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公方家又京都御退座の事

2020年06月02日 18:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 16:01:22.45 ID:tp5E/GjB
公方家又京都御退座の事

そのころ公方家(足利義輝)は、洛外の霊山に御城構え有るべしとして、今度天文二十一年(1552)十月十七日、
かの山に御普請初めがあった。細川晴元方の浪人である香西越後守元成等は先の三好長慶との和平を用いず、
また悉く蜂起して、同十月二十日、丹波国桑田郡へ打ち入って、細川氏綱方の内藤備前守と合戦し、内藤を
撃ち散らして勝利を得、その勢いで同十一月、丹波の篠口辺りを放火した。この時建仁寺の塔頭も炎上した。

そのような中、三好義賢(実休)がその主君である細川持隆を殺すという事件があり、それより都鄙では雑説が
しきりに起こり、三好長慶と言えどもまたこう言った心があれば、虎狼の野心を挟んで公方家も如何有らんかと、
諸人心安からず、公方家もまた御用心有って、貴賤皆危ぶみ暮れた。

翌天文二十二年の春、正月二十七日、三好長慶は上洛し、伊勢守貞孝と相談して営中洛中の政事を沙汰し、
京都は暫時静謐となったが、猶も人心は安からず、同三月、晴元方の浪人、一揆等が山城国の畑という場所で
蜂起したのを、長慶の執事である松永弾正久秀が馳せ向かって退散させた。

そうした中、三好長慶は摂州の芥川孫十郎が逆心したのを退治の為、同七月、京都を立って多勢で直に
芥川城に押し寄せ、城の向いと成る帯山に陣を取って向城を築き、遠攻めにせんと支度し日を送っていた
所に、この隙を見透かし、細川晴元が上洛して秘計をめぐらせ、様々に公方家に歎訴して長慶の事を讒言
した所、公方家も軽々しく御同意有って、晴元入道、江州の六角父子、その他の人数を催されれ、長慶を
誅伐有るべしとして、和睦は忽ち御改変あった。

かくして晴元入道も再度公方家の権を取って、縁者の六角父子その他所々の味方、譜代の輩、諸一揆を催し
京都に在る三好方の居宅などを一々に焼き払って悉く蜂起した。

この事が芥川へ注進されると、長慶は聞いて
「何ほどの事があろうか。しかし、先ず上洛して事の体を伺い見るべし」
と、芥川城には抑えの勢を差し置き、長慶は自身の人数、並びに河州の畠山高政、安見美作守等
都合二万余人を率いて、同八月朔日、芥川を引き払って直に上洛した。その威勢は辺りを払い、これに対して
中々一戦にも及び難く見えたため。公方家も晴元も早々に京都を開け、近江路へ御没落あり、朽木谷へ
入られた。

毎回のこのような軽々しき御事に、京童共も嘲りあった。この時、もし長慶が追尾して一戦に及んだなら
中々御滅亡疑い無い所であったが、長慶はいつもそういった沙汰に及ばなかった。
そして公方家に従わず京都に残っていた伊勢守貞孝などと洛中平安の政事をし、長慶はまた芥川に帰陣した。

それより公方家は朽木谷に居られたが、晴元や六角義賢の他に味方申す者も無く、次第に御衰微され、
この年の秋より永禄元年まで五年の間ここに御潜居あり、中々長慶を滅ぼされるべき御企ても思いつかぬまま
過ごされた。

續應仁後記

足利義輝二度目の京都からの没落について



103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 16:18:05.67 ID:1uSSZG/t
続応仁後記の時点ですでに三好実休之相は名前間違えられてるのか
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足利義材の脱出

2020年05月04日 18:41

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 22:03:19.95 ID:lGyj4K0H
(明応の政変によって)この年四月、前公方(足利義材)は、上原左衛門大夫(元秀)と云う者によって
大和筒井城で身柄を確保され、直ぐに細川政元に計らい、将軍職を解官あって、忝なくも前将軍
義稙(義材)公を、伯々下部紀伊守に預け置き奉り、獄舎を造って入れ置き参らせ、遁世者ただ一人を
配膳の役に侍らせた。そして男女ともにかの獄舎に出入りすることは堅く制禁したが、前将軍家の
伯母御前の比丘尼御所が、通賢寺におられ、ただこの御方だけは、番人の免許を得られ、折々に
獄中へ御見廻さて、御物語あられた。

