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これぞ二佛の中間といふ

2022年08月20日 18:19

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/19(金) 22:16:51.61 ID:5B9ZDfFj

悪逆をなした明智日向守(光秀)が召し使った、鑓かたげ(鑓持ち)の中間があった。
六尺ゆたか(約180センチ超)なる男で、あまりにも大きいと、人はみな「おふほとけ」(大仏という意味か)

と名をつけた。

この者、日向殿へ何やら不足があって、頭を剃って引き籠もった。日州これを聞いて、久しきもので
あるからと、不足を叶えて呼び返され、又鑓をかたげた。人々はこれを見て一首連ねた

「おふほとけ あたまをみれば また佛 これぞ二佛の中間といふ』

寒川入道筆記



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/20(土) 11:53:16.25 ID:09wOHaV6
にぶつ【二仏】 の 中間(ちゅうげん)
釈迦が入滅したのち、五六億七千万年を経て、彌勒菩薩が仏となって出現するまでの中間の時期。
この期間は、無仏の世であるから、地蔵菩薩が仏にかわって衆生を救うという。

検索してきた

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/21(日) 09:02:58.98 ID:iOUIyI9Q
大(おお)は古語で「おほ」だったね。

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/21(日) 12:44:24.85 ID:AmPbRHnx
字面だとアへ顔感でるな
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流石にその親にその子である。

2022年03月24日 19:05

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/24(木) 17:52:15.63 ID:w8CAMmwt
明智光秀の臣であった熊谷宅右衛門の子・宮内は、後に水戸光圀公に仕えた。
彼は不思議な人物で、能の達人であるという評判を光圀公が聞き召され、度々能を仰せ付けられたのだが、
兎角に病気などと申して、終に勤めなかった。

ある時、江戸にて客の接待が有った時、又々能を仰せ付けらてたのだが、この時は相勤める旨を申し上げた。
しかし光圀公は、当日に至って詐病を言い立てお断りを申すと思し召されていたのであるが、何事もなく
相勤めた。
彼は元より音に聞こえたほどの上手であったので、大いに御感有った。
ところが能が終わって楽屋に入ると直ぐに、病と称し、その後五十日ほど罷り出でなかった。

その後は絶えて能を仰せ付けられることは無かったが、いかなる思召か、やがて足軽を御預けあった。
そして御鷹野などの節はいつも召し連れられた。

ある時、夜詰の折に様々の咄を申した諸に、芸の話になったのだが、宮内はこのように申した

「士は第一に、芸の為に名を奪われないことが大事なのです。これを悪しく心得ると、肩に出来た瘤が
首を押しのけるようなものです。芸ばかりになってその身は無用の人となってしまいます。」

と申すと甚だ御感あり、「流石にその親にその子である。」と仰せになった。
その後御側の衆に「宮内が私の申し付けた能を度々受けない事に、なにか思慮が有るのだろうと
思っていたが、私の所存の通りで満足である。」と仰せになり、宮内は一両年の内に政事にも
預かるようになった。

(紳書抄)

明智光秀の家臣、熊谷宅右衛門の子についての逸話



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/25(金) 13:24:13.57 ID:h8ZDB8vG
人から達人と思われていても本人が納得してなかったのなら披露できないよね

その願が満たされるまで

2022年03月14日 18:19

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/14(月) 13:54:55.47 ID:LugW9j32
井戸忠右の家に伝わる話によると、井戸若狭守明智光秀の親族であったという。

槇島城に在った時、明智はこのように言った
「それがし、思うことあり。その願が満たされるまでは、大国は与えない。小国を一つ参らせよう。」
これを若狭守も聞き咎めぬ顔で居たが、その後光秀は遂に謀反した。然ればこれは光秀が、昔から
その謀反を考えていたという事であり、一朝一夕の思いつきでは無かったという事なのだろう。

紳書抄



お前の子供を我に預けてくれれば

2022年01月29日 15:34

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 18:45:33.10 ID:UuGmdRex
朝野雑載」より

明智光秀が丹波入国の時、亀山の町中を通っていると、14,5ばかりの童子が通りに足を出していた。
光秀が、童子の父で鍛治屋をしているものを呼ぶと
鍛冶屋「せがれですが元来足萎えなもので、御通りの際にたいそう無礼なことをいたしました。不具のため、どうかお許しください」
光秀「いやいや無礼をとがめたのではない。
かの者の眼差しを見るに常の者ではないと感じたためだ。
お前の子供を我に預けてくれれば養生を加え、もし病が癒えれば召しつかってやるぞ」
と言ったところ、父母は大いによろこび、すぐに童子を差し出した。
光秀が有馬の湯へ五七(三十五)日入れたところ、たちまち筋骨がのびて全快した。
光秀が小姓としてつかったところ、学ばずして知り、習わずして悟り、三宅弥平次としてまたとない出世をした。
二十一の時、光秀は苗字と名前を与え明智左馬助光遠と名乗らせ、斎藤(利光)、柴田(勝定?)と同様に家老とした。

