飛騨の蛻庵狐

2014年03月29日 18:39

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/28(金) 20:55:12.83 ID:QvbjpiGx
今は昔の物語
飛騨の松倉城に三木秀綱という殿さまがいた。
殿様はある日、城の中に一匹の白狐を見つけた。
「白狐は稲荷神の使いと言うぞ」
と、白狐を大事にし、蛻庵(ぜいあん)と名付けた。
白狐も人を恐れる様子もなく、よく懐いていた。
奥方も若様も蛻庵を可愛がり、蛻庵もまだ幼い若様の相手をしたりして遊んでいた。
蛻庵はとても、幸せだった。

しかし世は戦国乱世。松倉城も、金森長近という荒武者に攻められた。
殿様は討死し、優しかった奥方も、若様も行方知れずになってしまった。
蛻庵も、もはやこれまでと思い燃え落ちてくる火をかいくぐって城から逃げ出した。
しかし、行くあてなど無い。蛻庵は家族も家も失った。

山をいくつも越え、ふらふらとさまよううち、蛻庵はとうとう信濃まで来てしまった。
その頃はもう冬のまっ最中、冷たい風が吹き荒れて一面真っ白な雪野原。
蛻庵はこのままでは死んでしまう、と思い切って人間に化けて、諏訪公に仕える千野兵庫という者の家に住み込んだという。
千野家では思いがけず、気のきく小者を雇ったと大喜びで、何かにつけて
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、呼び重宝がった。
ところがすっかり安心した蛻庵は、つい尻尾を出してしまった。
「もし、殿さま。蛻庵が尻尾を出しておりますが。」
家の人が主人に言いつけると、
「おいおい、声が大きいぞ。蛻庵に知れたらなんとする。わしもとうに気づいておるわ。蛻庵は白狐じゃ。だが狐でありながら、熱心に奉公しておるではないか。何か事情があるのだろうよ、そのままにしておけ。」
と、家人をたしなめた。
ところが蛻庵はこの話を物陰から、じっと聞いていた。
「なんと優しき殿さまか・・・狐と知りながら、こんなにも大事にしてくださる。末長くこの家で働きたい。しかし、狐とばれてしまっては、殿さまにどのような噂がたつともわからない・・・」
蛻庵は書き置きを残し、そっと千野家を抜け出していった。
手紙には涙の跡が、残っていた。
そしてまた、蛻庵のあてのない旅が始まった。

つづく

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/28(金) 20:58:26.07 ID:QvbjpiGx
つづき

そして流れ流れて木曽の興禅寺に辿り着いた。
蛻庵は今度は僧侶に化け
「修行中の者です。蛻庵と申します。どうぞ私を使ってください。」
と、頼んだ。
住職の桂岳和尚は、大変に偉い人で蛻庵をすぐ狐と見破った。
しかし、蛻庵の正直な心根も見抜いていた。                  
そこでなにくわぬ顔で、
「ふむ、なかなか見どころがありそうじゃ、では当寺の手伝いをしてもらおう。」
と、寺に住み込めることになった。
もとより利口な蛻庵のこと、よく気がつくし、陰日向なく一生懸命に働き、お寺では、
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、大事にされた。
小坊主たちや檀家の人たちにも、親切に接するので、
「蛻庵さま、蛻庵さま」
と、したわれておったという。
とうとう人柄を見込んだ商家の主が
「蛻庵さまを是非わが家の婿に」
と言い出したが、これは和尚様が角が立たぬよう断ってくれた。
蛻庵はやっと、穏やかな日々を手に入れた。

