御衣装も常に黒いものを

2018年04月24日 14:09

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 01:57:28.42 ID:QCYFTSWG
御衣装も常に黒いものを


細川幽斎は太閤(秀吉)の時代でも、御内衆の身なりを古法に従わせた。
刀に鞘袋を付ける者は御覧になり次第叱らせるようにし
御供の履物も全て足半で、長草履を履いている者は一人もいなかった。
聚楽第にあった御屋形も全て唐紙障子で絵などを描かせることはなかった。
実目な方なので、御衣装も常に黒いものを着られた。

小田原陣であろうか、諸大名が金銀を散りばめ花を飾っていたときに
甲鎧は申すに及ばず、旗差し物まで黒色の出で立ちだったという。
ただし、これは事実かどうか分からない。


――『戴恩記』


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高畠はついに討たれたのである

2018年04月02日 21:24

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/02(月) 18:17:33.74 ID:qMcYJTMR
細川高国が香西元盛を誅殺した後)

柳本(賢治)は兄(元盛)の仇を報いるために、1月27日の夜に入って嵯峨へ夜川引きに出るのに事寄せて
家子・郎従を引き連れ立ち出ていった。さて高畠甚九郎と柳本には男色の因みがあった。そこで柳本は高畠に

知らせようと北野辺りの宿所へ行き、高畠に向かって「今回のことは人の謗りを免れ難いので主君に対して弓を
引かんと存じ、丹波へ立ち退きます。貴方とは知音なので告知申すのだ。同心できないだろうか」と申された。

高畠はややしばらく思案を巡らせて返答し「貴方と知音のことは人も存じていることであるから、同心申したく
はあるのだが、主君と家臣の上下の礼、また恩義は至って重いのである。どうにも了承申すことはできない。

しかし、思し召して出立するのであれば留め申すこともできない。早く早く下向なさって用意なされるのです。
それがしに告知なさったことは朋友の交わりのもっとも深い間柄なので、主君に背き申して丹波に入りなさる
とは告げ申しますまい。貴方が仇を報いようと大軍を起こして出なされば、

それがしは不肖なりといえども、罷り向かって拒み戦いましょう」と申し、自分には君臣の義を重んじ、柳本
には朋友の睦を厚くして互いに退き別れた。その心中はまったく正しきものである。その後、柳本は嵯峨に

行って角倉の家に立ち寄り、心静かに酒を飲んで打ちくつろぐ様子を見せた。その様子から角倉は推し量った
のだろうか、鎧腹巻を取り出して柳本の門出を祝った。柳本は嬉しいと喜び、それより丹波の領地へ帰ると、
丹後・但馬など近国の勢を催し、2月17日に都を目指して攻め上った。

高国ならびに右馬頭(細川尹賢)は打って出て拒み戦うも、競って進む敵勢に捲し立てられて散々に打ち負け、
すでに危うく見えたところに、高畠甚九郎が「先頃の言葉を違えまい!」と乗り入れて名乗りかけ、ひとまず
高国勢は盛り返した。しかし無理に引き連れた者たちの勢であったので、続いて敵勢と返し合わせる者もなく、

高畠はついに討たれたのである。高国は都に留まることもできず近江を目指して落ちて行った。柳本は本望を
達してしばらく都にいたが、近江より佐々木(六角氏)が加勢して攻め上るとの由を聞いて丹波へ引き返した。

――『舟岡山軍記』


満天の諸星が尽く動揺し

2018年04月01日 19:26

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 21:48:56.57 ID:n3XSfRms
天文二年(1533)十月八日に暁に、満天の諸星が尽く動揺し、煌めき流れ、陸海へ石のように
砕け落ち散った。その音も大変凄まじいものであった。
古今未曾有の天変であり、人々は

「一体、この上にも何らかの事が起こり、天地も打返り国も滅びるという先触れであろうか」

そう驚き、嘆いたという。

(足利季世記)


両葉去らずんば斧柯を用うるに至る

2018年04月01日 19:25

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 04:08:49.28 ID:1ZszLF6D
永正16年(1519)己卯、細川高国は管領として天下の政務を行った。弟の右馬頭(細川尹賢。高国の従弟)
は尼崎に住んで西国の沙汰を決断した。高国の家臣に香西(元盛)という者がいた。陪臣として諸事を執行し、

その威は主君よりも重く、その弟の柳本(賢治)もまた高国の男色の寵愛によって身に余る俸禄を蒙り、人に勝る
栄耀をなし、魯の哀公の季孫氏・叔孫氏、魏の曹叡の司馬父子の如く寵に媚びる者と交流を厚くし、睦をなした。
当家も他家も押し並べて、その門下に奔走したのである。

尼崎城を築くために香西兄弟も下向し、細川一家の人々は日夜土木の役にあずかった。その際に右馬頭の人夫と
香西の人夫が僅かな土を争って口論に及び、下部たち数百人が両方に立ち分かれて瓦礫打ちになったが、仲裁が
入り、両方へ引き分けて行った。右馬頭の者たちは城中へ入り帰り、香西の者は自分の丁場へ帰った。

ところが下知不聞の溢れ者が居残って城中へ瓦礫を打ち込んだのである。右馬頭が驚いて「これは何事だ!」と
問えば、しかじかの事と申すので、腹を立てながらも「下人に対して仲裁した以上は、また打擲すべきではない」
としてその場は静まった。右馬頭は日頃から香西の振舞いは我儘だと思っていたところに、この事が起きたため、

密かに高国に申して様々に謗り、偽りなさった。高国も「“両葉去らずんば斧柯を用うるに至る”という例えも
ある。それならば香西を誅殺しなければならない」と思い定めた。しかし香西を誅殺すれば柳本が自分に仕える
ことはないだろうと、彼の心を推し量って躊躇ったが、

