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「続武家閑談」より「古田織部正の切腹のこと」

2023年02月08日 19:13

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/08(水) 17:37:13.78 ID:SARpYva+
古田織部ついでに
続武家閑談」より「古田織部正の切腹のこと」

古田織部正が大坂へ返り忠をなしたが、「(家康の意向で?)切腹の義は暫し引き延ばすように」という内容の糊付けにした書状が板倉伊賀守勝重に遣わされた。
伊賀守は書状を読み、「このような急を要することは常々の書状とは違い、糊付けするに及ばない」と申したそうだ。
(大坂城落城後の)六月十一日、織部正は切腹となり、鳥井土佐守(鳥居成次?)と内藤右衛門が検使としてやってきたという。



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続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

2023年02月07日 19:11

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:36:01.12 ID:m1SOtcLP
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。

甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:50:43.34 ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で

管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」

「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない



織部とムクロ肩衝

2022年05月19日 15:23

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/18(水) 21:31:30.49 ID:dj1xSr2p
槐記享保十四年四月十三日の記事から 織部とムクロ肩衝

茶の後の四方山話のついでに(家煕様が話された)「ムクロ肩衝という名物の茶入れがある。その首がないのが名の由来という。織部が誰かと茶の湯をした後、秘蔵の茶入れを茶坊主に片付けさせたところ、茶坊主が茶入れのなかに指を入れて中を拭っていたが、指がどうやっても抜けないので、首を叩き割って指を抜いた。茶入れ袋と一緒に織部の前に出し、『茶入れの首と人間の首とを、まさかお取替えにはなさらないでしょう』と申したという話だ。この茶入れは名物記にも載っている」



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/19(木) 12:49:07.64 ID:1Lx5XXEG
割る前に報告してくれたら指を切り落とせたのにな

必ず災いに罹りて死ぬべき者なり

2022年02月15日 18:02

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 12:28:20.72 ID:mKlVt3NR
或る本に、(新井)白石先生の曰く、古田織部正は古き珍宝の全き(破損等のない状態)を、
余りに思い所無しとして好まず、されば書画のような物でも、かの所を切りこの所を断ち、凡ての
茶具をも多く損ない破り、又補い綴いで用いた。
これを世の人達は皆、興ある事に思い学んで、世に全き物は無くなる程の有様と成った。

松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、常に側の人にこのように言っていた。
「この人(古田織部)は必ず災いに罹りて死ぬべき者なり。」

その後、実際に古田織部は罪を被って誅せられたため、人々は驚き「どうして予てからそのように
見て取っていたのか」と久綱に問うた所、

「古の宝物と聞こえていても、多くは世々の乱に失せて、今有る所の物は皆、神仏が護持してこそ、
世に残ったのだろう。そのような物に対し、自分一人の好みに随って破るような事は、必ず鬼神の
悪む行為に違いない。ならばその人も又、身を全うして終わることを得ないだろうと思ったのだ。」

そう言ったという。非常に金言と言うべき、古き人の物語を承った。これは此年(現代)に於いても、
萬に付け渡って心得有るべきことではないだろうか。

新東鑑



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 13:10:59.95 ID:hwFR7qrI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9767.html
「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」


新井白石「藩翰譜」出典で出ていた

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 13:42:27.21 ID:qdlarutW
それも含めてのへうげっぷりならばよし!

351 名前:げひひ[] 投稿日:2022/02/15(火) 17:02:14.55 ID:MQXZMTnS
珍宝は
 玉と砕けて
  花と散る

大阪方は古田織部を語らい

2021年07月02日 16:44

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/01(木) 19:56:03.79 ID:qiFsgFHO
大阪夏の陣の折、大阪方は古田織部を語らい、「両御所(徳川家康・秀忠)が京・伏見御逗留の間に、
洛中を焼き候へ』とあった故、織部は自分の配下である茶道頭の宗喜に申し含め、調議を廻らせていた所、
板倉伊賀守(勝重)はかねてからこう言ったことに心を懸けており、法度を厳しく申し付けていた。

