“井伊家の一本槍”

2017年06月18日 16:11

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 04:52:56.99 ID:jFVDgUyD
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』


44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:19.00 ID:5kXMhSIL
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって
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彦根藩士は美服奢侈の排すべきを

2017年06月16日 17:55

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 19:40:10.63 ID:HMJ96zTR
井伊直孝は華美の風が上下を通じて一つの流行となった事を憂え、自藩にだけは昔ながらの士風を振作したいと考えていました。
江戸からの帰途、彦根に向かうために琵琶湖を横切って行くほうが近いので船により、彦根城の天守が見えた時に、藩士たちの出迎えを想像することもできました。
「皆の者。江戸出立の際、その方達に渡した荷物があろう、あれを開けい。」
「はっ。」
家臣たちは前々から気にかかっていたその荷物を開けると、中からは袴まで揃えた一揃えづつ綿の着物が出ました。
直孝は快活に笑い
「それに着換えいたせ。」
藩士たちは久しぶりでの国入りに綿服を着て同輩に会うのを気恥ずかしいと思いましたが、主命なので否応もなく渋々着換え終わった時、船は城下の岸に着きました。
出迎えの藩士の面々は直孝の後に続く士たちを見て、一人残らず綿服なのにどきりとしました。
出迎えの藩士は、己の姿を顧み、美服が粗服を迎えに出た形に妙な空気を醸し出しました。
「大義。」
直孝は、出迎えの士をいたわりましたが、衣服については帰城の後も言及しませんでした。
黙っていても、藩士たちには彼の心が分かったので、以後、彦根藩士は美服奢侈の排すべきを悟ったのです。
日に日に藩士の風俗は改まり、堅実な風が、以前とは逆な方向に吹いたのです。

(常山紀談)



34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 22:59:14.80 ID:0xUE2tCx
慶喜「贅沢でもいい。忠義を尽くしてほしい」

そのときは拙者とて

2017年06月16日 17:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』


人の挨拶

2017年06月10日 21:19

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 04:47:37.43 ID:OWDQQE2A
この掃部頭殿(井伊直孝)は大坂の御陣の時、家来の者が槍を合わせている
に付き、高い場所に上り、馬から下り立って槍を杖について見物しておられた。

そこへ本多安房守(政重)が足軽2百人ばかりを召し連れてやって来て挨拶を
致したところ、掃部頭殿は目の前に気を取られたのか挨拶を返さなかった。

すると安房守は、「掃部は腰が抜けたのか? 人の挨拶も聞き付けぬとは!」と
大声で憚りも無く申して、罷り帰った。

その後、対面の折に挨拶したとの旨、癸巳正月11日の夜に(松雲公前田綱紀
より)拝聴仕る。それ以後も度々この話を仰せでござった。

――『松雲公御夜話』


大河ドラマ応援エピソード

2017年03月11日 09:17

655 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 21:36:32.50 ID:I2lYKaTf
大河ドラマのおんな城主直虎が不発なので応援エピソードを送る

1983年の大河ドラマ徳川家康でのエピソードだが
(NHKオンデマンドで見れるシーンだが)
徳川家康の幼年時代に今川家に人質になった年の正月に
今川義元から屠蘇をもらう時、竹千代のそばに美しい姫が二人並んだ
1人は鶴姫といいもう1人は亀姫という
義元は竹千代に将来、鶴姫を嫁にしないか?と言われる。
竹千代は殿の命令ならいただきますと答えた。
すると義元は竹千代にでは亀姫はどうか?と尋ねられ
竹千代は即答で亀姫を嫁にしたいと答えた。
数年後、竹千代の嫁になったのは鶴姫だった。
それから数年後、亀姫は竹千代事、徳川家康の敵としてはばかり
悲劇の最後を遂げるのである。
亀姫が亡き後、家康は亀姫にそっくりな姫を側室にして
その側室が2代将軍秀忠を生むのである。

ちなみに亀姫が死んだ後に鶴姫は亀姫の墓前に
椿の花を数百本植えて弔った弔ったいうエピソードがある。



656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 22:01:22.78 ID:SqWqwXvN
それって大河以前の出典のあるエピソード?