というわけで明智秀満だか光春だか光遠が光秀に召し抱えられる話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13255.html
残金は後でやるぞ
読んでいてこんな展開になるんじゃないかとヒヤヒヤした



985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 21:21:40.73 ID:4zdSNWoW
温泉に一月ちょい入っただけで全快する足腰の病気って何だったんだろ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 21:37:03.64 ID:UuGmdRex
16才未満で起きる若年性関節リウマチで一時的に関節炎がひどくて特に寒いと症状が悪化し起き上がれなかったが
温泉で温めることによりリハビリがうまく行った説

明智秀満の素性も様々な説があるので考えるだけ無駄かもしれないけど

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:38:25.10 ID:VMzXvsVK
信長だったら不具なら足はいらんとか言って切断しそう

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:47:58.80 ID:hDc7u9xE
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1091.html
信長と山中の乞食・いい話

むしろ不具の乞食を援助している逸話があるのだが

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:49:08.55 ID:7sLbs1mK
ノブは民衆にはやさしいよ。敵対勢力には容赦ないが。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 13:37:33.90 ID:0D4nYdNh
信長が優しいのは親しい奴だけ
低信用社会に相応しい振る舞いをしてる

信長の京では品よく大人しくしとけという命令を破ったらどうなるか?

信長の命令通りに職務を遂行しようとした関所役人を斬って
更に放火しても森長可は親しいので無罪

建築中の二条城で小者が女の顔を覗き込む迷惑行為に遭遇した信長は
すぐさま駆け付け首を斬り飛ばした
小者は面識がないから躊躇なく殺す

ヤクザと同じで身内やそれに準ずるものには優しいが
それ以外は基本的に冷酷で気分次第
ねねに対して秀吉の浮気をフォローする一方で
女癖の悪い無名の家臣を処分してたりするし

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 14:17:10.77 ID:/ljEY9Dk
秀吉 「俺は信長(呼び捨て)みてーに甘くねえぞ!キリキリ働けこの野郎!」
脇坂 「」

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 14:41:06.63 ID:ruu5vpAV
>>991
この、旧主の諱を呼び捨てで書簡中に入れるのって当時の作法に叶ってるの?
故人だから許されるのか

君臣共に悪逆を共有している

2021年03月30日 18:09

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/30(火) 17:42:46.03 ID:N0+W4jyb
明智光秀は天正七年六月、修験者を遣わして丹波の守護、波多野右衛門太夫秀治の元に、光秀の母を
人質に出したため、秀治はその弟である遠江守秀尚と共に本目の城に来たのを、酒盛りをして饗し、
兵を伏せ置きて兄弟を始め従者十一人を生け捕りにして安土に遣わした。秀治は伏兵と散々に戦い、
この時傷を蒙り途中にて死した。信長は秀尚以下を安土にて磔とした。
丹波に残った者達は、明智の母を磔にした。
そして明智は終に赤井等を攻め従え、丹波を信長より賜った。

また信長、ある時酒宴して七盃入の盃を以て光秀にそれを呑むことを強いた。
光秀は「思いもよらず」と辞し申しと、信長は脇差を抜き
「この白刃を呑むべきか、酒を呑むべきか」
と怒ったため、光秀は酒を呑んだ。

その後、稲葉伊予守(良通)の家人を、明智が多くの禄を与えて呼び出したが、これに対し稲葉は
返還するように求めたが戻さず、信長からも「戻せ」と下知されたにもかかわらず従わなかった。
信長は怒り、明智の髪を掴んで引き伏せて責められた、この時光秀は
「国を賜り候へども、身の為に致すような事はせず、士を養うを第一としているのです。」
との内容を答えると、信長は怒りながらも追求を止めた。

東照宮(徳川家康)御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜられた、種々饗礼を設けたが、信長が
鷹野の時、立ち寄って見て、肉の臭くなっていると草鞋にて踏み散らした。
光秀が又新たに用意している所に、備中に出陣せよと下知された。
これに光秀は忍びかねて、信長に叛いたのだという

であれば、信長の暴なること元より論を待たない。
光秀は土地を攻略するために老母を人質として殺すという不孝を、信長は賞した。
君臣共に悪逆を共有している。終わりを良くせざること、理である。

