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堺より都に至る道路に於いて、税を徴収することを

2020年11月11日 16:33

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/11(水) 13:02:34.18 ID:Zd444FhI
日本の真の王である内裏の顧問にして、甚だ身分高き人である公家達は、和田(惟政)殿に対し、
堺より都に至る道路に於いて、税(通行税)を徴収することを、彼等に許可すること切願した。
この収入は甚だ巨額なるもので、尾張の王・信長は、庶民の税を軽くするために、その徴収を免じたのだが、
再びこの徴収を再開することに関しては、総督(和田惟政)の一存に任されていた。

和田殿は公家に対し、
「この事、その他何事につけても自分の好意を得んと欲せば、彼等はただ一事を行えば、一切の報酬として
これを受けるだろう、即ち、ルイス・フロイスの事について内裏に話し、フロイスが謁見の許可を得、
また朝山日乗に与え、フロイスたち宣教師を追放し、会堂を奪った免許状を撤回することである。」
と云った。

しかして彼等の中、何人もこの事について内裏に語ることを欲さなかったために、その死に至るまで
和田殿は、彼等の請願した所を許可しなかった。

『一五七一年九月二十八日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

堺から京への関銭についてのお話



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足利義昭への謁見

2020年11月04日 16:48

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/04(水) 15:34:53.38 ID:bivcHs1J
尾張の王(信長)への訪問後二日を経て、和田殿(惟政)は多数の兵を率いて当地に来たり、
「公方様(足利義昭)が私を引見することを協議したので、速やかに準備すべし」
と云った。

彼はすぐに宮殿に到って、私を待ち受けた。公方様は彼を甚だ寵愛しているがゆえに、私が何人で
あるかを告げ、パードレの名誉・地位を月の角の上に置かんとした。
私は人を堺に遣わし、ローケよし借り受けた美麗なる孔雀の尾を持参した。

公方様はその盃を私に与え、和田殿は私の次にこれを受けた。尊師の知られる如く、公方様は日本の
彫像にして、これを訪問する者に、一言をも述べるのは極めて稀な事であるが、この時は二回、和田殿に対し
私に勧めて飲ましむべしと云い、次に、彼に贈った品を喜んでいることを告げた。

私が座を立った時、彼は後より密かに座敷の戸を見、私の身長がどれほどかを計った。
我等が外に出た後、和田殿に対し常例の挨拶をなし、「公方様がもし、印度の品にて好むものが有れば、
我等は喜んでその命に応ずべし。」と述べると、彼はこの事に付き尽力し、支那の船が来た後、自分に
告げるようにと伝えた。

この訪問は、我等が都に滞在するための手始めであるが、主要にして最も確実なのは、ゴシュインと称する、
朱の印の免許状、すなわち我が国の国語にて、信長の命令、及び公方様の免許状、即ちゴゼンジ(御宣旨)
を入手する事であり、中でも信長の免許状は特にこれを請うたが、和田殿はこの交渉を引き受けた。

『一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

フロイス等の足利義昭への謁見について



678 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/04(水) 20:51:01.23 ID:kyhY7BdG
>>677
月の角の上ってなんでしょ
原文が日本語の直訳で再翻訳したらよく分かんなくなった感じ?

言継卿記より、本圀寺の変について

2020年10月28日 17:49

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 22:08:30.83 ID:AXIGWCDj
永禄十二年
一月四日
南方より敵(三好三人衆)が出張し、塩小路まで出てきたという。東岩倉の山本は敵になったという。
勝軍の城が焼かれ、その他田中、粟田口、角社一間、法性寺など、多く焼かれた。ぬかの小路は殆ど焼かれた。
京中は以ての外の騒動と成っている。

五日
三好日向守(長逸)、同下野入道釣竿(宗渭)、石成主税助(友道)以下、今日悉く本圀寺に取り詰め
これを攻め、午の刻(正午頃)に合戦、寺の外は焼かれ、中堂寺、不動堂、竹田などが放火された。
武家(足利義昭)の御足軽衆以下二十余名が討ち死にしたという。攻め手の衆も、死人手負いが数多あるという。

六日
内侍所の簀子より遠見をした。南方は所々放火され、四、五百ほどの人数が如意寺の嶽を越え、志賀は
少々放火されている。晩頭に帰る。南方(三好三人衆勢)の事について聞くと、方々で彼等は敗北したと言っている。

三好日向守以下は七條に向かったが、これに西より池田、伊丹衆、北より奉公衆、南より三好左京大夫(義継)が
彼等と戦い、三好義継が鑓を入れ、三方より斬りかかったため、三人衆以下は申の刻(午後四時頃)敗軍し、
多くが討ち死にしたという。その後黄昏に及んだため、殊更の事は無かった。

七日
七條において、昨日討ち死にした衆は千余人という。ただし彼等の名字や特徴は解らないという。
石成主税助は北野の松梅院に逃げ入ったという。そこに各々討ち入り、松梅院は破却されたという。
久我入道愚庵(晴通)によると、細川兵部大輔(藤孝)、池田筑後守(勝正)の姿が見えないという。
三好日向入道以下は、各々八幡へ落ちていったという。

九日
耆波宮内大輔が礼に来て、盃を勧めた。三好左京大夫、細川兵部大輔、池田筑後守等は西岡の
勝隆寺へ、昨夜入ったと言うことを雑談した。

十日
美濃より織田弾正忠(信長)上洛、松永弾正少弼(久秀)も同道したという

言継卿記

言継卿記より、本圀寺の変について



「御小袖」鳴動

2020年10月19日 17:51

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/19(月) 13:29:43.01 ID:dubGELOS
永禄八年六月十五日