ある時、配膳役の遁世者が密かに、前将軍へ申した
「君、いかにもして早速にこの御所を落ちさせ給い、何方にも御座を移し、御運を開かれて下さい。
もし御本意を遂げられたならば、某の子孫を必ず取り立てて下さい。某は御跡に残り留まって、
水火の責めに遭おうとも、御行方は申しません。」

このように年頃に申し上げると、前将軍家はこれを聞き召され
「ならば、その意に任すべし。汝が忠義のほど、生々世々に忘れるべからず。子孫に至りては
必ず取り立て召し仕わん」と御約束有あった。

その後、前将軍家はすぐに御伯母御前と同じ乗輿に召されて獄舎の中を忍び出、安々と遁れ落ちられ、
北国へ御下向あった。

さて、その御跡にかの遁世者は、この事を深く隠し、何事も無かったかのように御座の場所に毎日
御膳を捧げつつ、また一人で御物語を申し上げ、今も前将軍家がここに御座有るようにもてなし、人知れぬ
ようにしていた。これは昔、鎌倉における頼朝卿の御時、清水冠者(源)義高が囚われ、落ち行き難き
状況だったのを、乳母子の海野小太郎幸氏が計らった事に相似ている。(源頼朝が木曽義仲の子である源義高を
誅殺しようとしたのを、彼の妻で頼朝の娘であった大姫の頼みで、海野幸氏が助けた故事)

こうして、十日ばかり過ぎてこの事は隠れなく顕れた。政元よりこの遁世者を搦め捕り、様々に拷問し
公方の御行方を尋問したが、ついにこの者は落ちず、後には河原に引き出され頸を刎ね捨てられた。

その日、伯々下部紀伊守の父である豊前守が頓死した。これを世の人々は皆、「伯々下部が公方に
悪しくあたり申せし御罰である。」と言い合った。また、この遁世者の行動を褒めぬものも居なかった。

應仁後記

明応の政変で幽閉された足利義材の脱出について



鈎の陣と将軍足利義尚の死去

2020年05月01日 19:47

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/01(金) 14:55:22.59 ID:bp+Neoaz
文明一党(応仁の乱の終結)の後であっても、諸国の兵革は止まず、先の乱の余類が猶国々に散在して、
互いに押領をした。中でも近江国の住人、佐々木六角四郎高頼は京の近国に在りながらその後上洛すること
無く、公方の御下知に従わず、我意に任せて逆威を振るい、剰え山門の領地を妨げて山徒の訴訟頻りであり、
猶以て差し置き難く、先ず彼を御征伐あらんと、この時長享元年(1487)九月十二日、新将軍家(足利義尚)は
数多の勢を御供として、江州へ御進発有った。

その日は坂本に到着すると、ここに暫く御陣を召した。越前の守護、故朝倉氏景の家督である弾正左衛門孝景が
多勢を催して馳上がり味方に加わり奉ると、直ぐに六角高頼を攻めた。高頼も一家を尽して出向かって合戦に
及んだが、新将軍家は御武勇を励まされ、御供の人々我劣らじと攻め戦ったため、終に高頼は一戦に打ち負け、
己の居所である観音寺城を落ちて、山賊の望月、山中、和田という者を頼んで同国甲賀山の中に隠れ、行方
知れずとなった。

このようになっても、新将軍家はそのまま置かれなかった。昔、宝筐院殿(足利義詮)の御時、南方(南朝)の
敵徒御退治として、畠山入道道誓(国清)等、京鎌倉、凡そ天下の大軍を催され、大樹(義詮)自ら南方へ
御発進あり、敵は不日に退散して国中治まった。敵は少々山中に隠れ居たが、「この上は何ほどのことも
出来ないだろう。」と、早速に御帰陣あった。しかし和田楠の輩は、その頃の南帝を守護し、身を潜めて
吉野の奥、賀名生の山中に隠れ居て、大樹御帰座の御跡に、幾程もなく立ち返り、国人等同意して又元の如く
蜂起したため、大樹南方御発進の功は無く成ってしまった。

その後、鎌倉御所(鎌倉公方)の(足利)基氏朝臣は、この事への反省が有り、東国で新田の氏族の御退治として、
鎌倉を出馬し、武州入間川という所に数年の間陣を取って、毎日敵徒を捜されたため、幾程もなく新田の氏族は
悉く誅伐され、御敵皆尽き果てた後、徐々に鎌倉へと帰陣したため、それ以後関東では再乱の煩い無く、諸人
安堵の治を成した。

