北條五代記より、信長、秀吉について

2018年02月01日 17:24

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 11:20:39.69 ID:I+NaHYvb
ある老人が言った、「信長と秀吉の弓矢の取り様は、全く別物である」と。
それはどういうことかと問うと、こう答えた

信長は永禄年中に京都へ攻め上がり、その勢力を広げ、山城、摂津、和泉、河内、越前、若狭、丹後、
但馬、播磨を手に入れられ、美濃、尾張、三河の遠近を合わせれば、15ヶ国を治めた。
ではあったが、大阪の一向宗は、坊主の一人も信長の旗下につかず敵となり、それに地下の旦那共
一味して籠城した。これらは一を以って千に当たる血気の者共であった。それに対し信長は、
強引に攻めれば味方に多くの損害が出ると考えたのであろう、5年間打ち置き後に、和平があって
城を開き退いた。

甲州で武田信玄が逆威を振るっている間も、返ってなだめ和睦し、勝頼の時代に馬を出すと、
武田家は聞き落ちに敗北し、滅びた。
人々は、この勢いで信長は関八州まで望むだろうと思ったものであったが、当時関東にあって
北条氏直は大国を守護しており、また西国も未だ治まっていなかったため、甲州より帰洛した。

このような例から考えるに、織田信長という人は、一般には武勇に長け苛立ちやすく、短慮未練であると
言われているが、そうではなく、智謀武略の大将であると評価すべきであろう。

一方で秀吉は、一身の武勇に秀で、運に任せて弓矢を取り、勝ちに乗じて驕りを旨とした。

例えば北条氏直は秀吉に臣従し、使者を登らせその上来春の上洛を決定しその支度もしていた所に、
遅参であると事を左右にして関東へ出馬した。
名大将というのは戦わずして勝つことを本意とするものだが、秀吉は弓矢の手柄を以って国を治めるのを
専らとした。その上、秀吉の奥州下向は何ゆえであろうか?

小田原攻めの間に、伊達政宗を始め、奥州の諸侯はことごとく馳せ参じ、手をついて臣従していた。
その上、諸軍は小田原百余ヶ日の長陣に草臥れ気も疲れ果てていたが、そういった所に思いの外の
計策の扱いあって、小田原城は落城した。

惣軍、早く帰国したいと希望していた所に、諸勢の労苦も考えず驕るに任せて敵も居ない奥州に下り、
田畑の検地をさせ黒川から帰洛した。
これは偏に、秀吉の弓矢の勢いを、百姓らに知らせるだけのための物であった。

(略)

その上、天下を争い戦いを為すと言うが、その身のために軍を起こすのは、一旦の利があると雖も、
その治世は久しくならず、果の滅亡の兆しが既に生まれている。
国のため、万民のために弓矢を取れば、神明の加護があって、身の幸いが生まれる。
上より下を撫育すれば、下は上に対し父母の思いを成す。
天下を治めて後、干戈を箱に納め弓を袋に入れ、秩序を専らとし民を豊かにするのが、君子の道である。

然るに秀吉、高麗国への出陣は、唐の使いが遅参した事が無礼であると言葉巧みに宣伝し、
戦争を望んだ故のものであった。これに動員されたのは五十万騎だという。そしてこれに対する
兵糧米の運送を行ったのは、日本国の民百姓である。その嘆き、悲しみ、その費え、計ることも出来ない。
その上に、敵味方の死者は幾万幾千と数えることも出来ないほどだ。これは秀吉が、驕りを旨とし、一身の
誉れを願うが故の事である。このような彼の科から、目をそらしてはならない。

(北條五代記)



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 11:41:24.60 ID:GfisAjrZ
ラスボス絶賛されてんなーと思ったら五代記かよ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 12:22:40.18 ID:90CjWerw
絶賛?
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坂井久蔵の頸

2018年01月28日 16:47

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 10:55:41.38 ID:tXZo+VwF
坂井久蔵(尚恒・織田信長の家臣で高名な勇士)が姉川の合戦で討ち死にした時、彼の頸を
取ったのは、今井角右衛門生瀬半兵衛右衛門の二人だとされていた。

両名ともに、後に豊臣秀次に仕えたのだが、秀次はある時このように奉行たちに命じた
「一人の首を二人で取るというのは不可能である。一人は虚説なのであろう。お前たちはこれを取り調べよ。」

そして詮議の結果、今井角右衛門こそが虚説を語っていたと結論され、刀を没収の上
鷹小屋に押し込められた。さらに侍への見せしめとして、切腹か斬首かと議論されていた
所に、今井が申し上げた

「常のことと違い、武士が他人の骨を盗んで罪科に逢うと言う事は、子孫において屍の上の
恥辱であり、何事がこれに過ぎるでしょうか。
全く命を惜しむということではありませんし、このような証人にするのは気の毒だとも思いますが、
願わくば浅見藤右衛門を召し出され、彼の申す所をお聞き召した上で、御成敗を仰せ付けられるように。」

この浅見は、今井と交流がなく、普段会話をしたこともなかった。
浅見はこの頃安土に居たが、秀次は「彼を召して、いよいよ正しく改め、武義の虚説を
言うものを成敗仕るように。」と命じた。

