児玉は何故語らなかったのか

2017年07月21日 10:08

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 10:03:56.50 ID:WpG9uMxK
天正13年、羽柴秀吉による四国征伐の折、伊予金子城の籠城戦において、長宗我部方の藪内匠と、
毛利家の士、児玉三郎左衛門との槍合わせは、世の人が大変に話題にした出来事であった。

後に、本多佐渡守正信が児玉を招いて、その時の働きの様子を詳しく尋ねた事があった。
しかし児玉は「前後の次第を忘却してしまいました。」と言って、終に語らなかった。

その後、ある人が児玉に、何故語らなかったのかを尋ねた。児玉は

「藪内匠は、今ではその名が世上に流布している有名人である。彼が話した内容のとおりに
私も語れば、相違なく然るべしであろうが、もし私の言う所と創意があれば、人から褒貶もあり
よろしからぬ。

私は現在、武功を主張せねばならないような立場で江戸に来たわけではない。忘却したと言っても
失うものはない。また内匠について悪しざまな評判が立つのも本意ではない。」

正信もこれを後で聞いて、その志を深く感じたという。

(士談)


106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 13:34:57.53 ID:T5B68rgu
ヤブタクミ?
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一日の間貸され候へ

2017年07月04日 12:10

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/04(火) 12:07:16.30 ID:Z7UEEGAF
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)



川通り餅の由来

2016年12月21日 17:28

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 07:20:38.66 ID:Ex3Uxlra
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg
FOegWlI.jpg




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 08:41:22.82 ID:TUG5wkvm
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:48:24.78 ID:YU7aAtsW
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:57:07.62 ID:YU7aAtsW
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 11:26:32.70 ID:Iy76MskG
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 12:01:41.46 ID:TUG5wkvm
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 16:15:04.15 ID:3vDWZHcv
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…

秀元は常人ではない。

2016年12月07日 17:28

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 03:49:39.97 ID:wYJHt4dP
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話

続き
この清水の作の脇差を帯び、




槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

2016年12月04日 10:29

382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 07:02:14.27 ID:sRqYOh7K
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。

隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

元就と隆元の近習頭の友情

2016年12月03日 20:56

371 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 09:23:58.64 ID:etEgTkDh
元就と隆元の近習頭の友情


坂新五左衛門と粟屋弥七郎は、具足祝の座敷で座配のことについて口論に及んで以来、
戦場では度々先を争うようになっていた。
あるとき、坂がたった一人でとある城の搦手へ回り、
敵と遭ったら一騎打ちするしかないような細道をすらすらと上って、
言葉戦から鑓戦にもつれ込もうとしたことがあった。
そのとき粟屋弥七郎は「なんてことだ。坂に出し抜かれた」と思ってすぐに追いかけて行き、
坂の鑓の石突を捉えて六・七間ほど引き摺り下ろし、自分はさっさと上っていく。
そこに坂がまた粟屋の鑓の石突をつかんで引き摺り下ろし、刺し違えようとしたのだが、
そばにいた者たちがしがみついて仲裁したので、どうにか事なきを得た。

それからというもの、いよいよ互いに憤りが収まらずに、負けじ劣らじと争っていたが、
槌山攻めの際、粟屋は吉川元春配下の新庄勢に紛れて共に抜け駆けし、鑓を合わせて坂にはそれができなかったのには理由があった。
坂は隆元の近習頭だったので、隆元の旗本を離れることができず、
また隆元より全軍に抜け駆け禁止の制法が固く出されていたので、
その軍法を諸士に対して触れ回る身として、坂がその掟を破ることはできなかった。
粟屋は元就の近習頭だったので、隆元の本陣から少し離れたところにいたこともあって、
槌山の切岸まで忍んで近づくことができた。

さて、坂新五左衛門は大樽を家臣たちに担がせると粟屋の陣所へと向かい、
抜け駆けの際に手負いとなり、療養のため寝込んでいる粟屋のところへと案内も通さずに乗り込んでいった。そして
「これまでは戦場において先を争ってまいりましたが、私は今回、
ご下知を守っていたのであなたに負けてしまいました。
これまでも、若い粟屋殿に対して、私の方が年長なのに争っていたのは情けなかったと思います。
今後はこれまでの遺恨を捨て、刎頚の交わりをしたく思います」と言って、
坂は自分の陣にも帰らず、粟屋の看病をした。
坂はこれまで何度も武名を上げてきたつわものなのだから、
たとえ今回は粟屋に遅れたといっても、その武名が傷つくことなどありえない。
坂の振る舞いに、「自分もこのように立派にありたいものだ」と感心しない者はいなかった。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 20:11:42.18 ID:vFOgTN/w
と言って傷口に塩を塗り込む強かさも兼ね備えていた

