この八十島は

2017年02月11日 17:06

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 03:22:48.92 ID:9KjJhSaN
藤堂和泉守(高虎)一代の事を書いた巻物を大献院様(徳川家光)の御前で誰に
読ませなさるべきかとのことになった時、

酒井讃州(忠勝)は「ここに道春(林羅山)がおります」との事だったが、和泉守は、

「私めの一代の大事のことを書いた物ですから、道春などは如何なものでしょうか。
始終を存じている者に、読ませたく存じます。私の家来の八十島助左衛門を召し
連れておりますが、如何でしょうか?」

とのことであった。そこで阿部豊州(忠秋)が挨拶して、八十島を御前へ召し出し、
巻物を読ませなさったのであった。

この八十島は石田治部少輔(三成)の右筆だった。太閤逝去のことを石田方から
源君(徳川家康)へ申し上げた時、そのために遣わした者である。

後に和泉守の家来となり、法体の後に道壽と願い申した。その子もまた助左衛門
と称した。

――『武功雑記』



615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 10:10:50.18 ID:C0rHEjqo
関ヶ原であの鬼島津を激怒させた人物だな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:09:17.19 ID:Ef6mH3qv
>>614
俺が家光だったら、三成に身近に仕えた奴が来たら
僅か佐和山19万石の身分で西軍を取り仕切ってた
石田三成はどのような人物だったか直接聞きたいわ
高虎の出世自慢話なんかよりもな

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:12:11.42 ID:nMor2Kps
>>618
真面目な話、当時は正軍首脳部に参画していた人間もまだ生きていたのだから、石田三成
どういう立場だったかなんて、自明の理だったと思うぞ。

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:25:57.30 ID:24fLrA8I
七将に狙われて家康に匿ってもらったヘタレです

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 11:35:04.27 ID:vMpwbjHL
それデマだってな

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 13:09:17.50 ID:PNwm5RpP
伏見の徳川屋敷に逃げ込んだ話の出典がわかれば、このスレに収録してもいいかもね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 16:32:28.50 ID:V4JJPw4p
結果的には圧勝で終わったように思われてる関ケ原だが
秀忠遅参で内心かなり焦ってたろ糞漏らし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 21:02:48.98 ID:WwSHWUY/
>>623
昨今は関ヶ原の決戦に関しては、もう何がどうなっても東軍の勝ち、といった感じだな。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:35.16 ID:PNwm5RpP
関ヶ原って、小松山に立てこもった小早川秀秋救援のための後詰決戦だったんじゃないの?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:57.03 ID:eMYpu3XQ
いくらなんでも楽勝って事はないという感じで改めて研究した結果
以前よりも西軍がどうしようもなかった事が判明してより可能性がなくなるというオチ
悲しいなぁ

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:23:30.24 ID:1F6Bnp81
>>626
吉川の位置が悪い

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:49:27.23 ID:6cpqPOvC
>>628
今では毛利の東軍への寝返りは、毛利輝元自身の指示だったという
説まで出ている。

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 15:23:18.87 ID:JiWMRDCO
岐阜城陥落の時点で負けを見越して生き残る為に動いてるしな
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藤堂和泉守を敵味方惡之歟

2016年11月19日 14:23

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 00:10:42.32 ID:QQzb0Sra
(慶長19年12月、大坂冬の陣の時、)14日卯辰刻より、また雨。晩から
風は激しく、寒さは甚だしかった。

藤堂和泉守(高虎)を敵も味方も憎んだのであろうか。色々な悪口をある時
は言い掛け、ある時は矢文を射ていた。件の矢文は他の陣に来たとしても、
藤堂の陣へとこれを送ったという。

(藤堂和泉守を敵味方惡之歟、色々の惡口を或時呼、或時矢文を射ける、
件矢文餘陣に来とも、藤堂陣に送之と云々)

――『当代記』



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 04:38:09.49 ID:EgHEZ3Hh
裏切りものだからかな?

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 17:54:19.84 ID:Qu1Fqqy3
>件の矢文は他の陣に来たとしても、藤堂の陣へとこれを送ったという。

ちょw

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 18:22:16.97 ID:yU1LQAy1
>>322
冬の陣の時で藤堂家の付近の陣だと伊達家と松平忠直かな

藤堂高虎の遺訓よりいくつか

2016年07月29日 14:13

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:12:49.61 ID:mXIkhx0i
四六 自分の知らない芸を嫌うという者が多い。逆に自分の得意な芸能はもてはやす。
   これは道理に合わないことだ。それぞれの好き好きではないか。

四九 総じて、落ち目の人を救うことが大切である。

七二 宿を発つ時、一人を後に残して座敷その他を見まわってから出るべきだ。必ず道具を
   忘れていることがあるからだ。

七六 不用心な道中を通る時は、錐をこしらえ持つべきである。色々と便利だ。錐のこしらえ方に
   心得が有る。

七九 人をしとめる時は、その前に言葉をかけてはならない。刀を打ち付けるのと同時に言葉をかけよ。

八一 負け戦の時は、豆板銀壱歩を飲み込むべし。強盗によって身ぐるみ剥がされてもその後大便と
   ともに出てくるのだ。ただしその飲み方については口伝がある。

一〇〇 人の好む芸能や道具について貶してはならない。それぞれ好き好きなのだから。

一〇一 碁や将棋で人に助言をしてはならない。慎むべし。

一二二 若いうちはどんな芸でも習うべきだ、捨てるのは簡単である。盗人のやり方だって習えば、
    盗まれない用心のためになるのだし。

一二七 得な事ばかりを好んでも、損をすることがある。しかしわけもなく損を好むのは間が抜けているし、
    得をする道があるのなら得をするに越したことはない。だからといって吝いばかりでは世の中
    成り立たない。損することが不可避なときに損を厭ってはならない。その時々の状況による。

