増田長盛の切腹

2016年05月25日 19:52

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:12:33.35 ID:4/B3iYED
増田長盛は関ヶ原の合戦のあと、高野山に登り出家し、その後高力左近太夫(忠房)に預けられ
武蔵国岩槻に置かれた。

大坂の陣が始まろうとした頃、高力は台命を承り、増田に面して

「御辺は太閤に御恩のある方ですから、豊臣家の様子を見たいという願いの有ることでしょう。
であれば、大阪に上られよ。

これはわたしの私的な考えでは有りません。駿府より免しのあった事です。」

増田はこれを聞くと
「大御所は天下の人君なればこそ、いまこの仰せを承りました。
しかし、私はもう老人です。これから大阪に上り、新付の兵を下知しても、たいした働きは出来ず、
返って私を抜擢した太閤の御眼力に徒なす恐れもあります。
ですのでこのまま、配所にて生命を終わりたいと考えています。」

大御所・徳川家康はこの報告を聞くと、「兎にも角にも本人の心に任せよ」と答えた。

その後、豊臣家が滅亡すると、増田は高力に対面し
「両御所が大阪に御出陣の時より、どうにかして主君の終わりを承らないようにと祈り続けていましたが、
天命によって終に滅びました。であるのに私は、今後何を楽しみに存命すべきでしょうか?
身の御暇給わり候らへ」

そう申し乞うて、切腹したという。

(新東鑑)




766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 18:50:30.94 ID:6Eq4MEMp
あれ、増田って息子を大坂方にしたせいで切腹したんじゃなかった
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この身の暇を給わりますように

2014年09月08日 18:57

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/07(日) 23:49:46.11 ID:kKUD18SA
増田右衛門尉長盛は関ヶ原以降、高力左近に御預けとなり、武蔵国岩槻に差し置かれた。
その後、大阪の陣のため出陣がある、という時、高力左近は仰せを承り、増田に語った

「あなたは豊臣秀頼の御恩深き人です。今回の大阪の様子、秀頼の行末も見届けたいと
思われているでしょう。ですのでどうぞ、ここを出て大阪城に入城なされませ。
これは駿河の家康公が、お許しになった事です。」

増田はこれを聞くと
「家康公は誠に、天下の仁君であられる。その仰せを、私がどれほど有難く存じていることでしょうか。
尋常の大将では、それを許すことはないでしょう。

ですが、私は現在孤独の身分であり、大阪に参って新規の浪人たちを下知したとしても、おそらく
はかばかしい活躍をすることが出来ず、それは却って、私を抜擢した故太閤の御眼力に疑いを抱かせる
結果となるでしょう。

それは私にとっても残念なことでありますから、私はこのまま、この配所において生涯を終わりたいと思います。」

この事を家康は聞いて、「兎も角も、彼の心に任せよ。」と言った。


大阪城の落城を以って大阪の陣は終わり、秀頼は切腹して果てた。
増田長盛は高力左近を通して、家康に願い上げた

「今度の一乱の終わりを承りました。時節は参りました。
秀頼公が御自害された上は、何を望みに存命すべきでしょうか。
よって、この身の暇を給わりますように。」

そう申し置いて、切腹して果てたとのことである。

(明良洪範)




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 01:22:36.21 ID:1FrQwl0e
昔の人はよく自害できるよな
痛覚が鈍感だったのかな?

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 01:43:05.49 ID:mNnIrhoM
息子に連座ではなく自ら死を賜ったのパターンか
ないこともない感じ

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 09:09:52.88 ID:0MJuT7GH
>>164が泥酔すると、痛覚が鈍麻し自害しやすくなるので注意すべし

錦の羽織の大将

2013年11月02日 19:07

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 17:30:55.86 ID:jZSxebqC
大阪夏の陣、八尾・若江の戦いから5年ほど経った頃のこと。
ある日、藤堂高虎家臣、磯野平三郎(行尚)の屋敷を一人の老女が訪ねてきた。
平三郎への面会を求めてきたため、これと対面すると、老女はこのように尋ねてきた

