そしてほのかに笑った

2017年04月05日 21:37

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 19:26:50.38 ID:THk/5NjF
足利義政の弟である足利義視は、義政の後継者とされていたものの応仁の乱で義政と対立し、
乱後、美濃にて逼塞。後に鈎の陣で9代将軍義尚が没した後、息子義材と共に都へ戻ったが、
義政はその死の直前まで義視に対面を許さなかった。

義政の没後、その葬儀が等持院にて行われた際、義視は参列した高僧たちに嘆いた

「人の世において仲のいい兄弟といえば、私と東山殿(義政)であった。だが我々の間に様々な人が
介在し色々なことを言ったため、近年では相隔たる関係に成ってしまったのだ。」

これを聞いた高僧の一人が語った

「かつて義視様が美濃国におられた頃、京都五山に、美濃に住むある禅僧を、建仁寺と南禅寺の
住持に任ずるよう要請されたことがありました。

しかし五山の僧たちは、この禅僧が未だ住持に就任するために必要な修行を済ませていないと、
この要請を断ったのです。

ところが、これを知った東山殿がこう命ぜられたのです
『義視がせっかく要請してきたのだから、彼の面目が失われないよう、特別にこの禅僧を住持に
任ずるように。』

この命を五山あついに承服し、かの僧は住持と成ったのです。」

この事を初めて聞いた義視はうなずき、そしてほのかに笑ったという。

(蔭涼軒日録)



793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 22:19:38.62 ID:D+0ypimc
>>785
頼朝「やはり兄弟は仲良くしないとな」
信長「まことに」
家光「せやせや」
(´・ω・`)「弟が居たような…」

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 22:59:31.20 ID:5eYJ1gvP
山内経俊:頼朝の乳兄弟、文字通り頼朝に弓を引いたにも関わらず赦免
織田信興:長島一向一揆で一揆勢に殺されたため信長は報復に一揆勢皆殺し
保科正之:秀忠存命中は姿を隠していたにも関わらず、存在を知った家光に会津藩主に引き立てられる
みんな兄弟仲いいね
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永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

信長のきてはやぶるる京小袖

2016年11月11日 11:12

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/10(木) 23:19:34.25 ID:K23paop2
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。


信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり

信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)





此の寺の時の太鼓は磯の波

2016年09月01日 17:55

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/31(水) 22:33:15.10 ID:48wVr93/
 光源院(足利義輝)殿が京都四条の道場に陣をとっておられた時、
番の僧が夜九つの太鼓を寝ぼけて七つの時に打ってしまった。
 後で公方から御使いがあってその番の僧が呼ばれた。
きっと折檻に及ぶに違いないとぶるぶると参上すると
様子をお尋ねになられたので

「そうでございます。深く眠っていて、
目覚めると仰天してしまったためです。」

と、ありのままに申し上げると、思いのほかご機嫌が良く

此の寺の時の太鼓は磯の波 おきしたいにそうつといふなる
(この寺の時の太鼓は磯の波のようだ
押し寄せるので波打つというのだなあ)

と遊ばされ、僧には銭を与えられた。

(醒睡笑)




「隠れもない、熟柿臭いわ」

2016年07月22日 21:15

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 22:10:30.51 ID:uZgz+BuU
尊氏将軍五世の孫義政公の御時、洛中洛外で酒を禁じられた事があった。

万阿弥という同朋衆が仕えていたが、いかがして飲んだのだろうか、
面もどこも赤漆で塗ったようなありさまで御前に跪いた。
大樹は彼をご覧になられて、

「お前は酒を飲んだ顔だなあ」

と仰られると、万阿弥

「いや、あまりの寒さで参上するときに焚き火にあたったのでございます。」

と言い訳した。

「そうであるならここへ来い。かいでみよう。」

とのことから、是非なく参ると

「隠れもない、熟柿臭いわ」

と仰せられる。それに万阿弥

「そのような事もございましょう。柿の木の焚き火にあたっていましたので。」

(醒睡笑)



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 01:28:31.57 ID:+EHNhqgx
>>959
柿の果実酒ってあったのか

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 02:30:57.86 ID:eZAHWWpd
バニラユニコーン

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 10:44:01.25 ID:wfYA40BD
>>961
酔っぱの呼気に含まれるアセトアルデヒドは熟柿臭いのだ

娘一人に婿三人という事は以下の事である。

2016年04月07日 13:59

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/06(水) 23:05:16.50 ID:g8yCxKkV
 娘一人に婿三人という事は以下の事である。
昔ある富める人には娘がいた。
その娘があるとき舟遊びに出たのだが、
どうしたのであろうか娘は船端を踏み外して水に落ち入ってしまった。
父母は驚き悲しみ、高札を打ち立てた。

「この娘を救ったらは、必ず婿にしよう。」
とのことであった。

 占いをする者が来て、どの辺りに娘の姿があるかを教えた。

 また水泳の上手な者が一人来て、「私が取り上げよう」と言って、すぐに娘を抱き上げた。
しかし娘は息が絶えて無かった。
 その時医者が来て薬を与ると、娘は再び蘇った。
その後卜人が言うに
「私が初めに娘のあり所を言ったればこそ、取り上げられたのだ。私が婿になろう。」
また、水練の者が言うに
「私が抱き上げなかったら、どうやって蘇生できただろうか。私が婿になろう。」
また医師が言ったことには
「私が薬を与えなかったら。どうして再び寿を保てただろうか。私が婿になろう。」
と争ってしまった。所の地頭に伺っても決着が着かない。

