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もう精進は絶つことにしよう

2019年01月21日 17:08

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/20(日) 23:40:41.91 ID:Vh2MfU6r
(山崎の戦いの時)

秀吉は尼崎に御着きになり「禅寺はないか」と御尋ねになったところ、小庵1つを尋ね出して
御腰を掛けられた。しばらく御休みになって、御指図されたことには、

「信勝(羽柴秀勝)と久太郎殿(堀秀政)は聞きなされ。上様(織田信長)御切腹の知らせが
備中高松へ注進された時より、私は精進潔斎を確かに致し、すでに敵との距離も程近くなった。
この上は合戦に及ぶまでである。

私は年寄り故、この頃は腹中も思いのほか力が落ちたように覚える。もう精進は絶つことにし
よう。しかし御奉公には力を付けて槍をも取り、敵と太刀打ちする覚悟である。信勝と久太郎
殿は御若いのだから、精進を御絶ちになられてはなりませぬぞ」

と仰せになり、その次に台所衆へ「魚や鳥をなるべく使って料理を致し、我が前に出せよ。そ
れから亭主の僧を呼び出せよ」と仰せられ、御行水をなされて御櫛を下ろされた。

それから「信勝は若いのだから様を変えなさるのは無用である。短く茶筅に髪先を切りなされ
よ」と、秀吉は仰せになった。すると久太郎殿も「様を変えたい」と申されたが、「ただ髪先
を信勝と同様に御切りなされ」と秀吉は御教訓され、久太郎殿も信勝同様の体と相定め候事。

――『川角太閤記』

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 17:53:58.69 ID:+QkshJgz
その御櫛(>>649)を紙に御包ませなさり、3人の御髪を仏前に御納めになられ、その僧に仰せ
出されたことには、

「合戦が利運となったならば、50石の地を末代まで差し遣し申す。多いというなら、すべて
代替わりの時の引出物とするがよい。そのために少し付けて遣そう。御祝いのためだ」

とのことで、金子3枚を遣されたのだと承っているが、かの50石の地は御所様(徳川家康)
の御代でも、今においても差し障りなしと相聞こえ申し候事。

御膳を据えて御盃を信勝(羽柴秀勝)へ御差しになり、仰せになったことには、

「惟任日向守は親の仇、または主の仇のこれ二つなれば、信勝は私めより先に討死なされよ。
その様子を見届けて秀吉は討死すると定めておる」

とのことで、盃を御取り交わしになったとの事である。

――『川角太閤記』


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城中には家を1宇も残さぬように

2019年01月20日 19:08

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 18:39:36.49 ID:G7bkcu8p
(中国大返しの頃)

秀吉は三好武蔵守殿(吉房)と小出播磨守殿(秀政)両人を召し寄され、いかにも密かに仰せ聞
かせられたが、その様子はまったく知られず、この2人を御城(姫路城)に残し置かれた。

御合戦が目出度く収まって後、この両人の雑談でその時の有様は定かに知られ、それまでは人々
が推量したまでであったと聞いている。その次第は、

「合戦が負けとなって(秀吉が)討死となったならば、御袋様(大政所)と御前所(高台院)を
しずしずと片付けて(御袋様御前所しつしつとかたつけ申)、城中には家を1宇も残さぬように
焼き払えとの御指示であったが、このように目出度く収まった」

と、両人は後に喜んで雑談されたのだと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 19:12:12.77 ID:hNL8ounx
よくわからんな

山崎の合戦の時堀は留守居じゃないし秀吉の家族は長浜だよな

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 20:09:30.77 ID:2x4KpY7B
堀秀政ではなくて小出秀政でしょ
伝聞だろうから何処かで入れ替わっているかもしれんし、敗戦後の長浜の処理を頼んだ二人を合戦で死なせない為に残したってことかもしれん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 20:44:18.75 ID:hNL8ounx
すまん普通に空目して変なこと言った

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/17(木) 05:40:01.15 ID:jhMglM8j
堀秀政
小出秀政
小笠原秀政
津田秀政
中川秀政

秀政多過ぎ

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/17(木) 06:46:05.86 ID:8kiO8YrY
長政

さて、因果というものは

2019年01月20日 19:05

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 21:30:54.95 ID:r3vm1I6O
さて、因果というものは有るものだろうか。太閤秀吉、いにしえは松下嘉兵衛の草履を取っていた者であったが、
織田信長の御取立を以て人となり、今太閤の地位にまで至ったというのに、信長の御恩を忘れたか、
その御子である三七殿(信孝)をぬまの内海にて御腹を切らせ給い、尾張内府(信雄)の御知行を召し
北国に押し込め、御扶持の宛てがいもなく置いた。

