FC2ブログ

明智令押領之由被聞食訖

2020年11月25日 17:02

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 15:12:48.57 ID:OxAEvWpj
元亀二年十二月十一日

早朝、竹門より御使として宮内卿が来られた。禁裏より織田信長へ綸旨を出すこと、
同じく薫物(たきもの)十貝を渡すことへの異存について返答した。
綸旨の内容は、このようなものであった

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖
諸門跡領之儀者、為朝恩天下安全之護持之事候條、
可混山門之儀更不可有之候、既及退転之間歎思召候、
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者、可悦思召之由、
天気所候也、仍執達如件、

(今度の山門(比叡山)の事について、諸門跡の領地を、明智光秀が横領していると(天皇が)聞き
及ばれました。
諸門跡領については、天下安全を護持するための朝恩であり、山門領と一緒にすべきではありません。
既に退転に及んだというその嘆きを思し召され、諸門跡領悉く、別儀無いと申し付けられれば、
悦ばしく思われるでしょう。
天気(天皇の意思)所候なり。執達件の如し)


十二月十日  左中辨 晴豐
   織田彈正忠殿

言継卿記

比叡山焼き討ち後、明智光秀が諸門跡領まで横領したことに対して、朝廷よりその停止を求めた
信長への綸旨。



スポンサーサイト



佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う

2020年11月23日 16:16

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/23(月) 13:00:14.80 ID:ZmTOtX/e
日向守明智(光秀)云わく、佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う。
土民百姓はかはゆきこと也、と。
名言也

老人雑話

有名な話ですが、出典は老人雑話だったのですね



中でも美濃国は光秀の生国なれば

2020年10月26日 17:34

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/25(日) 01:25:47.09 ID:TcotcfKQ
しかるに土岐一族の明智日向守光秀は弘治2年(1556)の秋に当国(美濃)を出てその翌年より
6ヶ年の間、国々を遍歴してその後に織田信長公に仕え、15年の内に68万石を領した。もっとも
智謀軍慮を兼ね備えていた徳である。

しかるに、主君の信長公は元来良智の大将なので、折に触れ時に寄せて光秀を召され諸々の事を尋ね
給う。しかしながら光秀は、一度もその問いの趣を知らないということがなかった。

ある時に織田殿が光秀に尋ね給うには、「汝は諸国を修行したので、およそその国の人の風俗の善悪
を知っていることだろう。どの国は善であるのか、かつどの国は悪いのか、その心を見たるところが
あらば、語り聞かせよ」と宣う。その時に光秀はあらまし国々の人風を言上するに及ぶことがあった。

しかしながら光秀は諸国修行を志してその国を領する太守の政道、将の心持ち、家中の諸士の剛臆を
見て、仕官を志していた故に人風を知るはずもなくとも、少しずつ日を重ねて逗留する内にその地の
人に接して察しただけである。しかしその察したことが、格別(信長の望むところと)相違していな
かったところは、もっとも御感あったことであった。

中でも美濃国は光秀の生国なれば、風俗の良き国と言うのも如何なものかと(信長へは)申し上げな
かったものの、元来濃州は代々良将の住む国故、おのずと人風もよろしき国であると(光秀は)家臣
などへ話したのだという。

これによって古は知らないが、近代に濃州より出でてその名をいささか知られた武士について、あら
ましを挙げきれない。もっとも土岐・斎藤の一族だけに限ったことではない。

明智日向守光秀、蜂屋出羽守頼隆、妻木長門守忠頼(省略。美濃出身の武士を列挙)この他に当国よ
り出でて大家に仕官の面々は数多ありといえども、際限なきによりあらましはここまでを記した。

――『美濃国諸旧記



見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時

2020年08月14日 17:01

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 15:32:16.74 ID:1KuHNIZk
明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時、本能寺に我等より先に入ったというものがあれば、それは全て嘘である。
その理由は、信長様に切腹させるとは夢にも思わなかったからである。
その頃、太閤様が備中に輝元殿を討ちにいっておりその援軍に明智が行くことになっていた。
山崎の方に向かうと思っていたのだが、思いとは違い京へと行くことになった。我等は、その時に家康様が上洛していたので、
家康様を討つとばかり思っていた。本能寺というところも知らなかった。
人衆の中から、馬に乗った二人が出てきた。斎藤内蔵助の息子と小姓であった。本能寺の方に行く間、我等はその後に付き、
片原町へ入った。
二人は北へ向かい、我等はみな堀際へ東向きに向かった。
本道へ出ると、橋の際に人が1人いたのでそのまま我等は首を取った。
内へはいると、門は開いており、鼠のようなものすらいなかった。首を持ったまま内へ入った。
北から入った弥平次(明智秀満)殿の母衣衆二人が首は打ち捨てるように言われたので、堂の下へ投げ入れ、正面から侵入したが、
広間にも一人も人はいなかった。蚊帳がつってあるだけで人はいなかった。
庫裏の方より髪を下げた白い着物の女を捕らえたが侍は一人もいなかった。女は「上様は白い着物を召されている」と言ったが、
それが信長様のことだとは知らなかった。その女は斎藤内蔵助殿に渡した。
御奉公衆は袴・肩衣、股立を取り、2・3人が堂の中へ入ってきた。
そこで首を又一つ取った。その者は、一人奥の間から出てきて、帯もしていなかった。刀を抜き、浅黄色の帷子で出てきた。
その時、多くの人が入ってきてそれを見て敵が崩れた。我等は蚊帳の陰に入り、かの者が出てきて過ぎていくところを後ろから切った。
首を二つ取ったので、褒美として槍をいただいた。
「本城惣右衛門覚書」



