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沈痾によって臥せ

2022年03月28日 19:11

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/28(月) 18:00:38.53 ID:oDQvJ5ak
天正十五年(1587)春、毛利右馬頭(輝元公)は、関白大相国(豊臣)秀吉公が島津征伐のため
御動座された時、輝元は豊前小倉に在ったのだが、そこに於いて沈痾(長く治らない病気)によって
臥せ、吐瀉、下血が止まらなかった。心臓の下に堅いしこりがあり、左脚脛が腫れ、高骨に痛みがり、
更に歩行も出来なかった。

私(曲直瀬玄朔)は殿下の命によって小倉に至り、これを治療した。
十数日ほどすると、足の痛みは大半減じ、輝元は馬に乗って、豊後を経て日向に入った。
私もそれに従い、治療を続けた。

島津降参の後、豊臣軍は撤収したが、輝元も安芸吉田に帰り、秋の末に至って病は平復した。
そのため私も帰洛した。

この治療において、初めは朮苓、陳通巳役乳、近膝参甘の類い、後は参朮苓、甘霍朴、半貴、青芍、膠帰の
類いを処方した。出入りの加減によって平安となった。

医学天正記

九州役の時に毛利輝元が病に臥せていたらしいというお話


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頼朝河田を斬るは天下定まるの時なり

2022年03月04日 19:39

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/01(火) 20:49:46.34 ID:tG55Aeij
朝野雑載」から
若山の城(陶氏の本拠地)に陶尾張守(晴賢)が嫡男、五郎(長房?鶴寿丸?)たて篭もりける。
陶五郎が家人、野田寺内(野上房忠?)、五郎を殺し、その頸を元就へもちきたる。
昔頼朝奥州の泰衡を討ち給いしとき、泰衡が家人河田次郎という者、主君を討ちてその頸を頼朝に献ず。
頼朝河田が悪逆をにくみて斬る。
しかれば元就も野田寺内を誅せらるべきなるに、何とて助けおかれけるぞ。
頼朝河田を斬るは天下定まるの時なり。
元就野田寺内を助けらるるは、国家いまだ定まらざるの故なり。

長房は自刃だし、鶴寿丸は野上房忠に殺されたとはいえ、房忠は主君に殉じてるしよくわからない



釜ヶ淵の化生

2022年02月19日 15:52

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/18(金) 21:17:33.64 ID:Y94FHw/O
天文三年(1534)、芸州吉田、釜ヶ淵に化生の者が出て、近辺の男女児童を掴んで淵に引きずり込んだ。
民間の者達は恐れ、この地域の往来が絶えた。
大江(毛利)元就はこれを聞くと、「早く退治すべき」と下知をしたのだが、家中の者達は
「大蛇か、鬼のたぐいか」と衆議喧々にして、あえて進み出る者は無かった。

この時、荒源三郎元重という者が、「大蛇、鬼の類であっても、壮勇を以て退治すれば容易いことだ。」と、
この役目を引き受けた。彼は身長七尺(約210センチ)、十人力と言われる大男で、太刀を取って
釜ヶ淵に行き、裸に成って下帯に太刀を差し、水の中に入ると

「この淵の化生、確かに聞け!人民を悩ますその咎によって殺害の為、荒源三郎元重、主命を
承ってここへ来た。出て勝負せよ!」

そう大音に呼びかけると、淵の底鳴り響き、逆波立って水は岸に溢れ、源三郎の両足が水中より
ひしと取られ引きずり込まれんとした。源三郎は足を掴んでいるその両手を取って引き合ったが、
まるで山の如く動かなかった。その者の面を見ると、それは淵猿(河童)であった。

源三郎は兼ねて『淵猿は、頭頂部のくぼんだ所に水があると力があるが、水のないときは力がない』と
聞いており、これの頭を執ろうとしたが、滑って非常に執りにくかった。しかしどうにかして終に
頭を掴み、逆さまにして振り回すと、頭上の水が溢れて力が弱った。これを持ち上げて岸に上がり、
縛って城中へ連れ帰った。

