穂井田元清の虎狩りの話

2018年06月02日 18:26

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/02(土) 18:13:50.45 ID:gKbDChEG
朝鮮役での虎狩りの話題が出てるので毛利元就の四男、穂井田元清の虎狩りの話を…
>>967のように秀吉は朝鮮へ渡海する諸将に虎を狩る様命じ、朝鮮へ渡った穂井田元清も二頭の虎を生け捕りにして日本へ送った。
日本へ送られたこの虎は後に後陽成天皇の御前にも召し出されるほど人気であったと言う。
そんな人気が出る虎なんてひょっとしてでっかい猫みたいなものだったのではなかろうか?

https://i.imgur.com/9DhS1j7.jpg
https://i.imgur.com/k8x2b3o.jpg
9DhS1j7.jpg
k8x2b3o.jpg



969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:23:34.74 ID:f/1CtrpU
下の子、ちょっと腹が出すぎww

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:55:52.36 ID:BXsv5Oxs
孕んでんじゃね?

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 21:05:04.03 ID:FbZbFDG+
虎狩りと言えば立花家臣・米多比三左衛門の大虎・小虎のエピソードが有名だよな
それにしても立花家は墨縄といい有名な逸話が残る火縄銃が現存してるのは凄いなあ

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 17:53:15.18 ID:XENet+TR
>>971
前に柳川の御花で大虎・小虎の実物と親子の虎の歯が展示されてたな
小虎の方がちょっと短い銃だった
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その頃、芸州に毛利元就という人が

2018年04月07日 18:13

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/07(土) 17:03:13.59 ID:lWxpVVTl
その年、天文二十四年十月、改元ありて弘治元年となる。

長門国では大内殿を討った陶尾張入道(晴賢)の子息、阿波守(長房か?)がその威勢を
近国にまで広げ、主君である大内義長とも不和なり、これにより大内家中の重臣層、
相良、杉、内藤といった者達と、陶晴賢勢との紛争が起こるように成った。

その頃、芸州に毛利元就という人があった。彼は始め、大内義隆の被官であり、安芸国にて
武田刑部大輔信実と国を争っていたが、武田の家老である熊谷伊豆守信直が武田に背き、
毛利に一味したため、終に武田は自害し、安芸は毛利元就が一国平均に治めた。

その後、元就は出雲国尼子と合戦をし、この折大内殿より度々合力があった。
しかし義隆生害により毛利は強く不安を覚え、また大内重臣の内藤氏が元就の子息の縁者で
あったため、陶と対立する大内家老衆と毛利は一味し、諸境に出城を取り、陶晴賢勢と
戦争状態に入った。

陶の運が尽きたのは、彼が芸州宮島に攻め来たのを、弘治元年十二月朔日の夜に入って、
毛利は風雨、夜に紛れ襲来したため、陶晴賢勢は大混乱に陥り忽ち敗軍し、陶晴賢、同長房は
討ち死にし、陶の家老である三浦越中守は突撃して防戦を行ったものの、小早川隆景勢が
すぐに馳せ寄り、越中守を討ち取った。

こうして陶勢は尽く討ち取られ、さらに毛利勢は周防長門へ侵攻し勢いを振るい、
大内義長も長門国府の長福寺にて自害し、内藤下野守は同国勝山にて自害、陶五郎は
周防の富田若山にて自害、江良弾正、伊香賀左衛門は須々麿にて自害した。

毛利元就は、このように忽ちのうちに大内義隆の恨みを晴らし、周防長門の主となった。

(足利季世記)

色々史実とは異なるものの、畿内から見た毛利元就の勃興についての記事


新たに征服した地域を支配する際の注意点

2018年04月01日 19:25

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/31(土) 22:37:40.58 ID:oYtXoVs4
新たに征服した地域を支配する際の注意点


毛利元就は新たな地域を支配する際にこういう事を言っている。
「征服された地域の人々を侮ってはいけない。
そういう事をすると恨みをかう。」

元就は自分が征服された立場になってものを考えた。
だから元就は征服した地域に毛利家からだけ指導者を出さなかった。
その地域で毛利家に協力する者があれば積極的に登用した。

