井伊家の付人連署して直政を諫めし事

2017年01月29日 12:37

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 03:08:15.06 ID:aPNAmi8U
井伊家の付人連署して直政を諫めし事

井伊直正は壮年の時鋭気が甚だしかったので、東照宮から付け置かれていた。
そこで...(抜落)以下が連署して諫書を捧げた。
その中に
「人には必ず目標を設けるのがよろしいと思われます。
私達臣下らが前の主君の事を申すのもいかがなものかと思われますが、
申し上げさせていただきます。
信玄が若い時から一つとして心から善事を行わなかった人ではありましたが、
常に越後の謙信を目標として謙信に優るように努め励まされていました。
なので信玄の一生の間、手を下した大事の合戦が五回に及びますが、
大きな敗北はされませんでした。
殿にも本多中務大輔忠勝を目標として、努めて劣らないように励みなさってください。
古から『進まず退かざる良将』と申しますが、それは中書(中務大輔の唐名)のことだと思われます。」
と書いてあったそうだ。

(常山紀談)

信玄に対してひどい言い様www
何かあるでしょ、信玄堤とか



558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 11:14:12.92 ID:Tc8KsaEm
上田原の戦いや戸石崩れは謙信と対立する前だからノーカンなのだろうか

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【雑談】井伊直虎関連の話について

2016年12月16日 08:09

ニュースソース
「井伊直虎」別の男性が名乗った名前か 新たな見解
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161215/k10010807221000.html


418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 19:42:38.77 ID:ynzlC0ov
なんか来年の大河がもめてるそうだから、井伊直虎関連本から抜き出してみた

大石泰史「井伊氏サバイバル五○○年」
p146~(正徳元年(1711年)に井伊家の始祖の誕生した井戸の帰属を巡って正楽寺と井伊氏の菩提寺である龍潭寺が争った際、
龍潭寺の住職であった祖山が井伊氏と龍潭寺のつながりを証明しようと「井伊家伝記」を書くにあたって)

(中略)ここからは想像の域を出ないが、次郎法師登場の背景を探ってみよう。
祖山は龍潭寺で、位牌・過去帳等から「次郎」が中世井伊氏の家督も使用した仮名・通称であることを認識した。
そのため永禄八年の寄進状を書いた「次郎法師」は当主に近い人物と考えた。
しかし、中興開山である直盛は同三年に、後嗣直親も同五年に死没している。彼らよりも没年が遅い人物を探す必要がある。
そうしたとき、龍潭寺内に残されている位牌等に、天正十年に亡くなった人物がいた。
法名は「妙雲院殿月船祐円大姉」だが、没年は直盛・直親以降の人物であることは間違いない。
「大姉」とあるので女性である。しかし、その位牌等以外に確認できないのであるならば、次郎法師は妙雲院殿だった。祖山はこう考えたのではないだろうか。

その傍証となるかもしれないが、祖山は次郎法師=直盛息女=妙雲院殿と認識はしているものの、
次郎法師=直虎、もしくは直盛息女=直虎、という表現はまったくしていない。
つまり、女性であることは認識していても、男性名である「直虎」を名乗ったとはどこにも記載がないのだ。
このことから、直虎が次郎法師もしくは直盛息女と指摘したのは、後世の研究者たちであったとすることができる。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 19:47:32.44 ID:ynzlC0ov
小和田哲男「井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史」
p101~
『寛政重修諸家譜』は「女子 直親に婚を約すといへども、直満害せられ、直親信濃国にはしり、
数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と簡単な記述で終わっている。
(中略)『寛政重修諸家譜』の記述だけだと、尼となったのに尼の名でよばず、なぜ「次郎法師」という名前なのかの説明がなく、わからない。
そのあたり、「井伊家伝記」を書いた祖山も注目したものと思われる。一つの解釈を披露している。(中略)
亀之丞が信濃に落ちていってしまったため、彼女は菩提の心深く、南渓和尚の弟子になって、剃髪し、出家してしまった。
両親は嘆き、「一度は亀之丞と夫婦にと思っていたのに、このようになってしまって」と、
尼の名はつけさせたくないと南渓に申し出た。
一方、彼女のほうは、「出家したのだから、是非、尼の名をつけてほしい」と、親子の意見が分かれてしまった。
そこで南渓和尚が考えたのが次郎法師という名前であった。
備中次郎という名は井伊家惣領の名である。次郎法師は女ではあるが、井伊家惣領に生まれたので、
相続の名をかねて次郎法師はふさわしい。南渓和尚がつけた名である。
この次郎法師は、井伊直親が誅殺されたあと、直政が幼年だったため、井伊家の家督となり、地頭職をつとめた。
(中略)
(父親の直盛の出生年から考えて判断力のあった年齢であるとするのは難しい、という野田浩子氏の説を紹介した後)
娘も自分の意志で行動できる年齢だったと見ている。(中略)ただ、野田氏の指摘のように、「彼女の私的な
感情により出家が認められるはずがない」というのはその通りで、あとでふれるが、亀之丞がもどってきたとき、
還俗すれば結婚が可能だったはずなのに還俗しなかったこととあわせ、このあたり謎が多いことはたしかである。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 19:52:19.56 ID:ynzlC0ov
ニュースでは次郎法師は直盛の娘で、次郎直虎は別人、という主張が紹介されてたけど
単に龍潭寺に箔をつけるために祖山が次郎法師=直盛娘として南渓、次郎法師命名の話をでっち上げただけで
1812年に完成したの『寛政重修諸家譜』もその次郎法師=直盛娘説に乗っかっただけだったりして