 ついに都に上り、多賀豊後守(高忠)の義を受けると
「その様なことがあったのか。欲界に生を受けるものはおよそ三百六十種と云われる中で、人がこの中の長である。
婚合の法は形を交わることにある。この時では水練の者が娘に身を添えて肌に触れた。
これをもって婿にとるべきだ。」
との掟をだされた。

(醒睡笑)



青磁香炉『大千鳥、小千鳥』

2016年02月20日 12:54

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 00:35:10.96 ID:HpJTYx46
青磁香炉『大千鳥、小千鳥』

 昔東山殿が鴨川の千鳥を聞きに出られなさった時、
千本の道貞と申す者が蘭奢待を持って参って焚いている、
ということを聞きなされ公も名香をお焚きになられて、お取り替えなされたという。
古雅な事々である。
(本阿弥行状記)



春日局という女がいた

2015年11月24日 07:29

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/24(火) 00:38:23.21 ID:YOyn+TIR
慈照院殿(足利義政)の時代、春日局という女がいた。
彼女のために応仁の乱は起こり、天下は騒動した。

最近の春日局の号は、これを考えずに号したのか。

――『老人雑話』



曽我助興は只者ではない

2015年06月20日 15:21

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 00:26:47.36 ID:j0eYCWS1
慶長8年、徳川家康公に将軍宣下があった後、永井直勝に命じて、この新しい将軍家の書式法令等の
制定が命ぜられた。しかし当時、そのような故実に通じた人間は関東に居なかったため、当時の故実者である
細川玄旨法印(幽斎)に室町将軍家の儀式作法を質問した所、当時、有識者の間で評価の高かった
曽我又左衛門助興を推薦され、これを召し出すことに成った。
彼を中心に、徳川家の制法を元に改正され、御内書、御奉書の令式その他、将軍家の法令が定められた。

総じて神君が、甲州を手に入れられた時には武田家の法令を以って甲信駿に掟され、その後
関東に入られた時は北条の家法を用いられた故に、速やかな治平を成し遂げられた。
ただし、年貢のことだけは三河の旧例を用いられて、軽い収納のみ行っていた。
このことだけは古から代えなかったので、諸民もその御恩澤に浴して『この君万世』と謳ったのである。

ところで曽我助興について、彼はもともと室町将軍の牢客であった。そのような人物が新たに
幕府に召し抱えられたため、関東の諸士は彼を軟弱な京都の者と思って侮った。
ある時、土井利勝が座興に彼に聞いた。「あなたは有名な曾我氏の子孫ですが、曽我兄弟について、
実家に伝えられていることはどあるでしょうが、兄弟について世上に言われていることをどのように
考えていますか?」

曽我はこれに
「そうですね…、私は若輩者ですから、曽我兄弟が何をしたかなんて覚束きません。」

この答えを聞いた時、一座の人々は彼が只者ではないことを初めて悟り、感服したのである。

(明良洪範)

何故



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 13:10:57.03 ID:HPlK6aeZ
「仇討ちで高名な曾我兄弟の末裔でありながら、それを誇らないとはこやつ只者ではない…ッ!」
って事?

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 13:14:02.15 ID:HPlK6aeZ
あ、末裔じゃないや間違えた
「曾我兄弟の仇討ちで高名な曾我の一族」か

包丁藤四郎

2015年04月01日 18:41

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/31(火) 20:16:37.14 ID:oMe9X87S
包丁藤四郎

応仁の頃、多賀豊後守高忠は足利将軍家の料理を司る者で、鶴の調理の名人と聞こえた者であった。

ある時、とある人が鶴の腹の中に鉄の箸を密かに入れて、「これを料理せよ」と多賀に言った。
多賀は鶴の腹の中に鉄の箸が入っているのを察知したが、「心得たり」と、吉光の小刀を持って
その鶴を斬ると、腹中の鉄の箸も併せて切断した。

人々大いに驚き恐れて、これよりその小刀を『包丁藤四郎』と異名を付けた。

この刀はのち鳥飼宗慶という者が所持し、将軍徳川秀忠に献上された。

(刀剣談)



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/31(火) 20:39:47.59 ID:c7YGK3N3
細川幽斎と鯉で似たような話があったな

806 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/31(火) 21:38:16.90 ID:35Gh7+3T
>>805
でもあれだと悪い話…?
どっちかね?

