FC2ブログ

【雑談】”三本の矢”の逸話について

2020年04月11日 14:48

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 04:17:37.43 ID:HBLqrn9K
>>958
学研のまんが日本の歴史か何かでそんなシーンを見たような気がする

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 09:26:27.70 ID:993hYZ3y
>>970
俺も

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 16:39:27.23 ID:wSTI+j0w
>>958
創作したやつが黒澤映画の「乱」を見てパクったんだろうな
スポンサーサイト



厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ

2020年04月10日 17:53

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 00:58:54.03 ID:Z0cMNdBb
或いは曰く、毛利元就は陶晴賢が厳島に渡海することを聞いて、元就より、追手の物見を二人、
搦手の物見には志路源蔵を遣わした。この時、厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ、
源蔵は神主の姿で参拝した。故にこれを咎める者は無かった。

その願書を陶晴賢が見て、元就の病気を真と思い喜んだという。

この願書には弘治元年(天文二十四年)十月二十八日とあるという。(筆者注:厳島合戦は十月一日であり、
この日付は九月二十八日の間違いと思われる)

毛利元就記



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 07:38:28.78 ID:oP8U78Ec
>>963
神社をも利用する元就…

豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで

2020年04月09日 18:07

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 22:36:47.37 ID:7j1OFAgQ
山中鹿介による尼子再興軍挙兵の報が)毛利元就に注進され、山口の高峯城へと告げられると、
この頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。

このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、

『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』

との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。

また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。

宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。

そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。

毛利元就記

毛利隆元の死去までについて。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:13:19.77 ID:FV4Nvjb2
何も前触れのない突然死だったんだな。毒殺とも言われてるんだっけか。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:34:26.86 ID:uuQ9h7Na
赤川さんを殺してしまった元就の悪い話…和智もほんとに暗殺したのかわからんけど

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について

2020年04月08日 19:27

907 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:31.33 ID:7j1OFAgQ
毛利一門、その他大名は筑前に打ち出て立花の城拵え、普請手堅く相調え、秋月と対陣した。
そのような所に豊後国大友の軍兵二万余騎打ち出て立花に相向かった。そして大友の調略に、
大内義隆の落子が山口落城の時に母の懐中に抱かれ豊後国に落ち行き、その子が成人の後に
大内太郎左衛門尉輝廣(大内輝弘:(正確には大内政弘の次男・大内高弘の子))と名乗り、大友は
これを取り立て、大内家の諸浪人を抱え、その他手前の軍兵相添えて、都合一万二千余騎にて
毛利一門、および諸大名が悉く豊後(筑前の間違いか)に在陣した所で、周防国山口に討ち入り
築山に陣取り、高峯の城では毛利方の市川常吉が籠城した。

このような俄の押し寄せは思いもしなかったことで、城中には人数もなかったが、常吉は智謀を以て
城を堅固に保った。そのような中、市川常吉の子・少輔四郎は予てより高峯の麓に宅地を構え居住していた。
この少輔四郎が、大内太郎左衛門尉(輝弘)に一味したのである。常吉はこれを聞いて軍兵五十人を差し下し
少輔四郎を討ち果たした。これについて世間では常吉覚悟名誉の義と申された。

さて毛利元就の陣所に飛脚を遣わし、「山口如此」と注進すると、元就はこれを聞いて仰られた
「筑前立花へも豊後より猛勢打ち出て戦陣と成ることが告げ来て、また山口にこのような事が起こるとは
心もとない事である。さりながら山口の城には常吉を籠め置いてあるので、たとえ人数が無くとも
十日二十日は城は堅固であろう。立花に居る一門中、その他諸士悉く呼び戻し、この元就はここでそれを
待って山口に討ち入るべき。」(この時元就は長門国赤間関に在ったとされる)
そう宣われ、夜を日に継いでその手遣いをした。

元就は立花に仰せ遣わした
「その陣早々引き退くべきである。山口はこのような状況と成った。さりながらその陣の退き口は一大事の
事である。おそらく豊後より打ち出てきた軍兵どもが追尾し合戦に及ぶだろう。その事は言うまでもない。」

この旨が告げられると、在陣している毛利一門その他に、各々如何考えるかと尋ねられた所、宍戸隆家
申された
「只今のこの状況ではとかくに及びません。敵方が動き出す前に、日を移さず早々に各々引き退くべきです。
殿はこの隆家が仕りますので、それについてはご安心ください」
そう申したところ、吉川元春が申した
「隆家殿は一門を率いて退かれるべきです。この元春が殿を仕ります。」
これに対して、毛利隆元は言った
「元春は未だ若武者であり、隆家が殿をなされよ。」また隆元は「この立花の城一円を明け退くことは
無念の至である。只今はこのようになっても、何れも豊筑両国の事は捨て置かない。立花には名誉の士を
五、三人差し置く。」
として、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、坂新五左衛門就清の三人を立花の要害に籠め捨て置き、
各々一同に引き退いた。この時十二月二十九日であった。

宍戸隆家が殿を成した所に、退き口付近の豊後陣より追撃が千騎ほど、道五十町ばかり追い掛けてきた。
隆家は返し合戦して、追手の者百五十余打ち捨て、豊後衆は引き退いた。
これについて、宍戸隆家の事は申すに及ばず、その家中の者共についても『名誉の三合力』と讃えられた。
その中で隆家家臣の北野新左衛門は鑓下にて討ち死にし、以下二十六名が討ち死にした。

そこよりは心静かに毛利一門その他諸大名は、長門国の毛利元就の陣所に走り参り、かくて隆元は元就に
仰せになった
「今度、宍戸隆家が殿を成し、その三合力は比類ないものでした。それ故一門の者達、その他の軍兵も、
難なく退くことが出来ました。またこの隆元は、存ずる仔細在って、桂元重浦宗勝坂就清、彼ら三人を
立花の城に籠め捨て置きました。」