373 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 20:46:51.14 ID:cNzBp7tS
この坂新五左衛門は父親が元就の弟の相合元綱の謀反に加担した坂広秀なんだね
後には雷神立花さんとも戦ったりしてるのな

隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

2016年11月24日 14:35

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/24(木) 14:09:02.66 ID:BJS/7tYa
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

続き
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:14:06.21 ID:8D69oZrn
自殺したくもなるね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:52:23.92 ID:sw+eGJaZ
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事

2016年11月23日 14:08

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:51:29.00 ID:RkWuuHXG
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事


天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:55:15.20 ID:RkWuuHXG
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。


なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:20:45.99 ID:l4Jdq11w
お兄ちゃんの面子丸潰れ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:38:14.04 ID:TQklu1C2
抜け駆けはギャンブルだからね~成否が士気にかかわるのよ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 14:33:01.39 ID:h9ZIC5Bw
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 15:17:04.05 ID:88DTlVBL
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:51:33.76 ID:crbvyM3Z
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:56:49.00 ID:4exxIwvo
ボスの鶴の一声でフィニッシュ

340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 19:41:46.65 ID:88DTlVBL
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 22:10:29.64 ID:gNTnZHYo
またホモか…

342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 22:26:26.85 ID:88DTlVBL
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:09:07.43 ID:gNTnZHYo
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:46:02.15 ID:fRWdHM4A
そりゃそうだろとしか

大内勢、味方を討って手柄を得る

2016年10月22日 17:14

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)



238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)

松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

2016年10月21日 09:26

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 00:37:34.28 ID:rAcw/9qK
松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

 長村内蔵助が生きていたときに茶堂慈斎に語ったというのを、
人が聞き伝えて予に告げた。
さて慈斎もまた没して十余年、予もまた長村が話が耳に残っており、今顧念してみる。
 

 あるとき平戸の隣邑の唐津から商人が来て、その人がもたらした中に、古文書の廃紙が多かった。
長村はその中を取り調べると、
毛利元就の亭に茶会があったとき、松浦肥前入道(隆信)も参られ同伴致された』
『毛利の一族某の人に、誘引すべし』
といった書簡があった。
そんなものを長村が計らずすも獲たことは、誠に千載の奇遇であったと。

 道可公(松浦隆信)はその頃はわずかに小島の宰で、
元就は十州太守であり彼と比すれば、小大甚だしく異なっている。
それなのにかく大家の衆会に招かれなさたことは、
いかにも御武運高徳、下に伏しなされる輩ではないことを知っていたのだろう。

との話をしたそうだ。
長村の言葉を今思うと、この文書はどこにいったのであろうか。非常に惜しまれることだ。

(甲子夜話三篇)

さすが、元就
抜け目ないですね




元就、軍議の席次を巡って争う

2016年10月16日 15:38

216 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:19:22.67 ID:IWC7trJD
元就、軍議の席次を巡って争う

天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。

いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。

元就は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は

「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。

(陰徳記)

元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…

217 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:34:24.81 ID:IWC7trJD
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…

続き
大内勢、味方を討って手柄を得る


はや此分にては身上続ましき…

2016年10月10日 10:34

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 10:23:21.32 ID:cTGsgr3g
入道し毛利宗瑞となったTERUは祖父に鉄拳制裁を食らうわ叔父たちにガミガミ言われまくってた若き日々のことを回想しこう書き残している

…日頼様(元就)余御折檻候上に隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にては身上続ましき…

――『毛利家文書』より抜粋



原文「唯今虫けらのやうなる子ども候」

2016年09月23日 14:25

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 21:29:35.60 ID:SBZd/A5r
今発売中の別冊宝島「戦国史を動かした武将の書簡」というものに、武将の手紙が
カラー写真で載っている。文章は知っていたが、手紙そのものをカラーで見るのは初めてのものも
多い。その中で、ちょっと悪いかもしれない話。

