毛利元就の正親町天皇即位の御料献上とその影響

2017年10月04日 19:08

279 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/03(火) 23:26:18.41 ID:PQQbOlsn
明治維新に影響をあたえた仰徳大明神(毛利元就


毛利元就は毛利家にとって神君として崇められていた。
徳川家康が東照宮大権現なら、元就は仰徳大明神である。

毛利家中興の英主といわれる重就は元就の遺訓をまとめて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
やがて幕末、藩士中村清旭は安政二年(1855年)元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
これは元就の勤王精神を長州に植え付けることとなった。
というのも毛利元就は永禄三年(1560年)に財政難の為、即位式が出来なかった正親町天皇の為に
即位の御料として銀四十八貫を献上し即位式を挙げさせてあげたのである。

これが前例となり毛利家だけは、他の大名と違い
年末年始はもちろん朝廷の吉凶時にさいしても、朝廷への進献が許されていた。
そして石見銀山を永久的に毛利家が支配する為に皇室御料所として寄進し、毛利家が管理者として実権を握った。
これにより秀吉が天下を取ったあとでも秀吉は石見銀山には中々手が出せなかった。


元就が天皇への勤王あつく(打算的勤王という人もいる。まあないとは言えないでしょうね)
こういった経緯もあり激動する情勢に長州藩では藩の方針を以下とした。

第一に天朝への忠節
第二に幕府への信義
第三に祖先への孝道

すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


高杉晋作は第二次下関戦争の為の挙兵での檄文で
「御先祖洞春公の御遺志を継がせられ御正義御遵守遊され候…」
「洞春公尊霊を地下に慰め御両殿様(藩主敬親、元徳父子)の御正義を天下万世に輝かし奉り…」と掲げた。

洞春公は元就の法名。
つまり元就を範に攘夷決行、王政復古を訴えたのである。

奇兵隊の最初の作戦は戦局には全く影響のない安芸郡山攻略。

目的は唯一つ、毛利元就の墓所の奪還である。



280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 23:34:11.14 ID:KBj7WAN5
大江広元の子孫が武家政権を倒して王政復古を図るとは
祖先は天皇と幕府の次だから気にしてなかったんだろうけど

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 10:51:49.08 ID:4vJxH0l7
すべては「そうせい!」の一言で

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 16:18:09.71 ID:Kbab0n5s
>>279-280
歴史の流れって面白いなー
毛利と島津が幕末にあんなことになるとは権現様でも気づくめぇ
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本成りの瓜

2017年09月25日 18:14

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 14:19:47.02 ID:43DBT54k
毛利元就の頃、芸州に花信(果心)居士と号する幻術の上手が来たりて、様々な術をなした。
元就はこれを見物するため、舞台においてその術を為さしめた。

居士は術を行い、にわかに瓜を作るというものを成した。
少しの間に、種を撒き、発芽し、蔓がはい、実が成って見事な瓜となった。
「さらばこれを初めて味合うべし。本成りの瓜が味が良いので、本成りを切りました」
そう言って差し出した。

元就はこの言葉に、自分の諱「元就」と同じ音の「本成り」という、禁忌の言があることに気がついていたが、
ついにここより病に伏せ、逝去したのだと、そう語る人がいる。

(士談)

果心居士のこの話、松永久秀だけじゃなく毛利元就バージョンもあったとは



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:11:35.14 ID:PyXdbaOX
>>148
珍しすぎるパターンだ

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:31:39.07 ID:y/csvWWQ
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html
聊斎志異の「種梨」では梨で似たような話が

一日の間貸され候へ

2017年07月04日 12:10

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/04(火) 12:07:16.30 ID:Z7UEEGAF
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)



大内勢、味方を討って手柄を得る

2016年10月22日 17:14

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)



238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)

松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

2016年10月21日 09:26

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 00:37:34.28 ID:rAcw/9qK
松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

 長村内蔵助が生きていたときに茶堂慈斎に語ったというのを、
人が聞き伝えて予に告げた。
さて慈斎もまた没して十余年、予もまた長村が話が耳に残っており、今顧念してみる。
 

 あるとき平戸の隣邑の唐津から商人が来て、その人がもたらした中に、古文書の廃紙が多かった。
長村はその中を取り調べると、
毛利元就の亭に茶会があったとき、松浦肥前入道(隆信)も参られ同伴致された』
『毛利の一族某の人に、誘引すべし』
といった書簡があった。
そんなものを長村が計らずすも獲たことは、誠に千載の奇遇であったと。

 道可公(松浦隆信)はその頃はわずかに小島の宰で、
元就は十州太守であり彼と比すれば、小大甚だしく異なっている。
それなのにかく大家の衆会に招かれなさたことは、
いかにも御武運高徳、下に伏しなされる輩ではないことを知っていたのだろう。

との話をしたそうだ。
長村の言葉を今思うと、この文書はどこにいったのであろうか。非常に惜しまれることだ。

(甲子夜話三篇)

さすが、元就
抜け目ないですね




元就、軍議の席次を巡って争う

2016年10月16日 15:38

216 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:19:22.67 ID:IWC7trJD
元就、軍議の席次を巡って争う

天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。

いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。

元就は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は

「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。

(陰徳記)

元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…

217 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:34:24.81 ID:IWC7trJD
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…

続き
大内勢、味方を討って手柄を得る


原文「唯今虫けらのやうなる子ども候」

2016年09月23日 14:25

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 21:29:35.60 ID:SBZd/A5r
今発売中の別冊宝島「戦国史を動かした武将の書簡」というものに、武将の手紙が
カラー写真で載っている。文章は知っていたが、手紙そのものをカラーで見るのは初めてのものも
多い。その中で、ちょっと悪いかもしれない話。