常山紀談



明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

2021年02月24日 19:17

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 18:55:29.04 ID:f7Vz/0wo
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1120.html
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

天王山の戦いの陣中で神官、僧侶、医者、御用達の町人が光秀のご機嫌伺いをしている中
烏丸二条下るの町人、塩瀬三右衛門が饅頭などの菓子を持参した。
光秀がその中から粽を取り出し、食べようとしたところ
鬨の声が聞こえたため、包み葉も解かずそのまま食べてしまった。
そばにいた人々は「さては光秀といえども心臆して狼狽したか」と囁いたが
他のものは「いやいや名将は軍のことをのみ考え寝食を忘れてるのであり、
包み葉を解かなかったのも軍を気にかけている名将としての証である」
と評したという



605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 19:31:08.70 ID:f7Vz/0wo
太閤真顕記」では塩瀬三右衛門が烏丸二条下ルの町人となっていましたが
塩瀬家が饅頭屋を営んでいたことから名前がつけられた
饅頭屋町の住所は烏丸三条通り下ルなので、三条が正しいみたいです

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 11:18:27.80 ID:vxvxZf9F
京都の上る・下るは良くわからんから調べてみたが
この場合は烏丸通りと二条通りの交差点(四辻?)を
南に行った所でいいのかな?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 13:11:43.82 ID:9+K9E1ef
厳密に言えば玄関がどこの通りに面して、どの交差点から近いかだな
烏丸通りと二条通りの交差点を南下すれば最短で塩瀬家に入れる

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 14:53:29.62 ID:vstcWqSj
https://dotup.org/uploda/dotup.org2396640.jpg
ちず

このように烏丸通りと三条通りの交差点の南に
「饅頭屋町」は今も位置している

いよいよ御勿体なき御分別かな

2021年01月02日 17:21

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/02(土) 00:09:24.98 ID:BlHmGHBQ
明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、丹波の城の天守にてこのように言った
「私は信長に恨み多し。その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。どうだろうか?」

弥平次承って
「御恨みの事は、さもあるでしょう。しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」

そのように言葉を尽くして諫止すると、光秀もややあって
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日この話は止んだ。

その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、四人の家老を召し集めて、
先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、弥平次が申すことと変わらず、その時
光秀も、とくと分別定まって、「ならば皆々、この事を深く秘すべし」と約した。

その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して
「近頃私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした、その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、弥平次はこれを聞くと

「いよいよ御勿体なき御分別かな。それがし一人の口はいかようにも止められますが、
四人の口を止めさせるのは困難です。天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。時を移されれば、一大事と
なるでしょう。」

そう荒々しく申すと、その時光秀は、困難に直面した気色にて、前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが然るべしであろうか」とあった。
「ならば、家老共を召されて、『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている
事について、仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように』と、仰せになられるべしです。」

こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、終に
信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。

その後光秀は、京の定めをあらまし仕置して、安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に
弥平次を呼んで
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。弥平次はこれを聞くと「私のようなものを!」と、自分の鼻を指差して
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。

この談合の次第は、信長記にも見えないが、この時の状況をよく知っている人の言うままに、
ここに記す。

備前老人物語



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 00:11:51.94 ID:BFsaYPMf
江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね

左馬之助ってどっから来たんだろ

指合あればざうさなく直したり

2020年12月20日 16:51

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 09:40:35.21 ID:CZer3LRV
指合あればざうさなく直したり

烏丸光広が歌道の師・細川幽斎の言行を中心に書き留めた『耳底記』という書に
明智光秀の話題が出ているので抜粋して意訳。

一、雑談に云う。
  明智は連歌に指合(連歌の式目に違反していること)があれば簡単に直していた。
  全く(上の句、または下の句を)詠み加えることを知られていない理由である。
  馬を乗るのにも殊の外、上手や下手がある。乗らぬ先にすぐ馬が知るのである。
  それは下手は、乗るときに地団駄を踏んでからやろうとするのだが
  上手は、何ということもなくゆっくりと乗るように見えるのだ。



774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 12:54:43.63 ID:IIkZwpit
隠れていても馬は臭いでわかりまするぞ

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 16:25:47.72 ID:0oo/Xw6N
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7020.html?sp
湯浴みを嫌がって泣き出すような烏丸光広のほうが臭うのでは?

