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そんな秀吉の元同僚

2018年11月13日 21:16

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 00:32:10.68 ID:ZVjC4cpg
日下部兵右衛門は、元は尾張の織田信長の家臣であったが、秀吉が未だ藤吉郎と称していた頃、
信長の命により、二人は堤の奉行をした。この時秀吉は褒美に預かったが、日下部には褒美がなく、
そのため信長の元を立ち退いて徳川家康に仕えた。

彼は関ヶ原の戦いの後、山城国伏見に在番した。この在番の間、常に下々に三度の食を食わせ、
自分の馬に鞍を置き、わらんず(草鞋)を傍に置いて、下々の者たちには身ごしらえを致させた。

彼は普段からこう言っていた
「もし不慮のことあれば、一番に城の大手に乗り出して討ち死にを遂げ、武士の職分を守り、
潔く死を善道に守ること以外は必要ない。」
自身も常に、そのように行動していたという。
(士談)

そんな秀吉の元同僚のお話



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 00:01:48.69 ID:kj0e+PB+
>>506
かっての同僚が天下人となり
その天下人が築いた城の在番として生涯を終えるってのは、なかなか数奇なめぐり合わせだね
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六代の討死にして

2018年11月04日 20:58

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 22:39:14.16 ID:qOtmps2b
大阪冬の陣、伯楽淵の戦いの時、横川次大夫が取った頸を、箕浦右近が使いとして家康本陣の
茶臼山へ持参し、それが一番頸であることを、本多上野介(正純)を以て言上した。
しかし頸の名字は知れず、名もなき頸であるとして、そのまま白砂に置かれた。

そのような所に、浅野但馬守(長晟)の使者である菅田士郎右衛門という者が茶臼山へ参ったのだが、
その頸を見て、彼の名前を知っていたため、知人としてこのように置かれるべきではないと思い、
頸を取り上げて石の上に置き、感じ入った様子であった。

これを見た箕浦は、彼に近づいて聞いた
「あなたはどちらの御家の方か、あの頸を御存知なのか。」

菅田答えた
「しかじかの者である。この頸は、仔細有って見知っている。これは平子主膳という者の頸である。
この者の父まで、五代討死を致した。そして今日この者の頸を見るにおよび、六代の討死にして、
誠に侍の冥加にあい叶いたる者と存じ、石の上に上げたのだ。」

箕浦これを聞くと再び尋ねた
「確かに御見知候や」

「確かならぬ事を、初めてお目にかかったあなたに申すような事はしない。」

こう言われ、その場で菅田と知人に成り、紀伊国の事などを尋ね、その後箕浦は上野介に
「先程の横川次大夫が討ち取った頸の事、平子主膳の頸であることが解りました。何かのついでにも
仰せ上げられますように。」と申し上げた。本多上野介からは「重ねての披露は難しい。」と言われたが、
それでもと、達って申した所、徳川家康は大いに感じ入り

「平子の頸であると?さては六代まで討死を遂げたのか。冥加の侍と云うべし!」と仰せに成った。

上野介が「平子は御存知の者でしたか」と尋ねると、「彼は隠れもなき者である。」との上意あり、
そしてその頸をとった横川次大夫へは、感状が下された。
これは合わせて、箕浦の使いの致しよう巧者成るが故と、その頃評判と成った。

(士談)

武士にとって討死はむしろ名誉である、という事がよく解る逸話ですね。



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 23:27:17.93 ID:y/aNoiQu
六代まで討死とか壮絶やな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 01:55:48.51 ID:l7DCctIn
息子も大阪の陣で討死しているので、七代…

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 10:43:15.31 ID:1AjO4BYd
>>456
え?お、おう・・・

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 11:10:03.90 ID:Tz26sLmg
7代連続討ち死には
平子家の合戦での立ち回りが致命的に間違ってるとしか・・・

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 12:29:50.41 ID:st2l0x2P
活躍して討ち死にした武士の家は普通重んじられるから、討ち死にが手柄の第一、と言われる By竹崎季長

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 14:59:33.22 ID:WgVotmTC
大御所様は当代の勇士知りすぎ問題