この時、尾張宰相義直卿の家臣、甲斐庄三平(庄三郎?)、今井伊兵衛両人によって、火付けを二人
搦め捕り、成瀬隼人を以て言上した。
伊賀守はこれを請け取り、糾明して同類四十三人を捕らえ、それから七日の内に三百余人を検挙した。
そして彼らの棟梁は古田織部であり、磔に懸けられ、彼の徒党の者共も尽く罪科に行われ、
洛中安静となった。

この織部、先の冬の陣では幕府方の御供をし、味方の事を聞いて、矢文を射て大阪城内に告げている事を
権現様はご存知であったが、あえてご存知無き体になされ、逆に利用したのだという。
これは反間(間者)を用いられる、御名将の趣深さである。

管窺武鑑



当時の数寄者達は感じ入ったと言うが

2021年04月23日 17:56

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/23(金) 15:30:44.96 ID:dXmDSpBq
古田織部が家康公より逆心の咎めを受けた時、

「申し分を仕れば助かることも有るだろうが、この上において申し分をするのは見苦しい。」

と言って、申し分する事なく切腹した。
これについて、当時の数寄者達は感じ入ったと言うが、本当に身に誤りが無かったのであれば、
申し分をしたであろう。彼が切腹したのは、実際に逆心があった故ではないだろうか。
それは大阪城内への内通の罪であるという。

烈公間話



天下の茶湯指南は、

2021年04月21日 18:46

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/21(水) 16:01:16.20 ID:sY+axhzY
千利休、同道庵(道安)、古田織部についての事、
細川三斎(忠興)が利休に問うた
「貴老が五百八十年後にあい果てるとして、それ以後に天下の茶湯指南は、誰にて有るべきでしょうか」

利休答えて曰く
「倅の道庵については、彼はハタラキタル茶湯であります。しかしながら人柄が悪く、天下の指南は
成らないでしょう。古田織部がそう有るべきでしょう。」
と申した、その後、果たしてその様になった。

烈公間話



古田について、上記のように諸人崇敬したのだが

2021年04月20日 16:55

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/20(火) 14:14:29.64 ID:O4Ie7grK
古田織部について、彼は家康公の御意に入り、御懇意であった。
茶湯の者で、その上古田は度々功名があったのだが、世上に於いては茶湯のことばかり
沙汰され、武名を語られることは少なかった。これは茶湯が害と成ったのである。

家康公が、御庭の物数寄を古田に致させた所で、円座を御手自ら古田のために敷いたという。
これによって、諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府にて、(池田)輝政様を始め諸大名が、御館に於いて、列座して料理を食していた半ば、
古田が表れ来ると、皆座を立って膳の前に座らなかった。
その時、「茶道がありますので数寄屋を見られるように。」
と、連れ立って数寄屋を見せ、脇道より帰されたという。

古田について、上記のように諸人崇敬したのだが、冥加尽きて逆心したのだという。

烈公間話



道恵の茶湯には

2021年02月23日 17:55

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/23(火) 14:14:56.86 ID:ciKhsDbE
古田織部殿の茶湯が盛りであった頃は、遠国よりも多くの人が伏見へ登り逗留して、
織部殿の手透きを伺って茶湯を所望していた。

織部殿の殊に気に合った塗師の道恵という者、都に住んでいたが、織部殿の余勢によって、
茶湯も家業も上手であると、京都の人々は褒めそやし、自身も運も良さを自慢していた。

その頃、田舎に住んでいる士が四、五人打ち連れて伏見へ赴く途中、道恵の家の側を通り、
そこで案内を通してこのように伝えた

「我々は伏見へ赴く者たちなのだが、織部殿の所にも折々出入りさせて頂き、そちらのこと、
かねてより承っている。このような折から幸いに思い、寄って御茶を所望仕りたい。」

これに道恵は喜び
「丁度釜の湯も湧いています。よく我が家を訪ねてくれました。」と、露地の戸を開き招待した。
互いに挨拶事が終わると、茶請けとして煎海鼠、串鮑、蒲鉾の煮染めた物を出し、茶を点て仕廻し、
時宜を述べて各々立ち帰った。

道すがら、道恵の作意について彼らの褒貶はまちまちであったが、その中で千田主水が難じたのは
「今日の茶請けは潔くなかった。不時の作意も無く、ただ残り物の類を出されたようで、気分が
良くない。道恵の茶湯には奥ゆかしさがない。」