元就はこれを聞くと「隆家の武勇により一門その他が堅固に退いたこと、三合力浅からず、これもひとえに
当家の武運が長久であるという事なのだろう。また三人を立花に籠め置いた事は、隆元がこの元就の考えを
よく理解しているからであって、軍法はかくこそ有るべきである。そしてかの三人は定めて切腹するであろう。
武士の習いとは言いながら、大き中にただ三人残り置いて切腹すべきこそ、神妙千萬、不憫もまた至極である。」
そう感涙を流された。これを見る人聞く人も、皆感涙を流した。そうではあっても、弓矢を取る者の面目であると
各々感じ入った。

908 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:47.06 ID:7j1OFAgQ
さて、立花の城では大将御引退の後、その夜は残った三人が覚悟し、思い思いのあり方で様々に物語などした。
坂新五左衛門申しけるは「この上は武勇の沙汰も無いだろう」と、武具を脱ぎ置き、帯を解き、焚き火に
当たって背をあぶった。
浦兵部は「死するとも歯噛みという下説がある。生頸を抜かれるのも口惜しい次第である」と、用心を呼びかけ
夜廻りをした。
桂右衛門太夫が申しけるは「この城の状況では、中々今夜は押し寄せて来ないだろう。明日、潔く切腹すべし。
このような寒夜に兵部丞が夜廻りするのは無益である。方々、家人を召し連れてこちらに入られ、酒を一つ
まいられよ。新五左衛門、背あぶりも大概にするのがいいぞ。さあ、こちらへ。」と呼び入れ、
「このような時節であり、座の高下は要らぬ。うち乱れて酒を飲もう。」と夜もすがら酒宴した。

新五左衛門が申した「それがし、宵より焚き火に当たっておりましたが、ここでひとさし、舞いましょう。」
そう言ってこの時出合面と錦戸切を舞った。一入の舞の出来に、上下感じ入った。

そのうちに漸次天は晴れ明け、かくて城中より敵方へことわりを申した
『毛利一門、仔細有って悉く退きて候。ここにある拙者たちは、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、
坂新五左衛門就清、城番として罷り在り候。どうか使いを出して頂きたい。切腹仕り、その上で
御城御請取あるべし。』

このように伝えると、敵方よりこのように申してきた
「これより申す事が、御返事となるでしょう。各々敗軍されたように見及び候。さては両三人、その番として
残られたか。名誉の義共に候。しかし御切腹は中々有るまじき義にて候。何方へなりとも、御望み次第に
送り参らすべし。」

それより互いに使者を立てて、「そういう事であれば羽片(博多カ)へ退くべし」と云い、敵方は軍兵百人相添え
彼らを羽片へ送った。三人は心静かに退き、名誉の義と申された。これは筑前国立花の物語である。

毛利元就記

いわゆる多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について



912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:19:23.69 ID:JgMZTM7o
>>907
元就って九州だと苦戦してるイメージあるなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:43:21.26 ID:oQ0XNDO8
西へ行っても備前や播磨は切り取れたと思うけど、畿内大名や本願寺とかは破れなかったと思う
秋月とかは調略してたらしいが、尼子や大内の残党残してたのが運の尽き

921 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/08(水) 20:52:46.13 ID:TpSfU/aE
元就はしゃらくさいことしか言わないな
嫌われてたのも当然というべきか

943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/10(金) 01:09:40.24 ID:jWZEcqZB
>>907
大友家も異常だよね
この戦いのあとは家老3家に豊後1国を任せちゃうとかさ
下剋上の時代にその忠誠度はどこから来てるのか謎すぎる

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 11:27:16.20 ID:wni+Wks1
>>943
上杉謙信と一緒で国政を司るのが嫌になったんじゃねーの?
キリシタンに傾倒するのもこの辺からでしょ
そもそもコイツに戦国大名としての器はないよ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 12:07:58.69 ID:jWZEcqZB
>>947
確かに宗麟は当主になれたのは後の重臣たちのおかげという負い目があったのかもな
配下が優秀すぎてお飾り当主になっていたのかも

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 13:05:44.59 ID:cs1WhzJ5
若い頃はボンクラ、二家老に擁立されたら強豪、二家老死んだらボンクラ
二家老がすごかっただけじゃね理論成立しちゃうよね

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 14:51:03.68 ID:wfT8RyTh
息子のダメさ加減がその説の後押しになりそう

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 15:53:36.03 ID:tmPlr+RY
二家老しんだあとの宗麟って完全隠居してて一切政策に関わってないってのが最近の研究じゃ?
あとキリシタンに傾倒してないって話と

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:02:20.64 ID:jWZEcqZB
>>951
信長と毛利せめる約束してたり秀吉に泣きついたり動きは活発だと思うけど

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:21:28.18 ID:tmPlr+RY
>>952
泣きつきはむしろ家臣たちが完全隠居してた宗麟に泣きついて一瞬だけ復帰してもらったようであるって話
どうも隠居中に一切裁許とかを出してないようなのよね、宗麟

毛利の家 鷹の羽を継きははしら

2020年04月07日 17:11

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/07(火) 01:42:34.40 ID:GTsReKHF
毛利弘元には三人の男子が有った。
嫡子は毛利庄太郎興元と申す。二男を元就と申す。三男を弘成(元綱)と申す。
毛利太郎弘元の本領は、芸州高田郡吉田であり、かれこれ併せて三千貫の地であり、城は郡山であった。

弘元の死去後、家督は嫡子庄太郎(少輔太郎)興元が継いだ。次男元就には多治比七十五貫の地を分け与えて
猿掛に在城した。三男元綱は如左の地を分け与え。相合に在城した。