昔、細川家記立ち読んだら、料理人が嫉妬から嫌がらせで魚に鉄串仕込んだ…ってなってた記憶があるけど。

足利義昭の追放

2015年02月27日 18:39

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 00:06:52.74 ID:KNEpf6x+
永禄12年(1569)の、三好三人衆による足利義昭襲撃(本圀寺の変)の後、織田信長は在洛して
勘解由小路に武館(二条城)を構え、ここに義昭が遷移して、治世6、7年に及んだ。

このように義昭と信長は互いに深く重く思い合っていたのだが、土岐一族の明智十兵衛尉光秀の
讒言によって、義昭・信長の間は不快となり、天下の人々は皆嘆いた。
義昭は京から宇治槇島に退くが、この時両者は和解するように思われたものの、
双方に虎口の讒言(人を陥れるための告げ口)が有り和解は成立せず、義昭は河内・紀州を流浪する
体となり、その姿は誰もが愁涙を催すばかりであった。
この両国の国人たちも、信長の武威を恐れて、義昭の御座所に駆けつける者もなかった。
そのため中国は遼遠の境(畿内と遠国との境)であったので、そこに暫く御座所を定めた。

この上は天下は信長一人の政道に、皆帰伏するように成った。然る上は太政大臣にも勅許有るべきとの
叡慮であったが、一天雲なうして雨三日を期ざる所、御思慮があって、高官は子孫に譲ってほしいとの
御内証にて、右大臣さえ辞し申し上げた事は、まさに跼天蹐地(高い天の下でからだを縮め、
厚い大地の上を抜き足で歩く:慎み恐れるの意)と言うべきだろう。これこそ聖人の教えである。

(永禄記)

永禄記の、足利義昭追放についての記事である。
両者不快の原因が光秀の讒言、となっているのが面白い。



477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 08:00:04.61 ID:/RtI4YtR
室町将軍の彷徨う感は異常
周りもなれてそう
天皇「まーた将軍さまよいだしちゃったよw」
こんな感じで

永禄の変

2015年02月05日 18:46

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/05(木) 16:11:12.70 ID:vXXKuKaA
古今の将軍家並びに管領、その他天下に権威を振るった人々の事、時代の移り変わりの有り様を、
ある草庵に蟄居する老人に対し、若輩である私が尋ねて、その答えの内容をあらましを筆に表した。

その言われる事によると、光源院殿(足利義輝)のご自害、同じくご舎弟鹿苑寺殿(足利周暠)、その他
諸侯が討ち死にした事件(永禄の変)のそもそもの事の起こりは、細川右京太夫晴元の被官であった
三好筑前守長慶が、この管領の権威を受けて五畿内に勢力をめぐらし、それを誇って累代主従の義を忘れ、
ついに右京兆に敵対し、当時晴元殿には、他にも股肱の臣、肩を並べる朋輩など居たが、これらを尽く
摂州江口において天文年中に尽く討ち果たした。これによって細川家は没落、言葉も無い有り様であった。

そして三好は甚だしく驕慢を極め、かつて萬松院殿(足利義晴)が朝倉氏を御相伴衆に加えた例を出して
御相伴衆の地位を望み、その後三好長慶は御相伴衆に進み、松永弾正少弼久秀も御供衆に進み、
重ねてほしいままの義であった。

彼らは忝なくも将軍の直参となり、猶以って将軍のために馳せ働くべきであるのに、返ってさらに公儀に対して
違背するばかりであった。そのような状況だったので、双方に遺恨も生まれると察せられ、もしもの時に、
謀反が起こる可能性も考えられた。そうなっては一大事であるからと、将軍家は御館の四方に深溝、高塁、
長関といった堅固な防御施設を造営しはじめた。

しかしながら三好一党は、御門扉以下、未だ工事が完成する前に、急ぎ御所を包囲することに議決し、
永禄八年五月十九日、清水参拝と号して早朝より人数を集め、公方様に訴訟があると申し触れ、その訴状を
捧げ、その内容を受け入れるよう申し請うた。その間に御溝に人数を入れていた。

公方様の母君である慶寿院殿は、訴訟が叶えば公方様の身は恙無いと考え、「如何様なりとも受け入れるように」と
泣きながらご意見を様々申し上げられた。そのご心中は察するにあまりあるもので、見る人聞く者、皆袖を
濡らしたのである。

訴訟受け入れの是非を伝える御使が館を出ると同時に、土居の四方より軍勢が侵入し即座に鉄砲を放ち、
殿中へと乱入しようとした。これを防ぐ諸侯は数百人あった。中でも進士美作守はこの訴訟の御使として、
様々に折衝したことを不覚であったと憤り、その場で自害した。
同朋衆である福阿弥は鎌鑓で相戦い、この鑓にかかるものは数十人あった。

御所様は一同に最後の盃を下し、細川宮内少輔は御前に控える女中衆の装束を着て立ち上がり舞を舞った。
その姿は優にして遅れたる色もなかった。

さて、それから御所様は御前に利剣を数多立て置き、これを度々取り替えながら敵を切り崩し、
その勢いに三好勢は恐怖して、半ばは向かってこようともしなかった。そこで義輝は刀を放り投げ、
敵の処卒に取らせるようにして、近づいてきた所を斬った。こうして重ねて御手にかかる者達も数名あった。

近習の内志あるほどの者達は御先に進んで尽く討ち死にした。残ったのは女房衆と、まだ幼い者達ばかりであった。
彼らが御一緒となって幾千万の軍兵と戦ったのは、かつて項羽がその十万の騎兵をわずか二十八騎にまで討ち
減らされても、漢軍百万余騎を駆け破り、大将三人の首を取って鉾に貫いたという話に類するものであっただろう。
こうして、足利義輝はその最後を遂げた。

