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或いは彼以前にはかつて見なかった事であった

2019年09月08日 17:13

羽柴筑前殿 Faxiba Chicugendono は日本全国の王 Vo (天皇)より最高の官位と名誉を授けられるため
都に赴いた。すなわち王の次の人である関白殿 Quambacudono となる事であった、信長の努力と勢力、
並びに王に対して尽くしたことも、彼が大いに望んだ右の称号を授けられるに足りなかった。

羽柴は更にその名を高くせんと欲し、老王(正親町天皇)が位を長子に譲るため(実際には孫の
和仁親王・後陽成天皇)、甚だ立派な宮殿を建築した(仙洞御所)。
羽柴は高貴なる大身の一女を養って子となし、実子として父の死後王室を継ぐべき王の孫に嫁しめた
(近衛前久娘・近衛前子)。

羽柴筑前守は甚だ微賤に身を起こし。富貴・名誉及び現世の光栄の頂点に達したが、多数の競争者は
彼が日本の習慣により、車が速やかに廻るように、没落に近づくことを期待している。日本の諸侯は
450年来、絶えざる変革に動かされていたのである。

羽柴筑前殿が右四ヵ国(四国)を占領するため軍を出した時、越中国 Yechu において名を虎之助 toranocuque
佐々成政のことであり、内蔵助の誤り)という他の領主が彼に背いた。彼の領地は70レグワ余り奥地にあり、
羽柴は遠方に居るため攻めて来る事はないだろうと考えた。然るに羽柴は軍隊が勝利を得て四ヵ国より
還った後、途中の労苦艱難を意とせず、自ら六万の兵を率いて彼を攻めた。敵はこれを聞いてその軍勢が
未だ到着する前に降伏し、大阪に到りて勤仕するため、所領の二国をその子に与えることを請い、
その子もまた臣従すると申し出、羽柴はこれを許した。
羽柴が軍隊を率いて北の地方へ行ったため、交盟を躊躇していた他の強力な王侯もまた降伏した。

彼はこのようにして、漸次日本全国の絶対の君とならんとしている。これは今日まで甚だ稀な、
或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。

(1585年11月13日(天正十三年九月二十二日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

四国征伐前後の、秀吉についての記事



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/08(日) 15:37:48.97 ID:g09xnFYg
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重大にして過酷なこと

2019年08月26日 18:01

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 19:00:51.02 ID:eXuKpPk/
彼(豊臣秀吉)は他の重大にして過酷なことを行った。すなわち、都の平野にある田畑を測量させ(同地の
周囲に寺院を有する坊主の所領であり、これによって多数の市民が生活した)、これを尽く己の有とした。
また彼に属する諸国に大いなる家屋(倉庫)を建築し、そこの糧食を納め、大部分は売って金銀と成し、
その宝庫に納めた。彼の書記官である安威殿(安威摂津守か)の言によれば、毎年売る米のみでも黄金百万を
越えているという。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

秀吉の検地についてのフロイスの書簡の記事



北野大茶会の事

2019年08月22日 17:05

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:46:12.19 ID:rcvPK52I
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、町方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事



大坂との御誓詞の御取り替え

2019年07月20日 16:05

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 19:24:59.07 ID:jR8ot1a1
大坂と御和睦が調った折に御誓詞の御取り替えがあり、大坂方より木村長門守(重成)と
郡主馬(宗保)が御血判拝領の御使者にやって来た。

その折に両人は御次の間におり、顔を出すまでで退いたそうで御威光に恐れたのだという。
こちらからは板倉内膳正(重昌)が遣わされた。

(原注:世上では両人が御前を憚らなかったと申すが、その折に村越茂助道半(吉勝。道
伴)が御前に詰めておられて見申されたという。木村は色白い大男で羽織袴だった。郡は
60歳程の小男で、黒羽二重の袖無し羽織を着用していたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



御宿勘兵衛の最期

2019年07月15日 13:40

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 20:50:03.53 ID:S1JzbmpW
『難波戦記』に曰く、御宿越前(勘兵衛政友)の討死は強働きとある。白糸の具足は血に染まり、
赤糸に見えたとある。

光政様(池田光政。芳烈公)へ先の松平出羽守殿(直政)が御物語り致されたことには、御宿は
元来左手が無く手ん棒であるという(御宿事元来左手無手棒ニテ候由)。最期には赤糸の具足を
身に着け、手ん棒で槍を持たせていたという。越前家(越前松平家)の某はよく見知っていたの
で、そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前の御手のことを確かに御存知のはずだから、これが本説であろうという。御宿は
手ん棒故に、強戦を仕る様子ではそもそも無いという。

――『烈公間話』



消えた秀吉取り立ての家臣たち

2019年07月12日 16:43

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:30:42.87 ID:ycVecxqD
3万石 渡瀬左衛門佐繁詮

太閤が卑賎の時から奉仕した。関白昇進の時に5千石を賜り、旗本の列となる。天正18年(1590)、
小田原の戦功をもって、遠州横須賀城3万石を賜る。ところが、秀次に悪行の詮議あり。渡瀬はその張本
人であることをもって、文禄4年(1595)8月に領地を没収し、佐竹右京大夫義宣へ預けられて常州
水戸へ配流(後に切腹)。


