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光秀のその明鑑

2020年06月25日 17:01

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 13:51:19.37 ID:zIRpi3LD
明智光秀が未だ十万石ばかりの頃、堀辺兵太という浪人が有り、荷俵を背負って現れ、「千石賜らんや」
と言った。光秀はこれを聞き、彼に料理などを出すよう申し付け、その間に密かに彼の荷俵を開かせて
みると、中には長身の刀槍が、いかにも見事に研ぎたて入れ置かれていた。光秀はこれを見て
「面白き志の侍なり。」
と言い、そして望みに任せて千石を与え召し抱えた。

その後、彼は数度の武功があり、丹波にて光秀が負け戦の時、堀辺は一番に取って返し討ち死にした。
人々は光秀のその明鑑に服した。

名将言行録



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五重の天守を建てられ然るべし

2020年06月24日 18:00

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 05:42:21.15 ID:HdBIPCnD
織田信長が安土に城を築く時、明智光秀に意見を問うた。光秀は里見義弘、大内義興等の天守の事を申し、
「当御城の義は天下を知ろしめすべき御城なれば、五常五行を表し、五重の天守を建てられ然るべし」と、
故実などを委細に申すと、信長は大いに喜び、光秀を奉行として天守を建てられた。

名将言行録

里見義弘や大内義興に天守を建てたという話があったみたいですね。



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:01:34.87 ID:Dcg4FVjg
安房国館山が三層の天守、周防国山口が四層閣らしいぞ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:10:40.60 ID:Dcg4FVjg
ただし館山は義頼、義康が築城したらしいので創作くさいね

光秀は寺跡ばかりに心を入れたる

2020年06月23日 17:15

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:37:15.71 ID:7CjeOt33
朝倉義景明智光秀に問うて曰く

「昔は要害のために山に城を築いたが、近年は鉄砲が出来た事で、何れの場所が居城に然るべしと考えるか。
詳しく語り聞かすべし。」

これに光秀は
「御意の通り、高所に登り大銃を撃ちかけます故、要害から二十余町も外の山は問題は有りませんが、
ただし兵法に『国を治め家を安んじ、人を得る也』と申します。また軍歌に『人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方怨は大敵』とあることも考えれば、あながち城郭に頼り切るべきではありません。

但し、当国の事について思案を廻らせると、平城にては北庄、山城であれば長泉寺が、然るべき城地であると
考えます。」

義景が重ねて問うた
「加賀に於いてはどのような場所があるか」

「加賀に於いては、小松寺の辺りが、大形の地であると考えます。」

「また上方に於いてはいかなる勝地があるか」

「京都近辺には見及びません。さりながら殿の御縁者である摂津大阪の本願寺の寺内こそ、無双の境地と
考えます。」

そう答えると、義景はこれを聞いて
「光秀は寺跡ばかりに心を入れたる者なり」
と言って笑ったという。

名将言行録



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:43:48.93 ID:migwR6XE
名将言行録はほんとにアレだな…
作者自身が作ったような逸話が平気で載る。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:44:29.64 ID:gfEb8r5a
そもそも作者が「巷の俗説や怪しい話もあえて載せた」と断ってるしこの手の逸話集には珍しく出典も入れてる

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:53:41.79 ID:zixBkBM0
あえて載せたと言って断ってるものを鵜呑みにしてた読み手さんサイドの問題か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 18:02:25.81 ID:zm69SwQt
開山した空海や最澄、蓮如なんかは築城に秀でた兵法者って事でいいのかな?

光秀に子数多あり

2020年05月20日 18:31

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/19(火) 22:05:36.04 ID:GE2pY8cr
光秀(明智光秀)に子数多あり。嫡子を作之丞光重という。母は山岸勘解由左衛門尉光信(光秀の
叔父)の娘にして、千草という美婦であった。光秀が部屋住になっていた折、遊客となって山岸の
もとに来たり、桂の郷の下館にしばらく居住したのだが、ともに若年の頃なる故に密通して設けた
長男である。これによって明智氏の家督にならず氏を憚り、母方の氏を用いて西美濃に居住し、子
孫は郷士となって存在した。

次は女子なり。母は妻木勘解由左衛門範煕の娘で本室である。この女子は明智左馬助光春の室なり。
次の女子は同治右衛門尉光忠の室なり。次の女子は細川越中守源忠興の室なり。次の女子は織田七
兵衛尉信澄の室なり。

次は男子にして明智千代寿丸という。後に十兵衛尉惟任光慶という。次の男子を十次郎光泰という。
次は乙寿丸というなり。

他に養女あり。盛姫という。嫡家・光重の室なり。実はこれ土岐要人助盛秀の娘なり。古今希代の
英婦にして、光秀・光重に先立たれて後に自ら大義を志して国々の諸大名を語らい、羽柴の世を傾
けんと欲した程の烈婦であった。

また他に妾腹の男子あり。子孫は細川家にいると言われている。実はこれ左馬助光春の一子である
ともいう。また一人の男子あり。丹波の国桑田郷にその子孫ありという。

しかるに明智の城は弘治2年(1556)に落去してより後に守将なし。斎藤滅びて織田の支配と
なり、また光秀先祖代々の旧跡だからと拝領して家臣の石森九郎左衛門を代官として置いた。地形
のみで改築はなかったのである。