657 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:13:40.76 ID:I2lYKaTf
原作読んでないからわからん
脚本家の創作かも知れないけど

658 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:39:44.07 ID:I2lYKaTf
これからの「おんな城主直虎」は田鶴との血を血で洗う攻防戦になるから
これをどのように描くのかシナリオに興味があるな
この田鶴との攻防戦のできによっては面白くなるか
オニギリ以下の大河ドラマになるかの瀬戸際だから注目しといていいよ

659 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:51:14.59 ID:I2lYKaTf
ネタバレになるのだが
大河ドラマの徳川家康の亀姫=おんな城主直虎の田鶴なんだよな

徳川家康では竹千代の初恋の姫で、直虎では直虎の最大の天敵というのも面白いですと思う

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 23:24:00.65 ID:TbL3G2rO
10年くらい前にいい悪いスレに上がってた話をドラマで見れるとか胸が熱くなるよな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 10:28:41.06 ID:NRxTn7fG
鶴姫=瀬名
亀姫=田鶴

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 12:42:16.66 ID:3jYWWDyx
鶴がついてる方がつるひめじゃーないのか

汝はこの夜中にどこに

2017年03月06日 21:04

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:45:20.12 ID:opIRsI01
豊臣秀吉の死後、徳川家康伏見在住のとき、或る夜密かに、徳川屋敷にこのような情報が流れた
「今夜大阪より、我が君に御生害を進めに来るようだ。」

家康もこの情報に接し、井伊直政を呼んだが居らず、一時(約2時間)ばかり過ぎて、外より
馬を駆けて帰ってきた。すぐさま御前へとでたが

「汝はこの夜中にどこに行っていた」

と尋ねられると、直政

「されば、今日の暮方より、屋敷内にて、なんとも怪しい風聞を聞きました。それ故不審に思い、
外の状況を確認しに出かけたのです。

流石に殿ほどの御弓取りに対し、大阪より御生害を進められるというのは只事ではありません。
万一にもこれが事実であれば、京・伏見に参勤の大名・小名が、この御館廻り、その他の辻々、所々に
押し寄せるでありましょうから、御館の近辺は申すに及ばず、近郷まで偵察し、少しでも心もとない
場所を見廻りましたが、どこの道も静かで、怪しいことはありませんでした。」

こう申し上げると、徳川屋敷での騒動は忽ち静まったという。

この風聞は江戸でも取り沙汰され、「内府公は御生害された」と言うものまであり、
これを聞いて江戸より、我先にと京へと馳せ登った。
さればその人々は、その日の未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時頃)までの間に追々出立したが、
伏見に到着するのは遅速あって、早い者では3日、遅い者は5日で到着した。
瀬田の橋では昼夜3日の間、内府の人数が途切れなかったそうである。

こうして到着した人々が家康に御目見得した所、「お前たちはどうしてこちらに上がってきたのか」と
尋ねられ、しかじかの理由を申し上げると、

「何者がそういう事を言いふらしたのか知らないが、心やすく思うように。ゆるゆると休息し、
上方が初めての者達は、京伏見も見物して帰るように。」

そう仰せ下した。

これだけではなく、秀吉薨去が発表に成ってから、巡礼に出かける関東の百姓や御領分の民たちまで
聞伝えに、我も我もと伏見の御館に馳せ参ったそうである。これは領民たちも、大神君の神恩に
起伏した故なのだろう。

(武野燭談)


鳥居家改易顛末

2017年03月05日 18:33

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:25:04.51 ID:O+aWJb3p
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話


井伊家の付人連署して直政を諫めし事

2017年01月29日 12:37

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 03:08:15.06 ID:aPNAmi8U
井伊家の付人連署して直政を諫めし事

井伊直正は壮年の時鋭気が甚だしかったので、東照宮から付け置かれていた。
そこで...(抜落)以下が連署して諫書を捧げた。
その中に
「人には必ず目標を設けるのがよろしいと思われます。
私達臣下らが前の主君の事を申すのもいかがなものかと思われますが、
申し上げさせていただきます。
信玄が若い時から一つとして心から善事を行わなかった人ではありましたが、
常に越後の謙信を目標として謙信に優るように努め励まされていました。
なので信玄の一生の間、手を下した大事の合戦が五回に及びますが、
大きな敗北はされませんでした。
殿にも本多中務大輔忠勝を目標として、努めて劣らないように励みなさってください。
古から『進まず退かざる良将』と申しますが、それは中書(中務大輔の唐名)のことだと思われます。」
と書いてあったそうだ。

(常山紀談)