262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 21:23:11.70 ID:h/4i2y9k
>>261
これは出所が古書店というのが惜しい
高齢ゆえ記憶違いはあっても、大筋は合っていると個人的には思うけど
そういえば、226の兵隊もまさかクーデターとは知らなかったから、本城の記録も正しいとかどっかのサイトで指摘してたな
イエズス会の記録でも家康暗殺の噂があったというが、それが真実味を帯びて語られる土壌があったと
武田征伐後からの信長、家康双方の接待合戦なんかを考えると、なぜそんな話が広がったのか理解に苦しむのだが、みなさんはどう考える?

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 07:51:45.79 ID:9aPcvoDD
以前家康は武田に内応しようとしていたが信長に察知され止む無く信康に罪を被せ家を保ったが今回武田が滅ぶことになり武田方から家康が謀反しようとしていたとの噂が信長の耳に入り必要以上に真偽の確認をして家康暗殺計画に至ったと考える

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:24:31.27 ID:b1boNngP
あるわけねーじゃん

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:47:40.02 ID:Cy2by8PS
>>262
明智家中では家康はライバルだから、信長よりは殺す対象として適切と思われてたんじゃない?

六月十三日に相果て、跡形も無くなった

2020年07月17日 18:29

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 22:09:55.77 ID:4Mxqh86c
明智日向守(光秀)はかつて一僕として朝夕の飲食さえ乏しい身であったのを、織田信長が取り立てられ、
坂本の主とし、その上丹波国一国一円を下された。にもかかわらず、かかる不思議(本能寺の変)を思い
立ったというのは是非に及ばぬ(理解の出来ない)次第である。しかし忽ち天責を蒙り、六月十三日に相果て
跡形も無くなった。(この時明智の歳は六十七であった。)

一方、織田信長は近年(天下の)政務を執り行い、無道もこれ無き所に、このように横死されてしまったこと、
偏に(信長の高野聖殺害に対する)弘法大師の法罰が当たったのだと言われた。

当代記



205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 23:20:14.56 ID:SbkCxOUQ
>>204
関連として、太田牛一とフロイスによる本能寺の書きぶりの微妙な違いが気になる
牛一は逃げのびた女房衆に取材している可能性がある
フロイスの場合、南蛮寺が本能寺から至近
ほぼ共通の噂か証言があったと思ってるんだけど

光秀のその明鑑

2020年06月25日 17:01

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 13:51:19.37 ID:zIRpi3LD
明智光秀が未だ十万石ばかりの頃、堀辺兵太という浪人が有り、荷俵を背負って現れ、「千石賜らんや」
と言った。光秀はこれを聞き、彼に料理などを出すよう申し付け、その間に密かに彼の荷俵を開かせて
みると、中には長身の刀槍が、いかにも見事に研ぎたて入れ置かれていた。光秀はこれを見て
「面白き志の侍なり。」
と言い、そして望みに任せて千石を与え召し抱えた。

その後、彼は数度の武功があり、丹波にて光秀が負け戦の時、堀辺は一番に取って返し討ち死にした。
人々は光秀のその明鑑に服した。

名将言行録



五重の天守を建てられ然るべし

2020年06月24日 18:00

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 05:42:21.15 ID:HdBIPCnD
織田信長が安土に城を築く時、明智光秀に意見を問うた。光秀は里見義弘、大内義興等の天守の事を申し、
「当御城の義は天下を知ろしめすべき御城なれば、五常五行を表し、五重の天守を建てられ然るべし」と、
故実などを委細に申すと、信長は大いに喜び、光秀を奉行として天守を建てられた。

名将言行録

里見義弘や大内義興に天守を建てたという話があったみたいですね。



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:01:34.87 ID:Dcg4FVjg
安房国館山が三層の天守、周防国山口が四層閣らしいぞ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:10:40.60 ID:Dcg4FVjg
ただし館山は義頼、義康が築城したらしいので創作くさいね

