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こうしなければ、信長は私を生かさない

2020年11月21日 15:30

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/21(土) 13:24:14.64 ID:h/eHLwQj
松永霜台(久秀)籠城の時、信長はその討ち手として太閤(秀吉)を遣わした。
秀吉は箇条書きを以て信長に注進した。その内容は

『某日、二之丸を破る、某日、本丸を破る、某日、霜台の首を取る。』

と、今後の予定が著されていた。
右筆が「これは如何なものでしょか」と云うと、秀吉は

「こうしなければ、信長は私を生かさない。もしこの通りに成らなければ死ぬ。」と云った。
そしてその期日通りに、無理に討ち破り、首を筺に入れて信長に報じた。
これを見て信長は云った

「これは偽である。霜台は首になっても、我が前に出てくる者に非ず。筑前は機知にて
この事を為したのだろう。」

筺を開くと果たしてその通りであった。
霜台は遂に降伏せず、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死した。

老人雑話



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秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想

2020年11月14日 17:04

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/14(土) 12:20:30.26 ID:eKnM9SJ7
ある時、豊臣秀吉公がいつもの御参内の時に、御装束を召し変えられている途中、施薬院にこのように云われた

「私は尾州の民間より出たため、草を刈る術は知っていても、筆を取ることさえ知らず、もとより
歌、連歌の道などを知るべきもないが、不慮に雲上に交わりを成す身となった。

ただし、我が母が若き時、内裏の御厨子所の下女であったが、思いもかけず玉体に近づき奉った事があった。
その夜の夢に、幾千万の祓箱が伊勢から播磨を指して、隙間もなく天上を飛び行き、また、ちはやぶる神が
見え、人々の手をとったという夢想を感じて、私を懐胎した。

この夢想が当たったと見えて、私は信長公より、御唐傘を許され播州に発向し、即時に斬り平らげ、別所を
従え、それよりすぐに、九州(西国という意味)にかかり、安芸の毛利と対陣し、彼等を水責めに
攻め殺さんとしたが、無道の明智日向惟任めが、六月二日に信長公を討ち奉ったという飛脚が到来した。

この事、天下にやがて隠れも無い事になるだろうから、敵に知らせず上洛するのは悪しき事だと思い、
しかじかの次第にて急ぎ罷り上がり主君の御弔合戦をいたさんと欲する。ただしこのような状況を見て、
我々の跡を追撃しようと思われるのなら、却ってその武勇は弱きに似ている、尋常に、只今一戦して、
それを弔い合戦にいたすべき、と申し使わせた所、毛利家も、さすがにあわれなることと感じたのか、
又は秀吉が主君のために身を捨てて最後の合戦をいたそうとするのを、恐ろしく思ったのか、異議もなく
人質を出したため、我々はそのまま上洛し、憎き惟任が鉾をほこりにほこって清龍寺まで出張してきたのを、
六月十三日に、山崎表より突き崩し、雑兵まで残らず討ち果たした。

惟任は主君の御罰が当たったのか、冥加尽きて、厠の中で、汚き百姓に殺されたが、その首を取り寄せて、
去る二日に失い奉った本能寺の焼け跡に、梟首にかけて我が鬱憤を散じたのである。

しかしながら、もし信長公が生きていた時、これほどの忠功を致して悦ばせ奉れば、一体どれほど自分も
嬉しいだろうかと、猶悲しみの涙が出て、しきりに落ちる故に、紫野にて御葬を勤め、太政大臣の御位を送り、
大徳寺に一宇を建立し、総見院殿を崇め奉ったのである。

(戴恩記)

秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想



義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について

2020年10月27日 16:25

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 00:30:24.00 ID:AXIGWCDj
永禄十二年(1569)四月二日
織田弾正忠(信長)の所へ罷り向かった所、留守であったので二条城の普請を見物して帰った。
石垣三重は悉く出来上がり、また南巽のだしの石垣も出来、今は東のだしについて、少々出来ている。
この方にあった近衛の敷地は、悉く奉公衆の屋敷となった。不運の至である。

織田信長の使いの木下藤吉郎が岡殿の所へ参ったので、私も参った。丹州の知行、佐伯の南北両庄について、
細川右馬頭が代官職を内藤五郎に渡さないため、この内藤に、木下が相添えてこれを進め、代官を
仰せ付けると申したことで、近く両人に様々に問答を加え、この両庄より八十石を岡殿に進納することに
定まったという。羨ましい事である(御浦山敷事也)
藤吉郎と対面し、盃を下した。