――『美濃国諸旧記



ここを落ちて存命をなし、明智の家名を立てられなされ

2020年05月17日 16:39

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:19:59.93 ID:Noq7djiy
しかるところ、当国の守護職・斎藤右京大夫義龍は実父・頼芸の仇故に養父・道三と父子の義を断
ち合戦を初め、弘治2年辰(1556)の4月、方県郡城田寺村でついに道三を討ち取り、一国を
押領し“一色左京大夫”と改めて稲葉山の城に存在した。

まことに道三の多年の不義は、諸人皆がこれを憎んだ故に、その日の合戦には多くが子息の義龍の
手に加わり、道三のもとへ馳せ参る者は少なかったのである。しかるに、明智兵庫助光安入道宗宿
は兼々道三に尊敬されて常に厚情を尽くされた。元来、宗宿の妹は道三の本室である。もっとも早
世したといえども、一度縁者の因を結んだ仲であった。しかし、宗宿はもとより大丈夫(立派な男
子)の勇士なので、道三の威を慕ったわけではない。縁辺の義父・駿河守光継入道宗善が在世の時
に道三が妹を乞い、太守・頼芸に申して縁結したものである。

道三は元来大志あった故に明智の家を一方の盾ともなす心であったので、常々礼儀を厚くして懇情
を尽くした。あるいは尾州の織田を他国の垣根となして、我が娘を信長に嫁がせた。皆大志の下心
である。弘治2年の春に至り、子息・義龍は義兵を起こし合戦に及んだところ、国中の諸士は皆実
義を糺してことごとく義龍の手に至り、道三方は微勢となってたちまち武威衰え、戦う前に道三が
打ち負けること必然と見えたのだった。この時に宗宿が思うには、

「某は今度の合戦こそどちらにも加わり難い。道三はすこぶる逆臣だから誅するのは利の当然であ
るが、彼が日頃私を重んじ厚情を尽くしたことは言葉に述べ難い。その下心の程は『身の上難儀の
事あらば頼みにしたい』との斟酌であろう。彼はまさに今大事の期に及んだ。某は恩情に心を引か
れて傾くわけではないが、彼が衰えたる時節を見て無体に攻め討つのは大丈夫のすることではない。

また義龍は実父の仇を討つと称して義兵を挙げたのに、某が道三に与力して戦えば土岐・明智の先
祖代々に対して大不孝と言えよう。故に両儀決せず、いずれも加わり難い。だが某は進退窮まった
といえども甥の光秀は当家の真嫡なれば、これ一人は義龍のもとへ参らそう」

と光秀のみを稲葉山へ遣した。さて弘治2年、鷺山の合戦終わり道三すでに討たれて後は道三一味
の面々ことごとく討死し、残る輩は皆義龍に降参して国中はようやく平均した。すると宗宿は決し
て出仕せず、つらつら思うことには「義龍は義兵の名ありといえども、(道三は)現在の養父にし
て胎内からの恩は甚だ深い。また先の太守頼芸には本室の実子が数多いる。長男の一色小次郎頼秀
は尾州にいる。二男の左京亮頼師もまた当国にいる。しかれば、これらをもって義兵を発したなら
ば実に忠義孝心であろう。

ところが今すでに義龍の代となり、私がまたこれに伏せば世上の人は憎んで『宗宿こそ懇情あった
道三をも助けず、また合戦の折には義龍にも組せず、命を惜しんで運を両端に計り勝負を眺め、ど
こへも出馬せず戦は収まり、義龍の代になったのを見てたちまち身を寄せた』などと嘲り笑われる
のも口惜しき次第である。殊に某は道三の尊敬を受けた身なれば、諸人の心は道三を心贔屓してい
る様に思って、義龍を始め私の心中を疑い思うのは必定である。

所詮長らえて諸人の口外に残るのも残念なり。ただ速やかに当城に立て籠もり、華々しく討手の勢
を引き受け討死し武名を残してこそ本意であろう。そうでなくても某が『道三と一腹ではないか』
と諸人の疑い思う折であるから、城に籠って出仕すまじと言えばすぐに討手が来るのは必定である。
某が潔く死ねば義ある道三のためにも道が立つ。主家の恨みは心にあれど現在の妹の婿の名があり、
厚情はなお甚だしい。

某50歳の上に満ちて惜しからぬ命を1つ捨てようとして死に迷い、恥ずかしき名を取れば清和天
皇より21代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一家を私だけで悪名を付け末代まで恥辱を残す
ことは無念の儀である。早く義龍方へ手切れの使いを送り、一門を催して当城に立て籠もり、討手
が来たら思いのままに戦って屍を大手の城門に晒し、本丸に墳墓を残すべし」と思惟を決し、討死
と覚悟を極めたのであった。時に弘治2年9月に至り、一門を催して明智の城に籠った。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:23:55.83 ID:Noq7djiy
大将の宗宿53歳、同次左衛門光久50歳、その弟・十平次光廉は尾州にいてこれを知らず。従う
一族には溝尾庄左衛門・三宅式部之助・藤田藤次郎・肥田玄蕃・池田織部・可児才右衛門・森勘解
由などを始め、その勢わずかに870余人であったが義心金石と固まり、心を一致して籠城した。

さて右の子細が稲葉山に聞こえると斎藤義龍は甚だ驚き「早く誅さねば東美濃の過半がこれに従う
だろう」と即時に討手を差し向ける。その時、揖斐周防守光親は義龍を諫めて曰く、「明智宗宿は
古今の義士なり。名を重んじ叶わないと知って籠城するのは大丈夫の振る舞いです。ただ速やかに
利害の使者を送り、ひらに帰伏の旨を申し宥めてしかるべきです」と、言った。

