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木下勝俊と春日局

2022年05月23日 17:21

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/22(日) 23:42:55.82 ID:N8u6mvGT
槐記享保十三年七月十二日の記事より 木下勝俊春日局

長嘯子は歴々の者と見える。中井常覚の話に。
昔、春日局が上洛したおりに、板倉周防守がお誘いして祇園の清水へ参ったが、当時私(常覚)は十三歳でお供仕ったが、瀧の下の腰掛けに一同腰掛けて瀧を賞翫していたところ、その瀧で足を洗っていた熊野比丘尼が春日局を見て、「実に久しいことお目にかかっておりませんでしたが、お上がりなさるよしを承りまして、つい今しがた熊野から参ったところで、未だ御挨拶申し上げませんでした」と申せば、
「この尼の申す通りです。故あって懇意にしているのですが、京の建仁寺のあたりに住居しているとのよし、周防守様も常々お目にかけて下さいませ。この者と会ってふと思い出しましたが、長嘯様のいらっしゃる霊山はこの近くにございますので、参りてお会いしたく存じます」と、私を連れてそちらに向かわれた。周防守は、今日は東本願寺の門主が主人になって祇園林で宴席を張って待っているとのことなので、一足先ににそちらに向かわれた。
さて、長嘯子のところへ参ると、長嘯は紙子の軽装で気軽に縁側に出て、「よくこそいらっしゃった。二階の方が景色が良いから上がり給え。茶の一杯も振る舞うべきだが、あなたのお持ちの茶の方が上等でしょう」と言った。茶弁当なども二階へ上げて主客ともに楽しまれたが、周防守から「東本願寺の門主がお待ちかねです。早くお出で下さい」と幾度も使いが参ったので、立ち帰られた。彼の春日局に対する態度はまるで主人であるかのようだった。
さて、祇園へ参ると、林一面に畳を敷いて杉折の提重おびただしく、饗応の限りを尽くされたこと言語に絶していた。こう常覚が申し上げると、家煕様も、そのような話を聞いたことがあると仰られた。



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槐記より秀吉の話

2022年05月10日 17:30

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 22:08:23.88 ID:V0Qof8cd
槐記より秀吉の話

享保九年 九月七日の日記

太閤秀吉、ある狩りの帰りに供廻りの者たちを御上覧に入れようとて、南門の前を通る許しを願い出た。お許しあって、その日南門を開いて上覧された。三藐院殿(近衛信尹)もその時お出でであったので、秀吉一行の装束の細部まで残さず記録なされた。供廻りの人数の夥しいことは言うまでもなかったが、まず先手の者たち、鶴百羽を青竹に結び付けて二列に並び、続いて雁二百羽を同じようにといったふうに、上覧に供するために甚だ華美に興行されていると見えた。家康をはじめとする騎馬の士は、みな鷹を手に据えて通った。秀吉は朝鮮の輿に乗って唐冠に唐服を着しハイタカを手に据えて南門の前まで来ると酒を乞われた。殿上人諸卿みな出迎えて南門の前に宴席を設けたが、秀吉の据えていたハイタカは実は作り物で、この時首を取ると中に酒肴が入っていたそうだ。太閤の物数寄はかようなものであった。



一説に、大野治房は

2022年04月20日 18:00

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 16:04:21.07 ID:hRgr3lgH
大野主馬助治房は秀頼公の元で出頭し、大阪城中に於いては兄治長と共に、彼ら兄弟の上に立つ者も無く、
しかも今度の矛盾(大坂の陣)の張本人たる身の上であったのに、いかなる思慮があったのだろうか、
大阪落城の時、その混乱の中で城より落ち失せたという。

一説に、大野治房は秀頼の若君・国松丸を守護して落ちていった所に、禁野の辺りで、
主馬の郎党、塙市左衛門、松田庄太夫が心変わりして、治房を刺殺し、金銀を奪い取り、
国松君を捨てて逃げ去ったのだという。

新東鑑

大阪落城後の大野治房について



木村重成の首実検

2022年03月11日 16:33

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/11(金) 11:22:45.21 ID:syA2p2iq
大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いの後、大御所(徳川家康)の元に井伊直孝より、
大阪方の木村長門守(重成)、山口左馬介、内藤新十郎等の首がもたらされ献上された。
大御所は移動中であったが、平岡の一里ほど前にて御駕籠を止められ、それらの首を上覧された。

この時、木村重成の首からは甚だ香が薫じており、大御所の仰せに
「若輩なる長門守がかかる行跡、稀代の勇士、不憫の次第である。」
と宣われた。

記(難波戦記)に、この時大御所の近臣達は木村のことを評し、
「長門守は所労(病気)であったとの聞こえがあるが。今日も死を決意していなかったのだろうか、
月代を剃っていない」と、口々に申したのを、家康公は聞き召され

