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「武家閑談」から上田宗箇(上田重安)

2023年03月05日 16:11

698 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/05(日) 01:02:03.61 ID:aoFtKw4a

武家閑談」から上田宗箇(上田重安)
上田主水入道宗古(宗箇)は関ヶ原の時に三成方にむいたため、浅野幸長に預けられた。
それまでは一万石で、明智光秀逆心の時に織田七兵衛信澄(津田信澄)の首を取ったこともあったが、元来茶の湯で名が高かった。
ある時、和歌山の堀で普請があり、宗箇は大石を引いてきた。
柿の木綿羽織で馬に乗っていたがあきたのか、舟の舵を大紋につけ、渋手巾で鉢巻し、石の上に登って下知をした。
若い侍どもは「殿様はなるほど大名だ。なにせ一万石の茶坊主を抱えているんだから」と嘲笑った。
そのことが家中に知れ渡ったため、浅野幸長は宗箇のことを気にかけ、諸士の前で宗箇に脇差を賜り
「家中で何かと批判されているが気にかけるな。一大事の時に役を勤めてくれ」と言った。
宗箇も脇差をいただき「この脇差を血をつけることを願って、忍びましょう」と退出した。
家中のものはまた笑って「拝領の脇差に何の血をつけるのだろう。ネズミか?猫か?」と嘲った。
幸長死去ののち、大坂の陣で元和元年(1615年、ただし元和改元は大坂の陣後)四月二十九日に泉州樫井合戦で上田宗箇は一番槍をなし、しかも山縣三郎右衛門を組み打ちにした。
浅野但馬守長晟の本陣に参ると、長晟は感悦至極であった。
宗箇は座を立って「みなみな以前我を茶坊主と申し、そののち幸長様が脇差を下さった時、我が「この脇差に血をつけましょう」と申すと「茶坊主が武道とは」とまた嘲りましたな。
今日は茶道の宗箇ほどの働きをした方はいないように見えますが」
と言うと、誰も一言も言わなかった。



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「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆

2023年03月04日 17:57

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/03(金) 20:05:29.67 ID:OTZl9wjf
武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆

広島浪人所持覚書によれば、浅野但馬守長晟が大坂に在陣している最中に熊野北山一揆が起きた。
一揆の大将は、大嶽の前鬼津具および山室という者だったという。
長晟より熊沢兵庫を大将として討手を派遣した。
前鬼津具は熊沢が大軍だったため新宮から西の川へ逃れ、雪に降り込まれ凍え死にした。
和州川井村の一揆の大将山室は北山へ逃れたため、熊沢が追いかけると、山室は一揆勢に下知して二、三度防戦して退いた。
熊沢兵庫はそれでも追いかけ、大沼村・竹平村の間に迫った。
山室は川を渡り上り、岩の陰で隠れ、熊沢を待ち受け、太刀打ち、組み打ってるうちに兵庫が下となった。
そこに長田作兵衛が駆けつけ、山室を突き倒し、首を取った。
兵庫と作兵衛が山室の首をそれぞれ自分のものだと主張したため、溝口五右衛門は進み出て
「兵庫が初め太刀打ち、組み打ちしていたのだから作兵衛は援助したということになる。
高名は兵庫のものだ」と山室の首を兵庫に渡した。
溝口の裁判が良いと思ったため、書き留める。

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/03(金) 20:19:36.10 ID:tsS3dxGo
「和歌山県史 近世史料三」の「七 一揆・騒動」に収録されている、慶長の時にまとめられた「北山一揆等取集書付」にも同じ話が見える
「熊沢兵庫川井村山室討候節ハ互ニ太刀打致、夫ゟ組合兵庫を組伏候所へ永井作兵衛出合山室を鑓にて突首を取、
其時兵庫と作兵衛論ニ成を溝口五右衛門と云者申候ハ、作兵衛手柄之程我等見申候、
首ハ兵庫組之旨兵庫へ首ハ渡候へと被申」

また後呂忠一「北山一揆について」という論文から孫引きとなるが
「自得公済美録」(浅野家の家史「済美録」の浅野長晟の代)に北山一揆についても記されていて
・河井村の山室、善鬼の津久、堀内将監、中村某、小中某は五鬼として知られていた
・熊沢兵庫が大沼村へ行こうとした所、五十才ばかりの夫婦を見つけ打ち取ろうとしたが、甲冑をつけていたために逆に組み敷かれ、女が持ち出した松割包丁で殺されそうになった。
そこへ新宮の住人永田五郎左衛門に助けられ相手の首を打ち取った。
首を調べるとそれは一揆の首謀者の一人、山室鬼助であった。
と書かれているとか。

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 07:22:41.41 ID:QrIMP5Y9
2021年1月6日の朝日新聞デジタルの記事に五鬼について書かれていた
「私は鬼の末裔」記者に断言 熊野「五鬼」姓の謎を追え
>伝承の舞台は奈良県は下北山村の前鬼(ぜんき)集落。
>今から約1300年前、前鬼、後鬼(ごき)という鬼の夫婦がいた。この夫婦は山で修行する修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)の姿に心動かされ、仕えるようになった。
>そして「里へ下りて人として生活しなさい」との命を受けて暮らしはじめたのが前鬼集落だったという。
>前鬼と後鬼の5人の子は、修験者を世話する五つの宿坊を開いた。それぞれ「五鬼童(ごきどう)」「五鬼上(ごきじょう)」「五鬼継(ごきつぐ)」「五鬼助(ごきじょ)」そして「五鬼熊」と名乗った。



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 09:48:16.36 ID:83OMXFqB
鬼といえば人喰い

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 09:52:42.48 ID:CiDNdMPi
ここから戦国時代にどう繋げるのかなと思ったんだけど終わりなのかな?

