三成は亭主として

2017年01月24日 08:37

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 20:39:35.21 ID:92lx1g3g
石田治部少輔が七将襲撃事件の結果、佐和山に引退した後、徳川家康
伏見城より柴田左近を三成への使いとして出した。

柴田左近が佐和山に到着すると、三成は柴田と格の合う家臣の屋敷に彼を
案内させた。柴田が休息を取り行水も済ませた頃、三成が自身でこの屋敷に参り
「大儀であった。」
と、持参した弁当で彼をもてなした。これは佐和山城より持ってきたものだという。

後刻、城に上がり家康よりの遣いの内容を伝えた。その後
「風呂を焚かせたので入浴するように」との使いが来た。三成は客人を迎える
亭主として、欠けるところ無い振る舞いであった。

翌日、柴田左近は日の出の頃、佐和山を出立しようとしたが、そこに何と、三成自身が
見送りに来た。居室でしばらく雑談をし、出立するときは表に出て、門まで彼を見送った。
この別れのとき、三成は「これは葛籠ですが、馬に付けてお帰りなされ」と、
渋紙で包細引きで念入りに結ばれた物を柴田に渡した。
宿に着いた後それを開けてみると、そこには念の入った造りの小袖が5つ、良き拵えの
脇差しが一腰あり、それには『百貫』との折紙が付いていた。

この頃、百貫の脇差しなどというものは希少で、また小袖5つの土産なども聞いたこともない
時代であった。
この時代の百貫というのは、現代の千貫よりも価値が高かった。
また本阿弥の折紙が添えられているのも、殊の外稀なことだったのである。

現代のように上使というような事も、奉書などというものも無かった。
慶長4,5年の頃を覚えている者は、『ここに言われている通りだ』と答えるだろう。
現代ではこういった重々しいもてなしは多く有るだろうが、当時は沙汰もなかったのである。

(慶長年中卜斎記)

石田三成が家康からの使者を心を尽くしてもてなしたお話。
一般的な三成のイメージとはだいぶ違いますね。



533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 21:17:07.44 ID:GCNAERFQ
細かいくらいに気を利かせるけど、それがうまく嵌まることが極々稀な印象がある

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 22:57:20.58 ID:znPyROKP
>>532
>「風呂を焚かせたので入浴するように」
慶次「三成は気が利くな~」
義朝「…」

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 00:54:45.81 ID:kFsSwOgq
義朝さん、お土産には木刀入れときますね
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昔は蒲生家にて横山喜内、今は石田の家中で蒲生備中

2016年10月02日 15:30

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 03:27:28.14 ID:3fVb6HB2
蒲生備中真令(頼郷)は石田三成の家中でも世間に知られた勇将である。関ヶ原の前、軍評定の時、
真令は「明日はひとえに必死と思い定めなさいませ」と、言った。島左近が、「明日は先陣に進んで、
忠義を冑として打ち勝つことであろうに」と言うと、

真令はまた「昔から利を得ることは天の助けに依るものではありますが、軍勢の正しさと法令の厳しさ
との2つがあってこそ、利を得るかは決まります。よく胸の内を省みてくださいませ。ひとえに必死と
思い定めなされなければ、勝ちの半ばでありましょう。そうでなければ、再び御目見えは致しますまい」
と言って、座を立った。

真令はもとより敗軍を悟って、三成に必死を極めた言葉を出したのだ。かくて、関ヶ原において真令は
ただ一騎で三成の陣に行き、何事かを言うと、三成は打ち頷いた。真令は馳せ帰って競いかかる敵に
向かい、散々に戦ったところ、織田長益に出会い、

「昔は蒲生家にて横山喜内、今は石田の家中で蒲生備中として人に知られている者である!」
と、言った。これに長益が、「殊勝である。私に降参せよ」と、言い終わらないうちに、

真令は「これは何事ぞや!」と言い、拝み打ちに斬って長益を馬から打ち落とした。これに長益の
従者・千賀文蔵が槍で真令を突き通すと、真令はその柄を握って文蔵と引っ組んだ。しかしながら、
文蔵の弟・文吉が刀を取り直し、真令を刺してついに打ち取った。

真令の子・大膳は、「戦いの半ばで首1つを提げて父親に見せるようでは、功名も何になるだろうか」
と言うのを聞いて再び東に向かい、押しかかる敵に駆け合おうとしたのだが、父が討たれたと聞くと、

「まてしばし 我ぞ渉りて 三瀬川 あさみ深みも 君にしらせん(少し待っていてください。私は三途川を
渡って、あなたにその浅深を知らせましょう)」という歌を高らかに唱えて、自害した。