そう言うと、聞いた人は皆是に同意した。
このような事は茶湯に限らず、時により人により、よくよく遠慮があるべき事である。

備前老人物語



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/23(火) 16:39:36.11 ID:l3tNfJO0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3557.html
千利休と親しい侘茶人


蒲鉾そのまま出すと前もって来ることを知ってたな
と言われるし
煮染めにすると残り物みたいだと言われるし

602 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/23(火) 21:21:11.16 ID:vk/HjP/K
こうして、京都市街の住民は不意の来客、ことに好まざる相手に対してはぶぶ漬けを出す様になったと言う。
(民明書房刊『日本全国県民性起源』より)

あの鉄砲は狭間くばりといって

2021年02月21日 19:09

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/21(日) 17:35:22.72 ID:jMSoTC5v
大阪冬の陣の時、寄手は西南北東、大方軍勢が揃った所に、城中より大小の鉄砲を、つるべ放ちに
事も夥しく撃ち出した。

これに諸方の寄手は色めきあったが、このような所に古田大膳(重治)殿の家中にて、高禄を受け
日頃は用に立つ人と聞こえている老武者が、鉄砲の音に驚き、
「大将に御物具まいらせよ!各々覚悟せよ!」
と勧めたため、物に慣れない若者たちは、「すわ、敵が出てくるのか!?馬よ、物具よ!」と
罵りひしめき、上を下へと騒ぎ立てた、

このような所に、先手の組頭である森次郎兵衛原十兵衛の二人が馳せ来た。
「これは何事に騒いでいるのか!?狼狽えたことを申して、大将をも驚かし参らす事、
沙汰の限りである!
あの鉄砲は狭間くばりといって、城攻めの時の大法である。この事を大将に申されよ。
何れも心安くして、静まり候へ!」

そう言い捨てて、それぞれの持ち口に帰っていった。

この森次郎兵衛は戦場において、度々の高名があった中にも、三木城攻めの時、太閤、その時は
羽柴筑前守殿と云って、付城をなされたが、敵の別所方より押し返して来た所に、次郎兵衛が
走り出て、門を支えさせ、合い鑓を合わせて追い払った。その振る舞いが比類無かったため、
筑前守殿より召され、陣羽織を手づから給わった。

また原十兵衛稲葉一鉄に仕えていた時の手柄、また八王子にて度々比類なき働きが有った。
後には森内記(長継)殿に仕えたという。

備前老人物語



すなわち鬮取りにされたという

2021年02月06日 17:58

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/06(土) 14:53:10.50 ID:CAEJcein
大阪冬の陣の時、伊勢の大将であった本多美濃守(忠政)殿の陣屋に、組の人々を集めて、
天王寺表での、それぞれの陣場の配置を渡した。

その時、古田大膳(重治)殿は病気で、家来の原十兵衛が名代として来ていた。
十兵衛は陣場の割付、地形、剣難を見渡して
「このような御割付については、ひとまず大膳に申し聞かせないことには請け取ること出来ません。
願わくば鬮取りにて仰せ付け下されますように。」
と申した。

この言葉に、本多殿は以ての外に腹立たれ、あれこれと議論したが、十兵衛は少しも臆せず
「いかに仰せられましても、この分にては請け取れません。」と申しきったため、話が進まず、
その場も苦々しい様子に見えた所に、分部左京(光信)殿が進み出て十兵衛に向かい

「其の方などの身として、美濃守殿の御言葉を言い返すなど、慮外千万、沙汰の限りであるぞ。」
と戒められ、また美濃守殿に向かい

「十兵衛の申す所は、一途に己の主人を大事に考えていることで、その身分を忘れ、御前を憚らず
慮外を申し上げたのだと思います。それを思召し分けられ、御赦免なされ、鬮取りを仰せ付けられれば、
十兵衛にとっても当座の面目、一代の名誉となるでしょう。」

そう、理を尽くして申すと、本多殿も機嫌を直し、すなわち鬮取りにされたという。

この原十兵衛は、後に森内記(長継)殿の家に仕えたという。

備前老人物語



潔きこと誰がこの上に立てようか

2020年05月14日 17:22

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 06:05:02.71 ID:s3NizvQB
本巣郡山口の城主は、