然れば今六角も、御退治このままにて御帰座あれば又元の如く立ち返って、譜代の家人、重恩の国人等、また
彼に従って蜂起反復するならば、御動座征伐の甲斐無く、今度の序に、六角高頼を初めとして残徒一々に
尋ね出し、御敵の根を絶ち葉を枯らして、後難無きように御誅伐有るべしと、新将軍家は御下知有った。

ではあったが、この甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶えて非常に攻め入り難い場所であり、短期間に捜し出す事は
難しかった。且つまた、六角の残徒は数多にして、高頼の旧領は広く、一類所々に隠れ居て、不日に
御退治は成り難く、段々にかの輩共を捜し出して御誅伐有るべしと、同十月四日、新将軍家は坂本より
湖上を御船に召されて安養寺へ御陣を替えられた。

(中略)

斯くて長陣の間、御徒然を慰められる為。かつ御心得の為にとして、折々に春秋伝と孝経の講談を御聴受あった。
新将軍家は、常に天下の乱を退治し、泰平の世になされんとの御志深ければ、一日片時も御身をあだに
差し置かれなかった。翌年秋九月、新将軍家は内大臣に拝任された。この時御名を「義煕」と改められた。

そのような中、長享三年(1489)の春の頃、不意に御不例の御事があった。最初はただ仮初の様子であったが、
次第に重くなられ、治療も尽き果て祈誓も験無く、同三月二十六日辰刻、鈎の里の御陣所にて、義煕公は終に
御逝去された。御父君東山殿、御母公大方殿の御嘆きは例えて言うことも出来ないほどであった。

この君は御年未だ二十五歳、器量、才芸、皆以て世に超えられ、殊更天下の武将として御行跡いみじき物で
あったのだが、それが世を去られた事で、「偏に現在の天下の兵乱は、終に治まること無く、扶桑一州(日本)は
長く戦国の世と成るだろう」と嘆かれ、貴賤上下押しなべて一方成らず泣き悲しんだ。

新将軍家の尊骸は御輿に納め奉り、御供の軍勢が打ち囲んで、同月晦日、御帰洛あった。直ぐに北山の等持院に
入れ奉り、同四月九日、この寺にて御葬儀あった。勧修寺大納言を初めとして、武家昵懇の堂上方、各々参向し
給いて貴賤の参詣群聚した。この日、義煕公の寵臣で、幕府の権柄を司った結城越後守政胤、同弟近江新介尚豊は
その夜中に逐電した。

應仁後記

鈎の陣と将軍足利義尚の死去について



右大将拝賀

2020年04月30日 17:52

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 20:25:12.64 ID:JuT1MqJg
文明十七年秋八月、新将軍(足利義尚)は右大将に任じられた。そして細川政元も、未だ弱冠ではあるが、
父祖代々の職を継いで管領と成り、右京太夫に補任された。

翌文明十八年秋七月二十九日、右大将拝賀の為に新将軍家は御参内あり、御供の人々は(応仁の)乱後の
微力の身なれども、我劣らじと綺羅を尽くし、辺りを払って供奉した。
洛中洛外の貴賤上下、これを見物し奉った。
東山殿(足利義政)も桟敷を構えて御覧有り、大変に嬉しく思われたという。

礼儀の故実は二階堂判官政行に仰せ付けられ、次第作法を定められた。
先ず小侍所は細川右馬頭政賢が先陣を承り、騎馬十人を進ませた。その次に、雲客二十余人、その次に重代の
武士の行進で、番長(奉公衆の番頭)が随身した。次に帯刀左右十二番、その次に将軍家が御車に召され
参向あった。次に衛府官人、次に公卿二十人が御供した。菊亭大納言(今出川)公興卿が御簾の役、
柳原別当重光卿は御沓の役を勤められた。次に畠山政長の嫡子、御児丸尚順、佐々木治部少輔経秀(京極材宗)、

伊勢備中前司貞陸、富樫介政親、等が各々騎馬で、後陣は時の管領、細川右京太夫政元が、騎馬十騎を
従え、辺りを払って供奉した。

行列正しく、天気も更に快晴で。珍しいほどの壮観であった。

應仁後記

室町将軍は、征夷大将軍よりも右近衛大将の任官が重要視されていたと言われますが、
公武を挙げてそれを祝う様子がよくわかる記事かと。



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/30(木) 19:54:58.97 ID:SWuOrQ+n
>>131
義昭が結局なれなかったやつね>右近衛大将

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/01(金) 12:30:29.09 ID:dv9W74xS
大樹は主上への貢献がちと足りなかったておじゃる