大和(大和三位入道宗恕家乗)と、武家(将軍家)の御小袖(足利尊氏が着用し、将軍家伝来の白威の大鎧)の
間での、鳴動について雑談した。

普広院殿(足利義教)が殺された時、兼日鳴動した。慈照院(足利義政)の御代にも鳴動し、そのため
御座所を改めた所、常の御座所は悉く転倒したという。
そして今度(永禄の変)でも鳴動し、また後日に重ねて、一日に三度鳴動したという。であるのに、
足利義輝は)御用心がまったく無く、故に御運が盡きたのだろう。

言継卿記

「御小袖」鳴動について



423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/20(火) 14:42:26.52 ID:WJP5InwS
二条御所の防衛強化したり
フロイス日本史だと、
前日に京都脱出しようとして説得されて思いとどまってるなど
間違いなく危機感があったようだけどね

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/20(火) 15:27:53.81 ID:klQ4c8bJ
長慶の死亡を知らないのにどうして危機感を覚えたんだろ
なんか最近三好勢の当たりが強いみたいなのがあったのかな

光源院殿の葬礼

2020年10月17日 17:27

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:28:43.99 ID:O+cHCO8f
永禄八年六月九日

光源院殿(足利義輝)の葬礼が等持寺に於いて、寅刻(午前四時)より、夜明けに及ぶまで行われたという。
しかし、前々には悉く参っていた昵懇の公家たちは、今日、一人も参らなかった。また五山十刹、諸宗などによる
読経も悉く無かったという。ご子孫がなかった故であろうか。
葬礼に在ったのは、相国寺衆、奉公衆、奉行衆ばかりであったそうだ。

言継卿記

言継卿記より、足利義輝の葬儀について。三好に睨まれるという恐れもあったのでしょうが、薄情なものですね。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 00:32:01.78 ID:Nku6hMSe
山科卿も伝聞ってことは行ってないのか

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 00:41:15.72 ID:B76PdEkK
言継は義輝の昵近公家じゃないしね。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:51:51.31 ID:ed/YEY0g
暗殺した連中に葬儀されてたら誰もこんわと思ってたけど、それは政元だったかな?

永禄の変についてのフロイスの報告

2020年10月14日 17:06

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 15:27:20.15 ID:fVPTpVlb
翌日、即ち一昨日、聖三位一体の日曜日の朝、三好殿(フロイスは長慶としているが義継)は騎馬の士約七十を
率い、偽って(京都)市外約七十レグワの寺院(清水観世寺)に遊ぶとして、少しばかり市外に出た後忽ち
引き返して、公方(足利義輝)の宮城に向かった。朝のことであり公方様の邸に在った者は二百人に過ぎなかった。
しかも多くは都の主だった大身であったが、直ぐに三好勢一万二千人に囲まれ、三好殿は宮城の堀に架けた
一の橋に至る一門に向かい、他二人の領主(松永久通、三好長逸か)は他の門に向かった。

城内にては、このような意外の叛逆を予想せず、門は悉く開かれていたため、銃手の大集団が侵入し、
公方様に対し、書付を呈したいと欲した故に、こちらに来てこれを受け取るようにと述べた。

前に報告したように、我々の教会に招待したこともあり、また公方様の昵近者にて我々を公方様に紹介した
老人(進士晴舎)が出て書付を受け取り、直ぐに読んだ所、第一に、公方様がその妻(側室)、即ち同老人の
娘を殺し、又他の多数の大身達を殺す事で。それが行われれば平穏に退出する、と云うことであった。
老人はこれに欺瞞を見て、書付を地に投げ捨て、主君である国王に対し、この如き叛逆を起こす者の、畏れ無く
恥無きを大いに責め、既にこのような状況であれば、彼自ら腹を切るべしと云った。

諸侯が敵に抵抗すること能わざる時は、短剣を取っておのれの腹を切るのが日本一般の最も古い習慣にして、
君臣共にこれを行う。

老人は内に入り、公方様の前に於いて自殺した。そして我等の親友であるその子(進士主馬允)が邸より出て
三好勢と暫く戦ったが、間もなくこれは殺され、外より邸に向かって激しく銃が放たれた。
この時公方様の武士四人が門前に来て、門を敲いて開くように求めたが、内より今これを開く事は出来ないと
答えられると、彼らは短剣を抜いて腹を切って死んだ。

暴君らの悪心は益々増長し、この上彼らの希望を延期することは出来ないと、宮殿に火を放つよう命じた。
公方様は外に出ようと欲し、その母と抱き合った。彼女は我等が大いなる歓待を受けた老婦人である。
公方様は火災、及び必要に迫られ、部下とともに戦を始め、腹に一鑓、頭に一矢、背に刀傷二つを受けて死んだ。

公方様の兄弟である、二十歳の青年の坊主(周暠)はその母とももに家に在ったが、(三好勢は)直ぐに
これを殺し、母を捕らえた。彼女の命を助けるべしと云う者、またこれを殺すべきという者があったが、多くの
刀傷を与え、子の側においてこれを殺した。

大身達の娘である宮中の婦人たちは、焼失した宮殿より出てきた所を、兵士たちはこれを斬り始めた。
十五人、乃至二十人が武器を恐れて宮殿の一の家に入ったが、その後火を逃れることが出来ず悉く焼死した。
また数人、外に出た者があったが、兵士たちはその衣服を奪った。その中に王妃(近衛稙家娘)が在ったと
云われるも未だ発見できず、今、刑に処するためこれを捜索し、その居る家を告げる者には巨額の金銭を与え、
またその髪を取って(捕縛して)彼らの前に連れてきた者には一層巨額の金銭を約束した。