信玄に対してひどい言い様www
何かあるでしょ、信玄堤とか



558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 11:14:12.92 ID:Tc8KsaEm
上田原の戦いや戸石崩れは謙信と対立する前だからノーカンなのだろうか

【雑談】井伊直虎関連の話について

2016年12月16日 08:09

ニュースソース
「井伊直虎」別の男性が名乗った名前か 新たな見解
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161215/k10010807221000.html


418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 19:42:38.77 ID:ynzlC0ov
なんか来年の大河がもめてるそうだから、井伊直虎関連本から抜き出してみた

大石泰史「井伊氏サバイバル五○○年」
p146~(正徳元年(1711年)に井伊家の始祖の誕生した井戸の帰属を巡って正楽寺と井伊氏の菩提寺である龍潭寺が争った際、
龍潭寺の住職であった祖山が井伊氏と龍潭寺のつながりを証明しようと「井伊家伝記」を書くにあたって)

(中略)ここからは想像の域を出ないが、次郎法師登場の背景を探ってみよう。
祖山は龍潭寺で、位牌・過去帳等から「次郎」が中世井伊氏の家督も使用した仮名・通称であることを認識した。
そのため永禄八年の寄進状を書いた「次郎法師」は当主に近い人物と考えた。
しかし、中興開山である直盛は同三年に、後嗣直親も同五年に死没している。彼らよりも没年が遅い人物を探す必要がある。
そうしたとき、龍潭寺内に残されている位牌等に、天正十年に亡くなった人物がいた。
法名は「妙雲院殿月船祐円大姉」だが、没年は直盛・直親以降の人物であることは間違いない。
「大姉」とあるので女性である。しかし、その位牌等以外に確認できないのであるならば、次郎法師は妙雲院殿だった。祖山はこう考えたのではないだろうか。

その傍証となるかもしれないが、祖山は次郎法師=直盛息女=妙雲院殿と認識はしているものの、
次郎法師=直虎、もしくは直盛息女=直虎、という表現はまったくしていない。
つまり、女性であることは認識していても、男性名である「直虎」を名乗ったとはどこにも記載がないのだ。
このことから、直虎が次郎法師もしくは直盛息女と指摘したのは、後世の研究者たちであったとすることができる。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 19:47:32.44 ID:ynzlC0ov
小和田哲男「井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史」
p101~
『寛政重修諸家譜』は「女子 直親に婚を約すといへども、直満害せられ、直親信濃国にはしり、
数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と簡単な記述で終わっている。
(中略)『寛政重修諸家譜』の記述だけだと、尼となったのに尼の名でよばず、なぜ「次郎法師」という名前なのかの説明がなく、わからない。
そのあたり、「井伊家伝記」を書いた祖山も注目したものと思われる。一つの解釈を披露している。(中略)
亀之丞が信濃に落ちていってしまったため、彼女は菩提の心深く、南渓和尚の弟子になって、剃髪し、出家してしまった。
両親は嘆き、「一度は亀之丞と夫婦にと思っていたのに、このようになってしまって」と、
尼の名はつけさせたくないと南渓に申し出た。
一方、彼女のほうは、「出家したのだから、是非、尼の名をつけてほしい」と、親子の意見が分かれてしまった。
そこで南渓和尚が考えたのが次郎法師という名前であった。
備中次郎という名は井伊家惣領の名である。次郎法師は女ではあるが、井伊家惣領に生まれたので、
相続の名をかねて次郎法師はふさわしい。南渓和尚がつけた名である。
この次郎法師は、井伊直親が誅殺されたあと、直政が幼年だったため、井伊家の家督となり、地頭職をつとめた。
(中略)
(父親の直盛の出生年から考えて判断力のあった年齢であるとするのは難しい、という野田浩子氏の説を紹介した後)
娘も自分の意志で行動できる年齢だったと見ている。(中略)ただ、野田氏の指摘のように、「彼女の私的な
感情により出家が認められるはずがない」というのはその通りで、あとでふれるが、亀之丞がもどってきたとき、
還俗すれば結婚が可能だったはずなのに還俗しなかったこととあわせ、このあたり謎が多いことはたしかである。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 19:52:19.56 ID:ynzlC0ov
ニュースでは次郎法師は直盛の娘で、次郎直虎は別人、という主張が紹介されてたけど
単に龍潭寺に箔をつけるために祖山が次郎法師=直盛娘として南渓、次郎法師命名の話をでっち上げただけで
1812年に完成したの『寛政重修諸家譜』もその次郎法師=直盛娘説に乗っかっただけだったりして