元就は源三郎の勇猛を賞して、加増五十貫、来國行の太刀を賜った。しかしこれに源三郎

「私は数度の戦で敵を討ち取りましたが賞禄は少なく、ですが更に不足とは思いませんでした。
今、この畜類を生け捕ったとして過分の恩賞を頂くのは、却って不快です。」

そう打ち笑って、恩賞の刀を置いて退出した。源三郎にとってその功は誇るべきものでな無いのだろう、
と云われた。

志士清談



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/18(金) 21:53:49.13 ID:lZwU7FsR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3822.html
柳田國男も書いてるようだから調べたら
山島民譚集の「河童駒引」に「老媼茶話」にその話があると書かれていた。(自分が読んだ「老媼茶話」にはなかったが)

ついでに柳田國男によれば、
この話は仁徳天皇の御代に吉備の川島河の縁において笠臣の祖縣守という勇士がミズチを退治した話とよく似ているが偶然だろう。
「武家高名記」「陰徳太平記」「志士清談」にも同じ話があり(南方熊楠氏のご教示による)
芸藩通志の高田郡吉田村釜淵の条には、荒源三郎(井上元重)がカワワラワを生捕りした故跡と書かれている、らしい

今そ引きる安芸の元就

2021年10月30日 16:25

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/30(土) 15:00:27.07 ID://LSt/4J
出雲の白髪という城は山陰道の名城であり、この城に籠もる者は幼い童が白髪になるまで成長しても、
曾て落ちることのない城であるとして、白髪城と呼ばれたそうである。さらにこの城を毛利元就
攻めるという時、尼子方である城内の者たちは籠城を覚悟して糧米、馬料、塩、味噌に至るまで
よく貯えておいたため、月を超えて年を経ても、城内には倦労の気色も無く、却って折々切って出て
旺盛な武威を示した。このため、知謀深き元就も攻めあぐね、石見国の銀山より金堀子を召し寄せて、
白髪城本丸の下を目当てに穴仕寄を掘らせた。

この時、城中より何者であろうか、一首の狂歌を読んで洗骸の陣の外構に立てた

 元就は 白髪の糸にむすほれて 懸もかからす引もひかれす
 (毛利元就は白髪城に絡め取られて、攻勢にも出られず撤退も出来なくなっている)

元就は歌道が中国においてその名のある人であったので、即座に返歌をして、白髪の岸涯に立てられた

 義久か命と頼む白か糸 今そ引きる安芸の元就
 (尼子義久が生命線として頼っている白髪城の、その糸を今こそ引き切るのがこの安芸の元就である)

宍戸記

尼子側の狂歌を得意の歌道で見事に返した毛利元就のお話。



759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/31(日) 10:44:47.71 ID:K9T+0l0d
石見銀山が欲しくて本城を謀殺したら降ってた尼子方が‥
謀将のイメージあるけど結構失策多いね

私一人当城に残り留まって

2021年10月23日 16:25

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/23(土) 15:12:10.36 ID:ME8xMoQB
宍戸家の譜代の侍である中村四郎兵衛尚種は、石見国矢筈の城の加番として籠め置かれていた所に、
尼子勢がかの城を取り囲んで攻め働くこと、天柱も折れ坤軸も砕けるほどのの激しさであった。
このため城番の諸卒は日々夜々落ちていき、ついには尚種ただ一人が残った。
彼は尼子勢を程近くまで引き請けると矢倉に上り、敵勢に矢留を乞うて声高に叫んだ

「当城は毛利方が相抱え、そのため各方が取り囲んだ所、城番の者たちは番頭を始め
腰抜けの集まりであったので皆々落ちていった。

私は、宍戸安芸守隆家より加番として差し籠められた中村四郎兵衛尚種と申す者である!
誰であっても命は惜しいものだが、我が主君隆家は軍法厳密にして制している故に、
死を遁れることは出来ない。私一人当城に残り留まって、只今切腹に及ぶ。
敵方の心有る人は、その首を取って大将の見参に入れてほしい。残った屍は痩せた犬を肥えさせれば良い。」

