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『当代記』より、大阪冬の陣の和睦

2020年09月15日 16:47

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 00:24:06.07 ID:NWu9CDs1
慶長十九年十二月十四日、
大阪冬の陣は、これ以前より和睦の扱いが有った。秀頼公よりは、四国の内二ヶ国を給われば、大阪を退城する、
との条件を出し、大御所・将軍(家康・秀忠)からは、安房・上総の両国を進ずるとの案を出した。
しかし関東への下向は全くありえないと秀頼は堅く思われ、この和睦は調わなかった。

大御所は阿茶局(雲光院・家康側室)を召され、陣中に参られた。

同日、女性である阿茶局が、若狭衆(京極忠高)の大阪城に対する仕寄に参り、大坂城中からも、
大蔵卿局、并びに若狭宰相老女(常高院)が出合、対談に及び、専ら和睦について語った。

十九日、また両度、先の女性衆出合、和睦が調った、これによって大御所将軍より、起請文を以て
異変有るべからずの旨を示した。

城中より、織田有楽の息子・武蔵守、大野修理(治長)息子・信濃守が、証人(人質)として出された。
これに対し、後藤庄三郎(銀師、四、五年大御所の近習の如き人物である)、并びに本多上野(正純)の
両使を以て、この証人を請取、すなわち上野の陣所へ同道した。

この和睦については、惣構、并びに三の丸は破却され、秀頼公も母台(淀殿)も、関東下向の事は
沙汰無く、領地も以前のまま、本丸二の丸は前々のごとく破却沙汰は無かった。

城中について、兵糧は沢山あり、その他も特に欠けたものはなかったが、その中で鉄砲薬は欠乏していたという。
その故は、城中では皆大鉄砲を用いたためで、これまでに八百石の弾薬を消費したという。
彼らは三匁筒などはほとんど用いず、十匁、二十匁、三十匁、五十匁、百匁の鉄砲を撃ち、そのため
欠乏に至ったという。

この度の籠城の最中、秀頼はいつも惣構を廻り、少しのことでも精を入れて働く者には、その内容によって
褒美が有った。人々はみな、これを美談としないものは居なかった。

今回、大坂城中の兵たちは、『六本鑓の衆こわき』などと云って悪口した。
これは大工大和(中井正清)、後藤庄三郎(銀師)、永仁(京町人)、同茶屋又四郎らで、彼らは皆
大御所の宿直の者共であった。

大阪三の丸、惣構は破却された。

二十四日、大御所は茶臼山を立たれ上洛され、二十五日に入洛された。

『当代記』

大阪冬の陣の和睦について



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『武功雑記』と『備前老人物語』より、城に関する小品2つ

2020年09月14日 16:17

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/14(月) 00:24:40.15 ID:UbLIhjN6
武功雑記』(前者)と『備前老人物語』(後者)より、城に関する小品2つ

・大坂千貫櫓の由来
本願寺顕如が籠城したとき、よく横矢が掛かる櫓があった。寄せ手は難儀したので、「千貫出しても取りたい櫓だ」と取り沙汰されたので、千貫櫓と呼ばれた。

・城の本丸、本当の利用目的
城の本丸は、人質のたぐいを入れ置くためにあるという



秀頼の御袋は武具を着て

2020年09月13日 15:51

淀殿   
340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/13(日) 12:56:53.07 ID:ek8NO7bt
慶長十九年十月二十八日、(大坂冬の陣の勃発後)、大坂城中より脱出してきた者が二条城に召され、
城内の様子を尋ねられた。

彼の者の言上によると、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着て、自ら番所改めを行われており、
これに従う女性三、四人も武具を着ているという。
そして大阪籠城の勢は三万あまりという事である。(但し雑兵を含む)
兵糧、薪、塩、味噌などは形のごとく貯められているという。

当代記



大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため

2020年09月12日 16:33

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/12(土) 12:08:21.19 ID:QHtbi35F
慶長十九年十月二日、雷が頻繁に鳴り響いた。美濃国加納の松平摂津守(奥平忠政)が逝去した。

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため、兵糧を貯め、去る八月、近国に金銀を遣わして相調えた。
福島左衛門大夫(正則)は大阪に八万石の兵糧が有ったが(この時江戸に在った)、秀頼より
借用したいと言ってきた。これに対し正則は飛脚にて『兎も角も秀頼御意次第』の旨を返答した。
その他、家康公の蔵米が三万石、諸国大名の米三万石、并びに町方の売買する米が二万石、
これらを大坂城に収納した。町人の米は代銀を以て速やかに決済した。