文明元年、公方家の若君、今年五歳に成られ給うを、御家督に定められ

2020年04月24日 17:26

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 01:08:56.57 ID:6nyGY0u0
文明元年、公方家(足利将軍家)の若君(義尚)、今年五歳に成られ給うを、御家督に定められ、
花の御所に於いて諸大名の拝礼を受けられた。これは旧冬、今出川殿(足利義視)が当方を御退去あって、
山名方へ御成あり、例え御心私有らずと雖も、この時公方家に敵対したような形勢となり、これによって
花の御所にては、今更憚る所もなく、この若君を御家督に定められ、持て囃し奉った。
管領には細川勝元、当職として赤松次郎政則を始め、京極武田以下、大小名皆々当方に在り合わせる衆は、
若君へ御礼申し上げた。この時若君は、伊勢守貞宗の膝上に懐かれ給いて拝礼を受けられた。

さてまた、山名方にては今出川殿を公方に取り立て参らせて、一方の主君と仰ぎ、同月八日、
山名入道宗全を始めとして、畠山義就、斯波義廉、その他西陣に在る大小名皆々今出川殿へ、
御太刀御馬を献上し、これまた拝礼申し上げた。時勢は一変して、公方が東軍西軍の両所に御座有る故、
御兄弟(足利義政・義視)の国争いのような情勢と成った。

應仁廣記

応仁の乱での、足利将軍の分裂について。



【雑談】鞆幕府の事など

2020年04月15日 18:13

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 13:07:49.42 ID:jIv+KTSX
鞆幕府臣の槙島昭光なんか、義昭、秀吉、秀頼、細川忠興をわたり歩いてるくらいだか、象徴のような人がいれば誰でも良かったんじゃない。

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 18:25:34.16 ID:uIRW+Jo/
>>958
福山は以前旅行で行ったことあるけど、こんな所に幕府があったのかと俄かには信じられなかったわ
古河や堀越みたいにただ単に(元?)将軍や一族の御座所があっただけっていう感じかな

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 20:12:05.94 ID:7LJ4emYp
>>986
短期間で終わったところってどこでもそんなもんだろ
藤原京に長岡京、神戸の福原京に吉野の南朝
京だって、内裏はともかく室町幕府の跡地なんて何も無い

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 20:24:00.73 ID:EkEf6t4K
>>987
そいえば、今、室町殿の発掘調査中で、結構面白い記事が出ているよ
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/215601
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kyoto/20200410/2010006378.html

埋め戻すのもいいけど、庭とか復活させてくれたてもいいなぁ

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 20:56:48.86 ID:uIRW+Jo/
昔、バラエティか何かの番組で足利将軍家の子孫の爺さんがおって、顔パスで無料で
金閣に入れるんやでって自慢してたの覚えてるわ、文化財で所持者子孫ならばタダとか粋な心意気だ

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 21:38:40.48 ID:mR8Aoc+2
有馬家も有馬記念に招待されてたよ
孫の代になってご遠慮くださいになったけど

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 21:43:25.42 ID:gtEs0gk7
一方ブラタモリでは、内藤氏の末裔が敷地へ入る際に自動改札みたいなゲートで止められていたっけw

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 22:07:53.29 ID:wKITc2tn
鞆は一度遊びに行ってみたい街だなぁ

江戸時代の整備で戦国遺構はあまりないのかもしれんけど

飛石を置くように成った始まり

2019年08月20日 16:46

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 11:49:16.51 ID:F3+wKcVZ
露地に飛石を置くように成った始まりについては、東山殿(足利義政)の御時、洛外の千本に
道貞という侘数寄の者があり、有名であった。そこで東山殿も関心を持たれて、鷹狩の帰りに
道貞の庵をお訪ねに成った。この時、狩りの帰りであり足元は草鞋であったので、汚れ無いよう
同朋衆に雑紙を敷かせた。東山殿が帰った後、道貞は東山殿のお通りになった跡を写して。その
場所に石を置いたという。

また、道貞の露地に植えてあった桂の木は、その後道貞桂と名付けられたと言われる。

(長闇堂記)



尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい

2019年07月04日 15:42

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?