     §         
  ( ゚∀゚)  <話は聞いた その者は紛れもない勇士   
../  /ハ\ 
く_ノ;=8=」レ 
   家康           な、なんだってー!!
                          感状だー!>

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:21:22.46 ID:10fHARKO
>>456
良い話か悪い話かこれもうわかんねえな(錯乱

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:22:43.65 ID:xFrMk15D
7代連続討ち死にとかよく家が保たれたな…
そんだけ死んでれば結構若いうちに死んだのもいそうだが

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 18:25:40.35 ID:+iuEsOmt
討ち死にではないけど少弐氏当主も横死ばっかしてたよな確か

下人などは如此こそころすべけれ

2018年11月02日 20:25

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:35:10.04 ID:eJY+p62H
神子田半左衛門(正治)が家来の者を手放にするとして、縁側で爪を切っていたが、その爪を切る
小刀が下に落ちた。神子田はかの咎人を呼び、「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」と言いつけ、
彼が縁の下にくぐった所、上から刺殺した。そして人を呼び死骸を取り出させた。

この時神子田は
「放し討ちなどといって、確実性のない成敗を好むのは然るべからざる事である。
下人などはこのようにして殺すのだ(下人などは如此こそころすべけれ)」
と。申したという。

(士談)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 11:47:36.51 ID:75FhpIpu
秀吉軍初期メンバーだけど、物語でも扱いが悪くて当然の人か

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 12:36:14.43 ID:vMEsZMso
潔いと思うが
偽善者は暗殺者送って素知らぬ振りだからな

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 13:03:32.56 ID:SDHbTpAD
人が死んでるから悪い話なんだな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:11:58.57 ID:9eOVVS3q
これって放逐する事を明言した訳ではなくて
内心で決めてたけど未発表の段階で抹殺したって事だよな
同じ殺すにしても誅殺や手打ちに比べてなんか汚いというか
陰湿というか…何かこう嫌な気持ちにさせる振る舞いというか

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:24:46.01 ID:x5p+lKo9
朝倉宗滴みたいな現実派だよな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:20:50.57 ID:lOaOtw/w
>>403
なんで放逐せなあかんねん
これは上意討ちや
対象が領内におらん時は放逐やない出奔や
逃げる前に討つのは当然のこと
ひとかどの将なら宴で酔わせて討つ
下人なら手打ちでおk

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 07:42:43.02 ID:PUgQnT4P
>>403
「放し討ち」ってのは、相手にお前は死罪と決まったから、抵抗するなら抵抗しろ、って言って
罪人と討ち方が切りあいになるやり方のこと。
罪人が名のある武士の時や、討ち方が罪人側に同情している時に取られる方法で、
返り討ちにあったり、その場を切り抜けて逃げられる危険が当然ある。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 13:46:13.09 ID:IcnH0ZmW
実はいい話なのか

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 07:40:45.16 ID:7Ayt5tas
>>406
立花家の黒門の放し討ちが有名かな

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:44:58.36 ID:xFrMk15D
>>406
>>399の1行目の手放しってのはどういう意味なんだろう
解雇の事なのか処刑の事なのか
いずれにしろそんな事を申し付けた後に2行目のような小間使いをさせるのは
考えられないから処罰を申し付ける前の話なんだろう
どういう理由で処刑されたのかは不明だが仮にも家来に対して
罪状も告げずにだまし討ちというのは如何な物なんだろう
確実に殺せるけど他の部下や同僚上司はどう思うか

三人は因幡守家の従縁です

2018年10月19日 21:45

淀殿   
375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 04:44:55.46 ID:9DVEMnqs
噂が独り歩きして邪知淫乱とか密通とか不義の子とかボロクソに書かれている淀殿だが
ttp://uploader.skr.jp/src/up10490.jpg 
up10490.jpg

那古野氏側にも庶民の噂話とはちょっと違う淀殿の記録が伝わっている


「浅井備前守長政室信長公の御妹とも因幡守は従弟也
京極若狭守忠高若狭小浜少将の母公浄光院二女
秀忠公御台宗源院様三女
秀頼公の母公淀殿一女
此御三人因繙守は筋違の従弟也」