そう言うと腹を掻っ切って死んだ。
この事を味方は全く知らず、矢筈の城は落城したとして味方の勢は皆撤退したというのに尚種が未だ
帰ってこないのは、追討ちに遭って討たれたか、または捕虜と成ったのだと考えていた。
そのような所に、尼子勢は彼の志に感じ入り、毛利方へ首を送り尚種の最後の様子を詳しく言い伝えた。
これを聞いて宍戸隆家を始め各々鎧の袖を濡らし、このため子孫には褒美の地が与えられ、今に至るまで
その勇名が表彰され子孫も保たれている。

(宍戸記)



一芸もいらず、能もいらず、遊びもいらず

2021年10月22日 17:19

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 20:15:59.13 ID:KxVqndT3
立花の上手、歌道の達者、乱舞の者、盤上の名人以下が諸方より御音信して参り、
毛利元就は)それぞれ相当に御応対なされた。

御国内にはどの国にも遊民がいて一芸一能に携わる小人は多く、そのような者は
執心の稽古をおのずからさせられ、それぞれ御用の時に召し出された。

御一味、その他御弓箭の御手子衆などへは御内々にこのような小芸に執着しない
ように御下知されたという。その証拠に御自筆で置かせ遊ばされた御叶書の中に、

「一芸もいらず、能もいらず、遊びもいらず、歴(註:暦カ)もいらず、何もか
もいらない。ただ日夜共に武略調略の工夫が肝要に候肝要に候肝要に候肝要に候
(武略調略之工夫肝要に候/\/\/\)」

このように御覧遊ばされた御ヶ条があり、御読ませなされた時に承った。

――『老翁物語



706 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/22(金) 06:29:17.31 ID:Ue9qKs/X
立花(りっか)、生け花だけど、どうしてもたちばなと読んでしまうな

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 07:17:55.08 ID:kQyIZzfT
地元ではリッカって訓むけどな

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 08:04:07.84 ID:S1Fx+5pn
立花で愛称がりっかのタレントもいたような

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 09:20:26.08 ID:4zjk7nok
立て花と立花って違うのか
知らんかった

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 12:04:56.58 ID:SP5ugJnf
ミシンの話みたいに見える・・

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 19:00:21.13 ID:sn46SWVM
立て花
たてばな
古立華ともいう。生け花の初期の写実的様式。供花,装飾花,挿花から,作品を重視し,花を挿す行為の法式化が成立した室町時代末,
15世紀後半~16世紀前半の生け花。形態を真,行,草に分けるとき,伝統的な供花 (三具足の挿花) は真として規則を重視し,
作品観賞の挿花は行,草として自由な創作を認めた。立て花の名手には同朋の立阿弥,文阿弥,寺僧の専慶 (→池坊 ) らがおり,当時の花道界を2分した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典



自分の場合、立花(りっか)って言葉を知ったのは大河ドラマ太平記の佐々木判官登場回ですね。

宍戸家の者共の志は、何れも健やかである

2021年10月19日 16:49

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/19(火) 16:02:22.60 ID:p7SjWLTJ
ではせっかくだから西国の話を

安芸国吉田郡山城の毛利元就と、甲立五龍城の宍戸元源は天文二年(1532)に和睦し双方音信を通じたが
未だ参会することは無かった。そして翌三年正月十八日、元就は年始の礼として五龍へ参った。

宍戸元源はこれを慇懃に饗応し終日物語などあった。元就は寵臣である粟屋右京、国司右京の
両人だけを留め置き、その他の人数は悉く郡山へ返し、主従三人ばかりが五龍に滞留した。
元源は元就が隔心無く人数を返したその志が健やかな事に感じ入り、打ち解けて終夜、軍法の評判、
隣国諸士の甲乙などを論じ、旧知のように睦まじく語り合った。

虎穴に入らずんば虎子を得難しと云うが、元就は言った
「我々がこのように別心無き上は、私の嫡女を貴殿の嫡孫である隆家殿に進め、親子の仲となれば、
一家の者共までも心安く申し合わせるようになるでしょう。元源殿がこれに同心して頂ければ、
本望何事かこれに及ぶでしょうか。」

元源答えて曰く
「その御志に、甚だ悦び入っております。私は既に老衰に及び、息子である元家に遅れ、隆家は
若輩であり、最も力なく思っており、私の方から時節を見てそれを申し入れようと考えていた所を、
それを遮って貴殿の方から仰せを承りました。これは実に深い知遇です。

