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小筒も、用いる所によって利があり

2018年11月12日 21:03

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 20:58:05.78 ID:ldUNo1GI
近年鑓鉄砲と称して、鑓に小筒を持ち添えて、鑓を突き出すと鉄砲が放たれるよう拵えた銃器がある。
確かに一理あるが、鑓前急な時に、これを用いる事、用捨あるべし。みな弓矢の工夫が薄いためこのような事に
成っており、心得るべきだろう。

亀田大隅(高綱)、後に鉄斎と号したが、彼は筒尺一尺余りの短い鉄砲に腕抜きを付けて、常に馬の際に付けていた。
慶長五年、新加納川越の時、川の半ばにて此の筒を撃った所、川向うの敵驚き去ったという。然らば小筒も、用いる所に
よって利があるということだろう。

(士談)



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 21:02:55.36 ID:fcfYanbe
銃剣的な発想での運用なのかな
銃に槍を付けようじゃなくて槍に銃を付けようって発想だし
何となく実戦だと激しく使えなさそうな気配がするが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 14:44:21.94 ID:QbO22WvF
弭槍みたいな弓に槍つけたのとか、絶対に使いにくそうだもんな
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まこと山鷹野のいうものには

2018年08月10日 19:01

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:19:56.08 ID:xTnmvI7d
関ヶ原の合戦後、左京大夫(浅野)幸長は、それまでの甲斐より、加増を請け37万石の知行高にて
紀伊国を拝領仰せつかった。

その頃、後藤庄三郎熊野に参拝し、その後江戸表へ下った。
この後藤庄三郎徳川家康は聞いた「その方は先ごろ熊野山に行ったが、その帰りに紀伊国へ
見舞いに行ったか?」

「はい、上意の如く和歌山の城下に10日あまり逗留いたしました。」

「ふむ…。逗留中、紀伊守(浅野幸長)は、何かお主への馳走を申し付けたか?」

「紀伊の川と申して、吉野、高野の麓より流れ落ちる大河がありました。この川に船で出ると、
そのお供をいたしました。網を下ろし魚を取らせている所を見物しました。

その後山鷹野に行かれる時も私も同行いたしましたが、これは殊の外目覚ましき見ものでありました。
しかし、その山鷹野で私には合点の参らない事がありました。」

「それは何か?」

「はい、その時は雉や山鳥、その他鹿ムジナの類まで物数多く獲れまして、定めて幸長様のご機嫌は
良いだろうと考えていたのですが、実際には大いに腹を立てておられ、列卒の奉行を始め、その他役懸りの
者達は散々な目に遭っていました。

そしてまた一度山鷹野がありましたが、この時は何も獲れず、殊の外獲物となる動物も少なく、きっと
幸長様は不機嫌であろうと思ったのですが、実際には一段と機嫌よく、諸役人たちに「骨を折り大義である」
などと声をかけ、褒美まで与えていたのです。」

これを聞いて家康は笑いだした

「それはその方たちが合点できないはずだ。紀伊守はそうしていたか。まこと山鷹野のいうものには、
獲物の多少は関係ないのだ。」

そう仰せに成ったという。

(駿河土産)

では山鷹野は何を目的にやってるんですかね?



143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:25:31.54 ID:qxtBfCSp
畜生とはいえ張り合いがないので立腹していたんだろう

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:41:44.84 ID:NjMSuH7B
>>142
大漁だったのは家臣が自作自演で用意してたのかな?
少なかった時はガチだったので機嫌が良かったとか。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:32:35.70 ID:SKO93wDX
武士の感覚で言うとさ

獲物が多い→うわーざっこwつまんねーおもんねー→不機嫌

獲物が少ない→タマ当たんねー逃げるのうめーやり甲斐あるわw→上機嫌

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:15:25.23 ID:RFs/7dHc
個人的には>>145の考え
役人たちが獲物を集めてきて放ったのかなと思った

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 00:40:42.42 ID:GyktD+Pu
鷹狩りは軍事演習なので苦労しないと訓練にならないのでは

正直も不律儀に移り

2017年12月25日 16:29

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 12:51:46.80 ID:XbXTQwZe
正直も不律儀に移り


あるとき、浅野家の家老が参上して
「金奉行と扶持方奉行は相役を仰せ付けられるべきです」
と申したところ、浅野長政はそれを聞いて
「只今の通り、一人役では盗むと思ってこのように言うのだろうが
 我はかねがねその心得で、正直な人を選んで申し付けるようにしている。
 侍は己の勝手向きがどれだけ逼迫しようが盗みはしないものだが
 近世の侍は盗む侍もいるようだから、もしこの後相役を添えれば
 二人なら盗むと言う声が、いずれにせよ多くなるだけだろう」
 