浅井長政に嫁いだお市の方と因幡守は従兄弟です
故に京極家に嫁いだ浅井氏二女
徳川秀忠に嫁いだ三女
豊臣秀頼の母一女淀殿
三人は因幡守家の従縁です
(先代実録)(岡山県史)


那古野氏は母方が小谷落城時にお市の方達を庇護した織田信次の娘(孫)でお市の方と従姉妹という縁もあり
後に豊臣氏から手厚い庇護もあり二女の智勝院殿は森氏に、四女の大林院殿は各務氏に嫁いだ。


*読売次掲載は松の丸殿(京極竜子)と那古野山三の艶書(不倫)特集



「伴内が困っておる」

2018年09月30日 19:43

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 21:46:23.02 ID:SujEa8Yj
伴内と言う者、世に類ない咄の名人にて、豊臣秀次公の御前を離れず、世の中の事を興あるように
取り繕い咄をつかまつる程に、一段と御意良くして、常に秀次公の御前に詰めた。

彼の咄の内、十の内半分は観世又次郎(観世方小鼓打ち)がどれほどうつけた事を言ったか、という
物であったため、秀次公は「それほどうつけ者なのか」と思し召した。

ある時、秀次は観世又次郎を召した。彼は御前に参って謹んで罷りあり、またいつもと同じ様に
伴内も伺候した。秀次公は仰せに成った

「いかに観世、どうして汝は萬に疎く心がうつけているのか?普段伴内の話す内容を聞くと、
大方汝のうつけ話ばかりなのだ。又次郎いかに?」

観世承り「そうですな、伴内と言う者は身体無芸なる奴でありますから、私のような天下道具の名人の
事を申さないと、喋ることが無くなってしまいます。ですので仕方がないと、私は彼をかまい申しません。」

秀次公はこれを聞くと「非常に面白い。伴内返答は如何に!?」と仰せに成ったが、伴内は当惑して赤面し、
何も言えなかった。そこで秀次公は観世又次郎を大なる利発者と感じ、「伴内が困っておる」と、大いに
笑った。これ以降、伴内は観世又次郎の事を語らなくなった。

(義殘後覺)


任官之事

2018年09月16日 17:30

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/15(土) 21:37:19.54 ID:g32iigv6
任官之事

諺曰。君択臣而授官。臣量己而受職。君無虚
授。臣無虚受。然羽柴筑前守秀吉。天正壬午春。
為追伐西戎征備州。闘争之半。明智日向守光秀
討信長将軍。於尋常之大将者。秀吉所可敗軍
也。不然還而武勇智計兼備退凶徒。即時上洛。
悉亡明智党。夷洛属静謐。信長将軍仰主上之
徳。修造宮殴。扶臣下之衰微被充行庄園。最忠
臣也。以之思之。光秀悪逆第一之朝敵也。秀吉
又討之。無比類之忠勤也。故被成下綸旨。被補
官位。其辞云。

去六月二日。信長父子上洛之処。明智日向守
企逆意討果之。剰乱入二條御所。狼藉之事。
前代未聞。無是非次第也。然処秀吉西国爲成
敗。備中國敵城。所所取巻。雖対陣任存分。不
移時日馳上。明智一類悉誅伐。属天下泰平之
段。?古今希有武勇。何事如之乎。因茲官位
之儀。雖有宣下。被辞申之條。重昇殿叙爵少将
之儀。堅天気候也。?執達如件。
天正十年十月三日 左中将在判
羽柴筑前守殿

かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


大徳寺総見院での信長の葬儀

2018年07月28日 19:08

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 03:07:31.13 ID:NB6t5LP1
大徳寺総見院での信長の葬儀


惟任は長年将軍(信長)の御厚恩によりその身を立て、何度も栄華に誇り
遊楽をほしいままにしてきたので、(信長の)長久を希うべきなのに
故なく相公(信長)を討ち奉って、どうして天罰がないことがあるだろうか。
六月二日に害し奉れば、同十三日には自身の首を刎ねられた。
因果歴然なり。恐るべし恐るべし。