公方様の娘二人が、兵士の足下に捨てられていたが、一人のキリシタンがこれを見つけて、救って屋内に
収容することを請うた。
十三、四歳の少年武士は、公方様の面前にて戦を始めたが、叛逆者たちは生きながらこれを捕え、殺さない
ようにと努力した。少年は公方様が死んだのを見て、生存するのは大いなる不名誉と考え、手中の剣を捨て、
短剣を取って少しばかり喉を切り、次に腹に当ててその上に伏した。
最も愛する者よ、これによってこの国民の、生命を惜しまない事がいかに甚だしいかを見るべし。

『一五六五年六月十九日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

永禄の変についてのフロイスの報告。これを素直に読むと、進士晴舎の切腹に激昂した息子の主馬允が
取り囲んでいた三好勢に戦闘を仕掛け、それに三好勢も反撃して戦闘が拡大した感じですね。



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 15:39:12.60 ID:W9XfORRk
長慶の死亡の秘匿の保持されっぷりはなんなんだろうね
信玄とか秒でばれてるのに

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 16:17:46.24 ID:blxpQOBl
想像だけど、長く臥せていたから死の前後であまり変化がなかったんじゃないかと
信玄なんかは勝ってたのがいきなり撤退してこれからは勝頼が~だもの

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 17:31:21.23 ID:KvZqtLJB
長慶は晩年がアレなんで、政治的には死んでも大した影響が出ていなかったので隠せたのかもしれない。

正月の足利義輝謁見の様子

2020年10月11日 16:24

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/11(日) 00:16:50.80 ID:21YW+/jL
私はパードレ・メストレ・ベルショールの同伴した少年の所有していた、金襴の飾りの在る
古い長袍、及び船室に用いていた古毛氈一枚を豊後より持参していたが、パードレはこの毛氈によって、
開いた広袖の衣を作り、この衣と長袍を着し、その上に甚だ美麗なる他の衣を着し、黒頭巾を被った。
私はキモノとポルトガルの羅紗のマントを着し、準備を整えた。

パードレは輿に乗り、私は他の輿に乗ったが、支那の大官の用いる、閉じ囲んだ椅子に似ていた。
十五、ないし二十人のキリシタンが同行した。私は他の品も持っていないため、硝子の大鏡、帽子、琥珀、
沈香少量、及び竹の杖を持参した。
我等の住院より公方様(足利義輝)の宮殿(二条御所)に至る距離は一レグワの四分の一にして、道は真っ直ぐ、
かつ平坦であった。

我等は先ず、身分甚だ高き料理番頭(大炊頭の事か)の家に赴いた。彼は公方様の宮廷に於いて最も重用
されている者の一人であったが、その時は外出していたためその長子が出て、我等を大いに歓待し、
鍍金の器を以てカカンゾキ(cacanzoquy)を与え(盃か)、次いでその父も来たが、我等は彼に沈香少量を贈り、
共にその家を出て宮中に赴いた。

公方様の邸は甚だ深い堀を以て囲み、橋によってこれを渡る。邸外には兵士三、四百と多数の馬があった。
パードレ及び私は中に入ったが、大身たちは皆大いに我等を厚遇した。我等は一室に入って暫く待っていたが、
これら武士はその外に居た。

次いでパードレはかの老人とともに、更に二室を進み、公方様が我等を待っている場所に到った。
老人は礼を成して退き、私は侵入したが、ここで私は尊師に証言する。私は今日まで、全く木造にして
このように好く、美事なる家を見たことがない。どういう事かと言えば、公方様の居られた室の布(襖か)は、
尽く金の繍を施して、蓮及び鳥を写した、甚だ精巧にして種々の技巧が加えてあった。
窓の格子は嘗て見たものの中で最良のものであった。

外より三番目の室に在った時、(我等を案内した)料理番頭をして、パードレの着していたカバ(マント)は
「メンズラシ」(珍しい)、即ち我が国語にて美麗なる物であるので、これを見たいと伝え、これを持ち去り、
直ぐに還付された。

次に一室の中央にある他の戸を開くと、そこに王妃(近衛稙家娘)が座しており、老人は沈香を献じた。
我等が戸の外より礼を成したる後、老人とともに公方様の母(慶寿院・近衛尚通娘)の家に行った。
この家は同一の地所の内に在るが、他の庭を有していた。我等は三、四の甚だ美麗にして、また装飾を施した
室を通り、一室に到ったが、室には多数の婦人が座していた。老人はパードレのために、定例の紙(杉原紙)、
及び金扇、私のために金色の磁器を公方様の母に献じた。次にカカンゾキ、すなわち飲むに用いる盃を
持ってきた。彼女が先ずこれを取り、次に婦人等をして、これを我等に与えしめ、また我等の間における
オリーブの実と同じ「サカナ」(肴)を、食事の際に用いるファシ(箸)、即ち棒を以て自ら我らに与えた。
もし宮廷で寵愛を得ようとする者ならば、これを以て名誉と喜ぶであろう。

公方様の母は某寺院の女長老、その他家人と共に在った。その静寂、謙譲、整頓された様子は、私をして
僧院に在るかのような思いを成させた。
公方様の母は阿弥陀の堂の戸を後ろにして座していたが、堂は清浄なる装飾を施し、阿弥陀の像は
端麗なる少年のごとく色彩を施し、冠を被り、頭より金の光線を発していた。
我等の主デウス、彼を導きデウスが創造主、および救主であることを知り、彼にのみ仕えるに
至らしめ給わらんことを。

