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毛利輝元「これも私の分の悪さです」

2018年09月26日 17:46

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 00:19:16.40 ID:Il7Ru6Vb
毛利輝元「これも私の分の悪さです」


毛利家の重臣吉川広家毛利秀元は仲が悪かった。
毛利輝元は一人娘の竹姫を種々の事情で、広家の息子・広正に嫁がせることにした。
下記はそのことについて、秀元に説明する書状の抜粋&意訳。


こちらで話そうと思っていましたが、(あなたが)上国していて出来なかったので
この者をさし下して、あなたに内談することとします。
お姫(竹姫)の身上(縁談)のことは、おあちゃ様(阿茶局)にお任せすることに
していて、もし家中で縁談が出来るならあなたの息子とするのがいいかなと
思っていましたが、あなたには息子がいないので、どうすることも出来ません。

それでこれより以前、広家が「息子と縁談して下さい」と申していました。
「まず家中にお姫を置くことが決まらないと(答えられない)」と言ったので
最近はそのことを(広家は)申して来なかったのですが、(私が)
「公儀から仰せ付けられるかもしれないので、分別を持ってくれ」と言うと
「(息子との)縁談を整えたあとでも、(公儀の縁談が来たら)家のためですから
 文句を申すことはないし従うつもりです」
と広家は申しました。
また広家はあなたが宗休(毛利元政)に「然るべき所と(縁談を)するべきだ」と
配慮の話をしたことを承っていて、宗休にも(縁談の話を)申していました。

世上のことはどうなるか分かりませんから、日頃から縁談を決めておかなければ
整うものではありません。お姫は少しも根気がなく、もっての外短気なので
他国との縁談は気兼ねすることが多いでしょう。秀就の縁談も大事でした。
秀就は男なので(他国の姫と)縁談しましたが、後悔しているくらいです。
(秀就が)よからぬことをしでかして、家が崩れることにならないかと思い
日夜並々でない気遣いをしています。

この上お姫を他国などと縁談してしまえば、(私の)気遣いが及びません。
しかも女の身なのですから、(お姫が縁談相手を)不愉快にすることがあれば
中々他国でのことをどうにかすることも出来ません。そうであるので家中に
(お姫を)置かなければ家は滅亡するのです。

このように言うと、ただ広家と縁談したいからこんなことを言うのだと
思うかもしれません。神に誓って言いますが、そんなことはありません。
私の身にもなって下さい。藤七(秀就)のことは全く迷惑千万になったので
むしろ近くの者と縁談する方が支障がありません。(他国と縁談するのは)
外聞のために実を失うようなことだと、朝夕気が気でないのです。

お姫が丈夫で貞心だったなら、気遣いと言っても(お姫のことを)当てにも
出来ますが、体が弱く正気ではないので、突然一大事となってしまうでしょう。
家中でも人にやることは大事だと考えているので、他国にやることなどは
言うに及びません。このことを(あなたに)話しておきたかったのです。

広家と縁談すれば手元に(お姫を)置いて、まずいことになれば私のところへ
呼び戻すことも簡単に出来ます。また家中のためにもなるでしょう。
あなたに息子がいたら本望でしたが、これも私の分の悪さです。
(以下略)


ーー『毛利家文書 一一八八号』

ちなみに輝元の他の書状を読むと、元々お互い子供がいないときに輝元が
「子供が出来たらお前にやるよ」とふざけて言ったのを、広家が本気にしたらしい。



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 02:35:15.07 ID:2rEkY+vu
てる夫の口の軽さはいかにもお坊ちゃまらしい
よく言えば鷹揚、厳しく言えば軽率と

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 06:59:36.43 ID:59seQf71
吉川は裏切り者だから宗家となんとしてでも縁組しないとね

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 16:07:48.69 ID:wQDBsTHB
>>201
お姫様が酷い言われようで草
説明のために大げさに盛ってるかも知れないがそれでもこれは…輝元に似たのかなw?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 21:54:37.66 ID:hy17lFhD
>>203
むしろ逆
公儀と繋ぎが取れてるのは吉川の方で輝元がそれを頼りにしてる状態

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 07:19:42.68 ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 09:17:42.46 ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:05:41.24 ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう
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10本の矢

2018年09月25日 18:12

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 21:18:19.80 ID:2iTomTC/
毛利元就はその死に臨んで、大勢あった子供を残らず集め、その子の数ほど矢を取り寄せて言った

「一本づつ折れば仔細無く折れるものだが、この多くの矢を一つに束ねれば、元々細いものでも
折れなくなる。お前たちは一味同心の思いを為して、親をさすがお前たちの親だと呼ばれるようにしてほしい。」

これが元就の遺言であったが、この時小早川隆景が言った
「何事も諍いは皆欲より出るものです。ならば欲を捨てて義を専らに守れば、兄弟の仲が不和になることは
有りえません。」

元就はこの言葉に大いに感じ入り、「皆隆景の言葉に従うように」と申したという。

(士談)

毛利元就の子供は9男3女の計12人だったらしいので、死んだ隆元と夭折した娘を除いても10人。
「3本の矢」どころか「10本の矢」だった、というお話。



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 23:23:50.17 ID:xGfV/vnq
小早川はそんなおためごかし言うより己の血を引いた世嗣ぎ作っとけよ
押しつけられた養子が後々大変なことしでかすぞ

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 16:06:55.21 ID:EGegIX+B
偉大な隆景叔父さんを見習って世継ぎを作らなかったのでその養子が押し付けられることになりましたとさ

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 17:36:07.34 ID:VoZ0j+ua
>>300
あいつのおかげで減封ですんだという見方も出来るんじゃね?