原 文「唯今虫けらのやうなる子ども候」
        ↓
口語訳「虫けらのような分別のない庶子がいる」

虫けら呼ばわりだが、原文の手紙を見ると、年少の子どもなので
「まだ小さくて、物事の分別がつかない虫のような子どもたち」という、気の毒に思っている
ニュアンスがある。



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 23:41:33.75 ID:aXC+X0IO
元就「虫けらのくせに立場をわきまえないから家騒動や謀叛が起きるんだよ。

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/23(金) 12:29:28.42 ID:v51T/mcu
虫けらの子孫が毛利の嫡流になるとは
思っても居ない元就でした

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 05:46:27.15 ID:MebFjYs2
3人が結束すれば、3本の矢のようにと、先祖の遺書を読み上げて訓示するが、
虫けらのことは伏せとく情報操作。

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 06:25:36.41 ID:O5X/52cq
>>101
広島城の二の丸にその虫けら云々ぬ手紙展示してあった気がする

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 09:13:36.90 ID:FJgE9Zqf
ノブも信忠と信雄以外の子供はガチで虫けら扱いだったけど
なぜか信孝だけは例外

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 10:26:50.80 ID:lCi6cimj
信長自身が庶長子差し置いて家督を継いでるから
庶子と嫡子の扱いが全然違うし
戦国では常識なんだよな

権現様が異常なだけ

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 14:06:08.96 ID:lApELJe1
烏帽子親が柴田勝家だもんな
津田信澄が養育されてたのも柴田勝家
佐久間盛政といい柴田勝政といい勝家が教育した子供は有能だ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 18:33:59.69 ID:MebFjYs2
>>102 サンフレッチェは、3本(サン)の矢という意味だそうだが、
2軍選手に向かって、虫けらのよう
と言ったらやはり怒り出すだろうか。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 19:18:08.76 ID:VxWqyVUz
言葉の意味や使い方なんて時代で変わるんだから、今の価値観で虫けら?酷い!ってのはいかがなものか。
子供の「供」は供物、って意味だから問題があるなんて言葉狩りが最近あって、メディアではひらがな表記になったとか。

300年後には昔の人は子「供」と書いてる、野蛮!と言われるようになるのかな。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 23:49:36.43 ID:0CbiVLMf
>>114
数年前、嫁が役員やってる子供会の名称が、「〇〇市子ども育成会」に変更になった。
こどもはおとなの「供」ではない!との観点から、名称を「子供育成会」から「子ども育成会」に変更しました、って説明受けたが・・・。

129 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/26(月) 22:47:42.76 ID:baLYiMg9
スレチなので小声で
三年前、文科省は子ども表記を子供表記に変更した。文科省の公用文は今は子供表記。
一方で厚労省はまだ子ども表記。一般にこれが知れ渡るのはまだ先だろう。
当方は三好記の記述をさらにしりたい。一宮成祐の奥方はどう処遇されたのか。

毛利陸奥守大江朝臣元就という人物

2016年09月11日 19:05

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/11(日) 17:57:54.15 ID:d4UKo8Oh
安芸国、毛利陸奥守大江朝臣元就という人物、その先祖を尋ねると、鎌倉三代の将軍の執権であった
因幡守廣元であり、彼は太枝の姓を改めて、大江を用いた。以降、元就の家は大江嫡流を称した。

元就の父もまた廣元という(毛利弘元)。兄を興本という。興元の子、幸松丸早世のあと、毛利の家は断絶の
危機にあったが、古老たちが協議して元就を呼び出し、吉田郡山城へ入城させた。

これ以前、元就は多治比三百貫を領する、非常に小さな存在に過ぎなかった。
しかし毛利の家督を得た後、智謀人に優れ、武勇世に類なく、遠近がその徳化に帰伏すること、まるで草が
風になびくようであった。

元就は、『之を用いるときは行い、之を捨てるときは蔵る』という孔子の言葉を思い出させる人物であった。

(甫庵信長記)


甫庵信長記の毛利元就評である。



181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/11(日) 21:37:25.61 ID:p6f96Ngh
京都の江氏嫡流はどう思って読んだだろ。

毛利元就と大庭賢兼

2016年08月24日 18:17

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/23(火) 23:12:17.68 ID:tTrV6RnU
毛利元就大庭賢兼