元就はこう考えていたからだ。
「毛利家からだけ支配者を出しても、地域の住民は従わない。
それは必ず新しい経営のやり方と古いやり方を比較するからだ。
もし同程度であったら絶対に昔のやり方を懐かしむ。
それだけ(当時)地域では支配者と住民の繋がりは深い。
これを破壊するよりむしろ抱き込んだほうがよい。」


武田信玄も信濃国について
「征服された直後の地域住民は昔の支配者を慕っている。
たとえ悪い支配者であっても必ず新しい支配者と比較していい感情をもたない。
武田家からいった者はわりをくう。
そのため武田家に協力する者があればどんどん抱く事が必要だ。」と同じような事をいっている。



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:06:08.00 ID:xEQom0Uz
>>738
策謀家の二人が言うと説得力がありますな…。

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:26:51.78 ID:f1hrGfA/
武田のほうは佐久攻めからの教訓でしょう

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:51:13.15 ID:rVTjiwnx
毛利も楽勝と見込んだ筈の厳島合戦後の防長経略で
一揆軍の妨害に手こずって大幅に計画遅延させられた苦い経験がある

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 15:11:47.64 ID:TSc5OARK
手のひら返しての陶攻めだし、靡かないのは仕方ないんじゃないのかな
ましてや1国人あがりだもの

三十人の墓

2017年11月04日 13:38

232 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 22:49:27.68 ID:lfiJSEc0
三十人の墓

広島市佐伯区の町中にある標高53mの海老山公園。
中世期には近隣の五日市城を居城とした宍戸備前守弥七郎元続(広島県北の宍戸氏でなく、厳島神主家の家臣である神領衆宍戸氏)
の支城があり、
当時は海に出た島城だった(現在近隣は埋め立て地となり住宅街の真っただ中)とも伝わる。
毛利元就と陶晴賢の合戦時、厳島に攻め込む直前の陶軍3万に攻め込まれた海老山城は
城主宍戸孫六以下30人の兵が討ち死に。死んだ30人の兵の亡骸は近隣住民により海老山に葬られ、墓石が作られたと伝わる。
https://i.imgur.com/FhteTPN.jpg
https://i.imgur.com/oCW5fJv.jpg
https://i.imgur.com/rhvuwgo.jpg
https://i.imgur.com/vGndI6B.jpg

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/04(土) 07:49:48.97 ID:gZX9IM+r
追記

神領衆宍戸氏とこの海老山城の落城について調べてみたけど、
広島県史の記載によると厳島神主家の配下である神領衆は毛利方と陶方に分かれ、
宍戸・野坂・栗栖・大野といった陶方についた神領衆は滅亡したという記述が有るようだったり、
厳島合戦の時、陶軍は山口の玖珂郡(現山口県岩国市)今津・室木の浜から500艘の船で厳島へ向かったとされているので、厳島合戦前に厳島から東北に10km位先にある海老山城を攻めるってのはちょっと疑問に思うんだけど、
実際のところはどうだったんだろうか?
https://i.imgur.com/XXEVtBR.png



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 08:32:36.87 ID:2m9NcCoW
海老山の宍戸も他の宍戸のうにじつは大内方についいてて毛利に攻め滅ぼされたとか

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/04(土) 08:51:44.61 ID:gZX9IM+r
>>236
https://i.imgur.com/emjyjgZ.jpg
もしかして:実は毛利がやった?

と、自分も思ったけど
Wikipediaの防芸引分や折敷畑の戦いの項を参照すると、吉川元春と熊谷信直の事前の調略や交渉が上手く進んで1日で佐東銀山城・己斐城・草津城・桜尾城の4城、厳島を押さえた。
と有るので、翌年まだ反毛利側の白井氏や離反した野間氏と陶水軍が東の仁保城奪回に何度か攻め込んだりしてるから、その折に海老山城でも戦が有ったのかもしれないですね

