鎌倉杉

2017年07月18日 18:27

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/18(火) 01:00:20.98 ID:5xL/Eti2
・鎌倉杉(岐阜県大井町)

大井武並神社の祠の後ろに一大の古杉がある。これを“鎌倉杉”という。
別名に“太閤杉”ともいう。その別名には次のような伝説が絡んでいる。

豊臣秀吉は朝鮮征伐の際に船檣を求めて、ついにこの地で東西二株を
倒し、さらに中央の一株に斧を加えたところ、

切る者はたちまち血を吐いて倒れ、杉の切り口からは鮮血が湧き出た。

奉行の各務兵庫(元正)はなおも人夫を促し励まして、切り進ませたが、
またまた血を吐いて死亡するに到ったため、ついにその計画を中止した。

その杉には、今なお斧痕をとどめている。

――『恵那郡史』


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ラスボスから茶々への愛の見舞状

2017年07月08日 21:06

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 20:36:43.42 ID:kOydjY6e
読売新聞に載ってたので。
兵庫豊岡でラスボスから茶々への愛の見舞状
秀頼公出産直後に贈られたもので、10月7日から11月26日まで兵庫県姫路市の県立博物館で公開されるそうな。
内容は茶々が高熱を出し、何度も灸をすえて体調が回復したのでそれを喜んだもので、
「これから食事をしっかりとるように。また秋刀魚を送ったので味わうように」とねぎらう一方で、追伸でこんなことも書いている。
「灸が嫌いなはずなのに、それほど高熱だったと聞きましたさすがは拾のおふくろです。」
ラスボスの細やかな性格と茶々への愛情の深さがうかがえると記事には書かれていました。

該当記事
秀吉から茶々へ「サンマ送ったよ」…書状発見
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170707-OYT1T50110.html



於萬様は宮部に養育されていた

2017年07月06日 18:40

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 11:00:20.83 ID:shzTRTJ6
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)


かつて朝廷が関白職を設置した由縁を

2017年07月03日 19:01

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/03(月) 18:17:25.88 ID:8WDBP3oZ
羽柴秀吉が、自らを関白に任じ天下のことを預かり白すべき事を望んだ時、禁裏は勅定として

『古より執柄に任じられる家は定まっており、藤原氏が相続している。秀吉の姓はいかなるや。
このような事は、その姓に従っているものである。』

とあり、伝奏もそのように秀吉に説明した。

秀吉はこれを聞くと

「私は元百姓の子であり、姓氏ともにあらず。天子はこれを知り給いながらかくの如き勅定、
甚だ以て心得がたし。

ここで考えてみるに、往古より、生まれながら姓氏を持って出て、これぞ源平藤橘と、
自然に相備わるような事はない。時の天子がその生縁に因ってその姓を賜り、その人の住む場所により
在名を名乗る。

しかれば我、今武威を以って天下を併呑した。天子はどうして相応の姓を与えないのか?

また関白職が藤氏に限定されるというのもこれまた心得がたい。
関白は天下の政務を預かり四海の権を執る職であり、今この職に任じられるのは私以外に誰がいるというのか。
藤氏歴代関白に因循するといえども、ただ有名無実な存在であり、何の意味もない。
かつて朝廷が関白職を設置した由縁を、能く考えてみることだ!禁裏にはそのように返答してほしい。
よき勅答を待つ。」

これにはさしもの伝奏の公卿も、言葉もなく退出した。
そして天子はついに豊臣の姓を下し、秀吉を関白の職に任じた。

(士談)



75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/03(月) 20:50:35.25 ID:pm5eutU1
関白就任は棚ぼただったんだよね
この話の様に姓のせいで関白就任が断られたなら別に太政大臣でもいい気がする
清盛の前例があるし

終始の勝敗は、終始の政による

2017年06月21日 20:02

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:41:24.04 ID:D+B63afb
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。


900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:16:56.75 ID:i1njUqXZ
夏の陣は仕方ない