大庭賢兼は元々は大内義隆の家臣で源氏物語などの古文に通じた武将であった。年齢も元就に近く、家臣ではあるが元就とは和歌や古文の趣味友でもあった様だ。
そんな大庭賢兼、永禄5年(1562)に石見の小石見在陣中の元就の元へ雪のせいで遅参してしまう。
これに怒った元就、当初は怒りの余り賢兼に会おうとしなかったが、雪が原因と判るや賢兼を許し、一首の和歌を詠み送った。

「石見がた 雪より馴るる友とてや 心のかぎりに打ち解けにけり」
(雪よりも親しく付き合っている友なのだから、 私の怒っていた心も解けたので、また元のように仲良くしよう。)

これに返して賢兼

「石見がた かたき氷も雪もけふ とくる心のめぐみうれしも」
(あなたの怒りが今朝の氷や雪のようにとけた。そのように寛大に許してくれた心遣いが嬉しい。)

こうして2人の仲は元度りになったそうな。
元就の和歌の添削をした三条西実枝もこのやり取りに対して
「此の贈答、一豪のへだても聞こえず、誠に上下に怨なしといふ
 明文にかなへり」
と評している。

春霞集より元就爺ちゃんと家臣の知的?なやり取り


104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/23(火) 23:24:22.28 ID:tTrV6RnU
>>102余話
三条西 実枝は元就の和歌を称賛しており、他にも元就に対して

「大江元就は武王の心を以って心とすとみえたり。しかればただ今の世に比するに成王にあれたり。」
との評価もしている。
この評価は後々名将言行録では法橋恵斉と言う家臣が元就に対しておべっかで言ったことにされており、
元就がそんな昔にそんな事言う奴はいねーしワシゃそんな器じゃねーわ。と返して以後は元就の家臣におべっか使いが居なくなったと言う逸話(既出)に変わっている。





105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 13:52:47.92 ID:pPGBazbw
>>104
面白い変化だね。当時でも三条さんちょっとお世辞が過ぎるのではって認識があったのかな。

106 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/24(水) 14:29:20.30 ID:T0yMQvKL
>>105
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-265.html

此処に三条西実澄さんの元就の和歌に対する評価の現代訳文が載ってるけど、>>104の武王成王の下りは最後の方の抜粋で原文は物凄く長い…
元就の和歌を知ったのは元就死後の事みたいだけど、原文読むと三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した。
ただ、武王成王の所だけ見たらただのヨイショにしか見えないってのは間違いないね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 20:06:54.11 ID:rH/dmeDC
>>106
>三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した

幽斎さんの師匠だよ、この人。

益田修理の色紙

2016年06月24日 16:48

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 12:41:13.00 ID:SrqavXuK
寛永13年、将軍徳川家光は江戸城外郭の総石垣、見附桝形、並びに総堀普請を諸大名に命じた。
麹町の見附は松平長門守(毛利)秀就の町場であり、ある時、家光は普請の状況を見るため
この秀就の町場を訪れた。

秀就に任命された普請総奉行の益田修理(就固)は、竹杖を横に伏せて平伏しこれを迎えた。
この益田に家光は尋ねた

「益田は所持している小倉山荘の色紙を、今回は持参してきたのか?」

益田謹んで、持参していることを伝えた。

「ならばその掛け物を見るため、茶を行いたい。」

主人の秀就は御礼申し上げ、その町場に仮の御茶屋を造った。
益田修理が所持している小倉山荘の色紙は、能因法師の歌で

『さびしさに 宿を立出で眺むれば いずこもおなじ秋の夕ぐれ』

これが書かれたものであった。
益田修理は公儀御普請の総奉行を命ぜられ参府の所に、思いの外である色紙を持参して、
これを将軍家のお尋ねに預かり、思いの外の冥加に叶う事となった。
ここより、武士たる者は心を配り相嗜むべきと言われるが、この益田が色紙を持参していたのは、
万端の心得が有った事だと、人々は沙汰し合ったのである。

(玉露叢)



毛利・宍戸の和睦

2016年04月30日 17:01

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 09:18:46.56 ID:SZUuzKNG
毛利元就より、宍戸元源へ和睦の申し入れがあると、元源は孫で嫡男の隆家、深瀬隆兼をはじめ親族重臣らを集め
これを協議した。
この席で、元源の弟である深瀬隆兼はこう主張した

