391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/08(日) 23:38:00.53 ID:2KcbEuWw
さてさて、当流の他力信心の趣をよく聴聞して決定した人は、これがあるならば
その信心の通りをもって心底に収め置き、他宗他人に対して沙汰してはならない。
また路次大道や我々の在所などでも、あらわに人をも憚らずにこれを賛嘆しては
ならない。
次に守護地頭方に向かっても「自分は信心を得た」と言って疎略な事なく、ます
ます公事を全うすべし。また諸神諸菩薩をもおろそかにしてはならない。これは
(諸神諸菩薩が)みな南無阿弥陀仏の6字の内にこもっているが故である。
殊に、外には王法をもって表とし、内心には他力の信心を深く蓄え、世間の仁義
をもって本とせよ。これがすなわち当流に定めるところの掟の趣である。心得る
べきものである。あなかしこあなかしこ。
文明6年2月17日 これを書く。
――『蓮如上人御文章』
さてさて、当流の他力信心の趣をよく聴聞して決定した人は、これがあるならば
その信心の通りをもって心底に収め置き、他宗他人に対して沙汰してはならない。
また路次大道や我々の在所などでも、あらわに人をも憚らずにこれを賛嘆しては
ならない。
次に守護地頭方に向かっても「自分は信心を得た」と言って疎略な事なく、ます
ます公事を全うすべし。また諸神諸菩薩をもおろそかにしてはならない。これは
(諸神諸菩薩が)みな南無阿弥陀仏の6字の内にこもっているが故である。
殊に、外には王法をもって表とし、内心には他力の信心を深く蓄え、世間の仁義
をもって本とせよ。これがすなわち当流に定めるところの掟の趣である。心得る
べきものである。あなかしこあなかしこ。
文明6年2月17日 これを書く。
――『蓮如上人御文章』
583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 23:41:06.86 ID:riCaTj9j
1570年、本願寺顕如は全国の門徒たちに織田信長との決戦を呼びかける檄を飛ばした。
その後。信長が軍勢を率いて摂津河内に迫ってくると、その動きはすぐに本願寺側に
伝わった。信長軍の中にも一向宗の門徒が多数いたので簡単に情報が漏れたのである。
迎え撃つために富田や唐崎、西面、柱本、鳥飼、一津屋の門徒が集結し、彼らは
味舌下の明善寺の住職 正義坊と、その檀家の勘兵衛の指揮に従って戦うことになった。
門徒衆は本願寺から支給された槍を一本ずつ装備していた。指揮官の勘兵衛は
槍の扱いを教えようとはせず、「5人から6人の厚さでずらっと並ぶように」とだけ
指示した。門徒たちがその通りに5~6列で横並びになると、対峙する信長軍も
同じ5~6列の厚さで並んでじわじわと近づいてきた。
両軍が互いの顔を見分けることができるほど接近すると、教主の本願寺顕如は
陣中の大きな櫓にのぼって「国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓」
などと親鸞聖人の教えの正信偈(しょうしんげ)を唱え始めた。
正義坊と勘兵衛はその正信偈に合わせて槍を振り上げたり、振り下ろしたりするよう
門徒たちに命じた。すると、敵の信長軍の方から正信偈を唱える声が聞こえてきて、
その声に合わせて信長軍の兵士たちも槍を上げたり、下ろしたりする動作を始めた。
両軍がにらみあったまま、同じ動作を繰り返すばかりでぶつかる気配は見られない。
そのうち、信長が業を煮やしたのか、信長軍の方から法螺貝の音が聞こえてきて
さっさと退却していったので、その日の戦いは勝敗なしの引き分けになった。
これが後に正信偈合戦と呼ばれる合戦である。
本願寺側は敵軍が同じ一向宗の門徒ばかりで戦意がないのを見抜いて、あらかじめ
両軍とも戦うふりだけするよう根回ししていたのであった。
586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 11:24:11.01 ID:WanFXouX
>>583 の戦いで兵士が信長の指揮に逆らって怠慢行為をしたら、後で恐ろしい処罰を
受けそうだが、はたして大丈夫だったのか気になる
587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 22:06:47.53 ID:t8Zi+qo1
>>583
正義坊って90年台のアニメに出てきそう
590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:10:00.59 ID:4szgCXxf
>>583
あえて信長陣営に残ってかく乱する一向宗徒がたくさんいたんだろうな
そりゃ10年もかかるわ
595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:07:15.64 ID:m1+OhMdA
>>583 で紹介した「正信偈合戦」の話には続きと言える逸話が存在しているが、
内容がどちらかといえば悪い方の話だったので、「戦国ちょっと悪い話」のスレに載せました
596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/24(月) 00:21:08.78 ID:S0D4pHu3
戦場で両軍から南無不可思議光~法蔵菩薩因位時~
とか聞こえてくるのか。想像したらワロタ
548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:04:25.86 ID:m1+OhMdA
この話は「戦国ちょっといい話46」の >> 583 で紹介した「正信偈合戦」
の続きにあたる逸話である。
十年も続いた信長と本願寺の争いは和睦という形で一応の決着はついたが、
信長の方はそれで済ませるつもりはかけらもなかった。本願寺の側に属して
戦っていた摂津の人々が和睦成立後にそれぞれの村に帰って元の生活に戻った頃、
突如として信長軍が村々に襲撃を仕掛けてきた。信長軍の一番の目標は摂津近辺の
門徒を率いて戦った二人の指揮官、味舌下の明善寺の正義坊とその檀家の勘兵衛を
討つことであった。
襲撃を受けた村では一向一揆に加担したと見なされた村人が捕らえられ、次々と
命を奪われていった。その光景は凄惨で、流血の現場を「流れの馬場」、
死体を積み上げた場所を「しかばね谷」と呼ぶほどであった。
襲撃を事前に察知して運良く逃れた正義坊は、勘兵衛を連れて北の山へ落ちのびた。
「明善寺の正義坊は手ごわいぞ!」
信長は騎馬兵三千人に正義坊への追撃を命じた。正義坊たちは箕面の止々呂美という
ところで追いつかれ、檀家の勘兵衛が身代わりとなって捕まり、その場で殺されてしまった。
その後、勘兵衛がいた地元の明善寺周辺では亡くなった勘兵衛の霊を弔うために
供養塔を建て、念仏講をおこなった。無念講と呼ばれるその念仏講はこの時から
始まったそうである。
※出典 高槻物語(管理人調べ)
1570年、本願寺顕如は全国の門徒たちに織田信長との決戦を呼びかける檄を飛ばした。
その後。信長が軍勢を率いて摂津河内に迫ってくると、その動きはすぐに本願寺側に
伝わった。信長軍の中にも一向宗の門徒が多数いたので簡単に情報が漏れたのである。
迎え撃つために富田や唐崎、西面、柱本、鳥飼、一津屋の門徒が集結し、彼らは
味舌下の明善寺の住職 正義坊と、その檀家の勘兵衛の指揮に従って戦うことになった。
門徒衆は本願寺から支給された槍を一本ずつ装備していた。指揮官の勘兵衛は
槍の扱いを教えようとはせず、「5人から6人の厚さでずらっと並ぶように」とだけ
指示した。門徒たちがその通りに5~6列で横並びになると、対峙する信長軍も
同じ5~6列の厚さで並んでじわじわと近づいてきた。
両軍が互いの顔を見分けることができるほど接近すると、教主の本願寺顕如は
陣中の大きな櫓にのぼって「国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓」
などと親鸞聖人の教えの正信偈(しょうしんげ)を唱え始めた。
正義坊と勘兵衛はその正信偈に合わせて槍を振り上げたり、振り下ろしたりするよう
門徒たちに命じた。すると、敵の信長軍の方から正信偈を唱える声が聞こえてきて、
その声に合わせて信長軍の兵士たちも槍を上げたり、下ろしたりする動作を始めた。
両軍がにらみあったまま、同じ動作を繰り返すばかりでぶつかる気配は見られない。
そのうち、信長が業を煮やしたのか、信長軍の方から法螺貝の音が聞こえてきて
さっさと退却していったので、その日の戦いは勝敗なしの引き分けになった。
これが後に正信偈合戦と呼ばれる合戦である。
本願寺側は敵軍が同じ一向宗の門徒ばかりで戦意がないのを見抜いて、あらかじめ
両軍とも戦うふりだけするよう根回ししていたのであった。
586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 11:24:11.01 ID:WanFXouX
>>583 の戦いで兵士が信長の指揮に逆らって怠慢行為をしたら、後で恐ろしい処罰を
受けそうだが、はたして大丈夫だったのか気になる
587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 22:06:47.53 ID:t8Zi+qo1
>>583
正義坊って90年台のアニメに出てきそう
590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:10:00.59 ID:4szgCXxf
>>583
あえて信長陣営に残ってかく乱する一向宗徒がたくさんいたんだろうな
そりゃ10年もかかるわ
595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:07:15.64 ID:m1+OhMdA
>>583 で紹介した「正信偈合戦」の話には続きと言える逸話が存在しているが、
内容がどちらかといえば悪い方の話だったので、「戦国ちょっと悪い話」のスレに載せました
596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/24(月) 00:21:08.78 ID:S0D4pHu3
戦場で両軍から南無不可思議光~法蔵菩薩因位時~
とか聞こえてくるのか。想像したらワロタ
548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:04:25.86 ID:m1+OhMdA
この話は「戦国ちょっといい話46」の >> 583 で紹介した「正信偈合戦」
の続きにあたる逸話である。
十年も続いた信長と本願寺の争いは和睦という形で一応の決着はついたが、
信長の方はそれで済ませるつもりはかけらもなかった。本願寺の側に属して
戦っていた摂津の人々が和睦成立後にそれぞれの村に帰って元の生活に戻った頃、
突如として信長軍が村々に襲撃を仕掛けてきた。信長軍の一番の目標は摂津近辺の
門徒を率いて戦った二人の指揮官、味舌下の明善寺の正義坊とその檀家の勘兵衛を
討つことであった。
襲撃を受けた村では一向一揆に加担したと見なされた村人が捕らえられ、次々と
命を奪われていった。その光景は凄惨で、流血の現場を「流れの馬場」、
死体を積み上げた場所を「しかばね谷」と呼ぶほどであった。
襲撃を事前に察知して運良く逃れた正義坊は、勘兵衛を連れて北の山へ落ちのびた。
「明善寺の正義坊は手ごわいぞ!」
信長は騎馬兵三千人に正義坊への追撃を命じた。正義坊たちは箕面の止々呂美という
ところで追いつかれ、檀家の勘兵衛が身代わりとなって捕まり、その場で殺されてしまった。
その後、勘兵衛がいた地元の明善寺周辺では亡くなった勘兵衛の霊を弔うために
供養塔を建て、念仏講をおこなった。無念講と呼ばれるその念仏講はこの時から
始まったそうである。
※出典 高槻物語(管理人調べ)
644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 21:38:25.49 ID:RkTmXovu
享禄五年八月、改元があり天文となった。
この年、一揆が起こり、細川晴元の衆と本願寺門徒たちとの関係が悪化し、
同年八月四日、晴元衆及び木澤左京亮長政方へ、一揆方より街道にて喧嘩が仕掛けられ
合戦に及ぼうとした。
これによりその日、晴元衆は堺の東、浅香の道場という本願寺門徒の寺とその近郷に放火した。
門徒衆は激怒し、大和、河内、和泉、摂津にて一揆を語らい、一斉に蜂起し、明けて五日には
堺に押し寄せ晴元を攻めた。
しかしこれに木澤長政は「何ほどの事があるか!」と、自身で斬って出て
「狼藉なり雑人ばら!一人も逃すまじ!」
そう防戦し、散々に蹴散らしたため、一揆勢は打ち負け、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに
逃げ散った。
直接に戦った相手に打ち勝って、木澤は気分良く帰っていった。
しかしあちらこちらで一揆は蜂起し、晴元は窮地に陥った。
同日、摂津に一揆が起こり池田の城へ攻めかかったが、これを落とすことが出来ず講話して
帰陣した。
このような中、近江の六角定頼は晴元の舅であったので、彼に味方し門徒の本拠である
山科本願寺へ押し寄せ攻めかかった。長原太郎左衛門、進藤山城守、馬渕源左衛門、横山と
いった者たちが先陣にて進み、一方の門徒たちも、諸檀那と共に、命を弥陀の名号にかけ、
ここを先途と防ぎ戦った。
このような時に、常に本願寺門徒と関係の悪かった法華衆廿一箇寺、並びに諸檀那が合同で
決起し、本圀寺、本能寺、妙願寺以下残らず軍勢を催し寄せ手に加わり、山科本願寺へ
新手を入れ替え入れ替え切り込んだ。
こうして、同八月二十四日、山科本願寺は遂に陥落し、一宇も残らず焼き払われた。
この寺は久しく門徒の渇仰していた場所であったから、財宝も山のごとく満々とあったが、
富貴の下に久しく居ることは出来ず、いまや一時の煙と成って燃え上がった。
そして寺に有った僧尼も尽く討たれた、真に無残な事どもであった。
上人(本願寺証如)は命からがら落ち延びた。
(足利季世記)
山科本願寺陥落について
享禄五年八月、改元があり天文となった。
この年、一揆が起こり、細川晴元の衆と本願寺門徒たちとの関係が悪化し、
同年八月四日、晴元衆及び木澤左京亮長政方へ、一揆方より街道にて喧嘩が仕掛けられ
合戦に及ぼうとした。
これによりその日、晴元衆は堺の東、浅香の道場という本願寺門徒の寺とその近郷に放火した。
門徒衆は激怒し、大和、河内、和泉、摂津にて一揆を語らい、一斉に蜂起し、明けて五日には
