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10本の矢

2018年09月25日 18:12

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 21:18:19.80 ID:2iTomTC/
毛利元就はその死に臨んで、大勢あった子供を残らず集め、その子の数ほど矢を取り寄せて言った

「一本づつ折れば仔細無く折れるものだが、この多くの矢を一つに束ねれば、元々細いものでも
折れなくなる。お前たちは一味同心の思いを為して、親をさすがお前たちの親だと呼ばれるようにしてほしい。」

これが元就の遺言であったが、この時小早川隆景が言った
「何事も諍いは皆欲より出るものです。ならば欲を捨てて義を専らに守れば、兄弟の仲が不和になることは
有りえません。」

元就はこの言葉に大いに感じ入り、「皆隆景の言葉に従うように」と申したという。

(士談)

毛利元就の子供は9男3女の計12人だったらしいので、死んだ隆元と夭折した娘を除いても10人。
「3本の矢」どころか「10本の矢」だった、というお話。



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 23:23:50.17 ID:xGfV/vnq
小早川はそんなおためごかし言うより己の血を引いた世嗣ぎ作っとけよ
押しつけられた養子が後々大変なことしでかすぞ

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 16:06:55.21 ID:EGegIX+B
偉大な隆景叔父さんを見習って世継ぎを作らなかったのでその養子が押し付けられることになりましたとさ

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 17:36:07.34 ID:VoZ0j+ua
>>300
あいつのおかげで減封ですんだという見方も出来るんじゃね?
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南條兄弟寝返り

2018年07月29日 18:20

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 17:51:46.57 ID:Zeq2Dxw0
毛利家臣である南條伯耆守元続は、尼子氏の牢人である福山次郎左衛門(茲正)という者より、織田方への
寝返り工作を受けていた
「信長卿は武威日々に盛んにして、もはや肩を並べるものおりません。毛利家とても終には信長卿のために
滅亡するでしょう。そうなった時、毛利に属する輩は根は絶たれ葉を枯らすこと疑いありません。
早々に毛利一味の志を変じ、信長卿幕下に属されるべきです。」

このように利を責めて言うと、元続も尤もだとこれに同意し、兄弟である小嶋左衛門尉元清、そのほか
南條備前守、同九郎左衛門、山田越中守、以下家の子郎党を集め「この事如何か」と意見を聞いた所
何れも「この義、宜しいと思います。」と同意した。
そこで信長卿へ、「幕下に属し御馳走を遂げる」と、羽柴秀吉まで云い送った。

しかし、吉川元春はこの情報を察知し大いに怒り、南條家重臣である山田出雲守(重直)を芸州に呼び寄せた
「南條が心変わりしたこと疑いない!汝は知らぬのか!?」
これを聞いて山田は驚き、この事を些かも存しない旨、天神地祇を驚かせたと、起請を書いて差し上げた。

「然らば、南條兄弟に諫言を加え、この工作をした福山次郎左衛門を討ち取れ。」

元春のこの命に応じ、急ぎ伯耆に立ち帰ったところ、山田が安芸より急遽戻ってきたことを
福山次郎左衛門は心もとなく思った。そこで山田の館を訪ねてきた所を、出雲守は常よりも昵懇に
もてなし、過去のことについて物語などする中、傍に控えていた家臣の山田十右衛門へ目配せした。

十右衛門は打者の達者であった。彼は即座に抜き手で福山を切りつけた。
その刀を引かぬうちに、出雲守嫡子である蔵之介が続いて切りつけ、さしもの福山もやみやみと討たれた。

しかし、これを知った南條兄弟は山田出雲守の館に押しかけて来た。この時山田側には軍勢無かったため
戦うこと出来ず、一方の囲みを打ち破って芸州へと退いた。

(安西軍策)