「月代には因るべからず。既に忍の緒を真結びにして、両端を切って捨てている。これは再びこの兜を
脱がないという心底であり、討死と極めていたという事である。汝らが申し分、無検議である。」
と仰せられたという。

或る本に、木村は討死の前日風呂に入り髪を洗い、頭に伽羅を留め、江口の曲舞なる、紅花の春の朝と謳い、
余念なく小鼓を打ったが、今日大御所は首実検をなされ涙を流され

「この若者は討死を決意し、髪に香を留めながら、月代を剃らなかったのだ。」
(此若者討死を極め、髪に香を留め乍ら、月代を剃らざりし)

と仰せに成られた。この時、重成の髪を梳き香を焼いた女は、江戸に於いて木原意運という外科医の伯母で
あり、常にこの事を語っていたという。

或る記に、長門守木村重成の墓は、河内国若江郡西郡村に有り、山口重政の墓と隣り合っているという。
木村の父は常陸介、母は豊臣秀頼公の乳母であった。
重成、時に二十五歳であったという。

新東鑑

木村重成の首実検について



若者、不心得なり。鑓にて突けよ。

2022年03月09日 16:56

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/08(火) 23:15:03.98 ID:IBiCeP5d
ある説に、大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いにおいて木村重成は多く疵を被り、
太刀を杖について、腰掛けて休息していたところに、井伊家家臣である安藤長三郎(重勝・この時十七歳))が
駆け来た。
彼は木村が疲れている様子を見て、持っていた鑓をからりと投げ捨て、太刀を抜いて迫ろうとした。
この時、木村が申した

「若者、不心得なり。鑓にて突けよ。」

そう言った所、安藤はすかさず、鑓を持って懸かった所、木村は少しも動ぜずして討たれたという。
(或る本に、首の取りようは、先ず鑓を以て右の脇壺を突き、次に刀を以て脇の下を突いて、俯せ
引き倒すものであるという)

新東鑑

木村重成の最後について



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/08(火) 23:51:48.72 ID:JiUCPh2t
秀頼の乳母兄弟だから木村重成このときで23前後か、若者と言ってる人も若いよね

首数の多少にこだわりて武功を評するは

2022年02月03日 19:20

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/03(木) 18:32:58.06 ID:mKbF+iVF
朝野雑載より
八王子の城を、秀吉公よりせめさせたまうに、攻め手は前田利家、長尾景勝なり。
落城して前田によりうちとりし首数三千、長尾はわずかに八百五十到来せしゆえ、太閤の御前にありし人々不審に思い
「景勝は承り及びたる手柄者なれども、首数前田より甚だ劣れり。前田が武功優れたる」よし申しければ
太閤きこしめして「首数の多少にこだわりて武功を評するは、各々が武道不案内の故ならんか。
景勝は士の首ばかり差し越したると見えたり。前田が三千よりは結局勝れるほどにおぼゆるぞ」とのたまいしとなり。

貝原益軒はいい話で書いたつもりなんだろうけどこっちへ



「朝野雑載」より尾藤知宣の話

2022年01月28日 17:47

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/27(木) 18:54:46.56 ID:Gg747KB6
朝野雑載」より尾藤知宣の話

秀吉公お取り立てで讃州を領していたが根白口で島津義弘を討ち取らなかったため改易となり、天下御構いとされたため秀吉に与しない小田原北条家に仕えた。
一方、柴田勝家の猶子である佐久間久右衛門安次(安政)、同源六郎実政(勝之)の兄弟も賤ヶ岳の戦いで兄の盛政が敗北し処刑されたのちは
遺恨を晴らそうと紀州の粉川(粉河)寺法師と語らい河内や南河内長野で秀吉に楯突きたびたび手強い合戦をしたものの敗れこれまた小田原に入り氏政に仕えた。
小田原落城後、金沢称名寺(金沢八景に称名晩鐘が取られている)に隠れていたところを秀吉公きこし召され
「伯父勝家が讐と思い、我らに数年楯突くといえども叶わず。
小田原へかけ入り、なおも遺恨をはらさんとせし、その志まことに大丈夫なり」
とてかの寺より召され、
「もはや四海はみな我らの手に入りたれば向後心をひるがえして降参いたし、秀吉を父と思え」
とて、兄久右衛門に一万五千石、弟源六に一万石くだされ、蒲生氏郷の与力につけらる。
尾藤「御敵柴田が一門だに御赦免あり。まして秀吉小身の頃より旧功ある我ならば御赦免うたがいなし」
と思い、剃髪染衣の姿で秀吉公が小田原から奥州へ出向く御道筋に罷りいで畠中に平伏した。
秀吉公「あれに見えたる大坊主は何者ぞ?」とお尋ねあり。
あらかじめ尾藤と打合せていた御駕籠廻り衆「先年ご改易なされし尾藤左衛門佐と見え候。
小田原にまかりありしが、かようの姿にまかりいで、お馴染みに甘え、お目通りにまかりいで候かと」
秀吉公、御気色かわり「佐久間兄弟が小田原にこもりたるは義理の至極なり。尾藤めは大罪人なり。
その謂れはまことに赦免を願わば洛外にもかくれ居て、この度小田原発向の先手へ加わり、陰の奉公をしてこそ尤もなれ。
氏政に奉公して我に弓を取り、落城以後かようの仕方、言語道断憎き次第なり」
と言って、御歩行衆に引っ張ってこさせ、備前兼光の御腰物にて、御手打ちに御成敗なり。

