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玉にもぬける一柳か

2022年11月24日 19:01

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 21:44:48.05 ID:NGU3s3zC
豊臣秀吉による小田原征伐の御陣中へは、御公家方の方々より、細川幽斎へ狂歌などが
沢山に送られた。
山中城攻めで一柳(直末)が戦死したが、この事を一女院様より送られたのが、狂歌の初めであった。

 あはれなり 一柳のめも春に もへいで渡る野べのかふりを

幽斎は返歌に

 いとけなく ぐそくをかけて鉄砲の 玉にもぬける一柳か

こういった御狂歌の返歌、また道記などを大帖(大きな屏風)に仕立てて秀吉公の御目にかけた所、殊の外
御感になったと聞こえた。
その道記、狂歌の大帖(屏風)がもし今も現存するとすれば、御出家方の元に有るだろうとの事だ。

川角太閤記


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とぼうとぼうとするぞあぶなき

2022年08月21日 14:45

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/20(土) 21:02:08.00 ID:bRKyMkPb
玄旨(細川幽斎)と里村紹巴が同道して鞍馬寺に花見へ御出の時に、岸より下人が飛び降りようとしていたが、
老足で心のままにならない様子を見られて

とぼうとぼうとするぞあぶなき 玄旨

人玉は やまひの床の休らひに 紹巴

寒川入道筆記



むくりむくりと あたまもたくる

2022年08月18日 19:02

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/17(水) 20:55:57.03 ID:tN2INKCJ
細川の幽斎、ある時(里村)紹巴の所にお尋ねになった時、丁度紹巴は沈酔しており、正体無く
臥せっていた。幽斎はこれを見て、「いかに紹巴いかに」と、二、三度、四、五度起こされたが。
枕を上げてはまた寝、枕を上げてはたどたどとしていたが、目も覚めずむくむくとしていたので、
(目も覚すむくゝゝとしてゐられたれハ)

むくりむくりと あたまもたくる 幽斎

すると

うころもち ありともしらず 野へにねて 紹巴

そのように言って起きられた。

寒川入道筆記

泥酔して寝ていても下の句を読むと咄嗟に目を覚まして句を継ぐあたり流石代表的連歌師



339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/18(木) 21:35:36.85 ID:u/CgpXqt
>>338
本多サド「これが本当のネタフリ」

細川藤孝の出生などについて

2022年03月04日 19:38

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/04(金) 19:06:52.10 ID:yxs+maSQ
或る本に、細川忠興の父は兵部少輔藤孝と云う。剃髪して幽斎と称し、従二位法印に叙任された。
彼は(足利)尊氏将軍十二代の後胤・義晴公の四男であった。母は環翠軒宣賢(清原宣賢)の息女であり、
飯川妙佐の妹であった。
(別記に、幽斎は三淵伊賀守(晴員)の子であると云う)

義晴公が東山鹿ヶ谷に移住された時に、清原宣賢の娘が寵愛され、程なく懐妊して男児を産んだ。
義晴公の嫡男は義輝公、二男は北山鹿苑院の周暠という。三男は南都一乗院の御門主覚慶(後に還俗され
将軍となり義昭公と称し、慶長二年八月二十八日、六十八歳で薨去された。霊陽院殿と諡す)

四男が即ち藤孝であるが、彼の母が藤孝を連れて、三淵伊賀守に嫁いだ。

後年、藤孝は細川右馬頭元常の養子となった。また現在、細川氏を長岡氏と言うのは、昔日藤孝が、
京都勝竜寺での合戦に戦功があり、故に織田信長公より、その息忠興へ、別に長岡の荘を所領として
拝領したことに依るのだという。

新東鑑

細川藤孝の出生などについて



79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/05(土) 15:13:49.23 ID:Eoip3YAd
新東鑑は刊本の序文、跋文によると、安永2年(1773年)までに氏名不詳の近江人某氏が編纂したということですが、
誰が書いたにしろこの頃までにそういう話が広まってて、細川家でもいちいち否定とかはしなかったってことか

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/05(土) 15:53:35.20 ID:n7DgMSO6
そもそも細川家の家史である
「綿考輯録」の初っ端に「実は将軍義晴公御胤」と書かれているわけで