「我が命に替わらんと志す柳本ならばよもや仰せには背くまい」と、柳本に宛てて如才なき真実を誓紙に書いて
文箱に入れたものを予め拵えておき、1月20日に香西を殿中に呼び寄せた。香西が何気なく、いつものように
出仕したところを、予め謀っていたことなので殿中で即時に誅殺した。高国はそのままかの文箱を柳本の

ところへ遣わされ、それには「国家のために誅したのである。其の方は恨みを含んではならぬぞ」と懇ろに仰せ
伝える内容が書かれていた。ところが流石の柳本なれば、文箱を開かずに持参して殿中へ参り、

「香西のこの頃の驕りの限りによって、このようになされたのだと存じます。国家のためですから、それがしは
少しも恨みを含み申してはおりません。御誓文を開き見るには及びませぬ」と、文箱を上に戴いて返し奉った。

そして柳本は「舎兄の不義に連座の罪科を御宥免なされ、それがしをもとのように召し使ってくださることは、
生々世々までもかたじけなく存じます」と申し、御前を退いて宿所に帰り、平生の行儀に変わることはないので、

(高国は)「漢の光武帝は兄の劉エンを更始王(劉玄)が殺したのに、言辞も談笑して元通りだったというのと
違わぬ。あっぱれ度量広き国家の忠臣なり!」と申した。

しかし柳本はこのままでは「主君とはいえ兄弟の仇に反抗せずにいるのか」という謗りを免れ難く思い、20日
ほど過ぎて図らずも思い立ち、丹波の領地へと引き退いたのであった。

――『舟岡山軍記』


天下が破れるということは、すべて

2018年03月31日 20:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 05:15:28.72 ID:T7g+hrGD
さて、阿波国よりの御上洛を年々御願望であったが、澄元(細川澄元)は御他界なさった。三好父子も
他界なさり月日を送っていた折、京の高国(細川高国)は42歳の御時、大永5年(1525)乙酉4月

に御出家なさって法名は道永と申し、御家督を御子の六郎殿(細川稙国)に御譲りになった。そんな喜ば
しいという時に、六郎殿は御歓楽で御他界された。

「御曹司のことは道理の善し悪しでは考えられない。道永の御運の末ぞ」と人々が申した中、高国は
御家来の香西四郎左衛門(元盛)に敵心ありとして、大永6年丙戊7月13日に香西を屋形に召され、

是非なく生害させなさった。香西の兄・波多野(稙通。秀治の祖父)と同じく弟の柳本(賢治)は遺恨に
思い、阿波国(細川晴元方)と申し合わせて大兵乱を起こした。さて、香西四郎左衛門が生害させられた

由来はどういうことか尋ねると、典厩尹賢(細川尹賢)と香西四郎左衛門は仲が悪く、尹賢は連々と讒言
を申されて香西を亡き者にしようと企てていた。そんな時に香西の家来の物書・矢野宗好という者がいた。

香西は文盲の方で、常に半紙を10枚から20枚宗好に渡して置いて書札を調えていたのだが、折しも
宗好は公事ではないことを取沙汰し仕ったため面目を失い、牢人となった。宗好は諸々の詫言を申したが、

香西はしばらく懲らしめるためにそのままにしていた。その時、尹賢は宗好を頼んで「内々に過分の知行
を遣わすぞ」などと約束して、かの半紙少々の残りを使い、澄元やその他方々へ謀反を企てた作状を調え、

密かに高国へ御目にかけられた。高国は「香西四郎左衛門はそのような者ではあるまい」と不審に思し
召したが、判形がはっきりしている以上は生害させなさると内談された。とはいえども、なおも不審に
思し召したので、直に御尋ねになるとして小姓2人に仰せ付けられ、

「『直に御不審を御尋ねしたきことがあるので、道具(武具)を持ち出して御前へ罷り出てください』
と申して、道具を持ち出したならば召し連れて参るように。もしも香西が何かと申して、道具を持ち
出さなければ、生害させよ」

と命じなさった。両人が仰せの通りに香西に申し聞かせると、香西は是非に及ばず番所で道具を持ち出し、
御使者両人とともに参った。その後、座敷と通路の間で、尹賢が「(高国が)遅いと仰せられておる!」

と申された。これに両人が「すでにこちらへ召し連れて参りました」と申すと、尹賢は両人の耳元に寄り、
「生害が遅いと仰せられておるのだ!」と切り切り申された。

高国は両人に直に御尋ねになると仰せ付けられたので不審に思いながらも、いずれも若い方だったので、
わけもわからずに香西を討ち申されたのであった。尹賢の内存は、このように直に御尋ねになられては
自分の讒言が表れてしまうため、座敷と通路の間に待機して切り切り申されたのである。

高国の御内存は「道具を持ち出さなかったから生害させたのだな」と思し召して、是非に及ばれずに
手前を打ち過ぎたのであった。連々と尹賢が仕られるように御耳に入れたとはいえ、すでに生害した
以上はどうしようもないことである。

天下が破れるということは、すべて人々の讒言によって起こるのである。香西もかの半紙を宗好の方に
残しているとは思いも寄らず、かつこのようなことも文盲故であると世間に聞こえたのである。

――『細川両家記』


晴元は、浅謀である

2018年03月29日 16:46

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 14:47:11.06 ID:578kb+n9
大物崩れによる細川高国滅亡により、京兆家の家督は細川晴元に一統し、もはや混乱はないと
諸人喜びの思いでいたが、天魔の所業であろうか、晴元の出頭衆である可竹斎(三好宗三)、
三好神五郎、木澤左京亮(長政)と、三好筑前守元長との間が不快となり、出頭衆は
晴元に元長のことを様々に讒言したが、細川讃岐守殿(持隆)は、三好を無二の忠臣であると
考えており、晴元へ色々と仰せわけられ、御勘気を許されていた。

このような中、木沢長政は晴元に属し、旧主である畠山総州(義堯)に背き、事々に
無礼の事多かったため、畠山義堯は無念に思い、木澤の居城である飯盛を攻めた。
これに三好元長も、三好遠江守を派遣し合力した。