3万石 前野但馬守長康

太閤が筑前守だった時に馬廻に召し出され、前野庄左衛門と称す。賤ヶ岳では四番の軍列であった。後に
但州出石城主となる。長康も秀次へ悪行を勧めたことをもって領地を没収し、駿州府中城主の中村式部少
輔(一氏)に預けられる(後に切腹)。この将は加州の住人・富樫介(加賀守護富樫氏)の末葉で、後に
坪内と改めて、当時御旗本に奉仕した。


18万石 木村常陸介重高

重高は木村隼人佐の息男である。父の隼人佐は太閤が微賤の時からの老臣で、賤ヶ岳合戦の時は三番備、
柴田の先手を追い崩して越前まで突き入り、ついに勝家を自害せしむ。この功をもって山州淀城を賜り、
大名となって卒去した。

常陸介重高は家督を継ぎ、太閤は関白職を秀次へ譲られる。この時、「木村は数年予の老臣であり、目出
度き者である。秀次も予の如く果報を継ぐべし」と、木村を秀次のへ付けなさった。

されども重高は父・隼人佐に劣り、佞奸にして石田(三成)・増田(長盛)と心を合わせて秀次へ悪行を
勧めたことをもって、秀次生害の後に木村は摂州茨木で切腹、その一族は縁者まで尽く死刑となる。この
始終は『秀次記』に委細があるので、ここには記さない。


5万石 熊谷大膳亮直澄(直之)

直澄は熊谷次郎直実の末葉である。太閤が天下草創の始めより馬廻に召し出され、しばしば戦功があるの
をもって5万石まで賜り、秀次の附臣となる。ところが秀次生害あれば、直澄は嵯峨天龍寺へ馳せ入り、
たちまちに自害した。直澄はまったくその誤りがなかったので、太閤も召し返して本領を賜ろうと内談が
あった内にたちまち殉死したため、皆人は残念に思ったという。


8万石 熊谷内蔵介直陳(直盛)

直陳も熊谷次郎直実の末葉で勇猛の者故、太閤の馬廻に奉仕してより、しばしば軍功を尽すことをもって
天下平均の後に、豊後安岐城主となる。これも朝鮮へ渡海し(目付として)諸将の剛臆を告げたが、毛利
(吉成)・竹中(重利)と対決に及んで追放された。直陳も三成の婿なので佐和山へ赴いて忍んでいた。
翌年三成は本領を与えて大垣城へ籠め置いたが、垣見・木村とともに相良・秋月らにたばかられて死んだ。
(後略)

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:31:56.17 ID:ycVecxqD
1万石   塩冶隠岐守
1万5千石 寺田播磨守(光吉)
2万2千石 斎藤左兵衛督
3万石   津深右京亮
1万2千石 粕谷内膳正(糟屋武則)

以上五将は各々太閤の代に取り立てとなり、武威を振るったが石田に与するをもって所領を没収なされた。


6万石 戸田民部少輔氏繁(勝隆)

太閤が未だ勢微な時から従った。しばしば戦功があったので予州喜多郡大洲城6万石を賜る。天正13年
(1585)に太閤は四国退治のため、御舎弟の羽柴美濃守秀長と御猶子の三好秀次を大将軍とし、6万
余兵を添えてまず阿波州を攻めさせなさる。

この時、戸田は一番に馳せ加わり戦功をあらわす。それより四国の徒党は尽く雌伏したので、取り分けて
戸田の戦功を感心し、同州宇和郡板島城へ移しなさって官位を昇進し、大名に取り立てなさるとの契約が
あった。そんな折に程なく病死し、あまつさえ令嗣なきをもって所領を召し上げなさった。


7万石 小川土佐守祐忠

伊予今張城主。太閤取り立ての人である(原注:一説に明智光秀の従弟。故あって直参するという)。初
め石田に与し、島左馬介祐滋とともに大谷(吉継)に属して北国へ赴く。後に関ヶ原へ出張して軍談する
ところで金吾秀秋が密かに関東へ通じると聞き、脇坂・朽木・赤座とともに俄に心を変じ、大谷・平塚の
陣を破る功をもって本領を賜る。

ところが祐忠は不行跡にして家人国民に酷く当たり、諸人は疎み果てる折に異心を巧み、天下の大事を企
てた故にたちまち所領を没収なされた。小川父子とその一族与党まで尽く改易なされたという。

――『古今武家盛衰記』

消えた秀吉取り立ての家臣たち

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 22:02:26.03 ID:ycVecxqD
5万石 丹羽備中守長昌(長正)

越前守長秀の次男、修理亮長政の孫。幼少より太閤に仕え、後に越前東江城を賜る。石田に与して大谷に
属し、戦功をあらわす。関ヶ原の敗戦を聞いて逐電した(後に秀頼に仕えて、大坂開戦前に脱出)。(原
注:ある説に曰く、長昌は越前を逃げ出し、後に丹羽左京大夫方へ行き忍んていた。子孫はかの家に仕え
るという)