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 13:06:52.06 ID:7UlQfOc/
IDが変わっていて、わかりづらくてすいません
朝日新聞の五鬼の記事について書いたのは、熊野北山一揆の指導者とされる
「河合村の山室(五鬼助?)」と「善鬼の津久(前鬼継)」がともに「済美録」では五鬼とされていて
五鬼の由来が役行者にまつわるという話がおもしろいため、付け足しただけです

691 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 13:09:53.89 ID:7UlQfOc/
またIDが変わってる。
>>685->>687は自分です

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 13:15:22.69 ID:Gyvr4Std
でどうやって繋げるの?

693 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/04(土) 13:29:25.72 ID:HF8bfFEn
毛利のところにいた世鬼は子孫かしら

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 13:53:57.64 ID:V+jxazcg
鬼小島が先祖です

697 名前:689[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 21:09:04.15 ID:/s1Ow7Jx
>>690
ああ、前の話への付記だったのね
こちらこそきちんと見てなくてごめん

698 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/05(日) 01:02:03.61 ID:aoFtKw4a
いえいえ気になさらず


705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 23:41:23.47 ID:h0QaWSzD
ついでにいい話スレに投稿した熊野北山一揆の話で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13841.html
武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆

溝口五右衛門という人物が出ているが
>>507の「新東鑑」の話のように(「武家閑談」でも同じ話が上田宗箇の後にある)、同じく浅野家の亀田大隅守高綱も元は溝口半之丞と溝口姓
「木村又蔵」という講談では柴田勝家の元にいたときに産女(うぶめ)の妖怪に会って怪力を得たことになっている。



「武家閑談」から大坂の陣の時の樫井の戦い

2023年03月04日 17:56

695 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 14:58:18.47 ID:7UlQfOc/
武家閑談」から大坂の陣の時の樫井の戦い

>>685の次の話
同じく広島浪人の覚書の樫井の一戦によれば
(大坂夏の陣の一戦、熊野北山一揆と同じ頃)
紀州勢(浅野)は八丁畷から樫井町に入り、亀田大隅守(亀田高綱)は大梨打の兜、鷺の芦毛の羽織で人数に下知し殿軍した。
その武者使いはなかなか見事であり、良き大将に見えた。
樫井町に三丁ばかり乗り入れた所に大坂方がやってきたため亀田が向かうと、岡部大学(岡部則綱)がこの口にかかってきた。
亀田が町内に引き取ると、塙団右衛門(塙直之)勢、七、八十人ばかりが入ってきた。
上田主水(上田重安)は二十騎ほどで樫井町に潜んでいたため、塙勢が入ってきたところに一番槍で槍を合わせた。
上田主水配下の高川原小平太、水谷又兵衛、横井平左衛門が五、六人程で大坂方を追い立てると、亀田大隅守も上田主水に合流した。
大坂方は引き返し、塙団右衛門の家来の坂田庄次郎が真っ先に主水にかかってきたが、主水は槍で突き伏せ、小姓の横関新三郎に首を切らせ、足軽に命じて浅野長晟本陣に首を持って帰らせた。
また亀田勢は大坂方の山田五郎左衛門や金丸小膳以下数多を突き立てた。

696 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 15:01:17.76 ID:7UlQfOc/
橋のたもとで塙の家来、山形三郎右衛門(山縣昌重。山縣昌景の息子)が上田主水と槍を合わせたが、亀田大隅勢が大坂方を追い立ててきたため少し下がった。
主水が「上田主水である。引き返して勝負せよ」と山形に声をかけたため、山形も引き返した。
主水は槍で打ったが、槍の柄が真ん中から折れてしまった。
間髪入れず山形は主水を組み伏せた。
小姓の横関は主人を助けようと山形にかかったが、山形は横関をも同様に押し伏せてしまった。
上田主水配下の横井平左衛門は大坂方の一人を家の軒下に突き伏せつつ、主水に呼びかけたが返答がなかった。
振り返ると主人の主水は組み伏せられ、半月の立物も落ちていたため、突き伏せていた敵を捨て、平左衛門は主水の上に乗っている山形の高股(たかもも)を切り落とし、引き倒した。
主水は起き上がり「その首は小姓の新三郎に取らせよ」と命じたため、新三郎の高名となった。
横井は山形の下人をも切り伏せ、先程の首と合わせ二つ高名をなした。
塙団右衛門は田子助左衛門と渡り合っていたが、田子が放った矢が団右衛門の上帯に当たり、いきりたった団右衛門は十文字槍で田子の弓の弦を切った。
そこへ八木新左衛門が来て渡り合い、団右衛門は手負であったが果敢に戦い討ち死にし八木が首をとった。
こうして大坂方の討ち死には、芦田左内、横井治左衛門、山田権三郎、須藤忠右衛門、熊谷忠太夫、徳永浅右衛門、坂田庄次郎、山形三郎右衛門、そのほか四人で都合十二の兜首となった。
首を二条城へ持ち帰り、浅野長晟からこの旨報告した。



長晟は長重を諭して言った

2022年08月05日 18:31

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/04(木) 21:03:34.37 ID:yLplrfvZ
江戸城の石垣普請を、浅野但馬守長晟に仰せ付けられた所、町場は深泥であったため、大木を
底に敷いたのだが、普請の半ばにおいて石垣は崩れてしまった。
このため「浅野家の身上危なかるべし」と人々に噂された。
そのため、舎弟である采女正長重は、兄長晟に対してこのように諌めた

「普請奉行にこの責任を取らせ腹を切らせ、公儀に陳謝されるべきです」

しかし長晟はこれを承諾しなかった。長重はいよいよ諌めた上で
「御為を思って言っているのに、用いられない」
と恨む色が見えた。

長晟は長重を諭して言った

「私は、浅野左衛門佐に命じて普請の名代とした。そして普請奉行は左衛門佐の下知を受けた。
であれば、石垣の崩れた事について、その罪は普請奉行一人のものではない。
罪があるとすれば、先ず私に帰す。その次が左衛門佐である。