大膳は幼い頃から戯れを好まなかった。関ヶ原へ出陣の時、彼の母親は「私は汝が富貴になることを
願わぬわけではないが、武士の家に生まれた身は、昔から名を重んじるのが習いである。およそもの
2つは兼ね難いものだ。身を全うして名を忘れよとは、言えるはずもない」と言ったのだが、彼は父親と
ともに死んで、母親の戒めに違わなかった。

――『常山紀談』




石田三成、長曽我部

2016年08月10日 07:59

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 06:30:29.84 ID:KNtupSJv
石田三成、長曽我部

石田治部少輔三成は世では"みつなり"と唱えている。
しかしかつて三成に懇ろにしていた伊勢の一身田高田派の一向宗の寺
[この寺の名は忘れた。大寺である。今の上人は先帝の御弟で、奥方は津候の伯母である]
(※専修寺だそうです)
には、三成自筆の仮名文数通あり、皆"かずしげ"と書いてあった。
三を"かず"と訓じ、成を"しげ"と訓じていたのを、今は知る人もいない。
以上は津候の臣、藤堂主計、及び儒臣石川貞一郎の話である。

また津候の家に伝わる石田の仮名文一通にも、"かずしげ"と書いてあるという
津候の祖は三成と同時期の人であり、文通があってもおかしくないので、いよいよ世の誤りを知ることができる。

また長曽我部元親も、その時は"長曽かめ"と唱えていたと聞く。
長曽我部を仮名で"かめ"と書き、またはその四字に仮名をつけた書に、我部に"かめ"の傍書がある。
また拠るところでは、我部をそのころの書に亀と書いた物もあるという。
以上を朝川鼎が語った。

林述斎はこれに関して、以下の話をした。

今人の苗字も近頃唱え違いが多い。
増山は"ましやま"である。建部は"たけべ"である。
なのに人々は、"ますやま"、"たてべ"という。
この類はいかほども有る。松浦は"まつら"であるのに、世では"まつうら"という。

(甲子夜話)



968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:10:30.76 ID:1kSLhF/I
ワタベとワタナベ
ソガワとソゴウ

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:25:31.19 ID:GVKjmEBJ
>>967 三成が「かずしげ」?。うーん本当かな。

囲碁マンガで「ヒカルの碁」の中で、藤原佐為というのがいるが佐為=さい ではなく、
当時の読み方からいえば、「すけため」である、という説があった。音読みと訓読みと
当時の慣例により。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:29:35.77 ID:jh0yf/bh
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5177.html
これにも、「かつしげ」と読むとあるな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 14:29:14.11 ID:BlSChZfX
>>967
この時代でさえわからなくなるんだから、まして現代ではなぁ。

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 16:23:02.25 ID:bEkGN4Oq
にしこりとにしきおり

島左近は石田三成の寵人である

2016年07月05日 21:29

島左近   
803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 03:08:44.08 ID:Przl9z/j
島左近石田三成の寵人である。この左近の勧めによって石田は逆意までも起こした
のである。左近の心の奥に潜む考えは、石田が天下を取ったなら、つまるところ天下は
自分のものだと思っていたのだという。左近の知行は三千石である。

島左近ハ石田カ寵人ナリ此左近カススメニヨリテ石田逆意モオコリタリ左近底意ハ
石田天下ヲトリタラハ畢竟我モノト存タル由左近知行ハ三千石ナリ)

――『武功雑記』



豊太閤の御木像

2016年05月14日 08:29

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:09:50.26 ID:WXNRv0gj
この年(慶長16年)、御城中(弘前城)北の郭に御建神を御勧請遊ばされた。御建神の
御神体は豊太閤の御木像である。はじめ為信公が御殿中で御祭り遊ばされたのであるが、
このたび、(津軽信枚が)一社御建立遊ばされた。

――『小山内氏古文書』

慶長十六辛亥年御城内ニ御館神堂社御勧請豊太閤ノ木像

去る28日、黒田豊国会長(長成)は金子・金山両氏を従えて、本所大手町にある津軽邸
に至り、金子氏が先般、東北地方巡回中に取り調べられた結果、豊太閤の木像が古来
津軽家に御建神と称して祭祀され、今日現に本所の邸内に稲荷として安置してある事実を
発見したのをもって、同家の許諾を得てこれを参観せられた。

この木像は太閤の存生中に刻まれた3体のうちの1つで、1つは大坂城に安置してあり、
同城とともに焼失し、1つは阿弥陀ヶ峰に安置し、のち日光に合祀となる。

今津軽家にあるものはすなわち石田三成に賜ったもので、その形は極めて小さいけれども、
一見あたかも生きているかのように自ら威望を備え、千古の大豪傑たる風采を観るに足る
名作であるという。

