浅野幸長が早逝したのは

2017年01月07日 20:16

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 18:23:25.52 ID:DMsbktqS
浅野幸長が早逝したのは


慶長18年8月25日、紀伊国主の浅野幸長が死去した。
近年唐瘡にかかってしまったので、今年は夏中在京した後に
養生のため紀伊に下国されたが、そのまま亡くなられた。
おととしは加藤清正、浅野長政、今年は池田輝政、大久保長安と死んだのは
ひとえに好色ゆえの虚の病という話である。

この浅野幸長も五年前に葛城という遊女を買い、無右衛門尉という傾城を買って
そばに置いて慰まれていたので、その果てに早逝されたとのことだ。
跡を継ぐ息子がいないので、紀伊国は誰が拝領するのだろうかと噂になった。


――『当代記』

大身が相次いで死ぬと、雑にまとめられてしまう悪い例。



497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 23:48:38.51 ID:01a7hoED
梅の毒ですね

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名人の芸其練気別段の事

2016年09月06日 18:10

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 14:34:51.15 ID:FDTUj9r9
名人の芸其練気別段の事

 小野流一刀の始祖で神子上典膳というのは、御当家へ召し出されて小野次郎右衛門と名乗った。
その弟は小野典膳忠也と名乗り、諸国遍歴して芸州広島で没した。
これから芸州では忠也流といって、その忠也の弟子が多く、国主も尊崇して今でもその祭祀が絶えていない。

 十人衆という、忠也流を修行する者の中にはこの祭祀の事等を取り扱う者達がいて、
その十人の内の間宮五郎兵衛というものは、とりわけてその芸に長じていた。
同輩家中の師範もしていて、そのころの国主但馬守(浅野長晟)も彼に武剣を学ばれていた。
しかし五郎兵衛は不幸にも中年で卒去したので、せがれの市左衛門は十六歳で跡式を相続した。
但馬守はすでに五郎兵衛の免許の弟子であったので、そのせがれの市左衛門へ教わったことを段々と伝授された。
市左衛門の業も抜群となり免状を渡されようとした時、市左衛門は退いて断ると述べた。

「どうしてそう思い立ったのか?」
と尋ねられると、

「一体親の義ですが、流儀の心得を五郎兵衛は甚だ未熟でして、いちいちその修行が間違っていました。
そのため五郎兵衛の指導のため、国中の一刀流はいずれも下手でしたので、五郎兵衛が師範としていた御家中の者はいずれも稽古が未練でございます。」

と申すと、但馬守はもってのほかだと憤り、

「汝の父の教え方がよろしくないと申すのも無礼である。殊にその方には予が太刀筋を教えたのだ。
それをよろしくないと申すのは、父を、いや主人を嘲るに相当し、いずれにしても不届きである。
理由があるのか!」

と尋ねられると、

「武芸の事を悪いと思っても、父のなされた事であるので言わないでおくのは不忠である。
それがしが悪いと存じましたので、御疑わますのなら同衆の手前で御立合をされるべし。」

と答えた。
但馬守はいよいよ憤怒されて、そのあまり

「小倅とて容赦は無い。立会いせよ!」

とかの十人の内に勝れたる同流の者を選んで、勝負を申し付けられた。
その十人は申すに及ばず、一家中で心得有る者どもが立ち合ったが、一人も市左衛門に勝ったものはなかった。
但馬守も自身で立ち合われたがこれもまた負けられたので、但州は甚だ尊重された。

「親を誹ったのは当座の当座を申し付ける。忠也流の稽古は万事市左衛門に指図させるように」

と申し付けられ、家中に名誉の者が出てきたと殊の外であるとのことであった。

惜しいかな、市左衛門は三十歳にならずして卒去し、その子が跡を相続したという。
但馬守はひどく惜しんだそうだ。
(耳袋)



157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 16:33:50.98 ID:QroxL7fd
トントン但馬だったか
血は残すべきでないな

にっかり青江

2016年08月21日 10:23

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 02:03:59.09 ID:g3SzQ0MP
浅野長政の歩士が伊勢に使いをした時のこと。歩士が道に墓場のある場所を
夜中によぎったところ、変化の物が出現した。

その身体には火炎があり、不動明王の姿形のようだった。火光の中のその顔を
見れば、にかりにかりと打ち笑って、こちらに向かって来る。

歩士が刀を抜いて走りかかり、これを斬ると火光はたちまち消えて暗夜となった。
それから、歩士は伊勢に行き、次の日の帰路で件のところを見ると、苔むした
石仏の頭から血が流れ出ていた。また、刀の切っ先外れには斬った跡があった。

歩士は取って返し、この事を人に言ったが、誠らしからぬことなので親しい友に
密かに語り、刀を見せた。すると、その刃には血が付き、石のひき目があったが
刃は欠けていなかった。

浅野長政はこの事を聞いて、秀吉の耳に入れた。秀吉がその刀を召し寄せて
一覧すると、備中青江の作で2尺5寸のものだった。

秀吉は、「これは名物である」と言って、その刀に“にかり”という異名を付けて
秘蔵した(にっかり青江)。にかりはその後、京極忠高の家に伝わった。

――『武将感状記』



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 08:44:20.47 ID:IxSsKAaB
こっちは女の幽霊じゃないのか
てか、ニヤニヤしてる不動明王とか気味悪いw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 11:38:25.16 ID:7gpb65U3
>>26
にっかり青江の別パターンか