身の難を逃れるために罪なき者を弑する事は不義であり、私はそれを見るに忍びない。
その方はそんな心である故に私は、庶流を以て嫡流を簒うのではないかと畏れる。

義は上下ともに武士の守る所である。義を捨てて利を取るのは商売の風である。
今、試みに武士に対して「商売の風あり」と言えば、その者は必ず怒って悪声を
復そうとし、猶も止まらない時は刀によって殺すだろう。
その名を外に恥じて、その実を内に省みるべきではないだろうか。」

このように申すと、長重はこれに答える言葉も無かったという。

新東鑑



石川五右衛門の一計も絶えて

2022年07月30日 15:49

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/29(金) 20:17:48.73 ID:yuTGgqLc
石川五右衛門という盗賊は、大小名、諸士群参の日、大阪並びに聚楽の営中に紛れ入り、
諸席に置かれている重代の宝刀、或いは鋭利の良刀を、自分の鉛刀に代えて帯し退き出た。
このため、すり替えられた者達で心ならずも惰弱の汚名を被り、歯噛みをして憤る輩数多であった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関にて刀を従者に遣わし、短刀だけで営中に登った。
衆人はその才智を嘆美し、これに倣い、皆家従に刀を持たせるようになったため、石川五右衛門
一計も絶えて、その後営中に紛れ入る事もなくなった。
またこれよりこの事が士風となったという。

新東鑑



奸臣・石田三成と忠臣・浅野長政

2022年07月10日 13:10

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/09(土) 21:34:26.58 ID:2gq925Tz
朝野雑載」から奸臣・石田三成と忠臣・浅野長政

太閤は薨ずる時に「喪を秘すように」と御遺言されたにもかかわらず、石田三成は家臣・八十島助左衛門を家康公に遣わして告げてしまった。
その後、浅野長政が「太閤口切の茶壺です」といつものように家康公に持ってきたが
家康公は顔色を変えて「茶壺は庭に捨てよ」とおっしゃった。
浅野があわてて理由を尋ねると
家康公「すでに太閤が薨じられたことは石田から聞いているので、このような策略は無駄である。
だいたい貴公は昔、太閤から御勘気があったのを、我が取り直したというのに忘れられたのか」
すると浅野長政が「ああすでに石田が申したのですか。
わたしも貴殿の旧恩を忘れたわけではありませんが、御遺言ということで近臣みなで喪を秘すべし、と誓ったのに。
すぐに破るとは神罰を省みない不義の至極であります」
と申したため、家康公も御心をやわらげた。
そののち三成が佐和山に蟄居になったのち、家康公は何を思ったのか、空き家となった大坂の石田三成の屋敷で居住なさった。
そののち、家康公は西の丸に移られるということで増田長盛・長束正家は家康公のために大広間と天守を建て奉った。
増田・長束は大広間・天守を進上しただけではなく、土方雄久・大野治長・浅野長政の陰謀(家康暗殺計画)も告げるという、一国を賜るべき大功もなした。
それなのに関ヶ原ののち、長束正家は切腹、増田長盛は流浪の身となり、土方雄久と大野治長は召し出された。
また浅野長政は五奉行とはいえ秀吉公御台所の兄弟であった。
太閤の御遺命を守って内府に知らせなかったばかりか、内府を刺殺しようとしたため、いかなる刑罰にも値するところ、かえって子孫が代々繁栄するところとなった。
これも主君に忠を尽くしたのを、内府は賢将なので御心に感じなさったゆえであろう。
もしくは忠臣に天佑が味方したゆえ、かく栄えているのであろう。



拙者が鴟の十文字を持って備えておれば

2022年06月09日 17:33

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/09(木) 16:45:21.57 ID:QvziPqEU
浅野家の臣である亀田大隅守高総は、元、溝口半之丞と言い、若年より手柄高名ある大剛の兵であった。
忍・岩槻での武辺、泉州樫井にて鑓を入れた軍功、言葉に尽くし難し。

持ち鑓は下坂忠親の作にて、十文字であった。鞘は鴟(とび)の嘴にて、栗毛のなめし革、鞘は総青貝にて、
銅の金具であった。

さて、浅野家が担当する、江戸御城の石垣を築き立てて後、三度まで崩れた。徳川秀忠公が巡見の時、
亀田に対し「何故に石垣が度々崩れるのか」とお尋ねがあった。これに大隅は畏まって

「拙者が鴟の十文字を持って備えておれば、一度も崩すことなど無いと存じ奉っていますが、石は
非情の物でありまして、仕るべき様が無いのです。」
と申し上げた。

さて、御普請が終わると、亀田は秀忠公より、鹿毛駮の御馬を賜った。
亀田は土井大炊頭利勝の家来・早川団右衛門に向かって

「公方様より御馬拝領仕り、有り難く存じ奉っているのだが、二毛の馬であり、外聞も如何かと思う。
御馬は如何様でもかまわないので、御替えして頂きたいのだ。」と訴訟した。
これを早川が大炊頭に伝えたところ、「尤も至極なり」と、他の馬を下されたという。

新東鑑

勇者だけどわりとユーモアもあるタイプなのか



508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/09(木) 17:39:18.61 ID:dZuFsclC
二毛=逃げかw

浅野但馬守は、紀州の仕置として

2021年06月27日 16:50

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/27(日) 02:12:37.60 ID:SutgLZQ7
大阪冬の陣の前、大阪方の評議に、