今は石垣山と呼んでいる

2017年06月11日 10:44

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 22:20:06.79 ID:I7EY2XpE
 物事の勢いによっては、事がはかどって行き自ずから人も育って力が増すものである。
 天正十八年、北条氏政を太閤秀吉が攻められた時、
小田原の城から西にあたる所に高い山があった。
要害で地の利がよいと、すぐに石垣を積み上げて、所々に櫓を上げて、悉く屏をかけ、
たちまち壁を塗り、一夜の内にその上に白紙を張った。
これが白壁のように見え、城主はこれを見てその器量を感じたとか。
 今は石垣山と呼んでいる。


『武士としては』


御感状お望みのことは

2017年05月01日 10:40

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 00:27:19.55 ID:L1hYyx9y
ある人が語ったことだが、大阪の陣の折、大野主馬の部隊が夜討ちをして戦功のあった時、
主馬は自身の首尾よろしき段を、秀頼に木村長門守(重成)に取りなしをしてもらい、自身に
感状が頂けるようにと要望した。

長門守はその時は良いように会釈したが、後で主馬を密かに呼んで言った

「先程の御感状ご所望の事、言われるまでもなく今回の武功は上様もよくご存じですから、
下されること相違ないでしょう。

ただし、私が思うに、あなたの御身分の上に感状を頂いて、一体誰にそれを披露するおつもりなのでしょうか?
匹夫独身の者は、重ねてまた、他の主人に仕える時、自らの名誉としてこれを差出します。

しかしあなたは、現在上様の為に、あなたご自身もご兄弟も、股肱羽翼の補佐をされています。
そのような人が功成り名を遂げられる事について、一体誰がそれを争うというのでしょうか。

あなたについては、御感状お望みのことは、ご遠慮すべきだと思います。」

この言葉を聞くと主馬は大いに恥じ、重ねて云うべき言葉もなかったという。

これが実際にあった話なのかどうかは解らないが、その考え方自体は尤もというべきであろう。

(士談)



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 08:06:31.51 ID:E0sFo8f5
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8076.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2962.html
出典は違うのが何度か出てたようだ

嘆きの中の喜びとはこのことです

2017年04月29日 16:44

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 15:51:31.95 ID:HmLp52Lk
嘆きの中の喜びとはこのことです


一部既出だが(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5244.html)
秀吉が小牧長久手で池田恒興・元助親子が討死した後に
天正12年4月11日付けで恒興母の養徳院にあてた手紙

 今度の勝入(池田恒興)親子のことは、簡単に申せることではありませんが
 其れ様が御力を落とし御愁嘆されているのは推量申し上げます。
 我々もこちらに出向き、敵にあって十町、十五町とやりあっていたところに
 親子の人の不慮があり私も力を落としたこと、数限りもございません。

一三左衛門殿(輝政)、藤三郎(長吉)殿、両人が何事もなかったことは私の
 嘆きの中の喜びとはこのことです。両人はせめて取り立ててこそ
 勝入の御奉仕に報いることになり、心に叶うことだと思います。
 
一其れ様が途方に暮れておられるだろうと存じていましたので、こればかり
 案じていましたが、ぜひとも賀を御致しになって御嘆きを止められ
 両人のことをお世話されれば、勝入親子の弔いにもなることですから
 是非とも頼みますので、御女房衆(恒興妻)にも力をおつけなさって下さい。

一そのほか残った宿老衆は、三左衛門殿につけるように致したいので
 その御覚悟をなされ御愁嘆を止めるようになさって下さい。

一勝入を見るように、筑前(秀吉)をご覧になって下さい。何様にでも
 馳走申し上げます。物参りもなされるように致します。
 心のままに物などを召し上がり、身を完調になさって下さい。

一浅野彌兵衛(長政)に申し含め御見舞いに行かせます。私もそちらへ
 参りたいのですが、只今は手前のことで参上することが出来ません。
 ここもとの暇が空いたら御見舞いに参り、そのとき勝入親子と
 親しくしていた話でもせめて物語り致したいと思います。
 何かにつけて其れ様の御心の内を推量し、御気の毒に思います。
 返す返す御女房衆にもこのことを申したく思います。
 孫七郎(三好信吉、のちの秀次)ですが、そこもとの配下が動揺していると知り
 (行きたいと言ったので)御城(大垣城)の留守居に遣わして参らせます。
 孫七郎めも命を助かったのですが、せめて三左弟兄[兄弟のこと]の為にと
 声を上げて騒いでいるのだと嬉しく思いました。
 詳しくは彌兵衛に申して下さい。


――『侯爵池田宣政氏文書』 



868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/30(日) 17:02:42.31 ID:srdj1iUc
武将なのに1人で突っ込んじゃうのは
組織の力発揮できなくてイクナイ的な
すぐ自分でやっちゃう上司に言いやすい金言ってありませんか?