また秀頼は去る慶長五年(関ヶ原)の敵方の士、所々に隠れ居た所を、今これを招き、数百人扶持した(但し
人質を出さない者は抱えなかったと云々)。

これらに対し大御所自ら、大阪に使者を遣わした。それは大野修理(治長)の弟で、大野壱岐守(治純)であった。

当代記

大阪冬の陣直前の様相について



『老人雑話』より、秀吉秘話を選録

2020年09月04日 18:40

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/03(木) 22:22:52.08 ID:1dFb0oYm
老人雑話』より、秀吉秘話を選録

・産出量を超える松茸
山城の国に山里というところがあり、(太閤秀吉から)梅松という僧侶が預かっていた。新たに松を植え、程なくして松林ができあがったので、秀吉に松茸を献上した。
秀吉は笑って、「私の威光がまったくなかったとき、私も(信長に)何度か松茸を献上した。実はよそから買って献上していたのだ」。
秀吉は側近の者に「もう松茸を献上することはやめさせなさい。(松茸が)生えすぎている」と言ったそうだ。

・大清洲捜査網
秀吉がはじめ、微賤の者だったとき、(中間?)衆の間で刀がなくなった人がいた。秀吉は貧しかったので、人々は秀吉を疑った。
これによって秀吉は城下の民家をあまねく尋ね歩き、質屋にあるのを発見した。(質屋に)尋問して盗んだ犯人を捕らえ、信長が狩りに出るときに訴え出た。
信長は感じ入り、初めて微禄を与えたそうだ。

・中国大返し、政宗っぽい秀吉
明智光秀織田信長を討ったとき、秀吉は軍を返し、途中の尼崎の寺に入り、「法体」(出家)して京に上った。「素衣白馬」(死を覚悟)の心だった。
その寺にはいまも寺領があるという。

・信長へのはったりと大ウソ
松永久秀が(信長に謀反して)籠城したとき、信長は討手に秀吉を派遣した。
その後、秀吉から書状で信長に(攻撃前から)注進しようとした。
「何日には総構えを破り、何日には二の丸を破り、何日には久秀の首を取った」。
(秀吉の)右筆が「これで大丈夫なのですか?」と聞くと、秀吉は「この通りにならなければ信長様は私を殺す。もし計画通りにならなければ私は死ぬ」。
(秀吉は)そのスケジュール通りに「無理に討破り」、久秀の首を箱に入れて信長に届けた。
信長が言うには「この首は偽物だろう。久秀は首になっても私の前に出てくる者ではない。秀吉が(誰かの首を)たばかって送ってきたのだろう」。
箱を開いてみれば、まさにそうだった。
久秀は最後まで降伏せず、鉄砲の火薬に火をかけて焼け死んだ。

※北陸遠征で無断帰陣したあとだったので、ハッスルしたんでしょうか?大将は信忠ですけど



見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

2020年09月03日 16:22

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:27:24.57 ID:EkTrbIWX
見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

太閤の時代の茶人は明け方ごろまで茶室に湯を沸かしておき、近づきのない者でも
通りがけに案内なしに茶室に上がって自分で茶を立てて飲み、また出て行ったと聞く。
ある夜更けに、太閤がどこからの帰りか、ふと「今自分でも茶室に湯をわかしている
ところはあるだろうか」と供の者に尋ねると、供の者が「針屋宗春以外にはございま
すまい」と答えたので、宗春の茶亭に行ってご覧になると、供の者が申したとおりに
湯が沸かしてあったので、太閤は茶を賞玩なさったという。
また、ある夜更けに何者かが宗春の茶室で茶を立てていたが、宗春が召使に「誰か
見てこい」といったので見に行くと、若党を多く連れた侍だった。よく尋ねてみると
石川五右衛門と名乗った。この時代の風儀はこのようなものであったと見える。



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/04(金) 18:06:35.77 ID:UxjSEEFI
>>511
何かおおらかで素敵やん

秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



もし達ってその儀に及べば、

2020年08月06日 18:40

淀殿   
242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/06(木) 16:36:58.69 ID:R/RiIQk5
慶長十年五月の七、八日頃、大阪では下民がしきりに荷物を運び出そうとし、人心が非常に動揺していた。
これはこの頃、徳川秀忠の将軍任官の祝儀として、豊臣秀頼公が伏見に上がられ、その上で上洛して頂きたい
との事を、右府家康公の内存があり、この旨に京都の大政所も従った。これは故太閤の北政所である。
そして大阪にこれを伝えた所、秀頼公の母台(淀殿)はこれを拒否し、

「そのような儀は有るまじき事である。もし達ってその儀に及べば、秀頼公を生害し、我が身も自害する。」

と頻りに宣われたため、これを聞いた下民達は大変に慌てふためいたのだ。
また秀頼公が伏見に上がられるのは勿体ないと、上方大名共の中より、大阪に内通した者もあると
噂された。これによって秀頼公の上洛は引き延べとなった。

当代記



慶長元年の災害

2020年07月29日 16:25

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/29(水) 13:33:05.82 ID:D/tYIpMV
慶長元年、春中雨細々と降り、五月中旬より六月二十六日まで露(梅雨)に入った。
この春は雪が節々と降り、四月四日にも雪が降った。

五月九日、尾濃で洪水。六月十九から二十三日、甲信関東で洪水。百年以来の大水と言われた。
知行の損亡は数を知れず、武州の内葛井(葛西)・浅草にて、人三、四百人が溺死した。
その他牛馬も数を知れず死んだ。この時節も、上方にはさほどの事はなかった。

六月二十七日から七月七日まで旱。翌八日よりまた降雨。六月十四、十五日頃彗星出る。
七月二十八日より閏七月二日まで旱。翌三日より九日まで降雨。この九日に俄に水が出て、
山崩れ人が死んだ。この水は所による。

閏七月十二日の夜、子の刻(午前0時頃)に、上方大地震。京中は三条より下、伏見まで家損人死、
上京は無事であった。
伏見御城中にて上臈七十三人、中居下女五百人が死んだ。一の門、三門の番衆は、門が崩れ悉く死んだ。
この時太閤(秀吉)は中の丸に御座在ったが、その身は無事であった。
諸大名の家々も倒れた、人が死ぬこと限りなかった。

大阪、堺も同前で、伏見城殿主石垣は一つも残らず崩れた。大仏殿は無事であったが、中の大仏は
破損した。愛宕山坊中も倒れ、所々より上がった真壺(ルソン壺)の過半も破損した。
この六,七月、閏の間、上方は降雨で。五穀豊かに実った、
この地震で、関東駿遠、何れも東では揺れなかった。

前の七月の浅間山の噴火のように、西の方に噴煙が流れ、これ故か、近江、京伏見ではその頃
灰が細々と降り、それ故か秋毛は少々凶作と云われた。信濃などではこの灰が一寸ばかり積もった。
関東には灰は降らなかったが、但しここでも同秋凶作と云われた。

当代記

慶長元年の災害について。



庶民はこのため迷惑した

2020年07月27日 17:02

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/26(日) 22:10:46.53 ID:RRjL16Sp
慶長二年の春、京都四条に太閤秀吉は新構の普請を行ったが、地の利が狭かったため、また白川出口に
普請をやり直した。町人たちはそれぞれ家を壊され迷惑した。

この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。庶民はこのため迷惑した。

当代記

豊臣政権の20%の消費税という奴ですね。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/26(日) 23:01:11.62 ID:QPPTvxSv
いまでも苦労しているのに、どう徴収したのかね
ただでさえ商人層への課税がずさん、なんというなら実態に伴わぬ上納の時代なのに

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 11:42:25.14 ID:NP47T+CV
想像を絶するルーズさなのにな
焼き討ちでもして強奪したんだろうか

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 14:04:06.65 ID:boxqkpvD
>この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。
なんていっても、各町の代官が個別の商人の売り上げなんて把握してないだろうから、
各町の商人衆が、「あいつは大体これ位儲けてたから」といった感じで仲間内で税負担を割り当てて、
決まった時期に一括上納とかいった感じだったのかなぁ?