831 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:13:25.28 ID:QvbjpiGx
ある冬の日のこと、興禅寺では下呂の安国寺に用ができ、その使いに蛻庵が選ばれた。
和尚「蛻庵よ、道中くれぐれも気をつけて行って来ておくれ。お主のことだから心配は無いがの。」
蛻庵「はい、和尚さま。きっとやり遂げます。」
蛻庵は旅支度を整え、和尚様からの大切な手紙はしっかりと油紙にくるんで、懐に縫い付けた。
次の朝、蛻庵は暗いうちに興禅寺を出た。
信濃を抜け、なつかしき飛騨の山々を見ながら旅を続け、日和田に着いた頃には、短い冬の日は、とっぷりと暮れていた。」
蛻庵は、とある農家を訪ね、宿を請うた。
ところが飛騨の山中のこと、冬は猟師をして暮らしをたてている農家は多い。
この家の主人もまた猟師だった。
夕飯も終え、囲炉裏火に手をかざすと蛻庵は、旅の疲れから、うつらうつらと眠ってしまった。
実は主人は手練れの猟師だったために、蛻庵の正体を見抜いていた。
「この古狐め、うまく化けたと思っても、わしの目はごまかせんぞ。」
主人は、そうっと鉄砲に弾を込めた。
蛻庵は旅の疲れからか気づく様子もなく眠ったまま。
主人は銃をかまえ
「ズダーン」

832 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:16:54.72 ID:QvbjpiGx
蛻庵は悲鳴をあげると、みるみる狐に姿を変え、そのまま息が絶えた。
主人がしてやったりと死骸をあらためてみると、懐から血染めの手紙が出て来た。
表書きを見ると、下呂の安国寺の住職あて、木曽の興禅寺の桂岳和尚よりではないか。
「これには何か深いわけがあるに違いない」
主人は殺した狐をあらためて見直した。
よくよく見れば、銀色に光るふさふさした毛の見事さ、狐とはいえ気品の高い白狐ではないか。
主人は急いで、狐の死骸を興禅寺へ運び、和尚さまに、わけを話しねんごろに弔ってもらった。

しかしそれから日和田村に、恐ろしい病がはやり出し、蛻庵を殺した猟師の家が真っ先に死に絶えてしまった。
「これは罪もない蛻庵を殺した祟りに違いない」
と村人は興禅寺に駆けつけ、事の次第を話し、蛻庵の供養をねんごろにしてもらった。
すると疫病はみるみる収まり、村は助かった。
そしてこの時以来、日和田村は興禅寺の檀家になっているという。

そしてこの話の証拠に、興禅寺には蛻庵が書き写した般若経があるそうな。

833 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:20:09.94 ID:QvbjpiGx
飛騨の蛻庵狐って昔話です。
長話スマン




834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 01:33:10.51 ID:6qWEkOw+
化けるのが下手な狐だな。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:46:18.18 ID:AD0ukCy7
>>832
悲しいけどいい話じゃないのかと思ったら祟るんかいw
狐が恐れられるのも無理からぬ話じゃ

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:57:01.58 ID:IoZIcL5Q
狐が憑いて金持ちになっても要求を満たさなくなったらご破算になるし
わしはここ数年、競馬に行っておらんから狐に憑いてもらっておらんが

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:57:41.39 ID:uzzzTD31
四国は大師様が狐を追い出したからその心配はなし

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川原御所の事件

2013年09月11日 20:09

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 18:01:38.78 ID:4Inlku3Z
永禄5年正月六日、晴天で東風が少し吹いていた。
同二日浪岡御所様(北畠具運)は昨夜至極の悪夢を御覧になり、
奥方も悪夢を見られた為、御祈祷を色々と被りなされた所、
三日には雪が降り大風が吹いて全く不思議なことであると人々は言っていたが、

四月五日に川原の御所(北畠具信)御親子は大御所へ切り入り、
大騒動となり城中防いでいたが終に大御所を殺害し川原の御所御親子も切られて、
家中の者は散々に逃げ去った。
御所様の御息子三郎殿(北畠顕村)は当時五歳であり、
北畠左近の計らいで養育して三郎兵衛殿と改名なさったが、その後浪岡譜代の武士も多く浪人となった。

『本藩通観日記』より、名門浪岡北畠氏の衰退が決定的となった川原御所の事件でした。





信長の伊勢攻めと鳥屋尾満栄

2010年11月07日 00:00

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 01:51:38 ID:AWA8RrQz
攻めるも守るも伊勢侍

鳥屋尾満栄さんのカテゴリーが単独でないようなので一筆。

織田信長の伊勢侵攻で北畠具教の立て籠もる大河内城が包囲された。
立て籠もるのは筆頭家老鳥屋尾満栄他伊勢の豪族衆。
これを包囲するのは羽柴秀吉によって津・関から集められた柘植・神戸などの伊勢衆であった。

満栄の機転で大河内城には事前に兵糧が蓄えられていたが
兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が信長に寝返るなどの悪条件も重なり、圧倒的兵力による
包囲で城は落ち、北畠家は信長の次男・織田信雄が養子として入り、満栄も信雄に付けられた。

後に具教は信雄に謀殺されたが満栄は北畠遺児を山名家に匿い、
後に御家再興を果たしている。




424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 07:54:26 ID:OokD/8Qd
信長の伊勢侵攻って小説等では大概さらっと流されちゃうよねw
どうしてなんだ?