木澤は追い詰められ、腹を切ろうとしたが、晴元に注進が届き、晴元は三好宗三などと評定して、
この年の八月二十日、飯盛山救援のために軍勢を摂津国中島三宝寺まで進めた。
そして即座に畠山衆を攻め、畠山勢は攻め破られ散々となり、三好遠江守の軍勢も百人ばかり
討たれた。

しかし、この畠山義堯細川晴元の姉聟であり、三好は数代忠功の旧臣なのだ。
このような人々から、新参の出頭人である木澤に思い替えた晴元の心のほどは、浅謀であると
言えるだろう。

(足利季世記)


わか世のはての 近きうれしさ

2018年03月26日 19:21

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 17:55:37.85 ID:7SI4Sz+W
(細川政元の暗殺と細川澄元の都落ちの後)

都では九郎澄之(細川澄之)が家督の御内書を頂戴なさり、丹波より7月8日に上洛された。
同11日に政元の葬送を取り行いなさり、戒名は大心院と申した。

中陰の儀式は大心院で厳重に取り行われて、同25日に七日の仏事を勤め終えなさった。その
夕刻に佐々木六角四郎(六角高頼)が大心院に参って焼香し、ただちに近江へ逃げ下ったため、
それより京都以外の場所に人々は騒動して資財雑具を持ち運び、目も当てられぬ有様となった。

果たして8月1日には澄元の御味方として右馬助政賢(細川政賢)、淡路守尚春(細川尚春)、
そして今の右京兆、その時は未だ民部少輔高国と申されたが、各々が同心して猛勢を率いて、

澄之に攻め掛かり申された。そのため澄之の馬廻らは一合戦致すべく覚悟していたが、大心院
の生害を澄之は内々に存じていたとの風聞が流れると、それなら(高国らの挙兵は)曲事無き

次第であるとして皆々心替えしたため、ついに澄之は遊初軒で自害なされた。波々伯部伯耆守
入道宗寅が心静かにその介錯を致し、遊初軒に火を放って腹を切ったのである。

その時に宗寅は一首を詠じて、小さい幼児が高雄にいたのでその子にその歌を遣わした。

「なからへて 思わすいとと うかるへし わか世のはての 近きうれしさ」

(たとえ生き延びたとしても、思わずいっそうの物憂さを覚えるだけであろう。ここで最期を
迎えることを、私は嬉しく思っている)

――『瓦林正頼記』


およそ目を驚かせるその風情は

2018年03月25日 15:29

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 21:51:56.60 ID:Ckif7DNX
近頃のことであろうか、摂津下郡の内に1人の大名(瓦林正頼)がいた。

当国の太守・細川右京大夫高国にとっては外戚なので、無縁ではないとはいえ代々忠節
を尽くした家臣である。およそこの頃は当国に限らず諸国は乱れて攻め合ったので、

かの戦国の七雄の昔と変わらず、ただ朝夕寄せつ寄せられつ攻め戦う、闘諍堅固の時節
となったのは哀しきことである。

(中略)

その後(船岡山合戦後)、色々の調停などもあって播磨と京は和睦になったとはいえど、
心の底では油断無き状態であり、その他に四国も大概は(高国方の)御敵となった。

摂津にしかるべき城が無くては叶わないと、国守(細川高国)は上郡芥川の北に当たる
場所に相応しい大山があったので、ここに城郭(芥川山城)を構えなさった。昼夜朝暮、
5百人から3百人の人夫が普請を続け、少しも止む時がなかった。

正頼もまた鷹尾城を構え、またその東に1里隔てて西宮より8町北に小清水という小山
があったものを家城に拵えて(越水城)、日夜ただこの営みばかりを行った。

毎日50人から百人で堀を掘って壁を塗り、土塁や櫓を設けたので鍛冶・番匠・壁塗・
大鋸引はまったく暇こそ無かった。これに加えて正頼は透間に連歌を興行し、月次連歌

も行われた。夜々には古文を学んで道を尋ねたので、実に文武二道を嗜む人であった。
ことに連歌は長所で、近頃の宗祇法師が撰んだ『新選菟玖波集』の作者にも入った。

かの鷹尾城には与力の鈴木与次郎を城掛として、その他しかるべき士卒がこの城を守り、
小清水の戴く本城には軒を並べ作って広げ、正頼の普段の居所とした。

外城には子息の六郎四郎春綱を初めとして、同名・与力・被官が棟を並べて居住した。
その他の住居に余る家人たちは大概が西宮に居住した。

およそ目を驚かせるその風情は、当国には並び少なき大名であった。

――『瓦林正頼記』

両細川の乱で一貫して高国に属し、勇戦を繰り返して栄華を誇った瓦林正頼だったが、
1520年、高国に謀反を疑われて自害させられたという。


薬師寺元一の乱

2018年03月24日 21:13

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 20:47:41.65 ID:bBDupAtw
京の管領である細川右京太夫政元は、40歳の頃まで女人禁制にて、魔法飯綱の法、
愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如く、ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、
見る人身の毛もよだつものであった。

このようであったので、御家相続の子もなく、御内外様の面々より、色々と諌め申し上げた。
その頃、公方足利義澄の母は柳原大納言隆光卿の娘であり、今の九条摂政太政大臣政基の
北の方と姉妹で、九条殿の子と義澄は従兄弟であったので、公家も武家も九条殿の子を
尊崇していた。
そこで九条政基の末の子を政元の養子とし、元服の際、公方様によって加冠され、一字を与えられて
細川源九郎澄之と名乗った。彼はやんごとなき公達であったので、諸大名から公家衆まで、
皆彼に従い、これにて細川家はさらに繁栄すると見えた。そして細川家の所領である
丹波国に参られ彼の国に入部した。