明智令押領之由被聞食訖

2020年11月25日 17:02

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 15:12:48.57 ID:OxAEvWpj
元亀二年十二月十一日

早朝、竹門より御使として宮内卿が来られた。禁裏より織田信長へ綸旨を出すこと、
同じく薫物(たきもの)十貝を渡すことへの異存について返答した。
綸旨の内容は、このようなものであった

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖
諸門跡領之儀者、為朝恩天下安全之護持之事候條、
可混山門之儀更不可有之候、既及退転之間歎思召候、
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者、可悦思召之由、
天気所候也、仍執達如件、

(今度の山門(比叡山)の事について、諸門跡の領地を、明智光秀が横領していると(天皇が)聞き
及ばれました。
諸門跡領については、天下安全を護持するための朝恩であり、山門領と一緒にすべきではありません。
既に退転に及んだというその嘆きを思し召され、諸門跡領悉く、別儀無いと申し付けられれば、
悦ばしく思われるでしょう。
天気(天皇の意思)所候なり。執達件の如し)


十二月十日  左中辨 晴豐
   織田彈正忠殿

言継卿記

比叡山焼き討ち後、明智光秀が諸門跡領まで横領したことに対して、朝廷よりその停止を求めた
信長への綸旨。



佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う

2020年11月23日 16:16

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/23(月) 13:00:14.80 ID:ZmTOtX/e
日向守明智(光秀)云わく、佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う。
土民百姓はかはゆきこと也、と。
名言也

老人雑話

有名な話ですが、出典は老人雑話だったのですね



中でも美濃国は光秀の生国なれば

2020年10月26日 17:34

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/25(日) 01:25:47.09 ID:TcotcfKQ
しかるに土岐一族の明智日向守光秀は弘治2年(1556)の秋に当国(美濃)を出てその翌年より
6ヶ年の間、国々を遍歴してその後に織田信長公に仕え、15年の内に68万石を領した。もっとも
智謀軍慮を兼ね備えていた徳である。

しかるに、主君の信長公は元来良智の大将なので、折に触れ時に寄せて光秀を召され諸々の事を尋ね
給う。しかしながら光秀は、一度もその問いの趣を知らないということがなかった。

ある時に織田殿が光秀に尋ね給うには、「汝は諸国を修行したので、およそその国の人の風俗の善悪
を知っていることだろう。どの国は善であるのか、かつどの国は悪いのか、その心を見たるところが
あらば、語り聞かせよ」と宣う。その時に光秀はあらまし国々の人風を言上するに及ぶことがあった。

しかしながら光秀は諸国修行を志してその国を領する太守の政道、将の心持ち、家中の諸士の剛臆を
見て、仕官を志していた故に人風を知るはずもなくとも、少しずつ日を重ねて逗留する内にその地の
人に接して察しただけである。しかしその察したことが、格別(信長の望むところと)相違していな
かったところは、もっとも御感あったことであった。

中でも美濃国は光秀の生国なれば、風俗の良き国と言うのも如何なものかと(信長へは)申し上げな
かったものの、元来濃州は代々良将の住む国故、おのずと人風もよろしき国であると(光秀は)家臣
などへ話したのだという。

これによって古は知らないが、近代に濃州より出でてその名をいささか知られた武士について、あら
ましを挙げきれない。もっとも土岐・斎藤の一族だけに限ったことではない。

明智日向守光秀、蜂屋出羽守頼隆、妻木長門守忠頼(省略。美濃出身の武士を列挙)この他に当国よ
り出でて大家に仕官の面々は数多ありといえども、際限なきによりあらましはここまでを記した。

――『美濃国諸旧記



見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時

2020年08月14日 17:01

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 15:32:16.74 ID:1KuHNIZk
明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時、本能寺に我等より先に入ったというものがあれば、それは全て嘘である。
その理由は、信長様に切腹させるとは夢にも思わなかったからである。
その頃、太閤様が備中に輝元殿を討ちにいっておりその援軍に明智が行くことになっていた。
山崎の方に向かうと思っていたのだが、思いとは違い京へと行くことになった。我等は、その時に家康様が上洛していたので、
家康様を討つとばかり思っていた。本能寺というところも知らなかった。
人衆の中から、馬に乗った二人が出てきた。斎藤内蔵助の息子と小姓であった。本能寺の方に行く間、我等はその後に付き、
片原町へ入った。
二人は北へ向かい、我等はみな堀際へ東向きに向かった。
本道へ出ると、橋の際に人が1人いたのでそのまま我等は首を取った。
内へはいると、門は開いており、鼠のようなものすらいなかった。首を持ったまま内へ入った。
北から入った弥平次(明智秀満)殿の母衣衆二人が首は打ち捨てるように言われたので、堂の下へ投げ入れ、正面から侵入したが、
広間にも一人も人はいなかった。蚊帳がつってあるだけで人はいなかった。
庫裏の方より髪を下げた白い着物の女を捕らえたが侍は一人もいなかった。女は「上様は白い着物を召されている」と言ったが、
それが信長様のことだとは知らなかった。その女は斎藤内蔵助殿に渡した。
御奉公衆は袴・肩衣、股立を取り、2・3人が堂の中へ入ってきた。
そこで首を又一つ取った。その者は、一人奥の間から出てきて、帯もしていなかった。刀を抜き、浅黄色の帷子で出てきた。
その時、多くの人が入ってきてそれを見て敵が崩れた。我等は蚊帳の陰に入り、かの者が出てきて過ぎていくところを後ろから切った。
首を二つ取ったので、褒美として槍をいただいた。
「本城惣右衛門覚書」



