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茶の湯の歴史について

2018年09月24日 17:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 22:22:50.64 ID:hsEHnj/y
東山の相公(足利義政)は茶を以って楽とし、数寄の標式を定め、名画墨跡を壁に掛け、珍器宝壺を
座右に陳ね、専ら閑静を以って本とした。これが数寄の会として世の中でもてはやされ、世代を超えて
これを楽とした。

信長秀吉の時代になると、幕下の武将それぞれ数寄を学び、軍旅の仮初の暇にこれを以て風流とした。
珠光(村田珠光)は南京(奈良)の僧にて茶の湯に名誉を得た。当時の人は皆珠光の茶の湯に
参加することを以て栄誉とした。その門人である、宗悟、宗珠、善法と言った人々は、それぞれ数寄に
長じた。

武野紹鴎、初名は仲材といい和泉堺の産まれであった。武田信光の後胤である。祖父仲清は応仁の乱で
討ち死にし、父信久四方に流浪し、ついに和泉堺に居住した。紹鴎は三条右府(三条西実隆)に侍り、
因幡守となり、後に堺に隠居して数寄を以って楽とした。大徳寺の右岳に参して一閑居士と号し、大黒庵と
言った。

千宗易は元は田中氏にて室町殿の同朋千阿弥の筋故に、千を以て名字とした。数寄の道が世に専らのこと
彼の時代に盛んとなった。信長秀吉は彼を恩遇した。天正の行幸において、秀吉は数寄の名人に官位を
与えた。しかし宗易はこれを辞して受けず、居士号を受け、大徳寺の右渓に命じられて利休居士と号した。
また自ら抛筌斎と名乗った。この頃の諸侯、幕下の近士は居士を以て師として数寄道を嗜み、家々に数寄屋を
立て、座布を囲んで茶立所とし、宇治の園を盛んにして芳茗の可否を争うこと、この頃より専らであった。
浅井亮政(原文ママ)は居士に就いてこの道を聞き、居士を招請して床の内に秘蔵の妾を飾り、
明智光秀は居士を招いて床の内に片輪車という刀を置き、各々その道を信じてその誠を顕し、
己が家の秘物を以て数寄屋に飾った。

居士は大徳寺の山門を修造して、己の像にあしだを履かせ山門の上に安置した。しかし秀吉はその不義を憎んで
ついに傷害し、山門に置かれた像は一条の戻り橋に磔にして天下に示した。

その後古田織部正重然、元美濃の生まれで秀吉に仕え武勇の功も有ったが、利休に従って数寄道を得、
世の中は以て彼が伝える事を学んだ。

本来数寄道は東山相公が老いて東山に隠居し、義満の北山の風流を慕い写した故に、法服を着て法味を
静かにした、隠居放言の趣味であり、風流なことは風流であるが、大丈夫にとって必ずしも必要な道ではない。
況や古画名筆を求めて名のある器を欲せるなど、その数寄の道の中でも即座に卑しいこととされる。
しかし現在の風流であり、これをむやみに嫌うのも風俗にすたるという物であり、良く用いればまた
底から得るものも有る。そういう事であるから、現代まで廃らず続いているのだ。

(士談)

茶の湯の歴史について


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このような名君が表れたのは天下の悦び

2018年08月18日 21:09

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 23:27:19.56 ID:MXVA3GZ4
文明11年の春、新将軍義煕(義尚)卿の御判始、評定始あり。これより天下の政道を執政された。
御年未だ15歳の御若冠であったが才徳が豊かで慈悲深く、その上理非分明にて御学業も怠らず、
このような名君が表れたのは天下の悦びであると、人々は皆、乱世の愁眉を開いた。

父である公方家義政公はこの年、諸国御治世についての政道を皆、新将軍家へ譲り渡し、大変喜んだ
様子であった。それより義政は隠居し、東山慈照寺の院内に東求堂を造らせ、ここに閑居されたため、
当時の人々は皆、彼を東山殿と呼んだ。
この東山殿は御若冠の頃より天性遊興、美麗の事を好まれ、芸能数寄の嗜みは世に超えており、
萬に結構を尽くさせたが、御隠居の後も累代の奇物、和漢の名器を収集し、茶の湯の会を催され、
世事雑用より逃れられ、ただ老楽の御楽しみにて月日を送られていた。
(中略)