我等は最初に立ち寄った料理番頭の家に到った時、彼らはデウスの事について長い説教を聞くことを
求めた故に、これに応じたが、彼らは大いに喜んだ。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

フロイスらの、正月の足利義輝謁見の様子



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/11(日) 16:42:48.86 ID:JOvvvpsA
阿弥陀にやられそうになってて草

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/12(月) 08:45:34.32 ID:t/jZIG41
「日本通信」版では「少年のように」だけど
1565年3月6日書簡版では
「幼子イエスのように」
とキリスト教徒としてかなりやばい表現という

足利義輝に対する正月の進物儀礼

2020年10月10日 16:04

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/10(土) 00:43:35.73 ID:p7Z90aGV
本年(1565・永禄八年)の日本の新年は、我々の暦の二月一日に当たる。
当国各地においては、月の九日より十五日、又は二十日まで、諸侯は国王を訪問し。進物を献ずる
習慣であり、特に都においては、公方様(足利義輝)は至高の皇帝である故に、この習慣を守っていた。

公方様を訪問する者は、彼に服従しているわけではないが、みな高貴なる諸侯、又は身分高き坊主であり、
その際には各人、我が国の紙に比べて甚だ大きい紙(杉原紙)十帖と金扇を携帯するのが、古来の習慣
である。これらは献上の後、武士である僕がこれを受け取るのが例である。
そして公方様の母、及び后を同様に訪問し、或いは高価なる品、及び武器を献ずる者もある。

王は何人に対しても一言も発せず、ただ収入、及び所領多き数人の坊主に対し、少しばかりその手に
携えた扇を傾けるのみであった。

公方様を訪問出来るのは、その地位の名誉あり、また尊貴なるに因る。身分低き者は、たとえ黄金の家を
贈ったとしても訪問を許されることはない。
パードレ・ガスパル・ピレラはキリシタンたちの幸福のため、并びに異教徒がデウスの教えを軽蔑しない為に、
公方様を訪問する必要があった。また、これを成すことにより、パードレは公方様の保護を受けるに至る
ためにも、一人の大身の武士を介して、年頭にあたって拝謁をした。この人(大身)はおおいに
キリシタンに成ることを望んでいたが、戦争の際殺された。

日本人は外形を整えていなければ、その人を崇敬しないが故に、パードレはこの際、平常のごとくに
していては宮廷に入ることを許されず、主の栄光とキリシタンの幸福のため盛装をする必要があった。
最初の二回の訪問には。法衣と袈裟を着け、頭には朱頭巾を被ったが、他の二回はキモノを着し、
その上にポルトガルの羅紗のマントを着た。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

足利義輝に対する正月の進物儀礼について



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/10(土) 08:31:38.87 ID:CvXxK6f+
旧正月か

『公人朝夕人土田氏由緒』より、信長、秀吉、家康の小便を支配した男

2020年10月02日 18:11

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 14:58:00.26 ID:mZG3D0T3
公人朝夕人土田氏由緒』より、信長、秀吉、家康の小便を支配した男
※公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)は出先などで尿筒、つまり尿瓶を懐に持ち歩き、主君の排尿を支える役職で世襲
土田氏は鎌倉幕府4代将軍、九条頼経の時代からこの職務を務めた

永正10年、将軍足利義稙様が江東へ発向されたとき、私の先祖がお供を仕り、将軍が御膳をお召し上がりの時は残飯を拝領いたしました。その際、器の上にお箸を置き、「なんじの家の家紋にしなさい」とおっしゃられたので、それより私の家の家紋にしました。
このように代々召し出され、信長公の御代までは西美濃国の土田村にて186貫の領地をいただき、住んでおりました。
信長公がどちらへいらっしゃるにも私の先祖はお供しました。
天正4年に安土のお城を普請されたときには奉行を拝命し、その後、100石を山城国西岡というところに加増していただきました。
信長公が美濃の居城より信州へ出陣された際には、美濃土田村の先祖の屋敷でご一泊されました。
信長公が他界され、領地を離れてひっそりと暮らしていたところ、秀吉公が関白に任ぜられ、ご参内の折に先祖が召しだされ、供奉しました。
家康様が慶長8年、ご参内の際にも先例を調べられ、同朋の善阿弥殿に命じられ、召し出されてお目見えしました。
御紋の時服と諸太夫の装束を拝領し、御装束櫃に相添え、諸太夫の装束で御小便筒を懐に入れて供奉しました。



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 16:01:28.74 ID:OeCEOrN/
大便はどうしてたんだろう

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 14:24:55.98 ID:Gj7tQVI7
数百年かけて練られた土田家の排尿介助術
すごい気持ちよさそう俺も体験してみたい

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 20:08:12.61 ID:NWOgh4lw
でも幕府消滅と共にその技術の伝統は断絶してるんだよな。
流石に土田氏が現代まで残ってても、この技術の伝承まではしてないだろうし。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 22:08:22.84 ID:IFaIdRQ1
えっこれほんとの話なのか
すごい職があったんだな

現在、公方様はただ

2020年09月30日 17:55

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 13:07:20.15 ID:y9xqxqNT
日本においては、諸人が日本全国の首である都に居住し、公方様と称する至高の君に服従すること、
(諸記録によれば)約四百年であるが(頼朝開幕より三百八十二年)、本来これに服従していた諸侯が
次第に興隆し、六十六ヶ国に別れるに至った。

現在、公方様はただ威厳の尊号を有するのみで、実力乏しく、他の諸王は少しもその優越を認めず、
またこれを尊敬せず、諸侯は欲をほしいままにして各地の諸侯を服従させ、その国を奪おうとし、
このために戦争が絶えることがなかった。日本に福音の教の平和を植え付ける事への、最大の妨害は
これである。