堺に押し寄せ晴元を攻めた。
しかしこれに木澤長政は「何ほどの事があるか!」と、自身で斬って出て
「狼藉なり雑人ばら!一人も逃すまじ!」
そう防戦し、散々に蹴散らしたため、一揆勢は打ち負け、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに
逃げ散った。
直接に戦った相手に打ち勝って、木澤は気分良く帰っていった。
しかしあちらこちらで一揆は蜂起し、晴元は窮地に陥った。
同日、摂津に一揆が起こり池田の城へ攻めかかったが、これを落とすことが出来ず講話して
帰陣した。
このような中、近江の六角定頼は晴元の舅であったので、彼に味方し門徒の本拠である
山科本願寺へ押し寄せ攻めかかった。長原太郎左衛門、進藤山城守、馬渕源左衛門、横山と
いった者たちが先陣にて進み、一方の門徒たちも、諸檀那と共に、命を弥陀の名号にかけ、
ここを先途と防ぎ戦った。
このような時に、常に本願寺門徒と関係の悪かった法華衆廿一箇寺、並びに諸檀那が合同で
決起し、本圀寺、本能寺、妙願寺以下残らず軍勢を催し寄せ手に加わり、山科本願寺へ
新手を入れ替え入れ替え切り込んだ。
こうして、同八月二十四日、山科本願寺は遂に陥落し、一宇も残らず焼き払われた。
この寺は久しく門徒の渇仰していた場所であったから、財宝も山のごとく満々とあったが、
富貴の下に久しく居ることは出来ず、いまや一時の煙と成って燃え上がった。
そして寺に有った僧尼も尽く討たれた、真に無残な事どもであった。
上人(本願寺証如)は命からがら落ち延びた。
(足利季世記)
山科本願寺陥落について
201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/04(月) 16:28:42.46 ID:FQvaBL80
下間頼広の出奔と栄転
下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。
その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。
ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。
しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。
一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。
――『播磨新宮町史』など
202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 00:41:44.16 ID:gmaXA5XC
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ
下間頼広の出奔と栄転
下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。
その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。
ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。
しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。
一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。
――『播磨新宮町史』など
202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 00:41:44.16 ID:gmaXA5XC
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ
155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/18(水) 23:52:15.99 ID:+WQhUVu9
本願寺ゆかりの名菓「松風」
京都山科に本願寺が建立され(文明十五年、西暦1483年)、
「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われた頃から本願寺に仕え、
供物や諸事に携わってきた亀屋陸奥(屋号は後年名乗る)は、
顕如上人の時代、元亀元年(1570年)に始まった織田信長と
石山本願寺の戦いの間も本願寺に従っていた。
織田の攻撃が激しくなるなか、糧道もしだいに閉ざされ
城内には食料が不足しはじめる。
そこで亀屋陸奥三代目大塚治右衛門春近が
試行錯誤して兵糧代わりとなる菓子を創製し、
この菓子は法城を守る門徒衆の貴重な食料として用いられた。
しかし、11年間続いた戦の趨勢は織田に傾き、
本願寺は織田と和睦することになった。
顕如上人は織田との和睦後に京都六条下間(しもつま)邸にて
「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」と歌を詠んだ。
この歌から「松風」銘を賜ったのが前出の菓子だった。
天正十九年(1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、
亀屋陸奥も御用達の御供物司として本願寺の寺内に移った。
そして「松風」はその後も作り続けられ、四百年余りの洗練をへて
現代まで続く名菓「松風」になったという。
ちなみにこのお菓子は司馬遼太郎の「燃えよ剣」「関ヶ原」にも
登場しているとのこと。
出典は「松風」の袋及び亀屋陸奥のウェブサイト
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 07:09:47.53 ID:v+zgn3ub
兵糧がなければお菓子を食べればいいじゃない byマリー・アントワネット
157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 09:40:39.71 ID:4sF6OMto
それって本当に元ネタあるんかね
ルソーの作り話なんかなあ
158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 10:12:29.15 ID:l2mT80Av
恵帝「米がないなら肉を食えばいいじゃない」
159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 14:13:43.77 ID:aXHq4YyQ
顕如と教如が菓子食いながら降伏する・降伏しないで言い争いしてたと思うと草
160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 14:54:05.81 ID:NFDi6Zt+
菓子だと思うから滑稽に感じるだろうけど、門主と新門がレーションやカロリーメイトで
食い凌ぎつつと置き換えると切迫感ある
161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 15:45:08.16 ID:EfOmYfAw
>>157
作り話だよ
162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 16:35:37.20 ID:u8m4c7Ry
水がないなら米で馬を洗えばいいじゃない
165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/20(金) 00:39:16.72 ID:eh/iMmQC
>>157
物の本によると、いろんな王族の女性に対する、庶民の暮らしをわかってないネタのテンプレだったとか
最後の女王であり、最後にこのネタを使われたせいでマリーのエピで固定化した。
本願寺ゆかりの名菓「松風」
京都山科に本願寺が建立され(文明十五年、西暦1483年)、
「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われた頃から本願寺に仕え、
供物や諸事に携わってきた亀屋陸奥(屋号は後年名乗る)は、
顕如上人の時代、元亀元年(1570年)に始まった織田信長と
石山本願寺の戦いの間も本願寺に従っていた。
織田の攻撃が激しくなるなか、糧道もしだいに閉ざされ
城内には食料が不足しはじめる。
そこで亀屋陸奥三代目大塚治右衛門春近が
試行錯誤して兵糧代わりとなる菓子を創製し、
この菓子は法城を守る門徒衆の貴重な食料として用いられた。
しかし、11年間続いた戦の趨勢は織田に傾き、
本願寺は織田と和睦することになった。
顕如上人は織田との和睦後に京都六条下間(しもつま)邸にて
「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」と歌を詠んだ。
この歌から「松風」銘を賜ったのが前出の菓子だった。
天正十九年(1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、
亀屋陸奥も御用達の御供物司として本願寺の寺内に移った。
そして「松風」はその後も作り続けられ、四百年余りの洗練をへて
現代まで続く名菓「松風」になったという。
ちなみにこのお菓子は司馬遼太郎の「燃えよ剣」「関ヶ原」にも
登場しているとのこと。
出典は「松風」の袋及び亀屋陸奥のウェブサイト
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 07:09:47.53 ID:v+zgn3ub
兵糧がなければお菓子を食べればいいじゃない byマリー・アントワネット
157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 09:40:39.71 ID:4sF6OMto
それって本当に元ネタあるんかね
ルソーの作り話なんかなあ
158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 10:12:29.15 ID:l2mT80Av
恵帝「米がないなら肉を食えばいいじゃない」
159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 14:13:43.77 ID:aXHq4YyQ
顕如と教如が菓子食いながら降伏する・降伏しないで言い争いしてたと思うと草
160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 14:54:05.81 ID:NFDi6Zt+
菓子だと思うから滑稽に感じるだろうけど、門主と新門がレーションやカロリーメイトで
食い凌ぎつつと置き換えると切迫感ある
161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 15:45:08.16 ID:EfOmYfAw
>>157
作り話だよ
162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 16:35:37.20 ID:u8m4c7Ry
水がないなら米で馬を洗えばいいじゃない
165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/20(金) 00:39:16.72 ID:eh/iMmQC
>>157
物の本によると、いろんな王族の女性に対する、庶民の暮らしをわかってないネタのテンプレだったとか
最後の女王であり、最後にこのネタを使われたせいでマリーのエピで固定化した。
873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 00:30:33.54 ID:P1EoTL2m
淀川沿いの溝杭の目垣という地に佛照寺という立派な寺があった。本願寺蓮如が淀川を渡って
河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。
ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ
和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
淀川沿いの溝杭の目垣という地に佛照寺という立派な寺があった。本願寺蓮如が淀川を渡って
河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。
ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ
和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 21:12:46.19 ID:z6dKr0bm
蓮如の北陸への浄土真宗の布教は、講による組織化が成功し瞬く間に広まった。
しかし門徒の勢力が拡大するに連れ、念仏の寄り合いでも平気で酒を飲み魚鳥を食すなど
他宗の物忌を一切無視する門徒たちと、既存宗派との摩擦は大きくなり、これは既存の宗教勢力と
つながりの深い諸語など支配勢力との摩擦も生んだ。
双方の相克が強まる中、北陸の本願寺派の中心、越前吉崎御坊の多屋衆は、文明5年(1473)ついに
守護などへの明確な対決姿勢を決議した。
以下、その有名な決議文である。
『右、我々がここ両三年のあいだ、この当山(吉崎)において今まで忍耐してきたのは、
名誉や利益を目的としたものではなく、栄耀栄華を事ともせず、ただ願うことは極楽往生の為ばかりであった。
その様な中、当国(越前)、加賀、越中の内の土民、百姓以下等において、その人々の一生は、徒に罪業を作って
一善を修養する機会もなく、空しく三途(亡者の行く地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちており、これは非常に
不幸なことであった。
幸いにも弥陀如来の本願は、誠にもって現在、今の状況に相応しい要法である上
その布教は、偏に念仏往生の安心を勧める以外の目的はないのに、最近の牢人衆による遠征の事について、
様々な(一向宗yがこれに関わっているという)雑説を申され、言語道断、迷惑の次第であり、不運の至、
悲しみもなお余りあるほどである。
このような状況により、心静かに念仏修行をしようとするその在所においてすら、もし要害を構築しなければ
一切の諸魔、鬼神(敵対勢力)に(吉崎御坊を滅ぼす)機会を与えてしまうので、我々は深く要害を
構築したのである。且つこれは盗賊への用心のためでもある。
その他の理由は全くないのだ!