同年秋7月、義尚より近代博覧の君子と聞こえる一条禅定殿下兼良公へ、天下を治める政道の事について
記すべきと御懇望あり、殿下は御辞退叶わず一巻の書を著し、新将軍家へ呈進された。
今の『樵談治要』がこれである。

(應仁後記)

足利義尚の将軍就任と足利義政の隠居のことなど


ああ、将軍家が他界されれば三好が時を得て

2018年08月09日 12:18

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 10:50:39.07 ID:8eEbnfec
(江口の戦い敗戦後)

天文18年(1549)11月26日より、将軍大御所(足利義晴)は御病気となる。
上池院法印紹弼が御薬を調進し奉る。

12月4日、御所御快気により伊勢国の住人・加多兵庫助教員が所持する竟花と号する
大鷹を、彦部雅楽頭晴直をもって召され長等山で御狩をされた。近衛准后父子、細川家
以下が供奉し、三井の衆徒ら多くが出迎え夜に入って御帰りとなった。

浅井久政は進藤山城守貞治に語って曰く、「将軍家の様子を見るに、武の御器量は甚だ
少なし。伊勢の加多が秘蔵する鷹を召して御慰みとなさるのは、今なさることではない。

ただ義士を集めて武林のもとに慰みなされば、何ともなく御運も開かれるであろう。
人はその作用に疎き時、必ず家を失うものぞ。

将軍家は和歌に達しなさるよりも武に達しなされば、まことに先祖の大功もおのずから
輝かせなさることだろう」とのことであった。

同21日よりまた将軍大御所は御病気となる。今度は片岡大和守晴親が御薬を奉った。

19年正月5日より、足に腫気があり、また上池院が御薬を奉った。同8日には山徒
正覚房法印の勧めによって御近習12人が登山して、中堂まで千度巡礼を行った。

久政はこれを聞いて曰く「人は必ず滅びんとする時に、まず空しく物事にかかって内に
留まらない。よって物を頼むのだ。これが前触れである。

鬼神には常に祈るもので事に臨み祈るべきものではない。ああ、将軍家が他界されれば
三好が時を得て、天下は三好のものとなるであろう。

これは武将の勤めてはならぬ過ちである。自己の神明を磨き出す人は希であるから、
皆々がこのようなものである」と言ったのだという。

――『浅井日記』


剣豪公方は義輝だけではないのだぞ

2018年08月07日 18:17

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 17:31:45.81 ID:+jaNSi8i
永正6年10月26日の夜、将軍足利義稙は酒宴の後寝所へ入り、その夜は番衆たちも沈酔していた。
その隙きを伺って、その夜子の刻ばかり(0時頃)に、盗賊たちが殿中に忍び入り、御重宝を奪い取った。
酔臥していた当番の面々は油断しておりこれに気が付かず、盗賊共は安々と、将軍の寝所へと侵入した。

しかしこれに気がついた義稙は少しも騒がず、寝間着の小袖だけを召し、太刀を抜いて夜盗の輩を即時に4人
切り伏せた。しかしながらこの時、自身も9ヶ所の手傷を負ったという。別の説には手傷は7ヶ所であったという。

観阿弥という同朋が盗賊の手引きをしたと言うが、何れにしても非常に危険な事件であり、天運に叶われていた
故では有るが、天晴武勇の行動であると、人々はみな感じ入った。

この傷は治療され程なく平癒し、同12月19日、表御所へ出御あり、大名小名はこぞって太刀、馬などを
献上して各々参賀し、その祝儀は非常に盛り上がった。
また禁中よりもこの時、従二位に任じられた。

(應仁後記)

剣豪公方は義輝だけではないのだぞ



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 18:14:25.35 ID:wgRhe7ED
>>117
カッコイイ!