尾藤知宣が秀吉の前に現れ赦免を願った理由に、柴田の縁者の佐久間兄弟が赦されたから、というのもあったことになってる



願わくばこの旨を台聴に達し

2022年01月21日 17:03

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/21(金) 16:27:07.07 ID:i+8pRNNV
関白豊臣秀次が二十八歳の時、文禄四年七月十五日、高野山の青巌寺に於いて御切腹された。
これにより秀次の柄臣寵臣も所々にて自殺する中に、木村常陸介(重茲)は検使である松田勝右衛門に
向かって言った

「今度関白が聚楽を出て伏見に赴かれることに決まった時、私は秀次公に
『太閤(秀吉)に御対面さえあれば、至親の御仲ですから、讒間の事も明らかになるでしょう。
しかし対面もされず、中途に於いて僻地遠島に追放されるか、甲斐なく御身を白刃に割らせられるか、
必ずこの二つのどちらかになるでしょう。
ですので、太閤の使者を斬って棄て、諸大名の妻子で聚楽に在る者達を人質とし、罪が無いという事を
糺させ給えば、和となっても固く定まり、また戦となっても勇を遺します。であるのにどうして、
巣穴を離れて猟人の箭鏃にかかろうとなさるのですか!』

そう、二度にわたって諌め申し上げたが、秀次公は『私がどうして太閤に敵するだろうか』と、
終に御承引無かった。然れば、関白に於いて太閤に対する異心が全く無かった事を推測されるべし。
願わくばこの旨を台聴に達して頂ければ、その恩は泉下に至っても忘れない。」

このように言ったのを、松田は折を見て太閤に語った。太閤はその志を愍んで、妻子に米百石を
賜った。妻子たちは京都誓願寺の近所に居住していた。

志士清談



最初に片桐が申していた所

2022年01月20日 19:06

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/20(木) 15:07:22.97 ID:sapmit/h
一本に、(慶長十九年)十二月十六日、大阪冬の陣において大御所(家康)の下知として、備前島
菅沼織部正の寄せ口より、大銃百挺を揃え城中に打ち入れた。その他玉造口の寄場よりも、大阪城の
千畳敷を目当てに大銃を発した所、即ち淀殿の屋形の内三の間に女中多く集まって居たのだが、
そこに弾落ちて茶箪笥を打ち砕いた。女中各々肝を消し、淀殿の御居間も震え動いた。

淀殿は流石に女性であったので、その砌より御心弱くなられ、御和談の為なら江戸にも御下向あるべしと
仰せに成られたため、これを織田有楽、大野修理(治長)承り、秀頼公に段々と諌めたのであるが、
御承引無かった。この上は出頭の近臣に諫言致させるのが然るべしと、その人選をしたが、渡辺内蔵助(糺)は、
去る鴨野合戦以来不首尾であり、また薄田隼人正は日頃の広言に似合わぬと、城中の沙汰悪しきにより、
木村長門守(重成)宜しかるべしと、この趣を申したが、重成は承諾しなかった。

「今、各々の宣う所は、最初に片桐(且元)が申していた所です。只今に至って左様の儀、
この重成には申し上げることは出来ません。各々両所が股肱の臣として、左様に惑われる事に、
御運の末を嘆き入り奉る。」

との旨を述べると、両人も汗顔赤面して、重ねての言葉もなかった。

その後淀殿より色々仰せ進められたため、ようやく秀頼公も、御和談の評議を行ったという。

新東鑑



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/20(木) 18:43:36.01 ID:M79NcYgQ
女に口出しさせたのと、大野の無能がな・・