だが、万一、そういう事であっても、現在の状況で我々に無理な要求をしてくるというのなら、
我々同篇(同士)の間では、念仏を唱えて順次往生を遂げて死去することも、また道理に外れた苦難に逢って死去するのも、
共に以前世の業の結果であると理解している。
そうである以上、仏法のために命を惜しんではならない!
合戦すべきだということを、先日諸人一同で評定し、衆議により議決したのだ!
文明五年十月(欠)日 多屋衆』
しかし蓮如はこの多屋衆の決議を批判し、翌文明六年五月十三日の御文でこのように諭した
『そもそも国においては守護方、所にあれば地頭方に対して、いかに我々が仏法を崇め信心を得た者であると言っても、
(彼ら支配層を)粗略にするようなことは、ゆめゆめあってはならないのだ。
むしろ、いよいよ租税や賦役にも熱心に従うべきなのだ。
その様に心得ている人をさして、信心発得して後生を願う念仏行者の手本というべきである。
これらはすなわち、仏法、王法を旨として守れる人と名付けるものである。』
このような中、更に翌年、文明7年(1475)8月21日、吉崎御坊は戦乱に巻き込まれて消失する。
永正3年(1506)には加賀一向一揆の軍勢を破った朝倉氏により、吉崎御坊は完全に破却され、廃坊となった。
戦乱に積極的に参加した、これがその結果であった。
北陸一向一揆をその中心として主導した吉崎御坊の「多屋衆決議文」と、その後についての事である。
412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 22:50:00.15 ID:P3KyvVlI
止め刺された相手が宗滴のじいさんじゃ運が悪いとしかいいようがない
413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 11:02:15.10 ID:cwtpUCSt
そりゃあ長年苦しめられた加賀一向一揆の本拠地なんだから
朝倉の方も出し惜しみはしないだろ。
414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 18:52:12.28 ID:f6RK1jDg
蓮如のためにやり過ぎてしまった結果、蓮如に破門された坊官がおったような
423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 15:57:02.06 ID:9nk2jk00
>>414
下間蓮崇さんだな
蓮如の北陸への浄土真宗の布教は、講による組織化が成功し瞬く間に広まった。
しかし門徒の勢力が拡大するに連れ、念仏の寄り合いでも平気で酒を飲み魚鳥を食すなど
他宗の物忌を一切無視する門徒たちと、既存宗派との摩擦は大きくなり、これは既存の宗教勢力と
つながりの深い諸語など支配勢力との摩擦も生んだ。
双方の相克が強まる中、北陸の本願寺派の中心、越前吉崎御坊の多屋衆は、文明5年(1473)ついに
守護などへの明確な対決姿勢を決議した。
以下、その有名な決議文である。
『右、我々がここ両三年のあいだ、この当山(吉崎)において今まで忍耐してきたのは、
名誉や利益を目的としたものではなく、栄耀栄華を事ともせず、ただ願うことは極楽往生の為ばかりであった。
その様な中、当国(越前)、加賀、越中の内の土民、百姓以下等において、その人々の一生は、徒に罪業を作って
一善を修養する機会もなく、空しく三途(亡者の行く地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちており、これは非常に
不幸なことであった。
幸いにも弥陀如来の本願は、誠にもって現在、今の状況に相応しい要法である上
その布教は、偏に念仏往生の安心を勧める以外の目的はないのに、最近の牢人衆による遠征の事について、
様々な(一向宗yがこれに関わっているという)雑説を申され、言語道断、迷惑の次第であり、不運の至、
悲しみもなお余りあるほどである。
このような状況により、心静かに念仏修行をしようとするその在所においてすら、もし要害を構築しなければ
一切の諸魔、鬼神(敵対勢力)に(吉崎御坊を滅ぼす)機会を与えてしまうので、我々は深く要害を
構築したのである。且つこれは盗賊への用心のためでもある。
その他の理由は全くないのだ!
だが、万一、そういう事であっても、現在の状況で我々に無理な要求をしてくるというのなら、
我々同篇(同士)の間では、念仏を唱えて順次往生を遂げて死去することも、また道理に外れた苦難に逢って死去するのも、
共に以前世の業の結果であると理解している。
そうである以上、仏法のために命を惜しんではならない!
合戦すべきだということを、先日諸人一同で評定し、衆議により議決したのだ!
文明五年十月(欠)日 多屋衆』
しかし蓮如はこの多屋衆の決議を批判し、翌文明六年五月十三日の御文でこのように諭した
『そもそも国においては守護方、所にあれば地頭方に対して、いかに我々が仏法を崇め信心を得た者であると言っても、
(彼ら支配層を)粗略にするようなことは、ゆめゆめあってはならないのだ。
むしろ、いよいよ租税や賦役にも熱心に従うべきなのだ。
その様に心得ている人をさして、信心発得して後生を願う念仏行者の手本というべきである。
これらはすなわち、仏法、王法を旨として守れる人と名付けるものである。』
このような中、更に翌年、文明7年(1475)8月21日、吉崎御坊は戦乱に巻き込まれて消失する。
永正3年(1506)には加賀一向一揆の軍勢を破った朝倉氏により、吉崎御坊は完全に破却され、廃坊となった。
戦乱に積極的に参加した、これがその結果であった。
北陸一向一揆をその中心として主導した吉崎御坊の「多屋衆決議文」と、その後についての事である。
412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 22:50:00.15 ID:P3KyvVlI
止め刺された相手が宗滴のじいさんじゃ運が悪いとしかいいようがない
413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 11:02:15.10 ID:cwtpUCSt
そりゃあ長年苦しめられた加賀一向一揆の本拠地なんだから
朝倉の方も出し惜しみはしないだろ。
414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 18:52:12.28 ID:f6RK1jDg
蓮如のためにやり過ぎてしまった結果、蓮如に破門された坊官がおったような
423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 15:57:02.06 ID:9nk2jk00
>>414
下間蓮崇さんだな
402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 00:03:01.42 ID:MjrB2RIo
じゃあ下間のほうの頼照(『よりてる』じゃなくて『らいしょう』だけど)さんの逸話も一つ
越前一向一揆の大将の最期
天正2年(1574年)の2月より加賀から押し寄せて越前を織田軍から奪い取った一向一揆であったが、
その一向一揆も翌天正3年(1575年)の夏には早くも織田軍の猛反撃に遭い壊滅した。
この越前一向一揆の主導者を務めた坊官の下間頼照は何とか織田軍の追手から逃れ、
越前から脱出しようとしていたが、執拗な捜索に阻まれ身動きが取れなくなっていた。
府中の近くにある茅屋に忍んでいた頼照は一揆軍が織田の軍勢に悉く探しだされて誅殺されているという
報告を受けると
恐怖で焦りが出たのか乞食の扮装をして破れた笠を被って褐衣を羽織って茅屋を飛び出し、
織田軍の目を欺きながら何とかして湊まで落ち延び、加賀へと戻ろうとしたのである。
しかし、頼照の命を狙っていたのは何も織田軍だけではなかった。
道中で本願寺と対立していた真宗高田派の僧たちに見つかってしまった頼照は乞食の恰好のまま
湊に辿り着く事もなく首を刎ねられ死んだ。
403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 11:49:08.69 ID:gDOTx3uD
狂犬にホイホイついていってしまうから・・・
404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 19:12:43.72 ID:XcyOepf0
狂犬が起こしたのは土一揆で一向一揆はまた後に起こったんじゃないか。
405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 19:56:25.92 ID:jo8XTKVg
長繁が起こした土一揆が、結局長繁と手を切って一向一揆化という感じ
406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 21:32:34.36 ID:zpokYFvn
長島の後だから越前でも徹底的にやったらしいねぇ、掃討。
まぁ長島と違って結束ガタガタで信長来る前から内紛してて信長来る頃には抵抗するような一揆衆も減ってたみたいだが。
407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 21:47:06.83 ID:Q6yXxDYQ
>>402
筑後が筑前ならぬ逐電しようとして失敗か
408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 21:50:30.01 ID:Oww+RKUu
越前は一揆後に本願寺から派遣された指導者層が強圧的な支配を試みて心が離れちゃったんじゃなかった?
派遣されたやつが張り切りすぎたのか本願寺が情勢を見誤ったのかはわからないけれど
じゃあ下間のほうの頼照(『よりてる』じゃなくて『らいしょう』だけど)さんの逸話も一つ
越前一向一揆の大将の最期
天正2年(1574年)の2月より加賀から押し寄せて越前を織田軍から奪い取った一向一揆であったが、
その一向一揆も翌天正3年(1575年)の夏には早くも織田軍の猛反撃に遭い壊滅した。
この越前一向一揆の主導者を務めた坊官の下間頼照は何とか織田軍の追手から逃れ、
越前から脱出しようとしていたが、執拗な捜索に阻まれ身動きが取れなくなっていた。
府中の近くにある茅屋に忍んでいた頼照は一揆軍が織田の軍勢に悉く探しだされて誅殺されているという
報告を受けると
恐怖で焦りが出たのか乞食の扮装をして破れた笠を被って褐衣を羽織って茅屋を飛び出し、
織田軍の目を欺きながら何とかして湊まで落ち延び、加賀へと戻ろうとしたのである。
しかし、頼照の命を狙っていたのは何も織田軍だけではなかった。
道中で本願寺と対立していた真宗高田派の僧たちに見つかってしまった頼照は乞食の恰好のまま
湊に辿り着く事もなく首を刎ねられ死んだ。
403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 11:49:08.69 ID:gDOTx3uD
狂犬にホイホイついていってしまうから・・・
404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 19:12:43.72 ID:XcyOepf0
狂犬が起こしたのは土一揆で一向一揆はまた後に起こったんじゃないか。
405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 19:56:25.92 ID:jo8XTKVg
長繁が起こした土一揆が、結局長繁と手を切って一向一揆化という感じ
406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 21:32:34.36 ID:zpokYFvn
長島の後だから越前でも徹底的にやったらしいねぇ、掃討。
まぁ長島と違って結束ガタガタで信長来る前から内紛してて信長来る頃には抵抗するような一揆衆も減ってたみたいだが。
407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 21:47:06.83 ID:Q6yXxDYQ
>>402
筑後が筑前ならぬ逐電しようとして失敗か
408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/10(月) 21:50:30.01 ID:Oww+RKUu
越前は一揆後に本願寺から派遣された指導者層が強圧的な支配を試みて心が離れちゃったんじゃなかった?