天正4年に起こったとされる、南條兄弟寝返りについてのお話。


出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃか

2018年07月26日 20:05

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 17:11:37.47 ID:DAZzVT8a
尼子勝久の尼子再興軍が出雲に入って以来、城をかすめ取ること15城、その軍勢は六千余騎に及んだ。
そこに赤松の浪人たちも馳せ集まり、伯耆国岩倉の城を攻め取り、美作の蘆田、三浦、市といった一族も
これに一味した。毛利方は伯耆国の高田城には香川美作守、長左衛門大夫を去年から入れ置いていたが、
敵方に攻め囲まれ、日々攻め合いが止むことなかった。

また毛利家臣の福屋隆包は石見国に入ると、石見、その他所々で敵が蜂起したとの情報を得て、
長門国の下関、及び筑前国の立花に、この旨を日々注進した。これによって吉川元春小早川隆景
先ず出雲伯耆の城を落とすべきであると、米原平内兵衛を、高瀬城を堅固に守るようにと三百余騎を付けて
出雲へと向かわせた。彼らは石見の浜田に5日滞留し、「却って尼子に一味すべきである」と内通した。

また南條伯耆、山田出雲は下関勝山に在ったが、敵が羽衣石を囲むとの注進があったためこの両人を向かわせた。
南条は急ぎ羽衣石に入り、山田出雲は岩倉へ押し寄せ攻め落とし、敵63人を討ち取った。しかし山田家の家人も、
梶屋藤兵衛、林甚四郎、同又兵衛、長安神左衛門、谷川久充、その他中間8人が討ち死にした。

また福屋隆包が石見から帰ってきたが、その理由を聞くと、森脇市郎右衛門が立花より上がり石見に
到着すると三子山に立て籠もり、隆包の出した廻文を持たせ廻らせていた出家を見つけ出し搦め捕えて
獄門にかけたのだという。

筑前立花城攻めの陣中では、出雲伯耆はみな尼子に与したと聞こえ、多くの兵卒を出雲方面へ向かわせた。
この頃立花城攻めの兵もやや減ったため、一刻も早くこの城を攻め落とすべきと、一時攻めに
攻め寄せた。この勢いによって敵兵も防ぎかねている所に、「城を明け渡せば一命を助ける」と申し送ると、
城兵たちもその意に任せ城を明け渡した。彼らは全員一命を助けられ、士卒残らず大友の陣へと送られた。

(安西軍策)

永禄12年ころの、出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃかになっている毛利の様子。


天野隆重の方便

2018年07月25日 21:37

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:01:39.02 ID:EyEJGJF5
永禄12年、尼子勝久、山中鹿介らによる尼子再興軍が出雲に乱入した時、富田城は天野紀伊守隆重が、
わずか300余りの兵で守っている状況であった。
天野は尼子と一戦すべしと思っていたが、尼子軍6000余りに対して自分たちは300であり、
思いに任せて合戦し、損じてしまっては口惜しく、しかし一戦しなければ武辺が拙い事を誤魔化したのだと
言われてしまうと考えた。そこで、尼子方の秋上伊織に使者を出して申し述べた

『尼子勝久が当国へ入られ、諸人皆御味方へと参る中、我一人が当城を守るなど、蟷螂の斧の如きものである。
然らば、尼子による毛利家御退治の後、我が本領に加え五万貫の所領をあてがうことを約束していただければ、
明日にでも城を明け渡すであろう。

しかしながら、無碍に城を明け渡せば我が武名は長く廃れ、芸州の妻子達は全員頸をはねられるであろう、
それも口惜しいことである。

そこで明朝、そちらの軍勢が切岸まで寄せてほしい。そこで我らは防ぎかねたる体にて本丸に引き退き、
和平を仕って城を明け渡し芸州へ帰り、そこで尼子軍の芸州への御発向を待って旗を揚げるであろう。』