しかるに、興元は若くして死去し、興元の子を幸松丸と言ったが、これも八歳にて死去した。
これによって毛利家の家老諸士は相評議したが、元就に家督を継がしめんと云う者もあり、
また元綱を守り立てようという者もあり、未だ詮議まちまちであった所に、元就は兵を起こして
相合押し寄せ、元綱に腹を斬らせ、その一味の者共悉く生害し、その勢いに郡山へ入城して
毛利の家を相続した。時に大永三年八月十日であった。(相合元綱の没年については諸説あり)

元就はその夜の夢に。『毛利の家 鷹の羽を継きははしら』との発句を得て、
翌日万願寺ににて連歌を仰せ付けた。

毛利元就記

いわゆる「元綱事件」と、毛利元就の家督継承について。



美作ハ親以来之忠節存不忘

2019年12月27日 16:25

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/27(金) 01:21:38.89 ID:djal1Yy+
関ヶ原の合戦の後、宗瑞公(毛利輝元)は大阪木津に居られ、私を含めた五三人(十五人)に御暇を下され、
「早々に国元に罷り下り、妻子等を(広島より)引き退かせるように。」との御意を示された。
そして「今回、諸所にて辛労をして貰ったことに対し、感状を遣わしたいが、時分柄如何かとも思うので、
追ってこの事は申し出よう。」
との御意により、三村孫兵衛、村上八郎佐衛門、私(清水景治)の三人が国元に罷り下っていた所、備中水島の
あたりで西国への飛脚船に出会った。これによると
「毛利殿の御身体について、色々悪しく取り沙汰されている。」
と承り、いかにも心もとなく思ったため、そのまま大阪へ取って返し、飛脚船に聞いた話を申し上げると、
重臣の福原越後(広俊)、堅田大和(元慶)が御広間まで迎えに来て、御前へと召し出され、
「有間敷志である」と御意になり、兼光の御腰物をお手ずから拝領した。

「美作(清水景治)が親以来の忠節を忘れず、今回の心がけについても感じ入った。追って知行などを
下すであろう。」と御意になった。
(美作ハ親以来之忠節存不忘、今度ノ心掛ノ段感ニ被思召候、追テ御知行等可被下トノ御意)

それから、井伊兵部(直政)殿の元に初めて御成に成る時、その御供まで仰せ付けられた。
その後、「妻子の落ち着く所を見つけるように。」と、御暇を下された。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/27(金) 07:51:27.93 ID:0I996+LY
>>453
それだけで腰の刀くれるもんなのか

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 09:54:13.19 ID:VYx0cm20
>>457
気分次第じゃね?
政宗みたいに盗って逃げても許されてる奴もいるし

筋目の事ですので

2019年12月24日 18:14

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 17:25:07.07 ID:5KvSs45W
筑前中納言秀秋が小早川隆景公の御養子となられ、その節に私(清水景治)も中納言殿に仕えた。
当時、知行三千石であったのだが、山口玄蕃宗永(秀吉より秀秋に付けられた家老)の申す所によれば、
「清水の事について太閤様が度々仰せになられていると承っている。そのような人物に三千石では
隆景公が不足に思われるだろう」という事で、五千石を下された。

その後、筑前中納言殿は越前へ御国替えとなったが、この時私はお暇を頂くことを申し上げ、
「筋目の事ですので、宗瑞公(毛利輝元)に御奉公したいのです。」
と申した所、石田治部少輔(三成)より、安国寺恵瓊が使いとして参り
「宗瑞公に仕える事は断念し、中納言殿の元に参るように。そのようにすれば当面三百人扶持の上、
七千石が与えられるだろう。」
そう申して来たのだが、これを断り、御家(毛利家)に罷り帰った。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

石高増やしてもらっても金吾の所は嫌だったらしい清水さん



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 18:56:03.58 ID:/YRjfqII
>>684
ただの忠義者ではなく見る目もあったなw

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 20:16:09.32 ID:ZCiNnBz+
>>685
無嗣断絶は置いといても、転封が多すぎてやってられなかったろうなぁ…。

丹波亀山 10万石→筑前名島 30万石→越前 北ノ庄 15万石に減封→また筑前でなぜか50数万石に加増→備前岡山55万石。

たったの数年で何回転封してるんだよ…

687 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/25(水) 10:20:38.11 ID:wAqUySn3
七光だけで出世したって言ったら金吾殿に失礼かも知れないが、若くしてあまり苦労や現場経験少なくして大名となった人だから、隆景さんの譜代からしたら不満は多かったろうとは思う。
秀吉系からの家臣ですら諫言した者がムッコロされたりしてるし…

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:21:37.21 ID:PEKeR4Zy
養子ともなれば派遣元からぞろぞろ上層部に入ってきて元々いたのが締め出されるからね
早目に退去するのが正解なんじゃない?それに毛利に帰属すれば地元に戻れるわけだし

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:53:53.99 ID:fTTdlNyz
>>686
現代で言うところの社長のバカ息子(三男)って感じだな…

清水景治と朝鮮の役

2019年12月22日 17:18

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/22(日) 03:32:34.06 ID:KhFbavMu
高麗御陣の時、私(清水景治)は小早川隆景隊に属し辛労を仕っていた所に、高麗の都に至り、
蔚山の城が小西摂津守(行長)に仰せ付けられた。所がここに大明勢数万騎が押し寄せ、これを
攻め破ろうとした。これに備前中納言(宇喜多秀家)が先手をすると仰せになり攻めかかったが、
散々に仕損じたため、代わって小早川隆景に先手が仰せ付けられ、立花飛騨守(宗茂)殿もその
一手として仰せ付けられ、同じ場所で合戦に及んだ。