「先年、大阪表での合戦において、あなたは錦の羽織を着た大将を御討ち取りになり、
その差料、銘の付いたものを三腰まで添えて手に入れられたそうですが、それに相違ないでしょうか?」

「その通りである。しかしその大将が誰であったか、未だに名は知れぬ。
そして三腰のうち、太刀は澤田但馬守殿の家臣に、戦場で助けてくれた志への謝礼として与えた。
その他の二腰と錦の羽織は、私が所持している。」

「そうですか…。何卒!その品々を一目見せていただけないでしょうか!」
平三郎は老女があまりに熱心なことを不審に思い

「其方、女の身でありながら武具を見て、どうするというのだ!?」
となじると、老女は涙を流し、言った

「何を隠しましょう。あなたが御討ちになったその大将は、増田兵部(盛次)殿なのです。
私はその兵部殿の乳母でございます。

あの頃、兵部殿は大阪方にお味方されましたが、これを秀頼様は殊の外お喜びになり、
お手で自ら、錦の羽織と二腰の太刀を下され、組下の足軽その他三千人の大将に
仰せ付けられました。
この時、私は女のことですから何のわきまえもなく、兵部殿が元の大将に立ち帰られたように思い、
大喜びしたものです。

そして5月6日の夜中に出陣され、二度と戻っては来ませんでした。

付き添った者達が逃げ帰ってきて、彼らに尋ねても、『平野の近くまでお伴したが、その後は知らない』
と申し、又は平野で討ち死にしたのを見たものがある、とも聞きました。

口惜しく、悲しく、せめて亡骸を見つけ出し弔いたいと思いましたが、女の身であり尋ねに出ることも出来ず、
その日を命日と考え、水を手向け回向をいたしましたが、目当てにすべき墓所もなく、たいへんに
心苦しい月日を送ってまいりました。

ところが、この頃人の噂にて、藤堂様の御家中の磯野平三郎という人が、錦の羽織を着た大将を打ちとったが、
その姓名もわからない、という話を聞きました。これこそ!と思い、ここまで参ったのです。」

平三郎は尋ねた
「それだけでは本当のことかどうか判断できない。その錦の羽織は如何なる紋柄で、何色であったか?」
老女はそれに詳しく答えた。そこで三腰の刀について尋ねると

「太刀は備前兼光、脇添え石船切と銘のある一尺八寸のもの、馬手指し(短刀)は吉光の九寸五分のものです。」
と答えた。

「全て相違無い。今は疑いも無くなった。」
平三郎はそう言うと羽織と刀を取り出して老女に見せた。そして彼女の心底を察し

「これらの内一つ、何であっても望みにまかせ、あなたに遣わそう。」

と言うと、老女は
「この吉光の短刀は、兵部殿がお生まれになった時、父君の右衛門(増田長盛)殿より遣わされた
品です。そのため、兵部殿は常にこれを、身から離さず持たれておりました。
これを私に頂ければ、仏壇に置いて、回向をしたく思います。」

平三郎は老女の望む通りにその短刀を与えた。

この事により、磯野平三郎が大阪夏の陣の折に、増田盛次を討取ったという高名が初めて判明した。
そこで元和五年十月に、追って三百石が加増され都合千石となり、また鉄砲頭を申し付けられた。
(元和先鋒録)




470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 14:31:17.57 ID:KQLn7oWZ
>>468
平三郎って磯野員昌の孫なんだな
石田三成の逃避行に最後までついてったのもこの人
エピソード二つもあって出自もそれなりなのにドマイナー

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 18:36:37.00 ID:f9c0yZEa
>>470
この人もなかなか数奇な運命を辿ってるよね

増田長盛、三成に怒る

2011年01月21日 00:00

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 01:27:28 ID:AmREw0Fa
さて、利家夜話収録の、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5048.htmlによって深まった
前田利家と秀吉の奉行衆との対立から起こったおはなし。