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 18:52:13.17 ID:Rz5cb2Gf
>>302
隆景死んでからの小早川家、もはや完全に毛利とは無関係だお。

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 23:56:54.52 ID:TEr5n4tX
トリビアの泉だっけ?
3本でも折れるって言ってたの

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 05:35:01.78 ID:mFx53KAd
>>303
金吾死んでから小早川復活させたのは毛利

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 07:22:53.54 ID:Bp25B9sC
>>305
御一新の後でな

出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃか

2018年07月26日 20:05

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 17:11:37.47 ID:DAZzVT8a
尼子勝久の尼子再興軍が出雲に入って以来、城をかすめ取ること15城、その軍勢は六千余騎に及んだ。
そこに赤松の浪人たちも馳せ集まり、伯耆国岩倉の城を攻め取り、美作の蘆田、三浦、市といった一族も
これに一味した。毛利方は伯耆国の高田城には香川美作守、長左衛門大夫を去年から入れ置いていたが、
敵方に攻め囲まれ、日々攻め合いが止むことなかった。

また毛利家臣の福屋隆包は石見国に入ると、石見、その他所々で敵が蜂起したとの情報を得て、
長門国の下関、及び筑前国の立花に、この旨を日々注進した。これによって吉川元春小早川隆景
先ず出雲伯耆の城を落とすべきであると、米原平内兵衛を、高瀬城を堅固に守るようにと三百余騎を付けて
出雲へと向かわせた。彼らは石見の浜田に5日滞留し、「却って尼子に一味すべきである」と内通した。

また南條伯耆、山田出雲は下関勝山に在ったが、敵が羽衣石を囲むとの注進があったためこの両人を向かわせた。
南条は急ぎ羽衣石に入り、山田出雲は岩倉へ押し寄せ攻め落とし、敵63人を討ち取った。しかし山田家の家人も、
梶屋藤兵衛、林甚四郎、同又兵衛、長安神左衛門、谷川久充、その他中間8人が討ち死にした。

また福屋隆包が石見から帰ってきたが、その理由を聞くと、森脇市郎右衛門が立花より上がり石見に
到着すると三子山に立て籠もり、隆包の出した廻文を持たせ廻らせていた出家を見つけ出し搦め捕えて
獄門にかけたのだという。

筑前立花城攻めの陣中では、出雲伯耆はみな尼子に与したと聞こえ、多くの兵卒を出雲方面へ向かわせた。
この頃立花城攻めの兵もやや減ったため、一刻も早くこの城を攻め落とすべきと、一時攻めに
攻め寄せた。この勢いによって敵兵も防ぎかねている所に、「城を明け渡せば一命を助ける」と申し送ると、
城兵たちもその意に任せ城を明け渡した。彼らは全員一命を助けられ、士卒残らず大友の陣へと送られた。

(安西軍策)

永禄12年ころの、出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃかになっている毛利の様子。


その頃、芸州に毛利元就という人が

2018年04月07日 18:13

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/07(土) 17:03:13.59 ID:lWxpVVTl
その年、天文二十四年十月、改元ありて弘治元年となる。

長門国では大内殿を討った陶尾張入道(晴賢)の子息、阿波守(長房か?)がその威勢を
近国にまで広げ、主君である大内義長とも不和なり、これにより大内家中の重臣層、
相良、杉、内藤といった者達と、陶晴賢勢との紛争が起こるように成った。

その頃、芸州に毛利元就という人があった。彼は始め、大内義隆の被官であり、安芸国にて
武田刑部大輔信実と国を争っていたが、武田の家老である熊谷伊豆守信直が武田に背き、
毛利に一味したため、終に武田は自害し、安芸は毛利元就が一国平均に治めた。

その後、元就は出雲国尼子と合戦をし、この折大内殿より度々合力があった。
しかし義隆生害により毛利は強く不安を覚え、また大内重臣の内藤氏が元就の子息の縁者で
あったため、陶と対立する大内家老衆と毛利は一味し、諸境に出城を取り、陶晴賢勢と
戦争状態に入った。

陶の運が尽きたのは、彼が芸州宮島に攻め来たのを、弘治元年十二月朔日の夜に入って、
毛利は風雨、夜に紛れ襲来したため、陶晴賢勢は大混乱に陥り忽ち敗軍し、陶晴賢、同長房は
討ち死にし、陶の家老である三浦越中守は突撃して防戦を行ったものの、小早川隆景勢が
すぐに馳せ寄り、越中守を討ち取った。

こうして陶勢は尽く討ち取られ、さらに毛利勢は周防長門へ侵攻し勢いを振るい、
大内義長も長門国府の長福寺にて自害し、内藤下野守は同国勝山にて自害、陶五郎は
周防の富田若山にて自害、江良弾正、伊香賀左衛門は須々麿にて自害した。

毛利元就は、このように忽ちのうちに大内義隆の恨みを晴らし、周防長門の主となった。

(足利季世記)

色々史実とは異なるものの、畿内から見た毛利元就の勃興についての記事


新たに征服した地域を支配する際の注意点

2018年04月01日 19:25

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/31(土) 22:37:40.58 ID:oYtXoVs4
新たに征服した地域を支配する際の注意点