光秀は寺跡ばかりに心を入れたる

2020年06月23日 17:15

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:37:15.71 ID:7CjeOt33
朝倉義景明智光秀に問うて曰く

「昔は要害のために山に城を築いたが、近年は鉄砲が出来た事で、何れの場所が居城に然るべしと考えるか。
詳しく語り聞かすべし。」

これに光秀は
「御意の通り、高所に登り大銃を撃ちかけます故、要害から二十余町も外の山は問題は有りませんが、
ただし兵法に『国を治め家を安んじ、人を得る也』と申します。また軍歌に『人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方怨は大敵』とあることも考えれば、あながち城郭に頼り切るべきではありません。

但し、当国の事について思案を廻らせると、平城にては北庄、山城であれば長泉寺が、然るべき城地であると
考えます。」

義景が重ねて問うた
「加賀に於いてはどのような場所があるか」

「加賀に於いては、小松寺の辺りが、大形の地であると考えます。」

「また上方に於いてはいかなる勝地があるか」

「京都近辺には見及びません。さりながら殿の御縁者である摂津大阪の本願寺の寺内こそ、無双の境地と
考えます。」

そう答えると、義景はこれを聞いて
「光秀は寺跡ばかりに心を入れたる者なり」
と言って笑ったという。

名将言行録



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:43:48.93 ID:migwR6XE
名将言行録はほんとにアレだな…
作者自身が作ったような逸話が平気で載る。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:44:29.64 ID:gfEb8r5a
そもそも作者が「巷の俗説や怪しい話もあえて載せた」と断ってるしこの手の逸話集には珍しく出典も入れてる

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:53:41.79 ID:zixBkBM0
あえて載せたと言って断ってるものを鵜呑みにしてた読み手さんサイドの問題か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 18:02:25.81 ID:zm69SwQt
開山した空海や最澄、蓮如なんかは築城に秀でた兵法者って事でいいのかな?

光秀に子数多あり

2020年05月20日 18:31

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/19(火) 22:05:36.04 ID:GE2pY8cr
光秀(明智光秀)に子数多あり。嫡子を作之丞光重という。母は山岸勘解由左衛門尉光信(光秀の
叔父)の娘にして、千草という美婦であった。光秀が部屋住になっていた折、遊客となって山岸の
もとに来たり、桂の郷の下館にしばらく居住したのだが、ともに若年の頃なる故に密通して設けた
長男である。これによって明智氏の家督にならず氏を憚り、母方の氏を用いて西美濃に居住し、子
孫は郷士となって存在した。

次は女子なり。母は妻木勘解由左衛門範煕の娘で本室である。この女子は明智左馬助光春の室なり。
次の女子は同治右衛門尉光忠の室なり。次の女子は細川越中守源忠興の室なり。次の女子は織田七
兵衛尉信澄の室なり。

次は男子にして明智千代寿丸という。後に十兵衛尉惟任光慶という。次の男子を十次郎光泰という。
次は乙寿丸というなり。

他に養女あり。盛姫という。嫡家・光重の室なり。実はこれ土岐要人助盛秀の娘なり。古今希代の
英婦にして、光秀・光重に先立たれて後に自ら大義を志して国々の諸大名を語らい、羽柴の世を傾
けんと欲した程の烈婦であった。

また他に妾腹の男子あり。子孫は細川家にいると言われている。実はこれ左馬助光春の一子である
ともいう。また一人の男子あり。丹波の国桑田郷にその子孫ありという。

しかるに明智の城は弘治2年(1556)に落去してより後に守将なし。斎藤滅びて織田の支配と
なり、また光秀先祖代々の旧跡だからと拝領して家臣の石森九郎左衛門を代官として置いた。地形
のみで改築はなかったのである。

――『美濃国諸旧記



ここを落ちて存命をなし、明智の家名を立てられなされ

2020年05月17日 16:39

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:19:59.93 ID:Noq7djiy
しかるところ、当国の守護職・斎藤右京大夫義龍は実父・頼芸の仇故に養父・道三と父子の義を断
ち合戦を初め、弘治2年辰(1556)の4月、方県郡城田寺村でついに道三を討ち取り、一国を
押領し“一色左京大夫”と改めて稲葉山の城に存在した。

まことに道三の多年の不義は、諸人皆がこれを憎んだ故に、その日の合戦には多くが子息の義龍の
手に加わり、道三のもとへ馳せ参る者は少なかったのである。しかるに、明智兵庫助光安入道宗宿
は兼々道三に尊敬されて常に厚情を尽くされた。元来、宗宿の妹は道三の本室である。もっとも早
世したといえども、一度縁者の因を結んだ仲であった。しかし、宗宿はもとより大丈夫(立派な男
子)の勇士なので、道三の威を慕ったわけではない。縁辺の義父・駿河守光継入道宗善が在世の時
に道三が妹を乞い、太守・頼芸に申して縁結したものである。

