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大津城の合戦の最中、

2023年05月06日 16:15

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/05(金) 20:06:58.24 ID:D4ZMWEXl
九月九日から始まった大津城の合戦の最中、
九月十一日の夜、城中から敵陣へ夜討ちせんと
赤尾伊豆守、山田大炊、三田村安右衛門の面々が五百の兵を選出し
赤尾と山田が率いる二百人は筑紫広門の陣を襲撃し散々に打ち破った上で
筑紫家の馬印を奪って勝鬨を上げて城へ引き返した
一方、三田村安右衛門率いる三百人は立花宗茂の陣に攻めかかろうとしたが
宗茂は知勇兼備の猛将で油断なく、足軽に玉薬を入れた縄襷をかけさせ早合による銃撃で応戦した
三田村の「何程のことあらんかかれ」という下知を受け京極勢は風雨のごとき玉矢を事共せず攻めていき
中でも丸毛万五郎と名乗る者が薙刀を水車のごとく回して、一人当千離倫絶類の有様で敵を突破していった
立花の陣屋より六尺あまりの仁王のごとき大男が現れ、大音声で十時摂津(連貞)と名乗り勝負せんと
三尺八寸ほどの重く厚いダンビラをかざし丸毛の元に走ってきた
丸毛は薙刀で十時の胸板を突き貫こうとするが十時は事も無げに薙刀を真っ二つに斬り折ると
太刀を抜こうとする丸毛の隙をついて無手で取り押さえ、腰より縄を取り出して搦め上げた。
それを見た中江式部という者が韋駄天のように駆けて来て十時に斬りかかり鎧の外れを斬ったが、
十時に振り返りざま件の太刀を打ち据えられ露と消えた
京極方の箕浦備後という者は敵3人を討ち取り一息ついていたが十時の働きを見て首を投げ捨てて
一文字に十時に向かって行き無手で組み伏せようとした
備後は家中でも剛力の名を取りたる者であったが、十時は物ともせず逆に備後を押伏せ生け捕りにした
夜討ちの大将である三田村安右衛門は丸毛と箕浦が生け捕られたのを見て、
南無三と十時に向かって行ったが小石につまづき倒れたところを立花勢の村井平六という者に捕えられた
平六が「今宵夜討ちの大将を村井平六が生け捕った」と高らかに名乗るのを、
安右衛門の嫡子である三田村平助が聞き、父を取り返さんと立花勢の真っただ中へと駆け入ると
天命か村井平六が安右衛門を連行するところに出逢った
平助は怒る目に血を注ぎ、いかなる鬼神も倒さんという有様で向かってきたため村井は大いに驚き退くが
平助は平六に追い迫り平六が振り返ろうとするところを一刀に切り倒して父を救った
十死を逃れ一生を保った安右衛門だが、立花勢が備えを固め新手を繰り出してきたのを見て
今はこれまでと敵兵を突破し城へと引き上げた

大津籠城合戦記



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邪魔モ悪魔も寄にきられす

2021年07月23日 18:50

336 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 00:00:56.05 ID:b6PXRtd+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3952.html?sp

https://japanmystery.com/fukui/kumiya.html

こちらの話で京極高次の小浜城建設のために愛娘を人柱にされた、若狭国の豪商・組屋六郎左衛門のお話。

永禄年間(1558~1570)のこと、航海中に遭難しそうになった組屋六郎左衛門の船であったが、突然港へ向けた風が吹き、その風のおかげで難を逃れることが出来た。
無事、港に着いた六郎左衛門の船であったが、その中から見慣れぬ異形の老人が姿を現した(またはこの老人によって船は難を逃れたとされる。)。六郎左衛門はこの老人を自宅に招くと、手厚く歓待した。
すると老人は、「我は疱瘡の神である」と六郎左衛門に素性を明かし、歓待してくれたお礼に彼の一族は疱瘡から守護すると約束し、そして六郎左衛門に疱瘡からの守札の作り方を伝授して去っていったと言う。