さて又、太閤の御子秀頼も、相国様(徳川家康)を打ち奉らんと、大阪にて一度(家康暗殺騒動)、また伏見
にて諸大名に仰せ打ち奉らんと二度目(婚姻問題騒動)、会津御陣の御跡に諸大名を催して伏見の城を攻め殺し、
相国へ向かわせ給い、これが三度目(関ヶ原)、また去年謀反の企てをし諸牢人を扶持して敵対したこと
四度目(大阪冬の陣)、又当年手を出し合戦をし給う事五度目なり。(大阪夏の陣)

相国は御慈悲の有る方なので、四度目まではゆるしたが、助けたいとは思われたが、この上は是非無き次第、
助け置くものならば、又謀反を企てるだろう、よって腹を切り給えとて、御腹を切らせ給ふ。
これを見る時には、因果と言うものは、有るものだと感じる。

(三河物語)


茶々から秀次への手紙

2019年01月19日 18:16

淀殿   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 23:37:12.99 ID:oWMg4/ko
茶々から秀次への手紙


文禄二年閏九月六日に、関白・豊臣秀次は太閤・秀吉の有馬湯治の見舞いへと赴いた。
見舞いに行くことを北政所と茶々へそれぞれ手紙で伝え、自身も湯治をした。(『駒井日記』)
以下は十月八日に来た茶々からの返信。


(有馬の)御湯が丁度良く、すぐ清須まで戻ってこられるとの懇ろな手紙をありがたく喜ばしく思います。
太閤も一段とご機嫌がよく、この程は聚楽に御成されました。
姫君(秀次娘)も御息災でいられるそうです。そのまま御上洛をお待ちしています。
御文はよくよくありがたく思い、何と言ってもめでたいことですから重ね重ねお願い申し上げます。かしく。

人々御中 
まいる    申給へ

――『福田寺文書』

返信前の十月一日には秀吉により御拾(秀頼)と秀次娘の縁談が取り決められており、それを受けての手紙と思われる。
このとき許嫁となったとされる八百姫は病気がちで、秀次正室の若政所が祈祷依頼を出している。(『兼見卿記』)
秀次自害の連座で亡くなった子女に八百姫がいないこと、没日が違うことなどから自害前に亡くなったとされる。


その儀ならば別心か。

2019年01月18日 09:50

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 00:10:47.32 ID:ePlVzHXh
慶長19年、豊臣秀頼は諸国の牢人衆を抱え、分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
牢人たちに与え、十万余りを扶持していると徳川家康にも聞こえた。
そこで家康は「そういう事なら秀頼の御袋(淀殿)を江戸へ下すように。」と仰せ遣わしたが、
「思いもよらず。」との返事であった。そこで「そうであれば他に国を遣わすので、大阪を空けて
新しい領地へ国入りをするように。」と仰せに成ったが、これについても「思いもよらず。」と返答し、
さらに家康のもとには、大阪においていよいよ諸牢人を抱え、大阪城の普請を行い、鉄炮を磨き
矢の根を磨いているとの情報が入った。

「その儀ならば別心か。」家康はそう言った。

この時秀頼の守役である片桐市之正(且元)は秀頼に異見した。「もはや議論をしている時分ではありません。
とにかくどのような事でも、家康公の御意次第にお従いに成り、御袋様を江戸に送られるべきです。」
そう申し上げたが、大野修理、同主馬之助、同道犬、真田左馬助、明石掃部、その他の牢人どもが寄り合って
申した「とにかく御袋様を江戸に送るというのは要らざる事です。市之正は家康に加担し、あのように
申しているのです。市之正を成敗すべきです。」

これに危険を感じた片桐且元は吹田へ引き退き、これによって秀頼の謀反疑いなしとして、東は出羽、奥州、
関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後と、日本に残り無く
大阪へと押し寄せた。

(三河物語)

三河物語だと大阪の陣の原因は最初から豊臣家の牢人召し抱え問題なのね。



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 11:46:54.74 ID:xxlwVxsQ
>>658
逐電したと思われていた真田信勝は大坂に潜伏していたのか!