言継卿記

義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について



大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事

2020年10月04日 17:10

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:11:40.63 ID:ODrWroWV
慶長二十年五月八日
辰刻(午前八時頃)、片桐市正(且元)の使者が言上した所によると、秀頼并びに御母(淀殿)は、
大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)をはじめ、その他究竟の士と共に二之丸帯曲輪に引き籠もって
いるという。幕府(秀忠)は使いとして安藤対馬守(重信)に参上するように申し、彼に
「秀頼并びに御母、その他が帯曲輪に籠もっているが、彼らに切腹を申し付けるよう。」と仰せに成った。
午刻(正午)に井伊掃部助直孝を召し、秀頼母子、その他帯曲輪に籠もる者達は切腹有るべしと
仰せに成ったという。

(中略)

また戦場に於いて首実検があった、真田左衛門佐(信繁)首、御宿監物首、大野道犬首を、
越前少将(松平忠直)が持ち来たという。

十一日
長宗我部宮内少輔(盛親)が八幡あたりに置いて蜂須賀蓬庵(家政)の従者によって生け捕りにされ、
二条御所西御門前に、長宗我部は搦められたまま晒された。諸人これを見て「猪のようだ」と言ったという。

十二日
今回の大阪からの落人が国々に逃げ散っているため、これを速やかに搦め捕って引き出すようにと、
諸代官、守護、地頭に仰せ遣わされた。
今日、秀頼の息女(七歳)が京極若狭守(忠高)によって探し出され捕らえられたとの注進があった。
秀頼には男児が有るとのことも内々に聞き召され、急ぎ尋ね出すようにと、所々に触れられた。

十四日
今日、大阪奉行であった水原石見守が、二条御所の近辺に忍んでいるのを訴える人があり、
藤堂和泉守(高虎)が討手を遣わした所、石見守は覚悟を致してこれと戦い、寄手三人が切り伏せられ
戦死した。そして石見守の頸は西御門前に晒されたという。

十五日
今日、長宗我部宮内少輔が一条の大路を渡され、六条において梟首、三条河原に晒された。
また大阪残党七十二人が、粟田口、并びに東寺辺りで梟首されたという。

二十日
大野道犬が大仏の辺りで生け捕られ、真田左衛門佐妻が、紀州いとの郡に忍び居たのを、浅野但馬守(長晟)が
これを捕らえ差し出した。真田は黄金五十七枚を秀頼より給わり、また来国俊の脇差を所持していた。
これは御前に差し出されたが、但馬守が賜ったという。

二十一日
秀頼の子息(八歳)、伏見農人橋の辺りに忍び居た所を捜し出され、捕らえ出された。容貌美麗という。

二十三日
伏見より、将軍家(秀忠)が二条御所に御着きになり、御密談に刻を移され、午刻に幕下は還御された。
未刻(午後二時頃)、秀頼子息(八歳)、六条河原に於いて殺し給わった。
乳母の夫である田中六左衛門も同時に誅された。乳母は命を赦されたという。

二十八日
井伊掃部助、藤堂和泉守を幕府(秀忠)が御前に召され、金銀の千枚吹、分銅二宛が拝領された。
その上、御知行が下されることを直接に仰せに成られた。これは今度の大阪表、六、七日の合戦の
働きの功によるものである。

今日、片桐市正且元が病死した(歳六十)。駿府より申し来たという。

駿府記

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事



395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:27:43.11 ID:LT28x8Lw
大野道犬は2度死ぬ

『浅井一政自記』より、天王寺・岡山合戦の模様

2020年10月01日 17:09

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 23:06:55.57 ID:y9xqxqNT
慶長二十年
五月七日の巳刻(午前十時頃)に、寺尾勝右衛門が真田(信繁)の所から使いに参り
「敵合近くなりました。合戦が始まります。」と申し来た。

秀頼は装束の間に入られ「修理を呼べ」と仰せになり、修理(大野治長)が参ると、この事について
勝右衛門と談合に成られた。修理は「最前も固く申しあったように、秀頼公の御馬が出るのを合図に合戦を
始めるという事になっている。今もその事に変更はない。」と申した。
私が「勝右衛門は年寄でくたびれている様子ですから、私を御使いに行きましょう。」と申すと、
修理も「一段尤もである。急ぎ向かうように。」と申した。