2万石   多賀出雲守(秀種)
1万9千石 杉若越後守(無心)
1万7千石 横浜民部少輔(茂勝)
1万5千石 杉谷越中守
1万石   寺西下野守(是成)

以上は太閤取り立ての将である。石田に与して大谷に属し、北国で戦功あり。それより大津へ向かって立
花宗茂の先手に進み、命を捨てて大いに戦い、関ヶ原へ出張しようと用意した。しかしすでに敗れたと聞
いて逐電し、諸国に忍んで放浪した。(原注:私に曰く、以上五将の由緒、かつその子孫が諸家の陪臣と
なることは長き故記さない。『太閤記』に詳しい)


1万石 松浦伊予守秀任(久信)

松浦安太夫宗清の従弟。初め安兵衛といった時より、太閤の馬廻に召し出されて頻りに立身した。石田に
与し、大津城攻めで立花とともに軍忠を励む。秀任は元来強力で、鉄棒を提げて馬人の区別なく散々に打
ち倒し、一の城戸を打ち破り二の城戸まで攻め入ったが、大勢に取り詰められてついに戦死した。立花は
その勇を大いに感じ、太平以後に秀任の子を召し出して扶持した。子孫はかの家に仕えるという。


1万石   高田豊後守(治忠)
1万3千石 藤掛三河守(永勝)

以上両将は太閤御取立ての者である。石田に与し、小野木(重勝)とともに田辺城を攻落する。味方敗北
の後に流浪したが、子孫は当家(徳川家)に召し出されて俵数を賜る。子細は知らず。

――『古今武家盛衰記』

追記>>250
富田高定などの伝もあるけど長くなるので割愛



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 09:44:55.09 ID:DWiCMEm8
>>249

前庄殿な後だけどその話武功夜話にでとりましょうですか?

大阪城開かずの間

2019年06月07日 16:28

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 20:49:45.58 ID:ePlAaJVM
大坂の御城内、御城代の居所の中に、明かずの間というものがあるそうだ。それは大きな廊下の側にあるという。
ここは(大阪夏の陣による)5月落城の時から閉じたままにて、今まで一度も開いたことがないといい、
代々のことであるので、もし戸に損じた所があれば板でこれを補い、開かぬようにと成し置いていた。

ここは落城の時、宮中婦女の生害した場所と云われ、そういった由来の故か、今なおその幽魂が残って、
ここに入る者があれば必ず変異災いを成すという。また、その部屋の前の廊下で寝る者があっても、また変異の
事に逢うという。

観世新九郎の弟宗三郎、その家技の事によって、稲葉丹州が御城代の時これに従って大阪城に入った。
ある日、丹州の宴席に侍って飲酒し、覚えずかの廊下で酔臥した。

翌日、丹州が彼に問うた「昨夜怪しいことはなかったか?」宗三郎が、そういう覚えはない事を答えると、
丹州曰く「ならば良し、ここはもし臥す者があると、かくかくの変がある。汝は元来この事を知らず、
よって冥霊も免す所あったのだろう。」
これを聞いて宗三郎は初めて怖れ、戦慄居るところを知らずという。

またこの宗三郎が語る所によれば、天気快晴の時、かの部屋の戸の隙間から覗い見ると、その奥に
蚊帳と思しきものが、半ば外れ、なかば鈎にかかっているのがほのかに見えた。また半挿(湯水を注ぐための器)
のようなもの、その他の器物などが取り散らしている体に見えた。であるが数年久しく陰閉の場所故、
ただその状況を察するのみであると、いかにも身の毛もよだつ様子で話した。

また聞いた話では、とある御城代某候がここをその威権を以て開いたことが有ったが、忽ち狂を発せられ
それを止めたという。誰のことであろうか。

この事を林氏(林述斎か)に話した所、彼は大笑いして
「今の大阪城は豊臣氏の時代のものではなく、元和偃武のあとに築き改められたもので、まして家屋のたぐいは
勿論みな後世のものです。総じて世の中には、そういった実説らしい作り話が多いものです。その御城代という
人も、旧事の詮索がないばかりに、斉東野人(物を知らない田舎者)の語を信じたというのは、まったく
気の毒千万です。」と言っていた。

林氏の説はまた勿論なのだが、世の中には意外の実跡というものもあり、また暗記の言は的證とも成し難い
もので、故にここに両端を叩いて後の確定を待つ。

(甲子夜話)



122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 21:51:35.32 ID:48Km5ZhF
>>121
面白いwいつの時代も人間は変わらんなぁ。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 22:49:04.93 ID:5yCAa8rV
林氏「なんだこれ、創作乙ww」
松浦静山「いや、でもこれ本当の話かもしれんよ?」

戦国ちょっといい悪い話スレ・まとめブログみたいなw

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 23:33:00.37 ID:hBrP2F1J
火薬で鉄砲撃つ時代に何言ってんだと思うが当時の人的にはそうなんだな

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 07:45:07.39 ID:fzkd+7XF
>>123
そういうやり取りがこうして>>121残ってるのもまた良いなぁ