この守札には組屋六郎左衛門の名が記されてており、疱瘡の神はこの名を見るとその家は避けてくれるのだと言う。

この疱瘡御守札と疱瘡神御影、並びに組屋六郎左衛門と疱瘡の神とのやり取りを記録した文書は小浜市教育委員会所蔵として今の世に残っている。

参考サイト
福井県文書館
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/m-exhbt/20170713AM/20170713.html

小浜市ホームページ
http://www1.city.obama.fukui.jp/obm/mermaid/common/fckeditor/editor/filemanager/connectors/php/transfer.php?file=/uid000002_E5B08FE6B59CE5B882E58685E381ABE6AE8BE3828BE796ABE79785E7A588E9A198EFBC88E58699E79C9FE381AEE381BFEFBC892E706466

毎日新聞記事
https://mainichi.jp/articles/20200617/ddl/k18/040/226000c

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 00:10:19.93 ID:b6PXRtd+
また、この時から遡ること約600年、一条天皇の長徳3年(997)に組屋六郎左衛門に宛てて五人の疱瘡の神が書いたとされる詫び状もかつて存在したとされる。
丸写しでアレだが、そちらに記載された文言は以下の通りで、こちらの疱瘡の神からの守札はは組屋六郎左衛門の名と共に以下の和歌を記すのだと言う。

「千早振神の子孫の家なれは邪魔モ悪魔も寄にきられす」


参考サイト
エーザイホームページ
http://search.eisai.co.jp/cgi-bin/historyphot.cgi?historyid=K01011

個人ホームページ
http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2020/03/post-016bc1.html



京極高吉の改宗

2019年06月11日 14:28

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 14:08:49.60 ID:tf9swAlS
我等が安土山に立派なガザを建てたことは、当地方に於いて非常に有意義であった。信長は特権として
城の瓦と同じ瓦でガザの屋根を葺く事を許したが、城の瓦のように金は用いなかった。
ガザは三階建てで均衡のよく取れた、甚だ立派な爽快なる建物であり、毎日多数の大身達がこれを見るために
来たり、我等はこの機会に彼らに説教しデウスのことについて語った。そしてガザにおいては毎日説教があり、
大身達が各地方から集まったために、この年ににコンパニヤ(イエズス会)が都、その他諸国に知られ、
デウスの教の広まりは、それまでの多年の間の成果と同じくらいであった。そのため、このガザが多数の人に
キリスト教の教えを知るに至る方便と成ることを期待している。もし敵が、例のように妨害を加えることが
無ければ、本年の収穫は少なからざるものと成っていただろう。

説教を聴いた者の中に、元近江国の王であり、今は国を失っているが、信長の庇護を受けている大いなる殿で、
(安土)城内にある最も立派な邸宅の一つを所有している人があった。この人はキヨクドノ(Chiocundobo
京極殿:京極高吉)と称し、夫人とともに説教を聴かんと決心し、デウスの教えを喜ぶあまり、四十日間
引き続いて説教を聴いてよくこれを悟り、四十日の末に夫人とともに洗礼を受けた。
この人に11,2歳の一子(京極高次)が有り、その頃他の町において信長に仕えていたが、父はこの子が
帰るのを待って全家族と共に洗礼を受けさせようと考えた。しかしながら、その後数日を経て我等の主が
彼(高吉)を御許に召し給うたため、その希望を達すること出来ず、又その子並びに家族はみな異教徒のままで
あったのみならず、子たちは父の死が神仏の罰によるものと考え非常に恐れたが、母はこれにかかわらず
信仰堅く、唯一その邸宅に住んでいる。我等の主が彼女によっていつかその子達を導き給わんことを期待する。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

京極高吉の突然の死は、実際に仏罰だと噂されたらしいですね。

多賀高忠の仕置

2017年12月21日 21:24

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 22:37:05.92 ID:uRA/RJOj
多賀豊後守高忠は元は近江の者で、京極の一族であった。
応仁文明の頃、京極持清は京都の所司であり、彼は多賀高忠を以って所司代とし、
京都のことを司とらしめ、公事訴訟に対処し、時の人は皆、彼の仕置を賞賛した。

ある時、召し捕えた者の中に、力量あってその人品必ず士たるべき者があった。
「この者には武勇の生まれ付きがある。」
高忠はそう言うと縄を解いて彼を赦した。しかしこの者はそれを喜ばなかった。
「このように縄目の恥辱に及んだ上は、早く斬罪されることころ本望に候。」
この言葉になお憐れんで、彼を赦した。