派遣されたやつが張り切りすぎたのか本願寺が情勢を見誤ったのかはわからないけれど
19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 18:11:18.08 ID:VAIjFSU7
今の岐阜県揖斐川町春日六合には、
「教如上人御清水潤いの水」と呼ばれる湧水が存在する。
この湧水は今から四百十二年前、教如上人が美濃で石田三成配下の兵に
追われていた時分に利用したことで知られている。
またこの際、狭い道を歩くため草鞋を脱いだ教如が石に足を突くとあら不思議、
何と石に足跡がくっきり残ったという。
そしてその石は御足跡石と呼ばれ下ヶ流遍光寺に現存している。
教如上人はこの一度の逃避行で
・辞世の句を記した鏡版
・「教如岩」と呼ばれる洞窟
・ゆかりの湧水
・足跡の残った岩
といったように、数々の「足跡」を現在に遺している。
逃げる東照大権現様にはさすがに及ばないものの、付近の民が
彼をそれだけ崇拝し縁を持ちたがった証拠といえるかもしれない。
20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 18:45:56.88 ID:SnkS2fIP
東のカリスマ権現さま 西のカリスマ教如はん
22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 20:17:51.21 ID:3mwhdrwn
「下のモン煽って一揆起こしたろけ?」て言いに行っただけで事蹟残っちゃうってなんだかなぁ
23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 20:53:25.09 ID:Wh2E6vYr
それを言えるだけの影響力がある人が実際に行くのは大変だろうからねえ
今の岐阜県揖斐川町春日六合には、
「教如上人御清水潤いの水」と呼ばれる湧水が存在する。
この湧水は今から四百十二年前、教如上人が美濃で石田三成配下の兵に
追われていた時分に利用したことで知られている。
またこの際、狭い道を歩くため草鞋を脱いだ教如が石に足を突くとあら不思議、
何と石に足跡がくっきり残ったという。
そしてその石は御足跡石と呼ばれ下ヶ流遍光寺に現存している。
教如上人はこの一度の逃避行で
・辞世の句を記した鏡版
・「教如岩」と呼ばれる洞窟
・ゆかりの湧水
・足跡の残った岩
といったように、数々の「足跡」を現在に遺している。
逃げる東照大権現様にはさすがに及ばないものの、付近の民が
彼をそれだけ崇拝し縁を持ちたがった証拠といえるかもしれない。
20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 18:45:56.88 ID:SnkS2fIP
東のカリスマ権現さま 西のカリスマ教如はん
22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 20:17:51.21 ID:3mwhdrwn
「下のモン煽って一揆起こしたろけ?」て言いに行っただけで事蹟残っちゃうってなんだかなぁ
23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 20:53:25.09 ID:Wh2E6vYr
それを言えるだけの影響力がある人が実際に行くのは大変だろうからねえ
923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:18:21.88 ID:MD1w7Emq
>>842の続き話。
関ヶ原合戦の直前江戸で家康に謁見し後の復権に大きく近づいた
教如上人であったが、その帰路に待ち構えていたのは人生最大級の受難であった。
家康に尾張まで送ってもらうまでは良かった教如一行だが、その先の美濃は
まだ完全に西軍の支配下にある。
散々慰留しようとした教如に逃げられた挙句内部情報を家康に
漏らされてしまった石田三成は、はっきり言ってキレていた。
(西軍が実は内通者の宝庫であり自身の手紙ですら東軍に流出しまくりだとは
夢にも思っていない)三成の怒り様は相当なものだったようで、
教如の帰還を知るや否や兵を送り、なんとまあ教如を殺しにかかったのだ。
墨俣の渡し場で石田勢と遭遇した教如一行はたまらず近くにあった光顕寺に
避難し、上人は本堂の須弥壇(しゅみだん)の下に潜り込んで隠れてかろうじて
追手の目を晦ました。
教如はこの時死をも覚悟したらしく、手近にあった鏡板(現存する)に辞世の句を書きつけている。
散らさじと森辺の里に埋めばや 影は昔のままの江の月
924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:19:11.58 ID:MD1w7Emq
ともあれ光顕寺ではかろうじて生き延びた教如上人だったが、まだまだ京への道は遠い。
ここで近郷の村・寺に教如の苦境が伝わると、無事に教如を帰すための
特別同盟が組織される事になった。
「土手組」(どろてぐみ)と呼ばれるこの集団は屈強な門徒八十二人からなる
精鋭部隊を組織して教如の護衛に付けると共に、道中の二十ヶ寺を拠点に提供した。
新たに彼らの助けを得て出発した教如一行は、西圓寺に入った。
ところがここでもすぐに石田方に所在が知れてしまい、またもや
寺に籠って戦いを繰り広げる事となってしまった。
「上人が危ない」
この情報を聞きつけた近郊の揖斐春日谷の住民たちは
急ぎ屈強な男衆二十七人を選り抜き西圓寺に向かわせたのだが、
こいつらの経歴がまた一段とすごい。
某右衛門「俺は石山本願寺に十年いたから、顕如様を見てるんだぜ」
某蔵「ふーん、俺は長い事長島に居たからよく知らねえなあ」
某右衛門「そういや長島じゃ大変な目にあったそうじゃないか」
某蔵「おうよ。信長が和議の約定を破った時はさすがにもうだめかと思ったぜ。
ま、無我夢中で暴れてみたらいつの間にか織田家一門衆を大量に討ち取った上に
脱出もできたんだけどな。いやあ人間、必死になりゃ何とかなるもんよ、がっはっは!」
…彼らは過去の一向一揆を肌で知っている猛者たちであり、身には襤褸(ぼろ)を纏って顔には鍋墨を塗り、
人とも鬼とも付かぬ異様の形相で得物を引っ提げて西圓寺に向かったという。
この時代至る所にいたであろうモンスターの一種である。
925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:22:10.03 ID:MD1w7Emq
モンスター農民VS西軍の激戦が西圓寺で行われるなか、寺内では一計が案じられた。
西圓寺の住職の容貌が教如と似ている事を利用し、住職が「身代わり教如」となったのだ。
身代わり教如が東へ走る隙に、本物の教如は門徒に背負われ北へと逃げて行った。
身代わり教如は追手に追いつかれ死んでしまったが、本物の教如はひたすら逃げ回った。
身代わりの首を見て偽物である事に気づいた三成は激怒し、尚も百余り人の兵に追跡させる。
街道筋をくまなく押えられた教如は進退に窮まり、国見岳中腹の岩窟に身を隠した。
現在は教如岩とも呼ばれているこの岩窟で教如は数日間隠れ、村人たちの捧げる粗食で
かろうじて命をつないでいた。
まさしく踏んだり蹴ったりの教如であったが、九月十五日には三成が関ヶ原で敗北。
虎口を脱する事ができた教如は村で休養を取った後、国見峠から長浜を経由して京に帰還する。
一連の戦いで土手組の勇士八十二人のうち十九名は命を落としたが、彼らが命を懸けて
守り通したした上人は、後に再び法主として返り咲くことができた。
彼らには供養塔が、そして上人の身代わりとなった西圓寺住職には太鼓塔が建てられ、
現在でも祀られ続けているという。
926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:36:24.62 ID:/y6VeIcN
誰か歌の意の解説お願いします
927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:45:08.17 ID:/WaaTE0C
石山長島生き残りの一向門徒ってムチャクチャ強そうw
宗教信者ってより歴戦の傭兵みたいなものだったろうし
928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 18:22:59.26 ID:ki6yvYI/
北斗の拳に出てくる南斗の中途半端な拳使う大男とかのイメージ
929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 19:03:53.68 ID:LF71Jdc7
そう考えると
かのヒャッハー富田さんが700の兵で3万の一向宗を蹴散らしたのって相当やばい事だよな
正規兵と互角に戦ってるような連中を・・・
930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 20:48:44.58 ID:7QCKMaGX
和睦破りの攻撃(恐らく後の信長の和睦破りはこの報復)とはいえ氏家ト全殺して、柴田勝家もやりかけた
一揆勢のベテランだからなぁ……。
931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 20:54:52.41 ID:MD1w7Emq
>>926
正しいという保証はありませんが…
川の上から照らす昔と変わらぬ月の光を、
方々に掻き消えてしまわないように森の辺りに埋めてしまいたい…
というのが直接的な解釈。
実はこの和歌が記された光顕寺周辺は森部と呼ばれている事から、
「森辺」と「森部」が掛っていると考えられます。
従って自分は、江の月の光が教如自身でありその自分がこの森部で散る(死ぬ)ことの
ないよう、須弥壇の下といわず地中までも潜り込みたい、という
切羽詰まった状況の描写の意味を込めているのかなと捉えています。
932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 21:34:48.31 ID:/y6VeIcN
>>931
ありがとうございます
散らさないように森に埋めたのに、なんで影(江に浮かぶ月?)があるのかわかりませんw
仏教的な寓意が込められた歌なのですかね?