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 20:07:16.03 ID:kxCvGttO
その為の座、株仲間、町会所やろ。

この頃京都の傾城達が召し上げられ

2020年07月26日 18:05

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/25(土) 22:19:35.08 ID:tr+RCr6r
文禄四年、この頃京都の傾城達が召し上げられ、そのうち五人が太閤秀吉に召し遣わされた。江戸内府公(家康)、
加賀大納言(前田利家)にも二人ほどが「召し遣われるように。」として遣わされた。
その他の人にも下された衆は多かった。

これら傾城の中に。歌舞、躍りが難渋な美女一人が有った。彼女にその仔細を尋ねた所、
「賤しからざる親類が多く、外聞を思ってのことである。」と言った。

これについて、彼女の兄弟に問うた所、「これ以前に二度まで身請けをして召し直したのだが、両度ながら
又再び傾城屋へ走り入ったため、是非に及ばぬ。」と言上した。

これによって、彼女は磔に掛けられた。(然は則はり付に被掛)

当代記



秀次事件

2020年07月24日 18:30

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/24(金) 01:02:10.41 ID:r3NYavW9
文禄四年、関白豊臣秀次にこの頃御謀反の企てが露見したとの事で、七月八日、関白秀次は
聚楽を退出し高野山へ上り、同十五日、腹を御切りになった。

秀次の若君二人(一、二歳の孩児であった)并びに近習、女房の三十余輩、洛中を引き廻され切り捨てられた。

誠は秀次の逆心は虚言であるのだが、行跡が穏便では無かった故に、治部少(石田三成)の讒言によって
かくの如く成ったのだという。

聚楽城、并びに諸侍の家門は伏見に引き移された。

当代記



是そ摂政関白の家

2020年07月23日 18:17

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 20:58:45.26 ID:bZEQKy47
文禄二年の正月、正親町院崩御の時、諒闇中(天子が、その父母の喪に服する期間)にも拘らず、
関白秀次が鹿狩りをしたことについての落書が有った。

『院の御所 菩提の為の狩なれは 是そ摂政関白の家』

この落書を書いた者は厳重に捜索されたが、その後露見したものの、公家がやったことであったため、
何の沙汰にも及ばなかった。

当代記

摂政関白と「殺生」関白をかけたという落書の話ですね



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:37:05.25 ID:AxVMh1z5
>>211
当代記の性格上、秀次貶めて秀吉を上げる必然性が薄い気がする

賤ヶ岳の戦について

2020年07月05日 17:33

170 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 07:29:24.35 ID:LTS/0CcL
賤ヶ岳の戦いの真実
・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。
・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。
・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。
・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下がった結果として生じた状況が可能にした一手だった。
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いではなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな柴田軍が嵌った」というわけではなかった。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と織田信長譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使した。
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのである。
対して佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りだった。

秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走

戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いた。秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間だった。



171 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 09:39:31.17 ID:j7MvBvjw
経緯が省略されたことに伴って当然のこととして時間の経過についても記述が省かれるようになったから秀吉の計画通りに何事も上手くいったのごとくな印象を植え付けられたのでしょうね

172 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 10:15:35.43 ID:LTS/0CcL
>>171
歴史は勝者が創造する言うけど...たまには敗者側から観てどれだけ敗者側が頑張ったかを知ることが本当の意味で史実を知ることになるのかもね

【ニュース】「秀吉側近の武将 駒井重勝の日記 自筆原本見つかる」

2020年06月15日 17:51

283 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/15(月) 12:21:29.23 ID:jYTjR/rA
ニュース「秀吉側近の武将 駒井重勝の日記 自筆原本見つかる」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200615/k10012470411000.html

なんでこんなものがネットオークションで出てくるのだろう



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/16(火) 09:09:38.93 ID:eWSfcWcK
>>283
今ちょうどバブル期の収集家が亡くなる時期が来てて
なにも分からない遺族が、適当に鑑定眼のない木っ端業者に処分を依頼する事が増えた
そういう業者は価値も分からず、ちゃんとしたオークションに出品するツテも持ってないので
こうやって日銭を稼ぐためにネットに流す

あちらこちらで辻斬り、追い剥ぎなどが夜ごとに起こり

2020年04月26日 13:47

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/26(日) 01:05:56.50 ID:KAUisGYn
或いは問う、豊臣秀吉公の時代は、都に三奉行が有り、法を犯す輩に対し、或いは磔、或いは釜煎りなどの
重罰をしていたが、あちらこちらで辻斬り、追い剥ぎなどが夜ごとに起こり、止む事がなかった。