道三は元来大志あった故に明智の家を一方の盾ともなす心であったので、常々礼儀を厚くして懇情
を尽くした。あるいは尾州の織田を他国の垣根となして、我が娘を信長に嫁がせた。皆大志の下心
である。弘治2年の春に至り、子息・義龍は義兵を起こし合戦に及んだところ、国中の諸士は皆実
義を糺してことごとく義龍の手に至り、道三方は微勢となってたちまち武威衰え、戦う前に道三が
打ち負けること必然と見えたのだった。この時に宗宿が思うには、

「某は今度の合戦こそどちらにも加わり難い。道三はすこぶる逆臣だから誅するのは利の当然であ
るが、彼が日頃私を重んじ厚情を尽くしたことは言葉に述べ難い。その下心の程は『身の上難儀の
事あらば頼みにしたい』との斟酌であろう。彼はまさに今大事の期に及んだ。某は恩情に心を引か
れて傾くわけではないが、彼が衰えたる時節を見て無体に攻め討つのは大丈夫のすることではない。

また義龍は実父の仇を討つと称して義兵を挙げたのに、某が道三に与力して戦えば土岐・明智の先
祖代々に対して大不孝と言えよう。故に両儀決せず、いずれも加わり難い。だが某は進退窮まった
といえども甥の光秀は当家の真嫡なれば、これ一人は義龍のもとへ参らそう」

と光秀のみを稲葉山へ遣した。さて弘治2年、鷺山の合戦終わり道三すでに討たれて後は道三一味
の面々ことごとく討死し、残る輩は皆義龍に降参して国中はようやく平均した。すると宗宿は決し
て出仕せず、つらつら思うことには「義龍は義兵の名ありといえども、(道三は)現在の養父にし
て胎内からの恩は甚だ深い。また先の太守頼芸には本室の実子が数多いる。長男の一色小次郎頼秀
は尾州にいる。二男の左京亮頼師もまた当国にいる。しかれば、これらをもって義兵を発したなら
ば実に忠義孝心であろう。

ところが今すでに義龍の代となり、私がまたこれに伏せば世上の人は憎んで『宗宿こそ懇情あった
道三をも助けず、また合戦の折には義龍にも組せず、命を惜しんで運を両端に計り勝負を眺め、ど
こへも出馬せず戦は収まり、義龍の代になったのを見てたちまち身を寄せた』などと嘲り笑われる
のも口惜しき次第である。殊に某は道三の尊敬を受けた身なれば、諸人の心は道三を心贔屓してい
る様に思って、義龍を始め私の心中を疑い思うのは必定である。

所詮長らえて諸人の口外に残るのも残念なり。ただ速やかに当城に立て籠もり、華々しく討手の勢
を引き受け討死し武名を残してこそ本意であろう。そうでなくても某が『道三と一腹ではないか』
と諸人の疑い思う折であるから、城に籠って出仕すまじと言えばすぐに討手が来るのは必定である。
某が潔く死ねば義ある道三のためにも道が立つ。主家の恨みは心にあれど現在の妹の婿の名があり、
厚情はなお甚だしい。

某50歳の上に満ちて惜しからぬ命を1つ捨てようとして死に迷い、恥ずかしき名を取れば清和天
皇より21代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一家を私だけで悪名を付け末代まで恥辱を残す
ことは無念の儀である。早く義龍方へ手切れの使いを送り、一門を催して当城に立て籠もり、討手
が来たら思いのままに戦って屍を大手の城門に晒し、本丸に墳墓を残すべし」と思惟を決し、討死
と覚悟を極めたのであった。時に弘治2年9月に至り、一門を催して明智の城に籠った。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:23:55.83 ID:Noq7djiy
大将の宗宿53歳、同次左衛門光久50歳、その弟・十平次光廉は尾州にいてこれを知らず。従う
一族には溝尾庄左衛門・三宅式部之助・藤田藤次郎・肥田玄蕃・池田織部・可児才右衛門・森勘解
由などを始め、その勢わずかに870余人であったが義心金石と固まり、心を一致して籠城した。

さて右の子細が稲葉山に聞こえると斎藤義龍は甚だ驚き「早く誅さねば東美濃の過半がこれに従う
だろう」と即時に討手を差し向ける。その時、揖斐周防守光親は義龍を諫めて曰く、「明智宗宿は
古今の義士なり。名を重んじ叶わないと知って籠城するのは大丈夫の振る舞いです。ただ速やかに
利害の使者を送り、ひらに帰伏の旨を申し宥めてしかるべきです」と、言った。