262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 21:23:11.70 ID:h/4i2y9k
>>261
これは出所が古書店というのが惜しい
高齢ゆえ記憶違いはあっても、大筋は合っていると個人的には思うけど
そういえば、226の兵隊もまさかクーデターとは知らなかったから、本城の記録も正しいとかどっかのサイトで指摘してたな
イエズス会の記録でも家康暗殺の噂があったというが、それが真実味を帯びて語られる土壌があったと
武田征伐後からの信長、家康双方の接待合戦なんかを考えると、なぜそんな話が広がったのか理解に苦しむのだが、みなさんはどう考える?

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 07:51:45.79 ID:9aPcvoDD
以前家康は武田に内応しようとしていたが信長に察知され止む無く信康に罪を被せ家を保ったが今回武田が滅ぶことになり武田方から家康が謀反しようとしていたとの噂が信長の耳に入り必要以上に真偽の確認をして家康暗殺計画に至ったと考える

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:24:31.27 ID:b1boNngP
あるわけねーじゃん

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:47:40.02 ID:Cy2by8PS
>>262
明智家中では家康はライバルだから、信長よりは殺す対象として適切と思われてたんじゃない?

六月十三日に相果て、跡形も無くなった

2020年07月17日 18:29

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 22:09:55.77 ID:4Mxqh86c
明智日向守(光秀)はかつて一僕として朝夕の飲食さえ乏しい身であったのを、織田信長が取り立てられ、
坂本の主とし、その上丹波国一国一円を下された。にもかかわらず、かかる不思議(本能寺の変)を思い
立ったというのは是非に及ばぬ(理解の出来ない)次第である。しかし忽ち天責を蒙り、六月十三日に相果て
跡形も無くなった。(この時明智の歳は六十七であった。)

一方、織田信長は近年(天下の)政務を執り行い、無道もこれ無き所に、このように横死されてしまったこと、
偏に(信長の高野聖殺害に対する)弘法大師の法罰が当たったのだと言われた。

当代記



205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 23:20:14.56 ID:SbkCxOUQ
>>204
関連として、太田牛一とフロイスによる本能寺の書きぶりの微妙な違いが気になる
牛一は逃げのびた女房衆に取材している可能性がある
フロイスの場合、南蛮寺が本能寺から至近
ほぼ共通の噂か証言があったと思ってるんだけど

光秀のその明鑑

2020年06月25日 17:01

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 13:51:19.37 ID:zIRpi3LD
明智光秀が未だ十万石ばかりの頃、堀辺兵太という浪人が有り、荷俵を背負って現れ、「千石賜らんや」
と言った。光秀はこれを聞き、彼に料理などを出すよう申し付け、その間に密かに彼の荷俵を開かせて
みると、中には長身の刀槍が、いかにも見事に研ぎたて入れ置かれていた。光秀はこれを見て
「面白き志の侍なり。」
と言い、そして望みに任せて千石を与え召し抱えた。

その後、彼は数度の武功があり、丹波にて光秀が負け戦の時、堀辺は一番に取って返し討ち死にした。
人々は光秀のその明鑑に服した。

名将言行録



五重の天守を建てられ然るべし

2020年06月24日 18:00

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 05:42:21.15 ID:HdBIPCnD
織田信長が安土に城を築く時、明智光秀に意見を問うた。光秀は里見義弘、大内義興等の天守の事を申し、
「当御城の義は天下を知ろしめすべき御城なれば、五常五行を表し、五重の天守を建てられ然るべし」と、
故実などを委細に申すと、信長は大いに喜び、光秀を奉行として天守を建てられた。

名将言行録

里見義弘や大内義興に天守を建てたという話があったみたいですね。



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:01:34.87 ID:Dcg4FVjg
安房国館山が三層の天守、周防国山口が四層閣らしいぞ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:10:40.60 ID:Dcg4FVjg
ただし館山は義頼、義康が築城したらしいので創作くさいね