浅野幸長の機転・および石川五右衛門の顛末

2016年05月10日 11:08

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 01:43:25.42 ID:qqwO0VTT
石川五右衛門という盗賊は、豊臣秀吉の時代、大小名および諸士群参の日になると、大阪並びに聚楽の
営中に紛れ入って、諸席に置かれた重代の宝刀、或いは鋭利な良刀を、己の鉛刀に代えて帯び、退き出た。
このため心ならず惰弱の汚名を被り、歯噛みして憤る輩多かった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関において刀を従者に遣わし、短刀ばかりにて営中に登った。
衆人その才知を賛美し、これに習い、みな従者に刀を持たせるようにした。
これにより石川五右衛門の計略も絶たれ、その後営中に紛れ入ることはなくなった。
またここから、営中に入る時刀を従者に持たせるのが士風となったのだとか。

ある説に、石川五右衛門は盗賊の張本にて、暴悪のこと多かった。ここに京都松原通新町の西に居住していた
右筆の何某は、石川の友人であったので、命あって召し捕える事が仰せ付けられた。
そこで彼の者は計り、茶会に託して我家に石川五エ門を騙して招待し、これを生け捕った。
これによって、世に言う釜煮の刑が行われたと伝わっている。

(新東鑑)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 13:04:56.47 ID:WAFCxkCW
石川五右衛門ってホントに実在したのかねえ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 12:51:11.61 ID:E+gdZ11k
>>600
大阪府島本町にある水無瀬神宮の門には石川五衛門の手形がある

信じるか信じないかは人それぞれ

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 13:40:42.63 ID:3Nb414DO
実在は信じるがそれは信じない

浅野長政「今の殿下は、古狐が入れ替わった者だ。」

2015年11月10日 15:32

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/09(月) 23:14:11.25 ID:xI4lJMJz
文禄2年の冬、豊臣秀吉は朝鮮での戦がはかばかしからぬを怒り、徳川家康を始め配下の大名を
名護屋の陣に集めこのように言った

「朝鮮の軍、今のままではいつになったら戦況が定まるかもわからぬ。そこで今は、この秀吉自ら
向かおうと思う。30万の軍勢を3手に分けて、前田利家蒲生氏郷に大将をさせ、三道より向かい、
朝鮮を打ち破り、真っ直ぐに大明に攻め入ろうと思う。
我が国のことは家康に任せれば心配もない。
方々、これをどう思うか?」

ところがこれを聞いた家康は、怒りも顕に利家、氏郷の方に向かい
「日本の大名も多き中に、あなた方二人が選び出されて一方の大将を賜ったのは、
弓矢取っての面目、何がこれに過ぎるでしょうか?
かく言う家康も、弓馬の家に生まれ戦いの中で年老いました。今、この大事に及んで、どうして
人々の跡に留まって、徒に本朝を守っていられるでしょうか?
少勢ではあっても、この家康も軍勢を率いて、必ず一方の先陣を承りたい!
そのためにも、あなた方のご推挙を仰ぎたい。」

ここに浅野弾正長政が進み出た
「暫く待たれよ徳川殿!殿下のここ近年の御振舞、昔の御心のままと思われているのか?
今の殿下は、古狐が入れ替わった者だ。それに何を言っても…」

この言葉が終わらぬ前に、秀吉は激怒し刀に手をかけ叫んだ
「やあ秀吉が心、狐が入れ替わったとはどういう事か!?その理由を申せ!
もし説明できないのなら、その素っ首打ち落としてくれん!」

浅野長政は少しも騒がず、
「この長政ごときが何百人首刎ねられても、どれほどの事がありましょうか?
仰せですので言いましょう。近年、意味もない戦を起こし、異国のみではない、
我が国内においても、父を討たせ子を打たせ、兄弟を失い、夫に別れ、妻に離れ、
嘆き悲しむ者天下に満ちている!
また、その戦のための兵糧の徴収、軍勢のための賦役、これにより六十余州の内は
悉く荒れ野となった!
今日、五畿七道の内は群盗強盗が蜂の如く沸き出て、安心できる場所すらない。

徳川殿がどのように思っても、これを防ぎ動揺することなく御跡を守るのは不可能です。
これらの事を理解されているからこそ、徳川殿は先陣を望んだのです。

ここで、昔の殿下であればこの程度のこと、気が付かないはずがありません。
しかし気がついていない。これはただ事ではない!きっと古狐が入れ替わったに違いない!

賤しき者達の諺にこんなものがあります。『人を取ろうとするスッポンは、必ず人に取られる』と。
それはまさにこの事です!」

そう憚ることなく言ってのけると、秀吉も怒りのまま
「狐であろうがスッポンであろうが、おのれが主人と頼っている者に、雑言を吐くこと奇怪である!」
そう叫んで長政に飛びかかろうとするのを、利家と氏郷が慌てて二人の間に入り押し隔てた。
「殿下、多くの者達が御前に伺候しております!長政の首を刎ねるのにお手を下されるまでも
ありません!弾正!弾正も何とか言え!」

しかしそう言われても長政はさらぬ体で受け流し、その場の人々に挨拶して、自分の陣に帰り、
御使を待って腹を切ろうとしていた。しかし秀吉は、長政の処分について重ねて言い出そうと
しなかった。

このような時に、肥後国に逆徒が起こったとの早馬が参った。秀吉は大いに驚き、徳川家康に使いして、
浅野長政を連れて参上するように』と仰せ下した。そして長政は召され、赦免された。

(藩翰譜)



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:44:41.59 ID:O6IysmEn
さりげなくやれば良いのに主張するから・・・

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 05:58:58.21 ID:QjSotLI4
この話同様の内容で岩淵夜話や常山紀談にもあるな

関八州を手に入れたという恩

2015年10月04日 12:02

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 03:10:30.97 ID:32dSqDEt
内府(徳川家康)と大納言様(前田利家)が、未だ仲直りなさっていなかった時、
浅野弾正(浅野長政)殿が、大納言様とも内府とも仲が良くお話しされる間柄でした。