一方で、細川の被官であり摂津守護代であった薬師寺与一元一という人があった。
その弟は与二(長忠)といい、兄弟ともに無双の勇者であった。淀城に居住して数度の手柄を
表した。彼は一文字不通(文字の読み書きができない)の愚人であったが、天性正直にて
理非のはっきりした人物であったので、細川家の人々は皆、彼を尊敬していた。

また過去に政元が病気を患ったとき、細川家の人々は評定して阿波国守護細川之勝(義春)の
子息が器量の人体であったため、これを政元の養子と定め、この事は薬師寺を通して契約された。
彼も公方より一字を頂き、細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

この様では何とも良くないと、薬師寺与一は赤澤宗益(朝経)と相談し、六郎澄元を取り立て
家督を相続させ、政元は隠居せしめんとした。これにより謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に
立てこもり、赤澤は二百余騎にて伏見竹田口へ攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、与一の弟である薬師寺与二は兄に同意せず、彼が大将となって
淀城を攻めた、与二が案内者であったので、淀城は不日に攻め落とされ、与一は自害も出来ず
生け捕りにされ、京へと輸送された。

かねて薬師寺与一は、一元寺という寺を船橋に建てたのだが、与二は其の寺において、兄与一を
切腹させた。与二には今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り、摂津守護代に補任された。
かつて源義朝が、父である為義を討って任官したが、それすらこれには勝らないと、批判する
人もあった。また赤澤は様々に陳謝したため一命を助けられた。

(足利季世記)

主君が魔法使いな事を不安に思って挙兵した、薬師寺元一の乱について



625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/25(日) 22:01:23.60 ID:IKpyqQxE
>>623
>この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
> 後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 23:42:43.20 ID:WS7TdV3k
>>623
なお、童貞のことを魔法使いと呼ぶようになったのはこの故事に由来する
(民明書房刊「戦国魔法使い大全」より)

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 00:10:33.93 ID:uQ7lCX9E
民明書房版ウィキペディア
の「魔法使い」の関連項目には細川政元がすでに入ってるのだった

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 00:23:53.40 ID:4d9A1EEK
でも男はやってたわけやん?
童貞というんか?

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 08:11:22.19 ID:6zrOuqmt
男色はノーカンであると弘法大師も言っている

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 16:04:08.23 ID:p77ZQlKn
管領という要職にありながら宗教にはまって妻帯せず
複数養子をとったせいで後継者争いは血で血を洗う始末
家臣もしょっちゅう謀反を起こすし
ほんとひどい奴だよな

上杉謙信

高国近江落ち

2018年03月16日 15:59

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 04:26:55.72 ID:l34Vc7iF
このため高国(細川高国)は丹波・山城・摂津国に触れを出しなさり、同年(1519)11月21日、
都を出立され、同12月2日に池田城へ御着きになった。越水城の御詰のために小屋野間九十九町・

高木・河原林・武庫・寺部・水堂・浜田・大島・新田・武庫川の方面に上から下まで陣を取り続けて、
折々合戦なさったのである。年は暮れて永正17年(1520)庚辰になり、1月10日に高国より

諸陣へ触れを出しなさり、2万余騎で打ち出た。諸口では合戦が終日あり、高国方の丹波守護代・内藤
備前守(貞正)は火花を散らして合戦され、切り負けて2百人ほどが討たれて退却した。阿波衆も百人
ほどが討死し、双方手負いは数を知れない。また高国方の摂津国の住人・伊丹兵庫助国扶は中村口へ

攻め掛かり、木戸や逆茂木を切り落として内へ込み入って申の刻から酉の終わりまで合戦し、伊丹衆は
打ち勝って阿波衆の首50余を討ち取り、勝鬨を作って制圧した。また同日に城中より、正門の木戸を
開いて2人の者が「我ら当国大島の住人、雀部与一郎!」「同しく弟の次郎太郎!」と名乗り、

「高国のため、また家のために命は惜しくない! 敵方は誰でも寄り合いなされ!」と、大声で叫ぶと、
澄元方の田井蔵人が名乗り寄せて切り合ったのである。雀部は切り勝って蔵人の首を討ち取ったが、

雀部兄弟も痛手を負って城中へ入り、それから4,5日して死去したのだった。対馬守(瓦林正頼)を
始めとして上下ともに惜しまぬ人はいなかった。城中では月日を送るにつれて気力を失い、

同2月3日の夜半に対馬守は安部の蔵人と談合して、城を開けなさった。この時、若槻伊豆守は老体で
あったため「どこまで」と思い切り、腹を十文字に切って死去した。

これにより後詰勢の衆は地田・伊丹・久々知・長例・尼崎へ引き籠った。そのため澄元方の三好筑前守
之長は難波へ陣取りなさる。他に澄元方は小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取り、同16日に

1万7千余騎で尼崎・長洲へ攻め掛かり合戦となった。大物北の横堤には、高国方の香西与四郎が打ち
出て、三好孫四郎(長則)と渡りあって太刀打ちし、双方名を上げなさった。その日は暮れて雨も降る
ので両方は互いに退いた。このため高国は叶わないと思し召し、城々へ仰せ合わせられて、その夜中に

高国方は一同に京へ上りなさった。このような成り行きは「1月10日は西宮の御狩神事の日である。
“居籠”といって人音もしない日だというのに、攻め掛かけなさった御罰である」と人々は申した。

されば落武者の哀しさよ、高国は京にもいらっしゃらずに近江国へ落ち行きなさった。今度は公方様
(足利義稙)は澄元に一味して京におられた。さて伊丹城の中では伊丹但馬守と野間豊前守の2人が

申して「当城はこの数十年の間、諸侍や土民以下の者たちが苦労して拵えたというのに、その甲斐も
なく逃れては口惜しいことよ。我ら2人はこの城の中で腹を切ろう」と、四方の城戸を閉ざして家々
へ火をかけ、天守で腹を切った。これまた剛なる人かなと感心しない人はいなかったのである。