浅見は安土より呼ばれた。
彼は元々、生瀬とは無二の親友であったため、人々は
「沙汰にも及ばない。今井の非分ということに決まっている。今井は何を血迷って
浅見を証人に呼んだのか。」
専ら、そう取り沙汰した。その夜は浅見の友人たちが集まり、酒宴など行われた。

そして翌日、聚楽の大広間に諸侍集まり、この詮議を聞くべしとそれぞれ固唾をのんだ。
奉行が出仕して浅見を召し出し、篠部淡路守を通して坂井の件を尋ねが、この時奉行たちは

「定めて別の申し様も無いであろうし、今まで言われていた通りであろう。浅見の申し分一通りで
今井の罪科に決まるのだから、速やかにその旨を申し上げるように。」

そう、彼に促した。しかし浅見
「今井は、ここ三十年私と交流のない人物です。対して生瀬は日頃から別して親交のある友人です。
お尋ねのように、有り様に申し上げては、天下に私の外聞を失うことに成ります。これまで
長生きをしてこのようなお尋ねに逢い申す事、迷惑ここに極まるものです。
願わくば他の者を召し出し、よくよくご穿鑿を加えられますように。」

奉行衆はこれを聞くと
「今井と交流のない浅見であるから、今井の非分を申し上げにくいというのは仕方がないだろう。
しかしはるばると安土より呼び寄せ、秀次公も其方の証言を証拠に致すと仰っているのだから、
申し上げるように。」

そう説得したが、浅見はそれでも辞退を押し通した。篠部は一応、この事を秀次に言上すると、
秀次は重ねて証言をするようにと命じた。これに浅見は

「このように進退が極まったことは今までありません。生瀬は多年の友人、今井は多年の不通。
何れに付いて何と申しても、人々の誹謗は逃れがたいでしょう。しかし武義についての御詮議の
事ですから、有り体に申し上げなくては本意無い事ですので、申し上げます。

坂井久蔵の頸は、間違いなく今井が討ち取りました。

比類なき手柄であり、この事は私に限らず、大勢がその場のことについて見聞きしております。
生瀬については多年の友人であり、この件については彼の身を捨てるような事になりますが、
坂井の頸の事について、全く存じよりもありません。これは何かと勘違いをして、あのように
申し上げたのではないでしょうか。」

座中、興を醒まし、言葉もなかった。
しかし「この上は今井別儀あるべからず」と、別途賞せられることとなった。
生瀬は罪科に及ぶべきであった所を、秀次が惜しんで処罰に及ばず、その後に病死したという。
(士談)



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:02:12.10 ID:t0jRki3R
>>511
なんで何十年もたってから言い出すんだw

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:33:51.88 ID:oyeAe0TI
昔話を聞くのは若侍のつとめ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 22:19:17.83 ID:+FUSGADB
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1450461.jpg
なおなぜかセンゴクでは坂井久蔵を山崎新平が討ち取って、
親友の仙石秀久がその仇を討つという展開だった模様
1450461.jpg

つまり大澤は信というものを

2018年01月26日 16:43

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:05:07.82 ID:Grb8o8m1
美濃国宇留間の城主・大澤二郎左衛門は、木下秀吉の謀を以って織田信長に属した。
秀吉は大澤を引き連れ信長のもとに参り、清須において信長へ御礼を申させた。

その夜、信長は密かに秀吉を招いて命じた
「大澤は名のある勇士である。もし志を変じては、重ねて退治するのも大儀であれば、
夜中に彼を誅するように。」

秀吉はこれを諌めた
「大澤大敵なりと雖も、我らを信用したくれた故に、降参を遂げたのです。
今これを殺すことは、約を変じ信を失い、ただ一時快くするだけの話であり、
今後重ねて、所々の剛敵が降伏しなく成るでしょう。」

そう説得したが、信長は得心しなかった。

秀吉は急ぎ大澤の元に行くと、信長の命を残らず説明し
「こういった事となったが、あなたは私を人質として、急ぎ退去するのだ。」

これを聞いて大澤は大いに喜び、秀吉を人質に取って帰城した。

後に秀吉はこの時のことをこう語った
「私が大澤に信を示した所、大澤は私を以って人質とし、小刀を抜いて私に指し当てて退いたが、
つまり大澤は信というものを知らなかったのだ。」

(士談)


秀吉の甥としての覚悟

2018年01月11日 19:00

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:36:09.44 ID:cYyfG16o
秀吉の甥としての覚悟


一今日から秀吉の甥としての覚悟をするように。人に慮外の沙汰を下して
 甥としての振る舞いが出来ずとも、みな秀吉の甥と思って崇めようとするのだ
 という覚悟を持つこと。

一これ以後は秀吉がこのようなことはあってはならないと思ったり、不都合だと
 思うことがあっても、(秀次が)この一書を思い出し書き付けて心を改めて
 人にも立派な人と呼ばれるのなら、右のほかに進退のことを取り上げません。