(中略)

秀吉の所生は、元来高貴ではなかった。しかしながら相公は五男の
御次丸(秀勝)を養子として下された。この上は秀吉も同胞合体の侍である。
御葬礼がないなどあってはならない。されども(織田家)歴々の年寄衆は
とりわけ御連枝が多いので、一旦(秀吉は御連枝に)憚って
六月より冬の十月に至るまで、少しの法事も行わないまま過ぎてしまった。
昨日の友は今日の怨讐、昨日の花は今日の塵埃といえど、誰が予期しただろう。
誠に下賤下劣の貧士貧女でさえも、その跡を弔う習いがあるのに
どうして人民の君主にそれがないのだろうか。
今法事をしなくては、千変万化の世間の行く末は測り難い。
よって十月初めより、龍宝山大徳寺でのべ十七日の法会を催した。

(中略)

十五日目の御葬礼の作法は諸人が目を驚かせるばかりであった。
まず棺を金紗金襴で包み、軒の瓔珞、欄干の擬宝珠はみな金銀を集め
八角の柱は丹青を施し、八面の間は紋桐を彩色していた。
沈香(香木の一種)から仏像を彫り出し、棺の中へ納め奉った。
蓮台野(火葬場)は縦横広大に作られており、四門の幕は白綾白緞子
方百二十間の中火屋があり、法経堂のような造りだった。
総廻に埒を結い*1、羽柴小一郎長秀(秀長)が警固大将として
大徳寺より千五百丈の間を、弓矢槍鉄砲を持った警固の武士三万ばかりが
路の左右を守護した。葬礼場には、秀吉分国の人々は言うに及ばず
合体の侍を悉く馳せ集め、そのほか見物の貴賤は雲霞のようだった。

(棺の)御輿の前轅は池田古新(輝政)*2、後轅は羽柴御次丸がこれを担いだ。
御位牌は相公の八男御長丸(信吉)、御太刀は秀吉が不動国行*3を持った。
両脇に連れた三千余りの人は、みな烏帽子藤衣を着用していた。

(中略)

秀吉は御次丸と共に焼香し、十月十五日巳刻に無常の煙となってしまった。
誠にこれが一生の別離の悲しみである。これを嘆かない人がいるだろうか。
特に秀吉は目も開けられない程で、涙を留められなかった。


――『総見院殿追善記』



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 10:46:53.44 ID:txEyc0Bx
猿は演出家やなぁ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 11:37:09.99 ID:GLoZA45F
何となく、諸君らが愛してくれだカルマは死んだ!何故だ!?
を思い出しました、ジークジオン

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 15:39:06.51 ID:iCMkgUqJ
それは因果応報だからだよ

*1 馬場の周囲に囲いを巡らすこと。
*2 輝政はこの頃秀吉の養子となっており、織田家所縁かつ養子の二人に
信長の棺を担がせる政治的な意図があったとされる。
*3 信長遺愛の太刀。本能寺の変後に明智秀満が安土城から持ち去ったが
敗死ののちに秀吉所有となったとされる。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 19:50:44.01 ID:OOqoj3kL
サスロ兄爆死で世論操作やな

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 20:16:49.81 ID:ufzNrPWL
秀吉に旧主の信長を悼む気持ちが無かったとは思わないけど、やはり後々の事を思うと某SF傘アニメの国葬よろしく政治工作と言うか政治利用だよなぁ

大阪の陣の前兆っぽい事

2018年07月12日 10:56

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 00:32:05.26 ID:dWRGVtRJ
大阪冬の陣は慶長19年の事であったが、その年の春より、下々が「門屋木戸屋」という言葉を
多く口にするように成った。また小歌に「十五にならば前に垣をめされよ」という歌が専ら歌われた。

5月の晦日に大雨が降り、摂津河内和泉全体が水害に見舞われた。この時摂津国の大堤が切れた事が
「今ぎれ」と呼ばれた。

6月末より、お伊勢踊りという踊りが流行り、諸国より集まった人々が大阪も通り、かまわずに踊った。

9月、天下輝くほどの光物が東から西へ飛んだ。暮れの六つ時ころ(午後6時ころ)であった。

10月15日、大地震が有った。

その他様々な事が、その年のうちにあった。

(長澤聞書)