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 19:25:04.00 ID:vI9T1A5l
流れ公方かっこいいな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 19:39:05.89 ID:DeVenh7R
都を戦火に包んだ二大陣営の申し子で魔法を操る細川政元
彼に裏切られて追放された元将軍の足利義材
10年以上の流浪の末、将軍に返り咲く

創作にはうってつけ

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 00:50:17.40 ID:PGGz+tkY
>>117
観阿弥って茶坊主とかでよくある名前なんだろうか、いろんな人の逸話でよく見るような気がするが
勘気を受けて殺されたり、他の家士と揉めて殺されてやった方が出奔したり、そんな役回りで登場する名前

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 09:57:45.24 ID:xDZttUE8
●阿弥は大名の御伽衆

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 11:10:20.02 ID:IZol+537
全員眠りこけて盗賊の侵入を許す近習がクソすぎる

鈎の陣

2018年07月17日 21:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 22:15:21.41 ID:ZMGQkMUJ
文明一統(応仁の乱の終結)の後も、諸国では先の乱の餘類が尚も国々に散在し、互いに押領を繰り返し、
兵革が止まなかった。その中でも近江国の佐々木六角高頼は、畿内近国に在りながら、上洛することもなく
公方の下知に従わず我意に任せて逆威を振るい、あまつさえ山門の領地まで妨げ、山徒の訴訟頻回となり、
これ以上放置する訳にはいかないと、征伐有ることに決まり、長享元年9月12日、新将軍家(足利義尚)は
数多の軍勢を供として江州へ出陣した。

その日の内に坂本まで進み、そこにしばらく陣を張ると、越前守護であった故朝倉氏景の家督、弾正左衛門
孝景が多勢を引き連れ馳上がって味方に加わった。朝倉が合流すると即座に六角高頼を攻めたところ、
高頼も一家尽く出陣しこれと合戦に及んだが、新将軍家は武勇を励まされ、お供の人々は我劣らじと攻め戦ったために、
高頼もついに一戦に打ち負け、自身の居城である観音寺山を落ちて、山賊の望月、山中、和田といった者達を頼み
同国甲賀山の中に隠れ行方知れずとなった。

しかし新将軍家はこのようになってもそのままにはしなかった
「かつて宝筐院殿(足利義詮)の時、南方(南朝)の敵徒御退治として、京鎌倉よりおおよそ天下の大軍を
集め、大樹自ら南方へ出陣した。敵はすぐに退散し国中が治まったため、敵が少しばかり山中に隠れて居たものの、
『何程の事もない』とすぐに帰陣されてしまった。ところがそれから、楠や和田と言った者たちは南帝を守護し
身を潜めて吉野の奥、賀名生の山中に隠れており、大樹が帰座すると幾程もなく立ち返り、国人らもこれに
同調して、また元のように蜂起し、大樹が南方に出陣した功は無となった。

その後、鎌倉御所の足利基氏はこの前例を後悔し、東国新田の氏族退治として武州入間川に出陣した時は、
ここに数年に渡り陣を取って毎日敵徒を捜索し、幾程もなく新田の氏族は尽く征伐された。
そして敵が尽く果てた後ようやく鎌倉へと帰陣したため、以後関東は再乱の心配もなく諸人が安堵する
治世を成した。然らば、今の六角もこのまま帰座してはまた元のように帰還し、六角の譜代の家人や重恩の
国人たちは彼に同調し蜂起して状況を覆すだろう。そうなっては今回の征伐の甲斐もない。
今回はとにかく、孝頼を初めとして残党たちを一々に探索し敵の根を絶ち葉を枯らして後難無きように誅伐
しなければならない。」

義尚はそう下知したが、甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶って攻め入ること難しく、探索は難しかった。
また六角の残党たちは数多く、その旧領は広く、一類は所々に隠れていて短期間に征伐することは
無理であったので、「順々にかの輩を探し出して誅伐すべき」と、10月4日、義尚は坂本より琵琶湖を船で
渡って安養寺に陣を変えた。この事を父である東山殿(足利義政)へ使いを以て知らせた、そこに次の歌を
付けた
 坂本の 浜路を過ぎて波安く 養ふ寺に住と答へよ