その由緒など大いに歴史家の参考に資すべきもの少なからざれば、近日詳細の取り調べを
世に公になされるとのことである。

――『青森県史(明治三十年十月三十日 日本新聞)』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:47:24.25 ID:xQ4W6Xyn
これの事だな

http://news.infoseek.co.jp/article/serai_47201/


721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:49:26.32 ID:sTcOIiXM
秀吉、なのか

722 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/05/14(土) 13:38:19.69 ID:SdKSqZae
下がり藤の家紋に加えて、冠が唐冠なのが決め手。
秀吉は唐冠を好んだ。
他の武将の肖像画と比較すると分かりやすい。


石田三成について伝わる話によると

2016年03月24日 17:09

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 00:20:02.39 ID:qtiUgdxf
石田三成について伝わる話によると、太閤秀吉の寵臣である石田治部少輔三成は近江国石田村の地士、
佐五右衛門という者の子であったという。この佐五右衛門は久しくこの土地に住んでおり、村邑の長と
称していた。


この妻が解任し一子を儲けた。佐吉と名付けられ、両親から限りなく寵愛された。
弱冠に及んで智計群を越え、器量もまた類いなかった。父母の喜びはさらに増したが、その家貧しく、
育て難かったため近隣の真言宗の寺に扈従として預けた。

ある時、羽柴秀吉がこの寺に参詣した折、佐吉が容貌艶やかで、立ち振舞も勝れていたのを見ると、
秀吉は彼を召して、夜には閨を同じくし、玉枕を並べた。

それより次第に立身し、二十万石の大名と成ったのだという。

(伊逹秘鑑)

珍しい、石田三成が秀吉の寵童だったという記述である。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 13:44:06.56 ID:HBQcswxs
正澄が完全に無視されてるな

大山伯耆、親子3人を討つ

2015年12月04日 13:56

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 13:41:54.43 ID:jcpUOsPd
ある時、石田三成の将・島左近の家士に罪科があり、下河原平太夫は左近の眼前で
放し討ちするように言い付けられた。

しかし、下河原は勇者であったがどうしてなのか切り損じ、かの者は負傷しながらも
走り出た。その時、大山伯耆という未だ弱冠にも及ばなかった者が次の間に居合わせ、
かの者を組み止めて刺し殺した。

伯耆は、「これほどの事を、私に内意を知らせて下さらないとは遺恨である」
と言い捨てて、門外に出た。「かの罪科人の父と弟は遠所にいる。きっと刺客が
向かうに違いない。その一部始終にも加わろう」と伯耆は思い、その地へ赴いた。

しかし伯耆は思い巡らせて、「本道は刺客が遮るはずだ。もし彼ら親子がこれを
知って逃れ走るとすれば、きっと脇道であろう」と考え、急いで脇道へ向かった。

案の定、刺客が向かう前に親子はこの事を漏れ聞き、僕も伴わずに父は馬上で、
子は徒歩で脇道から逃れていた。そこへ行き会った伯耆は2人がそうだと見て、

「まず、父を斬るか子を斬るか。父を斬れば、子は見捨てて逃げるかもしれない。
だが、子を斬れば父は絶対に逃げまい。それに馬上の父を斬れば、徒立ちの子は
素早く身構えて戦えるが、子を先に斬れば父は馬から降り立つせいで隙があろう」

と分別した。伯耆は2人の側を過ぎざまに抜き打ちして、まず子を斬り殺した。
そして、父が馬から飛び降りるところを走り寄り、父をもまた、たちどころに
斬り殺した。この時、伯耆は軽傷一つすら負わなかった。

親子3人をまんまと討つことができたのは、例の少ない手柄である。下河原は自分が
言い付けられた者を仕損じたが、人々はむやみに謗らなかった。彼には年来たびたびの
武功があったためである。伯耆は後に三成の直参となり、島に劣らぬ勇将となった。

――『武将感状記』




石田三成はかねてから謀反の志があり

2015年11月28日 17:18

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 01:18:56.40 ID:d+tbKNRi
 石田三成はかねてから謀反の志がありました。一条国広を召し抱えて佐和山に住まわせ、
正宗、行平等の偽物を拵えさせました。それらを殿下より拝領したと申して、諸家方へ送りましたものは少なくありません。

 そうでありながらも、一条国広は名鍛冶なので真偽の目利きが甚だ難しいものであります。
(本阿弥行状記)




691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 08:05:05.30 ID:gYz5S+MF
じゃあ秀康に贈った正宗は

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 08:56:36.46 ID:fmNnc/Pk
 徳川家康はかねてから謀反の志がありました。一族から娘を人質に取り江戸に住まわせ、
その娘を養女に迎えました。それらを自分の娘と申して、諸家方へ嫁がせたものは少なくありません。

 そうでありながらも、娘は気品のない田舎者なので真偽の目利きが甚だ難しいものであります。

石田三成の対面(武功雑記ver)