山口きらめーる255号より

2017年11月03日 20:59

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 05:23:44.99 ID:Do5pozMZ
途中送信しちまったい

http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

山口きらめーる255号より

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。主に毛利方で後世に書かれた軍記物では陶軍2~3万対毛利軍4~5千と語られるこの戦、
山口県史等に研究記載された話としては、戦死者は主に陶氏の家臣や山口県東部の周防国側の大内氏家臣、厳島神主家の家臣である神領衆の一部で
山口県西部に居た大内氏有力家臣の内藤氏や杉氏の参戦は無く実際の陶軍は1万居るか居ないかの戦力であったのでは無いかと言われている。
実際は軍記物で語られる様な兵数差が4倍を超える程の差は無く、毛利元就の軍が寡兵を持って自軍の数倍に値する陶軍を破ったと言うのは毛利側(で軍記物を書いたK川さんの)の誇張では無いか?
と言う悪い話



猛き武士の心をも和らぐるは

2017年10月26日 18:22

344 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 22:30:10.23 ID:Sc/A6gmx
毛利元就と陶晴賢の厳島合戦が終わって5~6日程した頃のこと。
厳島にて渡辺可性と言う者が捕らえられ、陶方の残存兵の後始末のため滞陣する元就の前に引き出された。元就は彼を見て

「この者は、先年私が山口へ下っていたとき、折々私の前へやって来た狂歌の名人じゃ。助けおいたとて、何として害を及ぼそうぞ」
とあって、召し出し
「これ可性、日頃たしなむところであろうが。狂歌一首、ただちに詠んでみせい。詠めたれば命助けようぞ」
と言った。可性は「かたじけのうございまする」と答え、すぐに

かけてしも頼むや毛利の締襷 命一つに二つ巻きして

と詠んだ。元就は、「この歌、それほどの秀逸ではないが、このような折にしては、よう詠んだ」と約束どおり可性の命を助けた。

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 22:30:23.26 ID:Sc/A6gmx
また、陶晴賢の同朋で、宗阿弥という者が生け捕られて、同じく引き出された。元就は彼を見て、
「この宗阿弥は普段から極めて大力の猛者と聞いておったが、何とやすやすと生け捕られて参ったことよな。将来の禍をなす者なるぞ。ただ一刻も早う殺せ。」
と言ったが、思い返し、また、
「それにしても、そちはこれまでたびたび武勇をあらわした。その名声の朽ちることをも顧みず、もしや命助かるかと、自害もせずに、こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。
さらば『命の惜しきは恥を思わず』という心を狂歌に詠め。そちも狂歌の名人と聞いたぞ」
と言った。宗阿弥が「かしこまりました」と申して、ただちに、

名を惜しむ人といふとも身を惜しむ 惜しさに代へて名をば惜しまじ

と詠むと、
「可性の狂歌よりは、はるかに勝れておる。助けおいたとて大事あるまい」
と、これも一命を助けたということである。「猛き武士の心をも和らぐるは和歌の徳なり」とはまことに名言である。
昔の大隈郡司の翁は「栲見るにぞ身は冷えにける」と詠んで罪を許され、藤原為明は「わが敷島の道ならで」と詠んで水火の刑を免れたが、
今の宗阿弥は「身を惜しむ惜しさ」と詠んで、一命を助かったのである。優雅な歌の世界は昔も今もその心は変わらぬものだと、当時の人々はこの歌を扇や畳紙に書いては、美談としてもてはやしたということである。
(陰徳太平記)



346 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 23:10:50.26 ID:BjysMpzj
>>345
>こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。

 .,'
    |. '、  \    `⌒iエ´ , イ
    |. '、   .',     ノ_,ィ ノ / /    ……出たわね。
    |  `''-、     ヽ二ノ /
  _,,-〈.\  '、 \   '⌒ /|、
     \ `"''-ニ,,_ `"''ー―くノ.|`"''
       .\     ̄ ̄ ̄ ̄ /

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 23:18:50.37 ID:VoDwP3CC
そうわよ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/26(木) 10:54:04.39 ID:zCLKuaFh
きたわね

349 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/26(木) 11:17:58.18 ID:klTjDjGs
>>345
北斗の拳終盤の王国編思い出した。
雑魚が宮廷作曲家に良い歌を作るから死刑
と、言ってる所にケンシロウが現れ宮廷作曲家を救うと、雑魚に助かりたいか?

