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赤松家の再興と赤松政則について

2020年04月04日 16:14

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 21:08:28.14 ID:ZqTGg4x8
赤松兵部少輔政則は、赤松則祐律師五世の孫である。則祐の長男が義則、義則の長男が左京大夫満祐入道性具である。
満祐は播備美の三州を領した、赤松一族の棟梁であった。然るに嘉吉年中に満祐は逆心を企て、将軍足利義教公を
弑し奉った。この大罪に依って満祐はその子教佑と共に誅せられ、満祐の領国は、播州を山名右衛門督持豊に賜り、
美作を山名教清に、備前を山名教之に賜った。これらは、満祐の誅伐に軍忠有るを以ての事であった。
ここに於いて、山名一族が三州を領し、赤松家は断絶に及んだ。

然るに長禄二年、赤松が郎従の石見某という者、朝廷に愁訴して赤松家の絶えたる事を嘆き、

「南帝を弑し奉って三種の神器を内裏に入れ奉るべし。この事成るに於いては赤松家を再興し奉るべきや」

と云えると、これを朝廷で詮議あり、また武家(将軍)へも叡慮の趣きを達せられ、石見の訴望に
勅許があった。

石見は喜び、間島何某という旧友と語らい、南朝へ忍び入って、南帝を弑し、三種の神宝を取って帰った。
吉野の郷民は頻りに彼を追いかけたが、石見は終に免れて、三種の神器を禁裏に捧げた。
これに於いて。赤松次郎政則、当時五歳であったのを召し出されて。加賀国を賜り一家を再興した。(長禄の変)

政則の父は義雅と言って、満祐の弟である(私に云う、政則は義雅の孫である。義雅の子が性在(赤松時勝)と云い、
その子が政則である)

応仁元年二月、細川勝元は将軍義政公へ推挙し、赤松政則に播磨備前を還し賜って、政則は播州へ赴いた。
播州、備前は赤松の本国であったので、早速に両国を打ち従え、帰洛して勝元に力を合わせた。
これは細川山名の合戦(応仁の乱)の最中であった。

明応五年二月、政則は従三位に叙任された。同四月に政則は病死。享年四十二歳であった。
南帝を弑し、神璽を取った功によって、三品に叙せられたのだと云われた。

備前文明亂記

赤松家の再興と赤松政則について。




880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 22:12:42.35 ID:x/RUxsoF
赤松家の浮き沈みはドラマチックだよな

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/04(土) 02:22:50.86 ID:5pXVBIfz
性具ってすごい名前だな

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/04(土) 23:52:04.55 ID:IKQ5srZX
親父さんも息子も戒名に性の字を使ってるから、たまたまじゃない?
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【ニュース】狸に化かされる宴席料理「狸食(たぬくい)」を現代に復活 兵庫・夢前町

2019年04月05日 16:44

771 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/04(木) 19:38:39.54 ID:N2pt8JwE
狸に化かされる宴席料理「狸食(たぬくい)」を現代に復活 兵庫・夢前町


歴史ファンならたまらない戦国時代の宴席料理や、“100年前の日本酒”を現代に蘇らせたい-。兵庫県姫路市の北部にある夢前(ゆめさき)町の人たちが立ち上げた「夢前ゆめ街道づくり実行委員会」が、
歴史と食をテーマとした町おこしに挑んでいる。今月中旬には、大阪の都心、グランフロント大阪でイベントを開き、人々の「田舎愛」を呼び起こすべくアピールしている。
(文・木村郁子/写真・渡部恭晃)

今ものどかな里山の風景が広がる夢前町だが、一方で平成27年には中国自動車道の夢前インターチェンジが開通し、交通の便はよくなっている。
実行委員会は、同町で農業や食品加工業、旅館業に携わる人たちが発足させた組織で、地域活性プロジェクトに取り組んでいる。

実行委がまず“目をつけた”のが、戦国期に播磨・備前・美作(みまさか)の守護として勢力を誇った赤松氏の存在。弘治元(1555)年、赤松氏の居城置塩(おじお)城で、城主赤松義祐(よしすけ)が飾西(しきさい)郡の領主、
才伊三郎を招いて開いた宴席の際に出されたという料理「狸食(たぬくい)」だ。

一見すると、ただ白いご飯が入っただけの茶碗(ちゃわん)と、すまし汁。本当に宴席で出された料理なのか?と思いながらご飯を割ると中からコンニャクや大根、高野豆腐、ゴボウなどが顔をのぞかせる。
これに薬味とともにすまし汁(だし)をかけて味わうというものだ。

狸に化かされたような心地で食べると、中から総菜が出てくることから「狸食」。
ただし、「当時の趣を残したままシイタケやするめ、鯛など11種の食材をそれぞれに味付けして隠した『現代版狸食』です」と、当時の文献を発見し、再現のきっかけをつくった上山旅館の社長、上山洋一郎さん。
最も苦労したのは味付けだったという。室町時代の調味料といえば味噌か塩。醤油やみりんはまだ生まれておらず、熟考の末、味わい深い藻塩を使った。

どうやって食べればいいのか。「当時の白米は贅沢品。米のおいしさを味わい、次は具材と一緒に。ネギや糸唐辛子などの薬味をのせて。そして最後はだしをかけて、お茶漬けのように召し上がってください」と上山さんが教えてくれた。
ひつまぶしのように、食べ進むごとにしみじみと味わいが変化する。

当時、赤松氏が客を喜ばせようと料理人と考えたサプライズ。おもてなしの心に触れた思いだ。

また宴会では、日本最古の玉子料理、茶碗蒸しの元祖とも称される「玉子ふわふわ」も出されており、姫路城の前にある玉子かけご飯専門店「たまごや」が「玉子ふわふわ」を再現している。

このほか、大正から昭和初期に最も酒造りに使われていた酒米を復活させ、当時の酵母菌とともに、100年前の酒造りを行う計画も進んでいる。

「狸食」は上山旅館などの3施設で、「玉子ふわふわ」はたまごやでそれぞれ4月1日から提供される。

産経ニュース 
https://www.sankei.com/life/news/190401/lif1904010033-n1.html



772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 20:12:23.34 ID:Q72BmYRS
当時の酵母菌って、環境が変わっていてさすがに無理なんじゃ?

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 20:39:47.63 ID:ST5/m4p6
>>771
あの時代に面白い料理作ってるなぁw

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 20:42:54.23 ID:ZkmWDAT/
政宗「負けてはおられぬ」

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 21:09:08.70 ID:d/6aBWHj
1号酵母やろ。最近再出荷されてるとどっかで見た

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 21:56:10.43 ID:1yKT1tPK
100年前の日本酒はかなり辛いし濃いぞ、心して飲むべし。
https://i.imgur.com/GXKZtTo.png
https://i.imgur.com/MT8mDLP.png


ちなみに日本酒の味は元禄時代に甘さのピークを迎えて
そこからだんだん辛口化が進み、幕末~明治にかけて最も辛口になり
以降は甘辛を行き来しつつ、今は中庸に落ち着いている、といった感じらしい。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/05(金) 03:48:30.33 ID:5B+InzBl
櫻正宗の焼稀ってやつか
料理は辛口を使うけど個人的嗜好は真逆の日本酒度-30くらいの甘ったるいやつかな
あと猫正宗はちょっと呑んでみたい

一体彼が何人力だったのか

2019年03月04日 15:01

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/03(日) 22:50:49.97 ID:xdjGo/EV
秀吉の朝鮮出兵で、赤松左衛門尉広秀(斎村政広)も朝鮮に派遣された。
彼の家臣の田路勘四郎は強弓であり、敵を多く射斃し追い払って、小川の堤に沿って馬を進めていると、
その友人である衣笠宗兵衛の馬が、堤の下を走ってきた。「衣笠は敵に討たれたのか?」そう思いながら
進むと、先の方で朝鮮の兵が衣笠を捕え、胴を左の脇に挟み、頸を右手で握り、小川の流れの中に
衣笠の頭を押し浸し、二口三口水を飲ませては引き上げ、再び水を飲ませては引き上げる、という事を
行っていた。呼吸を遮り苦しみながら殺そうとしたのであろう。