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 19:55:32.03 ID:Da97V1+q
あのニュース、「発見」されたって『守安公書記』が新発見でも何でもない史料の上に、しかも編纂されたのが享保20年(1735)で、
享保15年成立の『井伊家伝記』より新しいものだからなあ。
『守安公書記』の史料評価もきちんとできてないみたいだし、あのニュースは正直勇み足過ぎる

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 11:31:37.47 ID:C91lbPBf
現代では色々な武将が女体化してるから
井伊直虎の性別なんてどっちでもいい・・・って石田三成が言ってた

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 13:11:17.64 ID:VCcNHMdd
武将名でイメージ検索するとひどい事になるのが最近は普通になってるな。あと刀も

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 13:40:32.34 ID:3OMI3D+q
つか女でも法師てよばれるんだな

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 21:09:51.60 ID:E3VsNxRe
とりあえずだが、井伊達夫氏は甲冑業界では名の知れた山師であることを指摘しておこう
井伊とは言っても、井伊家(越後与板藩主家)とは近年養子縁組したひとだしね

まあ個人攻撃ととられるかもしれないが、いわくつきの人だってことさ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 22:41:19.20 ID:NI228Pl1
ところでその話の流れで、付箋がどうこうとネット上で一部の話題になってるの

例えば国宝「上杉家文書」の場合なんか、ボールペンの書き込みが残ってたりする
昔の地元の郷土史家の先生たちの仕業なんだけれど
今の修復技術で消すことも可能だが、後世の戒めとして残してあるそうな


ふと思い出した

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 22:39:57.96 ID:PNeVf9DM
>>430
酷い山師だったのは事実だが、その古文書自体は捏造ってわけでもないだろう。検証と解釈は別として。
目立ちたがりなのは間違いない。

彦根侯邸に棲める雉

2016年09月12日 20:28

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 15:00:54.38 ID:NuRJfjTK
〔初清正の邸〕彦根侯邸に棲める雉
同臣脇師、高安某長舎
同侯上邸玄関

前にも彦根侯麹町の邸は、始めは加藤清正の邸であったことを記したよ。
このように清正の後は、かの邸は取り上げられ彦根の祖の井伊直政がここに住んだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10067.html

この邸の中に雄雉一羽がすんでいた。
この鳥は直政の時からいて、
直政が帰国のときは雉もまた随い、出府するとまた随ってかの邸に来た。
今もなおいて、時々見かける者がいるという。

侯の脇師高安彦右衛門は彦太郎の弟子であり、かつ彼の臣なので麹町の邸に住んでいる。
なのでこの雉の鳴き声を時々聞くことがあるが未だその顔を見ていないという。
彦右衛門の母は見たといい、その大きさは普通の雉を二羽合わせたようであったという。
邸中の人は皆、御雉子様(オキジサマ)というと。
〔以上彦太郎の話〕

また彦右衛門の住所は十五間ばかりの長屋であるが、それは清正の時に建てたままである。
よって古色があり、柱はどれも柘植の大角材であったが、手斧目のままである。
この長屋は邸内でも谷を隔てて溜池に臨む畔上にあり、
離れ家なので、先年千畳鋪が焼亡した火災でもその厄を逃れたという。
この長屋は邸の門を入って三丁ばかりを行き、谷を下りそれから溜池の端にあると。

彦根侯の上屋敷の玄関は大坂城で淀殿の能舞台であったが、落城の後この方に引き移したという。
そのためか、今も屋根裏の棟木に、道成寺の釣鐘の釣りかぎが存在するという。
面白いことではないだろうか。

(甲子夜話三篇)




「井伊家はキツイ」

2016年08月19日 08:59

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので」と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp
q=井伊ね!

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7
武士って本当楽じゃねえな…

井伊直孝御夜話よりいくつか

2016年08月14日 17:28

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/13(土) 19:16:18.95 ID:yMJL0d14
一、人が隠していることを見聞きしようとしてはならない。人が秘蔵するものを、所望してはならない。

一、不慮の仕損じというのは、能力の有る人でも有る事だ。しかし自分の仕損じを人のせいにするのは
  大いなる恥辱である。逆に人の仕損じを我が身に引き受けるのは、見事というものである。

一、家を治めるとは、金銀米穀の事である。これを知らずに、人の家に意見すべきではない。

一、昔、数度の武功の誉れの有る老武士があった。若き人が彼にその武功を物語って欲しいと望んだ所、
  彼はこう言った
  「私は若い頃から、さしたる武功も無かったが、性格に愛嬌があってな、人からよく思われたのだ。
   だから少しの勤めも良く受け取られ、思いもよらぬ誉れを得たのだよ。人はただ、愛嬌があるのが
   良いのだ。」
  殊勝な物語ではないか。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝御夜話よりいくつか



兄弟のことは、

2016年08月12日 18:58

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:26:40.35 ID:ItuPmMMu
兄は弟を子の如く憐れみ、弟は兄を親のごとく敬うべきである。
朋友の交わりは、心に叶わぬ事が有れば遠ざかるのが世の中の習いであるが、兄弟のことは、
心に叶わぬことが有るからといって、疎くなるべき道ではない。
不快の事があったとしても、互いに堪忍して誠の志を尽くすべき事である。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝が言うといろいろ意味深ですね。



63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:52:08.06 ID:d07OqDCz
戦国ちょっと井伊話?

