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おうた子に教えられ、川を渡る

2022年09月05日 17:40

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/05(月) 14:50:01.20 ID:SG6/So3y
徳川家光公の御治世に、「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき」と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」

との御書付を献じられた。

この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。

利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した

「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。

陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」

直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」

そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し

「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」

そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして

「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」

と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。

(新東鑑)



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明の日本への援兵要請の時の話

2022年07月16日 15:58

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:08:02.39 ID:T4jJtv0Z
朝野雑載」から明の日本への援兵要請の時の話

家光公の御時、韃靼(清)が中華を滅ぼしたため(1644年、実際には明を滅ぼしたのは李自成)、大明の大将(鄭成功)から日本へ援兵を乞うてきた。
十万の軍勢を出そうと計画したところに井伊掃部頭(井伊直孝)が述べていうことには
「昔、太閤が朝鮮を攻め、大明の援兵と戦った時にすこぶる勝利したのは、日本の兵は久しく乱世であったため戦になれており、
一方、大明の方は久しく太平であったため戦になれていなかったためです。
今、日本の兵は久しく太平で戦を知らず、韃靼の兵は大明を討って戦になれております。
若兵を遣わしたところで勝利は得られないでしょう。
日本の兵がもし敗れたなら、かえって末世まで異国にまで侮りを受けることとなりましょう。」
と申したため、援兵派遣は沙汰止みになった。
一説には上の発言は大久保彦左衛門のものだという(大久保忠教は1639年死亡)



294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:15:13.67 ID:WAJ05+SS
鄭成功じゃなくて父親の鄭芝龍か、この時は

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:02:53.97 ID:V+56qfjT
>>293
井伊さんおっしゃる通り
そして自称ご意見番のバーバリアンにはこんな見識ないと思う

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:42:21.63 ID:hQTuVJNr
ついでに「朝野雑載」の別の箇所に書かれている話では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1677.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12676.html
では柳生宗矩や安井算哲のセリフとされている板倉重昌戦死の予言も大久保彦左衛門がしたことになってます
板倉重昌が戦死したのは大久保彦左衛門の死の前年だからこちらはまだ可能性がありますが

井伊直孝産湯の井

2021年04月16日 18:13

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 18:39:50.57 ID:6h1dReAZ
静岡県焼津市にある井伊直孝産湯の井戸に行く機会があったので

(前略)あるとき、井伊直政は東海道を通った折、岡部宿本陣へ泊りました。そこで中里(焼津市の地名)出身の美しい娘が、身の回りのお世話をすることになりました。
直政は娘をたいそう気に入りました。その後、天正18年(1590)、娘は男の子を産みました。
この子が後の井伊直孝で、出産の時の産湯を汲んだのが「井伊直孝産湯の井」として、中里で大切に伝えられてきました。(後略)
井伊直孝の出生には諸説あります。
(「井伊直孝産湯の井」の立て看板)

直孝の出生には諸説あるとしつつ出生地?では地元の娘が母親だと伝わってるらしい

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/16(金) 10:30:07.58 ID:Ze7+E5nx
>>120
これ貼っといた方がいいんじゃね?
https://www.city.yaizu.lg.jp/rekimin/iinaotakaubuyunoi.html



井伊直孝の御貯え

2019年08月25日 16:46

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 02:56:28.01 ID:OP61Z2p/
一、掃部頭直孝公(井伊直孝)御逝去の折、御形見として知行3万石や金7万両を御領地の庄屋
  までも拝領したという。

一、直孝公の御息女様(長女の亀姫)を大猷院様(徳川家光)に召し出されるようにとの御内意
  あり。すると掃部頭様は御受け奉り畏まったものの、「我が身は病身で御奉公勤め難く」と
  仰せ上げられ、それにつき御息女様は御一生御縁組はなかった。

  後には祟雲院様(掃雲院)と申して直孝公は取り分けて御労り、御生涯金銀は申すに及ばず、
  何事でも御望み次第、御心一杯御自由に遊ばされるよう仰せ進められた。これにより祟雲院
  様の御金は10万両あったという。