高国の謀

2022年02月24日 20:30

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/23(水) 20:12:51.68 ID:weA6aU+C
細川澄元細川高国は管領の職を相争い、畿内に於いて双方の与党の交戦が止むことは無かった。

ある時、高国が京都を去って丹波に逃れた事があった。澄元は威勢を京都に振るったが、高国は
散らばった兵を集め壮士を募って攻め上がり、船岡山に於いて相戦った。

この折、高国は謀として、弱兵を一陣とし、屈強の者達を二陣、強弓を選んで遊兵とした。

戦に当たり高国が激励したことで、一陣も弱兵ながら気を新たにし、敵と接するに及んで
一陣は澄元の前備えを衝き崩したが、中備えのために切り立てられた。
しかしこれによって澄元勢の前備え中備えが混乱している所に、高国の二陣の鋭兵が、
既に戦闘をして疲労していた澄元勢に当たった事で、澄元の部隊はいよいよ疲弊した。

ここに遊兵とした強弓の部隊が鏃を揃えて連ね放ち、箙を敲いて声を揚げ、軍勢甚だ盛んとなった。

澄元の兵は大いに敗れ、死傷者は数知れぬ程であった。

志士清談

戦に弱いと言われがちな細川高国が、巧みな戦術で細川澄元を破ったお話。



54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/23(水) 20:35:47.11 ID:fLcecSJp [2/2]
船岡山合戦のことなら大内義興と陶興房、尼子経久の率いる中国オールスターズが居ることを考慮したら高国側は負ける要素低い気もしないでもないですがどうでしょう?

細川政元は飯綱の法を行い

2021年10月12日 15:22

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 20:41:39.46 ID:kFj4sQth
植松左衛門尉(資信)が曰く、

「私は乱世に生まれて諸々の道を知らない。しかしながら武士はただ
下手でも文武の道を学んでこれを行おうとして過ぎることはあるまい。

神道仏道は至って善とはいえども、これを行おうとして禍を得る者は
多い。細川政元は飯綱の法を行い、管領の家は断絶したのだ」

――『南海通記老父夜話記)』



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 23:38:24.08 ID:8WidEI55
>>87
なんか前段後段で文意がつながってないような気がする・・・ 

「過ぎることはあるまい」だと「いくらやってもやり過ぎではない」→「どんどんやりなさい」って意味だよね?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 02:55:09.59 ID:LNSxAag1
>>87
魔法半将軍様の場合飯綱の法を行ったからというより
もっと別の因果からじゃないんですかね…?

90 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 08:20:11.90 ID:QEbcGYk+
>>88
史料叢書版の原文は「文武ノ道ヲ学テコレヲ行ントシテハ過アルベカラズ」
武士には文武を学び実践する以上のことはなくて他の道にとらわれると家を滅ぼすってことかと
ちなみに史籍集覧版だと単に「武ノ道」とあって植松は武辺の人だからこっちの方が正しいかもしれない

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 13:21:50.44 ID:2E9AxWS5
過=あやまち

学テ 行ントシテ と動詞には送り仮名付けてる書き方してる以上
送り仮名がない時点で 過 は名詞と解釈するのが自然

92 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 20:31:59.24 ID:QskEwL65
>>91
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/12(火) 21:01:03.28 ID:SVFHvk5E
>>89
南海通記の見解では
飯綱に凝る→男色に耽る→浮気を疑って無実の人間を罰する→そいつに恨まれて殺される
ってことらしい

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 21:53:29.37 ID:LNSxAag1
>>93
あくまで南海通記の見解へのツッコミなんだけど
女人禁制で男色に耽るまでは関連性として判らんでもないけど
そこから先はやっぱこじつけでは…?

そもそも南海通記って香西氏が書いたもので
政元の暗殺って香西元長が首謀者だって言われてるよね
要因を飯綱に求める事で飯綱に凝った政元が殺されるのは仕方ない的な
祖先の所業の正当化のこじつけなんじゃ…?