毛利元就は新たな地域を支配する際にこういう事を言っている。
「征服された地域の人々を侮ってはいけない。
そういう事をすると恨みをかう。」

元就は自分が征服された立場になってものを考えた。
だから元就は征服した地域に毛利家からだけ指導者を出さなかった。
その地域で毛利家に協力する者があれば積極的に登用した。

元就はこう考えていたからだ。
「毛利家からだけ支配者を出しても、地域の住民は従わない。
それは必ず新しい経営のやり方と古いやり方を比較するからだ。
もし同程度であったら絶対に昔のやり方を懐かしむ。
それだけ(当時)地域では支配者と住民の繋がりは深い。
これを破壊するよりむしろ抱き込んだほうがよい。」


武田信玄も信濃国について
「征服された直後の地域住民は昔の支配者を慕っている。
たとえ悪い支配者であっても必ず新しい支配者と比較していい感情をもたない。
武田家からいった者はわりをくう。
そのため武田家に協力する者があればどんどん抱く事が必要だ。」と同じような事をいっている。



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:06:08.00 ID:xEQom0Uz
>>738
策謀家の二人が言うと説得力がありますな…。

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:26:51.78 ID:f1hrGfA/
武田のほうは佐久攻めからの教訓でしょう

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:51:13.15 ID:rVTjiwnx
毛利も楽勝と見込んだ筈の厳島合戦後の防長経略で
一揆軍の妨害に手こずって大幅に計画遅延させられた苦い経験がある

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 15:11:47.64 ID:TSc5OARK
手のひら返しての陶攻めだし、靡かないのは仕方ないんじゃないのかな
ましてや1国人あがりだもの

山口きらめーる255号より

2017年11月03日 20:59

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 05:23:44.99 ID:Do5pozMZ
途中送信しちまったい

http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

山口きらめーる255号より

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。主に毛利方で後世に書かれた軍記物では陶軍2~3万対毛利軍4~5千と語られるこの戦、
山口県史等に研究記載された話としては、戦死者は主に陶氏の家臣や山口県東部の周防国側の大内氏家臣、厳島神主家の家臣である神領衆の一部で
山口県西部に居た大内氏有力家臣の内藤氏や杉氏の参戦は無く実際の陶軍は1万居るか居ないかの戦力であったのでは無いかと言われている。
実際は軍記物で語られる様な兵数差が4倍を超える程の差は無く、毛利元就の軍が寡兵を持って自軍の数倍に値する陶軍を破ったと言うのは毛利側(で軍記物を書いたK川さんの)の誇張では無いか?
と言う悪い話



猛き武士の心をも和らぐるは

2017年10月26日 18:22

344 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 22:30:10.23 ID:Sc/A6gmx
毛利元就と陶晴賢の厳島合戦が終わって5~6日程した頃のこと。
厳島にて渡辺可性と言う者が捕らえられ、陶方の残存兵の後始末のため滞陣する元就の前に引き出された。元就は彼を見て

「この者は、先年私が山口へ下っていたとき、折々私の前へやって来た狂歌の名人じゃ。助けおいたとて、何として害を及ぼそうぞ」
とあって、召し出し
「これ可性、日頃たしなむところであろうが。狂歌一首、ただちに詠んでみせい。詠めたれば命助けようぞ」
と言った。可性は「かたじけのうございまする」と答え、すぐに

かけてしも頼むや毛利の締襷 命一つに二つ巻きして

と詠んだ。元就は、「この歌、それほどの秀逸ではないが、このような折にしては、よう詠んだ」と約束どおり可性の命を助けた。

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 22:30:23.26 ID:Sc/A6gmx
また、陶晴賢の同朋で、宗阿弥という者が生け捕られて、同じく引き出された。元就は彼を見て、
「この宗阿弥は普段から極めて大力の猛者と聞いておったが、何とやすやすと生け捕られて参ったことよな。将来の禍をなす者なるぞ。ただ一刻も早う殺せ。」
と言ったが、思い返し、また、
「それにしても、そちはこれまでたびたび武勇をあらわした。その名声の朽ちることをも顧みず、もしや命助かるかと、自害もせずに、こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。
さらば『命の惜しきは恥を思わず』という心を狂歌に詠め。そちも狂歌の名人と聞いたぞ」
と言った。宗阿弥が「かしこまりました」と申して、ただちに、

名を惜しむ人といふとも身を惜しむ 惜しさに代へて名をば惜しまじ

と詠むと、
「可性の狂歌よりは、はるかに勝れておる。助けおいたとて大事あるまい」
と、これも一命を助けたということである。「猛き武士の心をも和らぐるは和歌の徳なり」とはまことに名言である。
昔の大隈郡司の翁は「栲見るにぞ身は冷えにける」と詠んで罪を許され、藤原為明は「わが敷島の道ならで」と詠んで水火の刑を免れたが、
今の宗阿弥は「身を惜しむ惜しさ」と詠んで、一命を助かったのである。優雅な歌の世界は昔も今もその心は変わらぬものだと、当時の人々はこの歌を扇や畳紙に書いては、美談としてもてはやしたということである。
(陰徳太平記)



346 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 23:10:50.26 ID:BjysMpzj
>>345
>こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。

 .,'
    |. '、  \    `⌒iエ´ , イ
    |. '、   .',     ノ_,ィ ノ / /    ……出たわね。
    |  `''-、     ヽ二ノ /
  _,,-〈.\  '、 \   '⌒ /|、
     \ `"''-ニ,,_ `"''ー―くノ.|`"''
       .\     ̄ ̄ ̄ ̄ /

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 23:18:50.37 ID:VoDwP3CC
そうわよ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/26(木) 10:54:04.39 ID:zCLKuaFh
きたわね

349 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/26(木) 11:17:58.18 ID:klTjDjGs
>>345
北斗の拳終盤の王国編思い出した。
雑魚が宮廷作曲家に良い歌を作るから死刑
と、言ってる所にケンシロウが現れ宮廷作曲家を救うと、雑魚に助かりたいか?