「和泉表では岸和田城に小出大和守(吉英)が、東方(幕府方)にて在城していますが、
六万石の領地にて、小身であり人数も少なく、東より加勢が有ったとしても、物の数ではありません。
ただし、紀州の浅野但馬守(長晟)が、東方であり後ろ巻をする可能性がありますが、
これも熊野の新宮刑部(行朝か)を大阪方に引き入れております。

これに一揆を扇動させ、但馬守は出勢出来ないように仕り、岸和田を乗っ取って、繋ぎの城とし、
紀州に攻め入って但馬守を打ち取れば、紀州・和泉の両国が手に入ります。然らば、
根を太くし帯を固くするの手立てとなります。

その内には、太閤厚恩の衆が東方にも多いのですから、内通もあるでしょう。
これ、一統の道なるべし。」

と決まった。

ところが浅野但馬守は、紀州の仕置として、郡郷村里に奉行代官を置き、地下の人質を取って
入れ置き、その家の廻りに焼き草を積んで、何事か有れば速やかに焼き殺すべき様に見せた。
また人夫に用いる者は、親子兄弟を別々に分け、夫々に配置した。
熊野山家、辺土幽谷の地は一層念を入れた故に。新宮は一揆の手立ても成り難く、延引して、
新宮は大阪城に籠城した。

管窺武鑑

浅野長晟の一揆対策について



只今秀吉公御死去

2021年04月29日 17:38

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/29(木) 14:39:47.50 ID:f09WRf9y
庚午(1630年)十二月に書写、丁巳(1617)年、池田光政様が御咄遊ばした。

秀吉公の御卒去は深く秘密とされたが、この時石田治部(三成方)より八十島と申す者が
使いとして、東照宮(家康)へ内密に申して曰く

「只今秀吉公御死去」

と申し上げた。

その後、秀吉公の御使者より東照宮に、蜜漬けが届けられた。
そしてその後、浅野弾正(長政)が御使として、御肴を持参して参られるということを
東照宮に申し上げた。

普段であれば、御使者が参った時は袴、肩衣を召して御馳走遊ばされていたのだが、
この時東照宮は以ての外の御様体にて、「弾正これへ」と召した。
弾正参り、御口上を申し上げた。
神君はややあって、以ての外の御機嫌にて

「今まで、死したる人の方より、使者を以て音信が有るという事は承ったことがない。
先程来た蜜漬けにも大毒満々たる故、この庭のふみ石にて打ち破って置いた。」と仰せになった。

弾正は
「そのようなことは有りません!」と色々弁明を申し上げた。
神君は
「治部方より御死去の日、注進があり、委細聞いたのだ。」と仰せに成られた。
浅野は申した

「石田を始め、堅く誓紙を取り交わしたというのに、彼が約束を変じた故に面目を失いました。
この申し分が実際の所であり、重ねて御奉公申し上げるでしょう。」
と申した。

その心の故に、関ヶ原にて御味方仕ったのである。

烈公間話



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 08:27:11.36 ID:yZrxDgdY
>>689
老人に甘いものは毒、もう糖尿病なんてあったのか

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 10:36:30.64 ID:xYlT6RcQ
>>691
米を大量に喰うから糖尿病(飲水病だっけ?)はあったけどこの文の趣旨はそれじゃない

主水は大筒の鉄砲を

2021年02月09日 17:21

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/09(火) 15:36:39.06 ID:PqG9b4iS
総じて茶の湯は、世を逃れ閑居隠者の成すわざであれば、不弁で粗略にして、潔いことを本とし、
元来は武道を本とした。

だからであろうか、上田主水(宗箇)の茶の湯の会に客が来て、くぐり(門)の開くのを待っていると、
主水は大筒の鉄砲を、玉を入れずに打ち放して、客を請け待ちしたという。

また多賀右近が雲州御在番していた折、茶の湯の時、花はなく、兜を置かれたという。
皆、その本を忘れぬ心であろう。

万事思い思い、心々なれば、是を是とり、非を非とするものではない。
ただ当然の理に従うべきである。

備前老人物語

大筒ぶっ放して歓迎したのか



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/09(火) 15:57:55.94 ID:qKBPvKTU
祝砲・礼砲の類と思えばそんなに変でもないな

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/09(火) 17:23:42.25 ID:Pi1XOIBZ
礼砲という儀式が共通認識としてあればいいが、なけりゃ威嚇か傾奇者の振る舞いだろ
確か、幕末に黒船がやってきて礼砲撃った時も幕府役人は礼砲を知らずに驚いたとかって話なかった?

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/09(火) 21:58:40.72 ID:J7DuuVcu
祝砲礼砲はイギリス海軍からの伝来じゃねえの?
日本にそんな文化ねえぞ

其方之者と不可存候、天下之者と可存

2020年12月08日 18:02

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/08(火) 17:27:09.40 ID:wHMS4+2V
(大阪夏の陣、四月二十九日の樫井の戦いの後)同日夜に入り、但馬守殿(浅野長晟)より、
大隅(亀田高綱)と上田宗箇に同心して山口まで罷り越すように申し来た。
早々に参上した所、但馬守殿は

「両人ながら呼び出したのは、今日の鑓の、一、二を改めたく思ったためである。両人共に、
今日の合戦での次第を有り体に申すように。先ず亀田より述べよ。」
との事であったので、大隅が合戦の次第を申し上げた

「上田とそれがしが鑓を入れたのは、多分同時であったと思います。しかし、あの時私の周りは
騒がしかったので、分明ではありません。」

そう申した所、上田宗箇は
「いや、左様では無かった。大隅は私よりも、五、六間先に行っていました。」

もう申し上げたため
「そういう事であるのなら、一番鑓は大隅、二番鑓は宗箇である、という事だな。」
と仰せになった。その夜はまた、和歌山へ罷り帰り、この次第は浅野家の諸侍何れも承っている。

