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氏家内膳三男のこと

2022年05月14日 16:45

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/14(土) 14:09:06.03 ID:p90IDzup
(氏家内膳(行広)とその子三兄弟の切腹の後)大御所(徳川家康)は二条城に入られたが、この時
南光坊天海は小僧を召し連れ御前に出、

「氏家内膳正は御敵を成したるに依って、その子供を殺害されたことは御理であります。
ですが、この小僧はその内膳の子(三男)でありますが、拙僧の弟子となり申しました。ですので、
一向御免下さるべし。」と言った。

家康公はこの旨を聞かれ
「氏家が主君の恩を報じる為に一命を捨てたのだから、出家させた子供に罪をかける道理はない。
心安く思うように。」
と仰せになった。

或る記に、かの小僧は南光坊天海に従って、武州東叡山に居た。その頃、東叡山寛永寺には一人の浪人が
在ったのだが、俄に狂乱し、刀を抜いて本坊へ切入った。これに児喝食は言うに及ばず、齢長けた僧も
逃げ走ったが、内膳正の三男の若僧はかの狂人を組み伏せ、抜いた刀を奪い取った。

後に、山城国愛宕山康楽寺の住持となったという。

新東鑑



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氏家三兄弟の切腹

2022年05月13日 19:17

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/13(金) 16:09:47.53 ID:Yo+4A1bF
(関ヶ原の折、徳川家康に断りを入れた上で中立を選択した氏家内膳(行広)であったが)
然るに上方が敗軍すると、関東方である勢州長嶋城主・山岡道阿弥(景友)が、氏家氏の桑名城を
攻めようとした。氏家内膳、並びに弟志摩守(行継)、寺西下野守(直次)等は、防ぎ戦おうとしたが、
山岡は使者を立て、
『関ヶ原において宇喜多、石田以下の諸将敗北の上は、急ぎ城を渡さるべし。然らば我ら、今後の
御恩賞に換え、本領安堵させ申さん』
と伝えたため、氏家兄弟たちは承引して、各々城を出た。

然るに、一乱程なく治まって後、その所領は没収され、内膳並びに嫡子左近、二男内記の父子三人は、
縁者であったため京極高次と羽柴(池田)輝政に預け置かれ、内膳は若狭、播磨を往来して年月を
送っていたが、去る、大阪冬の陣の勃発において、徳川家康公は「内膳を召し出されるべし」との御内意が
あったのだが、

「不肖のそれがし、殊更十四、五年の間、弓馬の道を捨てている以上、武道に於いて何ほどの事を
仕れるでしょうか。どうか御免あるべし。」

と言って仰せに従わなかったのだが、また今年の御陣(大阪夏の陣)に、両御所より
『十万石の軍勢を預け給わるべし。只々大阪へ先陣すべし。』と有ったのだが。
返答にも及ばず大阪城へ籠城し、秀頼公の御供をした。
内膳は浪人の後に男子二人が出生したが、一人は比叡山南光坊天海の弟子となし、一人は八丸といって、
未だ幼少であったが、父内膳が籠城した事により、大阪落城後、嫡子左近、二男内記とともに。
五月二十九日(或いは七月二十九日)、京都妙心寺に於いて、死罪に処された。

或る記に、氏家兄弟の切腹の模様を見た医師・斎藤玄可が語ったところによると、
虎落の中に敷皮を敷き、兄弟三人は座に並んでいた。
左近は二十四、五歳、内記は二十あまりと見え、八丸は九歳にて、いずれも美男であった。

左近は、弟幼少なる故、不覚のこともあるかと思ったのだろうか、
「八丸は我らに先立つべし」
と申した。これに八丸は

「私は未だ、切腹する者を見たことがないので、どのようにすればいいのか知りません。
先ずは御両人が、腹を切って見せて下さい。その通りに致します。」

左近は布を聞いて「実に理である。然らば私と内記の真似をせよ。」と言い聞かせ、
二人は諸肌脱ぎになり、腹一文字に引き廻して、首を討たせた。
この時八丸は顔色も変えず、身繕いをして肌脱ぎになった。