一今年木下助左衛門、同勘解由を(秀次に)つけたところ、両人が討死したのは
 不憫なことでした。両人の者を殺してしまったことに対して(秀吉の)戸惑いを
 考えてくれてもよいのに、一柳市助に津田監物とやらを欲しいと申させましたが
 仮に秀吉がどの者を預けたとしても、今度預けた者も一人も残らず討死させ
 (秀次が)生き残ってしまえば、外聞が悪くなることも分からないのですか。
 申させた者はもちろん、取り次いだ者も無分別の大たわけと思い、市助めを
 手打にしたいとも思ったくらいですが、今まで腹の中に折り込んで遠慮を
 していたので言葉にはしませんでした。
 よくよく分別をして、諸事に嗜み、流石秀吉の甥と呼ばれるようになれば
 何よりの満足であるので、右の一書を心がけて下さい。

一覚悟を改めればどの国でも預けるつもりですが、只今の如く無分別のうつけ者では
 命を助けてやりたいと思っても、秀吉の甥の沙汰で、秀吉が面目を失うことは
 あってはならないのですから、手討にするしかありません。
 人を斬ることは秀吉は嫌いですが、その方を他国に移すのは恥の恥になる
 だけですから、人手には懸けられないことです。

一胸中は誰にもいわなかったのですが、秀吉の代理も出来るだろうと思っていた
 御次(秀勝、秀吉養子、実信長四男)が病身なので、天道が秀吉の名字を残さない
 ようにしているのだろうか、是非に及ばずと悟ったように振る舞っていましたが
 その方が器用に物を申し付け武者を致していると見えるようになり、このように
 覚悟を持たれるのなら、悔やみもありません。
 
右の五箇条の通り、これ以後分別をもって慎むことがなければ、八幡大菩薩に誓って
人手には懸けさせません。委細は善浄房(宮部継潤)、蜂須賀彦右衛門尉(正勝)の
両人にも申し含めておきました。せがれでもあるので、その心得を持つように、以上

(天正十二年)九月廿三日                秀吉(花押)


――『松雲公採集遺編類纂』


信の勇士の理

2017年12月09日 16:05

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 09:23:29.50 ID:eSWp/XYE
天正18年、小田原の役における山中城攻めの際、木村常陸介(重茲)の家臣である鳥居源八という
勇士、先に立って城に取り付き名乗りを上げた。
そこへ、羽柴藤五郎(長谷川秀一)家臣、磯平三郎が続き来て、鳥居に言った

「源八よ、汝は既に”頸取り源八”と世に呼ばれている名高き勇者であるが、真実の武功を
知らぬな。田舎育ちの働き故に、ここでも名乗るべきではない所で名乗っている。
こういった場所では、諸人茫然として心もついていかず、気後れしているものであるのに、
ここで名乗っては、諸人はこのお陰で心付いて、我先にと進む。故に思いのままの一人高名が
出来なくなってしまうのだ。
物の訳を知らぬ故に、流石の頸取り源八もこのような時に名乗ってしまう事よ。」

これを聞いて源八は嘲笑って言った
「平三郎は心がけもある武士であると聞いていたが、さては信の勇士の理を知らぬと見た。
このように、諸人茫然たる時分は、一人声高に名乗って、人に気力を付け大勢に力を与え、
多くの人を用に足る者に成す事こそ、武士の義というものだ。
何事ぞ、我一人功名してそれを宜と言うのは。そんなものは甚だしい小技であり、言葉にする
価値すら無い。」

そう蔑んだという。

(士談)



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 11:59:31.12 ID:HwqEYabs
こういうのって戦の最中にやりあってんのかな
敵味方もどっちの口撃が勝つのか見守ってたりして

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 12:56:49.36 ID:4iPqjqA6
二人とも弓鉄砲で倒されてたら笑う

汝らの功を以って我が功とすべし

2017年12月05日 17:48

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 09:31:48.31 ID:ziSpxjee
豊臣秀吉は細川玄旨(幽斎)、法橋(里村)紹巴らを傍において、時々興ある歌、連歌などを行い
或いは五山十刹の長老出世の者たちを集め、詩連句の会なども主催した。

しかし、こういう場においては、秀吉の作意に合わせて他の者の作った歌・連歌を以って、
これを秀吉の作とした。

秀吉はこう命じたのだという
「詩歌は武家が必ず身につける物ではないと言っても、無下に卑しいのも又、大丈夫の本意
ではない。だからといって心にそまぬ事をやるのは、甚だしい労役の至りである。

武将というものは自らは手を下さず、兵卒の功を集め、その功が将に帰す。
詩歌もまた、汝らの功を以って我が功とすべし。」

(士談)



387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 12:49:25.25 ID:AZbvB/wH
ジャイアン秀吉…

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 17:30:27.23 ID:6CWRDPf1
秀吉、幽斎、連歌といえば過去に2回ほど出ている(まとめの5166555
秀吉が連歌の会で「奥山に紅葉踏み分け鳴く蛍」と詠んで一堂が笑ったところ
幽斎がとっさに「蛍よりほか鳴く虫もなし」と古歌にあります、とでっちあげてフォローした話
なお江戸時代の太田錦城の随筆「梧窓漫筆三編巻下」では