>>124
電灯もない時代は今よりずっと夜が怖くて不気味だったろうし、いろいろ違うんだろうね

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 08:12:05.47 ID:AktD/lec
>>125
肝試しに行って背後の気配に振り返り打ちかかって逃げる
翌朝になって確かめると地蔵だったなんて定番だし

今日の明け方、パンパンパンと濡れタオルを広げるような音をさせながら何かが近づいてきて俺の布団に潜り込んだところで目が覚めた
金縛りにもならんかったし普通の夢なんだろうけど、近づかれているときはちょっと怖かったなあ

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 12:45:53.27 ID:6P9hJ6Th
現代の学校や廃墟ですらみんなキャッキャ言ってるのに、大坂城という実績ありの場所じゃしょうがない

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 14:29:58.48 ID:8rE4HOLf
国会議事堂でもあるのかな

生死の気

2019年05月31日 15:24

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 13:29:29.80 ID:FGlWUgeb
陣中においては人気が立つものと云う。その気に生死吉兆があり、物慣れた人はこれをよく見分けるのだそうだ。

大坂御陣の時、冬陣に城中の気を見ると、晴天でも薄暗く、ものの見分けが出来ないほどであった。
しかし夏陣では曇った日であっても、これを見るに城中白けて良く見え渡ったと云う。
これは生死の気と云う。

(甲子夜話)



見附石

2019年05月29日 18:24

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 11:33:05.51 ID:uqZFEhdO
『雲根志』に曰く、山城国伏見の城は、永禄年中(原文ママ。文禄の間違いか)に秀吉公が築かれた。
この大手の門前に見附石という大石があり、その形は山のごとく、廻り2丈あまり、甚だ佳景の石であった。

しかしながらある時、この城に行幸があったが、御車が石につかえて入り難い事がわかった。
俄のことでどうにも出来ず、時の奉行達も大いに困り、これによって近隣の町人、百姓、石匠などを
急ぎ召し集めて、様々に評議され、結論として料金を出してこの石を取り捨てるという事になった。
そこで入札となったが、札を開いた所、その費用として百金、二百金、あるいは五百金などとあり、
これらは皆、石を割って撤去するという工夫であり、石匠を集めて割り取るという事であったが、
中に一人、わずか二十金にてこれを請け負うという札があり、その者に申し付けられた。

どんな工夫があるのかと諸人不思議に思っていた所、行幸のある五七日前に(35日前?)人夫10人
ばかりが鋤鍬を持ってきて、かの大石の前に大きな穴を彫り、その石を穴の中に落として埋めた。
その頃、この者の才覚を褒めないものは居なかったという。
この石は今も土中にあるそうだ(『余録』)

松平信綱が御城(江戸城)内にて石を取り除くのにこれと同じことをしたという伝説が有るが、事実だとしても
人の故知を用いたというわけでは無く、。おそらく自然と符合したのだろう。

(甲子夜話)



豊国大明神石灯籠

2019年05月02日 17:58

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 10:11:07.14 ID:iLBBhkOz
前の(方広寺)大仏殿縁起の中に、堂前に建てられている石灯籠には、列国大小名の姓名を刻し、鋪石
ならびに正面石塔の大石には、諸侯の紋所、又はその石が産出された場所の名を記されたと書かれているが、
これについてはどういうわけか、先ごろ私(松浦静山)も、これについて、私の祖先が献納した燈も
きっと有るだろうと思い、京都に家来が居たため、これに命じてこの事を書記してくるように申し遣わした所、
その返答によると、この事については何とも分明ならぬというものであった。

その中、大野氏の名はその中にあり、かつ豊国大明神へ寄付された石灯籠について、その当時これを
請け負ったと言い伝えの残る旧家の者などあり、その中で当時の帳面に記録が残っている者もあった。
非常に珍しい珍しいものなので写して贈らせた。こう言ったものも現在では分かり難いものであるが、
以下に綴る。

また現在石灯籠に諸氏称号等が無いのは、御当家(徳川)の時代に成ってから、それが忌み憚るためか、
これを削り去ったのだと疑う者も居るという。

豊国大明神石灯籠の覚写し

二つ 寺澤志摩守殿 二つ 羽柴肥前守殿 一つ あいは殿 一つ 木民部殿 一つ 伊藤石見守殿
二つ 京極修理殿 一つ 藤堂佐渡殿 一つ 青木右京殿 二つ 堀監物殿 二つ 片桐主膳殿
一つ 二位殿 一つ 伊藤丹後守殿 一つ 三位殿 一つ 堀田図書殿 一つ 速水甲斐殿
一つ 右京太夫殿 一つ 吉田豊後殿 一つ 大角与左衛門殿 二つ 木下法印 一つ 杉原喜左衛門
一つ 木下右衛門太夫殿 一つ 桑山法印 一つ 祐泉 一つ 太田和泉殿 二つ 若狭宰相殿
一つ 大野修理殿 一つ 大蔵卿殿 一つ 佐竹殿 一つ 羽柴美作殿 一つ 加賀国およめ
二つ 田中筑後殿 二つ 堀尾帯刀殿
奥院一つ 片桐市正殿 奥院一つ ?大炊殿 一つ 真野大蔵殿 一つ 羽柴蔵人殿 一つ 大進殿
一つ 安藤宰相殿 内殿一つ 片桐市正殿 内殿一つ 同主膳殿 二つ浅野紀伊守殿 以上五十六