元就殿には子息達も数多居られますから、今後隆家にも兄弟が多くなります。
隆家の事はすべて元就殿にお任せしますので、どうぞ御指南をしてください。
さあ、子孫長久の酒を進めましょう。」

そう云うと隆兼、元祐、元周、元久、その他親族衆が連座して山海の珍味を尽くし、甘酒泉のごとく湛え、
様々な料理を連ねて宴を催し、貴賤の別なく献酬交錯して酔を進め、夜もすがら乱舞して、元就は吉田へと
帰られた。

その後、吉辰を選び婚姻の礼を調え、吉田と甲立の境に仮屋を構え、毛利、宍戸の双方より出会い、
宍戸家側が元就嫡女の在る輿を請け取る事となった。毛利家より役人として、桂左衛門尉元澄、
児玉三郎右衛門就忠が付き従い、宍戸家よりは江田筑前守元周、黒井石見家雄が出た。

輿を据えて、桂元澄、児玉就忠が式対してこれを渡すと、江田元周は輿の側にスルスルと立ち寄り、
戸を開いて輿の中を望み見て、元就の息女に紛れ無き体を篤と見届けた上で元澄に向かい、
「請取たり」と答えた。

後でこれを聞いた元就は
「乱世の時であるのだから、元周の振舞いも理である。惣じて宍戸家の者共の志は、何れも健やかである。
我が家の若き者共はこれを見置いて手本にせよ。」と称賛したという。

これ以降、隣国の大半が元就に従うように成った。

宍戸記



猫屋町由来

2021年07月21日 18:26

314 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/21(水) 06:09:29.35 ID:/VMhrDik
猫屋町由来

広島県広島市中区猫屋町。
天正年間、毛利輝元が吉田から移り広島を開府した際、猫屋九郎右衛門兼鎮と言う豪商が当地に屋敷を構えたことからその地名が生まれた。
猫屋は屋号であり姓を加藤と称し、元は府中・松崎八幡宮の棚守であった。
猫屋は私財を投じ、本川(旧太田川)に木橋を架けるなど広島の町づくりに大きく寄与し、この川と橋は明治辺りまでは猫屋川と猫屋橋と呼ばれた。
橋は現在では本川橋と名を変え、明治期に鋼トラス橋となったこの橋は1945年の原爆投下とその後の枕崎台風、阿久根台風の通過で落橋したものの4年後の1949年に復旧され今も使われている。

また、猫屋が棚守を務めた松崎八幡宮は多家神社に合祀され跡地として残っている。

余談だが、猫屋九郎右衛門兼鎮が猫好きだったかどうかは特には伝わっていない。

https://arch-hiroshima.info/arch/hiroshima/h_bridge.html

https://i.imgur.com/23z273O.jpg
23z273O.jpg

315 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/21(水) 06:10:17.91 ID:/VMhrDik
猫屋橋と猫屋町
https://i.imgur.com/N69strZ.jpg
N69strZ.jpg



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/21(水) 08:46:48.96 ID:1kBYcaED
>>315
サムネ見た時なんか人の姿に見えた

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/21(水) 10:51:32.78 ID:LVJq9lcq
手前のネコまるで悪徳商人


324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/21(水) 17:06:41.19 ID:ILFja671
>>315
猫屋町の余談として、この猫屋町は江戸期に入り、浅野家の時代には同家に仕える鉄砲隊の者達が多く住む商人町となり、明治期にはそこから派生して猫本、猫田、猫島と言う苗字が生まれ、猫屋町から少し北に行った安佐南区ではこれらの苗字がよく見られる。

https://nekomoto-gas.com/myneko/

↑地場ネタで恐縮ではあるが、猫本ガスを運営する猫本商事は当地にては最も有名かも知れない。

祖母の家の家伝、

2021年01月21日 17:13

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 22:05:36.58 ID:8biGem2Q
祖母の家の家伝、というか祖母が父から聞いた話として私が聞いた話なので誰の話とも言い難いんだけど
強いていうなら毛利輝元の悪い話として。