しかしながら義龍は血気の破将故にこれを用いず、ただ攻め討ちと決した。ここに至って揖斐も是
非なく討手に向かう。その人々は長井隼人正道利・井上忠左衛門道勝・国枝大和守正則・二階堂出
雲守行俊・大沢次郎左衛門為泰・遠山主殿助友行・船木大学頭義久・山田次郎兵衛・岩田茂太夫な
どを先手としてその勢3千7百騎。9月19日に稲葉山を出陣し、明智を目指して押し寄せた。

宗宿は少しも多れずここを先途と防ぎ戦った。元来、城の要害堅固にしてどこも破れる浅間も無く、
攻め兼ねて見合わせた故、その日はすでに暮れていった。よってその翌日、再び鬨を発して攻め寄
せたが、宗宿は前夜から酒宴をなし夜もすがら謡い舞い、死出の盃をなして、翌日城外に打って出
て思う程に一戦し早々に城に入ると、その日の申の刻、本丸の真ん中で火を掛けことごとく自害し
て果てた。康永元午年(1342)に明智開基してより年数215年にしてこの日ついに断絶した。

しかるに嫡子・光秀はここまでも城中にいたが、宗宿がこれに申したことには、「我々は自害せん
と存ずる。御身はきっと殉死の志であろうが、某らは不慮の事でこのようになり、家を断絶します。
御身は祖父の遺言もあり、また志も小さくないので、なにとぞここを落ちて存命をなし、明智の家
名を立てられなされ。ならびに我々の子供らをも召し連れて、末々まで取り立て給わるよう頼み申
すなり」と、申し置いて死んだのであった。

これによって(光秀は)死を止まり城を落ちて西美濃に至り、叔父の山岸光信のもとにしばらく身
を寄せ、すなわちここに妻子ならびに従弟どもを預け、それより6ヶ年の間諸国を遍歴して武術の
鍛錬をなし、それより永禄5年(1562)に越前の太守・朝倉左衛門尉義景に仕官して、その後
同11年の秋より足利新公方義昭公の推挙をもって織田信長に仕え、後に60万石余の大名となる。

――『美濃国諸旧記



明智光秀由来

2020年05月06日 17:15

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 06:34:26.34 ID:0n/Kroxt
可児郡明智の庄長山の城主の事。一説に曰く、池田の庄明智の里ともいう。実は明智の庄であろう。
明智の城のあった地を長山の地といった。これは字名であろう。

さて、明智城というのは土岐美濃守光衡より五代の嫡流・土岐民部大輔頼清の二男・土岐明智次郎
長山下野守頼兼が康永元壬午年(1342)3月に初めてこれを開築し、居城として存在し、子孫
代々、光秀までここに住せり。

(中略)光継に子息数多あり。嫡子を十兵衛尉光綱といい後に遠江守と号す。日向守光秀の父これ
なり。二男を山岸勘解由左衛門尉光信という。大野郡府内の城主・山岸加賀守貞秀の養子なり。三
男を明智兵庫頭光安という。後に入道して宗宿と号す。明智左馬助(秀満)・三宅第十郎などの父
これなり。

四男を次左衛門尉光久という。明智治右衛門光忠の父これなり。五男を原紀伊守光頼といった。原
隠岐守久頼の父これなり(原注:原久頼は関ヶ原合戦で討死した)。次は女子なり。斎藤道三の室
となる。織田信長の北の方、ならびに金森五郎八郎長近などの内室の母はこれなり。次の六男を明
智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

遠江守光総(光綱の誤記?)は家督を受け継ぎ明智に住し、代々の知行1万5千貫を領す(原注:
今の7万5千石なり)。大永元年(1521)の春、山岸加賀守貞秀の娘を迎えて室とした。光綱
は日頃多病であった。天文7年(1538)戊戌年8月5日に死去した。嫡子・光秀、その時わず
かに11歳なり。

右の幼少なる故に、祖父・光継入道の命で叔父の光安・光久・光廉の3人を後見とし、光秀を守り
立て城主とした。しかるに光秀は生まれ付き凡人とは変わり、幼少より大志の旨あった故か、明智
の城主としてわずか1万5千貫の所領を受け継ぐことを望みと思わず、家督を嫌って居城を叔父に
任せ置いて自身は遊楽となり、武術鍛錬のために諸方を遍歴した。

――『美濃国諸旧記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 18:13:26.97 ID:ojgmVDyY
>>148
>智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

新書太閤記で、炎上してる城の中から槍を構えて飛び出してくるシーンが最高すぎる

七月の盆灯籠

2019年08月08日 17:39

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/08(木) 14:57:11.00 ID:agSFkwq2
京都では盆中に、家ごとに灯籠を30日の間灯すという事がある。これはかつて、明智光秀が京都の
地子(宅地税)を免す事があったのを、かの土地の人々は嬉しき事に思って、明智滅亡の後、その追善の
気持ちで7月中灯籠を門に吊すという。

大阪では5月の幟を、市中では節句の四つ時分(午前10時ころ)までに残らず取り仕舞うという。
これは大阪において秀頼落城の城攻めの事、5月節句に当たった故に、その当時は小児などが節句の幟を
上げられるような状況ではなく、これもまたまた秀頼滅亡の後はその追善を思う故である、と昔は
言っていたようだが、現在ではそのような理由付けもなく、京都において盆灯籠を7月中家々が灯し、
大阪において5月の幟を昼には仕舞うとというのも、自然とその風土の慣習と成ったのだと、
度々上方に行く人が語った。