その後、この者がどうなったかは誰も知らなかったが、多賀高忠が身罷った後、
名も知れぬ者が彼の墓前にて殉死をした。
これを改めると、あの時赦した咎人であった。

(士談)



522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 23:41:32.01 ID:ClbJXQZ1
声に出して読みたい武将名
多賀高忠

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 02:47:17.59 ID:iAHgmtDN
おおがこうちゅう

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 03:15:28.63 ID:fSmEqW7z
タカタカタッタカタ…

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 10:44:59.30 ID:DnNNVYbu
>>524
もう「ジャパネットたかた」でいいよ

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 09:13:13.30 ID:FpfjZlPw
滅びの言葉、バルス! ←短すぎ
滅びの言葉、たがたかだか、あれ、たがたかた、あれ、たががたがた ←滅びない滅びにくい!

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 13:52:35.12 ID:eMHCf5nW
ただがたがた

娘一人に婿三人という事は以下の事である。

2016年04月07日 13:59

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/06(水) 23:05:16.50 ID:g8yCxKkV
 娘一人に婿三人という事は以下の事である。
昔ある富める人には娘がいた。
その娘があるとき舟遊びに出たのだが、
どうしたのであろうか娘は船端を踏み外して水に落ち入ってしまった。
父母は驚き悲しみ、高札を打ち立てた。

「この娘を救ったらは、必ず婿にしよう。」
とのことであった。

 占いをする者が来て、どの辺りに娘の姿があるかを教えた。

 また水泳の上手な者が一人来て、「私が取り上げよう」と言って、すぐに娘を抱き上げた。
しかし娘は息が絶えて無かった。
 その時医者が来て薬を与ると、娘は再び蘇った。
その後卜人が言うに
「私が初めに娘のあり所を言ったればこそ、取り上げられたのだ。私が婿になろう。」
また、水練の者が言うに
「私が抱き上げなかったら、どうやって蘇生できただろうか。私が婿になろう。」
また医師が言ったことには
「私が薬を与えなかったら。どうして再び寿を保てただろうか。私が婿になろう。」
と争ってしまった。所の地頭に伺っても決着が着かない。

 ついに都に上り、多賀豊後守(高忠)の義を受けると
「その様なことがあったのか。欲界に生を受けるものはおよそ三百六十種と云われる中で、人がこの中の長である。
婚合の法は形を交わることにある。この時では水練の者が娘に身を添えて肌に触れた。
これをもって婿にとるべきだ。」
との掟をだされた。

(醒睡笑)



包丁藤四郎

2015年04月01日 18:41

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/31(火) 20:16:37.14 ID:oMe9X87S
包丁藤四郎

応仁の頃、多賀豊後守高忠は足利将軍家の料理を司る者で、鶴の調理の名人と聞こえた者であった。

ある時、とある人が鶴の腹の中に鉄の箸を密かに入れて、「これを料理せよ」と多賀に言った。
多賀は鶴の腹の中に鉄の箸が入っているのを察知したが、「心得たり」と、吉光の小刀を持って
その鶴を斬ると、腹中の鉄の箸も併せて切断した。

人々大いに驚き恐れて、これよりその小刀を『包丁藤四郎』と異名を付けた。

この刀はのち鳥飼宗慶という者が所持し、将軍徳川秀忠に献上された。

(刀剣談)



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/31(火) 20:39:47.59 ID:c7YGK3N3
細川幽斎と鯉で似たような話があったな

806 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/31(火) 21:38:16.90 ID:35Gh7+3T
>>805
でもあれだと悪い話…?
どっちかね?