原 文「唯今虫けらのやうなる子ども候」
        ↓
口語訳「虫けらのような分別のない庶子がいる」

虫けら呼ばわりだが、原文の手紙を見ると、年少の子どもなので
「まだ小さくて、物事の分別がつかない虫のような子どもたち」という、気の毒に思っている
ニュアンスがある。



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 23:41:33.75 ID:aXC+X0IO
元就「虫けらのくせに立場をわきまえないから家騒動や謀叛が起きるんだよ。

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/23(金) 12:29:28.42 ID:v51T/mcu
虫けらの子孫が毛利の嫡流になるとは
思っても居ない元就でした

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 05:46:27.15 ID:MebFjYs2
3人が結束すれば、3本の矢のようにと、先祖の遺書を読み上げて訓示するが、
虫けらのことは伏せとく情報操作。

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 06:25:36.41 ID:O5X/52cq
>>101
広島城の二の丸にその虫けら云々ぬ手紙展示してあった気がする

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 09:13:36.90 ID:FJgE9Zqf
ノブも信忠と信雄以外の子供はガチで虫けら扱いだったけど
なぜか信孝だけは例外

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 10:26:50.80 ID:lCi6cimj
信長自身が庶長子差し置いて家督を継いでるから
庶子と嫡子の扱いが全然違うし
戦国では常識なんだよな

権現様が異常なだけ

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 14:06:08.96 ID:lApELJe1
烏帽子親が柴田勝家だもんな
津田信澄が養育されてたのも柴田勝家
佐久間盛政といい柴田勝政といい勝家が教育した子供は有能だ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 18:33:59.69 ID:MebFjYs2
>>102 サンフレッチェは、3本(サン)の矢という意味だそうだが、
2軍選手に向かって、虫けらのよう
と言ったらやはり怒り出すだろうか。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 19:18:08.76 ID:VxWqyVUz
言葉の意味や使い方なんて時代で変わるんだから、今の価値観で虫けら?酷い!ってのはいかがなものか。
子供の「供」は供物、って意味だから問題があるなんて言葉狩りが最近あって、メディアではひらがな表記になったとか。

300年後には昔の人は子「供」と書いてる、野蛮!と言われるようになるのかな。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 23:49:36.43 ID:0CbiVLMf
>>114
数年前、嫁が役員やってる子供会の名称が、「〇〇市子ども育成会」に変更になった。
こどもはおとなの「供」ではない!との観点から、名称を「子供育成会」から「子ども育成会」に変更しました、って説明受けたが・・・。

129 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/26(月) 22:47:42.76 ID:baLYiMg9
スレチなので小声で
三年前、文科省は子ども表記を子供表記に変更した。文科省の公用文は今は子供表記。
一方で厚労省はまだ子ども表記。一般にこれが知れ渡るのはまだ先だろう。
当方は三好記の記述をさらにしりたい。一宮成祐の奥方はどう処遇されたのか。

毛利陸奥守大江朝臣元就という人物

2016年09月11日 19:05

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/11(日) 17:57:54.15 ID:d4UKo8Oh
安芸国、毛利陸奥守大江朝臣元就という人物、その先祖を尋ねると、鎌倉三代の将軍の執権であった
因幡守廣元であり、彼は太枝の姓を改めて、大江を用いた。以降、元就の家は大江嫡流を称した。

元就の父もまた廣元という(毛利弘元)。兄を興本という。興元の子、幸松丸早世のあと、毛利の家は断絶の
危機にあったが、古老たちが協議して元就を呼び出し、吉田郡山城へ入城させた。

これ以前、元就は多治比三百貫を領する、非常に小さな存在に過ぎなかった。
しかし毛利の家督を得た後、智謀人に優れ、武勇世に類なく、遠近がその徳化に帰伏すること、まるで草が
風になびくようであった。

元就は、『之を用いるときは行い、之を捨てるときは蔵る』という孔子の言葉を思い出させる人物であった。

(甫庵信長記)


甫庵信長記の毛利元就評である。



181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/11(日) 21:37:25.61 ID:p6f96Ngh
京都の江氏嫡流はどう思って読んだだろ。

毛利元就と大庭賢兼

2016年08月24日 18:17

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/23(火) 23:12:17.68 ID:tTrV6RnU
毛利元就大庭賢兼

大庭賢兼は元々は大内義隆の家臣で源氏物語などの古文に通じた武将であった。年齢も元就に近く、家臣ではあるが元就とは和歌や古文の趣味友でもあった様だ。
そんな大庭賢兼、永禄5年(1562)に石見の小石見在陣中の元就の元へ雪のせいで遅参してしまう。
これに怒った元就、当初は怒りの余り賢兼に会おうとしなかったが、雪が原因と判るや賢兼を許し、一首の和歌を詠み送った。

「石見がた 雪より馴るる友とてや 心のかぎりに打ち解けにけり」
(雪よりも親しく付き合っている友なのだから、 私の怒っていた心も解けたので、また元のように仲良くしよう。)

これに返して賢兼

「石見がた かたき氷も雪もけふ とくる心のめぐみうれしも」
(あなたの怒りが今朝の氷や雪のようにとけた。そのように寛大に許してくれた心遣いが嬉しい。)

こうして2人の仲は元度りになったそうな。
元就の和歌の添削をした三条西実枝もこのやり取りに対して
「此の贈答、一豪のへだても聞こえず、誠に上下に怨なしといふ
 明文にかなへり」
と評している。

春霞集より元就爺ちゃんと家臣の知的?なやり取り


104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/23(火) 23:24:22.28 ID:tTrV6RnU
>>102余話
三条西 実枝は元就の和歌を称賛しており、他にも元就に対して