そこである時、内府のもとへ弾正殿が訪れなさって、いつもの通りお話ししながら碁を打ちなさっていた時、内府が仰せられたことには、
「大納言については、今度のことは理由もないことであった。」
などと少し後ろめたいことを申しなさった。

そこで弾正殿は、
「私は前から、大納言殿に悪い噂がたっていることは嫌でございました。
その理由は、内府も目を付けられていますが、大納言と内府は、差し出した手の大指と小指だと存じています。
内府は我らに、上様のもとへ出頭なさったときに盛んに口添えしたことで、関八州を手に入れたという恩があります。
また大納言殿は私共父子の命の親でございます。
そのことをお心得なさってください。」
と申されました。

内府も「もっとも」と申されたそうである。

これを大納言様がお聞きになさり、ついに内府との仲は良くなりました。
このことは、『弾正殿一代、とんでもない事を申し上げたものだ』と、皆は褒め称えたことです。
(利家夜話)

家康の関東移封は長政らの力によるものらしいです



大阪方に止まれと言っても

2014年11月25日 19:56

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 20:43:23.71 ID:y+GediFy
大阪夏の陣の緒戦、樫井の戦いで、浅野長晟の軍勢が大阪方を撃退すると、当時紀州では一揆が起こり
諸所に放火し、その上押し寄せてくるとの風聞があったが、浅野方が勝利すると一揆共はたちまち鎮まり、
放火も止んだ。これは、敗軍すれば落ち武者を剥ぎ取ろうという企みが、一揆の側にあったためだという。

この合戦の経過を仔細に記した報告書を、泉州加田浦より早馬にて二条城に注進し、
浅野但馬守(長晟)は山中まで帰陣しようとしたが、「敵の大軍がもし追い打ちをかけてくれば
一大事であるので、誰かここに留め置きたい。」と言ったが、自分からここに残ると言い出す者は
一人もなかった。

しかしここで熊澤兵庫が進み出て、「私がここに留まります!」と申し上げた。
但馬守は大いに喜び、「汝がここに留まるのならば心安い。」と帰陣の支度を始めた所、
物見より、大阪方の軍勢が北に向かって撤退している旨が報告された。
これに追撃はなくなったと浅野方の者達は一同大いに喜んだが、一人熊澤兵庫は残念がり、

「大阪方に止まれと言っても栓もない。」

と、力を落としたそうである。

(明良洪範)




890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 03:56:56.66 ID:B93gk4uE
泉州加田浦ってどこよ
紀州の加太か

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 06:58:39.32 ID:wneVrhV1
>>890
岡田浦の打ち間違えかも
樫井から近いし

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 16:20:51.41 ID:DsL9mEjk
加田浦でググったら紀州加田浦ってでるな。
間違えたんだろ。

浅野幸長の能登配流

2014年11月18日 18:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:56:27.29 ID:/RSIwZRJ
大河ドラマでスルーされたのが切なかったので
>>810の前後、幸長の身に何があったのかも投稿しておきます


浅野幸長の正室は前田利家の娘・養泉院(文禄2(1593)年に早逝)で
その後、池田紀伊守信輝(恒興)の娘・慶雲院を後室に迎えた。

そして豊臣秀次の正室も同じく、信輝の娘(若政所)だった。

そこで秀次が謀叛の猜疑をかけられ、文禄4(1595)年7月に高野山で切腹した際
幸長にもその嫌疑がかけられた。

事の次第は「謀叛の連判状に幸長の手跡があった」というもので
伏見において、大老五奉行列席の上で取り調べが行われたが
最終的にはそれが幸長の手跡ではないと判断された。

何故連判状に幸長の手跡があったかというと
幸長の祐筆に磯谷十蔵なる者がいたが、幸長の機嫌を損ねたため、石田三成に仕えることになった。
三成がこの磯谷を使って謀叛をでっち上げたのである。

そして三成は、事が露見しそうになると磯谷を殺そうとしたので
磯谷はこれを怖れ、幸長に全ての次第を告白し、これを以って幸長の無実が証明されたという。

しかしながら秀次とは親族の間柄であるので、兎にも角にも能登国鶴崎城への左遷の命が下った。
幸長は利家の屋敷に一旦引き取られ、同年8月能登へと出発した。


↑ここまでが能登配流の経緯

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:03:07.60 ID:/RSIwZRJ
↓ここからは帰参にまつわるお話(こちらはいい話なので、おまけとして)


文禄5(1596)年
伏見で明の使節と謁見した秀吉は、封書を見て大いに怒り
再び渡海し朝鮮を攻め、明へと侵攻するべしという命令を出した。

そこで徳川家康が、

「左京殿(幸長)は三千の兵を率いて渡海するべし。秀吉公には私から話をつけた」

と、幸長の帰参をとりなしてくれたので
父の長政は大変喜び、小足源左衛門を利家からの使者に添えて能登へと使わした。

使者は昼夜を駆け、鶴崎城に到着。
折しもこの時、幸長は城の中庭で弓を射っていたが、
鶴崎城は高台にあり、遠くを見渡すことが出来るので、幸長には二騎が鞭で追って駆けてくるのが見えた。

幸長は「これは只事ではない。ついに切腹の沙汰が下り、その検使が来たのだろう」
と思って、切腹の用意を命じた。
しかし使者が近付いてくると、その一人が家来の源左衛門であることが分かったため、
急ぎ「何事か」と尋ねたところ
秀吉から御赦が出たので迎えに来たという、目出度い使者だと分かった。

これに一同は安心し、切腹の用意は俄かに帰国の用意へと変じた。
こうして幸長は同年10月初めに、帰参が叶ったということである。



(共に『浅野長政公伝』より)