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 09:09:18 ID:JXdQMnCt
>>424
盛り上がりにかけるからじゃね?
瞬殺されてるだけだし

六角承禎戦もさらっと流すよね

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 09:54:57 ID:C7OpFNAB
政治的な根回しが上手いからどんどん切り崩しちゃうんだよね

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 10:03:32 ID:4Yj7Rl2q
北畠って国司が戦国大名やってるレアな例なのにあっさり滅亡は
なんかもったいない

北畠信雄、神戸信孝も伊勢調略の産物だよな

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 10:10:03 ID:6Dfm35oK
>>426
瞬殺って事より、北畠も神戸も信長は、最終的に騙し討と言っていいえげつない方法で
処理してるからねえ。
信長主人公にするなら見てて気分の良いものではないから、そのへんあえてスルーするんだろうな。

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 10:17:53 ID:0dUyMYLw
どの小説も大きく扱うポイントが大体一緒だよねぇ
三国志もそうだけど同じ視点の小説ばっかってつまんない……ってスレ違いか

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 10:32:56 ID:A50hw+HU
信長の伊勢攻略は海道龍一朗の「乱世疾走 禁中御庭者綺譚」という小説が北畠側の視点から
比較的詳しく扱ってたなあ。
http://lounge.cafe.coocan.jp/novels/isbn4101250421.php

視点的に面白い切り口だったんで期待していたのだが、続き物のはずなのに続きが出ず
あまつさえ絶版だがw;

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 12:07:50 ID:V6VLCovx
以前にテレビで今でも地元は信長怨み節だということをやっていたような>伊勢侵攻

姉小路秀綱の呪い

2010年04月07日 00:04

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/06(火) 20:01:50 ID:+pcusfxy
姉小路秀綱の呪い

姉小路氏は柴田勝家、佐々成政と手を結んで羽柴秀吉と対立したため
1583年羽柴方の金森長近の攻撃を受ける。

姉小路頼綱は早々に降伏したが、その息子である秀綱は居城松倉城に篭城し
金森軍と激闘を繰り広げた。
しかし城方に内通者が出たため城は落城、秀綱は妻等を連れて信州方面へ落ち延びた。
その途中金品目当ての土民達の襲撃を受け、一行は秀綱を除き皆殺しにされ
秀綱も瀕死の重傷を負ってしまう。

土民達が金品を取り上げようとする前に秀綱は最後の力を振り絞り
呪詛の言葉を唱え、金品が入った袋を川に投げ入れると力尽きた。
土民達は金品を回収しようと川を捜したが、結局見つけることは出来なかった。

そして数日後
襲撃に参加した土民達は口々にあらぬことを口走るようになり、ついには狂い死にしてしまった。
このような事がたびたび続いたためこれは人々は秀綱の怨霊の仕業であるとして
秀綱の霊を慰めるため秀綱神社を建立したという。




903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/06(火) 21:59:33 ID:WYgum1Dj
こういう呪いの神社系は地域ごとに結構あるもんだな
金田一探偵が活躍できたわけだ

とある倭臣の禁書目録

2010年01月24日 00:02

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/23(土) 07:03:01 ID:gRMr77lU
とある倭臣の禁書目録

永禄11年、織田信長軍の伊勢侵攻の折に伊勢国司である北畠具教の
弟,木造具政は一つの決断を迫られていた。
具政「このまま兄と共に織田軍と戦うか,それとも思い切って反旗を翻し織田家に与するか」
この重大な決断に際して織田派か北畠派か意見が分かれる中,木造家重臣である
柘植三郎左衛門保重は口を開いた
柘植「主家に叛き織田に付き従えましょう」
具政「うむ、しかしそなたの息子は北畠家に人質として残っておる
 もし兄に叛いたら,そなたの子もただでは済むまい。。良いのか?」
柘植「重々承知しております」


