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「朝野雑載」から石田三成と田中吉政

2023年04月23日 17:37

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/22(土) 20:28:49.01 ID:HFxUyFUP
朝野雑載」から石田三成田中吉政
(前半は有名だけどついでに)

関ヶ原での敗戦後、田中吉政石田三成の捕縛を命じられた。
吉政は「三成は風流ゆえ、もし途中に匂いのある鼻紙が落ちていたら気をつけろ」と下知した。
石田三成は古橋村の与次郎大夫のもとに匿われていたが、近辺の村まで吉政の追及が及んでいると知った三成は与次郎に自分を突き出すよう命じた。
与次郎は拒んだが、三成は「病が重く歩行もままならぬ。このまま探し出されるようなら汝も罰せられるだろう」と説得したため、与次郎はしかたなく訴え出た。

田中吉政石田三成を乗り物に乗せて連れて来させ、対面した。
吉政は慇懃に挨拶したため、三成は太閤から賜った秘蔵の貞宗を吉政に授けた。
吉政は三成が下痢を患っていると聞いたため、韮雑炊と薬を勧めた。
三成は「こうなっては薬を服用しても意味があるまい。田兵もおかしなことを言うものだ」と言ったが、
吉政が「命を救うためではなくお苦しみを和らげるためです」と勧めたため、三成は承知して保養した。
三成が囚人となってもいつも通り「田兵(田中兵部大輔吉政)」と言ったのは、さすが秀吉の寵臣だけはある。

しかし太閤御在世の時に伏見城で家康公と田中吉政が碁を打っていた時、家康公に助言する者が多かったのを見た三成が
「この碁は敵が多いため、田兵の負けであろう」と言い捨てたのは、おのれの権威を誇って無礼をなす悪人と言うべきであろう。

また三成が小西行長、安国寺恵瓊とともに囚人となった時、家康公から服を与えられた。
小西は「これほどのご厚情を受けようとは」と恥ずかしがり、
安国寺は何も言わなかったのに対し
石田は取次に対して「この小袖は誰から賜ったものだ?上様から?秀頼公のほかに上様がいる者か」
とカラカラと笑ったため、みな石田を憎んだという。



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「朝野雑載」から島左近の息子たち

2023年02月11日 14:53

島左近   
643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 12:32:37.58 ID:lk3JOlum
朝野雑載」から島左近の息子たち

島左近の嫡子新吉(島信勝)は関ヶ原で討ち死にした。
次男三男は戦を逃れ、妻子眷属五、六人ほどを山里に引き連れて隠れていた。
十年ほど兄弟で母を養っていたがとうとう家の煙も絶えそうになった。
そこで兄弟は密談し、弟を島左近の息子として縄をかけて駿府に参った。
これは恩賞を得て兄が母を養おうとする計略であった。
こうして弟は牢に入り、兄は褒美を得た。
しかし兄は弟と離れるのが悲しかったのか、そのまま駿府にとどまり夜な夜な弟の牢の様子を見に行った。
とうとう牢の番人に見咎められ、逃れないと思った兄は
「実は私も島左近の息子です。母を養うためこのようにはからいました。
どうか私たち兄弟が死罪にあったのちは、母に憐れみをたれてください」と申した。
家康公は兄弟の孝行心に感心し、母も駿河に召し寄せ、母子三人に長く御扶助を与えなさったという。



644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 13:40:34.46 ID:zixhe24u
兄より優れた弟はいない

645 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/02/11(土) 21:08:55.35 ID:2iPvre8q
>>644
仙石久勝(兄)と仙石秀久(弟)
本多正純(兄)と本多政重(弟)
どちらも兄の方が晩年ヘタ打ったからそう見えるだけかもしれんけど

647 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/02/12(日) 20:06:18.79 ID:DoJh3FWu
途中まで順風満帆だったが主君の改易に巻き込まれて一度破滅した久勝みたいな生き方は嫌いじゃない

「朝野雑載」より六角義郷の話

2022年03月08日 15:20

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/07(月) 20:13:21.67 ID:o+u3g8Om
朝野雑載」より六角義郷の話