石灯籠別紙に
政所様 一つ 康蔵主(孝蔵主) 一つ 浅野弾正殿 二つ 瑞龍寺殿 一つ 藤堂佐渡殿 一つ
安芸中納言殿 一つ 毛利伊勢守殿 二つ 金森兵部卿法印 一つ 石川千菊殿 一つ

(甲子夜話続編)



異変があればその時に軍を発する

2019年04月22日 17:57

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/22(月) 17:54:28.81 ID:GeeNZo8g
太閤は氏直(北条氏直)に綿々と和議を伝えた。氏直方から言うには、「諏訪峠から東の8万石
の領地が、氏直の領地にならなければ叶わぬところである。これを渡されるならば上洛する」と
のことだった。太閤はこれに「与えよう」と宣った。

諸臣はこれに同意せず、太閤は曰く「8万石の地を惜しんで、諸卒を遠国の合戦に労させるのは
不便である。これを与えて後に上洛せず、異変があればその時に軍を発する。士卒の力は倍にな
るであろう」と宣った。果たしてその通りであった。

――『老人雑話』



家康は自身で戦い、私は動かなかった

2019年04月20日 18:26

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 18:55:29.76 ID:l2a+y5ii
(小牧・長久手の戦いの時)

勝入(池田恒興)敗死の後、榊原式部少輔(康政)と大須賀五郎左衛門(康高)は川を渡り敵へ赴く。
これに堀左衛門佐(秀政)が向かって打ち破った。両将は堪えず、士卒を皆討たれて逃げ退いた。ま
た井伊兵部(直政)がやって来ると、左衛門佐も新手を恐れて退いたという。

太閤はこの合戦以後に「今度の戦は我が方が勝った。大将3人(池田恒興・池田元助・森長可)が討
死したといえども、多数の首を取った。家康は自身で戦い、私は動かなかった」と宣ったという。

――『老人雑話』



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 19:00:31.00 ID:kUMmH9X6
>>890
負けを認めなければ負けじゃない理論

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:11:34.46 ID:v7SZidTe
勝ったのは堀久

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/21(日) 04:36:50.30 ID:ah9l/2ru
>>890
豊臣秀吉は動かない

洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし

2019年04月14日 17:38

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/14(日) 17:23:05.14 ID:zOGc5a2g
豊臣秀吉公に六拾扶桑(日本全国)悉く属し、(天下)一同の御代、四海静謐に治まっていたある時、
秀吉公は法橋紹巴、(前田)玄以法印を召して、密かに洛中、洛外の境を視察した所、東は高倉より
先は鴨川であり、はるかに見渡すと、平々と東山まで取り続き耕作の地となっており、西は大宮より先、
嵯峨、太秦まで見渡す限り田畠であった。南北の際も、何れとも境なく、ただ田舎の在郷のようであった。
秀吉公はつくづくと目を留められて、その後細川幽斎を召してお尋ねに成った

「花の都とは昔より言い伝えられていたが、京都の今の有様は、言語道断、この上もなく衰え廃れているように
見える。洛中、洛外と言っても、どこからどちらだという境もない。その上、内野の上、北野の右近馬場
という森は、興のある面白い場所である。右近が有るなら左近も有るべきことなのに、どうして無いのか。

北はいずれより、南はこれまでという洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし。そのためにも都の
旧起を聞きたい。」

これに幽斎「畏まって候」とあらましを説明した
「そもそも桓武天皇が、延暦三年十月二日、奈良京春日の里より長岡の京に遷りたまひて、
その後十年にして正月中旬に、大納言藤原小黒麿、紀古佐美、大僧都玄珍をつかわし給いて、
葛野郡宇多村を視察させられた所、『つくづく土地の様子を見るに、四神相応の地であります』と
申すにより、愛宕郡にお出でになり、同十三年十一月廿一日に、皇帝(原文ママ)は長岡より
今の京へ遷られました。

されば、四神相応とは朱玄竜虎が守護しているという事で、油小路を中に立てて条里を割られました。
東は京極まで、西は朱雀まで、北は賀茂口、南は九条まで、ただし北は一条から九条までを九重の都と
号します。油小路より東を左近、西を右近と申します。右京は長安、左京は洛陽と名付けられました。
であれば、禁殿(皇居)は代々に場所は少しずつ変わりましたが、先に定め置かれた境目は、些かも違う
事は無かったと見えます。この京へ諸国より一切の貴賤集まり、事を調え、又は帝を守護しました。

そうでありましたが、(足利)尊氏卿の御末、常徳院(足利義尚)、法住院(足利義澄)の時代より
この京はいつとなく衰え始めました。その理由は、山名奥州(氏清)の謀反(明徳の乱)以降、
ややもすれば都が合戦に巻き込まれ修羅の巷と成るようになり、一切の商人たちの、都鄙の往来が
妨げられ、自ずから零落したのだと言われています。都が衰え、政道も廃れたため、田舎はなお一層
恣に我意をふるまって、近代になり国土が穏やかでなくなったのだと言われています。」