かくして木造具政は北畠を捨て織田家に寝返り織田軍の伊勢侵攻の道案内役を
勤めることになる。もちろん人質の保重の息子はry

そしてこの人物,主君である具政を織田家に味方させた功を認められ北畠の名跡を継いだ信雄の直臣に
抜擢される事となる。しかし人質であった息子の命を掛けてまで主君を説得し出世を遂げた
彼の栄光はそう長くは続かなかった

時は下り天正7年、伊賀の豪族の不穏な動きを察知した保重は信雄に一つの提案を持ちかけた
保重「伊賀国の情勢が不穏な今こそ,討伐の軍を起こすべきです」
信雄「しかし勝手に軍を動かすことは父上に止められておる」
保重「此度が絶好の好機でございまする。相手は所詮,片田舎の土豪共,精強な伊勢の兵と
  強力な鉄砲部隊の前には手も足も出ますまい」
信雄「そ,そこまで言うなら,よし出陣の準備じゃ」

実は何故に保重がここまで伊賀侵攻にこだわったかと言うと、この人の領地の
すぐ近くであり,伊賀の土豪達が目障りであったから主君を巻き込んで討伐を進言した
とういう説がある。ちなみにこれが俗にいう第一次天正伊賀の乱ある

しかし結果はご存知のとうり信雄1万は伊賀の諸豪族の奇襲作戦の前に惨敗を喫し
保重にいたっては伊賀豪族の植田光次の強襲をうけ討ち死。
さらに,この責任を問われた信雄は信長の叱責を受け信頼を失うこととなる

主家である北畠を裏切り,息子を死なせ,状況を見誤った判断で主君の株を
下げた悲しい家臣の末路です。やはり人間は人道に背いてはいけない,そんなお話し




962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 13:56:33 ID:Ax3i9TjJ
>>959
人道に叛かなければ叛かないで「馬鹿だから滅んだ」になるから困るw

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 16:31:49 ID:ndM7juZQ
突出した戦上手だと人道を守って零落しても復活したり出来るし滅んでも武名上がるだけ

戦国の世の中結局力か

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 16:43:18 ID:FhkcJgLR
>>963
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/index.html
高橋、立花軍は、作戦も陣形も上手。
でも立花の家来はいろいろ有名な武将が多いけど、玉砕した高橋の家来は無名なのが多い。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 16:53:10 ID:QCziW0Pb
別に離反自体は非難されることでもないし、戦に負けたのは人道とかの問題じゃないしねえ

そんなこと言っていたら、信長秀吉家康信玄謙信元就その他はどうなるのかと

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 16:55:31 ID:nofcY51S
他家を乗っ取って前線で戦わされて半独立行動を許される様な立場だから
作戦立案とか陣立に長じるのは当たり前というか、状況が許さないだろう
というか、そうでなかったら家が絶えてる

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 17:34:40 ID:ViykMY8V
>>965
宇喜多直家「まったく非道い奴らだな」

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 18:36:56 ID:i8/hBlDC
>>965
松永久秀「まったく。武士の風上にも置けんな」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 18:58:29 ID:smOWn7FJ
>>965
伊達政宗「そうそう、毎度バレてパフォーマンスでごまかすなんて無いわ」

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 19:06:31 ID:uZwM5JsV
>>965
藤堂高虎「武士たるもの、一人の主君に忠節を尽くすべきだよね」

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 19:08:04 ID:MTDGHYid
お前たちwwwいつまでwww

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 19:17:41 ID:ePs8T7i6
>>965
小田氏治「日頃の行いさえ正しければ、百戦百勝さ。」

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 20:06:19 ID:vcTfwB+/
>>959
目先の欲に釣られて自滅した典型とも言えるね。

藤方入道慶田の「武士の義」

2009年12月29日 00:41

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:05:03 ID:XvFNtzYV
天正4年(1576)11月25日、織田信長の命による北畠具教の謀殺。
後世に言う「三瀬の変」が起こる。