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:07:06.57 ID:/DmlP1AN
どうでも井伊

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:30:48.65 ID:ZBwrP2oU
直孝が言うから重みがある

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:58:40.56 ID:id7Qth0M
国替えの時は兄貴に親父の遺品渡してるし関係が悪かったわけじゃ無いのかもな
ただ木俣守安が外された時は兄貴に対して色々と思うことがあったようだが

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:01:03.31 ID:/Np3oJwp
ひこにゃんは親父ににて無口だが口を開けは重みのある良い事を言う

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:04:56.89 ID:/Np3oJwp
さすが幕閣初の大政参与だ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 23:33:22.80 ID:bV21Tw8+
>>62
頼朝「兄弟は大切にしないといかんぞ」
信長「それな」
政宗「まったくもって」
義光「その通り」
秀忠「せやせや」
天武「えぇ…」

向後かたく御無用に御座候

2016年08月08日 16:24

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 11:44:29.18 ID:NfEhADzu
今まで数度申し上げましたが、お忘れに成ったのか、強がっているのか、お聞き入れありません。
軍勢を押し上げる時も、そのお姿や馬印、御馬も常と同じようにされていますが、それは宜しく有りません。

我らの古主である武田信玄は、自分と同じ出で立ちの者を3人用意し、自分も含めて同じ格好の者が4人、
軍勢を押し出す時も同じような馬に乗り、いかにも目立たないようにされていました。これにより、数度
危うい所を逃れました。

上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。
その時分は越後勢から甲州勢へ忍びを入れ、もしくは甲州勢が越後勢を探って、大将の出で立ちを伺っても、
両将共に見定めることが出来ませんでした。
この両人に限りません。関東の北条、尾張の織田信長、何れも見定められた事はありません。

殿(井伊直政)は無類に強気ですから、こういった事は悪しきと思うかもしれません。ですがそれは若気と
言うものです。心得の無い者たちは、敵味方ともに殿を『雄々しき大将だ』と言うかもしれませんが、
武功の者達は笑っているのですよ。

尤も、大将というものは前線の様子を、自身の目で知りたいものです。その時は、ご自身の具足と違わぬよう
拵えたものを予め用意しておき、近習の者に着せて、旗本に置き、馬印もそのまま置いて、大将は目立たぬ
姿に着替えて前線にてご下知なさるべきです。

殿は、朝霧の深い時でも前線に馬で乗り入れます。あまつさえ馬印まで持って。
今後、絶対にそういうことはなさらないで下さい。(向後かたく御無用に御座候)
霧深い中、敵が伏兵を置いて居た場合、鉄砲などで狙われる例は多いのです。そうして過ちが起これば、
それは末代までの落ち度です。

それから、先年家臣一同をご覧になった時も、組頭、使番、物頭、そのほか頭の者たちばかりにお声を
かけられ、残る士にはお言葉をかけられませんでした。これは殿がご若年だからでしょうが、
諸人に恨みを残す行為です。皆に声をかける嗜みがあるべきです。
御用に命を捨てる武士というものは、たった一言の言葉にも感じ入り、一心を定めるものなのですから。

(松のさかへ)

井伊直政へ家老一同からの諫言書より。この内容だと銀の鯰尾兜であえて目立っていた蒲生氏郷なんかも
落第ですね。



958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 13:51:16.10 ID:XNi8I1Od
>>957
総大将じゃないのに影武者作る習慣はあったんだろうか

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 14:30:14.03 ID:/fNKafdB
諫言の甲斐なく狙撃されちゃったねー
バカだねー

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 15:45:04.93 ID:9iHxHcZM
>上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。


謙信所用と伝えられる甲冑がわりと残ってるのは
そういうわけなのかな?

物見の衆をよくよくご吟味あって

2016年08月06日 09:20

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 21:58:51.76 ID:pGK24o8N
上方衆の武辺と関東者のそれとは、同程度の人数で、両方の大将の能力も対等であった場合、
運次第とは言いながら、上方衆は5度に4度は敗軍するということ、信玄公の時代より今まで、
数度にわたって見聞きしております。

しかし、関東武士と言っても強勇の者ばかりというわけではなく、また上方侍とて、弱い者ばかりでは
ありません。ですが、上方の軍勢の特徴として、備え立てに吟味が薄く、物見を大切にしない、
という所があります。
専門の物見武者を選定せず、その経験を積ませること無く、誰であっても物見は出来るのだ、
などと心無い者は考えているそうです。

上方衆は物見に出て、遠きを計らず敵を賤しみ、荒事ばかり言って、人を預けても合戦の時は、
彼らは寄騎同心を捨て、一人先に行って抜け駆けをするのを手柄と考えますから、心がけのある者は
預かりの人を捨てて先に行き、一番槍を好みます。