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 16:23:39.52 ID:HuSd4Mb9
>>658
>分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
>牢人たちに与え、
わざわざこんなことしたのはこっそり金与えたって意味?銅銭代わりなのかな。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 20:45:30.78 ID:/cjd5+Sd
>>664
ここに出てくる分銅ってのは巨大な金塊の事だよ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 22:38:06.98 ID:HuSd4Mb9
>>665
もっとすごかった!ありがとう~。

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 19:05:44.45 ID:ffQJv5Ep
>>664
竹流金でググれ

たのしみに 命にかへて何かあらん

2019年01月13日 17:41

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 14:14:41.48 ID:51sqmfoq
大橋龍慶は河内の誉田の者で、片桐且元に仕え、右筆を務めていた。
豊臣秀頼が暴発しないようにと且元が考えている間に、大阪の陣が起こった。
その後大橋は、且元の息子である片桐出雲守(孝利)を頼って江戸へ下り、また故郷に帰るとして
三島まで上ったところで、且元弟の片桐主膳正(貞隆)に会い、主膳正が連れて江戸に戻り、
大炊殿(土井利勝)に近づき、そこから幕府に召し出され、高田に屋敷を与えられ知行五百石を
拝領し、法印に任じられた。

彼は徳川家光が心安く召仕い、踊り歌などを作ること上手で、家光がこの大橋の屋敷へ渡御された
事もあった。家光の日光還御の時、岩槻に一宿された日、先に帰ったため御意を違えたという。

彼が家光より拝領した茶入は、谷出羽守(衛友)の遺物で、有明というものであった。家光は
これを下した時、その名を「命」と変えた。これについて小堀遠州に歌を詠むよう仰せ付けた。
遠州はこのように詠んだ

 たのしみに 命にかへて何かあらん
       なからへて見し有明の月

(武功雑記)



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 17:33:08.06 ID:Nr1GgLBJ
有明が谷家から幕府へ渡った経緯は悪い話

我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?

2019年01月03日 16:12

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 20:21:19.56 ID:EIuaIzZA
丹羽佐平次は織田信雄の小姓であったが、後に豊臣秀頼に仕え、大坂落城の時、大阪城より
脱出し泉州貝塚まで落ち行ったが、そこで落ち武者狩りの野伏に道を遮られ取り巻かれた。
この時佐平次は彼等に言った

「我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?着ているものを剥がされるのは恥である。
しかし私は既に日本国を皆敵にしたのであるから、今も自分が世に有るとも思えない。
よって出家をしたい。どうかそのために、僧を一人呼んでほしい。」

これを聞いて野伏たちは僧を一人連れてきた。佐平次は「ならば」と、彼に立ち寄ると、
その僧をひしと取り押さえ、刀を僧の胸に当て、人質とした。

これに野伏らはどうにも出来ず、人質の命と引き換えに「どこであろうと送り申そう。」と言い、
そこで紀州和歌山に所縁の人があることを告げ、野伏たちにそこへ行かせ、暫くして迎えの者がきて
其の者と共に紀州に隠れ住んだ。それから程なくして赦免を被ったという。

(常山紀談)



563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 21:09:01.11 ID:GSc+bkMx
>>562
落ち武者狩りなのに律儀w

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 13:04:20.09 ID:+x4SZTyg
その僧の檀家たちが野伏だったのかもしれない

吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を

2018年12月22日 10:56

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 08:19:09.12 ID:G2ELcZP/
朝鮮の役で、明の援兵が大軍で朝鮮へ派遣されたことで、名護屋の本営では日本軍危うしと
太閤秀吉にも報告され、軍評定を行った所、蒲生氏郷が進み出て発言した
「何程の事がありましょうか。この氏郷に朝鮮を賜れば、切り取りにして打ち破りましょう。」
しかし秀吉はこれにより、氏郷に大志有ることを忌み憎んだ。

また朝鮮に在陣する小早川隆景より遣いを以て報告があった
「この隆景が考える所は、十万の軍が渡海いたせば、それに城々を守らせ、隆景は先陣して明朝に押し入り、
北京を攻め落とすという事であり、この旨を申すように。」

秀吉はこれを聞くと
「小早川の智謀さもあらん。人々よく聞け、仮にこの秀吉が功を遂げずに死んだとしても、秀次を
大将として明朝に攻め入った時は、私の魂魄が雲に乗じて鉄の盾を突き、唐土の奴原を一々に蹴殺して
捨てるであろう。昔、柘榴を噛んで火とした者もあったと聞く。その小男の名は忘れたが。」