茶臼山には真田、丹後(伊藤長実)、伊桑(野々村幸成)、図書(堀田盛高)、伊木七右衛門などが
一所に居た。御使の通り申すと、丹後が「ならば我々は、それぞれの備に参ろう」と申して、下に降りた。

私は真田に「御使に参りましたが、敵合が近いので先に参ります。」と断って、伊木七右衛門の子・半七(尚重)
と同道して先に参った。敵合二、三町あたりへ乗り回して帰った。先に出た事については、この家中の
者共が多く見ている。

七日の午刻(正午)に、敵味方七、八町を隔てて人数を立ち並べた。敵より三人乗り出して参った。
私は白き角取りの紙の指物を指して、畠を筋違いに、阿倍野街道筋へ一人鑓を取って出た。
敵が一人先に進んで来たのを鑓にて突き伏せ、首を取った、この時鑓の塩首が折れた。
その時、真田新参の徳岡十右衛門という者が続いて参った。その内に四方に黒煙が立って、
その後どうなったかわからなくなった。ここにて本多出雲殿(忠朝)、小笠原殿(秀政)など
討ち死にしたと聞いた。これがこの日の一番合戦であった。

この一番合戦で私より先に出たものは一人も無かった。これについて、徳岡十右衛門が現在京に
居られるので、お尋ねに成って頂きたい。大場にての事であるので、諸人見及んでいる。
稲葉丹後殿(正勝)家中に居る山口勘右衛門も私が懸かった事について証言している。
その様子を沢田次右衛門と申す者の方へ書状を送っている。

浅井一政自記』

大阪夏の陣の天王寺・岡山合戦について。
自分の軍功について念入りに書いているのが、いかにもこの時代の武士ですね。



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 02:22:48.19 ID:pyId+6bq
大野治長が治房の家来に襲われて大体一か月程度
脇から肩を脇差で刺された後だってのに忙しいなぁ

『多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

2020年10月01日 17:08

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:03:29.31 ID:A8tUaSNv
多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

天正16年12月7日、(吉川)平介という人、大納言殿(豊臣秀長)より紀伊国の大将として雑賀に城をこしらえ、富貴に暮らしていた。
「熊野山の木を売るべし」と命じられ、2万本を選んで切り出し、大坂へ輸送した。そして、売り上げを毎月、過分に「上之」。
関白はこれを聞き及び、「曲事である」と召し捕らえ、おととい5日、西大寺で誅殺させた。
「主には一円、無過事也」。秀長は天下の面目を失った。
跡には金子700枚を持ち、「上之」という。
「女子供は不苦云々」、不情不便なことであった。
天正17年1月5日、秀長は昨冬、熊野の木を売りつけ、関白の御意に合わなかった。正月のお見舞いでもお目見えがかなわず、仕方なく帰ってきたので寺々への諸礼がなかったそうだ。

※とにかく意味の取りにくい記事なんですが、いろいろと解釈できます。
浅学非才ゆえ、この有名な事件にほかの原典があるのかなど知らないのですが。
①(これが定説?)平介が勝手に着服した。その額は金子700枚に及び、その分をあとになって秀長が太閤へ献上した。
②金に汚いことで知られる(諸大名に高い値段で兵糧を売ろうとしたり)秀長が平介に命じ、大仏殿建設で高騰していた貴重な木材を普請用に提供せず、売り払った。(1月5日記事には平介のへの字も出ていない)
③これはかなり無理な解釈ですが、秀吉が秀長に命じ、熊野の木を売らせた。その代金のうち、かなりを平介が秀長に献上していた。太閤はそれを知って立腹した。
いずれにせよ、私の誤訳や勘違いがあると思うので、ご参考までに。

ちなみに、この記事の前後は聚楽第への落書きに対する処分であったり、秀吉の苛烈な言動がいろいろと記されています。
9月3日条では、
先般、関白の大事にしていた刀が盗まれ、ついに行方が知れなかった。
これによって男女があまた磔にされた。浅野弾正の甥も腹を切り、「諸方以外震動」。ひときわ機嫌が悪い様子で、「狂乱ノ始也云々」。頼朝の守り刀、一文字で無類の重宝だったという。ありかは未だに分かっていないそうだ。

と記されています。平介事件も秀吉が権力者としておかしくなりだしていたことを念頭に置いて考えるとおもしろいかもしれません。



380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:16:01.32 ID:SryfC8MZ
よく秀長が長生きだったら朝鮮出兵や秀次、利休の切腹は無かった説があるけど
ぎりぎり名補佐役の面目が立つ時期に死んだだけで後2~3年生きていたら粛清されていたかもな