2015年10月19日 14:01

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:31:30.50 ID:Z9MZl0gp
関が原の合戦の後、石田三成が生け捕られた時、紺の帷子を被って小袖を許されていた。
藤堂宮内(高吉)が来て、

「私は治部少輔の恩を受けたものなので、ひと目会いたい」

とたって望んだため、対面を許された。
宮内は「さてさて」と何か言おうとすると、三成は

「いやいや、最早何も言わぬものだ。」

そう答えた。

さて、この時捕らえられた、石田三成小西行長安国寺恵瓊の3人に時服一重づつ、
台に乗せて下された。

小西は言った
「一時の寒風を逃れよと、小袖を下さること忝ない。
諸人に対面するのも面目がないが、身に刀を立てぬ宗旨ゆえ、このように見苦しき目に逢ってしまった。」

安国寺は小袖を見て
「それだけか」
と言って着用した。彼は諸大名に会ってもずっと無言であった。傷が痛むように見えた。

三成は小袖を見て
「これはどこから来たものか?」と聞いた。「上様からである。」
「上様とは誰か?」
「いや、内府様の事だ。」
これに三成
「さてさて、上様はこの前他界されたばかりだというのに、早くも内府を上様と呼ぶのか」
それだけ言って小袖を着ようとしなかった。
諸大名には雑言を言っていた。

(武功雑記)




林半介の殿

2015年10月15日 16:02

林半介   
842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 14:08:42.86 ID:Lpm+lIzk
林半介の殿

林半介は美濃安八郡青柳村の百姓であったが、石田三成に仕えて禄700石の使番となった。
石田は挙兵する際、佐和山城中の書院で家臣達と宴を開いて、
 「今回の一大事、運は天命に任した。私にはお前たちの武勇だけが頼みだ。褒賞は武功によって思いのままぞ」
と約束の印として酒盃を座の中央に置いた。そこに末席にいた半介、進み出て
 「今回の戦、一番手柄はともかく二番手はこの半介とお思いあれ!」
とその盃を飲んでしまった。周りは生意気な奴だと思ったが、半介は杭瀬川で一番首を挙げた。

西軍が引揚げる最中、稲葉助之丞が金の切裂の指物を指して宇喜多勢の殿を、半介は白づくしの指物を指し石田勢の殿を務めた。
本多忠勝の軍勢に向かってただ一騎、我に敵う者なしと奮戦する半介の様を見て、
東照宮も「なんと豪胆な奴だろう。我こそ武功はと思う者はあの武者の草摺(下半身を守る武具)を貰っておくとよい」と仰せになられたそうな。

『常山紀談』
前半の宴会の件はどっかで似たような話を聞いたような気がする




島津義弘夜討の提案

2015年09月25日 17:56

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:19:33.61 ID:DmuJRcgR
慶長5年(1600)9月14日、関ヶ原の役。赤坂に徳川家康の旗印が立つと、西軍は大いに動揺した。
その日、石田三成は大垣に諸将を集め軍評定を行う。ここで島津兵庫頭(義弘)が提案した

「今夜、野郎共を赤坂に遣わし、先陣の陣屋を焼き払えば、敵陣は必ず騒動となるでしょう。
その時大軍を以って合戦を行えば、一戦にて敵を尽く討ち滅ぼせるでしょう。」

しかし石田三成は反論した
「今度の合戦は必ず勝利する。田中兵部(吉政)も我らに味方して、合戦中に返り忠を行うと確約した!」

これより前、三成は田中吉政に使いを出し書状を以って自分たちに味方するよう申し遣わしたが、
吉政は偽って同意の返事を出したのを、三成は信じ彼を頼りとしたのだという。

これに義弘
「田中の返り忠というのは心もとない!左様なこと、多くは期に望んで相違があり、また謀にて
偽りの同心の返事をした可能性もある。それを頼んで明日の合戦が必勝とは、愚かなことである!
今日、内府は長途を来て軍兵皆草臥れており、陣法も未だ定まってはいないでしょう。
その上士卒たちは陣屋を営み、食料の調理に立ち騒げば、いよいよ疲れて夜更けて熟睡することでしょう。
そこに大軍を以って夜合戦をかければ必ず勝利を得るべし!これは実を以って虚を討ち、
佚を以って労を討つの計なり!