――『細川両家記』


越水城の戦い

2018年03月15日 21:30

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 05:11:26.73 ID:0dI25yIH
時に永正16年(1519)己卯歳、秋の頃より澄元(細川澄元)は四国と播磨の勢を催して切り
上らんとの御談合をなされた。御家中の摂津の住人・池田前筑後守(貞正。細川高国方と戦い討死)

の子息・三郎五郎(信正)が申されて「今度、御上洛されるならば、摂津国口の先陣はそれがしが
仕ります!」と申し受けし、摂津有馬郡田中というところへ上って軍勢を揃えていると、高国方の

瓦林対馬守正頼、池田民部丞、塩川孫太郎が相談して、かの田中へ同10月22日夜半に夜討した。
ところが田中の勢へ通じた者がいたため、田中の勢は整えて待って戦ったので、攻め手は案内も

分からず、20日あまりのことなのでとても暗く、雨は降り、さんざんに切り散らされて塩川衆も
瓦林衆も身を変えられぬ人たちが数多討たれて、やっとのことで退却した。池田三郎五郎は首30
あまりを討ち取り、すなわち阿波国へ注進申された。

これにより澄元の御感あって三郎五郎に豊島郡一色を御与えになり、弾正忠になされ申したという
ことである。さて澄元は四国や淡路・播磨の勢を催し、三好筑前守之長の御供で兵庫浦へ着いて、

灘へ上りなさった。高国方の瓦林対馬守(正頼)は今度は越水城に立て籠り、澄元は「まずこの城
を攻めよ!」と、1万余騎で城を取り巻きなさる。澄元は神咒寺の南の鐘の尾山という山に陣取り

なさり、三好・海部・久米・川村・香川・安富は広田・中村・西宮・蓮華畑に陣取って、毎日合戦
なさった。城中には究意の弓ども(弓を極めた者たち)あり。中でも一宮三郎は比類なく聞こえた

者である。それゆえ三郎が矢を十放すれば7,8人に射当ててみせた。攻め手の人々はこれを見て、
例えば異国の養由基、我が国の源頼政や那須与一などの化身ではないかと、

この矢に恐れて月日を送った。そのため一宮三郎は一張の弓の威徳により、長らく御勘当を蒙って
いたのだが今回御許しを受けて、丹波国の本領は申すに及ばず、重ねて御領を賜ったのである。

――『細川両家記』



700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 09:54:18.87 ID:Ea6WYNfJ
何気に越水城を検索したら見聞が広がった

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 03:47:30.01 ID:8Nb7SmTw
???「弓を極めたのなら合戦中で最初の警告と最後に残った矢を門に打ち込んだ以外はすべて命中させて一矢で3~4人射抜くくらいできるよな?」

船岡山合戦

2018年03月10日 18:47

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/10(土) 05:34:38.36 ID:3d2Fy6J6
このために澄元(細川澄元)よりもなおさら三好筑前守之長は無念に思い、都への望みをなさった。

さて、永正8年(1511)辛未7月に、澄元は武略を巡らせて赤松殿(赤松義村)を御頼みになり、
播磨勢を催しなさった。先軍の大将には、御一門の右馬頭政賢、同和泉守護殿(細川元常)、他にも
山中遠江守(為俊)や諸牢人を御立てになった。

また畠山上総介(義英)より遊佐河内守(順盛)などが立てられた。こうしてまず和泉国へ切り入り
なさった。この由を高国(細川高国)は聞こし召され、「追討せよ!」と摂津国勢を差し下された。
さて、澄元方の諸勢は和泉深井に陣を取り、高国方の諸勢は同万代庄というところに陣取り、同7月
13日に深井へ押し寄せて合戦となった。(深井の合戦)

京の高国方は1万余騎、阿波方は城中には無勢で籠の中の鳥であったという。漏れ出ることができる
様子ではないので、阿波方は思い切り面も振らずに高国方へ切り掛かった。高国方の衆は切り負けて
大将格は皆々討死し、雑兵以下3百余人が死んでしまった。残る勢は和泉堺へようやく逃げ入った。

こうして、その日に澄元方は欠郡中島まで切り上った。このため、淡路守殿(細川尚春)は摂津国
兵庫口へ渡り、灘へ上りなさった。ここに高国方の兵・河原林対馬守正頼(瓦林正頼)は摂津芦屋庄
の上鷹尾城に立て籠った。淡路守殿は「この城を攻めるべし!」と、灘深井というところに陣取り

なさった。この由を正頼より京の高国へ注進申し、高国は聞こし召して今度は馬廻の柳本又次郎入道
宗雄、子息の波多野孫右衛門、能勢因幡守(頼則)、荒木大蔵らをはじめとして30余頭を差し下し
なされた。この人々は思い切って、同7月26日に芦屋河原で合戦となる。(芦屋河原の合戦)

また鷹尾より河原林の手勢を合わせて戦ったところ、京の高国方は打ち勝って、淡路衆の首を百余り
討ち取り、京勢はすなわち明くる27日に上洛してこの由を申し上げられると、高国は聞こし召して、
たいへんな御感であった。このため、播磨衆はこの合戦のことを聞き思案に及びなさったが、

一度約束した上のことなので8月の初め頃に播磨国を立ち、同8月9日に鷹尾城を取り巻き、険しい
谷とも高い岸ともいわずに攻めなさった。そのため城内でもここを先途と戦ったのでその日は暮れて
攻め手も麓へ退いた。しかしながら、正頼は「城の中でこの分では叶わない」と思い、

同10日の夜半に城を開けてしまった。播磨勢は喜んですぐに伊丹城へ取り掛かった。そのため河内
からと播磨からの二手になって京へ切り上ったため、叶わないと思ったのか、