数寄がいつ始まったのかは知らず

2019年06月27日 16:43

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/27(木) 00:56:32.32 ID:sHh9FB6b
数寄(茶の湯)がいつ始まったのかは知らず、道を知る人々に尋ねても、定かではありませんが、
おおよそ東山殿より起こったと考えられます。東山殿というのは慈照院殿の事で、将軍の時は
足利義政公と申し上げました。

将軍の位を子に譲られ、東山に隠居されて、長年お慰みに茶の湯を楽しまれたとのことです。
珠光(茶の湯の祖とされる)もこの頃の人であるそうです。これは文明年間(1469~87)にあたります。
一休和尚や東野州(東常縁)など、この頃には多くの名人が世に出た時代と言われます。

東山殿は道具を好まれ、天下の名物が多く集まったといいます。つくもがみという茄子茶入も、この方の
御物でした。掛物も多く所持され、七百幅あったと伝えられています。能阿弥、芸阿弥、相阿弥という
三人の同朋衆が書いた掛物の外題(掛物を巻いた外側にある筆者や画題の書付)が今も残っています。
三幅一対、五幅一対に大小があるので、天井の廻り縁の下に溝を通して、折釘が左右に動くように仕込み、
大小の画幅を掛けられるようにされたそうです。

珠光は南都(奈良)の人で、眉間寺(佐保山にあったとされる東大寺末寺)あたりに屋敷があったと
言われますが、現在その場所を定かに知る人はいません。

(長闇堂記)

茶の湯の始まりについての長闇堂記の記述。足利義政から始まったという理解が有ったのですね。



義冬を義賢が介抱したのは、

2019年06月24日 14:47

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 22:57:31.83 ID:wQi0OLzi
  義冬(足利義維)に付下侍之覚。

  富永豊後守據宗。           和州高市住人。(兵部少輔父也。)
  結城但馬守重正。           駿州志多住人。
  小寺新右衛門。            阿州松原住人。
  荒川民部少輔珍国。          三州八名住人。(弥三郎父也。)
  森小平太時常。            越前長坂住人。
  村井権内。              関東者。
  天代十郎左衛門。           武州者。
  浅田将監延房。            摂州浅田住人。
  乾鵜之助定直。(後号太郎右衛門。)  河州谷江住人。
  西山源八。              讃州志渡住人。
    今の志渡の玄雪という者はこの源八の孫である。
  堀喜左衛門景盛。           江州之住人。
真淵伊豆守忠元。           但州出石住人。
    親は出石刑部という者である。
  安井源右衛門。            中国者。
  三江兵庫。              播州野口住人。
  湯浅次太夫兼綱。(小次郎父也。)   阿州長山住人。
    
    侍分以上15人。
    都合360人が付き下ったということである。

  以上の侍どもは義冬に仕え忠義は浅からぬものであったが、牢人した事故、扶持すること叶わず、
  三江・富永・結城・乾・荒川・湯浅、以上の6人が残り、その他は暇を遣わしたのである。


一、義賢(三好実休)は持隆(細川持隆)を討ち取って以後、三好民部入道を使いにして義冬へ申す
  には、「徳雲院殿(持隆)は御身を失わせ給うとしても、義冬の御事は別儀もございませんので、
  御領地はまったく相違ありません。只今までのように当地におられますよう」との由を申し越す。

  「徳雲院殿なき以上は、どこへでも立ち退く」との由を義冬は仰せなさるも、民部入道が達て制
  し申すことにより、それならば重ねて御返事なさると宣った。

  持隆の失せた後に、清雲院殿(養父・足利義稙の正室。本書では義維の生母)は勝瑞に居合わせ
  なさる。「もしかすると、義冬はいずこへも立ち退きなさるかもしれない」と、義賢は清雲院殿
  を勝瑞に2,3年も留め置いて平島へ戻し申さぬ故、義冬はどうしようもなく留まりなさった。

  義冬を義賢が介抱したのは、その時の将軍義輝公はいかがなされたのか義冬を親切に思し召した
  ことにより、義賢も少しは敬ったのだということである。

  そんなところに天文23年(1554)3月、清雲院殿は病死なさる。一周忌の後、御下りなさ
  る旨を義冬が仰せられると、義賢ももっともと思い、大船3艘を調えて弘治元年(1555)4
  月10日に周防へ下りなさった。

  供した侍6人の内、乾定直は上方の様子を知るために河内へ戻しなさる。湯浅は阿波の者なので
  義賢に預け置き、残る4人は妻子までも供をした。大内介(大内氏)は殊の外もてなし、小原と
  いう所に居所を構えて義冬を居住させ置いて、大切に致したので永禄6年(1563)の秋まで
  周防に居住した。

――『阿州将裔記』



今度織田事、依難遁天命、令自滅候

2019年06月16日 17:23

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:45:44.25 ID:kYm8Gowg
足利義昭島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』