元の国司、北畠具教に対し、北畠譜代の士である藤方刑部少輔朝成、滝川三郎兵衛、長野左京亮らが
刺客として向かうことを命ぜられ、彼らは元の主君を殺した。
藤方は自らは出向かず、家臣の加留左京を名代として行かせた。

この頃、藤方朝成の父、入道慶田は、北畠家に送り込まれた織田信雄の居城、田丸城に
人質としてとられていた。
具教謀殺を聞いた慶田は悲嘆にくれ、それに参加した息子朝成を口を極めて批判した。
曰く、人倫に非らず。

朝成これに
「私も本意ではありませんでした。が、父上が人質として田丸におられたのです!
その為仕方なく、この企てに参加したのです!」

「それが間違っておる!」

慶田は言う
「この企てを聞いたとき、お前は速やかに具教様にご報告し、共に織田と戦い命を捨てるべきであった。
そのうえでわしが磔になれば、それこそ当家の面目と言うべきではないか!
お主は武士の義を知らぬ!」

入道慶田はその後、自ら命を絶った。切腹だとも、入水したのだとも言われる。

信長の北畠一族謀殺の中で起こった、悲劇の一つである。




399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:38:49 ID:XQTJGUPJ
信長の命令なら仕方ない

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:53:59 ID:lBsAIquP
え?進撃止めの命令が殿から?
そんなんしらね。信濃甲斐の城は全部攻め落としてやるぜえええええええええええ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 16:44:20 ID:0HUrnFpJ
>>398

しかも自分の手は汚さない小狡さ。
だが、こういうこすい奴が結局は生き残って家名を残してゆくんだな。

平成の世にまで汚名が伝わる羽目にはなっているが。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 17:03:08 ID:8DnLaP79
しかし、北畠は南朝が完膚なきまでに打ちのめされた時、滅亡しておかしくなかった
ここまで、よくも伊勢の雄として存続したよ…

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 17:24:07 ID:AuUBKWNH
後南朝の時もやられてるしな
戦国に入るころから六角、細川と急接近した辺りが奏功した感じ

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 18:09:24 ID:4iMd+H3r
北畠って、公衆便所みたいな所の便槽に吊るされて
死んだんじゃなかったっけ?

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 21:05:09 ID:G9mHKhgu
足利義輝みたいな感じの最期じゃね?

伊勢国治田城主,楠木正具、義将の末裔

2009年10月09日 00:15

218 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/08(木) 00:58:36 ID:PWh5S07b
伊勢つながりで

義将の末裔

永禄11年信長の北伊勢侵攻の際,北伊勢の諸豪族は激しく抵抗した
その中でも一際激しく抵抗したのが伊勢国治田城主,楠木正具...
あの楠木正成公の子孫である

彼は手勢わずか500ながら正成ばりのゲリラ作戦や夜襲,ヤケクソ戦法で
織田軍を翻弄,苦戦させる
特に前年,永禄10年の信長軍の侵攻の際には偽りの降伏作戦を用いて時間稼ぎを
している間に本国,美濃の不穏の動きや武田家の織田領侵攻という偽報を流し
主力部隊の撤退に成功させている

しかし結局は衆寡敵せず織田軍の包囲作戦に落城寸前、絶体絶命
この時,またしても正具は一計を案じた
正具は足立新五郎という忍びを長島願証寺に遣わせ,かねてから親交のある
服部左京亮に援軍を要請。門徒兵を織田軍に忍び込ませ敵陣をかく乱し
甚大な被害を与え,とうとう治田城を落とせなかった

結局,彼は主家である北畠降伏後も石山本願寺に指導者的立場で入城し
天正4年石山合戦のさなかに織田軍の流れ弾にあたり絶命した,享年61歳であった





219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 01:21:47 ID:+poULN9O
楠木って戦国時代まで北畠と一緒にいたのか?

220 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/08(木) 01:29:20 ID:PWh5S07b
たしか楠木正成の姉か妹が伊賀の上嶋っていう豪族に嫁いだっていう
記録があるから,その辺の繋がりはあったと思う
北畠も楠木も同じ南朝側だし

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 01:35:41 ID:qrC1Ob32
それに比べて楠長譜ときたら

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 02:53:06 ID:LJyLjb3c
この楠木さんは 楠木正儀の子孫?