350 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/26(木) 11:19:45.63 ID:klTjDjGs
なら歌ってみろ。雑魚歌う→駄目だな→雑魚爆死

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 11:05:06.42 ID:rCCUH/YG
美談なのか・・・?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 21:32:26.39 ID:wsgJKNCI
元就さん、子供には芸事も学問も不要、って言ってるわりには、
学問と和歌が大好きだよね。

353 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/27(金) 21:50:38.91 ID:8tT7Z6FC
>>352
既出のまとめから引っ張って来たんだが

『藝も要らず、能も要らず、遊も要らず、何もかも要らず。
ただ日夜共に、武略・知略・計策・調略を、工夫することが肝要なのだ。』

学問は否定していない様な…

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 22:03:24.93 ID:wsgJKNCI
>>353
ああ、すまん。
隆景さんの輝への説教の方だった。

毛利元就の正親町天皇即位の御料献上とその影響

2017年10月04日 19:08

279 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/03(火) 23:26:18.41 ID:PQQbOlsn
明治維新に影響をあたえた仰徳大明神(毛利元就


毛利元就は毛利家にとって神君として崇められていた。
徳川家康が東照宮大権現なら、元就は仰徳大明神である。

毛利家中興の英主といわれる重就は元就の遺訓をまとめて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
やがて幕末、藩士中村清旭は安政二年(1855年)元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
これは元就の勤王精神を長州に植え付けることとなった。
というのも毛利元就は永禄三年(1560年)に財政難の為、即位式が出来なかった正親町天皇の為に
即位の御料として銀四十八貫を献上し即位式を挙げさせてあげたのである。

これが前例となり毛利家だけは、他の大名と違い
年末年始はもちろん朝廷の吉凶時にさいしても、朝廷への進献が許されていた。
そして石見銀山を永久的に毛利家が支配する為に皇室御料所として寄進し、毛利家が管理者として実権を握った。
これにより秀吉が天下を取ったあとでも秀吉は石見銀山には中々手が出せなかった。


元就が天皇への勤王あつく(打算的勤王という人もいる。まあないとは言えないでしょうね)
こういった経緯もあり激動する情勢に長州藩では藩の方針を以下とした。

第一に天朝への忠節
第二に幕府への信義
第三に祖先への孝道

すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


高杉晋作は第二次下関戦争の為の挙兵での檄文で
「御先祖洞春公の御遺志を継がせられ御正義御遵守遊され候…」
「洞春公尊霊を地下に慰め御両殿様(藩主敬親、元徳父子)の御正義を天下万世に輝かし奉り…」と掲げた。

洞春公は元就の法名。
つまり元就を範に攘夷決行、王政復古を訴えたのである。

奇兵隊の最初の作戦は戦局には全く影響のない安芸郡山攻略。

目的は唯一つ、毛利元就の墓所の奪還である。



280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 23:34:11.14 ID:KBj7WAN5
大江広元の子孫が武家政権を倒して王政復古を図るとは
祖先は天皇と幕府の次だから気にしてなかったんだろうけど

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 10:51:49.08 ID:4vJxH0l7
すべては「そうせい!」の一言で

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 16:18:09.71 ID:Kbab0n5s
>>279-280
歴史の流れって面白いなー
毛利と島津が幕末にあんなことになるとは権現様でも気づくめぇ

本成りの瓜

2017年09月25日 18:14

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 14:19:47.02 ID:43DBT54k
毛利元就の頃、芸州に花信(果心)居士と号する幻術の上手が来たりて、様々な術をなした。
元就はこれを見物するため、舞台においてその術を為さしめた。

居士は術を行い、にわかに瓜を作るというものを成した。
少しの間に、種を撒き、発芽し、蔓がはい、実が成って見事な瓜となった。
「さらばこれを初めて味合うべし。本成りの瓜が味が良いので、本成りを切りました」
そう言って差し出した。

元就はこの言葉に、自分の諱「元就」と同じ音の「本成り」という、禁忌の言があることに気がついていたが、
ついにここより病に伏せ、逝去したのだと、そう語る人がいる。

(士談)

果心居士のこの話、松永久秀だけじゃなく毛利元就バージョンもあったとは



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:11:35.14 ID:PyXdbaOX
>>148
珍しすぎるパターンだ

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:31:39.07 ID:y/csvWWQ
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html
聊斎志異の「種梨」では梨で似たような話が

一日の間貸され候へ

2017年07月04日 12:10

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/04(火) 12:07:16.30 ID:Z7UEEGAF
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)



大内勢、味方を討って手柄を得る

2016年10月22日 17:14

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)



238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)

松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

2016年10月21日 09:26

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 00:37:34.28 ID:rAcw/9qK
松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

 長村内蔵助が生きていたときに茶堂慈斎に語ったというのを、
人が聞き伝えて予に告げた。
さて慈斎もまた没して十余年、予もまた長村が話が耳に残っており、今顧念してみる。
 