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/13(水) 12:30:19.92 ID:6rFIMn48
香西氏の自己弁護が入ってる可能性や、暗殺が個人的な恨みかは疑わしい点は同意だけど
暗殺を招いた政治的混乱の原因が実子のいないことによる養子の乱立なら、実子がいない原因になった
飯綱の法を根本原因にするのは、全くの無理筋ではないと思えるけども

古の士は弓射ちして矢を作ってこそ

2021年10月08日 17:01

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 20:40:00.08 ID:TSXgTVil
ある老父が語って曰く「古の武士は兵具を各々自分の手で作って用いるのを
上士といったのである。我が曾祖は香川郡井原の郷司の漆原という者だった。
寛正の頃であるが将軍家に参勤した。

ある時、細川勝元へ将軍家より征矢を賜る。勝元は拝して自愛深く、漆原を
呼んでこれを見せた。漆原某は曰く『この矢はこの私が作った矢です。どう
いう入れ違いで上覧に入ったのでしょうか』と言った。

勝元がその証拠を問うと、漆原はその矢の沓巻を解いて、矢柄の中から“讃州
井原ノ住漆原”と記された書を出し、また元の如く沓巻して勝元に返進した。

勝元は称美して奇作とし『古の士は弓射ちして矢を作ってこそ、上能の武士
である』と称誉したのだ」ということであった。

――『南海通記老父夜話記)』



一つとして謗る所のない仁君であった

2020年11月17日 17:41

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/17(火) 16:35:15.06 ID:1LxEqmhq
細川藤孝公は、御家は細川殿にて尊くおわしけれども、凡下の者を卑しめること無く、
諸芸に達せられていたが、他を謗るということはなく、
禅法に心を尽くし、神道を極められ、空言をかまえた奇特・不思議を実とせず、物祝いをされず、
さりとて物を破ること無く、一つとして謗る所のない仁君であった。

戴恩記

松永貞徳から見た細川幽斎について



パワータイプだった細川幽斎

2020年11月16日 16:39

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/16(月) 12:04:11.15 ID:8B5u/Kgt
細川幽斎は御老後も力強かった。織田常真公(信雄)の所で御能があり、幽斎が訪問した所、
門番が彼を遮った。それでも通ろうとした所、門番は幽斎に向かって竹の枝を振り上げた。

しかし幽斎は、竹の枝とともにこの門番の手を握り、ひしいだ所、骨が砕け、門番はその後
湯治をすることになったという。

また和漢の歌詠があって、相国寺より月夜に、丸(松永貞徳)もお供して帰る道すがらに、牛車のある
小路をお通りになったが、

「若き時は車牛の引き置いてあるものに向かって、角を持って後ろに押しやって、力の程を試してみたものだ。
私は何度も押しやったものだよ。」
と物語された。

戴恩記

パワータイプだった細川幽斎



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 17:23:32.21 ID:5WarbLfs
パワー系歌人

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 19:22:14.67 ID:B4oguUv3
牛を投げる男

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 20:32:30.41 ID:4WBtVYgr
牛は投げる物

細川藤孝の干支

2020年11月15日 15:21

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/15(日) 12:30:38.84 ID:5UJIyJ5x
ある時、織田信長公が細川藤孝に「その方の干支は何年か?」とお尋ねになった。

「上様と同年であります。」
「さればうまの年か。」
「いかにも、うまの年ではありますが、出来れば変わりたいものです。」

そう申したため信長公は、「どうして変わりたいなどというのか。」と仰られると、藤孝は

「上様は金覆輪に鞍を置き、一方私は小荷駄馬であり、つねに背中に重荷が絶えません。」

そう申した所、万座の笑壺に入り、大笑いと成ったという。

戴恩記



一向宗、土一揆と山科本願寺の戦い

2020年05月18日 17:10

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 13:04:30.64 ID:wxwEStN2
天文元年(1532)、摂州では一向宗、土一揆等が右京太夫(細川)晴元の味方をして、三好海雲(元長)を
討ったが、幾程無く、一揆らと晴元の家人たちは不和となり、同年八月四日、晴元随一の味方である
木沢左京亮長政に向かって、一揆の奴原は喧嘩を仕出し、切って掛かった。この時、移動中のことで
木沢方は思いもよらず、木沢の者達は散々に切りたてられた。その恥辱を雪がんと、その日、木沢勢は
泉州堺の東にある浅香の道場を初めとして、近郷の一向寺を悉く放火した。これより和泉、河内、摂津、大和
四ヶ国の一揆等が蜂起し、翌五日、晴元の住居のある堺の庄へ押し寄せた。

これに対して、木沢長政自身が多勢を率いて切って出て。一揆の奴原を悉く追い立て、切りまくって(切マクツテ)
先敗の恥を雪ぎたりとて、大いにこれを悦んだ。その時の一揆の大将は戦場を逃げ落ちて、和州吉野の川西という
所に隠れ居たりと言い伝わった。流石土民の軍、立て掛かる時は強いが、逃げる距離は非常に長い。
同日、摂州の一揆等は池田城へ取り掛かり攻め戦ったが、攻略できず扱いと成って引き退いた。

しかし五畿内の一揆は日を逐って広大に蔓延り、その勢が重ねて堺の庄へ攻め来たらば細川晴元の滅亡も近い、
取り扱い給わるべしとて、晴元は急ぎ、その舅である江州の六角左京大夫定頼へ頼み遣わした。
定頼は同心して、家臣の長原太郎左衛門、進藤山城守、馬淵源左衛門、横山、といった者達を、宗門の本寺、
山科の本願寺に遣わして色々取り扱いを協議したが、本願寺上人(証如)は「今更檀徒に背き難し」と
定頼、晴元の旨を承服せず、その取り扱いも手切れと成った。

長原太郎左衛門は為す方無く、急度思案して、常々一向宗門と仲の悪い、日蓮宗の寺檀に頼んだ。
洛中の二十一ヶ寺と呼ばれる日蓮宗の大寺は皆、この義に同心して、日蓮宗門の檀徒を催た。
この日蓮宗徒等も常に信心深く、本寺の下知とさえ云えば身命をも惜しまぬ、最も頑ななる宗門である故、
本寺二十一ヶ寺のこの催に同心して、洛中洛外の有りとあらゆる日蓮宗の諸檀徒等は悉く蜂起し、一揆と成って
数万の人数が徒党し、先ず直に山科へ押し寄せ、本願寺を攻めると、寺中にも敵の攻撃に備える者達があり、
随分防ぎ戦ったのだが、多勢に無勢であり叶い難く、遂に攻め落とされ、この時八月二十四日、山科本願寺は
忽ちに焼き払われて、金銀珠玉にて飾り立てられた近国無双の大伽藍も、ただ一堆の赤土と成った。
寺中の輩は、上人を始めとして、蜘蛛の子を散らすように諸方へ逃げ散り没落した。
これに日蓮宗の一揆等は大いに悦び帰陣した。

續應仁後記

山科本願寺の戦いについて



67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 16:15:13.65 ID:vknL+GhC
一揆には一揆ぶつけんだよって考えがなかなか凄いな

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 16:26:42.35 ID:QgrAJf6x
夷を以て夷を制す

晴元の心の中、頼もしからぬ愚かさよ

2020年05月12日 23:31

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 22:14:15.02 ID:ZHTYZdfR
享禄4年(1531)、三好筑前守元長は無二の忠功にて一戦に勝利し、常桓禅門(細川高国)を滅ぼした(大物崩れ)。
これによって細川右京太夫晴元は一家(細川京兆家)を一統し、文武の政事を執り行い、乱世も漸く年を経て
静謐に成りゆくかと諸人安堵を成す所に、如何なる天魔の所業であろうか、晴元は未だ若輩にて、佞奸の者を
相近づけ。讒者の実否を糺さなかった故に、また兵乱の世と成ってしまったのだ。

それがどういう事かと言えば、今度降人と成って細川家へと来た木沢左京亮長政は、稀代の悪人にて、種々に
諂い取り入って、晴元の元で出頭し、その他の出頭人である三好神五郎、可竹斎などと相議して、
三好元長に野心が有ると晴元に讒言し、種々の秘計を廻らせたため、晴元は愚にして。それを真と心得、
元長を疑い憎んだ。しかしながら讃岐守之持(阿波守護。息子の細川持隆の間違い。以下持隆とする)は元長の
忠義を感じ、色々と晴元へ言い開き、この年の間は未だ勘気も無かった。

この事だけではなく、木沢長政は今は晴元の元で出頭して、細川家に於いて時めく故に、己の元の主人である
畠山上総介義英(これも息子の畠山義堯との間違い。以下義堯とする)を物の数とも思わず、毎時
無礼を尽くせし程に、義堯はこれを憤って遂に人数を率い陣立てして長政の居城、摂州飯森の要害(飯盛城)を
攻めんとした。元長の一族である三好遠江守(三好一秀か)等は、義堯に頼まれ寄せ手に加わった。
木沢は出陣したが一戦に打ち負け、引き返して飯盛城に立て籠もり晴元へ後詰(救援)を要請した。

晴元はこの時泉州堺に在ったが、一議にも及ばず長政に同心して、この時享禄四年の秋八月二十日、
多勢を率いて自身飯盛城への後詰めのために、摂州中島、三宝寺まで出勢して畠山と一戦し、百余人を
討ち取った。畠山義堯は軍に打ち負け飯盛城も攻めずして散々に引き退いたため、晴元はその跡を追って
三宝寺から富田庄まで攻め上った所に、細川持隆がまた様々に諫言して晴元の軍を留めた。このため
晴元は段々に承知して、富田庄より堺へ帰陣した。

畠山義堯は晴元の姉聟であるといい、然らば近き縁親であり、一方の大将である。そのような人を、
新参で降将である木沢長政に思い替えて、彼を贔屓にし義堯を討とうとした事は、謂れなき邪行である。
「晴元の心の中、頼もしからぬ愚かさよ。」と人々は皆彼から心を放した。

續應仁後記



永正の錯乱前の情勢

2020年05月09日 18:48

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 22:51:57.48 ID:L7iFoqfE
永正元年(1504)十二月二十五日、畠山尾張入道卜山(尚順)と、同苗上総介義英と、両家和睦して
河内国富田の八幡宮に会し互いに和平の酒宴をして、年来の遺恨を忘れた。これは公方家(足利義澄)の
後下知によっての事であった。であれば、和平の驗として、この八幡宮に鎧、太刀等を両家より奉納して
誓約をあい堅めた。これにより紀伊、大和、河内の人々国民等まで和睦し、悦び合うこと限りなかった。
このため、五畿内は暫く安治されたのだが、兵乱の世となるべき妖怪は既に顕れていた。

同二年の春、天下大飢饉となり、餓死する者が道に満ちた。例えば十人の内九人まで死ぬほどであった。
同三年、諸国に億萬の鼠出て耕作の米穀、山林の竹木を悉く喰い損じさせた。これは凶年において
餓死した者の亡霊であろうと、諸国在々所々に於いて、餓死者の骨を取り集め、これを収めて寺を建て
弔い祭ったところ、たちまちこの鼠が静まったことこそ不思議である。
同年の秋、春日山の大木七千余本が枯れ果てた。これは藤原氏の人々にとっての凶事であると取り沙汰された。

ともかく、このような奇怪の上は、近日またいかなる乱が起こるのかと、諸人は安堵できず、いまいましく
見ていた。

そのような中、細川六郎澄元は、その頃未だ阿波国に在ったが、祖父の慈雲院入道成之は細川一族の
宿老であり、知恵深き人であったので、京都の有り様を察し、「政元の行跡、日を逐って昏乱している。
これでは当家の安否も計り難い、澄元は急ぎ上洛して養父の行衛をも見届け、一家の治乱をも執り計るべし」
との旨を下知され、澄元も「畏まり候」と、阿州を立って上洛した。この時四月二十一日であった。
この澄元は未だ十三歳の若輩故に、実父讃岐守義春より、三好筑前守之長、並びに高畠与三郎の二人が、
共に武勇の達者として選ばれ、澄元後見の執事として、補佐の臣に命じられた。

中でもこの三好は、阿波国の守護代であり、これも小笠原の末孫、名誉の者と聞こえ、後には改名して
長輝と号し、剃髪の後は希雲居士と称した。

また政元の家臣、香西六郎元近という者有り、武勇にも長じており、讃岐国の守護代として、一方の将と
成っていたが、常に三好と仲悪く、互いに確執の心をはさみ、それぞれの威勢を嫉みあっていた。
またその頃、薬師寺の三郎左衛門(長忠)は兄の与一(元一)の誅殺より、政元に寵せられ、重恩に耽り権威に
募って傍若無人の振る舞いをしていたが、今度三好之長が澄元の後見として在京して以来、香西、薬師寺の
非法の下知を用いず、威勢高く振る舞うほどに、これを見た洛中の諸人は我も我もと澄元を崇敬して
三好らに奔走した。これを香西、薬師寺の二人は共に大いに妬み憤って、その確執は日々に重なった。
それよりしてこの者共は、

「あはれ、六郎殿にいかなる事も出来るものか。三好等を滅ぼして、本意を遂げん」と思い巡らせた。
これぞ早くも、大兵乱の根ざしであった。

應仁後記

いわゆる永正の錯乱の前の情勢について



然るに政元は

2020年05月07日 18:23

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 21:32:50.59 ID:ypGZd1q7
昔、皇胤二流に分かれ、北朝の持明院殿と南朝の大覚寺殿と天下を争いましましけるに、終に北朝一統して
南方は帰服ましましけり。

公方家、近年両派にして、今出川殿(足利義材系)と堀越殿(足利義澄系)と、大樹の位を代謝あり、
また応仁の乱前より、畠山も両派に分かれ、斯波家も二方に立ち並んで合戦互いに止むことなし。
ただ細川家だけは、先祖常久禅門(細川頼之)の遺徳深き故であろうか、今に仁孝を厚くし、一家も
睦まじく、六代まで繁昌して大名高家の手本とも成る家風であった。しかし世は既に澆季に及び、時運
衰微に至ったのか、この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。その始まりは政元の不義無道、先祖の人々の
志を違えた故である。

聴く所によると細川家の先祖と云うは(以下細川氏歴代のの行跡が延々と語られるが略)

…(応仁の乱で)細川方の者共は、軍の仕様は鈍かったが、細川勝元の忠義に効き、御敵となる名を恥じて
一人も主人に叛く者無く、西陣へ降る人は無かった。これを以て莫大の戦功成就して終に勝元・畠山政長は
運を開き領国を失わず、一方山名方の一族は京都にも留まり得ず、散々に成って亡んだ。これはただ、勝元が
忠義を守り先祖の志を崇めていた故なのだ。然るに政元はその子として、亡父の志を引き違え、
上総介(畠山)義豊に一味して畠山政長を討ったのみならず、公方家の御敵と成って将軍の御位を
恣に替え奉ること、主君への不忠、先祖への不孝これに過ぎる物はないと見え、天下の人望に背いているので、
滅亡は近きに有ると、人々は皆囁きあった。

(中略)

細川政元の奢侈は世に超えたものであった。
聞く所によれば、政元は世の人とは違い、行年四十歳の頃まで女人に近寄ることを禁じ、
精進潔斎を繰り返し、魔法飯綱の法、愛宕の法を行い澄まし、経を誦し陀羅尼を呪し、さながら出家山伏の
如くであり、見る人聞く人、皆身の毛をよだてるばかりであった。
そうであるので、男子も女子も無く、家督を継ぐべき者が無かったため、家長(家老)の面々色々に、ただ
この事を諫言した。

應仁後記


細川政元について



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 21:15:52.00 ID:/n7fNnNP
>>52
>この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。

オーソン・ウェルズ「一人足りなくない?(第三の男BGM)」

細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作

2020年04月18日 18:55

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 17:22:12.33 ID:Ref011sU
細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作


天正16年4月16日、秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた行幸の際、和歌御会が催された。
歌題の「寄松祝」に合わせて公家や武家などの参加者が和歌を提出したが、このとき
幽斎は豊臣秀次、足利義昭、豊臣秀長、蒲生氏郷の和歌を代作している。(『衆妙集』)

全部解説するのは大変なので、代作した秀次の歌だけ紹介。

をさまれる 御代ぞとよばふ 松風に 民の草葉も 先づなびくなり
(平和な治世であると呼び続ける松風に、民衆も草葉のように真っ先になびくのである)

この和歌は藤原定家の「をさまれる民の草葉を見せ顔になびく田面の秋の初風」や、
「をさまれる御代にあふぎの風ならば四方の草葉もまづぞなびかん」などを踏まえて
後陽成天皇の治世を慕って心を寄せる民の様子をうたうものとなっている。


幽斎自身は聚楽第行幸には参加していないが、晴れの場での代詠を頼まれることは
歌人として名誉なことであった。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 11:25:50.53 ID:/Aka1nDI
>>14
幽斎さんじゃなくて忠興ちゃんが出てたんだね

君が代の長きためしは松に住鶴の千とせをそへてかそへん
【『豊鑑』第三 内野行幸 天正13年(1585)4月 丹後侍従豊臣忠興(細川忠興) 後陽成天皇行幸の際の歌会にて】

豊鑑@toyokagami_bot にいろんな人の歌が出てきておもしろい

武士の「話」について

2020年04月02日 18:26

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 03:31:39.34 ID:pq0QyS8J
人には何かしら好きな事が有るものだ。弓鉄砲、或いは馬、鞠、兵法、料理、乱舞、歌、盤上、鵜、鷹、
数寄の道、何れであっても好きな事が有のであれば、仮初にてもその事を話すものだ。
また人の話であっても、自分の好きな事であれば聞くものである。
また人により、武道の話をいたし、また人がそれを話すのも面白がって聞く者は、良き心がけの者であると
存じておくべきであろう。

大方、人々の心中は話、或いは愛する友を以て知れるものであると、松長という名人が申された(松永久秀の事か)。
誠に相違無いと見える。
とかく、どんな諸芸であっても、自分の心に染まらぬ事は、成らざる事であり、その心得が有るべきである。

常々ものを良く申していても。戦場に於いては有無のことを申さぬ人がある。
また敵との間が遠い時は何かと口を利くが、敵が近くなると物を言わない人もある。
そういった具合の将は、常々どれほど口を利き、物を良く申していたとしても、それは用に立たない事である。
殊に敵が遠いほど物を申し、近くなって合戦前になると萎れたような体となって居るのは、殊の外に見苦しい事である。

常には少々無口であっても。戦場に於いては諸人も聞き届くように下知をいたし、物の埒を申し分ける者は、
常に物を良く口を利く者より、増しているものである。

細川幽齋覺書

武士の「話」について



865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 20:19:20.89 ID:fNTnUbyo
これは落ち着いてる幽齋さんですね
いつもこうなら良いのに

「松明の心得」「城はやし」「言葉争い」

2020年04月01日 17:21

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 12:05:31.82 ID:ihS7+uPT
城に竹束で仕寄を据える時、本陣までの道などが悪くて遠くにある場合は、城中から夜討ちなど致すことがある。
そのような危険がある時は。十人二十人であっても、松明に火をつけ両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで
行って帰り、幾度もこれを繰り返せば、夜討ちは無いものである。これを松明の心得と申す。

竹束にて仕寄、城を取り巻いた時には『城はやし』と申す事がある。
井楼の上に二、三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り

『城になふなふ 明日は首をたもろふ ゑいゑいわっ』

と、竹束の裏に在る同勢一度に声をそろえ鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと打ち掛ける。
それを致すのは夜の五時(午後八時頃)、又は夜明けにも致す。何度もこのように致せば。
城中に居る女子供、また籠城などした事のない不案内者は殊の外騒ぎ慌てるものである。
このすると、二十日持つ城も十日持ちかね落城するものである。

また『言葉争い』と申す事がある。口かしこき者井楼に上り、「御陣へ申度事候」と申せば、敵方よりも
「何事にて候」と答える、そこでこの方より申すのは

「御籠城、御大義に候。とても御持ちこたえること、中々成るまじきようです。御降参候へ。
そうでないのなら、何方からであっても突き破り、こちらに御出候へ!
御首を早く申し受けたいものです。とにかく、御首を申し受けなくては成らないものなのですから。」

などと敵の心に掛かることを申すのだ。ではあるが、慮外がましい事を言えば敵方からも悪口が帰ってくる。
敵の心を暗くするような事だけを申すものである。

細川幽齋覺書



鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば

2020年03月31日 16:39

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 00:59:48.13 ID:agh7N04f
対陣している時、又は城を取り巻いている時などで、敵陣を攻めるにあたっての足がかりを見たくても、
それが出来ない時は、敵方に断りを申して、見たいと思う場所に鳥などが居る場合は、
「鷹に取らせたいので、御免候へかし。」
と申せば、大体は許すものである。
(鳥など居候はゞ、鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば、多分ゆるす物にて候。)

そういった時は、鷹に鳥を取らせることは二番にいたし、足がかりを専らに見るべきである。
そして鷹に鳥を取らせたら、敵方に送るのだ。そうしておくのは、重ねて見たい場所があった時の為である。

昔はこのような謀の為に、出陣には大将衆も、鷹を据えさせていたものだ。
現代ではこう言った事をしなくなったが、この心持ちは、色々に応用できるものだ。

細川幽齋覺書

細川幽斎の時代の、敵陣の模様を見るための謀。何というか、非常に牧歌的ですね。



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 02:51:15.22 ID:Fdmi6ahG
鷹狩したいですといってはいって通してたのか、なにか通す側にも政治的メリットとかがあるんだろうか
軍事訓練的側面とか領内視察的側面とか、戦国期の鷹狩だけで一冊本できそう

合戦場にて鑓を合わせる時に

2020年03月30日 16:55

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 22:46:14.26 ID:PwHbEMaN
合戦場にて鑓を合わせる時に、色々稽古もあるのだが、先ず敵の真ん中を目当てに致し、ひたすら
叩くようにするべきである。そのようにすると、敵は嫌がり仰向けになるものだ。その時胸板を突けば
転んでしまう。惣別、武者は上をかぶくものであるから、造作なく転んでしまうのだ。
ただし敵より叩きつけられ。下鑓になってはこれは成らぬものであるので、心得の有るべきことである。

細川幽齋覺書

昨今は「鑓は叩くもの」と言われがちですが、ここでは叩いて起き上がった所を突いて転ばせる、とされているのですね。



細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得

2020年03月29日 17:14

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:32:51.34 ID:PwHbEMaN
合戦で鉄砲の者を召し連れ、鉄砲を討たせる時は、たとえ敵が五間か十間の遠くに在ったとしても、
何か木陰などが有ればそこに召し連れ参り、そういった場所で撃たせるべきである。
そのようにすれば、こちら側に手負いは出ない。

何も知らない衆は、少しでも近くにと思い、敵から見晴らしの良い場所に鉄砲の者達を置いてしまう。
それ故に敵から散々に打たれてしまうのである。そうなれば、手負いが二、三人も出れば、此の方は
崩れてしまう。

鉄砲の命中率など、五間十間遠くても同じことである。(鉄砲の中りは五間十間遠く共おなじ事にて候)
そういった時は、此の方に手負いがないように見立てることが肝要である。

また、旗本より程遠くに在る時は、鉄砲大将の指物を、敵に近い場所に、塚でも、また小高い場所でも
有るならば、そこに指物を持たせ遣わし、立てておくのだ。そのようにすれば、脇より見て、
「誰々は早くもあそこまで仕寄せしている。」と見えるものである。

こう言ったことは、自ずから行うべきことで、鉄砲大将などは心得有るべきである。

細川幽齋覺書

細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+

>>816
これは面白いな
ドラマなんかだとこれ見よがしにオープンな場所に
鉄砲隊が列をなしてたりする

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 11:14:23.06 ID:r1fXkJh+
>>818
その方がかっこよく見えるからかな
でも今だと、いやそうじゃない、と816みたいに解説する方が受けるかな?

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 12:30:06.93 ID:MVE+KsKB
映像での見栄えと戦い方って別の話だものねー
しかもこれの場合、あくまでも細川幽斎ならこうするってだけで本人も言ってる通り見晴らしのいいとこに鉄砲隊配置させる人もいるみたいだし

弾と火薬が豊富にあるなら隠れて連射のがいいんだろうけど、少ないならまた変わるだろうし

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 14:37:26.35 ID:Zk6eD4N+
>>819
見栄えの問題は確実よね
そもそもあんなオープンフィールドばっか日本にはないし

でも最近お金かけられないからドラマも
丘や林に布陣とかしてリアル志向ですとか
やらないかなぁ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 14:54:15.21 ID:eVE4ARRj
>>821
戦国時代の山は禿山だらけだから、フィールド自体はオープンだったりする。斜面だけど。