東山殿はこれに返歌して
 頓にて 又国治りて民安く 養ふ寺も立そ帰らん

28日に同国鈎の里に着陣し、ここに3ヶ年まで在陣して六角高頼の行方を捜索し、また六角の徒党の輩を
一々に退治した。
同年12月2日、侍従中納言実隆卿を勅使として今上天皇(後土御門天皇)より忝なくも陣中に御製を下された
 君すめは 人の心の鈎をも さこそはすくに治めなすらめ

義尚より返歌を献上し
 人身 鈎の里の名のみせる 直なる君が代に仕えつつ

かくして長陣の間の徒然を慰めるため、かつ心得のためとして折々に、春秋、伝卜、孝経の講義を受けた。
彼は天下の乱を退治し太平の世にしようという志が深かったため、片時も自身の時間を無駄にしなかった。
翌年9月、義尚は内大臣に任命された。この時名を義煕と改めた。
ところが長享3年の春、体調を崩した。当初は大したことはないと考えられたが、次第に重体となり、
治療も祈誓も験無く、同年3月26日辰の刻、鈎の里の御陣所にて逝去された。
父君東山殿、御母公大方殿(日野富子)の嘆きは例えようもなかった。
この義尚公は御歳未だ25、器量、才芸、皆以て世に超え、特に天下の武将としての行跡もいみじきもので
あったのに、この人が世を去ってしまったため、「天下の兵乱はついに治まること無く、扶桑一州は長く
戦国の世となるだろう」と、貴賤上下の別なく嘆き悲しんだ。
(應仁後記)

鈎の陣についてのお話


奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。

2018年07月16日 16:52

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 21:09:58.79 ID:p0z8v/pj
文明9年11月、将軍家(足利義尚)より東西の陣に上使が立てられ和平をなした。
「各々戦を止め自分の領邑に戻り兵士を休めて将軍家の命を受けよ」
東軍西軍である細川山名の両家とその従類はその命に従い自分の領邑に帰った。

しかし11年の兵乱に都鄙尽く衰微し、世路を渡ることも成り難い有様であった。
そこで将軍家は所司代、奉行人らと協議して、『天下徳政』と称して、福人の財貨を借り取り、借り捨てとして
返済の沙汰を禁止することとした。

ところが奸邪の者、すばやくこの事を聞きつけて、村里近隣の馴染みの者の家に行き、当座の銭や鎌鍬に至るまで
借り取って返さず、その内に徳政の触れがあると貸主の家に行き、あたかも迷惑のような振りをして
「これを返せば法令に違う、返さずば芳志を失う。どうにも出来ない。」などと騙し、結局はこれを奪った。

このような者たちに対し天下の人々は「奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。これが天道の応報というものだ」
などと言い合ったという。

(南海通紀)



幕府政所伊勢氏の滅亡

2018年04月11日 19:39

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/11(水) 18:33:41.45 ID:X7GcZDk4
三好長慶の勢いは天をも覆うほどであり、そのため松永久秀の威勢も、諸人を併呑するほどに
見えた。

この年(永禄5年(1562))六月二十三日に熊野山本営が炎上したとの知らせが有った。
先例前代未聞であり、天下の奇異、如何様ただ事ではないと、人々はこれを嘆いた。

同年九月十一日、京の伊勢伊勢守貞孝とその子息兵庫頭貞良が、三好に敵対する江州衆(六角)
および畠山衆と内通したとして、三好勢に攻められ丹波路長坂山にて父子ともに討ち死にした。
無残なことである。

(足利季世記)

幕府政所伊勢氏の、事実上の滅亡についての記事



足利義輝のクーデターの顛末

2018年04月06日 10:36

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/06(金) 09:30:29.36 ID:ZsWuJQrI
天文二十二年七月三日、三好長慶が芥川城攻めを行うため京を留守にすると、同月二十八日、
長慶と和解し帰京していた将軍足利義輝は、その和解の際に切り捨てたはずの細川晴元(入道一清)
の旧功捨てがたく思し召し、彼を赦免し京へ帰還させた。

すると晴元方の牢人千人余りも各所より入洛し、三好衆の宿所へ放火した。

この知らせを聞いた長慶は、芥川城に抑えの兵を置くとすぐに京へ取って返し、八月一日には
長慶勢に加え、河内の畠山政安、同美作守勢も引き連れ、二万あまりにて攻め上がった。