この話を秀吉公はつくづくお聞きになり「なるほどそういう事であったのか」と、事の始終をよくよく
お考えになり、「であれば、先ず洛中、洛外の境を定めるべき」と仰せ出され、諸大名に命じて、
東西に土手を築かせ、それから、当時洛中に、民家とともに混在していた諸寺々が、所々に満ちて
立ち並んでいたため、徳善院(前田玄以)に命じて、諸寺共は京極から一町ばかり東へ移転させ、
北は賀茂口より南は六条まで、道の片側に並べて敷地を与えた。

さて賀茂川、堀川は所々に橋を掛けられ、往来の旅人のわずらいも無くなった。
その後禁裏の改修を行い、王法の政が廃れていたのを起こし、また洛中の地子米、公方米などを
悉く御赦免された。
そして秀吉公自身は伏見、大坂に、函谷関よりも固く城塞を拵えられ、諸国の大名、小名を詰めさせ、
都を守護された。

「『万民豊穣の下に住み、七徳の化を得る』とは、今この御代の事である」と、身分卑しい
賤の女や樵のような者たちまで、起きて寝るまで拝み奉らない者はなかった。

(室町殿物語)



801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 16:05:59.24 ID:oj79od0Z
ここで、御土居が出来たのか

秀吉公、京都の様子御尋ねの事

2019年04月11日 17:07

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 00:14:13.07 ID:6sGvaaat
秀吉公、京都の様子御尋ねの事

卯月(四月)下旬の頃、豊臣秀吉公は(前田)玄以法印を伏見に召して仰せに成った
「どうだろう、京都の町人は、渡世を豊かにおくっているだろうか、又は朝夕暮らしにくく、嘆く輩が
有るだろうか?」

「その事でございましたら、御本意のごとく、京の有様は殊の外、現在繁盛仕っているように見えます。
どう言うことかといえば、例年以上にこの春は、東西南北に花見遊山の人々が、野にも山にも
溢れるほどに見えます。女、童子、僧俗の区別なく、袖を連ね裾を並べて、この春の賑わいは、これまでにない
様子でございます。」

そう申し上げたのを秀吉は聞くと

「そうか、私からも横目を出して調べさせたが、彼らも玄以と同じように言っていた。
京都はこの春、いつも以上に遊山、見物人の人混みに溢れているという。ならば疑いない。

さて法印、心を静めて聞いてほしい。それは繁盛しているのではない、それどころか大いなる衰微の
基である。何故かと言えば、私が諸国の大名、小名にここかしこで大きな普請を宛て行い、昼夜急がせ、
事に暇なく、諸方より上下おりのぼりして立て込んでいる時は、様々な異形、異類の調え物を京都にて
拵えさせる。それ故に諸商売人たちは些かも暇がなく、夜を日に継いで上下は稼ぐ。このような時は
遊山、見物に出る隙がない。

現在はもはや、諸方の願いも大方成就し、現在は大名、小名たちには、日頃の苦しみから身を休めるため
暇を出してそれぞれ自領に滞在している。これによって京都の諸商売は、消費する相手が無いため仕事に
手を付けられず、このため暇であり、そのため彼方此方と見物に駆け巡っているのだろう。
このような状況が続けば、いよいよ京都は衰微するだろう。


このため何かを始めようと思うのだが、さしあたって大きな普請などを行う望みはない。そこで考えたのだが、
来年は醍醐の花見を催して、普段城中にばかり籠もる局たちを具して、醍醐の山で欝気を晴らそう、
それについて、大名、小名には、大阪、伏見より醍醐までの警護、又は道の途中を固めさせよう。
そしてこの役に出るほどの者は、上下を問わず着服その他身に付けるもの、新しく一様に綺羅に専念した
ものを身につけるよう言いつけよう。六月中には準備して、皆に来春の用意をするように広く知らせよ。」

そう仰せになり、治部少輔(石田三成)、長束大蔵(正家)、右衛門尉(増田長盛)、大谷刑部少輔(吉継)
等が、数日談合して「誰々はそこそこ」と、警護の割当を作成し方々へと回した。

秀吉の考え通り、この命令を承った人々は「これに過ぎたる晴れがましいことはない」と考え、
「多人数の衣類、その他入り用の物品は、今のうちに準備しなければ、俄には用意出来ない」と、
八月の初めより支度した。この諸大名による注文のため、京都の忙しさは言葉に出来ないほどであった。

そして醍醐の花見の時には、女房、局、端女に至るまで華麗なること言語に尽きず、諸大名の警護の
装いも、綺羅を尽くせること、何れも劣り勝りは見えなかった。
見物の者たちは里々宿々に充満し、秀吉公は、この者たちが心安く見物できるよう御制法あって、都鄙の
僧俗、男女、悉く無事に見物した。まことに前代未聞の見物であり、何がこれにしくであろうか。

この事をつくづく按ずるに、いかにも世を治め撫育する大将は、思慮格別なのだと見える。
京都はさておいても、畿内の賑わい、万民の助けが推し量られ、有難き事共である。

(室町殿物語)