太閤が歌の知識がないためにこんなバカげた句を良んだと思ったのはむしろ一堂が愚かだったのだ。
田夫野人といえどもホタルが鳴かないのを知らないはずはない、わざとおかしな句を読んで一堂を試し
しかも自分の威勢なら鳴かない蛍も鳴かせてみよう、という気宇壮大な句だったのだ。

とか書いてた。>>386と合わせると
「秀吉がまた馬鹿な歌を作らないように前もって幽斎たちに任せた」てことになりそうだけど

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 19:45:02.81 ID:+Hd9QwO3
>>386
俺は良い話と受け取ったw

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 07:20:45.72 ID:eOR5xfuh
下々のものにアイディア出させてゴーストに書かせて、結局プロデューサーの手柄にしちゃうっていうのなら、今のプロダクションと一緒だわな…

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 07:38:03.90 ID:6zYKbT+/
それが本業ならそうだろうが

秀吉の恩顧、度量に

2017年12月04日 19:52

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/04(月) 19:41:43.17 ID:nc3y9iGR
豊臣秀吉のもとに、毛利輝元が初めて出仕したときのこと。

毛利は天下第一の大名であり。中国は残らず彼の威風に属していた。
然らば、秀吉も定めて礼を正し、威厳に満ちた対面をするだろうと、人々はそう考えていた。

ところが、秀吉は輝元を対面所に暫く待たせ、その後、帯を手に持ちまるで形式張らない
格好で、女の禿(かむろ)に腰刀をもたせで現れると、その姿のまま輝元に対面し、
直に彼の手を取って立たせ、古のことなど色々と物語しつつ、大阪城内の座敷を一つ一つ
見せて周り、それから天守へと上がり、大阪の四方の繁栄を見せつけ、その場で刀を与えた。

それから座敷へと下り、庭に馬を曳かせた。
秀吉はその馬に乗り、輝元に馬の口を取らせた。その後馬は輝元に与えられた。

これにより毛利は尽く秀吉の恩顧、度量に平伏し、あるいは親しみ、あるいは恐れたという。

(士談)



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 23:30:56.61 ID:fZVtOxA0
この人たらし

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 01:09:32.78 ID:IcvXM8GT
毛利元就ならともかく子供世代なら話にならないよなあ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 01:16:06.00 ID:6zYKbT+/
帯を手に持ち
って、帯つけてなかったってことか?

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 08:17:07.77 ID:mUJQieT7
>>493
毛利なんて豪族の連合体だから脆いよ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 08:31:58.39 ID:5WkMmMJn
なにいってんだこいつ(AA略

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 17:49:43.46 ID:upLVsY/+
>>495
武田信玄「まったくだ」

天正20年5月18日付 豊臣秀吉、秀次宛書状

2017年11月22日 16:44

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 12:37:42.57 ID:j6nRfafp
豊臣秀吉豊臣秀次宛書状