その時私は、鉄砲百挺を御預けされ、井上五郎兵衛の一手として、一番備にて働いた。二番備は
粟屋四郎兵衛に佐世與三左衛門が鉄砲百挺で在った。

大明勢は大敵であり、味方は一度は踏み留まったものの、中々の強敵であったため叶わず、味方は
崩れ足になった所を、清水五郎左衛門(景治)が踏み留まり鉄砲を撃ち立てたため明軍も引き足となった。
ここで一番備、ニ番備が明軍ともみ合いになり、終に勝利を得た。この時、日本の諸侍は多く討ち死にし、
当家(小早川家)の歴々も討ち死にした。

その日の働きについて、清水五郎左衛門は「自身が踏み留まった為に勝利を得た」と申し上げた。
井上五郎兵衛は「某が踏み留まった故に、相組の諸勢も踏みこたえたのだ。」と言上した。
粟屋四郎兵衛は「一番備が崩れたにもかかわらず、ニ番備が堅固に控えていたからこそ、一番備も
大崩れすることが無かったのだ」と申し上げた。

これについては、互いの詮議、上よりの御下知も済まないまま日本への帰陣となり、名護屋に於いて
詮議を成すこととなった。

ここで、右の三人は、同じだけの働きがあったと御詮議相済み、
井上五郎兵衛粟屋四郎兵衛、其方(清水景治)は、同意の働きであり神妙に思し召す』との御感状が
下された。残りの二人(立花宗茂、佐世與三左衛門)にも、同じ御文体にて御感状が遣わされた。
並びに、同日に印二つの御感状下され、一日に両度の御判物を頂戴仕り置いたのである。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

清水景治の朝鮮役での活躍と、戦功の認定が意外とめんどくさいことに成ってたらしいというお話



親の長左衛門はその一命を毛利家の用に立てました

2019年12月21日 19:46

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 11:20:34.49 ID:1c6R1sst
備中高松城の戦いより二、三ヶ年の後、小早川隆景、吉川元家は御上洛され、太閤様(豊臣秀吉)より様々に
饗された。その上で「陸地の仕置」(境目の確定)を頼むとの御意にて、黒田官兵衛殿を差し添えその作業を
成していた頃、清水宗治の遺児である清水源三郎(景治)は、この境目が未だ確定していない状況の中、
所属の決まらない、備中の河辺牢人のような体でそこに在った。

この時、小早川隆景公、黒田官兵衛殿は源三郎の私邸に立ち寄られるとこのように申した
「この度、太閤様の御意に、清水宗治については比類なき者であり、その子供が有るなら御自分の元に差し上げ
るように、知行などを遣わす。との仰せである。」

これに対し源三郎は答えた
「御意の段、千萬忝き儀であります。しかし親の長左衛門(宗治)はその一命を毛利家の用に立てました。
である以上、私も輝元家中に在って奉公仕りたいと考えています。」

これに隆景公、官兵衛殿は
「尤もの申し様であり、比類のないものである。仰せに成ったこと、太閤様に能々申し上げよう。」
と仰せになった。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 20:02:04.90 ID:HFnBUg40
>>428
ボロはきてても心は錦!

カヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候

2019年12月20日 19:07

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 11:30:47.88 ID:dQahfqyj
小早川隆景公が分国を巡廻なさっていた際、高松城にも立ち寄られ、清水長左衛門(宗治)についていよいよ
信頼を深められ、備前岡山との境目を御預けになり、高松の城普請など仰せ付けになった、その他、備中備前の
境目の諸所に小城を吉田衆、三原衆のために置いた。このように大事の境目を預け置かれたのは、隆景公が
清水長左衛門の無二の覚悟を御覧になっての事であるが、長左衛門はさらに  隆景公が御安堵なされる為に、
息子の源三郎(後の美作)を人質として三原へ遣わしたのである。

その後、天正十年卯月(四月)中旬、備前岡山に羽柴筑前守(秀吉)が到着し、翌日、備中の宮内と申す所に
蜂須賀彦右衛門(正勝)、黒田官兵衛(孝高)が使いとして訪れ清水長左衛門に面会し、長左衛門に対し
織田信長公の御誓紙を以て、『備中国を与える、織田方の西国の先手と成るように。』と仰せ聞かせた、

この時、長左衛門はこう返答した
「辱き次第、冥加至極の御意であります。ではありますが、近年私は、毛利輝元、小早川隆景より備中境目の城を
預け置かれております。であるのに今、信長公の御意だと言われても、それをお受け申し上げるとお思いなのでしょうか?
その上、御意に従ったとしても、そのような卑怯者に一国を下し置かれるのは、信長公に対する以ての外の御無礼に
なるかと存じ奉ります。(其上随御意候テモカヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候。)
この事、然るべく仰せ上げください。」
そう申し切ったのである。

これについては、信長公の御誓紙一通、羽柴筑前守殿の添状一通を相添え、輝元公、隆景公へ上記の趣を書状として
調えこれを上げ申した。現在も定めて御註書の中に有るかと思われる。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



これにて異議なく奥郡も隆景公が手に入れられたのである

2019年12月18日 17:40

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/18(水) 15:08:24.44 ID:fk6UWCwO
備中国の沖郡半国は、石川左衛門佐殿が旗頭であり、その下に一郡半郡の大将である、長谷川、清水、
林、鳥越、尾石、上原、中島、などといった歴々の侍が持ち固め、隣国からの侵入を防いでいた。
また同国奥郡の内を、須々木、秋山その他にて持ち固めていた。