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 19:55:32.03 ID:Da97V1+q
あのニュース、「発見」されたって『守安公書記』が新発見でも何でもない史料の上に、しかも編纂されたのが享保20年(1735)で、
享保15年成立の『井伊家伝記』より新しいものだからなあ。
『守安公書記』の史料評価もきちんとできてないみたいだし、あのニュースは正直勇み足過ぎる

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 11:31:37.47 ID:C91lbPBf
現代では色々な武将が女体化してるから
井伊直虎の性別なんてどっちでもいい・・・って石田三成が言ってた

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 13:11:17.64 ID:VCcNHMdd
武将名でイメージ検索するとひどい事になるのが最近は普通になってるな。あと刀も

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 13:40:32.34 ID:3OMI3D+q
つか女でも法師てよばれるんだな

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 21:09:51.60 ID:E3VsNxRe
とりあえずだが、井伊達夫氏は甲冑業界では名の知れた山師であることを指摘しておこう
井伊とは言っても、井伊家(越後与板藩主家)とは近年養子縁組したひとだしね

まあ個人攻撃ととられるかもしれないが、いわくつきの人だってことさ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 22:41:19.20 ID:NI228Pl1
ところでその話の流れで、付箋がどうこうとネット上で一部の話題になってるの

例えば国宝「上杉家文書」の場合なんか、ボールペンの書き込みが残ってたりする
昔の地元の郷土史家の先生たちの仕業なんだけれど
今の修復技術で消すことも可能だが、後世の戒めとして残してあるそうな


ふと思い出した

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 22:39:57.96 ID:PNeVf9DM
>>430
酷い山師だったのは事実だが、その古文書自体は捏造ってわけでもないだろう。検証と解釈は別として。
目立ちたがりなのは間違いない。

彦根侯邸に棲める雉

2016年09月12日 20:28

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 15:00:54.38 ID:NuRJfjTK
〔初清正の邸〕彦根侯邸に棲める雉
同臣脇師、高安某長舎
同侯上邸玄関

前にも彦根侯麹町の邸は、始めは加藤清正の邸であったことを記したよ。
このように清正の後は、かの邸は取り上げられ彦根の祖の井伊直政がここに住んだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10067.html

この邸の中に雄雉一羽がすんでいた。
この鳥は直政の時からいて、
直政が帰国のときは雉もまた随い、出府するとまた随ってかの邸に来た。
今もなおいて、時々見かける者がいるという。

侯の脇師高安彦右衛門は彦太郎の弟子であり、かつ彼の臣なので麹町の邸に住んでいる。
なのでこの雉の鳴き声を時々聞くことがあるが未だその顔を見ていないという。
彦右衛門の母は見たといい、その大きさは普通の雉を二羽合わせたようであったという。
邸中の人は皆、御雉子様(オキジサマ)というと。
〔以上彦太郎の話〕

また彦右衛門の住所は十五間ばかりの長屋であるが、それは清正の時に建てたままである。
よって古色があり、柱はどれも柘植の大角材であったが、手斧目のままである。
この長屋は邸内でも谷を隔てて溜池に臨む畔上にあり、
離れ家なので、先年千畳鋪が焼亡した火災でもその厄を逃れたという。
この長屋は邸の門を入って三丁ばかりを行き、谷を下りそれから溜池の端にあると。

彦根侯の上屋敷の玄関は大坂城で淀殿の能舞台であったが、落城の後この方に引き移したという。
そのためか、今も屋根裏の棟木に、道成寺の釣鐘の釣りかぎが存在するという。
面白いことではないだろうか。

(甲子夜話三篇)




「井伊家はキツイ」

2016年08月19日 08:59

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので」と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp
q=井伊ね!

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7
武士って本当楽じゃねえな…

井伊直孝御夜話よりいくつか

2016年08月14日 17:28

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/13(土) 19:16:18.95 ID:yMJL0d14
一、人が隠していることを見聞きしようとしてはならない。人が秘蔵するものを、所望してはならない。

一、不慮の仕損じというのは、能力の有る人でも有る事だ。しかし自分の仕損じを人のせいにするのは
  大いなる恥辱である。逆に人の仕損じを我が身に引き受けるのは、見事というものである。