これを秋上伊織が山中鹿介へ報告すると、鹿介「これは勝久様が御運開かせ給う瑞相である!」と
急ぎ勝久に披露し、すぐさま秋上伊織を大将と定め、疋田、遠藤、岸、池田、相良、有村以下二千余騎にて
富田城へ押し寄せ、七曲を一息に駆け上がり切岸へと到着した。そこでかねての約束を信じ油断して
待ち受けていた所、この様子を見た天野隆重は「方便にかかった」と喜び、矢狭間を開け、射手を揃えて
想いのままに射させた所、敵はこの予想外の攻撃に慌て、早くも多くの死傷者が出て、引き色が見えた
所で、隆重は「時分良し!」と彼の三百あまりの人数を朝霧の中から突撃させた。
これを敵は一支えも出来ず、大勢が討ち取られ、我先にと逃げ退いた。

山中鹿介らは、天野隆重に謀られ諸方の笑い者とになったこと口惜しいと大変に怒ったという。

(安西軍策)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/25(水) 07:58:35.02 ID:YKRKfBFg
>>945
これ、小説だと、秋上が功にはやって受け入れる、山中は怪しいと止めるエピになってるよね。
秋上がその後裏切るのはこの時の不面目を引きずったからとか。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/25(水) 21:35:10.44 ID:BEZvxerT
俺が30年以上前に見た山中の伝記じゃ秋山が看破で山中が騙されるだった
それ以降秋山は尼子復興は無理と判断し吉川に降る

950 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/26(木) 07:02:23.83 ID:P8oD2fN8
天野隆重「かかったな!アホが!」

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 12:44:58.47 ID:9WnOU9Er
フフ…火薬入りの茶釜は…痛かろう

毛利隆元と芸豊和平

2018年07月24日 17:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:51:59.22 ID:lDBGrq6m
永禄6年、大友宗麟毛利元就とは昔日は和睦していたのだが、大内義長切腹の後不和となった。
元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。

このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。

しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。

ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された

『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』

こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。

これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。

(安西軍策)

毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。



102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:58:21.15 ID:UveR13y3
隆元といい義信、信康といい長男早死にの呪いでもかけられてたんか??

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 22:49:38.07 ID:ADf4FCYr
>>102
真田信之「ですよねー」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 04:18:49.02 ID:009fkQrR
>>102
義信じゃなくて義興だろ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 05:33:19.95 ID:RtqkchvC
>>102
武田信繁「せやろか?」

毛利輝元、自分の少年時代を振り返って

2018年06月30日 21:10

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 14:43:23.66 ID:wJckDjva
毛利輝元、自分の少年時代を振り返って


以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して嫡男の秀就(数えで19才)に
訓戒させるため、慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。


私が長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、世上で
言われています。(実際行儀はよくないので)仕方がないことではありますが
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
 手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう』
などと申していると聞きました。

私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、人も(立派に思って)驚くと
下々の者が申したことがあり、それを真に受けてそのように振る舞っていたときが
ありました。しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるのでよくないと
聞いた後はそれに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。

まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、私は十九になるまで、お側を
離れず御奉公したものの、それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、今も存じている者が
いるはずなので、尋ねてみてください。そういう訳なので私はこの年になっても
世上を敬い、当世の利根才覚がないので大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして
国主などになりました。今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。


――『毛利家文書 一一五七号』



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 15:08:18.32 ID:0QCKxBzw
>>900
謙遜じゃなくてマジなのがせつないというかなんというか…

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 16:38:51.60 ID:WAV9ogJV
なんか、尻すぼみ感がすごいな。輝元自身が、シオシオとなっていく感じが…

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 17:46:36.57 ID:v37hq9s4
偉大な祖父や叔父からひどい折檻受けて育てばなぁ…。
優秀すぎたせいで、そこそこの出来の子供の養育方法わからなかったのかもしれない。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 19:49:43.61 ID:Gy5MCzvM
アレらが殿上人のような存在だと自分を卑下してイエスマンで有り続けるしかない
次期当主がそれだと困るから折檻されるのだが思うようにやっても結果が伴わないので結局折檻される
こうして歪んでいき結果傾国したのであった

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/01(日) 21:47:16.21 ID:X9OW92xd
> それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
> 良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
> 思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