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:48:45.67 ID:sWAI5QZj
下手にこの時期御赦なんか出なかったら、渡海せず朝鮮にも行かず遊女遊びもせず、梅毒にもならずそしたらもうちょい長生きできてたかもな

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:42:11.51 ID:AhAL2do8
一生懸命よくわからん土地で戦って、後妻もらったら難癖つけられて切腹させられそうになるんだもんな。そりゃ、心離れるわ。

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:44:12.62 ID:7E5JT4/m
>>825
この時期だからこその御赦じゃ…武勇で有名だったらしいし手駒として。
この後の蔚山城での死闘も踏まえると、>>824も悪い話と言えるかもしれん。


ところで他に大河でスルーされた池田や地味加藤の逸話は……。

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:53:55.97 ID:i85WcvmH
大河の忠興はヒドかったぞ

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 01:49:10.04 ID:4lAv9pPZ
>>827
確かに幸長は武闘派で鳴らした勇将だもんな
合戦には必要不可欠な将だろうが、余りに短命だからふともう少し御赦が延びてればと思ったんだ

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:20:44.84 ID:AhAL2do8
>>827
ジミーさんって大河ででてきたことあるんだろうか。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:29:12.46 ID:4nD8sGuB
>>828
いくら主人公とはいえ如水さんが忠興の功績を全部かっさらっていくとは

>>830
加藤嘉明は葵徳川三代で、家光の具足親をやったシーンがちゃんと有ったよ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:47:58.93 ID:mOvZS9tu
大河みてたらことのほか三才が肥満体で笑った

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:57:43.13 ID:7E5JT4/m
>>828
大河の忠興は何であんなに太ましいのか。
長政と対立したりガラシャに自害を命じたりする奴には見えないwいい人そうw

>>830
功名が辻にも一応いたような…?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 08:55:44.94 ID:BuhQ+WP2
ジミーさん大河出演歴あるのか。ネタがなくなると主演あるかな。清正とのダブルキャストで。二人の加藤とか。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 14:33:14.58 ID:Q1hBnzee
>>834
砂加藤「俺も仲間に入れてくれよ~」

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 16:52:14.88 ID:LwSHz8/F
飛び加藤も忘れてるし

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 19:42:49.60 ID:c3cxOapc
ジミーさんは葵三代ならちょいちょい出てるよ
>>831みたいに主役になる場面以外でも
七将襲撃とか小山評定とかにも出てるよ…うん…出てるだけだけど…

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 07:16:00.85 ID:jG4jvGsl
賤ヶ岳七本槍が主役の大河ならジミーさんも主役

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 08:19:37.26 ID:8OLblkt5
松山:坂の上の雲
会津:八重の桜
地元がジミーを推す理由はなさそう

浅野幸長と伊達政宗は

2014年11月16日 17:27

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:25:06.71 ID:1T7aCUnZ
浅野幸長伊達政宗は、最初大変仲が良かった。

政宗が小田原征伐に遅参し、秀吉から謁見を許されなかった時
その間を取り持ったのが幸長の父・長政であり
政宗にとって長政は「命の親」とも呼べる存在だった。

そのようなこともあり、征韓の際には「幸長を助けるために」と
政宗も共に軍を派遣する程、二人の仲は良好だったが
何故かその後、大変な不仲となった。

その理由は明確ではないが、『浅野考譜』にはこう伝わっている。

秀次事件の際、幸長は秀吉の勘気を蒙り、能登への蟄居の沙汰が下された。
これを伝え聞いた政宗が、夜中、女輿に乗って幸長に会いに来たが
幸長は人々の目を憚って政宗と会おうとはしなかった。

政宗は大変短慮な人だったので、
「自分は心から幸長の身を心配しているのに
それを顧みようとしないのは、ひとえに幸長が無礼だからである」
と怒った。

以来両者は、君臣共に絶交となったという。


(『浅野長政公伝』)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 18:04:05.54 ID:O2pJ7Riw
>>810
不思議な事に大久保長安事件では名を連ねている両名

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 20:52:06.13 ID:lIO5SLnR
>>813
この二人、戦国逸話スレ情報などからして何故か真田のお兄ちゃんと仲がいいんだよなw

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 18:48:52.60 ID:VgWnhJNQ
>>814
そりゃ極悪親父にもまれりゃたいていの椰子は許せるようになるだろうw

病身者がかかる振る舞いいたし候

2014年09月26日 18:50

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:41:44.20 ID:HBI3MB18
永田治兵衛は浅野家の家臣であったが、多病の質で、「あいつは何の役立つのか」と、
家中から陰口を言われていた。
これに対し永田は、

「下郎であれば健やかでなければ役に立ち難いだろう。だが武士は病身であっても義勇さえ有れば
役に立つのだ。」

そう語った。この事を聞いた者達は、「永田の言葉は、世に言う負け惜しみだ。」と嘲った。

やがて大阪夏の陣、泉州樫井の合戦において、永田は淡輪六郎兵衛の首を取り陣中に帰ると、
彼の陰口をしていた者達に言った

「病身者がかかる振る舞いいたし候。無病の人たちはどうして功名無きか!?」

これに答える者は一人もいなかった。

(明良洪範)




369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:55:23.56 ID:NHQhAPWH
浅野家(含む一門)家中で活躍する者
病身者の永田さん、茶坊主の上田さん、さて次は?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 20:07:39.05 ID:R4D+AFtJ
大石内蔵助

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 16:07:17.20 ID:Lv7rbv73
まあ答えられないからって反省したり考えを改めたりしたわけじゃないんですけどね