昔、細川家記立ち読んだら、料理人が嫉妬から嫌がらせで魚に鉄串仕込んだ…ってなってた記憶があるけど。

宮津城の人柱

2013年05月17日 19:51

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 18:14:24.11 ID:at2MRqSc
元和の頃、丹後宮津藩ニ代藩主・京極高広は、宮津城の大規模な改修を行った。
この時城の一部を海上にせり出す形で建築したのだが、これが一夜にして全て崩れ去るという事態が起こった。
ちなみにここは、後の駒ノ詰の矢倉であると言われている

この事に困った京極高広は大膳という山伏に占わせた所、『人柱を使わなくては建築は成就しない』という。
初めそれを信じず、工事を進めたが、海上への張り出しが大変大きいため、どうやっても上手く行かず、
終に人柱を選ぶ、ということとなった。

この時八蔵という中間(あるいは足軽とも伝わる)が主君の心を察し

「不肖ながら、私が人柱となります。」

と申し出た。高広は不憫なこととは思ったが築城の成就には代えがたいと、彼を人柱として入れた。
すると、工事は見事完成したのだという。

完成したその一角には、八蔵の名にちなんで八地蔵が建立された。
またそこに立つ角櫓は、別名「八蔵櫓」と呼ばれたそうである。
(宮津日記)

宮津城大改修にまつわる、人柱の逸話である




624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/17(金) 21:47:05.76 ID:kCr+rxHn
人柱って生きたまま埋められるの? 死んでから埋められるの?

内匠豊後の手柄である

2013年04月20日 20:48

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 20:06:40.20 ID:pa3XMz0z
丹後宮津藩(宮津城)初代である京極高知が病気となり、京へ養生のため上られたが、
この時、内匠豊後がお供をした。内匠豊後は高知お取り立ての者であり、常にお側に有った。
その上、高知の三男である修理太夫高三とも大変懇意な者であった。

高知の病状が甚だしくなると、内匠豊後は仮に御書を作った。その内容は。
京極領12万3千石のうち、嫡男である采女正高広に7万8千石、三男の修理太夫高三に
3万5千石、甥で婿養子の、主膳正高通に1万石あまりを継がせる、というものであった。

これを作り置き、高知が終に前後不覚の状況となると、内匠豊後は高知の手を添えて
その御書に御判物を書かせたという

高知が死ぬと、内匠豊後はその御書を高知の遺書だと言い、それは江戸の将軍にまで達し、
幕府からその内容通りにするよう仰せ付けられた。

後に、この事は全て内匠豊後のはかりごとであったことが顕れたが、京極家中の者達は皆、
内匠豊後の手柄であると言っていたそうである。
(宮津日記)




75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 00:27:34.29 ID:bFgtfghp
>>74
「はかりごと」とはいえ、特に問題視はされなかったんですよね
結果論かもしれんが、京極家も無事に明治まで生き延びられたからいい話 ということですよね?

高知が南北朝バサラの子孫という事しか知らないニワカの独り言でした、スマソ

76 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2013/04/20(土) 00:49:10.50 ID:dAGbjGFw
>>75は狡猾。

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 09:33:26.80 ID:a32B7T14
本家の石高下がって格は下がったけど無嗣断絶の多かった時期で分家作りが流行ってた頃でもあるからなあ

大津城に関するお話

2013年02月11日 19:56

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 12:17:50.99 ID:djfJ/Tn7
関ヶ原の役の折、大津城には二の丸に松の丸殿(京極竜子・秀吉の元側室)が住居していた。
西軍による大津城攻めが行われると、火矢の用心のため屋根を尽くまくったが、鉄砲の音にその女房衆が驚き
泣き悲しむこと甚だしく、これが殊の外、城の弱りとなったため、戦闘中に松の丸殿を京に移す事になったという。

この大津城攻めでは、京の町人たちが城攻めを見るため重箱、水筒を持って三井寺観音堂において、恐ろしげもなく
日夜見物をしていたそうだ。

大津城は14日に西軍に開城し、京極宰相殿(高次)は16日に高野山に上ったのだが、寅~辰の刻(午前3~9時)にかけて
関ヶ原で撃ち負けた西軍の雑兵達が際限もなく大津の方に逃げ込んで来た。
人々、せめて今日まで持ちこたえていれば運も開けたのに、残念なこと多い京極宰相の戦ぶりであったと申しあったという。

実は京極殿は城にて切腹すると決心し、これを明け渡すなどありえないと言われていたのだが、家老の伊予守というものが
腰抜けであったので、あのような事になったと取り沙汰されている。
(慶長年中卜斎記)