「私の愚案によって判断するに、今、将軍家の権威は明け方の月のように薄く、頼みに成らない仲、
西国の武士は尼子・大内両家に属しています。その中において毛利元就は智謀万人に越え、さらに
大内と通じて尼子を討とうと欲しています。

仮に我らが元就を討とうとしても、大敵の大内が後ろに控えているので滅ぼすのは難しいでしょう。
また、尼子は家が古すぎます。武道廃り、晴久の政治も正しくなく、与して我らに何の益があるでしょうか?
京都に加勢を乞うても、肝心の中国において背くものが多ければ、多勢を下向させることも出来ません。

毛利元就に合力し両家一和すれば、備後・安芸の諸士は招かずして参るでしょう。
また、我々が老衰する前に元就と和平しておけば、元就は良将ですから、若き隆家の師として
彼以上の人物はありません。」

この言葉に元源はじめ一門も同調し、天文二年に和睦を受諾し音信を通じた。しかし未だ、元就・元源の
両者が参会することはなかった。

明けて天文三年正月十八日、毛利元就が年始の儀として宍戸氏の領地である五龍に来た。
宍戸元源はこれを慇懃に饗応し終日物語あったが、このとき元就は寵臣である粟屋右京、国司右京の
両人だけを留め置き、その他の人数はみな郡山に返し、主従三人だけで五龍に滞留した。

宍戸元源は、元就が隔心なく人数を返したその志に感じ入り、打ち解けて終夜、軍法の評判、
隣国諸士の甲乙などを論じ合い、旧知のように親しく語った。
虎穴に入らずんば虎児を得ずと言う事である。

元就は言った
「このように別心無き上は、私の嫡女を隆家殿に進め、親子と仲と成れば家中の者達までも
心やすく交流できるでしょう。元源殿が同心いただければ本望です。」

元源答えて曰く
「その志、甚だ悦び入り候。私も老衰におよび、息子元家に死に遅れ、隆家は未だ若輩です。
まったく無力に思っており、これこそ私の方から、時節を見て申し入れたいと思っていたのです。
それをそちらから仰せを承ること、まことに深き値遇です。

元就殿は子息も多くありますから、今後は隆家の兄弟も多くなります。
隆家のことはすべて、元就殿に任せます。どうか御指南を頂きたい。」

そして「子孫長久の酒を進めましょう!」と、その座に一門を召し出し、家中貴賎を問わず
酒宴を成した。

元就が吉田に帰ると、その後吉日を選び婚姻の礼を整え、吉田と甲立の境に假屋を建て
双方より人数を出し、宍戸家が嫁女の輿を受け取った。
毛利方の責任者、桂元澄、児玉就忠が式対して渡すと、宍戸方の責任者である江田元周は、
輿の側にスルスルと歩み寄り、戸を開いて輿の中を見、元就の息女に紛れない事、篤と見届け、
桂元澄に向かい

「確かに受け取った!」

と答えた。後で元就はこれを聞くと
「現在は乱世であるから、元周振る舞いも当然である。総じて宍戸家の者達は志何れも健やかで、
わが家の若き者たちも見置きて手本にせよ。」
と、これを賞賛したという。宍戸家との婚姻により、近隣の大半は毛利元就に従うように成った。

(宍戸記)



646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 13:53:21.53 ID:9vuFlLAf
隆家って結局は隆元の義兄になるわけだし、後年の毛利家の繁栄を思えば
大英断だったな
以降の処遇も手厚かったと聞くし

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 16:10:10.69 ID:99N7f508
ノブヤボだと良い笑顔だな

私は当家の軍神と成り

2016年04月23日 17:42

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/23(土) 09:28:54.86 ID:I0Yl7va5
愛宕山で修行していた司箭院興仙はある時、実家の宍戸家のある安芸国五龍城へ帰ると
兄の宍戸元源に向かって言った

「私は年来の願望成就を得ました。然れば、世間を徘徊して褒貶の唇にかかるのも益無く、
今後は親戚を離れ人倫の交わりを絶って無為の世界に入ろうと考えています。
孝長の道も今日限りです。