ですから、敵将が名将ですと、1,2の備えを捨てて3,4にて勝つような戦略を立てます。
上方衆は先陣ばかりを切り崩せば敵は敗軍し勝利すると心得攻めてきますが、2,3の備えにて切り崩され、
結局彼らのほうが敗軍します。

信玄の歌にこのようなものがあります

・軍には 者見なければ大将の 石を抱いて淵に入るなり
・戦に 日取時取さしおきて 物見を掛けて兼ねてはからへ

この二首は信玄公より勝頼へ自筆で書かれ、伊那へ入城の折に遣わされました。
物見の衆をよくよくご吟味あって然る可きです。

(松のさかへ)

井伊直政に、三科形幸などの重臣が連署で出した諫言書の一節である。




45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 23:32:30.89 ID:BuAwnvp8
関東武士に物見はいらへんで?
見つけた敵を片端から棍棒で殴り潰すから

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 10:45:26.62 ID:3QaXja28
そもそも甲斐は関東じゃない件

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 11:03:10.05 ID:BUXeDJN+
甲斐は鎌倉公方の支配地域だったし、三関より東をひとまとめに関東と呼ぶ場合もあるし、必ずしも関東が関八州、現代の行政区分での関東を指す訳では無い

何右衛門は少しも屈さずに

2016年04月08日 14:01

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 02:53:27.66 ID:DcYidf8p
井伊兵部(直政)家中の木俣土佐の家来・何右衛門は九戸陣で首をひとつ取ったのだが、
その首を朝比奈左大夫が頻りに奪い取ろうとした。何右衛門は為す術なく奪い取られる
時に、その首の右耳の外れから左へ一刀を突き通した。

後に首実検の時、朝比奈はその首を持って出た。そこへ何右衛門はつるつると走り寄り、
「重いものをここまで御持参してもらいかたじけない」と、言うと、羽織を首へ被せて、

「この首をそれがしが取ったことは疑いない、 あの男が奪ったのだ! 証拠がある!」
と、言った。朝比奈は、「下がれ! 推参をぬかしおる!」と言うも、何右衛門は少しも
屈さずに、首の耳下の証拠を告げた。

朝比奈は終いに男(武士)をやめて法体となり、道無と名を改めて駿河様のもとへ出て、
その後に三河守殿に仕えた。

大須賀五郎左衛門(康高か)の家来・福岡太郎八は前述の朝比奈の甥である。太郎八の
取った首を朝比奈が奪ったことがあったが、太郎八は敵陣へ駆け込んで、別の首をまた
ひとつ取った。末頼もしき武辺であるというのに、太郎八は前述のことを最後まで一言も
人に語らなかったという。太郎八は加藤喜八の別腹の兄である。

――『武功雑記』



若年の時は一旦のことに迷い

2015年11月30日 07:21

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 04:01:46.72 ID:dM7cB86d
井伊直孝曰く、

「若年の時は一旦のことに迷い、理非のわきまえもなく、是非とも自分の
心のままにしようと思うことがあるものだ。

その時、父母兄弟朋友の意見によって心を取り直し、正道に帰る者もいる。
一方で、強情で意見を用いず、悪名を得てその身を滅ぼす者もいる。

この時が一生の吉凶の浮き沈みである。一旦の怒りで主君父母の恩を忘れ、
一門の名を穢すことは非義の至りであるからよくよく覚悟すべきことである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。」

2015年11月10日 15:33

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:05:06.77 ID:pcLi2wWH
井伊直孝曰く、

「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。何事をするにしても、
まずその事の実質を知って、よく考えて取り掛かるべし。害を知って上手く防げば、
その事は成就して、後悔することもない」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』



人間一生の勤めは忠孝の道である

2015年11月08日 06:46

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 00:57:01.81 ID:kHLr6tzO
井伊直孝曰く、

「人間一生の勤めは忠孝の道である。聖賢千万言の教えも、皆忠孝のためであろう。

忠孝を勤めようと思うなら、主君と先祖の恩を常に忘れるな。『恩を知らぬ者は、
思いもかけず災難にあうものだ』と、古人もおっしゃった。油断してはならない。

人間の苦には、飢寒よりもたいへんなものはない。百姓町人が昼夜となく骨を折るのは、
飢寒を防ぐためである。中には家職の勤めに油断して、飢寒に及ぶ者も多い。

一方で、武士には生まれながらの飢寒はない。皆々が父母妻子兄弟を養い、家来を使い、
安楽に暮らしているのは、主君ならびに先祖父母の恩徳ではないだろうか。

この恩を常に忘れなければ、忠孝の道を忘れようもない。古老の物語などによれば、
『毎日食に向かい衣服を着る時、主君と先祖父母の恩徳を思え』ということである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 01:35:54.39 ID:G3IlIf/x
藩祖が遠江出身で生粋の三河者じゃないのに、一番禄をもらって
譜代筆頭なのに戊辰戦争では新政府側の彦根藩

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 06:39:27.75 ID:KLh7wixy
藤堂高虎「さんざん幕府の恩顧を受けながら裏切るとは彦根藩ってひどいな」

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 07:05:22.76 ID:IHwgcjch
井伊家は南北朝時代から何度も滅亡の危機をむかえてるのに明治維新生き抜いたのは正直すごいと思うの