以上、慶長年中卜斎記より、大津城に関するお話





508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 14:59:04.16 ID:Hb/1GD5J
>>506
むしろ結果的に高次が生き延びられたいい話じゃね?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 16:16:52.96 ID:iJlbPKmi
戦見物って楽しそうだな

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 16:24:16.33 ID:8j7AoL9/
しかしヒャッハーされる可能性も

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 17:16:49.71 ID:HT8wnR5d
>>510
自分達の村の将来(ヒャッハーされるか否か)を見極めなきゃあいけないんだぞ

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:45:58.63 ID:MXaPvd23
>.511
中立の寺や神社に篭っていれば大抵は大丈夫
まさに駆け込み寺

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:53:18.28 ID:061Z9LVQ
>>513
門徒や寺領以外のやつを入れるわけ無いだろ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 03:14:34.10 ID:SLzEI9g/
信玄に貰ったばかりのお墨付きをたてに頑張っても信玄にめちゃくちゃにされた寺があったよねえ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 04:53:16.45 ID:ENohQV+Y
信長より信玄の方がよっぽど寺焼いてるイメージ

飛騨行った時も結構信玄にやられたって話が残ってたなぁ
今東博でやってる円空仏展でも信玄配下に焼き討ちされたって解説があった

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 09:20:42.09 ID:c+CUr8AV
詰まるところ「延暦寺が焼かれるはずが無い」みたいな認識が
当時の(主に京都の)人間にとって大きかったんじゃないかなあ。
これが「信長が園城寺を焼いた」だったら多分誰も反応してない。

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 09:51:05.10 ID:7rGOf7Yj
いやいや、延暦寺は信長の前に、足利義教と細川政元の手によって2度も焼かれてる。

ちなみに延暦寺を焼き討ちした義教、政元、信長は、全員家臣に殺されている。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:03:40.47 ID:iF86PqRn
光秀「信長様に限って家臣に討たれるとかそのようなことあるわけがない。」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:12:36.62 ID:4sI+iKuP
>>518
金剛峯寺「焼かれてから仕返しするのは二流の仕事」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 13:57:38.34 ID:D93TIXfu
信長は確か戦見物するような奴は見つけ次第切れっていってたよね?
このころはだいぶゆるくなったのかな。
あっラスボスは見せびらかすのが好きだから奨励したのかも?

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 14:47:32.07 ID:no7R50Lb
信長はゲリラ相手に戦ってたから


[ 続きを読む ]

大津宰相こと京極高次は

2012年11月06日 20:00

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 20:40:25.33 ID:PiXUy448
大津宰相こと京極高次は城下の住民にさほど好かれていなかったらしく、
大津城攻防戦の際に大津城下の住民達は近くの山に弁当持って出かけて攻防戦の模様を
まるで祭見物であるかのように楽しんだと言われてる




303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 22:12:17.92 ID:/CwFW1/+
それ戦場のデフォ

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 22:24:23.23 ID:Yl2SYoHD
南北戦争の初戦の第一次ブルランの戦いもピクニック気分で観戦しに来た奴らがいたというし
あと、中国の春秋戦国時代あたりで見物に集まったやつに攻撃しかけたら敵軍のほうに逃げていって、
敵軍が混乱して勝利した話があった気がする

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 23:26:02.81 ID:OUwdw2fR
それ以前に籠城前に城下の建物を焼き払ってるだろ

310 名前: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:8) [sage] 投稿日:2012/11/06(火) 06:31:52.97 ID:mFbaVcSB
>>302
攻め手が大砲をドカドカ撃ち込んだんだっけ?