大師の制法、ありがたくこそ覚える

2019年04月08日 17:00

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/08(月) 08:49:37.48 ID:kfbrpRwr
豊臣秀吉公がある夜不思議の夢をご覧になって、俄に高野参拝のことを思し召され、先に日限まで
仰せに成ったので、諸奉行はその準備を緊急に初めた。途中の行路の警備はそれぞれの領主に仰せ付け、
道の高下を直し、狭い場所は取り広げ、橋のない場所には橋を掛け、道々に御休所を作り、亭を立て、
馬草、藁沓などを用意し秀吉の一行を待った。

こうして秀吉は高野山へと上がった。木喰上人はかねてより御役の準備をしており、様々な珍物、綺羅を
尽くして待ち受けられていた。高野山八谷の僧坊は、麓まで御迎えに出て、御供仕って登った。

(中略)

かくして一両日御逗留される事となり、御徒然なればとて、観世太夫を召し連れられていたので、
やがて御能を催される時に、坊主各々が申し上げた
「御なぐさみに御能は然るべき事ですが、当山は、開山大師の制法に、笛を戒められており、いかがかと
思います。」
「それは不思議なことを聞くものだ。様々の調べの中で、笛を戒めるとはどういうことか。」

「それについて、昨日ご覧になられた柳の少し向こうに、ここが霊山となる以前から、一つの大蛇が
棲んでおりました。しかるに大師は、『あれをここに置いていると、凡人が通い難くなる』と
思し召し、大蛇に向って『我この山をば仏法の霊地となさんと思っている。しかれば汝、ここに有っては
凡夫は不安に思う。急ぎどこへでも所を去るべし。』と仰せになった所、この大竜は『我、この山に
棲むこと、星霜既に無量なほどである。どうして今、私が住所を去らねばならないのか。』と言い、
些かもそれに従おうとしませんでした。そこで大師は『そういう事であれば』と、密かに竜の鱗に
毒虫をまいた所、竜は五体を投げ打って、痒き事耐え難いほどでした。そのため大師に降伏し
『この虫の病を止めてほしい。何処へでも去ろう』と嘆きました。そこで大師は『それほど苦しむので
あれば、止めて取らせよう。必ず去るのだぞ。』と仰られ、すぐに虫を払いのけられると、竜は喜び
そこから廿町(約2.2キロメートル)ばかり後ろの山へと立ち退きました。

それよりこの山は成就して、このように繁盛したのですが、笛の音というものはそもそも竜の吟ずる声を
表したものであり、この音を聞いては、自分の友が来たのかと考え大竜が動き出します。そのため戒められて
いるのです。」

これを秀吉公聞いて「よしよし、笛無くとも苦しからず。」と、御能をはじめられた。

しかし、既に三番過ぎて、四番目に仰られたことには
「山の制法にまかせ、三番は過ぎた。今度の能には、笛を大師に許していただこう。」と仰られ、
吹かせられた。

すると案の定、晴天は俄にかき曇った。人々があやしと見る処に、五段の舞に移ったが、四方より
黒雲立ち覆い、雷は八方より鳴り渡り、稲光りは火煙のように天地に満ちて、風雨はしきりに下って
枯木を吹き折り、山谷動揺して、今すぐ世界が打ち崩れるようであった。
東西も見えず暗夜となり、僧俗の区別なくあちらこちらに逃げ隠れ、人心地もなく、ここかしこに
身をすくめて転び伏せた。

秀吉公も御帯刀を急いで手にされ、風雨激しき暗さに紛れ、麓へ向って落ちていった。
御伽の人々も、諸臣も、一体どこへ逃げたのか、あたりには一人も居なかった。
ようやく道の案内として坊主一人、御小姓衆一人にて、麓を指して急ぐほどに、山から
廿余町ばかりこなたの、「桜もと」という場所に賤屋十軒ばかりあり、「先ず暫くここにわたらせ
給え」とて、事の静まるのを待った。

二時(約四時間)ばかりあって、ようやく空も晴れ、雷も鳴り止んだため、人々も生きた心地を
取り戻し、我が身を我と知った。
秀吉公が仰せになることには
「さりとては、大師の制法、ありがたくこそ覚える」
と、いよいお信心深く思し召しに成った。

(室町殿物語)



秀頼は5歳の時に参内され、伏見より行列をなす

2019年03月18日 18:27

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 17:52:35.05 ID:/+YEHpXf
秀頼は5歳の時に参内され、伏見より行列をなす。太閤は2,3日前に入洛されて中立売最上殿の屋敷に
おられ、参内の日に迎えに御出になり室町通を南へ目指す。これに見物人が群集した。

太閤は立髪の馬に乗り、むりやうの闊袖の羽織に鳥を背縫いにして襟は摺箔で、底なしの投げ頭巾を着て
いた。馬の左右には50人ほど徒立がおり、半町ほど間があって又者1千人ほどが従った。