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 06:06:35 ID:dh2o8j7h
>>219
南北朝が一つになったあとも楠木氏は各地に潜んで抵抗を続けていたらしい。
そのうちの一派が応永の乱の際に大内方として堺に籠城
落城時に北畠氏に匿われ、そのまま伊勢に土着した。

この家系からは村正の弟子として刀匠になった人物や
禁闕の変の実行者になった人物が出ている。


224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/08(木) 06:16:16 ID:PWh5S07b
たしか正義の子孫の楠木正盛という人が応仁の乱で京から落ち延びて
来た所を北畠に匿われて,正盛の三男の正威が楠山城を建てたのが
伊勢楠木氏の始まりとされます

ちなみに正盛の長男の正重は,なぜか家を継がず(継げず?)伊勢で
代々続く刀匠の家となって後の時代の剣豪国司,北畠具教の刀も
正重が作ったと云われています


225 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/08(木) 06:22:55 ID:PWh5S07b
たしか正義の子孫の楠木正盛という人が応仁の乱で京から落ち延びて
来た所を北畠に匿われて,正盛の三男の正威が楠山城を築城したのが
伊勢楠木氏の始まりです

ちなみに正盛の長男の正重はなぜか家を継がず(継げず?)伊勢で
代々続く刀匠の家になり後の世の剣豪国司北畠具教の刀も
彼の子孫が作った話が残っています


228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 08:40:06 ID:2I50u3RW
>>222
楠木正成の三男・正儀の子供である正勝が正具の祖先。

>>224-225
>>218の正具はその話の正盛の直系じゃないよ。
そっちの子孫は由比小雪。

by Wikipedia

北畠具教の家臣、家城之清 「槍の主水」の忠誠

2009年07月04日 00:04

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 17:11:21 ID:6Tj5LVC2
北畠具教の家臣に家城之清という老臣がいた。家城は「槍の主水」と仇名されるほどの
槍の上手で、信長の大河内城攻めに際しても初戦の池田恒興との戦いにおいて
功の第一とされるほどである。

この大河内城攻め、緒戦において北畠家は一度も敗退しなかったものの、結局は
信長の子・茶筅を当主・具房の養子とする事実上の敗北となった。しかも領内の関所及び
幾つかの城を廃却するようにと命じられてしまった。
しかし一度も負けを喫していないこともあり、これに納得できぬ者たちも多かった。
結果、廃城となる予定であった曽原城の城主・天花寺小次郎はこれを不服として籠城、
同じ従騎大将であった家城もこれに加勢すべく曽原城へと入ったのである。

籠城も二年以上に及んだあるとき、中々これを落とせなかった織田掃部は遂に
具房に出陣を要請する。
家城、曽原城を囲む軍に主君の旗が聳えるを知り、「主君には弓を引けぬ」と
仁よりも義を取る道を選ぶ。
結果、家城は曽原城を出て、この囲む軍に参加していた船江衆へと加わり、
逆に曽原城を討つ側にまわる。家城の抜けた曽原城は天花寺共々滅亡するに至った。

この家城、家中の者らが次々と織田方に靡く中にあっても北畠家への忠義を貫く。
信長に具教ら北畠の者らが討たれた際も旧主を裏切らず、具教の弟である具親の
起こした反乱軍に参加、しかし元同輩らとの戦いに敗れ防戦するも三瀬の地で討ち取られた。





997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 17:32:09 ID:T+RS0Faa
>>996
北畠具房も利用されるだけの悲惨な生涯だなあ…。


北畠具房の哀れ・悪い話

2009年03月02日 00:11

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:18:36 ID:PnLNiH/e
伊勢の北畠具教には三人の子供がいた。
そのうち長男で、伊勢国司を継いのは北畠具房だが、
この男、大変太っており、普段の運動すら自由ではなかったそうだ。

そのため伊勢の国人たちは、具房を「太りの御所」と呼んで馬鹿にしていた。
しかもうつけ者で、麦と豆の違いも分からないような有様で、何の役にも立たない男だと思われていた。