一、家を治めるとは、金銀米穀の事である。これを知らずに、人の家に意見すべきではない。

一、昔、数度の武功の誉れの有る老武士があった。若き人が彼にその武功を物語って欲しいと望んだ所、
  彼はこう言った
  「私は若い頃から、さしたる武功も無かったが、性格に愛嬌があってな、人からよく思われたのだ。
   だから少しの勤めも良く受け取られ、思いもよらぬ誉れを得たのだよ。人はただ、愛嬌があるのが
   良いのだ。」
  殊勝な物語ではないか。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝御夜話よりいくつか



兄弟のことは、

2016年08月12日 18:58

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:26:40.35 ID:ItuPmMMu
兄は弟を子の如く憐れみ、弟は兄を親のごとく敬うべきである。
朋友の交わりは、心に叶わぬ事が有れば遠ざかるのが世の中の習いであるが、兄弟のことは、
心に叶わぬことが有るからといって、疎くなるべき道ではない。
不快の事があったとしても、互いに堪忍して誠の志を尽くすべき事である。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝が言うといろいろ意味深ですね。



63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:52:08.06 ID:d07OqDCz
戦国ちょっと井伊話?

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:07:06.57 ID:/DmlP1AN
どうでも井伊

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:30:48.65 ID:ZBwrP2oU
直孝が言うから重みがある

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:58:40.56 ID:id7Qth0M
国替えの時は兄貴に親父の遺品渡してるし関係が悪かったわけじゃ無いのかもな
ただ木俣守安が外された時は兄貴に対して色々と思うことがあったようだが

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:01:03.31 ID:/Np3oJwp
ひこにゃんは親父ににて無口だが口を開けは重みのある良い事を言う

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:04:56.89 ID:/Np3oJwp
さすが幕閣初の大政参与だ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 23:33:22.80 ID:bV21Tw8+
>>62
頼朝「兄弟は大切にしないといかんぞ」
信長「それな」
政宗「まったくもって」
義光「その通り」
秀忠「せやせや」
天武「えぇ…」

向後かたく御無用に御座候

2016年08月08日 16:24

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 11:44:29.18 ID:NfEhADzu
今まで数度申し上げましたが、お忘れに成ったのか、強がっているのか、お聞き入れありません。
軍勢を押し上げる時も、そのお姿や馬印、御馬も常と同じようにされていますが、それは宜しく有りません。

我らの古主である武田信玄は、自分と同じ出で立ちの者を3人用意し、自分も含めて同じ格好の者が4人、
軍勢を押し出す時も同じような馬に乗り、いかにも目立たないようにされていました。これにより、数度
危うい所を逃れました。

上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。
その時分は越後勢から甲州勢へ忍びを入れ、もしくは甲州勢が越後勢を探って、大将の出で立ちを伺っても、
両将共に見定めることが出来ませんでした。
この両人に限りません。関東の北条、尾張の織田信長、何れも見定められた事はありません。

殿(井伊直政)は無類に強気ですから、こういった事は悪しきと思うかもしれません。ですがそれは若気と
言うものです。心得の無い者たちは、敵味方ともに殿を『雄々しき大将だ』と言うかもしれませんが、
武功の者達は笑っているのですよ。

尤も、大将というものは前線の様子を、自身の目で知りたいものです。その時は、ご自身の具足と違わぬよう
拵えたものを予め用意しておき、近習の者に着せて、旗本に置き、馬印もそのまま置いて、大将は目立たぬ
姿に着替えて前線にてご下知なさるべきです。

殿は、朝霧の深い時でも前線に馬で乗り入れます。あまつさえ馬印まで持って。
今後、絶対にそういうことはなさらないで下さい。(向後かたく御無用に御座候)
霧深い中、敵が伏兵を置いて居た場合、鉄砲などで狙われる例は多いのです。そうして過ちが起これば、
それは末代までの落ち度です。

それから、先年家臣一同をご覧になった時も、組頭、使番、物頭、そのほか頭の者たちばかりにお声を
かけられ、残る士にはお言葉をかけられませんでした。これは殿がご若年だからでしょうが、
諸人に恨みを残す行為です。皆に声をかける嗜みがあるべきです。
御用に命を捨てる武士というものは、たった一言の言葉にも感じ入り、一心を定めるものなのですから。

(松のさかへ)

井伊直政へ家老一同からの諫言書より。この内容だと銀の鯰尾兜であえて目立っていた蒲生氏郷なんかも
落第ですね。



958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 13:51:16.10 ID:XNi8I1Od
>>957
総大将じゃないのに影武者作る習慣はあったんだろうか

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 14:30:14.03 ID:/fNKafdB
諫言の甲斐なく狙撃されちゃったねー
バカだねー

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 15:45:04.93 ID:9iHxHcZM
>上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。


謙信所用と伝えられる甲冑がわりと残ってるのは
そういうわけなのかな?