 あるとき平戸の隣邑の唐津から商人が来て、その人がもたらした中に、古文書の廃紙が多かった。
長村はその中を取り調べると、
毛利元就の亭に茶会があったとき、松浦肥前入道(隆信)も参られ同伴致された』
『毛利の一族某の人に、誘引すべし』
といった書簡があった。
そんなものを長村が計らずすも獲たことは、誠に千載の奇遇であったと。

 道可公(松浦隆信)はその頃はわずかに小島の宰で、
元就は十州太守であり彼と比すれば、小大甚だしく異なっている。
それなのにかく大家の衆会に招かれなさたことは、
いかにも御武運高徳、下に伏しなされる輩ではないことを知っていたのだろう。

との話をしたそうだ。
長村の言葉を今思うと、この文書はどこにいったのであろうか。非常に惜しまれることだ。

(甲子夜話三篇)

さすが、元就
抜け目ないですね




元就、軍議の席次を巡って争う

2016年10月16日 15:38

216 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:19:22.67 ID:IWC7trJD
元就、軍議の席次を巡って争う

天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。

いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。

元就は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は

「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。

(陰徳記)

元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…

217 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:34:24.81 ID:IWC7trJD
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…

続き
大内勢、味方を討って手柄を得る


原文「唯今虫けらのやうなる子ども候」

2016年09月23日 14:25

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 21:29:35.60 ID:SBZd/A5r
今発売中の別冊宝島「戦国史を動かした武将の書簡」というものに、武将の手紙が
カラー写真で載っている。文章は知っていたが、手紙そのものをカラーで見るのは初めてのものも
多い。その中で、ちょっと悪いかもしれない話。

原 文「唯今虫けらのやうなる子ども候」
        ↓
口語訳「虫けらのような分別のない庶子がいる」

虫けら呼ばわりだが、原文の手紙を見ると、年少の子どもなので
「まだ小さくて、物事の分別がつかない虫のような子どもたち」という、気の毒に思っている
ニュアンスがある。



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 23:41:33.75 ID:aXC+X0IO
元就「虫けらのくせに立場をわきまえないから家騒動や謀叛が起きるんだよ。

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/23(金) 12:29:28.42 ID:v51T/mcu
虫けらの子孫が毛利の嫡流になるとは
思っても居ない元就でした

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 05:46:27.15 ID:MebFjYs2
3人が結束すれば、3本の矢のようにと、先祖の遺書を読み上げて訓示するが、
虫けらのことは伏せとく情報操作。

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 06:25:36.41 ID:O5X/52cq
>>101
広島城の二の丸にその虫けら云々ぬ手紙展示してあった気がする

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 09:13:36.90 ID:FJgE9Zqf
ノブも信忠と信雄以外の子供はガチで虫けら扱いだったけど
なぜか信孝だけは例外

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 10:26:50.80 ID:lCi6cimj
信長自身が庶長子差し置いて家督を継いでるから
庶子と嫡子の扱いが全然違うし
戦国では常識なんだよな

権現様が異常なだけ

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 14:06:08.96 ID:lApELJe1
烏帽子親が柴田勝家だもんな
津田信澄が養育されてたのも柴田勝家
佐久間盛政といい柴田勝政といい勝家が教育した子供は有能だ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 18:33:59.69 ID:MebFjYs2
>>102 サンフレッチェは、3本(サン)の矢という意味だそうだが、
2軍選手に向かって、虫けらのよう
と言ったらやはり怒り出すだろうか。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 19:18:08.76 ID:VxWqyVUz
言葉の意味や使い方なんて時代で変わるんだから、今の価値観で虫けら?酷い!ってのはいかがなものか。
子供の「供」は供物、って意味だから問題があるなんて言葉狩りが最近あって、メディアではひらがな表記になったとか。

300年後には昔の人は子「供」と書いてる、野蛮!と言われるようになるのかな。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 23:49:36.43 ID:0CbiVLMf
>>114
数年前、嫁が役員やってる子供会の名称が、「〇〇市子ども育成会」に変更になった。
こどもはおとなの「供」ではない!との観点から、名称を「子供育成会」から「子ども育成会」に変更しました、って説明受けたが・・・。

129 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/26(月) 22:47:42.76 ID:baLYiMg9
スレチなので小声で
三年前、文科省は子ども表記を子供表記に変更した。文科省の公用文は今は子供表記。
一方で厚労省はまだ子ども表記。一般にこれが知れ渡るのはまだ先だろう。
当方は三好記の記述をさらにしりたい。一宮成祐の奥方はどう処遇されたのか。

毛利陸奥守大江朝臣元就という人物

2016年09月11日 19:05

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/11(日) 17:57:54.15 ID:d4UKo8Oh
安芸国、毛利陸奥守大江朝臣元就という人物、その先祖を尋ねると、鎌倉三代の将軍の執権であった
因幡守廣元であり、彼は太枝の姓を改めて、大江を用いた。以降、元就の家は大江嫡流を称した。

元就の父もまた廣元という(毛利弘元)。兄を興本という。興元の子、幸松丸早世のあと、毛利の家は断絶の
危機にあったが、古老たちが協議して元就を呼び出し、吉田郡山城へ入城させた。

これ以前、元就は多治比三百貫を領する、非常に小さな存在に過ぎなかった。
しかし毛利の家督を得た後、智謀人に優れ、武勇世に類なく、遠近がその徳化に帰伏すること、まるで草が
風になびくようであった。