都には、宗旨の尊位にある他の君がある(天皇)。日本人はこれを日本の頭として、殆ど神の如く尊崇している。

『一五六五年二月二十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(耶蘇会士日本通信

足利義輝の時代の、室町将軍に対する認識について。



公方家又京都御退座の事

2020年06月02日 18:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 16:01:22.45 ID:tp5E/GjB
公方家又京都御退座の事

そのころ公方家(足利義輝)は、洛外の霊山に御城構え有るべしとして、今度天文二十一年(1552)十月十七日、
かの山に御普請初めがあった。細川晴元方の浪人である香西越後守元成等は先の三好長慶との和平を用いず、
また悉く蜂起して、同十月二十日、丹波国桑田郡へ打ち入って、細川氏綱方の内藤備前守と合戦し、内藤を
撃ち散らして勝利を得、その勢いで同十一月、丹波の篠口辺りを放火した。この時建仁寺の塔頭も炎上した。

そのような中、三好義賢(実休)がその主君である細川持隆を殺すという事件があり、それより都鄙では雑説が
しきりに起こり、三好長慶と言えどもまたこう言った心があれば、虎狼の野心を挟んで公方家も如何有らんかと、
諸人心安からず、公方家もまた御用心有って、貴賤皆危ぶみ暮れた。

翌天文二十二年の春、正月二十七日、三好長慶は上洛し、伊勢守貞孝と相談して営中洛中の政事を沙汰し、
京都は暫時静謐となったが、猶も人心は安からず、同三月、晴元方の浪人、一揆等が山城国の畑という場所で
蜂起したのを、長慶の執事である松永弾正久秀が馳せ向かって退散させた。

そうした中、三好長慶は摂州の芥川孫十郎が逆心したのを退治の為、同七月、京都を立って多勢で直に
芥川城に押し寄せ、城の向いと成る帯山に陣を取って向城を築き、遠攻めにせんと支度し日を送っていた
所に、この隙を見透かし、細川晴元が上洛して秘計をめぐらせ、様々に公方家に歎訴して長慶の事を讒言
した所、公方家も軽々しく御同意有って、晴元入道、江州の六角父子、その他の人数を催されれ、長慶を
誅伐有るべしとして、和睦は忽ち御改変あった。

かくして晴元入道も再度公方家の権を取って、縁者の六角父子その他所々の味方、譜代の輩、諸一揆を催し
京都に在る三好方の居宅などを一々に焼き払って悉く蜂起した。

この事が芥川へ注進されると、長慶は聞いて
「何ほどの事があろうか。しかし、先ず上洛して事の体を伺い見るべし」
と、芥川城には抑えの勢を差し置き、長慶は自身の人数、並びに河州の畠山高政、安見美作守等
都合二万余人を率いて、同八月朔日、芥川を引き払って直に上洛した。その威勢は辺りを払い、これに対して
中々一戦にも及び難く見えたため。公方家も晴元も早々に京都を開け、近江路へ御没落あり、朽木谷へ
入られた。

毎回のこのような軽々しき御事に、京童共も嘲りあった。この時、もし長慶が追尾して一戦に及んだなら
中々御滅亡疑い無い所であったが、長慶はいつもそういった沙汰に及ばなかった。
そして公方家に従わず京都に残っていた伊勢守貞孝などと洛中平安の政事をし、長慶はまた芥川に帰陣した。

それより公方家は朽木谷に居られたが、晴元や六角義賢の他に味方申す者も無く、次第に御衰微され、
この年の秋より永禄元年まで五年の間ここに御潜居あり、中々長慶を滅ぼされるべき御企ても思いつかぬまま
過ごされた。

續應仁後記

足利義輝二度目の京都からの没落について



103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 16:18:05.67 ID:1uSSZG/t
続応仁後記の時点ですでに三好実休之相は名前間違えられてるのか

足利義材の脱出

2020年05月04日 18:41

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 22:03:19.95 ID:lGyj4K0H
(明応の政変によって)この年四月、前公方(足利義材)は、上原左衛門大夫(元秀)と云う者によって
大和筒井城で身柄を確保され、直ぐに細川政元に計らい、将軍職を解官あって、忝なくも前将軍
義稙(義材)公を、伯々下部紀伊守に預け置き奉り、獄舎を造って入れ置き参らせ、遁世者ただ一人を
配膳の役に侍らせた。そして男女ともにかの獄舎に出入りすることは堅く制禁したが、前将軍家の
伯母御前の比丘尼御所が、通賢寺におられ、ただこの御方だけは、番人の免許を得られ、折々に
獄中へ御見廻さて、御物語あられた。

ある時、配膳役の遁世者が密かに、前将軍へ申した
「君、いかにもして早速にこの御所を落ちさせ給い、何方にも御座を移し、御運を開かれて下さい。
もし御本意を遂げられたならば、某の子孫を必ず取り立てて下さい。某は御跡に残り留まって、
水火の責めに遭おうとも、御行方は申しません。」

このように年頃に申し上げると、前将軍家はこれを聞き召され
「ならば、その意に任すべし。汝が忠義のほど、生々世々に忘れるべからず。子孫に至りては
必ず取り立て召し仕わん」と御約束有あった。