物見の衆をよくよくご吟味あって

2016年08月06日 09:20

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 21:58:51.76 ID:pGK24o8N
上方衆の武辺と関東者のそれとは、同程度の人数で、両方の大将の能力も対等であった場合、
運次第とは言いながら、上方衆は5度に4度は敗軍するということ、信玄公の時代より今まで、
数度にわたって見聞きしております。

しかし、関東武士と言っても強勇の者ばかりというわけではなく、また上方侍とて、弱い者ばかりでは
ありません。ですが、上方の軍勢の特徴として、備え立てに吟味が薄く、物見を大切にしない、
という所があります。
専門の物見武者を選定せず、その経験を積ませること無く、誰であっても物見は出来るのだ、
などと心無い者は考えているそうです。

上方衆は物見に出て、遠きを計らず敵を賤しみ、荒事ばかり言って、人を預けても合戦の時は、
彼らは寄騎同心を捨て、一人先に行って抜け駆けをするのを手柄と考えますから、心がけのある者は
預かりの人を捨てて先に行き、一番槍を好みます。

ですから、敵将が名将ですと、1,2の備えを捨てて3,4にて勝つような戦略を立てます。
上方衆は先陣ばかりを切り崩せば敵は敗軍し勝利すると心得攻めてきますが、2,3の備えにて切り崩され、
結局彼らのほうが敗軍します。

信玄の歌にこのようなものがあります

・軍には 者見なければ大将の 石を抱いて淵に入るなり
・戦に 日取時取さしおきて 物見を掛けて兼ねてはからへ

この二首は信玄公より勝頼へ自筆で書かれ、伊那へ入城の折に遣わされました。
物見の衆をよくよくご吟味あって然る可きです。

(松のさかへ)

井伊直政に、三科形幸などの重臣が連署で出した諫言書の一節である。




45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 23:32:30.89 ID:BuAwnvp8
関東武士に物見はいらへんで?
見つけた敵を片端から棍棒で殴り潰すから

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 10:45:26.62 ID:3QaXja28
そもそも甲斐は関東じゃない件

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 11:03:10.05 ID:BUXeDJN+
甲斐は鎌倉公方の支配地域だったし、三関より東をひとまとめに関東と呼ぶ場合もあるし、必ずしも関東が関八州、現代の行政区分での関東を指す訳では無い

何右衛門は少しも屈さずに

2016年04月08日 14:01

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 02:53:27.66 ID:DcYidf8p
井伊兵部(直政)家中の木俣土佐の家来・何右衛門は九戸陣で首をひとつ取ったのだが、
その首を朝比奈左大夫が頻りに奪い取ろうとした。何右衛門は為す術なく奪い取られる
時に、その首の右耳の外れから左へ一刀を突き通した。

後に首実検の時、朝比奈はその首を持って出た。そこへ何右衛門はつるつると走り寄り、
「重いものをここまで御持参してもらいかたじけない」と、言うと、羽織を首へ被せて、

「この首をそれがしが取ったことは疑いない、 あの男が奪ったのだ! 証拠がある!」
と、言った。朝比奈は、「下がれ! 推参をぬかしおる!」と言うも、何右衛門は少しも
屈さずに、首の耳下の証拠を告げた。

朝比奈は終いに男(武士)をやめて法体となり、道無と名を改めて駿河様のもとへ出て、
その後に三河守殿に仕えた。

大須賀五郎左衛門(康高か)の家来・福岡太郎八は前述の朝比奈の甥である。太郎八の
取った首を朝比奈が奪ったことがあったが、太郎八は敵陣へ駆け込んで、別の首をまた
ひとつ取った。末頼もしき武辺であるというのに、太郎八は前述のことを最後まで一言も
人に語らなかったという。太郎八は加藤喜八の別腹の兄である。

――『武功雑記』



若年の時は一旦のことに迷い

2015年11月30日 07:21

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 04:01:46.72 ID:dM7cB86d
井伊直孝曰く、