隆元も、元就に対して同じような気持ちだったんじゃないかな。せつないなあ……。

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 12:25:56.88 ID:bR/a18wF
>>900
自分を虎だ龍だと思い込んでる奴よりは余程好感が持てる

穂井田元清の虎狩りの話

2018年06月02日 18:26

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/02(土) 18:13:50.45 ID:gKbDChEG
朝鮮役での虎狩りの話題が出てるので毛利元就の四男、穂井田元清の虎狩りの話を…
>>967のように秀吉は朝鮮へ渡海する諸将に虎を狩る様命じ、朝鮮へ渡った穂井田元清も二頭の虎を生け捕りにして日本へ送った。
日本へ送られたこの虎は後に後陽成天皇の御前にも召し出されるほど人気であったと言う。
そんな人気が出る虎なんてひょっとしてでっかい猫みたいなものだったのではなかろうか?

https://i.imgur.com/9DhS1j7.jpg
https://i.imgur.com/k8x2b3o.jpg
9DhS1j7.jpg
k8x2b3o.jpg



969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:23:34.74 ID:f/1CtrpU
下の子、ちょっと腹が出すぎww

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:55:52.36 ID:BXsv5Oxs
孕んでんじゃね?

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 21:05:04.03 ID:FbZbFDG+
虎狩りと言えば立花家臣・米多比三左衛門の大虎・小虎のエピソードが有名だよな
それにしても立花家は墨縄といい有名な逸話が残る火縄銃が現存してるのは凄いなあ

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 17:53:15.18 ID:XENet+TR
>>971
前に柳川の御花で大虎・小虎の実物と親子の虎の歯が展示されてたな
小虎の方がちょっと短い銃だった

その頃、芸州に毛利元就という人が

2018年04月07日 18:13

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/07(土) 17:03:13.59 ID:lWxpVVTl
その年、天文二十四年十月、改元ありて弘治元年となる。

長門国では大内殿を討った陶尾張入道(晴賢)の子息、阿波守(長房か?)がその威勢を
近国にまで広げ、主君である大内義長とも不和なり、これにより大内家中の重臣層、
相良、杉、内藤といった者達と、陶晴賢勢との紛争が起こるように成った。

その頃、芸州に毛利元就という人があった。彼は始め、大内義隆の被官であり、安芸国にて
武田刑部大輔信実と国を争っていたが、武田の家老である熊谷伊豆守信直が武田に背き、
毛利に一味したため、終に武田は自害し、安芸は毛利元就が一国平均に治めた。

その後、元就は出雲国尼子と合戦をし、この折大内殿より度々合力があった。
しかし義隆生害により毛利は強く不安を覚え、また大内重臣の内藤氏が元就の子息の縁者で
あったため、陶と対立する大内家老衆と毛利は一味し、諸境に出城を取り、陶晴賢勢と
戦争状態に入った。

陶の運が尽きたのは、彼が芸州宮島に攻め来たのを、弘治元年十二月朔日の夜に入って、
毛利は風雨、夜に紛れ襲来したため、陶晴賢勢は大混乱に陥り忽ち敗軍し、陶晴賢、同長房は
討ち死にし、陶の家老である三浦越中守は突撃して防戦を行ったものの、小早川隆景勢が
すぐに馳せ寄り、越中守を討ち取った。

こうして陶勢は尽く討ち取られ、さらに毛利勢は周防長門へ侵攻し勢いを振るい、
大内義長も長門国府の長福寺にて自害し、内藤下野守は同国勝山にて自害、陶五郎は
周防の富田若山にて自害、江良弾正、伊香賀左衛門は須々麿にて自害した。

毛利元就は、このように忽ちのうちに大内義隆の恨みを晴らし、周防長門の主となった。

(足利季世記)

色々史実とは異なるものの、畿内から見た毛利元就の勃興についての記事


新たに征服した地域を支配する際の注意点

2018年04月01日 19:25

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/31(土) 22:37:40.58 ID:oYtXoVs4
新たに征服した地域を支配する際の注意点