(耳嚢)



【雑談】明智光秀の描写について

2019年05月04日 14:58

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 01:54:08.01 ID:zpbEIlwA
佐久間追放は、裏で暗躍していた
明智の謀略だったってのを、次の
大河の麒麟がくるで放送されることを
密かに期待している

フロイス評の明智光秀がいいなぁ

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 02:11:48.68 ID:H+rOAgLT
麒麟て信長の花押なのにそんなタイトルに決まったのか光秀大河

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 18:29:59.11 ID:eaVZW7yS
>>872
そんなんしたら、子孫の作家のおっさんが黙ってないで
何でもかんでも光秀が悪かったって言われて汚名を濯ぐのに必死になってる

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 23:37:03.68 ID:j1SebWKH
まぁまじめ君な従来の光秀だたら1話できるわな。何の面白みもない

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 10:31:58.61 ID:JcVsTBwG
光秀のやってきた事見るとフロイス評が一番しっくりくるんだよな

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 16:07:54.04 ID:TK8kOc2Y
へうげものでは佐久間の追放を許して欲しいと
ノブに陳情してたな
良い人に描かれすぎだけど、絶対に悪人だわ

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 16:30:17.94 ID:yMJcnuEO
正しく真面目な光秀くんってことなら、司馬遼太郎の「国盗り物語」とかずっとあるのに、
「信長を殺した男」の作家さんは何をああ必死になっているんだろ?

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 17:03:57.36 ID:n6DHqIHn
センゴクの明智光秀もいい

フロイス評
彼は、裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でも
あったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては
謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で
選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 18:43:23.48 ID:5lBne/3T
南蛮宣教師の評で、あっ…この人バテレン否定派か熱心な仏教徒だったんだろうな
ってのだけは確実にわかるのがおもしろい

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 19:44:01.14 ID:tMwTJim7
>>880
公平なふりしてて露骨にそこで評価基準分かれるからな

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 19:50:17.23 ID:4Y+JWLiM
>>879
建築手腕の持ち主多すぎだろ
秀吉だって一夜城作ったし

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 19:54:53.92 ID:tMwTJim7
ブラタモリ見てりゃわかるが戦国大名は
だいたい地形読んで活かすのが得意か部下にそういう奴がいる

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:10:55.68 ID:gQGYxdf8
城跡行くと良いとこに建ってんだよな~

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:16:23.29 ID:tMwTJim7
あと水利とかね
当時は地質とか今ほどわかってなかったろうに
現代の知識で考えてもすごく合理的な土地選びとか石材選びがされてて驚く
まあそりゃ大勢の命かかってるから真剣なんだろうけど

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:18:27.84 ID:JcVsTBwG
>>880
叡山攻め勲功第一じゃなかったっけ日向守

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 23:23:30.11 ID:pD4qavrb
>>874
どんな理由があっても悪いよね
謀反だもん
信長が悪いとしても跡取り息子もやっちゃってるし

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 23:39:53.55 ID:tMwTJim7
明智「ノッブを滅ぼすつもりはなかったが囲んだら自害しちゃったテヘペロ」

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 11:27:43.59 ID:U9oNjK8Y
>>880
フロイスの光秀評は能力を評価して、人格をけなしてるから、キリスト教に理解があったのか、敵対的だったのかわからん。
創作作品だとキリスト教徒にされてることが結構あるけど。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 11:36:30.19 ID:Mc6URLsb
娘のガラシャが洗礼受けているから、フィクションでは光秀もキリスト教に好意的に描かれたりするけど、
そもそもガラシャが洗礼受けたのは秀吉の九州征伐のときだしなぁ。

フロイス曰く「悪魔とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とのこと。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 18:31:00.44 ID:5eeJBPLW
忠興や幽斎はフロイスからどう評価されてるの?

その場の存念にあらず。年来の逆意と推測される

2019年03月03日 16:03

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 19:12:03.59 ID:N0xXXHkF
惟任(明智光秀)は公儀を奉り、2万余騎の人数を揃えた。ところが備中に下らず、密かに謀反
を企てる。しかしそれは、その場の存念にあらず。年来の逆意と推測されるところである。

さて5月28日、光秀は愛宕山に登って一座の連歌を催した。光秀の発句に言う、

「ときは今あめかしたしる五月かな」

今これを推し量ればすなわちまことに謀反の先兆なり。何人がかねてより悟ったことであろうか。

――『天正記(惟任退治記)』

本能寺の変の同年に成立した惟任退治記の記事。「何年も前から叛意があったようだ」とのこと。



寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子

2019年01月14日 17:12

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 18:56:01.30 ID:iwxzEU62
(坂本城落城の時)

城中では坂本城にやって来た弥平次(明智秀満)を見付けて、上下に至るまで勇み喜ぶこと限りな
かった。それから弥平次は人数に役目を行き渡らせて「ざっと務めよ」と申した。人数は偉丈夫で
はなかったが、そこかしこに配置した。その後、湯漬けを取り寄せてゆるゆると食すると、天守に
鉄砲の薬を開けさせた。

