入水したのだとも言われる。

信長の北畠一族謀殺の中で起こった、悲劇の一つである。




399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:38:49 ID:XQTJGUPJ
信長の命令なら仕方ない

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:53:59 ID:lBsAIquP
え?進撃止めの命令が殿から?
そんなんしらね。信濃甲斐の城は全部攻め落としてやるぜえええええええええええ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 16:44:20 ID:0HUrnFpJ
>>398

しかも自分の手は汚さない小狡さ。
だが、こういうこすい奴が結局は生き残って家名を残してゆくんだな。

平成の世にまで汚名が伝わる羽目にはなっているが。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 17:03:08 ID:8DnLaP79
しかし、北畠は南朝が完膚なきまでに打ちのめされた時、滅亡しておかしくなかった
ここまで、よくも伊勢の雄として存続したよ…

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 17:24:07 ID:AuUBKWNH
後南朝の時もやられてるしな
戦国に入るころから六角、細川と急接近した辺りが奏功した感じ

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 18:09:24 ID:4iMd+H3r
北畠って、公衆便所みたいな所の便槽に吊るされて
死んだんじゃなかったっけ?

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 21:05:09 ID:G9mHKhgu
足利義輝みたいな感じの最期じゃね?

伊勢国治田城主,楠木正具、義将の末裔

2009年10月09日 00:15

218 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/08(木) 00:58:36 ID:PWh5S07b
伊勢つながりで

義将の末裔

永禄11年信長の北伊勢侵攻の際,北伊勢の諸豪族は激しく抵抗した
その中でも一際激しく抵抗したのが伊勢国治田城主,楠木正具...
あの楠木正成公の子孫である

彼は手勢わずか500ながら正成ばりのゲリラ作戦や夜襲,ヤケクソ戦法で
織田軍を翻弄,苦戦させる
特に前年,永禄10年の信長軍の侵攻の際には偽りの降伏作戦を用いて時間稼ぎを
している間に本国,美濃の不穏の動きや武田家の織田領侵攻という偽報を流し
主力部隊の撤退に成功させている

しかし結局は衆寡敵せず織田軍の包囲作戦に落城寸前、絶体絶命
この時,またしても正具は一計を案じた
正具は足立新五郎という忍びを長島願証寺に遣わせ,かねてから親交のある
服部左京亮に援軍を要請。門徒兵を織田軍に忍び込ませ敵陣をかく乱し
甚大な被害を与え,とうとう治田城を落とせなかった

結局,彼は主家である北畠降伏後も石山本願寺に指導者的立場で入城し
天正4年石山合戦のさなかに織田軍の流れ弾にあたり絶命した,享年61歳であった





219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 01:21:47 ID:+poULN9O
楠木って戦国時代まで北畠と一緒にいたのか?

220 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/08(木) 01:29:20 ID:PWh5S07b
たしか楠木正成の姉か妹が伊賀の上嶋っていう豪族に嫁いだっていう
記録があるから,その辺の繋がりはあったと思う
北畠も楠木も同じ南朝側だし

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 01:35:41 ID:qrC1Ob32
それに比べて楠長譜ときたら

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 02:53:06 ID:LJyLjb3c
この楠木さんは 楠木正儀の子孫?



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 06:06:35 ID:dh2o8j7h
>>219
南北朝が一つになったあとも楠木氏は各地に潜んで抵抗を続けていたらしい。
そのうちの一派が応永の乱の際に大内方として堺に籠城
落城時に北畠氏に匿われ、そのまま伊勢に土着した。

この家系からは村正の弟子として刀匠になった人物や
禁闕の変の実行者になった人物が出ている。


224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/08(木) 06:16:16 ID:PWh5S07b
たしか正義の子孫の楠木正盛という人が応仁の乱で京から落ち延びて
来た所を北畠に匿われて,正盛の三男の正威が楠山城を建てたのが
伊勢楠木氏の始まりとされます

ちなみに正盛の長男の正重は,なぜか家を継がず(継げず?)伊勢で
代々続く刀匠の家となって後の時代の剣豪国司,北畠具教の刀も
正重が作ったと云われています


225 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/08(木) 06:22:55 ID:PWh5S07b
たしか正義の子孫の楠木正盛という人が応仁の乱で京から落ち延びて
来た所を北畠に匿われて,正盛の三男の正威が楠山城を築城したのが
伊勢楠木氏の始まりです

ちなみに正盛の長男の正重はなぜか家を継がず(継げず?)伊勢で
代々続く刀匠の家になり後の世の剣豪国司北畠具教の刀も
彼の子孫が作った話が残っています


228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 08:40:06 ID:2I50u3RW
>>222
楠木正成の三男・正儀の子供である正勝が正具の祖先。

>>224-225
>>218の正具はその話の正盛の直系じゃないよ。
そっちの子孫は由比小雪。

by Wikipedia

北畠具教の家臣、家城之清 「槍の主水」の忠誠

2009年07月04日 00:04

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 17:11:21 ID:6Tj5LVC2
北畠具教の家臣に家城之清という老臣がいた。家城は「槍の主水」と仇名されるほどの
槍の上手で、信長の大河内城攻めに際しても初戦の池田恒興との戦いにおいて
功の第一とされるほどである。

この大河内城攻め、緒戦において北畠家は一度も敗退しなかったものの、結局は
信長の子・茶筅を当主・具房の養子とする事実上の敗北となった。しかも領内の関所及び
幾つかの城を廃却するようにと命じられてしまった。
しかし一度も負けを喫していないこともあり、これに納得できぬ者たちも多かった。
結果、廃城となる予定であった曽原城の城主・天花寺小次郎はこれを不服として籠城、
同じ従騎大将であった家城もこれに加勢すべく曽原城へと入ったのである。