一方でこの頃では、禁制の数もさほどに無いのに、洛中洛外共に、夜であっても行き交う人は多いが、
互いに道を譲り合うため、喧嘩口論という沙汰もなく、辻斬り、火付けなどとののしる声も自然と絶えた。
ただ残念なのは、武士の気味のみ昔に立ち帰らず、諸士は心を僅かな利に労し、まるで商売人に似ている事である。

甫庵太閤記

甫庵太閤記の初版は初版は寛永3年(1626)という事で、同時代人の小瀬甫庵からみても、
秀吉の時代とその頃の京の治安は、このくらい違っていたと感じられていたみたいですね。



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/26(日) 01:23:39.22 ID:SSFFTnBi
なんか昔は乱暴だけど活気があってよかったっていうおっちゃんそのまんまな感じの記述っすね

高松攻めの不審なること

2019年12月17日 17:52

417 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 12:54:34.32 ID:7IG7eVB0
佐怖彌右衛門入道常圓という者は、百余歳まで長命した人物であった。村瀬安兵衛は内々に、この
佐怖常圓が秀吉公の御供として、備中高松城攻めを目の当たりに見たと聞き及び、常圓の所に常々出入り
している町人に頼んで、「お目にかかって高松攻めについての不審なことをお尋ねしたいと望んでおり、
同道してほしい。」と望んだ。そしてある時、この町人と連れ立って常圓の邸宅に参った。

常圓は太い杖をついて座敷に出ると、そのまま挨拶した
「さてさて、若き人の奇特なる事か。私に逢って高松攻めの不審なることを聞きたいと言うが、それは
どのような事か。」

安兵衛はこれに
「先ずはお目にかかれたこと、忝なく存じ奉ります。ところで、秀吉公が高松城を御攻めになった際、
門前村よりカイルカ鼻(蛙ヶ鼻)までおおよそ一里ほどの長さの堤を築かれたという事ですか、それを城方が
うかうかと見物していたというのは不審に思います。また毛利家も大軍の後詰を出して向陣し、その間はたったの
二十間に足らない場所に居たのに、見物していたのみで長い堤を切り崩す事さえ成らず、一戦を遂げたという
事も聞き及びません。この事不審千万に思います。」

このように申した所、常圓は
「いかにもいかにも、尤もの不審である。ではでは、その時のことをお聞かせ申そう。
その時私は御馬廻りであり、御馬の蹄奉じの時も御供仕るほどで、委細を存じている。それ以前の、鳥取城の
時はゆるゆると取り巻き兵糧詰めにして落としたが、それと事変わり、次の冠城は一時攻めに攻め落とした。
このため味方に手負い、死人も多く出たが、この勢いを聞いて河屋城は直ぐに開け退いた。これによって
備前備中の境の山の上に御人数を備え、一両日してから、高松城は水攻めが然るべしと思し召しに成り、このように
仰せに成った
『私は今より馬で向かう!その跡を直ぐに追いかけてこい!』
そう言われるやそのまま乗り出し、御供はただ七、八人にて門前村よりカイルカ鼻までお乗りに成った。
この時城中より鉄砲が撃ちかけられ、羽織に弾が二つまで当たったが、少しも騒がず乗り返された。
そこから一夜の間に尽く塀をかけ、五十間に一つ宛てで櫓を上げた、これは外から見ると櫓に白土まで塗ったように
見えたが、これは白土ではなく、白紙を貼った障子で囲んだものであった。

これらの櫓から弓鉄砲で敵を撃ちすくめ射すくめさせ、塀の陰にて堤を築いた。これに対し少人数の城兵は
なかなか出ることが出来なかった。
さて、こうして堤が出来ると、これは秀吉公の御運なのであろう、それから三日の間に篠突く程の大雨が降った。

門前村の外に広さ三十間ほどの砂川があり、普段は脚絆が濡れる程度の浅さであった、この川上には大井村という
村があったため、川も大井川と言ったが、この三日間の大雨によって川は瀧のように成って流れた。この時
秀吉公の仰せで、人数二千人ばかりが手に手を取って、門前村の前でこの川の中にひたひたと入り、人によって
水流を弱めると、川下は二、三尺は無い程の浅瀬と成った所を、土俵を以てせき切り、門前村の前の堤の口に
流し込めば、水は逆巻いて城の周辺に滔々と流れ込み、目もこすらぬ間に大海のようになった。