これを見た田路は後より駆けつけ、刀を抜いてこの挑戦兵を袈裟斬りに斬り殺し、衣笠を助けた。
「一体どうしたのだ」と尋ねると、衣笠は

「あの朝鮮人が私に敵せんと相向かった所を、拝み打ちに切り払ったが、彼は長い袖を挙げて
刀を払い、そこで組み合ったところ私は横抱きにされた。力を尽くして彼より脱しようとしたが、
力及ばなかった。一体彼が何人力だったのか解らないが、私はまるで2,3歳の小児にように扱われた。
そしてこの川に降ろされ、あの様になっていたのだ。彼はその間、苦しむ私の顔を見て何度も笑った。
無念類なかったが、貴殿の力によって不慮の死を免れた。」

こうしてうち連れて自陣へと帰った。

(武将感状記)


この自慢の赤松家

2018年01月18日 17:26

485 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/17(水) 23:56:55.25 ID:NgrWvH92
信長の野望シリーズで唯一、永正の錯乱や船岡山の合戦を扱っている蒼天録PKには「自家自慢」というコマンドが存在した。(何分古いことなので効果等は覚えていない。)

この作品にも登場している赤松義村は、盛大な自家自慢を後世の我々にも仕掛けてきている。
彼は自著『秘事枕』に次のように記しているのだ。


「天盃を賜るということは一大事であるが、当家の政則はいただかれた。
また、塗り込めの輿を許され、幼稚のころから乗っておられた。京都屋敷も重厚な造りである。

さらに禁中より「雲井の松」を頂戴し、公方より「御所桜」を下されている。
「雲井の松」とは五階の松で相生になっており、高さ3尺5寸ほどのものである。薬師寺次郎左衛門という者に守られ、おしほ(置塩)屋形に移された。
「御所桜」は高さ4尺で、橋本源之允が警備した。
それらの木は前払いの雑色左右10人ずつ、素袍左右5人ずつ、刀帯左右5人ずつ、跡備一行立、弓10挺、矢固め2荷、長鑓10筋、左右刀帯5人ずつ、長刀、両鑓2人共馬上にて美々しく下ってきたそうで、「雲上拝受雲井松、御所拝領桜樹」という札を立てた。

他にも内室を御方と称し、国名の使用、鳳桐の御紋の使用を御免下され、屋敷を屋形というなど、当家の規模はとても測れるようなものではない。
政則の三品(三位)叙位ももったいないことである。幼稚の頃には規模など無に等しかったというのに。」

この自慢の赤松家と自分の身が、後々ああいうことになろうとは・・・。



486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/18(木) 23:41:03.49 ID:XxdQT9o1
赤松って嘉吉の変で取り潰されてるよね
この松と桜はなんで貰えたの?
三種の神器を取り戻したからかな

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 01:35:32.10 ID:szW9i48Q
>>486
嘉吉の乱の後、再興した政則の代でいろいろ賜った、って話なんだから、そうじゃね?

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 08:34:43.54 ID:Jl20+8tX
赤松氏もその後に復興して応仁の乱にも絡んでいるのよ

復興のくだりは「後南朝」「禁闕の変」「長禄の変」で検索すれば

「武士の恩返しとつくつくぼうし」

2015年11月24日 07:32

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 13:43:48.12 ID:qBMlgIUG
「武士の恩返しとつくつくぼうし」

天正九年(1581年)のこと、播磨赤松氏の軍師の律師光影が、二人の家来を連れて、竹田城主(太田垣朝延氏)のところへ、城を明け渡すようにとのりこんできました。怒った朝延は、三人を大路山の滝谷が原で切りすててしまいました。
数年後、村民は三人の霊を慰めるため、三体の石地蔵をつくり、手厚く祭りました。すると、あくる春からこの地蔵堂の付近だけ、つくつくぼうし(つくし)が生えるようになり、村民を驚かせました。
これを、三人の武士の恩返しと考え、のちに、毎年春の日の一日を村民たちは、つくし取りに楽しむようになりました。

(パンフレット「意外。おもろい。竹田城跡から見おろすまちのお話」 竹田むかし話)



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 14:04:29.67 ID:wTEHYNNU
オリーブって風媒花だったんだな

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 14:24:04.53 ID:oMQResU1
軍師じゃなくて軍使だろ
律師ってのは僧侶じゃないかな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/23(月) 16:13:47.47 ID:qBMlgIUG
突っ込みどころは数々あれど、とりあえずは原文のまま載せときました。

上月落城

2015年04月10日 18:31

657 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/09(木) 22:54:13.33 ID:rq4UcmKN
上月城は西播磨の端にある城で、美作・備前・因幡の国境にある要衝であった。
1557年に赤松晴政の兄である政元が入城した。
彼は「西播磨殿」と呼ばれ、周辺勢力から攻められても負けることはなかった。
宇喜多直家に敗れるまで………。
ちなみに直家の三顧の礼を拒否して直家単身の訪問でやっと毛利方に従属した。


さて、そんな話はどうでもいいので今回の本題に移る。
上月城を政元の次男・政範が家督を継いだ。
彼も父同様「西播磨殿」と呼ばれて武勇優れた武将であった。
政範の代になると佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の5郡約15万石を領する勢力になっていた。

1577年10月、あの羽柴秀吉が黒田官兵衛を引き連れて播磨に登場!
中央播磨~東播磨に位置する赤松則房や別所長治らが従う。
翌11月には上月城にも織田家に従うよう通達が届いた。


そのころ上月城では評定が行われていたがなかなか意見がまとまらなかった。

織田方家臣「織田家には勢いがある。魅力もあるし我らも付くべし!」

毛利方家臣「いやいや、毛利は我らが降伏しても事実上領土を安堵してくれた。その御恩に背いていいのか?」

赤松政範「(今最も勢いがあり京を掌握している織田にしようか………、義を貫いて毛利にしようか………)」

政範が優柔不断であったせいでなかなか答えが出なかった。
なかなか答えを出さない政範に秀吉は攻め込むことを決意し、3万の兵で攻め込むことにした。
ここに至り、政範も秀吉と戦うことを決意し、宇喜多に援軍を要請した。

赤松軍本隊7千(赤松方の全城の城兵を含む)+宇喜多家援軍3千VS羽柴秀吉3万の戦いが始まった。
秀吉軍の各個撃破により赤松軍は不利となり、上月城を包囲された。
(尚、途中の戦いで堀尾吉晴が援軍の宇喜多軍により深手の傷を負い、宮田光次はこの戦いで戦死したという。)

いよいよ落城の日が近づいた時、政範は内応者により追い込まれて先に妻を刺殺し自害して果てた。
自害するとき政範は「わしの首を持って降伏せよ。」と言った。

政範の首を持って降伏した兵たちであったが、秀吉はこれを拒否し、黒田官兵衛らに命じて総攻撃して落とした。
(政範が降伏したが、秀吉がこれを拒否したという記述もある。)

政範に殉じた武将は高島正澄(叔父)、早瀬正義(義祐の弟?)、宇喜多広維(政範の妹婿)、国府寺入道、中村伊勢入道らであった。
また、政範の弟・政直と政茂は討死、または自害。
一門の戦死者では正澄(兄・正満の子で甥にあたる)、高島正友(正澄の子)、川島頼村・頼春父子と頼村の弟・義行(頼村・義行兄弟の兄は赤松政秀)らである。

落城後の上月城ではご存知の通り、秀吉軍は上月城内にいた残兵の首を皆刎ねて、子供は串刺しにし、女は磔にしたという。
上月城にいた残兵女子供は皆殺しとされているが、政範の弟という政之は落城の前に兄の子達を密かに引き連れて脱出したという。


なんというか色々と悪い話。

(一部播州佐用軍記より)




「赤松のシェフ2」

2014年07月26日 18:53

356 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/07/26(土) 08:10:32.06 ID:NhOkfCQj
「赤松のシェフ2」