ところが、石川左衛門佐殿に実子がなかったため、奥郡の内、須々木、秋山の一家より養子を取り、これに
高松城を渡して後に相果てた。この養子は筑前守と申したが、これも若い頃に相果て、男子が無かったため
高松城は城主の居ない事態となった。そこで旗下の者達が内談し、筋目の儀である事から、須々木か秋山と
談合して城主を定めようと申していた。

このような中、清水長左衛門(宗治)は高山という城に在ったが、彼は「侘所の者を我々の旗頭と認めるのは
心外な事である。願わくば私が下知をしたい。」と考えていた。この時長谷川と申す者も、高松城主と
成ることを望んでおり、どうなるのか心許ない状況であった。

そのうちに、長谷川方の内談として、「清水長左衛門も高松城主を望んでいると伝え聞く、とにかく先手を
越されては厄介なので、折を見て長左衛門を滅ぼそう。」という話が伝え聞こえた。

永禄八年八朔の出仕の日、諸侍が残らず登城した時、清水長左衛門はこの長谷川を手討ちにし、旗下の衆に
「今日より高松城主は私に定まった!野心の衆が有ったため只今存分にした!」
と申し渡した所、これに否を唱える者は一人もなく、「そういう事ならば人質を申し受ける。」と、
残りの者達より四、五人の人質を城中に取り込み、それより様々に下知を加え、以降国中が固まったという。

その後、毛利家が各地で強盛となり、備中沖郡についても小早川隆景公の御旗下となった。
ところがこれに関して、須々木、秋山らが手切れを成した。この時は因幡国鳥取籠城の時期で、
清水長左衛門はこれに出陣していたため留守をしており、息子の才太郎は当時八歳であったが、高松城下の
小川で五、八人の体にて遊びに出ていた所に、須々木、秋山より、忍びの者数人が密かに高松城近辺に
派遣されており、この時才太郎を拐い人質に取って帰った。

長左衛門が留守でもあり、取り返す手段もなく、城の留守居より因幡国へ注進がなされた。これを
隆景公に申し上げ、清水長左衛門は帰国して須々木、秋山と和平の手を遣わしこれを調え、才太郎の兄弟を
須々木の娘へ遣わすという事で、才太郎を取り返した。そして又すぐに因幡へと出陣した。

その後、因幡は毛利家の御利運となり、帰陣の際に備中奥郡も支配下に置きたいとの、隆景公より御談合があり、
須々木、秋山を「舅入の祝いである」として饗し、高松へ呼び寄せた所を討ち果たし、これにて異議なく
奥郡も隆景公が手に入れられたのである。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

清水宗治も非常に戦国の国衆らしい動きをしていたのですね。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/19(木) 09:02:13.80 ID:uE+yDcay
>>681
清廉潔白なイメージが…w

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:51:58.76 ID:R4W40bDn
好い人では生きていけないのか

人の命を助ける事は無類の儀である

2019年12月10日 11:59

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/09(月) 14:00:37.81 ID:Z8vJYSBu
文禄の役の折

その頃毛利秀元公は広島に在り、輝元公は高麗に居られたが、秀元公に輝元公より木下半介(吉隆)殿の
ご依頼ということで、彼に同行し名護屋へと向かった。赤間関に到着したその日、豊臣秀吉公が小倉に
到着されていた。これは秀吉公の母である大政所様がお患いであるとの事で、俄に上洛をなされその日
ここに至ったのである。この事を知り、翌日にはまた京へ向かわれるとの事で、秀元公は
「赤間関より早舟を立てて、明日小倉に参るべきではないでしょうか。」と半介殿に内々に伺った所、
「明日早々に小倉に到着するようにしましょう。」とのご返事であり、夜中に赤間関を出船して
翌日早朝に小倉に参上した。

到着すると半介殿は秀元公に「早々にこちらに参った事で秀吉公の出発前に間に合ったのは一段と良かった。
現在は朝食の途中とのことですが、先に御報告しておきましょう。」と秀吉公にお知らせした所、
二人が早々に参上したことを執着に思召になり、食事の途中では有ったが「対面する」と仰せになり、
秀元公は半介殿と同道して御前に出、盃を遣わされた。そしてすぐに広島に向かうとの事で、即座に
出船して秀吉公の上洛の供をした。

秀吉公の御座船には多くの櫓がついており、早くも広島まで半分ほど進んだが、この時船が止まり、
御座船より扇子にて後の船を呼ぶ様子が見えた。秀元の船に同乗していた福原大炊がこれに気が付き、
「何か有ったのか」と各々不審に思い、船頭に「あの辺りに岩礁などは無いか?」と尋ねた所、
「岩礁があります。きっとそれに掛かったのではないでしょうか。」と申したため、秀元公は
「そういう事であればこの船にて急ぎ御座船を岩礁から押し出そう。」と、水夫一人と小姓衆
一人だけを付けて御座船を押しに向かった。この時お供の船は数多あったが、真っ先に御座船を
押しに行ったのは秀元公の船であった。

この時、秀吉公は裸で、船より木下半介殿が抱きおろし、船が座礁した岩礁の上に先に降りていた
三十歳ばかり二人がこれを請けた。この時、船がこの岩に漕ぎ着き「これは大夫船です。お召しに
なられますか」と申し上げると、秀吉公はそれに乗船され、船の屋内にお入りになると、十八、九歳
ばかりの小姓に練の羽織を後ろより持ってこさせそれを召された。

この時、秀吉公に「船を赤間関に返しましょうか、それともここから直に上洛に向かいましょうか。」と
申し上げた所、「先ずこの磯に着けろ。」との御意にて、船を海岸に寄せそのまま上陸された。
御供の船も尽く磯に付け皆上陸し、秀吉公の居られる場所に集まった。そのような中、秀吉公は
このように仰せになった