大阪の陣の前兆っぽい事が沢山あったらしい、というお話。



926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 11:22:03.55 ID:ckxWvSyp
ただの認知バイアスだよな
災害なら平成の今でも毎年のように何かが起こってるし

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:36:07.35 ID:LVuhrboZ
お伊勢踊りは、政治的緊張をある程度反映している可能性があるけど・・・

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:21:14.87 ID:yKRA+Q2p
>>926
いまと違って天変地異には何らかの意味があると思われていたわけやん?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:28:45.61 ID:BBT1hpwE
豪雨災害は麻原処刑のせい、と大真面目に語る奴が2018年の今いるぐらいだ

大野修理襲撃事件のこと

2018年06月30日 21:12

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 22:51:44.49 ID:d3bXhUj1
大阪冬の陣の講和の後、大野修理が御城より帰り、内御門の脇にて小便をして居た。
ここに30ばかりの、撫で付けにした小紋の袷を着て、一尺三寸ばかりの脇差を持った男が、
大野の60人ばかりの供の者に紛れていた。

その時は夜の五つ時分(午後八時頃)であっただろうか、男は大野に飛びかかった。
脇差が大野の身に刺さったまま、男は駆け逃げた。
闇夜であったので大野の供の者たちは方々を探したが男は見つからなかった。
しかし大野の小姓が、焼き崩された片桐且元の屋敷跡の、石垣の際にて男に追いつき、肩先から
一太刀で討ち留めた。
この小姓は後で豊臣秀頼より、過分のご褒美を下されたという。

そして、かの討ち取られた男についてだが、大阪城より、金子五十枚を賞金としてかの男の
身元を知る者は訴えるよう属託したところ、翌日には二人のものが訴え出て金子を受け取った。
すると本町に住む牢人が、家に火をかけ自害するということが置きた。

後に下々の者は、この事件は片桐且元が起こした事だと申していた。

(長澤聞書)

大野治長襲撃事件のお話。一般には治長の弟の大野治房などによる襲撃と言われますが、大阪では
片桐且元の仕業」という噂が流れていたのですね。



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 23:29:33.60 ID:UkJDX4f0
へうげものに出た大野兄襲撃エピソードって元ネタがあったんだな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 11:53:43.89 ID:FfwUYCBs
死人に口なしってのが、暗殺事件の基本だわな。

伊藤武蔵守、馬験を拾う事

2018年06月30日 21:12

899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/30(土) 12:04:43.19 ID:FfwUYCBs
伊藤武蔵守、馬験を拾う事

同じ日秀頼は楼門に打出でて、灑金を緋威にしたる物具著て、太閤の時より伝えられし金
の切っさき二十本、茜染の吹貫十本、玳瑁の千本槍を並べたて、太平楽と名付けたる七寸
有りし黒の馬引立てられし所に、先陣皆敗北しけると聞こえければ、今は是迄なり、敵の
中に駈入り討死せん、と進まれしを、速水時之、今打って出たりとも勝利候まじ、疾く本
丸に入らせ給え、とて引返す。斯りければ士卒散々になりて馬標を棄てたりしに、伊藤武
蔵守遅れて帰りは入りしに、是を見て、朝鮮迄聞こえし豊臣家の馬標を敵拾いなば、大坂
城中に男子は一人も無きと日本国中の物笑いとならん、と言う儘に、手づから振りかたか
けて、城中千畳敷に帰り入りけり。

(常山紀談)

 大坂夏の陣の終局場面、5月7日の話。
 数千の秀頼馬廻り衆が、戦わずして壊乱か。最終的にほとんどが討死したとされるが、どのように戦ったのだろう。

 玳瑁の槍千本って、ものすごく高価そう。キンキラキンの豊臣家らしい武装。

※玳瑁(タイマイ)