赤松家の台所方とされる人物が、弘治元年に置塩城で繰り広げられた酒宴で出された料理について詳細に記した「播州置塩夜話 六花亭物語」を紹介したが、
今回はその下巻にあたる「屋形物語」で、その18年後に開かれた酒宴を追体験してほしい。

天正元年十月八日、赤松則房の置塩城に、宇野下野守(長水城の宇野氏の関係者)がやってきて、夜食が出された。
宇野からはホラ貝、鷹1羽、鯉2尾、鯛5枚、宝命酒(薬酒)5升、
家長(原文ママ)平瀬清左衛門からは鴨2羽、勝男(鰹節)10節が献上された。

宇野は広間、平瀬は次の間で御料理を下され、赤松家家老・山田助九郎や相賀道閑が相伴した。
装束は身分の上下ともに無刀、上下(裃)着用。宇野の太刀持ち原小才次、小太刀持ち村松は御縁に控えていた。

最初に出した膳は、右に澄まし汁が入った汁椀、左に茹でた蕎麦が入った食椀、
椀の前に小皿を置き、香頭(こうとう=吸い口・薬味)として唐辛子、ワサビ、ネギ、大根、鰹節、柚子などを刻んだものを盛ったものである。

客が食椀の蓋を取り、汁椀の蓋を取って澄まし汁に香頭を入れて好きなだけかき混ぜて、それを蕎麦にかけると、蕎麦の下から色々なものが出てくる。
鴨、鯛、椎茸、あわび、きくらげ、麩、セン、玉子、厚揚げ、凍み豆腐、凍みこんにゃく、雪餅、炒めニンジン、ゴボウ、カンピョウなどが出る。
具材を下盛りにしておいたのだ。

2~3口で最初の膳を下げ、引替膳を出した。
その膳は鯉の刺身と、右に白鳥の味噌汁、左に白飯を配している。

次は、鯛の1コン焼き(尾頭付きの焼き物)、シギの焼き物、御酒。
玉子、あわび、ゴボウ、クワイ、蓮根、椎茸の葛煮に、酒1返し、いも巻きを供した。

ここで中入りとなり、酒宴が始まった。
盃は5合入りの椰子杯である。

料理の方は、スズキの青ヌタ、サザエの壺焼きと、酒1返し。
雀の焼き鳥と、酒1返し。
十六島(うっぷるい海苔)の漬け焼き、酒1返し、ふくら炒り。

「沖の石台」という5升入りの皿鉢に、酢と生姜を溜め、大根、人参、柚子、タコ、イカ、アワビなどを盛ったものも出した。

次に玉子のふわふわを出し、各自に抹茶、あん餅、干菓子を出した。

この酒宴で呑んだ酒は、宇野3升、平瀬4升、相賀3升、山田5升。
宇野は「相生」を謡って退出し、嵯峨山隼人と碁を3番打ったが、明朝はくたびれ果てて休んでいた。宇野は酒が不得手のようである。

昼食は菜食で、田楽、御酒、クシコ、御酒、カツオ炒り、御酒、御菓子、饅頭、干菓子という献立。
宇野達はその夕方、暇乞いして帰っていった。

以上、珍しい料理だったので抜き書きしておいた。永く家に伝えていってくれ。頼んだぞ!

天正二年正月一日
置塩・相賀永次郎重茂  同・毛野鶴次郎武盈 

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 08:29:48.96 ID:NhOkfCQj
上巻(六花亭物語)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1670.html




358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 08:33:00.39 ID:Kkl3FKi0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8230.html
前回のはこれ?

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 08:33:20.18 ID:Kkl3FKi0
かぶった、すまん

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 08:37:34.85 ID:ynTzV5w9
個人的な嗜好からいったら最初の膳の蕎麦を完食させてほしい
史料上はこのころから蕎麦切りが現れはじめるから、まだ蕎麦がきのころかな?
蕎麦の下に具材があって汁を掛けてるからそうなのかなあ

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 08:59:54.68 ID:HguOHKq9
>>356
だれか作って写真うpして。鷹って食えるのか?あいかわらず酒の単位が升wいまよりもアルコール薄いとはいえよう飲むわ。

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 09:32:16.31 ID:2UE5AZie
>>361
そういや昔、某MMOスレ民がゲーム内の素材と料理法で仕上げて写真をアップしてたっけか

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 09:50:34.10 ID:ENrhe7f5
何かで出てた「たまごのふわふわ」?なら作ってみたいな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 09:58:58.12 ID:DdbAyVs1
酒飲んだ後に碁を売ったのか。

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 12:43:47.83 ID:axf17gV4
六花亭と聞くと北海道のお土産のほうを連想してしまう

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 12:50:48.42 ID:cF4X+d7l
3升飲んで酒が不得手とか俺は生きてける自信がない

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/26(土) 15:22:17.91 ID:KmwpVQjX
酒と共に運ばれて来る山盛りの○セイバターサンド

宇野父子の運命

2014年04月30日 18:35

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 18:42:15.80 ID:zDAu+sY+
難読市町西の横綱こと、兵庫県宍粟市(しそうし)の五十波(いかば)にある長水山(ちょうずいさん)城の城主は宇野下総守政頼。赤松の一族である。
この宇野は芸州(毛利)の旗下だったので、秀吉公はこの城を攻めることをお決めになり、別所を攻め落とした翌年、広瀬の郷に馬をお寄せになった。
この時、近習の一人(里村紹巴とも)が「かがり火にうの首見ゆる広瀬かな」と門出の発句を奉った。
たいそう感心した秀吉公が一気に城をお攻めになると、宇野政頼とその子祐清はついに打ち負け、
近い親類である美作小原城主・新免伊賀守宗貫を頼ろうと、同じ宍粟郡の千草へと落ちていったのである。

だが、宇野父子の運命はすでに尽きていた。
折からの五月雨に増水した千種川を越えかねている間に、秀吉の勇士蜂須賀小六、荒木平太夫、神子田半左衛門に追い付かれてしまったのだ。
政頼は河畔で戦って討死、祐清も荒木平太夫と槍を合わせ、打ち取られてしまった。

最後まで秀吉公に降らず、討死して勇士の本懐を遂げた宇野に、当時の人々は大いに感じいったそうだ。
「長水の名は流さしや五月雨」
(播磨鑑)

なお、宍粟市では「笛石悲話」という話が語り継がれている。

新免宗貫の援軍は千種川の西岸まで駆けつけていたが、こちらも増水に阻まれて先に進めなかった。
窮した新免たちは山に登り、宇野勢のいる対岸に向かって笛を吹いた。援軍の存在を示すことで彼らを勇気付けようとしたのだ。
しかしこれが裏目に出た。
笛の音を聞いた宇野父子は「ああ、敵はすでに対岸に達したのか・・・」と絶望し、主従揃って自害してしまった。

新免たちが笛を吹いた山はそれ以来「笛石山」と呼ばれるようになり、戦国の悲哀を今に伝えている。




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/30(水) 08:15:17.39 ID:cpxAnI4S
新免宗貫って
武蔵の父親の新免無二と関わりあるのかないのか

「赤松のシェフ」が書き残した饗宴

2014年02月07日 19:13

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:21:11.47 ID:lDWxsm2t
弘治元年(1555年)11月7日、赤松本家の置塩城に、義祐の弟・才伊三郎がやってきて、宴が催された。
相賀光重と下毛野武盈は、この時の詳細を『播州置塩夜話 六花亭物語』(播陽万宝知恵袋と播磨鑑に収録。)に記している。
では、「赤松のシェフ」が書き残した饗宴を追体験してみよう。(六花亭は置塩城の茶亭の名前らしい。)

才殿は晩7つ刻にお越しになり、ご馳走が始まった。

最初に供したのは「狸食」。
本膳の真ん中に白飯、右に澄ましのかけ汁が入った汁椀、左にはネギ、柚子、大根、唐辛子などを刻んだ「かうとう」(香頭=吸い口)の入った盃を置いた。
食椀の底には鴨、鯛、スルメ、シイタケ、麩、干瓢、きくらげ、ゴボウ、人参、大根、こんにゃく、雪豆腐、昆布などが隠されていて、
香頭を汁に混ぜ、食椀にかけていざ喰おうという時に、何の変哲もない白飯の下から色々なものが出てくるのだ。
化かされたような心地になるということで、この料理を「狸食」というのだとか。