「今日の右京太夫秀元の忠義は実に浅からぬものだ。戦場において苦戦している時に横槍を入れて
勝利を得させる、という事は間々有るが、今日のように人の命を助ける事は無類の儀である。
私は常日頃から、あの子は一廉の者であり、輝元の養子として相応しいと思っていた。
今回広島においてまたそう思ったが、これとても自身の忠義とは思わぬよう分別している。
これは、輝元が大名として日本一恵まれた人物であり、常々無為でいても、それが自然に顯れて
最初に船を漕ぎ着けるような行動ができるのだろう。

私も親への孝行の道のため上洛を急いでいた。故に天道私無く、難を逃れさせたのであろう。
右京太夫も輝元への孝行が肝要であるぞ」と仰せになった。

この時、金吾(小早川秀秋)を輝元の養子にという取沙汰があると聞かれたが
「これは如何様にも有るべき事ではない。この太閤もたいへんな辛労によって得た天下を
他人に渡したくは無い。遠い親類では有るが、三好治兵衛(豊臣秀次)遣わし、関白の位に成し、
四万の人数を添て聚楽に置かせている。これに比べても輝元は親類歴々であり、何れであっても
小早川隆景と相談した上で後継を定めるのが尤もであろう。であるのに、金吾を養子になどと
いうのは一体誰が言い出したのか。曲事でありかたく糾明する。」と仰せに成られた。

御当家(毛利家)を御大切に思召し、御入魂一廉ならぬ思いは大方ならないものであった。

(老翁物語)

秀吉の御座船座礁事件の時のお話。なにげに小早川秀秋を養子にするという話が言及されてる。



そして信長公と御当家の間は手切れと成った

2019年11月24日 17:27

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/24(日) 11:57:49.42 ID:QkJb/iy2
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。

信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。

そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。

城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。

(老翁物語)

大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。



彼の地域では珍しい物を音物として

2019年11月23日 19:26

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/23(土) 11:41:45.32 ID:u64zbpa/
毛利輝元公の御意に、
「その家々が繁栄する時には、その影のように成ってこれを輔ける臣下が出来るものである。
ある時元就公は御談合衆のうち、児玉就忠を召し出され、諸方の国境地域の衆に音信を怠らないよう
仰せに成った。

『境目の誰々には最近音無しであるので、使いの者を必ず遣わすよう考えているが、その時は
彼の地域では珍しい物を音物として届けるよう支度しておくように。』

これに児玉就忠はこのように申し上げた
『その事でありますが、かねてより御使者を遣わされる時のために、私の方で差し回して、かの地方には
無い物を2、3種類支度して置いてあります。その品物はここに書いてありますので、そこから
仰せ付けに成って遣わしてください。』

そこで元就公はすぐに、その家々に相応の、語り方や容姿の然るべき人物を選んで使いとして遣わした。
このようであったので東西南北いずれも存分となったと、常々心安い者達へ御物語されていた。

相手が忝ないと思うようにと、いつも繰り返し仰せに成っていた。それ故に、その方面に退治すべき
勢力が出た時には、彼らは山を越えて我等に人数を遣わし、我勝ちに馳走こそするが、我等に対し
通路を遮断するような事をする衆は居ない。当然我等はそれぞれの地域の城々に油断なく手当をして
いるが、普段より良い関係を構築しているからこそ、人々が心安く往来できるのだ。

古い書に『故得萬國之懽心、以事其先王。(あらゆる国の歓心を得ることが出来てはじめて、
亡き先王の祭祀を行うことが出来る。』とあるが、それに叶った話であろう。」

(老翁物語)



ただ日夜共に武略調略の工夫が肝要

2019年11月22日 19:23

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 02:25:54.06 ID:N8a38xM2
毛利元就公の元には、立花(りっか)の上手、花道の達者、乱舞の者、盤上の名人、以下諸方より
御音信が参るため、それぞれに相当の処遇をされている。
国内にはどの国にも遊民が有って、一芸一能にたずさわる小人が多い。そういった者達は
執心稽古を当然のこととしてさせられ、それぞれ御用の時に召し出される。

元就公は、御家中およびその他の御弓箭の御手子衆などへは、内々にそのような小芸に執着しないよう
御下知が有った。その証拠として、御自筆にて書き置かれた書のうちに、このように有る

「一芸も入らず、能も入らず、遊びも入らず暦も入らず、何もかも入らない。
ただ日夜共に武略調略の工夫が肝要である。」

このような事が書かれた五ヶ条の文書があり、これを読み聞かせられた時に承った。

(老翁物語)

毛利元就の「ただ調略が必要」という話の元ネタがこれですね。



377 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/22(金) 07:48:44.92 ID:Khr9wJhF
織田信長「部下の礼法があまりになってないとか、色んな理由から茶の湯を推奨するわ」

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 08:35:45.76 ID:g6vTlgXm
>>376
大内さん…

当家が弱目に成ってしまえば人心も変わる

2019年11月20日 18:01

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 00:26:58.40 ID:Ok6QNADL
毛利元就公が6,70歳の頃、永禄七年に当たるか、御自筆を以て毛利隆元公、吉川元春公、小早川隆景公に
十四ヶ条、また三ヶ条にて御意を伝えられた。このうち他に漏れても構わない内容であったのだろうか、
端々を承った内容をここに記す。

一、前々から申していたことだが、あえてまた申す。三人(隆元、元春、隆景)の内、少しでも我を
  立てるような事をすれば、ただただ滅亡と心得るべきだ。たとえ仲が悪くなる事があったとしても、
  一人も他に漏らしてはならない。たとえ面目が傷ついても、名を失ってしまっては一人二人の
  面目など何の用に立つというのか。良くない事である。