350 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/26(木) 11:19:45.63 ID:klTjDjGs
なら歌ってみろ。雑魚歌う→駄目だな→雑魚爆死

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 11:05:06.42 ID:rCCUH/YG
美談なのか・・・?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 21:32:26.39 ID:wsgJKNCI
元就さん、子供には芸事も学問も不要、って言ってるわりには、
学問と和歌が大好きだよね。

353 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/27(金) 21:50:38.91 ID:8tT7Z6FC
>>352
既出のまとめから引っ張って来たんだが

『藝も要らず、能も要らず、遊も要らず、何もかも要らず。
ただ日夜共に、武略・知略・計策・調略を、工夫することが肝要なのだ。』

学問は否定していない様な…

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 22:03:24.93 ID:wsgJKNCI
>>353
ああ、すまん。
隆景さんの輝への説教の方だった。

赤川元保誅罰

2017年10月26日 18:20

184 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:13:35.86 ID:w2ASLYq0
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならがんじがらめにできるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

185 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:17:34.15 ID:E3GEJJbr
ちなみにこの最後に出て来る粟屋彦右衛門は幼名を源二郎と言い、既 十六歳の折に元就の命令で、元就の妾と密通した木原兵部少輔を討ち取った男でもある。

既出の逸話
毛利元就、妾のもとに忍ぶ男を
を参照。



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 20:41:48.26 ID:CcjnGyV8

そして子供の頃は賢将だったと書かれる輝元

毛利元就の正親町天皇即位の御料献上とその影響

2017年10月04日 19:08

279 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/03(火) 23:26:18.41 ID:PQQbOlsn
明治維新に影響をあたえた仰徳大明神(毛利元就


毛利元就は毛利家にとって神君として崇められていた。
徳川家康が東照宮大権現なら、元就は仰徳大明神である。

毛利家中興の英主といわれる重就は元就の遺訓をまとめて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
やがて幕末、藩士中村清旭は安政二年(1855年)元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
これは元就の勤王精神を長州に植え付けることとなった。
というのも毛利元就は永禄三年(1560年)に財政難の為、即位式が出来なかった正親町天皇の為に
即位の御料として銀四十八貫を献上し即位式を挙げさせてあげたのである。

これが前例となり毛利家だけは、他の大名と違い
年末年始はもちろん朝廷の吉凶時にさいしても、朝廷への進献が許されていた。
そして石見銀山を永久的に毛利家が支配する為に皇室御料所として寄進し、毛利家が管理者として実権を握った。
これにより秀吉が天下を取ったあとでも秀吉は石見銀山には中々手が出せなかった。


元就が天皇への勤王あつく(打算的勤王という人もいる。まあないとは言えないでしょうね)
こういった経緯もあり激動する情勢に長州藩では藩の方針を以下とした。

第一に天朝への忠節
第二に幕府への信義
第三に祖先への孝道

すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


高杉晋作は第二次下関戦争の為の挙兵での檄文で
「御先祖洞春公の御遺志を継がせられ御正義御遵守遊され候…」
「洞春公尊霊を地下に慰め御両殿様(藩主敬親、元徳父子)の御正義を天下万世に輝かし奉り…」と掲げた。

洞春公は元就の法名。
つまり元就を範に攘夷決行、王政復古を訴えたのである。

奇兵隊の最初の作戦は戦局には全く影響のない安芸郡山攻略。

目的は唯一つ、毛利元就の墓所の奪還である。



280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 23:34:11.14 ID:KBj7WAN5
大江広元の子孫が武家政権を倒して王政復古を図るとは
祖先は天皇と幕府の次だから気にしてなかったんだろうけど

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 10:51:49.08 ID:4vJxH0l7
すべては「そうせい!」の一言で

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 16:18:09.71 ID:Kbab0n5s
>>279-280
歴史の流れって面白いなー
毛利と島津が幕末にあんなことになるとは権現様でも気づくめぇ

本成りの瓜

2017年09月25日 18:14

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 14:19:47.02 ID:43DBT54k
毛利元就の頃、芸州に花信(果心)居士と号する幻術の上手が来たりて、様々な術をなした。
元就はこれを見物するため、舞台においてその術を為さしめた。

居士は術を行い、にわかに瓜を作るというものを成した。
少しの間に、種を撒き、発芽し、蔓がはい、実が成って見事な瓜となった。
「さらばこれを初めて味合うべし。本成りの瓜が味が良いので、本成りを切りました」
そう言って差し出した。