次の膳は、真ん中に味噌仕立ての雁汁、右に刺身(鯉、スズキ、チヨク、煎り酒を高麗の皿に盛ったもの)、
左に貝焼き(大貝、アワビ、シイタケ、クラゲ、干瓢、レンコン、玉子油豆腐、玉子油こんにゃく、ウズラ、鴨など)

次は食椀、御汁を左の方に置き、膳の脇に鯉の味噌煮、鮭の塩引き、シギかウズラの焼き鳥を添えた。
それに、宝命酒1返と、熊掌(油揚げにして、澄まし汁に酒を入れて調味したもの。生姜をすり入れて味を付けた。)を供した。

さらに
・チンタの酒(赤ワイン)1返と、ウニ

・延命酒1返と、タラの吸い物(澄まし仕立て)、剥き海老、かまぼこ(播磨鑑ではカマスゴ(イカナゴ))

・御酒1返と、玉子のふわふわ、クシコモドキ(クシコを細かに切り、ふわふわに入れる)
を供した。ここまでは屋形殿と才殿二人だけで召し上がった。

才殿の家老の神村と太刀持ち2名は、秋津民部や御屋形の太刀持ちとともに、玄関の内「具足の間」で、
狸食、鯉の刺身、鴨汁、イカの青和え、飯、鮭の塩引き、鱈の吸い物、御酒、かまぼこ、剥き海老、御酒、サザエの壺炒り、御酒、鮎の寿司を食べている。

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:23:44.30 ID:lDWxsm2t
ここで中入りとなり、ご相伴の者たちが加わって乱酒が始まった。

松竹の台に載せられた肴(色々の刻み物、組み物(盛り合わせ))と、二合入り、三合入り、五合入りの椰子盃が出され、
家老や重臣達がそれを頂き、拙者(下毛野)も家老に御盃を頂いた。

猿楽師・明石小大夫は
「天津神、八千代も同じ日ノ本の、光絶えせぬ神の道、今末の世に受け継ぎて、下方民に至るまで、君の恵みを仰ぐなり♪」
と小謡を披露。

この時、鯛イッコンヤキ(ホンテ)、ナマコ・クラゲ・角小ヘキのふくら炒り、辛螺(巻貝イボニシ)の壺炒り、延命酒、ふわふわ、吸い物が各自に供された。

置塩家老・山田助九郎は、才殿の家老・神村を呼び出し、五合入りの椰子盃をさした。
この時に出ていた料理は、
かるも川という三升入りの緑の大皿鉢に生姜酢を溜め、アマノリ、但馬海苔を打ち振り、ヒジモ、葱、大根、人参、ゴボウなどを散らしたもの。
酢鯛も出た。

神村は置塩家老・福岡助九郎とともに猿楽立会を始めた。
片足を上げて手を振り足を振り、猿の顔真似でにらみ合い、口を開け扇を持って入れ違い、顔をしかめ首をねじらかす二人の面白いこと面白いこと!

料理の方は、酢イカ、柏の黒和え、玉子のふわふわ、
御挽き茶(抹茶)、お菓子(有平糖=ポルトガルから伝わったキャンディー)、柏など。

暇乞いにあたって福岡は、口上を述べ、ご馳走のお礼として3mほどの縄を使った富引(福引)を持ってきて、屏風の陰に隠れて袋を握った。
そして、無礼講の御免として、屋形殿を始め上下分ちなく、無刀にて縄を引き、屋形殿はエビラ、才殿は碁盤、神村は叩き鉦、
湯浅将監は下僕「毛八」、松田将監は箸箱、黒川道伯は床枕、橋庄蔵は腰元「たん」、猿楽師は猫、宮森道林は笛を引き当てた。
何と面白いことだろうか!

やがて上下ともくたびれ果て、宴はお開きとなった。

この乱酒で両家の家臣団12人が呑んだ酒は、合計6斗6升。
山田助九郎は5升、福岡十太夫は7升、黒川道伯は8升、神村は9升呑んでいる。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:24:48.38 ID:lDWxsm2t
翌日、屋形殿と才殿は9つ刻にお起きになり、御書院で食事を振舞われた。
神村達にも同じ料理を具足の間で振舞われた。

この時のメニューは

・鯛のなます。かまぼことアワビ入りのイモマキ汁。赤貝の澄まし物。粟飯。

・ドジョウ汁、焼き海苔(アマノリツクモ)。御酒1返。

・酢イカ。御酒1返。

・さざれ石という大皿鉢に、大根、人参、干瓢、きくらげ、紫海苔、柚子、サザエ、ニシ貝等の酢の物。

・酒1返。猿の木耳焼き。

・引き茶。御干菓子。(ただし、才殿には雀の焼き鳥)
であった。

これで才殿はお暇を乞われ、溝居へお帰りになられた。
なお、才殿からは鶴1羽、延命酒5升、鯉1コン、タイ1枚、勝男10節。神村からは鴨2羽、勝男10節がお礼として届けられた。

なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。


関連
「赤松のシェフ2」


300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:32:14.15 ID:kfvVTbbn
夜中なのに腹が減った、どうしてくれる

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:46:20.26 ID:lDWxsm2t
訂正です。
×猿の木耳焼
○猿の木取焼(ことりやき)

でも、どんなものかは分からない。

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:49:31.01 ID:qxnoQLjT
赤松…、宴…、うっ、頭が!

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 23:25:56.97 ID:mKEDwHO3
今から食べるとまた肥るんだよなー。

でも喰いたい。
赤松の献立には及ばぬが喰うぞ!

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 23:47:25.36 ID:j1QXlBv9
玉子のふわふわ って何なんだ

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 23:51:04.11 ID:r/x/pdyV
http://ja.wikipedia.org/wiki/たまごふわふわ
これ?江戸時代からとか書いてるけど

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 00:20:16.37 ID:2Xilqmmi
9升も飲むのかよ!さすがは酒も豪傑じゃ。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 00:22:27.12 ID:2Xilqmmi
でも当時って塩味ばかりなんだよね。料理人も苦労したろうな。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 00:27:36.23 ID:523ZGKqr
醤油が誕生したのが家康の将軍宣下と同年なんだよね

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 00:29:59.23 ID:9TqkH9Uq
まあ濁酒だろうし
それでも9升は多いが

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 00:54:10.41 ID:7Bv4cmy6
夢前町のみなさん!
地域おこしグルメとして復元してみては?
家老の神村のメニューとか、いい感じに収まりそうだし。
鍵はやはり調味料か・・・

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 01:04:11.65 ID:2Xilqmmi
>>299
戦国時代、まだいまのような蕎麦はなかったってつい最近読んだ。当時はそばがきだって。

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 01:39:27.44 ID:7Bv4cmy6
>>311
となると、随分イメージが変わってくるね。


ちなみに『播州置塩夜話 屋形物語』(天正2年正月1日 相賀重茂、毛野武盈)では、

「右方すまし汁しるわん、左方そばゆで盛食わん、わんの前に小皿にかうとう、とうがらし、わさび、葱細に、大こん、かつほ、柚等きざむ。
さて客、食椀ふたをとり、汁わんふたを取、汁にかうとう望次第かきまぜ、そばにかくれば、下より種々の物、下より出る。
出と云か、鴨、鯛、しいたけ、あはび、木くらげ、麩、せん、玉子、油とうふ、雪とうふ、同こんにやく、雪もち、あぶら上のにんじん、
牛房、かうぺう等出る。下もりに仕也。」

となってます。

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 11:35:31.20 ID:xTjnP8DB
長楽寺永禄日記より、賢甫義哲(住持)の食事
この日記は永禄八年分しか残ってないので、一年を通した食事の内容に相当します