弥平次が天守から寄手を見渡せば、すでに城を半分ほど取り巻いていた。寄手は堀久太郎殿(秀政)
である。弥平次殿は天守から降りて塀の周囲を駆け回り、自身でそこかしこで鉄砲を撃ち、城を持
ち固めているように敵に見せかけ、また天守へ取って返すと、諸々の道具を取り出した。

弥平次は新身国行の刀と吉光の脇差、虚堂の墨跡を夜の物(夜着や寝具)に包み、目録を添えて、

「やあやあ、寄手の人々へ申す! 堀監物殿にこれを渡されよ! この道具は私ならぬ天下の道具な
れば、ここで滅しては弥平次は傍若無人と思し召される故、渡し申す!」

と申し、天守からこれを落とし申し候事。ややあって堀監物は返事をし、

「御目録の如く、少しも違いなく受け取り申した! しかしながら、申したき子細がある! 日向守
殿(明智光秀)が内々に御秘蔵なされた真の倶利伽羅の吉広江の御脇差はどうしたのか!」

と尋ねた。これに弥平次は返事して、

「その道具は上様(織田信長)より日向守が拝領された御道具である! 秘蔵の吉広江の脇差は久太
郎殿やその他の大名衆も御存知のように、越前国が破れた時に、朝倉殿の御物奉行が肌に差して出て
行ったところを、後に日向守が密かに聞き出して求め置かれたものだ!

渡したいとは存ずるが、光秀が命もろともと内々に秘蔵された故、私めの腰に差して死出の山にて
日向守に渡したいがためである! その事を御心得なされたい!」

堀監物とは現在の丹後守殿(秀政の従甥直寄)の親の事にて候。

(中略)

弥平次は真の倶利伽羅の切り物のある吉広江を、言葉を違えずその時に失わせた。

「時刻が移って敵が乱入すれば外聞は見苦しいであろう」と弥平次は覚悟を定め、日向守殿の御前
所(正室)と自身の内儀を手に掛けひたひたと刺し殺し、その脇差を取り出して天守の戸を開いた。

「寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子を見習って手本にせよ!」

と弥平次は言うと、腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇ったのだということである。

後に焼け跡の灰を探してみると、残りの刀や脇差、その他の道具の形は確認できたが、吉広江の脇
差は見付からなかった。その後、古井戸からこれを取り出したが、すでに腐ってその形も見分けら
れず、「おそらく吉広江であろうか」と人々が推量するだけであったと聞いている。

松永殿(久秀)は首と平蜘蛛の釜を見せなかったが、この脇差の収め様もよく似ていると人々は申
し合ったと承り候事。

――『川角太閤記』



633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 20:38:19.00 ID:cDY2A0Xz
>>629
>腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天の空へ昇ったのだ
美しい…

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 23:31:45.01 ID:2dhPlWF7
全然悪い話ではなくむしろ良い話に思える

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 23:44:19.36 ID:0ukWP+Ka
>伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇った
松永弾正「爆死はわしの専売特許だぞ」

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 14:49:45.95 ID:928moBb/
>>629
>死出の山にて
>日向守に渡したいがためである!
これでほんとにそれだけ失われたってのがロマンティックで良いなぁ

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 15:37:18.95 ID:Qplf3XGe
誰かーロマンティック
止めてーロマンティック
胸がー胸がー苦しくなるー

その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申した

2019年01月10日 17:45

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 19:56:15.67 ID:O6+KCoqz
天正10年(1582)午の年、信長公は甲斐国の武田四郎勝頼を御追罰のために、近江安土の
御城より御馬を出された。ただし先手は信忠公に仰せ付けられ、城之介殿は岐阜から御出陣なり。

家康卿は駿河口より御入りになられ、その他にも方々口々より飛び入れば、勝頼は甲府の家城を
開け退かれ、同国の田野里山林で討ち果てられた。その後、御仕置を残すところなく仰せつけら
れて駿河国を家康卿に進ぜられ、同年4月初め頃、信長公は安土の御城に御馬を納められた。

そこに家康卿が駿河国御拝領の御礼のため、穴山殿を御同道されて御上洛の由を聞こし召されて、
明智日向守の所をその御宿として仰せ付けられた。

そのようなところに、信長公は御もてなしのあまりにか、肴などの用意の次第を御覧になられる
ため、御宿を御見舞いになると、夏ゆえに用意された生肴は殊のほか鮮度が落ち申していたので、
門へ御入りになられるや風に乗って悪臭が吹き来たり、その香りを御嗅ぎ付けられて、もっての
ほか御立腹された。

信長公は直ちに料理の間へ御成りとなられ、「この様子では家康卿の馳走はできない!」と御立
腹になられて、堀久太郎(秀政)の所へ御宿を仰せ付けられたのだと、その時節の古き衆の口か
ら以上の通りに受け賜った。

信長記(信長公記)には『大宝坊の所を家康卿の御宿に仰せ付けられた』とある。この宿の様子
は二通りあると御心得なさるべきだろう。

日向守は「面目を失った!」と木具膳や肴の台、その他用意した取り肴以下を残らず堀へ打ち込
み申した。その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申したと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 11:01:21.60 ID:+0PwuB4l
信長「このアライを作ったのは誰だあっ!!」

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 15:07:09.56 ID:T4ak4Lvy
お堀ってゴミ捨て場でもあったんだね

武士のうそをば武略と云

2018年12月07日 13:15

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 21:58:59.27 ID:VriDoSJN
日向守明智云う、仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆきこと也と名言也。
(老人雑話)