ご舎弟鹿苑寺殿の元へは、三好方より平田和泉という者が差し向けられ、同刻、御生害された。
彼の御供衆は尽く逃げ去ったが、その中に日ごろ目を掛けられていた美濃家小四郎と言う者が、
彼は若年であったが、即座にこの平田を討った。その身卑賤であったが、名を後代に残す者であった。

御次男である一乗院殿は御生害には及ばず、三好、松永を粗略にしない書面を提出した。
(永禄記)

永禄記より、将軍義輝が暗殺された永禄の変の模様である。





足利義輝の母について

2015年01月18日 17:13

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 19:10:21.80 ID:A1D2OVqA
足利義輝の母について
「仕えている侍女たちは、ヨーロッパと何ら変わるところはない。
ただ荘重さのために、髪を引きずって後から取らせ、一パルモか二パルモの長さだけ、地上に靡かせている点が
異なるだけである。
私には公方様の母君は修道院の女子修道院長のように、他の家の者達は修道女の教団のように見えた。
というのは、その屋敷の静寂、節度、それに秩序が大いなるものであったからであり、とくに公方様の母君が
阿弥陀像の、大変美しく、珍しい装飾を施した礼拝堂を背にしており、その阿弥陀像は幼子イエスのように
彩色され、金の冠と光背を頭にした大変美しいものだったからである」

ただしフロイスが「幼子イエスのように」としているのは宣教師として言語道断ということで「少年のように」
に変えられたらしい。
新井白石も「キリスト教ではロザリオだの洗礼だのやるそうだが、数珠と潅頂の影響だろう」
とかキリスト教と仏教の類似を指摘してたなそういえば




将軍足利義輝側室、小侍従殿の最期

2015年01月17日 17:16

262 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:56:54.43 ID:uH5L2ZRf
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆や松永久秀による将軍・足利義輝の暗殺、
いわゆる「永禄の変」が起こる。三好勢は将軍義輝を殺すと、その刃は関係者に向かった

『三好殿はあらゆる物を焼きつくし、宮殿の一部たりとも残さないようにと命じた。
都における動乱と残虐行為は非情なもので、それを見たり聞いたりした人々に少なからず憐憫の情を催させた。
すなわち、公方様の家臣なり友人は、どこで見つかろうと直ちに殺され、その家財が没収されたからである。
さらに三好殿は、公方様に仕えていた人々が住んでいる郊外一里の所にあった二ヶ村を侵略し破壊するよう命じた。

(中略)

公方様の婦人は、実は正妻ではなかった(側室の進士晴舎娘・小侍従殿)。
だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であった
だけでなく、公方様から大いに愛されていたので、近日中には彼女にラィーニャ(奥方)の称号を与える
事は疑いないと思われていた。何故なら彼女は、既に呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように
人々から奉仕され敬われていたからである。
彼女はこの変による火災と混乱の中、変装して宮殿から逃れ得た。

謀反人たちは早速数多くの布告を掲げ、彼女を発見したものには多額の報酬を取らせ、彼女が身籠っており、
男児を出産すればいつしかその子は成長して自分たちの大敵となりえるので、是が非でも彼女を殺さねばならぬと
言っていた。

その報酬の約束が煽った貧欲の力、もしくは科された刑罰への極度の恐怖心は、いとも高貴で今は寄る辺ない
夫人に対して、当然抱かれるべき人間らしい感情や憐憫に勝ったらしく、彼女の居場所はたちまち暴君たちに
告げられた。彼らは彼女を、都の郊外の何処かで殺すように命じ、彼女を乗せる為のリテイラ(駕籠)を
彼女のところに遣わした。

この不当な命令を執行することになった人々は、彼女にこう言った
「御台様はもはや都にお留まりになる事、叶わなくなりました。よって別の所にお移り頂くため、この駕籠が
届けられた次第でございます。」

彼女は郊外の一寺院に籠っていた。そしてその知らせがもたらせるとただちに、三好殿と霜台(松永久秀)が
自分を殺すように命じたのだとはっきりと悟った。そこで彼女は紙と墨を求め、当時まだごく幼かった
自分の二人の娘に宛てて、非常に長文の書状をしたためた。それは後に、これを読んだ人々すべてを感動させ、
読み聞かされた者は誰しも皆涙を流した。ついで彼女はその書状を封じ、晴れ晴れとした顔つきで僧院を出、
仏僧たちに対して、自分がその僧院でいとも親切に迎えられたことや、三日間というもの、そこで客遇され
敬意を表せられたことに感謝した。

そこから、三好の使者たちは彼女を駕籠に乗せて、都から約半理隔たった東山、すなわち東の山にある
知恩院という阿弥陀の僧院の方向へ連れて行った。そして彼らが四条河原と呼ぶある川辺に来た時、
彼女は同行者たちに
「あなた方が私を殺すことに定めている場所はここなのですか?」
と尋ねた。彼らはそれを否定し、「安心されよ」と言った。そして彼女は知恩院に導かれると喜んだ、
というのは、彼女にとってそこで死出の準備をするのは非常に好都合だったからである。
内裏の親族で、甚だ高貴な僧侶であった同僧院の長老が彼女を出迎えると、彼女はその人に次のように語った、
それはそこに居合わせた人たちから、後で報じられた。