それでも、三成は遂に同意せず、島津の謀は空しくなった。

その頃内府公の陣所では、『今夜は夜討来ること有るべし。油断すべからず』との仰せにより、
篝火を焚き、夜回り隙無く、遠見の番まで置いて用心を怠らず、その軍法は厳密であったという。

(黒田家譜)

有名な、関ヶ原で島津義弘が夜討を提案したお話。三成は田中吉政の内応を頼りにしていたのですね。




363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:25:36.05 ID:+Qt9rNs+
田中はもし西軍有利になったらほんとに裏切る想定もしてたのかな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:16:30.39 ID:aMAnNCDO
田中吉政ごときをあてにするってありえんだろ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:42:51.92 ID:1ElstaQP
包囲網が吉川一人のために瓦解するんじゃーね

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 07:37:42.50 ID:6vHuZ6nT
秀次派が西軍に寝返るだろうか?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:41:36.33 ID:tz+AIFcm
自分の城で徳川勢が留守してる状況で田中吉政が寝返るとか無いわ

あと秀次切腹の時にも咎めがなかった人達だから、秀次派ってのは
無いんじゃないかな

島左近と聞けば、今でも気分が悪くなる。

2015年09月04日 09:52

島左近   
263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/03(木) 23:37:29.95 ID:20Shf9vm
ここに一つの物語がある。剛なる者も急なる時は、物の判断を見定めることができなくなるという話である。
黒田家の関ヶ原の戦場に出た者達6,7人が、後に筑前で集まって話をしていた時、一人が言った

島左近の関ヶ原での振る舞いは、日頃名高きほどに見えた。
鞭を振り上げ、懸かれ懸れと叫んでいた声、今も耳に留まって不便である。
真っ黒な具足の、兜には立物もなく、差し物も差さず、柿色の羽織を着ていた。」

所が別のもの
「いやいや、鼠色の羽織であった」

別の一人は
「いや、羽織はつけていなかった」と言った。みなまちまちの見覚えであった。

「さても各々も私も、戦場であってもそれほどうろたえるような人間ではない。それが
このように記憶が違っているのはおかしくも不審なことだ。そういえば誰々は、元は
治部少に仕え、しかも関ヶ原であの場におり、良く覚えていると聞く。彼を呼び寄せ、
尋ねて不審を晴らそう。」

そう言ってこの3人は旧三成家臣の者を呼び寄せ問うと、その時の島左近の兜の立物は、
朱の天衝三尺ばかり。具足は樋皮溜塗り菱綴、その上に木綿浅葱の羽織に縄を帯にしていた、
という。

「さてもさても恥ずかしきことだ。この座の者達が度々武功をなした者でなかったら
その身の恥ともなっただろう。不思議なることだ。」

一人はそう言ったが、その中でとりわけ物慣れたものが
「いや、我らの事ながら、これも理だ。その時のことを思い出せば、今も身の毛が立つぞ。
あの時は一息切断の所であったので、顔をもたげ、敵の面を見る事も出来なかったので、
各々も覚えていないのであろう。

島左近と聞けば、今でも気分が悪くなる。鉄砲によって討ち取らなかったら、我々の頸が
何の手間もなく取られたであろうよ。今、このように良き座敷で、しかも心安い友ばかりで、
良き振る舞いを食い、気ままに酒を飲み、良き茶を飲み、寝ながら話をする。そんなことは
出来なかっただろう。
そんな状況であったから、大方の者達が目の仏を失ったのだろうな。
これまでと印象が変わったからといって、我々を笑わないでくれよ若い衆たち。」

そう語った。

(古郷物語)



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 00:10:07.18 ID:sBlw/JuD
死線潜り抜けてきた後だと戦友達と過ごせる日常ってさぞ幸せに感じるだろうな

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 00:27:56.61 ID:fZYmNpP9
>>264
隠居済みだったり、行政官として活躍してたら別だけど、戦しか能が無い者にとってはそうでも無いんじゃね?

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 02:12:35.25 ID:cLaIxLoM
やっぱ島左近てすごかったんやな

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 03:26:40.97 ID:fl7GhPFT
三成に過ぎたるものが二つあり
縞のサテンにさわやかな白

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 07:51:02.73 ID:fzJzjHLW
>>267
そう書かれると三成さん暑苦しい人みたいですやん

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 16:08:25.65 ID:2nVeE7/D
幻術つかいサコン現る!


つかsakonって関が原の話ばかりだが筒井時代の話ってないのかね
筒井家に右近と左近ガイルってくらいしか知らんわ

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/06(日) 09:55:31.94 ID:1gdl1xuw
関ヶ原じゃ左近よりも小早川の方が活躍しとるしな

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/06(日) 10:50:40.42 ID:nput2gN7
まあ武功は武功だが…

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/06(日) 16:00:03.89 ID:79S/0gKI
全くな
俺が小早川だったら千人斬りして天下無双の称号えてるよ

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/06(日) 17:19:44.83 ID:OCYz/l7C
>>269
超有名人なのにビックリするくらい史料にも出てこないからなぁ

石田貞宗

2015年03月17日 18:32

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/16(月) 19:07:56.58 ID:MmZMVFOT
石田貞宗