一、殿下(秀次)は陣の用意を油断なく行ってください。来年2月には進発するように。
一、高麗の都は二日に落ちました。この上はいよいよ渡海する時は、大明国まで残らず
  征服するよう仰せ付けましたので、大唐の関白職と成るべくお渡りになるでしょう。
一、人数は3万を召し連れ、兵庫より船で来るように。馬などは陸地でさし寄越して下さい。
一、三国の中に敵対するものはこれ無しと雖も、外聞というものが有ります。武具の嗜みには
  十分気を付けて下さい。下々にまで申し聞かせるように。
一、召し連れていく者のうち、人持ちには3万石、馬廻りへは2万石を貸し遣わすように。
  金子も似合い似合いに貸し遣わすように。
一、京都の御城米は留め置いて下さい。八木に手を付けさせてはなりません。
  その他の30万石は先にこちらに輸送しました。八木を陣用意に召し遣わし、
  不足のあった場合は太閤御蔵米が入り次第召されるように。
一、のし(金を延べ貼り付けたもの)付きの刀脇差を千腰用意して下さい。あまり大きすぎては
  指す者遠路の迷惑となるでしょうから、刀は七両、脇差は三両あまりにて申し付けて下さい。
一、のし付きの薙刀30、のし付きの鑓20本、このほかは無用です。
一、長柄槍は柄を金にするように。毛のない鞘は無用です。大阪に樫柄のものを置いてあるので、
  所用の時はこれを召し寄せて下さい。
一、金子について、私の方に今ある分は払底してしまったので、聚楽に有る銀子一万枚を
  大阪に遣わし、大阪の金子千枚をこちらに召し寄せて下さい。ただし五百枚所用の時は、
  銀子五千枚を代わりに遣わして下さい。如何程であっても、10分の1で交換して下さい。
一、具足は5、6丁を持ってくるように。それ以上は無用です。
一、馬たちは現在高麗に半分は曳いていきました。その他は名護屋に鞍道具ともに残し置いて
  ありますので、そちらがあまた曳いてくるのは無用です。広島にも10匹置いてありますので、
  彼の地にて引き換えて下さい。よくよく飼い置く旨、西尾(光教)に仰せ遣わしておくように。
一、名護屋にも高麗にも兵糧はふんだんに有るので、用意には及びません。こちらに向かう道での
  覚悟のみを仕って下さい。
一、小者若党以下、下々までも召し置いて下さい。この方で小者などを雇い入れようとしても、
  にわかには出来ません。前々から用意しておくことが肝心です。
一、丹波中納言(羽柴秀俊)にこちらに来るよう、準備を命じ、きっと同道するようにして下さい。
  8月前には命じるように。尺米等の事については山口の方へ仰せ遣わすように。
  8月前に召し寄せ、高麗か名護屋での留守を仰せ付けます。
一、高麗のための留守居として、宮部中務卿法印(継潤)を召し寄せて下さい。用意を命じ
  従う旨を仰せ遣わして下さい。
一、大唐の都へ叡慮(天皇)をお移し申すつもりですので、その御用意をしてください。
  明後年には行幸が成されるでしょう。その場合、都の周辺10国を進上するでしょう。
  その内において諸公家衆何れも知行が仰せ付けられます。官位の低い衆の知行は
  10倍にし、官位の高い衆は仁礼によるべき事。
一、大唐の関白は先に言ったように、秀次に仰せ付けられる。その上で、都の周辺100国を
  与える。日本の関白は大和中納言(羽柴秀保)、備前宰相(宇喜多秀家)のうち、覚悟次第で
  仰せ付ける。
一、日本の帝位は若宮八条殿(皇弟知仁親王)に、何れにせよ決まるでしょう。
一、高麗については岐阜宰相(羽柴秀勝)か、そうでなければ備前宰相を置きます。
  丹波中納言は九州に置きます。
一、震旦国(中国)への叡慮(天皇)の行路は、例式や行幸の儀式があるので、御泊々、
  今回あなたが出陣する道路の御座所が然るべきでしょう。人足伝馬は、その国の範囲で
  申し付けるように。
一、高麗国はもちろん大明の征服も、手間はいらぬと人々に仰せ付けて下さい。上下の迷惑は
  少しもなく、下々が逃げ走る必要もありません。諸国へ遣わした奉行たちを召し帰し、
  陣の用意を申し付けて下さい。
一、平安城(京都)並びに聚楽の留守居については、追って命じます。
一、民部卿法印(前田玄以)、小出播磨守(秀政)、石川伊賀守(貞政)以下、用意を命じ、
  お考え次第に参陣致す旨、申し聞かせるように。
右の条々、西尾豊後守(光教)に申し含めました。その意を得て下さい。

  天正二十
    五月十八日
                      秀吉(朱印)
(前田家所蔵文書)



333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 14:18:56.93 ID:0KuVb4Tj
断られたやつか

小柄な馬を用いるべき

2017年11月01日 23:14

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 20:29:31.41 ID:jQaAtfFj
信長秀吉の頃より、大柄な馬を用いなくなり、多くは小柄の馬を用いるようになった。
これは武具を着けて、口取りの者が居ない状態で乗った場合、大馬を乗りこなすのは
非常に困難なためであった。

元暦の頃(源平合戦の頃)に用いられた馬は、多くが大型のものであった。
大河を越え、岸石を駆け上がるのは、小柄な馬では出来ないことであった。
しかし駆け引きが自由で、戦を快く致すため思い通りに乗り下すには、小馬に限る。
ある人が言うには、和田伊賀守(惟政)、滝川一益竹中半兵衛などは、何れも小馬に乗っていたそうだ。
豊臣秀吉も、賤ヶ岳の時に乗っていたのは、『小黒』と号した2寸(4尺2寸、約160センチ)に足れる
馬であったという。

考察して見るに、日々弓矢盛んにして戦競り合いが暇もなく行われる時代には、小柄な馬を
用いるべきなのであろう。

(士談)



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:17:19.48 ID:l2YmBqit
何で四尺二寸で160センチなの?

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:22:14.12 ID:NdoPDHxu
半兵衛は牛やろw

小黒の2寸って約130cmじゃないの?
160cmなんていったら希な大型馬だわさ

>>368
おそらく鯨尺

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:09:43.86 ID:fV6F543b
パッと鯨尺が出てくるってことは和装屋さん?
とにかくスゴいね

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:54:13.10 ID:l2YmBqit
>>369
37.88センチなのね
また一つ利口になった有り難う

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:58:46.64 ID:gmo4JNSz
曹操の7尺がなんで小男なのか分からなかったなあ
なまじ字が同じだから混乱する

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:27:09.34 ID:5JFwwVmX
孔子「六尺の孤を託すべし(身長六尺の孤児を保護してくれるだろう)」
身長180cmならとっくに成人してるじゃん!
とつっこんだ思い出

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:32:22.91 ID:5JFwwVmX
孔子じゃなくて曾子だった

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:06:32.63 ID:YQViDZEX
日本家屋の戸口が横三尺縦六尺基準で作ってるものだから、身長180センチ以上の日本人は苦労するという