大阪の陣の頃の世間の風潮

2018年06月26日 10:34

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 20:34:10.90 ID:X2M4avTS
・その頃(大阪の陣当時)、弓で的を射ることが流行った。京において勧進(興行)されたのは
「射ながし」と言って、さし矢に星をかけ、弓場の作法も無しに射た。
又は、世間で兵庫付と言って、弓場の付け様、檜垣の塀の切り様、矢代の気味、前弓後弓の次第、
星の射上垣破という、先例よりの作法を吟味して射た。これは関白様が弓を好む方々の射礼を
お聞きになり、そのうち兵庫付の作法が良いと言われたことによる。

・この頃の流行り道具(武器)は鍵鑓で、上下ともに用い、10人の内8,9人はこれを持ち鑓としていた。
対の鑓はおおかた二間半から三間柄(約4.5~5.5メートル)であった。

・その頃侍も町人も残らず茶の湯が流行り、円座を敷いて炒り大豆を拵え、茶の立て様や呑み様を
稽古した。当時茶の湯の上手と呼ばれたのは、古田織部、小堀遠州、桑山左近、永井信濃守であった。

・大阪籠城の間、世間では米の値段が17,8匁くらいであったが(1俵当たりか)、大阪では高騰し、
10日ほど130匁まで騰った事もあった。

・その頃、侍または町人百姓まで、牢人といえば隠棲している者であっても頼もしく思い、一度も
会ったことがない者でも近づきと成り肝煎りとなったものであった。

・その頃は、奉公人を召し抱える時も、その人物を万事吟味し、品々良き者を召し抱えるよう
御内の者に仰せ付けていた。意図的に贔屓するようなことは出来なかった。召し使わす者も
その先祖まで良く良く吟味された。

(長澤聞書)

大阪の陣の頃の世間の風潮について



40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 22:36:19.51 ID:yfM2uK9e
武器にも流行り廃りがあるんか。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/26(火) 21:45:36.17 ID:WN+xHaZ/
鍵槍って十手みたいな補助部分が相手の武器引っ掛けるのに便利そうではあるね

大阪冬の陣の和睦の時

2018年06月24日 14:44

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 00:07:50.74 ID:AYWzaaZT
大阪冬の陣の和睦の時、大阪城内では、城の弾薬、兵糧米などが尽きようとしているので、
豊臣秀頼一人が腹を切る事で、籠城衆を助けるのだと取り沙汰された。
そして、例え兵粮が多く有ったのとしても、大阪城から5里隔てた幕府方の附城4ヶ所ほどに
それぞれに大名衆を置き、結局兵糧攻めにされるのだとも言われた。

その時城内より遣いとして参ったのは松の丸殿孝蔵主であったという。
大阪章(ふみ)と申すのは文英清韓長老が書いたものだという。

(長澤聞書)

冬の陣講和の時に、大阪城内で言われていたこと



879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 15:54:28.25 ID:u7rojT8f
結局、遅かれ早かれだったな。

大阪方の人々

2018年06月22日 10:32

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 09:17:50.00 ID:+Vch1/Y2
豊臣秀頼公は、大阪冬の陣のおりには御歳23であった。世の中に無いほどのお太りであった。
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。

(長澤聞書)

大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 10:47:30.98 ID:K53k58Oq
何でそんなに太っちゃったんだろう・・・

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 12:11:36.59 ID:tpZc7hd2
蒲鉾が大好きだったんだよね

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 16:21:57.96 ID:L0H/Woxq
北の将軍様もお太りになってるよな

信長と秀吉の違い

2018年06月10日 13:48

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 11:43:06.50 ID:+lBkktIw
天正13年7月、豊臣秀吉は摂政関白の両職を占められた。目出度いことである。
その御治世の賢きことを考えてみると、織田信長は義と剛のみを用いられたため、
敵対する者は不義であると、御身剛なるままにその根を絶ちその葉を枯らした。
また敵の方から降参する者をも、不義をして来た者であるからと、後になって害した。
そのようであったので降参するものも無く、故に天下も静まらなかった。

一方の関白秀吉は、柔と剛を兼ねて用いられ、敵対する者へは、或いは先に扱いを入れて
それを聞かなければ攻められ、或いは先に攻撃してその後扱いを入れた。そして降参する者には
過分の領地を与えた。故に天下は早々に治まったのである。