そして城外の山々の方に流れる雨脚も言うに及ばず、備前の方の山半分に溝を付けて、備中高松の方に
流しかけた。現在もその山水は備中の田地に流れており、故に『備前の水にて備中の田を作る』と俗に
申すのは、この事より起こったものである。

そのような訳で城中の兵は何も出来ず、寝耳に水を入れたように呆れ果てたるばかりといった様子で、
また毛利家の後詰めも、あの見せ櫓を見て驚き、それに対する会議評定が終わらぬ内に城は水に浸った
のである。このため城主の清水氏(宗治)は切腹した。やがて京の大変(本能寺の変)が報告されたため、
和議して互いに誓紙を取り交わし、人数引き上げと成る時、この堤を切り崩し、そのまま引き上げた。
これによって俄に毛利家の陣所との間は大海のようになって。たとえ追討ちの心があったとしても、
何もすることは出来なかった。

418 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 12:54:57.97 ID:7IG7eVB0
備前の宇喜多秀家は幼少であり、岡山の城より出向いて半田山のあたりで秀吉公を待ち受け御対面された。
この時秀吉公の召されていた乗輿の中に入られ、様々懇ろに色々御咄など成され、『今後我が養子とする。』と
御約束に成った。沼城のあたりまでお連れに成り、それよりお返しになった。秀家からの加勢の人数も
先に向かわせた。そして飛脚を遣わし、『播州の町、在地に限らず、法華宗の出家は尽く城下に集まるように。』
と万部の御経を仰せ付けに成り、信長公のお弔いにすると、軒並みに仰せ遣わされた。

ところでこの間秀吉公は、御乗輿の中でひたすらお眠りに成り、正体も無いようであった。時々御馬を
召されたが、他愛も無く居眠りをされ、四、五度落馬されたほどであった。このため
『姫路に到着すれば休みを取り、御法事のため三七日(二十一日)過ぎて後に上方に出馬しよう。』と
申されていたのだが、いざ姫路に到着されると、その夜中には早くも御陣触れがあり、早朝に御出馬された。
今思い返してみると、秀吉公はあのように草臥れ、その上弔いの為に上方に上がるまで日数がかかると
光秀の方に聞こえたのであろうか、光秀は明智左馬介に人数を分けて安土へ遣わし油断していた所に、秀吉公は
急に御上がりになった故に、明智の謀は後手後手になって敗軍したのだと考えている。

ところで、尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆かれていた時は、秀吉公も嘆かれ、『この上は何れも
一味同心にて明智を討ち取り申す外はありません。何れも左様に思し召すように。』と、彼らを敬い、とても
慇懃で、同輩として接している様子が見受けられたが、明智敗軍の後、諸大名への御あしらいは『骨折々々』と
仰せになり、家来あしらいと成り、大いに威が付かれた。』

このように語られた、

この佐怖彌右衛門入道常圓は二百五十石下され、隠居したがその子が盲目であっため、孫を跡継ぎとし、
少将様(池田光政)より二百五十石下され、これも佐怖彌右衛門と名乗ったが、彼が死んで子がなく、
断絶という所に、少将様より『佐怖の跡は潰すべからす』との言葉があり、石田鶴右衛門の二男を
跡継ぎとして立てられ、これも佐怖彌右衛門と名乗ったのだが、阿呆を尽くして跡が潰れたという。

村瀬安兵衛は伊木勘解由(岡山藩池田家重臣)の元にて二百石の者で、この物語を聞いたのは、彼が
浪人であった若い頃の事である。

 貞享四年(1687)十月、安兵衛物語の通りに書き付けたもの也。

(高松城攻之物語)

秀吉の備中高松城攻めについて



419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 13:17:08.85 ID:ROhwfMfq
>>417
生き証人の話はリアルでいいなぁ、説得力ある

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:31:01.22 ID:5yZpAfb1
>>417
2000人で川の流れを止めるとか信じられん
流されて悲惨なことになっただろう

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:51:20.57 ID:R4W40bDn
そもそも可能なんだろうか

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 08:07:21.11 ID:AainfZnh
細かい事解らんけど数十万トン位の圧力になりそう

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 13:35:14.64 ID:2ZgMZM/k
>>426
シーザーも似たようなことやっとるし昔から有効な方法なんだよ