慶長5年、関ヶ原の戦いに敗北した石田三成は、近江伊吹山の奥に隠れていたのを、田中兵部少輔吉政の
手の者によって捕縛された。この時、三成は自分の帯びていた貞宗の短刀を吉政へと贈った。
しかし吉政は、その短刀を徳川家康へと差し出した

「この脇差は、治部少輔が腰に帯びていたもので、私に贈られましたが、囚人である彼から
物を受けるのはいかがかと思いますので、公儀に納めて頂きたく思います。」

家康はこれを聞くと、吉政に言った
「そなたの申す所は尤もだと思う。だがな、この貞宗の脇差は『切刀(きりは)』と号して、
元は明智日向守光秀の秘蔵していた物を、太閤(秀吉)が手に入れ常々自慢しておられた名刀である。
先年、石田が拝領して常に身から離さなかった。それを今足下に贈ったのも、定めて志あっての
事であろう。その志を虚しくするというのは、石田に対して気の毒である。

殊にこれは太閤の御遺物でもあるから、私から改めて指図しよう。
兵部少輔、その脇差を、長く所持するが良い。」

このように懇ろに言われ、田中吉政はこれを受けたという。

(刀剣談)




742 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/16(月) 20:05:39.45 ID:eootwjmp
イイハナシカナァー?

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 00:06:05.42 ID:RoYJCQ3s
東京国立博物館で展示されてる刀だな

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 01:15:14.03 ID:SWLjFWlr
家康の性格よんでんだろ、田中w

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 19:16:17.27 ID:bynBIjAD
光秀→秀吉→三成→吉政
所持した者の家が没落するという伝説になったり

雑談・島左近の評価について

2015年01月07日 18:52

島左近   
187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 06:51:02.96 ID:2C4bEDQC
>>187
戦歴から言うと過大評価なんだろうけど、関ヶ原という世紀の大合戦での散り際が余りにも印象的で
後代の人々の心を惹きつけたんだろう
常山紀談が出典だからどこまでホントか分からんが、黒田軍の兵士が左近の姿を覚えてないくらい
壮絶な戦い振りだったようだし
それに日本人は判官贔屓だしな

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 07:54:28.71 ID:oDNy5msZ
現代に至るまで
後付けと脚色だらけの嘘八百に騙されて満足してるのが大半というか
むしろいい悪いスレなんてその筆頭みたいなもんだし、まぁそんなもんだよねとは思う
一旦イメージつくと修正に時間かかるから、苦労してる人もいるみたいだが

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 08:28:09.21 ID:uOwd3dbK
最上義光「ほんとそう思うわ」

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 09:00:41.22 ID:giNPOH3x
>>188
常山紀談には、左近の「かかれーっ!」の声を夢に聞いて飛び起きた
黒田家の兵の話がでているけど、それはまさに開戦の時の号令
乱戦前のものだ

左近が銃撃を受けて戦場から消えるのは、三成が開戦から2時間後の
様子見の西軍諸将をうながす狼煙を上げる以前のことだから、左近は本戦
約6時間のうち、最初の1時間程度しか実質戦っていない
西軍総崩れ後の、死を覚悟した左近の「最後の突撃」は後の軍記物にしか
登場せず、負傷後に担ぎ込まれた石田陣営内で死亡した可能性が高いことを
考えれば、関ヶ原での活躍も非常に小規模

大阪夏の陣で、毛利勝永の活躍が真田幸村の伝説に吸収されてしまったように、
乱戦になる前の最初の激突において敵味方から見て目立っていた左近が、
その後の蒲生頼郷・蒲生郷舎・舞兵庫・高野越中・大山伯耆らの頑張りを
自分の伝説に吸収してしまったと言える
局地戦の戦術家としてはともかく、戦略・政治において左近の実像は、
後世に伝えられる西軍の軍師・関ヶ原における石田軍の指揮官には
程遠い感じがする

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 09:06:42.58 ID:jwnWGItD
勇戦した石田家臣団の筆頭だったんで
確かな記録は残ってなくても
優れた人物だと知られてたんじゃないの?
明らかに優秀で魅力的な人でも
結果を残せずに消える人っていくらでもいるし。

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 09:46:15.31 ID:BCmaG7ZT
前述の戸田武蔵もその一人なんだよなw

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 10:57:14.58 ID:mWO4czCW
同じ丹羽系でも長束とはだいぶ待遇に差があるよね
それとも秀吉の直臣で兄に隠れていたからかなあ

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 16:58:18.42 ID:JVEAblps
>>181
夜襲に反対した石田三成がよく批判されるけど、
保元の乱の顛末を知らない訳無いだろうし反対する
理由があったんだろ