元就はこの言葉に、自分の諱「元就」と同じ音の「本成り」という、禁忌の言があることに気がついていたが、
ついにここより病に伏せ、逝去したのだと、そう語る人がいる。

(士談)

果心居士のこの話、松永久秀だけじゃなく毛利元就バージョンもあったとは



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:11:35.14 ID:PyXdbaOX
>>148
珍しすぎるパターンだ

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:31:39.07 ID:y/csvWWQ
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html
聊斎志異の「種梨」では梨で似たような話が

児玉は何故語らなかったのか

2017年07月21日 10:08

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 10:03:56.50 ID:WpG9uMxK
天正13年、羽柴秀吉による四国征伐の折、伊予金子城の籠城戦において、長宗我部方の藪内匠と、
毛利家の士、児玉三郎左衛門との槍合わせは、世の人が大変に話題にした出来事であった。

後に、本多佐渡守正信が児玉を招いて、その時の働きの様子を詳しく尋ねた事があった。
しかし児玉は「前後の次第を忘却してしまいました。」と言って、終に語らなかった。

その後、ある人が児玉に、何故語らなかったのかを尋ねた。児玉は

「藪内匠は、今ではその名が世上に流布している有名人である。彼が話した内容のとおりに
私も語れば、相違なく然るべしであろうが、もし私の言う所と創意があれば、人から褒貶もあり
よろしからぬ。

私は現在、武功を主張せねばならないような立場で江戸に来たわけではない。忘却したと言っても
失うものはない。また内匠について悪しざまな評判が立つのも本意ではない。」

正信もこれを後で聞いて、その志を深く感じたという。

(士談)


106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 13:34:57.53 ID:T5B68rgu
ヤブタクミ?

一日の間貸され候へ

2017年07月04日 12:10

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/04(火) 12:07:16.30 ID:Z7UEEGAF
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)



川通り餅の由来

2016年12月21日 17:28

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 07:20:38.66 ID:Ex3Uxlra
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg
FOegWlI.jpg




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 08:41:22.82 ID:TUG5wkvm
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:48:24.78 ID:YU7aAtsW
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:57:07.62 ID:YU7aAtsW
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 11:26:32.70 ID:Iy76MskG
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 12:01:41.46 ID:TUG5wkvm
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 16:15:04.15 ID:3vDWZHcv
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…

秀元は常人ではない。

2016年12月07日 17:28

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 03:49:39.97 ID:wYJHt4dP
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話

続き
この清水の作の脇差を帯び、




槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

2016年12月04日 10:29

382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 07:02:14.27 ID:sRqYOh7K
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。

隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

元就と隆元の近習頭の友情

2016年12月03日 20:56

371 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 09:23:58.64 ID:etEgTkDh
元就と隆元の近習頭の友情


坂新五左衛門と粟屋弥七郎は、具足祝の座敷で座配のことについて口論に及んで以来、
戦場では度々先を争うようになっていた。
あるとき、坂がたった一人でとある城の搦手へ回り、
敵と遭ったら一騎打ちするしかないような細道をすらすらと上って、
言葉戦から鑓戦にもつれ込もうとしたことがあった。
そのとき粟屋弥七郎は「なんてことだ。坂に出し抜かれた」と思ってすぐに追いかけて行き、
坂の鑓の石突を捉えて六・七間ほど引き摺り下ろし、自分はさっさと上っていく。
そこに坂がまた粟屋の鑓の石突をつかんで引き摺り下ろし、刺し違えようとしたのだが、
そばにいた者たちがしがみついて仲裁したので、どうにか事なきを得た。

それからというもの、いよいよ互いに憤りが収まらずに、負けじ劣らじと争っていたが、
槌山攻めの際、粟屋は吉川元春配下の新庄勢に紛れて共に抜け駆けし、鑓を合わせて坂にはそれができなかったのには理由があった。
坂は隆元の近習頭だったので、隆元の旗本を離れることができず、
また隆元より全軍に抜け駆け禁止の制法が固く出されていたので、
その軍法を諸士に対して触れ回る身として、坂がその掟を破ることはできなかった。
粟屋は元就の近習頭だったので、隆元の本陣から少し離れたところにいたこともあって、
槌山の切岸まで忍んで近づくことができた。