義郷の父である六角義秀は近江国守護であったが暗愚の将であったため近江の大方は攻め取られ、家臣にも所領が奪われ、義郷が相続したのは十八万石に過ぎなかった。
しかも石田三成の讒言により義郷が死罪になりそうだったのを、秀吉公により名族ということで領地没収のみで許された。
さて三成が義郷を讒言した理由だが、義郷の家人、多良尾彦六入道道賀というものの娘、おまんというものが有名な美人で義郷の妾となっていたのを
三成がうらやみ、道賀に頼んでおまんを所望したのを、主君の妾だとして道賀が断った結果、義郷を殺して妾を奪い取ろうと思うにいたったということだ。
義郷浪人後、おまんのことを聞きつけた関白秀次公はさっそく聚楽第に呼び込んでしまった。
三成は大いにあきれ、この上はと秀次公も讒言した結果、おまんはほかの三十余人の秀次公の女房たちと共に首を刎ねられてしまったということだ。
このように三成が多良尾の娘を取ろうと、罪なき義郷、秀次、および両家一族、幕下の諸将やその家族まで幾千万人も死罪、追放、流刑にしたためその怨念が石田にかえってきて
その身はもちろん、一族縁者家人までことごとく断絶し、末世にいたるまで大悪無道の名を残した、なんとあさましいことだろうか。

六角義郷:六角氏の子孫を称した澤田源内の偽書「江源武鑑」に出てくる架空の人物
ただし「江源武鑑」では三成が義郷を讒言した理由について、家人同士が争って三成側に死者が出たからとしている

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/07(月) 20:25:17.89 ID:o+u3g8Om
ついでに多良尾道賀(多羅尾光俊)はたしかに娘のおまんを秀次に側室として送り込んでいるが
六角氏没落時点で六角を見限って信長についている
また「江源武鑑」では義郷が秀次に連座した理由として、義郷の部下である鯰江権佐の娘のおこほ、が秀次の側室になっていたからとしていて微妙に違う



思いのままに謀を廻らせた

2021年09月05日 17:57

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/05(日) 15:51:47.61 ID:Icad6qo4
ある時、石田三成は直江山城守(兼続)と、ただ両人差し向かい、深夜まで酒宴して遊んだが、
密かに山城守に向かって申した

「侍と生まれ弓矢に携わる者で、天下に望みがないのは男子と称するに足りない。
差し当たって秀吉公は、匹夫であったと雖も天下をその掌握に帰された。
私も一度は四海を治めたいとの深い思いは止むことがない。
しかし秀吉公御在世の家は思い立たない。御他界ある上にて、旗を揚げんと思う。

御辺も景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ。天下を覆せば景勝を滅ぼし、御身が関東の管領と
なり給え、我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人にて世を治めるべし。」

直江も大胆なる者であったので、この謀事を快く思い、

「左用思し召し立っているのならば、上杉家中のことは一向に私に任せ給え。
それについて、謀事を廻らして見るに、蒲生会津宰相氏郷は武道逞しき人であり、
御所公(徳川家康)に差し続く大将である。またこの人の子の藤三郎秀行は御所公の婿であり、
領分は奥州と下野に接している。これは御所公の後ろの強みであり、このため事なしである。

たとえ貴殿が思い立ったとしても、御所公、氏郷と指し続いていれば、中々退治するのは難しい。
先ず氏郷を殺し、そのあとに景勝を国替えさせ、東西より立ち挟んで討ち果たすことが然るべき」

と囁いた。これを三成は承引し、氏郷を毒害し、その後で藤三郎秀行の家老達をそそのかり、
蒲生家中に大いなる騒動を起こさせ、その咎にて秀行百二十万国を没収し、僅かに十八万石にて
野州宇都宮に所替させ、会津には上杉景勝を入れ替え、思いのままに謀を廻らせた。

近世軍記

石田三成の野望と陰謀について。まあ典型的な三成陰謀論みたいな話ですが、むしろこのくらいのほうが
魅力的な気もする。



思うに、返らぬことでは有るが

2021年02月01日 18:11

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/01(月) 16:37:00.04 ID:s06oUcHl
関ヶ原の合戦の前に、石田治部少輔(三成)は、一騎駆にて佐和山より大阪に馳来たり、
増田右衛門尉(長盛)に参会し、密に談ずるべき事ありとして、数寄屋に入って物語をした。

初めは何事を語っていたのか、やがて三成は
「せめてこの上は五畿内の諸浪人共を集め、無二無三の合戦を行わねば叶いがたし、いかが考えるか。」
と言った。

これに右衛門尉は
「尤も然るべき事であるが、それではこちらから企んだような事となる。とにかく時節が至るのを
待って、天道に任せることこそ然るべきである。」
と応えた。