上様日和

2022年01月19日 16:47

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/19(水) 15:09:16.75 ID:uKh5wzsJ
小田原の役の折、九鬼大隅守嘉隆は艟艨(軍船)である日本丸を乗り廻し、豆州下田の城を抜いて
それより小田原に来たりて、海辺の通路を断った。それまで小田原城周辺の巡見は成り難かったのだが、
これより豊臣秀吉もいよいよ北条を呑んで。小田原城を巡見し嘉隆の船に乗った。

この舟の棹郎(船頭)に、十兵衛と云って長大壮力、見るも驚く程の者があった。
秀吉は彼に

「そこの男、我を背負って船に乗せよ。船内は歩きづらい。」

と、十兵衛の肩に手をかけると、十兵衛はこれを背負って歩み、労を助けた。
「嬰児になったような心地がするぞ!」
秀吉は大いに笑われ、十兵衛は金銭を賜った。

小田原沖は本来荒海で東風が強く、巨波山の如しであるのだが、この時の五、六十日の間は
風は穏やかで波も静かであった。これより後、この時の天候を『上様日和』と言い伝えたという。

志士清談



970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/19(水) 16:25:39.18 ID:DfHJPi8E
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11325.html
上様日和は常山紀談の話が前に出てたけど志士清談のほうが詳しいな

六家老はこの様子を見て

2022年01月16日 16:45

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:09:55.05 ID:0r6Ad8VC
豊臣秀吉は島津家の不逞不義を怒り、島津征伐を行った。島津修理太夫義久は敗れて降伏を請い、秀吉は
これを許した。

義久並びに島津家の六家老は皆剃髪し、寸刀も帯びずに来謁した。秀吉は諸大名を左右に列し、自身は
中正に床几を置いて腰を掛けて謁を受けた。彼はこのように声をかけた

「天子を軽侮するの罪、自己に驕り恣なるの咎、氏族を夷滅せんと欲すれども、刑戮を降伏に加えるに
忍びない。故にこれを宥す上は、今より旧悪を棄て本領を安堵する。その詞の印に両刀を与えるべし。」

と。自身が帯びていた長刀短刀を外し、刀の柄の方を義久に取らせた。六家老はこの様子を見て、
秀吉の大勇広量に驚嘆したという。

志士清談

秀吉が臣従してきた相手に自分の両刀を持たせたというのは、伊達政宗の話が有名ですが、
島津相手にも似たような話があったのですね。



960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:32:39.15 ID:6ofPMtyB
戦国無双2Empiresのイベントでもあったっけ
秀吉「義久は新参でまだ不案内じゃろ?わし直々に案内してやろうぞ
んじゃ、わしの刀を持ってついて参れ」
島津義久「味方について日の浅い私に刀を預け、丸腰で、私に背を向けるとは…
斬れるならば斬れということか、全面的に信用しているということか、いずれにせよ、秀吉の将器…大きい」
(政宗も名前を変えただけのイベントあり)

薩摩川内市の泰平寺公園の島津義久像が秀吉に降伏している場面なのは少しかわいそうではある

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:55:29.66 ID:z0WZzppy
ドリフターズのせいで空気読まずに襲いかかる島津を想像してしまうw

御辺は多勢にして本座の士であり

2022年01月09日 19:23

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/09(日) 17:47:45.92 ID:lggOd2q5
或る記に、大阪冬の陣、博労淵の戦いで薄田隼人正(兼相)は博労淵を乗っ取られたことに対し、
その憤慨甚だしく、殊に大阪城中の列将が大いに嘲った事で、彼は毛利豊前守(勝永)に向かって言った

「今夜、蜂須賀安房守の陣を打ち破る。そのため足下に後陣を頼みたい。」

これに豊前守曰く
「私は新参の士であり、その勢も三百ばかりですから、先陣するのが当然です。御辺は多勢にして
本座の士であり、これは後軍を成す所以であります。にもかかわらず私がどうして後陣に
あらねばならないのか。」

と、承引しなかった事で、薄田の血気の勇も衰え、其の事を黙止したという。

新東鑑

薄田隼人正のかっこ悪いお話



渡辺が 憂名を流す鴫野川

2022年01月05日 18:23

渡辺糺   
261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/05(水) 16:03:04.54 ID:NKvNGPde
記に、豊臣秀頼の家臣である渡辺内蔵助(糺)は器量世に勝れ、力人に越えていたため、
今日の合戦(大阪冬の陣・鴫野の戦い)にも棟梁の臣と選ばれた。

彼は兵法の達人であり、人を人とも思わず、日頃から広言を吐いており、今日の合戦にも
真っ先に進んだのであるが、幕府方の堀尾山城守(忠晴)らの軍兵がこれに直に懸かって、
前後に当たり左右に激しける勇力に払われて、足を立てることも出来ず追い立てられた。