徳川四天王のだと、文字数多い気がする。

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 17:14:40.67 ID:4wr/3SC2
>>867
今の軍隊の上司も部下が死んだら手紙書くんだろうか、書くとしてもここまでかけなさそう。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 18:08:47.19 ID:1GrJCw1u
ぺリリューて漫画では死んだ部下の家族宛の手紙を書くのも上官の仕事だって書いてたな

これ故に先立って戦死を遂げる

2017年04月15日 18:56

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/14(金) 21:38:46.57 ID:6vo126Lp
木村常陸介(重茲)の家臣に、岡田藤十郎という者があった。

16歳の時、秀吉の小田原役における八王子城攻めにおいて、頸取源八という者が頸を引き下げて
出てきて、「一番首なり!」と高らかに宣言した。
ここに岡田が来て
「源八ははや頸を得たのか。さては面白くもないことだが。」
そう言いながら城の方へ行き、そこで朱具足の者と突き合い、難なく突き倒して頸を取ろうとした、
が、考えを変えそのまま先に行き、また他の敵と突き合ってその頸を得て帰った。

「初めの頸を何故棄てたのか?」そう問われると岡田は
「兜の下を見ると法師武者であった。だから棄てたのだ。」と言った。(高齢の武者だったから、
という意味であろう。)
常識はずれの勇士である。

この岡田藤十郎、朝鮮征伐の年、18歳にて高麗に渡り、優れた働き多かった。
しかし木村常陸介の定めた軍法を破って先に出ること度重なったため、常陸介は大いに怒り
「重ねて左様なことあらば、具足を剥いで陣を払え!」と言い付けた。

岡田はこの事を本意無く思い、その翌日、白き羽織をこしらえ、墨にて紋を書き出し、
唐人の陣の方へ一番に進んだ。

この節、長谷川藤五郎(秀一)などが、敵陣への大物見に出ていたのだが、その先の松の木の
ある所に白羽織の者が見えた。敵か味方かと観察したが解らない。しかし日本軍の方に向くこと無く
敵方へ一文字に進む。

この松のある所は、敵陣に近すぎてなかなか近寄ることも出来ない場所であったが、彼は松の木の
脇まで行き、そこで敵の猛攻撃を請けて速やかに討ち死にした。

「あれは何者か?」
長谷川が尋ねると、「木村常陸介内、岡田藤十郎である」と解った。
彼の死を惜しまない者は居なかった。

岡田は書き置きをしていた。しかし前夜はその素振りも見せず、朋輩たちと語り合い、そして翌日討ち死にした。
その書き置きにはこう書かれていた

『常陸介殿は、具足を剥いで陣を払えと言われた。人の国に参り、この陣を払われては、
私は一体どこで戦場を務められるだろうか。これ故に先立って戦死を遂げる。』

そう残した筆のすさみに、人々は惜しみあった。
この藤十郎、16,7の頃より勇士の兆し現れ、只人ではないと世間で言われていた。

(士談)


高安家、豊閤より賜し陣羽織之旧談併家紋巴之由来

2017年04月04日 18:22

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/03(月) 21:04:15.37 ID:3cglSWb1
〔脇師〕高安家、豊閤より賜し陣羽織之旧談併家紋巴之由来

 脇師高安彦太郎の家は古く奈良以来の旧談も多い。
その中に豊臣太閤から贈られた陣羽織を、
年が経ったので今はかの装束の角帽子として家蔵としているという話がある。
 ある日その角帽子を持って来て予に見せてくれた。
外包に『秀吉公拝領金襴大内桐角帽子』と記してある。
彦太郎が言うには、”大内桐”とはかつて防州の大内氏全盛のとき貯えて置いた物であり、
漢から渡ってきた物であったのを後に太閤が獲って陣羽織とされたとのことだそうだ。
これは大御所公が御在位のときに贈って御覧になられたとか。
 またかの家は神祖から頂いた能の狩衣がある。
紺地金紋に巴がついている。よって彦太郎の家紋は今は巴を用いるという。