治部少輔は微笑して言った
「太閤様の患いが御快気されていた時、貴殿や我らたちを召され、『汝らに百万石づつ下そう。
何故ならば、私は今度の病気中に様々なことを考えた。汝らを大名にしておけば、万事心安かるべしと
思ったのだ。』と仰せになった。

その時皆々目を合わせ、『さても有難き仰せかな。何と申すべき言葉もありません。ですが、
人の口も有ること故、重ねてこそ仰せをば奉ります。』と、その時はたって辞した。その事を
思うに、返らぬことでは有るが、くやしき事である。あの時百万石を領していれば、現在、
何の不足があっただろうか。とにもかくにも、私は人数を持っていない以上、思うに益なし。
口惜しき次第である。」

そのように語ったとのことだ。

このような大事の事を、一体誰が聞き伝えたのだろうか。しかし私は確かに、人が語っているのを聞いた。
不審なることである。

備前老人物語



左吉の容貌起居は他に優れたことによって

2019年09月02日 15:54

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 16:40:38.13 ID:RmXpuKDJ
石田治部少輔三成は幼名・左吉、その父は佐吾右衛門で江州石田村の地士にして一村の長で
あるが、家は貧しく左吉を近郷の真言寺の小小姓とした。

ある時に秀吉公がこの寺へ参詣し、左吉の容貌起居は他に優れたことによって、住持に乞う
て近習の臣とし、次第に昇進して江州佐和山18万石と代官所7万石の合わせて25万石を
領知した。

――『志士清談』



さては宇治・淀川の運上は万石に及んで

2019年07月24日 16:33

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 16:25:33.09 ID:aHDSHdOS
23万5千3百石 石田治部少輔三成

三成の先祖は江州粟津ヶ原で木曽義仲を射落とし、その忠賞によって右大将頼朝より豆州に3千町を賜った
石田判官為久にして大織冠(藤原鎌足)の末裔である。

元々は三浦一族であるが、三浦家が衰微すれば共に流浪し、為久より八世の石田藤右衛門尉為成という者が
江州の山家に居住した。二子あって次男を左吉宗成と称す。後に所謂、石田治部少輔三成と称すはこれなり。
嫡子は木工介重成という。

しかるに左吉宗成は穎悟聡明、幼くして文武の道を学んでかつ諸芸に達し、良将に仕えることを望む。時に
太閤は播州半国を領し姫路城にあって、羽柴筑前守と称す。左吉はこれを聞いてここに至る。太閤は左吉の
由緒才智を憐れみ3百石を賜った。時に18歳(原注:一説に150石で右筆に出たという)。

後に太閤が中国三州の主となった時、家人の領地をあまねく加増した。石田は新参だが忠勤によって5百石
の新恩を加えた。この時に太閤は曰く「ただ所存の旨を申せ」と。石田は恩を謝して曰く、「そればらば、
宇治・淀川の両脇に毎年生じる荻と葦を、郷民らはほしいままに刈り納めていますが、この運上を賜ったな
らば恐れながら5百石を返上して、かつ1万石の軍役を勤めましょう」と。

往古よりこの運上を取って来る例ではあるが、その才を試すためと太閤は思案あってこれを許した。また軍
役については追って申し付けるとのことであった。石田は大いに喜び宇治・淀の川上から数百里川下まで生
じた葦・荻を、1町にどれくらいとの運上を定めて刈り取らせたところ、その穀高は幾許であった。

その頃、信長は波多野石右衛門大夫秀治の追討をして太閤が先手の大将であった。時に左吉は団扇九曜に金
の吹貫を垂れた旗を先に立て、華やかに鎧をつけた武者は金の吹貫を皆一様に腰印とし、数百騎を纏って遥
かに引き下って押し来る。

太閤は顧みて怪しみ、軍使を馳せて問うと石田佐吉宗成と答えた。「さては宇治・淀川の運上は万石に及ん
で、今度の軍役を勤めたのか」と、太閤はますますその才智を感心なされた。かくて後に太閤は天下の主将
となり、恩寵はなお深く、ついに江州佐和山23万5千余石を賜り、官四位に至って五奉行の随一となった。

――『古今武家盛衰記』



三成元忠ノ遺臣ヲ宥ス

2018年07月23日 18:27

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 06:24:23.95 ID:7+1YOzxD
三成元忠ノ遺臣ヲ宥ス