惣じて殿下の大胆闊達な事は

2019年12月07日 16:55

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:00:50.62 ID:RNLP5dbp
天正十八年七月十三日、小田原開城の後、豊臣秀吉公は小田原城に入られ、最前に笠懸山で約束した
通りに、徳川家康公に伊豆相模武蔵上総下総上野下野安房の八ヶ国を参らせ、また家康公の上京の
折々における旅中の用途の為として近江国伊香、野洲の両郡、また海道筋にて一万石を与えた。
そして旧領である東海の五ヶ国は殿下が受納され、諸将に今回の勲功の賞として分け与えた。

そのような処置の後、陸奥出羽の両国も平均なさしむべしとて、同十四日に秀吉公は小田原を発した。
前田利家父子、宇喜多秀家、蒲生氏郷が秀吉公より先陣の命を蒙り、その他の諸大将も先隊後躯の
列を守り、順々に打ち発った。数ヶ国の大軍が昼夜を分かたず野も岡も平押しに押し行き、
五里七里の間には、神社仏閣市店農家に軍勢の宿と成らない所は無かった。

そういった中、長岡幽斎法印玄旨は病気によって休暇を賜り、同十五日足柄竹ノ下より甲斐国に入り、
信濃路を経て京へ戻った。

秀吉公の方は、「このついでに鎌倉を一見したい。」と、相州藤澤駅より駕を枉げられ鶴ヶ岡の
八幡宮に参詣された。参詣が終わって右大将家(源頼朝)の廟所を尋ねられ、白旗の社(白旗神社)で
あることを申し上げると、そちらに詣でられ戸帳を開かれると、頼朝卿の影像をつくづくと眺められ

「おおよよ微賤より起こって天下一統に切り従え、四海を掌に握った者はあなたとこの秀吉のみである。
しかしながらあなたは多田満仲の後胤であり、王氏より出てからもそう隔たっていない。その上、
先祖に伊予守頼義、陸奥守義家が相続いて関東の守護をなし、故に国侍に馴染みも多く、被官の筋目が
有るのを以て流人の身であるといっても、義兵を挙げるや否や旧好を追って東国武士が属従し、
速成の大功を建てられた。

一方で私は氏も系図もない匹夫より出て、茂みの中から世上を靡かせたのだから、あなたよりこの秀吉の
創業の方が大なること明白である。しかし何れにしてもあなたと私は天下友達と言うべきであろう。」

そう言って影像の肩先をほとほとと叩き、からからと笑って立ち下がられた。扈従の者達も興に入り
「誠に活気の大将である。」と言わぬものは居なかった。

惣じて殿下の大胆闊達な事はこの話だけではない。宇都宮に出馬された砌に、御伽衆が侍座して
夜話をしていた折に、佐野天徳寺上杉謙信の、信州川中島の戦い、常州山王堂の戦いなどを語り、
「彼が勝れて剛絶なる大将であった証拠は、輝虎が関東へ越山するとの話が聞こえれば、諸家の
輩は一人ひとり身構えて手袋を引き弓矢を伏せた。そして謙信が帰陣して三国峠を越えたと聞くと、
大夕立と雷鳴が過ぎ去った跡のように、ようやく息をついて安心して座したものであった。」
と話した所、殿下はこれを聞かれると

「天徳寺よ、その信玄謙信の両入道も早くに死んで幸せであったな。今まで生きていたなら
私の今度の帰洛の時に、乗輿の先に立たせ、朱柄の傘、大長刀を担がせ力者として供をさせた
だろうに、早世して外聞も能く名を残せた。何が座備、車懸りか、戯言である。」

そう宣われた。これには天徳寺も言葉を失い苦笑するより無かった。

(関八州古戦録)



401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:10:30.46 ID:JKruuVtX
関連
5875
『秀吉の大器』


9758
車懸りや座備が何だというのか


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:20:18.14 ID:JKruuVtX
これも関連に追加
846
豊臣秀吉、成り上がり者の心意気・いい話

3207
豊臣秀吉、天下人の自信

老翁物語の山崎から小牧長久手合戦まで

2019年11月26日 17:17

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 04:42:36.14 ID:EAOaT5Z9
天正十年六月十三日、明智光秀は山崎にて秀吉公の軍勢が上ってくるのを防ごうと
人数を少々打ち出していた。そのような所に、秀吉公の手勢である羽柴左衛門督(堀秀政)、
中川瀬兵衛(清秀)が山崎の宝寺(宝積寺ヵ)の上に打ち上った。明智の軍勢が山崎の
山八分目程に在った時、早くも秀吉軍の先手は嶺に到着しており、夜が明けるのを待ち受け
嶺よりおろし懸かり、鬨の声を上げて打ち立てた。