古田左金吾安長、安長弟の同吉左衛門長宗、長宗弟の同兵部少輔長政、長政子の同織部正長脇(古田織部)。

この城は昔、梶原平三景時の居城であった。当城に居住した折に、この場所の鴨を取って頼朝に献上したと
『東鑑』に見えている。また文治(1185~1190)の頃、判官義経を来振寺で調伏したという。この
事は五大尊寺にあるなり。

さてまた古田吉左衛門は羽柴秀吉に仕えて、播州三木の城攻めの折に討死した。その子に古田兵部少輔長幸
(重勝)と二男の大膳大夫長盛(重治)という2人がいた。慶長5年(1600)、勢州松坂の城主となり
6万石を領した。その後、兵部少輔は病死した。

その時に6歳の狐子(古田重恒)がいたが、将軍家康公より大膳大夫に兄の跡目を相続し、兵部少輔となる
ようにとの旨仰せがあった。大膳が承って申すには「有難き上意でございますが、狐子を成長させて父の名
ですので兵部少輔と名乗らせ申したいのです」との由を望んだ。家康公は聞こし召して「今の世には希なる
者かな」と感じなさった。

狐子がようやく成長すると、父の挙具を残らず目録をもって元和6年(1620)の頃に渡し、もちろん6
万石の地をも付与して、自身は物寂しき様子で江戸に住んだ。潔きこと誰がこの上に立てようか。稲葉内蔵
助(道通か)・一柳監物(直盛)なども兄の跡目を名代として相続したが、いずれも古田に及ばないという。

――『美濃国諸旧記』

ちなみに美濃国諸旧記は寛永末から正保中(1624~1648)の成立と言われるが、正保3年に古田騒
動が起こり、その後の慶安元年(1648)に重恒は狂気により自殺したという。



173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 14:43:51.84 ID:rbOONCHf
重治とご内室の不義の子だもんな
真実を知って気狂いしたんだろ

冥加尽きて逆心があった

2019年08月29日 17:22

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 16:48:58.29 ID:idWAWTqs
古田織部は家康公の御意に入り、御懇意だった茶道者である。そのうえで古田は度々功名があった。
しかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。

御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。

古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。

――『烈公間話』



古田織部などでもあろうか

2019年08月13日 14:52

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/13(火) 13:55:02.76 ID:Pv9b1yua
千利休は同子の道菴(道安)と古田織部について、細川三斎(忠興)が「貴老が五百八十年後
(長寿した後)に果てなさったとして、以後天下の茶湯指南は誰なのでしょう」と問うた時、

利休は答えて曰く、「世倅の道菴は働いた茶湯である。しかしながら人柄が悪い(然トモ人柄
悪シ)。天下の指南はなるまい。古田織部などでもあろうか」と申したという。果たしてその
如くである。

――『烈公間話』



逆心がある故か

2019年08月08日 17:39

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/08(木) 01:18:17.75 ID:Z1L+3mDB
古田(織部)はまた家康公より逆心の御咎めがあった時に、申し分仕ったならば助かり申す
こともあったけれども、「この上で申し分は見苦しい」と申し分なく切腹した。これを時の
数寄者は感心したという。

身に誤りが真に無いのならば、申し分があっただろう。逆心がある故か、大坂城内へ内通の
罪だという。

――『烈公間話』



大阪の陣の頃の流行り色々

2018年07月03日 21:43

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/03(火) 21:31:20.04 ID:XBNxngP4
大阪の陣の頃、数寄屋道具に織部焼と言って、厚手にして青黒い薬をかけた茶碗を用いていた。
上下ともに、その道具にて円座を敷き、茶を点てることが流行した。

その頃、馬道具などは大小名から下々まで、紫、または紅の大房の尻懸が流行っていた。
刀脇差の鞘は、のし付きの金銀、又は朱鞘などが用いられていた

(長澤聞書)