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 17:22:35.87 ID:71cO/wZg
それはそれでダサいな

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 19:37:34.02 ID:zKaBtR1k
生きてる価値ないよね
もう死んでるけど

講談の終わったあと幸長は

2014年04月07日 19:02

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 21:23:49.73 ID:cC/WF0ye
藤原惺窩が浅野紀伊守(幸長)の邸宅で、孟子一段を講談したことがあった。
このとき講釈したのは、『生於憂患而死於安楽』(憂患の有る時には生き、安楽な時に死ぬ)という段であった。

講談の終わったあと幸長はこのように言った

「私は石田治部(三成)と仲が悪かった。治部が生きていたころは、彼に隙を与えまいと、身を謹んで
人に非を入れられないようにし、体も健康であった。

今は治部も死に、その上御所様(徳川家康)とは懇ろな関係で、(その頃未だ徳川と関係の悪かった)
佐竹や島津とも特に何かあるわけではない。だがこれによって気が緩み、却って病気になってしまった。
賢人の言葉というものは、少しも相違がないものだ。」

(老人雑話)

敵の喪失により自分も弱ってしまった、という浅野幸長の述懐である。




884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 21:58:10.77 ID:xy6/elfq
真田のお兄ちゃんの死因が判明

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 23:24:26.40 ID:J+qydBC1
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4598.html
既出

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 23:26:37.45 ID:J+qydBC1
しかし、島津、佐竹についての訳は違うな

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 05:54:20.28 ID:koYRP92t
島津・佐竹についての部分の解釈も、真田のお兄ちゃんとの関係を見出す住人の解釈も真逆の印象

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 22:59:40.77 ID:4AKn74+k
>>883

親父は関ヶ原後の大坂城城内をみて「治部少がいた頃はこんなことはなかった」と嘆き、
息子は「治部少が生きていたころは、緊張して身体健康だった」と言い....
何だこの親子

895 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/07(月) 23:11:03.96 ID:FBU9TbXr
ツンデレやな~

松原内記刺殺事件顛末

2014年02月02日 19:06

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 20:35:03.48 ID:hYoT6XAn
慶長14年(1609)5月18日、紀伊国主である浅野幸長の用人(近習)であった松原内記が、
左内と言う者(年齢17歳)に刺し殺されるという事件があった。その内容はこのようなものである。

この左内という若者は京都の人間であったが、浅野家に奉公したいと思い、そのために紀伊に下ることを、
つてを以って松原内記に言い送った。松原はこれを承知し、紀州に下ってきた左内を招き、小袖などを
与えた。

ところが、この時松原は左内を一目見て恋慕し、幸長に紹介せず、彼をわたくしに抱え置き、
懇ろに遇した。

そのような中、6月になって丹波国に普請があるということで、松原内記浅野幸長の命令により
丹波へと行くこととなった。

この頃までに、松原が密かに抱えた左内の事は内々に幸長の耳にまで入り、幸長は内記を一目見たいと
度々松原の屋敷を訪問したのだが、松原は深く彼を隠したので、終に見ることが出来なかった。
しかし松原は、自分が丹波国に行っている間に幸長に彼の事が露見してしまうと恐れ、左内を
自分が出発する20日前に、人を付けて京都へと密かに行かせた。

ところが、この後書状が左内に送られ、そこには『今後松原内記はお前を相抱えない』とあった。

左内はこれを見ると大変に怒り、父母親類にも隠して紀州へとただ一人下り、松原内記の屋敷に忍び込み、
彼が居間で寝ているところを、大脇差を以って三刀で殺害した。そして自身も、その場で自害した。
左内という若者は、大変美麗であったそうだ。

しかしこの事件は、近習を殺された浅野幸長を激怒させた。彼は左内の紀州への奉公を助けた
京にいる彼の叔父の坊主が、この件に関して内々に知っていると考え、大御所徳川家康の居る
駿府の奉行達、並びに女房衆に、この叔父を抑留するよう申し送った。

これを家康は承知せず、また京都所司代の板倉伊賀守も、この件に関しては「浅野幸長の存念は
然るべからず」と発言した。京畿の庶民たちも、「これは紀州殿(幸長)が筋の通らない事を言っている」
と批判した。

それでも浅野家では、「この事をこのまま放置してしまえば、我らの京都での外聞然るべからず」と
しきりに駿府に訴え出たため、駿府でもこのまま黙視することは出来ず、かの叔父の僧侶を
11月に浅野家に引き渡し、彼は牢に入れられた。

(当代記)

浅野家における、衆道がらみの事件の顛末である





浅野長政の約束

2013年09月07日 20:02

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 18:06:04.11 ID:7bpdfZ+l
天正十九年、豊臣秀吉は南部信直の老臣、九戸政実が陸奥国において諸士を集めて
近郷を掠め、土民を悩ましていると知ると、関白秀次を大将として進発させた。

この時、仕置軍の攻撃に城を保ち難く感じた九戸政実は、九月七日の夜、密かに
浅野長政の陣所に行き「信直の本領を安堵してくださるなら速やかに城を退く」と告げた。

長政はこれを許諾し、政実と南部の家臣、櫛引出雲某を許し、その他数百人を焼殺した。
八日、政実と久慈備前某を連れて、秀次の陣営は会津に至るところであった。

その時、秀次は、「長政が我が命を受けずに政実を許したことは無礼である」と怒り、
長政に命じて中途で政実を誅殺した。凱旋の後に南部家の所領に差し障りがなかったのは、
長政が先の政実との約束を違えずに言上したからであった。

――『寛政重修諸家譜』





浅野長晟は碁石を

2013年09月03日 20:02

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 18:13:10.59 ID:ozVi0goc
浅野長晟は、幼い時より豊臣秀吉の側に仕えた。
ある日、秀吉が徳川家康と囲碁をする時、長晟は碁石を温めて献上した。