光秀は寺跡ばかりに心を入れたる

2020年06月23日 17:15

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:37:15.71 ID:7CjeOt33
朝倉義景明智光秀に問うて曰く

「昔は要害のために山に城を築いたが、近年は鉄砲が出来た事で、何れの場所が居城に然るべしと考えるか。
詳しく語り聞かすべし。」

これに光秀は
「御意の通り、高所に登り大銃を撃ちかけます故、要害から二十余町も外の山は問題は有りませんが、
ただし兵法に『国を治め家を安んじ、人を得る也』と申します。また軍歌に『人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方怨は大敵』とあることも考えれば、あながち城郭に頼り切るべきではありません。

但し、当国の事について思案を廻らせると、平城にては北庄、山城であれば長泉寺が、然るべき城地であると
考えます。」

義景が重ねて問うた
「加賀に於いてはどのような場所があるか」

「加賀に於いては、小松寺の辺りが、大形の地であると考えます。」

「また上方に於いてはいかなる勝地があるか」

「京都近辺には見及びません。さりながら殿の御縁者である摂津大阪の本願寺の寺内こそ、無双の境地と
考えます。」

そう答えると、義景はこれを聞いて
「光秀は寺跡ばかりに心を入れたる者なり」
と言って笑ったという。

名将言行録



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:43:48.93 ID:migwR6XE
名将言行録はほんとにアレだな…
作者自身が作ったような逸話が平気で載る。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:44:29.64 ID:gfEb8r5a
そもそも作者が「巷の俗説や怪しい話もあえて載せた」と断ってるしこの手の逸話集には珍しく出典も入れてる

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:53:41.79 ID:zixBkBM0
あえて載せたと言って断ってるものを鵜呑みにしてた読み手さんサイドの問題か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 18:02:25.81 ID:zm69SwQt
開山した空海や最澄、蓮如なんかは築城に秀でた兵法者って事でいいのかな?

光秀に子数多あり

2020年05月20日 18:31

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/19(火) 22:05:36.04 ID:GE2pY8cr
光秀(明智光秀)に子数多あり。嫡子を作之丞光重という。母は山岸勘解由左衛門尉光信(光秀の
叔父)の娘にして、千草という美婦であった。光秀が部屋住になっていた折、遊客となって山岸の
もとに来たり、桂の郷の下館にしばらく居住したのだが、ともに若年の頃なる故に密通して設けた
長男である。これによって明智氏の家督にならず氏を憚り、母方の氏を用いて西美濃に居住し、子
孫は郷士となって存在した。

次は女子なり。母は妻木勘解由左衛門範煕の娘で本室である。この女子は明智左馬助光春の室なり。
次の女子は同治右衛門尉光忠の室なり。次の女子は細川越中守源忠興の室なり。次の女子は織田七
兵衛尉信澄の室なり。

次は男子にして明智千代寿丸という。後に十兵衛尉惟任光慶という。次の男子を十次郎光泰という。
次は乙寿丸というなり。

他に養女あり。盛姫という。嫡家・光重の室なり。実はこれ土岐要人助盛秀の娘なり。古今希代の
英婦にして、光秀・光重に先立たれて後に自ら大義を志して国々の諸大名を語らい、羽柴の世を傾
けんと欲した程の烈婦であった。

また他に妾腹の男子あり。子孫は細川家にいると言われている。実はこれ左馬助光春の一子である
ともいう。また一人の男子あり。丹波の国桑田郷にその子孫ありという。

しかるに明智の城は弘治2年(1556)に落去してより後に守将なし。斎藤滅びて織田の支配と
なり、また光秀先祖代々の旧跡だからと拝領して家臣の石森九郎左衛門を代官として置いた。地形
のみで改築はなかったのである。

――『美濃国諸旧記



ここを落ちて存命をなし、明智の家名を立てられなされ

2020年05月17日 16:39

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:19:59.93 ID:Noq7djiy
しかるところ、当国の守護職・斎藤右京大夫義龍は実父・頼芸の仇故に養父・道三と父子の義を断
ち合戦を初め、弘治2年辰(1556)の4月、方県郡城田寺村でついに道三を討ち取り、一国を
押領し“一色左京大夫”と改めて稲葉山の城に存在した。

まことに道三の多年の不義は、諸人皆がこれを憎んだ故に、その日の合戦には多くが子息の義龍の
手に加わり、道三のもとへ馳せ参る者は少なかったのである。しかるに、明智兵庫助光安入道宗宿
は兼々道三に尊敬されて常に厚情を尽くされた。元来、宗宿の妹は道三の本室である。もっとも早
世したといえども、一度縁者の因を結んだ仲であった。しかし、宗宿はもとより大丈夫(立派な男
子)の勇士なので、道三の威を慕ったわけではない。縁辺の義父・駿河守光継入道宗善が在世の時
に道三が妹を乞い、太守・頼芸に申して縁結したものである。