一、掃部頭様は御用金と申し御先手を3年御勤めになられる程の御手当を御貯えであったという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



故に大将に手を負わせたのだ

2018年10月30日 12:53

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 23:55:09.65 ID:IayTbgkZ
関ヶ原で東軍が大勝し、三成の陣悉く潰れたが、山の側を伝って人が多く通っていた。
井伊直政これを見て、松倉豊後守(重政)、その頃は右近と申していたが、彼に向かって
「あれは敵か味方か」
と尋ねた。松倉は「敵とも味方とも見分けがたい」と申している所に、甲州衆が合流した。

直政は彼らに重ねて「あれは敵か味方か」と尋ねた。甲州衆より「紛れも無く敵です」と
申した所、直政は二の句もなく即座に馬に乗りこれを追った。この時右の腕を撃ち抜かれ、
落馬したのである。

松倉はその後、この甲州者を激しく叱りつけた
「私も最初から敵だと判断していたが、味方がこれほど大勝しているのに、こぼれ物の退兵を
攻撃しても益はない。しかし敵と聞いて付かないのは甚だ本意に非ず。だからこそ私は何となくの
返答をしたのだ。それなのにお主は、巧者のふりをして要らぬ見切りをした、故に大将に
手を負わせたのだ!」

この甲州者は、早川弥左衛門であったという。

(士談)



386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 07:41:04.48 ID:xfS9uC0v
>>382
原文ママだろうけど早川弥惣左衛門のことみたいね

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 10:15:20.94 ID:lgbgK01D
>>382
でも味方だって言って、後でやっぱ敵だったって分かったら
やっぱりキレて来そう

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 10:42:22.36 ID:/KzaYwJ5
ググってみたところ早川弥◯左衛門、幸豊の生没年が(?-1600)になってるけど彦根城の築城に携わっているのでこれが誤りなのが分かるね
サイト主は記載してて誤りに気付かないのだろうか

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 18:31:47.25 ID:1NFKO9HO
状況わからんけど敗走する兵から首取って手柄になるのかな

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 19:46:01.30 ID:MhubSL59
なる
むしろ当時の首取りはほとんどが撤退時の追撃戦

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 20:01:32.07 ID:1NFKO9HO
>>390
ありがとうございます
たしか乱戦混戦の時に悠長に首切り落としてたら自分が死んじゃうし形勢逆転されかねないですね

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 02:29:35.20 ID:o/sbJwow
というか何であろうが首は首なので価値は変わんない
もちろん大将直々に打ち据えにしろとかの特殊な時は別だけど
後、そもそも敵に一番死傷者を与えられるのは古今東西問わず
敗走する相手への追撃時なので
必然的に手柄首も多くは追撃時に得られた物という事になる

”みつめの法”

2018年09月08日 17:14

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 20:32:30.67 ID:Qri71EVU
井伊直孝の邸宅に人が集まり物語などしていたとき、彼らが「この頃世に、”みつめの法”(呪いの一種
らしい)という物があり、人々がこれを習っている」という事を語りだし、

「刀も要らずに人を捕え殺すとは、稀有の重宝である。人々がこれを習い行うのも余儀なき事だ。
私も習おう、人も習おう」

などと言った。しかし直孝はこれを聞いて

「歴々たるあなた方に似合わぬこ事を物語るものです」
と、叱責した。

彼らは
「これほど重宝なことなのに、どうしてそのように言うのか」
と反論した所

「まだ合点致しませんか?人の剛操勇猛と言うものは、互いに剣戟を抜き持って勝負を争い、
勝ちたるを以てその志を定めるのです。例えば同じ仕物放討であっても、縛めを抜き放った者を
仕留めるのと、抜きはなさぬ者を仕留めるのとでは、甲乙差別の有ることです。
であれば、広い場所で声をかけ、相手に武器を抜き放させて、その上で心よく仕留めることこそ、
教えもし習いもして、これを以て武勇と致すべきなのです。

あなた方のような歴々の評定は、その様であってこそ然るべきであり、”みつめの法”などと言うものは、
出家町人のような長袖で、そういった技を知らぬものが言うべき事なのです。」