935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 21:55:40.59 ID:wvINmDXU
揖斐から小谷をショートカットする国見峠を通った時に
確かに教如ゆかりのようなものがあったなあ
ちょっと道から外れてたから通り過ぎたけど
森辺は前田利家が織田家への帰参が叶う活躍をした森部の戦いの地だな
937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 22:03:41.33 ID:CijZPTMV
坊さんが埋まるていうから信西かと思ったわ
940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 22:39:13.89 ID:MD1w7Emq
>>932
古語では「影」は「光」を意味します。
そのため「月の影」はそのまま月光を意味すると考えて差し支えないかと。
941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:10:29.19 ID:h1Qqt6Oo
つか何でそんな無理して帰ろうとしてるんすか…ちょっと待ってりゃ良いものを。
本気で一揆やる気だったのか?うーん怖い怖い。
942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:16:57.25 ID:MtlzuaqH
ちょっと待ってる間に西軍が勝っちゃったらもっとヤバいからじゃないか。
943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:19:30.68 ID:W9oqS2v7
1日で終わるとは誰も思ってなかったんだろ。
>>842の続き話。
関ヶ原合戦の直前江戸で家康に謁見し後の復権に大きく近づいた
教如上人であったが、その帰路に待ち構えていたのは人生最大級の受難であった。
家康に尾張まで送ってもらうまでは良かった教如一行だが、その先の美濃は
まだ完全に西軍の支配下にある。
散々慰留しようとした教如に逃げられた挙句内部情報を家康に
漏らされてしまった石田三成は、はっきり言ってキレていた。
(西軍が実は内通者の宝庫であり自身の手紙ですら東軍に流出しまくりだとは
夢にも思っていない)三成の怒り様は相当なものだったようで、
教如の帰還を知るや否や兵を送り、なんとまあ教如を殺しにかかったのだ。
墨俣の渡し場で石田勢と遭遇した教如一行はたまらず近くにあった光顕寺に
避難し、上人は本堂の須弥壇(しゅみだん)の下に潜り込んで隠れてかろうじて
追手の目を晦ました。
教如はこの時死をも覚悟したらしく、手近にあった鏡板(現存する)に辞世の句を書きつけている。
散らさじと森辺の里に埋めばや 影は昔のままの江の月
924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:19:11.58 ID:MD1w7Emq
ともあれ光顕寺ではかろうじて生き延びた教如上人だったが、まだまだ京への道は遠い。
ここで近郷の村・寺に教如の苦境が伝わると、無事に教如を帰すための
特別同盟が組織される事になった。
「土手組」(どろてぐみ)と呼ばれるこの集団は屈強な門徒八十二人からなる
精鋭部隊を組織して教如の護衛に付けると共に、道中の二十ヶ寺を拠点に提供した。
新たに彼らの助けを得て出発した教如一行は、西圓寺に入った。
ところがここでもすぐに石田方に所在が知れてしまい、またもや
寺に籠って戦いを繰り広げる事となってしまった。
「上人が危ない」
この情報を聞きつけた近郊の揖斐春日谷の住民たちは
急ぎ屈強な男衆二十七人を選り抜き西圓寺に向かわせたのだが、
こいつらの経歴がまた一段とすごい。
某右衛門「俺は石山本願寺に十年いたから、顕如様を見てるんだぜ」
某蔵「ふーん、俺は長い事長島に居たからよく知らねえなあ」
某右衛門「そういや長島じゃ大変な目にあったそうじゃないか」
某蔵「おうよ。信長が和議の約定を破った時はさすがにもうだめかと思ったぜ。
ま、無我夢中で暴れてみたらいつの間にか織田家一門衆を大量に討ち取った上に
脱出もできたんだけどな。いやあ人間、必死になりゃ何とかなるもんよ、がっはっは!」
…彼らは過去の一向一揆を肌で知っている猛者たちであり、身には襤褸(ぼろ)を纏って顔には鍋墨を塗り、
人とも鬼とも付かぬ異様の形相で得物を引っ提げて西圓寺に向かったという。
この時代至る所にいたであろうモンスターの一種である。
925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:22:10.03 ID:MD1w7Emq
モンスター農民VS西軍の激戦が西圓寺で行われるなか、寺内では一計が案じられた。
西圓寺の住職の容貌が教如と似ている事を利用し、住職が「身代わり教如」となったのだ。
身代わり教如が東へ走る隙に、本物の教如は門徒に背負われ北へと逃げて行った。
身代わり教如は追手に追いつかれ死んでしまったが、本物の教如はひたすら逃げ回った。
身代わりの首を見て偽物である事に気づいた三成は激怒し、尚も百余り人の兵に追跡させる。
街道筋をくまなく押えられた教如は進退に窮まり、国見岳中腹の岩窟に身を隠した。
現在は教如岩とも呼ばれているこの岩窟で教如は数日間隠れ、村人たちの捧げる粗食で
かろうじて命をつないでいた。
まさしく踏んだり蹴ったりの教如であったが、九月十五日には三成が関ヶ原で敗北。
虎口を脱する事ができた教如は村で休養を取った後、国見峠から長浜を経由して京に帰還する。
一連の戦いで土手組の勇士八十二人のうち十九名は命を落としたが、彼らが命を懸けて
守り通したした上人は、後に再び法主として返り咲くことができた。
彼らには供養塔が、そして上人の身代わりとなった西圓寺住職には太鼓塔が建てられ、
現在でも祀られ続けているという。
926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:36:24.62 ID:/y6VeIcN
誰か歌の意の解説お願いします
927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:45:08.17 ID:/WaaTE0C
石山長島生き残りの一向門徒ってムチャクチャ強そうw
宗教信者ってより歴戦の傭兵みたいなものだったろうし
928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 18:22:59.26 ID:ki6yvYI/
北斗の拳に出てくる南斗の中途半端な拳使う大男とかのイメージ
929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 19:03:53.68 ID:LF71Jdc7
そう考えると
かのヒャッハー富田さんが700の兵で3万の一向宗を蹴散らしたのって相当やばい事だよな
正規兵と互角に戦ってるような連中を・・・
930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 20:48:44.58 ID:7QCKMaGX
和睦破りの攻撃(恐らく後の信長の和睦破りはこの報復)とはいえ氏家ト全殺して、柴田勝家もやりかけた
一揆勢のベテランだからなぁ……。
931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 20:54:52.41 ID:MD1w7Emq
>>926
正しいという保証はありませんが…
川の上から照らす昔と変わらぬ月の光を、
方々に掻き消えてしまわないように森の辺りに埋めてしまいたい…
というのが直接的な解釈。
実はこの和歌が記された光顕寺周辺は森部と呼ばれている事から、
「森辺」と「森部」が掛っていると考えられます。
従って自分は、江の月の光が教如自身でありその自分がこの森部で散る(死ぬ)ことの
ないよう、須弥壇の下といわず地中までも潜り込みたい、という
切羽詰まった状況の描写の意味を込めているのかなと捉えています。
932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 21:34:48.31 ID:/y6VeIcN
>>931
ありがとうございます
散らさないように森に埋めたのに、なんで影(江に浮かぶ月?)があるのかわかりませんw
仏教的な寓意が込められた歌なのですかね?
935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 21:55:40.59 ID:wvINmDXU
揖斐から小谷をショートカットする国見峠を通った時に
確かに教如ゆかりのようなものがあったなあ
ちょっと道から外れてたから通り過ぎたけど
森辺は前田利家が織田家への帰参が叶う活躍をした森部の戦いの地だな
937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 22:03:41.33 ID:CijZPTMV
坊さんが埋まるていうから信西かと思ったわ
940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 22:39:13.89 ID:MD1w7Emq
>>932
古語では「影」は「光」を意味します。
そのため「月の影」はそのまま月光を意味すると考えて差し支えないかと。
941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:10:29.19 ID:h1Qqt6Oo
つか何でそんな無理して帰ろうとしてるんすか…ちょっと待ってりゃ良いものを。
本気で一揆やる気だったのか?うーん怖い怖い。
942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:16:57.25 ID:MtlzuaqH
ちょっと待ってる間に西軍が勝っちゃったらもっとヤバいからじゃないか。
943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:19:30.68 ID:W9oqS2v7
1日で終わるとは誰も思ってなかったんだろ。
567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 06:32:38.10 ID:c9VH0Kjr
天正10年5月末、石山本願寺を明け渡し紀州に逃れていた顕如に対して、信長が和睦の約束を
破って三千人の討伐軍を差し向けたとの知らせが深日(ふけ)の里の金乗寺に もたらされた。
金乗寺の門徒総代である了性が付近住民と協力して顕如が逃れるための時間稼ぎをすることになった。
了性は元々は右入道という武将であったが、武士の生き方に疑問を感じて一向宗門徒となった男で、
温厚な人柄と武芸・教養にすぐれていることで知られる人物である。
同年6月2日、了性は1800名ほどの門徒とともに強い風の吹く峠で待ち伏せし、風上から
大量の灰をばらまいて敵兵の目潰しをした上で、皆で崖の上から石を投げつけて戦った。この作戦は
功を奏して織田軍はいったん退却した。ところが、翌3日に陣容を立て直した織田軍が再び攻めてきた。
今度は布切れで目をおおって万全の対策をしていたため、灰の目潰し作戦は通用せず、たちまち
門徒たちは敗色濃厚になった。ところが、いきなり織田軍は全軍撤退していなくなった。昨日の6月2日に
本能寺が明智光秀の軍勢に襲撃され、織田信長が自害したとの知らせが織田軍に入ったからだ。
そんなことは知る由もない門徒たちは「阿弥陀様のご加護だ」「了性様のおかげだ」と喜び合った。
後に、灰をまいて織田軍を撃退した場所を灰賦峠(はいぶきとうげ)と呼ぶようになったそうである。
568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 07:04:49.78 ID:LKbIk1nm
はいはい、わかりました。
なんちて
569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 07:56:56.72 ID:JLUIdyL6
四国攻めの準備もしていたからそのついでに紀州攻めたとか?
深日の宗徒たちも迷惑な話しだな
571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 14:11:51.35 ID:zUJmFxTp
地元だがそんな話聞いたこともない……ソースは?
572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 15:40:46.06 ID:c9VH0Kjr
>>571
大阪伝承地誌集成という本に岬町の伝承として載っていた
573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 18:39:44.78 ID:Pdzssr0W
この話に似ている
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C0%D0%BB%B3%B9%E7%C0%EF
574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 18:59:11.49 ID:i3AsRaLp
史実だと、本能寺前の本願寺と信長の関係は良好で、
雑賀衆は四国攻めに船を提供していたりする。
顕如は石山本願寺退去後、すぐに和歌山駅前にある本願寺鷺森別院に移っているし。
本能寺前に信長と争っていた紀州の勢力は高野山。
575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:04:27.08 ID:y8nsyZbw
為政者vs宗教って、民衆の反発招きたくない為政者側からしたらあまり好ましくないもんな
宗教vs宗教となると、ものすごく悲惨なのは現代でも変わってないな
576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:05:48.52 ID:vfrypgz6
四国攻めの織田軍を見て勘違いした民衆の間で本願寺攻めの噂がたったりはあったかもな
577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:17:04.26 ID:i3AsRaLp
>>573の話だと、東本願寺と西本願寺の争いのために存在しない合戦を
捏造したわけだけど、>>567の話だと東西本願寺とはまるで無関係だから、
>>573の話から合戦話だけをもってきて、縁起話を作り上げた感じなのかな。
>>576
いや、民衆レベルの噂でもそれはないでそ。その軍勢に雑賀衆が参加しているわ、
紀州では顕如の警護に信長が兵よこしたりしているわ、高野山攻めやっているわだし。
天正10年5月末、石山本願寺を明け渡し紀州に逃れていた顕如に対して、信長が和睦の約束を
破って三千人の討伐軍を差し向けたとの知らせが深日(ふけ)の里の金乗寺に もたらされた。
金乗寺の門徒総代である了性が付近住民と協力して顕如が逃れるための時間稼ぎをすることになった。
了性は元々は右入道という武将であったが、武士の生き方に疑問を感じて一向宗門徒となった男で、
温厚な人柄と武芸・教養にすぐれていることで知られる人物である。
同年6月2日、了性は1800名ほどの門徒とともに強い風の吹く峠で待ち伏せし、風上から
大量の灰をばらまいて敵兵の目潰しをした上で、皆で崖の上から石を投げつけて戦った。この作戦は
功を奏して織田軍はいったん退却した。ところが、翌3日に陣容を立て直した織田軍が再び攻めてきた。
今度は布切れで目をおおって万全の対策をしていたため、灰の目潰し作戦は通用せず、たちまち
門徒たちは敗色濃厚になった。ところが、いきなり織田軍は全軍撤退していなくなった。昨日の6月2日に
本能寺が明智光秀の軍勢に襲撃され、織田信長が自害したとの知らせが織田軍に入ったからだ。
そんなことは知る由もない門徒たちは「阿弥陀様のご加護だ」「了性様のおかげだ」と喜び合った。
後に、灰をまいて織田軍を撃退した場所を灰賦峠(はいぶきとうげ)と呼ぶようになったそうである。
568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 07:04:49.78 ID:LKbIk1nm
はいはい、わかりました。
なんちて
569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 07:56:56.72 ID:JLUIdyL6
四国攻めの準備もしていたからそのついでに紀州攻めたとか?
深日の宗徒たちも迷惑な話しだな
571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 14:11:51.35 ID:zUJmFxTp
地元だがそんな話聞いたこともない……ソースは?
