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ある時の秀吉と家康の会話

2023年04月19日 19:05

809 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/19(水) 17:24:36.68 ID:S9OmN5yQ
異説まちまち』からある時の秀吉と家康の会話

太閤「井戸に釣瓶を落としてしまった。道具を使わずにこれを引き揚げるにはどうする?」
神君「大人数で井戸へ水を汲み入れ、二本の指でその釣瓶を引き揚げましょう」
太閤「私と同じ考えだ。私の死んだ後は、天下の主は貴殿であろう」

一応いい話に



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密かに申し上げたき儀あり

2023年03月21日 19:18

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 12:21:09.53 ID:skfkcONT
譚海に、さらにツッコミどころ満載の秀頼生存説がもう一つあったので

享保年間中、薩摩の家老の猿渡なにがしが江戸に出て、老中松平左近将監(松平乗邑)殿のところへ、密かに申し上げたき儀ありと対面を願った。猿渡、封印してある墨塗の箱を差し出して、「薩摩守より申し上げまする。去年薩摩にてかの人死去されました故、このようなものを所持していては、恐れながら将軍家のお恥ともなり兼ねぬと存じまして、密かにお返し申そうと持参いたしました」と申し上げた。
左近将監殿、すぐさまその箱を持って登城して言上すると、有徳院公方様開封してご覧になられた。なかには東照院より豊臣家へ遣わされた起請文が入っていて、秀頼が十五歳に達したら政務を返上する旨が書いてあった。これについては何の仰せもなく、ただ、かの人は何歳で死去されたのか、子孫はいるのかなど詳しく聞いてくるようにと上意あり、左近将監殿帰宅して猿渡を召して委細を尋ねられた。
猿渡申し上げていわく、「かの人去年百三十七歳で死去され、百二十一歳の時に男子が生まれ、この子は今も生きております。以前も男子一人出生しましたが、すでに亡くなっており、ほかに女子三人ありますが、いずれも家老どもへ縁組いたしました」
このことが上聞に達すると、来春薩摩守参勤のせつにその男子を同道せよと上意あった。翌年薩摩守が同道して参勤すると、何事もなくお目見えを許され、その男子に知行五百石下賜され、赤坂山王の神主に仰せつけられ、樹下民部という名前も下された。子孫は今も続いていて、樹下はすなわち木下の意であるとのことだ。

樹下民部で検索すると、山王の日枝神社の神主が樹下姓で、元禄十年に幕命により神主職を継いだという話が出てくるので、樹下=木下を思いついた誰かが作った話ですかね。



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 14:21:20.83 ID:07kYylV9
日吉権現に願ったら猿似の男子が生まれたため日吉丸と名付けた
とか「絵本太閤記」とかに書かれてるから
山王権現の神主が樹下姓なら自然と思いつきそう

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 15:46:17.00 ID:s91iSmcn
秀頼生存説も良い話というより、百姓より天下人になった秀吉の子供である秀頼は天下人から百姓になった、という天道説的没落物語っぽくてなんか…

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 15:55:29.97 ID:ZbYnv9vr
一方生まれながらの将軍は女に目覚めてからは百姓女とパコパコするのが好きな変態だったという

ちょっと都市伝説風味の話

2023年03月20日 19:53

726 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:45:51.31 ID:3oOcadZo
いい話かは微妙だが、秀頼つながりで。秀頼が薩摩に逃げ延びたという話が譚海にあったので。ちょっと都市伝説風味の話。

阿波の南の海から薩摩へはほど近く、船でたやすく一日で往復できる。それゆえ昔は阿波の漁師が釣りをしながら薩摩まで行き、そこで休息して阿波に帰るといったことが時々あり、自然と知り合いもできて、船を寄せて煙草の火をもらったりもするようになった。その船をよせる場所は薩摩の南海の浜辺で、岸の上には厳重な番所のようなものがあった。とはいえ、海のすぐそばで番人も一人か二人、人のいない寥々たるところで、何を守っているかも定かではない。そんなところだから、阿波の漁師たちも気楽に世間話をしにたびたび集まって番人たちと仲良くなった。