「大江元就は武王の心を以って心とすとみえたり。しかればただ今の世に比するに成王にあれたり。」
との評価もしている。
この評価は後々名将言行録では法橋恵斉と言う家臣が元就に対しておべっかで言ったことにされており、
元就がそんな昔にそんな事言う奴はいねーしワシゃそんな器じゃねーわ。と返して以後は元就の家臣におべっか使いが居なくなったと言う逸話(既出)に変わっている。





105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 13:52:47.92 ID:pPGBazbw
>>104
面白い変化だね。当時でも三条さんちょっとお世辞が過ぎるのではって認識があったのかな。

106 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/24(水) 14:29:20.30 ID:T0yMQvKL
>>105
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-265.html

此処に三条西実澄さんの元就の和歌に対する評価の現代訳文が載ってるけど、>>104の武王成王の下りは最後の方の抜粋で原文は物凄く長い…
元就の和歌を知ったのは元就死後の事みたいだけど、原文読むと三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した。
ただ、武王成王の所だけ見たらただのヨイショにしか見えないってのは間違いないね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 20:06:54.11 ID:rH/dmeDC
>>106
>三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した

幽斎さんの師匠だよ、この人。

毛利元就、内通者を騙す

2015年04月12日 17:07

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/12(日) 01:56:29.17 ID:xTJxC7YJ
毛利元就は、尼子と不和になり始めた頃から、譜代の家人の末子や、人々がよく知らない者を密かに、
尼子方に奉公させた。そしてその者達は様々なことが内通された。

一方尼子よりも、3年前に内別作助四郎という者を偽って勘当し、彼は毛利家に奉公した。
元就は彼を信頼し、傍近くで給仕させた。

そのような中、今度尼子が、毛利の本拠である吉田郡山城を攻めに来る件について、元就は
家臣たちと評議する中

尼子晴久が甲山に陣を取ればいいのだが、もし三猪口に陣を張られてしまっては、周防への通路を塞がれ、
味方の働きも自由にできないので、ひとまず山口に逃げ、大内を頼んで重ねて合戦をするしかない。」

そう隠密に語ったことを、内別作は聞き、或る夜突然に蓄電した。

元就は後で
「今度、尼子はきっと、三猪口に陣取るであろう。もしも甲山に陣を張られてしまっては、あの場所は
当城を真下に見下ろし、畢竟の要害であるので、籠城も危うかった。」
と言ったが、はたして尼子晴久は三猪口に陣を据えた。

(芸侯三家誌)


元就、対尼子戦でも内通者を騙していたというお話。





参考
謀神、敵の間者を用い策を成す

真の忠義

2015年04月11日 16:31

660 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 23:38:30.07 ID:cQs6fhQ9
毛利元就は多年尼子氏の幕下に従っていたが、民部太夫晴久の代に至って。元就の武功近国にその名高く、
『このままだと、後には尼子とても毛利家の麾下に属するだろう』と、人々は皆評判していた。
晴久に対しても、今元就退治の謀略をしなければ、今後尼子家の為、臍を噛むことに成るでしょうと
讒言するものが有り、晴久もこれを「尤もである」と信用して、それより元就を疎んじ、常に不快の色が
顕れていたため、元就も常々これを憤っていた。

こんな折節、この尼子と毛利の間が不快であるということが大内家にも漏れ聞こえ、大内義隆ならびに
陶尾張守(隆房)より、大内の味方に属するよう懇ろに申越した。
これに元就

「私は尼子と縁者の好によって、一旦麾下に属してより戦功を上げたこと多年に渡る。
しかるに今、讒舎の佞言を信じて、ややもすれば私に害心を抱かれている。これは言われもないことである!」

そういって大内に対し、一味する旨の返事をし、あわせて児玉木工充を山口に遣わし、その盟約を述べた。

さてまた、元就より人質として尼子に付け置かれ、富田に在った赤川十郎左衛門、光永中務の両人に
密かにこの旨を通達し、急ぎその地を引き取るよう伝えた。よって両人密かに富田を立ち退いたが、
尼子の者達はこれを察知し追手を遣わし同国の大東という場所で難なく追いつかれた。

661 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 23:39:31.27 ID:cQs6fhQ9
赤川、光永は引き返し暫く防ぎ戦い、一旦敵を追い散らしたものの、もとより追っ手多数である上、
光永は深手を負い、両人が無事に切り抜けることは不可能に思われた。
ここで光永は赤川に言った

「私はこのように手を負い、ことに老身でもありもはや一緒に立ち退くことかなわない。
私はここで討ち死にしよう。追手の勢は未だ再びこちらに攻めかけてこない。今のうちにそなたは
急ぎここを立ち退かれよ!」

これを赤川十郎左衛門聞くと猛反対した
「両人一緒に在有って敵に逢い、一人踏みとどまって討ち死にするのを見捨てて、私ひとりここを立ち退いては、
弓矢の恥辱、これに過ぎたものはない!重ねて人にこの面を向けることもできなくなる!
そのようなことは全く、思いもよらぬ!」

しかし光永
「一端の道理はそうだ。しかし今ここで両人一緒に死んだとて、主人に対しさしたる忠義にはならない。
いかにもして一人だけでもここを切り抜け本国に帰り、近年雲州に在って見聞きした尼子家の様子を
つぶさに主君に伝え、今後の戦忠のために一命を投げ打つ事こそ、真の忠義であるのだから、片時も
早く、急ぐのだ!」