元就は、『之を用いるときは行い、之を捨てるときは蔵る』という孔子の言葉を思い出させる人物であった。

(甫庵信長記)


甫庵信長記の毛利元就評である。



181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/11(日) 21:37:25.61 ID:p6f96Ngh
京都の江氏嫡流はどう思って読んだだろ。

毛利元就と大庭賢兼

2016年08月24日 18:17

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/23(火) 23:12:17.68 ID:tTrV6RnU
毛利元就大庭賢兼

大庭賢兼は元々は大内義隆の家臣で源氏物語などの古文に通じた武将であった。年齢も元就に近く、家臣ではあるが元就とは和歌や古文の趣味友でもあった様だ。
そんな大庭賢兼、永禄5年(1562)に石見の小石見在陣中の元就の元へ雪のせいで遅参してしまう。
これに怒った元就、当初は怒りの余り賢兼に会おうとしなかったが、雪が原因と判るや賢兼を許し、一首の和歌を詠み送った。

「石見がた 雪より馴るる友とてや 心のかぎりに打ち解けにけり」
(雪よりも親しく付き合っている友なのだから、 私の怒っていた心も解けたので、また元のように仲良くしよう。)

これに返して賢兼

「石見がた かたき氷も雪もけふ とくる心のめぐみうれしも」
(あなたの怒りが今朝の氷や雪のようにとけた。そのように寛大に許してくれた心遣いが嬉しい。)

こうして2人の仲は元度りになったそうな。
元就の和歌の添削をした三条西実枝もこのやり取りに対して
「此の贈答、一豪のへだても聞こえず、誠に上下に怨なしといふ
 明文にかなへり」
と評している。

春霞集より元就爺ちゃんと家臣の知的?なやり取り


104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/23(火) 23:24:22.28 ID:tTrV6RnU
>>102余話
三条西 実枝は元就の和歌を称賛しており、他にも元就に対して

「大江元就は武王の心を以って心とすとみえたり。しかればただ今の世に比するに成王にあれたり。」
との評価もしている。
この評価は後々名将言行録では法橋恵斉と言う家臣が元就に対しておべっかで言ったことにされており、
元就がそんな昔にそんな事言う奴はいねーしワシゃそんな器じゃねーわ。と返して以後は元就の家臣におべっか使いが居なくなったと言う逸話(既出)に変わっている。





105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 13:52:47.92 ID:pPGBazbw
>>104
面白い変化だね。当時でも三条さんちょっとお世辞が過ぎるのではって認識があったのかな。

106 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/24(水) 14:29:20.30 ID:T0yMQvKL
>>105
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-265.html

此処に三条西実澄さんの元就の和歌に対する評価の現代訳文が載ってるけど、>>104の武王成王の下りは最後の方の抜粋で原文は物凄く長い…
元就の和歌を知ったのは元就死後の事みたいだけど、原文読むと三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した。
ただ、武王成王の所だけ見たらただのヨイショにしか見えないってのは間違いないね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 20:06:54.11 ID:rH/dmeDC
>>106
>三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した

幽斎さんの師匠だよ、この人。

毛利元就、内通者を騙す

2015年04月12日 17:07

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/12(日) 01:56:29.17 ID:xTJxC7YJ
毛利元就は、尼子と不和になり始めた頃から、譜代の家人の末子や、人々がよく知らない者を密かに、
尼子方に奉公させた。そしてその者達は様々なことが内通された。

一方尼子よりも、3年前に内別作助四郎という者を偽って勘当し、彼は毛利家に奉公した。
元就は彼を信頼し、傍近くで給仕させた。

そのような中、今度尼子が、毛利の本拠である吉田郡山城を攻めに来る件について、元就は
家臣たちと評議する中

尼子晴久が甲山に陣を取ればいいのだが、もし三猪口に陣を張られてしまっては、周防への通路を塞がれ、
味方の働きも自由にできないので、ひとまず山口に逃げ、大内を頼んで重ねて合戦をするしかない。」

そう隠密に語ったことを、内別作は聞き、或る夜突然に蓄電した。

元就は後で
「今度、尼子はきっと、三猪口に陣取るであろう。もしも甲山に陣を張られてしまっては、あの場所は
当城を真下に見下ろし、畢竟の要害であるので、籠城も危うかった。」
と言ったが、はたして尼子晴久は三猪口に陣を据えた。

(芸侯三家誌)


元就、対尼子戦でも内通者を騙していたというお話。





参考
謀神、敵の間者を用い策を成す

真の忠義

2015年04月11日 16:31

660 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 23:38:30.07 ID:cQs6fhQ9
毛利元就は多年尼子氏の幕下に従っていたが、民部太夫晴久の代に至って。元就の武功近国にその名高く、
『このままだと、後には尼子とても毛利家の麾下に属するだろう』と、人々は皆評判していた。
晴久に対しても、今元就退治の謀略をしなければ、今後尼子家の為、臍を噛むことに成るでしょうと
讒言するものが有り、晴久もこれを「尤もである」と信用して、それより元就を疎んじ、常に不快の色が
顕れていたため、元就も常々これを憤っていた。

こんな折節、この尼子と毛利の間が不快であるということが大内家にも漏れ聞こえ、大内義隆ならびに
陶尾張守(隆房)より、大内の味方に属するよう懇ろに申越した。
これに元就