石田三成の大津城訪問

2011年05月15日 00:03

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 00:09:25.49 ID:mBAtBIRG
関ヶ原の時のこと。

石田三成の挙兵後、毛利輝元を大阪城西の丸に入れるなど、西軍は一応の体制を整え方針も決まり、
三成は一旦、その領地である佐和山へと帰った。

と、その途中三成は京極高次に対面したいと、使いをその居城、大津に送った。
京極高次はかねてより徳川家康と親しい人であったが、三成の要請を受け入れると、本丸から三の丸へと移動した。

三成は大津城大手門の外で、乗り物より降りた。その日は小雨が降っており、三成は羅紗の合羽に塗笠をかぶり、
手回りだけの少人数で城内へと入った。
高次と対面すると、三成は手を付き頭を下げ「天下泰平の時が参りました」そう挨拶した。
高次はこれに

「治部殿に取って元より余儀なき企てであれば、必ず本意を遂げられることでしょう。
このような時期、一刻も早く帰城して様々な評定を成したい所でしょうから、わざと本丸よりも
出口に近いこの三の丸まで出向いて、お目にかかりました。」と返す。

さてその頃、京極高次の重臣、安養寺門斎は同僚の黒田伴與に向かってこう主張していた

「この一乱の張本人である三成がこの城に来たというのは、正に天の与えた好機である!
いざ三成を召し捕り、大手の門前にいる三成の勢を討ち取ろう!」

しかし黒田はこれに同心しようとしない。そこで同じく重臣である山田三左衛門赤尾伊豆も呼び
再びこの事を語ったが、3人共に同意せずこう反論した

「今三成を手篭めにすれば、敵の大軍が寄せきたりてこの城は攻め滅ぼされてしまうだろう。とにかく落ち着け!」

しかし安養寺は負けずになおも語る
「先日、殿(高次)は我らを召しだして何とおっしゃったか!?『三成常に奢りを極め、今また無益の乱を起こした。
であれば私は、天下の御為に神明を捨てて内府(家康)に属し、かの三成一党を誅殺する。お前たちも
忠義を成すべし!』そう、仰せられたではないか!

その上は今更滅亡など恐れるべきではない!それに、三成を召し捕えれば敵の大軍が囲むから
籠城しても危うい、というのは心得難い。殿が三成一派との対決を決意している以上必ず戦端は開かれるが、
仮に三成を何事も無く佐和山に帰したとしても、その時寄せての人数が少なくなるとでも言うのか!?

もし、そなた達の言うように敵の大軍に攻め囲まれ籠城が終に成し難くなれば、その時は三成を刺殺し、
宰相殿(高次)へ御自害を勧め、我らは一箇所に並んで腹を斬れば良いのだ!」

「お主の言うことは確かに理がある。が、内府のために京極の御家が断絶するのでは納得できようはずもない。
その上現在の状況は、三成一人を殺したからと言って世の中が治まるというものではない。
とにかくそういう考えはやめるべきだ。」

これに安養寺怒り
「そなた達の言うところは、宰相殿の一筋なるご心中と相違しているではないか!
先日私が少しばかり申し上げることがあって殿の御前に参った折、殿はこのように言われた

『去去年より伏見・大阪にあって内府に心を寄せたこと、これは私の粗忽の上ではない。
また、太閤の恩を忘れて、私的な好を求めたのでもない。心に一片の後ろめたさはない!』

このようにはっきりとした表明を承っているというのに、我々は別の思案を成そうとしている。
もし、敵味方の筋目について各々が未だに疑念を持っているのであれば、これからその事を議論しよう。
ただし!当家の存亡を重視するあまり、東西の勝負が決着するまでに議論が終わらない、などと言う事態になれば
必ず後悔しますぞ!」

しかしこのような議論をしている間に、三成は高次の前を退去し城を出てしまい、安養寺の企ては終に虚しくなった。
石田三成の大津城訪問に関する逸話である。(関原軍記大成)





組屋地蔵

2010年04月04日 00:06

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/03(土) 03:34:16 ID:Ko23iSAE
組屋地蔵

慶長五年(1600)、京極高次は関ヶ原の戦功により若狭小浜八万五千石に封じられた。
新領主となった高次は、美しい小浜の砂浜に、新たな城を築くことを考えた。
海と陸を繋ぐ要衝に城を作るのは、確かに理想的であった。が、その工事は難航を極めた。

何しろ土台として軟弱な砂浜に城を建てるのだ。その基礎を築くだけでも長い年月と、領民の莫大な負担を
必要とした。その領民の負担は、金銭や労力に留まらない、

慶長六年、城壁の建設に際しその安全護持のため、人柱を立てることになった。

人柱の提出は築城工事にも関わっていた地元の豪商、組屋六郎左衛門の責とされ、
組屋は泣く泣く、自分の愛娘を人柱として差し出した。
娘は無残にも、築城のためその生命を散らした。