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:22:39.68 ID:HrvqbaGt
>>375
2m超の友人は電車に乗るたびに吊り広告が暖簾みたいになって鬱陶しいとぼやいてた
昔、姫路城の天守閣に上ったらしいが狭すぎて最悪とも言ってたな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 02:13:14.33 ID:P79UcJ+O
2mなんていってなくても170台後半ですでに色々頭ぶつけるぞ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 11:39:43.34 ID:qp2MZxTP
実際は床やら敷居やらの関係で6尺切るから180行かない程度でも頭を打つ
打つというより、頭頂部をかする感じで勢い良く擦るから一番痛い

秀次の趣向

2017年10月20日 16:31

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 22:36:35.75 ID:5AVF+jbi
関白豊臣秀次が、筑紫において藤原定家の書いた小倉の色紙を手に入れた。
これにより座敷を改め、色紙開きの会を開いた。
千利休を上客として、相伴3人という会であった。

頃は卯月(4月)の二十日あまり。明け方の事であった。
人々、座敷に入ったが。そこには明かりも無く、闇の中に釜の沸く音だけが聞こえ、
いかにも静かな様子であった。

「これは一体どんな御作意であろうか」

その場の人々がそう思っていたその時、利休の後ろの明かり障子が、ほのぼのと明るくなった。
不思議に思い障子を開けると、月の明かりが座敷の内にほのかに入ってきた。
さればとにじり寄って見ると、小倉の色紙がかけ物として飾られていた。その歌は

『時鳥 啼きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる』

誠におもしろき趣向にて、その時利休をはじめとした人々も、「さても名誉不思議のご趣向かな」と、
同音に感じ入ったという。

(今古雅談)



手取釜

2017年10月18日 18:42

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 05:30:04.78 ID:xX5oFGGB
天正14年、豊臣秀吉が関白であった頃、京の旧三条通白川橋より東5丁目に良恩寺という浄土宗の
寺があった。この寺の傍らに年老いた隠者が在り、粟田口の善輔と呼ばれた。(善法、または善浦とも云う)

この翁の住居は、藁葺き屋根に四本柱の四畳半一間にて、床の間もなく、土間に爐を切り円座を敷いて
賓主の座を分かち貴賎の別なく茶を振る舞い、物語などして、昼夜の分ち無く楽しんでいた。
また食料が無くなれば、一瓢を鳴らして人の施しを乞うた。
人々は彼の人柄を知っていたので、皆が金銭、米、布を恵んだ。
そうして物のある間は家を出ること無く爐にかけた手取釜にて粥を炊き、また湯を沸かして茶を喫した。
その湯が湧く時は、彷仏松濤の声を吟じて一人笑った。
また「手取釜 おのれは口がさし出たぞ 雑炊たくと人に語るな」など戯れることもあった。

秀吉がそのような話を聞き、利休に「その手取釜を得て茶を点てよ」と命じた。
利休は善輔の元へ行き、云々の命有りと伝えた所、善輔は聞くやいなや感情を損じ

「この釜を奉れば、他に代わりは無い!いわれの無い釜であるからとそのようにぞんざいに言われるとは
思いの外である!」

彼はすぐにその釜を、そのあたりの岩に投げつけ打ち砕き
「あらむつかし 阿弥陀が岸の影法師」
と呟いた。

利休もこれに呆れ果て「秀吉様は短期であるし、いかが致すべきか」と思い煩ったが、今更どうにも出来ず
帰ってありのままに申し上げると、秀吉は却って機嫌よく

「その善輔とやらは真の道人である。彼の持ち物を所望したのは我が過ちであった。」と、
その頃伊勢安濃津に越後という名のある鋳物師があり、彼に命じて、利休が見たままのもの2つを
模造させ、一つは善輔に贈り、もう一つは秀吉自らが蔵した。

その釜は善輔が没した後は良恩寺に納まった。これを見た人の話によると、その高さ五寸五分、
底廣さ七寸、口径三寸二分、弦は蝶番で、蓋から釜の腹にかけて木の葉を広く鋳つけており、
おおよそ今の鉄瓶と言えるものであった。
桐の箱に入れられ、箱書きには利休居士の手で『手とれ釜』と記されていた。
またこの釜に添えた、秀吉の文書が有り、そのその所に曰く

『手取釜並びに鈎箱に入れ、鎖まで念入りに出来、悦び思し召し候。尚山中橘内、木下半介に申すべき也

  十月十一日
                                 太閤(朱印)
                                  田中兵部大輔』

この文章は善輔に関係のないものだが、この釜に縁があることから、後に同寺に寄付されたものだろう。

なお、この釜の後伝とも言うべき話として、細川玄旨法印(幽斎)もこの釜を写させようと先の越後に命を
伝えたが、これに越後

「御所様(秀吉)の命にて、ただ2つ鋳たる物ですから、また同じ形に鋳るというのは、憚りがあります」

と、これを辞した所、玄旨も「それは理である」と戯れ歌を詠み、

「ならばこの歌をその釜に鋳付けよ、これが同じ物ではないという証拠である」

そう言って鋳させた。その狂歌は世にあまねく伝わる
『手とり釜 うぬが口よりさしい出て これは似せじゃと人に語るな』

こちらの釜は、今も細川家に秘蔵されているという。

(今古雅談)