263 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:57:31.97 ID:uH5L2ZRf
「尊師はおそらく、今私を、このような有り様でご覧遊ばすとは、よもやお考えにならなかったでしょう。
ところで、この度の事は私の名誉にとってひどい仕打ちでありますが、公方様も宮殿もあのような惨めな結末と
なりましたからには、私一人この世に留まることは相応しくありません。さらにまた、私が公方様に
こうして早々とお伴出来ますことは良き巡り合わせと存じます。そして何にも増して、私に喜びをもたらし
お頼り出来るのは、まもなく阿弥陀の栄光のもとに公方様と再会できるという思いでございます。
そして私は身重でありますから、生きながらえる間に私がある重い罪を犯したことは疑いを容れません。
そのために私がこのような死を遂げることは、多分相応しいことだったのでございましょう。」

次いで彼女は自分のために葬儀を行ってくれるようにと僧侶に懇願して、袖から86クルザードの価値がある
金の延棒2本を取り出し、纏っていたマント(上衣)を添えて、布施として差し出した。

その仏僧は次のように答えた
「拙僧は修行者でありながら、御台のご様子、並びにご事情に接しますと落涙を禁じえません。
さりながら公方様は、先に述べられたように身罷り給い、そのお世継ぎも運命を共に遊ばしました。
御台の公方様に対する愛情はいとも深いものがあったからには、御台が公方様のお伴をお望み遊ばされるのは
いかにもご尤もと存じ上げます。御台のご葬儀とご供養の儀は、拙僧しかと相果たします。

御下賜のご布施は、拙僧の末寺の間に分け施し、その諸寺においても大いに心をこめて供養を相務めるでしょう。
これについて、ご安心遊ばされたい。」

ついで彼女は阿弥陀の名を十度唱え、その仏僧から、十念と称されている罪の完全な赦免を受けた。
それから彼女はもう一度阿弥陀の祭壇の前で合唱して祈った。そして彼女がある知人の墓を詣でようとして
寺院を出た時に、彼女の首を刎ねることになっていたナカジ・カンジョウという兵士が抜刀して彼女に
近づいた。彼女は時至ったことを認め、跪いて阿弥陀の名を呼んだ。そしてその兵士が来ると、公方の宮廷の
習わし通り、束ねないでたらしていた頭髪を、兵士は片手で高く持ち上げた。

ところが、彼が彼女の首を刎ねるつもりで与えた強い一撃は、彼女の顔を斜めに切りつけた、
小侍従殿と称されたこのプリンセゼ(奥方)は言った

「御身はこの勤めを果たすためにまいられたのに、いかにも無様でござろうぞ!」

そして第二の一撃で、兵士は彼女の首を切り落とした。

かくてその後の日本人たちは、彼女は身重であったから、その再二人を殺したことになると言っていた、
彼女が懐妊していた子供は生まれる前に殺されたのである。そしてその場に居合わせた人々の内、
この悲惨な情景に多くの涙を流さぬものは一人としていなかった。
ルイス・フロイス「日本史」)

将軍足利義輝の側室、小侍従殿の最期の模様である。



265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 01:43:31.56 ID:cQ0PWvRE
しかしフロイスの記述は臨場感溢れるものが多いな

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 02:26:54.33 ID:PzY251zO
小説家になれる才があるよ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 14:18:26.67 ID:mjMt0GNe
フロイスはヨーロッパの「上流階級婦人の処刑シーン」の定型をそのまま当てはめたのでは。
将軍を皇帝に、僧侶を牧師に、阿弥陀をキリストに、名前も欧風にしたら、そのままヨーロッパでも通じるんじゃないか。

その実態はこれら全て

2014年07月13日 18:50

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 20:14:14.74 ID:KXc9SQgL
姉川合戦、三方ヶ原合戦、長篠合戦の三大戦は、当家(徳川家)において最も険難危急のものであったが、
その実態はこれら全て、将軍足利義昭の策謀によって起こったものであった。
浅倉、武田といった大名たちを己の奸計を以って、また簒奪の志を成就せんとしたものである。

すべて、等持院将軍(足利尊氏)よりこのかた、室町将軍家は人の力を借りて功をなし、
その功成りてあと、また他人の力を借りてその功臣を除く事を以って、万古不易の良法として
国を建る習いであった。

室町将軍15代の間、この故知を用いらざる者はいなかった。そして終にはこの故知により、
国家を失ったのである。

(徳川実記)

徳川実記より、足利将軍家についての評論である。




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 21:03:49.05 ID:fkiG8AFP
将軍家に対して、「簒奪の志」とかどうなの…

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 21:11:12.05 ID:6rOuTHZo
現状のトップが過去の権力者下げはよくあること
言っても徳川実紀編纂はもう幕末ごろだった気がするけど

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 00:10:39.38 ID:imnKG5pK
足利将軍木像梟首事件の時は大騒ぎしたのに…

将軍・足利義尚の歌について

2014年07月02日 18:51

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/02(水) 12:26:43.79 ID:8AGAwg9Y
ある日、飛鳥井老翁(雅親)がこのように語られた。