この三好勢の勢いに、義輝も晴元も戦いにもならぬと恐れ、取るものも取りあえず都より
逃亡し近江国へと落ちていった。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元勢と起こした反三好のクーデターの顛末


今も誠に賢い人がいるので

2018年03月17日 18:16

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 02:11:23.44 ID:f/6o7Uou
今も誠に賢い人がいるので


室町時代の公卿・一条兼良は応仁の乱後の混迷した状況の中で
将軍足利義尚に政道の指南と共に足軽の停止を唱えた『樵談治要』を
贈ったことで有名だが、その前にも義尚の母の日野富子に源氏物語を
講義した際、教養書の作成を依頼され富子宛に『小夜のねさめ』を書いている。

その中で女人政治に関する項がある。

「少し女房のことを言いますと、女というものは若いときは父に従い
 大人になれば夫に従い老いては子に従う者なので、自分の身を立てる必要が
 ないように言われていますが、大人しくなよなよとしているのがよい訳
 ではありません。大体この国は和国と言って女性が治めてもよい国でした。
 (中略。北条政子や女帝の例を挙げている)
 今も誠に賢い人がいるので、世のまつりごとをなさるべきでしょう」

"誠に賢い人"は当然日野富子のことである。
富子は兼良のパトロンと言っていい存在なので持ち上げられるのは当たり前だが
まだ生きているのに存在をスルーされている某八代将軍さんのちょっと悪い話。



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 10:08:04.55 ID:MyuSZ3ut
>>607
「樵談治要」にも「小夜のねさめ」の女人政治への意見とほぼ同じことが書かれてるな
先祖九条家の慈円「愚管抄」の「日本国は女人入眼の国」とかも踏まえてるんだろうか

樵談治要
一簾中より政務ををこなはるゝ事。
此日本國をば?氏國といひ又倭王國と名付て。女のおさむべき國といへり。
されば天照太神は始祖の陰神也。神功皇后は中興の女主たり。此皇后と申は八幡大菩薩の御母にて有しが。
新羅百濟などをせめなびかして足原國をおこし給へり。目出かりし事ども也。又
推古三十四代天皇も女にて。朝のまつり事を行ひ給ひし時。聖德太子は攝政し給て。十七ケ條の憲法などさだめさせ給へり。
其後皇極三十六代持統四十一代元明四十三代元正四十四代孝謙四十六代の五代も皆女にて位に付。政をおさめ給へり。
もろこしには呂太后と申は漢の高祖の后惠帝の母にて政をつかさどり侍り。唐の世には則天皇后と申は高宗の后中宗の母にて年久敷世をたもち侍り。
宋朝に宣仁皇后と申侍りしは哲宗皇帝の母にて。簾中ながら天下の政道ををこなひ給へり。これを垂簾の政とは申侍る也。
ちかくは鎌倉の右大將の北の方尼二位政子と申しは北條の四郞平の時政がむすめにて二代將軍の母なり。大將のあやまりあることをも此二位の敎訓し侍し也。
大將の後は一向に鎌倉を管領せられていみじき成敗ども有しかば。承久のみだれの時も二位殿の仰とて義時も諸大名共に廻文をまはし下知し侍りけり。
貞觀政要と云書十卷をば菅家の爲長卿といひし人に和字にかゝせて天下の政のたすけとし侍りしも此二位尼のしわざ也。
かくて光明峯寺道家の關白の末子を鎌倉へよび下し猶子にし侍りて將軍の宣旨を申なし侍り。
七條の將軍賴經と申は是也。此將軍の代貞永元年に五十一ケ條の式目をさだめ侍て。今にいたるまで武家のかゞみとなれるにや。
されば男女によらず天下の道理にくらからずば。政道の事。輔佐の力を合をこなひ給はん事。さらにわづらひ有ベからずと 覺侍り。