主食
麺(饂飩・碁子麺・38回)・餅(焼餅・善哉・76回)・飯(麦飯・湯漬・焼飯・雑炊・茶漬・小豆飯・揚花・芋粥・割粥・挽粥・276回)・饅頭(20回)・茶菓子(38回)・その他(打麦・雲門など)

食材
米(餅米を含む自家製)・小麦・大麦・大豆・大角豆・山芋・里芋
蕪・茄子(自家製)・葱・韮・大根(自家製)・ウド・榎茸・松茸・筍・鶯菜・東坡
瓜(自家製)・梨・柚(自家製)・栗・柿・蜜柑(自家製)・杏・桃
豆腐・海苔・麩・串柿・昆布・干松茸・茶(自家製)・煎餅・菓子・宇治茶

副食についての記述は少ない(61回)ので、実際にはさらに沢山の食材が使われていたと思われる
寺領中には田や茶園や果樹園があり、また立野としていた山野まで備えているため山菜は豊富に供給出来た
不足していたのは昆布や干松茸のような加工品で、これは遠隔地と取引している土豪から貰っていたようだ
ちなみにここは禅寺なので、魚類肉類は皆無・・・ではなく元旦には食している
麺・蛸煮・田楽・曳干(魚の干物)・雑煮 等を肴に年始の客とともに八日間にわたって酒を飲んでいた
酒と雑煮は特に、大工や寺民や鍛冶・草刈りに至るまで広く振る舞われたようだ
なお料理の味付けはほぼ味噌である

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 13:21:21.06 ID:balV8J82
禅寺だけど韮はおkなん?

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 14:44:25.43 ID:KkgO+KmH
魚類肉類すら食してるんだからおkなんだろうねえ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 14:49:52.50 ID:KkgO+KmH
>>299
>なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。

天正元年なら宇野下野守は赤松政秀の事じゃないよね。息子の誰か?
それとも天正じゃなく元亀の元年?

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 18:59:56.10 ID:7Bv4cmy6
>>316
天正元年です。
「天正元年十月八日宇野下野守参上、夜食出と。ほら進上、鷹一羽、鯉二こん、鯛五枚・・・」

家臣団の名前から推測するに、宍粟郡長水城主・宇野下野守祐清かと。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 20:05:51.58 ID:KkgO+KmH
赤松政秀が亡くなった後の
民部大輔の前の名乗りだったのかな?

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 16:34:08.37 ID:nin/vNx8
>>314-315
それどころか酒まで飲んでるじゃないかw

赤松政秀と布袋和尚の絵

2014年02月03日 19:03

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/02(日) 22:52:12.17 ID:IwFYMU/y
都卒天にいる弥勒菩薩には、百億の分身があるという。
七福神で知られる布袋和尚もその一つで、背負った袋(堪忍袋)を開いて寛容と和合を人に分け与えるのだ。

文明三年正月三日、播州網干(あぼし)村のとある人が、赤松政秀と岳林寺の長老・布袋和尚が並んで座り、
談笑している夢を見た。
夢の中の二人は一心同体のようで、和尚は時々政秀に飯を分けてその口の中に入れていた。
その人は不思議な夢を見たものだとずっと思っていたが、その年、網干村大倉が赤松政秀の所領となったことで、
夢の内容をますます信じるようになったのである。

その後、播磨は大乱となったが、政秀は動じることなく衣食を数万の兵卒に分け与えて戦い、播磨を再び修復した。
これこそが夢の中で布袋和尚(と、その分身である政秀)が分け与えていた「飯」に違いない。
夢を見た人はそう考えて、夢の中の布袋和尚の絵を描かせ、政秀に献上した。

文明十年十月、私、天隠龍沢が塩屋城で政秀公に謁した時、政秀公がその絵をお出しになり、
賛詞をお求めになられたので、このことを記したのである。
(布袋の賛)

この赤松下野守政秀(高枕軒歓岩性喜)は、黒田官兵衛と戦った赤松下野守政秀の父の養父(異説あり)で、
赤松政則を支えて主家再興に尽力し、
播磨守護代として活躍した人物。
政則を養育した高僧・天隠龍沢は、『赤松政秀公寿像賛』に、
「応仁の乱の際、単騎京から播州に馳せ下って播備作を瞬く間に奪回し、政則支持でまとめ上げた忠臣。」
「性格は温潤で民は皆その徳に服した。彼と接した者は春風の中に座しているような心地になり、
和やかな気持ちに襲われずにはいられない。」
とも記している。

この人がいなければ、戦国の播磨は本当に赤松本家(&龍野赤松家)の存在しない世界に
なっていたかもしれない
というほどの人物であるが・・・ヨイショ、凄いなあ。





寺社領を横領された恨みを

2014年01月06日 19:05

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/05(日) 18:13:18.61 ID:M6lslDTX
軍師官兵衛のロケ地にもなっている姫路市の書写山。
ここの「書寫山十地坊過去帳」は、戦国時代の播磨を知るために欠かせない史料である。
とはいえ、過去帳ということもあり、記述自体はあっさりとしている。
例えば、

實嚴祐眞禪定門 浦上政宗。永禄七(年)甲子正月十一日、為政秀生害。(赤松政秀に殺害された)

徳雲院俊嶽性哲大禪門 赤松政秀。元亀元年十一月十二日、依毒死去。(毒によって死去)

錦岩秀公禪定門 廣峯肥前守。於英賀津、為浦上生害。(英賀の津で浦上に殺害された)

天柱性熈大禪定門 赤松左京太夫晴政。正月十六日。

號祥光院了堂性因大居士 赤松兵部少輔義村。永正十八年巳九月十七日、於室津、為浦上村宗生害云々。

心光宗圓禪定門 小寺美濃守職隆。天正十三年五月廿二日。

性祐禪定門 別所小三郎長治。天正八年庚辰正月十八日、於三木城自害。

專徹禪定門 宇野下総入道祐政。天正八年庚辰五月九日酉刻、於千種谷、為羽柴討死。
といった具合に。

しかし、たった一つだけ例外がある。

宗祐禪定門 鳥居安芸守職隆。
天正七(年)八月廿二日討死。赤松殿奉行也。落書に、「寺社領を好て鳥居安芸はてぬ 後は寺宮たちもこそせめ」。
乗馬の足に敵の矢立ちて、被討了。

このように、赤松義祐の奉行人・鳥居職種(職隆)の記事だけは異常に詳しく書かれており、書き手の悪意を感じずにはいられない。

寺社領を横領された恨みを過去帳で晴らすという挙に出た、大寺院のえげつない話。




213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/06(月) 01:17:35.07 ID:BdoPXo0M
坊主なんて自分の欲のために小坊主の歯を抜く外道じゃん
怨みがあったらボロクソに書くのは当たり前

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/06(月) 01:29:57.59 ID:Vy+uaGjs
なんて酷い落書だ
誰が書いたのか見当もつかないが、鳥居を酷く恨んでいた勢力が疑われるな

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/06(月) 10:29:39.58 ID:fKEqU5SC
>>213
フェラさせるために歯抜くのってシグルイの創作じゃなかったのか

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/07(火) 14:14:27.84 ID:zcuJyd0S
>>216
吉原にも抜歯した遊女がいた

赤松家の女性たち

2013年08月02日 19:50

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:08:41.64 ID:aP8Lb7CL
赤松義村の著作『秘事枕』には戦国初期、政則~義村の頃の赤松家の女性たちについて詳しく書かれた箇所がある。
大名自らこういう記録を残してくれたのは後世の者にとっていい話ということで、整理して書いてみようと思う。

○まずは女性たちの身分と名前について。

一、当家の当時の女は、
そばめ(妾也):身馴、色香

膝本(妾):八重

奥:滝野 

家見:小梁

中居:七、梶本、貝、糸竹、松(半下)、山路、小雪、小重、才、小糸、岩

まゝたゝき:田巻(上方)、若江(同)、もミぢ(次方)、柳(同)、坂本女、杉、松、塩、吉

筆取:井筒(中居)、縁(上)