一、隆元については、元春隆景と協力し、内外のこと共に相談すれば、何も問題はない。
  また元春隆景についても、当家(毛利家)さえ堅固であれば、その力を以てそれぞれの家に
  存分に申し付けることが出来る。現在、どれほどそれぞれの家中に存分に申し付けることが
  出来ているとしても、当家が弱目に成ってしまえば人心も変わるものだ。両人もこの心持ちが
  肝要である。

一、この間も申した事だが、元春隆景に何か間違いが有れば、ひとえにひとえに隆元が親の気持ちを
  持って堪忍すべきであり、また隆元に間違いが有ったとしても、元春隆景の両人は隆元に従わ
  なくてはならない順義である。元春隆景の両人は、もし当家に居たままならば、福原桂といった
  家臣達とともに何が有っても隆元の下知に従わなければならなかったのであり、現在他家を率いて
  いるとしても、内心ではその遠慮を持つべきである。孫子の代までその謙譲が有って欲しいし、
  それが有れば三家は数代を保つことが出来るだろう。そう有ってほしいが、現在は末世であり、
  そういうわけにもいかないだろう。しかしながら三人、一代づつこの事をしっかりと心得て
  おけば、名利二つを失うことは無いだろう。とにかく、当家の為には、別に守るための方法は
  無い。この定めは三人のためだけに固く申し渡すのではない。その子供までも、これを守るように。
  張良の兵法書にも増して、これを申しておく。

  現在のように三家が無二の関係を続けていれば、縁起でもない話だが、国内の者に寝首を掻かれる
  事も無いだろうし、他家他国の脅威もさほどでは無いだろう。

このように仰られた。御本家を肝要に取り立てるようにとの深き御心中が、御子、御孫までも伝わり
御家長久となるようにと、深く思われていることがはっきりと理解できる。君子は務本本立道成と
申す。こう言った事はおのずから叶うことが有るだろうか。また書には、曲がっても諌は直し、
君聞諌則聖人と申す言葉が常々書かれている。

同時に臣下たる人は忠を専らに守る心持ちの内に、君主の過ちを正し、外には君の誉れを挙げるべしと
書かれている。
例えば、安国寺恵瓊が広島城普請場において、普請奉行を叱りつけたことが有ったが、この時大声で
「だいたい上の申し付けが悪いからこのようになるのだ!(惣別上之仰付様悪敷に付て如此に候)」
と申した。この事を輝元公が伝え聞かれ、安国寺が御前に罷り居た時に、事のついでにこの噂を
語られ、安国寺の言ったという言葉も引用されて仰られたため、安国寺は殊の外難儀したという。

(老翁物語)

三子教訓状の話と思ってたら最後に安国寺さんがとばっちりを受けていた。



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 00:33:03.68 ID:xbymrJY/
後世では隆元は影が薄いけど、元就から見て毛利本家を任せられる逸材だったんだよな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 05:37:04.71 ID:Gvoy7/9T
元就の誤算は隆景が女嫌いだったことだろう
ちゃんとした跡継ぎさえいればなあ

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 05:40:56.16 ID:Xmj/VIq6
元就何才やw

367 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/20(水) 06:49:00.11 ID:LbFGzYjF
>>365
義隆「ホホホ、麿の教育が良かったでおじゃるな」

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 10:24:21.00 ID:E3OwGiOx
上司の愚痴は誰にも聞かせてはあかんのやな

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 11:02:29.36 ID:vN8VC9T8
息子3人は仲良しでも孫世代まで協力し合える保証はないわな

371 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/20(水) 11:06:53.51 ID:GV/vynuH
仲良くせよだの団結しろだの言う家に限って兄弟仲は最悪なんだよねえ

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 20:39:38.67 ID:1mY699y5
部下たちは毛利家のこと屁とも思ってないからせめてお前たちだけでも団結してないと明日には滅んでるちゅう
大名権力の弱い毛利家においては切実な話なんだよな。兄弟仲良くとか和を以ってとかそんな生易しい話じゃない

374 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/21(木) 09:43:49.25 ID:IthvKK8r
それこそ、元就自身も異母弟元綱を討ち果たした過去があるし、尼子や大内の内紛も見て来て思う所は多々あったろうからねぇ

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/21(木) 17:06:26.51 ID:zCB9AkGY
吉川家小早川家乗っ取りエグいしな、宇喜多を悪く言えないレベル

御奉公ほど難儀なものはない

2019年11月19日 17:38

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/19(火) 05:28:15.75 ID:F/WKH0BG
現在は天下御一統の御代となり、私戦によって他国を謀り入れる事は無くなった。

当時、戦乱の世の中だった頃は、国々で私に取り合いをして、その領地を得るのは手柄次第という
世の中であり、他国に調略のため遣わされた衆などは、相手も警戒しているため事々に咎められ、
戒められた。なんとか縄抜けなどをして帰国することが出来た者も、その帰路様々に考え

「世を渡る業の中でも、御奉公ほど難儀なものはない。今度まかり戻ったあかつきには、
やがて許可をとって実子養子などに所帯を譲り、私は奉公から抜けよう。」

などと思って帰国し、出仕するのであるが、主君と対面し御盃を下され、働きの様子など尋ねられ、
それを聞かれ少々の御落涙までなされ、様々に忝ない御意を与えられた時は、ある歌に

 いく度か 思ひさためてかハるらん 頼むましきは心なりけり
 (何度思い定めてもいつもその決心は変わってしまう。 頼みにならないのは心というものである。)

と申す如く、人の心というものは移ろいやすいものであり、この時にはまた
「明日にも御用を仰せ付けられれば、どこであっても参ろう!」
などと存ずるようになってしまうのだ。これは古き衆の申したものである。

(老翁物語)



592 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/19(火) 06:12:13.64 ID:c7+9ePhx
現代社畜の1人ですが、今も昔も変わらないんやなぁって思いました。