その後、前将軍家はすぐに御伯母御前と同じ乗輿に召されて獄舎の中を忍び出、安々と遁れ落ちられ、
北国へ御下向あった。

さて、その御跡にかの遁世者は、この事を深く隠し、何事も無かったかのように御座の場所に毎日
御膳を捧げつつ、また一人で御物語を申し上げ、今も前将軍家がここに御座有るようにもてなし、人知れぬ
ようにしていた。これは昔、鎌倉における頼朝卿の御時、清水冠者(源)義高が囚われ、落ち行き難き
状況だったのを、乳母子の海野小太郎幸氏が計らった事に相似ている。(源頼朝が木曽義仲の子である源義高を
誅殺しようとしたのを、彼の妻で頼朝の娘であった大姫の頼みで、海野幸氏が助けた故事)

こうして、十日ばかり過ぎてこの事は隠れなく顕れた。政元よりこの遁世者を搦め捕り、様々に拷問し
公方の御行方を尋問したが、ついにこの者は落ちず、後には河原に引き出され頸を刎ね捨てられた。

その日、伯々下部紀伊守の父である豊前守が頓死した。これを世の人々は皆、「伯々下部が公方に
悪しくあたり申せし御罰である。」と言い合った。また、この遁世者の行動を褒めぬものも居なかった。

應仁後記

明応の政変で幽閉された足利義材の脱出について



鈎の陣と将軍足利義尚の死去

2020年05月01日 19:47

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/01(金) 14:55:22.59 ID:bp+Neoaz
文明一党(応仁の乱の終結)の後であっても、諸国の兵革は止まず、先の乱の余類が猶国々に散在して、
互いに押領をした。中でも近江国の住人、佐々木六角四郎高頼は京の近国に在りながらその後上洛すること
無く、公方の御下知に従わず、我意に任せて逆威を振るい、剰え山門の領地を妨げて山徒の訴訟頻りであり、
猶以て差し置き難く、先ず彼を御征伐あらんと、この時長享元年(1487)九月十二日、新将軍家(足利義尚)は
数多の勢を御供として、江州へ御進発有った。

その日は坂本に到着すると、ここに暫く御陣を召した。越前の守護、故朝倉氏景の家督である弾正左衛門孝景が
多勢を催して馳上がり味方に加わり奉ると、直ぐに六角高頼を攻めた。高頼も一家を尽して出向かって合戦に
及んだが、新将軍家は御武勇を励まされ、御供の人々我劣らじと攻め戦ったため、終に高頼は一戦に打ち負け、
己の居所である観音寺城を落ちて、山賊の望月、山中、和田という者を頼んで同国甲賀山の中に隠れ、行方
知れずとなった。

このようになっても、新将軍家はそのまま置かれなかった。昔、宝筐院殿(足利義詮)の御時、南方(南朝)の
敵徒御退治として、畠山入道道誓(国清)等、京鎌倉、凡そ天下の大軍を催され、大樹(義詮)自ら南方へ
御発進あり、敵は不日に退散して国中治まった。敵は少々山中に隠れ居たが、「この上は何ほどのことも
出来ないだろう。」と、早速に御帰陣あった。しかし和田楠の輩は、その頃の南帝を守護し、身を潜めて
吉野の奥、賀名生の山中に隠れ居て、大樹御帰座の御跡に、幾程もなく立ち返り、国人等同意して又元の如く
蜂起したため、大樹南方御発進の功は無く成ってしまった。

その後、鎌倉御所(鎌倉公方)の(足利)基氏朝臣は、この事への反省が有り、東国で新田の氏族の御退治として、
鎌倉を出馬し、武州入間川という所に数年の間陣を取って、毎日敵徒を捜されたため、幾程もなく新田の氏族は
悉く誅伐され、御敵皆尽き果てた後、徐々に鎌倉へと帰陣したため、それ以後関東では再乱の煩い無く、諸人
安堵の治を成した。

然れば今六角も、御退治このままにて御帰座あれば又元の如く立ち返って、譜代の家人、重恩の国人等、また
彼に従って蜂起反復するならば、御動座征伐の甲斐無く、今度の序に、六角高頼を初めとして残徒一々に
尋ね出し、御敵の根を絶ち葉を枯らして、後難無きように御誅伐有るべしと、新将軍家は御下知有った。

ではあったが、この甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶えて非常に攻め入り難い場所であり、短期間に捜し出す事は
難しかった。且つまた、六角の残徒は数多にして、高頼の旧領は広く、一類所々に隠れ居て、不日に
御退治は成り難く、段々にかの輩共を捜し出して御誅伐有るべしと、同十月四日、新将軍家は坂本より
湖上を御船に召されて安養寺へ御陣を替えられた。

(中略)

斯くて長陣の間、御徒然を慰められる為。かつ御心得の為にとして、折々に春秋伝と孝経の講談を御聴受あった。
新将軍家は、常に天下の乱を退治し、泰平の世になされんとの御志深ければ、一日片時も御身をあだに
差し置かれなかった。翌年秋九月、新将軍家は内大臣に拝任された。この時御名を「義煕」と改められた。

そのような中、長享三年(1489)の春の頃、不意に御不例の御事があった。最初はただ仮初の様子であったが、
次第に重くなられ、治療も尽き果て祈誓も験無く、同三月二十六日辰刻、鈎の里の御陣所にて、義煕公は終に
御逝去された。御父君東山殿、御母公大方殿の御嘆きは例えて言うことも出来ないほどであった。

この君は御年未だ二十五歳、器量、才芸、皆以て世に超えられ、殊更天下の武将として御行跡いみじき物で
あったのだが、それが世を去られた事で、「偏に現在の天下の兵乱は、終に治まること無く、扶桑一州(日本)は
長く戦国の世と成るだろう」と嘆かれ、貴賤上下押しなべて一方成らず泣き悲しんだ。