そうしきりに諌め、諭すと、赤川もその道理に屈服し、しぶしぶそこを立って別れ落ちた。

その後、光永中務は敵がかかってくるのを待ち受け。馬を引き寄せ打ち乗って、
「毛利家の侍、光永中務光重である!」
と名乗り、近づく敵を待ち受けた。

尼子勢はこれを少数と見ていたので、我先に討ち取らんと総勢一度に攻めかかる。光永は討ち残された
郎党10人ばかりを左右に従え、敵陣に駆け入り、駆け破り駆け通り、取って返しては討ち払い、
死狂いに攻め戦えば、今まで付き従った家人も次第に討ち死にして、主従2,3人となり、
その身も戦い疲れ、『今は赤川も、定めて遥かに落ち延びただろう。』と思い、そのまま、
馬に乗りながら刀の切っ先を口に当て、「とう」と馬より真っ逆さまに落ち、その刀に貫かれて死んだ。

赤川十郎左衛門は無事吉田に帰り着き、雲州の様子をつぶさに伝え、今回、大東で追手と戦い、光永を見捨て
面目なくも引き帰ったことも詳しく述べた。
元就はこれを聞くと

「光永は深手を負ったのだから、引き帰ることができず討ち死にしたのも仕方のない事だ。
赤川が無益の討ち死にを遂げず、光永の意見に従って帰ったこと、これこそ忠義の志を忘れぬ故である。」
そう言って特に感賞したという。

(芸侯三家誌)




毛利元就の家督相続

2015年01月06日 18:52

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 20:58:47.75 ID:Dd7BiFBo
大永三年(1523)6月末、毛利幸松丸は俄に発病し、療薬験無く、悩乱驚働せられ、終に七月十六日、
齢わずか九歳にて早世された。
父興元の死後程なく、不幸また打ち続けば、毛利家は一族を始め家中の諸士男女上下、これを愁傷した。

家臣の福原、桂、志道、口羽以下評議し、
『この上、当家跡目の沙汰を引き述べするようでは、今は戦国の時であるから、猶又いかなる
変異が起こらないとも限らない。であるが、別に後嗣に立てるべき、興元様の子息がおられるわけでもない。
だからといって、江家(大江家)累代の血脈を断って、他者を家督に頼むべきではない。
であれば、叔父・連枝の中から相続して頂く他ない。

そうであれば、興元様のご兄弟の中で長兄である多治比刑部少輔殿(元就)は、今百万の将にしたとしても
その器量に不足のない方で、現在中国地方における若手の諸将の中でも、この人ほどの弓取りは居られない。

三男北殿(就勝)は足の傷によって、近年は歩行も自由でない。四郎相合殿(元綱)は、
軍将の器量が無いわけではないが、その器量も元就殿に比するものではない。その上、
舎兄である多治比殿を差し置いて庶弟を主君と仰ぐのも順義あらざる事である。かれこれにより、
元就殿家督の他あり得ない。」

そう評議したが、毛利家全体での衆議は喧喧囂囂と意見分かれ、どういう決定もなく一日一日と引き延べに
及んだ。そんな中、山口の大内義興がこの機会に乗じて毛利の遺領を併呑する、との風聞が広く流れた。
かつ又、尼子経久も自らの子息の中から、毛利家の家督に据えたいとの望みを持っていると、家中専ら
沙汰しており、

「このように跡目の議定が遅滞し未決の状態が続けば、大内・尼子の両家が大身の威に誇り、
当家を奪おうとの望みかけている以上、今後いかなる危害が起こるか予想も出来ない。
この上は、刑部少輔元就殿こそ、智仁勇の徳があり大将の器に当たり、その上現在の連枝の中の
長子であるから、この人の他に求める余儀はない。」
そうようやく会談は結論し、福原、桂、志道、口羽、児玉、赤川、井上らが元就の居城である
猿掛に出向き、「元就が本家を相続され、近日吉田に入城されるにおいては、我々御馳走申すべき」
旨を申し述べた。

元就はこれを聞き
「興元父子うち続き不幸の上は、勿論跡目の沙汰無くては叶わぬ事ではあるが、この元就を
あなた方が跡目に決定するとは、全く思いもよらなかった。
であるが、私も兄弟の中で長幼の序に従えば長兄に生まれたのであるから、固く固辞するべきでもない。
この上は、当家血脈連続のためでもあるから、いかようにもその意見に任せよう。

であるが、最近尼子経久が自分の子供を跡目に立てたいとしきりに望んでいるとの風説がある。
もしもこれが本当であれば、あなた方や私の決断だけでは、経久が押してその計略を行う可能性がある。
その期に至って我々に難渋を押し付けてくれば、多勢の威によってどんな事が起こるか想像もできない。
そうなってしまえば、かえって私の相続が当家の災いの元になってしまう。

であれば、この事を予め京都の将軍家に訴え、天下の台命を給わることが出来れば、他者の競望を
防ぐことが出来る。その上にてこの私の相続を披露して然るべきであると考える。」

この元就の意見に、諸臣も尤もであると感心し、再び衆議熟談して、粟屋縫殿充を、物詣と称し
密かに京都に上らせ、将軍家に訴訟したところ、公方義晴公より『元就が毛利家を相続し、本領安堵すべき』
との台判を給わった。

粟屋は喜び急ぎ帰国し、福原以下の諸臣も会議して『かかる名主を軍将とし、我々がその指揮に従うのは、
当家益々の興隆繁栄の基礎となるでしょう』と、喜ぶこと限りなかった。

かくして福原、桂、志道、口羽以下の諸臣ら、元就の吉田入城を迎えるため、各々猿掛城に至り
「幸松丸殿卒後の中陰の日数、未満の中ではありますが、吉田城が無主のままでは如何かとも思われ、
この上は一日も速く入城されて然るべし。」と、本来あるべき儀礼等もそこそこにして、とりあえず
彼らを伴い、同年八月二十八日、吉田郡山城に入城したのである。
(芸侯三家誌)