大阪の陣の頃の流行り色々


見れば明日も生きていけるって思うCMです。

2016年10月30日 20:58

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 16:10:43.00 ID:zMfwUGF6
ちょっといい話でも何でもないけど見れば明日も生きていけるって思うCMです。

https://www.youtube.com/watch?v=37Fy8w5aNpI

織部事件

2016年05月16日 15:30

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/15(日) 23:38:21.49 ID:g0H9Yewj
大阪夏の陣が始まろうっとしていた慶長20年(1615)4月28日の昼、京都一条岩神に住む町人の
岡村喜左衛門という具足師が二条の京都所司代へと参り、

「神泉苑の傍に、怪しき者十余人が隠れています。」

との情報を板倉勝重に伝えた。これにより板倉は雑色を先に立て、与力10騎、同心20人を派遣し、
16人ほどを捕縛した。

板倉が彼らを糾明すると、その賊の中の一人で、年寄りの者が白状した。

「我々は、将軍が28日に御出陣と承りました。その時洛中に火を放つべきことを大野と約を定め、
私は十余人ほどを引き連れ京に潜伏しましたが、未だに御出陣の沙汰無く、このため仲間たちは皆々
落ち失せ、今はこの16人だけとなってしまいました。
ここ一両日は食に飢労し、体力も無くなっていたため、動くことも出来ずこのようにやみやみと
縄に懸かってしまったのです。
哀れと思し召され、御慈悲を以って、どうか生命をお助けください。」

これを聞いて板倉は
「下臈の事であるかあら、有体を申すにおいては上に伺い命を助けよう。
しかし、ここ一両日飢えていたというのはよく解らない。なにか買い求めて食おうとしなかったのか?」

「いかにも、代物があれば買い調えたでしょう。しかし一銭の貯えもなかったのです。」

「それは不審な事だ。このような大事を思い立つ者が、どうして用意をしていないのか?」

賊、重ねて言った
「我々も最初は、二十日あまりの計画を立て金銀を用意していましたが、
古田織部正の茶道である宗喜と友人でありますので、彼と合図を定め、城中に狼煙を上げるのを見れば
所々に火をかけると約束し、一両日分だけの糧を貯え置いたのです。
残りの者達は皆、古田織部正に従いました。」

この言葉に板倉は驚愕した
「お前は宗喜と何の由縁があるのか!?」

「博奕の友です。」

「博奕で、初めて出会ったのか?」

「いいえ、十年来の友人です。」

板倉は彼から篤と証言を聞いたうえで宗喜を捕え、双方を監禁し、この旨を言上した。
これによって古田織部正も、その後切腹を仰せ付けられたという。

(新東鑑)



「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」

2016年01月28日 12:51

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 08:10:08.01 ID:mxjf220e
古田織部正は、古くから伝わる器などが完全に保存されているのを、「あまりに思うところがない」として
好まなかった。されば、書画のような物でも、かしこを切りここを裁ち、普通の茶道具も、多くは破損させ
或いは砕いて、それを再び補修し、継いで用いた。世の人々はこれを興あることと思い真似たため、
世の中から全き物は無くなってしまうようであった。

松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、古田織部について近くの人々に、
「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」と言っていた。
後年、織部は罪を蒙って誅せられた。
人々は大いに驚き、久綱に聞いた
「あなたはどうして、織部があのようになると知っていたのか?」

「古の宝器と聞こえた物も、世々の乱に多くは紛失し、現在まで残っている物は、皆神仏によって
護持されていたからこそ、このように世に残ったのです。それを、己一人の好みに合わせて破損させると
いうのは、必ず鬼神の憎むべき行為でしょう。ならば、それをしている人もまた、身を全うして終わることを
得られない。そう思って言ったのです。」

これは名言であると、古き人の物語を承った。この事は萬に渡り心得あるべきだろう。

(藩翰譜)

必ず災いに罹りて死ぬべき者なり
※この話を参照した記事


47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 13:10:40.58 ID:WL2rLY7i
言いがかりだなぁ…
たまたま当たったからこうやって記憶にも記録にも残されてるけど
外していたらあっという間に忘れ去られているだろうよ。

安藤さんが本多正純の失脚を言い当てたのも同じようなもんだな。

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 13:15:29.13 ID:WL2rLY7i
織部のやつ怪しからんって思うのは個人の勝手だけど、織部には織部の思うところ(豊臣の存続?)があって