そう言うと、側の施薬院全宗が「それは北野の天神(菅原道真)の御事でございます。」と申し上げた。
秀吉
「それである!雷に成って天に上ったと言い伝わっているが、私のキンタマの垢ほどにも無い者だというのに!」
(吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を)
そう大声で言い放ち、聞く人はみな驚いたという。
(常山紀談)



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 08:47:25.91 ID:xsQjQ3yv
ω

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 09:56:33.68 ID:mOD0npr1
赤松満祐「お前が他人の事を小男とか言えんのかよwww」

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 09:59:10.68 ID:q05OBV9W
まとめの6912
全くその男は、我が睾丸の垢ほども


でも「武士道美譚」出典で同じ話が

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 14:42:39.03 ID:F7/rhJiV
>>538
>私のキンタマの垢ほどにも無い者
なんJ民かな?

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 20:37:09.64 ID:Z5u25ia/
大○義隆「キンタマの垢とな!?」

予が最初より東方より西方に至るまでの君主

2018年12月15日 19:42

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/14(金) 19:59:26.41 ID:tmCwL9fs
文禄二年(1593)、豊臣秀吉よりフィリピン諸島長官に贈りし書翰

パードレ・ペドロが予に携えて来た書翰、並びにパードレ・ペドロが特に予に告げたる所に依り、その地の習慣を知ることを得た。
バードレ・コボもまたこれを予に説いた。

予が誕生の時、太陽が予の胸に入った。これは奇跡であり、予が最初より東方より西方に至るまでの君主であり、諸国は服従し
予の門に来たりて平伏すべき事をを示すものである。
而して若し之をなさる時は、予は戦を行いて一同を殺すべし。

予は日本全国、並びに高麗の国を獲得した。そして多数の部将が、遠征しマニラを占領する許可を与えんことを予に請うた。
しかし原田Faranda(原田喜右衛門)及び法眼Funguen(長谷川宗仁)はこれ聞き、予に告げて、商船が当地より彼地に行って、
又当地にも来るが故に、敵であるとは思はれずと言った。是故に予は兵を派遣することを見合せた。

高麗Coriaの人その約を守らなかったが故に、予は之と戦ひ、都Meacoに至るまで獲得した。之に次いで、我が兵士は救援に来し
無数の支那人並びに多数の重立ちたる者を殺した。
高麗の人はこれを見て屈伏し、大使を派遣し、日本の兵士を高麗に留めんことを請い、また支那人たちも日本国と永久に親交を
結ばんと欲する事を告げた。予は多数の兵士を高麗の多くの城に置きて、使節の同所に来るを待っている。
若しその約を破らば、予は自ら行きて之と戦うだろう。

而して支那に赴けば、呂宋は甚だ近く、予が拇指の下に在る。我等は永久に親しく交るべきだ。此事をカスチリャに書き送るべし。
カスチリャの王は遠方に有るからと言って、予が言葉を軽視すべきではない。予はその地を見たことが無いと雖も、使者の言葉によって
其地の事を知るを得ている。

貴下が速かに人を遣わしたのは賢明なることであり、予は大いに之を喜ぶ。その地より来た進物については、書附の通、これを受け取った。
予の方に於ては、永久に友交を欠くような事は無い。その地より来る者は、海陸共に安全に来ることを得て、これに何等の害を加えることなく、
その携へ来た物を盗む事もない。
バードレ等と共に来たこの者(副使ペデロ・ゴンザレス・カルバハル)は、我が国を見、又彼等に与えた歓待を見たるが故に、その言ふ所を信じ、
彼をカスチリャ王の許に派遣せよ。予は彼を待つ。而して我等の交流を一層確実ならしめんため、重立ちたる人一人を当地に来訪させることを望む。
その他のことは法眼が語るに譲る。
(異国叢書)

秀吉が生まれる時体に太陽が入ったっていう誕生譚、あれ海外にも宣伝してたのね



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/14(金) 21:04:33.45 ID:tSN+5WQ1
まとめの10657
後悔すること無かれ。
てのには2年前に派遣した時のことが書かれてるな

秀吉は紅梅の色の布団を敷き、ビロードの枕をして

2018年11月27日 17:11

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 16:26:27.35 ID:3QZcjrrA
佐々成政は越中に在城して秀吉に敵対したが、秀吉の軍が越中に侵攻すると、やむを得ずして降を乞い、
剃髪して編綴(軍事や行政文書をまとめたもの)を著し出仕した。