下女:藤、梅、玉、なべ。以上。

○外出する時は
一、傍女、妾、ひざもと(膝本)ハのりもの。

一、奥、家見、次(の)のりもの。中居以下歩行。
中居ハぼうし、その上「奥かミ」麻かつぎ、ひざもとより上ハ衣かつぎ(の使用を許されていた)。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:10:56.40 ID:aP8Lb7CL
○次に、身分別のファッションについて。
一、政則の時より、
・傍女には、ひたい櫛、根櫛(べつがう<鼈甲>)ぞうげ)、銀まきゑ。髪は片曲結。
下に白むくりんず<綸子>、上に紫かのこ<鹿の子>上ほりに、ぬいちらし小袖。
帯ハぬいの帯、織紋帯にうしろ帯。
銀のかんざし、帯は五尺さがり、三重りんず、手おゝひ、白きぬたび、しゅすさげ帯(是ハ節日)
夏ハすゞしの織。色は右に同じ。

・妾女は、ぞうげ根櫛、つげの添櫛、髪は片曲。
下に白むく、上に紫かのこ上ほりに、しゅす<繻子>小袖、
帯は織紋うしろ帯、
帯は五尺さがり、二重白衣、手おゝひ、白たび、染衣、さげ帯。

・奥かミは、ぞうげ根櫛、髪は片曲。
下に白むく、上にしゅす、りんず、色小袖、上ほりしゅす。
帯はちりめん、りんず。
右袖下三尺さがり、二重さげ帯なし。白衣、手おゝひ、白たび。
夏は右に準ず。以上。

・節日の中居は、兵庫わけかミ<髪>、
染小袖、下に白むく。さげ帯ならず。前おび、櫛は根ぐし計、ぞうげ又ハつげ、
手おゝひ、たび、ならず。

・そばめは、高雄、吉野のるい。

・妾は、右に同じ。或ハ巻絹、小琴。

・奥かミは、小梶るいなど。

・中居は、七、梁、梶のるい。

・以下は、若な、もみぢのるい。

一、内室は、根櫛:ぞうげ、金まきゑ。ひたい櫛:べつかう、金まきゑ。
下にりんず、或ハしゅす。上に紅紫、ぬひちらし、上ほり金入織紋。
髪はさげ髪。金のかんざし、
金織紋、おび三重五尺、うしろ帯、しゅちんのさげ帯。
白りんずたび、織赤紋、ておゝい、色のふく面。
節日、夏も右に準ず。
そばめ、妾女、ふく面はまれ也。名は国名又は何の御方。
当時、身馴ばかり白衣ふくめん。

(秘事枕(播陽万宝知恵袋に収録))





817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 23:39:37.14 ID:FGrSjeTP
赤松家はさすがに豪華だな


戦国の秘法

2013年07月23日 19:52

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 20:19:01.83 ID:2aZxhEOM
播磨・備前・美作の太守、赤松義村の著作に『秘事枕』がある。

「この一巻は、とし頃心にかけて、要用の事ども秘書の中より撰、又智ある人にたづねもとめ、家の宝と記し置侍るもの也。」
として、文学や和歌の解釈や、しきたりの解説など、有職故実の秘伝を著したものである。

中には当時の赤松家の格式や、家中の女たちの名と身分別の服飾について詳しく述べている部分もある
貴重な資料でもあるが、それだけではない。
日々の生活の中で役に立つ(かもしれない)秘術も、いくつか書き残してくれているのだ。

以下に書き出してみよう。

一、おもふ人を恋しくバ、あまがいる(雨蛙)に名を書て、其おもふ人の戸の口に入るべし、必出来るぞ。

一、ぬす人の呪い(まじない)にハ猋符をかく。
(猋=ひょう(犬という字を3つ書く)。犬が群れになって駆けるさま。転じて「つむじ風」)

一、おもふ女恋敷バ、あり原と書、狐のほこらへ入る。

一、犬きびしくおそひなば、五ツのゆびの内四ツのゆびを、未申酉戌と四本の指をしかとおさへ、戌にむくべし、退くべし。

あの魔法使いの甥(ただし養子)が伝える戦国の秘法、試してみてはいかがかな?





「灘のけんか祭り」

2013年06月10日 19:51

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 09:39:55.78 ID:VILycKP0
梱包に使っていた古新聞の一面コラムが目に留まったので載せてみる。


「灘のけんか祭り」が今年も勇壮に営まれた。
姫路・松原八幡神社の氏子地区のうち、仕切り役の「年番」に当たった東山地区は、3基の神輿を激しくぶつける「神輿合わせ」を披露した。

そのとき歌われた「石搗(いしづき)祝い歌」にこんな一節がある。
「何じゃいの 瓢箪や サーエットエー」。
瓢箪とは信長の中国攻略を指揮し播磨に入った羽柴秀吉。「秀吉がどれほどのものか」。心意気を歌い継いできたという。

祭りは播磨国守護、赤松政則が社殿再建を祝って米を寄進し、喜んだ氏子らが米俵を担いでお旅山に駆け上がったのが起源と伝えられている。
だから秀吉に対置されるのは恐らく赤松氏だろう。

戦国時代には三木の別所長治が秀吉に抗戦。領民を救うため自害し今も敬愛される。
鎌倉~南北朝にさかのぼれば、現在の上郡町を拠点に室町幕府に貢献した赤松円心の存在感が際立つ。

荘園制度に反発し、「悪党」と指弾された反骨精神。
後醍醐天皇に反旗を翻したものの劣勢になった足利尊氏に、九州への一時撤退を進言した知恵。
尊氏に加勢して、上郡に構えた白旗城に籠城し、敵の軍勢を50日間足止めした勇猛果敢。

播磨のアイデンティティーを語るときに欠かせない円心の坐像が、
12月2日まで姫路の県立歴史博物館で開催中の特別展「赤松円心・則祐(そくゆう)」で鑑賞できる。
不敵な面構えは見覚えがある。
そうだ。祭りで会った男衆の顔だ。

(神戸新聞 正平調 2012.10.29)

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 09:43:00.62 ID:VILycKP0
蛇足ながら・・・

記事に出てくる赤松円心の坐像
http://kamigori.info/akamastu_enshin.html

その木像をヒントに描かれた、上郡町のマスコットキャラ
http://www.hyogo-tourism.jp/tabinet/yurukyara/profile/enshin.html

名物「円心モロどん」(なかなか旨かった。)
http://kamigori.info/enshin_morodon.html





「田路勘四郎、衣笠を扶ける事」

2013年04月24日 19:53

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:57:47.10 ID:FJpSGa4H
「田路勘四郎、衣笠を扶ける事」

赤松左兵衛尉広秀も、朝鮮征伐で渡海した大名の一人である。
その臣・田路(とうじ)勘四郎は強弓の使い手で、多くの敵を射斃し、追い払うと、小川の堤の上を馬で進んでいた。

その時、一頭の放れ馬が堤の下を駆け去っていった。
あれは衣笠宗兵衛の馬・・・。
田路は思った。「ああ、衣笠は討たれてしまったのか。」と。

さらに先へと進んでいくと、その衣笠がいるではないか!一人の朝鮮人によって生け捕りにされた衣笠宗兵衛が!