「常徳院内大臣義尚公(将軍・足利義尚)は天性歌のお好きな方で、武芸の暇には和歌を心がけ、
その才能も年齢以上に大きなものでした。

高官昵近の公家が参った時は、仮初にも雑談などはせず、歌についての方法論のみを談じていたと
いうことです。その頃の歌の達者として有名だった某大納言は、始めは歌の形についてなど
心やすくご指南申し上げていましたが、御年二十歳を過ぎられてからは、かの卿はかえって、歌の
風情について義尚公にお尋ねになるほどでした。

このように義尚公はいみじき国主でありましたが、ただただ、ご年齢が壮年に満たず亡くなられた事は
口惜しいことだと、当時も皆口々に言っていました。

義尚公がかつて、近江に久しく滞陣されていた時、ある日お遊びとして湖水のほとりに出御され、
多くの船を飾り饗膳も珍しやかに調えて、諸道の達人を数人供奉しました。

公方は湖水の水際を眺めながら、童子二人が小舟に乗って遊んでいるのに気が付き、「あれは何者か?」と
尋ねると「梅ケ原の者です」との答えが帰ってきた。これを聞いて心にふと浮かんだ句があった

『湖辺自異山林興 童子尋梅棹小船』

この二句が心に浮かび、その対句についてしばし思案されましたが、ついによろしき句も浮かばず
還御され、その夜、夢の中に男装した人が現れて、先の句に足して七言四句とし、義尚公は
夢の中に喜び、程なく目が覚められた。その句は近習の人に仰せになり書き留めさせたということですが、
その後人々はみな、その二句を失念し、詮無き事になったそうです。大変残念なことです。

これだけではなく、かつて、また逆敵が近隣に侵入した時に、いそぎ出陣されたことがありました。
その時は炎天の時期で、五万ばかりの軍兵を召しつれられましたが、士卒はこの暑さに耐えかね、
滝のように汗をかき、馬もこらえかねて多くは跪き、人々はこのことに大いに混乱しました。

この時軍勢は鑑山の麓にありましたが、義尚公はここで

『けふばかり くもれあふみのかがみ山 たびのやつれの影のみゆるに』
(近江の鏡山よ、今日くらいは曇ってほしい。皆に旅の疲れの様子が見えるではないか)

と詠まれ、暫く木陰で休むように命じた。そこで少しすると天曇り、涼風おもむろに吹き始め、
軍勢はまるで中秋の夕暮れの中に居るようにように感じ、たちまち元気を蘇らせた、と言われます。
これなど歌における、上古末代までの高名の誉れでしょう。

まことに一句の力で数万の軍兵の苦しみを止めるなど、天感不測の君であったと言うべきです。

(塵塚物語)

歌人・飛鳥井雅親による、将軍・足利義尚の歌についての思い出である。




241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 06:42:18.40 ID:R/nXxM+J
料理漫画が料理で全てを解決するように
歌で全てを解決する将軍か

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 08:42:54.41 ID:RsSJEXGt
たしか近江で陣歿したんだったか
六角退治に躍起になったのは親へ反動か?

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 23:29:09.25 ID:GQBIVGxe
辞世の句が複数あるのは歌を愛しすぎた故か

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 08:54:48.75 ID:OvpIbfGP
織田信孝

足利義輝の室町御所

2014年04月14日 18:53

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 16:35:50.80 ID:AUVkqdDj
足利義輝の室町御所

「公方(足利義輝)様の御殿は深い堀に囲まれ、幅の広く造りのよい木橋が架かっていた。
入口には伺候するために各地から集まって来た三四百人の貴人がいる様であった。
また御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっていた。」
「極めて清潔で親しみを覚え、快適であった。
窓の外には杉、松、小さなオレンジ(蜜柑)や我等の国では名も知らぬ種類のみずみずしく
青々とした珍しい木々が植えられた庭があり、実に巧妙に培い、手入れされていて、あるものは
ベル(鐘)の形、またあるものは塔の形及び様々な形をしている」

ルイス・フロイス『日本史』

織田信長によって造り変えられ、二条城になる前の室町御所の風景。
諸大名の居城だけでなく、将軍様の所にも宣教師が上がり込んでいた記録。





恵林院殿御事

2014年03月23日 19:16

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/23(日) 02:11:42.81 ID:Lz8X/cqC
恵林院殿御事

先の将軍義稙公(十代将軍足利義稙)は、お心正直にて優しき生まれつきであり、武臣家僕のともがらは
言うに及ばず、公家の人々へも心を配らせ、不便の無いようにされていた。
しかし乱世の国主であったので、将軍と言っても名前ばかりの存在であり、下の者達が計らって
上意と称し我儘をふるい、これによって領地を無くした者達により、批判されることも些かあった。

こういった状況のため、武臣たちの罪によって将軍である義稙が恨まれ、いよいよ騒動も静まり難く見えた。

この頃の公方の様子を観察すると、将軍というものは寺院の長老のようなものであり、武臣は
その塔頭の寺僧であると言えた。長老は尊い。しかし寺僧たちがその前に横たわって、住持をも
排除してその寺院を思いのままにする。この頃の公方はそう言う風情であったのだ。