この時秀吉は紅梅の色の布団を敷き、天鵞絨(ビロード)の枕をして仰向けに寝て、成政をその御座所に
召し出し、良き分別なりと笑談し、色々懇ろをつくし、越中一郡(26万石)を与えた。

(士談)

変に雰囲気のあるベッドルームに寝たまま成政を招き入れる秀吉。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 00:24:45.02 ID:n4LZlX5q
これがそこらの大名だったら尻の危機を感じるところだが
秀吉だからその辺は安心だな

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 14:27:22.27 ID:k46ENbCe
藤吉郎にこんな態度取られて、どんな気分だったろうな

秀吉「皆々ここに居よ!」

2018年11月24日 12:45

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 12:23:25.48 ID:813OVVpG
小田原の役の時、山中城攻めの陣において、秀吉が鉄砲の音を聞いて驚いた表情を見せた。
しかし直後、これを印象が悪いと思ったのか、「皆々ここに居よ!」と一人城方へ近く寄り、
鉄砲が激しく撃たれている場所で小用を成した。

(武功雑記)

秀吉は何かと言うと立ち小便だな



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 22:42:36.84 ID:p6QSydTI
失禁してもバレないからな

はや笛を吹くように

2018年11月17日 22:11

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/17(土) 14:53:39.97 ID:A7XhWLUJ
太閤秀吉が名護屋において井筒の能を自身演じられ、井筒が陰に隠れる中入りで、装束を変えているその時に、
朝鮮より兵粮のことについて申し来たため、それぞれに運送について申し付けた。

このためかなり時間が経ち、秀吉は「中入りからあまりに引き述べてしまった以上、ただ出ていく訳にはいかない、
はや笛(テンポの早い笛)を吹くように!」と申し付け、その早いテンポに乗って再び舞台へと現れた。

(武功雑記)

中断の空気をBGMで変えた、と言う感じなんですかね


そんな秀吉の元同僚

2018年11月13日 21:16

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 00:32:10.68 ID:ZVjC4cpg
日下部兵右衛門は、元は尾張の織田信長の家臣であったが、秀吉が未だ藤吉郎と称していた頃、
信長の命により、二人は堤の奉行をした。この時秀吉は褒美に預かったが、日下部には褒美がなく、
そのため信長の元を立ち退いて徳川家康に仕えた。

彼は関ヶ原の戦いの後、山城国伏見に在番した。この在番の間、常に下々に三度の食を食わせ、
自分の馬に鞍を置き、わらんず(草鞋)を傍に置いて、下々の者たちには身ごしらえを致させた。

彼は普段からこう言っていた
「もし不慮のことあれば、一番に城の大手に乗り出して討ち死にを遂げ、武士の職分を守り、
潔く死を善道に守ること以外は必要ない。」
自身も常に、そのように行動していたという。
(士談)

そんな秀吉の元同僚のお話



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 00:01:48.69 ID:kj0e+PB+
>>506
かっての同僚が天下人となり
その天下人が築いた城の在番として生涯を終えるってのは、なかなか数奇なめぐり合わせだね

六代の討死にして

2018年11月04日 20:58

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 22:39:14.16 ID:qOtmps2b
大阪冬の陣、伯楽淵の戦いの時、横川次大夫が取った頸を、箕浦右近が使いとして家康本陣の
茶臼山へ持参し、それが一番頸であることを、本多上野介(正純)を以て言上した。
しかし頸の名字は知れず、名もなき頸であるとして、そのまま白砂に置かれた。

そのような所に、浅野但馬守(長晟)の使者である菅田士郎右衛門という者が茶臼山へ参ったのだが、
その頸を見て、彼の名前を知っていたため、知人としてこのように置かれるべきではないと思い、
頸を取り上げて石の上に置き、感じ入った様子であった。

これを見た箕浦は、彼に近づいて聞いた
「あなたはどちらの御家の方か、あの頸を御存知なのか。」

菅田答えた
「しかじかの者である。この頸は、仔細有って見知っている。これは平子主膳という者の頸である。
この者の父まで、五代討死を致した。そして今日この者の頸を見るにおよび、六代の討死にして、
誠に侍の冥加にあい叶いたる者と存じ、石の上に上げたのだ。」