(氏鄕記)

氏郷記による、信長と秀吉の違い



984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 14:15:52.84 ID:TtJ2yHhY
秀吉は、そうやって外様にいい顔したから、子飼いの武将があまり大身にならなかった側面があるような。

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 14:24:34.85 ID:08xhiQlf
譜代の石高が低いのは徳川も一緒じゃないかな

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 15:12:43.50 ID:KDd0fsGl
譜代に大身を与えたら反乱祭りになった足利幕府という例があるからな

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 19:41:46.61 ID:Lmu5ih2J
秀吉の場合理不尽に奪うケースも多かったと思うがなぁ( 奥州仕置とかが判りやすい )

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 00:42:38.28 ID:Vq/uASs5
恩賞の土地が無くなってきたとか?

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 01:08:18.93 ID:r7KW5omB
理不尽っつーか、奥州とか九州とか、よくわからない土地は自分の功臣にどかっと領地を与えるのに使っちゃった、ってことだろ。
奥州とか九州とか、先祖代々の入り組んだ関係を理解して公平にさばくなんて誰にもできない。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 10:18:37.36 ID:1BvVKhuE
信長の場合、問題は、最初友好的だった戦国大名と、領土が近づくとことごとく敵対関係になっていること。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 13:11:49.75 ID:Vq/uASs5
友好的な戦国大名って誰のことだろう
分かる人いる?

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 14:17:55.69 ID:sVJD/xBa
上杉や毛利でしょうね
ただし領地が接した途端に戦い始めるのは戦国大名としてはお約束の展開。
秀吉なんかも征伐、征伐だし

必要なのは頭と肉と腸

2018年06月02日 13:35

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/01(金) 21:04:39.75 ID:OgMQNIEj
 文禄2(1593)年12月、奉行の浅野長吉と木下吉隆が秀吉の意向を受けて、在陣武将た
ちに虎狩りを命じた文書が残っている。

 秀吉様の御養生のために虎を捕獲して塩漬けにして送れ。必要なのは頭と肉と腸で、皮
は自由にしていい

 この文書を読むと、当時虎は不老長寿の薬として重用されており、朝鮮での虎狩りは秀
吉の滋養強壮の薬を調達するために行われていたようだ。秀吉が文禄3年4月12日付で加藤
清正に宛てた朱印状では、清正が秀吉の命令に従って実際に虎を狩って秀吉に送っていた
ことがわかる。熊本日日新聞社編『加藤清正の生涯』p74

 虎の利用法。秀吉の仙薬調合の材料確保のために組織的に行われていた。加藤清正以外の部将も、虎狩りに従事していた。
 皮は好きにしていいというのは、実際に虎狩りに従事した大名たちへの反対給付の意味もあったのかも。



関白鶴ヶ岡参詣の事

2018年05月31日 17:27

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/30(水) 20:10:48.97 ID:m3QtbrAB
関白鶴ヶ岡参詣の事
秀吉鎌倉の鶴ヶ岡を詣でて、八幡宮の戸を開かせ頼朝の像を見られしが、背中を打叩き、
微賤より出て、日本を掌に握る事我と御辺と二人なり。然れども頼義父子鎮守府将軍とし
て東国の者共久しく親み多かりき。蛭が小島より兵を起こされしに、関東の靡き従えるも
謂われ無きに非ず。我は土民の中より斯く日本を思いの儘にすれば、功尚高し、と言われ
けり。                               (常山紀談)

 秀吉の感じが悪い話。この時点で、かなり調子に乗っていたのだな。ラスボス感が。
 そういえば、息子の世代で絶えたという点でも、秀吉と頼朝って、いっしょだな。どち
らも、一族や譜代の欠如が、弱点だったのかね。