ある時、義稙公は大納言の某というものを召されて談笑した。そこで仰られたことには

「私は書物を読むのも乏しくはないし、天下の広さを一瞬で見ることも難しくはない。
何でも心にかなう四海の主であるので、多くの人民が、毎日痛ましきことを訴えに来る。
その事は耳に入ると不憫であるが、目の当たりにしたわけではないので、身にしみるような
哀しみはない。
畢竟、自分が苦しんだことがなければ、人の悲しみを理解できないものなのだ。

私は先年、政元(細川政元)によって苦しめられたことにより(明応の政変)、下民への労りを
思う事を学んだ。

これは、死を恐れたわけではないのだが、近くに味方が居ない時は、非常に心細いものであった。
そこから、鰥寡孤独(身寄りの居ない孤独な状態)の者が普段どんなに無力な心でいるかを
推し量ることが出来た。

慈悲の心がない者には、生きるかいもない。ましてや天下を知る者ならなおそうではないか。
第一に不憫の心を先に立てねばならない。
つらつらと古今の歴史について考えてみたが、北条泰時、北条時頼は唯人ではない。
我が朝の武賢と呼ぶべきは、彼らの振る舞いであろう。

私は壮年の頃から、常に下僕を撫で匹夫を憐れむの心を持っていたが、今は我が身さえ
心に任せることのできない世の中であるので、人々に対してその気持ちを充分に表すことも出来す、
時ばかり過ぎてしまった。いま少し世の中にあって状況を伺い、我が志を遂げたいと思うのだが、
月日ばかり過ぎていき、人生ももはや終盤となってしまった。終にはその思いも虚しくして、
憤りを胸にいだいたまま泉下に行くのだろうと思っている。

人々は衰朽の状態になれば、自らを察して心を諦めてしまう。だから、一日でも生きているうちは、
その身に応じて人を扶助するべきなのだ。」

そう、しめやかに雑談されると、大納言の某もこれを聞いて、涙で狩衣の袖を絞られ、返答することも
出来なかった。誠に大樹(将軍)の身として、このような御心ばえは世に有難きことである。
義稙公が都落ちして田舎に移られた後は、京の貴賎は皆、灯火が消え暗くなったように思ったものである。
その時にも公は人々に暇乞いをされ、仰せおかれたことに関して、皆、優しきお振る舞いであったと、
現在でもそのことを語る人が多く居るのである。
(塵塚物語)

足利義稙の、下々を想う心についての記事である。





仮名の注文書

2013年05月05日 19:10

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 20:06:07.77 ID:FpbL+zkr
ある人が紺屋(染物屋)に着物の染付を頼むため、注文書にその内容を細かく、仮名で書いて持たせた。

『せなかにふとうを、いかにも手際よくありありと付けるへし』

紺屋はこれを見て、「これは一興なる事を好むものだろうか。しかし必要あるものだろう。」と考え、
絵の上手に頼んで型紙を彫り、背中に染め付けたものを見れば、
不動明王が巌に立ち、火炎凄まじく描かれ、剣を持たせていかにも厳しくありありと染め付けられていた。

これを見た注文主は大いに驚いた。何故なら彼が頼んだのは「不動」ではなく「葡萄」だったからである。

「これは何だ!?何と心得てこんなことになったのか?これはりょうけん違いである!!
早く染め直すのだ!」」

そう言われ突き返されてきた。紺屋は注文書を見なおして

「不動はどんなものを見ても、剣は片手に持っているものばかりである。両手に剣を持たせよとは、
馬鹿げた好みであるとは思うが、客の注文である以上仕方がない。」

そして今度は両手に剣をもたせ、さらに凄まじい染付を付けた。
実にナイスな”りょうけん違い”である

これを見た注文主はもはや呆れ果て、もう仕方がないと諦めこれを受け取り、そのまま
捨ててしまったそうである。

総じて文章を書くときに、仮名だけで書いたものは読みにくくて役に立たないことが多い。
また仮名で書いたとしても、にごり(濁点)をきちんと書いておくべきなのである。

万松院殿(足利義晴)の御治世の前後では、京においてすら文字を書けるものは千人に一人も無かった。
しかし書を成すと云われる程の人は、後の世にも見られないほど見事な書を書かれた。
(義殘後覺)




530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 20:24:45.96 ID:bdi90EW+
その注文した人って誰ですか?

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 20:35:21.87 ID:h9nKfsL2
私です

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 20:52:22.00 ID:Q+WJvxjR
かぶいた人に高く売れただろうにw

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 21:02:58.85 ID:i1SOR+Xn
悪い話というよりは面白い話だなw

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 22:08:02.61 ID:Ir4DzAB2
濁点がきちんとつくようになるまでさらに300年以上かかるのか

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 22:23:26.06 ID:AlGe84Sf
落語かよw

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 00:06:15.91 ID:fmTYy2Wi
何で昔は濁点付けなかったんだろうな

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 00:41:38.47 ID:wsoNoVcB
この中に1人、正純がいる!