三成→信之への短文通信

2014年10月19日 18:58

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 22:15:40.66 ID:7/7uUY/H

三成→信之への短文通信
『真田家文書』より、石田三成から真田信之(信幸)への未出の書状をいくつか抜粋


「眞豆州 御返報 石治
御書中令拝見候、御返報の儀心得申し候、折節客来にて取り乱し候間、一二する能はず候、謹言」
(お手紙拝見しました。お返事のこと心得ました。丁度来客で取り乱していますので、詳しくは書きません。)

「さいつさま 御報 石治
房州進物之事、明日にも左右申すべく候間、御こしらへ候て御待ち候ベく候、
又房州よりの御書中も只今拝見申し候、謹言、 十九日」
(安房守から(秀吉への)進物のこと、明日にも側近に申すつもりなので、
準備なさってお待ちください。また安房守からの手紙も今拝見しています。)

「さいつさま 御報 石治少
御札拝見申し候、宿に相待ち申し候、謹言、 廿三」
(お手紙拝見しました。宿にてお待ち申し上げています。)

「さいつさま 石治少
御札具に拝見仕り候。拙子事昨夕夜中申され、けさ早々より登城候て、只今やどへ帰り申し候、
拙子もちと御意得たきこと候へども、今夕は夜もふけ申し候間、明日申し承るべく候、恐々謹言、
四日 (花押)」
(お手紙つぶさに拝見しました。私は昨晩請われて今朝早くより登城し、今宿へ帰りました。
私もちょっと御意を得たいことがありますが、今日はもう遅いので明日にしましょう。)


それにしても真田家文書上巻の三成からの手紙の多さは群を抜いている
(徳川家・豊臣家・真田家家中からの手紙を除くと最多の十五通で、個人的な内容らしきものも含む)
信幸と三成が親戚同士だったこと(信幸の叔母の夫が三成とされる)が大きいのだろうか
すぐに読まないと意味がない手紙も多いのは伏見での屋敷が近所だったからと思われる

信幸と三成の親しさが垣間見える、そんな話。




52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 00:52:45.26 ID:4b9sFo1z
>>51
真豆州とか石治とか当時の人名前略しすぎぃ
他にも
織田信長→織上
木下秀吉→木藤
松平元康→松次
明智光秀→明十
とか見たし

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:16:25.06 ID:hTjg3Rmw
現代でも割と使われてる略し方だと思うが。マツケンとか。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:21:38.75 ID:Tu4xNOcV
当時もそうやって略すのが親しみの表し方でもあったらしいしな。

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:42:47.86 ID:bNwtCOFp
まさむね

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 02:50:43.56 ID:y4IWvuXq
てる

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 07:30:50.00 ID:RdL2Urgm
かたこ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:07:15.73 ID:x/pZEeRK
>>51
メールのやりとりみたいでほっこりする

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:45:26.41 ID:TUmAzWEe
つまり伊達政宗は全方位から他人行儀だったと

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 21:44:39.18 ID:leww0uT3
>>59

政宗の諱は先祖にあやったものだから、
自分自身だけのものと思ってなかったんじゃないかな

本多正純と石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由

2014年10月02日 18:53

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 20:48:53.33 ID:qh3k8BE1
関ヶ原の後、石田三成が捕縛されてからの東軍諸将との逸話は
人を変え、話を変え色々あるけどこれには異論もあるようだ。

本多正純石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由、本多正純に仕へし老兵のいひたりと語る人あり。
是れ正説なるに於ては、石田と対談の説に偽なるにや。(関原軍記大成)

黒田が小袖かけてやったのも、藤堂がアドバイス求めたのも嘘だけど
正則君が罵倒したという話も嘘なんだよ!正則君は本当はいい子なんだよ!!!
という話

関連
本多正純、石田三成を尋問す



三成、加増を辞退する

2014年07月20日 19:02

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/19(土) 22:42:40.79 ID:fFPbldre
三成、加増を辞退する

小早川秀秋の転封が正式に決まった時期、石田三成の家臣宛ての書状。


『殿下は我らに筑前筑後を下さり、九州の物主にしてくださるとのご内意でしたが、
そんなことをしては佐和山に置ける人もなく、身近で用を申し付ける人も少なくなるので、
(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
我らはこのまま(佐和山)でいよとのことになりました。
江州(近江)のその方の知行や蔵入(代官領)が増えないとなれば
悔やむ気持ちもありますが(くやみ申し候間)、よくよく申し付けてください。
次に筑後筑前は蔵入になるので、その旨百姓に言い聞かせるよう。
また金吾殿は越州(越前)へお替りになり、従って我らが(筑前の)代官になるよう命じられました。
近々筑前に下ることになるのでその心得でいるようにし、
この由を妻と父へも伝えてください(此由内儀、おきとのへも可申候也)。