朧月夜にしくものぞなき

2017年10月16日 19:43

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 18:33:58.00 ID:0h1KkTJT
豊臣秀吉が名護屋に在陣していた時のある日、陣屋を巡視していたが、ある小屋の庇に額が掲げられ
「朧月夜」とあるのを見た。
秀吉はしばらく考えていたが、ふと、左右を顧みて尋ねた
「これは誰の小屋か?」
「殿下の臣、野間藤六の小屋です。」

やがて小屋の主人、野間藤六が出て秀吉の前に平伏した。
秀吉は彼の姿を見るとうち笑って

「汝は敷物が無いのか。」

そういうと畳に白米を添えて与えた。これはこの額が、『朧月夜に”しくものぞなき”』という古歌によった
ものであると察したためであった。
(元歌は新古今和歌集にある大江千里の『照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき』)

またこれと同じ時に、小屋場の僅かに空地のある場所に菜を植えている者を見て大いに賞賛し

「永陣と見て退屈せずわずかの土地をも虚しくしない、誠に武士の注意かくこそあらまほしけれ。」
と、その小屋頭を召して白米を与えた。

(今古雅談)



322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 18:57:42.01 ID:TgZ2Wb+O
角川スフィア文庫の「新古今和歌集」第一 春歌上 55だと
「照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」
で「しくものぞなき」だが異本だと違うのかな

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 23:50:02.07 ID:MyjBEA0U
本来は大江千里が「如くものぞなき」と歌ったのだったが源氏物語ではこれを改変して「似るものぞなき」としたとのこと
新古今集には前者が採用されている
ちなみにこの歌はオリジナルは唐の歌でそれを和訳したもの

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 00:12:27.94 ID:Xw26Rndi
和訳というか元にしたというか

白氏文集・嘉陵夜有懐 其二

不明不闇朦朧月(あかるからず くらからず もうろうのつき)※新古今集では「不明不暗朧朧月」

非暖非寒慢慢風(あたたかからず さむからず まんまんのかぜ)

独臥空牀好天気(ひとりくうしょうにふせば こうてんき)

平生閒事到心中(へいせいのかんじ しんちゅうにいたる)

赤い毛氈

2017年10月08日 19:15

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/07(土) 21:17:22.96 ID:S9bwLdc0
豊臣秀吉の九州征伐の時、秀吉に赤い毛氈を献上した者があり、秀吉はこれを、九州征伐に参加した
諸将に分け与えた。

当時、日本には毛氈というものが殆ど入ってきておらず、諸将何れも、秀吉より下されたそれが
どういうものか解らず、諸将「これは一体何のために用いるものなのか」と話し合った。
しかしその内の一人が

「これはもしや…」

「なんだ?貴殿知っておるのか?」

「うむ…、私がかつて檀那寺に物を送った時、その住持がこのような赤い布を肩にかけて返礼に来た。
思うにこれもきっと、敬礼を表するために、肩にかける物なのであろう。
然らばこれを下された事への御礼は、これを肩にかけて参るべきであろう。」

これにより相談一決し、銘々毛氈を肩にかけて秀吉に拝謝したという。

(今古雅談)

※言わずもがなですが、毛氈とは獣毛で編んだ敷物です



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 07:16:28.75 ID:PcHM+p2F
田沢は博学じゃのう

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 11:06:10.91 ID:cwbiDh+H
>>170
毛氈(フェルト)は大陸では古代から広く使われてきて
天幕や敷物にカーテン、装飾品やら靴やら文字を書く際の下敷きやら
色んな物に使える超便利素材
献上されたのがどんな毛氈製品だったのか想像すると面白いね

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 17:02:40.29 ID:p2AEkszr
フロイスは信長への献上品を船のカーペットで間に合わせたって話があるな

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 01:29:56.04 ID:TeDqQxsY
そういや書道の授業で使ってた下敷きはフェルトぽかった記憶があるなおぼろげだけど

鷺を持たせて

2017年09月07日 21:57

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 21:30:49.08 ID:LuuX7Y+o
関白秀次の供をして、大島雲八が伏見から大阪へと向かう時、6月のことであったので、生きた鷺を籠に入れて
持たせていた。

案の定、秀次が船の中で、雲八に「鷺を射て参れ」と命じた。
もし射外せば如何かと思ったものの、持ってきた鷺があったので、心やすく射たという。
たとえ射外しても、これを「射たものです」と差し出せば良い、ということであろう。

この大島雲八は名誉の射芸との名を得ており、それゆえにこのような嗜みがあったそうだ。

ただし、心得が悪しければ主人を偽るものとなるのだから、こういうことはよくよく心得を持った上で
行うべきであろう。

(士談)


主人は褒めるもの

2017年09月04日 18:24

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/04(月) 16:06:06.86 ID:H9JDPduh
豊臣秀吉が、常に言っていたことの中に

「主人のことは、乗せるようなものであっても、何か尋ねて来た時には褒めるものである。
言われた方は、乗せられていると思いながらも、褒められれば喜ぶものだ。
反りの合わない言い方をされれば、例え相手の言うことが正しいと思っていても、機嫌が悪く
成るものなのだから。」