衣笠を捕らえた朝鮮人は、左の脇に胴を挟み、右の手で首を握って小川の流れに押し浸し、
二口三口と水を飲ませては引き上げ、水を飲ませては引き上げという狼藉を働いていた。

それを見た田路勘四郎は、朝鮮人の背後へ駆けよせて抜刀し、背中を袈裟懸けにして斬り殺し、衣笠を救出したのである。

「衣笠っ!いったい何があったのだ!?」
「あの朝鮮人が敵対してきたので対峙していると、拝み打ちに「丁!」と斬り付けてきた。
そして、長い袖を捲りあげて纏うや、「ひた」と組んで、あっという間にわしを横抱きにしてしまったのだ。
もちろん全力を出して逃れようとしたのだが、それ以上の力は出なかった。
奴が何人力かということは知らぬが、まるで2,3歳の小児を抱いているかのようだった。
そして、わしを抱えたままこの川に降りてあのようなことをし、我が面を見て笑うこと数度・・・。
これ以上の無念は無かったが、貴殿のおかげで不慮の難を逃れることができた。」

二人は、連れ立って陣所に帰った。(と、武将感状にある。)

(播陽物語(播陽万宝知恵袋に収録))

四書五経の筆写や、袖珍本の制作を依頼するという形で費用を用立て、姜沆の帰国をサポートしたという
逸話のある赤松広秀だが、その部下は朝鮮でひどい目に遭っていたようだ




375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 01:14:13.43 ID:+gyH3aIl
その敵は一体何がしたかったんだ……
情報でも聞き出したかったのか、ただ単に気の済むまでいたぶろうとしただけなのか

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 07:16:05.98 ID:4jGU2sif
自分達の陣地に連れ帰らずにその場で拷問するってのが間抜けだな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 08:00:23.51 ID:tBbyCNyz
義兵が復讐に猛ってただけとか

赤松家、そして大物崩れの事

2013年04月03日 19:50

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 15:38:49.79 ID:vI2wcPwD
播磨の赤松殿の事を、蓬庵様(蜂須賀家政)が安太夫にお尋ねになり、私が参って物語をした。

その内容は、性因様(赤松義村)はその身長が3尺(約1メートル)ほどだったが、
ご器量のある方で備前播磨美作3ヶ国の国主の座を守っておられた。

ところが備前の浦上(村宗)と、性雲様(義村の養父・赤松政則)の北の方(洞松院)が
仲良くなられ、義村様に毒を盛り、相果てられた。

これにより浦上は、その御後に赤松晴政様が立てられた。この時晴政様はご幼少であったので、
その経緯を全くご存じなかった。
晴政様が16歳になられた時、小姓衆が密かに囁き申し上げたため、初めて自分が擁立された経緯を
知ったのである。

晴政様は阿波の御屋形様(細川持隆か)の婿であったため、阿波との間に浦上を殺す密謀を
交わした。

そのうちに、阿波と播磨の間に合戦が起き、播磨衆は摂津国天王寺に陣取り、阿波衆は堺に陣取った。
(享禄4年(1531年)大物崩れの戦い)
この時、晴政様は兵庫の高山で寝返りの合図の狼煙を上げられ、この寝返りにより
天王寺の播磨衆は崩れ、大物と西宮の横河にて水に溺れ、1万人が死んだ。

このように安太夫に申し上げた。

この合戦について阿波では、『溺れ死んだ戦死者は皆蟹になった、その蟹の甲羅は
人の顔のようであった』と言われた。
これは歌念仏に作られ、その念仏の名は「しまむら念仏」と呼ばれた。

このことを覚えていた人が慶長の年号の頃まで存命であり、語られていたのである。
(三好記)

三好記より、大物崩れについての証言である




144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/03(水) 17:14:46.53 ID:ziJWCEde
平家以外にもカニになった人たちがいたのか。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 17:21:43.04 ID:wE8I+kH0
>>143
   (~)
 γ´⌒`ヽ
  {i:i:i:i:i:i:i:i:}
 ( ´・ω・)  観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄
  (:::::::::::::)  舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色
   し─J

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 18:13:20.26 ID:/eUye+tw
>>143
蟹になったのが、宇喜多能家を夜討した島村豊後守の父と言われてるんですね。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 21:54:30.76 ID:47EmYUcI
蟹食い放題だな。
てか、西宮の川ってどこだろう?
武庫川かな?

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 12:37:25.40 ID:5fI42eIS
>>143
>性因様(赤松義村)はその身長が3尺(約1メートル)ほどだったが、
まだ子供という意味かと思ったら推定没年30歳前後だった
ちっちゃいおっさんで有名な山県昌景より更に一尺短いって最早妖精かなんかじゃないのかw

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 17:28:37.38 ID:bc5BS2dc
>>154
三尺入道、赤松義則も満祐もちっちゃかったし
赤松一族はコロポックルの親戚と考えるのが妥当

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 17:56:30.79 ID:SY64RZc2
>>156
http://en.wikipedia.org/wiki/Ovitz_family

戦国時代の殿様のツイッター

2013年03月03日 19:01

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 16:30:09.41 ID:fRz+AZVj
播磨の歴史・地理に関する書物を集成した「播陽万宝知恵袋」(宝暦10年)に、
「赤松則房雑談聞書」というものが収録されている。
これは、赤松則房が、「日頃聞き及んでいる俚諺や、土俗の話を思い出し、土地の話・都の話・
田舎の話・戦の話などを色々と取り交えて、
雨の暇にまかせて書き連ねた」ものを、家臣・堀五郎左衛門に清書させたものである。

その内容は、則房の言葉通り多岐にわたり、

「志水氏、将軍家、渇水(の)時、水を奉し功とて、清水を改(め)下さる」
「赤松は伊豆にはりまをとられじと あしき新二郎嘉吉年中」(一般的に流布しているのは、
公方の首を嘉吉元年)
「多淫の女は三十歳余。藤井の小松 高尾身なし つねや(恒屋)家執 松原(の)女「その女」」
「高尾の野沢ハほうしころし(法師殺し)」
「三宅の小藤は見越女(大女?)と云。」など、赤松家の身内ネタから、

「風呂へ入は、左の足より入る也。」
「輿へめ(召)す女臈ハ、右の足より入る。」
「主人にハ、笠をさすは右の方。」
「馬上へかさをさすハ、左の方より。」
「手をつくハ、入と形せよ。」
「渡り橋(箸)、塩の十でん、つまみくらひ、端にぎり、かきこミ箸ゆるすまじ。」
「酒をしいるに、中扱(なかくみ)に三盃のますもの。」
「かまいなきハ何の助。允、大夫、介、進、私ならず。はゞかるべし。」
といった、作法や有職故実に関するもの、

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 16:31:18.41 ID:fRz+AZVj
「都鳥、業平をいふか。」
「百千鳥ハ百官百敷の座。」などの和歌・文学に関するもの、

「大明神 おゝあきつかミとよむ。」
「腰おりかゞむ、おがむとか。」
「今の鳥居といふハ天の字を形る。」
「和銅銭は日本製。」
「ひより(日和)をば天気晴れたると云。もとハ、よき、あしきと付ねばならず。」
といった、豆知識的なものや、

「爪につめなく、ふり(瓜)につめあり。」
「石山寺ハ景石多し。」
「峯相記(中世播磨の地誌)七巻、見るべし。多具山(沢山)になし。」
「よしあし 二物 一物か。」
といった「つぶやき」までもが、短文の箇条書きで、合計186条も書き連ねられている。
まるで、戦国時代の殿様のツイッターである。

中には、こんな一文も・・・。
「四天王とておこがましき者あり。頼光朝臣の。木曽氏(義仲)の。当家。」

・・・則房さん、自虐的過ぎないかい?
ってことで、こっちに投下。




801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 16:37:39.20 ID:ery+cQl2
ちょっとしたメモは楽しいな、赤松則房のファンになりそうだ

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 16:42:17.89 ID:MCHlR11e
忠利くんへ、この前コイツ狐でも憑いてるんじゃないかって奴が…#まさむね

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 18:26:15.96 ID:8Dup4I0A
このころには和同開珎が日本の銭なのか大陸の銭なのかも不分明になってたんだなあ

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 20:08:07.61 ID:k2ycYb5M
江里口「四天王と聞いて」

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 21:02:31.46 ID:+JSIyBKe
>>799
「手をつくハ、入と形せよ。」
実践しよう


「姥ヶ堰」

2013年03月02日 19:52

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/02(土) 12:10:49.76 ID:etb1I0RW
初代龍野城主・赤松村秀は赤松政則の庶子だが(諸説あり)、正室(魔法半将軍の妹)を憚る政則の意向で、
西播磨8郡郡代・赤松下野守政秀(性喜。黒田官兵衛と戦った赤松下野守政秀(村秀の子)とは別人)に
預けられることになった。