のち、信長の手による、北畠一族の粛清が行われた。


北畠の者は、幼児まで惨殺されたにも拘らず、この具房だけが、命を助けられた。

惨たらしく殺された者より、生かされた者の方に、はるかに哀れを感じる。
そんなお話。




492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:21:12 ID:48NJ01jb
根切りする価値すらない、と

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:59:12 ID:k4ahZr4k
醜ければ生かせ。同情をさそう者ならば殺せ。

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 23:07:54 ID:R1ctJEs0
六韜三略の教えに似たようなのがあったな
「切れ者の使者には何も持たせず返せ 馬鹿の使者には盛大に褒美を与えて返せ」
だったか。
コレをやられたのが大蔵卿局(淀の方の乳母→側近)。

北畠老臣、信長を疑惑す

2009年02月18日 04:39

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 11:30:43 ID:HZEj7cyK
天正四年の正月の事である。北畠具教、具房親子は、年頭の挨拶のため、譜代の老臣
鳥屋尾石見守を使者として、岐阜城へと遣わした。

ところが信長はこの使者を待たせたまま対面しようとしない。鳥屋尾は怒って帰ろうとしたが
それを聞いた信長は人を遣わして鳥屋尾を連れ戻した。

しかし信長は戻ってきた鳥屋尾に対し、庭の白洲に進物の品を置かせたまま、
自分は縁側に立って刀を抜き放ち、それを振るいながら鳥屋尾を睨み付けた。

鳥屋尾はこの信長の態度を見て、信長が北畠を滅ぼそうとしていると確信した、と言う。


信長、信雄による北畠一族の粛清が行われるのは、この年の11月25日の事であった。




117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 12:44:06 ID:LNa3HgZO
いや、超ヒントじゃん。
何やすやすと潰されてんの北畠w

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 13:50:48 ID:K2EfIuT3
>>115
よくわからんのだが信長のこの行動は何を目的にしてやってんだろう?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 14:38:27 ID:X3jsr7qd
>自分は縁側に立って刀を抜き放ち、それを振るいながら鳥屋尾を睨み付けた。

想像したらちょっと笑える絵図だ
客の前でぶんぶん刀を振って睨んでるってw
きっと信長は刀を振ってる自分に鳥屋尾さんのコメントが欲しかったんだよ





続き
北畠遺臣、光秀に味方す
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1378.html


北畠遺臣、光秀に味方す

2009年02月18日 04:38

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 17:39:44 ID:FqmpF4K2
北畠氏落城後、残党の中に明智光秀に味方をした一団がいた。

三瀬の変の生き残りである、北畠具教の弟具親と大宮多気丸の一党である。
彼らは、山中に隠れ住み機会をねらっていたのだが、織田信長が本能寺へ入るという情報を得た
大宮多気丸、鳥屋尾内蔵助ら残党は、主君北畠具教を汚い謀略で暗殺した信長に怨みを晴らさん
と本能寺の近くに潜んでいた。

そこへ早馬が飛んできた。「信長、本能寺にて明智光秀に討たる!」
なんと、一足先に明智光秀によって信長親子は殺されたのである。
「一足遅かったか」と嘆いてはみたが、怨敵信長が討たれたことはめでたいことだと祝宴をあげた。
今後は明智光秀にお味方しようと、安土城にいる光秀の傘下に入ったという。

彼らはそれから11日後に、京都山崎の合戦にて全員討死した。
鳥屋尾内蔵助は鳥屋尾石見守の遺児であったという。




122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 17:44:56 ID:HZEj7cyK
>>121
続きがあったのか!このスレはすごいな。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 20:24:01 ID:YLkg7Z7z
>>121
内蔵助って名乗ると、平穏には死ねないのかね

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 21:54:30 ID:F3TkaB/Q
微妙にいいはなしじゃね?w

125 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/17(火) 22:48:13 ID:R5jxE0dE
>>124
南朝遺臣としての武家の北畠家本流としてはその後も再興できなかった…

まったくの無駄死にw

128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/18(水) 01:28:38 ID:PG/rVQKn
北畠家は武家か?

130 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/18(水) 02:21:05 ID:tWfEE0Ud
>>128
公家だけど、滅亡直前には武家といっても通用すると思ってそういう書き方をしてみた




参考
北畠老臣、信長を疑惑す
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1379.html