572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 15:40:46.06 ID:c9VH0Kjr
>>571
大阪伝承地誌集成という本に岬町の伝承として載っていた
573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 18:39:44.78 ID:Pdzssr0W
この話に似ている
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C0%D0%BB%B3%B9%E7%C0%EF
574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 18:59:11.49 ID:i3AsRaLp
史実だと、本能寺前の本願寺と信長の関係は良好で、
雑賀衆は四国攻めに船を提供していたりする。
顕如は石山本願寺退去後、すぐに和歌山駅前にある本願寺鷺森別院に移っているし。
本能寺前に信長と争っていた紀州の勢力は高野山。
575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:04:27.08 ID:y8nsyZbw
為政者vs宗教って、民衆の反発招きたくない為政者側からしたらあまり好ましくないもんな
宗教vs宗教となると、ものすごく悲惨なのは現代でも変わってないな
576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:05:48.52 ID:vfrypgz6
四国攻めの織田軍を見て勘違いした民衆の間で本願寺攻めの噂がたったりはあったかもな
577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:17:04.26 ID:i3AsRaLp
>>573の話だと、東本願寺と西本願寺の争いのために存在しない合戦を
捏造したわけだけど、>>567の話だと東西本願寺とはまるで無関係だから、
>>573の話から合戦話だけをもってきて、縁起話を作り上げた感じなのかな。
>>576
いや、民衆レベルの噂でもそれはないでそ。その軍勢に雑賀衆が参加しているわ、
紀州では顕如の警護に信長が兵よこしたりしているわ、高野山攻めやっているわだし。
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 22:06:34.06 ID:Ebh8BzY9
一向宗の話で関連して
永正の頃、加賀から越前に勢力の拡大を目指して一向一揆が侵入した。
扇動した坊主は「敵の方へ懸る足は極楽浄土へ参ると思え、引き退く足は無間地獄の底に沈むと思いて、
一足も退くべからず」と一揆勢を叱咤した。
対する朝倉氏は朝倉宗滴を大将として派遣、この軍勢を迎え撃つ。数で劣る朝倉勢は奇襲を決行し、
この一揆勢を打ち破った。
多くの一揆勢が討ち死にする中、扇動した坊主は加賀へ逃げ帰った。
寺へ戻ると、討ち死にした一揆勢の首領の女房が嘆き悲しんでいるので、
坊主は「ご主人の事なら悲しまれる事はない。きっと往生の素懐を遂げられたであろう」と声をかけた。
これに対して女房は「夫はあなたの教えを守って死にましたから往生は疑いなく、心配はしておりません。
ただ坊様が逃げていらっしゃったので無間地獄に堕ちられるのではと心配で、
それで泣いております」と答えた。
坊主は言葉を返すことができなかった。
一揆を扇動した坊さんのばつの悪い話。
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/24(土) 02:33:40.22 ID:1d7Dcbaa
20万の一揆勢蹴散らす宗滴さんは戦国最強
一向宗の話で関連して
永正の頃、加賀から越前に勢力の拡大を目指して一向一揆が侵入した。
扇動した坊主は「敵の方へ懸る足は極楽浄土へ参ると思え、引き退く足は無間地獄の底に沈むと思いて、
一足も退くべからず」と一揆勢を叱咤した。
対する朝倉氏は朝倉宗滴を大将として派遣、この軍勢を迎え撃つ。数で劣る朝倉勢は奇襲を決行し、
この一揆勢を打ち破った。
多くの一揆勢が討ち死にする中、扇動した坊主は加賀へ逃げ帰った。
寺へ戻ると、討ち死にした一揆勢の首領の女房が嘆き悲しんでいるので、
坊主は「ご主人の事なら悲しまれる事はない。きっと往生の素懐を遂げられたであろう」と声をかけた。
これに対して女房は「夫はあなたの教えを守って死にましたから往生は疑いなく、心配はしておりません。
ただ坊様が逃げていらっしゃったので無間地獄に堕ちられるのではと心配で、
それで泣いております」と答えた。
坊主は言葉を返すことができなかった。
一揆を扇動した坊さんのばつの悪い話。
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/24(土) 02:33:40.22 ID:1d7Dcbaa
20万の一揆勢蹴散らす宗滴さんは戦国最強
62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 14:01:05.83 ID:Iv38V+0w
織田信長を苦しませ続けた本願寺との戦い、所謂石山合戦の最終局面において、法主顕如は
朝廷の仲介による講和を受け入れた。にもかかわらずその息子、教如はこれに従わず
石山本願寺に残り猶も抗戦を続けた。
これを恨みに思った織田信長は本願寺の殲滅を決意。天正10年(1582)6月2日、突如として
顕如らが大阪から退去した紀伊の国鷺森に大軍を向かわせた!世にいう鷺森合戦の勃発である。
織田の大軍に完全に包囲され、顕如は慨嘆した
「このように信長の軍勢に取り巻かれたが、信長の怒りは無理も無い事で、これは当然の報復である。
ああ、本願寺の真の敵は信長ではなく、(講和の後も抵抗を続けた)教如だったのだ!」
そして自害を覚悟した。その時である!
何と言う事であろう、織田軍が一斉に退却して行くではないか!?
おかげで顕如たちは命を永らえた。だが、一体何が起こったのか!?
天正10年6月2日。そう、本能寺の変の起こった当日である。
この変の勃発を伝えられた織田軍は、急ぎ帰っていったのだ。
阿弥陀如来がお守りしてくれたのだろうか?本願寺はこうして、危うい所で滅亡から逃れたのである。
…と、この鷺森合戦ですが、実はこれ寛永15年(1636)に西本願寺より刊行された「本願寺表裏問答」という本で
捏造されたつくり話なのです。
実際の信長は、鷺森に退去した顕如一行の身の安全を保証し、才賀で当地の有力者である
鈴木孫一と土橋若太夫の紛争が起こると、わざわざ家臣を派遣して顕如達の警護をさせたほどでした。
この本の刊行当時、西本願寺と、教如によって始められた東本願寺との対立が激化し、西本願寺はこの話を
作ることで、「本願寺を滅亡の瀬戸際に追いやった教如に正当性はない!」と批判したのです。
実にくだらない話ですが、この鷺森合戦は後に陰徳太平記や明智軍記というような軍記物にも取り入れられ
あたかも実際にあった出来事のように語られてしまい、後々まで石山合戦のイメージ形成に
大きな影響を与えました。
そんな、つくり話が事実のように扱われてしまったお話。
63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 14:13:24.91 ID:PhWsnRKn
宗教って本当にくだらない…
織田信長を苦しませ続けた本願寺との戦い、所謂石山合戦の最終局面において、法主顕如は
朝廷の仲介による講和を受け入れた。にもかかわらずその息子、教如はこれに従わず
石山本願寺に残り猶も抗戦を続けた。
これを恨みに思った織田信長は本願寺の殲滅を決意。天正10年(1582)6月2日、突如として
顕如らが大阪から退去した紀伊の国鷺森に大軍を向かわせた!世にいう鷺森合戦の勃発である。
織田の大軍に完全に包囲され、顕如は慨嘆した
「このように信長の軍勢に取り巻かれたが、信長の怒りは無理も無い事で、これは当然の報復である。
ああ、本願寺の真の敵は信長ではなく、(講和の後も抵抗を続けた)教如だったのだ!」
そして自害を覚悟した。その時である!
何と言う事であろう、織田軍が一斉に退却して行くではないか!?
おかげで顕如たちは命を永らえた。だが、一体何が起こったのか!?
天正10年6月2日。そう、本能寺の変の起こった当日である。
この変の勃発を伝えられた織田軍は、急ぎ帰っていったのだ。
阿弥陀如来がお守りしてくれたのだろうか?本願寺はこうして、危うい所で滅亡から逃れたのである。
…と、この鷺森合戦ですが、実はこれ寛永15年(1636)に西本願寺より刊行された「本願寺表裏問答」という本で
捏造されたつくり話なのです。
実際の信長は、鷺森に退去した顕如一行の身の安全を保証し、才賀で当地の有力者である
鈴木孫一と土橋若太夫の紛争が起こると、わざわざ家臣を派遣して顕如達の警護をさせたほどでした。
この本の刊行当時、西本願寺と、教如によって始められた東本願寺との対立が激化し、西本願寺はこの話を
作ることで、「本願寺を滅亡の瀬戸際に追いやった教如に正当性はない!」と批判したのです。
実にくだらない話ですが、この鷺森合戦は後に陰徳太平記や明智軍記というような軍記物にも取り入れられ
あたかも実際にあった出来事のように語られてしまい、後々まで石山合戦のイメージ形成に
大きな影響を与えました。
そんな、つくり話が事実のように扱われてしまったお話。
63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 14:13:24.91 ID:PhWsnRKn
宗教って本当にくだらない…
776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 18:05:20.62 ID:J8aLuBdL
天正8年(1580)、長らく織田信長と戦っていた石山本願寺であったが、朝廷からの勅命による和議を受け入れ、
本願寺顕如は大阪からの退去に同意した。
ところがこれに断固として反対する集団があった。石山本願寺に籠っていた、雑賀、淡路からの傭兵たちである。
「我々は山越(傭兵に支払われる給与)で今まで妻子を養ってきた!そうであるのに急にここを退去せよというのは
我々にとって迷惑である!」
彼らがそういうのも最もであろう。ここを追い出されれば、自分たちはたちまち困窮してしまうのだ。
そこで彼らは石山本願寺の新門跡の教如を立て
「先ず(講和派の)本門跡(顕如)と北の方を城から出し、自分たちはこのまま大阪城(石山本願寺)に籠ろう!」
と主張した。
これに教如も同調し、石山本願寺は抗戦派が占拠する形となった。
そのため顕如とその北の方、そして下間、平井、矢木といった重臣たちは勅使にお礼を申し上げた上で
雑賀からの迎えの船にのり、4月9日に大阪を退出した。
まるで後の大阪の陣の最後を彷彿とさせるような、石山合戦再末期の、石山本願寺の様相である。
(信長公記)
780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 23:10:19.17 ID:RhUBYnRm
>>776
ちょうどセンゴクでやってるところだな
天正8年(1580)、長らく織田信長と戦っていた石山本願寺であったが、朝廷からの勅命による和議を受け入れ、
本願寺顕如は大阪からの退去に同意した。
ところがこれに断固として反対する集団があった。石山本願寺に籠っていた、雑賀、淡路からの傭兵たちである。
「我々は山越(傭兵に支払われる給与)で今まで妻子を養ってきた!そうであるのに急にここを退去せよというのは
我々にとって迷惑である!」
彼らがそういうのも最もであろう。ここを追い出されれば、自分たちはたちまち困窮してしまうのだ。
そこで彼らは石山本願寺の新門跡の教如を立て
「先ず(講和派の)本門跡(顕如)と北の方を城から出し、自分たちはこのまま大阪城(石山本願寺)に籠ろう!」
と主張した。
これに教如も同調し、石山本願寺は抗戦派が占拠する形となった。
そのため顕如とその北の方、そして下間、平井、矢木といった重臣たちは勅使にお礼を申し上げた上で
雑賀からの迎えの船にのり、4月9日に大阪を退出した。
まるで後の大阪の陣の最後を彷彿とさせるような、石山合戦再末期の、石山本願寺の様相である。
(信長公記)
780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 23:10:19.17 ID:RhUBYnRm
>>776
ちょうどセンゴクでやってるところだな
493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 13:34:29.14 ID:KZlNvCnY
戦国時代初期の播磨では、一向宗は固く禁じられていた。
赤松氏が禁教政策をとっており、その厳しさは、蓮如の跡を継いだ実如が
「総じて赤松と申す者は、御一宗に怨をなし、播磨一国の尼入道に念仏をさえ心安く申させぬ者にて候」
と嘆くほどであった。
そんな中、山科本願寺に何と赤松政則がやってきたのである。
実如は、敵対する大大名の当主の突然の訪問に驚きながらも、自らもてなしたのだが、政則は
機嫌を損ねて帰っていった。
「???」
訳がわからなくなる実如。
「えっ?なんで怒って帰ったの?そもそも何をしに来てたの??」
真相を調べるとこうであった。
赤松政則は実如秘蔵の名馬「ちぢみ栗毛」を欲しており、何度も譲り渡しを申し入れたが埒があかず、ついに
痺れを切らし、かくなる上は自ら貰い受けに出向かん!と本願寺を訪れたのだった。
しかし、取次の下間上野があの馬は実如が大変大事にしているものであるから、渡すなんてことありえないだろうと
判断して、政則がこれを欲しがっていることも、直談判するためにやって来たことも、実如には
一切伝えていなかったのだ。
これを知った実如は、下間の思慮の足りなさを叱り、