箕浦これを聞くと再び尋ねた
「確かに御見知候や」

「確かならぬ事を、初めてお目にかかったあなたに申すような事はしない。」

こう言われ、その場で菅田と知人に成り、紀伊国の事などを尋ね、その後箕浦は上野介に
「先程の横川次大夫が討ち取った頸の事、平子主膳の頸であることが解りました。何かのついでにも
仰せ上げられますように。」と申し上げた。本多上野介からは「重ねての披露は難しい。」と言われたが、
それでもと、達って申した所、徳川家康は大いに感じ入り

「平子の頸であると?さては六代まで討死を遂げたのか。冥加の侍と云うべし!」と仰せに成った。

上野介が「平子は御存知の者でしたか」と尋ねると、「彼は隠れもなき者である。」との上意あり、
そしてその頸をとった横川次大夫へは、感状が下された。
これは合わせて、箕浦の使いの致しよう巧者成るが故と、その頃評判と成った。

(士談)

武士にとって討死はむしろ名誉である、という事がよく解る逸話ですね。



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 23:27:17.93 ID:y/aNoiQu
六代まで討死とか壮絶やな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 01:55:48.51 ID:l7DCctIn
息子も大阪の陣で討死しているので、七代…

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 10:43:15.31 ID:1AjO4BYd
>>456
え?お、おう・・・

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 11:10:03.90 ID:Tz26sLmg
7代連続討ち死には
平子家の合戦での立ち回りが致命的に間違ってるとしか・・・

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 12:29:50.41 ID:st2l0x2P
活躍して討ち死にした武士の家は普通重んじられるから、討ち死にが手柄の第一、と言われる By竹崎季長

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 14:59:33.22 ID:WgVotmTC
大御所様は当代の勇士知りすぎ問題

     §         
  ( ゚∀゚)  <話は聞いた その者は紛れもない勇士   
../  /ハ\ 
く_ノ;=8=」レ 
   家康           な、なんだってー!!
                          感状だー!>

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:21:22.46 ID:10fHARKO
>>456
良い話か悪い話かこれもうわかんねえな(錯乱

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:22:43.65 ID:xFrMk15D
7代連続討ち死にとかよく家が保たれたな…
そんだけ死んでれば結構若いうちに死んだのもいそうだが

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 18:25:40.35 ID:+iuEsOmt
討ち死にではないけど少弐氏当主も横死ばっかしてたよな確か

下人などは如此こそころすべけれ

2018年11月02日 20:25

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:35:10.04 ID:eJY+p62H
神子田半左衛門(正治)が家来の者を手放にするとして、縁側で爪を切っていたが、その爪を切る
小刀が下に落ちた。神子田はかの咎人を呼び、「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」と言いつけ、
彼が縁の下にくぐった所、上から刺殺した。そして人を呼び死骸を取り出させた。

この時神子田は
「放し討ちなどといって、確実性のない成敗を好むのは然るべからざる事である。
下人などはこのようにして殺すのだ(下人などは如此こそころすべけれ)」
と。申したという。

(士談)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 11:47:36.51 ID:75FhpIpu
秀吉軍初期メンバーだけど、物語でも扱いが悪くて当然の人か

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 12:36:14.43 ID:vMEsZMso
潔いと思うが
偽善者は暗殺者送って素知らぬ振りだからな

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 13:03:32.56 ID:SDHbTpAD
人が死んでるから悪い話なんだな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:11:58.57 ID:9eOVVS3q
これって放逐する事を明言した訳ではなくて
内心で決めてたけど未発表の段階で抹殺したって事だよな
同じ殺すにしても誅殺や手打ちに比べてなんか汚いというか
陰湿というか…何かこう嫌な気持ちにさせる振る舞いというか

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:24:46.01 ID:x5p+lKo9
朝倉宗滴みたいな現実派だよな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:20:50.57 ID:lOaOtw/w
>>403
なんで放逐せなあかんねん
これは上意討ちや
対象が領内におらん時は放逐やない出奔や
逃げる前に討つのは当然のこと
ひとかどの将なら宴で酔わせて討つ
下人なら手打ちでおk

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 07:42:43.02 ID:PUgQnT4P
>>403
「放し討ち」ってのは、相手にお前は死罪と決まったから、抵抗するなら抵抗しろ、って言って
罪人と討ち方が切りあいになるやり方のこと。
罪人が名のある武士の時や、討ち方が罪人側に同情している時に取られる方法で、
返り討ちにあったり、その場を切り抜けて逃げられる危険が当然ある。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 13:46:13.09 ID:IcnH0ZmW
実はいい話なのか