8月16日に公方様(足利義稙)と高国、大内左京大夫殿(義興)は都を他所に見なしつつ、丹波国
へ落ち行きなさった。その後、御談合されてやがて丹波より切り上りなさり、同8月24日、船岡山
で合戦となる。(船岡山合戦)

阿波澄元方は切り負けて大将の典厩政賢、畠山方の遊佐河内守が討死し、この他の人々も1千余人
が討死した。すなわち諸陣が破れたため、御所様(義稙)、高国、大内殿は悦の眉を開き、都へ
入りなさった。播磨勢は播磨伊丹城を攻め戦ったが“一陣破れて残党全からず”という本文の如く、

船岡山合戦のことを聞き同26日に生瀬口へ落ちて行った。此度の合戦において大内方の太刀打ちの
有様を褒めない人はいなかった。

――『細川両家記』


こうして民部少輔高国と申す人を家督に据え申した

2018年03月06日 10:39

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 05:14:02.98 ID:j8Oj/9Vd
さて澄元(細川澄元)が家督を取りなさって目出度いところに、御内の
三好筑前守之長や高畠与三らはあまりに無道の振舞いなどがあったので、

「この分ではどうしたものか」と内々に呟かれ、京では奈良修理亮元吉、
摂津では伊丹兵庫助元扶、丹波では内藤備前守貞正が相談し謀反を企て、

「安房守典厩政国の子息・高国(細川高国)を主君となし申すべし」と、
永正5年(1508)戊辰4月9日、六郎澄元に背き申したたのである。
突然のことであったため、澄元はすぐに近江甲賀へ落ち行きなさった。

三好筑前守の子息・下総守(長秀)は伊勢国山田へ落ちなさったところ、
国司(北畠材親)より仰せつけられて生害させられ、(その首は)京の
高国へ上らせられたのであった。

こうして細川安房守の御子・民部少輔高国と申す人を家督に据え申した。
殊に筑紫の御所様(足利義稙)は大内左京大夫殿(義興)の御供により
堺津へ御上洛なされたので、事故もなく崇め申された。そんな折に、

摂津国の池田筑後守(貞正)は澄元方として自城に立て籠ったのである。
高国は聞こし召されて「それならば退治せよ」と仰せになり、

同5月初めの頃、高国方の典厩尹賢を大将にして猛勢が押し寄せると、
筑後守は物の数ともせず戦ったが、同名遠江守が高国へと参られたので、
攻め手はこれに意気込んで、5月10日に堀を埋めさせ厳しく攻めると、

城中より思い思いに切り出て、同名諸衆20余人は腹を切り、雑兵70
余人が討死したのである。「国中に同心する者もいないのに、かように
振舞ったことよ。大剛の者かな」と、感心しない人はいなかった。

――『細川両家記』



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 01:56:03.74 ID:n9jSo1KL
戦国初期も初期

九郎殿は御腹を召され

2018年02月28日 22:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 02:13:22.65 ID:/FwJ4UQm
香西又六(元長)と薬師寺三郎左衛門(長忠)が天下を我等がままに振舞うところに、
やがて50日ほどあって、同(1507)8月1日に、

澄元(細川澄元)は三好筑前守之長の算段で、甲賀の谷の山中新左衛門を御頼みになり、
京へと切り上った。九郎殿(細川澄之)のいらっしゃる遊初軒へ攻め掛かると、

一宮兵庫助が門より外へ切り出て、手元へ進む兵を7,8騎切り伏せ大勢に手を負わせ、
東西へ追い散らし、そののち自身も討死したのであった。中昔の源判官殿の御内である
武蔵坊弁慶もこうであったのかと思い出される。

さて兵庫助討死の由は、波々伯部伯耆守が九郎殿の御前へ参り申し上げ、「早く早く、
御腹を召され候へ」と申すと、九郎殿は「もとより覚悟のことである。しかしながら、
九郎の父・関白殿(九条政基)と北の御方へ御文を参らせたい」と硯を御乞いなさり、

「このたび丹波にて物憂きことなどがあり、また御二人より先立ち、後生菩提逆さま
に弔われ申さんことの口惜しさよ」と言いなさって、奥に一首の歌を遊ばしなさる。

「あづさ弓 はりてこころはつよけれど 引手すくなき 身とぞ成ぬる」

このように書き留めなさると、鬢の髪を少しそえて涙とともに巻き込め、御自身の文
ながら、ひとしお名残惜しげに御覧になり、局の方へ御渡しになった。そののち伯耆
を御呼びになり、「我はいまだ腹の切りようを知らぬ」と仰ると、伯耆は答えて

「十方仏土とは申しますが、自害と申すものは、まず西へ向かって十念し、御腰の
物を抜いて左の脇に刺し立て、右手の脇へ引き回し、返す刀で御心元に刺し立てて、
袴の着際へ押し降ろします」

と申し、九郎殿は御了承されて御腹を召された。伯耆は涙とともに介錯申し上げて、
そののちに腹を切った。薬師寺三郎左衛門、香西兄弟は皆々討死して朝の露となった。
このたびの討死は170余人である。

さて、その時の有様を局は九条殿へ参って詳しく申され、父の関白殿と北の御方様は
「これは夢か現か。夢ならば覚めてくれ」と、しばし消沈なさった。

ややあって関白殿が仰せになり、「人間に限らず生を受けたものは皆その上々を望む。
鳥類・畜類さえこうであるのに、それに引き換え、我が子は細川の家に養われて家に
疵を作ったことよと朝暮これを思っていたが、このようなことが起こってしまった」