一二八 常に運が悪くても我慢すべきだ。…などというが、それも状況による。我慢することばかり
    心得ていてもよくないぞ。

一三〇 人に物を言うのに繰り返しくどくど言ってはならない。聞き苦しい。

一三七 人に喜ぶべきことがあれば、自分で見舞いに行っても人を遣わしても良いので祝福の意を伝えよう。
    人の喜びを喜んで、後悔の有るわけがない。

一七一 もし止むを得ず家来を手討ちにする時は、一刀打ち付けたならば続けて二つ三つと討つべきだ。
    一刀にて様子を見てはならない。切れてない時は逆襲され自分が負傷するからである。
    よく心得ておくように。

(高山公遺訓ニ百ヶ条)

藤堂高虎の遺訓より、現代でも役に立ちそうなものをいくつか




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:32:52.54 ID:jqlE2XOh
現代でも使う「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とかもあるな

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:52:47.11 ID:7N19GxjF
嘉明辺りに自分の好きな芸能でも馬鹿にされたのかな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 14:03:03.58 ID:FHMGljol
>>4
八一下手すりゃしにそうw

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 17:56:57.04 ID:VN/z4dJA
>>4
七九はあまり役立てたくないですねw

高虎さんは死ぬ間際に200条も遺訓を口述したのでしょうかw

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 18:03:49.67 ID:mXIkhx0i
>>11
『高山公遺訓ニ百ヶ条』は、高虎の死後、その側近くに使えていた太神朝臣(佐伯?)惟直という家臣が、
生前高虎が言っていたことを編纂したものだそうです。

【家来常々召仕様之事】(けらい、つねづねめしつかいようのこと)

2016年07月27日 19:30

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 20:10:27.63 ID:v2CYyG+/
【家来常々召仕様之事】(けらい、つねづねめしつかいようのこと)

十一 家来には先ず情けをかけ、諸事失敗が有っても見逃すことが肝要である。その結果として
   大それたことが有った時は、自分の不運とすべきである。
   処罰をする時は理非をもってすべきだ。しかし助けても良い理由があれば、その点について
   よく考えよ。切るのは遅くても良いのだ。

十三 人の中傷を聞くべきではない。横目(監視)は災いのもとである。例え告げ口をいう人がいても、
   それをいう人と言われる人との間では常のように接し、何事も聞かなかったように振る舞うべきである。

十四 召し使うものに良い者も悪い者も無い。それぞれの得意な面を見出し、それぞれ適した場所に使えば
   人に屑は無いのだ。であるのに、出来無い事を申し付けるから埒が明かず、結局腹を立てるのである。
   これは主人に人を見る目が無いからなのだ。

十五 家来と言っても、異なる意見があるなら詳しく聞くべきだ。世間の評判を聞くことと同じである。
   よく聞き届け、自身で考えて、的確なところは用い、そうでない所は捨てればいい。
   主人によっては、家来が異見を言うのを推参であると機嫌を悪くする者がある。
   これは天下一の悪人である。
   本当に主人のためにならない者は陰で指をさして他の家来に語る者である。このような事は
   自分自身にとっても家来にとっても不本意な状況である。
   常に情け深い主人は家来の名を言い立てず、他の家来は、主人の作法のことを尋ねられても
   語らない。主人の心持ちが肝要なのである。

十七 すべて人間たるもの、上下ともに心正しくし律儀にして、一言半句も嘘を言うべきではなく、
   人を疑ってもならない。
   ただし、世間話などには嘘が混じっていても構わないが、これも、人の害になることは言うべきではない。


二十二 主人に物を見る目が無いというのは必ず災いが多い。よく奉公する者に気が付かず、当座のへつらいに
    喜んで録を与え親しむような事をするから、良き奉公人は気を変え暇を取るのだ。これは主人が
    悪いからである。当座にへつらうような者は下劣な者である。

(高山公遺訓ニ百ヶ条)


藤堂高虎の遺訓より、家来の召し使い方についていくつか




987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 23:22:02.54 ID:I+zFuU/G
>>985
家康と気が合うのも判るような気がする。

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 07:20:38.42 ID:+jAUqd1W
>>985 戦国の転職王・藤堂高虎が言うのだから、
要するに、藤堂高虎が上司を次々に変えたのは、上司が悪いから
と本人は言いたいわけだな。
おっと、悪口を言ってしまった。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 07:24:05.73 ID:+jAUqd1W
>>985はカーネギーの「人を動かす」という名著の内容と
似ているものがある。
部下を動かすときの心得は、悪口を言わないとか、名前を馬鹿にしないとか(自分の名とは誇り高い
ものである)、○○してはいけない、というのがいくつも列記されていて実現は難しいけどな。
と、また悪口を言う俺は人使いが全然できない。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 13:39:33.08 ID:dJYVM1fJ
>>985
現代でも充分通用するなぁ。