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 07:40:45.16 ID:7Ayt5tas
>>406
立花家の黒門の放し討ちが有名かな

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:44:58.36 ID:xFrMk15D
>>406
>>399の1行目の手放しってのはどういう意味なんだろう
解雇の事なのか処刑の事なのか
いずれにしろそんな事を申し付けた後に2行目のような小間使いをさせるのは
考えられないから処罰を申し付ける前の話なんだろう
どういう理由で処刑されたのかは不明だが仮にも家来に対して
罪状も告げずにだまし討ちというのは如何な物なんだろう
確実に殺せるけど他の部下や同僚上司はどう思うか

三人は因幡守家の従縁です

2018年10月19日 21:45

淀殿   
375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 04:44:55.46 ID:9DVEMnqs
噂が独り歩きして邪知淫乱とか密通とか不義の子とかボロクソに書かれている淀殿だが
ttp://uploader.skr.jp/src/up10490.jpg 
up10490.jpg

那古野氏側にも庶民の噂話とはちょっと違う淀殿の記録が伝わっている


「浅井備前守長政室信長公の御妹とも因幡守は従弟也
京極若狭守忠高若狭小浜少将の母公浄光院二女
秀忠公御台宗源院様三女
秀頼公の母公淀殿一女
此御三人因繙守は筋違の従弟也」

浅井長政に嫁いだお市の方と因幡守は従兄弟です
故に京極家に嫁いだ浅井氏二女
徳川秀忠に嫁いだ三女
豊臣秀頼の母一女淀殿
三人は因幡守家の従縁です
(先代実録)(岡山県史)


那古野氏は母方が小谷落城時にお市の方達を庇護した織田信次の娘(孫)でお市の方と従姉妹という縁もあり
後に豊臣氏から手厚い庇護もあり二女の智勝院殿は森氏に、四女の大林院殿は各務氏に嫁いだ。


*読売次掲載は松の丸殿(京極竜子)と那古野山三の艶書(不倫)特集



「伴内が困っておる」

2018年09月30日 19:43

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 21:46:23.02 ID:SujEa8Yj
伴内と言う者、世に類ない咄の名人にて、豊臣秀次公の御前を離れず、世の中の事を興あるように
取り繕い咄をつかまつる程に、一段と御意良くして、常に秀次公の御前に詰めた。

彼の咄の内、十の内半分は観世又次郎(観世方小鼓打ち)がどれほどうつけた事を言ったか、という
物であったため、秀次公は「それほどうつけ者なのか」と思し召した。

ある時、秀次は観世又次郎を召した。彼は御前に参って謹んで罷りあり、またいつもと同じ様に
伴内も伺候した。秀次公は仰せに成った

「いかに観世、どうして汝は萬に疎く心がうつけているのか?普段伴内の話す内容を聞くと、
大方汝のうつけ話ばかりなのだ。又次郎いかに?」

観世承り「そうですな、伴内と言う者は身体無芸なる奴でありますから、私のような天下道具の名人の
事を申さないと、喋ることが無くなってしまいます。ですので仕方がないと、私は彼をかまい申しません。」

秀次公はこれを聞くと「非常に面白い。伴内返答は如何に!?」と仰せに成ったが、伴内は当惑して赤面し、
何も言えなかった。そこで秀次公は観世又次郎を大なる利発者と感じ、「伴内が困っておる」と、大いに
笑った。これ以降、伴内は観世又次郎の事を語らなくなった。

(義殘後覺)


任官之事

2018年09月16日 17:30

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/15(土) 21:37:19.54 ID:g32iigv6
任官之事

諺曰。君択臣而授官。臣量己而受職。君無虚
授。臣無虚受。然羽柴筑前守秀吉。天正壬午春。
為追伐西戎征備州。闘争之半。明智日向守光秀
討信長将軍。於尋常之大将者。秀吉所可敗軍
也。不然還而武勇智計兼備退凶徒。即時上洛。
悉亡明智党。夷洛属静謐。信長将軍仰主上之
徳。修造宮殴。扶臣下之衰微被充行庄園。最忠
臣也。以之思之。光秀悪逆第一之朝敵也。秀吉
又討之。無比類之忠勤也。故被成下綸旨。被補
官位。其辞云。