【雑談】足利義輝謀殺について

2019年06月06日 15:45

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 10:59:20.07 ID:d8YutnuM
>>112
義輝殺しって本当は義輝を操ってた側近を誅殺しようと引き渡しを要求したのに義輝が庇って要求を突っぱねたので攻め落とされたものらしいな

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 13:38:29.79 ID:ARU3QTOf
君側の奸を除くって、一番アレな挙兵理由じゃないですかー

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:27:08.64 ID:ktSs7bxg
永楽帝「君側の奸を除くために挙兵したというのに、
建文帝が自殺されてしまうとは、なんということだ」

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:34:44.85 ID:4tF7vR8z
>>117
安禄山「楊国忠を排除するための義兵だお」

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:43:41.92 ID:ktSs7bxg
今昔物語集巻10第7話 唐玄宗后楊貴妃依皇寵被殺語 だと
安禄山という「心賢く、思慮深い」大臣が
玄宗皇帝が楊貴妃に溺れ、その兄の楊国忠に政治を任せてるのに愁えて
世を正すために宮殿に兵を率いて押し行ったら、玄宗皇帝が勘違いして逃げちゃった
ってことになってるからセーフ

足利義輝の陰謀

2019年06月04日 17:01

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:53:53.73 ID:cSFIfsi/
一、畠山右衛門督高政は前将軍の時から牢人して紀州広という所にいたが、将軍(足利義輝)より密かに免
  状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
  は年来の仇敵である故なり。

  高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
  下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。

  岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
  聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
  3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。

一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
  うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
  どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。

  義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
  あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。

――『阿州将裔記』

史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか



112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

定直を“乾内蔵允義直”となされ給う

2019年06月03日 18:15

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 18:06:07.99 ID:LHCbPT9u
義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:55:14.01 ID:yjPfJm9C
義昭さんは信長さんの言うこと聞いとけば良かった

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:03:19.65 ID:19lOBpdD
統治機構パクれた時点で用済みではあるからなぁ

義親は不運にして病気が差し出て

2019年05月27日 17:21

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/27(月) 15:25:22.10 ID:70HqE8/o
松永弾正(久秀)の従弟に松永喜内という若者がいた。以前は大和の宇多にいたのだが、その頃は牢人
していたのを、弾正の計らいで義親(足利義栄)に付け置いた。

しかしながら、殊の外に不行儀者で義親の命にも従わないため、義親は喜内を手討ちになさった。

松永はこれを聞いて憤りを含むといえども、義親の道理至極であるためにどうしようもなく、上目には
変わることはなかったが、心中に遺恨を差し挟んで義親と松永は不快のようになった。

そんなところで義親は不運にして病気が差し出て、普門寺から阿波へ帰るとして撫養という所で永禄9
年(1566)10月8日に相果てられた。

義親の逝去は弾正が鴆毒を与えたためという沙汰がある。しかしながら事実ではあるまじきことである。

――『阿州将裔記』



平島公方系図

2019年05月26日 15:15

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 19:34:35.29 ID:hxMmZEG8
足利義冬より之系図

義冬(足利義維

尊氏公十代の京都の公方・義稙公の長男(11代義澄の子。義稙は養父)。平島の元祖なり。永正
6年(1509)、京都で生まれる。母は細川讃岐守成元(成之)の娘。天文3年(1534)、
都から阿波国へ下向して那東郡平島庄に居住す。天正元年(1573)10月8日、平島で卒去。
同所西光寺に葬る。年65歳。法名・中山。

義冬が都から阿波国へ下向した趣きは将軍・義稙公の御台を清雲院と申し、阿波国の前細川讃岐守
成元の息女で義冬の母なり。

ところがこの清雲院殿は、ふと狂乱のようになられることにより、義稙公と不和になり給う。それ
故に子息の義冬を少しも寵愛なさらず、あまつさえ公家から御台を迎えなさり、清雲院殿も義冬も
嘆かわしい有様でおられた。

それにより新御台は義冬のことを様々讒言しなさる故、父子の間はいよいよ不和になり給うにつき、
義稙は世を(家督を)義高か義晴に御譲りなさるとの御内存であった。これは皆、新御台に近き一
門である故なり。

これによって清雲院殿と義冬はともに天文3年に四国へと志して下りなさったが、まず淡路志筑の
浦にしばらく居住しなさったところを細川讃岐守から迎船を遣わし、義冬を阿波へ招き受けて平島
に居住させたのである。

義親(14代義栄)