 ある漁師が船を寄せた時のこと。番人は一人もおらず、しばらく待っても誰も来ないので、火をもらいに岸に上がり、番所の中へ入った。すると、いつも閉めている番所の後ろの扉が今日は開いている。何だろうと思って何の気なしに入ってみると、綺麗に掃除が行き届いていて人っ子一人いない。びくびくしながら奥に進むと、大きな石の五輪塔が二、三基ある。不思議に思いながらさらに進むと、最奥に美々しく作った五輪塔が一基あって、神廟か何かのようにしてあった。ほかには何もないので船に戻って待っていると、いつもの番人が薪を背負って山から帰ってきたので、船から上がって雑談をした。
ふと、「この奥にあるお墓のようなものは何ですか」と尋ねると、番人大いに驚いて「あなた方、あれを見られたのか。あれは非常な秘事なので、決して口外しないでください。今日はあそこの掃除をした後、山へ木を刈りに行ったので、つい鍵をかけ忘れてしまった。とにかく、決して口外なさいますな」と何度も念を押した。漁師たちもさては豊臣秀頼のお墓をはじめ、真田左衛門尉、そのほかの人々の墓なのであろうと心づいた。こののちは、番人たちも心掛けて漁師と親しくせず、決して他国の船が岸に寄せるのを許さぬようになったということだ。



「続武家閑談」から宮田光次

2023年03月13日 19:20

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:05:49.62 ID:nGsppXvO
「続武家閑談」から宮田光次
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。

宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死)



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:50:58.98 ID:u4UaIy7F
イイハナシナノカナー

707 名前:705[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 18:31:48.51 ID:6PqIzfiZ
おそらく同じ文章を訳したのだろうけど、ウィキペディアの解釈と自分の解釈がかなり異なっていたので、原文を併記しておく。

ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。

原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。

708 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 08:56:51.11 ID:I+/rUjav
>>705
入れ札で論功を判断していたのか。
勉強になったわ。

709 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 09:01:24.77 ID:I+/rUjav
>>705
こちらの訳の方が自然に見えるね。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 11:55:09.74 ID:Lm1LxlrS
各々が自分の戦功を主張して場が乱れるから、各々に格付けしてもらって総計を取った感じか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 15:05:26.52 ID:eeE8J6i+
単に照れ屋さんな気が

「続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」

2023年02月06日 20:00

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/06(月) 18:17:10.52 ID:wYXGpwx3
続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」

大坂夏の陣の前に、大野主馬(大野治房)が駿府に放火しようと、忍びを上﨟衆の床の下に忍び入れさせ、権現様がいらっしゃる時分を伺って、討ってしまおうと申し付けた。
そのとき小幡勘兵衛(小幡景憲)が「そのような手段では成功しないでしょう。
浜松にいらした時分、「女の居住の縁側は降りやすいように低く作れ」とおっしゃったため、どの床も低くなっているそうです。
本当は人が忍びいるのを防ぐためだそうです」と申したため、中止となった。
実は小幡は夏の陣の前に間者として大坂城の籠城に加わっていたという。



日比半右衛門と米村市之丞

2022年12月22日 19:08

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/21(水) 20:02:33.26 ID:6asqkaLX
朝野雑載」から日比半右衛門米村市之丞

片桐且元の従士である日比半右衛門は武功ある者であった。
大坂冬の陣の時、大野の属兵・米村市之丞と闘ったが、半右衛門の嫡子・半十郎が横から出てきて、父と入れ替わって米村と斬り合った。
半右衛門は勝負を見物しつつ「討つも討たれるも武士の習い。踏み込んで勝負をいたせ」と言うと
半十郎は父の言葉を力にし、米村の肩先を斬った。
一方、米村も半十郎の左の頭に切りつけ、弱るところを斬り伏せて半十郎の首を取った。
息子を討たれた半右衛門は米村を引っ立てて
「今貴殿を討つのはたやすいが、その方にも父があり、今われが感じているように不憫に思うことだろう。
その方一人を討とうが助けようが戦の流れは変わらぬのだから、早く帰って恩賞に預かられよ」
と矢立を取り出し、半十郎の姓名を書きつけて与えた。
城内に馳せ帰った米村がことの次第を報告すると、秀頼公も感動し米村に黄金十枚を褒賞として与えた。
これを聞いた人々はみな「半右衛門の計らいは勇ありて情け深い」と感嘆した。

私(貝原益軒)が思案するに、半右衛門の計らいは主人の敵を討たず、他人の子を愛して自分の子を愛さないようなものではないか。
このような異常な行いを見て世人が感動すると言うためしがあるとは。
識者の論をまって是非を判断するべきだろうか。



貴所よりは位が上であるのだから

2022年11月26日 14:33

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/26(土) 09:56:40.14 ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所を取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

川角太閤記

有名な秀吉の「天下友達」のお話



内蔵助を攻める軍勢を出すべし

2022年11月21日 19:47

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 19:01:01.76 ID:kbOd9V3r
「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

川角太閤記



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 08:27:03.82 ID:1wYkIu2B
越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更