毛利元就が毛利家の家督を継ぐまでの顛末である。



171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:19:33.88 ID:GH8cPtqW
>>169
無事家督を相続できたんだしいい話ではないか

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:33:39.13 ID:XhN6iaY+
策略王を世に放ってしまったともとれる。

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:49:09.06 ID:juowE0EJ
尼子と将軍家は対立していたから、将軍家に「尼子さんが手を出してきそうだったので元就君に決めますがいいですか?」と聞けば、そらOKだすよね。

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 23:05:07.97 ID:2t8VhDHm
>>169
この流れも計算ずみと思わせるところが毛利元就だな

降人を装い

2014年11月08日 19:21

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 19:17:06.09 ID:S2gRtrs8
毛利元就尼子義久が籠もる月山富田城攻めにおいて当初、富田城中の者一人も落としてはいけないと、
所々に関所を据え、落人を絡め取って首を刎ねていたため、雑人達に至るまで、抜け落ちるもの無く
大勢城中に籠った。これは城中の兵糧を無くさせるための謀であった。
その他にも所々に付城を構えて、他国からの兵糧も絶ったため、富田城内はますます兵糧が乏しくなった。

そのように城中が窮乏すると、元就は一転して、富田城から落去する者達に対して、その命を助ける旨を
発表し、所々の道口を開いたため、雑人多く落ち失せ、尼子家臣の者たちすら、縁を求めて降参する者も出た。

ここに熊谷新右衛門原宗兵衛という者が、尼子義久にこのように申し上げた

「我ら両人、偽って毛利の本陣のある洗合に降人として出たいと思います。そのとき、
元就は必ず我々と対面するでしょう。ここで隙を伺い、彼を刺し殺します。
もしこれに成功すれば、私達の子供を世にあらしめて頂きたいと思います。」

この言葉に義久は、忠志少なからずと感動し、直ぐに両人の子供を召して、それぞれに五千余貫を宛がう
旨を記した判形を与えた。

それから熊谷と原の二人は洗合へと向かい、降参するということを申し入れた。
元就はこれを許し、対面することとなった。
その日は降参の者三十余人あって熊谷、原もその中に混じって出たが、予て考えていたのとは違い、
元就や輝元、吉川元春、小早川隆景は、一間(約2メートル)ほど隔たって着座しており、
その間に福原・児玉以下20余人居並び、奏者、酌に至るまで、みな両刀を差して用心の体であった。
このため二人は終に手を出すことが出来ず、そのまま頓首して退出した。

その後、元就は「今日降参した者の中で、5,6番目に出てきた二人は怪しいところがあった。
手堅く番を付け監視するように。」と命じ、侍十数人を付け置いたが、二人は隙を伺って終に逃げ去り、
富田城へと帰った。そこで義久はじめ城中の者達にその故を語り、大いに恐懼した。

その後毛利に降参した者が、この事を詳しく語ったという。

(芸侯三家誌)




城を抜く術

2014年11月02日 18:54

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:06:37.91 ID:DlJhDHgw
毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を滅ぼすと、大内氏の本拠である防長に侵攻し、次々と攻略、
この事態に大内家当主義長は、重臣である内藤弾正忠(隆世)らとともに、長府(下関)の勝山に籠城し、
これを知った毛利元就は、一門の福原左近将監(貞俊)を大将として軍勢を派遣した。

福原並びに国侍の熊谷、阿曾などにより勝山城を取り囲み攻め立てた、しかし勝山城は地形が
険阻である上、城兵たちも勇を励み堅固に城を守った。
元就はこのことを聞くと、福原に密かに、城を抜く術を伝えた。
福原はこれに従い、城中に矢文を放った

『内藤弾正忠は陶晴賢に与した叛逆の者ですから、切腹させていただきたい。
義長については特に遺恨があるわけでは有りませんので、一命を助けて豊後へ送り返しましょう。』

この内容に、義長は「私は内藤とともに自害する!」と言い張ったが、内藤自身や杉等家臣たちが
様々に申し宥め、義長を長府の長福院に移し退け、その後内藤は切腹することに決め、福原に対し
検使を請うと、兼重左衛門尉が派遣され、その上で内藤弾正忠は切腹した。

ところが、福原は直後、義長のいる長福院に攻め寄せた。

大内義長も切腹させるよう、元就より申し来た。よって速やかに自害あるべき。』

これに義長は「覚悟していたことではあるが、福原に欺かれたことが口惜しい」と激怒したが、力及ばず、
行水にて身を清め、終に自害した。
吉弘右衛門太夫、橋爪美濃守、安田入道、杉民部らの家臣も、続いてみな切腹した。

また陶晴賢の家臣、野上紀伊守房忠は、晴賢の末子である6歳の鶴寿丸を山口に隠し置いていたが、
敵がこの命をよもや助けまじと思い、この子を長福院に抱き来て刺殺し、自身も共に死んだ。

(芸侯三家誌)

大内義長の最期についての逸話である




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:31:36.48 ID:Oz10yxRV
これでも元就は天寿を全うできたんだから怨みなんて役にたたないな

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:41:10.54 ID:EHYnYJAt
役に立たないこともないだろ
怨みも、用心深さも、使い手次第だと思えば夢も希望もあるじゃないか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 05:48:48.50 ID:okk8Z5ME
息子を失ってるやん

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 08:00:46.81 ID:LVP3RuBO
隆元さんが、厳島の三女神にお縋りして、元就に向けられていた呪いを引き受けたんですね

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 10:07:10.82 ID:CkoMoT99
大友義鑑「茶碗はよ」