「播磨一国の尼入道が安心して念仏ができるようになるのであれば、名馬どころか、自分が売られても
惜しいとは思わない。」
と、周囲の反対を押し切って政則に「ちぢみ栗毛」を進呈した。
名馬の効果は覿面で、播磨での禁教は解かれ、一向宗は大いに広まったが、名馬を手にした政則は
間もなく病にかかり、命を落としてしまった。
(栄玄記)
494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 13:42:20.93 ID:2IPCdcl9
下げマンならぬ下げ馬
495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 13:49:35.08 ID:1GMLn5sr
的盧だったりして
497 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/06(火) 18:10:23.27 ID:3s40ZfNQ
どこがいい話・・
498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 18:17:38.80 ID:1GMLn5sr
>>497
結果的に偶然正則が死んだけど普通に『ちょっと』いい話でしょ
実如の対応はもちろん、正則にしたって和解のきっかけを求めてた政治的行動だろうし
余計な気を回した下間が空気読めなかったのがまずいだけ
499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 18:37:04.78 ID:3s40ZfNQ
>>498
額面通りに考えると口すら聞かない宿敵の馬を貰い受けようと
厚かましくも寺に乗り込んで手厚いもてなしを受けたが目的は達せず不機嫌で帰り
結局馬を送って和したものの(祟りで?)死んだって悪い話だろ・・。
出店の資料が本願寺の息がかかってる気がするけどw
500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 18:53:37.15 ID:1GMLn5sr
>>499
そういう解釈でも成り立つからそれはそれでいいけど、少なくとも実如のいい話としては
成り立ってるんだからそんな目くじら立てんでもええがな
501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 19:00:10.10 ID:3s40ZfNQ
>>500
戦国としてはいい話・・・なのか?って気もするけど、
目くじら立てたつもりはないんだが、スマソ
502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 19:40:11.32 ID:vM+SORV5
しかしちぢみ栗毛って名前は何だか卑猥だな
506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 19:58:17.68 ID:5n/Xdbo3
>>493
この人もなかなか面白い人だよな
自分で刀を打って褒美に与えたり、猿楽師を取り立てようとして追放されたりと
まさか赤松氏再興の旗印にした連中はこれほど濃い人物になるとは思ってなかったろうなw
507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 20:22:49.86 ID:VfstGE8H
赤松政則というと某戦国ゲームでネタにもならない低能力振り当てられてたイメージが強いんだよなあ
戦国時代初期の播磨では、一向宗は固く禁じられていた。
赤松氏が禁教政策をとっており、その厳しさは、蓮如の跡を継いだ実如が
「総じて赤松と申す者は、御一宗に怨をなし、播磨一国の尼入道に念仏をさえ心安く申させぬ者にて候」
と嘆くほどであった。
そんな中、山科本願寺に何と赤松政則がやってきたのである。
実如は、敵対する大大名の当主の突然の訪問に驚きながらも、自らもてなしたのだが、政則は
機嫌を損ねて帰っていった。
「???」
訳がわからなくなる実如。
「えっ?なんで怒って帰ったの?そもそも何をしに来てたの??」
真相を調べるとこうであった。
赤松政則は実如秘蔵の名馬「ちぢみ栗毛」を欲しており、何度も譲り渡しを申し入れたが埒があかず、ついに
痺れを切らし、かくなる上は自ら貰い受けに出向かん!と本願寺を訪れたのだった。
しかし、取次の下間上野があの馬は実如が大変大事にしているものであるから、渡すなんてことありえないだろうと
判断して、政則がこれを欲しがっていることも、直談判するためにやって来たことも、実如には
一切伝えていなかったのだ。
これを知った実如は、下間の思慮の足りなさを叱り、
「播磨一国の尼入道が安心して念仏ができるようになるのであれば、名馬どころか、自分が売られても
惜しいとは思わない。」
と、周囲の反対を押し切って政則に「ちぢみ栗毛」を進呈した。
名馬の効果は覿面で、播磨での禁教は解かれ、一向宗は大いに広まったが、名馬を手にした政則は
間もなく病にかかり、命を落としてしまった。
(栄玄記)
494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 13:42:20.93 ID:2IPCdcl9
下げマンならぬ下げ馬
495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 13:49:35.08 ID:1GMLn5sr
的盧だったりして
497 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/06(火) 18:10:23.27 ID:3s40ZfNQ
どこがいい話・・
498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 18:17:38.80 ID:1GMLn5sr
>>497
結果的に偶然正則が死んだけど普通に『ちょっと』いい話でしょ
実如の対応はもちろん、正則にしたって和解のきっかけを求めてた政治的行動だろうし
余計な気を回した下間が空気読めなかったのがまずいだけ
499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 18:37:04.78 ID:3s40ZfNQ
>>498
額面通りに考えると口すら聞かない宿敵の馬を貰い受けようと
厚かましくも寺に乗り込んで手厚いもてなしを受けたが目的は達せず不機嫌で帰り
結局馬を送って和したものの(祟りで?)死んだって悪い話だろ・・。
出店の資料が本願寺の息がかかってる気がするけどw
500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 18:53:37.15 ID:1GMLn5sr
>>499
そういう解釈でも成り立つからそれはそれでいいけど、少なくとも実如のいい話としては
成り立ってるんだからそんな目くじら立てんでもええがな
501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 19:00:10.10 ID:3s40ZfNQ
>>500
戦国としてはいい話・・・なのか?って気もするけど、
目くじら立てたつもりはないんだが、スマソ
502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 19:40:11.32 ID:vM+SORV5
しかしちぢみ栗毛って名前は何だか卑猥だな
506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 19:58:17.68 ID:5n/Xdbo3
>>493
この人もなかなか面白い人だよな
自分で刀を打って褒美に与えたり、猿楽師を取り立てようとして追放されたりと
まさか赤松氏再興の旗印にした連中はこれほど濃い人物になるとは思ってなかったろうなw
507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 20:22:49.86 ID:VfstGE8H
赤松政則というと某戦国ゲームでネタにもならない低能力振り当てられてたイメージが強いんだよなあ
419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 12:32:33.35 ID:MsxwqlMW
天文六年( 1537)、石山本願寺の法主・証如は困っていた。
京の将軍足利義晴より、『献金せよ!』との上意を受けたからだ。
無理な話であった。本願寺がそれまでの本拠地であった山科本願寺を攻め滅ぼされたのは
6年前の天文元年の事である。本願寺は未だそこからの再建途上にあり、はっきり言えば
財政がかつかつで、献金する余裕など無いのである。
証如はそれを理由に、献金の免除を懇願した。
しばらくして、証如のもとにこんな情報がもたらされた
『公方様(義晴)が、本願寺の態度に激怒している』
しかもそれだけではない
「彼の要脚のこと、進上せざれば御敵たるべし」
(献金の要請に応じないのなら、本願寺を将軍の『御敵』と認定するぞ!)
との意向を表明しているというのだ。
証如と本願寺指導部はこれに慌てた。先にも言ったように山科本願寺落城の記憶も
未だ生々しい時期である。将軍の御敵とされれば、今度こそ本願寺の存続が危ういかもしれない。
結局本願寺は無い袖を振りどうにかして金を集め、将軍への献金を行ったということである。
軽視されがちな室町将軍の、実際の権威というものが見えてくる逸話である
(天文日記)
420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 13:47:33.53 ID:2ON0MfmL
この頃の足利将軍の兵力ってどのくらいかな?
義輝の頃はろくに兵がいなくて将軍自ら孤軍奮闘してるんだよな
421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 13:56:31.21 ID:sC2nee+u
>>420
奉公衆(騎馬の旗本)が約2000なので、直属軍全体では1万前後。
ちなみに永禄の変で義輝は孤軍奮闘では無い。
不意打ちだったので数は多くないものの、その場にいた奉公衆の多くも義輝と共に抵抗し、
松永・三好三人衆の大軍相手に2時間以上戦い続けた。
422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:26:14.91 ID:8bNDRU9e
一万?落ち目の足利家にそんな大大名クラスの動員力があったのか?
従いそうなのは摂津・山城の一部の地侍くらいしか思いつかんが
423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:31:08.14 ID:2ON0MfmL
そうなのか義輝公が所有の名刀を畳に十数本突き刺して切れが悪くなると
交換して戦ったとか言う逸話を真に受けたから勘違いしてた
424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:52:25.51 ID:sC2nee+u
>>422
それに加えて足利将軍は京都市民を動員することも出来た。
実際に足利義昭が信長に対抗して二条城に立てこもった際には、京都市民は将軍の命により
信長派の人間を襲撃している。信長はそれに対抗するため京都郊外の村々に、年貢免除の条件で
洛中への一揆を要請してる。
何のかんので足利将軍には、最後まで大大名クラスの動員力があったと考えていい。
だからこそ京兆家や三好や織田にとって厄介だった。
425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 15:18:44.76 ID:1fGHnDqK
>>423
それはもうギリギリのとこだろ
本能寺みたいに連れてきた兵が少数だったらともかく自分家で・・・
426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 19:59:45.89 ID:1+nKOAXy
>>419
んー、確かこの山科本願寺の話は山科言継さんがかなり奮闘していたような
>>421
長慶が死んだ事は伏せられてたけど直ぐに義輝は二条城の改修を始めているから
ぶっちゃけ不意打ちって程じゃない、義輝自信も解っててやってる。
>>424
京都市民を動員ってそりゃ無茶
当時の足利義輝に三好長慶を凌ぐだけカリスマと人格が備わっていたら別だけど
それだけ権威は残ってたら何度も朽木に逃げないし一・二回目の長慶暗殺未遂は成功してるだろう。
正親町天皇が長慶の改元を優先した時点で京にいようが朽木にいようが長慶>足利だから
だから長慶が死んでから三好義継+久秀・長逸は義輝の殺害に踏み切った(他にも理由があるし)。
守護・守護代・豪族を自由に動かす事が出来た足利
本当の意味での動員力を持ってた将軍は足利義植(義材)で終わり。
厄介だったのは勿論足利の権威が残ってたからだけど何より脅威だったのは
義輝が死兵だったから、長慶唯一の判断ミス、と言いたい所だけど本当にどうしようもなかったなぁ。
天文六年( 1537)、石山本願寺の法主・証如は困っていた。
京の将軍足利義晴より、『献金せよ!』との上意を受けたからだ。
無理な話であった。本願寺がそれまでの本拠地であった山科本願寺を攻め滅ぼされたのは
6年前の天文元年の事である。本願寺は未だそこからの再建途上にあり、はっきり言えば
財政がかつかつで、献金する余裕など無いのである。
証如はそれを理由に、献金の免除を懇願した。
しばらくして、証如のもとにこんな情報がもたらされた
『公方様(義晴)が、本願寺の態度に激怒している』
しかもそれだけではない
「彼の要脚のこと、進上せざれば御敵たるべし」
(献金の要請に応じないのなら、本願寺を将軍の『御敵』と認定するぞ!)