新将軍家の尊骸は御輿に納め奉り、御供の軍勢が打ち囲んで、同月晦日、御帰洛あった。直ぐに北山の等持院に
入れ奉り、同四月九日、この寺にて御葬儀あった。勧修寺大納言を初めとして、武家昵懇の堂上方、各々参向し
給いて貴賤の参詣群聚した。この日、義煕公の寵臣で、幕府の権柄を司った結城越後守政胤、同弟近江新介尚豊は
その夜中に逐電した。

應仁後記

鈎の陣と将軍足利義尚の死去について



右大将拝賀

2020年04月30日 17:52

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 20:25:12.64 ID:JuT1MqJg
文明十七年秋八月、新将軍(足利義尚)は右大将に任じられた。そして細川政元も、未だ弱冠ではあるが、
父祖代々の職を継いで管領と成り、右京太夫に補任された。

翌文明十八年秋七月二十九日、右大将拝賀の為に新将軍家は御参内あり、御供の人々は(応仁の)乱後の
微力の身なれども、我劣らじと綺羅を尽くし、辺りを払って供奉した。
洛中洛外の貴賤上下、これを見物し奉った。
東山殿(足利義政)も桟敷を構えて御覧有り、大変に嬉しく思われたという。

礼儀の故実は二階堂判官政行に仰せ付けられ、次第作法を定められた。
先ず小侍所は細川右馬頭政賢が先陣を承り、騎馬十人を進ませた。その次に、雲客二十余人、その次に重代の
武士の行進で、番長(奉公衆の番頭)が随身した。次に帯刀左右十二番、その次に将軍家が御車に召され
参向あった。次に衛府官人、次に公卿二十人が御供した。菊亭大納言(今出川)公興卿が御簾の役、
柳原別当重光卿は御沓の役を勤められた。次に畠山政長の嫡子、御児丸尚順、佐々木治部少輔経秀(京極材宗)、

伊勢備中前司貞陸、富樫介政親、等が各々騎馬で、後陣は時の管領、細川右京太夫政元が、騎馬十騎を
従え、辺りを払って供奉した。

行列正しく、天気も更に快晴で。珍しいほどの壮観であった。

應仁後記

室町将軍は、征夷大将軍よりも右近衛大将の任官が重要視されていたと言われますが、
公武を挙げてそれを祝う様子がよくわかる記事かと。



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/30(木) 19:54:58.97 ID:SWuOrQ+n
>>131
義昭が結局なれなかったやつね>右近衛大将

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/01(金) 12:30:29.09 ID:dv9W74xS
大樹は主上への貢献がちと足りなかったておじゃる

文明元年、公方家の若君、今年五歳に成られ給うを、御家督に定められ

2020年04月24日 17:26

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 01:08:56.57 ID:6nyGY0u0
文明元年、公方家(足利将軍家)の若君(義尚)、今年五歳に成られ給うを、御家督に定められ、
花の御所に於いて諸大名の拝礼を受けられた。これは旧冬、今出川殿(足利義視)が当方を御退去あって、
山名方へ御成あり、例え御心私有らずと雖も、この時公方家に敵対したような形勢となり、これによって
花の御所にては、今更憚る所もなく、この若君を御家督に定められ、持て囃し奉った。
管領には細川勝元、当職として赤松次郎政則を始め、京極武田以下、大小名皆々当方に在り合わせる衆は、
若君へ御礼申し上げた。この時若君は、伊勢守貞宗の膝上に懐かれ給いて拝礼を受けられた。

さてまた、山名方にては今出川殿を公方に取り立て参らせて、一方の主君と仰ぎ、同月八日、
山名入道宗全を始めとして、畠山義就、斯波義廉、その他西陣に在る大小名皆々今出川殿へ、
御太刀御馬を献上し、これまた拝礼申し上げた。時勢は一変して、公方が東軍西軍の両所に御座有る故、
御兄弟(足利義政・義視)の国争いのような情勢と成った。

應仁廣記

応仁の乱での、足利将軍の分裂について。



【雑談】鞆幕府の事など

2020年04月15日 18:13

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 13:07:49.42 ID:jIv+KTSX
鞆幕府臣の槙島昭光なんか、義昭、秀吉、秀頼、細川忠興をわたり歩いてるくらいだか、象徴のような人がいれば誰でも良かったんじゃない。

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 18:25:34.16 ID:uIRW+Jo/
>>958
福山は以前旅行で行ったことあるけど、こんな所に幕府があったのかと俄かには信じられなかったわ
古河や堀越みたいにただ単に(元?)将軍や一族の御座所があっただけっていう感じかな

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 20:12:05.94 ID:7LJ4emYp
>>986
短期間で終わったところってどこでもそんなもんだろ
藤原京に長岡京、神戸の福原京に吉野の南朝
京だって、内裏はともかく室町幕府の跡地なんて何も無い

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 20:24:00.73 ID:EkEf6t4K
>>987
そいえば、今、室町殿の発掘調査中で、結構面白い記事が出ているよ
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/215601
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kyoto/20200410/2010006378.html

埋め戻すのもいいけど、庭とか復活させてくれたてもいいなぁ

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 20:56:48.86 ID:uIRW+Jo/
昔、バラエティか何かの番組で足利将軍家の子孫の爺さんがおって、顔パスで無料で
金閣に入れるんやでって自慢してたの覚えてるわ、文化財で所持者子孫ならばタダとか粋な心意気だ

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 21:38:40.48 ID:mR8Aoc+2
有馬家も有馬記念に招待されてたよ
孫の代になってご遠慮くださいになったけど

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 21:43:25.42 ID:gtEs0gk7
一方ブラタモリでは、内藤氏の末裔が敷地へ入る際に自動改札みたいなゲートで止められていたっけw