元忠(鳥居元忠)の茶道(茶坊主)に神崎竹谷という者がいた。すでに伏見城は破れて元忠
最期の時、竹谷は敵の大勢の中に駆け入り散々に切って廻ったが、敵兵は折り重なって

ついに竹谷を生け捕り、石田(三成)に注進した。石田は竹谷を召し出して伏見城の始終を
つぶさに問い、元忠の忠信類なきを聞いて、はなはだこれを感じた。石田は竹谷に向かって、

「新太郎忠政は父の戦死の有様がさぞかし気がかりであろう。汝は急ぎ関東に下って合戦の
次第を忠政に語るのだ」と言うと竹谷の命を助け、あまつさえ伝馬に乗せて東国に送った。

忠政は竹谷の物語りを聞いて亡父の忠死の潔きを知り、討死した家士らの妻子もみな最期の
様子を聞くことができたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(鳥居家中興譜)』


それ故に、私は未だ身の養生を

2018年03月05日 20:52

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 22:20:27.95 ID:+ByGJBiR
関ヶ原の合戦後、石田三成小西行長、安国寺恵瓊が磔にされる前に洛中を曳き廻されている時、
三成はある家の前で「茶を呉れよ!」と高らかに言った。
これに亭主の老女、茶を持って出て
「御いたわしや、茶を参らせ給え」
と差し出した。三成はこの茶を快く飲んだ。

この時、亭主の老女、鳥柿(干し柿)を盆に摘んで茶碗に取り添え、「これを御菓子にて茶を参り給え」と
言ったが、三成は
「汝の憐は祝着なれども、このごろ腹中を患い、未だとくと本復せざる故に、柿は禁物なのだ。」
そう言って茶ばかり飲んだ。

小西行長が後で
「これから首を斬られる身に、養生は無益である。老女の志と言い、差し出されるままに
菓子を食うべきだった。」
そう言ったが、三成は小西の方を振り返ると

「貴所は心得ぬことを言う人かな、今日河原に引き出されて首を討たれる瞬間まで、世間の変化を
予測することは出来ない。それ故に、私は未だ身の養生をするのだ。」

そう、荒々しく答えたという。

(関原軍記大成)

茶や水の代わりの干し柿、ではなかった



678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 12:33:52.33 ID:2UAVq0U8
>>677
引き回されてるのに茶をくれという自由はあるのか、意外と人道的?

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:17:05.78 ID:22URxcVa
>>677
???「こちら大きな腕の温い茶と小さな腕の熱々の茶からお選びください」

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 01:44:44.87 ID:AWrYLnfC
>>679
?「何となくひねこびていかにも器の小さい感じがする」

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 16:29:27.74 ID:/Z2JltW5
>>680
光栄自重しろ

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 02:12:02.40 ID:286OQfuo
うでのちゃ??

潔く自殺などするはおと等の事よ

2017年05月04日 18:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/03(水) 23:16:46.81 ID:lqY/8zPQ
関が原の合戦で敗れた石田治部少輔三成が、家人をも召し釣れず、落ち行く勢の内に紛れていたのを、
田中兵部(吉政)の家人、田中伝左衛門が発見した

「治部殿こそおはしけれ!今は御運の尽きんとする時と覚えて候、留まり給え!」
そう言って走りかかり押しとどめた。しかし三成は否定した

「いやいや、名もなき下人なり、治部にはあらず。人違いし給うな。」

「見忘れさせ給うにや、田中伝左衛門にて候。関白殿(秀次)の所で、幾度か見参らせて候ものを!」
そういって押し捕えた。

その場所は近江の古橋という所で、先ずはその身柄を近くの寺に伴い、やがて陣所に引いて行、田中吉政
注進した。三成はその時一尺二、三寸の、放し目貫の脇差しを佩き、柿色の帷子一つを着て、袋に入れた
米五合ほどを腰に付けていた。

この脇差しの目貫は黄金の駒であったが、その裏には目貫が無く、伝左衛門が
「これはいかにさせたまいしか」
そう尋ねると、
「家臣が一人、付きまとっていたためこれを抜いて取らせ、これを印としてはや大阪城へ赴くようにと言って
落としたのだ。」
と答えた。そして三成は伝左衛門の方に向かい尋ねた