(甲子夜話三篇)


之を以て、予が為した所を批判せよ。

2017年03月27日 12:11

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 10:39:21.78 ID:xkF4eQ/h
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉よりフィリピン諸島長官に贈りし書簡

『卿が遠方より派遣した大使は、多くの艱難を経て予を訪問した。卿はこれに託し。卿の肖像を
予に贈り、卿に代わって予に敬意を表したため、陸雲海および波が我らの間にあり、我らは実際に
数千レグワを隔てているにも拘らず、予にとっては眼前にあり、予は親しく卿の言葉を聞いているようである。

天と地と分かれて世界が始まって以来、この日本国は神、また君としてシントー(Xinto 神道)を崇敬
している。これはシン(Xin 神)の徳により、太陽及び月はその運行をなし、また1年四季の差別も、この
神より生ずる。これと同じく風および雲が発生し散布し、雨および霧が生じ、地球が回転し、鳥が飛行し、
動物が運動し、草木その他一切のものが成長して賛美すべきものと成るのも、またこの神より出る。
人間も又、これによって君臣の別を生じ、老人と少年の別および夫婦の結合も同一の原因により生ずる。

一切のものはこれより始まり、結局これに終わり、また分解する。

かくの如くであるというのに、数年前パードレ数人が当国に来て、外国の悪魔の教えを説き、当国の
賤しき人民、男子並びに女子の宗旨を乱し、その国の風俗を輸入して人民の心を惑わし、当諸国の
政治を破壊した。これによって予は厳しくこの教を禁じ、完全に防止することを命じた。

これだけではない。その国より来た宣教師たちはその地に帰らず、町および村を巡って密かに賤しき人民、
従僕、および奴隷に外国の教を説いた。予はこれを聞いて忍ぶこと能わず、すぐに彼らを殺すことを命じた。
何故ならその国においては、布教は外国を征服する策略、または欺瞞であることを聞いたからだ。

もし、日本の国より日本人の宗教者もしくは俗人が、卿の国に渡って神道の教を説き、人民を惑わし
道を惑わせたならば、その国の領主である卿はこれを喜ぶだろうか?絶対にそうではない。
之を以て、予が為した所を批判せよ。

予は思うに、卿がこの方法を用いてその国(ルソン)の古来の君主を追い出し、ついに自ら新しき君主と
なったように、卿はまた貴国の教を以て我が教を破壊し、日本の国を占領せんと企画したのだろう。

これ故に予は、前に述べた所に対して憤り、怒りを抑えていた時、海上において破壊された船が
土佐国に現れ、波上に漂った。
予はその船に積まれた財貨を集め、これを散ぜずまた分配すること無く、これを卿に還付せんと
決心していたが、卿の部下が我が法律に背いた故に、この財貨を悉く没収した。
卿は今、予がこれを還付する義務があると思っているだろう。
ならば、古来の交流を継続するため、卿は甚だ遠くより、防風および激浪の艱難を経て予が許に大使を
派遣し、日本と結合し、交誼を政道に導くためにも、今後人を遣わして外国の虚偽の教を説かしむことなかれ。

このようにすれば永久にこの日本国と商品を貿易することを得、その地より来る商船が、予が印を押した
免許状を持参すれば、海においても陸においても少しも害を加えられることはない。
当国よりその地に往来する日本人等が、もし貴国の人民を擾乱せしめ、その地の法律を守らない時は、
これを捕えて獄に下し、事件を審理して刑に処すことを得るだろう。

昨年船数隻を出してかの船の乗組員をその地に帰らせた。船中の水夫その他の人を殺さなかったのは、
我等の間の古来の交誼に背かないためである。

卿が予に贈ったものは目録に掲げてあった通り。悉く受領した。特に黒象は予にとって珍奇であった。
昨年の秋の末、支那の大使数人が当国に来たが、彼らは白象一頭を予に贈ることを約束した。
であるが、予がこの象を予に贈ったのを大いに喜ぶのは、遠方より来た新奇の品を珍重するのが、
昔から今に至るまでの習慣だからである。