明智の者共はたまらず崩れ、勝竜寺城に向けて落ちていった。明智光秀も川を越えて逃げ、
江州坂本城へ向けて落ちて行ったが、山科にて穢多たちが多く出て鑓合いとなり、馬より突き落とされ
相果てた。こうして異議なく秀吉公は本意を遂げ、諸大名衆との関係も大形相調って御在洛になった。

その後、越前の柴田勝家と後取合となり、賤ヶ岳の一戦に勝家は打ち負け、越前は尽く秀吉公の
御手に入った。秀吉公方で鑓の働きで、加藤主計(清正)、同左馬介(嘉明)、糟屋内膳(武則)、
平野遠江(長泰)、片桐市正(且元)、脇坂甚内(安治)、石川兵助(一光)の七人が手柄をなし、
これを七本槍と称した。

上方のことは前後ともに不案内であり、間違っている所も有ると思いますが、お尋ねに背く事も
出来ず、承り及んでいるのはこの様なものです。
(上方之儀前後無案内之儀候條、相違儀も可有候、御尋之旨難背候て、承及所如斯に候。)

この後秀吉公は、徳川家康公との御取合に罷り成り、尾張の小牧にて大合戦があった。秀吉公方の
池田勝入が鑓下に討死、永井右近(直勝)が討ち取った。秀吉公は犬山より撤退し、同国竹ヶ鼻と
申す城を攻めた。ここには織田源吾殿(長益)が家康公方に味方して籠もっていたが、秀吉公の
攻撃がはじまると、源吾殿の懇望によって城を請け取り、源吾殿は京都へと同道された。

(老翁物語)

老翁物語に記される山崎、賤ヶ岳、小牧長久手合戦の模様。「上方のことはよく理解してないので
間違いも有ると思う」と、書いた本人(毛利輝元の右筆であった小田木工丞)が告白しているのが
面白いですね。また賤ヶ岳七本槍から福島正則が外され石川一光が入っているのも興味深いと思います。



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 06:59:44.30 ID:cw2k9F3T
>>610
あれっ!?山崎が超地味な話だな

長浜城と「おかね」さん

2019年11月17日 17:11

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 03:44:36.13 ID:2B3d31sM
長浜城と「おかね」さん

 長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
 天正二年(一五七四)ごろ、長浜城が築かれることになりました。強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地帯一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
 「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。

                                       平成十六年三月吉日


長浜城跡の豊公園の石碑より
https://i.imgur.com/FraRCww.jpg
FraRCww.jpg



574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 11:33:59.79 ID:YffsnREo
無理矢理埋めたあげく美談化するとか、ホント怖い

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 13:36:19.67 ID:dw0VDGnO
人柱という風習を止めようと言う奴は居なかったのかのう

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 15:47:25.38 ID:zzZA82E+
武内宿禰みたいな?時代が違いすぎるけど

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 15:51:10.16 ID:IDbsoAY7
旅の坊さんが志願して人柱になった美談思い出す
坊さんが念仏唱えながら逃げ回る八つ墓村の世界観みたいな地獄なんだろうなと

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 17:51:09.94 ID:ENrq08LC
>>575
孔明「まったくだわ」

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 20:54:46.30 ID:kQNP8TQ8
そんなに美女だったのに藤吉郎の手がつかなかったのか

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 00:33:28.04 ID:c00EZM2U
>>579
良い家の姫かつ美女じゃないと

581 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/18(月) 07:47:44.54 ID:BHTWs9MT
>>577
白川小峰城なんて、人柱に選ばれた藩士の娘が逃げ回って、捕まった場所に追廻なんて不名誉な地名が付いてんだぜ。しかも城の北側のかなり広範囲に…

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 11:14:45.57 ID:0N5VEnOO
平戸藩松浦だと奉行クラスがわざと自分で言い出したクジに当たって埋められてるな
被害を出さないように配慮したんだろうが、一緒に生きた犬は埋められるし、娘は精神病むし悲惨

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 11:50:03.15 ID:cC/oPjqy
工事が捗らなくてストレスでやばかったんだろ
失敗したら切腹なわけだし、どうせ死ぬならってことで
くじを理由に引責自死ってやつだ