「父である石田木工、その他の人々はいかになりしや、知っているのなら知らせ給え。」

「木工殿は、妻子を刺殺し、その身は潔く御自害遊ばして候へ。その他の御方々も同じ道にこそ。」

これを聞くと三成は、快くうち笑って「ざっと済んだ」と言ったという。

まや伝左衛門が問うた
「大事の合戦に敗れし上は、何とて御自害候はで、かく捕われとなり給えるぞ」

すると
「潔く自殺などするはおと等の事よ。我等は左様なことはすまじきぞ。」
そうあざ笑っていたという。

(話園)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/04(木) 14:57:43.86 ID:4lFFQZWH
>>760
>柿色の帷子一つを着て
柿でも食べて汁がかかったのかな?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/04(木) 16:32:09.19 ID:KY2NjA1G
>>761
柿は痰の毒だから

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/08(月) 09:36:42.93 ID:x+e6fndU
>>761
柿渋で染めた地味な色のことだゾ

三成は亭主として

2017年01月24日 08:37

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 20:39:35.21 ID:92lx1g3g
石田治部少輔が七将襲撃事件の結果、佐和山に引退した後、徳川家康
伏見城より柴田左近を三成への使いとして出した。

柴田左近が佐和山に到着すると、三成は柴田と格の合う家臣の屋敷に彼を
案内させた。柴田が休息を取り行水も済ませた頃、三成が自身でこの屋敷に参り
「大儀であった。」
と、持参した弁当で彼をもてなした。これは佐和山城より持ってきたものだという。

後刻、城に上がり家康よりの遣いの内容を伝えた。その後
「風呂を焚かせたので入浴するように」との使いが来た。三成は客人を迎える
亭主として、欠けるところ無い振る舞いであった。

翌日、柴田左近は日の出の頃、佐和山を出立しようとしたが、そこに何と、三成自身が
見送りに来た。居室でしばらく雑談をし、出立するときは表に出て、門まで彼を見送った。
この別れのとき、三成は「これは葛籠ですが、馬に付けてお帰りなされ」と、
渋紙で包細引きで念入りに結ばれた物を柴田に渡した。
宿に着いた後それを開けてみると、そこには念の入った造りの小袖が5つ、良き拵えの
脇差しが一腰あり、それには『百貫』との折紙が付いていた。

この頃、百貫の脇差しなどというものは希少で、また小袖5つの土産なども聞いたこともない
時代であった。
この時代の百貫というのは、現代の千貫よりも価値が高かった。
また本阿弥の折紙が添えられているのも、殊の外稀なことだったのである。

現代のように上使というような事も、奉書などというものも無かった。
慶長4,5年の頃を覚えている者は、『ここに言われている通りだ』と答えるだろう。
現代ではこういった重々しいもてなしは多く有るだろうが、当時は沙汰もなかったのである。

(慶長年中卜斎記)

石田三成が家康からの使者を心を尽くしてもてなしたお話。
一般的な三成のイメージとはだいぶ違いますね。



533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 21:17:07.44 ID:GCNAERFQ
細かいくらいに気を利かせるけど、それがうまく嵌まることが極々稀な印象がある

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 22:57:20.58 ID:znPyROKP
>>532
>「風呂を焚かせたので入浴するように」
慶次「三成は気が利くな~」
義朝「…」

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 00:54:45.81 ID:kFsSwOgq
義朝さん、お土産には木刀入れときますね

昔は蒲生家にて横山喜内、今は石田の家中で蒲生備中

2016年10月02日 15:30

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 03:27:28.14 ID:3fVb6HB2
蒲生備中真令(頼郷)は石田三成の家中でも世間に知られた勇将である。関ヶ原の前、軍評定の時、
真令は「明日はひとえに必死と思い定めなさいませ」と、言った。島左近が、「明日は先陣に進んで、
忠義を冑として打ち勝つことであろうに」と言うと、

真令はまた「昔から利を得ることは天の助けに依るものではありますが、軍勢の正しさと法令の厳しさ
との2つがあってこそ、利を得るかは決まります。よく胸の内を省みてくださいませ。ひとえに必死と
思い定めなされなければ、勝ちの半ばでありましょう。そうでなければ、再び御目見えは致しますまい」
と言って、座を立った。

真令はもとより敗軍を悟って、三成に必死を極めた言葉を出したのだ。かくて、関ヶ原において真令は
ただ一騎で三成の陣に行き、何事かを言うと、三成は打ち頷いた。真令は馳せ帰って競いかかる敵に
向かい、散々に戦ったところ、織田長益に出会い、