光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市

2018年12月02日 17:55

491 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/02(日) 16:19:37.68 ID:q8TVdi1P
既出じゃないと思ったけど、既出だったらすまん

光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181202-00010000-tanba-l28


(前文略)
 織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。

 そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。

 そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。

 土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。

 光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」

 すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」

 ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」

 まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。

 ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。

 兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。

 しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。

 柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。

 「昨日は、うめき声がもれていた」
 「一昨日は、しくしく泣いていた」

 のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。

 霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
 (参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』)



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 19:01:31.44 ID:3VrTm9J6
光秀のとこが忠興だったらしっくりくるんだが

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 21:50:49.81 ID:bbdeZ+zx
>>491
光秀らしくないなぁ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 23:53:13.05 ID:IOgcy9Nw
矢匠も命がけの仕事なんだな

495 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/03(月) 04:17:19.68 ID:DcTOfOoq
相当ストレス溜まってたのかなぁ?
この間評判の良い鈴職人が馬具用に大量の鈴作った後に殿様に殺された逸話も出てたけど、理不尽な事したら大抵後で返って来るよね。

光秀のもとに、このような天晴の武士が

2018年10月04日 21:36

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 18:42:28.47 ID:1Z/FlA7k
さて羽柴の大軍は稲麻竹葦の如く十重二十重に坂本城を取り巻いた。左馬助(明智秀満)は先日光秀が安土
より奪ってきた信長公が秘蔵された不動国行の太刀・二字国俊の刀・薬研藤四郎の脇差、並びに柴の肩衝・

乙御前の釜・紺ふこの水指・虚堂の墨蹟などを唐織の宿直物に包み、女房の帯に結びつけ天守の武者走りへ
持ち出した。左馬助は大声を揚げて「寄手の人々に頼み入れ候! 明智日向守光秀は運尽きて討死したこと

によりその妻子はことごとく刺し殺し左馬助も只今自殺仕るなり! 明智の一族滅び候ともこの品々は天下の
重宝であり、一時に焼け失われるのも無念なれば目録を添えて御渡し申し候!右大臣家の君達へ進上されて

給われかし!」と言い、かの包みを天守より降ろした。数万の寄手はこれを見て「かつて松永弾正が平蜘蛛
の釜を打ち破って後に、自身も切腹した多聞山城の有様とは雲泥の違いである」と感涙を流した。

その後、左馬助はかの二の谷の兜と雲龍の陣羽織に金子百両を添えて小姓1人を使いとし、坂本の西教寺に
送って亡き後の法事を頼むと、今は思い残すことなしと光秀の妻子と自身の妻子をも共に刺し殺して焼草に

火をかけた。そして天守が半ば燃え上がるのを見て腹を十文字に掻き切り、火の中へ飛び入って名を今の世
までも残しける。「どういうわけで主君を弑逆する程の光秀のもとに、このような天晴の武士がいたことよ」
と、感動しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 22:58:34.67 ID:1Rdjvim5
爆弾正「茶釜が勝手に爆発したんですよ」

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 04:47:49.18 ID:GksxLCZm
それ創作

左馬助の馬

2018年09月29日 18:37

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 20:03:16.89 ID:9noaiQKG
明智左馬助(秀満)は2千騎で安土城を守っていたが、羽柴筑前守が3万余騎で西国より馳せ上り6月13日に
山崎表で一戦あると聞き、「敵は亡君復讐の義兵で勇気は激しく、味方は不義天罰を逃れまい。

私はこの城を誰のためにいつまで守るべきなのか。ただ山崎の勢に馳せ加わり光秀と死を共にせん」と志を決し
すでに出陣したところに、光秀は山崎の一戦に打ち負け、青龍寺にも堪りかねて坂本へ引き返そうとし、途中の

小栗栖で土民のために討たれたとの噂を聞き「それでは出軍しても仕方ない。坂本城へ引き返して光秀の妻子ら
を刺し殺し、自分もこれでは甲斐もないゆえ直ちに自殺せん」と思い定め、粟津を北へ大津目指して馳せ帰った。

羽柴の大軍は昨日の勝ちに乗じて堀久太郎秀政を先手とし雲霞の如く群がり、えいえい声を出して大津松本の間、
おものの浜打手の浜辺まで押し来たり、光秀の居城・坂本を一呑みにせん勢いであった。羽柴勢は左馬助と札の

辻辺りで出合い頭に出で逢いたちまち戦いを交えた。左馬助は真っ先に駆けて右往左往に馳せ廻り、力を尽くし
花々しく戦った。しかし左馬助の2千騎は大軍に引き包まれてあるいは討たれ、あるいは落ち去り、今は左馬助

1人となって、ついに一方を切り抜けて名にある琵琶湖へ馬をさっと乗り入れた。左馬助のその日の出で立ちは
“二の谷”といわれる名高き兜、白練に狩野永徳が描いた雲龍の陣羽織で大鹿毛の駿馬に跨り、さざ波や志賀の

浦風に立つ波を蹴立て蹴立て、唐崎の1本の松を目指して静々と馬を泳がせた。羽柴の大軍は口々に「今に見よ、
左馬助は水に沈んで死ぬであろう」とこなたの湖岸に立ち並び、ただうかうかと眺めていた。左馬助はやがて

唐崎まで事もなく乗り付けたため、大津浦で眺めていた大軍は「ややっ、左馬助は海上を渡ったぞ!」と湖岸を
西へ喚き叫んで馳せ向かった。左馬助は唐崎に乗り上がり、1本の松陰で馬から降りて松の根に腰を打ち掛け、