「もっとも盗みをするのではないかと疑えば、この両役には限らないので
 この役も無心する、この人も覚束ないと言って相役にしていけば
 馬廻りの人数も次第に少なくなり、江戸詰に多く当たるようになれば
 馬廻りの侍が内心で"諸役人は楽でいい"と心得るだろう。そうなれば
 侍の志はきたなく、正直も不律儀に移り、どうにかして役人になれば
 差し当たって貧苦を逃れられるだろうと、正直を作り家老や出頭人に
 賄賂を贈るようになるだろう。このような風俗を心得ようとすることが
 国政仕置の要である」
と指図したという。


――『浅野考譜』


財貨が有れば何時も

2017年11月16日 21:09

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 22:17:53.84 ID:vEgaCA4Q
紀州に浅野長晟が在国していた頃、この国の地侍の某、功名の沙汰ありし者であったので
浅野家より扶助があり録豊かで、山中に彼の好きなように住ませ置いていた。

ところがこの者、武義を勤めず職を忘れて、ただ財貨を集めることばかりに熱心であった。
「財貨が有れば何時も、諸道具、人馬ともに揃えることが出来る。」
そう広言していた。

この頃、大阪の陣がはじまった。
彼は財貨を散じて人馬諸器を求め、由々しき姿で出かけた。ところが、集めた者共は元より下々の事であり、
紀伊から大阪までの道で、一人残らず逐電してしまい、残ったのは乗っている馬と我が身ばかりという
有様になった。
このような事では先々はかばかしい働きも出来ず、かといって紀州に変えるのも面目がないと、その場より
行方知らずになったという。

(士談)



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 22:32:32.03 ID:Rp1oDxjj
浅野長晟の動向からして徳川方に付こうとしたのかな
なのに逐電されたのか

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 02:41:43.26 ID:yf4aoXSx
いや豊臣のほうじゃね?負け濃厚だし

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 09:09:49.57 ID:lcvo0AJ8
大名が徳川についてるのにそれは考えにくいのでは…

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 09:43:13.62 ID:gi0/DeLC
じゃあどうして牢人が豊臣に集ったんだ?
勝ち濃厚の徳川に着いたのに逐電てワケワカメ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 10:01:26.44 ID:80FlYgge
金だけ持ち逃げされたつう話だろ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 10:05:55.77 ID:lcvo0AJ8
浪人は行くとこ無い人でしょ?
徳川は勝ち濃厚ったってやっぱり戦するわけだから死んだりケガしたりすることもあるし
いくら当時の日本人が勇敢っつっても臆病者卑怯者のクズもいるわけで

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 21:12:04.25 ID:GO7re+P1
これって、中間や小者の話でしょ。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 23:56:41.63 ID:QSnBfgsM
>>316
現代の感覚で語られてもなw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:06:00.09 ID:zTBmePbl
>>318
現代の感覚だったらこんな事起こらないだろw

幸長の筒

2017年10月30日 14:44

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 02:57:07.97 ID:bVEVxMsI
浅野幸長は、稲富一夢(祐直)の鉄砲の弟子であり、彼の持ち筒は皆、一夢が指示して製造させたものであった。
徳川秀忠から誓書を下され、幸長にこの芸を習わせるほどであった。

この幸長の筒であるが、現代のものとは違い、巣(銃身の筒穴)の悪しき所を直さず、その筒のまま
それに合わせて見当目割(照準)を付けたため、筒ごとに見当目割に位置が違っていた。
また筒も金厚で重かった。
しかし年月をどれほど経ても、筒からの弾道が変わること無く、筒が老けるという事がないので、
故に標的を狙ったり弾数を多く撃つ場合には、この筒に限ると言う人もいる。

考えるに、現代に及ぶほど、実薄くして術(技術)に厚くなる。故に筒を薄くして、軽く用いる事が
出来るようにし、巣の中も加工してこれを直す事で弾道も一定にした。
しかし製造されて年月が経ち、また何度も使用されると、たちまち当たりが当初から違ってしまう。

これは技術を以って直したものであるので、元に返りやすいのだ。
悪しき所があれば少し槌で叩いてその時は直るが、年月を経ると元の悪しき所に返り、
弾数も撃てず目当ても違う。
鉄砲だけでなく何事もみな、この心得が有るべきだろう。

(士談)



358 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/30(月) 06:41:24.18 ID:I5yfolQr
>>357
K川T景「ウチのボンクラは叩いても叩いても叩き足りませんでした」

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 08:37:58.87 ID:VS6wAuNF
現代でも連続射撃する機関銃や精密射撃用の銃は熱で変形して弾道狂わない様に肉厚のヘビーバレル使うんよね

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 18:25:26.64 ID:PlJHO+9W
K川で通字が「景」…香川氏かな?