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 08:26:58.70 ID:hS/xgfqa
直弼はさっちょうのスパイだったのさ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 10:38:44.79 ID:1be3Js0o
風邪で具合が悪いせいか、
直政は家康のおっぱいだったのさ
に見えた

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 11:34:48.66 ID:cGSOOvIR
寝てろ

小川関書の狼藉

2015年09月23日 14:07

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 22:31:50.96 ID:ReESZ9ER
豊臣秀吉の時代のこと。

徳川家康の旗本である筧助兵衛という禄五百石の者、2年の間京に御使として駐在していたが、
その勤めも終わり帰路でのこと、筧の旅宿に、秀吉の直参である小川関書という者が押しかけてきた

筧が「何事であるか、狼藉なり!」と抗議すると

「筧の槍持ちは先年、我が家において罪を犯し欠け落ちした者であるが、今この宿において見つけた故
捕えるのだ!速やかに彼を差し出すように!」
そう罵って今にも乱入する気配であった。しかし筧

「おおよそ天下には御定法があり、あえて違うべきではない。また武士は礼を以って立つものである。
一応の届もなく、みだりに追い込んでくるのは礼ではない!
私は今、京都に使いして帰る途中である。そこで鑓がなければ奪い取られたと言われるだろう。
願わくば静まれよ。命を伝えて後に、相違なく槍持ちを送り届ける。」

そう言って、さらにその旨を文書に書いて証拠として残すとまで言ったが、それでも小川は
全く承知せず、「遅く出すくらいなら討ち果たせ!」とまで言ってきた

「さてさて何と理不尽なことか。そういう事であるなら、私も絶対に出さない!」
筧も怒り、双方既に戦いに及ぼうという時、ここを井伊直政が通りかかり、この騒ぎを聞いて、
ともかく筧を説得しかの槍持ちを出させようとした。

しかし、筧から仔細を聞くと、直政も共に激怒
「無法千万の者共なり!この上は、もし手を出す者があれば一人も残らず斬り殺すべし!」
そういうと即座に、従者5,600人を武装させ集合させた。
その勢いに驚き、小川は引き退いたという。

(明良洪範)




人は必ず、向かい合う対象を

2015年08月28日 18:42

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 20:56:54.29 ID:zKBezFLt
井伊直政が壮年で鋭気甚だしい頃、家康より付けられた旧武田家の者達は連署して
諫書をささげた。その中にこうあった

『人は必ず、向かい合う対象を思い設けるべきです。
私達の前の主君のことを申すのもいかがかとは思いますが、武田信玄は若き頃より、
一つとして心よりの善事は無い人でした。しかし常に越後の上杉謙信と向かい合い、
謙信に勝るべきと、努めて励まれていました。であるからこそ、信玄は一生の間に手を下ろしたる
大事の合戦五度に及びましたが、大きな敗北はしなかったのです。

殿にも、本多中務大輔忠勝殿を以って、向かい合う相手として勤めて劣らないよう
励んで下さい。』

(芳譚)

しかし旧家臣にこう言われる信玄…w




222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 22:29:09.45 ID:vaTL/JFo
>武田信玄は若き頃より、一つとして心よりの善事は無い人でした。

断言されてるw

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 22:36:50.68 ID:+9vmrtzX
表向きにでも善事があったならまだいいじゃないか

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 00:40:52.91 ID:YTYAc68y
やらない善よりやる偽善

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 13:18:42.66 ID:bc7E7NLl
欲しい物は女でも駿河でも盗んだ大悪党です

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 14:16:31.79 ID:85o8mPZV
晴信は鬼畜だったけど、そのお蔭で信濃を統一して大国を築いた訳だし

井伊直政銃撃の模様

2015年05月04日 13:55

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/03(日) 20:29:25.78 ID:4ZNVLAR3
関ヶ原にて、島津の退き口についての事は、諸家に様々な説がある。そのうち、井伊家の旧記によると、
井伊直政は敵陣の後ろに駆け抜け暫く息を休めていた所に、島津の軍勢が、旗も指さず備えを真ん丸に
固くして引き退いてきた。

直政はこれを見て、「あれは敵か味方か!?」と問うと、家臣の早川弥惣右衛門という者が
「あれは敵にて候」と申し上げた。
この時、葦毛馬に乗っている島津の家臣、山田隼人と言う者を見て、
「あの葦毛馬の武者を私が討ち取る!」と追いかけた。

直政が常に定め置いていた25人の近習は、何れも人を選んで固く申し付けられ、引くときも足を乱さず、
進退とも一様にするようにと示し置かれていたのだが、敵陣が乱れてくるに連れ、自分たち各々の働きのために
次第次第に散乱して、いつしか直政の馬廻りを追いかけるのは、馬上2,3騎、歩兵20人ばかりになっていた。
その上、直政は良き馬に乗っていたため、彼らを駆け離し、島津勢が山の腰を引くときには、直政ただ一騎で
進み、沼があったのを越えた。

この時、井伊家家臣の大久保将監と言う者、これも島津勢を駆け抜けて高名を遂げ、帰る所にこの直政と
行き合った。将監は直政に「あの大勢の中にただ一人で追撃されるのは勿体無いことです!」と
直政の馬に取り付き引きとめようとしたが、これに直政は大いに怒り「若者、離せ!」と叱りつけた。
しかし将監が離さずに居た。