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:56:20.22 ID:nLSNZYeT
秀吉自身の方針の混乱は
秀長・大政所・鶴松の死、秀次養子縁組と秀頼誕生が複雑に絡み合ってるからなんとも言えないかなぁ
少なくとも大政所が生きてる限り秀長の粛清はできないと思う

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 08:42:33.98 ID:pyId+6bq
大政所自体は諌めるだろうけど、それで秀吉がやめるかなぁ
正直秀長の当時の評判って悪いし

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 19:28:31.45 ID:SryfC8MZ
かーちゃんが生きていれば命は大丈夫だと思うけど朝鮮出兵の総責任者かな、大和紀伊召し上げ朝鮮半島切り取り次第とか言われそう

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 19:33:34.48 ID:mN8KDRpT
戦闘員が大量に余ってるんだから外征しなきゃ内乱になるだろ
そもそも唐入りが悪かったというのは結果論で、中華周辺異民族が中原目指すのは普通のことだし

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 21:05:28.44 ID:B1l19ekP
戦闘員でなぜか景勝の母親が浮かんだ

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 21:57:09.03 ID:r9WCf6jv
それ仙桃院

大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

『浅井一政自記』より、大坂城の混乱

2020年09月25日 17:50

353 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 00:44:34.27 ID:C8PZ88rV
(前略。慶長十九年二月二十三日、片桐且元が登城しないことに対し、且元から理由を聞いてきた
浅井一政が大阪城に戻り)

御城に出て、小々姓を以て「御用が有るので、奥へ入れて下さい。」と申し上げたが、何とも御意が無く、
また重ねて申し上げると、秀頼公は既に座を立っておられ、この時我等は装束の間の縁に居たのだが、
帝鑑の間へ入るように言われ、我等は召し連れられ入った。この時あいは殿(饗庭局カ)に申して
「ここに誰もお入りにならないで下さい。あいは殿もそこに居られるべきでしょうか。」と申して、
その後秀頼に申し上げると、
「不慮の事が出来したとは、何事か?」と仰せになった

「市正(片桐且元)を成敗すると聞こえたため、彼は今日罷り出ず、屋敷に立てこもりました。」と申した所
「天道も照覧あれ、俺は知らない!」(天道も照覧あれ、おれハ不知)との御意であった。
そして「ではどうしたら良いとお前は思うか」と仰せになられたので、
「市正の心中について八右衛門に尋ねた所、市正は毛頭二心あるというような事は有りません。
周辺で悪しく御耳に立てられたものでは無いでしょうか。」と申し、「また市正からも承りましたが、
彼は人質を出すと申しております。これにて彼の心中も知れると思います。御手廻の衆を少々召し連れ、
市正の屋敷に行かれ、御頼まれるのが然るべしと考えます。
昔織田信長様のおとな(重臣)が謀反をされたとき、このようにされたと承っております。その上市正は
人質を出すと申しております。この上お疑いに成るような事では無いと考えます。」

そう申し上げると、暫くご思案されて
「しかしながら、市正の心中は知れぬ事である。またどうしたら良いと思うか?」
「この上は、只今御誓文によってその旨を書いて遣わし、市正の心中をお聞きになるべきです。」
「尤もである、であれば御書を遣わそう。」

そう仰せに成っている間に、御袋(淀殿)より追々に使いにて「奥へ入られるように。」と、お使いに
宮内卿、右京太夫が参った、そこで秀頼は帝鑑の間の奥と表の間の廊下に御出になられると。市正殿の
屋敷へ、下屋敷に引きも切らず人数が籠められている様子が目の下に見られた。

御書の内容について廊下にて我等と御相談遊ばし、白い文箱に入れられた。符は我等が付けた。
これを土肥少五郎に持たせ遣わした。返事を待って廊下に入られると、奥より
「心もとない。先ず奥に入られるように」と頻りにお使いがあった。我等も申し上げにくい
事であったが「このようなことは女房衆の存ずることでは有りません」(かやうの事ハ女房衆の存事
にてハ無之候)と申した所、秀頼は使いの者を尽くお叱りに成ったため、二度と使いは参らなかった。