「私は尼子と縁者の好によって、一旦麾下に属してより戦功を上げたこと多年に渡る。
しかるに今、讒舎の佞言を信じて、ややもすれば私に害心を抱かれている。これは言われもないことである!」

そういって大内に対し、一味する旨の返事をし、あわせて児玉木工充を山口に遣わし、その盟約を述べた。

さてまた、元就より人質として尼子に付け置かれ、富田に在った赤川十郎左衛門、光永中務の両人に
密かにこの旨を通達し、急ぎその地を引き取るよう伝えた。よって両人密かに富田を立ち退いたが、
尼子の者達はこれを察知し追手を遣わし同国の大東という場所で難なく追いつかれた。

661 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 23:39:31.27 ID:cQs6fhQ9
赤川、光永は引き返し暫く防ぎ戦い、一旦敵を追い散らしたものの、もとより追っ手多数である上、
光永は深手を負い、両人が無事に切り抜けることは不可能に思われた。
ここで光永は赤川に言った

「私はこのように手を負い、ことに老身でもありもはや一緒に立ち退くことかなわない。
私はここで討ち死にしよう。追手の勢は未だ再びこちらに攻めかけてこない。今のうちにそなたは
急ぎここを立ち退かれよ!」

これを赤川十郎左衛門聞くと猛反対した
「両人一緒に在有って敵に逢い、一人踏みとどまって討ち死にするのを見捨てて、私ひとりここを立ち退いては、
弓矢の恥辱、これに過ぎたものはない!重ねて人にこの面を向けることもできなくなる!
そのようなことは全く、思いもよらぬ!」

しかし光永
「一端の道理はそうだ。しかし今ここで両人一緒に死んだとて、主人に対しさしたる忠義にはならない。
いかにもして一人だけでもここを切り抜け本国に帰り、近年雲州に在って見聞きした尼子家の様子を
つぶさに主君に伝え、今後の戦忠のために一命を投げ打つ事こそ、真の忠義であるのだから、片時も
早く、急ぐのだ!」

そうしきりに諌め、諭すと、赤川もその道理に屈服し、しぶしぶそこを立って別れ落ちた。

その後、光永中務は敵がかかってくるのを待ち受け。馬を引き寄せ打ち乗って、
「毛利家の侍、光永中務光重である!」
と名乗り、近づく敵を待ち受けた。

尼子勢はこれを少数と見ていたので、我先に討ち取らんと総勢一度に攻めかかる。光永は討ち残された
郎党10人ばかりを左右に従え、敵陣に駆け入り、駆け破り駆け通り、取って返しては討ち払い、
死狂いに攻め戦えば、今まで付き従った家人も次第に討ち死にして、主従2,3人となり、
その身も戦い疲れ、『今は赤川も、定めて遥かに落ち延びただろう。』と思い、そのまま、
馬に乗りながら刀の切っ先を口に当て、「とう」と馬より真っ逆さまに落ち、その刀に貫かれて死んだ。

赤川十郎左衛門は無事吉田に帰り着き、雲州の様子をつぶさに伝え、今回、大東で追手と戦い、光永を見捨て
面目なくも引き帰ったことも詳しく述べた。
元就はこれを聞くと

「光永は深手を負ったのだから、引き帰ることができず討ち死にしたのも仕方のない事だ。
赤川が無益の討ち死にを遂げず、光永の意見に従って帰ったこと、これこそ忠義の志を忘れぬ故である。」
そう言って特に感賞したという。

(芸侯三家誌)




毛利元就の家督相続

2015年01月06日 18:52

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 20:58:47.75 ID:Dd7BiFBo
大永三年(1523)6月末、毛利幸松丸は俄に発病し、療薬験無く、悩乱驚働せられ、終に七月十六日、
齢わずか九歳にて早世された。
父興元の死後程なく、不幸また打ち続けば、毛利家は一族を始め家中の諸士男女上下、これを愁傷した。

家臣の福原、桂、志道、口羽以下評議し、
『この上、当家跡目の沙汰を引き述べするようでは、今は戦国の時であるから、猶又いかなる
変異が起こらないとも限らない。であるが、別に後嗣に立てるべき、興元様の子息がおられるわけでもない。
だからといって、江家(大江家)累代の血脈を断って、他者を家督に頼むべきではない。
であれば、叔父・連枝の中から相続して頂く他ない。

そうであれば、興元様のご兄弟の中で長兄である多治比刑部少輔殿(元就)は、今百万の将にしたとしても
その器量に不足のない方で、現在中国地方における若手の諸将の中でも、この人ほどの弓取りは居られない。

三男北殿(就勝)は足の傷によって、近年は歩行も自由でない。四郎相合殿(元綱)は、
軍将の器量が無いわけではないが、その器量も元就殿に比するものではない。その上、
舎兄である多治比殿を差し置いて庶弟を主君と仰ぐのも順義あらざる事である。かれこれにより、
元就殿家督の他あり得ない。」

そう評議したが、毛利家全体での衆議は喧喧囂囂と意見分かれ、どういう決定もなく一日一日と引き延べに
及んだ。そんな中、山口の大内義興がこの機会に乗じて毛利の遺領を併呑する、との風聞が広く流れた。
かつ又、尼子経久も自らの子息の中から、毛利家の家督に据えたいとの望みを持っていると、家中専ら
沙汰しており、