上様日和という事

2018年05月30日 19:56

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:38:44.80 ID:m3QtbrAB
上様日和という事
同時九鬼大隅守嘉隆日本丸といふ大船を乗廻し南の海上を取巻けり、此所は荒海にて、東
風吹く時は波浪山岳を倒しかくるが如し、船をかけ並ぶる事思いも寄らぬ所なるに、秀吉
城を囲まれし間五十余日風静に波穏かなり。是よりして小田原海辺風無き日を上様日和と
言慣しけり。
                            (常山紀談)

 秀吉が小田原城を包囲する間、天気がよかった話。
 北条氏は、天運にも見離されていたのか。まあ、海が荒れて、海上からの包囲に穴があ
いても、味方してくれる勢力が一つもない状況だったわけだが。豊臣方の海上輸送も阻害
されただろうから、包囲が続けられなかったかな。



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 23:47:37.61 ID:2DJug1SZ
上様日和って吉宗が屋敷に来て慌てる悪代官を想像してしまう

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/31(木) 11:53:15.30 ID:1OLpxP+u
そういえば富岳三十六景の神奈川沖浪裏もこのへんの海域か
あれも「波浪山岳を倒しかくるが如」くだもんな

柴田などに騙されるものか

2018年05月11日 08:05

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 22:17:36.88 ID:ZZ5c1Vdw
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は徐々に悪化したが、この秀吉と勝家の間を
和睦させたいと、滝川一益より織田信孝へ申したてられた。

これを受けて、信孝も勝家へ異見をし、これにより勝家は、自分の馬廻り二名と、秀吉に縁のある
故信長の馬廻り二人を秀吉のもとに遣わし、浅野弥兵衛(長政)を通して存念を申し入れた。

秀吉はこの使いの四人を召し出し、彼らから直に話を聞いた。彼らは
「現在はお互いに用に立たぬことを申し立て、話し合いも出来ない状況です。ですので和睦を
すべきです。」
と申し上げた。これに秀吉は答えた。

「あなた方が仰ったこと、尤もである。あなた達の異見に従おう。」

「御心良く我らの異見を了解くださったこと、大いに喜ばしく思っております。
それではこの事に対し、墨付を下されますでしょうか?」

「墨付は、飛脚を以って直接勝家殿に届けよう。各々はここから帰る前に、大徳寺に参詣して
信長公へ焼香を致すように。」と言った。
このため使者たちは大徳寺に参詣して越前へと帰っていった。

それを確認すると秀吉は五畿衆を呼び寄せ、こう言った
「今度越前よりの口上を聞いたが、これは雪中では出馬が難しい所からの策謀である。
きっと滝川一益の考えた策謀であろう。
唐においては張良、日本においては楠などの策謀であるなら私も騙されるかも知れないが、
柴田などに騙されるものか。」

これを聞いた者達、何れも感じ入ったという。

(志津ケ嶽合戰小須賀九兵衛話)


汝が心を見んとして

2018年05月09日 19:51

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/09(水) 19:47:05.74 ID:wx5+9+Fx
太閤秀吉の父親(義父)は、尾張国ハザマ村の生まれで、竹阿弥といい織田信長の同朋衆であった。
秀吉は申の年の6月15日、清須水野のゴウ戸という所で生まれ、幼名を小竹といった。

ある時、清州城の大手口、松の木門の下を小竹が通った時、信長はこの門の二階に居て、その
節穴から小竹に小便をかけた。

小竹は「士ほどの者に小便をかけるか!?」と、これに激怒し二階門へと駆け上がった。
ところがこの時、信長は御供の衆が一人もなく、武器も脇差だけしか持たなかった。

駆け上がってきた小竹に信長は言った
「俺にてあるぞ!苦しかるまじ!」

「俺とは誰か!?」

「信長なり!」

しかし小竹怯まず
「いかに御主なりとて、小便をかけられたのは無念である!」と、信長に殴りかかろうと
した。その時信長

「汝が心を見んとしてした事だ、堪忍せよ。以後は取り立て、召し使ってやるぞ!」

それより信長の家来となり、木下藤吉と名乗った。

(祖父物語)



881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/09(水) 21:43:11.60 ID:rA67Gfwb
>>880
山岡荘八の小説だと信長が利家になっていたな
小竹が秀長でなく秀吉の幼名なのは新鮮