古兜に鉛痕ある事

2016年07月15日 15:43

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 23:27:58.79 ID:MlRhcbH5
古兜に鉛痕ある事

前に赤穂侯の祖〔森三左衛門可成〕、仁正寺の祖〔市橋下総守長勝〕との兜に銃鉛の痕があることを言った。
後に聞くと津侯〔藤堂氏〕の祖高虎、大阪陣のとき着られていた兜をその家に伝わっている。
形は出っ張っていて、その高さは一尺を超えている。
目立つ兜であるが、鉢に鉛が二つ当たった痕がある。
一つは鉛弾がゆがんであるという。
かの侯の臣が正しく見た話である。

(甲子夜話)



864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 07:06:25.47 ID:wNqh77gK
出来上がった兜や鎧は、鉄砲で試しに撃って強度を確認することがあり、
その痕が残っているものが現存している。
でも実際の戦いで撃たれた痕だということにしといた方が、当時としても語られ易いだろうねえ。

遠距離からの弾なら跳ね返すこともあるので、しかし100m先から鎧兜に試し射ちしても
狙った真ん中に思うように当たらないので、わきっちょの不自然な場所に弾痕が残ったりする。
かといって近づいて撃つと容易に貫通してしまう。

つまるところ、その時の運

2016年06月05日 22:00

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 12:49:34.06 ID:fD1chIg3
渡辺水庵(了)が常に語りなさったことには、

「私は若年より戦場に臨むごとに、先陣を心がけなかったことがない。
そうとはいえども、その好機に乗ることは稀であった。

つまるところ、常の心がけの上でその時の運によるのであろう。
言葉にはしがたいことだ」

とのことである。

――『備前老人物語』




藤堂高虎と「鶴の飛来地」

2015年09月22日 17:48

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 23:36:23.53 ID:SmBOY1gg
藤堂高虎と「鶴の飛来地」

藤堂高虎が日光東照宮造営の労を賞されて賜った、伊勢田丸城5万石。
これを紀伊国に差し出したのには、理由があった。

徳川家康の死後、家康10男の頼宣は駿府から紀伊への移封をしぶっていた。
江戸から遠いじゃん、とは言えない。
「私は幼少より太神君に従って、心行くまで狩りを楽しんだものだ。
しかし、紀伊には鶴はいないというではないか。
無理な願いではあるが、改めて大坂をいただけぬものか・・・」

それを耳にした高虎は、頼宣が命に背くことを危ぶんだ。
そして頼宣のもとに行って諭したのである。
「大坂は豊臣氏君臣が焼け死んだ土地。いまだその怒気は消えておりません。
どうして尊い本家の身を不祥の地に置けましょうか。

さて、狩りですが。
かつて私も粉河におりましたが、確かに紀伊国に鶴は少ない。
しかし、我が所領の伊勢半国に鶴は多くやって来ます。
よろしければ国の原野すべてを庭園として指し出しましょう。」

この説得をもって頼宣は承服し、伊勢田丸城5万石は紀伊領となったのである。

「なあに、私は猟を好まない。
もともと鶴の飛来地などは、私にとって無駄なものに過ぎんのだよ。」
と言っていた高虎は、替地として山城・大和国5万石を得るに至った。
                                『聿修録』



729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 23:39:51.00 ID:KbCyzEqE
ちゃっかり良い所もらってるなw

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 00:28:29.71 ID:0y7reYH/
山城・大和国5万石って石高よりもいろいろ貴重だろw

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 01:43:16.21 ID:uciuCRwV
>>730
IDワロタ
神君loveなのに家康が好んだ狩りを好かないとは意外

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 09:01:44.65 ID:81alq7hE
原野(5万石)

大和郡山城明け渡し

2015年01月22日 18:43

583 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:33:21.89 ID:arHxozrM
太閤秀吉が逝去し、その後慶長五年(1600)、関ヶ原の逆乱の時、大和郡山城の増田長盛は、
西軍方であったため、関ヶ原の後詰として江州水口まで出陣した所で、関ヶ原において西軍が敗北したとの
知らせを受けた。そこで彼の地に留まっていた所に、徳川家康からは彼を討ち果たせとの上意があったものの、
様々に詫び言を申し上げ、法体となって高野山へと登った。

この増田長盛が大阪から出陣する時、郡山の城は大事の場所であると、自分に従う馬上の者達千騎のうち、
七百騎を郡山に残し、家老分の者達も大部分は残し置き、関ヶ原へは馬上の者三百騎を従えて出陣した。
増田長盛がこのように、知行と比べて人数多く従えていたのは、所領の大和郡山二十万石に加え、
紀伊和泉大和の代官職をも兼ねていた為だということである。

さて、関ヶ原で西軍が敗北すると、留守の郡山では、増田長盛は水口から高野山へと登った、
又は切腹した、あるいは討ち果たされた、遠流されたなど、様々に取り沙汰された。
そして郡山にも東軍の軍勢がまもなく押し寄せるという時、大和の国中の百姓たちは、牢人していた
かつての国侍を大将として一揆を起こし、郡山に押し寄せ、町口の端々に放火などし、あるいは乱取り(略奪)を
行った。
これに、留守居の家老たちは慌てふためき静めることが出来ずに居た。