これは私が修行中に誓願を込めた物です。」

そう言って、赤地に金の日輪を書いた軍扇に、自筆で梵字を書いたものを取り出した。

「この扇を持って戦場に向かわれれば、弾矢の難はありません。また伏兵夜討ちその他
不意のある時は、扇に必ず奇特が有ります。

勝負は時の運、生死には期があり天命に帰するものであって、この司箭の力及ぶところでは
ありません。ですが、私は当家の軍神と成り矢面に立って守護いたします。

衆を愛し、惻隠辞譲の道を正し、賢を求め耳に逆らう言葉を容れ、義を以って恩を割き、
佞奸を遠ざけ讒言を容れず、衆と苦楽を共にし心と力を尽くせば、戦わずして勝ち、
招かなくても人は来て、国は治まり威凛々として敵も従います。

また、士を侮り己を誇り、諫言を拒み忠賢を遠ざけ恩愛に偏するようでは、巧弁の佞臣たちが募って、
賢愚長幼の序を失い凶災を呼び寄せます。
明神も、一体どちらを擁護するでしょうか?この司箭もそのような災いを祓うことは出来ません。」

そして画像を一枚取り出し
「この両頭の不動は厳島明神の神詔によって私が得た霊仏です、これを、当家の守護仏として
斎戒尊崇を怠ってはいけません。」
このように兄弟は終夜別れを惜しみ語り合った。

翌日、祝屋城に至り、元源の子である深瀬隆兼と対面し、
「今後、再開することもないだろうから、私が多年学んだ兵術の妙理を伝えおく。」と、
兵書を授け密法を伝えた。これは源九郎義経、鬼一法師より伝わる軍記といわれ、また
太郎坊より伝わる剣術は、宍戸・深瀬・末兼の三家の外には伝えることを許さないとした。
その伝法については、新たに斎戒すること7日にして後にこれを伝えた。

また、典川作の刀一腰を隆兼に譲り、その後愛宕山に帰ると、柳を以て自像を刻んだ。
愛宕の瀧川の上に座し、容貌を水鏡に映し刻んだ。厳島にて賜った白羽の扇を負い、その形
山伏の姿で、涼やかに尊聖陀羅尼を梵字にて書いている坐像であった。
今も愛宕山太郎坊の脇に立つ司箭の像がこれである。

何かある時は、この像が変化して、或いは沙門となり或いは女体と成り、或いは衣冠をして
座しているように見えるなど、様々に変化して見える。
愛宕山七不思議という伝説が有り、七つの妙があると言い伝わっているが、この司箭の像の変化も
その一つである。

(宍戸記)



魔法を得る

2016年04月21日 11:41

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 10:47:01.28 ID:cfXXliyr
宍戸元家の三男・又次郎家俊は、上天文に通じ下地理に明るく、六韜を暗記し鬼神の境に遊び、
是非の外の事について自得した。生来、その利口なこと万人を超え、幼稚の頃より兵法剣術を好み、
学習を通じてその妙を得た。

長ずるに及んで安芸国厳島明神に参拝し、17日間食を絶ち昼夜12度身を水垢離し祈願した。
祈願の内容は、

『家俊幸いに天地五行の徳澤に従いようやく人間の数に入るといえども、何も為すこと出来ず、徒に
国土の食を浪費しているだけである。当社は八大龍王の姫宮であり、生身の妙神と承る。
明神のお力により、家俊は武名を天下に顕し永く秋津島に佳名を残したいと欲する。
所願感応においては、7日のうちに一つの奇瑞を見せ給え!』

五体を地に投げ丹誠を致して既に7日に満ちる日、験兆たちまち現れた。神殿の扉は甚だ鳴動して
蔵の鍵ひとつが家俊のもとに現れた。
家俊はこれを見て激怒し神殿に向かって叫んだ

「私は愚賤といえどもどうして富財を願いましょうか!?富貴は人の好むところといえども、
それは夢のなかの快楽、浮雲のようなものでしかない!この家俊においては能く貧に安んじ
名を成さんとする也。それにこの鍵は何の益があるというのか!?