354 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 00:47:05.98 ID:C8PZ88rV
(中略。その後再び浅井一政らが且元の元に行き、且元邸に籠もっている軍勢と織田有楽邸に籠もっている
軍勢双方を撤退させることで同意したが)

市正殿の元に参ると、居間より奥、南の方の座敷に連れてお入りに成り、二心無き段々を仰せ聞いた様を
承り、その上で甲斐守と私の両人は御城へ参ると、焚き火の間の中の柱に秀頼はもたれて入られており、
大蔵卿、正永がその左の方に伺候していた。奥と表の間には菊の屏風が立って、御袋が入られ、
その返事を聞かれた。

「知っての通り、甲州(速水守久)は無口であるので、お主がまずあらましを申し上げ、その上で
様子を我等に詳しく申し上げるように。」
そう言われたため、私が市正殿の申したことを残らす申し上げた。そこで正永が脇より申した

「市正殿が屋敷に人数をお集めに成っているのは何事か」
私は答えた
「市正を御成敗有るという事を、彼の家来たちが聞きつけたため籠もっているのだと思われます。」
この事についてこの場では、特段のあしらいはなかった。秀頼は奥に入られたあと、槇島玄蕃を召され
「市正の心中を聞くことが出来、御満足であった」との事で、召して居られた呉服を我等だけに
下された。

八右、多羅尾半左衛門は芭蕉の間に参り、甲州、私を呼んで「只今御両人へ市正は申し上げた通り、
『御同心に於いては、今夜の内に有楽の屋敷に籠められている御人数を退去されますように。
市正屋敷に籠もっている者共も皆追い出します。この通り、御両人様(秀頼・淀殿)へ御意を得られます
ように。』と市正が申しております。この通り、秀頼が奥に居られるので、使いを以て申し上げられますように。」

ところがこの事を秀頼の耳に入れず、御袋より返事があり
「まず市正の人数を退去させ、その後有楽の所の人数を退去させる。」と仰せになった。
これを聞いた甲州は頭をかきながら「こんな事では何も成らぬ」と申した。
私は「『畏まりました』と申しておいて、同時に退去させれば良い。」と答えた。
「尤もである。ならばその通りに奥へ申し、市正にも返事をしよう。」ということに相済み、
また市正殿へは、甲州と私が検使に参り、有楽へは槇島玄蕃、永翁が参った。
これは二十三日夜のことであった。

『浅井一政自記』

片桐且元をめぐる大坂城の混乱の記録。これに対する淀殿周辺の介入に豊臣家中は相当苛立っていたようで



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 02:14:27.61 ID:M9a/G0h0
恐らく秀頼幼少の際は淀殿が家中差配をしてて、秀頼成人後そこの指示系統がややこしくなってる感じかな
そんだけ秀頼が頼りないと認識されていたか淀殿が出しゃばりすぎか

どうしたらいいと思う?って聞きすぎじゃねーかな秀頼、供廻りつけて直接聞きに行ったら?って提案スルーするし、略された所でもやたらどうしたらいいと思う連発してるんだっけ?
なんというか頼りなさげだなぁ、他家中でもこういう時こんなもんなのかね?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 08:56:19.58 ID:I+5YGX1a
清須会議みたいにドラマ化してほしいな
大坂の陣省略じゃ盛り上がりに欠けるからだめか

『当代記』より、大阪冬の陣の和睦

2020年09月15日 16:47

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 00:24:06.07 ID:NWu9CDs1
慶長十九年十二月十四日、
大阪冬の陣は、これ以前より和睦の扱いが有った。秀頼公よりは、四国の内二ヶ国を給われば、大阪を退城する、
との条件を出し、大御所・将軍(家康・秀忠)からは、安房・上総の両国を進ずるとの案を出した。
しかし関東への下向は全くありえないと秀頼は堅く思われ、この和睦は調わなかった。

大御所は阿茶局(雲光院・家康側室)を召され、陣中に参られた。

同日、女性である阿茶局が、若狭衆(京極忠高)の大阪城に対する仕寄に参り、大坂城中からも、
大蔵卿局、并びに若狭宰相老女(常高院)が出合、対談に及び、専ら和睦について語った。

十九日、また両度、先の女性衆出合、和睦が調った、これによって大御所将軍より、起請文を以て
異変有るべからずの旨を示した。

城中より、織田有楽の息子・武蔵守、大野修理(治長)息子・信濃守が、証人(人質)として出された。
これに対し、後藤庄三郎(銀師、四、五年大御所の近習の如き人物である)、并びに本多上野(正純)の
両使を以て、この証人を請取、すなわち上野の陣所へ同道した。