小夜のねさめ
大かた此日本國は和國とて女のおさめ侍るべき國なり。天照太神も女躰にてわたらせ給ふうへ。神功皇后と申侍りしは八幡大菩薩の御母にてわたらせ給しぞかし。
新羅百濟をせめなびかして。此あしはらの國をおこし給ひき。
ちかくは鎌倉の右大將の北のかた尼二位政子殿は二代賴家實朝將軍の母にて。大將ののちはひとへに鎌倉を管領せられ。いみじく成敗ありしかば。
承久順德のみだれの時も。此二位殿の仰とてこそ義時ももろもろの大名には下知せられしか。
されば女とてあなづり申べきにあらず。むかしは女躰のみかどのかしこくわたらせ給ふのみぞおほく侍しか。
今もまことにかしこからん人のあらんは。世をもまつりごち給ふベき事也。



615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 10:14:02.14 ID:5nKM9M85
>>609
愚管抄同様、頼経の鎌倉下向を賞賛してる
玉葉もそうだけど著者の中では九条家の評価が高かったんだな

義政は公儀を知らず

2017年05月08日 18:03

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/08(月) 15:17:48.18 ID:VE6BqW0b
天下の兵乱は天地の運に拠ると云えども、まさしく政道の正邪に帰する。
天地開闢以来、洛中での闘争で応仁の乱ほどのものはなかった。これはすべて、将軍・足利義政の心より
起こったのだ。

義政は公儀を知らず、知識昏く、勇武の道更に無く、悉く佞奸邪知の輩に偽られて、一事と雖も
道に当たる事無し。これによって天下は皆、将軍を尊重せず、一心に利益を得ることを専らとし、
欲を盛んにし、父子兄弟君臣の礼は乱れ、互いに奪い合って利を逞しくした。
これは上を下が学んだ故である。

要らぬ風流を好み、器物古書に心を尽くして、これら東山殿好みという物は後世まで規範となったが、
どうしてこれが真の道と言えるだろうか。

子息義尚も文を好み歌を詠んだが、これもまた将軍の器ではなかった。江州の陣中において
孝経を聴き、左氏伝の講義をさせていた。これもまた、書を学ぶべき時を知らぬ故である。

(武家事紀)

江戸期における足利義政についての評価である。



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/08(月) 20:49:40.77 ID:R7OKl++z
吉川元春「陣中で太平記を全巻書写してみた」

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/08(月) 20:57:16.77 ID:qo04Eyf+
吉川が書いたのが私本太平記か

贔屓が強い、ということは

2017年05月05日 10:48

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/05(金) 08:40:12.58 ID:vJCIQxW/
霊陽院(足利)義昭は、贔屓の強いのは頼もしきことであり、武士の本意であるとして、上手を憎み
下手を崇敬し、いつも自分が気に入ったものを良しと定めた。

彼は乱舞を好んだが、観世彦右衛門という小鼓の上手を憎み、また当時の大鼓の上手をも憎み、
下手であっても奈良の者を贔屓した。これは、義昭が初め、奈良一乗院に居たためであったという。

親しいか疎遠かで差別するのは古からの道であり、慣れ親しむ由緒ある輩に対して、これに親しむのは
理である。しかしそのために、理を非にいたし、上手を下手に取りなすことは、すべて物事の理を
理解していない故である。

贔屓が強い、ということは善きことに似ているが、その成り行きを見ると、依怙というものに成ってしまうのである。

(士談)


そしてほのかに笑った

2017年04月05日 21:37

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 19:26:50.38 ID:THk/5NjF
足利義政の弟である足利義視は、義政の後継者とされていたものの応仁の乱で義政と対立し、
乱後、美濃にて逼塞。後に鈎の陣で9代将軍義尚が没した後、息子義材と共に都へ戻ったが、
義政はその死の直前まで義視に対面を許さなかった。

義政の没後、その葬儀が等持院にて行われた際、義視は参列した高僧たちに嘆いた

「人の世において仲のいい兄弟といえば、私と東山殿(義政)であった。だが我々の間に様々な人が
介在し色々なことを言ったため、近年では相隔たる関係に成ってしまったのだ。」