去六月二日。信長父子上洛之処。明智日向守
企逆意討果之。剰乱入二條御所。狼藉之事。
前代未聞。無是非次第也。然処秀吉西国爲成
敗。備中國敵城。所所取巻。雖対陣任存分。不
移時日馳上。明智一類悉誅伐。属天下泰平之
段。?古今希有武勇。何事如之乎。因茲官位
之儀。雖有宣下。被辞申之條。重昇殿叙爵少将
之儀。堅天気候也。?執達如件。
天正十年十月三日 左中将在判
羽柴筑前守殿

かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


大徳寺総見院での信長の葬儀

2018年07月28日 19:08

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 03:07:31.13 ID:NB6t5LP1
大徳寺総見院での信長の葬儀


惟任は長年将軍(信長)の御厚恩によりその身を立て、何度も栄華に誇り
遊楽をほしいままにしてきたので、(信長の)長久を希うべきなのに
故なく相公(信長)を討ち奉って、どうして天罰がないことがあるだろうか。
六月二日に害し奉れば、同十三日には自身の首を刎ねられた。
因果歴然なり。恐るべし恐るべし。

(中略)

秀吉の所生は、元来高貴ではなかった。しかしながら相公は五男の
御次丸(秀勝)を養子として下された。この上は秀吉も同胞合体の侍である。
御葬礼がないなどあってはならない。されども(織田家)歴々の年寄衆は
とりわけ御連枝が多いので、一旦(秀吉は御連枝に)憚って
六月より冬の十月に至るまで、少しの法事も行わないまま過ぎてしまった。
昨日の友は今日の怨讐、昨日の花は今日の塵埃といえど、誰が予期しただろう。
誠に下賤下劣の貧士貧女でさえも、その跡を弔う習いがあるのに
どうして人民の君主にそれがないのだろうか。
今法事をしなくては、千変万化の世間の行く末は測り難い。
よって十月初めより、龍宝山大徳寺でのべ十七日の法会を催した。

(中略)

十五日目の御葬礼の作法は諸人が目を驚かせるばかりであった。
まず棺を金紗金襴で包み、軒の瓔珞、欄干の擬宝珠はみな金銀を集め
八角の柱は丹青を施し、八面の間は紋桐を彩色していた。
沈香(香木の一種)から仏像を彫り出し、棺の中へ納め奉った。
蓮台野(火葬場)は縦横広大に作られており、四門の幕は白綾白緞子
方百二十間の中火屋があり、法経堂のような造りだった。
総廻に埒を結い*1、羽柴小一郎長秀(秀長)が警固大将として
大徳寺より千五百丈の間を、弓矢槍鉄砲を持った警固の武士三万ばかりが
路の左右を守護した。葬礼場には、秀吉分国の人々は言うに及ばず
合体の侍を悉く馳せ集め、そのほか見物の貴賤は雲霞のようだった。

(棺の)御輿の前轅は池田古新(輝政)*2、後轅は羽柴御次丸がこれを担いだ。
御位牌は相公の八男御長丸(信吉)、御太刀は秀吉が不動国行*3を持った。
両脇に連れた三千余りの人は、みな烏帽子藤衣を着用していた。

(中略)

秀吉は御次丸と共に焼香し、十月十五日巳刻に無常の煙となってしまった。
誠にこれが一生の別離の悲しみである。これを嘆かない人がいるだろうか。
特に秀吉は目も開けられない程で、涙を留められなかった。


――『総見院殿追善記』



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 10:46:53.44 ID:txEyc0Bx
猿は演出家やなぁ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 11:37:09.99 ID:GLoZA45F
何となく、諸君らが愛してくれだカルマは死んだ!何故だ!?
を思い出しました、ジークジオン

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 15:39:06.51 ID:iCMkgUqJ
それは因果応報だからだよ

*1 馬場の周囲に囲いを巡らすこと。
*2 輝政はこの頃秀吉の養子となっており、織田家所縁かつ養子の二人に
信長の棺を担がせる政治的な意図があったとされる。
*3 信長遺愛の太刀。本能寺の変後に明智秀満が安土城から持ち去ったが
敗死ののちに秀吉所有となったとされる。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 19:50:44.01 ID:OOqoj3kL
サスロ兄爆死で世論操作やな

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 20:16:49.81 ID:ufzNrPWL
秀吉に旧主の信長を悼む気持ちが無かったとは思わないけど、やはり後々の事を思うと某SF傘アニメの国葬よろしく政治工作と言うか政治利用だよなぁ