しかし人柱を立てたものの築城工事ははかどらず、領民の負担ばかりが増えていった。
慶長十四年(1609)、城の完成を見ぬまま京極高次は死に、息子の忠高の代となった。

寛永十一年(1634)、京極家は出雲松江二十三万五千石に転封されることになったが、その時もなお工事は続いており、
なんと天守すら完成していなかった。
新たに小浜に入った譜代大名酒井忠勝は、この未完成の城を引き継いだ。

酒井家が小浜に入って早々、不思議な噂が流れた。
蜘蛛手櫓の近くから、毎夜毎夜、女の忍び泣く声がするというのだ。
これを聞いた城代家老、三浦帯刀が調査をすると、その泣く声がする蜘蛛手櫓は、かつて組屋の娘が
人柱にされた場所だとわかった。

三浦は娘を憐れみ一体の地蔵尊を造り、彼女の魂を供養した。その地蔵は「組屋地蔵」と号され、
本丸守護の守りとされた。

寛永十九年(1642)、多くの領民の負担と犠牲のもと、小浜城はようやく完成をした。
築城開始から42年という、城の建設としては異様な長さであった。

さて、「組屋地蔵」であるが、寛文二年(1662)五月の大地震で城の石垣が崩れ、その混乱の中行方不明となり、
そのまま忘れ去られた。


ところが、それから300年ほどの時が過ぎた、昭和三十四年(1959)の事である。
水害により崩れた石垣の修復作業中、南隅玉垣の諸石の中から、この地蔵尊が発見されたのだ!
江戸期の記録から、これが「組屋地蔵」であることが確認された。伝説だと思われていた組屋地蔵の、実在が確認されたのだ。
地蔵は300年間、石垣の中にまぎれて、小浜城を守っていた。

今、組屋地蔵は小浜城跡に作られた小浜神社の入口脇に祀られ、石垣だけとなった小浜城を
静かに見守っている。




873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/03(土) 16:02:13 ID:JbqY1XkF
>>867京極さん治世の悪い話だね

政宗公と相撲とらされた酒井さんのイエスウィキャンオバマ藩ね……
城の由来には随分重い話が残ってるんだなあ。

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/03(土) 16:25:22 ID:5blC7lKA
忠直の弟が、ペテンで幽霊から城を奪い取る話とかかな

関ヶ原、大津城攻防戦、忍者が旗を盗んだら

2009年11月11日 00:16

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 02:04:46 ID:JRW2rGsg
関ヶ原の、大津宰相京極高次守る大津城を、西軍末次元康、毛利秀包、立花宗茂らが攻めた
大津城攻防戦。

慶長五年(1600)9月9日の申酉の刻(17時ごろ)より11日まで、西軍は攻撃を仕掛け、
昼夜を隔てず攻め立てたが、城方も良く守った。
そこで9月12日は諸隊の者を休息させ、13日に総攻撃を仕掛けようと、
そのように軍議にて決定した。

ところがその12日の早朝、毛利の陣に大津方の忍びが侵入、旗二本を奪って帰ると、
城の者達は城壁からその旗を立てて、「攻め手の者達は大切な旗を盗まれぬ間抜けたちだ」と
大いに嘲笑した。

が、一つだけ、運が悪かった事。
それは、その旗を立てた正面に陣していたのが、毛利ではなく、立花宗茂だったこと。

宗茂は大津城に立てられた毛利の旗を見て、思った

「しまった!毛利勢に先を越されたか!!皆の者、我等も攻めかかるぞ!!」

宗茂、毛利が抜け駆けをして大津城に攻め入ったと勘違いしたのである。これだから合戦脳は。
立花軍、一斉に動き出す。このにわかの攻撃に、城方は慌てた。相手は今日は
休息を取っているとの頭があるので、こちらも防衛の準備が整っていないのだ。

それでも兵を集め必死の防戦をする。が、立花軍は竹束を盾に堀下に取り付くと、城方の攻撃など
なんのその、死傷者を踏み越えあっという間に三の丸を攻め取ってしまった!