これより以前、渡辺勘兵衛は(了)は牢人していて、秀吉の直臣に成ることを望んでいたが、それを
増田長盛が聞き、「秀吉公には時節を見て召し出して頂けるよう取り持つので、先ずは我が方に参られよ」
と声をかけ、そのため郡山に参り客分として、一万俵の合力を受け三の曲輪の中に居住していた。
それ故、大和領内の仕置などには関わっていなかったのであるが、このような緊急事態に、勘兵衛は
家老たちの所に行くと言った。

「このような混乱した事態は以ての外である、急ぎ方針を決定し、覚悟を決めなければならない。」

しかし家老たち
「このように乱れ、家中さえ治まりかねている有り様です。まして郷中などの事はどうしようもありません。」

「各々が支配が難しいというのであれば、私を物主として、その指図通りに従っていただきたい!」

家老たちはこのような状況であったので、ともかくもあなたの指図次第にすると彼に従った。
そうして勘兵衛は先ず、東軍が押し寄せてくるのも間もなくであろうからと、籠城することに決め、
諸士の妻子を人質に出させこれを本丸に入れ置いた。それから軍勢を二、三百人ほど用意し、
在所の村々にこれを派遣し、一揆の頭目達を召し捕り、あるいは首を刎ね、郡山の五町目という所で
獄門に掛けた。この処置によって国中はおおかた静まった。

さて、籠城の評議において、持ち口の手分けをしていた時、各々は「外曲輪は捨てて、二、三の曲輪にて
敵を迎えましょう」と意見した。しかし勘兵衛は承知せず「外曲輪にて先ず敵を迎えて様子を見、その上で
内曲輪に籠もるべきである。」と発言し、評議もこれに決まった。

郡山城攻めの軍勢には、筒井伊賀守(定次)、藤堂和泉守(高虎)、その他2,3の将が仰せ付けられた。
彼らは郡山から五里北の、山城国玉水という所まで来ると、そこから使者を以って城を自分たちに
明け渡すよう申し付けた。これに対し、渡辺勘兵衛以下家老たちはこう返答した。

『右衛門尉(増田長盛)の事ですが、今回の事について、一命御赦免あって高野山に登ったとは聞いておりますが、
右衛門尉からわれら留守居に対して、何事も申し越しては来ておりません。それが無いのに城を明け渡す事は
出来ませんので、右衛門尉から申し越しが来る前に慌てて我らが領内に押し入られるのは、どうかご無用に
なされますように。』

そして持ち口を固め、堅固に籠城の準備をした。
これを見た筒井定次は増田長盛の家老たちに、返り忠をいたして城を明け渡すよう申し越したが、それには
返事も出さず、使者を追い返し、『重ねてこのようなことを仰せ越した場合は使者を討ち捨てる!』と返答した。

584 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:34:36.29 ID:arHxozrM
これに対し定次は、大和国はかつて筒井家の領国であったので、策を練り地下人などを組織し、夜間郡山に
押し入り乱取り、放火などをさせた所、渡辺勘兵衛は早速聞きつけ。人数二、三百で出撃し、郷人四、五十人も
討ち取り、あるいは搦め捕り、皆首を斬り獄門に掛けた。
その後は堅固に持ち固めたため、寄せ手の衆もうかつに手出しすること出来ず、これをどうにかするよう
増田長盛に申し遣わされた。このため、長盛は高田小左衛門という出頭の者を郡山に差し寄越し

『城を相違なく明け渡すこと。これまでの仕方、祝着である。』

と、渡辺勘兵衛には自筆の墨付を与えた。そして評議で城を明け渡すことに決し、寄せ手の衆に使者を以って
伝えた

「城は明け渡します。しかしながら城内には諸道具、金銀など多くありますので、お請取の時は、先ず番所に
置かれている御人数で諸道具、金銀等を受け取りに来られ、役人だけ城にお入りになって、その上で
紙面を以って道具、金銀を改めて頂いて渡し、そして城も明け渡しましょう。
尤もこの時、我々も城に残すのは役人だけで、他の人数は皆城外へと払い出しておきます。」

寄せ手もこれに同意し、郡山城の諸士は大安寺という伽藍跡へと移動し、家老たちも城を出てそこへと合流した。
これは渡辺勘兵衛がかたく命じたことであったが、勘兵衛自身はどういうことか、その屋敷に鎧武者を百人ばかり
も棒を持たせて隠し置いていた。

さて、寄せ手の軍勢が町口に留まり、番所に諸道具受け取りの人数が向かい、そこで門々の鍵が渡され、
それが開かれると、多くの雑人たちが本丸へと押し寄せて諸道具金銀の乱取りを始めた。

この様子を見た勘兵衛は「沙汰の限りである!」と言って彼の屋敷に隠し置いた人数を出し、門々の鍵を押さえて
取り返し、城に入った者たちを皆追い出し門を閉じ、寄せ手の大将衆に使いを立て
「始めの約束と違いかくの如き有り様である!この上は城を明け渡すことは出来ない!」
と申し渡し、先に大安寺跡に退かせておいた人数を呼び返し、寄せ手と戦闘する準備をした。
これに対し藤堂高虎より扱いが入り