落ち武者を捕える

2014年11月01日 19:01

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 19:38:25.38 ID:EMuHQAj1
毛利元就は厳島合戦のあと、かの島に11日滞留し小舟一艘につき水夫一人を乗せ、
夜中に島の周りを「落人乗せん」と呼びながら漕ぎ廻らせた。
そして厳島の対岸にある火立、赤崎という場所に人数を出し置き、この船が乗せてきた者を
尽く捕らえさせた。陶方の落ち武者を捕える罠を仕掛けておいたのである。

そういった落ち武者の中に進藤彦八という者が居た。彼もこの船に乗ったが、
船中で「この船はどこに着けるのか」と尋ねた所、水夫は「火立・赤崎に着けます」と答えた。
これに嫌な予感がした進藤は
「他の場所に着けよ!さもなくば汝の首を打ち落とす!」
そう刀に手をかけ怒鳴った。

水夫はこれに恐れ「静まって下さい。あなたの仰せに従います。」と他の場所に着岸したため、
進藤は虎口を逃れて立ち去ることが出来た。

この進藤彦八はもともと小早川家の侍であったのだが、勘気を得て立ち退き、大内家に仕え
今回の合戦に従軍したのだが、彼はここから直に、備後の在所に帰ったそうである。

(芸侯三家誌)




669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 21:51:54.41 ID:PQdj9lHO
元就容赦ねーな

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/01(土) 02:08:29.07 ID:wE+rxkq3
さすが元就細部まで謀略が行きわたっておる

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/01(土) 19:01:49.56 ID:zM7e2CEJ
火立・赤崎の何がいかんのかと思って調べてみたら
赤崎は厳島から出た死人を運び込む場所で
火立は毛利勢の出航地か
これは死亡フラグですわ

陶との決別

2014年10月27日 18:44

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 00:11:17.39 ID:+GEva5ce
備後国荏田、旗返城の城主・江田入道(隆連)はもともと大内氏に従っていたが、
大寧寺の変で大内義隆が滅びると、天文22年(1553)、尼子方に鞍替えをした。

これにより、大内義長の命と称して陶晴賢は遣いを以って、毛利元就に江田を退治するよう伝えた。
元就は四千騎を率いて備後へと出陣、これを知った江田隆連は出雲へ注進し、尼子晴久は
「元就が小勢にて他国へ出たのは願う所である。急ぎ江田の後詰して元就を討ち滅ぼし、芸州を
切り従えてその後防州へと討ち入るべし!」と、出雲・伯耆・美作の軍兵二万騎を発した。
ここに備後泉合戦と呼ばれる大規模な戦闘が起こり、毛利元就は苦戦を強いられながら、
陶晴賢よりの援軍もあり、11月13日、ついに旗返城を開城させた。

さて、問題はその後に起こった

毛利元就は児玉若狭守、国司雅楽充両人を使いとして、大内義長ならびに陶入道(晴賢)に申し入れをした
『江田の旗返城は毛利家一分の手立てを以って切り取り、また尼子との国境であり、雲州へ出兵する折の
筋道ですから、かの城は我々に預けていただきたい。』

しかしこれを聞いた陶晴賢は許容せず、かねてから旗返城には江良丹後守を入れていたのだが、
元就も彼の下知に従わせようとした。

これに怒った元就は、それまで従っていた陶と決別することを決意し、その頃、かねてから内通していた
吉見大蔵大輔正頼が、居城である石見国津和野で陶に背くと決心したことに、二宮隠岐守、伊藤三郎左衛門を
加勢として、兵600とともに津和野城に派遣した。

吉見正頼が大内家に背いたことに対し、陶晴賢は吉見退治のため天文23年3月、大軍を以って津和野の城を
取り囲んだ。これによって元就にも遣いによって、出陣有るべき旨が伝えられた。
しかし元就はこれに返答せず、その遣いを追い返した。

(芸侯三家誌)


大寧寺の変の後、当初陶晴賢に従っていた毛利元就が、敵対することを決断した経緯である。




640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 15:34:44.20 ID:9bjUCH30
天下統一では江田豊前守とされた人ですな。
実際は豊前守ではない。

毛利元就の合言葉

2014年10月09日 18:52

478 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/08(水) 20:21:37.77 ID:GJvp27M/
毛利元就の合言葉

陶隆房が主君、大内義隆を弑した後に陶晴賢と名乗り毛利元就と瀬戸内海の宮島で決戦を行った時のこと、
元就は自軍の兵同士が相打ちせぬよう、合言葉を考えていた…
そして元就が宮島に船で上陸した際、部下に
「ここはなんという所か?」
と、問うと
「浦は包ヶ浦、尾根は博奕尾と申します。」
と答えがあった。
「鼓も打つ物、ばくちも打つ物、いよいよ敵に勝つ時が来た!」
と喜び、毛利側の合言葉は「打」、「勝」と決めたと言う。
なお、この合言葉は他にも「勝つか?」、「勝ち勝ち!(勝つ勝つ)」で有ったとも言われ、今では広島に以下の様な形で伝わっている。


 ♪    ∧_∧     ♪
      (   )¶                  ♪
   ¶<Т  |>  宮島さんの神主が
    ⊂/ Σ |            おみくじ引いて申すには
       ̄ し   ♪
  ♪

      ∧ ∧                 ♪
     ( ゚Д゚) ¶    今日もカープは
  ¶< ∥y∥つ         勝ーち 勝ーち 勝っち勝ち
    Σ0. ||                 ♪
      ∪                 ♪
       ♪

(民名書房 刊 サインはV)




479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 20:23:27.30 ID:hpOE/5R0
民明書房とか書くとどこまで架空かわからないからそこんとこ書いてくれ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 20:29:06.49 ID:ZxtYeTEf
カープと宮島とお好み焼きで広島の主成分は構成されてるから(震え声)