予が卿に贈る品は別紙に記した。その品はわずかでは有るが、好意の証としてこれを卿に贈る。
昨冬、当地に来た水夫等の家族に悲嘆に同情し、また卿は彼らの領主であるので、彼らを
憐れんでいると考えたことにより、悉く貴国に帰らせた。

之を以て終わる。』
(異国叢書)

秀吉が、キリシタン追放令やサン=フェリペ号事件について述べた書簡である。


秀頼藪之事

2017年03月26日 19:26

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 23:30:42.64 ID:BU1a2z98
〔領内志佐〕秀頼藪之事

 大坂落城のとき、秀頼は薩州へ逃れ行きその蹟があることを前に言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9991.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10320.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10623.html
実事だとみえる。

 そういったところこの頃ある話を聞いた。
領内の志佐地方というところに、秀頼藪と呼ぶ所が在ると。
もしかしたら薩州への道にしばらくここに隠れ居たのか。
訝しい。

(甲子夜話三篇)


文禄元年、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

2017年03月25日 17:34

700 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:29:14.49 ID:w3PsfF11
1592年(文禄元年)、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

『カスチリヤ、レオン、アラゴン、両シチリア、エルサレム、ポルトガル、ナバラ、グラナダ、サルジニヤ、
コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガルベス、アルヘシラ、ジブラルタル、東西インド、
大洋中の諸島及び大陸の王、アウストリヤの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミランの公爵、
ハプスブルク、フランデル、ブレターニュ及びチロル等の伯爵なる我らの君、ドン・フェリペ二世王のため、
当大群島の諸島および西部地方の長官兼司令官たるサンチアゴの騎士、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤス、
高貴にして強大なる君主関白に当然の敬礼を致し、健康と恒久の幸運とを祈る。

御家臣にてキリスト教徒たる日本人、原田孫七郎(Faranda Mangoschiro)は当地に着し、貴王の一身に関する
報告をなし、その内容に私は甚だ喜び、天の神が貴王に授けられた勇気・思慮・および勢力に対し大いなる好意を表す。

原田は数日前、私に一つの書簡を与えた。その形式の整っていることと、文体の壮重なるにおいては、
大いなる君主の書簡と見えたが、それを届けた使者が、これを派遣する人、及びその使いする先の
人の格、そして使命の重大さについて必要とする材幹および資格を備えない、甚だ卑しくまた貧しい人物
であり、しかも食料その他の商品を搭載してこの地に来る普通の商船にて渡来し、航程甚だ遅れたるが故に、
この書簡は、この原田なる人物が当地において一層の尊敬を受けたいという私的な目的のため、自分、もしくは
他人の手によって作ったものではないかと疑った。

また私は、当地に日本語とイスパニヤ語を解する信頼すべき通訳を持っておらず、彼自らが書簡の内容、及び
使命を説明したため、書簡の言葉の真実の意味を疑いった、
もし日本国王より私に書簡を贈る時は、その地に耶蘇会のパードレその他イスパニヤ人が存在するので、
彼らを用いて、少なくともこれを私の国語に翻訳したものを送られると考えたのだ。

これ故に、私は未だこの原田という人物のもたらした書簡を読まず、その使命を明らかにしてはいない。
彼が貴王、及び私に欺瞞を計っているのではないかと疑い、その実否の判断を保留している。
しかし貴書、および貴使節らしい所がある一点を思い、礼儀を守ってこの書簡を書き、原田が私のために
作った翻訳により、わずかに知り得た所に対し、貴書に答える。

私は、徳高く慈悲深き長老代野パードレ、フライ・フワン・コボを派遣する。彼は当諸島において
最も尊敬され、その思慮及び勇気あるがため、私が最も重要なることを告げ、その意見を求める人である。

彼は私の名において、貴大王に当然の敬意を表すだろう。そして使節の言う所が真実であれば、私は
貴手に接吻し、今も、また将来も交友たることを明言し、世界において最も偉大なる我が主君たる
国王の名を以て、貴王の幸福を喜び、不幸を悲しみ、天の王がこれを除かれることを祈る。