籠城も二年以上に及んだあるとき、中々これを落とせなかった織田掃部は遂に
具房に出陣を要請する。
家城、曽原城を囲む軍に主君の旗が聳えるを知り、「主君には弓を引けぬ」と
仁よりも義を取る道を選ぶ。
結果、家城は曽原城を出て、この囲む軍に参加していた船江衆へと加わり、
逆に曽原城を討つ側にまわる。家城の抜けた曽原城は天花寺共々滅亡するに至った。

この家城、家中の者らが次々と織田方に靡く中にあっても北畠家への忠義を貫く。
信長に具教ら北畠の者らが討たれた際も旧主を裏切らず、具教の弟である具親の
起こした反乱軍に参加、しかし元同輩らとの戦いに敗れ防戦するも三瀬の地で討ち取られた。





997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 17:32:09 ID:T+RS0Faa
>>996
北畠具房も利用されるだけの悲惨な生涯だなあ…。


北畠具房の哀れ・悪い話

2009年03月02日 00:11

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:18:36 ID:PnLNiH/e
伊勢の北畠具教には三人の子供がいた。
そのうち長男で、伊勢国司を継いのは北畠具房だが、
この男、大変太っており、普段の運動すら自由ではなかったそうだ。

そのため伊勢の国人たちは、具房を「太りの御所」と呼んで馬鹿にしていた。
しかもうつけ者で、麦と豆の違いも分からないような有様で、何の役にも立たない男だと思われていた。


のち、信長の手による、北畠一族の粛清が行われた。


北畠の者は、幼児まで惨殺されたにも拘らず、この具房だけが、命を助けられた。

惨たらしく殺された者より、生かされた者の方に、はるかに哀れを感じる。
そんなお話。




492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:21:12 ID:48NJ01jb
根切りする価値すらない、と

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:59:12 ID:k4ahZr4k
醜ければ生かせ。同情をさそう者ならば殺せ。

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 23:07:54 ID:R1ctJEs0
六韜三略の教えに似たようなのがあったな
「切れ者の使者には何も持たせず返せ 馬鹿の使者には盛大に褒美を与えて返せ」
だったか。
コレをやられたのが大蔵卿局(淀の方の乳母→側近)。

北畠老臣、信長を疑惑す

2009年02月18日 04:39

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 11:30:43 ID:HZEj7cyK
天正四年の正月の事である。北畠具教、具房親子は、年頭の挨拶のため、譜代の老臣
鳥屋尾石見守を使者として、岐阜城へと遣わした。

ところが信長はこの使者を待たせたまま対面しようとしない。鳥屋尾は怒って帰ろうとしたが
それを聞いた信長は人を遣わして鳥屋尾を連れ戻した。

しかし信長は戻ってきた鳥屋尾に対し、庭の白洲に進物の品を置かせたまま、
自分は縁側に立って刀を抜き放ち、それを振るいながら鳥屋尾を睨み付けた。

鳥屋尾はこの信長の態度を見て、信長が北畠を滅ぼそうとしていると確信した、と言う。


信長、信雄による北畠一族の粛清が行われるのは、この年の11月25日の事であった。




117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 12:44:06 ID:LNa3HgZO
いや、超ヒントじゃん。
何やすやすと潰されてんの北畠w

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 13:50:48 ID:K2EfIuT3
>>115
よくわからんのだが信長のこの行動は何を目的にしてやってんだろう?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 14:38:27 ID:X3jsr7qd
>自分は縁側に立って刀を抜き放ち、それを振るいながら鳥屋尾を睨み付けた。

想像したらちょっと笑える絵図だ
客の前でぶんぶん刀を振って睨んでるってw
きっと信長は刀を振ってる自分に鳥屋尾さんのコメントが欲しかったんだよ





続き
北畠遺臣、光秀に味方す
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1378.html


北畠遺臣、光秀に味方す

2009年02月18日 04:38

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 17:39:44 ID:FqmpF4K2
北畠氏落城後、残党の中に明智光秀に味方をした一団がいた。

三瀬の変の生き残りである、北畠具教の弟具親と大宮多気丸の一党である。
彼らは、山中に隠れ住み機会をねらっていたのだが、織田信長が本能寺へ入るという情報を得た
大宮多気丸、鳥屋尾内蔵助ら残党は、主君北畠具教を汚い謀略で暗殺した信長に怨みを晴らさん
と本能寺の近くに潜んでいた。

そこへ早馬が飛んできた。「信長、本能寺にて明智光秀に討たる!」
なんと、一足先に明智光秀によって信長親子は殺されたのである。
「一足遅かったか」と嘆いてはみたが、怨敵信長が討たれたことはめでたいことだと祝宴をあげた。
今後は明智光秀にお味方しようと、安土城にいる光秀の傘下に入ったという。

彼らはそれから11日後に、京都山崎の合戦にて全員討死した。
鳥屋尾内蔵助は鳥屋尾石見守の遺児であったという。




122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 17:44:56 ID:HZEj7cyK
>>121
続きがあったのか!このスレはすごいな。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 20:24:01 ID:YLkg7Z7z
>>121
内蔵助って名乗ると、平穏には死ねないのかね

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 21:54:30 ID:F3TkaB/Q
微妙にいいはなしじゃね?w

125 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/17(火) 22:48:13 ID:R5jxE0dE
>>124
南朝遺臣としての武家の北畠家本流としてはその後も再興できなかった…

まったくの無駄死にw

128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/18(水) 01:28:38 ID:PG/rVQKn
北畠家は武家か?

130 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/18(水) 02:21:05 ID:tWfEE0Ud
>>128
公家だけど、滅亡直前には武家といっても通用すると思ってそういう書き方をしてみた




参考
北畠老臣、信長を疑惑す
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1379.html