この和睦については、惣構、并びに三の丸は破却され、秀頼公も母台(淀殿)も、関東下向の事は
沙汰無く、領地も以前のまま、本丸二の丸は前々のごとく破却沙汰は無かった。

城中について、兵糧は沢山あり、その他も特に欠けたものはなかったが、その中で鉄砲薬は欠乏していたという。
その故は、城中では皆大鉄砲を用いたためで、これまでに八百石の弾薬を消費したという。
彼らは三匁筒などはほとんど用いず、十匁、二十匁、三十匁、五十匁、百匁の鉄砲を撃ち、そのため
欠乏に至ったという。

この度の籠城の最中、秀頼はいつも惣構を廻り、少しのことでも精を入れて働く者には、その内容によって
褒美が有った。人々はみな、これを美談としないものは居なかった。

今回、大坂城中の兵たちは、『六本鑓の衆こわき』などと云って悪口した。
これは大工大和(中井正清)、後藤庄三郎(銀師)、永仁(京町人)、同茶屋又四郎らで、彼らは皆
大御所の宿直の者共であった。

大阪三の丸、惣構は破却された。

二十四日、大御所は茶臼山を立たれ上洛され、二十五日に入洛された。

『当代記』

大阪冬の陣の和睦について



『武功雑記』と『備前老人物語』より、城に関する小品2つ

2020年09月14日 16:17

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/14(月) 00:24:40.15 ID:UbLIhjN6
武功雑記』(前者)と『備前老人物語』(後者)より、城に関する小品2つ

・大坂千貫櫓の由来
本願寺顕如が籠城したとき、よく横矢が掛かる櫓があった。寄せ手は難儀したので、「千貫出しても取りたい櫓だ」と取り沙汰されたので、千貫櫓と呼ばれた。

・城の本丸、本当の利用目的
城の本丸は、人質のたぐいを入れ置くためにあるという



秀頼の御袋は武具を着て

2020年09月13日 15:51

淀殿   
340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/13(日) 12:56:53.07 ID:ek8NO7bt
慶長十九年十月二十八日、(大坂冬の陣の勃発後)、大坂城中より脱出してきた者が二条城に召され、
城内の様子を尋ねられた。

彼の者の言上によると、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着て、自ら番所改めを行われており、
これに従う女性三、四人も武具を着ているという。
そして大阪籠城の勢は三万あまりという事である。(但し雑兵を含む)
兵糧、薪、塩、味噌などは形のごとく貯められているという。

当代記



大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため

2020年09月12日 16:33

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/12(土) 12:08:21.19 ID:QHtbi35F
慶長十九年十月二日、雷が頻繁に鳴り響いた。美濃国加納の松平摂津守(奥平忠政)が逝去した。

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため、兵糧を貯め、去る八月、近国に金銀を遣わして相調えた。
福島左衛門大夫(正則)は大阪に八万石の兵糧が有ったが(この時江戸に在った)、秀頼より
借用したいと言ってきた。これに対し正則は飛脚にて『兎も角も秀頼御意次第』の旨を返答した。
その他、家康公の蔵米が三万石、諸国大名の米三万石、并びに町方の売買する米が二万石、
これらを大坂城に収納した。町人の米は代銀を以て速やかに決済した。

また秀頼は去る慶長五年(関ヶ原)の敵方の士、所々に隠れ居た所を、今これを招き、数百人扶持した(但し
人質を出さない者は抱えなかったと云々)。

これらに対し大御所自ら、大阪に使者を遣わした。それは大野修理(治長)の弟で、大野壱岐守(治純)であった。

当代記

大阪冬の陣直前の様相について



『老人雑話』より、秀吉秘話を選録

2020年09月04日 18:40

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/03(木) 22:22:52.08 ID:1dFb0oYm
老人雑話』より、秀吉秘話を選録

・産出量を超える松茸
山城の国に山里というところがあり、(太閤秀吉から)梅松という僧侶が預かっていた。新たに松を植え、程なくして松林ができあがったので、秀吉に松茸を献上した。
秀吉は笑って、「私の威光がまったくなかったとき、私も(信長に)何度か松茸を献上した。実はよそから買って献上していたのだ」。
秀吉は側近の者に「もう松茸を献上することはやめさせなさい。(松茸が)生えすぎている」と言ったそうだ。