秀吉の推量は少しも違わなかった

2022年11月16日 19:02

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/15(火) 20:41:39.74 ID:bTevtSEj
(小牧長久手合戦後、織田信雄と和睦を成立させたあと)
秀吉は徳川家康卿を御引き付けさせうようと思し召し、そのための御分別、御工夫に悩み、
寝付けないほどであったと聞こえた。

その段々の御分別の次第だが、秀吉は御あつかい(和睦)を掛けるために、家康の様子や手引を見ようと思し召し、
家康卿の国の様子を御聞きに成るために、人を色々に変装させ、三河遠江へ潜入させた。

この時、秀吉の御分別としては、「家康卿は籠城の支度をするなどあり得ない。ただ一合戦とのみ
定めているだろう。」と思し召されていた。

先の目付たちが帰国し、お尋ねに成ったところ、「家康は籠城の用意など全く見えません。
鷹野や川狩りのような慰み事ばかりしています。」と言う。後から参った目付も同様の報告であり、
秀吉の推量は少しも違わなかった。

そこで秀吉は、御あつかいの為に家康に妹を与え、この上は兄弟に成るべきと、御あつかいを掛けた。
その上で家康卿がまだ合点無ければ、母と女ども、さらに妹の三人を家康卿へ人質に出すべきと、
蜂須賀彦右衛門(正勝)や黒田官兵衛、その他二、三人に仰せ聞かせた。

川角太閤記



何事につけても、最も身が危うく見えるのは

2022年11月06日 18:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/06(日) 16:46:48.05 ID:XrQtncg6
(賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。

この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」

秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。

あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。

又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。

佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。

何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」

そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。

川角太閤記



小野木縫殿介の妻

2022年09月15日 18:42

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/15(木) 17:57:23.65 ID:zmxQhNy+
貝原益軒「朝野雑載」から小野木縫殿介(小野木重勝)の妻

小野木縫殿介の妻は島左近の娘であった。
関ヶ原ののち縫殿介が切腹した知らせが届いたため、自害する気配であった。
(縫殿介は居城である福知山城を細川忠興らに対して開城したが、助命嘆願もむなしく細川忠興により切腹させられた)
縫殿介の妻は北政所に仕えていたため、宮仕えする女房たちは自殺をおしとどめ、そのそばを去らずにいた。
夜が更け、鶏が鳴く頃ひそかに守刀で自らののどを突き刺し失せた。
その際に書き置いていた辞世の句
「とりなきて いまにこえ行く 死手の山 関ありとても 我なとどめそ」

※キリシタンであったらしい



今度秀吉が御在洛され、関白になられた

2022年09月07日 18:47

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/06(火) 22:34:26.40 ID:Jo2FWFOc
今度秀吉が御在洛され、関白になられた。近衛殿、前入道殿下前久公の御猶子としてであるという。
(天正十三年)七月一日に参内され、禁中において御能があり、上下京の手能の者たちがこれを
秀吉より仰せつかったという。

秀吉が関白になられた事で、同時に殿上人、諸大夫になった人が十人もあった。
御能は五番、弓八幡、田村、三輪、紅葉狩、呉服の切。
今回の御能に、関白殿(秀吉)に対し所々より進上があり、上下京衆より盃台六、七百ばかり、折が五百、
これらが合わせて庭上に夜中から並べ立てられ、これを番する衆もあった。

当日には清涼殿の御面等の少し下に引き下げて、仮の御椽を押し出され、その上に盃台、折以下が置かれた。
また、この折、盃台以下は上下京の町人の進上であった。今度の盆の踊りを御免する代わりに、今回、
折、盃台以下を馳走するようにと秀吉公より仰せだされたのだ。

能の太夫は、上京からはホリケ、ワキはホリケか、伯父のリウハであるという。入道前虎屋という者である。
下京の大夫はこれまで、禁裏御能に何れにても何か下されることは無かったが。大夫が若衆であるとして、
御扇が下される事もあった。そして今回は秀吉公より、越後の帷子二百が進上され、それが悉く下された。

宇野主水記

秀吉の関白就任の時の上京下京の関わりについて。



京の衆に風流を

2022年09月04日 15:11

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/04(日) 14:37:58.97 ID:sI3KCCJ6
天正十三年七月六日、秀吉は上洛中に、京の衆に風流(盆踊り)をさせるのだという。
しかしながら町人たちは、去る春の、内裏・御所の築地つきの時は、このために上下京では種々様々の
事を成し、以ての外の造作であった。それに重ねて又風流をさせるというのは、京都の人々にとって
迷惑なことであると、徳雲がお取りなしになり、風流は中止となったという。