しかしながら義龍は血気の破将故にこれを用いず、ただ攻め討ちと決した。ここに至って揖斐も是
非なく討手に向かう。その人々は長井隼人正道利・井上忠左衛門道勝・国枝大和守正則・二階堂出
雲守行俊・大沢次郎左衛門為泰・遠山主殿助友行・船木大学頭義久・山田次郎兵衛・岩田茂太夫な
どを先手としてその勢3千7百騎。9月19日に稲葉山を出陣し、明智を目指して押し寄せた。

宗宿は少しも多れずここを先途と防ぎ戦った。元来、城の要害堅固にしてどこも破れる浅間も無く、
攻め兼ねて見合わせた故、その日はすでに暮れていった。よってその翌日、再び鬨を発して攻め寄
せたが、宗宿は前夜から酒宴をなし夜もすがら謡い舞い、死出の盃をなして、翌日城外に打って出
て思う程に一戦し早々に城に入ると、その日の申の刻、本丸の真ん中で火を掛けことごとく自害し
て果てた。康永元午年(1342)に明智開基してより年数215年にしてこの日ついに断絶した。

しかるに嫡子・光秀はここまでも城中にいたが、宗宿がこれに申したことには、「我々は自害せん
と存ずる。御身はきっと殉死の志であろうが、某らは不慮の事でこのようになり、家を断絶します。
御身は祖父の遺言もあり、また志も小さくないので、なにとぞここを落ちて存命をなし、明智の家
名を立てられなされ。ならびに我々の子供らをも召し連れて、末々まで取り立て給わるよう頼み申
すなり」と、申し置いて死んだのであった。

これによって(光秀は)死を止まり城を落ちて西美濃に至り、叔父の山岸光信のもとにしばらく身
を寄せ、すなわちここに妻子ならびに従弟どもを預け、それより6ヶ年の間諸国を遍歴して武術の
鍛錬をなし、それより永禄5年(1562)に越前の太守・朝倉左衛門尉義景に仕官して、その後
同11年の秋より足利新公方義昭公の推挙をもって織田信長に仕え、後に60万石余の大名となる。

――『美濃国諸旧記



明智光秀由来

2020年05月06日 17:15

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 06:34:26.34 ID:0n/Kroxt
可児郡明智の庄長山の城主の事。一説に曰く、池田の庄明智の里ともいう。実は明智の庄であろう。
明智の城のあった地を長山の地といった。これは字名であろう。

さて、明智城というのは土岐美濃守光衡より五代の嫡流・土岐民部大輔頼清の二男・土岐明智次郎
長山下野守頼兼が康永元壬午年(1342)3月に初めてこれを開築し、居城として存在し、子孫
代々、光秀までここに住せり。

(中略)光継に子息数多あり。嫡子を十兵衛尉光綱といい後に遠江守と号す。日向守光秀の父これ
なり。二男を山岸勘解由左衛門尉光信という。大野郡府内の城主・山岸加賀守貞秀の養子なり。三
男を明智兵庫頭光安という。後に入道して宗宿と号す。明智左馬助(秀満)・三宅第十郎などの父
これなり。

四男を次左衛門尉光久という。明智治右衛門光忠の父これなり。五男を原紀伊守光頼といった。原
隠岐守久頼の父これなり(原注:原久頼は関ヶ原合戦で討死した)。次は女子なり。斎藤道三の室
となる。織田信長の北の方、ならびに金森五郎八郎長近などの内室の母はこれなり。次の六男を明
智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

遠江守光総(光綱の誤記?)は家督を受け継ぎ明智に住し、代々の知行1万5千貫を領す(原注:
今の7万5千石なり)。大永元年(1521)の春、山岸加賀守貞秀の娘を迎えて室とした。光綱
は日頃多病であった。天文7年(1538)戊戌年8月5日に死去した。嫡子・光秀、その時わず
かに11歳なり。

右の幼少なる故に、祖父・光継入道の命で叔父の光安・光久・光廉の3人を後見とし、光秀を守り
立て城主とした。しかるに光秀は生まれ付き凡人とは変わり、幼少より大志の旨あった故か、明智
の城主としてわずか1万5千貫の所領を受け継ぐことを望みと思わず、家督を嫌って居城を叔父に
任せ置いて自身は遊楽となり、武術鍛錬のために諸方を遍歴した。

――『美濃国諸旧記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 18:13:26.97 ID:ojgmVDyY
>>148
>智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

新書太閤記で、炎上してる城の中から槍を構えて飛び出してくるシーンが最高すぎる

七月の盆灯籠

2019年08月08日 17:39

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/08(木) 14:57:11.00 ID:agSFkwq2
京都では盆中に、家ごとに灯籠を30日の間灯すという事がある。これはかつて、明智光秀が京都の
地子(宅地税)を免す事があったのを、かの土地の人々は嬉しき事に思って、明智滅亡の後、その追善の
気持ちで7月中灯籠を門に吊すという。