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 22:07:53.29 ID:wKITc2tn
鞆は一度遊びに行ってみたい街だなぁ

江戸時代の整備で戦国遺構はあまりないのかもしれんけど

飛石を置くように成った始まり

2019年08月20日 16:46

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 11:49:16.51 ID:F3+wKcVZ
露地に飛石を置くように成った始まりについては、東山殿(足利義政)の御時、洛外の千本に
道貞という侘数寄の者があり、有名であった。そこで東山殿も関心を持たれて、鷹狩の帰りに
道貞の庵をお訪ねに成った。この時、狩りの帰りであり足元は草鞋であったので、汚れ無いよう
同朋衆に雑紙を敷かせた。東山殿が帰った後、道貞は東山殿のお通りになった跡を写して。その
場所に石を置いたという。

また、道貞の露地に植えてあった桂の木は、その後道貞桂と名付けられたと言われる。

(長闇堂記)



尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい

2019年07月04日 15:42

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?

数寄がいつ始まったのかは知らず

2019年06月27日 16:43

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/27(木) 00:56:32.32 ID:sHh9FB6b
数寄(茶の湯)がいつ始まったのかは知らず、道を知る人々に尋ねても、定かではありませんが、
おおよそ東山殿より起こったと考えられます。東山殿というのは慈照院殿の事で、将軍の時は
足利義政公と申し上げました。

将軍の位を子に譲られ、東山に隠居されて、長年お慰みに茶の湯を楽しまれたとのことです。
珠光(茶の湯の祖とされる)もこの頃の人であるそうです。これは文明年間(1469~87)にあたります。
一休和尚や東野州(東常縁)など、この頃には多くの名人が世に出た時代と言われます。

東山殿は道具を好まれ、天下の名物が多く集まったといいます。つくもがみという茄子茶入も、この方の
御物でした。掛物も多く所持され、七百幅あったと伝えられています。能阿弥、芸阿弥、相阿弥という
三人の同朋衆が書いた掛物の外題(掛物を巻いた外側にある筆者や画題の書付)が今も残っています。
三幅一対、五幅一対に大小があるので、天井の廻り縁の下に溝を通して、折釘が左右に動くように仕込み、
大小の画幅を掛けられるようにされたそうです。

珠光は南都(奈良)の人で、眉間寺(佐保山にあったとされる東大寺末寺)あたりに屋敷があったと
言われますが、現在その場所を定かに知る人はいません。

(長闇堂記)

茶の湯の始まりについての長闇堂記の記述。足利義政から始まったという理解が有ったのですね。



義冬を義賢が介抱したのは、

2019年06月24日 14:47

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 22:57:31.83 ID:wQi0OLzi
  義冬(足利義維)に付下侍之覚。

  富永豊後守據宗。           和州高市住人。(兵部少輔父也。)
  結城但馬守重正。           駿州志多住人。
  小寺新右衛門。            阿州松原住人。
  荒川民部少輔珍国。          三州八名住人。(弥三郎父也。)
  森小平太時常。            越前長坂住人。
  村井権内。              関東者。
  天代十郎左衛門。           武州者。
  浅田将監延房。            摂州浅田住人。
  乾鵜之助定直。(後号太郎右衛門。)  河州谷江住人。
  西山源八。              讃州志渡住人。
    今の志渡の玄雪という者はこの源八の孫である。
  堀喜左衛門景盛。           江州之住人。
真淵伊豆守忠元。           但州出石住人。
    親は出石刑部という者である。
  安井源右衛門。            中国者。
  三江兵庫。              播州野口住人。
  湯浅次太夫兼綱。(小次郎父也。)   阿州長山住人。
    
    侍分以上15人。
    都合360人が付き下ったということである。

  以上の侍どもは義冬に仕え忠義は浅からぬものであったが、牢人した事故、扶持すること叶わず、
  三江・富永・結城・乾・荒川・湯浅、以上の6人が残り、その他は暇を遣わしたのである。


一、義賢(三好実休)は持隆(細川持隆)を討ち取って以後、三好民部入道を使いにして義冬へ申す
  には、「徳雲院殿(持隆)は御身を失わせ給うとしても、義冬の御事は別儀もございませんので、
  御領地はまったく相違ありません。只今までのように当地におられますよう」との由を申し越す。

  「徳雲院殿なき以上は、どこへでも立ち退く」との由を義冬は仰せなさるも、民部入道が達て制
  し申すことにより、それならば重ねて御返事なさると宣った。

  持隆の失せた後に、清雲院殿(養父・足利義稙の正室。本書では義維の生母)は勝瑞に居合わせ
  なさる。「もしかすると、義冬はいずこへも立ち退きなさるかもしれない」と、義賢は清雲院殿
  を勝瑞に2,3年も留め置いて平島へ戻し申さぬ故、義冬はどうしようもなく留まりなさった。

  義冬を義賢が介抱したのは、その時の将軍義輝公はいかがなされたのか義冬を親切に思し召した
  ことにより、義賢も少しは敬ったのだということである。

  そんなところに天文23年(1554)3月、清雲院殿は病死なさる。一周忌の後、御下りなさ
  る旨を義冬が仰せられると、義賢ももっともと思い、大船3艘を調えて弘治元年(1555)4
  月10日に周防へ下りなさった。

  供した侍6人の内、乾定直は上方の様子を知るために河内へ戻しなさる。湯浅は阿波の者なので
  義賢に預け置き、残る4人は妻子までも供をした。大内介(大内氏)は殊の外もてなし、小原と
  いう所に居所を構えて義冬を居住させ置いて、大切に致したので永禄6年(1563)の秋まで
  周防に居住した。

――『阿州将裔記』