但し内裏において、上下京の手能の衆が、御能を仕り叡覧があったとの風聞である。

宇野主水記



この茶会で宗易、宗久は

2022年09月03日 19:17

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/02(金) 23:41:43.36 ID:MhRgviZR
天正十三年三月八日、(秀吉は)紫野摠見寺において数寄の名物共を集め、二箇所において、
千宗易(利休)と今井宗久が茶を点てた。また京堺、その他方々の茶湯執心の者共にも参加をするように
とあったが、但し茶を飲ませるようにとし、又他にも、自分の所有する道具を持って登り、自身で茶湯を構え、
その人の名物などを(秀吉が)見るのだという。

一番に紫野和尚たちが所持する名物を見せ申した。二番に武衛などのような、然るべき牢人衆が見せられ、
三番は堺の良き道具持ち衆であり、その他次第次第にそのように有ったという。

秀吉は御在京二、三日の間に、大阪へ御帰城あったという。この茶会で宗易、宗久は都合二百服ばかりを、
両人して点てたという。

宇野主水記



家康について、秀吉は存分が

2022年09月01日 19:04

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/31(水) 22:27:09.19 ID:ulBDHuFY
(小牧・長久手戦役の中)今度、秀吉は北伊勢に出馬し、敵城が一ヶ所あれば付城を数多造らせた。
そのような所に、三介殿(織田信雄)よりの懇望により和平が相調い、三郎殿よりは、妹の岡崎殿という者を
人質として出したという。津田源兵よりも人質を出した。
徳川家康からは実子(次男於義丸)、重臣である石川伯耆守も人質として実子を共に出した。

そして三介殿と秀吉は会合し、秀吉より紙子二つ、金二十枚、北伊勢一揆が捨てた兵糧を取り置いていたもの、
二万五千俵をそのまま三介殿へ進上した。この会合のとき、脇差しの國行と、腰の物一振も三介殿へ進上し、
父子の約束があったという。

家康について、秀吉は存分が残っているとして、入魂という事については同心無かったが、三介殿より
様々に御懇望があったために、家康についても赦免となったという。

霜月十五日に、家康は三州に帰国した。

宇野主水記

小牧長久手の講和について。



秀頼薩摩落の事

2022年08月01日 18:36

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 18:21:41.22 ID:8IK/SbBS
大分県郷土史料集成収録」の「日田郡志」から「秀頼薩摩落の事」

とある朝鮮人(李文長か)が平戸の士に言うことには
「日田三隈川の南の河原、北高瀬村の今市河原で後藤又兵衛と予は秀頼公より別れの盃を賜った。
そののち後藤又兵衛と予も散り散りになった」そうである。
そのあとの順路を考えると、秀頼公は真田・木村などの屈強の輩、十二騎を従え、北高瀬村→南高瀬村→大野村→梅野村→肥後国・穴川村→隈府と至ったのではないか。
また秀頼公一行が今市河原にくるまでに山国中摩村の真言宗明円寺で昼御膳を召されたと言う伝がある。
この路程とは外れるが、日田の五馬市には秀頼公宿泊の宿があるという。
後藤又兵衛は秀頼公と別れたのち豊前国下毛郡山国金吉村伊福に隠れ住んだと言う。
傍碑、後藤屋敷、後藤又兵衛の墓があると言う。
後藤又兵衛は伊福で隠棲すること二年、承応三年(1654年)正月二十九日の深更に村人が訪ねたところ、戸を固く閉じ、一人灯の下で古い箱から書簡とおぼしきものを取り出し、一通一通涙を流して書見し、みな火中に投じたという。
翌早朝に村人が後藤又兵衛を訪ねたところ、すでに自殺していたという。
村人は哀れに思い、近くに墓を建てたそうだ。

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 18:36:38.46 ID:8IK/SbBS
ついでに金吉村伊福後藤碑銘

義刃智光居士
居士。俗名又兵衛。
何処の人か知らず。往昔この邑に来たりて寓居すること二年。
其の人となりにおけるや、志気英威、武徳俊高にて眼光人を射る。
ああ諸侯大夫たる者の逆世において謫居する者かな。
承応三甲午歳正月廿九日夜、剣を旨とし自殺す。
歳をへること久しく、石碑闕落す。
これによりて里人、古を慕い新たに石碑を立つ。冥福に資助する者なり。

宝暦十三年癸未歳六月 日
願雲 金吉村伊福 茂助


四国九州の往来を差し防ぐべし

2022年07月01日 20:01

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/01(金) 18:57:25.14 ID:ZLDkYfIn
大阪籠城(大坂の陣)の砌、豊臣秀頼公は篠原又左衛門という者を召し、