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 20:49:14.58 ID:PoEsg75V
何これ創作か



482 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/08(水) 20:55:58.80 ID:GJvp27M/
>>479
菊池寛の書いた厳島合戦とか地元に伝わるお話ね

ちなみに陰徳太平記では元就が宮島上陸後に兵を率いて山に登った時にここはどこか?と尋ねたら兵から「博奕尾です」
と、返答を受け
「敵陣にかかる門出に博奕尾へ登るとは、敵に打ち勝つ前触れじゃ。源義経は勝浦に着いて平家に勝ち、それがしは博奕尾に登って敵に勝つ!」
と、兵を鼓舞したと記されており、
合言葉に関しては「誰か?」と問われたら「勝つ」としていて、
陶方は「月」、「よし」だったそうな。



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 20:58:46.35 ID:Von/PAty

よし
ヒロキ

・・・すまん

484 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/10/08(水) 21:02:14.24 ID:GJvp27M/
月!
     彡⌒ ミ  
    (´・ω・`)・・・・・

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 21:03:26.23 ID:LjN7ttzh
後半何事かと思ったらそれ書きたいがためにこの逸話出しただけだろw
「今日のホームラン」という動画見てたから何とかわかったけどさあ…

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 21:57:21.97 ID:ZZydB7uU
なんだこれ

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/09(木) 08:22:08.93 ID:LX+s7qK8
民明ではないのかと

大内か、陶か、

2014年08月18日 18:51

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 13:46:30.58 ID:040eP83M
天文20年(1551)、陶隆房が主君・大内義隆への反抗を強め、大内家が大寧寺の変に向けて
緊迫の度が増す中、大内配下の有力国人である毛利元就のもとには、大内義隆方、陶隆房方双方より
加勢の申し出が来た。

このような中、元就の前に児玉三郎右衛門(就忠)が座していたが、元就は児玉に
「どちらに与するべきだろうか?」
と尋ねた。児玉は少しも思案する様子もなく、即座に
「陶に一味然るべきです。」
と答えた。これに元就は笑い出し
「当家興亡の大事は今この時だというのに、いささかの思慮にも及ばないとは、
いい加減な意見なのだろう?」

「とんでもありません。この考えは兼ねてから我が心で量見していた物なのです。」

その後、元就は子の隆元、元春、隆景、その他の重臣たちを集め、このことを評議した。
ここで熊谷伊豆(信直)が発言した

大内義隆は、近年武業を取り失い、遊楽に浸っており、その家人は多くそれを疎み、
大内家内の権勢は、却って陶に及びません。大内義隆が勝利することはないでしょう。

尤も、主従が争う時、主を助ける事は義に当たります。ですが滅びようとするものに対し、
そちらに与して共に滅んでは益がありません。

そもそも毛利家は大内家に対し、重恩の家というわけではありません。時の権威に従って、
一旦麾下に属したにすぎないのです。ですから、ひとまず陶に一味して、重ねて
大内義隆の敗北後、その泉下の恨みを散ぜられる謀を行えば、当家はいよいよ興隆するでしょう。」

この言葉に元就は
「先に児玉が申したことも、今の熊谷の言葉と符合している。そして私が心に考えていることも、
その通りである、」

こうして一座の衆議はこれに決し、陶隆房に対し一味する返答を行った。

(芸侯三家誌)

毛利元就が陶に与することを決めた協議についてのお話。




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 15:26:10.22 ID:9GbdPUW0
書状で言ってることのかけらもないのがな

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:09:54.29 ID:/Bls1iEJ
隆元がもどっててよかったな。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:20:32.05 ID:wRMqwQur
こんな状態でよく何年も持ったな

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:21:55.31 ID:1+7elZ3Y
うーんこの元就クオリティ

尼子のモンスターを退治する事

2014年08月15日 19:00

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 20:40:40.95 ID:TDAdipgH
天文9年(1540)10月11日、尼子誠久率いる新宮党を中心とした尼子方1万が、吉田郡山城の
毛利元就を攻めた、いわゆる土取場の戦いでのこと。

尼子方の三澤蔵人は無双の大力であり、三間二尺(約6メートル)の長身の槍を持ち戦っている所に、
毛利方の波田野源左衛門利春が名乗り打ちかかったが、すぐさま槍で打ち倒される。波田野はそれでも
再び起き上がろうとしたが、そこを三澤に突き殺された。

次に内藤九朗右衛門が三澤に突き懸かり、暫く勝負がなかったが、三澤は両手に槍と太刀を持って戦い、
終に内藤を打ち倒した。

さらに三戸与五郎が長刀を持って打って懸かる。これに三澤は太刀を鞘に納め、槍によって
横打ちに打ち倒した。
与五郎も4,5度起き上がろうとしたが、その度に打ち倒され突き伏せられた。

井上源左衛門も言葉をかけて打って懸った。これに三澤は槍を持って拝み打ちに討ってくる。
井上も槍でこれを打ち払おうとしたが、その槍も三澤の大力により柄が打ち折られた。そこで井上は
太刀を抜き斬り付け、組み付いたが、最後は押し伏せられて討たれた。

これを見ていた毛利元就は、井上與次郎に命じて三澤を射させた。
與次郎の矢は三澤の目の上に刺さる。
三澤は右手で槍を振り回しながら、左手でその矢を抜こうとした。

ここで渡辺太郎左衛門が槍を持って三澤の脇腹を突く。三澤もすかさず渡辺の左の股を突き、
二人は同時に倒れた。
そこに有地美作が駆け込み、終に三澤を討ち取った。
彼は首を下人に持たせ、渡辺に肩を貸して、連れ退いたと言われる。