「昔は蒲生家にて横山喜内、今は石田の家中で蒲生備中として人に知られている者である!」
と、言った。これに長益が、「殊勝である。私に降参せよ」と、言い終わらないうちに、

真令は「これは何事ぞや!」と言い、拝み打ちに斬って長益を馬から打ち落とした。これに長益の
従者・千賀文蔵が槍で真令を突き通すと、真令はその柄を握って文蔵と引っ組んだ。しかしながら、
文蔵の弟・文吉が刀を取り直し、真令を刺してついに打ち取った。

真令の子・大膳は、「戦いの半ばで首1つを提げて父親に見せるようでは、功名も何になるだろうか」
と言うのを聞いて再び東に向かい、押しかかる敵に駆け合おうとしたのだが、父が討たれたと聞くと、

「まてしばし 我ぞ渉りて 三瀬川 あさみ深みも 君にしらせん(少し待っていてください。私は三途川を
渡って、あなたにその浅深を知らせましょう)」という歌を高らかに唱えて、自害した。

大膳は幼い頃から戯れを好まなかった。関ヶ原へ出陣の時、彼の母親は「私は汝が富貴になることを
願わぬわけではないが、武士の家に生まれた身は、昔から名を重んじるのが習いである。およそもの
2つは兼ね難いものだ。身を全うして名を忘れよとは、言えるはずもない」と言ったのだが、彼は父親と
ともに死んで、母親の戒めに違わなかった。

――『常山紀談』




石田三成、長曽我部

2016年08月10日 07:59

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 06:30:29.84 ID:KNtupSJv
石田三成、長曽我部

石田治部少輔三成は世では"みつなり"と唱えている。
しかしかつて三成に懇ろにしていた伊勢の一身田高田派の一向宗の寺
[この寺の名は忘れた。大寺である。今の上人は先帝の御弟で、奥方は津候の伯母である]
(※専修寺だそうです)
には、三成自筆の仮名文数通あり、皆"かずしげ"と書いてあった。
三を"かず"と訓じ、成を"しげ"と訓じていたのを、今は知る人もいない。
以上は津候の臣、藤堂主計、及び儒臣石川貞一郎の話である。

また津候の家に伝わる石田の仮名文一通にも、"かずしげ"と書いてあるという
津候の祖は三成と同時期の人であり、文通があってもおかしくないので、いよいよ世の誤りを知ることができる。

また長曽我部元親も、その時は"長曽かめ"と唱えていたと聞く。
長曽我部を仮名で"かめ"と書き、またはその四字に仮名をつけた書に、我部に"かめ"の傍書がある。
また拠るところでは、我部をそのころの書に亀と書いた物もあるという。
以上を朝川鼎が語った。

林述斎はこれに関して、以下の話をした。

今人の苗字も近頃唱え違いが多い。
増山は"ましやま"である。建部は"たけべ"である。
なのに人々は、"ますやま"、"たてべ"という。
この類はいかほども有る。松浦は"まつら"であるのに、世では"まつうら"という。

(甲子夜話)



968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:10:30.76 ID:1kSLhF/I
ワタベとワタナベ
ソガワとソゴウ

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:25:31.19 ID:GVKjmEBJ
>>967 三成が「かずしげ」?。うーん本当かな。

囲碁マンガで「ヒカルの碁」の中で、藤原佐為というのがいるが佐為=さい ではなく、
当時の読み方からいえば、「すけため」である、という説があった。音読みと訓読みと
当時の慣例により。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:29:35.77 ID:jh0yf/bh
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5177.html
これにも、「かつしげ」と読むとあるな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 14:29:14.11 ID:BlSChZfX
>>967
この時代でさえわからなくなるんだから、まして現代ではなぁ。

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 16:23:02.25 ID:bEkGN4Oq
にしこりとにしきおり

島左近は石田三成の寵人である

2016年07月05日 21:29

島左近   
803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 03:08:44.08 ID:Przl9z/j
島左近石田三成の寵人である。この左近の勧めによって石田は逆意までも起こした
のである。左近の心の奥に潜む考えは、石田が天下を取ったなら、つまるところ天下は
自分のものだと思っていたのだという。左近の知行は三千石である。

島左近ハ石田カ寵人ナリ此左近カススメニヨリテ石田逆意モオコリタリ左近底意ハ
石田天下ヲトリタラハ畢竟我モノト存タル由左近知行ハ三千石ナリ)