大仏辺りで秀頼公に御出合い、太閤は輿に乗り移って秀頼を前に置いた。銭を箱に入れると舞る(回る?)
人形を輿の先に持たせ、諸大名は大房の馬に乗って2列で供奉した。

これは聚楽の城終わりて後、中一年あっての事である。

――『老人雑話』



「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



これにより杉原・荒・仙石が先をなし

2019年03月04日 18:27

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 17:51:38.81 ID:5DaS4Rjq
さて、羽柴筑前守秀吉は舎弟の小一郎秀長を伴って、さる天正6年(1578年)に播磨へ下り、
別所と対峙して以来、西国征伐の軍主を奉り、備前美作の守護・宇喜多は手に属し、播磨・但馬・
因幡以上五か国の人数を引率し、天正10年(1582)3月15日、備中国へ向かって冠城に
押し寄せた。敵の備はもっとも剛強なり。

さてこの城は、たとえ人数を損おうとも無二に攻め破り西国の響きにする旨を、かねてより定めて
いた。これにより杉原七郎左衛門尉家次・荒木平太夫(木下重堅)・仙石権兵衛秀久が先をなし、
かの地で肝要の践をなして水手を攻め入りこれを取った。

秀吉は感悦して3人ともに馬・太刀を遣わしたのである。城からはとりどりに懇望を尽くしたが、
これを聞かずに万牛五丁の攻めをなして即時に乗り込み、ことごとく首を刎ね終えたのである。

――『天正記(惟任退治記)』

わざわざ名前が挙がるあたりこの3人当時は期待されてたのかなぁと思った。


天下は秀吉の掌握に帰すといえよう

2019年02月26日 17:16

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/26(火) 17:11:13.36 ID:nQUz9yBO
(『柴田退治記』の成立した1583年11月頃)

・賤ヶ岳の戦いの時、毛利輝元は一旦和談せしむといえども、心を許すべきにあらず。これにより、
宮部善浄坊(善祥坊継潤)を因幡に置いた。仙石権兵衛(秀久)は四国の押さえをなすため、淡路
へと返した。池田紀伊守(元助)は根来・雑賀の警戒をなしたものである。

・柴田勝家の討伐後、北陸の新属の国々は掟を改め、政道をもっぱらにした。その時、越後守護の
長尾喜平次景勝(上杉景勝)は秀吉に降をなして幕下に属したので人質を取り、5月17日に安土
へ至ったものである。

・このような時に東国においては徳川家康と北条氏政(続群書類従版には氏政の名は無し)、北国
においては長尾景勝、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ輻湊(方々から集まって来ること)す
る。天下は秀吉の掌握に帰すといえよう。

・備前美作守護の宇喜多直家は先年に播磨別所謀叛の時に西国に背き、秀吉に一味して危うきこと
度々に及ぶも、無二の覚悟で秀吉と入魂をなす。これにより、直家逝去の後に嫡男を召し出して婿
君と賞し、名字を分けて“羽柴八郎秀家”と号し、分国の他に所々に領地を賜ったものである。四
国においては、十河や安富などが秀吉の幕下なり。土佐国の長宗我部元親は懇望致すといえども、
秀吉の許容ならず、かの国を取り、さしあたって忠の侍に与えるとの由を定めた。

――『天正記(柴田退治記)』

柴田退治記より、天正11年当時の諸大名との関係



勝豊は内々恨みを含んでいた

2019年02月21日 10:15

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/20(水) 19:51:45.68 ID:CW5ADGE9
(長浜城攻めの時)

かの地(長浜)は秀吉が長く居住した要害である。このため、秀吉は長浜の案内を知っており、敵の
痛所を思惟して付城を構え、内側を繰り破るべく列をなす。

勝豊(柴田勝豊)は越前の援兵を頼みにするも、頃日の雪は例年を超過した。寒威は実に綿を透かせ、
風力はまさに酒を凍らせんとす。住む者は籠り伏し、来る者を凍え殺し、ことこどく人馬の通行は絶
えた。ここに至って勝豊は釈近謀遠しても労をなして功は無く、秀吉へ降参に至ることを考えた。

ところで、勝豊の本素は他名なり。勝家(柴田勝家)の養子となしたものである。只今秀吉に降参し
て一味することは、すこぶる本意を失うようなものだ。しかしながら、佐久間玄蕃助盛政はかの分国
において権柄を執ること実に甚だしく、これによって勝豊は内々恨みを含んでいた。

秀吉はその由来を知って疑わせること無く勝豊を引き付け、すなわち美濃へ向かった。これに従った
面々は惟住五郎左衛門尉長秀(丹羽長秀)・筒井順慶・長岡越中守忠興(細川忠興)・池田紀伊守之
助(元助)・蜂屋伯耆守頼隆、その他諸国の軍兵を引率して都合3万余騎。これが大風を凌ぎ深雪を
分けて、岐阜に至り押し寄せた。

国中の凶徒は、あるいは追罰を加え、あるいは降参して従い、日を経ずして残るは一国一城となった。
信孝はこれに惨憺して、ひとえに和与を嘆き慕う。そうして信忠の御若君(織田秀信)に信孝の老母
と息女を添えて、人質に出したのである。

秀吉はこれを見て古を思い、なおも憐憫奉る志あり。秀吉は囲みを解いて12月29日に美濃を去り、
山崎城へと至って、かの地で越年した。

――『天正記(柴田退治記)』