さて、坂新五左衛門は大樽を家臣たちに担がせると粟屋の陣所へと向かい、
抜け駆けの際に手負いとなり、療養のため寝込んでいる粟屋のところへと案内も通さずに乗り込んでいった。そして
「これまでは戦場において先を争ってまいりましたが、私は今回、
ご下知を守っていたのであなたに負けてしまいました。
これまでも、若い粟屋殿に対して、私の方が年長なのに争っていたのは情けなかったと思います。
今後はこれまでの遺恨を捨て、刎頚の交わりをしたく思います」と言って、
坂は自分の陣にも帰らず、粟屋の看病をした。
坂はこれまで何度も武名を上げてきたつわものなのだから、
たとえ今回は粟屋に遅れたといっても、その武名が傷つくことなどありえない。
坂の振る舞いに、「自分もこのように立派にありたいものだ」と感心しない者はいなかった。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 20:11:42.18 ID:vFOgTN/w
と言って傷口に塩を塗り込む強かさも兼ね備えていた

373 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 20:46:51.14 ID:cNzBp7tS
この坂新五左衛門は父親が元就の弟の相合元綱の謀反に加担した坂広秀なんだね
後には雷神立花さんとも戦ったりしてるのな

隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

2016年11月24日 14:35

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/24(木) 14:09:02.66 ID:BJS/7tYa
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

続き
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:14:06.21 ID:8D69oZrn
自殺したくもなるね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:52:23.92 ID:sw+eGJaZ
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事

2016年11月23日 14:08

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:51:29.00 ID:RkWuuHXG
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事


天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:55:15.20 ID:RkWuuHXG
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。


なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:20:45.99 ID:l4Jdq11w
お兄ちゃんの面子丸潰れ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:38:14.04 ID:TQklu1C2
抜け駆けはギャンブルだからね~成否が士気にかかわるのよ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 14:33:01.39 ID:h9ZIC5Bw
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 15:17:04.05 ID:88DTlVBL
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:51:33.76 ID:crbvyM3Z
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:56:49.00 ID:4exxIwvo
ボスの鶴の一声でフィニッシュ

340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 19:41:46.65 ID:88DTlVBL
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 22:10:29.64 ID:gNTnZHYo
またホモか…

342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 22:26:26.85 ID:88DTlVBL
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:09:07.43 ID:gNTnZHYo
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:46:02.15 ID:fRWdHM4A
そりゃそうだろとしか

大内勢、味方を討って手柄を得る

2016年10月22日 17:14

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)



238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)

松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

2016年10月21日 09:26

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 00:37:34.28 ID:rAcw/9qK
松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

 長村内蔵助が生きていたときに茶堂慈斎に語ったというのを、
人が聞き伝えて予に告げた。
さて慈斎もまた没して十余年、予もまた長村が話が耳に残っており、今顧念してみる。
 

 あるとき平戸の隣邑の唐津から商人が来て、その人がもたらした中に、古文書の廃紙が多かった。
長村はその中を取り調べると、
毛利元就の亭に茶会があったとき、松浦肥前入道(隆信)も参られ同伴致された』
『毛利の一族某の人に、誘引すべし』
といった書簡があった。
そんなものを長村が計らずすも獲たことは、誠に千載の奇遇であったと。

 道可公(松浦隆信)はその頃はわずかに小島の宰で、
元就は十州太守であり彼と比すれば、小大甚だしく異なっている。
それなのにかく大家の衆会に招かれなさたことは、
いかにも御武運高徳、下に伏しなされる輩ではないことを知っていたのだろう。

との話をしたそうだ。
長村の言葉を今思うと、この文書はどこにいったのであろうか。非常に惜しまれることだ。

(甲子夜話三篇)

さすが、元就
抜け目ないですね




元就、軍議の席次を巡って争う

2016年10月16日 15:38

216 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:19:22.67 ID:IWC7trJD
元就、軍議の席次を巡って争う

天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。

いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。

元就は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は

「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。

(陰徳記)

元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…

217 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:34:24.81 ID:IWC7trJD
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…

続き
大内勢、味方を討って手柄を得る