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 07:19:24.10 ID:ueyNyR2P
>>536
濁点がなくても分かるのがまっとうな学のある者で、
濁点は学の浅い初学者などのためのものとかそういう感じだったんかねえ

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 08:19:48.56 ID:UdwvAnAs
つか、まともな学のある人は漢文でしょ?
かな書きは字の読めない人のための走り書きで

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 08:20:11.65 ID:6XnixMhK
>>539
句読点なんてまさにそうだったねい

542 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/05(日) 08:36:30.58 ID:5HShZpQM
そもそも句読点ないだろ当時は

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:13:31.59 ID:lxZ66NJN
>>529
「りょうけん違い」と言われて両手に剣を持たせちゃうほんとバカな紺屋じゃあ、
ちゃんと濁点つけて書いても「武道」だと思って剣道着着た人の絵を描いちゃうかもしれないな

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:48:54.76 ID:CP05TOK6
紺屋の白バカめ

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 22:00:28.09 ID:7Ky2t4g3
>>554
どこの完璧超人だよ

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 22:04:27.54 ID:7wlvYMVy
てんかいちのふへんもの

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 22:04:31.47 ID:z1SzEs6S
>>554
まだ武道とは言わないだろ

里村紹巴、足利義昭を取り成す

2013年02月20日 19:52

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 19:01:16.37 ID:ozj3vlf9
里村紹巴足利義昭が都にいた頃には懇志な間柄で、詩連句や和歌の御伽をして
一日中傍を離れなかったほどだが、いまは秀吉のもとで和歌の指南を務めていた。

心に義昭のことをどうしたらよいかと折々思ってはいたが、公儀に忙しく疎遠になっていた。
しかし、秀吉の機嫌をうかがって義昭のことを取り成して度々申し上げるので、
秀吉もどうにかしたいものだと思ってはいたが、天下の大将軍にして数代相続の的流なので、
並々の武士に申し付けては恐れ多いと思慮を巡らして、兎角の計らいもなかった。

ある時、秀吉は紹巴を呼んで「義昭公のもてなしを誰に任せようかと案じ続けたのだが、
尋常の大名には差し障りもあろう。毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、
これに預けることにしよう」と言ったので、紹巴は「義昭公は大慶にお思いになることでしょう」
と大いに喜んだ。

かくして義昭は移され、輝元は畏まって請待し様々に饗応した。また備後深津に御館を造り、
五千石の知行を附けた。秀吉はこれを聞いて大いに感心し「これで身上を安心なさることであろう。
だが田舎では物足りなく、退屈で暮らし難いことだろう」ということで秘蔵の御局を義昭のもとへ
参らせた。義昭は秀吉の懇志を来世までも忘れ難く思った。

――『室町殿物語』





465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 20:51:46.97 ID:K0B673KS
>>461
現在無双のTERU△

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 21:32:27.81 ID:otbWvL4y
>名誉累代にして現在無双の大身

TERU個人の能力には全然触れてない褒め言葉でワロタ

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:07:35.09 ID:UCrLU+aF
と、ゆーかTERUの所にいたのを当人の希望で京へ戻したんだよなぁ

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:32:10.87 ID:ETjR6Mv2
>毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、

島津や佐竹なら累代の大身ってのも分かるけど、
毛利なんてTERUが実質2代目じゃないかw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:43:38.91 ID:Y9dVhO/Q
まぁ義昭は鞆にいたんだし、輝元起用は出来レースだったんじゃね?

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:46:40.06 ID:nPgpkKPp
>>461
秘蔵の御局

絶対に秘蔵されてないだろ(´・ω・`)

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 23:15:15.85 ID:e6ubEhM2
ラスボスは将軍様と穴兄弟になりたかったんだよ。。。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 23:38:25.79 ID:bdBW1f2C
>>468
「名誉累代」は所領のことじゃなくて、先祖代々の名誉、ってことだから、
大江広元嫡流の毛利家の家名をたたえた言葉だと思うよ?

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 01:48:52.29 ID:od810Ey9
では殿下秘蔵の姉上を…

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 03:56:06.96 ID:DRwA7j4S
文化の香のなさそうなド田舎に流されてどんな気分だったんだろう

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 07:38:34.97 ID:M2m4REjN
体よく厄介者をTERUに押し付けただけのような・・・

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 10:18:17.60 ID:7hBVIyPC
>>472
流石に嫡流ではないよ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 10:23:56.04 ID:ZV5H+s/J
>475
でも信長に京都を追い出されてから、ずっと世話になってから適任じゃね?

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 12:40:11.22 ID:EsH3EX8N
ラスボスの中古払い下げとか公方様涙目

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 13:19:43.15 ID:79ozRLbH
薄口だと帰って塩分多いんだっけ?
・・・中古品でもタヌキとか伊達のタネ宗あたりなら気にしないかもしれん。
大内の遺産で多少は残ってないかな

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 13:44:49.25 ID:MT/ovAuy
田舎の落ち目に下げ渡されちゃった御局さん気の毒・・・
と思ったが、こーいうのって渡されちゃう人にもメリットあったんだっけ?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 17:10:41.05 ID:8DfXhC16
仮にも前の公方様だから非常に名誉なことではあるんだよね
厄介払いって側面は否定できないけど

そういえば昔戦国大名ってボードゲームで将軍様(義輝or義昭)を引くと
強制雇用&給料馬鹿高いかわりに威信ってステータスが1上がるってあったのを思い出した

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 20:39:11.29 ID:FU/FH/Wt
>>481
公方なんぞ飾り物と申すかッ