義冬の長男なり。天文7年(1538)、阿波国平島で生まれる。母は周防国の大内介(大内義興)
の娘なり。永禄9年(1566)10月20日、阿波国撫養で卒去。同平島に葬る。年29歳。法
名・国山。内室は結城氏。

義助

義冬の次男なり。天文10年(1541)、平島で生まれる。母は右に同じ。義親が早世故、義助
を惣領に立て義冬の家を継ぐ。文禄元年(1592)7月2日、平島で卒去。同所に葬る。年52
歳。法名・宝山。

義任

義冬の三男なり。天文12年(1543)、平島で生まれる。母は右に同じ。文禄年中に卒去。萩
原光勝院明岳和尚の父なり。

義種

義助の息男。天正2年(1574)9月2日、平島で生まれる。母は周防国の大内介の一族、柳沢
主膳正の娘なり。

義次

義種の息男。平島又八郎と号す。慶長元年(1596)9月23日に平島で生まれる。母は水無瀬
中納言の娘なり。

義景

義次の嫡子なり。元和2年(1616)、平島で生まれる。平島又次郎と号す。

――『阿州将裔記』



大森伝七郎、切死の事

2019年05月09日 17:04

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 12:40:57.59 ID:fz55kaSk
大森伝七郎、切死の事

西岡東村に、公方(足利将軍家)数代の家の子で、大森伝七郎という侍が有った。
御所(足利義輝)すでに御滅亡(永禄の変)の後、隠れる場所もなかったが、かつて抱え置き、
懇ろに待遇していた者が西岡に在ったため、彼のもとに暫く滞在したいと思い、密かにそこを尋ねた。

ところがこの者は、大森が来たことを三好長慶方に知らせた(この頃三好長慶は既に死去している。
三好家が長慶の死を秘匿していたためか)。そこで三好方より薄武左衛門磯上甚六郎の両名に、
上下十人の頑強な足軽を添えて、討ち手として向かわされた。

薄武左衛門磯上甚六郎は到着すると、かの者の家の中に入り、大森伝七郎に向かって声をかけた。
「ここに大森殿が居られると承り、迎えにこの両人が参り候。はやく御出なされよ!」

大森は感の鋭い人物であったので、これを聞くより早く覚悟を据えて、立ち向かって聞いた
「私をどこへ召されるというのか」
三好長慶が探しておられる。はやく出させられよ!」
「それがしは入道(長慶)の元へ参っても何の用もない。また言うべきこともない。よって
参る必要はない。」
「そなたはそう思っているかも知れないが、筑前守(長慶)には尋ねたいことが有るとの事である。
はやくはやく、出て参られよ!」

そう、両名が大森に近付こうとすると、「しからば、いざ参らん!」そう言うと同時に、2尺3寸の
打物(太刀)を引き抜くと、薄武左衛門の頸に押し当て、左側の肩先まで斬りぬいた。
磯上甚六郎はこれを見るや「やるまじ!」と抜き打ちに斬りかかったが、この時二階の竹垂木に箕笠が
下げ置かれており、これを斬りつけてしまい、「あっ」と思い太刀を引く間に、大森はすかさず磯上の
高股を両断し、磯上は戌亥(西北)を頭にして倒れた。

続く三好方の郎党たちは、これを見て「逃さじ!」と斬ってかかったが、そこは茅葺きの小さな家のため
働き自由に成らず、天井が低いため斬り損じ、大森に寄る者は斬られ入れ替わる中、六人が同じ枕に伏した。
そして大森伝七郎

「今はもはや、罪造りにお前たちを殺しても何の意味があるのか。」と、座敷へつと走り上がり、
腹を十文字に切って死んだ。見る人聴く者、「天晴、かかる剛強のつはものを殺してしまった。一騎当千とは
ああいう者の事を言うのに。」と、彼を惜しまぬものは居なかった。
三好長慶もこれを聴いて大いに驚き、思わず手を打って、暫く物も言わなかった。

(室町殿物語)



14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:16:57.26 ID:xv5IJncU
>>11
六人「もう少し早く気づいて(´;ω;`)」
まあ武士の意地というもんかなぁ
全員殺しても次の追っ手がきていつかはやられるだろうし

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:26:43.35 ID:sLXFenpt
いや義輝死んだし

阿波国にも公方家あり

2019年04月29日 16:44

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 06:53:07.30 ID:vwrP0kNg
公方の大智院殿(足利義視。足利義晴の誤りか)の頃、阿波国にも公方家あり。京と両公方の
ようであった。阿波の公方(足利義維か)が軍を発し、京の公方を攻めに上ることがあった。
打ち負けて阿波へ帰ったという。