毛利元就は新たな地域を支配する際にこういう事を言っている。
「征服された地域の人々を侮ってはいけない。
そういう事をすると恨みをかう。」

元就は自分が征服された立場になってものを考えた。
だから元就は征服した地域に毛利家からだけ指導者を出さなかった。
その地域で毛利家に協力する者があれば積極的に登用した。

元就はこう考えていたからだ。
「毛利家からだけ支配者を出しても、地域の住民は従わない。
それは必ず新しい経営のやり方と古いやり方を比較するからだ。
もし同程度であったら絶対に昔のやり方を懐かしむ。
それだけ(当時)地域では支配者と住民の繋がりは深い。
これを破壊するよりむしろ抱き込んだほうがよい。」


武田信玄も信濃国について
「征服された直後の地域住民は昔の支配者を慕っている。
たとえ悪い支配者であっても必ず新しい支配者と比較していい感情をもたない。
武田家からいった者はわりをくう。
そのため武田家に協力する者があればどんどん抱く事が必要だ。」と同じような事をいっている。



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:06:08.00 ID:xEQom0Uz
>>738
策謀家の二人が言うと説得力がありますな…。

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:26:51.78 ID:f1hrGfA/
武田のほうは佐久攻めからの教訓でしょう

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:51:13.15 ID:rVTjiwnx
毛利も楽勝と見込んだ筈の厳島合戦後の防長経略で
一揆軍の妨害に手こずって大幅に計画遅延させられた苦い経験がある

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 15:11:47.64 ID:TSc5OARK
手のひら返しての陶攻めだし、靡かないのは仕方ないんじゃないのかな
ましてや1国人あがりだもの

三十人の墓

2017年11月04日 13:38

232 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 22:49:27.68 ID:lfiJSEc0
三十人の墓

広島市佐伯区の町中にある標高53mの海老山公園。
中世期には近隣の五日市城を居城とした宍戸備前守弥七郎元続(広島県北の宍戸氏でなく、厳島神主家の家臣である神領衆宍戸氏)
の支城があり、
当時は海に出た島城だった(現在近隣は埋め立て地となり住宅街の真っただ中)とも伝わる。
毛利元就と陶晴賢の合戦時、厳島に攻め込む直前の陶軍3万に攻め込まれた海老山城は
城主宍戸孫六以下30人の兵が討ち死に。死んだ30人の兵の亡骸は近隣住民により海老山に葬られ、墓石が作られたと伝わる。
https://i.imgur.com/FhteTPN.jpg
https://i.imgur.com/oCW5fJv.jpg
https://i.imgur.com/rhvuwgo.jpg
https://i.imgur.com/vGndI6B.jpg

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/04(土) 07:49:48.97 ID:gZX9IM+r
追記

神領衆宍戸氏とこの海老山城の落城について調べてみたけど、
広島県史の記載によると厳島神主家の配下である神領衆は毛利方と陶方に分かれ、
宍戸・野坂・栗栖・大野といった陶方についた神領衆は滅亡したという記述が有るようだったり、
厳島合戦の時、陶軍は山口の玖珂郡(現山口県岩国市)今津・室木の浜から500艘の船で厳島へ向かったとされているので、厳島合戦前に厳島から東北に10km位先にある海老山城を攻めるってのはちょっと疑問に思うんだけど、
実際のところはどうだったんだろうか?
https://i.imgur.com/XXEVtBR.png



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 08:32:36.87 ID:2m9NcCoW
海老山の宍戸も他の宍戸のうにじつは大内方についいてて毛利に攻め滅ぼされたとか

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/04(土) 08:51:44.61 ID:gZX9IM+r
>>236
https://i.imgur.com/emjyjgZ.jpg
もしかして:実は毛利がやった?