大阪落城の後、上田宗箇と大隅は京の二条城に召された。家康公の御前へは、大隅が先に
召し出され、直に樫井合戦の次第をお尋ねに成られた。そして但馬守殿を御呼びになり、こう仰せに成った

「この亀田は、当代に至り、両度御用に立った者である。彼をただ、その方の家臣と存ずべきではない。
天下の者と存ずるべきである」
(此亀田儀ハ当代に至り両度御用に立候條、其方之者と不可存候、天下之者と可存)

誠に以て有難き御諚であると存じ奉り、涙を流して御前を立ちかねるほどであった。

その次に上田宗箇が雄目見得いたしたのだが、今度の骨折りによって(関ヶ原で西軍についたことの)御勘気が
御免となるとの御諚であった。

その日、将軍様(秀忠)にも御目見得をし、一番は上田宗箇であった。「茶の湯は上がられるか?」
とのお尋ねがあり、罷り立った。次に大隅が罷り出でると、今度の働きを聞き届けられて居られた。
これにて御振る舞いが下されたのだが、たいへん騒がしい時期でも有り、兵衛様(徳川義直・浅野幸長の娘婿)に
申し付けたので、早々に参上するように、との御諚であったので、罷り立った。
その日、上田宗箇は既に但馬守殿の元から立ち退いていたので、大隅一人が兵衛様の元に参上仕り、
御振舞を下された。保昌五郎の御脇差を拝領した。これは現在、善右衛門に遣わし置いてある脇差の事である。

(亀田大隅守高綱泉州表合戦覚書)

大阪夏の陣、樫井の戦いでの亀田高綱の活躍とその評価について



生於憂患而死於安楽

2020年11月24日 16:09

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 13:43:05.82 ID:tVvbLjeX
藤原惺窩が浅野紀伊守(幸長)殿の所で、孟子一段を講談した。
生於憂患而死於安楽(憂患の時は生きて、安楽に成ると死す)
という段であった。

講談後、紀伊守殿は
「私は石田治部(三成)と関係が悪かった。そのため治部存生の間は、励んで人から非を入れられず、
また身も健固であった。

今、治部が死し、その上御所様とも懇ろ、佐竹、島津などとは殊の外の待遇である。
しかしこれによって気が緩み、病気が却って生じた。
賢人の語、少しも相違これなし。」

と、云われた

老人雑話



719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 14:49:40.33 ID:N1fTShw8
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4598.html
浅野幸長「賢者の言葉に相違なし」


こっちは意訳のせいか微妙に違うような

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 17:09:25.07 ID:teRrzDH8
孟子といえば1616年に明で刻本された「五雑俎」卷四 地部二によれば

倭奴亦重儒書,信佛法,凡中國經書,皆以重價購之,獨無《孟子》,云:「有攜其書往者,舟輒覆溺。」此亦一奇事也。

孟子を船に乗せると沈むから孟子は日本にないとか
もし惺窩がなんとか中国に行けて科挙受けようとしたら
孟子も知らないくせに受験するのか?とかからかわれたかな

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 17:40:46.57 ID:ACrPSF1Y
しっかし、なんでこんなに儒教が広まるのは遅れたんだろ?
たしか戦国時代までは僧侶の間での教養レベルでしょ?

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 22:25:57.67 ID:SHF4mFjm
戦国時代は下剋上だしそりゃ広まんわ

長政はむかっ腹を立てたのだった

2020年07月23日 18:15

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 13:18:48.62 ID:eEqaTPVh
まとめの2593
家康と浅野長政、囲碁を通じた友情

の詳しいバージョンが「爛柯堂棋話」という碁関連の話を集めた本にあったので

権現様は囲碁友達の浅野長政とつねづね囲碁を楽しんでいたがある日は負け続き。
対局中、そばにいた本因坊算砂(囲碁の家元・本因坊の家祖)に
権現様が「この石を跳ねるしかないかなあ」と聞いたところ
算砂「おっしゃる通り、跳ねるしかないですね」
と言ったもんだから、そのまま跳ねたところ権現様の勝利。
長政は大いに怒り脇差に手をかけ、算砂に
「今度助言したら討ち捨てるからな!」と怒鳴った。
その後、また権現様が長政のところに来るということで、長政の末子の長重は
「父上、家康公との対局ではわざと負けてください」
と言ったが、長政は
「公相手だからと言って、勝てる碁にわざと負けろというのか?」と立服。
そして庭で毛氈を敷き、二人が対局をしていたところ、長則があらかじめ呼んでいた算砂が
「日差しが強いので傘をさしましょう」
と穴の開いた唐傘を、権現様にとって好手となる位置にちょうど穴からの光が当たるように置き
悟った権現様はそこに石を置き長政に勝利。
長政はむかっ腹を立てたのだった。



彼らを謀ったのである

2019年11月29日 16:55

628 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 14:29:18.61 ID:tnZCnaZ3
豊臣秀吉の小田原征伐に於いて、先に武州の石築、筑井の両城の攻め手として向かっていた
浅野左京大夫幸長、木村常陸介重茲、同伊勢守定重父子、赤座久兵衛直保、以下この方面が落ち着いた
ため人馬を暫く休めていた所、忍城が未だ落ちていないという事が笠懸山の本陣に聞こえ、秀吉より
急ぎ忍城攻めの加勢に向かうようにとの下知が有り、そこで直ぐに忍城へと向かった。

ここに、同国大里郡の久下城主、市田太郎という者があった。彼は武蔵七党の一員であり、また
重代の国侍であったが、僅かの分限であったので成田家の旗下に属し、当時は成田氏長の妹婿であった。
である以上、事ある砌は氏長より、忍城の留守居である成田近江守の助勢に駆けつけるよう定められ、
普段は久下を守っていた。この度は成田氏長、泰親兄弟が小田原に籠もったため、久下は小領であり、
また非常に僻地でも有ったので、そこは放置して忍城に籠もることを申し合わせ、本丸に入って
共に籠城した。