家康はその気の利いている事を褒め称え、長晟が成人した後、
常にその人となりを称誉していた。

――『寛政重修諸家譜』




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 19:05:16.62 ID:vp2wnvDa
幽斎様が冷やし碁盤はじめました

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 12:12:10.81 ID:iO7OvFGN
碁石を尻に敷いて暖めていたのか

浅野幸長「大膳よ、必ず沖を通ってはならん」

2013年08月27日 19:52

213 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:28:53.20 ID:E86BTfVu
あるとき、浅野幸長は病と称し、江戸に出仕しなかったことがあった。
当時は大名同士が互いの国元へ見舞いに赴く事は禁じられていたのだが、
そんなとき、突然黒田長政が海路より紀州に見舞いに訪れたのである。

城内に通された長政は幸長と終日話をしていたが、夕刻になると長政は
洲本に供船を待たせているのでそろそろ戻らなければならない、と言って帰ろうとした。
ところがこれを聞いた幸長は、

「今日は泊っていった方がいい。ここの湊は見た目と違って中々難しい湊で、
小船でさえすぐに出すのは難しいし、まして夜に大船を出すことなど出来ないのだ。
是非泊っていくといい。見舞いに来た人に怪我などさせてはこちらの外聞が悪い。」

と言って長政を引き留めるので、その夜は人払いして夜通し物語などしていた。

次の日の早朝、茶の湯をした後で長政は出発することになった。
幸長も見送るからと、大船三艘に古老や覚えある侍らを乗せて出てきたのだが、
幸長は長政に自分の家老や物頭らを
「これは何々と申す者、どこそこの戦いで功名を顕した者、あの者は云々…」
と一々紹介してくれるので、長政もまたその者らに一々会釈をしていた。

幸長は川口まで長政を見送り、
この先の見送りには案内人として、小姓上がりの永原大膳を付け、小舟で先導させることにした。
幸長は大膳に、

「大膳よ、必ず沖を通ってはならん。
わしは数年来、松江浜を経由し、加太の田倉崎へ行くようさせているからな。」

と申し付けた。
そして長政と大膳は幸長らと別れ、大膳は言いつけ通りの航路を通り中松江に差し掛かった。
ところがその海域に差し掛かると大波が押し寄せ、それを被った長政の船は水浸しになってしまった。
さらに、船の者たちが騒ぐ間に2つ目の大波まで押し寄せ、それをも被ってしまったのである。
大膳は混乱しながらもどうにか下知して船を出させ、洲本まで長政を送り届け、
長政は礼に刀をやって大膳を帰した。

一方の幸長は川口浜に幕を張り酒宴をしていたが、大膳の船が見えたと聞くと
何やら楽しみそうな様子でその帰りを待った。

214 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:30:55.46 ID:E86BTfVu
戻ってきた大膳は一通り送別が済んだ事を報告したが、
それを聞いた幸長は不満な様子で「それだけか?」と尋ねた。
すると大膳は顔を真っ赤にし、ややあってから

「さても今日は迷惑なことでした!
黒田様の船へ大波が二度も流れ込み、黒田様は船屋形の戸を立てていたので
大丈夫だったでしょうが、他の者らは皆ずぶ濡れになり、酷く迷惑いたしました!」

と答えた。
これを聞いた幸長、大いに機嫌が良くなり、

「わしが聞きたかったのはそのことだ。
わしが小姓から取り立て、馬前で役に立とうというお前が、
その程度の事に気がつかない訳がなかったな。

そもそも筑前めが、家康の内意を得ずに見舞いになど来るものか。
この幸長が色々病気だと言って江戸や駿府に行かないので、
様子を見て来いと言われて来ただけの事だ。ただの見舞いのはずがない。

そういうことだから、明日にも幸長を退治せよとなれば、
西国から筑前が、紀州の湊に通じているからと先手となり船で攻めてくるだろう。
そうなると面倒なので、今日は筑前に波を喰らわせ、紀州の湊は中々難しいと筑前に思わせてやったのだ。
これを聞いて西国の奴らは皆怖れるだろう。
そして和泉路から来るには山越えになるから、こちらが勝つのはたやすい。」

と理由を説明し、
「それにしても筑前めの肝を潰してやったわ、満足満足」
と上機嫌で幸長は城に帰ったのであった。

(浅野長政公伝)より


長政、幸長の罠に嵌って酷い目に遭う、というお話。
前半部分で幸長が長政を引き留めたり、長々と家臣を紹介したりと
時間を稼ぐような行動をしているのは、恐らく夜や早朝に帰られると
海が凪いでいて、威力のある大波を喰らわせられないためと思われる。




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 10:12:01.09 ID:Q+yKU0Wp
>213
腹黒っ!NAGAMASA(浅野の方)も宇都宮や九戸でも腹黒い事してたよな。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 14:14:22.89 ID:sQ4s80q3
>>213
見舞い禁止されてるのに、大して親しくも無いのが来たら警戒するよな

豊臣家と紀州浅野家とのやり取り

2013年06月23日 19:04

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 21:48:10.40 ID:enzeKdNq
元和元年(1615)4月15日、大阪夏の陣が始まろうとしている頃である。
大阪の豊臣家より使いの吉村兵左衛門が紀州浅野家に下り、家老である浅野右衛門太夫、
浅野左衛門佐、亀田大隅守高綱に豊臣家の意向を仰せ下した。その内容は

『但馬守殿(浅野長晟)に対しては、秀頼公の元を遁れるようなことがなかったので、
疎意に思われるようなことが無かったのに、去年の冬、大阪表に幕府方として出陣してきたことは
全く意外に思われました。