老人(江村専斎)が少年の頃(1565年生まれ)は俗の諺に「阿波衆の上りたる様ならん」
と言って、近頃の事のように言っていたという。

――『老人雑話』



義昭公の御果報のほどこそ

2019年04月18日 16:17

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 07:15:51.40 ID:nuv0nMir
足利義昭公は「どうしてもこの信長を滅ぼさねば、公方の家は成り立ち難い」と思し召され、江州の
佐々木(六角)承禎、浅井備前守(長政)などと語らうと、彼らは即時に同心したため、「何時なりとも、
出陣に於いてはあらかじめ内意を聞かせる。」と申し下した。こうして両人は加勢を催し、昼夜暇なく
信長に対する敵対行動を行った。これに拠って義昭公は心強くなられ、いよいよ信長との一戦を決意した。

こうして義昭公は、御領分の人数ならびに京勢を加えて、四千騎ばかりにて都を立たせ給い、山田、
矢橋、志賀、唐崎、比良、小松、和邇、堅田などの漁船を奪い取り、数百艘にうち乗り、これにてすぐに
安土へと発向すると聞こえた。

この情報に信長は驚き、「忠が不忠になるとはこの事ではないか。しかし今日このごろの公方の御身で、
この信長を倒すなどというのは、まさに蟷螂の斧であり身の程を知らない。しかしそうは言っても、
佐々木、浅井が手を合わせるのなら、(比叡山の)山法師たちもこれに加わることにも成るだろう。
万が一公方に多勢が付いては大変である。ならばすぐに打ち立ち追い散らさん。」
そして三万余にて馳せ上り、公方勢を散々に蹴散らし、公方勢が接収した船共も悉く元通りに繋がせ、
義昭公も都へ移し、そこに警護を数多付けられた。

信長は帰陣してつらつら案ずるに「とかくこの君を都に置いていては、私の出世の妨げと成る。」と思われ、
堺に下して或る寺に追い籠め奉り、番を堅く付けて置かれた。義昭公の御果報のほどこそ、おもいやられて
あわれである。

(室町殿物語)



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:25:29.89 ID:hrCSpIgA
>忠が不忠になるとはこの事ではないか

将軍をナチュラルに家臣扱いしててくっそ笑うw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:41:45.66 ID:/+XOGeZR
公方謀反とか主上御謀反とか
謀反とはなんぞや

883 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/18(木) 11:44:02.74 ID:8GdWClx3
>>882
後鳥羽上皇「せやせや」

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:57:13.59 ID:LDmTFWvv
>>880
忠誠を尽くしてきたのに、将軍に裏切られたってことだと思うよ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 12:42:16.48 ID:QnIcR7fO
>>882
既存の秩序体制を乱す行為

日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し

2019年04月17日 17:26

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 17:03:58.26 ID:Yukg+d+g
織田信長は尾州より義兵を挙げ、近国を切り広げ、その余威を以て七道へ鉾を振るうに、その利を
得ないということ無く、日往月来、既に15,6ヶ国の太守と成った。されば江州安土と言う所に、
咸陽宮を凌ぐほどの城郭を拵えて、諸国の大名を引きつけて、朝暮にその出仕を請け、取り巻かれ
尊崇されるその様子は、ただ四海の権将に等しいものであった。(このあたり時系列が異なっている)

そのようであったので、この頃は公方を公方とも扱わず、自分の被官の会釈で取りなしており、義昭公も
日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し、怨をむすばん事を思し召しに成った。

ある時、信長は義昭公へ使札を遣わし、その中に
『義昭公は数年浪々ましましけるを、信長の力を以て京都に遷らせ給い、大敵の筑前義長(三好義継の事か)を
一戦の内に追い詰め、先祖代々の家督に備わり給う上は、位官に不足は無いはずです。であるのに、公卿との
交わりや、禁中の御祭り事などを、よくよく執り行われる事なく、どうして諸国の大名、小名を近づけ、
馬具、武具の類を所望され、蓄え置かれる事、更に心得がたい。今後有るまじきことです。』
そう書かれていた。

しかしながらそれから、甲州武田信玄と信長の関係が悪化し、既に甲信の兵が上洛するとの風聞があり、
信長は義昭公へ「両将の間を仲立ちされ、無事をお計りなさいますように」と望んだ。しかし公方も
御腹立ちの折節であったため少しも取り上げず。何と言う返事もしなかった。

(室町殿物語)