(芸侯三家誌)

毛利軍による尼子のモンスター退治の模様である。




521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 20:49:58.29 ID:IsQmw8eC
悪いほうにもあるがいい話なのか?
一騎打ちで射落とすって卑怯にも程があるな

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 22:17:10.90 ID:un+A3g7z
平安・鎌倉時代じゃないから

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 23:44:15.43 ID:RsybBwhs
なのに名乗るのはなんで?
矛盾してないかい

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 23:53:56.22 ID:TDAdipgH
>>523
主君の面前だからだよ。敵に聞かせてるんじゃなくて元就に聞かせてるんだよ。論功行賞の為にね。
そもそも名乗りというのは味方に聞かせるためのものだ。

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 18:38:34.15 ID:1k4Pl6Q9
一番槍や一番乗り、一番首なんかみんなそうだもんな

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 19:22:02.39 ID:fRWohwEL
この時代にも、一騎打ちを邪魔してはいけないという暗黙のルールがあったらしいけどな。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 19:54:22.03 ID:X5uo09h/
ないない。脇槍の功なんてどうすんだよw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 20:04:20.94 ID:fRWohwEL
それは一騎打ちとはまた別だろ

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 22:38:37.55 ID:P5gwxBDx
邪魔しちゃいけないって又兵衛さんがゆってた

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 22:52:50.61 ID:dLGK/Zw4
三河とか黒田とかは受けそうだな。鮭さまは出ようとするが志村さんに止められると

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/16(土) 16:12:20.57 ID:rqIcLjxb
>520
ここまでヒャッハーしてる奴は手に負えないからさっさと射殺すのが正解だな。
戦国時代じゃ卑怯でもなんでもない。

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毛利元就 石見高橋氏を討つ

2014年08月11日 19:08

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:06:04.82 ID:hXMVAG1+
毛利元就 石見高橋氏を討つ

1523年、毛利幸松丸が急死。叔父の元就が毛利家の家督を継ぐ事となる。
1524年、尼子経久、亀井秀綱の後押しで元就の異母弟・元綱が謀反を企図する物の、
それを察した元就は元綱と謀反に与した渡辺氏、坂氏らを粛清。これにより毛利家は
完全に元就によって統制されることとなる。
この時、尼子・亀井と共に元綱の謀反に一枚噛んでいた人物がもう一人いた。
安芸北部・石見に勢力を張る高橋氏の当主、興光である。
亡くなった毛利幸松丸の外戚(幸松丸の母が高橋氏出身で興光の叔母)である。
1521年に祖父の高橋久光が戦死するまでは、毛利家は当主幸松丸を元就と外戚の
高橋久光が後見しており、力関係では高橋氏の影響力の方が遥かに強く、毛利家は
実質高橋氏の思うがままであった。しかし久光が戦死した後はその影響力は
一気に削がれ、幸松丸が死して元就が家督を継ぐと、元就は遂には高橋氏と敵対する事になる。

元綱の謀反を収めた元就は主家を尼子から大内へ鞍替え。逆に高橋興光は大内から尼子へ接近を図る。
元就は弟の謀反の恨み、長年に渡り亡き久光に毛利を好き勝手された恨みもあってか、主家・大内氏に
許可を得ることなく、高橋氏への攻撃を開始した。

1528年、元就は高橋一族である高橋重光の居城松尾城を攻撃して高橋氏に大打撃を与える。
2年後の享禄三年には高橋領の安芸山県郡北部と松尾城に侵攻。大内氏の弘中隆兼
や備後の和智豊郷の助勢を受けて松尾城を陥落させ、重光を討ち取った。

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:12:06.84 ID:hXMVAG1+
残るは高橋家当主の興光の幡屋城、一族衆の藤掛城と鷲影城であったが、興光は祖父久光の仇である備後三吉氏の入君城
を攻めている最中で、正月を居城で迎えようと僅かな兵と城へ帰る途上であった。

そこで元就は一計を案じ、高橋一族で鷲影城主の高橋弾正左衛門盛光を調略する。
この高橋盛光は興光と兄弟同様に育てられた仲だったというが、盛光はその興光
を裏切り石見の軍原で興光を急襲。興光は奮戦するも力尽き、軍原にある岩の上で腹を切った。

高橋盛光はその首を持って犬伏山に出陣していた元就(または元就配下の武将)の陣へ向かう。
そこで所領安堵の書状を頂戴するよう申し出た盛光であったが、返ってきた言葉は以下の様な物であったという。

「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。かかる犬武士は生かしてはおけぬ。直ちに誅せよ」

その場で盛光は首を討たれ、そのまま犬伏山で葬られることとなった。
そして石見高橋氏は滅亡し、その領地は毛利に奪われることとなったのであった。
若き日の元就の大変後味の悪いお話。

なお、高橋興光が切腹した軍原は現在キャンプ場となっており、腹切り岩はキャンプ場の中に
史跡として残っています。また、盛光の墓は犬伏山に粗末な石ころの様な物がそれであると伝わっております。

(参考文献 『芸侯三家誌』『陰徳太平記』『吉田物語』『高田郡誌』『邑智町誌』)




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 09:55:53.13 ID:eCAtQ001
嫌なキャンプ場だな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 10:17:10.68 ID:lYq9yyDk
その感想に笑ってしまった

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 13:32:59.55 ID:dbBXu24S
それであのキャンプ場、現代の犬武士DQNのたまり場になってんのか。墓参りだったんだな。

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/11(月) 17:28:31.32 ID:qs4BO72Y
犬武士呼ばわりされた奴はキャンプ場では死んでないし埋められてもないんだけどな

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