道三は元来大志あった故に明智の家を一方の盾ともなす心であったので、常々礼儀を厚くして懇情
を尽くした。あるいは尾州の織田を他国の垣根となして、我が娘を信長に嫁がせた。皆大志の下心
である。弘治2年の春に至り、子息・義龍は義兵を起こし合戦に及んだところ、国中の諸士は皆実
義を糺してことごとく義龍の手に至り、道三方は微勢となってたちまち武威衰え、戦う前に道三が
打ち負けること必然と見えたのだった。この時に宗宿が思うには、

「某は今度の合戦こそどちらにも加わり難い。道三はすこぶる逆臣だから誅するのは利の当然であ
るが、彼が日頃私を重んじ厚情を尽くしたことは言葉に述べ難い。その下心の程は『身の上難儀の
事あらば頼みにしたい』との斟酌であろう。彼はまさに今大事の期に及んだ。某は恩情に心を引か
れて傾くわけではないが、彼が衰えたる時節を見て無体に攻め討つのは大丈夫のすることではない。

また義龍は実父の仇を討つと称して義兵を挙げたのに、某が道三に与力して戦えば土岐・明智の先
祖代々に対して大不孝と言えよう。故に両儀決せず、いずれも加わり難い。だが某は進退窮まった
といえども甥の光秀は当家の真嫡なれば、これ一人は義龍のもとへ参らそう」

と光秀のみを稲葉山へ遣した。さて弘治2年、鷺山の合戦終わり道三すでに討たれて後は道三一味
の面々ことごとく討死し、残る輩は皆義龍に降参して国中はようやく平均した。すると宗宿は決し
て出仕せず、つらつら思うことには「義龍は義兵の名ありといえども、(道三は)現在の養父にし
て胎内からの恩は甚だ深い。また先の太守頼芸には本室の実子が数多いる。長男の一色小次郎頼秀
は尾州にいる。二男の左京亮頼師もまた当国にいる。しかれば、これらをもって義兵を発したなら
ば実に忠義孝心であろう。

ところが今すでに義龍の代となり、私がまたこれに伏せば世上の人は憎んで『宗宿こそ懇情あった
道三をも助けず、また合戦の折には義龍にも組せず、命を惜しんで運を両端に計り勝負を眺め、ど
こへも出馬せず戦は収まり、義龍の代になったのを見てたちまち身を寄せた』などと嘲り笑われる
のも口惜しき次第である。殊に某は道三の尊敬を受けた身なれば、諸人の心は道三を心贔屓してい
る様に思って、義龍を始め私の心中を疑い思うのは必定である。

所詮長らえて諸人の口外に残るのも残念なり。ただ速やかに当城に立て籠もり、華々しく討手の勢
を引き受け討死し武名を残してこそ本意であろう。そうでなくても某が『道三と一腹ではないか』
と諸人の疑い思う折であるから、城に籠って出仕すまじと言えばすぐに討手が来るのは必定である。
某が潔く死ねば義ある道三のためにも道が立つ。主家の恨みは心にあれど現在の妹の婿の名があり、
厚情はなお甚だしい。

某50歳の上に満ちて惜しからぬ命を1つ捨てようとして死に迷い、恥ずかしき名を取れば清和天
皇より21代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一家を私だけで悪名を付け末代まで恥辱を残す
ことは無念の儀である。早く義龍方へ手切れの使いを送り、一門を催して当城に立て籠もり、討手
が来たら思いのままに戦って屍を大手の城門に晒し、本丸に墳墓を残すべし」と思惟を決し、討死
と覚悟を極めたのであった。時に弘治2年9月に至り、一門を催して明智の城に籠った。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:23:55.83 ID:Noq7djiy
大将の宗宿53歳、同次左衛門光久50歳、その弟・十平次光廉は尾州にいてこれを知らず。従う
一族には溝尾庄左衛門・三宅式部之助・藤田藤次郎・肥田玄蕃・池田織部・可児才右衛門・森勘解
由などを始め、その勢わずかに870余人であったが義心金石と固まり、心を一致して籠城した。

さて右の子細が稲葉山に聞こえると斎藤義龍は甚だ驚き「早く誅さねば東美濃の過半がこれに従う
だろう」と即時に討手を差し向ける。その時、揖斐周防守光親は義龍を諫めて曰く、「明智宗宿は
古今の義士なり。名を重んじ叶わないと知って籠城するのは大丈夫の振る舞いです。ただ速やかに
利害の使者を送り、ひらに帰伏の旨を申し宥めてしかるべきです」と、言った。