その頃、忍城では『小田原城内にて成田氏長が二心を起こし、上方勢に内通した。」との話が
聞こえてきた。そのため留守居の者達も両端を持す態度を取るように成り、市田太郎の姉は、北条方の
福島伊賀入道(賢成ヵ)の妻であったので心定まっているとして、市田並びに成田近江守を共に
持田口へ出して外郭の警護に当たらせた。

ところがこの処置に成田近江守は憤り、密かに浅野幸長の陣へ使いを立てて内応する旨を伝えた。
この事について、幸長の家老たちは石田三成に相談した所、三成は
「わが陣へも敵方より返忠の約を成す者があり、既に条件などを議定している。なので明日にでも
総攻めをすれば、簡単に城を乗っ取る事が出来ること疑いない。」
との返事であった。故に浅野家中はこれを事実と心得、軍勢の準備をした。

ところが、実は石田治部少輔は以前より忍城攻めのため在陣しているというのに未だ功を顕すことが
出来ておらず、加勢の手によって城を攻略されてしまえば面目が立たないと思い、浅野家を欺き、
彼らが功を立てることが無いように彼らを謀ったのである。

629 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 14:29:48.02 ID:tnZCnaZ3
こうして翌日、木村常陸介兄弟が下忍口に押し寄せ、持盾械盾を並べてその陰より大筒小筒を
激しく打ち掛け攻め懸った。これを見て城方は、坂巻靱負尉が合図の鐘を鳴らした所、近辺の持口より
援兵が出た。寄せ手は頻りに競い進んで深泥を踏み越え塀へ乗ろうとした所を、城兵が矢弾を
夥しく放ったために多くが討たれた。

浅野幸長は長野口に陣していたが、西南の方から鬨の声や鉄砲の音が聞こえてくると
「すわ、搦手にては戦いが始まったようだ、者共進め!」と長野口へ押し寄せ、堀を越え柵を破って
城門の際まで攻め懸ったため、城兵たちも「これは持ち堪える事はできない。」と思い、ここを捨てて
大手の行田口へ引き取りはじめると、幸長の家人である浅野平右衛門、沖小平太が真っ先に進み、
この撤退に付け入ろうと追いかけた。

城兵の柴崎和泉守、三田加賀守、同次郎兵衛、吉田和泉守、同新四郎、鎌田次郎左衛門、秋山宗右衛門、
成澤庄五郎らがこれを支え防ぎ戦っている間に、雑兵たちは尽く行田口に逃げ入った。
浅野、大谷、松浦、鈴木の軍勢が既に大手の橋前まで詰め寄せたが、この八騎が橋詰にて踏み堪え、
槍衾を作って防いだため、寄せ手も更には進みかねた。

この時城中より、今村佐渡守、福島勘解由、坂本将監、島田出羽守以下三十余人が城門を開いて
突いて出、先の八騎の武者と一体となり、ここで敵も味方も勇戦し、寄せ手の浅野平右衛門が
討死し、沖小平太も福島勘解由に討たれ、大谷家の家人である飯沼主水正は今村佐渡守に組討され、
同じく家人の高田喜太郎も島田出羽守に付き伏せられた。これによって寄せ手が怯んだ様子に、
城方は「良き頃合いである。」と城に引き上げたが、城方も成澤庄五郎、秋山宗右衛門が討死し、
鎌田次郎左衛門は食い止められ橋の上で鑓を合わせていたが、彼は覚えの者であったので、鑓で
戦いながら「城門を早く閉ざせ!」と叫んだ。そこで城兵が木戸を閉めている間に、鎌田はそこで
討死した。彼の死を惜しまぬものは居なかった。

寄せ手は城門を破ろうと、寄り集まって押し掛けたが、最初の合図の鐘を聞いて佐間口を固めていた
正木丹波守以下五十余人が町家を廻って寄せ手の弓手に向けて鉄砲を撃ちかけ「裏切りが出たぞ!」
と叫んで真っ直ぐに打って掛かった。寄せ手は敵の規模を知らず多勢であると思いこみ、とうと崩れて
引き退いた。これを見て城兵はまた木戸を開いて切って出て、正木の人数と一つになり散々に戦い、
寄せ手はたまりかねて長野口方面へと引き上げた。

この時、長束正家および結城勢は佐間口を受け持っていたのだが、行田口、下忍口にて合戦が始まったと
聞いたため、「我々も攻め口を乗っ取ろう。」と押し寄せたが、この口を守る正木丹波守は行田に
救援に行っており無勢であったものの、福島主水正、櫻井又右衛門、内田孫六郎らが鉄砲を使って
ここをよく支えた。長束の家人である家所帯刀が先導して、有坂宮内丞、一宮善兵衛などという勇士
たちが続々と城門に取り付き後よりも大勢が続いた。すわこの口は破られると見えた時、正木丹波守が
行田口の敵を追い払って自分の持ち口に取って返る所を寄せ手が見て、「敵には後詰めが有るぞ!」と
心得、色めいて撤退した。この時城兵はまた打って出て追い打ちをかけたため、寄せ手は多く討たれたが、
城兵の被害は微小であった。総じてこの一日の戦いで、寄せ手の死傷者は数百人、城兵の討ち死には
五十五人、手負いは四十余人であったという。

石田治部少輔、並びに佐竹宇都宮勢は終始軍勢を出さず、徒に黙殺していただけであった。

このようであったので、市田成田の内応のことについても失敗し、寄せ手の面々はまた、城を遠巻きに
するのみであった。

(関八州古戦録)