追い来る大軍を遠見して休んでいたが、追兵がすでに4,5丁に迫る時、ひらりと馬に打ち乗ってただ一乗りに
坂本へ馳せ入った。町中には十王堂があった。左馬助はその堂の前で馬から降り、手綱を切って堂の格子に馬を

繋ぎ付けた。そして矢立の筆を取り出すと帖紙を引き裂いて「この馬は只今湖水を渡った馬です。分捕った御方
はこの馬に憐れみを御かけになって下さい」と書き付け、手取髪に結い付けると自身は坂本城へと入った。

光秀の妻(原注:服部出羽守保章の娘なり。台徳公(徳川秀忠)の御生母・宝台院殿とは又従姉妹だという)は
自然・天然(原注:原書に二男・阿古、三男・乙寿)という兄弟の子を天守に登らせ、下に焼草を積んで寄手を

待ち受けた。羽柴の大軍は潮の湧くが如く追々嵩んで押し寄せた。その時、十王堂に繋がれた馬を見付けて秀吉
に献上すると、秀吉は大いに賞愛されて翌年の賤ヶ岳の合戦でもこの馬に乗られたのだという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 16:21:54.44 ID:mS5x8qWa
>>321
自然ってこのときすでに井伊直虎に匿われたんじゃなかったの?
と大河ネタ

「心得たる者もあるものかな」

2018年09月28日 11:38

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 00:24:15.78 ID:yCmDMxb0
本能寺の変の後、京を静めた明智日向守光秀は『明日西国に出陣する、なれば京町中の者ども
御礼に上がるべし。則ち東寺の四ツ塚にて請け給うべし』とあり、京の町衆は「ならば畏まり候」と、
思い思いに進上をした。

ある者は饅頭、粽、餅の類。ある者は樽、肴、菓子などを進上した。また一方に

「いやいや、そういう類の物は世も静謐に治まり互いに裃などを尋常に着て御館にて請けられる時は
然る可きだが、既に甲冑をよろい、旗指し物を取り付け、馬、武具が黒煙を立て東西に馳せまわり、
しかも鳥羽の野原にて請けられ給う礼なのだから、干し飯などこそ然るべきである。」

そう言って干し飯を積み上げて参らす者も多かった。

そのようにしている内に、日向守が四ツ塚に床几を立てさせ現れ、この町衆の進上を見て、
干し飯を参らせたのを「心得たる者もあるものかな」と殊の外喜び、その後このように言った

「洛中の礼を請けた以上、その印がなくてはならない。今後町中の地子役(固定資産税)を宥し置く」

そう御諚され、皆は「有り難し」と喜び勇んで帰っていった。

(義殘後覺)

本能寺の後、光秀にとても好意的な京の町衆であった



320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 19:17:47.74 ID:WbciJMTk

>>319
あとはまとめの4860
京都屋地子免除由来
だと、明智光秀が織田信長を討った際、
「信長は殷の紂であったのだ!」と言ったら京童たちは
「光秀は自分を周の武王に例えているのか。片腹痛い」と心の中で思ってた
て話もあった

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 20:18:43.91 ID:vdEL2s7b
>>319
まぁその時点で京都を武力で実効支配してるのは光秀だから
良い顔しとくわな
その裏で面従腹背してるのが京都人クオリティ

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 10:57:57.91 ID:c1DMZ+wW
民衆はどこの地域でもそうだろ
地侍だって強者の前では内股軟膏だ

明智光秀の最期

2018年09月22日 17:47

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/22(土) 14:13:27.79 ID:khh+DCR8
(山崎の戦いの時)

光秀は先手が追々敗走するのを聞いて心中大いに悶乱し、後悔しても甲斐もなきことであった。時に御牧
より使者がやって来て早く引き取りなされと諫めるも、光秀の心は一向に定まらずとやかくと先延ばした。

比田帯刀秀照が光秀を諫めて「進むも退くも時による。先々今夜は青龍寺まで引き取り、明朝は坂本へなり
安土へなりと引き取りなされ。安土には左馬助(明智秀満)が2千余騎で在城しておりますから、いまだ

頼みがないわけではありません。早く早く!」と勧めると、光秀は途方を失って「青龍寺はどの方向だ!」
と尋ねた。帯刀は馬から飛び降りると光秀の馬の轡を取り、馬を引き立てて進めた。しかし敵は早くも道を

差し塞いだ。進士佐左衛門と関田太郎八は馬前に進み、前途を遮る敵を攻め破り引き返しては追い払った。
光秀はようやく逃げ走らんとするも本道には敵が充満して行くこと叶わず、田間の小道を過ぎて青龍寺の

総構堀に馬を乗り入れ土居を登らんとしたが馬は疲れて登れず、進士佐左衛門が来て光秀を馬から降ろし、
その馬を引き上げて光秀を抱え乗せ大手の橋より青龍寺に入った。光秀が櫓に上り四方を望めば、

敵の大軍は雲霞の如く、その旌旗は風に翻る。「ああ夥しき軍勢かな! 敵の人数は3万7千5百余騎とは
聞いていたが、かくも目に余る大勢は近国の勢が集まったのか、それとも味方の人数が敵に加わったのか。