大阪では5月の幟を、市中では節句の四つ時分(午前10時ころ)までに残らず取り仕舞うという。
これは大阪において秀頼落城の城攻めの事、5月節句に当たった故に、その当時は小児などが節句の幟を
上げられるような状況ではなく、これもまたまた秀頼滅亡の後はその追善を思う故である、と昔は
言っていたようだが、現在ではそのような理由付けもなく、京都において盆灯籠を7月中家々が灯し、
大阪において5月の幟を昼には仕舞うとというのも、自然とその風土の慣習と成ったのだと、
度々上方に行く人が語った。

(耳嚢)



【雑談】明智光秀の描写について

2019年05月04日 14:58

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 01:54:08.01 ID:zpbEIlwA
佐久間追放は、裏で暗躍していた
明智の謀略だったってのを、次の
大河の麒麟がくるで放送されることを
密かに期待している

フロイス評の明智光秀がいいなぁ

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 02:11:48.68 ID:H+rOAgLT
麒麟て信長の花押なのにそんなタイトルに決まったのか光秀大河

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 18:29:59.11 ID:eaVZW7yS
>>872
そんなんしたら、子孫の作家のおっさんが黙ってないで
何でもかんでも光秀が悪かったって言われて汚名を濯ぐのに必死になってる

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 23:37:03.68 ID:j1SebWKH
まぁまじめ君な従来の光秀だたら1話できるわな。何の面白みもない

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 10:31:58.61 ID:JcVsTBwG
光秀のやってきた事見るとフロイス評が一番しっくりくるんだよな

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 16:07:54.04 ID:TK8kOc2Y
へうげものでは佐久間の追放を許して欲しいと
ノブに陳情してたな
良い人に描かれすぎだけど、絶対に悪人だわ

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 16:30:17.94 ID:yMJcnuEO
正しく真面目な光秀くんってことなら、司馬遼太郎の「国盗り物語」とかずっとあるのに、
「信長を殺した男」の作家さんは何をああ必死になっているんだろ?

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 17:03:57.36 ID:n6DHqIHn
センゴクの明智光秀もいい

フロイス評
彼は、裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でも
あったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては
謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で
選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 18:43:23.48 ID:5lBne/3T
南蛮宣教師の評で、あっ…この人バテレン否定派か熱心な仏教徒だったんだろうな
ってのだけは確実にわかるのがおもしろい

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 19:44:01.14 ID:tMwTJim7
>>880
公平なふりしてて露骨にそこで評価基準分かれるからな

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 19:50:17.23 ID:4Y+JWLiM
>>879
建築手腕の持ち主多すぎだろ
秀吉だって一夜城作ったし

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 19:54:53.92 ID:tMwTJim7
ブラタモリ見てりゃわかるが戦国大名は
だいたい地形読んで活かすのが得意か部下にそういう奴がいる

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:10:55.68 ID:gQGYxdf8
城跡行くと良いとこに建ってんだよな~

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:16:23.29 ID:tMwTJim7
あと水利とかね
当時は地質とか今ほどわかってなかったろうに
現代の知識で考えてもすごく合理的な土地選びとか石材選びがされてて驚く
まあそりゃ大勢の命かかってるから真剣なんだろうけど

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:18:27.84 ID:JcVsTBwG
>>880
叡山攻め勲功第一じゃなかったっけ日向守

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 23:23:30.11 ID:pD4qavrb
>>874
どんな理由があっても悪いよね
謀反だもん
信長が悪いとしても跡取り息子もやっちゃってるし

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 23:39:53.55 ID:tMwTJim7
明智「ノッブを滅ぼすつもりはなかったが囲んだら自害しちゃったテヘペロ」

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 11:27:43.59 ID:U9oNjK8Y
>>880
フロイスの光秀評は能力を評価して、人格をけなしてるから、キリスト教に理解があったのか、敵対的だったのかわからん。
創作作品だとキリスト教徒にされてることが結構あるけど。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 11:36:30.19 ID:Mc6URLsb
娘のガラシャが洗礼受けているから、フィクションでは光秀もキリスト教に好意的に描かれたりするけど、
そもそもガラシャが洗礼受けたのは秀吉の九州征伐のときだしなぁ。

フロイス曰く「悪魔とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とのこと。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 18:31:00.44 ID:5eeJBPLW
忠興や幽斎はフロイスからどう評価されてるの?