・大清洲捜査網
秀吉がはじめ、微賤の者だったとき、(中間?)衆の間で刀がなくなった人がいた。秀吉は貧しかったので、人々は秀吉を疑った。
これによって秀吉は城下の民家をあまねく尋ね歩き、質屋にあるのを発見した。(質屋に)尋問して盗んだ犯人を捕らえ、信長が狩りに出るときに訴え出た。
信長は感じ入り、初めて微禄を与えたそうだ。

・中国大返し、政宗っぽい秀吉
明智光秀織田信長を討ったとき、秀吉は軍を返し、途中の尼崎の寺に入り、「法体」(出家)して京に上った。「素衣白馬」(死を覚悟)の心だった。
その寺にはいまも寺領があるという。

・信長へのはったりと大ウソ
松永久秀が(信長に謀反して)籠城したとき、信長は討手に秀吉を派遣した。
その後、秀吉から書状で信長に(攻撃前から)注進しようとした。
「何日には総構えを破り、何日には二の丸を破り、何日には久秀の首を取った」。
(秀吉の)右筆が「これで大丈夫なのですか?」と聞くと、秀吉は「この通りにならなければ信長様は私を殺す。もし計画通りにならなければ私は死ぬ」。
(秀吉は)そのスケジュール通りに「無理に討破り」、久秀の首を箱に入れて信長に届けた。
信長が言うには「この首は偽物だろう。久秀は首になっても私の前に出てくる者ではない。秀吉が(誰かの首を)たばかって送ってきたのだろう」。
箱を開いてみれば、まさにそうだった。
久秀は最後まで降伏せず、鉄砲の火薬に火をかけて焼け死んだ。

※北陸遠征で無断帰陣したあとだったので、ハッスルしたんでしょうか?大将は信忠ですけど



見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

2020年09月03日 16:22

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:27:24.57 ID:EkTrbIWX
見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

太閤の時代の茶人は明け方ごろまで茶室に湯を沸かしておき、近づきのない者でも
通りがけに案内なしに茶室に上がって自分で茶を立てて飲み、また出て行ったと聞く。
ある夜更けに、太閤がどこからの帰りか、ふと「今自分でも茶室に湯をわかしている
ところはあるだろうか」と供の者に尋ねると、供の者が「針屋宗春以外にはございま
すまい」と答えたので、宗春の茶亭に行ってご覧になると、供の者が申したとおりに
湯が沸かしてあったので、太閤は茶を賞玩なさったという。
また、ある夜更けに何者かが宗春の茶室で茶を立てていたが、宗春が召使に「誰か
見てこい」といったので見に行くと、若党を多く連れた侍だった。よく尋ねてみると
石川五右衛門と名乗った。この時代の風儀はこのようなものであったと見える。



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/04(金) 18:06:35.77 ID:UxjSEEFI
>>511
何かおおらかで素敵やん

秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



もし達ってその儀に及べば、

2020年08月06日 18:40

淀殿   
242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/06(木) 16:36:58.69 ID:R/RiIQk5
慶長十年五月の七、八日頃、大阪では下民がしきりに荷物を運び出そうとし、人心が非常に動揺していた。
これはこの頃、徳川秀忠の将軍任官の祝儀として、豊臣秀頼公が伏見に上がられ、その上で上洛して頂きたい
との事を、右府家康公の内存があり、この旨に京都の大政所も従った。これは故太閤の北政所である。
そして大阪にこれを伝えた所、秀頼公の母台(淀殿)はこれを拒否し、

「そのような儀は有るまじき事である。もし達ってその儀に及べば、秀頼公を生害し、我が身も自害する。」

と頻りに宣われたため、これを聞いた下民達は大変に慌てふためいたのだ。
また秀頼公が伏見に上がられるのは勿体ないと、上方大名共の中より、大阪に内通した者もあると
噂された。これによって秀頼公の上洛は引き延べとなった。

当代記



慶長元年の災害

2020年07月29日 16:25

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/29(水) 13:33:05.82 ID:D/tYIpMV
慶長元年、春中雨細々と降り、五月中旬より六月二十六日まで露(梅雨)に入った。
この春は雪が節々と降り、四月四日にも雪が降った。

五月九日、尾濃で洪水。六月十九から二十三日、甲信関東で洪水。百年以来の大水と言われた。
知行の損亡は数を知れず、武州の内葛井(葛西)・浅草にて、人三、四百人が溺死した。
その他牛馬も数を知れず死んだ。この時節も、上方にはさほどの事はなかった。