「この体たらく、我々は少しも認知していない事である。とにかく、その方の望み通りにするので、
城の明け渡しをするように。」

そう申し遣わしたものの、勘兵衛は納得せず、もはや戦端を開こうという体になったため、再三扱いを入れ、
その間に南都興福寺の門跡である大乗院殿を頼み、彼により扱いを入れた所、「大乗院殿の御扱いであれば、
先の約束を毛頭も相違無いよう仰せ付けられ、お請取に成るでしょう。」とこれを受け入れ、
大将衆もまた、何れもその通りに申し付けたので、作法良く書道具金銀等紙面を以って改め請取渡し、
その上で城の請取をした。その時渡辺勘兵衛は、終始物主として城方の者たちを指導した。
彼が一人で指導する様子を藤堂高虎は感心し、後で自分の知行の十分の一を与える約束で召抱えた。

(大和記)

大和郡山城明け渡しについての逸話である。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 21:51:13.71 ID:uMHudFVt
その後高虎から奉公構が出されるとは夢にも思わない勘兵衛だった

「武勇の心得は、これ以外に無い。

2014年06月21日 20:29

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/20(金) 22:02:57.23 ID:tFkW0/pA
寛永の初年、藤堂高虎はいささか老衰を感じ、国務を世子大通公(高次)に託した時のことである。

高虎は立花飛騨守(宗茂)兄弟、佐久間備前守(安政)兄弟、丹羽五郎左衛門(長重)、脇坂淡路守(安治)、
朽木卜斎(元綱)等を招待し、その席で家の系図、知行の朱印、水牛の兜、金の傘の馬印などを
取り出して高次に譲渡し、先祖代々、一門末々までの武功の次第を語り聞かせ、最後に言葉を改めて
このように言った

「大学(高次)は惣領筋であるから、武勇が私に劣るとは思わない。しかし現在は
静謐の世の中であるので、そなたは合戦を実地に経験する機会はなかった。それに付いて申すが、
武勇には、稽古という言葉は無い。ただ、心がけ一つが重要である。

一朝有事の場合に、『この度は第一の殊勲を』と考えただけでは人並みの働きも出来ない。
『今度は一番に討ち死にするのだ』と決心してかかってこそ、いささか人に優れた働きは
成るものである。

武勇の心得は、これ以外に無い。」

これを聞いた列席の客人たちは、思わず姿勢を正して傾聴し、深くその言葉に感服したという。

(木且子集書)

藤堂高虎の「武勇の心得」である。




172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 14:42:46.58 ID:ofXAvc/d
>>167
養子の高吉の問題があるのに、よく丹羽長重を呼べたな。

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/21(土) 15:45:16.73 ID:stz1dDvW
秀長の養子に収まっておれば豊臣も安泰だったものを…

藤堂の水牛軍団

2014年06月20日 20:33

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 21:15:56.66 ID:LcxLAkoG
藤堂高虎公の軍装は一定していなかった。前立ては多くの場合水牛を用いた。

大阪の陣以前には、藤堂家において『角衆』と称する、同じ水牛の前立てを許された者は
6,7人だけであったが、大阪出陣の時には、鉄砲頭、母衣衆にもこれを許したため、その人数は
激増して、いったい何人いるのかわからぬほどになった。

それから高虎公の頬当は黒塗りで、具足は小札黒糸の毛引きであった。
小手、佩楯は越中流を用いられた。

関ヶ原では鳥毛袖なしの具足羽織、大阪の陣ではもみの広袖の小袖を時々着用されていた。

幟は大阪の陣で三布の折懸、地紺に白餅三であったが、これも関ヶ原の時は白地に朱の丸三であった。
大馬印は、大阪冬の陣では白の三布の大四半に朱の丸一、夏の陣では赤い吹貫であった。

(西島八兵衛留書)

藤堂高虎の軍装についてのお話し。大阪の陣で藤堂家に水牛の前立て軍団が生まれていたのですね。




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 22:40:05.18 ID:OrbnQCsw
黒田水牛軍団は知ってたけど藤堂もだったのか
確かにあれ威圧感すごいしな

あなたもきっと迷惑にも感じるでしょう

2014年06月17日 18:55

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 19:28:57.42 ID:PZYVtx6C
一、朝はまだ暗いうちに起きて、燈にて髪を結び所用を申し付けるようにしなさい。
  夜は五つ(午後9時頃)を限りに休むようにしなさい。
  こんな風に条文にしてまで行跡についてのことを言うと、あなたもきっと迷惑にも感じるでしょう。
  しかし、私は小身より成り立ち、苦身して今の身上に成りました。ですので、こういった事を
  伝え聞かせることがその身にとって必要なことであると考えるのです。

(藤堂和泉守高虎教誨・息大学頭高次に示す条々)

この条々は全部で一九条ありますが、それについての高虎の思いを述べた一節です。




144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 23:27:26.42 ID:3q+tutrt
朝はともかく、夜更かしする人けっこういたのかねぇ

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 23:35:50.28 ID:qQQB8R6O
夜更かしと言や宴会とかって結構遅くまでやって飲んでたりするけど当時はどうだったんだろ?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/17(火) 00:37:42.02 ID:ZCjU5JiM
徹夜する庚申待ちなんかは談合の場として用いられたんじゃないかって考察があるね

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/17(火) 01:22:49.60 ID:iNssuo7b
結城氏新法度には一杯飲んだら糞して寝ろ的な事が書いてある
庭木にゲロ吐くなとか、わしに宴で飯椀一杯以上の酒振る舞ったら怒って帰るからな!とかあるのを見るに
おそらく当時も夜更けまで鯨飲してるのが沢山いたのではないか

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/17(火) 01:56:12.40 ID:qDcIIbtO
酒飲ませたら槍持って行かれました

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/17(火) 07:43:08.46 ID:VThhnZL/
酒飲んでたので首持っていかれました

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/17(火) 10:42:16.29 ID:RyJrocz7
飲んでるときの命令は朝に確認しろだっけ?