四面楚歌の声したる項王の陣中も同じ思いであったのか!」と光秀は慌てふためいた。そこで人数の着到
を試みたがその人数を見るに、申の刻までは騎士530騎、弓鉄砲の軽卒6百人余いたものが、それも酉
の刻には上下百人に満たなくなった。光秀はよほど心取り乱したのか、この6月の極暑炎熱であるのに

朝から着ていた具足を着替えずに、まず坂本へ引き取ってともかくもせんと評議一決し、夜半の鐘を待ち
青龍寺を逃げ出た。付き従う輩は一番に明智勝兵衛(溝尾茂朝)、その後より光秀、進士佐左衛門、

堀尾与次郎、山本仙入、三宅孫十郎、村越三十郎らであった。その後、小栗栖の方へと小幡の古道を急ぎ
行くと、傍の藪陰にたむろしていた百姓一揆どもが落人と見て、藪の中から真っ先に進む勝兵衛を突いた。
(原注:原書は村越三十郎とする)勝兵衛の甲冑は札の良い胴丸なので裏を突き通しはしなかったが、

馬から突き落とされた。その次に乗り来る光秀は胴腹を突き抜かれた。光秀はあまりに狼狽してこの6月
の炎熱の中で今朝から着ていた具足を着替えもせずにいたので、槍はぐさりと具足を突き通した。

光秀は「憎き奴!」と言いながらそこを乗り抜けたが3町ほど進んではたと落馬した。供の者ども大いに
驚いて駆け集まり「坂本までの道はもう近くです!」と申したところ、光秀は腸を見せて「我が命ここに
留まる。もはや助かりがたし。汝らは我が首を切って知恩院へ送ってくれ候へ」と言うので、

やむなく勝兵衛が介錯し光秀の首を打ち落とした。この時、光秀齢59(原注:武徳編年集成に57)。
母を人質として磔にかけてより37日、主君を弑逆してよりわずかに12日。不忠不孝の天罰巡るのも
早き理、天地神明の冥鑑こそ恐ろしきものである。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/22(土) 16:49:37.68 ID:Civtyswb
>>194
生々しくてイイ(・∀・)!

斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候

2018年09月21日 10:01

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 05:57:48.32 ID:fX5WZda+
(山崎の戦いの時)

斎藤内蔵助利三は最初から今日は総敗軍と覚悟していたため、味方の敗走を見ても少しも屈せず、なんとしても
神戸三七殿(織田信孝)と一戦して今日の恥辱をそそぐべしと心掛けており、その子・伊豆守(利宗)と手勢を

整えてまったく動揺せず、静かに人数を進め山崎総構の東方の川を隔てて陣を立てた。その川は大河ではないが
近日降り続いた長雨によって水嵩は増え渦を巻いて流れた。ここに三七信孝の陣中より野掛彦之丞という者が

名乗りただ一騎馬を乗り入れ先に進んだ。内蔵助の子・伊豆守16歳、これも斎藤勢よりただ一騎川へ乗り込み、
川中で1,2度打ち合うと見えたが、双方押し並んでむずと組み合い水中へと落ちた。

これを見て斎藤の家士が一同に伊豆守を救おうと川へ乗り込むのを、内蔵助は大声を揚げて「武士の子16歳!
敵1人討てずして生きても甲斐なし! ただ捨て置け!」とこれを制した。その間に伊豆守は野掛の首を取って

下の瀬より岸に上った。これを切っ掛けとして敵味方は鉄砲矢戦となり討ちつ討たれつ喚き叫んで攻め戦った。
中でも内蔵助は大声を揚げて、「私は利仁将軍(藤原利仁)の後胤、斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候!

恐れながら、三七殿にとって御親の仇随一の者である! 御自身で私を御討ち取り下さるべし!」と言いながら、
信孝の本陣へ父子手勢は必死になって切り入った。その時、中川瀬兵衛清秀の2千5百騎が横合より打って

掛かり、斎藤勢を引き包んで討ち取らんとした。これによって信孝は斎藤勢を散々に討ちなされ、過半が討死
したので内蔵助・伊豆守父子も叶わずして一方を切り抜け跡をくらまし落ち行った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


この儀、別の仔細に非ず

2018年09月17日 17:10

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 12:34:03.11 ID:c3AbbcRr
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った

「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」

これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。

そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」

そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。

光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」

そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。

(甫庵信長記)

光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。


光秀天罰逃れ難く

2018年09月16日 17:28

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 17:35:28.33 ID:gJvnQJNT
(山崎の戦いの時)

光秀の先手・斎藤内蔵助(利三)は狐川の向こう岸より使者を立てて、光秀を諫めた。

「今日の合戦は御延期然るべし。筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に
拠って一戦されれば、安土に左馬助(明智秀満)がおりますので後詰の便りもあります。

そうでなければ、すぐにこれから安土に籠城されて然るべし。以前から申すように山崎の地
は味方にとってよろしからず。大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地です。

合戦の雌雄は只今にて候。時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなります。」

このように申し送ると光秀はこれを聞いて、

「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん! 汝そこまで恐れる
のならばそこを引き取って当手に来るべし! 先手は他人に申し付けん!」

と罵ったため、使者は大いに恐れて立ち返りその旨を申した。内蔵助はこれを聞いて、

「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり」

と言って嘆息した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』



147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 23:41:16.22 ID:w7XezzrT
>>146
斉藤さんって謀反にノリノリだった説と諌めた説があるけど
これは諌めた説を下敷きにしてるのかな