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 20:26:49.95 ID:umVqhRCq
誰も通字なんて言ってないw

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/30(月) 23:36:55.73 ID:SbOgUBMk
>>357
???「熱膨張って知ってるか?」

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 01:03:15.98 ID:1zbY6Qvi
ボケでもなんでもなく素で香川氏の誰だろと思ってしまった

364 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 05:16:16.35 ID:YhjL3Wh0
KBTIT

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 13:42:58.23 ID:YTm7Djfi
ボンクラだから金玉蹴られて死ぬんだよな

突き折るほど働いて

2017年10月29日 16:38

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/29(日) 16:35:00.69 ID:aWEy2xZH
鑓の柄というものは、軽くて硬いことに利があるが、上田宗箇は杉の柄の鑓を常に所持していた。
人がその理由を問うと

「突き折るほど働いての討ち死に、本望ではないか」

と答えたという、
滋賀与三右衛門も杉の柄の槍で、主人がその理由を問うと
「いざという時投げ突きにいたします」と言った。

阿波の三好が上方に進出して度々戦のあった頃、彼らの大方は竹の柄の鑓を持っていた。
それ故に、その頃の狂歌に

『阿波武者は 世々をかけて突ぬらん 皆鑓の柄を竹にてぞする』

これを京童が口々に唱えたとか。

(士談)



上田宗箇の剛勇

2017年04月21日 10:19

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 08:55:27.66 ID:uFvNYzkl
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。

ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。

実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。

大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。

彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。

(士談)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 10:06:23.60 ID:Y9xTky+j
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:33:14.29 ID:pNPhOchv
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:45:51.95 ID:5HHheB3O
敵がくれの茶杓作った位しか出てない

浅野幸長が早逝したのは

2017年01月07日 20:16

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 18:23:25.52 ID:DMsbktqS
浅野幸長が早逝したのは


慶長18年8月25日、紀伊国主の浅野幸長が死去した。
近年唐瘡にかかってしまったので、今年は夏中在京した後に
養生のため紀伊に下国されたが、そのまま亡くなられた。
おととしは加藤清正、浅野長政、今年は池田輝政、大久保長安と死んだのは
ひとえに好色ゆえの虚の病という話である。

この浅野幸長も五年前に葛城という遊女を買い、無右衛門尉という傾城を買って
そばに置いて慰まれていたので、その果てに早逝されたとのことだ。
跡を継ぐ息子がいないので、紀伊国は誰が拝領するのだろうかと噂になった。


――『当代記』

大身が相次いで死ぬと、雑にまとめられてしまう悪い例。



497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 23:48:38.51 ID:01a7hoED
梅の毒ですね

名人の芸其練気別段の事

2016年09月06日 18:10

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 14:34:51.15 ID:FDTUj9r9
名人の芸其練気別段の事

 小野流一刀の始祖で神子上典膳というのは、御当家へ召し出されて小野次郎右衛門と名乗った。
その弟は小野典膳忠也と名乗り、諸国遍歴して芸州広島で没した。
これから芸州では忠也流といって、その忠也の弟子が多く、国主も尊崇して今でもその祭祀が絶えていない。

 十人衆という、忠也流を修行する者の中にはこの祭祀の事等を取り扱う者達がいて、
その十人の内の間宮五郎兵衛というものは、とりわけてその芸に長じていた。
同輩家中の師範もしていて、そのころの国主但馬守(浅野長晟)も彼に武剣を学ばれていた。
しかし五郎兵衛は不幸にも中年で卒去したので、せがれの市左衛門は十六歳で跡式を相続した。
但馬守はすでに五郎兵衛の免許の弟子であったので、そのせがれの市左衛門へ教わったことを段々と伝授された。
市左衛門の業も抜群となり免状を渡されようとした時、市左衛門は退いて断ると述べた。

「どうしてそう思い立ったのか?」
と尋ねられると、

「一体親の義ですが、流儀の心得を五郎兵衛は甚だ未熟でして、いちいちその修行が間違っていました。
そのため五郎兵衛の指導のため、国中の一刀流はいずれも下手でしたので、五郎兵衛が師範としていた御家中の者はいずれも稽古が未練でございます。」

と申すと、但馬守はもってのほかだと憤り、

「汝の父の教え方がよろしくないと申すのも無礼である。殊にその方には予が太刀筋を教えたのだ。
それをよろしくないと申すのは、父を、いや主人を嘲るに相当し、いずれにしても不届きである。
理由があるのか!」

と尋ねられると、

「武芸の事を悪いと思っても、父のなされた事であるので言わないでおくのは不忠である。
それがしが悪いと存じましたので、御疑わますのなら同衆の手前で御立合をされるべし。」

と答えた。
但馬守はいよいよ憤怒されて、そのあまり

「小倅とて容赦は無い。立会いせよ!」

とかの十人の内に勝れたる同流の者を選んで、勝負を申し付けられた。
その十人は申すに及ばず、一家中で心得有る者どもが立ち合ったが、一人も市左衛門に勝ったものはなかった。
但馬守も自身で立ち合われたがこれもまた負けられたので、但州は甚だ尊重された。

「親を誹ったのは当座の当座を申し付ける。忠也流の稽古は万事市左衛門に指図させるように」

と申し付けられ、家中に名誉の者が出てきたと殊の外であるとのことであった。

惜しいかな、市左衛門は三十歳にならずして卒去し、その子が跡を相続したという。
但馬守はひどく惜しんだそうだ。
(耳袋)