あまり顕栄でない血統の一貴族

2019年08月28日 16:01

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 22:09:29.53 ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述



日本をすべて取ろうと思ってようやく中国を

2019年05月11日 16:18

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 18:57:48.09 ID:Gwg6W1io
毛利元就公が幼くいらっしゃった時、厳島へ社参あり。帰って殿原の男女に「今日は何を宮島の明神
に願い奉ったのだ」と問い給う。

皆人は幼い人の気に合うように「奉公」「冥加」「寿命」などとそれぞれに答えた。その中で守りを
致す男は申して「私めはただ『この殿に中国をすべて持ち参らせたい』と祈誓致しました」と言えば、
元就は「中国をすべてとは愚かなり。日本を持つようにと祈誓申すべきだったのに」と言われた。

これに皆人が「まずはこの辺りを尽く取りなさってこそですよ」と申せば元就は立腹して、「日本を
すべて取ろうと思ってようやく中国を取ることであろう。中国を取ろうと思って、どうして中国をも
持てようか!」と宣った。その時の御歳は12歳と聞く。

案の定、元就の代に中国が手に入り、今でさえも“安芸の毛利”と響く大身である。されば『栴檀は
双葉より芳し(大成する人は幼少の時から優れている)』とは、よくぞ申し伝えたものである。

――『甲陽軍鑑』



906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 20:29:58.26 ID:rMI7MG+6
>>905
12歳でも計算高いなぁw

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 20:53:59.33 ID:brzP8IkX
>>905
2位じゃダメなんですか!?

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 21:14:40.36 ID:tNUlN6iX
中国を取るための戦略と日本を取るための戦略は全然違ってくるんだよな
日本を取ろうとしたら、全国の大名を敵に回すわけで

909 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/10(金) 21:35:01.71 ID:4XCzLV2d
>>907
毛利松寿丸「1位を取る目標持って努力して初めて2位が狙えるつってんだろ!」

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 21:42:47.93 ID:nTshZK3o
元就:と、思っていた時期が俺にもありました

行動した結果天下なんか真面目に狙っちゃダメだなと

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 22:24:52.36 ID:f3mHY3R/
この頃の元就って元服はしたものの貧乏のドン底でそんなこと考えてたりしたんかね

912 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/10(金) 22:47:06.89 ID:4XCzLV2d
>>911
それを言ったら>>900の竹千代も人質生活で果たしてそんな考えに至れたかと疑問が…

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 23:18:31.14 ID:bc2V/lVZ
この守り役が願ったせいで元就が継げるはずのない家督を継げて中国まで取れてしまった

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 23:34:20.89 ID:f3mHY3R/
>>912
環境を引き合いに出すなら家康より直家のほうが近いと思うなあ

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 08:13:28.60 ID:nJ8lyRTl
明国を征討しようとは大望をお持ちのようだ

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 12:21:03.60 ID:qZml1MU0
毛利元就も子供の頃は城を追い出されて貧乏だったのか
すごい教育者に恵まれたのかも

917 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/11(土) 16:11:06.93 ID:dlT+Egt3
>>916
実母ではないが、我が子のように育てた杉の大方と言う養育者がいらっしゃってだな

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:08:30.96 ID:ggwwNySy
大河では松坂慶子だったかね

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 23:02:49.40 ID:zhkN+qLV
>>905はいかにも江戸時代の後付けエピソードだと思うけどな

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 23:59:01.47 ID:q+gR2xjB
みんなそんな事承知で言ってる事が分からんとは

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/15(水) 16:20:43.41 ID:yspzPQMw
>>915
中国地方のことだぞ

相合元綱謀殺

2018年10月13日 17:57

306 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/13(土) 17:01:04.74 ID:MXurdPMO
鏡山合戦の後に毛利幸松丸が幼くして死去した後、合議により毛利家の家督は元就が継いだものの、
家中ではそれに反対する動きも有り坂広秀、渡辺勝らが元就の異母弟、相合元綱を擁立して尼子家と結んで元就に対し叛旗を翻す企てが立てられた。
いち早くそれを察知した元就は先手を取ってお抱えの琵琶法師、勝一を弟の元へ送り込み、ある日夜更けまで弾語りを聞かせて屋敷の者共が眠たくなった頃、
勝一に琵琶の音で合図をさせあらかじめ伏せていた兵に屋敷を強襲させた。
襲撃に気付いた元綱と30名ほどの家臣が抗戦し、元綱自身も鎗を持って古の源九郎判官義経の如き軽業で三間程の空堀を飛び越え奮戦して数多の敵兵を討ち、
300ほどの討手の兵を一時二~三町退かせはしたが深入りした所を討手の大将、志道広良の指示で矢を射かけられ、何本かの矢に貫かれて動きが鈍くなり、空堀に落ちた所を鎗で突き伏せられた。
元綱は伏せながら敵方の鎗を7本まで取って撥ね返したものの、数多の兵の手により終にそこで討たれてしまった。

(陰徳太平記 相合就勝謀叛付生害之事)

陰徳太平記では何故か元綱ではなく元就と元綱の弟である筈の就勝の名で書かれている



307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 17:20:47.52 ID:Pbt1Zx4y
>>306
義経並って凄い褒めようだね、やっぱり謀殺した負い目があって持ち上げたのかな。

309 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/13(土) 18:00:20.63 ID:9feaRx68
>>307
兄である元就に付き従い有田の戦いでも倍の兵だった武田勢相手に活躍しているから、武勇に優れているのを今義経と言われたのか
若くして仲違いして(異母)兄に討たれる事になる武勇に優れた(異母)弟と言う境遇から今義経と言われたのか、どっちなんだろうね?