701 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:30:04.48 ID:w3PsfF11
東インド及び当地方より日本に赴く我が国王の臣民たるイスマニヤ人が、貴王の手より受ける厚遇及び
恩恵に対して、我が君なる国王の名を以て、親交を希望し、当地においても、貴王の臣民に対し同一の
愛情を以て、及ぶ限りの厚遇をするだろう。

私はこの人のもたらした使命の真実か否かの報知を得るの恩恵を希望する。
もし真実であるのなら、我が君である国王に対する決意及び義務に背反しない限り、この如く偉大なる君主に
相当する友情を以て答え、我が国王にはすぐにこれを報告し、その命を仰ぐだろう。

私は、我が国王及び日本国王の如く、偉大なる両君主の間には、満足なる結末を見るだろうと信じる。
真実なる友情及び同盟が存在することは、世界の平和と一般の満足とをもたらし、また諸王の王である
全能の神の栄光と成るべきを期待する。

日本より私が大いに珍重する物を贈られたことを以て、私も又返礼として、イスマニヤの珍奇なるものを
贈ろうと欲するが、武士の間で最も珍重するのは武器であるが故に、剣および短剣1ダースを贈る。
これは当地において用いる、最も精巧な品である。
これを贈る者の好意を思い、友情の証として貴王の幸福及び強盛を望む我が手より受納されることを請う。

本書感を携える者は、前に述べたることの実否を知ろうとするためにのみ赴く者であるので、
その地において知りたいと思う事は、彼に聞いてほしい、

我らの主が貴王の身を護り、多くの幸福を与え給わんことを。

我らの主にして救主たるイエス・キリスト生誕の1592年6月11日(文禄元年5月2日)
マニラより。』

(異国叢書)

>>696の書状に対するフィリピン総督の返信。どうも原田さん、非常に適当なことを言ったようである。


後悔すること無かれ。

2017年03月24日 16:01

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 00:17:52.08 ID:Sxykn2tM
天正19年(1591年)豊臣秀吉、フィリピン諸島に入貢を促したる書

『予が国は恐ろしい戦争が100年余り行われ、諸人甚だしく背馳し、交通並びに書状に統一が
なかったが、この時、この世界を治め嘆賞すべき和合に導くため、予の大いなる誕生が有った。

予は年少の頃より国務に任じ、10年を経ずしてこの小国(日本)を尽く服従せしめ、三韓琉球、
及び他の遠方の諸国は既に予に帰服して頁を納めている。

予は、今支那に対し戦をなさんとしている。しかしこれは予の力に因って行うものではない。
天が予に与えたものである。

其方の国は未だ予と親交を有せず、よって予は行きてその地を取ろうと欲したが、原田孫七郎が
予の寵臣に告げるには、商人の船舶がその地に往返し、彼自らもまたその国に赴いたことがあって、
諸事に通じていると言うので、故に彼を派遣してこの事を報じさせる。
これは100レグワを隔てても、諸事を探求し実相を明らかにすることを得るためである。
こういったことは、古人の一人の言葉にあり、価値を持つ。

これ故に、原田は身分卑しき者では有るが、予はこれに聴き、暫く時を与え、諸将を派遣し
大いなる軍隊を率いて高低尽く平坦にするための命を下さなかった。

今は旗を倒して、誠に予に服従すべき時である。
もし服従することを遅延すれば、予は速やかに罰を加えるだろう。後悔すること無かれ。
この他告げる要は無い。


天正19年9月19日

日本国の関白』

(異国叢書)

マニラのフィリピン諸島長官、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤスに宛た、豊臣秀吉よりの服従勧告である。

その返書↓
文禄元年、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡




697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 11:25:08.55 ID:njXTdQT1
元寇でのフビライ・ハーンの手紙に似てるな

秀吉公は神明を仰がれられて

2017年03月17日 07:45

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 01:49:54.67 ID:3F32zGZe
 太閤秀吉公が名護屋に御在陣の時加部島で鹿狩りを催し、
狩った鹿を田島大明神の社壇の前に集められた。
多くの臣下が神明の咎が蒙るかもしれずいかがなものかと思い、外へ持ち出すべきだと言ったが、
秀吉公は少しも恐れられず、