157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 16:33:50.98 ID:QroxL7fd
トントン但馬だったか
血は残すべきでないな

にっかり青江

2016年08月21日 10:23

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 02:03:59.09 ID:g3SzQ0MP
浅野長政の歩士が伊勢に使いをした時のこと。歩士が道に墓場のある場所を
夜中によぎったところ、変化の物が出現した。

その身体には火炎があり、不動明王の姿形のようだった。火光の中のその顔を
見れば、にかりにかりと打ち笑って、こちらに向かって来る。

歩士が刀を抜いて走りかかり、これを斬ると火光はたちまち消えて暗夜となった。
それから、歩士は伊勢に行き、次の日の帰路で件のところを見ると、苔むした
石仏の頭から血が流れ出ていた。また、刀の切っ先外れには斬った跡があった。

歩士は取って返し、この事を人に言ったが、誠らしからぬことなので親しい友に
密かに語り、刀を見せた。すると、その刃には血が付き、石のひき目があったが
刃は欠けていなかった。

浅野長政はこの事を聞いて、秀吉の耳に入れた。秀吉がその刀を召し寄せて
一覧すると、備中青江の作で2尺5寸のものだった。

秀吉は、「これは名物である」と言って、その刀に“にかり”という異名を付けて
秘蔵した(にっかり青江)。にかりはその後、京極忠高の家に伝わった。

――『武将感状記』



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 08:44:20.47 ID:IxSsKAaB
こっちは女の幽霊じゃないのか
てか、ニヤニヤしてる不動明王とか気味悪いw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 11:38:25.16 ID:7gpb65U3
>>26
にっかり青江の別パターンか

浅野幸長の機転・および石川五右衛門の顛末

2016年05月10日 11:08

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 01:43:25.42 ID:qqwO0VTT
石川五右衛門という盗賊は、豊臣秀吉の時代、大小名および諸士群参の日になると、大阪並びに聚楽の
営中に紛れ入って、諸席に置かれた重代の宝刀、或いは鋭利な良刀を、己の鉛刀に代えて帯び、退き出た。
このため心ならず惰弱の汚名を被り、歯噛みして憤る輩多かった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関において刀を従者に遣わし、短刀ばかりにて営中に登った。
衆人その才知を賛美し、これに習い、みな従者に刀を持たせるようにした。
これにより石川五右衛門の計略も絶たれ、その後営中に紛れ入ることはなくなった。
またここから、営中に入る時刀を従者に持たせるのが士風となったのだとか。

ある説に、石川五右衛門は盗賊の張本にて、暴悪のこと多かった。ここに京都松原通新町の西に居住していた
右筆の何某は、石川の友人であったので、命あって召し捕える事が仰せ付けられた。
そこで彼の者は計り、茶会に託して我家に石川五エ門を騙して招待し、これを生け捕った。
これによって、世に言う釜煮の刑が行われたと伝わっている。

(新東鑑)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 13:04:56.47 ID:WAFCxkCW
石川五右衛門ってホントに実在したのかねえ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 12:51:11.61 ID:E+gdZ11k
>>600
大阪府島本町にある水無瀬神宮の門には石川五衛門の手形がある

信じるか信じないかは人それぞれ

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 13:40:42.63 ID:3Nb414DO
実在は信じるがそれは信じない

浅野長政「今の殿下は、古狐が入れ替わった者だ。」

2015年11月10日 15:32

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/09(月) 23:14:11.25 ID:xI4lJMJz
文禄2年の冬、豊臣秀吉は朝鮮での戦がはかばかしからぬを怒り、徳川家康を始め配下の大名を
名護屋の陣に集めこのように言った

「朝鮮の軍、今のままではいつになったら戦況が定まるかもわからぬ。そこで今は、この秀吉自ら
向かおうと思う。30万の軍勢を3手に分けて、前田利家蒲生氏郷に大将をさせ、三道より向かい、
朝鮮を打ち破り、真っ直ぐに大明に攻め入ろうと思う。
我が国のことは家康に任せれば心配もない。
方々、これをどう思うか?」

ところがこれを聞いた家康は、怒りも顕に利家、氏郷の方に向かい
「日本の大名も多き中に、あなた方二人が選び出されて一方の大将を賜ったのは、
弓矢取っての面目、何がこれに過ぎるでしょうか?
かく言う家康も、弓馬の家に生まれ戦いの中で年老いました。今、この大事に及んで、どうして
人々の跡に留まって、徒に本朝を守っていられるでしょうか?
少勢ではあっても、この家康も軍勢を率いて、必ず一方の先陣を承りたい!
そのためにも、あなた方のご推挙を仰ぎたい。」

ここに浅野弾正長政が進み出た
「暫く待たれよ徳川殿!殿下のここ近年の御振舞、昔の御心のままと思われているのか?
今の殿下は、古狐が入れ替わった者だ。それに何を言っても…」