藤堂高虎が大切なことを考える時はいつも

2014年06月09日 18:51

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 19:10:40.55 ID:z+Y76WGw
藤堂高虎が大切なことを考える時はいつも、その日の未明に起床して衣装を整え、
両刀を帯び、正座して思念を凝らしていた。

「帯を解いてくつろいで、平臥などしていては、思慮が放漫に流れて、
重大事案の勘考は成るものではない。」

そのように人に語っていたそうである。

(西島八兵衛留書)



95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 23:19:34.27 ID:+gRhQzS3
血行が悪くなるのはいただけないな

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 12:52:17.63 ID:U5Pf77D7
健康がかえって不健康に走らせることもある
若いときの無茶飲みとかね

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 23:43:51.66 ID:A9aeiAEM
それって座禅では

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/10(火) 00:08:34.42 ID:Xe1ie4AI
帯刀して正座と結跏趺坐はまた違うんでは…

藤堂新七郎の戦死

2014年06月04日 18:52

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 21:02:30.76 ID:JXBiHXr3
元和元年五月六日、八尾若江の戦いの終わった夕方、藤堂高虎はその領地である伊賀伊勢に急使を送り
戦勝を伝え、戦死者の家族へはその次第を通知させ、その遺族の保護に注意せしめ、重臣、家中の侍たちは
勿論、陪臣・軽卒にいたるまでそれぞれに香典を送り届けさせた。
そして翌七日には大阪が落城したため、高虎は九日に兵士を帰国させ、自らは十日に入洛し、その後
八月まで滞京された。

高虎は、五月十五日には南禅寺へ、川瀬治兵衛を使者として、戦死者のための四十九日、および百ヶ日の
追善を崇伝長老に頼み、回向料六百両を供進した。
法事は寺中金地院で、七日続いて執行した。すなわち、六隊将及びその部兵に対しての各一日、
そして組外の侍たちの為に第七日目に総回向、都合七日の法事を、高虎は一里あまりを隔てる
四条の宿所から毎日参詣した。

六月二十五日の最後の法事には、戦死した大身六人の後継者を国元から呼んで焼香させた。
山岡兵部には子弟がなかったので、親類の磯野平三郎が代理を命ぜられた。

高虎も焼香を行い、斎の座についた。そこで、戦没者の、戦死の模様について様々な話が出た。
その中でも藤堂新七郎は、他家にも名の聞こえた名誉の勇者で、高名の場数が十三度、
最後の十四度目に戦死を遂げた。
彼はそれまで、何度も増禄の内意を伝えられていたが、一種の変わり者であったので、
その度にそれを辞退し、今回も出陣の前に、高虎より「二万石をお前に遣わそう」との内意に対し

「めでたく御凱旋の時なら格別ですが、今はお断り仕る!」

と言って出陣したのである。

高虎はこのことを詳しく語り、「今更ながら、これほど残念なことはない。」と、
大変に愁傷し、胸がつかえて食が喉を通らず、ついにはそのまま膳を引かせた。

八月の帰国後、戦死者の跡目相続発令の日、新七郎の子宗徳、玄蕃の子九蔵、勘解由の子小平太、
弥次兵衛の子将監を召して酒膳を供じ、その席上でも高虎は

「新七はあの時、『私にお任せなさい』と言い捨てて乗り出たのだ。その姿が今も眼前にある。」

と言って痛哭された。これに子の宗徳は勿論、一座皆、涙にむせんだ。

(開国遺事)

藤堂高虎、藤堂新七郎の戦死を嘆く、という逸話である。




441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 22:26:19.64 ID:32k0+/xu
>>439
石川五右衛門が屋根に登って「絶景かな、絶景から...」と言った南禅寺の山門は
夏の陣で戦死した家臣の霊を弔う為に高虎が寄進した話は有名だね

賞を得るテクニック

2014年06月02日 18:55

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 22:03:08.76 ID:fv1WmChP
大阪夏の陣のある日のこと。

前田利常の使者、北川久兵衛という者が藤堂高虎の陣に来訪し、用事を済ませての帰りがけに
合戦が始まった。そこで久兵衛もこの戦闘に参加し、敵一人を斬って、その頸を高虎の見参に入れた。
高虎が「それは前田殿への土産に持ち帰るが良い」と言うと、その言葉通り久兵衛は頸を携え帰って
利常の検分に入れたが、さしたる賞もなかった。

このことを聞いて、高虎は
「老功の士であれば『頸は当手の数に入れられよ』と言って捨て置いて帰るであろう。しかし当方では
そのまま自分たちの討った首級の中に入れるべきではないから、久兵衛の功を記して、頸を添えて
前田の陣へ申し送ることに成る。すると、前田はそれを見た以上、相当の賞をやらねばならない。

であるのに、頸を持ち帰ったために賞に漏れたのは気の毒というものではあるが、それは実は、
当然の事なのである。」
と語った。

(名将言行録)

藤堂高虎の、「賞を得るテクニック」についてのお話。




427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 23:44:32.50 ID:fRwr0Bgg
いつの時代も正直者というか素直な人間は損をしますな