見物の老若は見るに忍びがたく思い、皆声を立てて泣きながら門外へ逃げ出た。
その時八丸は脇差しを押し取り、弓手の脇に突き立てた所を、介錯の者は引かせる前に
首を打ち落としたと云う。

(新東鑑)

氏家三兄弟の切腹について



氏家内膳宅趾

2016年11月05日 17:29

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/05(土) 01:14:15.22 ID:ueBpyrnR
氏家内膳宅趾

 領邑平戸城の西北一里余、神埼という山の北、海に向かった所の人里を離れた地に"あぼ"という名がある。ここには"どうこく"という所がある。
思うに人名で〔今文字が詳しくなく、ただその唱に依るしかない〕、今はその廃宅の跡がある。
宅の辺りには石垣がなお存在する。その渓間は小竹が生い茂り、人が窺う隙がない。
 さて近頃聞いた話では、この地は氏家内膳正(行広)が関が原の戦に利なくなった後に
西国へ下ったときにこの所に潜伏し名を変えて住んでいたという。
しかし大坂陣起こったときにこの地を去ってしまい、その跡がなくってしまったそうだ。
きっと大坂に赴き与したのだろう。この後廃宅となったと。

 案ずるに、『武事紀戦略考』に、
「九月十五日の暁、長束大蔵大輔正家、関ヶ原を落ちて大嶋にいると聞いて、
道阿弥が手勢三百ばかりで大嶋に押し寄せ、大いに戦った。
長束は敗軍して逐電した。〔大嶋は長嶋かた二十余町南北。〕
十六日、山岡はまた桑名に押し寄せた。氏家内膳正行広は和を乞うて城を渡した。
〔桑名は長嶋から二十四、五町南〕
それから山岡は、また神戸に赴いた。」
との記述がある。同書によると氏家常陸介入道卜全〔濃州大垣城主〕は、美濃斎藤家三人衆の一人であるそうだ。後に信長に従って、度々の戦功があったとか。
(『石卵余史』巻十には、
「桑名の城主氏家内膳正兄弟は、彼方此方に忍び、
後に御侘びすると口では言っても、内心は御憎み深く、
内膳正は池田輝政に、志摩守行継は福島正則に御預けられたが、
後に慶長十九年大坂陣の時内膳正も籠城した。その時は萩野信濃守と号した。」
と書かれている。)


『武功雑記』には、
元亀三年、信玄、遠江へ出張の条に、
「信長公から権現様へ加勢として、一番手平手中書(汎秀?)、二番手佐久間右衛門尉(信盛)
三番手大垣の氏家常陸入道卜全。」
と記述してある。卜全は思うに行広の父であろう。
(甲子夜話)

わざわざ平戸くんだりまで潜伏する氏家さん



氏家行広と宿屋の主人・いい話

2008年10月16日 13:36

268 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/02(木) 16:47:06 ID:qRK3PRWZ
関ヶ原の役のころ、伊勢桑名城主であった氏家行広のお話。


行広が、友人であった京極高知・朽木元綱と小田原攻めの前に近江水口の宿に泊まった。
その宿屋の主人は、よく当たる占いをするという。
朽木元綱が、『この三人の中で、最も出世しそうな者は誰だ?』と聞いてみた。
主人はしきりに恐縮したが、やがて行広を指差した。
『現在、桑名のお城は空き城ですが、近い将来あなたさまは必ずや関白のお気に適い、桑名の殿様となられましょう』。

予言は的中、小田原攻めの後に行広は桑名二万五千石の領主となった。
宿屋の主人は、多くの引き出物目当てに桑名に賀儀を述べに現れた。
だが主人の期待を裏切り、行広は祝儀程度の引き出物しか与えなかった。

行広の吝嗇に対し、近臣は怪しんだが、行広はこう語ったという。
『かの者の予言はたまたま当たったものである。まぐれ当たりに莫大な褒美を与えては、父祖の代からのおまえたち家臣に何をもって報いればよいのか。軽くもてなしたのは、そのためである』

しきりに感心する家臣たちに対し、行広は更にこう続けたという。
『だが考えてみれば、宿屋の主人との縁もゆかしいものがある。この縁をここで絶っては惜しい。これからは京・大坂への往還のたびに、あの宿屋を本陣として使ってやるがよい』