そこに、薩摩長寿院という者の組下の、川上久右衛門と言う者、腰につけていた種子島を持って、田の畦に
伏せてこれを撃とうとした。その時喜内という者と、もう一人が双方に立ち並んで下知をした。
久右衛門がはやまって撃とうとするのを制し静めてかた撃たせると、その弾は直政の右脇に当たった。

しかし、当たった所は具足であったので弾は通らず、そこで弾けて右腕に当たった。
このため持っていた鑓を落とし、暫く馬上で耐えていたがついに落馬した。
これに井伊家の家臣たちはすぐに馳せ集まった。一番に斉藤半兵衛と言う者、その他、安井平右衛門、
川上庄兵衛などが、おいおい駆けつけ、斉藤半兵衛が直政を抱きかかえ馬に乗せると、
大久保将監は落ちた鑓を担いで馬の口を引き返し、そのうち大勢の家臣たちが集まった。

直政が落馬した時、島津方の川上久右衛門の側に立ち並んでいた者が、刀を抜いて直政の首を取ろうと
駆け出したが、これを喜内が制して「敗軍に首はいらぬ!」と引き退いたが、
追々直政のもとに駆けつけた人々が下馬しているのを見て、「さてはあれは大将であったか!
首を取るべきであった!」と後悔したそうである。

(明良洪範)

関ヶ原で、井伊直政が銃撃された時の模様である。



735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 04:18:51.65 ID:TJcNyrQE
首を取ってたら島津はどうなってたやら

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 09:03:49.29 ID:M+0M9EUd
井伊直政を殺された家康ぶちきれ、他の諸問題そっちのけで島津征伐
結果、歴史は相当変っただろうな

「天下の乱の元と存じました」

2015年04月22日 18:30

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 20:45:49.19 ID:dtcF3OWH
将軍徳川秀忠が諸大名を召して、土井大炊頭利勝を以って、来年嗣君(家光)に世を譲る旨を
発表すると、何れも祝う所に、井伊直孝一人黙然としていたため、土井利勝は側に招いて
「どうかしたのか?」と問うた所、直孝は

「天下の乱の元と存じました。めでたい事とは全く思いません。」

「それはどういう理由か?」

「それについては、大阪の乱のあと。江戸城の石垣の造営、日光の御造営とうち続いたため、
天下の諸大名は以ての外に困窮しております。そんな状況でこの上御代をお譲りなされば、
諸大名はその祝の献上品のため費え多く、また将軍宣下の饗礼を執り行えば、更に困窮に及んで、
支配下の民を苦しめる以外に方法が無くなるでしょう。
これによる万民の嘆きは、乱の基であると存じます。」

土井利勝これを聞くと
「至極の事である。それをありのまま、秀忠公に言上すべきだ。」
そう言って直孝を御次の間に伴い、利勝は御前に進んでしかじかの旨を言上すると、直ぐさま直孝は
御前に呼ばれ、秀忠よりこのように言われた

「汝が申す所は尤もである。しかし、一旦言い出してしまった以上、止めることは出来ない。
なお、今後も憚ること無くどのような事でも私に申すように。」

ところが直孝は、これに全く納得しなかった。
「直孝の只今の旨、然るべからずと思召したのであればそれでよいでしょう。
しかし!臣の言葉を尤もと聞かれたのに、用いられないのは、仰せとも思えません!」

これに秀忠は、暫く言葉もなかったが、ここで利勝が申し上げた
「私は既に年老いました。しかし彼のような壮年の者がこのように直言申し上げるというのは、
誠に天下泰平の基であります。明日、大名を召され、掃部頭(直孝)が申す旨尤もなるにより、
昨日の事は止められると言うことを仰せになるのが、然るべきと考えます。」

これに、秀忠は彼らの諌めに従う事にした。
直孝は「私が申す旨を用いて頂き、忝く思います。」と謝して退去した。

この事について当時の人々は、秀忠が諌めを入れたこと、直孝の直言、誠に君臣とも美を為し
善を為したと語り合ったという。


(明良洪範)


井伊直孝「それは能き沙汰なり」

2015年02月15日 19:57

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 16:05:27.42 ID:tmMYLvYF
井伊直孝が大番頭として伏見城に勤番の時、世間では、

「大坂と関東との間に御合戦があるにちがいない」

との噂があった。ある人がやって来てその旨を直孝に話して聞かせた。
直孝はこれを聞いて、

「それはよい噂である。ああ、そんな事にでもなってほしいものだ。
秀頼公に切腹をさせて、淀川ではらわたをすすいで見せ申すのだがなあ」

と言った。

(掃部頭聞て。それは能き沙汰なり。あはれさやうの事もあれかし。
秀頼公に切腹させ。淀川にて膓をすすぎ見せ申すべきものをと云。)

――『武功雑記』




413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 17:12:00.66 ID:0n63oxZu
>>412
個人的に好きな逸話だ
こういうこと言えちゃう掃部さんかっけぇっす

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 17:15:57.77 ID:AI+QI/w8
ラスボスは自分がノブの息子たちにした事を忘れちゃったのかな
俺だったら家康はまっ先に殺すけど
秀頼の将来を託しちゃうくらい耄碌しちゃってるから無理か