「このように跡目の議定が遅滞し未決の状態が続けば、大内・尼子の両家が大身の威に誇り、
当家を奪おうとの望みかけている以上、今後いかなる危害が起こるか予想も出来ない。
この上は、刑部少輔元就殿こそ、智仁勇の徳があり大将の器に当たり、その上現在の連枝の中の
長子であるから、この人の他に求める余儀はない。」
そうようやく会談は結論し、福原、桂、志道、口羽、児玉、赤川、井上らが元就の居城である
猿掛に出向き、「元就が本家を相続され、近日吉田に入城されるにおいては、我々御馳走申すべき」
旨を申し述べた。

元就はこれを聞き
「興元父子うち続き不幸の上は、勿論跡目の沙汰無くては叶わぬ事ではあるが、この元就を
あなた方が跡目に決定するとは、全く思いもよらなかった。
であるが、私も兄弟の中で長幼の序に従えば長兄に生まれたのであるから、固く固辞するべきでもない。
この上は、当家血脈連続のためでもあるから、いかようにもその意見に任せよう。

であるが、最近尼子経久が自分の子供を跡目に立てたいとしきりに望んでいるとの風説がある。
もしもこれが本当であれば、あなた方や私の決断だけでは、経久が押してその計略を行う可能性がある。
その期に至って我々に難渋を押し付けてくれば、多勢の威によってどんな事が起こるか想像もできない。
そうなってしまえば、かえって私の相続が当家の災いの元になってしまう。

であれば、この事を予め京都の将軍家に訴え、天下の台命を給わることが出来れば、他者の競望を
防ぐことが出来る。その上にてこの私の相続を披露して然るべきであると考える。」

この元就の意見に、諸臣も尤もであると感心し、再び衆議熟談して、粟屋縫殿充を、物詣と称し
密かに京都に上らせ、将軍家に訴訟したところ、公方義晴公より『元就が毛利家を相続し、本領安堵すべき』
との台判を給わった。

粟屋は喜び急ぎ帰国し、福原以下の諸臣も会議して『かかる名主を軍将とし、我々がその指揮に従うのは、
当家益々の興隆繁栄の基礎となるでしょう』と、喜ぶこと限りなかった。

かくして福原、桂、志道、口羽以下の諸臣ら、元就の吉田入城を迎えるため、各々猿掛城に至り
「幸松丸殿卒後の中陰の日数、未満の中ではありますが、吉田城が無主のままでは如何かとも思われ、
この上は一日も速く入城されて然るべし。」と、本来あるべき儀礼等もそこそこにして、とりあえず
彼らを伴い、同年八月二十八日、吉田郡山城に入城したのである。
(芸侯三家誌)

毛利元就が毛利家の家督を継ぐまでの顛末である。



171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:19:33.88 ID:GH8cPtqW
>>169
無事家督を相続できたんだしいい話ではないか

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:33:39.13 ID:XhN6iaY+
策略王を世に放ってしまったともとれる。

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:49:09.06 ID:juowE0EJ
尼子と将軍家は対立していたから、将軍家に「尼子さんが手を出してきそうだったので元就君に決めますがいいですか?」と聞けば、そらOKだすよね。

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 23:05:07.97 ID:2t8VhDHm
>>169
この流れも計算ずみと思わせるところが毛利元就だな

降人を装い

2014年11月08日 19:21

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 19:17:06.09 ID:S2gRtrs8
毛利元就尼子義久が籠もる月山富田城攻めにおいて当初、富田城中の者一人も落としてはいけないと、
所々に関所を据え、落人を絡め取って首を刎ねていたため、雑人達に至るまで、抜け落ちるもの無く
大勢城中に籠った。これは城中の兵糧を無くさせるための謀であった。
その他にも所々に付城を構えて、他国からの兵糧も絶ったため、富田城内はますます兵糧が乏しくなった。

そのように城中が窮乏すると、元就は一転して、富田城から落去する者達に対して、その命を助ける旨を
発表し、所々の道口を開いたため、雑人多く落ち失せ、尼子家臣の者たちすら、縁を求めて降参する者も出た。

ここに熊谷新右衛門原宗兵衛という者が、尼子義久にこのように申し上げた

「我ら両人、偽って毛利の本陣のある洗合に降人として出たいと思います。そのとき、
元就は必ず我々と対面するでしょう。ここで隙を伺い、彼を刺し殺します。
もしこれに成功すれば、私達の子供を世にあらしめて頂きたいと思います。」

この言葉に義久は、忠志少なからずと感動し、直ぐに両人の子供を召して、それぞれに五千余貫を宛がう
旨を記した判形を与えた。

それから熊谷と原の二人は洗合へと向かい、降参するということを申し入れた。
元就はこれを許し、対面することとなった。
その日は降参の者三十余人あって熊谷、原もその中に混じって出たが、予て考えていたのとは違い、
元就や輝元、吉川元春、小早川隆景は、一間(約2メートル)ほど隔たって着座しており、
その間に福原・児玉以下20余人居並び、奏者、酌に至るまで、みな両刀を差して用心の体であった。
このため二人は終に手を出すことが出来ず、そのまま頓首して退出した。

その後、元就は「今日降参した者の中で、5,6番目に出てきた二人は怪しいところがあった。
手堅く番を付け監視するように。」と命じ、侍十数人を付け置いたが、二人は隙を伺って終に逃げ去り、
富田城へと帰った。そこで義久はじめ城中の者達にその故を語り、大いに恐懼した。

その後毛利に降参した者が、この事を詳しく語ったという。

(芸侯三家誌)