豊臣秀吉の死の3年ほど前というから、慶長元年(1595)頃の話か。

その頃秀吉の奉行衆、石田三成増田長盛、長束正家らは、冷え切っていた
しかし秀吉の信頼深まり秀頼の後見となった前田利家との関係をこのままにすることも出来ず、
奉行たちは関係の改善を模索し、利家の重臣である徳山五兵衛、岡田長右衛門などに
働きかけていたが、なかなか芳しい結果を得られなかった。。

そんな中、石田三成が事前に連絡もなく利家の元を訪れ強引に対面し、それまでのことを謝罪、
関係修復を図るという挙に出た。

これを知って怒ったのが増田長盛である。三成は同じく利家との関係改善を模索している、
しかも同僚である増田にすら、その事を知らせず単独で行ったのだ。

増田は三成のやり方に激怒した。こうなったら意地でも三成の力を借りず、自分独自の力で
前田利家との関係を築かねばならない。彼は家臣に

「誰か前田家の家中に知っているものは居ないか!?」

と尋ねると、右筆の者が

「昔私と同僚であった南部小兵衛と言う者が、現在前田家で大納言(利家)様の
馬廻りをしております」

と言う。

「ならばそのつてを使うのだ!」

調べてみると南部小兵衛は前田家において、重臣の岡田長右衛門に目をかけられていることが
解った。そこから岡田長右衛門、神谷信濃といった前田家中枢の者たちに繋がりをつけ、
ついに前田家重臣筆頭というべき村井長頼を動かすことに成功。
村井の口利きで増田長盛は利家と対面を果たし、今後、懇意にすることを約束した。

この事があったために増田長盛は、そして石田三成もせっかく利家との関係修繕に成功した自分を
一切頼らなかった増田の態度にあてつけを感じたか、彼らは表面上は良い関係にみえても、
内側では互いに激しく憎んでいた、という。


もしかすると関ヶ原に置いて増田が、三成に同調する体を見せながら、東軍に西軍の内情を
知らせていたのはこの事があったためか、なんてことも想像させる、増田長盛、三成に怒る、
と言うお話。




474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 00:45:03 ID:AtWaAOex
そんなこと思うのも仲が良いからこそって感じだな

こういうのは現代でも心当たりがあるな
お互い意地を張らなければ修復できるんだがなぁ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 18:50:52 ID:rZpsgktC
佐渡さんのように私心を捨てれば無問題…なわけねー

増田盛次の討死について、『元和先鋒録・附録』より

2010年03月05日 00:09

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 18:15:36 ID:KGjRQfAN
空気読まずにスマン。
まとめ読んでて思い出したんだが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3731.html
増田盛次は藤堂家臣磯野平三郎に討ち取られたわけだが、当初は誰なのか解らなかった。
そこへ増田家に仕えていた老女が噂を聞きつけて尋ねてきた。
老女の話と、その若武者が身に付けていた武具が一致した為、ようやく身元が解った。
磯野は老女に盛次の形見として短刀を与えたと言う。

で、藤堂家でこの一件についてこんな論評があった。

甲「あれほどの勇士なら最初から討死は覚悟してただろうね。
それなのに、武器や甲冑、羽織の裏に名前を書いてなかった。
若いから興奮してて、細かいところまでは気がまわらんかったのかな?」

乙「盛次の立場になってみろよ。父の長盛は幽閉されていたんだぞ。
自分が大坂方について討死したと知れたら、長盛は徳川家に死を命じられる。
だから大坂方へつきながらも名前をだせなかったんじゃね?」

甲「なるほど。親孝行者だなあ。でも、長盛は自殺させられてるし。結局、ばれたんだな」

乙「大坂の陣が起きる以前には真田父子や長宗我部さえ助命されてる。
けど、豊臣が滅亡しちゃえば、もうジャマものはない。長盛やっちゃっても誰も文句いう奴はおらんからな。
ぶっちゃけ息子が大坂へ入城しようがしまいが殺されてたと思うよ。
そのあたりは若い盛次には読めなかったんだろうね。でも父を思う心は尊敬するよ」

『元和先鋒録・附録』より。多分、記録者の論評。





増田長盛・盛次親子の大阪の陣

2010年02月28日 00:07

268 名前:(1/2)[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:16:14 ID:LLCPYtkW
増田長盛の子に、兵大夫盛次という男がいた。
関が原後、処罰を受けた父とは異なり、徳川義直に召抱えられた。

さて、大坂冬の陣において、盛次は義直に従って出陣した。
しかし、旧主への想い捨てがたかったのだろうか。
大坂方が弱体だと聞けば涙を流し、寄せ手が苦戦していると聞けば大いに喜んだ。
これを聞きつけた徳川家康は、怒ることなく感心した。
「さすがは長盛の子よ。豊家の恩を忘れぬ志、見事じゃ」

こうしたことがあったからか、夏の陣ではお許しがあり、盛次は大坂方へ加勢した。
彼は豊臣秀頼から賜った赤地錦の羽織をつけ、若江の陣で味方が敗戦するなか、独り奮戦した。
そして、沢田但馬の従者と組討し、今にも止めを刺そうというところで、藤堂高虎配下の磯野平三郎に討取られた。
首を得たものの、平三郎らは盛次の顔を見知らなかった。
やがて、分捕りした刀が、秀吉から長盛への下賜品と分かり、正体も知れたということである。

269 名前:(2/2)[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:17:16 ID:LLCPYtkW
一方の増田長盛。
彼は関ヶ原の折の責を問われ、高力清長に預け置かれていた。
大坂の陣が起こると、清長は長盛へこう告げた。
「あなたは豊家の御恩深い身の上。秀頼様の行く末、さぞ気になるところでしょう。
 大御所様は、あなたが大坂へ入ることをお許しになりました」
盛次のことがあったゆえの沙汰だろうか。
だが、長盛は答えた。
「大御所のご配慮、まことにありがたく存じます。
 しかしながら、ハハハ、今のそれがしはこの通り落ちぶれ、家臣の一人もおりませぬ。
 大坂へ参り、新参の浪人の下知をしたとて、さしたる戦ぶりはお見せできますまい。
 かえって、それがしを重用してくだすった太閤殿下の名を汚すことになりかねず、それこそ無念。
 このまま、配所で生を終える所存です」

やがて、盛次が死に、豊臣家が滅亡したことを、長盛は清長から知らされた。
「この上は命を長らえる理由もない。どうか、お暇をいただきたい」
長盛はそう清長に請い、切腹したという。




270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:19:15 ID:SlIwXkrV
でその時、増田盛次を大坂城に入れた責任を問われて、父親の増田長盛は処刑。

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:34:44 ID:OR1RbpWC
>>269>>270
なんという樅の木は残った。



関連
増田盛次の討死について、『元和先鋒録・附録』より
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3751.html
[ 続きを読む ]

増田長盛、一刀両断に

2009年12月16日 00:07

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/14(月) 22:39:46 ID:ml9ZV601
増田長盛にも刀で敵将を一刀両断したっていう逸話があったよね?
今ぐぐっても見つからなかったんだけども



96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/15(火) 17:42:34 ID:qKMWnRK/
>>81
増田長盛のは根来攻めの時の話だな

別スレから転載
>前略~なんだかんだで追いつめられた根来衆、
>凄腕の津田堅物という人物が最後まで抵抗をつづけ白兵戦
>津田は組み伏せられても起き上がり、堀の軍勢相手に仲間の杉本荒法師と無双状態
>さらに大谷、増田に襲いかかるが…… 以下原文↓
>
>「大谷慶松増田長盛ニ 杉本坊津田堅物切テ掛ルヲ
>大谷一声喚テ杉本ヲ突伏レバ 増田ハ津田ヲ一刀ニ討倒シ
>西谷延命院ト戦ヒ是モ同ク切倒ス」

大谷慶松は大谷吉継ね




98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/15(火) 19:23:39 ID:WV9ePtc4
>>96
ありがとう! そうか津田監物か。
以前監物を調べたときに見かけたんだな、すっきりした。