これを聞いた高僧の一人が語った

「かつて義視様が美濃国におられた頃、京都五山に、美濃に住むある禅僧を、建仁寺と南禅寺の
住持に任ずるよう要請されたことがありました。

しかし五山の僧たちは、この禅僧が未だ住持に就任するために必要な修行を済ませていないと、
この要請を断ったのです。

ところが、これを知った東山殿がこう命ぜられたのです
『義視がせっかく要請してきたのだから、彼の面目が失われないよう、特別にこの禅僧を住持に
任ずるように。』

この命を五山あついに承服し、かの僧は住持と成ったのです。」

この事を初めて聞いた義視はうなずき、そしてほのかに笑ったという。

(蔭涼軒日録)



793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 22:19:38.62 ID:D+0ypimc
>>785
頼朝「やはり兄弟は仲良くしないとな」
信長「まことに」
家光「せやせや」
(´・ω・`)「弟が居たような…」

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 22:59:31.20 ID:5eYJ1gvP
山内経俊:頼朝の乳兄弟、文字通り頼朝に弓を引いたにも関わらず赦免
織田信興:長島一向一揆で一揆勢に殺されたため信長は報復に一揆勢皆殺し
保科正之:秀忠存命中は姿を隠していたにも関わらず、存在を知った家光に会津藩主に引き立てられる
みんな兄弟仲いいね

永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

信長のきてはやぶるる京小袖

2016年11月11日 11:12

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/10(木) 23:19:34.25 ID:K23paop2
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。


信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり

信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)





此の寺の時の太鼓は磯の波

2016年09月01日 17:55

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/31(水) 22:33:15.10 ID:48wVr93/
 光源院(足利義輝)殿が京都四条の道場に陣をとっておられた時、
番の僧が夜九つの太鼓を寝ぼけて七つの時に打ってしまった。
 後で公方から御使いがあってその番の僧が呼ばれた。
きっと折檻に及ぶに違いないとぶるぶると参上すると
様子をお尋ねになられたので

「そうでございます。深く眠っていて、
目覚めると仰天してしまったためです。」

と、ありのままに申し上げると、思いのほかご機嫌が良く

此の寺の時の太鼓は磯の波 おきしたいにそうつといふなる
(この寺の時の太鼓は磯の波のようだ
押し寄せるので波打つというのだなあ)

と遊ばされ、僧には銭を与えられた。

(醒睡笑)




「隠れもない、熟柿臭いわ」

2016年07月22日 21:15

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 22:10:30.51 ID:uZgz+BuU
尊氏将軍五世の孫義政公の御時、洛中洛外で酒を禁じられた事があった。

万阿弥という同朋衆が仕えていたが、いかがして飲んだのだろうか、
面もどこも赤漆で塗ったようなありさまで御前に跪いた。
大樹は彼をご覧になられて、

「お前は酒を飲んだ顔だなあ」

と仰られると、万阿弥

「いや、あまりの寒さで参上するときに焚き火にあたったのでございます。」

と言い訳した。

「そうであるならここへ来い。かいでみよう。」

とのことから、是非なく参ると

「隠れもない、熟柿臭いわ」

と仰せられる。それに万阿弥

「そのような事もございましょう。柿の木の焚き火にあたっていましたので。」

(醒睡笑)



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 01:28:31.57 ID:+EHNhqgx
>>959
柿の果実酒ってあったのか

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 02:30:57.86 ID:eZAHWWpd
バニラユニコーン

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 10:44:01.25 ID:wfYA40BD
>>961
酔っぱの呼気に含まれるアセトアルデヒドは熟柿臭いのだ

青磁香炉『大千鳥、小千鳥』

2016年02月20日 12:54

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 00:35:10.96 ID:HpJTYx46
青磁香炉『大千鳥、小千鳥』

 昔東山殿が鴨川の千鳥を聞きに出られなさった時、
千本の道貞と申す者が蘭奢待を持って参って焚いている、
ということを聞きなされ公も名香をお焚きになられて、お取り替えなされたという。
古雅な事々である。
(本阿弥行状記)



春日局という女がいた

2015年11月24日 07:29

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/24(火) 00:38:23.21 ID:YOyn+TIR
慈照院殿(足利義政)の時代、春日局という女がいた。
彼女のために応仁の乱は起こり、天下は騒動した。