故太閤殿下のよしみを忘れられていないのであれば、我らのお味方として頼りたいと思し召しに
なっております。

但馬守殿の家老であるあなた方3人にも、頼りたいと思し召しになられています。
もし我らにご同心なされるなら、但馬守殿には千枚分銅金(大判千枚分の金)を3つ、
3人の家老たちには1つづつ下されます。
また3人の家老には、秀頼の旗本の騎馬の武士30騎まで預け、直に召し使うことを認めます。』

という内容であった。3人の家老は亀田大隅の所に集まり相談した。

「仰せ下さった趣についてであるが、我らが主人である但馬守様は、関東の御取り立てによって
紀州の主と成ったのであるから、大阪に一味するなど考えられもしないことだ。
そうである以上これは、但馬守様に申し上げるにも及ばぬことである。」

こう結論し、大阪への返答には
『仰せ下さった上意について、畏まり存じ奉ります。
但馬守については、関東の芳恩を蒙っており、仰せ下された趣はその意を得ません。
ですので、御使者をお返しいたします。』

こう吉村兵左衛門に申しわたし、彼を帰らせた。
すると同月20日に、吉村兵左衛門が又もや罷り越し、今度は大野修理(治長)からの承りであると、
3人の家老に書状が下された。大野の書状の内容には

『自分達は兎に角、但馬守殿を味方として頼りたいと考えている。もし気持ちを変えて頂けるのなら、
今の紀州の領地に、大和国を添えて遣わすであろう。
浅野左衛門佐には摂津国を、浅野右衛門太夫には和泉国を、亀田大隅守には河内国を与えよう。』

これに3人は再び集まって相談し、一同に言ったことは
「どのように仰せ下されようとも大阪方に御味方するなど出来るわけがない。
しかし御使が2度にまで及んだ以上、但馬守様にこの事を申し上げ、お返事をして頂かなければなるまい。」

そう考え3人は、浅野長晟にこの事を申し上げた。長晟は聞いて
「お前たち3人はどう思うか」と尋ねた。これに浅野左衛門佐が答えて

「先々代の弾正様(長政)、先代の紀伊守様(幸長)は確かに、故太閤殿下の御厚恩を受けられました。
しかし但馬守様は家康公の御恩を蒙り、今の身代があるのです。そうである以上、我々は並びなき
関東の御味方であると、私は存じ奉っております。」
と申し上げた。長晟は再び「残る両人はどう思うか?」と尋ねた。
これに右衛門太夫も大隅も、「全く左衛門佐の申し上げたとおりです。」と答えた。

長晟は「では、そのように返答するように。」と仰せ付け、3人は『どうあっても御味方することは出来ない。』
と返事をし、吉村を返した。

こういう所に京の板倉伊賀守殿より、浅野長晟に飛脚が到来し、
『日本の大名衆は何れも領国を出立し大阪表へと出陣しているのに、但馬守殿はどうして遅参しているのか』
と申し越してきたため、長晟は「急ぎ出立する!」と、陣触れをされた。
(龜田大隅守高綱泉州表合戰覺書)

大阪夏の陣直前の、豊臣家と紀州浅野家とのやり取りである。





ティアン・キット侍従より、フィリピン総督への書簡

2012年12月01日 19:53

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 14:37:03.30 ID:Ss79z7lE
天正19年(1591)ティアン・キット侍従より、フィリピン総督への書簡

『今より前には、嘗ては互いに通信したことなしと雖も、礼儀を尽くしてこの書簡をしたためる。

我が偉大なる主君関白は、来年戦争を行わんため中国に向かわんとしている。もし同国が、他の諸国とともに
降伏し貢物を送らざる時は、仮に遠しと雖も、戦士を派遣してその国を占領せいむべし。
これ故に、付近の諸国はみな降伏して命令に服従している。

貴殿の富める国に対しても、また戦争を行おうと考えていたが、原田(孫七郎)が関白の顧問会議の一員である
何某に告げ、同人が関白に告げた所によれば、もし日本国およびその宮廷において決定したるところを通知せば、
必ず貢物を贈るべきが故に、戦を行う必要なしとの事であった。
右の意見に従いて、この書簡を贈る。

私は当国の大官の一人であり、我々が速やかに相まみえられるよう、この書簡の如くいたせば、
貴国は安全に眠れることを得るであろう。

恐れること無く、躊躇すること無く、私が派遣する人物、すなわち私の通事に一切の秘密を語れ。
適当なる、敬意を表す。

天正十九年九月十一日。シャウリュウキュウ発(地名らしい。不明)。執事』
(異国往復書簡集)

この「ティアン・キット侍従」なる人物、浅野長吉、すなわち浅野長政であったらしい。
長吉→チョーキツ→ティアン・キット、となった模様。

大陸出兵と同時期に進められていた、豊臣政権によるスペイン勢力への圧力の一端である。




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 14:50:54.49 ID:63HARdOs
なんちゅう傲岸な

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 15:29:29.94 ID:3tkmdVk/
フィリピン総督「こいつアホだ」

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 19:37:14.75 ID:xmo7rtAl
>>577
19年9月って九戸なんとかの乱のころ?
忙しいな

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 19:39:54.21 ID:5YiYLZ5M
九戸政実「なんとか扱いされてしまった…」

浅野長政の家臣と「ニッカリ青江」

2012年11月28日 19:46

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:45:36.79 ID:cXcv4PNS
浅野長政の家臣が、夜道を歩いていると若い女が佇んでいてこちらに
ニッカリと笑いかけてきた。
この男はこんな夜中に若い女がいる訳が無い、これは物の怪の類に違いないと思い
一刀で女の首を刎ねた。