この言葉が終わらぬ前に、秀吉は激怒し刀に手をかけ叫んだ
「やあ秀吉が心、狐が入れ替わったとはどういう事か!?その理由を申せ!
もし説明できないのなら、その素っ首打ち落としてくれん!」

浅野長政は少しも騒がず、
「この長政ごときが何百人首刎ねられても、どれほどの事がありましょうか?
仰せですので言いましょう。近年、意味もない戦を起こし、異国のみではない、
我が国内においても、父を討たせ子を打たせ、兄弟を失い、夫に別れ、妻に離れ、
嘆き悲しむ者天下に満ちている!
また、その戦のための兵糧の徴収、軍勢のための賦役、これにより六十余州の内は
悉く荒れ野となった!
今日、五畿七道の内は群盗強盗が蜂の如く沸き出て、安心できる場所すらない。

徳川殿がどのように思っても、これを防ぎ動揺することなく御跡を守るのは不可能です。
これらの事を理解されているからこそ、徳川殿は先陣を望んだのです。

ここで、昔の殿下であればこの程度のこと、気が付かないはずがありません。
しかし気がついていない。これはただ事ではない!きっと古狐が入れ替わったに違いない!

賤しき者達の諺にこんなものがあります。『人を取ろうとするスッポンは、必ず人に取られる』と。
それはまさにこの事です!」

そう憚ることなく言ってのけると、秀吉も怒りのまま
「狐であろうがスッポンであろうが、おのれが主人と頼っている者に、雑言を吐くこと奇怪である!」
そう叫んで長政に飛びかかろうとするのを、利家と氏郷が慌てて二人の間に入り押し隔てた。
「殿下、多くの者達が御前に伺候しております!長政の首を刎ねるのにお手を下されるまでも
ありません!弾正!弾正も何とか言え!」

しかしそう言われても長政はさらぬ体で受け流し、その場の人々に挨拶して、自分の陣に帰り、
御使を待って腹を切ろうとしていた。しかし秀吉は、長政の処分について重ねて言い出そうと
しなかった。

このような時に、肥後国に逆徒が起こったとの早馬が参った。秀吉は大いに驚き、徳川家康に使いして、
浅野長政を連れて参上するように』と仰せ下した。そして長政は召され、赦免された。

(藩翰譜)



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:44:41.59 ID:O6IysmEn
さりげなくやれば良いのに主張するから・・・

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 05:58:58.21 ID:QjSotLI4
この話同様の内容で岩淵夜話や常山紀談にもあるな

関八州を手に入れたという恩

2015年10月04日 12:02

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 03:10:30.97 ID:32dSqDEt
内府(徳川家康)と大納言様(前田利家)が、未だ仲直りなさっていなかった時、
浅野弾正(浅野長政)殿が、大納言様とも内府とも仲が良くお話しされる間柄でした。

そこである時、内府のもとへ弾正殿が訪れなさって、いつもの通りお話ししながら碁を打ちなさっていた時、内府が仰せられたことには、
「大納言については、今度のことは理由もないことであった。」
などと少し後ろめたいことを申しなさった。

そこで弾正殿は、
「私は前から、大納言殿に悪い噂がたっていることは嫌でございました。
その理由は、内府も目を付けられていますが、大納言と内府は、差し出した手の大指と小指だと存じています。
内府は我らに、上様のもとへ出頭なさったときに盛んに口添えしたことで、関八州を手に入れたという恩があります。
また大納言殿は私共父子の命の親でございます。
そのことをお心得なさってください。」
と申されました。

内府も「もっとも」と申されたそうである。

これを大納言様がお聞きになさり、ついに内府との仲は良くなりました。
このことは、『弾正殿一代、とんでもない事を申し上げたものだ』と、皆は褒め称えたことです。
(利家夜話)

家康の関東移封は長政らの力によるものらしいです



大阪方に止まれと言っても

2014年11月25日 19:56

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 20:43:23.71 ID:y+GediFy
大阪夏の陣の緒戦、樫井の戦いで、浅野長晟の軍勢が大阪方を撃退すると、当時紀州では一揆が起こり
諸所に放火し、その上押し寄せてくるとの風聞があったが、浅野方が勝利すると一揆共はたちまち鎮まり、
放火も止んだ。これは、敗軍すれば落ち武者を剥ぎ取ろうという企みが、一揆の側にあったためだという。

この合戦の経過を仔細に記した報告書を、泉州加田浦より早馬にて二条城に注進し、
浅野但馬守(長晟)は山中まで帰陣しようとしたが、「敵の大軍がもし追い打ちをかけてくれば
一大事であるので、誰かここに留め置きたい。」と言ったが、自分からここに残ると言い出す者は
一人もなかった。