と、御文を胸に当て顔に当て嘆きなされば、その他の女房たちや仲居の人、侍たち、
上下に至るまで流涕し、焦がれなさった。

これがあの釈尊御入滅の折、十大御弟子・十六羅漢・五十二類に至るまで、御別れを
悲しんだのも、こうであったのかと思い知られつつ、他人の袂も涙に濡れた。

このように因果の回ることは、ただ車が庭の中を巡るようなものである。

――『細川両家記』


細川幽齋覺書より、武士の心得のことなど

2018年02月27日 21:10

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/27(火) 00:02:27.66 ID:1tgBBbFO
一、人には何であっても好きなことが有る。弓鉄砲、或いは馬、蹴鞠、兵法、料理、乱舞、歌、
  将棋や囲碁、鵜飼、鷹狩、数寄の道、武士の道。何れにしても、好きなことが有るのなら、
  自分の好きなことは積極的に人に話すべきものだ。また人が話すことの中にも、自分が
  好きな事があれば良く聞くものである。
  また人により、武道の話をいたし、人が話すのも面白がって聞いていれば、良き心がけの者と
  周りは思うだろう。
  大体において、人々の心中というのものは、普段の話の内容、或いは愛する友人を以って知ることが
  出来るのだと、松長(松永?)という名人が申されていたが、真に相違ないと思われる。
  とにかく、どんな諸芸も、自分の心に染まらぬことは、結局出来ないものだ。その心得が
  有るべきだろう。

一、常々物をよく喋っていても、戦場においてはほとんど喋らなくなるような者がいる。
  また敵との間が遠い時には何かと喋るが、敵が近くなると物を言わなく成る者がいる。
  そういった将は、常々どれだけ口を利き、物を良く申していても、役に立たないものだ。
  殊に、敵が遠いほど物を申し敵近くなり合戦前に萎れる体にていること、殊の外見苦しい事である。
  常には少しばかり無口でも、戦場においては諸人も聞き届けるように、物の埒を申し分けられる
  事は、常に物をよく喋ることより格段に良い事である。

(細川幽齋覺書)

ちょっと社会人の心得にも近いようなお話



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/02(金) 17:37:22.15 ID:txA038IT
上杉景勝(俺が喋るとみんなビビる)

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 18:49:45.62 ID:YECF6PdC
猿(よっしゃ真似したろ!)

永正の錯乱

2018年02月25日 17:26

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 05:53:09.00 ID:oc9UB2Xe
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』


細川幽齋覺書より、戦場での心得について

2018年02月21日 20:24

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 21:22:39.27 ID:c3U9fY9D
一、戦場において、幟ほど大切なものはない。幟さえ崩れなければ、敵方より仕掛けられる
  事はない。逆に軍勢が多く揃えてあっても、幟が倒れれば、こちらは敗軍したと敵は見て、
  合戦を仕掛けてくるものなのだ。

  幟大将を致すほどの人物が、他の者が敵と手を合わせるのを羨ましく思い、自分もそのように
  しようとすれば、幟の役が立たなくなってしまう。たとえ他の人々が、どれほど敵と手合わせ
  していても、幟さえ倒さなければ、敵と手合わせした人の手柄と同然であり、またそのような
  理屈をしっかり理解していないと、出来ない役である。
  名将と呼ばれる人々も、そういった資質が無い人間には、幟大将は務まらないと申されていた。

一、武士には、信心が無くてはならないものだ。殊に愛宕八幡には、別して信仰が有るべきである。
  ただし、火の物絶ち(火を通した食べ物を摂らない事)は全く無用である。私は若い頃、火の物絶ち
  を致して懲りたものだ。とにかく、物を食わねば何事も成り難い。

一、男道はあまりに律儀な計りでも成らぬものだ。少々人を出し抜く用に心がけなければ、
  優れた手柄も成らない。ただし、他人の協力がなければ出来ない事もある。そういう時は
  状況次第である。

一、陣に立つ時、具足の綿かみに梅干しを付けて参るべきだ。のどが渇いても水のない時は
  どうしようもないが、そういった時梅干しのことを思い出せば、口に唾の貯まるものである。

一、巾着には、干飯でも米でも、何か食えるものを常に絶えぬよう入れておき、普段居住している所に
  掛け置きしておいて、草鞋、脚長一足につき巾着袋を一つ付けておくべきである。そして主君が
  鷹野、または狩りなどに出られる時、腰につけて参れば、何があっても対応できるのだ。
  とにかく、物を食わなくては手柄も成らないものなのだ。

一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、
  殊に常々の御奉公のさわりにもなる物である。こういったことは、常々より嗜んでおくべきである。

一、戦場にて、地面の塵やごみを蹴り立てると、煙のように空に上る。これを地煙と呼ぶ。
  この地煙が高く上るところは、馬上の武者が多いと心得、低いところは徒武者の居るところだと
  考えるべきである。ただし風など吹く時は、そういう心得も変えなければならない。

一、敵陣に物見に参る時、なんとも参る手立てのない時は、商人にまぎれて参るものだ。
  陣において備蓄が無い時は、敵味方が人数を立てあっている最中ですら、酒売商人など
  参るものである。当然、自分たちの方へもそういった者が参るわけで、少しも油断
  してはならない。

(細川幽齋覺書)

戦場での心得についていくつか



657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:40:37.28 ID:jlZaj6kt
>一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、

ワイ将、大腸過敏の長距離電車通勤組、毎日陣中(電車)で我慢

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 00:21:20.09 ID:yMVZx1uC
マニュアル作るの好きなんだなあって分かる

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 01:45:46.22 ID:UTaI4uHy
一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。
幽斎でも大小便をするんだ…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:03:49.36 ID:7XdmiP1b
フン!って力むから卒中するんだよな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:48:38.93 ID:X2fLifG2
不識庵「なんやて」

662 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/21(水) 08:20:06.28 ID:u0yUUzj8
マニュアルかなぁ?
単に危機管理の為のノウハウの蓄積をしようとしてるだけとしか。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 16:45:23.98 ID:lUc9Phna
マニュアル以前のメモ書きだよな。
ただそんなメモ書きでも書いておけば役に立つ。
食料や道具の準備について大分項目を割いているが、
それだけ何の準備もなく参陣する奴が多かったんだろうなぁ。