忍城攻めで三成が浅野幸長を陥れたお話。

前編
忍城の戦い
続き
忍城開城顛末


630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 17:14:26.33 ID:hQb+dwiO
大谷や長束まで巻き込むユニークスキル

631 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/29(金) 19:38:34.49 ID:6I18+3aO
>>629
フレンドリーファィアで有名な某政○家が頭に浮かんだ。
しかし政敵ならいざ知らず、主人の一門格になんちゅう事すんねん。
結局それが後に自分に返ってくる訳だけどさぁ…

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 13:00:24.75 ID:6Y7LonhJ
三成「亡き太閤殿下から御恩を受けた連中が揃って東軍にいるのか全く理解できん」

小筒も、用いる所によって利があり

2018年11月12日 21:03

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 20:58:05.78 ID:ldUNo1GI
近年鑓鉄砲と称して、鑓に小筒を持ち添えて、鑓を突き出すと鉄砲が放たれるよう拵えた銃器がある。
確かに一理あるが、鑓前急な時に、これを用いる事、用捨あるべし。みな弓矢の工夫が薄いためこのような事に
成っており、心得るべきだろう。

亀田大隅(高綱)、後に鉄斎と号したが、彼は筒尺一尺余りの短い鉄砲に腕抜きを付けて、常に馬の際に付けていた。
慶長五年、新加納川越の時、川の半ばにて此の筒を撃った所、川向うの敵驚き去ったという。然らば小筒も、用いる所に
よって利があるということだろう。

(士談)



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 21:02:55.36 ID:fcfYanbe
銃剣的な発想での運用なのかな
銃に槍を付けようじゃなくて槍に銃を付けようって発想だし
何となく実戦だと激しく使えなさそうな気配がするが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 14:44:21.94 ID:QbO22WvF
弭槍みたいな弓に槍つけたのとか、絶対に使いにくそうだもんな

まこと山鷹野のいうものには

2018年08月10日 19:01

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:19:56.08 ID:xTnmvI7d
関ヶ原の合戦後、左京大夫(浅野)幸長は、それまでの甲斐より、加増を請け37万石の知行高にて
紀伊国を拝領仰せつかった。

その頃、後藤庄三郎熊野に参拝し、その後江戸表へ下った。
この後藤庄三郎徳川家康は聞いた「その方は先ごろ熊野山に行ったが、その帰りに紀伊国へ
見舞いに行ったか?」

「はい、上意の如く和歌山の城下に10日あまり逗留いたしました。」

「ふむ…。逗留中、紀伊守(浅野幸長)は、何かお主への馳走を申し付けたか?」

「紀伊の川と申して、吉野、高野の麓より流れ落ちる大河がありました。この川に船で出ると、
そのお供をいたしました。網を下ろし魚を取らせている所を見物しました。

その後山鷹野に行かれる時も私も同行いたしましたが、これは殊の外目覚ましき見ものでありました。
しかし、その山鷹野で私には合点の参らない事がありました。」

「それは何か?」

「はい、その時は雉や山鳥、その他鹿ムジナの類まで物数多く獲れまして、定めて幸長様のご機嫌は
良いだろうと考えていたのですが、実際には大いに腹を立てておられ、列卒の奉行を始め、その他役懸りの
者達は散々な目に遭っていました。

そしてまた一度山鷹野がありましたが、この時は何も獲れず、殊の外獲物となる動物も少なく、きっと
幸長様は不機嫌であろうと思ったのですが、実際には一段と機嫌よく、諸役人たちに「骨を折り大義である」
などと声をかけ、褒美まで与えていたのです。」

これを聞いて家康は笑いだした

「それはその方たちが合点できないはずだ。紀伊守はそうしていたか。まこと山鷹野のいうものには、
獲物の多少は関係ないのだ。」

そう仰せに成ったという。

(駿河土産)

では山鷹野は何を目的にやってるんですかね?



143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:25:31.54 ID:qxtBfCSp
畜生とはいえ張り合いがないので立腹していたんだろう

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:41:44.84 ID:NjMSuH7B
>>142
大漁だったのは家臣が自作自演で用意してたのかな?
少なかった時はガチだったので機嫌が良かったとか。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:32:35.70 ID:SKO93wDX
武士の感覚で言うとさ

獲物が多い→うわーざっこwつまんねーおもんねー→不機嫌

獲物が少ない→タマ当たんねー逃げるのうめーやり甲斐あるわw→上機嫌

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:15:25.23 ID:RFs/7dHc
個人的には>>145の考え
役人たちが獲物を集めてきて放ったのかなと思った

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 00:40:42.42 ID:GyktD+Pu
鷹狩りは軍事演習なので苦労しないと訓練にならないのでは

正直も不律儀に移り

2017年12月25日 16:29

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 12:51:46.80 ID:XbXTQwZe
正直も不律儀に移り


あるとき、浅野家の家老が参上して
「金奉行と扶持方奉行は相役を仰せ付けられるべきです」
と申したところ、浅野長政はそれを聞いて
「只今の通り、一人役では盗むと思ってこのように言うのだろうが
 我はかねがねその心得で、正直な人を選んで申し付けるようにしている。
 侍は己の勝手向きがどれだけ逼迫しようが盗みはしないものだが
 近世の侍は盗む侍もいるようだから、もしこの後相役を添えれば
 二人なら盗むと言う声が、いずれにせよ多くなるだけだろう」
 