しかしながら義龍は血気の破将故にこれを用いず、ただ攻め討ちと決した。ここに至って揖斐も是
非なく討手に向かう。その人々は長井隼人正道利・井上忠左衛門道勝・国枝大和守正則・二階堂出
雲守行俊・大沢次郎左衛門為泰・遠山主殿助友行・船木大学頭義久・山田次郎兵衛・岩田茂太夫な
どを先手としてその勢3千7百騎。9月19日に稲葉山を出陣し、明智を目指して押し寄せた。

宗宿は少しも多れずここを先途と防ぎ戦った。元来、城の要害堅固にしてどこも破れる浅間も無く、
攻め兼ねて見合わせた故、その日はすでに暮れていった。よってその翌日、再び鬨を発して攻め寄
せたが、宗宿は前夜から酒宴をなし夜もすがら謡い舞い、死出の盃をなして、翌日城外に打って出
て思う程に一戦し早々に城に入ると、その日の申の刻、本丸の真ん中で火を掛けことごとく自害し
て果てた。康永元午年(1342)に明智開基してより年数215年にしてこの日ついに断絶した。

しかるに嫡子・光秀はここまでも城中にいたが、宗宿がこれに申したことには、「我々は自害せん
と存ずる。御身はきっと殉死の志であろうが、某らは不慮の事でこのようになり、家を断絶します。
御身は祖父の遺言もあり、また志も小さくないので、なにとぞここを落ちて存命をなし、明智の家
名を立てられなされ。ならびに我々の子供らをも召し連れて、末々まで取り立て給わるよう頼み申
すなり」と、申し置いて死んだのであった。

これによって(光秀は)死を止まり城を落ちて西美濃に至り、叔父の山岸光信のもとにしばらく身
を寄せ、すなわちここに妻子ならびに従弟どもを預け、それより6ヶ年の間諸国を遍歴して武術の
鍛錬をなし、それより永禄5年(1562)に越前の太守・朝倉左衛門尉義景に仕官して、その後
同11年の秋より足利新公方義昭公の推挙をもって織田信長に仕え、後に60万石余の大名となる。

――『美濃国諸旧記



明智光秀由来

2020年05月06日 17:15

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 06:34:26.34 ID:0n/Kroxt
可児郡明智の庄長山の城主の事。一説に曰く、池田の庄明智の里ともいう。実は明智の庄であろう。
明智の城のあった地を長山の地といった。これは字名であろう。

さて、明智城というのは土岐美濃守光衡より五代の嫡流・土岐民部大輔頼清の二男・土岐明智次郎
長山下野守頼兼が康永元壬午年(1342)3月に初めてこれを開築し、居城として存在し、子孫
代々、光秀までここに住せり。

(中略)光継に子息数多あり。嫡子を十兵衛尉光綱といい後に遠江守と号す。日向守光秀の父これ
なり。二男を山岸勘解由左衛門尉光信という。大野郡府内の城主・山岸加賀守貞秀の養子なり。三
男を明智兵庫頭光安という。後に入道して宗宿と号す。明智左馬助(秀満)・三宅第十郎などの父
これなり。

四男を次左衛門尉光久という。明智治右衛門光忠の父これなり。五男を原紀伊守光頼といった。原
隠岐守久頼の父これなり(原注:原久頼は関ヶ原合戦で討死した)。次は女子なり。斎藤道三の室
となる。織田信長の北の方、ならびに金森五郎八郎長近などの内室の母はこれなり。次の六男を明
智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

遠江守光総(光綱の誤記?)は家督を受け継ぎ明智に住し、代々の知行1万5千貫を領す(原注:
今の7万5千石なり)。大永元年(1521)の春、山岸加賀守貞秀の娘を迎えて室とした。光綱
は日頃多病であった。天文7年(1538)戊戌年8月5日に死去した。嫡子・光秀、その時わず
かに11歳なり。

右の幼少なる故に、祖父・光継入道の命で叔父の光安・光久・光廉の3人を後見とし、光秀を守り
立て城主とした。しかるに光秀は生まれ付き凡人とは変わり、幼少より大志の旨あった故か、明智
の城主としてわずか1万5千貫の所領を受け継ぐことを望みと思わず、家督を嫌って居城を叔父に
任せ置いて自身は遊楽となり、武術鍛錬のために諸方を遍歴した。

――『美濃国諸旧記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 18:13:26.97 ID:ojgmVDyY
>>148
>智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

新書太閤記で、炎上してる城の中から槍を構えて飛び出してくるシーンが最高すぎる