廿二日 三成(花押)』

(「慶長三年(1598年)五月 家臣・大音新介宛て書状」 宇津木文書)





実は鷹オタクだった三成

2014年07月13日 18:51

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 10:45:58.03 ID:409e/6Nw
実は鷹オタクだった三成

石田三成からの手紙」を読んだら興味深い書状が載っていた


『内々進上するつもりで先日お目にかけた鷹ですが、その時には
獲物を取ることができず、残念でした(昨、御覧候所にて取飼い申さず候、遺恨)。
今日は私の鷹師を遣わして雁を一つ取らせたので、鷹と一緒に進上します。
この鷹は申し上げた通り私の秘蔵の鷹です(我ら秘蔵に候、)。青鷺を取るということで来たのですが、
私のところでは雁に力を入れてこの春、菱喰(別名オオガリ)を入れて雁を二十ほど取りました。
その手際は同行した城州(山城守)がご存知ですのでお聞きになってみてください。

(中略)

ところで先日貴方の手から飛ばせた若鷹は、私の手からは雁を二つ、鷹師からは七つ、
大崎方では青鷺を二つ取りました。この鷹は次の秋に確かに鶴を取るでしょうから、大崎方へ残しています。
夏の間は青鷺を取ってお遊びになるといいでしょう。秋に鶴を取ったらお返しください。
(いったん渡したものを返せと言うのは)おかしなことですが(鶴取り候ハバ御返しあるべく候、おかしく候、)。

恐々謹言 廿六日 三成(花押)』

(「年代未詳 某中納言宛て書状」 下条文書)


三成は真田信幸にも鷹をもらったことに対する礼状を送っているので、鷹狩が好きだったのは確からしい
「中納言」「山城守」と言えば思い浮かぶのは上杉景勝・直江兼続主従だが、
三成がこれほどくだけた手紙を景勝に送るのは考えにくいということで、
著者はこの書状は岐阜中納言(織田秀信)宛てではないかと推測していた。真相はいかに。

鷹について熱く語る三成が微笑ましいのでいい話に




294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 12:11:46.51 ID:7t4l/Swu
>>293
前田慶次でそんな場面あったな。三成の鷹狩りの最中に慶次と会ってバカにされてた。

常磐という舞妓

2014年04月06日 19:47

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/05(土) 22:22:28.95 ID:FfYqcsdC
徳川の世になったあとの京に、常磐という舞を舞う女があり、人が招けば、何方にでも行った。
彼女は石田三成の息女であると言われた。

そういう事もありうるであろう。あの真西山(真徳秀:南宋の政治家、儒学者)の孫娘さえ、
歌妓となったそうではないか。

(老人雑話)

京に、石田三成の娘という噂の舞妓がいたらしい、というお話。





フロイスdisりシリーズ、石田三成編

2014年03月22日 19:01

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 19:32:52.65 ID:w9hwEiiW
フロイスdisりシリーズ、石田三成

『1586年(天正14年)のこと

関白殿(豊臣秀吉)は堺の代官に二人の人物を任命した。その一人は(小西)ジョウチン隆佐であり、
今の海軍総司令官であるアゴスチイノ弥九郎殿(小西行長)の父に当たる。

このジョウチンは最良の人物で、都の最初のキリシタンの一人であり、教会並びにキリシタンたちの
古い友人である。

堺の代官となった彼の同僚は、佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を快しとしない
ジョウチンの大敵であり、キリシタンの敵でもあった。
彼は嫉妬深く、野心家で傲慢であり、その他の事柄においても悪徳に満ちた人物である。

この両名ともに、堺の代官に就任した。』

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスは石田三成も大嫌いだったらしい。




786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:09:08.63 ID:AXFVzZxh
上役への報告ってこんな適当で良いのか?
事実誤認が1つ2つじゃないけど…

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:28:49.94 ID:zFAj3K5p
後に二十六聖人事件で三成が秀吉の意向に反してまで
処刑されるキリシタンの数減らそうとした件について
フロイスさんの見解が知りたいw

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:31:05.60 ID:zFAj3K5p
あとフロイスさんって、清正とか市松とかセンゴクとか
ラスボスの子飼いでキリシタンじゃなかった奴は軒並みディスってるよなw

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 00:10:02.54 ID:bBy/l9xL
>>786
その上司はさらに上司に向かって
こいつは誇張癖があり考え方も偏ってるとちゃんと報告してますw

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 18:30:22.57 ID:H13RErIt
>>786
>>787
同じくフロイスが書いた「26聖人殉教記」では、三成の対応を見て
「日本史」でのボロカスな評価を改めたような記憶があるんだが
ちょっと自信ないから図書館で二十六聖人殉教記探してみるわ。