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 01:12:34.83 ID:6JWOzLiY
我が家の老功の士も度々出先で合戦に加わるのか、
カエルやGなどを討ち取り頸を携え帰って参りますので
検分の後、恩賞としてカリカリを与えております

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 06:04:45.40 ID:smOvyZpp
>>428
よけい首もって帰ってくるじゃないやだー

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 11:30:48.01 ID:E3l0+VMc
>>428
おまえがいつまでたっても手柄たてられないから
見本を見せてあげてるだけだ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 13:37:14.75 ID:fLhUY3fG
わんこ「嫁くれー!」

藤堂高虎、大酒飲みには

2014年05月31日 18:50

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:51:05.32 ID:JJIbmbW7
藤堂高虎は、自身は酒をあまり嗜まず酒量も浅かったが、人々を呼び集いて、
酒宴を開いて漫談することは、すこぶるこれを好み、暇があると侍臣や古老を呼び集め
酒食を饗じていた。

しかしそれでも量に関しては淡白で、特に大酒、暴酒を大いに嫌い、家中の者たちに対しては
常にこれを戒めていた。

慶長13年の正月、家中に命じた条々の第二項に

『美服と大酒は無用の失費である。酒を過ごせば病気になる。もしそれが原因で死んだ者は、
仮に成年の実子があっても家督相続は許さず、家財没収とする。』

と規定したのである。

(高山公実録)

藤堂高虎、大酒飲みには相続を許さず。というお話。




405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 21:11:17.46 ID:XXU+jxZR
任務で酒を飲み過ぎて倒れた岡部正綱さんは藤堂家にいなくてよかったね

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 22:02:03.61 ID:Q5ewpGDq
酒自体を禁じるのではなく酒でトラブルを起こしたらアウト、と線引きしたのがうまいな

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 09:35:34.27 ID:i34/S51m
酒を飲み過ぎて任務をはたせなかった穴山信友さんは藤堂家にいなくてまじよかったね

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 12:31:10.10 ID:Smlxd0tY
市松さんに迷惑かけられたとかw

和泉守は無謀の事をする男である

2014年05月30日 18:52

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:03:27.00 ID:LGbb3i91
藤堂高虎が渡辺勘兵衛を2万石で召抱えたことを伝聞した加藤嘉明が、このように言った

「和泉守(高虎)は無謀の事をする男である。それがしならば、2万石で2百石取りの士を
百人抱える。勘兵衛がたとえ鬼神であったとしても、侍百人が立ち向かったならば微塵と
なるだろう。」

高虎はこれを聞くと
「左馬助(嘉明)は知恵のない事を言うではないか。平侍の二百人や三百人が固めている所ならば、
踏み破っても通る敵が、勘兵衛の陣と聞いては、肝を冷やして避けるではないか。」
と言った。

(名将言行録)




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:09:49.45 ID:ea/xCUnd
結果的にこの件に関しては地味加藤の方が正しかったんだよな。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:48:00.24 ID:31t4RUZ/
知略系の武将だったら相手も警戒するけど、脳筋武将は数に圧倒される

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:58:14.79 ID:w8YPQq8w
鬼武蔵に代表されるDQN型武将だと・・・

家康はひと目で怪しい奴と睨み

2014年05月26日 18:57

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 20:51:22.66 ID:yhf4XPnz
小牧長久手合戦の前後の頃の話だという。
羽柴秀吉の命を受けて、藤堂高虎は敵地探索のため土工夫に変装し、もっこを担いで浜松城の付近を
徘徊した。

すると偶然、そこを通りかかった徳川家康は、さすがに眼力が明らかであったので、ひと目で
怪しい奴と睨み、近臣を遣わして高虎の身元を尋ねさせた。

しかし高虎は巧みに空とぼけ、いい加減に応答して煙に巻、急いでそこを立ち退いた。

その後、秀吉・家康の講和が成って、家康が上洛し、大納言秀長の屋敷に宿泊した時、
高虎は接待役として初めて家康と謁見した。そこで高虎は

「それがしは、いつぞやの浜松御城下のもっこ担ぎでござる」

と語った。これを聞いた家康は「なるほど」と言って頷き、その後、大いに懇切にしたという。

このような一説が、古くから伝えられている。
(洞津遺聞)

まあ2メートル近い大男が自分の城の周りでもっこ担いでうろついてたら、家康じゃなくても
怪しい奴にしか見えないとは思いますが。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:23:24.65 ID:vSiWtMBV
おまえのようなモッコ担ぎがいるか!

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:35:57.84 ID:/moa2Zuv
もっこって2人で担ぐものだよな
一方が高虎じゃバランスとれなくね?
それとも1人で担いでたとか?