政秀は片吹村から「ちよ」を召し出して乳母とし、村秀の養育に当たらせたのである。

村秀を育て上げたちよは、大永~享禄の頃、自身の老齢を理由として暇乞いを申し出た。
村秀は彼女に労いの言葉をかけ、「何か望みはないか?」と尋ねた。

ちよは、彼の心遣いに感謝し、かねてから抱いていた願望を口にした。
「私の里、片吹村は常に水不足で、村人は大変困窮しております。
願わくは、岩見井から鍬一枚分の水を取ることをお許しくださいませ。」

村秀は、その願いを聞き届けた。
早速、片吹村付近を流れる灌漑用水「岩見井」に、鍬一枚分の幅の取水口を設けさせたのである。
こうして、村には豊富な用水が流れ込むようになり、10町歩の農地が美田に姿を変えた。

村人は、取水口を「姥ヶ堰」、それによって潤った水田を「御殿地」と呼ぶようになり、
天文3年に世を去った「ちよ」の名とともに、代々語り継いでいった。
村人たちが浄財を出し合い、彼女の遺徳を讃える「姥ヶ堰之碑」を建立したのは明治時代のことである。




589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/02(土) 12:39:39.21 ID:KSWeWEe5
これはいい話だな。
「ちよ」さんも偉いが、明治以降まで語り継いでる村人も偉いな。

「普尊」平井貞利

2013年02月19日 19:52

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 14:57:33.00 ID:5xyDwjl/
赤松広秀の臣・平井備中守貞利は、主家の移封に従って播磨の龍野から但馬の竹田へ移ったが、
鳥取城の一件で広秀が自害に追い込まれ、赤松家が改易となると、故郷の龍野へ戻ってきた。

龍野赤松家の旧臣の中には、円尾孫右衛門横山五郎兵衛宗信片岡治兵衛など、龍野に残って
醸造業を営んでいるものがあり、
平井貞利もまた、醸造業「石橋屋」を開業したのである。

醸造業者となったとは言え、貞利は家康によって処断された大名家の旧臣。
役人がたびたびやってきては、赤松家のことを詮索していった。
しかし貞利は、他の者たちのことを慮って「赤松のことは存ぜず」としか答えず、
死ぬまでそれを貫き通したのである。
そんな彼はいつしか「不存」と名乗るようになり、戒名もまた、不存にちなんだ
「普尊」と付けられている。

なお、龍野赤松家の旧臣たちが始めた醸造業は、円尾氏が発明した淡口醤油によって
その名を轟かせることとなる。
また、片岡治兵衛の開いた「幾久屋」が合併等の変遷を経たものが、今のヒガシマル醤油である。





462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 20:15:05.31 ID:j/KRVdar
>>460
旧臣等はなんでみんな醸造業を営んだんだろうな。
ところで、ヒガシマル醤油って関西の方だと有名なの?

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 20:38:02.16 ID:TN0rvxxE
>>462
ヒガシマルは全国シェアでもトップ5に入るメーカーだよ。
関西は、関東じゃあまり造らない淡口(うすくち)しょうゆの需要が多いしね。

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 20:42:54.47 ID:2PJn0+PE
鴻池「醸造業といえば、山中鹿之介の子孫であるわれわれだろう」



「赤松さんの墓」

2011年12月25日 22:00

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 17:26:44.03 ID:J0wjrkZB
「赤松さんの墓」

元文3年(1738年)但馬・円山川流域で大洪水が発生し、小佐郷に大きな石が流れ着いた。
その石は墓石にするには理想的な形状をしていたのだが、高さは1,5m、幅は50cmもあるので、村人たちは
とりあえず永源寺の住職・了覚和尚に預けることにした。

その翌年、了覚和尚から村人たちへ一つの提案があった。
「お前達もよく知っているとおり、この小佐郷は120年ほど前には竹田城主・赤松広秀(広通)公によって
治められておった。
広秀公は民を非常に慈しみ、この郷が凶作となった時など3年間にわたって年貢を全免してくださった。
さらに、氾濫地には桑を植えて養蚕を奨励されたことで、今もこの地は恩恵に浴し、昨年の飢饉も生糸の収入で
乗り切ることもできた。
このご恩を忘れぬためにも、あの石で広秀公の供養塔を作ろうではないか。」

「赤松さん、赤松さん」と広秀のことを語り継ぎ、敬愛してきた村人たちのこと、これに反対する者のあろうはずもない。
早速「乗林院殿可翁松雲居士之墓・前竹田之城主赤松左兵衛廣秀」等の文字を刻み込むと、
自分達の先祖によって密かに築かれていた、大森(養父市八鹿町)の墓に据えたのであった。
後には、この墓が雨露に濡れることの無いようにと祠で囲い、祭祀を欠かすことなく今も大切に守り伝えられている。
また、収穫を祭祀の費用に当てるための田畑は「赤松散田」として伝えられてきた。

なお、竹田城下ではこの墓の事を「腕塚」と呼んでいるそうで、
赤松の遺臣や竹田の領民が、広秀が自害した鳥取でその片腕(片袖)を下げ渡してもらい、
どうにかして竹田へ持ち帰ろうとしたものの、
城接収のために城下には入れなかったので、やむを得ずこの地に葬ったものだという話が伝えられている。

大森にも竹田にも「赤松さん」への思慕は今なお残っている。




140 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/25(日) 19:04:54.50 ID:ptZR+4GR
善政でんな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 20:26:51.40 ID:4Mny2YgA
家康に切腹させられた人としか知らなかったが
おのれ亀井茲矩め
和尚さんGJ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 20:28:17.68 ID:ekVvFgtH
赤松政秀の子供だったねこの人

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 21:45:14.33 ID:J0wjrkZB
竹田の観光案内所で色々教えてもらっていた時に聞いた
「私たちは今でも、赤松さんに治めてもらったことを誇りに思ってるんです。」
という言葉が忘れられません。

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/25(日) 23:10:56.56 ID:2LzmoaPT
藤原惺窩がめちゃくちゃ買ってたのも頷ける>赤松さん

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 03:54:43.43 ID:71kzmdJL
竹田城行った時、亀井さんがすげーdisられてて不思議な気分だった
亀井さんが地元の殿様だったから

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 07:57:58.18 ID:d2WqDJyr
こんなの見つけた。
竹田小学校校歌(1番)だって。

「虎臥山に 年ふりて その名も高き 赤松の
葉末の雫 むすびつつ 二葉の小松 茂りゆく
学びの園は 千代八千代」

147 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/26(月) 08:05:29.24 ID:Z+T6d6Py
年貢三年免除って、実際有り得るの?

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 09:20:59.43 ID:nCx9g6Lh
当たり前だが支払い能力が無い者に払うことを強要しても
意味が無いどころか逃げ出して将来の収入増の可能性を無くすので害になる
 
3年かどうかは知らないが状況に応じてある程度の期間減免はありうる

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 10:48:05.39 ID:wEUFfWEO
年貢以外にも税収はあるから財政に余裕があれば年貢の免除もある
さすがに領国全域での全面免除はそうないと思うが

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 11:30:15.96 ID:8KH1fnb3
>>146
やっぱ校歌はこういうのがいいよな土地に根ざしてような
おれは新設校の薄っぺらい校歌だったからあほくさかった
大人になって歌詞読んで色々感じられるのがいい

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 12:41:28.78 ID:azna+/Pd
年貢を3年免除しても運営できる藩政だったのだから
非常に優秀な統治をしていたんだろう。

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 16:52:33.19 ID:YOViG9M4
どっかのフォレストさんとは大違いだな。
巷はやれ伊達だ真田だ言ってるけどやっぱりこういう人達が評価されてほしいな・・。


153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 16:55:32.89 ID:YOViG9M4
連レス失礼。
決して隻眼や具体的に何したか分からん人をけなしたわけではないのであしからず・・。
森さんについては否定しません。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 22:37:58.62 ID:oagGq/Hn
なんか珍しく俺の好きな広秀さんの話だが、今投下できるものがない...無念

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 00:05:55.92 ID:q1XTyam5
ラフォーレさんは今日も大人気。