このように侍臣に語っていたそうである。

(士談)


その死期に望んで

2017年08月30日 11:41

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 09:52:36.49 ID:QcrXrpWd
神子田半左衛門(正治)は常にこう言っていた
「人間のならい、何事にて失命するか計り難い。その死期に望んで、一言『神子田半左衛門なり』
と話して死ぬのが、一期の思い出、日頃の嗜みと言うべきだろう。」

豊臣秀吉によって彼が成敗される時、彼は残された人々のため、多くの書状をしたためた。
下人が「時間が遅れます」と注意すると、「今ひとつ残っている」と、心静かにこれをしたため、
行水し、立ち腹を切った。
ところが、介錯の者が切りそこない、頸を落とせなかった。
神子田はよろよろと膝を折り、左手にて顎を押して、首を切らせたという。

(士談)



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 13:39:32.46 ID:x7PIFI9f
立ち腹って立った状態で切腹したってことか?

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 16:05:17.49 ID:pDb7X0ma
鈴木主水の立腹は立ったまま切腹だった

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 19:04:45.99 ID:wVyiwil1
鎧の人は腹切ったまま屋敷に戻って文書の隠滅を図ったとかなんとか

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 21:41:01.68 ID:QmuPPF5I
立腹とは

古代中国、宋から来日した禅僧の蘭渓道隆が建長寺で披露した
腹で茶を立てる茶礼のこと

民明書房刊「茶の歴史」より

下人などは、このようにして殺すものだ

2017年08月28日 18:27

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 15:06:36.58 ID:cFxc+vWP
神子田半左衛門(正治)が家中の者を手打ちにするという時、縁側において爪を切っていたが、
その爪を切るための小刀が下に落ちた。そこでその咎人を呼び

「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」

と命じた。
そこでこの者が縁の下に入った所を、縁の上からそのまま刺殺した。
そして人を呼び、死骸を取り出させた。

神子田は言った
「放し打ちだからと言って、確実さのない成敗を好むべきではない。下人などは、このようにして
殺すものだ。」

(士談)



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 16:33:42.03 ID:X7RjkNXz
>>176
いい話…?

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 16:49:35.76 ID:IAXy0+oW
効率のいい話なんだろ

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 19:08:56.72 ID:4Ke1VAXr
現代日本人は命ならなんでも大切だと思ってるから困る

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 21:38:11.37 ID:OraP3Sqx
>>179
誰が困るんだよw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 23:24:41.70 ID:r7dpqF/e
        _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
     ,r'"           `ヽ.
 __,,::r'7" ::.              ヽ_
 ゙l  |  ::              ゙) 7
  | ヽ`l ::              /ノ )
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々にワロタ 
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう成敗が好まれた
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔の武士なんだよな 今の新参は昔の
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | 武門の心得を知らないから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________
   /ト、 :|. ゙l;:        ,i' ,l' ノト、
 / .| \ゝ、゙l;:      ,,/;;,ノ;r'" :| \
'"   |   `''-、`'ー--─'";;-'''"   ,|   \_

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 09:01:19.68 ID:8ssQuzbj
>>180
更生の見込みが乏しい元懲役囚のそばに住んでる人とか

鎌倉杉

2017年07月18日 18:27

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/18(火) 01:00:20.98 ID:5xL/Eti2
・鎌倉杉(岐阜県大井町)

大井武並神社の祠の後ろに一大の古杉がある。これを“鎌倉杉”という。
別名に“太閤杉”ともいう。その別名には次のような伝説が絡んでいる。

豊臣秀吉は朝鮮征伐の際に船檣を求めて、ついにこの地で東西二株を
倒し、さらに中央の一株に斧を加えたところ、

切る者はたちまち血を吐いて倒れ、杉の切り口からは鮮血が湧き出た。

奉行の各務兵庫(元正)はなおも人夫を促し励まして、切り進ませたが、
またまた血を吐いて死亡するに到ったため、ついにその計画を中止した。

その杉には、今なお斧痕をとどめている。

――『恵那郡史』


ラスボスから茶々への愛の見舞状

2017年07月08日 21:06

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 20:36:43.42 ID:kOydjY6e
読売新聞に載ってたので。
兵庫豊岡でラスボスから茶々への愛の見舞状
秀頼公出産直後に贈られたもので、10月7日から11月26日まで兵庫県姫路市の県立博物館で公開されるそうな。
内容は茶々が高熱を出し、何度も灸をすえて体調が回復したのでそれを喜んだもので、
「これから食事をしっかりとるように。また秋刀魚を送ったので味わうように」とねぎらう一方で、追伸でこんなことも書いている。
「灸が嫌いなはずなのに、それほど高熱だったと聞きましたさすがは拾のおふくろです。」
ラスボスの細やかな性格と茶々への愛情の深さがうかがえると記事には書かれていました。

該当記事
秀吉から茶々へ「サンマ送ったよ」…書状発見
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170707-OYT1T50110.html



於萬様は宮部に養育されていた

2017年07月06日 18:40

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 11:00:20.83 ID:shzTRTJ6
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)