(士談)



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 22:19:40.50 ID:G9iXUhvF
二階堂の心の一方だったりして

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 22:20:29.07 ID:G9iXUhvF
二階堂の心の一方"みたいなモノ"だったりして

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 05:56:12.97 ID:s+ctegTw
小賢しい童め

直孝12歳のときに、

2018年09月07日 17:43

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 23:38:14.70 ID:4nhJDA70
井伊直孝は兵部少輔直政の次男であり、母は松平周防守家来の者(馬屋預りの者也。大阪役に馬にふまれて死)
の娘であった。

直孝が6歳の時、直政の所へ母方より、息男の故にて送られた。直政はこれを、百姓の庄屋、内蔵助と
云う者の所へ預け置いた。

直孝12歳のときに、この百姓の家に盗人が入ったと騒ぎになった。直孝が裏に出て、闇夜を透かして
見ると、後ろにある山に盗人が這い上がっているのを見つけ、直孝はそれを追いかけて上がり、高股を
切りつけた。

切られて盗人が振り返ると、「盗人を仕留めたり!出会え者共!」と大声で呼んだ。
このため大勢が駆けつけ、ついに盗人を仕留めた。

この事は幼若の身として無類の剛才であると、父直政に報告された。直政はその年、直孝を自身のもとに
呼び寄せた。

(士談)

割とありがちな勇将の幼少譚だけど、それよりも母方の祖父の死因に驚いた。



258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 00:59:04.86 ID:HvcW+ZTu
>>257
下男に撲殺された島津善久に較べたらマシかと

川手良列の戦死

2017年10月21日 10:51

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/20(金) 19:05:32.73 ID:IcLAlNWl
井伊直政の重臣の川手良則は、直政の姉の高瀬を娶ったが嫡男が無かったので、大草松平家の松平康安の三男を婿養子とした。

その川手良列(良行)は大阪の陣で井伊家の一隊を率いたが、夏の陣の若江の戦いで無謀とも言える突撃を繰り返して戦死した。
冬の陣の真田丸の戦いで井伊勢が先走って大損害を受けたが、良列は軍規を忠実に守って動かなかった。ところがかえって
臆病者の誹りを受けてしまい、そこで実父と実兄に相談の上で覚悟を決めていたのだという。

そこまで頑張ったのに、良列の遺児の良富も若死にしたのでお家断絶している。祖母の高瀬は孫より長生きしてますね。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/20(金) 19:07:01.89 ID:IcLAlNWl
ただし、過去ログ「賞の基準」、こちらの逸話では川手主水(良列)の扱いは正反対になっているようである。

関連
賞の基準


取った頸に証拠

2017年09月03日 11:30

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/03(日) 10:19:34.20 ID:KQR2AFta
井伊直政の家臣に浅井奈(朝比奈?)左太夫という者があり、度々武功を顕した人物であった。
それ故に直政も、彼を高く評価していた。

奥州九戸の陣において、井伊家重臣である木俣土佐(守勝)の家来の何右衛門という者が、良き敵を討った。
ところが、そこに左太夫が来て頸を奪った。
何右衛門はあらかじめ、この頸の左の耳から右の耳の脇まで脇座して貫き、印をつけていた。
左太夫はこれを知らず頸を奪い去った。

その日の内に、頸は直政の実検に入り、直政は「いつもながらの武功である」と左太夫に声をかけていた所、
末座に控えていた何右衛門が、木綿の雨羽織を脱いで4つに折って出て、この頸にかぶせ、左太夫に向かって
言った

「私の高名の頸を、ここまで持参していただき、かたじけない。」

左太夫はこれを叱りつけ、退かせようとした
「せがれ(若僧)、推算なり!」

しかし何右衛門
「この頸は私が取ったものを、左太夫がここまで奪い来たのです。」

「せがれめが有りもしない事を言う!その場へも来ていないのに!」

「御辺が取ったというのなら、定めて証拠があることでしょう。」

「私の取った頸に証拠などあるものか!」

ここで何右衛門
「されば、それがしは取った頸に証拠がある故に頸に物を着せたのです。」
そして、頸の証拠として脇差で貫いたことを説明し、羽織を取ると、まさしくその通りであった。