「若年の時は一旦のことに迷い、理非のわきまえもなく、是非とも自分の
心のままにしようと思うことがあるものだ。

その時、父母兄弟朋友の意見によって心を取り直し、正道に帰る者もいる。
一方で、強情で意見を用いず、悪名を得てその身を滅ぼす者もいる。

この時が一生の吉凶の浮き沈みである。一旦の怒りで主君父母の恩を忘れ、
一門の名を穢すことは非義の至りであるからよくよく覚悟すべきことである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。」

2015年11月10日 15:33

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:05:06.77 ID:pcLi2wWH
井伊直孝曰く、

「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。何事をするにしても、
まずその事の実質を知って、よく考えて取り掛かるべし。害を知って上手く防げば、
その事は成就して、後悔することもない」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』



人間一生の勤めは忠孝の道である

2015年11月08日 06:46

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 00:57:01.81 ID:kHLr6tzO
井伊直孝曰く、

「人間一生の勤めは忠孝の道である。聖賢千万言の教えも、皆忠孝のためであろう。

忠孝を勤めようと思うなら、主君と先祖の恩を常に忘れるな。『恩を知らぬ者は、
思いもかけず災難にあうものだ』と、古人もおっしゃった。油断してはならない。

人間の苦には、飢寒よりもたいへんなものはない。百姓町人が昼夜となく骨を折るのは、
飢寒を防ぐためである。中には家職の勤めに油断して、飢寒に及ぶ者も多い。

一方で、武士には生まれながらの飢寒はない。皆々が父母妻子兄弟を養い、家来を使い、
安楽に暮らしているのは、主君ならびに先祖父母の恩徳ではないだろうか。

この恩を常に忘れなければ、忠孝の道を忘れようもない。古老の物語などによれば、
『毎日食に向かい衣服を着る時、主君と先祖父母の恩徳を思え』ということである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 01:35:54.39 ID:G3IlIf/x
藩祖が遠江出身で生粋の三河者じゃないのに、一番禄をもらって
譜代筆頭なのに戊辰戦争では新政府側の彦根藩

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 06:39:27.75 ID:KLh7wixy
藤堂高虎「さんざん幕府の恩顧を受けながら裏切るとは彦根藩ってひどいな」

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 07:05:22.76 ID:IHwgcjch
井伊家は南北朝時代から何度も滅亡の危機をむかえてるのに明治維新生き抜いたのは正直すごいと思うの

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 08:26:58.70 ID:hS/xgfqa
直弼はさっちょうのスパイだったのさ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 10:38:44.79 ID:1be3Js0o
風邪で具合が悪いせいか、
直政は家康のおっぱいだったのさ
に見えた

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 11:34:48.66 ID:cGSOOvIR
寝てろ

小川関書の狼藉

2015年09月23日 14:07

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 22:31:50.96 ID:ReESZ9ER
豊臣秀吉の時代のこと。

徳川家康の旗本である筧助兵衛という禄五百石の者、2年の間京に御使として駐在していたが、
その勤めも終わり帰路でのこと、筧の旅宿に、秀吉の直参である小川関書という者が押しかけてきた

筧が「何事であるか、狼藉なり!」と抗議すると

「筧の槍持ちは先年、我が家において罪を犯し欠け落ちした者であるが、今この宿において見つけた故
捕えるのだ!速やかに彼を差し出すように!」
そう罵って今にも乱入する気配であった。しかし筧

「おおよそ天下には御定法があり、あえて違うべきではない。また武士は礼を以って立つものである。
一応の届もなく、みだりに追い込んでくるのは礼ではない!
私は今、京都に使いして帰る途中である。そこで鑓がなければ奪い取られたと言われるだろう。
願わくば静まれよ。命を伝えて後に、相違なく槍持ちを送り届ける。」

そう言って、さらにその旨を文書に書いて証拠として残すとまで言ったが、それでも小川は
全く承知せず、「遅く出すくらいなら討ち果たせ!」とまで言ってきた

「さてさて何と理不尽なことか。そういう事であるなら、私も絶対に出さない!」
筧も怒り、双方既に戦いに及ぼうという時、ここを井伊直政が通りかかり、この騒ぎを聞いて、
ともかく筧を説得しかの槍持ちを出させようとした。

しかし、筧から仔細を聞くと、直政も共に激怒
「無法千万の者共なり!この上は、もし手を出す者があれば一人も残らず斬り殺すべし!」
そういうと即座に、従者5,600人を武装させ集合させた。
その勢いに驚き、小川は引き退いたという。

(明良洪範)