と、自分も思ったけど
Wikipediaの防芸引分や折敷畑の戦いの項を参照すると、吉川元春と熊谷信直の事前の調略や交渉が上手く進んで1日で佐東銀山城・己斐城・草津城・桜尾城の4城、厳島を押さえた。
と有るので、翌年まだ反毛利側の白井氏や離反した野間氏と陶水軍が東の仁保城奪回に何度か攻め込んだりしてるから、その折に海老山城でも戦が有ったのかもしれないですね

山口きらめーる255号より

2017年11月03日 20:59

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 05:23:44.99 ID:Do5pozMZ
途中送信しちまったい

http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

山口きらめーる255号より

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。主に毛利方で後世に書かれた軍記物では陶軍2~3万対毛利軍4~5千と語られるこの戦、
山口県史等に研究記載された話としては、戦死者は主に陶氏の家臣や山口県東部の周防国側の大内氏家臣、厳島神主家の家臣である神領衆の一部で
山口県西部に居た大内氏有力家臣の内藤氏や杉氏の参戦は無く実際の陶軍は1万居るか居ないかの戦力であったのでは無いかと言われている。
実際は軍記物で語られる様な兵数差が4倍を超える程の差は無く、毛利元就の軍が寡兵を持って自軍の数倍に値する陶軍を破ったと言うのは毛利側(で軍記物を書いたK川さんの)の誇張では無いか?
と言う悪い話



猛き武士の心をも和らぐるは

2017年10月26日 18:22

344 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 22:30:10.23 ID:Sc/A6gmx
毛利元就と陶晴賢の厳島合戦が終わって5~6日程した頃のこと。
厳島にて渡辺可性と言う者が捕らえられ、陶方の残存兵の後始末のため滞陣する元就の前に引き出された。元就は彼を見て

「この者は、先年私が山口へ下っていたとき、折々私の前へやって来た狂歌の名人じゃ。助けおいたとて、何として害を及ぼそうぞ」
とあって、召し出し
「これ可性、日頃たしなむところであろうが。狂歌一首、ただちに詠んでみせい。詠めたれば命助けようぞ」
と言った。可性は「かたじけのうございまする」と答え、すぐに

かけてしも頼むや毛利の締襷 命一つに二つ巻きして

と詠んだ。元就は、「この歌、それほどの秀逸ではないが、このような折にしては、よう詠んだ」と約束どおり可性の命を助けた。

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 22:30:23.26 ID:Sc/A6gmx
また、陶晴賢の同朋で、宗阿弥という者が生け捕られて、同じく引き出された。元就は彼を見て、
「この宗阿弥は普段から極めて大力の猛者と聞いておったが、何とやすやすと生け捕られて参ったことよな。将来の禍をなす者なるぞ。ただ一刻も早う殺せ。」
と言ったが、思い返し、また、
「それにしても、そちはこれまでたびたび武勇をあらわした。その名声の朽ちることをも顧みず、もしや命助かるかと、自害もせずに、こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。
さらば『命の惜しきは恥を思わず』という心を狂歌に詠め。そちも狂歌の名人と聞いたぞ」
と言った。宗阿弥が「かしこまりました」と申して、ただちに、

名を惜しむ人といふとも身を惜しむ 惜しさに代へて名をば惜しまじ

と詠むと、
「可性の狂歌よりは、はるかに勝れておる。助けおいたとて大事あるまい」
と、これも一命を助けたということである。「猛き武士の心をも和らぐるは和歌の徳なり」とはまことに名言である。
昔の大隈郡司の翁は「栲見るにぞ身は冷えにける」と詠んで罪を許され、藤原為明は「わが敷島の道ならで」と詠んで水火の刑を免れたが、
今の宗阿弥は「身を惜しむ惜しさ」と詠んで、一命を助かったのである。優雅な歌の世界は昔も今もその心は変わらぬものだと、当時の人々はこの歌を扇や畳紙に書いては、美談としてもてはやしたということである。
(陰徳太平記)



346 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 23:10:50.26 ID:BjysMpzj
>>345
>こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。