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 17:12:32.37 ID:i4qjyDOk
梅干しの話はまんま望梅止渴の故事からだろうけど実際効果の程はどうだったんだろう

めいどには 能わか衆のありければ

2018年02月21日 20:23

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 03:39:28.52 ID:aA/6Utkz
そのようなところに、政元(細川政元)はあまりに物狂わしくおられたため、御内・外様の
人々は、「この分ではどうしようもない」と悲しみ合っていた。

その折に薬師寺与一(元一)はつくづく考え出して、赤沢宗益(朝経)という法師と相語らい、
「政元を誅し奉り、阿波の六郎澄元をその上に崇め申しようぞ!」と語ると、

かの宗益は同心した。しかし、ある文に“好事門を出でず 悪事千里を行く”というが、道理
ではないだろうか。包み隠してもこの事はわずかに表れてしまい、叶わずして宗益は伏見
竹田口へと切り上った。

頃は永正元年(1504)甲子9月初めに与一は淀城へ立て籠もった。そのため京や田舎
では仰天して物言い取り取りであった。

そうとはいえども政元の御内衆は与一の弟の与次(長忠)を初めとして御屋形様へと参り、
評議をなしてすぐに諸勢を催し、淀城へと押し寄せて川とも堀ともいわずに攻めなさった。

城中でもここを先途と戦ったが、まことに攻め手は国々の勢たちが一つになって新手を
入れ替え攻めていった。そうして城中ではここかしこで5人、10人ずつ討死していった。

そのようにばかりで、どうして堪えることができるだろうか。9月18日申刻、ついに城は
落ちてしまった。与一は今一度謀反を企てようと思い、川の畔の葦の中で弛んでいたが、
因果の道理に任せて生け捕りとなり、都へと上った。

船橋に一元院といって、与一が世にありし時に建立した寺があった。与一はそこへ移り、
色々の物語りをして一首の歌にかくばかり。

「めいどには 能わか衆(我が主)のありければ おもひ立ぬる 旅衣かな」
(あの世には良い主君がいるので、思い立って旅立つとしよう)
(あの世には良い若衆がいるから、お前も早く来るといいぞ)

このように親しき方へ文などを遣わし、最後の時の申し様は、

「皆々御存知のように我は一文字好みの薬師寺与一。名乗りも元一、この寺も一元院と
名付けた。されば腹をも一文字に切ってやろう!」

と言って腹一文字にかき切り、朝の露とぞ消えにける。上下万民押し並べて皆涙を流した。

さるほどに弟の与次は御感を蒙り、今回の恩賞に桐の薹の御紋を賜り、三郎左衛門と
改名なされ、兄の与一の跡を賜って摂津国上下守護代となり栄華に誇った。

昔も主君の仰せに従い、源義朝が父・為義の首を取りなさったのである。ましてや末世の
以下の侍であれば、主君の下知に従って兄の立て籠もる城を攻めるのは道理である。

――『細川両家記』



549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 11:34:46.20 ID:/G4E2NbT
死に様一つで見事にキャラがたった与一さん
なぜか万民が涙を流す

細川の流れが2つになってしまう原因

2018年02月20日 16:23

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:19:24.31 ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 11:21:32.09 ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 13:54:30.42 ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:20:28.14 ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」

細川幽齋覺書より、川を挟んだ合戦

2018年02月17日 09:55

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 00:09:50.53 ID:Qls51LFz
一、敵が川を前に軍勢を立てている時、その軍勢が厚く立てられている場合は、その川は浅いと
  心得るべきだ。逆に軍勢が薄い場合は、川が深いと心得るべきである。

一、敵方が川を渡ってきた場合、その川の三分の一ほど越えた時に、こちらは川端まで押し寄せ、
  鉄砲を撃って渡川を妨害しなければならない。川を渡られてしまうと、敵には勢いがつき、
  味方は勝利を失ってしまうものなのだ。

一、敵が川向うに居る時、此の方より川を渡す場合、少し川上から馬を乗り上げ、水の流れに
  つれて渡すようにすれば、早く渡れるものだ。少しでも早く、などと考え、川下から川上へ
  渡るような真似をすれば、結果遅くなってしまうものだ。

一、川を前に陣を取った場合、何よりも先ず筏を組める物を心にかけ、準備しておくことが大切である。
  とは言うものの、筏に組めるものが無く、また川を渡らなくてはどうにもならない、という状況に
  なった時は、「道具筏」といって、鑓などを組み合わせて、それに乗って渡る事もある。
  また「馬筏」といって、手綱を互いに取って組み、これにて川を渡すことも有る。このようにすれば
  弱き馬も強き馬にひかれ、造作なく渡れるように成る。
  「道具筏」「馬筏」とは、こういったもののことを言うのだ。

一、敵が川を渡ってくると予め解っている時は、此の方に柵を構築し、渡さないようにすべきである。

(細川幽齋覺書)

川を挟んだ合戦に関するお話



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 15:41:22.33 ID:nC83Xr0m
>>641
>馬筏
男塾みたいなやりかたで草

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 18:31:41.07 ID:lPtSpuum
>>641
幽斎様なら馬を担いで渡れそう

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 22:09:49.78 ID:uHB/+4zH
上流で馬の集団を渡河させて、流れを弱めて、歩兵を渡したエピがあったと思うんだが、
新田義貞だっけ?

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 23:32:00.13 ID:GZSKK4fO
シーザーがやった話なら知ってるが

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 07:35:51.26 ID:cjiShSU3
上流で糞尿を流して水の手から疫病を発生させたんだっけ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 09:40:16.59 ID:xa+2aYDi
馬上で糞尿を垂れ流して焼き味噌と言い張った?

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 13:45:15.27 ID:8Qu9Piho
徳川軍の兵士が大井川上流で人間堤防を作って下流を渡渉する織田軍を接待した話もあったな

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 14:59:17.72 ID:CtdKoPGM
男塾名物とかでありそうだな