翌日、同じ場所を通ったが女の死体はみあたらず、そこには首の無い地蔵があったという。

この男の刀は備中青江貞次作のもので以後は「ニッカリ青江」と呼ばれたという。(常山紀談)




515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:47:09.43 ID:CgL4870A
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2959.html
こっちには異説が

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:55:55.27 ID:cXcv4PNS
>>515
ニッカリ青江の話はいくつかパターンがあるが
今、丸亀市立資料館にあるニッカリ青江は脇差なんだぜ

http://www.city.marugame.lg.jp/institution/culture/01.html

橋本六郎の腰兵糧

2012年09月20日 20:30

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 18:50:17.79 ID:mT5W41pB
慶長の役の時のこと。蔚山築城に伴い、城外に駐屯していた浅野幸長は、明軍の奇襲を受けた。何とかこれを防ぎ
退却する奇襲部隊を追撃した幸長だったが、この退却は偽装であり、浅野勢は伏兵に囲まれ、窮地に陥った。

浅野勢は大将の幸長みずから鉄砲を連射し、槍を振るい反撃したが、あるいは討たれ、あるいは散り、
城の惣構に逃げ着いた時には、幸長に従う者は重臣の浅野河内守と、徒歩武者の橋本六郎のみとなってしまった。

「ようやく逃げおおせたか。やれやれ、安心したら腹が減ったのう。」
「殿、これを。」

やっと一息ついて飢えを漏らした幸長に、六郎は腰の袋から握り飯を三つ取り出し、一つは幸長に献じ、
一つは自分で食い、残る一つを再び腰袋に収めた。
「おっ、良い物を持っておるではないか。残る一つ、わしにくれぬか?」

六郎の様子を見ていた河内守の頼みに対し六郎は、この重臣を睨みつけて答えた。

「これは、拙者の予備食にござる。いざという時はこれを食って最後の力を振るい、殿の馬前に果てる覚悟。
貴殿こそ、お家の重職たる身が腰兵糧の用意も無く、どうして戦陣に臨んでおられるのか?
今日、奇襲に敗れたのも貴殿らの、そのような用意の無さゆえではありませぬかな。」

戦後、日本に帰った幸長に河内守は、六郎を己の組下にする事を望んだが、河内守の心底を見抜いていた幸長は
ついにこれを許さなかった。(近古史談より)


橋本家は、芸州浅野藩家臣として永く続いたという。
島津家・中馬大蔵と浅野家・橋本六郎、どこで差がついたのか 慢心、環境の違い




496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 18:58:25.28 ID:6+IZfnb9
橋本六郎の場合は幸長に食わせたほうが
中馬の場合は駕篭かきに食わせたほうが
それぞれの主君の生き残る確率が高くなるわけで
なぜ差がついた、とか言われなきゃいけないのかがわからない

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 19:46:43.89 ID:htmcZuen
>>496
半ばネタなのに思いっきりマジレスせんでも…

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 22:35:28.68 ID:wUnYQsSP
さり気なく河内守が屑過ぎw

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 23:39:52.44 ID:7951B03d
なんの糧食も持たずに戦場に行くとも考えられないし
河内守は自分の分があるにもかかわらず六郎に良い物持ってんなって言ったんだろうか

もしそうなら河内守は仲間を盾にして逃げおおせたような奴なんだろうな

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 23:45:18.01 ID:pQEoZRdk
自分の家人に持たせてたけど、死んだかはぐれたんでしょう

浅野幸長は一計を案じた

2012年09月04日 20:51

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 23:36:49.60 ID:z0uybhUz

石川五右衛門が出没していた頃のこと。朔望(陰暦の1日と15日)など登城の日に、
五右衛門は人々に混じって聚楽の城中に侵入し、自分のなまくら刀を他人の
良刀とすり替えていた。

人々は五右衛門の悪さに憤りを覚えてはいたがどうすることもできないでいた。
そんな時に浅野幸長は一計を案じた。玄関で従者に刀を渡して置き、短刀だけで
登城するようにしたのだ。

人々は幸長の智恵に感心してこぞって真似をするようになった。これによって
五右衛門の策略は大いに阻まれたという。またこれを境にこの習慣が士風となった
ということである。

――『名将言行録』





344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:27:27.96 ID:vCHaTzWD
石川五右衛門については数多の俗説伝説があるよね
元々は伊賀忍者で、百地丹波と不仲になり抜け忍となった者だというのもその一つ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:36:48.38 ID:0vYdCqOT
釜茹での話も色々あるよね

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:53:39.75 ID:vCHaTzWD
住んでる地域に五右衛門というパスタ屋があるのだが、
もしかして「釜茹で」で天下の大泥棒とパスタかけてるのか?
と、ふと思った・・・

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 13:54:23.27 ID:B7gmyh/L
実際は油揚げだし…(´・ω・`)

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 14:54:16.33 ID:vsfNtztb
ゴエモンは釜煎りだったって説と途中まで熱湯で油を足したって説もあるみたい


349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 15:15:16.92 ID:toG6VeEQ
天ぷらになって家康を殺したんだっけ

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 16:23:47.36 ID:tbL+Xau1
揚げてたのか…油がもったいない

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 17:18:49.30 ID:kKXWwvby
高価な油をふんだんに使うというもったいないことをわざわざして
関白の威光を天下に見せつけた、と聞いたような

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 17:49:17.22 ID:vCHaTzWD
泥棒犯罪を防ぐ抑止力としての刑の側面も言わねば片手落ちだろう

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 00:04:47.76 ID:LHDOh62O
>>348
熱湯に油足すなんて想像しただけでとんでもないことになりそうなんだがw