 .,'
    |. '、  \    `⌒iエ´ , イ
    |. '、   .',     ノ_,ィ ノ / /    ……出たわね。
    |  `''-、     ヽ二ノ /
  _,,-〈.\  '、 \   '⌒ /|、
     \ `"''-ニ,,_ `"''ー―くノ.|`"''
       .\     ̄ ̄ ̄ ̄ /

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 23:18:50.37 ID:VoDwP3CC
そうわよ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/26(木) 10:54:04.39 ID:zCLKuaFh
きたわね

349 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/26(木) 11:17:58.18 ID:klTjDjGs
>>345
北斗の拳終盤の王国編思い出した。
雑魚が宮廷作曲家に良い歌を作るから死刑
と、言ってる所にケンシロウが現れ宮廷作曲家を救うと、雑魚に助かりたいか?

350 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/26(木) 11:19:45.63 ID:klTjDjGs
なら歌ってみろ。雑魚歌う→駄目だな→雑魚爆死

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 11:05:06.42 ID:rCCUH/YG
美談なのか・・・?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 21:32:26.39 ID:wsgJKNCI
元就さん、子供には芸事も学問も不要、って言ってるわりには、
学問と和歌が大好きだよね。

353 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/27(金) 21:50:38.91 ID:8tT7Z6FC
>>352
既出のまとめから引っ張って来たんだが

『藝も要らず、能も要らず、遊も要らず、何もかも要らず。
ただ日夜共に、武略・知略・計策・調略を、工夫することが肝要なのだ。』

学問は否定していない様な…

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 22:03:24.93 ID:wsgJKNCI
>>353
ああ、すまん。
隆景さんの輝への説教の方だった。

赤川元保誅罰

2017年10月26日 18:20

184 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:13:35.86 ID:w2ASLYq0
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならがんじがらめにできるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

185 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:17:34.15 ID:E3GEJJbr
ちなみにこの最後に出て来る粟屋彦右衛門は幼名を源二郎と言い、既 十六歳の折に元就の命令で、元就の妾と密通した木原兵部少輔を討ち取った男でもある。

既出の逸話
毛利元就、妾のもとに忍ぶ男を
を参照。



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 20:41:48.26 ID:CcjnGyV8

そして子供の頃は賢将だったと書かれる輝元

毛利元就の正親町天皇即位の御料献上とその影響

2017年10月04日 19:08

279 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/03(火) 23:26:18.41 ID:PQQbOlsn
明治維新に影響をあたえた仰徳大明神(毛利元就


毛利元就は毛利家にとって神君として崇められていた。
徳川家康が東照宮大権現なら、元就は仰徳大明神である。

毛利家中興の英主といわれる重就は元就の遺訓をまとめて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
やがて幕末、藩士中村清旭は安政二年(1855年)元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
これは元就の勤王精神を長州に植え付けることとなった。
というのも毛利元就は永禄三年(1560年)に財政難の為、即位式が出来なかった正親町天皇の為に
即位の御料として銀四十八貫を献上し即位式を挙げさせてあげたのである。

これが前例となり毛利家だけは、他の大名と違い
年末年始はもちろん朝廷の吉凶時にさいしても、朝廷への進献が許されていた。
そして石見銀山を永久的に毛利家が支配する為に皇室御料所として寄進し、毛利家が管理者として実権を握った。
これにより秀吉が天下を取ったあとでも秀吉は石見銀山には中々手が出せなかった。


元就が天皇への勤王あつく(打算的勤王という人もいる。まあないとは言えないでしょうね)
こういった経緯もあり激動する情勢に長州藩では藩の方針を以下とした。

第一に天朝への忠節
第二に幕府への信義
第三に祖先への孝道

すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


高杉晋作は第二次下関戦争の為の挙兵での檄文で
「御先祖洞春公の御遺志を継がせられ御正義御遵守遊され候…」
「洞春公尊霊を地下に慰め御両殿様(藩主敬親、元徳父子)の御正義を天下万世に輝かし奉り…」と掲げた。