最近の春日局の号は、これを考えずに号したのか。

――『老人雑話』



曽我助興は只者ではない

2015年06月20日 15:21

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 00:26:47.36 ID:j0eYCWS1
慶長8年、徳川家康公に将軍宣下があった後、永井直勝に命じて、この新しい将軍家の書式法令等の
制定が命ぜられた。しかし当時、そのような故実に通じた人間は関東に居なかったため、当時の故実者である
細川玄旨法印(幽斎)に室町将軍家の儀式作法を質問した所、当時、有識者の間で評価の高かった
曽我又左衛門助興を推薦され、これを召し出すことに成った。
彼を中心に、徳川家の制法を元に改正され、御内書、御奉書の令式その他、将軍家の法令が定められた。

総じて神君が、甲州を手に入れられた時には武田家の法令を以って甲信駿に掟され、その後
関東に入られた時は北条の家法を用いられた故に、速やかな治平を成し遂げられた。
ただし、年貢のことだけは三河の旧例を用いられて、軽い収納のみ行っていた。
このことだけは古から代えなかったので、諸民もその御恩澤に浴して『この君万世』と謳ったのである。

ところで曽我助興について、彼はもともと室町将軍の牢客であった。そのような人物が新たに
幕府に召し抱えられたため、関東の諸士は彼を軟弱な京都の者と思って侮った。
ある時、土井利勝が座興に彼に聞いた。「あなたは有名な曾我氏の子孫ですが、曽我兄弟について、
実家に伝えられていることはどあるでしょうが、兄弟について世上に言われていることをどのように
考えていますか?」

曽我はこれに
「そうですね…、私は若輩者ですから、曽我兄弟が何をしたかなんて覚束きません。」

この答えを聞いた時、一座の人々は彼が只者ではないことを初めて悟り、感服したのである。

(明良洪範)

何故



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 13:10:57.03 ID:HPlK6aeZ
「仇討ちで高名な曾我兄弟の末裔でありながら、それを誇らないとはこやつ只者ではない…ッ!」
って事?

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 13:14:02.15 ID:HPlK6aeZ
あ、末裔じゃないや間違えた
「曾我兄弟の仇討ちで高名な曾我の一族」か

足利義昭の追放

2015年02月27日 18:39

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 00:06:52.74 ID:KNEpf6x+
永禄12年(1569)の、三好三人衆による足利義昭襲撃(本圀寺の変)の後、織田信長は在洛して
勘解由小路に武館(二条城)を構え、ここに義昭が遷移して、治世6、7年に及んだ。

このように義昭と信長は互いに深く重く思い合っていたのだが、土岐一族の明智十兵衛尉光秀の
讒言によって、義昭・信長の間は不快となり、天下の人々は皆嘆いた。
義昭は京から宇治槇島に退くが、この時両者は和解するように思われたものの、
双方に虎口の讒言(人を陥れるための告げ口)が有り和解は成立せず、義昭は河内・紀州を流浪する
体となり、その姿は誰もが愁涙を催すばかりであった。
この両国の国人たちも、信長の武威を恐れて、義昭の御座所に駆けつける者もなかった。
そのため中国は遼遠の境(畿内と遠国との境)であったので、そこに暫く御座所を定めた。

この上は天下は信長一人の政道に、皆帰伏するように成った。然る上は太政大臣にも勅許有るべきとの
叡慮であったが、一天雲なうして雨三日を期ざる所、御思慮があって、高官は子孫に譲ってほしいとの
御内証にて、右大臣さえ辞し申し上げた事は、まさに跼天蹐地(高い天の下でからだを縮め、
厚い大地の上を抜き足で歩く:慎み恐れるの意)と言うべきだろう。これこそ聖人の教えである。

(永禄記)

永禄記の、足利義昭追放についての記事である。
両者不快の原因が光秀の讒言、となっているのが面白い。



477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 08:00:04.61 ID:/RtI4YtR
室町将軍の彷徨う感は異常
周りもなれてそう
天皇「まーた将軍さまよいだしちゃったよw」
こんな感じで