この立花軍の猛攻に、毛利軍も合流。二の丸まで攻め落とし、ついに残るは本丸だけとなった
京極高次は、翌13日、降伏を受け入れてしまうわけである。

関ヶ原の決戦が行われたのは、その二日後の15日。
城の忍者達が、あんな悪戯心をおこさなければ、
いや、その旗を立花陣の前に掲げなければ、
そもそも宗茂が変な勘違いさえしなければ、
高次は関ヶ原の決戦が終わるまで、大津城を守り通せていたかもしれないのだ。

そんな、ちょっとしたことで狂ってしまった運命のお話。




92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 02:48:47 ID:5xCK61KG
大津攻めに時間がかかったのは、大坂が使者を送って開城させようとしてたから
攻撃は遠巻きに鉄砲とか撃ち込むのに留められてたからみたいなんだよな。
だから、城方からのちょっかいを口実に宗茂は強引に総攻めに踏み切らせたらしいけどね。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 10:50:04 ID:uJtnmhyr
誤解で立花軍の総攻撃食らうとか涙目すぎる

京極政経『もう大変なんですから。』

2009年07月25日 00:15

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 03:00:09 ID:L9e2dSMB
そんな京極さんの中から、尼子経久に一字を与えた事でも有名(?)な
近江、出雲守護、京極政経。
応仁の乱真っ盛りの文明五年(1473)、彼は朝鮮国王に緊急の書状を出した


『もう大変なんですから。

ウチの守護国のね、近江でも出雲でも、戦乱のせいで農村が荒廃しちゃって、
材料が生産されないから、衣料の入手にも事欠く始末なんですよ。

それでね、うちの兵士達も、まともな衣服がなくて寒さで凍死するのまで出る始末。

そんなわけで、木綿を緊急に輸出してください、それも大量に、今すぐ!
もうホントに大変なんですよ。お願いしますよ。』


京極氏は日本海を通じて、朝鮮とも近しい関係だったようですが、
応仁の乱に対する、東アジアからの視座も感じるお話。




751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 10:03:55 ID:aOAPFygy
泣き落としにかかってるけど、逆に足下見られてそうw

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 12:06:47 ID:rF00l2Ge
>>750
15世紀だとまだ日本で木綿栽培は広まってないかな
泣き落としで貴重な木綿を輸入してまで兵士に着せるだろうか?
ほんとは進物や贈答品に使うんじゃないの~?(・∀・)ニヤニヤ

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 12:29:40 ID:syRJm0dZ
>750
越後や後の出羽は、あおそ栽培してたんだっけ。

綿花も国内栽培が盛んになるのは江戸時代、社会が安定してからですた


京極忠孝とその妻初姫・悪い話

2008年10月27日 00:01

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 22:33:02 ID:qswYHBAq
まあ、江戸初期なんだが

若狭小浜藩主、名門、京極忠孝は、大の相撲好きで、よく人を集めては相撲の興行を行っていた。
さて、この忠孝の妻は徳川秀忠の四女、初姫であった。秀忠はこの娘を、目に入れても痛くないほど
可愛がっていた。

ところが彼女が病気になり、明日をも知れぬ体となった。秀忠の下にも「初姫危篤」の注進が届き、
秀忠の元から幕府の年寄、酒井忠世、土井利勝、永井尚政らの歴々が馬で京極家に駆けつけた。

ところがその時忠孝は屋敷で、奥より何度も呼ばれたにもかかわらず、多くの見物人とともに
相撲に熱中していたのだ。

「何をしておられるか!!」

年寄衆の怒声に、忠高は慌てて奥に逃げ入り、観客達も蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れた。

初姫は、間もなく死んだ。

秀忠は、京極家に一切かかわらせず、徳川家のみで彼女の葬儀を行った。


細川忠興呆れて物が言えず。(愛妻家的な意味で)



139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 22:46:56 ID:axySKPWy
忠興も愛妻家・・・とはちょっと違うような気もするがw

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 22:47:12 ID:g9utkbeq
いや…天下一ヤンデレの人に家庭内別居について語られてもな…