しかしここで熊澤兵庫が進み出て、「私がここに留まります!」と申し上げた。
但馬守は大いに喜び、「汝がここに留まるのならば心安い。」と帰陣の支度を始めた所、
物見より、大阪方の軍勢が北に向かって撤退している旨が報告された。
これに追撃はなくなったと浅野方の者達は一同大いに喜んだが、一人熊澤兵庫は残念がり、

「大阪方に止まれと言っても栓もない。」

と、力を落としたそうである。

(明良洪範)




890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 03:56:56.66 ID:B93gk4uE
泉州加田浦ってどこよ
紀州の加太か

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 06:58:39.32 ID:wneVrhV1
>>890
岡田浦の打ち間違えかも
樫井から近いし

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 16:20:51.41 ID:DsL9mEjk
加田浦でググったら紀州加田浦ってでるな。
間違えたんだろ。

浅野幸長の能登配流

2014年11月18日 18:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:56:27.29 ID:/RSIwZRJ
大河ドラマでスルーされたのが切なかったので
>>810の前後、幸長の身に何があったのかも投稿しておきます


浅野幸長の正室は前田利家の娘・養泉院(文禄2(1593)年に早逝)で
その後、池田紀伊守信輝(恒興)の娘・慶雲院を後室に迎えた。

そして豊臣秀次の正室も同じく、信輝の娘(若政所)だった。

そこで秀次が謀叛の猜疑をかけられ、文禄4(1595)年7月に高野山で切腹した際
幸長にもその嫌疑がかけられた。

事の次第は「謀叛の連判状に幸長の手跡があった」というもので
伏見において、大老五奉行列席の上で取り調べが行われたが
最終的にはそれが幸長の手跡ではないと判断された。

何故連判状に幸長の手跡があったかというと
幸長の祐筆に磯谷十蔵なる者がいたが、幸長の機嫌を損ねたため、石田三成に仕えることになった。
三成がこの磯谷を使って謀叛をでっち上げたのである。

そして三成は、事が露見しそうになると磯谷を殺そうとしたので
磯谷はこれを怖れ、幸長に全ての次第を告白し、これを以って幸長の無実が証明されたという。

しかしながら秀次とは親族の間柄であるので、兎にも角にも能登国鶴崎城への左遷の命が下った。
幸長は利家の屋敷に一旦引き取られ、同年8月能登へと出発した。


↑ここまでが能登配流の経緯

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:03:07.60 ID:/RSIwZRJ
↓ここからは帰参にまつわるお話(こちらはいい話なので、おまけとして)


文禄5(1596)年
伏見で明の使節と謁見した秀吉は、封書を見て大いに怒り
再び渡海し朝鮮を攻め、明へと侵攻するべしという命令を出した。

そこで徳川家康が、

「左京殿(幸長)は三千の兵を率いて渡海するべし。秀吉公には私から話をつけた」

と、幸長の帰参をとりなしてくれたので
父の長政は大変喜び、小足源左衛門を利家からの使者に添えて能登へと使わした。

使者は昼夜を駆け、鶴崎城に到着。
折しもこの時、幸長は城の中庭で弓を射っていたが、
鶴崎城は高台にあり、遠くを見渡すことが出来るので、幸長には二騎が鞭で追って駆けてくるのが見えた。

幸長は「これは只事ではない。ついに切腹の沙汰が下り、その検使が来たのだろう」
と思って、切腹の用意を命じた。
しかし使者が近付いてくると、その一人が家来の源左衛門であることが分かったため、
急ぎ「何事か」と尋ねたところ
秀吉から御赦が出たので迎えに来たという、目出度い使者だと分かった。

これに一同は安心し、切腹の用意は俄かに帰国の用意へと変じた。
こうして幸長は同年10月初めに、帰参が叶ったということである。



(共に『浅野長政公伝』より)




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:48:45.67 ID:sWAI5QZj
下手にこの時期御赦なんか出なかったら、渡海せず朝鮮にも行かず遊女遊びもせず、梅毒にもならずそしたらもうちょい長生きできてたかもな

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:42:11.51 ID:AhAL2do8
一生懸命よくわからん土地で戦って、後妻もらったら難癖つけられて切腹させられそうになるんだもんな。そりゃ、心離れるわ。

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:44:12.62 ID:7E5JT4/m
>>825
この時期だからこその御赦じゃ…武勇で有名だったらしいし手駒として。
この後の蔚山城での死闘も踏まえると、>>824も悪い話と言えるかもしれん。


ところで他に大河でスルーされた池田や地味加藤の逸話は……。

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:53:55.97 ID:i85WcvmH
大河の忠興はヒドかったぞ

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 01:49:10.04 ID:4lAv9pPZ
>>827
確かに幸長は武闘派で鳴らした勇将だもんな
合戦には必要不可欠な将だろうが、余りに短命だからふともう少し御赦が延びてればと思ったんだ

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:20:44.84 ID:AhAL2do8
>>827
ジミーさんって大河ででてきたことあるんだろうか。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:29:12.46 ID:4nD8sGuB
>>828
いくら主人公とはいえ如水さんが忠興の功績を全部かっさらっていくとは