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 18:35:32.84 ID:cueKlJE/
織田秀信が秀頼なみに挑発やら抵抗やらしてたら切腹どころか磔にしてるでしょ。
家康は成人するまで生かした上に最低でも二度は生き残りのチャンスを与えてるんだ、ほんともう仕方ない。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 18:43:01.90 ID:LcyymyQc
家康がそんな甘い男なわけ無いだろう
自分で秀頼を殺らなければ、自分の死後に今度は徳川家が同じ目に会うんだから

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 21:27:36.88 ID:4PlYAfOp
大阪の主戦論はだいたい主馬治房のせい

何故井伊直政が撃たれたのか

2014年12月22日 18:38

54 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 17:59:12.97 ID:tp1m86X8
磯田道史氏の『歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ』から

関ヶ原合戦で井伊直政は狙撃されて重傷を負った。
なぜ彼ほどの高級指揮官が撃たれたのか。家来は人垣で守らなかったのか。
戦後、井伊家ではこの状況を調査し、薩摩側の証言も得て検証し、『井伊家慶長記』に残している。


最初、直政は薩摩軍と思わずに追撃を始めた。
旗のない不審な一隊が前を横切ったので、直政は「敵か味方か」ときいた。
家来が即答。「敵なり」
葦毛馬に乗った立派な部将が見える。
「あの葦毛馬に乗った武者は予が討ち取る」
直政はそう叫んで馬で駆け出した。

ところがここで問題がおこる。
護衛が消えていたのである。
直政は近習二十五人を定めて常に自分のそばを離れず護衛するように掟で厳命していた。
ところが乱戦のさなかで近習の騎馬武者たちは「手柄を立てよう」と抜け駆けを始めた。
そのため直政のそばには武者二、三騎と足軽二十人しかいなくなった。
しかも直政の乗っている「馬がよいゆえ一番に駆け」、薩摩軍をただ一騎で追う格好になった。
直政が沼の前まで来たとき、大久保将監という者が気づき、直政の馬の口にすがりつき、
「大勢の中へ、ただ一騎で追い駆けられるのは勿体なし」と必死で止めた。
直政は「放せ」と怒り狂った。

銃声がしたのはその時だった。

55 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 18:01:35.60 ID:tp1m86X8
撃ったのは薩摩の三人組。田あぜに隠れて待ち伏せていたのである。
一人が狙撃をし、両脇の二人が抜刀して護衛していた。
はやる狙撃手に両脇が「もっと寄せろ」といい、十分に引きつけて放った一撃だった。

弾は直政の鎧の胴に命中。
しかし防弾試験済みの「試しの具足」だったため、弾丸は跳ね返って右腕にめり込んだ。
直政は槍を落とし、暫く馬上で耐えた末、落馬。
薩摩の者は「首を取らん」と近づいたが、一人が「敗軍に首は要らぬ」と叱って撤退したので、
直政の首は間一髪でつながった。
家来たちが駆けつけ、下馬して介抱してるのを見て、狙撃手は
「さては大将だったか。首を取ればよかった」と
悔しがったという。



関ヶ原合戦では直政の他にも松平忠吉が銃弾で負傷、本多忠勝も馬に被弾して落馬している。
この島津軍の強さの原因として

「関ヶ原の合戦で西軍が敗れて、島津義久(義弘ヵ)が撤退したとき、井伊直政の備えを打ち破って通った。
この時、義久(義弘ヵ)の諸勢はみな腰さし鉄砲を用意していた由。それで数千挺、士も足軽も撃ったので
井伊殿は自分も臂を鉄砲で撃たれた」(『古実聞書』)

足軽だけでなく士分の者まで「みな腰さし鉄砲」を装備していたため火力が絶大となり、
これとぶつかった徳川軍の指揮官がそろって銃創を負ったという。





56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 20:22:43.17 ID:3IoNo/v+
自称伊達名物騎馬鉄砲隊(笑)とえらい違いw

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 20:47:00.34 ID:DvmRiYgG
近習が手柄を獲りに行かなければ井伊の家は違った歴史を歩んだか?

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 08:32:40.26 ID:bnPPwkQi
敗軍で撤退してる敵を弱い者いじめで追撃して痛い目を見るってかっこ悪いよね

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 08:56:35.20 ID:ebUxfvsG
本多も井伊も自分より弱い者しか相手にしてこなかったから勝ててきたんだよね

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 09:05:24.23 ID:oQXAdr0G
裏を返せば、本多や井伊に敵う相手が居なかったということか

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 09:08:19.85 ID:+L+hZItg
皆弱けりゃ大将しか強い人がいないということだな

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 12:40:20.22 ID:1IYQ7NeO
島津軍は強い!(1500名が数十人にまで壊滅)

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 13:07:07.18 ID:Ixih73nD
スパルタ軍は強い!(300人が全滅)

井伊家の”分割”

2014年10月28日 18:42

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:17:34.60 ID:vWKROlyd
直継の母って家康養女で直政の正室だったけど若い頃は病弱だったからこんなこと遺言したのかな
結局井伊宗家当主という激務から解放されたおかげか直継は弟の直孝より長生きすることにはなるけど