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:48:43.05 ID:D7j8AzfQ
前と後ろに吊るして、真ん中を担げば
天秤棒と言った方がいいかもしれないが

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 00:02:53.84 ID:5NM/jQFE
浜松城下には小山田もっこ隊崩れのもっこ担ぎ有段者が溢れてたに違いない
みんな高虎の対になるような多聞天張りの図体をムキムキさせてたから、よほどの眼力がなくては見破れないのは確定的に明らか

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 05:24:24.15 ID:XDMgrguE
バランス取れる相手がいなけりゃ右腕と左腕でバランスとるしかねえな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 10:50:11.86 ID:euf0tPZ2
そういえば講談で関口弥太郎(関口流柔術宗家)がやってた一人で駕籠を担ぐ方法
通常より長い棒の一端に駕籠、もう一端にバランスが取れるように
石の地蔵様何体か結びつけて間を持って担ぐ
通常の駕籠かきの4倍の膂力が必要

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 11:47:42.91 ID:/caWSDgk
もしかして歩き方や筋肉の付き方がもっこじゃないと見破ったのかね?
周囲の警戒の仕方が間者っぽかったとか

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 11:59:57.60 ID:quWFdp62
>>378
ジョジョの奇妙な冒険にヒントが書いてあるから読んでみて

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 14:00:10.26 ID:fXVYYiLQ
MOKKOFU(もっこ夫!)

藤堂高虎による、お灸のすすめ

2014年05月24日 20:29

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 09:00:57.28 ID:6rgeaHRD
『晩明け、勘解由が帰ってきたのでこのように命じておいた

一、主殿の煩いも、とにかく灸をしなければ根切(完治)は出来ないものである。
  油断なく灸をするように。灸をしても悪化するようなら、それはもう時節が来てしまったものだと
  考えている。

一、仁右衛門なども、油断なく灸をして、養生しているということだ。

一、先にも書いたが、灸をしても症状が悪化するようなら、もはや是非無き状況だ。
  気ままを申し灸をせず、不養生いたすような者は、誰によらず跡継ぎを立てるわけにはいかない。
  これはこの通り伊賀伊勢の家中にも相触れておくように。

右のとおり、何れも申し触れておくように。国元では耕作、米の販売、火の用心に、油断の無いように。
なお、その他は勘解由が申し遣わす。

  卯月八日                 いつみ(和泉)

                             百々太郎兵衛殿
                             馬淵半左衛門殿 』

藤堂高虎による、お灸のすすめである。




16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 20:09:20.21 ID:XQ2q3thv
灸でだめならあきらめるって・・・
それって血行よくしてるだけなんだが

藤堂高虎が放浪していた頃

2014年05月22日 18:51

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 06:38:21.32 ID:RWbobTCw
藤堂高虎が放浪していた頃、一時期その身を山科の櫻井林佐の家に寄せていたことがあった。

ある日、高虎は道の途中で無礼を働いた農民を斬ってしまい、それを見た付近の農民たちが群集して
彼を包囲した。流石の高虎も数百の農民を尽く斬ることも出来ず、その場を立ち退いて櫻井家へと
逃げ込んだ。すると群衆は後を追って櫻井家を取り囲み、形成頗る険悪となった。
しかし櫻井林佐はこの地域の名望家であったので、百方なだめすかして群衆を退散せしめ、
高虎の生命を救った。

それから、40年余りの歳月が流れた。
藤堂高虎は伊賀伊勢30万石の国持大名となり、櫻井林佐は、依然山科の土豪であった。
高虎はその旧誼を懐かしみ、「五百石で召し抱えるからこちらに参ってほしい」と伝えた。
しかしこれに、林佐は

「ご好意は、身に余って忝なく存じます。しかし、」と、これを断った。その上で
「ですが、そこまで思召していただけるのなら、今後、私の子孫が零落することが有れば、
その時にお救いして下されたい。」

そう答えた。高虎はこれを快く承知し、林佐の二人の子供、利右衛門、平右衛門の両名を津城も呼び寄せ
面謁し『申出次第、何時でも扶助すべき旨』の黒印書を渡した。

後代、文化年中、藤堂家より櫻井林佐の子孫に、年々白銀5枚づつ下賜すべき旨の辞令を発したことがある。
また文政年中には、櫻井家の親族である津の町の医師、渡辺某が、櫻井家相続を藩庁に出願して
許可された顛末が、町年寄の日記に詳しく記されている。

(伊藤又五郎役用日記)




9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 14:12:11.40 ID:ss+K9WNr
(伊藤又五郎役用日記)は「渡した」と「後代」の間に入れるべきじゃないかな

藤堂高虎「いつも言っているように」

2014年05月21日 18:42

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 11:08:22.51 ID:XYhB37jT
慶長五年頃の、板島普請の総奉行を勤めた藤堂弥二郎(氏勝)宛、藤堂高虎書状

『一、先ごろ申し遣わしたように、作事総奉行のこと、弥二郎には入念に申し付ける。
   いつも言っているように、酒は控えるのだぞ?
   (いつもの如く酒をひかえ可申候事)

 一、久助の負傷は苦しかるまじき事であるから、なお以って養生するように。
   大工屋に居たままでは心も塞いでしまうだろうから、弥治郎の所に行かせて養生させるのが良いだろう。
   だからといって、疵が本復するまで、女を側によせてはならんぞ。
   (乍去疵本復之間はをんなそばへよせ申間敷候)

 一、板島の作事がおおかた終われば、條太郎、五郎を呼び寄せ、万事相談するように。
   仔細は内膳の方に申し遣わしておく。

九月五日                  御判 』

藤堂高虎の、人情味あふれる家臣への書状である。




4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 21:21:50.21 ID:ZMJJzs1O
市松「酒が入ると人が変わる奴っているよね」

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 22:01:24.25 ID:BuHi2HS2
>>3
その後の氏勝さんは、大坂の陣で討ち死にしてた。可愛がられてたのを恩に思ってたんだな。