「どうしてそのような事が起ころうか」

と悠然とおられた所に、たちまち風波起こって集まっていた鹿を残らず吹き飛ばし穢土を清めた。
秀吉公はすぐに宮司に仰せられて、神鎮めの神楽を奏上された。
 その後祈祷祈念を怠られず、奉納寄付等があった。
既に朝鮮渡海の先鋒小西摂津守・加藤主計頭の軍勢が出船していたので、敵国調伏の祈祷をさせられた。
 御社の後ろの森の中に大石がある。この前に壇を築き注連縄を引いて、宮司は丹誠を尽くして祈る。
数百騎の精兵は弓矢を帯びて朝鮮の方に向かって矢を放ち鯨波を揚げると、大石が中から縦に割れた。
その石は割れたままで今も宮殿の後ろにある。
秀吉公は御感ひととおりでなく神明を仰がれられて、軍勢海陸無難、敵国調伏の祈願をこめられた。
 その後一艘の船を献じ朝鮮の梅と奈良の八重桜の苗を社内に植えさせられた。今もその樹が残っている。

 松浦郡の神社は皆田島大明神の末社であったという。
境内の末社に佐用姫の神社がある。縁起にもあることである。
秀吉公は、往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例により、田島大明神を尊崇された。
また大伴狭手彦の因縁があるので、朝鮮征伐の時から、百石高、山林で相違ないと御朱印を与えられた。
今なお御代々の将軍から賜っており、宮司は従五位下を任官し昇殿を許されている。

『松浦古事記 寛政元年(1789年)成立 著者不詳』

・「往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例」というのは、多分「神集島」のことで「加部島」ではない
・秀吉が佐用姫神社に百石寄進した朱印状は実存し名護屋城博物館に収蔵されているらしい
・佐用姫と大伴狭手彦というのはさよ姫伝説の事

「宣化天皇の頃、任那を新羅から救済する為大伴狭手彦が唐津に駐屯した。
そこで狭手彦は現地の豪族の娘の佐用姫と夫婦になるも、
狭手彦は朝鮮への出征により佐用姫を置いていくことにする。
佐用姫は夫を慕い、乗っている船を追いかけて加部島までたどり着くも、
結局夫と離れ離れになってしまう。
嘆き悲しんだ末、佐用姫は石になってしまった。」

というもの。(諸説ある)
元ネタは『肥前国風土記』の弟日姫子と大伴狭手彦だが、
出征して離れ離れになるとこまでは同じだが、加部島には行かないし石にもならない。



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 18:45:26.29 ID:MF2YxTVe
万葉集で大伴旅人に歌われるような伝説にたいして風土記が元ネタというのは違和感が


676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 15:20:21.58 ID:L6OBA41M
>>675
正確には、奈良時代には広まっていた肥前国であったとされた伝説が元ネタですね。
万葉集では別れを惜しんで山に登って領巾を振る光景を主に詠っていますね。
どちらでも、佐用姫は加部島に行かないし石にもならない。

ついでに、佐用姫と秀吉の逸話をもう一つ投下


豊太閤が名護屋の御城におられた時、加部島を逍遥された。
浜辺に一つの石があったので、しばし休もうと腰をかけられると、
この石が温かくなってむくむくと動いた。
太閤は驚き、

「これは怪しい石である。きっと由縁があるに違いない。」

と古老を呼んで尋ねられた。

「あれは佐用姫の御形石です」

との答えがあったが、太閤は

「どうしてそのようなことがあろうか」

と尿をかけられるた。
すると沖の方からにわかに大波が来てこの石を洗い流した。
さすがの太閤も大変感じ入り、自らの無礼を詫びられて、
古人平野某を召して神司とし、
その場で百石の証文を授けて佐用姫の霊に仕えさせるよう
大谷吉隆(吉継)に仰せられた。