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 18:37:06.55 ID:2yWu0xJ3
>>101
井伊家が抱える人材は大多数が甲州軍からの転属組で、直政の代に配された
一方、遠江の一豪族時代からの臣は、先代直虎が立て直したとはいえ、
滅亡同然と離散を経験したこともあり、人数的にははるかに少ない
これら二つの派閥は折り合いが悪かった
内紛へと発展する前に甲州組を直孝に、遠江譜代を直継にと分割させるよう
家康が干渉した
直継に大身の方の井伊家を退かせるために「病弱」という口実を設けた節があり、
実際には病弱ではなかったかもしれない

直継の母は松井康重の姉(父康親は早くに亡くなり、弟が若くして当主を継いだ)で、
妊娠したばかりの段階で、直政がつい彼女の侍女に手を出して孕ませてしまった
正室が嫁入りの際に連れてきた侍女であるから、松井家の臣の娘だったりする
正妻に無断でやってしまったことの難を恐れた直政は、その侍女を松井家に送り帰し、
直孝が産まれた

また直政は一時的に松下家の人間だったことがある
実父が今川氏真に粛清された後、実母が子連れで松下家の人物と再婚した
井伊家を立て直そうと活動する直虎が直政を引き取る展開がなければ、
直政は松下源左衛門と縁戚のままになっていた



130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 19:18:21.90 ID:IrZURnk8
松下家て猿の主人だった松下?

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 18:09:43.58 ID:VodI4vNF
>>130
その一族だよ
余計に猿の豊臣なんかと思ったか否か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:16:57.39 ID:9/SSFuiS
直政の継父だかその息子の松下清景(Wikipediaでは継父になってる)が
天正10~12年の間に直政に付属されて仕え、直政没後には直継に仕え安中移封に従ったらしい。
子孫は維新まで越後与板井伊家の家老となったみたいだ。
清景の弟の松下安綱の系統は幕臣となった。

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:50:59.90 ID:9/SSFuiS
やっぱり継父は松下連昌(清景の父)の方なのかな

井伊家に本妻はない

2014年10月22日 18:53

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 14:15:56.62 ID:Nzf1Jf+M
井伊家に本妻はない。
直政が、
「井伊家は幕府の先手を勤める家である。
器量の劣る者が家を継いでは、お役に立てない。
本妻を決めておくと、どうしても本妻の子を後継ぎにすることになる。
器量の劣る者を後継ぎにすることにもなりかねない。
なので、井伊家では妾の子供たち多数の中から器量勝れた者に後を継がすように」
と遺言をしたからだという。

直政の嫡男の直継は器量が劣っていた。
家老の松下源左衛門は、
「御次男の直孝さまの方が器量にすぐれておいでのようです。
直孝さまに井伊家をお継がせするべきでしょう」
と、幕府へも申し上げ、直継を退かせた。
幕府からは、直継へ遠州掛川三万五千石をくださったが松下源左衛門は、
「わたしが申し上げ、直継さまに家督の御辞退を了承してもらいました。
ですから、わたしはこれからは直継さまの家老として奉公致します。」
と言い、直継と掛川へ下った。
いまでも、幕府の七種の儀式(1月7日、七草粥)は、松下家が勤めることになっている 【葉隠】



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 16:44:54.05 ID:ExmPztUZ
>>97
なるほどなあ、興味深い話だわ
お家問題で本妻の子か側室の子かでもめるなら、
本妻の子のみにしとくっていうのが鉄板なのかと思ってたけど、
側室のみにして沢山の中から選ぶっていうのも手なんだな
この場合奥向きを取り仕切るのはどうやってたんだろう
側室の中にも序列があったのかな

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 17:37:27.65 ID:BYtBkQC2
戦国大名上がりの派閥バリバリの家ならお家騒動待ったなしだが
近世大名の井伊家なればできたことだろうね

100 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/22(水) 18:21:34.79 ID:uIAyGHYy
幕府立ち上げたの直政死後ですよね?

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:17:34.60 ID:vWKROlyd
直継の母って家康養女で直政の正室だったけど若い頃は病弱だったからこんなこと遺言したのかな
結局井伊宗家当主という激務から解放されたおかげか直継は弟の直孝より長生きすることにはなるけど

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:53:36.30 ID:+o3Z/TZG
>>97
それで権勢高い家とは婚姻を結ばないようにとの遺言だったのか

>>100
徳川宗家=幕府だからそこは分かりやすくしたというか著者に対してそのくらいの誤差は大目に見ていいのでは

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 20:31:22.48 ID:+o3Z/TZG
そういえば
権現様宛の信長からの黒印状を直政が権現様より貰い受け
代々井伊嫡家に受け継がれたその書状が井伊美術館に現存しているようだが
信長からの書状を小姓にあげちゃうっていいのか?
こういう事って当時よく有ったのかな

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 21:53:08.68 ID:Nzf1Jf+M
>>100>>103
原文では直政の「」内に幕府という文字はない
オレが幕府で統一して書いた
混乱させてたらごめんね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/23(木) 01:09:06.82 ID:Bz/Go16I
>>101

直孝にやたらピリピリしたエピソードが多いのも、このせいかもね
養女とはいえ「家康の娘」との間に出来た兄を差し置いて家督を継いだとあっては