これを聞いた何右衛門の主である木俣土佐はしかし、「汝のような者が、あの歴々の働きの場へ行くのも
慮外である!」と、何右衛門を叱責し退出させた。
そしてその夜、左太夫は井伊家の陣より駆け落ちをした。

しかしながら、この左太夫はこれで廃るような人物ではなく。その後結城秀康に召し出され千石の扶持を
与えられた。直政の元にいたときも、千石であったそうである。

(士談)


父子の間であっても、武士の道とは

2017年08月16日 11:27

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/15(火) 20:22:03.87 ID:gU50rwyN
大阪の陣において、井伊直孝家臣・庵原助右衛門の子・主税が、敵と組討をし、組み伏せた所に、
敵の家来たちが出てきて主税を斬りつけた。そこに主税の郎党たちら集まってこれを仕留め、
主税はついに敵の頸を取った。

この様子を、彼の父である助右衛門は見ていながら、助けに行こうとしなかった。
合戦後、人々は助右衛門に対し「あまりにひどい」と非難した。しかし助右衛門は

「私は、主税が非常に不憫に思った故に助けなかったのだ。
もしあの時、私が行って敵を除けば、人はみな、主税は私に助けられたのだと言われてしまうだろう。
運は天にあり、死は定まれり。
私に助けられたという名が残るのが不憫である故に、助けなかったのだ。」

父子の間であっても、武士の道とはかくあるべきである。

(士談)



144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/15(火) 22:32:45.21 ID:1v4Ror0J
又兵衛「俺が敵と組み合って川に落ちた長政を助けなかった理由と同じだな」

どうして昼寝などしていたのですか?

2017年08月15日 18:55

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 22:01:40.61 ID:9LMNQKA6
大阪の陣の折、ある人が井伊直孝の陣所に見舞いに行くと、直孝はその直前まで昼寝をしていて、
乱れ髪の体にて出てきた。

その人は尋ねた
「直孝殿は昼夜の心がけの気がある方なのに、どうして昼寝などしていたのですか?」

直孝はこう答えた
「夜寝ないからです。」

(士談)

そりゃそうだ



46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/08/15(火) 05:24:52.89 ID:An5zR+zm
いっ、いっ、井伊いの井伊~
昼~は寝床でぐーぐーぐー

それ故弾が力なく

2017年08月12日 18:18

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/12(土) 18:15:34.81 ID:P5a+mbW7
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)


弓矢の礼儀

2017年08月07日 18:26

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:06:10.56 ID:ptMNn+dR
北条陸奥守氏照の家臣の内に、中山勘解由、石原主膳という人に知られた武士があった。
この内中山は、小田原征伐のさい八王子城にて討ち死にし、石原は氏照の供をして小田原城にあり、
氏照自害の後は井伊直政に仕えた。彼は武功ある武士であったので、直政より旗を預けられた。

関ヶ原の岐阜城攻めの際、浅野幸長の軍勢は、岐阜城の出城であった瑞龍寺を乗っ取った。
浅野勢は瑞龍寺内部になだれ込んだが、その時何故か浅野の旗を立てるものが居なかった。
他の部隊も近くを通ったが、この事に気づくものが無かった中、いい直政の兵が搦手より押し入り、
石原の下知にて直政の赤旗を城の内に押し立てた。その上で浅野勢のうち大将分の者を招くと
石原は言った

「瑞龍寺は井伊直政の勢が乗っ取った!」

浅野の者たちは驚き反論した、「これは存じもよらぬことを承る。幸長の手にてここは乗っ取ったのだ!」

「ならば城を攻め取った印は何であるか?」

「我等は勢はいずれも城の中を走り回っているではないか!」

石原これを聞くと、傲然と言い放った
「それは御自分の功名というものだ。御旗印の一流も見えない以上、実正とはいい難い。
我々は旗を上げた。これこそ証拠である!」

これに幸長の家臣たちは言葉に詰まり、返答できないでいた。
と、ここで石原は大笑いし

「いやいや、この話はここまでにしよう。各々がどうも弓矢の礼儀をご存じないようなので、
あえてこのような事を申したのだ。勿論この城を落としたのは各々が粉骨された故であるのだから、
我々は旗を降ろし、城をそちらに参らす。」