――『武功雑記』



豊太閤の御木像

2016年05月14日 08:29

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:09:50.26 ID:WXNRv0gj
この年(慶長16年)、御城中(弘前城)北の郭に御建神を御勧請遊ばされた。御建神の
御神体は豊太閤の御木像である。はじめ為信公が御殿中で御祭り遊ばされたのであるが、
このたび、(津軽信枚が)一社御建立遊ばされた。

――『小山内氏古文書』

慶長十六辛亥年御城内ニ御館神堂社御勧請豊太閤ノ木像

去る28日、黒田豊国会長(長成)は金子・金山両氏を従えて、本所大手町にある津軽邸
に至り、金子氏が先般、東北地方巡回中に取り調べられた結果、豊太閤の木像が古来
津軽家に御建神と称して祭祀され、今日現に本所の邸内に稲荷として安置してある事実を
発見したのをもって、同家の許諾を得てこれを参観せられた。

この木像は太閤の存生中に刻まれた3体のうちの1つで、1つは大坂城に安置してあり、
同城とともに焼失し、1つは阿弥陀ヶ峰に安置し、のち日光に合祀となる。

今津軽家にあるものはすなわち石田三成に賜ったもので、その形は極めて小さいけれども、
一見あたかも生きているかのように自ら威望を備え、千古の大豪傑たる風采を観るに足る
名作であるという。

その由緒など大いに歴史家の参考に資すべきもの少なからざれば、近日詳細の取り調べを
世に公になされるとのことである。

――『青森県史(明治三十年十月三十日 日本新聞)』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:47:24.25 ID:xQ4W6Xyn
これの事だな

http://news.infoseek.co.jp/article/serai_47201/


721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:49:26.32 ID:sTcOIiXM
秀吉、なのか

722 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/05/14(土) 13:38:19.69 ID:SdKSqZae
下がり藤の家紋に加えて、冠が唐冠なのが決め手。
秀吉は唐冠を好んだ。
他の武将の肖像画と比較すると分かりやすい。


石田三成について伝わる話によると

2016年03月24日 17:09

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 00:20:02.39 ID:qtiUgdxf
石田三成について伝わる話によると、太閤秀吉の寵臣である石田治部少輔三成は近江国石田村の地士、
佐五右衛門という者の子であったという。この佐五右衛門は久しくこの土地に住んでおり、村邑の長と
称していた。


この妻が解任し一子を儲けた。佐吉と名付けられ、両親から限りなく寵愛された。
弱冠に及んで智計群を越え、器量もまた類いなかった。父母の喜びはさらに増したが、その家貧しく、
育て難かったため近隣の真言宗の寺に扈従として預けた。

ある時、羽柴秀吉がこの寺に参詣した折、佐吉が容貌艶やかで、立ち振舞も勝れていたのを見ると、
秀吉は彼を召して、夜には閨を同じくし、玉枕を並べた。

それより次第に立身し、二十万石の大名と成ったのだという。

(伊逹秘鑑)

珍しい、石田三成が秀吉の寵童だったという記述である。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 13:44:06.56 ID:HBQcswxs
正澄が完全に無視されてるな

大山伯耆、親子3人を討つ

2015年12月04日 13:56

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 13:41:54.43 ID:jcpUOsPd
ある時、石田三成の将・島左近の家士に罪科があり、下河原平太夫は左近の眼前で
放し討ちするように言い付けられた。

しかし、下河原は勇者であったがどうしてなのか切り損じ、かの者は負傷しながらも
走り出た。その時、大山伯耆という未だ弱冠にも及ばなかった者が次の間に居合わせ、
かの者を組み止めて刺し殺した。

伯耆は、「これほどの事を、私に内意を知らせて下さらないとは遺恨である」
と言い捨てて、門外に出た。「かの罪科人の父と弟は遠所にいる。きっと刺客が
向かうに違いない。その一部始終にも加わろう」と伯耆は思い、その地へ赴いた。

しかし伯耆は思い巡らせて、「本道は刺客が遮るはずだ。もし彼ら親子がこれを
知って逃れ走るとすれば、きっと脇道であろう」と考え、急いで脇道へ向かった。

案の定、刺客が向かう前に親子はこの事を漏れ聞き、僕も伴わずに父は馬上で、
子は徒歩で脇道から逃れていた。そこへ行き会った伯耆は2人がそうだと見て、

「まず、父を斬るか子を斬るか。父を斬れば、子は見捨てて逃げるかもしれない。
だが、子を斬れば父は絶対に逃げまい。それに馬上の父を斬れば、徒立ちの子は
素早く身構えて戦えるが、子を先に斬れば父は馬から降り立つせいで隙があろう」