九万八千の軍神もご照覧あれ!神国に生を受けて今生の誓願虚しくれば、魂魄はどこにいくだろう?
迷い悪鬼と成りこの島にあって参拝の者を悩まし、永く明神の奴となるだろう!」

そして神殿に向かって鍵を投げ、また7日宮籠し暫く睡眠に落ちると、夢のなかにお告げが在った。

『汝の今の誓願に嘘はない。であるが、汝は丙午(ひのえうま)の生まれにて天上の水である。
潤沢の果てある故に、富を以って名を成さしめん為、蔵の鍵を与えたのだ。
天上の水である故に、降気あって昇進無い。その果無き者には神力も及ばぬ。

であるが、汝の信心は私無く、肝を煎り胆府を砕くものであった。よってこの2つの品を与えよう。』

そして白羽の扇一つ。両頭の不動明王の書画一つを与えられた。

『これを持って愛宕山に登り魔法を勤行すれば、必ずその妙を得、天下にその名を顕すであろう。
今、世の君臣は驕慢の気が剛強にして真を失っている。故に、世は既に魔魅に掌握されている。
それ故に正法聖道は煙霧の中の灯火の如きもので、光を上げ難いのだ。』

目が覚めると、夢と同じように2つの品があった。
家俊は奇異の思いをなし、この品を三戴九拝し、「所願成就した」と大いに喜び、神前において
自ら名を「司箭」と改め、そこから直ぐに愛宕山に登り、太郎坊に誓約して難行を勤した。
彼は厳島明神の品から、凡夫の力に非ざる通力を得て、居ながら宇宙の変化を知り、起きては
瞬時に千里を走った。
(宍戸記)

あの細川政元の魔法の師、司箭院興仙が魔法を得るまでのお話。



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 11:28:32.65 ID:LetTt0aP
凡夫なので蔵の中にどれくらいの財宝があったのか気になる
というかどこの蔵の鍵なんだ

その名は”無限地獄”

2016年04月17日 12:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/17(日) 09:33:58.35 ID:WytbZ4y4
その頃、後藤助三という金物師がいた。生国は都の者であったが、打ち続く京の惣劇に家も貧しくなり、
身を置くのも難しくなったため、縁を頼り中国地方に下り、安芸の吉田・甲立あたりをあちらこちらと巡り、
彼は非常に弁舌が立ったので、古今の事を語って人の気持ちを慰め糊口を得ていた。

その中でも宍戸元家は東国で生まれた人であるので、都あたりの物語珍しく、この助三を常に近くに呼んで
洛中洛外の名所旧跡の事などを訪ね聞いた。

ある夕暮れ、欄干において、残暑も過ぎ涼しい風に元家が半醒半睡となっている所、助三はいつにも増して
熱心に語り、元家の膝近くまで近寄った。

が、ここで元家の左右の手が助三の手足を掴んだ!そして
「汝の今の音声は常成らぬものであった。間違いなく殺意の音があった。汝は虎狼の心を抱くと覚えたぞ!
詳細に白状いたせ!」

そう責め立てると、初めのうちは弁舌を尽くして弁じていたが、百人力、千人力と言われる元家に締め上げられ、
眼も飛び出し骨も砕かれんばかりになると、終に

「この上は有りの儘に申します!この程、北野入道浄真、中山弾正、只菅某に頼まれたのです。

『その方は上方者であり、殊に武道を学ぶ人でもないのだから、いかに宍戸元家が人の表情を悟る人間
だとしても、お前に用心することは無いだろう。そこで隙を伺い、元家を殺せば、紀州において百貫の地を
お前に与え、そのほか望みのままだ。』

そう言われたため、卑賤の身の浅ましさ、君の御恩を忘れ哀れにもこの事を行い、紀州にて報奨の地を得て
故郷に帰り、妻子を安楽に育み、数年の浪々の艱苦を忘れようという嗜欲にほだされ、時を伺っていたところ
今日さいわい、君が御休息されていたので、御睡眠を待っていたのですが、因果不昧の断り免れず、
却ってこのようなことに成りました。

ですが!これらは皆奥家の寵臣たちの陰謀であって、私の野心ではありません!
日頃のお情けに、どうか命だけはお助けください!」

元家、にやりと笑って
「そういう事なら糾明には及ばぬ。汝が望みであるのだから、紀州以上の大国の土地を与えよう。
その名は”無限地獄”。子々孫々にまで与える!入部せよ!」

そう言って左右の手を一つに寄せると、後藤助三の背骨が折れ果てた。彼の懐中には刀が有った、

その後、この刺客を放った北野入道浄真の一族、北野心右衛門、中山弾正が周田五郎によって
討ち果たされ、彼ら一味の残党は或いは逐電し或いは討たれた。その折、城に在った者達は
逃げる道なく倉庫に取り籠もり、内より火を放ち自害して滅んだ。

(宍戸記)