そういって、旗を撒いて撤収したという。

(士談)



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:30:00.50 ID:99qRtOQS
>>131
いい話スレだけど、喧嘩になるかと思った

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:49:24.48 ID:Oii5T9zM
後の「ショー ザ フラッグ」である

“井伊家の一本槍”

2017年06月18日 16:11

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 04:52:56.99 ID:jFVDgUyD
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』


44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:19.00 ID:5kXMhSIL
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

彦根藩士は美服奢侈の排すべきを

2017年06月16日 17:55

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 19:40:10.63 ID:HMJ96zTR
井伊直孝は華美の風が上下を通じて一つの流行となった事を憂え、自藩にだけは昔ながらの士風を振作したいと考えていました。
江戸からの帰途、彦根に向かうために琵琶湖を横切って行くほうが近いので船により、彦根城の天守が見えた時に、藩士たちの出迎えを想像することもできました。
「皆の者。江戸出立の際、その方達に渡した荷物があろう、あれを開けい。」
「はっ。」
家臣たちは前々から気にかかっていたその荷物を開けると、中からは袴まで揃えた一揃えづつ綿の着物が出ました。
直孝は快活に笑い
「それに着換えいたせ。」
藩士たちは久しぶりでの国入りに綿服を着て同輩に会うのを気恥ずかしいと思いましたが、主命なので否応もなく渋々着換え終わった時、船は城下の岸に着きました。
出迎えの藩士の面々は直孝の後に続く士たちを見て、一人残らず綿服なのにどきりとしました。
出迎えの藩士は、己の姿を顧み、美服が粗服を迎えに出た形に妙な空気を醸し出しました。
「大義。」
直孝は、出迎えの士をいたわりましたが、衣服については帰城の後も言及しませんでした。
黙っていても、藩士たちには彼の心が分かったので、以後、彦根藩士は美服奢侈の排すべきを悟ったのです。
日に日に藩士の風俗は改まり、堅実な風が、以前とは逆な方向に吹いたのです。

(常山紀談)



34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 22:59:14.80 ID:0xUE2tCx
慶喜「贅沢でもいい。忠義を尽くしてほしい」

そのときは拙者とて

2017年06月16日 17:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』


人の挨拶

2017年06月10日 21:19

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 04:47:37.43 ID:OWDQQE2A
この掃部頭殿(井伊直孝)は大坂の御陣の時、家来の者が槍を合わせている
に付き、高い場所に上り、馬から下り立って槍を杖について見物しておられた。

そこへ本多安房守(政重)が足軽2百人ばかりを召し連れてやって来て挨拶を
致したところ、掃部頭殿は目の前に気を取られたのか挨拶を返さなかった。

すると安房守は、「掃部は腰が抜けたのか? 人の挨拶も聞き付けぬとは!」と
大声で憚りも無く申して、罷り帰った。

その後、対面の折に挨拶したとの旨、癸巳正月11日の夜に(松雲公前田綱紀
より)拝聴仕る。それ以後も度々この話を仰せでござった。

――『松雲公御夜話』


大河ドラマ応援エピソード

2017年03月11日 09:17

655 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 21:36:32.50 ID:I2lYKaTf
大河ドラマのおんな城主直虎が不発なので応援エピソードを送る

1983年の大河ドラマ徳川家康でのエピソードだが
(NHKオンデマンドで見れるシーンだが)
徳川家康の幼年時代に今川家に人質になった年の正月に
今川義元から屠蘇をもらう時、竹千代のそばに美しい姫が二人並んだ
1人は鶴姫といいもう1人は亀姫という
義元は竹千代に将来、鶴姫を嫁にしないか?と言われる。
竹千代は殿の命令ならいただきますと答えた。
すると義元は竹千代にでは亀姫はどうか?と尋ねられ
竹千代は即答で亀姫を嫁にしたいと答えた。
数年後、竹千代の嫁になったのは鶴姫だった。
それから数年後、亀姫は竹千代事、徳川家康の敵としてはばかり
悲劇の最後を遂げるのである。
亀姫が亡き後、家康は亀姫にそっくりな姫を側室にして
その側室が2代将軍秀忠を生むのである。

ちなみに亀姫が死んだ後に鶴姫は亀姫の墓前に
椿の花を数百本植えて弔った弔ったいうエピソードがある。



656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 22:01:22.78 ID:SqWqwXvN
それって大河以前の出典のあるエピソード?