それの実現のために動いた結果、徳川政権と相容れなくなった。つまり結果論だろう。

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 13:23:35.17 ID:my13jaj9
DQN眼竜「ほんま名物壊すとかロクでもないな」

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 14:36:46.95 ID:jd9xfX/V
破袋みたいなゴミをありがたがってる織部の審美眼はかなり怪しいw

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 14:59:43.17 ID:nTarwUBU
審美眼は人それぞれだから何とも言えないけどわざわざ壊してまで好みに合わせるってのは凡人にはよく分からんなあ
自然に壊れたものに金継ぎしたり鎹打ったりしたものが味が出て喜ばれるってのなら分かる気もするけど

陣所割渡しの事

2014年12月17日 18:50

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/16(火) 22:02:37.52 ID:3TvIUqZA
大阪冬の陣の折のこと。

本多美濃守(忠政)は陣所割渡し方を仰せ付けられ、これによって天王寺方面の陣所を
諸大名へと割渡していた所、この方面軍の一人、古田大膳(重治)がこの時病気により、
家老の原十兵衛が受け取りにまかり出た。

ところが、古田家に割り当てられた陣所が至って難儀な地形であり、原十兵衛はこれをじっと見て
「このような難地であるなら、一応は主人大膳に申し上げた上でなければ受け取るとは申せません。
さりながら籤で決めるというのなら、ここで直ぐにお受け取り致します。」

これを聞いた本多美濃守は大いに立腹した
「上よりこの役儀を仰せ付けられた美濃守が割渡すというのに、かれこれ申すのは不埒である!」

しかし十兵衛は少しも屈せず
「何れから仰せ付けられた誰が割渡すと言われても、受け取る拙者が納得出来ない場所ならば
決して受け取り申さず!」

本多美濃守は自身の権威を挫かれたことに心中烈火の如く憤ったが、何と言うべき言葉もなく
甚だ見苦しい体であったため、この時、分部左京亮進み出て十兵衛に向かい

「その方、陪審の身でありながら美濃守殿へ言葉を返す事、慮外千万である!…ですが、」
美濃守の方を向き

「美濃守殿、この十兵衛の言葉は慮外とは申しながら主の為を思う心より出たものですから、その本心は
忠義であります。であれば、慮外を許され、再度籤によって割り当ての陣所を決めお渡しに成っては
いかがでしょうか。」

この言葉を聞くと美濃守も表情を和らげ、左京亮の言葉に従い「ならば籤で決めよう。」と、
籤によってそれぞれの持場を決め直し、割り当てを済ませた。

この事について、本多美濃守にはこの地所割渡しに関して依怙があり、権威を以って
押し付けてしまおうという所存で叱りつけたのであった。
しかし原十兵衛は依怙があることを察知して承知せず、強いて権威によって押し付けるのなら
美濃守を討ち果たして切腹せんと覚悟を決めて言葉を返したのである。
その決心は自然と顔に出ていたため、美濃守もそれを察し、怒っていても一言半句も出ず口ごもって
しまったのだ。

そこで分部左京亮は、美濃守の依怙には最初から心付いていたが、この時あまりにも見苦しい体であったので
気の毒に思い、また幕府の御威光にも関わることだと思ったので、中に入り事を済ませたのである。

この時、諸士は皆、原十兵衛を賞したそうである。

(明良洪範)




25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 11:47:14.99 ID:hVYyFq6L
親が親なら子も子だねえ

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 12:14:37.68 ID:JuL/FsgL
>>25
実父の古田重則や養父の古田重勝ってなんか逸話あったっけ?
古田織部の息子の古田重広と混同してる?

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 14:32:22.87 ID:FdCj3lmi
そっちじゃねえw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 15:53:02.49 ID:JuL/FsgL
本多忠政は忠勝の死後に弟の忠朝と相続争いをした際、家康から
「(決定に対して異議を唱えなかった)忠朝のほうが忠勝に似て
武将にふさわしい」と皮肉られたという逸話の持ち主だから、
他にも悪い逸話は色々ありそうな予感。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 16:45:05.76 ID:5RJcqGfR
幼少時に姉に弄られて鬱屈したのか?