>>830
加藤嘉明は葵徳川三代で、家光の具足親をやったシーンがちゃんと有ったよ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:47:58.93 ID:mOvZS9tu
大河みてたらことのほか三才が肥満体で笑った

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:57:43.13 ID:7E5JT4/m
>>828
大河の忠興は何であんなに太ましいのか。
長政と対立したりガラシャに自害を命じたりする奴には見えないwいい人そうw

>>830
功名が辻にも一応いたような…?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 08:55:44.94 ID:BuhQ+WP2
ジミーさん大河出演歴あるのか。ネタがなくなると主演あるかな。清正とのダブルキャストで。二人の加藤とか。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 14:33:14.58 ID:Q1hBnzee
>>834
砂加藤「俺も仲間に入れてくれよ~」

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 16:52:14.88 ID:LwSHz8/F
飛び加藤も忘れてるし

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 19:42:49.60 ID:c3cxOapc
ジミーさんは葵三代ならちょいちょい出てるよ
>>831みたいに主役になる場面以外でも
七将襲撃とか小山評定とかにも出てるよ…うん…出てるだけだけど…

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 07:16:00.85 ID:jG4jvGsl
賤ヶ岳七本槍が主役の大河ならジミーさんも主役

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 08:19:37.26 ID:8OLblkt5
松山:坂の上の雲
会津:八重の桜
地元がジミーを推す理由はなさそう

浅野幸長と伊達政宗は

2014年11月16日 17:27

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:25:06.71 ID:1T7aCUnZ
浅野幸長伊達政宗は、最初大変仲が良かった。

政宗が小田原征伐に遅参し、秀吉から謁見を許されなかった時
その間を取り持ったのが幸長の父・長政であり
政宗にとって長政は「命の親」とも呼べる存在だった。

そのようなこともあり、征韓の際には「幸長を助けるために」と
政宗も共に軍を派遣する程、二人の仲は良好だったが
何故かその後、大変な不仲となった。

その理由は明確ではないが、『浅野考譜』にはこう伝わっている。

秀次事件の際、幸長は秀吉の勘気を蒙り、能登への蟄居の沙汰が下された。
これを伝え聞いた政宗が、夜中、女輿に乗って幸長に会いに来たが
幸長は人々の目を憚って政宗と会おうとはしなかった。

政宗は大変短慮な人だったので、
「自分は心から幸長の身を心配しているのに
それを顧みようとしないのは、ひとえに幸長が無礼だからである」
と怒った。

以来両者は、君臣共に絶交となったという。


(『浅野長政公伝』)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 18:04:05.54 ID:O2pJ7Riw
>>810
不思議な事に大久保長安事件では名を連ねている両名

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 20:52:06.13 ID:lIO5SLnR
>>813
この二人、戦国逸話スレ情報などからして何故か真田のお兄ちゃんと仲がいいんだよなw

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 18:48:52.60 ID:VgWnhJNQ
>>814
そりゃ極悪親父にもまれりゃたいていの椰子は許せるようになるだろうw

病身者がかかる振る舞いいたし候

2014年09月26日 18:50

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:41:44.20 ID:HBI3MB18
永田治兵衛は浅野家の家臣であったが、多病の質で、「あいつは何の役立つのか」と、
家中から陰口を言われていた。
これに対し永田は、

「下郎であれば健やかでなければ役に立ち難いだろう。だが武士は病身であっても義勇さえ有れば
役に立つのだ。」

そう語った。この事を聞いた者達は、「永田の言葉は、世に言う負け惜しみだ。」と嘲った。

やがて大阪夏の陣、泉州樫井の合戦において、永田は淡輪六郎兵衛の首を取り陣中に帰ると、
彼の陰口をしていた者達に言った

「病身者がかかる振る舞いいたし候。無病の人たちはどうして功名無きか!?」

これに答える者は一人もいなかった。

(明良洪範)




369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:55:23.56 ID:NHQhAPWH
浅野家(含む一門)家中で活躍する者
病身者の永田さん、茶坊主の上田さん、さて次は?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 20:07:39.05 ID:R4D+AFtJ
大石内蔵助

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 16:07:17.20 ID:Lv7rbv73
まあ答えられないからって反省したり考えを改めたりしたわけじゃないんですけどね

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 17:22:35.87 ID:71cO/wZg
それはそれでダサいな

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 19:37:34.02 ID:zKaBtR1k
生きてる価値ないよね
もう死んでるけど

講談の終わったあと幸長は

2014年04月07日 19:02

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 21:23:49.73 ID:cC/WF0ye
藤原惺窩が浅野紀伊守(幸長)の邸宅で、孟子一段を講談したことがあった。
このとき講釈したのは、『生於憂患而死於安楽』(憂患の有る時には生き、安楽な時に死ぬ)という段であった。