六月二十七日から七月七日まで旱。翌八日よりまた降雨。六月十四、十五日頃彗星出る。
七月二十八日より閏七月二日まで旱。翌三日より九日まで降雨。この九日に俄に水が出て、
山崩れ人が死んだ。この水は所による。

閏七月十二日の夜、子の刻(午前0時頃)に、上方大地震。京中は三条より下、伏見まで家損人死、
上京は無事であった。
伏見御城中にて上臈七十三人、中居下女五百人が死んだ。一の門、三門の番衆は、門が崩れ悉く死んだ。
この時太閤(秀吉)は中の丸に御座在ったが、その身は無事であった。
諸大名の家々も倒れた、人が死ぬこと限りなかった。

大阪、堺も同前で、伏見城殿主石垣は一つも残らず崩れた。大仏殿は無事であったが、中の大仏は
破損した。愛宕山坊中も倒れ、所々より上がった真壺(ルソン壺)の過半も破損した。
この六,七月、閏の間、上方は降雨で。五穀豊かに実った、
この地震で、関東駿遠、何れも東では揺れなかった。

前の七月の浅間山の噴火のように、西の方に噴煙が流れ、これ故か、近江、京伏見ではその頃
灰が細々と降り、それ故か秋毛は少々凶作と云われた。信濃などではこの灰が一寸ばかり積もった。
関東には灰は降らなかったが、但しここでも同秋凶作と云われた。

当代記

慶長元年の災害について。



庶民はこのため迷惑した

2020年07月27日 17:02

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/26(日) 22:10:46.53 ID:RRjL16Sp
慶長二年の春、京都四条に太閤秀吉は新構の普請を行ったが、地の利が狭かったため、また白川出口に
普請をやり直した。町人たちはそれぞれ家を壊され迷惑した。

この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。庶民はこのため迷惑した。

当代記

豊臣政権の20%の消費税という奴ですね。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/26(日) 23:01:11.62 ID:QPPTvxSv
いまでも苦労しているのに、どう徴収したのかね
ただでさえ商人層への課税がずさん、なんというなら実態に伴わぬ上納の時代なのに

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 11:42:25.14 ID:NP47T+CV
想像を絶するルーズさなのにな
焼き討ちでもして強奪したんだろうか

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 14:04:06.65 ID:boxqkpvD
>この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。
なんていっても、各町の代官が個別の商人の売り上げなんて把握してないだろうから、
各町の商人衆が、「あいつは大体これ位儲けてたから」といった感じで仲間内で税負担を割り当てて、
決まった時期に一括上納とかいった感じだったのかなぁ?

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 20:07:16.03 ID:kxCvGttO
その為の座、株仲間、町会所やろ。

この頃京都の傾城達が召し上げられ

2020年07月26日 18:05

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/25(土) 22:19:35.08 ID:tr+RCr6r
文禄四年、この頃京都の傾城達が召し上げられ、そのうち五人が太閤秀吉に召し遣わされた。江戸内府公(家康)、
加賀大納言(前田利家)にも二人ほどが「召し遣われるように。」として遣わされた。
その他の人にも下された衆は多かった。

これら傾城の中に。歌舞、躍りが難渋な美女一人が有った。彼女にその仔細を尋ねた所、
「賤しからざる親類が多く、外聞を思ってのことである。」と言った。

これについて、彼女の兄弟に問うた所、「これ以前に二度まで身請けをして召し直したのだが、両度ながら
又再び傾城屋へ走り入ったため、是非に及ばぬ。」と言上した。

これによって、彼女は磔に掛けられた。(然は則はり付に被掛)

当代記



秀次事件

2020年07月24日 18:30

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/24(金) 01:02:10.41 ID:r3NYavW9
文禄四年、関白豊臣秀次にこの頃御謀反の企てが露見したとの事で、七月八日、関白秀次は
聚楽を退出し高野山へ上り、同十五日、腹を御切りになった。

秀次の若君二人(一、二歳の孩児であった)并びに近習、女房の三十余輩、洛中を引き廻され切り捨てられた。

誠は秀次の逆心は虚言であるのだが、行跡が穏便では無かった故に、治部少(石田三成)の讒言によって
かくの如く成ったのだという。

聚楽城、并びに諸侍の家門は伏見に引き移された。

当代記