洞春公は元就の法名。
つまり元就を範に攘夷決行、王政復古を訴えたのである。

奇兵隊の最初の作戦は戦局には全く影響のない安芸郡山攻略。

目的は唯一つ、毛利元就の墓所の奪還である。



280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 23:34:11.14 ID:KBj7WAN5
大江広元の子孫が武家政権を倒して王政復古を図るとは
祖先は天皇と幕府の次だから気にしてなかったんだろうけど

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 10:51:49.08 ID:4vJxH0l7
すべては「そうせい!」の一言で

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 16:18:09.71 ID:Kbab0n5s
>>279-280
歴史の流れって面白いなー
毛利と島津が幕末にあんなことになるとは権現様でも気づくめぇ

本成りの瓜

2017年09月25日 18:14

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 14:19:47.02 ID:43DBT54k
毛利元就の頃、芸州に花信(果心)居士と号する幻術の上手が来たりて、様々な術をなした。
元就はこれを見物するため、舞台においてその術を為さしめた。

居士は術を行い、にわかに瓜を作るというものを成した。
少しの間に、種を撒き、発芽し、蔓がはい、実が成って見事な瓜となった。
「さらばこれを初めて味合うべし。本成りの瓜が味が良いので、本成りを切りました」
そう言って差し出した。

元就はこの言葉に、自分の諱「元就」と同じ音の「本成り」という、禁忌の言があることに気がついていたが、
ついにここより病に伏せ、逝去したのだと、そう語る人がいる。

(士談)

果心居士のこの話、松永久秀だけじゃなく毛利元就バージョンもあったとは



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:11:35.14 ID:PyXdbaOX
>>148
珍しすぎるパターンだ

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:31:39.07 ID:y/csvWWQ
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html
聊斎志異の「種梨」では梨で似たような話が

児玉は何故語らなかったのか

2017年07月21日 10:08

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 10:03:56.50 ID:WpG9uMxK
天正13年、羽柴秀吉による四国征伐の折、伊予金子城の籠城戦において、長宗我部方の藪内匠と、
毛利家の士、児玉三郎左衛門との槍合わせは、世の人が大変に話題にした出来事であった。

後に、本多佐渡守正信が児玉を招いて、その時の働きの様子を詳しく尋ねた事があった。
しかし児玉は「前後の次第を忘却してしまいました。」と言って、終に語らなかった。

その後、ある人が児玉に、何故語らなかったのかを尋ねた。児玉は

「藪内匠は、今ではその名が世上に流布している有名人である。彼が話した内容のとおりに
私も語れば、相違なく然るべしであろうが、もし私の言う所と創意があれば、人から褒貶もあり
よろしからぬ。

私は現在、武功を主張せねばならないような立場で江戸に来たわけではない。忘却したと言っても
失うものはない。また内匠について悪しざまな評判が立つのも本意ではない。」

正信もこれを後で聞いて、その志を深く感じたという。

(士談)


106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 13:34:57.53 ID:T5B68rgu
ヤブタクミ?

一日の間貸され候へ

2017年07月04日 12:10

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/04(火) 12:07:16.30 ID:Z7UEEGAF
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)



川通り餅の由来

2016年12月21日 17:28

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 07:20:38.66 ID:Ex3Uxlra
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg
FOegWlI.jpg




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 08:41:22.82 ID:TUG5wkvm
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:48:24.78 ID:YU7aAtsW
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:57:07.62 ID:YU7aAtsW
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 11:26:32.70 ID:Iy76MskG
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 12:01:41.46 ID:TUG5wkvm
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 16:15:04.15 ID:3vDWZHcv
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…

秀元は常人ではない。

2016年12月07日 17:28

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 03:49:39.97 ID:wYJHt4dP
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話

続き
この清水の作の脇差を帯び、




槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

2016年12月04日 10:29

382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 07:02:14.27 ID:sRqYOh7K
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。

隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。