「汝が生国は淡路であるから、能く案内を知っているだろう。また親類、好の者も有るだろうから、
それらとも語らい、同心の者があれば、由良城を攻め、かの島を固め、由良、岩屋表に番船を置き、
四国九州の往来を差し防ぐべし。」

と命ぜられた故に、篠原は内々これを謀ったが、大野修理亮(治長)がこれを聞いて

「海を隔てての働き心得ず、始めの手段を仕損じては如何なり。」

と制し、支度の船共を焼き捨てたため、篠原の謀略も徒になったという。

(新東鑑)

篠原というと、阿波三好家重臣の篠原氏の縁者なのかな?



曽呂利新左衛門の「死」についての話

2022年06月27日 16:01

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/26(日) 22:25:54.03 ID:+gE/WFp9
朝野雑載」から曽呂利新左衛門の「死」についての話

秀吉公が家臣たちに言うことには
「我ほどの幸福者は古今おらぬだろう。
そのわけだが、国持大名が天下を取ったり、武士が国持大名になるのはもちろん幸いであろうが、
我は微賤の身より天下をとり、位は太政大臣にまで昇り、朝鮮にまで武威を振るった。
これは大いなる幸福である。
しかし人の命は限りあるもので、我はすでに老いたため長くは天下を保てまい。
この死というものを思うと、我の大いなる幸せや楽しみも尽きてしまい嘆き悲しむことしきりである」と涙ぐんだ。
家臣たちも尤もだと賛同する中、曽呂利新左衛門が出てきて
「私はそのようには思えません。死というものがあってこそ楽しみや幸いも出てくるのです。
神代や王代のことはともかく、近代は頼朝が初めて臣下の身で天下をとりました。
もし頼朝の御死去がなく、そのあとの尊氏も信長公も御死去がなかったならば、ただいま上様は天下をとってはいなかったでしょう。
そう考えると死こそ人間にとってめでたいことはございません」
と申したところ、秀吉公は喜び
「まことに汝の申したとおりである。
頼朝をはじめとして今に存命で天下を守ってなさったならば、我はこのように天下の主となり、このような楽しみはなかっただろう」
とお感じなさったということだ。



穴沢外記のこと

2022年06月01日 15:03

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/31(火) 22:43:54.42 ID:IFhEYclx
朝野雑載」から穴沢外記(穴沢盛秀)のこと

穴沢外記は秀頼公の長刀の師であったが、大坂の陣の節、五月六日に傍輩に向かって
「我は明日討ち死にする存念である。ついては長刀で戦うべきか、槍で戦うべきか?」
傍輩「御辺は長刀の達人として世間に名高いのに、明日討ち死にというところで「長刀か槍か」とは、一向に合点がいかぬ」
穴沢「御辺の申さるることはもっともだ」
と翌七日、長刀を持って傍輩とともに出陣した。
ふたりいっしょに並んで敵と槍を合わせたが、穴沢の方はなんということもなく討たれて首を取られてしまった。
傍輩の方は敵に槍をつけ首を取って高名をなしたが、大坂城落城後、落人としてあちこちに隠れていたが、しばらくして大坂の陣の働きによって奉公にありついた。
そのものは穴沢について語って言うには
「穴沢が最後の戦いに長刀か槍かで悩んだこと、いまだに不審がはれぬ」
と申したそうだ。



穴沢主殿助 薙刀を以て名を得る事

2022年06月01日 15:02

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/31(火) 22:53:53.38 ID:IFhEYclx
ついでに「武将感状記」の「穴沢主殿助 薙刀を以て名を得る事」

穴沢主殿助盛秀は、薙刀に名を得て、豊臣秀頼の師なり。
相手に竹槍を持たせ、二人前に立てて術を試みるに、危うげもなく必ず勝ちぬ。
大坂冬陣に上杉景勝の将、直江が兵士、折下外記とわたりあう。
折下は素槍、穴沢は薙刀なり。
穴沢薙刀のそりにかけて素槍をはね、飛び入りでこれを斬る。
(折下が)肩に傷つきながら槍を捨て引き組むところを、折下が従者多くあつまりて、穴沢ついに討たれたり。

「朝野雑載」の方はおそらく穴沢を討った折下外記と名乗りを混同している。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10626.html
坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと 付異聞

前に出ていた甲子夜話のこの話では穴沢の死について他にも異説が二つ

ついでに寛永年間に家光の御前で行われたとされる寛永御前試合には穴沢主殿助も出ているようだが、魔界転生でもしたのかな