657 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:13:40.76 ID:I2lYKaTf
原作読んでないからわからん
脚本家の創作かも知れないけど

658 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:39:44.07 ID:I2lYKaTf
これからの「おんな城主直虎」は田鶴との血を血で洗う攻防戦になるから
これをどのように描くのかシナリオに興味があるな
この田鶴との攻防戦のできによっては面白くなるか
オニギリ以下の大河ドラマになるかの瀬戸際だから注目しといていいよ

659 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:51:14.59 ID:I2lYKaTf
ネタバレになるのだが
大河ドラマの徳川家康の亀姫=おんな城主直虎の田鶴なんだよな

徳川家康では竹千代の初恋の姫で、直虎では直虎の最大の天敵というのも面白いですと思う

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 23:24:00.65 ID:TbL3G2rO
10年くらい前にいい悪いスレに上がってた話をドラマで見れるとか胸が熱くなるよな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 10:28:41.06 ID:NRxTn7fG
鶴姫=瀬名
亀姫=田鶴

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 12:42:16.66 ID:3jYWWDyx
鶴がついてる方がつるひめじゃーないのか

汝はこの夜中にどこに

2017年03月06日 21:04

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:45:20.12 ID:opIRsI01
豊臣秀吉の死後、徳川家康伏見在住のとき、或る夜密かに、徳川屋敷にこのような情報が流れた
「今夜大阪より、我が君に御生害を進めに来るようだ。」

家康もこの情報に接し、井伊直政を呼んだが居らず、一時(約2時間)ばかり過ぎて、外より
馬を駆けて帰ってきた。すぐさま御前へとでたが

「汝はこの夜中にどこに行っていた」

と尋ねられると、直政

「されば、今日の暮方より、屋敷内にて、なんとも怪しい風聞を聞きました。それ故不審に思い、
外の状況を確認しに出かけたのです。

流石に殿ほどの御弓取りに対し、大阪より御生害を進められるというのは只事ではありません。
万一にもこれが事実であれば、京・伏見に参勤の大名・小名が、この御館廻り、その他の辻々、所々に
押し寄せるでありましょうから、御館の近辺は申すに及ばず、近郷まで偵察し、少しでも心もとない
場所を見廻りましたが、どこの道も静かで、怪しいことはありませんでした。」

こう申し上げると、徳川屋敷での騒動は忽ち静まったという。

この風聞は江戸でも取り沙汰され、「内府公は御生害された」と言うものまであり、
これを聞いて江戸より、我先にと京へと馳せ登った。
さればその人々は、その日の未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時頃)までの間に追々出立したが、
伏見に到着するのは遅速あって、早い者では3日、遅い者は5日で到着した。
瀬田の橋では昼夜3日の間、内府の人数が途切れなかったそうである。

こうして到着した人々が家康に御目見得した所、「お前たちはどうしてこちらに上がってきたのか」と
尋ねられ、しかじかの理由を申し上げると、

「何者がそういう事を言いふらしたのか知らないが、心やすく思うように。ゆるゆると休息し、
上方が初めての者達は、京伏見も見物して帰るように。」

そう仰せ下した。

これだけではなく、秀吉薨去が発表に成ってから、巡礼に出かける関東の百姓や御領分の民たちまで
聞伝えに、我も我もと伏見の御館に馳せ参ったそうである。これは領民たちも、大神君の神恩に
起伏した故なのだろう。

(武野燭談)


鳥居家改易顛末

2017年03月05日 18:33

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:25:04.51 ID:O+aWJb3p
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話