講談の終わったあと幸長はこのように言った

「私は石田治部(三成)と仲が悪かった。治部が生きていたころは、彼に隙を与えまいと、身を謹んで
人に非を入れられないようにし、体も健康であった。

今は治部も死に、その上御所様(徳川家康)とは懇ろな関係で、(その頃未だ徳川と関係の悪かった)
佐竹や島津とも特に何かあるわけではない。だがこれによって気が緩み、却って病気になってしまった。
賢人の言葉というものは、少しも相違がないものだ。」

(老人雑話)

敵の喪失により自分も弱ってしまった、という浅野幸長の述懐である。




884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 21:58:10.77 ID:xy6/elfq
真田のお兄ちゃんの死因が判明

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 23:24:26.40 ID:J+qydBC1
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4598.html
既出

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 23:26:37.45 ID:J+qydBC1
しかし、島津、佐竹についての訳は違うな

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 05:54:20.28 ID:koYRP92t
島津・佐竹についての部分の解釈も、真田のお兄ちゃんとの関係を見出す住人の解釈も真逆の印象

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 22:59:40.77 ID:4AKn74+k
>>883

親父は関ヶ原後の大坂城城内をみて「治部少がいた頃はこんなことはなかった」と嘆き、
息子は「治部少が生きていたころは、緊張して身体健康だった」と言い....
何だこの親子

895 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/07(月) 23:11:03.96 ID:FBU9TbXr
ツンデレやな~

松原内記刺殺事件顛末

2014年02月02日 19:06

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 20:35:03.48 ID:hYoT6XAn
慶長14年(1609)5月18日、紀伊国主である浅野幸長の用人(近習)であった松原内記が、
左内と言う者(年齢17歳)に刺し殺されるという事件があった。その内容はこのようなものである。

この左内という若者は京都の人間であったが、浅野家に奉公したいと思い、そのために紀伊に下ることを、
つてを以って松原内記に言い送った。松原はこれを承知し、紀州に下ってきた左内を招き、小袖などを
与えた。

ところが、この時松原は左内を一目見て恋慕し、幸長に紹介せず、彼をわたくしに抱え置き、
懇ろに遇した。

そのような中、6月になって丹波国に普請があるということで、松原内記浅野幸長の命令により
丹波へと行くこととなった。

この頃までに、松原が密かに抱えた左内の事は内々に幸長の耳にまで入り、幸長は内記を一目見たいと
度々松原の屋敷を訪問したのだが、松原は深く彼を隠したので、終に見ることが出来なかった。
しかし松原は、自分が丹波国に行っている間に幸長に彼の事が露見してしまうと恐れ、左内を
自分が出発する20日前に、人を付けて京都へと密かに行かせた。

ところが、この後書状が左内に送られ、そこには『今後松原内記はお前を相抱えない』とあった。

左内はこれを見ると大変に怒り、父母親類にも隠して紀州へとただ一人下り、松原内記の屋敷に忍び込み、
彼が居間で寝ているところを、大脇差を以って三刀で殺害した。そして自身も、その場で自害した。
左内という若者は、大変美麗であったそうだ。

しかしこの事件は、近習を殺された浅野幸長を激怒させた。彼は左内の紀州への奉公を助けた
京にいる彼の叔父の坊主が、この件に関して内々に知っていると考え、大御所徳川家康の居る
駿府の奉行達、並びに女房衆に、この叔父を抑留するよう申し送った。

これを家康は承知せず、また京都所司代の板倉伊賀守も、この件に関しては「浅野幸長の存念は
然るべからず」と発言した。京畿の庶民たちも、「これは紀州殿(幸長)が筋の通らない事を言っている」
と批判した。

それでも浅野家では、「この事をこのまま放置してしまえば、我らの京都での外聞然るべからず」と
しきりに駿府に訴え出たため、駿府でもこのまま黙視することは出来ず、かの叔父の僧侶を
11月に浅野家に引き渡し、彼は牢に入れられた。

(当代記)

浅野家における、衆道がらみの事件の顛末である





浅野長政の約束

2013年09月07日 20:02

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 18:06:04.11 ID:7bpdfZ+l
天正十九年、豊臣秀吉は南部信直の老臣、九戸政実が陸奥国において諸士を集めて
近郷を掠め、土民を悩ましていると知ると、関白秀次を大将として進発させた。

この時、仕置軍の攻撃に城を保ち難く感じた九戸政実は、九月七日の夜、密かに
浅野長政の陣所に行き「信直の本領を安堵してくださるなら速やかに城を退く」と告げた。

長政はこれを許諾し、政実と南部の家臣、櫛引出雲某を許し、その他数百人を焼殺した。
八日、政実と久慈備前某を連れて、秀次の陣営は会津に至るところであった。

その時、秀次は、「長政が我が命を受けずに政実を許したことは無礼である」と怒り、
長政に命じて中途で政実を誅殺した。凱旋の後に南部家の所領に差し障りがなかったのは、
長政が先の政実との約束を違えずに言上したからであった。

――『寛政重修諸家譜』