持たせておいた馬印も一番に逃げ入ったため、人々は皆、渡辺を悪しきと思ったのであろう、
一首の狂歌が書かれ、内蔵助の屋敷の門の前に押し立てられた

『渡辺が 憂名を流す鴫野川 敵に逢うては目も内蔵助』

敵も味方も、これを聞き伝えて物笑いになったという。

新東鑑



262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/05(水) 16:43:35.31 ID:FGjiJTPV
新東鑑の凡例を読むと「記とあるは、難波戦記をいふ。」
と書かれていて
実際「増補難波戦記」にも
渡辺内蔵助糺は器量世に勝(すぐ)れ力人に卓絶たれば今日の合戦にも〜」
とほぼ同じ内容の記事があるな

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/05(水) 17:27:01.25 ID:/YWcSCEU
器量がいいのに人を人とも思わない態度を取ってるのか

怨みを恩にて報ず

2021年12月29日 16:04

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/29(水) 12:17:45.64 ID:RkB427sL
或る記に、博労淵は大阪冬の陣において、大阪方第一の要害の地であった故に、豊臣家はこれを
薄田隼人正(兼相)に守らせていたのだが、一戦にも及ばず陥落し、その上頼み切った平子(正貞)父子を
討たせたのは、薄田の不覚より生じたことであった。さらにこの博労淵攻めのあった夜に彼は
陣所に在らず、そのため『これは関東へ内通したのだろう。』と秀頼公に訴える者もあった。
これによって秀頼は大野治長を召され、糾明の上薄田を誅殺するよう以ての外に命じた。

大野は仰せを奉り御前を立ったものの、薄田は大剛の勇士であり、さらに気早き者であるので
卒爾の振る舞いをすべきではないと、直ぐに織田有楽の元へ立ち寄り、この旨を相談した。
有楽はこのように申した。

「薄田が内通したとの事は、全くの虚説である。彼は去る頃、平野を焼き払う功成らず、またこの度の
不覚により、東国(幕府方)がこのような噂を流したのだ。
怨みを恩にて報ずという事がある。貴殿は御前を宜しきに執り成し、薄田の御免を願われるべきだ。」

大野も尤も同意し、「然る上は私一人で申し上げても御承引頂くことは計り難い。貴殿と諸共に御諫言
申すべし。」と、両人打連れ御前に出、有楽が理を尽くして弁護したことで、遂に御免あった。

その後、大野の陣所が出火した時、それを期に池田武蔵守、同左衛門督、森右近太夫等の軍兵が
侵入しようと進んできたのを。薄田が勇戦して防いだため、幕府方は攻め倦み引き取った。
これは全く薄田の働き故であったと云われる。

新東鑑



「沈惟敬、秀吉に毒を盛る」陰徳太平記バージョン

2021年12月21日 18:26

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/21(火) 16:29:18.69 ID:+zNGuFRY
沈惟敬、秀吉に毒を盛る」陰徳太平記バージョン
(この前のまとめ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
のコメント欄で沈惟敬が毒を持った話が陰徳太平記にも出てるとあったので)

そもそも太閤公、御不例の御病因を聞くに、去々年九月遊撃将軍・沈惟敬来朝して太閤に謁たてまつりける時、かれ懐中より丸薬取り出して服用す。
太閤公「それは何の薬や」と尋ねさせたまえば、「これは老人の若返る良薬にて候」と申す。
太閤公「老いて二度若くなる薬は日本にかえても求めまほしきものを、われに得させよ」とのべければ、すなわち奉りけり。
その座に輝元卿、利家卿、善乗坊(善祥坊、宮部継潤)など伺候したまいけるに、太閤公この人々にも賜りけれど、
利家卿、輝元卿は「かかる薬、いにしえよりありということを聞かず、怪し」と思い、服するようにて頓に懐中したまう。
善乗房は即呑まれけるゆえ、これも太閤公と同じ年に死去せられぬ。
遊撃将軍「秀吉公長生したまわばついには大明一統に征伐せらるべし。しからばわれ一身を捨て大明国中の人を救わば大忠なるべき」と思惟して
かく鴆毒を良薬と偽りてわが身も服し太閤公にも奉りけると聞こえしが。
かれが謀の中に陥されて、はかなく成りせたまゆこそくやしけれ。
たとい、いにしえよりかかる薬ありとも、讐敵といい、異朝の者といい、彼が奉りし薬を何の思案なく服用したまうべきや。
いわんや古往今来不老不死の薬の名のみありて実はそらごとなりということをば三歳の児も知るところなり。
秦皇の蓬莱を尋ね、漢武の仙掌の露を嘗めしは愚かなる例にはいわざるや。
かくまで浅智にございましては扶桑のみならず、朝鮮大明にいたって和を乞い、腰を折りての大謀争が寸心より出生せん。
これただ宿世の業因の果報する所のみ。



神子田正治、宮田光次について

2021年12月19日 15:31

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:39:09.35 ID:ANtCCoBN
山鹿素行武家事紀」から神子田正治宮田光次について

神子田半左衛門尉
肥前守が子なり。秀吉凡賤の時より勤仕して、度々軍功をあらわし、宮田・尾藤・戸田と四人の列、もっとも神子田を第一とす。
秀吉中国退治のために播州を賜わる。この時四人五千石を与えたまう。(四士、長浜に於いておのおの二百五十貫、黄母衣士なり)
この時、おのおの会談して
「大国を領せらるる上は、いずれにもまたそれぞれの城地、または分内広所を賜わりてこそ、年来の勇労をも慰むべきに、
わずか馬の飼料に五千石を得ることもっとも不快なり。これよりおのおの逃亡すべき」
と相催しけるに、神子田いいけるは
「いずれもが分別大いに違えり。中国征伐として、大国拝領にいずれもさせる益なしと、秀吉の志あるゆえにこの小知を賜わる。
それにあっては五千石は過分なり。いそぎ長浜より引っ越して以前のごとくいよいよ忠戦を抜くべし」
と諷諫して長浜を仔細なく引っ越すや、三木城攻めにおのおの相ともに力戦す。
三年の城攻めにつき、城をかまえ持ち口を定め、度々城兵と相戦い、賤ヶ岳の役に、神子田一方の将として相備う。
長久手の役ののち、五月朔日、秀吉師を濃州にかえしたまう。
小牧より付くべきの間、しんがりは二重堀の諸将これを勤むべしと命ぜられ、秀吉みずから青塚に馬を立ちたまい、黒田孝高(如水)、明石与四郎(左近)が兵を傍にそなえしめたまう。
二重堀の諸将、一番神子田半左衛門、二番日根野兄弟、三番木村常陸介・加藤作内、四番長谷川秀一、五番細川忠興なり。
小牧より北畠信雄、兵を出してしたがうべきとありしを、源君(家康)これをとどめたまう。
しかれども信雄の勢二十余人かけだして付きしたがう。
神子田・木村・日根野が兵、見崩(戦う前に崩れること)いたし敗北。細川忠興が兵士しんがりして、信雄が勢と相戦いて追い散らし引き取る。
この時、秀吉じかに青塚にいたまいて見物なり。
「去月長久手において三将討ち死に、今日細川忠興が働きによって長久手の色直しなり」とのたまい、
すなわち細川が兵士に感状ならびに熨斗付きの刀などを賜わる。
今日、神子田一番に敗軍いたし、敵も付かずに見崩、諸手之によりて騒動せしむ。その罪のがれがたしとあって、その夜改易せらる。
のち神子田、豊後に漂泊す。秀吉ついに殺害せしめたまうて、その頭を一条戻橋に獄門にかけ、自らその罪科を札に記さしめ立ちたまえりとなり。
(あるいは云う、神子田はじめ長久手において首級を得て帰る。秀吉大いに感じ、これを賞す。
神子田、その首を棄てて云う「予のごときは自らその首を得るに、公なんぞ叱らざるや。匹夫の功、あに賞するに足らんや」と。
二重堀退去の時、公、青塚に在りてこれを見る。近臣に示す。
「この神子田、抜群の勇戦あるべし。汝らこれを視るべし」と。
しかるに神子田、大いに敗る。公、もっともこれを羞(は)じてにくむ。
すなわち彼を呼びてその罪を糺(ただ)すに、神子田云う。
「我兵士を率いざる。故に敵を防ぐの士なし」と。
公、大いにこれを怒りて「汝、我に仕えしはじめ幾人を携えて来たるや?」と。
ついにこれを改易す、うんぬん)

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:47:31.63 ID:ANtCCoBN
宮田喜八郎
幼若より秀吉につかゆ。武勇絶倫、秀吉母衣の勇士一員たり。
秀吉長浜を領られしより、播州に移りたまう時に至るまで宮田・尾藤・神子田・戸田をこゆる勇功の士あらず。
三木城攻めに天正六年五月、宮田戦死。秀吉もっとも嘆惜す。

尾藤、神子田に比して戸田、宮田は記載に乏しい。

神子田については過去に五千石と秀吉への口答えの話も両方出ていたが、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1832.html
神子田半左衛門と五千石の加増・悪い話


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3315.html
神子田さんが改易された話逆バージョン


五千石についてはここでは秀吉に大望があるため城地を与えなかった、と以前の話とは違った解釈だった。
それにしても、尾藤知宣、戸田勝隆、神子田正治宮田光次を合わせて羽柴四天王と呼ぶらしいが、誰がはじめに言い出したんだろう



尾藤知宣、戸田勝隆について

2021年12月18日 15:48

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:34:40.99 ID:7+jAGShj
忠臣蔵で有名な兵法学者・山鹿素行武家事紀」から
尾藤知宣戸田勝隆について

尾藤左衛門佐
初名十二兵衛、尾藤源内(森可成家人、坂本の戦いで討死)の子。
尾州人、秀吉の旧臣たり(神子田、宮田、戸田、尾藤、人皆これを並べ称す)。
もっとも軍事に通ず。秀吉に従いて戦功度々。
越中佐々征伐の時、尾藤軍奉行をつとむ。
加賀越中の境、砺波山の道筋は砦多きゆえ、砺波山・羽生の宮の北の方のソワ道(険阻な道)をおのおの越ゆ。
この時、馬の履は皆はねすて、両方へ差し縄をつけ、馬取り両方へ引っ張り、馬の手綱をむすび前輪にかけ、馬の足をそろえ、これを滑らすべきよし下知し、
いずれもその通りにいたし、人馬あやまちなし。人もってこれを賞す。
同国外山(成政の居城)乱入の時、大河多く馬を泳がしむ。
この時、尾藤が下知によって人馬さらに水に溺れず。
(ぬかるみをはずし、馬の頸を川上の方へあげ、後輪にのりかかり、川下のあぶみを強く踏みて声をかくるなり)
はじめ秀吉・信雄不快の時、尾藤大垣城に至りて池田・稲葉らの諸将と軍事を議す。のち西国平均して讃岐国を賜わる。

島津征伐の時、大納言秀長に属し豊後路より日向にいたる。
この時、島津、高城より兵を出し、宮部善浄房(啓潤)が陣営に夜戦をなす。
秀長の陣営ら、これを援けんと議す。尾藤しいてこれを留めて、後巻(うしろづめ)延引す。
のちに秀吉この事を糾明あって、尾藤ついに闕国せらる。
天正十八年七月、小田原滅亡の後、秀吉自ら奥州にいたりたまう。
尾藤野州那須野に出でて謁す。
秀吉すなわち刑戮せしめたまう
(あるいはいう。秀吉駕籠をとどめして、乗馬を二、三遍のらせたまいて見物。その後、尾藤の刑戮を命ぜらる、うんぬん)。

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:40:10.22 ID:7+jAGShj
戸田民部少輔
初名三郎四郎、尾藤とともに秀吉の旧臣、もっとも度々の戦功あり。
四国平均の後、伊予国を賜わる。
その子、自らの刀にて、あやまちいたし死す。
折節、民部少輔、放鷹の出先にて聞き、
「己が刀にてあやまち死するほどの気質にては、役に立つべき器にあらず。見るに及ばず」と言いて、ただちに放鷹す。
その後、子なく、朝鮮征伐の中で民部病死す。



白餅と黒餅

2021年12月17日 18:29

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 18:26:41.74 ID:7+jAGShj
白餅と黒餅

秀吉は信長に抜擢され足軽を預かるようになると衣服の紋に「白餅」を用いはじめた。
信長がわけを聞くと「城持ち、になりたいためでございます」と答えたが
自分でさえまだ尾張一国なのに、と信長は不機嫌になった。
数日後、秀吉の紋は「黒餅」に変わっていた。
信長は「石(こく)持ち」という謎だな、と上機嫌になり秀吉にすぐ十石加増した。

歴史作家の澤田ふじ子氏によれば、江戸初期の「適斎随筆」に書かれている逸話だそうだが「適斎随筆」の詳細は不明

ついでにネットで検索したら

藤堂高虎が黒餅を旗印にしていたところ
仲の悪い黒田長政に「俺のとことかぶってややこしい!」
と言われたため
藤堂高虎「なら黒餅(石持ち)より白餅(城持ち)の方がいいから白餅に変えてやろう」
と白餅に変えたという、講談「出世の白餅」の餅屋ががっかりするような出典不明の話もあった。



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:37:36.93 ID:UUw8tWgt
白餅はわかるけど黒餅って何なんだ?
餅が黒かったらカビてるだろ

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:07:26.60 ID:yDRGO4iN
単純に、円形の事を同じ丸い形から餅と言い表しただけの話。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:57:51.50 ID:pn8mPHv+
白餅黒餅というのが赤福にあった。当時と同じかは知らん。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 23:09:07.02 ID:CFbom2Iz
白い餅は餅ではないと公孫龍があの世から

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 00:13:14.27 ID:ANtCCoBN
キングダム読者「趙の将軍かな?」

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 04:40:33.74 ID:U7XXEJRe
そもそも丸い紋であるところの餅紋を白抜きしたか黒塗りしたかの違いでしかないからな

何れの諸大名も、斯くの如く致している以上

2021年12月16日 16:44

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/15(水) 21:23:09.42 ID:vX+zcGAJ
慶長十九年(1614)十一月二十日、大阪冬の陣の最中、
この日大御所(徳川家康)は本多上野介正純を召され、大阪城中の織田有楽・並びに大野修理(治長)方は
内状を遣わすよう仰せ付けられた。

これは先月より大野壱岐守氏治(治純)を以て、御和談の事を仰せ入れられていたのだが、重ねて秀頼公が
合点あるようにとの上意によって、後藤庄三郎を城中に遣わしたものの、大阪方では御承引の御請が
無かったため、このようにされたのである。
この時後藤庄三郎には御褒美として、銀子三十枚を給わった。

然るにその後、大阪方の落人を搦め捕ったが、かの者を尋問したところ大野修理亮の足軽であると申す故、
これを大野壱岐守に引き合わせたところ、壱岐守曰く「旧好の者にて、名は与助と申します。」との内容を
言上した。そのため速やかに縄を許し、壱岐守に預け於いて、城中の御使にこの者を仰せ付けたという。

(中略)

或る記に、二十三日、この日大野壱岐守に仰せ付けられ、先だって捕えた与助を御使の者とされた。
その御使によって、『兎角書状にては埒が明かない。口上にて申し入れたい事があるので、織田有楽
大野修理方より慥かな者を一人づつ差し越してほしい。』との本多上野介(正純)の考えを伝えたところ、
織田有楽より村田吉蔵、大野修理亮より米村権右衛門という者を差し越した。

本多上野介は彼等に立ち向かい、御和談についての事を口上にて申し渡した。その上で、今度の戦に際し、
秀頼公より諸大名に給わった御廻文と、それとともに織田有楽や大野修理などによって遣わされた
御請の留書を集め、かの両使に渡して言った

「何れの諸大名も、斯くの如く(豊臣家からの文書をそのまま幕府へ提出)致している以上、
秀頼公への忠節をいたす衆など一人も無い。諸大名の別心などを頼みに思召しても、詮無き事である。
この廻文をそちらでご覧になれるよう進呈する。」

と、残らず大阪城中へ遣わしたという。

新東鑑

大阪冬の陣で、秀頼が自分に味方するよう諸大名に送った廻文が、まとめて幕府から返されたというお話。



豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

2021年12月15日 16:49

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/15(水) 16:18:55.11 ID:9XAdt7ZK
西垣源五左衛門浄観筆記」から豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

慶長九年(1604年)八月十五日、京都全体総出で太閤秀吉の七回忌の豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から八月十八日)のメインイベントである風流踊りが行われた。
踊りには上京、下京の町組から一組約百人の集団がくりだし、組を表す大団扇を掲げ、それぞれ贅を凝らした衣装で着飾り、
豊国神社の社頭で踊り狂った後、禁裏へとくり込んだ。また桟敷も町のあちこちに設けられた。
午の刻、群衆はいずくからともなく現れた風流踊りの一団を見て思わず粛然となった。
一団の女たちは辻ヶ花(桃山時代に流行し姿を消した絞り染め、幻の染めと呼ばれる)や縫い絞り小袖をまとい、男たちは上布でつくった小紋帷子を着ていたが
踊りには鳴り物がつかず、みな死人のように蒼ざめた顔をしていた。
かれらは群衆に見守られながら、豊国神社の大石垣の中に、静かに消えていった。
「人々消えしあと、群衆口々にあれは(秀次)関白御家の人と騒げり。
みな消えし大石のほとりに、女人被衣(かつぎ)とせし金襴落ちたり。
この被衣のちに洛中の名刹に蔵され、名物裂となれり。」


浄観筆記」について
時代小説家、澤田ふじ子氏の「染織草紙」によれば(この話も同書の孫引き)、
江戸中期の宝暦年間に近江小室藩、京都屋敷の用人を勤めた西垣源五左衛門(法名を浄観)による、京都の市井の話を書き留めたもので、
近江小室藩が藩祖・小堀遠州の遺風を受けてか風流な人物を輩出したためか、源五左衛門の記す内容も芸事に関することが多いのだとか。
なお資料としては未紹介であるらしく(少なくとも1984年時点では)、「浄観筆記」で検索してもほとんどが澤田ふじこ氏関連でしか出ず、どこに所蔵されてるかはわからなかった。