226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
“実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。
しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。
一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、
「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
安くするべきである」
と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、
「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。
さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。
しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」
と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。
義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。
すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。
――『阿州将裔記』
227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
“実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。
しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。
一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、
「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
安くするべきである」
と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、
「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。
さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。
しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」
と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。
義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。
すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。
――『阿州将裔記』
227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?