との意向を表明しているというのだ。
証如と本願寺指導部はこれに慌てた。先にも言ったように山科本願寺落城の記憶も
未だ生々しい時期である。将軍の御敵とされれば、今度こそ本願寺の存続が危ういかもしれない。
結局本願寺は無い袖を振りどうにかして金を集め、将軍への献金を行ったということである。
軽視されがちな室町将軍の、実際の権威というものが見えてくる逸話である
(天文日記)
420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 13:47:33.53 ID:2ON0MfmL
この頃の足利将軍の兵力ってどのくらいかな?
義輝の頃はろくに兵がいなくて将軍自ら孤軍奮闘してるんだよな
421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 13:56:31.21 ID:sC2nee+u
>>420
奉公衆(騎馬の旗本)が約2000なので、直属軍全体では1万前後。
ちなみに永禄の変で義輝は孤軍奮闘では無い。
不意打ちだったので数は多くないものの、その場にいた奉公衆の多くも義輝と共に抵抗し、
松永・三好三人衆の大軍相手に2時間以上戦い続けた。
422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:26:14.91 ID:8bNDRU9e
一万?落ち目の足利家にそんな大大名クラスの動員力があったのか?
従いそうなのは摂津・山城の一部の地侍くらいしか思いつかんが
423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:31:08.14 ID:2ON0MfmL
そうなのか義輝公が所有の名刀を畳に十数本突き刺して切れが悪くなると
交換して戦ったとか言う逸話を真に受けたから勘違いしてた
424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:52:25.51 ID:sC2nee+u
>>422
それに加えて足利将軍は京都市民を動員することも出来た。
実際に足利義昭が信長に対抗して二条城に立てこもった際には、京都市民は将軍の命により
信長派の人間を襲撃している。信長はそれに対抗するため京都郊外の村々に、年貢免除の条件で
洛中への一揆を要請してる。
何のかんので足利将軍には、最後まで大大名クラスの動員力があったと考えていい。
だからこそ京兆家や三好や織田にとって厄介だった。
425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 15:18:44.76 ID:1fGHnDqK
>>423
それはもうギリギリのとこだろ
本能寺みたいに連れてきた兵が少数だったらともかく自分家で・・・
426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 19:59:45.89 ID:1+nKOAXy
>>419
んー、確かこの山科本願寺の話は山科言継さんがかなり奮闘していたような
>>421
長慶が死んだ事は伏せられてたけど直ぐに義輝は二条城の改修を始めているから
ぶっちゃけ不意打ちって程じゃない、義輝自信も解っててやってる。
>>424
京都市民を動員ってそりゃ無茶
当時の足利義輝に三好長慶を凌ぐだけカリスマと人格が備わっていたら別だけど
それだけ権威は残ってたら何度も朽木に逃げないし一・二回目の長慶暗殺未遂は成功してるだろう。
正親町天皇が長慶の改元を優先した時点で京にいようが朽木にいようが長慶>足利だから
だから長慶が死んでから三好義継+久秀・長逸は義輝の殺害に踏み切った(他にも理由があるし)。
守護・守護代・豪族を自由に動かす事が出来た足利
本当の意味での動員力を持ってた将軍は足利義植(義材)で終わり。
厄介だったのは勿論足利の権威が残ってたからだけど何より脅威だったのは
義輝が死兵だったから、長慶唯一の判断ミス、と言いたい所だけど本当にどうしようもなかったなぁ。
353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 22:21:46 ID:D+aWVsqZ
元亀元年(1570)の事
織田信長は明智光秀に相談をした
信長「西国の押さえになる城を畿内の中に作りたいんだけど、どこかいい場所知らない?」
光秀「それなら今本願寺がある摂津の石山なんていいですね。東は沼が多くて容易に近づけない、
西には海、北には大河がり、南は平原で駆け引き自由です。まあ難攻不落ですね。」
信長「おk。山科に替地くれてやるから本願寺から石山取り上げよう。」
柴田勝家「もしこれを断るようなら軍勢差し向けてあいつら皆殺しにしましょう!」
池田恒興 「恐れながらその使い、私に任せてください。1万の軍勢を率いて乗り込み、もし信長様の
言う事を聞かないなら、即座に攻め寄せて火攻めにし、石山を乗っ取ってやりますよ!」
信長「がっはっは、そうか。じゃあ恒興に頼んじゃおっかな~」
光秀「ストップ!ストーップ!いきなりそんな姿勢じゃまとまるものもまとまらないでしょ!下手に刺激して
戦になったら信長様のご威光にも関わりますよ!とにかくここは私に任せてください。」
信長「そうか?じゃあ任せた。」
光秀「と、いうわけで不破光治君、柳田出羽守君、信長様が石山の地を所望しているということを
本願寺に言ってきて。いいか?あくまで丁重に、下手に下手にお願いするんだぞ?」
不破&柳田「わかりましたー!」
─石山本願寺─
田代豊前「私は顕如様の家臣です。顕如様にお伝えすることがあれば、私がお取次ぎいたします。」
不破&柳田『なにこいつ!?信長様の使者に直答させないとか何様だよ!』
二人、心底ムカついた。そして
不破&柳田「信長公がこの地に城を築きたいと考えておられる。お前達には山科に替地が与えられる。
…ただし!もしこれを断ると言うのなら、大軍を持ってここを焼き払い、お前たちは皆殺しにする!
そう覚悟せよ!」
光秀の忠告、台無しであった。この恫喝と言うべき発言に石山の者達、驚くやら怒るやら
顕如は、後日返事をいたしますと使者を返し、紀州より鈴木飛騨守重幸(雑賀孫一)を呼ぶ
顕如「どうすればいいと思う飛騨守?家中の者達は使者の態度に激怒して主戦論一色なんだけど。」
鈴木「無理無理無理!今信長と戦うとか、滅亡すること間違いなしですよ!信長の方から山科に替地
くれるっていうのなら結構なことじゃないですか。おとなしく引き渡すべきです!」
顕如「飛騨守がそういうなら…」
顕如も納得したことに安心し、鈴木は紀州に帰っていった。
顕如「…って、飛騨守は言ってたけどどう思う?」
杉浦壱岐守「我々だけじゃなく、石山のものは全員、信長にここを渡すのは不承知です!
だいたいここは信長が欲しがるほどの要害の地なのですから、信長の大軍が攻め寄せても、何ほどの
ことがありましょうか!つーか明渡したら家中が納得しません。」
顕如「それじゃあしかたないな…」
顕如、信長の元に小倉民部を使者として送った
小倉「そんなわけで色々考えましたが、わざわざ石山の地に堅城を築くなんて西国の敵を恐れているみたいで、
信長公のご武勇も貶めるような話じゃないですか。なのでこの件、できれば無かった事に…」
ブッチン。信長、切れる
信長「坊主が知ったふうな口を聞くなーーーーーーーー!!!」
叫ぶと同時に刀を持って駆け下り、小倉の首を斬り落とした。
信長「大軍で石山を焼き尽くし、顕如を生け捕りにしないと気がすまぬ!」
これにより、後世言う石山戦争が始まる。
以上、「石山軍記」より、開戦までのお話。
354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 22:27:04 ID:uxLTmiwL
結果からいうと矢銭5000貫払わない方が良かったね
355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 07:28:32 ID:XSqw+wna
おいおい不破っちなにしてん、と思ったけど
こりゃどっちにしろ石山は明け渡してくれんだろうな
356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 07:56:40 ID:fIgw5Mwf
>>353
同じ使者でも一鉄さんはできる子
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-433.html
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 11:27:58 ID:y22iM0bS
だから不破さんは・・・
元亀元年(1570)の事
織田信長は明智光秀に相談をした
信長「西国の押さえになる城を畿内の中に作りたいんだけど、どこかいい場所知らない?」
光秀「それなら今本願寺がある摂津の石山なんていいですね。東は沼が多くて容易に近づけない、
西には海、北には大河がり、南は平原で駆け引き自由です。まあ難攻不落ですね。」
信長「おk。山科に替地くれてやるから本願寺から石山取り上げよう。」
柴田勝家「もしこれを断るようなら軍勢差し向けてあいつら皆殺しにしましょう!」
池田恒興 「恐れながらその使い、私に任せてください。1万の軍勢を率いて乗り込み、もし信長様の
言う事を聞かないなら、即座に攻め寄せて火攻めにし、石山を乗っ取ってやりますよ!」
信長「がっはっは、そうか。じゃあ恒興に頼んじゃおっかな~」
光秀「ストップ!ストーップ!いきなりそんな姿勢じゃまとまるものもまとまらないでしょ!下手に刺激して
戦になったら信長様のご威光にも関わりますよ!とにかくここは私に任せてください。」
信長「そうか?じゃあ任せた。」
光秀「と、いうわけで不破光治君、柳田出羽守君、信長様が石山の地を所望しているということを
本願寺に言ってきて。いいか?あくまで丁重に、下手に下手にお願いするんだぞ?」
不破&柳田「わかりましたー!」
─石山本願寺─
田代豊前「私は顕如様の家臣です。顕如様にお伝えすることがあれば、私がお取次ぎいたします。」
不破&柳田『なにこいつ!?信長様の使者に直答させないとか何様だよ!』
二人、心底ムカついた。そして
不破&柳田「信長公がこの地に城を築きたいと考えておられる。お前達には山科に替地が与えられる。
…ただし!もしこれを断ると言うのなら、大軍を持ってここを焼き払い、お前たちは皆殺しにする!
そう覚悟せよ!」
光秀の忠告、台無しであった。この恫喝と言うべき発言に石山の者達、驚くやら怒るやら
顕如は、後日返事をいたしますと使者を返し、紀州より鈴木飛騨守重幸(雑賀孫一)を呼ぶ
顕如「どうすればいいと思う飛騨守?家中の者達は使者の態度に激怒して主戦論一色なんだけど。」
鈴木「無理無理無理!今信長と戦うとか、滅亡すること間違いなしですよ!信長の方から山科に替地
くれるっていうのなら結構なことじゃないですか。おとなしく引き渡すべきです!」
顕如「飛騨守がそういうなら…」
顕如も納得したことに安心し、鈴木は紀州に帰っていった。
顕如「…って、飛騨守は言ってたけどどう思う?」
杉浦壱岐守「我々だけじゃなく、石山のものは全員、信長にここを渡すのは不承知です!
だいたいここは信長が欲しがるほどの要害の地なのですから、信長の大軍が攻め寄せても、何ほどの
ことがありましょうか!つーか明渡したら家中が納得しません。」
顕如「それじゃあしかたないな…」
顕如、信長の元に小倉民部を使者として送った
小倉「そんなわけで色々考えましたが、わざわざ石山の地に堅城を築くなんて西国の敵を恐れているみたいで、
信長公のご武勇も貶めるような話じゃないですか。なのでこの件、できれば無かった事に…」
ブッチン。信長、切れる
信長「坊主が知ったふうな口を聞くなーーーーーーーー!!!」
叫ぶと同時に刀を持って駆け下り、小倉の首を斬り落とした。
信長「大軍で石山を焼き尽くし、顕如を生け捕りにしないと気がすまぬ!」
これにより、後世言う石山戦争が始まる。
以上、「石山軍記」より、開戦までのお話。
354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 22:27:04 ID:uxLTmiwL
結果からいうと矢銭5000貫払わない方が良かったね
355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 07:28:32 ID:XSqw+wna
おいおい不破っちなにしてん、と思ったけど
こりゃどっちにしろ石山は明け渡してくれんだろうな
356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 07:56:40 ID:fIgw5Mwf
>>353
同じ使者でも一鉄さんはできる子
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-433.html
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 11:27:58 ID:y22iM0bS
だから不破さんは・・・