今もその例により、徳川家から代々百石の朱印を授けられている。

『松浦の家つと 安政六年(1859年)序 明治三十一年(1898年)刊  著者 岡 吉胤』


677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 15:59:59.61 ID:TyxkKzHL
>>676
なんなの秀吉のテンプレでもあるのw
秀吉がおごり高ぶったことをする(しかも下品なこと)
→自然現象が起こる
→神意をみた秀吉が反省して色々奉ってみたりする

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 16:13:56.51 ID:lNAyAxB5
あるいは太閤の小便には超自然現象を起こす能力があるのやも知れん

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 22:54:13.84 ID:/FtvZE1I
>>677
あるんだろうね
秀吉が家臣の妻に手を出そうとしてしっぺ返しをくらう、みたいに

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:51:10.05 ID:gSypgfin
なんとなく秀吉=将軍さま 自然現象=一休さんの構図が見えた

「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」

2017年03月16日 21:16

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

髪に伽羅を

2017年03月13日 09:34

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/13(月) 07:24:37.86 ID:ZXvx5ar4
 秀頼公の乳母子木村長門守(重成)は忠義の士で、二十三歳で忠死をとげた。
かねて討死を心掛けていたので、髪に伽羅をとめていた。
安藤長三郎がその首を挙げまして、家康公が御覧になられました。
空焼きの匂いをかがれて、
「いつの間にかような心付きをしたのか。殊勝な若造だ。」
と上意があったとのことだ。

『武士としては』


「父は知らず。母は官女」

2017年03月10日 13:10

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 23:55:41.28 ID:RVhtdrtc
或る説によると、豊臣秀吉が、実は神皇百六代後奈良帝の御落胤であるという。
母はこの朝廷に仕えていた所、禁裏衰微の故から御妊娠のあと故郷に帰り、上中村の何寺
とやらに居た叔父の僧の世話に寄って木下弥右衛門の所に嫁いだのだとか。

この説によると天瑞院殿(大政所)は弥右衛門の継室であり、瑞龍院殿(秀吉姉日秀尼)とは
別腹ということになるが、この説を豊臣秀吉は非常に喜び、後に朝鮮より素性を尋ねられた時、

「父は知らず。母は官女」

と書かせたという。

(翁草)



650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:18:49.42 ID:CuKbDLlq
大村由己「天正記」を真に受ける人がいたとは

なお朝鮮の宰相・柳成龍「懲毖録」によれば
「秀吉については、ある者は『彼はもともと中国人で、倭国に流れ込んで薪を売って生計をたてていた。
ある日、国王が外出中に道ばたで出会い、その人となりの尋常でないのを見て、軍列に加えた。
勇敢で、力があり、戦上手であったので、功績をあげて大官に出世し、権力も握るようになって、
ついに源氏(足利氏)を奪ってこれに代わったのだ』と言い、またある者は、『源氏が、ある人に殺され、
秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』とも言う。」
(中略)
その国では、天皇を尊び、秀吉以下は、すべて臣下の礼をもって対処している。秀吉は、国内にあっては王を称えず、
ただ関白とか、博陸侯とか称している。いわゆる関白とは、霍光の言った『凡そ事は皆まず関わり白(もう)せ』という
語からとって、そのように称えているのである。」
となってるので落胤とは思われてなかった模様



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 13:55:56.55 ID:c5Zdyy3A
>>650
>『源氏が、ある人に殺され、秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』

爆弾正「よし、途中が抜けてるからセーフだな」

種子島蔵人

2017年03月08日 11:27

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/08(水) 10:15:43.86 ID:b0jUgklp
或る本によると、豊臣秀頼は大阪落城の後薩州に下向されて島津家を頼み蟄居、
種子島蔵人と改名されたという。

寛永の頃、京都の具足師何某の所に、薩摩より鎧の修復が依頼された。
具足師はそれを見るや

「この鎧は常人の所持するようなものではない。かつて太閤秀吉公がお召になったという
鎧についての言い伝えと全く同じだ!」

そう思っていたが、その後再び具足の修復を依頼され、その具足には『先年秀頼公御召の具足』
と有り、先の修復の時の疑問が解決したと言ったそうだ。

また伊勢奉幣の目録に、『豊臣某』と書かれているものもあるとか。

(翁草)


この説虚実を知らず

2017年02月28日 08:08

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673~83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた