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永正の錯乱

2019年10月26日 20:59

539 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 11:54:57.21 ID:X38jfGoH
京都の管領であるある細川右京太夫政元は四十歳の頃まで女人禁制で魔法飯綱の法、愛宕の法を行い、
さながら出家の如く、山伏の如きであった。
ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。

このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。
その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であったが、これは今の九条摂政太政大臣
政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。
この政基公の御末子を政本の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、
細川源九郎澄之と名乗られた。この人はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、
彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が
与えられ、彼の国へ入部された。

そのような所、細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一一元という人があった。その弟は与ニといい、
兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。
この人は一文字もわからないような愚人であったが、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の
輩は皆彼を信頼していた。また先年、細川政元が病に臥せっていた頃、細川家の人々は評定して
阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体
であるとして政元の養子と定めることを、この薬師寺を御使として御契約があった。これも公方様より
一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ
現なき事を言い出した。この様ではどうにも悪しき事であると、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して
六郎澄元を取り立て細川家の家督を相続させ政元を隠居させようと、ここに謀反を起こし、薬師寺与一は
淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる
淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は不日に攻め落とされ、与一は自害することも
出来ず生け捕りにされ京へと上らされたところ、与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、
与ニはこの寺にて兄を生害させた。与ニには今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。
源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。
赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。

このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である
三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。

540 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 11:55:20.60 ID:X38jfGoH
薬師寺与ニは改名して三郎左衛門と号し、政元の家中において人もなげに振る舞っていたが、三好が
六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、
新名などといった人々と寄り合い評定をした
「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の
御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害し申し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、
われら各々は天下の権を取ろう。」
そう評議一決し、永正四年六月二十三日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた
所を、政元の右筆である戸倉と言う者がかたらわれており、終に生害されたことこそ浅ましい。
この政元の傍に不断に在る、波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。
しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。

この頃政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けており、河内高屋
へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、
所々の敵たちは降参していたのだが、政元生害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。

政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討ち申せと、明けて二十四日、薬師寺・香西を
大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。
この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を
逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。
六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も
深手を負い屋形の内へ引き返した。
このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は
澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。

この時周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。
中国西国は大方義材御所の味方となったが、安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している
大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。

(足利季世記)

永正の錯乱についての記事



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 20:58:53.41 ID:04mm58w+
この時の魔法って鬼道とか陰陽師みたいなイメージかな
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滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である

2019年08月17日 17:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 10:41:04.88 ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森法印は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)



筒井筒 五つに割れし井戸茶碗

2019年07月26日 17:43

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 13:21:54.29 ID:JJznDzuF
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

参照
秀吉の筒井茶碗と細川幽斎・いい話


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 14:30:22.88 ID:F4qiylrx
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 16:25:54.00 ID:AwYufllE
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか

細川幽斎 酒の歌

2019年06月20日 17:11

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 15:25:51.96 ID:/uTZxkkg
細川幽斎 酒の歌

一切の其の味をわけぬれば 酒をば不死の薬とぞいふ。

二くさ(憎さ)をも忘れて人に近づくは 酒にましたる媒はなし。

三宝の慈悲よりおこる酒なれば 猶も貴く思ひのむべし。

四らずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒酔よりもをかしかりけり。

五戒とて酒をきらふもいはれあり 酔狂するによりてなりけり。

六根の罪をもとがも忘るるは 酒にましたる極楽はなし。

七(質)などをおきてのむこそ無用なれ 人のくれたる酒ないとひ(厭ひ)そ。

八相の慈悲よりおこる酒なれば 酒にましたる徳方なし。

九れずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒を惜しむが卑怯なりけり。

十善の王位も我も諸共に 思ふも酒のいとくなりけり。

百までもながらふ我身いつもただ 酒のみてこそ楽をする人。

千秋や万蔵などと祝へども 酒なき時さびしかりけり。

――『成功座右銘 名家家訓』

関連
細川忠興作、「酒の歌」


26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 19:27:05.19 ID:G6TF7YnI
天の原 ふる酒みれば かすかなる 三かさも呑みし やがて尽きかも

醒睡笑

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 21:21:20.96 ID:Sm7UgpM6
こんなお父さんだからねじ曲がってしまったんだろうか

松たけの おゆるを隠す吉田殿

2019年06月16日 17:24

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:09:37.03 ID:0tIddNzO
吉田殿(吉田兼見か)の所有する山に松茸が生えたのだが、松茸の有ることが他所に聞こえると
いろいろと煩わしいと思い、ずっと秘密にしていた。ではあったが長岡(細川)幽斎へは少しばかり
贈りたいと思い「これは私どもの山に生えたのですが、世上には隠しています。ですがあなた様には
進上いたします。どうか他所へは秘密にしておいて下さい。」と遣わされたが、これに対し
幽斎は狂歌を詠んだ

『松たけの おゆる(生える、勃起を隠喩)を隠す吉田殿 わたくし物(秘蔵のもの、男根の異称)と人やいふらん』

(きのふはけふの物語)



172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/17(月) 01:26:50.49 ID:OuOOIOw1
>>170
忠興さんかと思った

よくよく見ればみかどなりけり

2019年06月12日 14:58

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 13:30:11.70 ID:ZQ+gJmmS
ある夜、豊臣秀吉公が夜食にそばがきをご所望なされ、御相伴衆にも下された。
その時ちょうど長岡玄旨(細川幽斎)が御登城され、秀吉公は早速彼にそばがきを据えさせた。
玄旨はその蓋を開けるとすかさず

『うすずみに つくりしまゆのそばかほを よくよく見ればみかどなりけり』
(薄墨で描いた眉のそばがほ(横顔)を、よくよく見てみるとみかど(帝と三角の蕎麦の実をかけている)であった)

と詠んだ
(きのふはけふの物語)



13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 17:45:52.66 ID:/fx/jYnt
まとめの6065
「秀吉がお伽衆に蕎麦掻きの料理を命じたところ」

に「戯言養気集」出典で既出

幽斎はその時第一の買主である

2019年03月24日 14:13

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/24(日) 01:36:06.76 ID:p9uUD9F0
立売の町人が所持する定家卿(藤原定家)筆の新勅撰(新勅撰和歌集)を細川幽斎が求められた時、
値は白銀10錠であった。幽斎はその時第一の買主である。今は烏丸の家にあり。

――『老人雑話』


香西元盛謀殺事件

2018年08月12日 17:38

29 名前:1/2[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 12:26:16.87 ID:8OW2F72Q
大永6年(1526)の頃、それまで京都は暫く静謐であったが、不意の乱が起こった。
細川家の領国である丹波国の住人、香西四郎左衛門元盛は道永禅門(細川高国)の家臣であり、かの家の
沙汰を執り行い、威勢諸人の上に立ち驕りを極めていた。
この者の弟に柳本弾正忠(賢治)という者が居た(実際には兄)。彼は若年の頃は美童であり、高国は
彼との男色にひたられ、この者を寵愛し、成人の後、今に至りて俸禄身に余り、栄耀人に超えて、
香西・柳本兄弟の権勢は並ぶ者なかった。

この頃、細川右馬頭尹賢の所領である摂州尼崎に城を築く事を、高国は諸家に命じた。細川一門一党の
人々は日夜土石を運ばせ造営の役を勤めた。香西兄弟も尼崎に下ってこの役を勤めていた所、彼らの
下部の者達が、細川尹賢の人夫と、土一貫の事について争い口論に至り、やがて双方数百人に分かれて
瓦礫を投げ合う騒動と成った。しかし他家のの人々がこれをどうにか取り扱い和平をさせて、両方を
別け隔て、尹賢の者達は城中に入り、香西の人夫は丁場へと帰った。ところが、香西方のあぶれ者の一部が、
下知を聞かず尚も居残り、戯れに城中へと石礫を投げ入れた。

しかしこの行為に細川尹賢は怒った。
「和平の上に、さらに狼藉を働くなど以ての外の奇怪である!しかしこれは香西の慮外であるから
下部の者達を咎めるべきではない。」
そう、一旦は怒りを収めたが、香西は驕りの故であろうか、その後この事について細川尹賢への陳謝が
無く、そのような事は無かったかのように接した。

これに尹賢は鬱憤を重ね「あの兄弟、日頃の驕りに加え、さらにまた今回の事があった上は、彼らを
亡き者にしなければならない。」そう考え陰謀を巡らせた。
この香西元盛は文盲不学の者であり、常々料紙14,5枚ごとに判形を押しておき、手書きの部分は
彼が召し使っていた矢野宗好という者に、かの判紙を預け置いて、諸方書通のたび毎に宗好次第に
状を書かせ、書礼を進め返した。ところがこの頃どうしたことか、この宗好は香西の命に背き牢人
していた。

これについて、尹賢はハッと思いつき、密かに宗好を招き寄せ色々と語らい、彼の元に香西の判紙が
残っていることを確認すると、そこに秘計の状を書かせた。

その内容は、細川高国の仇敵である阿波の故細川澄元の残党である三好家の者共と、香西元盛が一味している、
というものであった。香西の判形紛れも無いよう拵えさえ、尹賢はこれを密かに高国の元へ持参し
「香西の謀反紛れもありません!」
と、その偽造した書状を証拠として誠らしく言い立て讒言をした。これに高国は、心浅くも真実と
判断し、「事を起こされる前に、早急に香西を誅さねばならない!」と、尹賢と示し合わせた。

しかし、突然高国は思った
香西元盛を誅殺すれば、弟の柳本は私に仕えることが出来なくなってしまうだろう。年来、この柳本は、
この道永(高国)が『命に変えても』と契約した仲であり、いかにも名残惜しい。」
高国は様々に思案し、漸く思いつき、柳本へ起請文を書いた

『香西を誅殺するが、彼は謀反の者であるから是非に及ばぬ次第である。しかし柳本弾正に対して、
道永は少しも異心を持っていない。」

そう心情を顕し、これを文箱へ治めた。

30 名前:2/2[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 12:27:31.73 ID:8OW2F72Q
さて、香西を討つと雖も、まずは謀反の実否を直接問い糾した上で真実ならば誅すべきと、討ち手の
者達を定めておき、大永6年7月13日、高国の館へ香西は召された。香西元盛は自分がそのような
状況に置かれているなど夢にも知らず、何の警戒もなく急ぎ高国の館へ参り、遠侍に入ると、
若殿原二人が出迎え、「太刀と刀を渡されよ」と言う。香西は少しも騒がず太刀と刀を渡し
「何事があったのだろうか」と不思議に思う体にて座っていた。

その間、暫く時刻が過ぎた。細川高国は待ちかねて「香西は遅きぞ」と言った、
これを細川尹賢は聞き間違えたふりをして、かの討ち手の二人に云った
「香西は遅いと言われた!早く斬るのだ!」
二人は即座に走り寄って香西を斬り倒し、その頸を落とした。無残と言うも愚かである。

細川高国はこれを知ると「一体どう言うことなのか!?」と驚いたが、もはや力及ばず事は済んでいた。

その後、高国よリ、あの文箱を柳本賢治の元へ遣わした。書中に
『その方の兄である香西は謀反人であるから、国家のために誅するのだ。その方に今更恨みを含む
事ではない。年来の契約は忘れていない。今後いよいよ、忠義を尽くしてほしい。私は今までと
少しも変わらず、お前を懇ろに扱う』
これを誓詞に認め言い送った。

柳本は起請文を開かないまま高国の館へ持参し、「これは勿体なき仰せです。兄の香西元盛
逆心の罪科にて誅せられた事であり、私は少しも恨みを含んでおりません。
兄の罪科にお構いなく、前々のごとく私を召し使って頂けるとのこと、その御厚恩は生々世々に
報いがたいものです。この上は私に置いては、今後一層の奉公の忠を尽くして勤めます。」
そう感涙を流し宿所へ帰った。

その後、柳本は実際に努めて忠義を尽くしたため人々も感心し「流石道永禅門が年来目利きして
柳本を寵愛していたのは尤もの事だ。これほどの忠臣は世にも稀である。」
そう褒め称えたという。
(續應仁後記)

香西元盛謀殺事件のお話。だがしかし


細川澄之の敗北と切腹

2018年08月06日 19:24

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/06(月) 18:40:54.70 ID:eGdBHg/i
細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。
しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。
また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、
畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって
攻め上がった。

昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き
捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、
三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて
入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り
一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には
自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せ、残る
香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、
香西元長も流れ矢に当たって死んだ。

この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで
今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之
「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。
童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、
尋常に腹を切って死んだ。

波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。
ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。

寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。
彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。

澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。
父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

(應仁後記)

細川澄之の敗北と切腹についてのお話


己は正しく主君の敵である

2018年08月04日 16:50

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 13:45:24.58 ID:2hjMYhnQ
永承4年の夏、香西又六郎元長、薬師寺三郎左衛門(長忠)、竹田孫七、新名某などが寄り合って密謀した。

「我らの主君である細川政元は近年物狂わしく、行跡政道粗略である。この人が存命するならば、
当家は必ず滅亡するだろう。また六郎殿(細川澄元)の世とならば、彼に従う三好家は益々権威に誇り、
やがて世を傾けて覆すだろう。であれば、我々は彼らに先立って、政元を弑し奉り、丹波の源九郎御曹司澄之を
細川の家督に立て京兆家を相続して、六郎殿を退け三好党を滅ぼすべきである!」

そう謀反一決し、細川政元の右筆である戸倉という者を語らい置いた。

同六月二十三日、政元は例のごとく愛宕精進潔斎して、沐浴のためとして湯殿へ立ち入った所を、戸倉が
するすると走り寄って政元を刺殺した。時に生年四十二。無残と言うも言葉が足りない。

この時、常々政元の傍を離れず近仕していた波々伯部という小姓の少年が、何も知らず湯帷子を持ってきた所、
戸倉はこれも切りつけた。しかしそれは幸いにも浅手で、後に蘇生して一命を助かり、傷もすぐに癒えた。

さて、細川政元が滅びたことで香西、薬師寺たちは力を得、次は六郎殿(澄元)を討ち取ろうと、同二十四日。
香西又六、同孫六、彦六の兄弟、多勢を引き連れ澄元の館へ押し寄せた。澄元の家臣である三好、高畠といった
人々はこれを予想しており、百々ノ橋を隔てて対峙し、ここを先途と防ぎ戦った。

敵方には政元を殺した戸倉の一陣があり、この部隊が進んできたのを、あの政元の小姓、波々伯部が見つけ
キッと睨んだ

「昨日は負傷させられらが、己は正しく主君の敵である、逃すまじ!」

そう名乗りを上げ散々に突き合い、終に鑓にて戸倉を突き伏せ、その頸を郎党に取らせた。
天晴忠義の若武者かなと、人々はみなこれを褒め称えた。

(應仁後記)



113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 17:35:27.06 ID:jGmxs8bD
>>112
義朝「湯殿はいいぞー」

薬師寺騒動

2018年08月03日 16:08

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 12:59:17.06 ID:wIiR5RyB
薬師寺は細川京兆家被官の中でも歴々の者であり、今の薬師寺与一元一は摂津の守護代で淀城に在し、
その弟与二(長忠)と共に、その頃の名高き勇士であった。度々の合戦で手柄を顕し、忠功は諸人に越えていた。
その中でも薬師寺与一は一文不通にて文才無き者であったが、天性正直で理非に厚い徳が有り、細川一門の
人々は、皆彼を重んじていた。されば、この元一ならばこそ、この年月、細川政元へ様々に諫言し、
終に一門である阿波守護細川家より澄元を養子とさせたのだ、

しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、
不思議を顕し、後々はうつつ無き事のみを喜び、時々狂乱のごとくとなった。

この有様に元一も、このままでは当家の滅亡は近いと諫言するも及ばず、赤澤宗益入道と相談し、
六郎冠者澄元を家督に取り立て政元は隠居させ、細川家を末長久に治めるべしとすぐに評議一決して、
永正元年九月四日、薬師寺元一は淀城に立て籠もり、同六日、赤澤宗益は京を落ちたが、巷説では
彼もまた多勢を催して淀、鳥羽へと攻め上がるのだという。
かつ又、西岡では土一揆が起こり、これも京へと攻め入った。
このようなわけで洛中では風聞頻りにして人々はみな騒動した。

細川政元はこの事態に驚き、薬師寺元一の弟である薬師寺与二を討ち手として多勢を遣わし淀城を
攻め囲んだ。与二はこの淀城攻めの案内者であり、兄に劣らぬ剛の者であり、彼は淀城へ攻め寄せたが、
城兵も能く防ぎ、同十日、寄せ手の一人、讃岐の守護代である安富某が討ち取られた。

同十四日、西岡の土一揆は散々に打ち負け、その指導者である四ノ宮という父子は淀城へ落ち入った。
そのような中、薬師寺たちが味方と頼んだ前将軍家(足利義材)勢力、細川慈雲院(成之)の阿波細川家、
畠山卜山(尚順) らの後詰めの出勢が遅れ、故に久しく持ちこたえること出来ず、同二十日、終に
淀城は攻め落とされ、四ノ宮父子を始めとして尽く討ち死にした。

城将の薬師寺元一は生け捕りとなり、かくして京勢は帰陣した。
この戦果に細川政元は大いに喜び、大将であった薬師寺与二に「与一は汝の心に任せて腹を切らせろ」と
命じ、与二は「畏まり候」と、兄与一元一を、彼が先年船橋の当たりに菩提寺として建立した一元寺という
寺へ送り、そこで腹を切らせた。

薬師寺与一元一は、最期にこう言った
「私は主君へ野心の企てがあったのではない。ただ細川家が長久にと思い、事を起こしたのだ。
私は一世の間、終に二心を持たなかった。故にその心を名に顕し、与一と言い元一と名乗り、
寺をも一元寺と名付けたのだ。

只今、腹をも一文字に切るべし!」

そう、腹一文字に切って死んだ。生年二十九歳であったという。

(應仁後記)

薬師寺騒動についてのお話



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 16:02:51.21 ID:JyAogICI
>>4
魔法に専念すれば空も飛べるのか
普通は滅亡話のフラグとして変な術に凝ってるとか言われるのに
少なくともこのエピソードでは普通に勝ってるしw

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 18:22:18.80 ID:DzoYyfFj
花の乱でも政元は魔法の練習してたな

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 23:16:32.62 ID:sLqMHVzg
>>4
>しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、

⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ


13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 11:18:44.07 ID:DylmrFnz
このAA、春先も貼られてなかったかな

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 11:20:41.01 ID:2hjMYhnQ
>>13
きっと細川政元が空を飛ぶ度に

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 16:54:12.41 ID:ZwjgR1TT
魔法の修行してたのは知ってたけど
普通に飛べるようになってるの草

政元養子の事

2018年08月02日 11:18

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 10:47:04.16 ID:rEFEdP0l

その頃、公方足利義澄卿の御母堂は柳原大納言隆光卿の娘で、今の摂政九条太政大臣政基公の北政所とは
御連枝であった。故に公武の貴賤、おしなべて九条殿を崇敬した。

しかし細川政元は公方家の権を執り驕りを極める余りであろうか、あらぬ心出来て、九条政基公の
御未子の公達を己が養子に申し受け、自分の童名を付け聡明丸と号し、その後今年12月10日、
この聡明丸の元服の時は忝なくも公方御手づから加冠なされて細川源九郎澄之と名乗らせた。

こうして公家武家相共にこの澄之を崇敬しかしずき、九条殿も繁盛した。

古、鎌倉の征夷大将軍頼常卿と申すのは光明峰寺摂政殿(九条道家)の公達であったのを、
武家の上将となした。これも珍しい例であったが、それは右大将頼朝卿の親戚であったからであり、
右大臣実朝公の跡目であったから、軽々な話ではない。しかし、今の澄之はまさしく摂政相国の公達で
あるが、将軍家の執事である細川政元の子として、盛んな事とするのは、末世とは言いながら浅ましい
次第であると批判する人々も多かった。

その後、またどうしたわけか、細川政元は熟考した
「我家は代々公方の管領を相勤め親類も数多ある所に、他家の子を養いて家督を立てるのも
謂れなき所業であり、細川一族の面々も、他家の大名も、これに同心し挙用しないだろう。」
そのように突然考え、かの九郎澄之には丹波国の主語を譲り彼の国へ差し遣わし、永正元年の春頃、
家臣の薬師寺与一郎元一を使いとして阿波国へ差し遣わし、彼の国の一族である細川成之の孫で、
讃岐守義春の子である11歳に成る男子があり、これを養子にしたいと所望した。

成之も義春も細川一族であり、すぐに同意すべきであったが、政元の行跡見届けがたいと感じ、
何事か後難があるのではないかと、様々に辞退したが、薬師寺元一が古今の例を引いて様々に
理を尽くして説得し、漸く成之、義春も同意し、ならば養子に参らせると固く契約した。

政元は喜び直ぐにこの子を元服させた。彼にも公方家より御一字を申し受け、細川六郎冠者澄元と名乗らせ、
未だ若年であるとして、上洛もさせず阿波国の屋形に差し置いていた。

下の屋形とは阿波国の守護所である。昔、常久禅門(細川頼之)は大忠功の人であったため、摂津、丹波、
阿波、讃岐の四ヶ国の守護に任じられた時、自身は在京して管領職を勤め、守護する四ヶ国には一族を置いた。
中でも阿波国には舎弟讃岐守詮春を留め置いて分国の政事を執行させ、これを下の屋形と号した。
そして細川頼之嫡流の管領家を上の屋形と名付けた。現在の義春も詮春の子孫であり、上の屋形に
子無き時は必ず下の屋形より相続するのが筋目であった。

そのような由来がありながら、政元はどうしたことか、身の栄耀に飽き足らず、驕りを極めるあまり、
摂家の貴族を養子にして、ついに一家に二流を作り、後日の災いを招いた。その不遠慮の義、只事ではない。

政元は不忠不孝であったので、すなわち天罰を被って一家は滅亡するのだが、その先触れであったと
考えるべきだろう。

(應仁後記)


細川政元九条政基から澄之を養子にとった件、家格のことで当時から批判があったらしい、というお話


御衣装も常に黒いものを

2018年04月24日 14:09

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 01:57:28.42 ID:QCYFTSWG
御衣装も常に黒いものを


細川幽斎は太閤(秀吉)の時代でも、御内衆の身なりを古法に従わせた。
刀に鞘袋を付ける者は御覧になり次第叱らせるようにし
御供の履物も全て足半で、長草履を履いている者は一人もいなかった。
聚楽第にあった御屋形も全て唐紙障子で絵などを描かせることはなかった。
実目な方なので、御衣装も常に黒いものを着られた。

小田原陣であろうか、諸大名が金銀を散りばめ花を飾っていたときに
甲鎧は申すに及ばず、旗差し物まで黒色の出で立ちだったという。
ただし、これは事実かどうか分からない。


――『戴恩記』


高畠はついに討たれたのである

2018年04月02日 21:24

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/02(月) 18:17:33.74 ID:qMcYJTMR
細川高国が香西元盛を誅殺した後)

柳本(賢治)は兄(元盛)の仇を報いるために、1月27日の夜に入って嵯峨へ夜川引きに出るのに事寄せて
家子・郎従を引き連れ立ち出ていった。さて高畠甚九郎と柳本には男色の因みがあった。そこで柳本は高畠に

知らせようと北野辺りの宿所へ行き、高畠に向かって「今回のことは人の謗りを免れ難いので主君に対して弓を
引かんと存じ、丹波へ立ち退きます。貴方とは知音なので告知申すのだ。同心できないだろうか」と申された。

高畠はややしばらく思案を巡らせて返答し「貴方と知音のことは人も存じていることであるから、同心申したく
はあるのだが、主君と家臣の上下の礼、また恩義は至って重いのである。どうにも了承申すことはできない。

しかし、思し召して出立するのであれば留め申すこともできない。早く早く下向なさって用意なされるのです。
それがしに告知なさったことは朋友の交わりのもっとも深い間柄なので、主君に背き申して丹波に入りなさる
とは告げ申しますまい。貴方が仇を報いようと大軍を起こして出なされば、

それがしは不肖なりといえども、罷り向かって拒み戦いましょう」と申し、自分には君臣の義を重んじ、柳本
には朋友の睦を厚くして互いに退き別れた。その心中はまったく正しきものである。その後、柳本は嵯峨に

行って角倉の家に立ち寄り、心静かに酒を飲んで打ちくつろぐ様子を見せた。その様子から角倉は推し量った
のだろうか、鎧腹巻を取り出して柳本の門出を祝った。柳本は嬉しいと喜び、それより丹波の領地へ帰ると、
丹後・但馬など近国の勢を催し、2月17日に都を目指して攻め上った。

高国ならびに右馬頭(細川尹賢)は打って出て拒み戦うも、競って進む敵勢に捲し立てられて散々に打ち負け、
すでに危うく見えたところに、高畠甚九郎が「先頃の言葉を違えまい!」と乗り入れて名乗りかけ、ひとまず
高国勢は盛り返した。しかし無理に引き連れた者たちの勢であったので、続いて敵勢と返し合わせる者もなく、

高畠はついに討たれたのである。高国は都に留まることもできず近江を目指して落ちて行った。柳本は本望を
達してしばらく都にいたが、近江より佐々木(六角氏)が加勢して攻め上るとの由を聞いて丹波へ引き返した。

――『舟岡山軍記』


満天の諸星が尽く動揺し

2018年04月01日 19:26

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 21:48:56.57 ID:n3XSfRms
天文二年(1533)十月八日に暁に、満天の諸星が尽く動揺し、煌めき流れ、陸海へ石のように
砕け落ち散った。その音も大変凄まじいものであった。
古今未曾有の天変であり、人々は

「一体、この上にも何らかの事が起こり、天地も打返り国も滅びるという先触れであろうか」

そう驚き、嘆いたという。

(足利季世記)


両葉去らずんば斧柯を用うるに至る

2018年04月01日 19:25

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 04:08:49.28 ID:1ZszLF6D
永正16年(1519)己卯、細川高国は管領として天下の政務を行った。弟の右馬頭(細川尹賢。高国の従弟)
は尼崎に住んで西国の沙汰を決断した。高国の家臣に香西(元盛)という者がいた。陪臣として諸事を執行し、

その威は主君よりも重く、その弟の柳本(賢治)もまた高国の男色の寵愛によって身に余る俸禄を蒙り、人に勝る
栄耀をなし、魯の哀公の季孫氏・叔孫氏、魏の曹叡の司馬父子の如く寵に媚びる者と交流を厚くし、睦をなした。
当家も他家も押し並べて、その門下に奔走したのである。

尼崎城を築くために香西兄弟も下向し、細川一家の人々は日夜土木の役にあずかった。その際に右馬頭の人夫と
香西の人夫が僅かな土を争って口論に及び、下部たち数百人が両方に立ち分かれて瓦礫打ちになったが、仲裁が
入り、両方へ引き分けて行った。右馬頭の者たちは城中へ入り帰り、香西の者は自分の丁場へ帰った。

ところが下知不聞の溢れ者が居残って城中へ瓦礫を打ち込んだのである。右馬頭が驚いて「これは何事だ!」と
問えば、しかじかの事と申すので、腹を立てながらも「下人に対して仲裁した以上は、また打擲すべきではない」
としてその場は静まった。右馬頭は日頃から香西の振舞いは我儘だと思っていたところに、この事が起きたため、

密かに高国に申して様々に謗り、偽りなさった。高国も「“両葉去らずんば斧柯を用うるに至る”という例えも
ある。それならば香西を誅殺しなければならない」と思い定めた。しかし香西を誅殺すれば柳本が自分に仕える
ことはないだろうと、彼の心を推し量って躊躇ったが、

「我が命に替わらんと志す柳本ならばよもや仰せには背くまい」と、柳本に宛てて如才なき真実を誓紙に書いて
文箱に入れたものを予め拵えておき、1月20日に香西を殿中に呼び寄せた。香西が何気なく、いつものように
出仕したところを、予め謀っていたことなので殿中で即時に誅殺した。高国はそのままかの文箱を柳本の

ところへ遣わされ、それには「国家のために誅したのである。其の方は恨みを含んではならぬぞ」と懇ろに仰せ
伝える内容が書かれていた。ところが流石の柳本なれば、文箱を開かずに持参して殿中へ参り、

「香西のこの頃の驕りの限りによって、このようになされたのだと存じます。国家のためですから、それがしは
少しも恨みを含み申してはおりません。御誓文を開き見るには及びませぬ」と、文箱を上に戴いて返し奉った。

そして柳本は「舎兄の不義に連座の罪科を御宥免なされ、それがしをもとのように召し使ってくださることは、
生々世々までもかたじけなく存じます」と申し、御前を退いて宿所に帰り、平生の行儀に変わることはないので、

(高国は)「漢の光武帝は兄の劉エンを更始王(劉玄)が殺したのに、言辞も談笑して元通りだったというのと
違わぬ。あっぱれ度量広き国家の忠臣なり!」と申した。

しかし柳本はこのままでは「主君とはいえ兄弟の仇に反抗せずにいるのか」という謗りを免れ難く思い、20日
ほど過ぎて図らずも思い立ち、丹波の領地へと引き退いたのであった。

――『舟岡山軍記』


天下が破れるということは、すべて

2018年03月31日 20:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 05:15:28.72 ID:T7g+hrGD
さて、阿波国よりの御上洛を年々御願望であったが、澄元(細川澄元)は御他界なさった。三好父子も
他界なさり月日を送っていた折、京の高国(細川高国)は42歳の御時、大永5年(1525)乙酉4月

に御出家なさって法名は道永と申し、御家督を御子の六郎殿(細川稙国)に御譲りになった。そんな喜ば
しいという時に、六郎殿は御歓楽で御他界された。

「御曹司のことは道理の善し悪しでは考えられない。道永の御運の末ぞ」と人々が申した中、高国は
御家来の香西四郎左衛門(元盛)に敵心ありとして、大永6年丙戊7月13日に香西を屋形に召され、

是非なく生害させなさった。香西の兄・波多野(稙通。秀治の祖父)と同じく弟の柳本(賢治)は遺恨に
思い、阿波国(細川晴元方)と申し合わせて大兵乱を起こした。さて、香西四郎左衛門が生害させられた

由来はどういうことか尋ねると、典厩尹賢(細川尹賢)と香西四郎左衛門は仲が悪く、尹賢は連々と讒言
を申されて香西を亡き者にしようと企てていた。そんな時に香西の家来の物書・矢野宗好という者がいた。

香西は文盲の方で、常に半紙を10枚から20枚宗好に渡して置いて書札を調えていたのだが、折しも
宗好は公事ではないことを取沙汰し仕ったため面目を失い、牢人となった。宗好は諸々の詫言を申したが、

香西はしばらく懲らしめるためにそのままにしていた。その時、尹賢は宗好を頼んで「内々に過分の知行
を遣わすぞ」などと約束して、かの半紙少々の残りを使い、澄元やその他方々へ謀反を企てた作状を調え、

密かに高国へ御目にかけられた。高国は「香西四郎左衛門はそのような者ではあるまい」と不審に思し
召したが、判形がはっきりしている以上は生害させなさると内談された。とはいえども、なおも不審に
思し召したので、直に御尋ねになるとして小姓2人に仰せ付けられ、

「『直に御不審を御尋ねしたきことがあるので、道具(武具)を持ち出して御前へ罷り出てください』
と申して、道具を持ち出したならば召し連れて参るように。もしも香西が何かと申して、道具を持ち
出さなければ、生害させよ」

と命じなさった。両人が仰せの通りに香西に申し聞かせると、香西は是非に及ばず番所で道具を持ち出し、
御使者両人とともに参った。その後、座敷と通路の間で、尹賢が「(高国が)遅いと仰せられておる!」

と申された。これに両人が「すでにこちらへ召し連れて参りました」と申すと、尹賢は両人の耳元に寄り、
「生害が遅いと仰せられておるのだ!」と切り切り申された。

高国は両人に直に御尋ねになると仰せ付けられたので不審に思いながらも、いずれも若い方だったので、
わけもわからずに香西を討ち申されたのであった。尹賢の内存は、このように直に御尋ねになられては
自分の讒言が表れてしまうため、座敷と通路の間に待機して切り切り申されたのである。

高国の御内存は「道具を持ち出さなかったから生害させたのだな」と思し召して、是非に及ばれずに
手前を打ち過ぎたのであった。連々と尹賢が仕られるように御耳に入れたとはいえ、すでに生害した
以上はどうしようもないことである。

天下が破れるということは、すべて人々の讒言によって起こるのである。香西もかの半紙を宗好の方に
残しているとは思いも寄らず、かつこのようなことも文盲故であると世間に聞こえたのである。

――『細川両家記』


晴元は、浅謀である

2018年03月29日 16:46

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 14:47:11.06 ID:578kb+n9
大物崩れによる細川高国滅亡により、京兆家の家督は細川晴元に一統し、もはや混乱はないと
諸人喜びの思いでいたが、天魔の所業であろうか、晴元の出頭衆である可竹斎(三好宗三)、
三好神五郎、木澤左京亮(長政)と、三好筑前守元長との間が不快となり、出頭衆は
晴元に元長のことを様々に讒言したが、細川讃岐守殿(持隆)は、三好を無二の忠臣であると
考えており、晴元へ色々と仰せわけられ、御勘気を許されていた。

このような中、木沢長政は晴元に属し、旧主である畠山総州(義堯)に背き、事々に
無礼の事多かったため、畠山義堯は無念に思い、木澤の居城である飯盛を攻めた。
これに三好元長も、三好遠江守を派遣し合力した。

木澤は追い詰められ、腹を切ろうとしたが、晴元に注進が届き、晴元は三好宗三などと評定して、
この年の八月二十日、飯盛山救援のために軍勢を摂津国中島三宝寺まで進めた。
そして即座に畠山衆を攻め、畠山勢は攻め破られ散々となり、三好遠江守の軍勢も百人ばかり
討たれた。

しかし、この畠山義堯細川晴元の姉聟であり、三好は数代忠功の旧臣なのだ。
このような人々から、新参の出頭人である木澤に思い替えた晴元の心のほどは、浅謀であると
言えるだろう。

(足利季世記)


わか世のはての 近きうれしさ

2018年03月26日 19:21

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 17:55:37.85 ID:7SI4Sz+W
(細川政元の暗殺と細川澄元の都落ちの後)

都では九郎澄之(細川澄之)が家督の御内書を頂戴なさり、丹波より7月8日に上洛された。
同11日に政元の葬送を取り行いなさり、戒名は大心院と申した。

中陰の儀式は大心院で厳重に取り行われて、同25日に七日の仏事を勤め終えなさった。その
夕刻に佐々木六角四郎(六角高頼)が大心院に参って焼香し、ただちに近江へ逃げ下ったため、
それより京都以外の場所に人々は騒動して資財雑具を持ち運び、目も当てられぬ有様となった。

果たして8月1日には澄元の御味方として右馬助政賢(細川政賢)、淡路守尚春(細川尚春)、
そして今の右京兆、その時は未だ民部少輔高国と申されたが、各々が同心して猛勢を率いて、

澄之に攻め掛かり申された。そのため澄之の馬廻らは一合戦致すべく覚悟していたが、大心院
の生害を澄之は内々に存じていたとの風聞が流れると、それなら(高国らの挙兵は)曲事無き

次第であるとして皆々心替えしたため、ついに澄之は遊初軒で自害なされた。波々伯部伯耆守
入道宗寅が心静かにその介錯を致し、遊初軒に火を放って腹を切ったのである。

その時に宗寅は一首を詠じて、小さい幼児が高雄にいたのでその子にその歌を遣わした。

「なからへて 思わすいとと うかるへし わか世のはての 近きうれしさ」

(たとえ生き延びたとしても、思わずいっそうの物憂さを覚えるだけであろう。ここで最期を
迎えることを、私は嬉しく思っている)

――『瓦林正頼記』


およそ目を驚かせるその風情は

2018年03月25日 15:29

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 21:51:56.60 ID:Ckif7DNX
近頃のことであろうか、摂津下郡の内に1人の大名(瓦林正頼)がいた。

当国の太守・細川右京大夫高国にとっては外戚なので、無縁ではないとはいえ代々忠節
を尽くした家臣である。およそこの頃は当国に限らず諸国は乱れて攻め合ったので、

かの戦国の七雄の昔と変わらず、ただ朝夕寄せつ寄せられつ攻め戦う、闘諍堅固の時節
となったのは哀しきことである。

(中略)

その後(船岡山合戦後)、色々の調停などもあって播磨と京は和睦になったとはいえど、
心の底では油断無き状態であり、その他に四国も大概は(高国方の)御敵となった。

摂津にしかるべき城が無くては叶わないと、国守(細川高国)は上郡芥川の北に当たる
場所に相応しい大山があったので、ここに城郭(芥川山城)を構えなさった。昼夜朝暮、
5百人から3百人の人夫が普請を続け、少しも止む時がなかった。

正頼もまた鷹尾城を構え、またその東に1里隔てて西宮より8町北に小清水という小山
があったものを家城に拵えて(越水城)、日夜ただこの営みばかりを行った。

毎日50人から百人で堀を掘って壁を塗り、土塁や櫓を設けたので鍛冶・番匠・壁塗・
大鋸引はまったく暇こそ無かった。これに加えて正頼は透間に連歌を興行し、月次連歌

も行われた。夜々には古文を学んで道を尋ねたので、実に文武二道を嗜む人であった。
ことに連歌は長所で、近頃の宗祇法師が撰んだ『新選菟玖波集』の作者にも入った。

かの鷹尾城には与力の鈴木与次郎を城掛として、その他しかるべき士卒がこの城を守り、
小清水の戴く本城には軒を並べ作って広げ、正頼の普段の居所とした。

外城には子息の六郎四郎春綱を初めとして、同名・与力・被官が棟を並べて居住した。
その他の住居に余る家人たちは大概が西宮に居住した。

およそ目を驚かせるその風情は、当国には並び少なき大名であった。

――『瓦林正頼記』

両細川の乱で一貫して高国に属し、勇戦を繰り返して栄華を誇った瓦林正頼だったが、
1520年、高国に謀反を疑われて自害させられたという。