その場の存念にあらず。年来の逆意と推測される

2019年03月03日 16:03

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 19:12:03.59 ID:N0xXXHkF
惟任(明智光秀)は公儀を奉り、2万余騎の人数を揃えた。ところが備中に下らず、密かに謀反
を企てる。しかしそれは、その場の存念にあらず。年来の逆意と推測されるところである。

さて5月28日、光秀は愛宕山に登って一座の連歌を催した。光秀の発句に言う、

「ときは今あめかしたしる五月かな」

今これを推し量ればすなわちまことに謀反の先兆なり。何人がかねてより悟ったことであろうか。

――『天正記(惟任退治記)』

本能寺の変の同年に成立した惟任退治記の記事。「何年も前から叛意があったようだ」とのこと。



寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子

2019年01月14日 17:12

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 18:56:01.30 ID:iwxzEU62
(坂本城落城の時)

城中では坂本城にやって来た弥平次(明智秀満)を見付けて、上下に至るまで勇み喜ぶこと限りな
かった。それから弥平次は人数に役目を行き渡らせて「ざっと務めよ」と申した。人数は偉丈夫で
はなかったが、そこかしこに配置した。その後、湯漬けを取り寄せてゆるゆると食すると、天守に
鉄砲の薬を開けさせた。

弥平次が天守から寄手を見渡せば、すでに城を半分ほど取り巻いていた。寄手は堀久太郎殿(秀政)
である。弥平次殿は天守から降りて塀の周囲を駆け回り、自身でそこかしこで鉄砲を撃ち、城を持
ち固めているように敵に見せかけ、また天守へ取って返すと、諸々の道具を取り出した。

弥平次は新身国行の刀と吉光の脇差、虚堂の墨跡を夜の物(夜着や寝具)に包み、目録を添えて、

「やあやあ、寄手の人々へ申す! 堀監物殿にこれを渡されよ! この道具は私ならぬ天下の道具な
れば、ここで滅しては弥平次は傍若無人と思し召される故、渡し申す!」

と申し、天守からこれを落とし申し候事。ややあって堀監物は返事をし、

「御目録の如く、少しも違いなく受け取り申した! しかしながら、申したき子細がある! 日向守
殿(明智光秀)が内々に御秘蔵なされた真の倶利伽羅の吉広江の御脇差はどうしたのか!」

と尋ねた。これに弥平次は返事して、

「その道具は上様(織田信長)より日向守が拝領された御道具である! 秘蔵の吉広江の脇差は久太
郎殿やその他の大名衆も御存知のように、越前国が破れた時に、朝倉殿の御物奉行が肌に差して出て
行ったところを、後に日向守が密かに聞き出して求め置かれたものだ!

渡したいとは存ずるが、光秀が命もろともと内々に秘蔵された故、私めの腰に差して死出の山にて
日向守に渡したいがためである! その事を御心得なされたい!」

堀監物とは現在の丹後守殿(秀政の従甥直寄)の親の事にて候。

(中略)

弥平次は真の倶利伽羅の切り物のある吉広江を、言葉を違えずその時に失わせた。

「時刻が移って敵が乱入すれば外聞は見苦しいであろう」と弥平次は覚悟を定め、日向守殿の御前
所(正室)と自身の内儀を手に掛けひたひたと刺し殺し、その脇差を取り出して天守の戸を開いた。

「寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子を見習って手本にせよ!」

と弥平次は言うと、腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇ったのだということである。

後に焼け跡の灰を探してみると、残りの刀や脇差、その他の道具の形は確認できたが、吉広江の脇
差は見付からなかった。その後、古井戸からこれを取り出したが、すでに腐ってその形も見分けら
れず、「おそらく吉広江であろうか」と人々が推量するだけであったと聞いている。

松永殿(久秀)は首と平蜘蛛の釜を見せなかったが、この脇差の収め様もよく似ていると人々は申
し合ったと承り候事。

――『川角太閤記』



633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 20:38:19.00 ID:cDY2A0Xz
>>629
>腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天の空へ昇ったのだ
美しい…

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 23:31:45.01 ID:2dhPlWF7
全然悪い話ではなくむしろ良い話に思える

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 23:44:19.36 ID:0ukWP+Ka
>伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇った
松永弾正「爆死はわしの専売特許だぞ」

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 14:49:45.95 ID:928moBb/
>>629
>死出の山にて
>日向守に渡したいがためである!
これでほんとにそれだけ失われたってのがロマンティックで良いなぁ

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 15:37:18.95 ID:Qplf3XGe
誰かーロマンティック
止めてーロマンティック
胸がー胸がー苦しくなるー

その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申した

2019年01月10日 17:45

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 19:56:15.67 ID:O6+KCoqz
天正10年(1582)午の年、信長公は甲斐国の武田四郎勝頼を御追罰のために、近江安土の
御城より御馬を出された。ただし先手は信忠公に仰せ付けられ、城之介殿は岐阜から御出陣なり。

家康卿は駿河口より御入りになられ、その他にも方々口々より飛び入れば、勝頼は甲府の家城を
開け退かれ、同国の田野里山林で討ち果てられた。その後、御仕置を残すところなく仰せつけら
れて駿河国を家康卿に進ぜられ、同年4月初め頃、信長公は安土の御城に御馬を納められた。