と分別した。伯耆は2人の側を過ぎざまに抜き打ちして、まず子を斬り殺した。
そして、父が馬から飛び降りるところを走り寄り、父をもまた、たちどころに
斬り殺した。この時、伯耆は軽傷一つすら負わなかった。

親子3人をまんまと討つことができたのは、例の少ない手柄である。下河原は自分が
言い付けられた者を仕損じたが、人々はむやみに謗らなかった。彼には年来たびたびの
武功があったためである。伯耆は後に三成の直参となり、島に劣らぬ勇将となった。

――『武将感状記』




石田三成はかねてから謀反の志があり

2015年11月28日 17:18

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 01:18:56.40 ID:d+tbKNRi
 石田三成はかねてから謀反の志がありました。一条国広を召し抱えて佐和山に住まわせ、
正宗、行平等の偽物を拵えさせました。それらを殿下より拝領したと申して、諸家方へ送りましたものは少なくありません。

 そうでありながらも、一条国広は名鍛冶なので真偽の目利きが甚だ難しいものであります。
(本阿弥行状記)




691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 08:05:05.30 ID:gYz5S+MF
じゃあ秀康に贈った正宗は

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 08:56:36.46 ID:fmNnc/Pk
 徳川家康はかねてから謀反の志がありました。一族から娘を人質に取り江戸に住まわせ、
その娘を養女に迎えました。それらを自分の娘と申して、諸家方へ嫁がせたものは少なくありません。

 そうでありながらも、娘は気品のない田舎者なので真偽の目利きが甚だ難しいものであります。

石田三成の対面(武功雑記ver)

2015年10月19日 14:01

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:31:30.50 ID:Z9MZl0gp
関が原の合戦の後、石田三成が生け捕られた時、紺の帷子を被って小袖を許されていた。
藤堂宮内(高吉)が来て、

「私は治部少輔の恩を受けたものなので、ひと目会いたい」

とたって望んだため、対面を許された。
宮内は「さてさて」と何か言おうとすると、三成は

「いやいや、最早何も言わぬものだ。」

そう答えた。

さて、この時捕らえられた、石田三成小西行長安国寺恵瓊の3人に時服一重づつ、
台に乗せて下された。

小西は言った
「一時の寒風を逃れよと、小袖を下さること忝ない。
諸人に対面するのも面目がないが、身に刀を立てぬ宗旨ゆえ、このように見苦しき目に逢ってしまった。」

安国寺は小袖を見て
「それだけか」
と言って着用した。彼は諸大名に会ってもずっと無言であった。傷が痛むように見えた。

三成は小袖を見て
「これはどこから来たものか?」と聞いた。「上様からである。」
「上様とは誰か?」
「いや、内府様の事だ。」
これに三成
「さてさて、上様はこの前他界されたばかりだというのに、早くも内府を上様と呼ぶのか」
それだけ言って小袖を着ようとしなかった。
諸大名には雑言を言っていた。

(武功雑記)




林半介の殿

2015年10月15日 16:02

林半介   
842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 14:08:42.86 ID:Lpm+lIzk
林半介の殿

林半介は美濃安八郡青柳村の百姓であったが、石田三成に仕えて禄700石の使番となった。
石田は挙兵する際、佐和山城中の書院で家臣達と宴を開いて、
 「今回の一大事、運は天命に任した。私にはお前たちの武勇だけが頼みだ。褒賞は武功によって思いのままぞ」
と約束の印として酒盃を座の中央に置いた。そこに末席にいた半介、進み出て
 「今回の戦、一番手柄はともかく二番手はこの半介とお思いあれ!」
とその盃を飲んでしまった。周りは生意気な奴だと思ったが、半介は杭瀬川で一番首を挙げた。

西軍が引揚げる最中、稲葉助之丞が金の切裂の指物を指して宇喜多勢の殿を、半介は白づくしの指物を指し石田勢の殿を務めた。
本多忠勝の軍勢に向かってただ一騎、我に敵う者なしと奮戦する半介の様を見て、
東照宮も「なんと豪胆な奴だろう。我こそ武功はと思う者はあの武者の草摺(下半身を守る武具)を貰っておくとよい」と仰せになられたそうな。

『常山紀談』
前半の宴会の件はどっかで似たような話を聞いたような気がする