「もっとも盗みをするのではないかと疑えば、この両役には限らないので
 この役も無心する、この人も覚束ないと言って相役にしていけば
 馬廻りの人数も次第に少なくなり、江戸詰に多く当たるようになれば
 馬廻りの侍が内心で"諸役人は楽でいい"と心得るだろう。そうなれば
 侍の志はきたなく、正直も不律儀に移り、どうにかして役人になれば
 差し当たって貧苦を逃れられるだろうと、正直を作り家老や出頭人に
 賄賂を贈るようになるだろう。このような風俗を心得ようとすることが
 国政仕置の要である」
と指図したという。


――『浅野考譜』


財貨が有れば何時も

2017年11月16日 21:09

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 22:17:53.84 ID:vEgaCA4Q
紀州に浅野長晟が在国していた頃、この国の地侍の某、功名の沙汰ありし者であったので
浅野家より扶助があり録豊かで、山中に彼の好きなように住ませ置いていた。

ところがこの者、武義を勤めず職を忘れて、ただ財貨を集めることばかりに熱心であった。
「財貨が有れば何時も、諸道具、人馬ともに揃えることが出来る。」
そう広言していた。

この頃、大阪の陣がはじまった。
彼は財貨を散じて人馬諸器を求め、由々しき姿で出かけた。ところが、集めた者共は元より下々の事であり、
紀伊から大阪までの道で、一人残らず逐電してしまい、残ったのは乗っている馬と我が身ばかりという
有様になった。
このような事では先々はかばかしい働きも出来ず、かといって紀州に変えるのも面目がないと、その場より
行方知らずになったという。

(士談)



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 22:32:32.03 ID:Rp1oDxjj
浅野長晟の動向からして徳川方に付こうとしたのかな
なのに逐電されたのか

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 02:41:43.26 ID:yf4aoXSx
いや豊臣のほうじゃね?負け濃厚だし

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 09:09:49.57 ID:lcvo0AJ8
大名が徳川についてるのにそれは考えにくいのでは…

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 09:43:13.62 ID:gi0/DeLC
じゃあどうして牢人が豊臣に集ったんだ?
勝ち濃厚の徳川に着いたのに逐電てワケワカメ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 10:01:26.44 ID:80FlYgge
金だけ持ち逃げされたつう話だろ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 10:05:55.77 ID:lcvo0AJ8
浪人は行くとこ無い人でしょ?
徳川は勝ち濃厚ったってやっぱり戦するわけだから死んだりケガしたりすることもあるし
いくら当時の日本人が勇敢っつっても臆病者卑怯者のクズもいるわけで

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 21:12:04.25 ID:GO7re+P1
これって、中間や小者の話でしょ。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 23:56:41.63 ID:QSnBfgsM
>>316
現代の感覚で語られてもなw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:06:00.09 ID:zTBmePbl
>>318
現代の感覚だったらこんな事起こらないだろw

幸長の筒

2017年10月30日 14:44

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 02:57:07.97 ID:bVEVxMsI
浅野幸長は、稲富一夢(祐直)の鉄砲の弟子であり、彼の持ち筒は皆、一夢が指示して製造させたものであった。
徳川秀忠から誓書を下され、幸長にこの芸を習わせるほどであった。

この幸長の筒であるが、現代のものとは違い、巣(銃身の筒穴)の悪しき所を直さず、その筒のまま
それに合わせて見当目割(照準)を付けたため、筒ごとに見当目割に位置が違っていた。
また筒も金厚で重かった。
しかし年月をどれほど経ても、筒からの弾道が変わること無く、筒が老けるという事がないので、
故に標的を狙ったり弾数を多く撃つ場合には、この筒に限ると言う人もいる。

考えるに、現代に及ぶほど、実薄くして術(技術)に厚くなる。故に筒を薄くして、軽く用いる事が
出来るようにし、巣の中も加工してこれを直す事で弾道も一定にした。
しかし製造されて年月が経ち、また何度も使用されると、たちまち当たりが当初から違ってしまう。

これは技術を以って直したものであるので、元に返りやすいのだ。
悪しき所があれば少し槌で叩いてその時は直るが、年月を経ると元の悪しき所に返り、
弾数も撃てず目当ても違う。
鉄砲だけでなく何事もみな、この心得が有るべきだろう。

(士談)



358 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/30(月) 06:41:24.18 ID:I5yfolQr
>>357
K川T景「ウチのボンクラは叩いても叩いても叩き足りませんでした」

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 08:37:58.87 ID:VS6wAuNF
現代でも連続射撃する機関銃や精密射撃用の銃は熱で変形して弾道狂わない様に肉厚のヘビーバレル使うんよね

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 18:25:26.64 ID:PlJHO+9W
K川で通字が「景」…香川氏かな?

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 20:26:49.95 ID:umVqhRCq
誰も通字なんて言ってないw

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 23:36:55.73 ID:SbOgUBMk
>>357
???「熱膨張って知ってるか?」

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 01:03:15.98 ID:1zbY6Qvi
ボケでもなんでもなく素で香川氏の誰だろと思ってしまった

364 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 05:16:16.35 ID:YhjL3Wh0
KBTIT

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 13:42:58.23 ID:YTm7Djfi
ボンクラだから金玉蹴られて死ぬんだよな

突き折るほど働いて

2017年10月29日 16:38

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/29(日) 16:35:00.69 ID:aWEy2xZH
鑓の柄というものは、軽くて硬いことに利があるが、上田宗箇は杉の柄の鑓を常に所持していた。
人がその理由を問うと

「突き折るほど働いての討ち死に、本望ではないか」

と答えたという、
滋賀与三右衛門も杉の柄の槍で、主人がその理由を問うと
「いざという時投げ突きにいたします」と言った。

阿波の三好が上方に進出して度々戦のあった頃、彼らの大方は竹の柄の鑓を持っていた。
それ故に、その頃の狂歌に

『阿波武者は 世々をかけて突ぬらん 皆鑓の柄を竹にてぞする』

これを京童が口々に唱えたとか。

(士談)