そこに家康卿が駿河国御拝領の御礼のため、穴山殿を御同道されて御上洛の由を聞こし召されて、
明智日向守の所をその御宿として仰せ付けられた。

そのようなところに、信長公は御もてなしのあまりにか、肴などの用意の次第を御覧になられる
ため、御宿を御見舞いになると、夏ゆえに用意された生肴は殊のほか鮮度が落ち申していたので、
門へ御入りになられるや風に乗って悪臭が吹き来たり、その香りを御嗅ぎ付けられて、もっての
ほか御立腹された。

信長公は直ちに料理の間へ御成りとなられ、「この様子では家康卿の馳走はできない!」と御立
腹になられて、堀久太郎(秀政)の所へ御宿を仰せ付けられたのだと、その時節の古き衆の口か
ら以上の通りに受け賜った。

信長記(信長公記)には『大宝坊の所を家康卿の御宿に仰せ付けられた』とある。この宿の様子
は二通りあると御心得なさるべきだろう。

日向守は「面目を失った!」と木具膳や肴の台、その他用意した取り肴以下を残らず堀へ打ち込
み申した。その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申したと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 11:01:21.60 ID:+0PwuB4l
信長「このアライを作ったのは誰だあっ!!」

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 15:07:09.56 ID:T4ak4Lvy
お堀ってゴミ捨て場でもあったんだね

武士のうそをば武略と云

2018年12月07日 13:15

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 21:58:59.27 ID:VriDoSJN
日向守明智云う、仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆきこと也と名言也。
(老人雑話)


光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市

2018年12月02日 17:55

491 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/02(日) 16:19:37.68 ID:q8TVdi1P
既出じゃないと思ったけど、既出だったらすまん

光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181202-00010000-tanba-l28


(前文略)
 織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。

 そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。

 そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。

 土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。

 光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」

 すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」

 ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」

 まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。

 ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。

 兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。

 しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。

 柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。

 「昨日は、うめき声がもれていた」
 「一昨日は、しくしく泣いていた」

 のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。

 霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
 (参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』)



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 19:01:31.44 ID:3VrTm9J6
光秀のとこが忠興だったらしっくりくるんだが

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 21:50:49.81 ID:bbdeZ+zx
>>491
光秀らしくないなぁ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 23:53:13.05 ID:IOgcy9Nw
矢匠も命がけの仕事なんだな

495 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/03(月) 04:17:19.68 ID:DcTOfOoq
相当ストレス溜まってたのかなぁ?
この間評判の良い鈴職人が馬具用に大量の鈴作った後に殿様に殺された逸話も出てたけど、理不尽な事したら大抵後で返って来るよね。

光秀のもとに、このような天晴の武士が

2018年10月04日 21:36

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 18:42:28.47 ID:1Z/FlA7k
さて羽柴の大軍は稲麻竹葦の如く十重二十重に坂本城を取り巻いた。左馬助(明智秀満)は先日光秀が安土
より奪ってきた信長公が秘蔵された不動国行の太刀・二字国俊の刀・薬研藤四郎の脇差、並びに柴の肩衝・

乙御前の釜・紺ふこの水指・虚堂の墨蹟などを唐織の宿直物に包み、女房の帯に結びつけ天守の武者走りへ
持ち出した。左馬助は大声を揚げて「寄手の人々に頼み入れ候! 明智日向守光秀は運尽きて討死したこと

によりその妻子はことごとく刺し殺し左馬助も只今自殺仕るなり! 明智の一族滅び候ともこの品々は天下の
重宝であり、一時に焼け失われるのも無念なれば目録を添えて御渡し申し候!右大臣家の君達へ進上されて

給われかし!」と言い、かの包みを天守より降ろした。数万の寄手はこれを見て「かつて松永弾正が平蜘蛛
の釜を打ち破って後に、自身も切腹した多聞山城の有様とは雲泥の違いである」と感涙を流した。

その後、左馬助はかの二の谷の兜と雲龍の陣羽織に金子百両を添えて小姓1人を使いとし、坂本の西教寺に
送って亡き後の法事を頼むと、今は思い残すことなしと光秀の妻子と自身の妻子をも共に刺し殺して焼草に

火をかけた。そして天守が半ば燃え上がるのを見て腹を十文字に掻き切り、火の中へ飛び入って名を今の世
までも残しける。「どういうわけで主君を弑逆する程の光秀のもとに、このような天晴の武士がいたことよ」
と、感動しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 22:58:34.67 ID:1Rdjvim5
爆弾正「茶釜が勝手に爆発したんですよ」

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 04:47:49.18 ID:GksxLCZm
それ創作