祖母の先祖は毛利家の家臣だった(直臣なのか陪臣なのかは知らん)。関ヶ原後の大減封のあおりを食ってリストラ、帰農したという。
これは関ヶ原の少し前の話。
時は上杉征伐をするぞとかなんとかいっていた頃。ある日(祖母曰く)御家老様(実名不詳)に呼ばれて密命をもらった。
これより先、東海道で大きい戦があるので忍びの里(伊賀か甲賀かどうかも不明)に趣き協力を取り付けてまいれ、と。
ご先祖様は言われた通りに交渉し、話がまとまりそうだった。だが思ったより早くいわゆる東軍が戻ってきたのでお話は破談となり、そのままご先祖様も本国に戻ってきた。
くじ引き解雇だかそれとも口封じの指名解雇だったのか知らないけど、とにかくご先祖様は帰農し山口県で農民として以後暮らした。

まあそこまでだったら信憑性のない話で終わりそうなものだが、証拠が一つ残った。
忍者と交渉したとかいうご先祖様本人のお墓である。
山口に移住し帰農したせいで先祖代々の墓はそのご先祖様のものが一番古い。
そいつがでかい。宝篋印塔だか五輪塔だかとにかくそういう形式で、写真を見る限り3〜4mはあった。
(農民の墓って普通そんなにでかいか?そこまで大きいのはあまり見ない)
家伝に曰く「御家老様が先祖様を気に入り、慰労の意味で墓を作るにあたり特別な許可で"立派に作って良い"、と言われてこの大きさで作った」

少年期はふーんで聞き流していたんだけど、冷静に考えると毛利輝元さん、上杉征伐の前の段階でしれっと工作に動き出してますよね?
家伝が正確なら、という但書きつきだけど、輝元さんがかなり主体的に動いていて、かつなんの成果も出せず失敗したので悪い話




529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 22:17:53.65 ID:8biGem2Q
>>528
ちなみに富農ではない。普通の農民だったんだな、というサイズの墓が立派な塔の周囲にあって
一本の大樹を囲う低木のような感じの「一族の墓」になっている

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/21(木) 08:32:34.92 ID:vFZTQxQ0
ちゃんと下準備してるいい話じゃね?いいというか当たり前か

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/21(木) 09:13:38.55 ID:t6NWs7gs
輝元が関ケ原で色々策動し、周囲に責任なすりつけたことは最近知られるようになってきたねい。
しかも輝元、懲りずに大坂の陣でもやっていたし。

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/21(木) 10:58:02.90 ID:Jt3OtLfO
策を練るのは好きでも実行力がないのか

永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した

2020年12月07日 17:24

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/07(月) 16:44:25.42 ID:BqGHKMK4
山陰騒動多かりければ、京都より、尼子・毛利の和睦の勅使として、三宝院僧正義堯が派遣された。
しかし両軍、累年の遺恨が募る上は勅意を容れず、月日を移していた所、尼子右衛門督晴久が逝去したが、
その跡を子息の三郎四郎義久が継いで、なおも合戦は止まなかった。

このような所に、晴久(義久の間違いか)は内々に、備後の住人である和智又九郎豊郷(誠春)と
親しみ深く、彼と策を用い、永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した。

これによって陸奥守羽林(毛利元就)は憤激し安からず、怨敵への憤りはいよいよ増し、
勅使も空しく帰っていった。

雲州軍話首

毛利隆元毒殺説ですね



476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/08(火) 17:18:06.63 ID:VXO61z9T
『史籍集覧』の第百八十六に「雲州軍話首」とあるが、冒頭には「雲州軍話の首(序)」と書いてあるだけなので
書名は「雲州軍話」が正しい。総目解題でも「雲州軍話」。
著者は南宗軒多々良一龍(後太平記作者)、尼子視点で書かれたとのこと。

【雑談】”三本の矢”の逸話について

2020年04月11日 14:48

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 04:17:37.43 ID:HBLqrn9K
>>958
学研のまんが日本の歴史か何かでそんなシーンを見たような気がする

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 09:26:27.70 ID:993hYZ3y
>>970
俺も

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 16:39:27.23 ID:wSTI+j0w
>>958
創作したやつが黒澤映画の「乱」を見てパクったんだろうな

厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ

2020年04月10日 17:53

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 00:58:54.03 ID:Z0cMNdBb
或いは曰く、毛利元就は陶晴賢が厳島に渡海することを聞いて、元就より、追手の物見を二人、
搦手の物見には志路源蔵を遣わした。この時、厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ、
源蔵は神主の姿で参拝した。故にこれを咎める者は無かった。

その願書を陶晴賢が見て、元就の病気を真と思い喜んだという。

この願書には弘治元年(天文二十四年)十月二十八日とあるという。(筆者注:厳島合戦は十月一日であり、
この日付は九月二十八日の間違いと思われる)

毛利元就記



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 07:38:28.78 ID:oP8U78Ec
>>963
神社をも利用する元就…

豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで

2020年04月09日 18:07

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 22:36:47.37 ID:7j1OFAgQ
山中鹿介による尼子再興軍挙兵の報が)毛利元就に注進され、山口の高峯城へと告げられると、
この頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。

このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、

『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』

との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。

また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。

宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。

そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。

毛利元就記

毛利隆元の死去までについて。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:13:19.77 ID:FV4Nvjb2
何も前触れのない突然死だったんだな。毒殺とも言われてるんだっけか。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:34:26.86 ID:uuQ9h7Na
赤川さんを殺してしまった元就の悪い話…和智もほんとに暗殺したのかわからんけど

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について

2020年04月08日 19:27

907 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:31.33 ID:7j1OFAgQ
毛利一門、その他大名は筑前に打ち出て立花の城拵え、普請手堅く相調え、秋月と対陣した。
そのような所に豊後国大友の軍兵二万余騎打ち出て立花に相向かった。そして大友の調略に、
大内義隆の落子が山口落城の時に母の懐中に抱かれ豊後国に落ち行き、その子が成人の後に
大内太郎左衛門尉輝廣(大内輝弘:(正確には大内政弘の次男・大内高弘の子))と名乗り、大友は
これを取り立て、大内家の諸浪人を抱え、その他手前の軍兵相添えて、都合一万二千余騎にて
毛利一門、および諸大名が悉く豊後(筑前の間違いか)に在陣した所で、周防国山口に討ち入り
築山に陣取り、高峯の城では毛利方の市川常吉が籠城した。

このような俄の押し寄せは思いもしなかったことで、城中には人数もなかったが、常吉は智謀を以て
城を堅固に保った。そのような中、市川常吉の子・少輔四郎は予てより高峯の麓に宅地を構え居住していた。
この少輔四郎が、大内太郎左衛門尉(輝弘)に一味したのである。常吉はこれを聞いて軍兵五十人を差し下し
少輔四郎を討ち果たした。これについて世間では常吉覚悟名誉の義と申された。

さて毛利元就の陣所に飛脚を遣わし、「山口如此」と注進すると、元就はこれを聞いて仰られた
「筑前立花へも豊後より猛勢打ち出て戦陣と成ることが告げ来て、また山口にこのような事が起こるとは
心もとない事である。さりながら山口の城には常吉を籠め置いてあるので、たとえ人数が無くとも
十日二十日は城は堅固であろう。立花に居る一門中、その他諸士悉く呼び戻し、この元就はここでそれを
待って山口に討ち入るべき。」(この時元就は長門国赤間関に在ったとされる)
そう宣われ、夜を日に継いでその手遣いをした。

元就は立花に仰せ遣わした
「その陣早々引き退くべきである。山口はこのような状況と成った。さりながらその陣の退き口は一大事の
事である。おそらく豊後より打ち出てきた軍兵どもが追尾し合戦に及ぶだろう。その事は言うまでもない。」

この旨が告げられると、在陣している毛利一門その他に、各々如何考えるかと尋ねられた所、宍戸隆家
申された
「只今のこの状況ではとかくに及びません。敵方が動き出す前に、日を移さず早々に各々引き退くべきです。
殿はこの隆家が仕りますので、それについてはご安心ください」
そう申したところ、吉川元春が申した
「隆家殿は一門を率いて退かれるべきです。この元春が殿を仕ります。」
これに対して、毛利隆元は言った
「元春は未だ若武者であり、隆家が殿をなされよ。」また隆元は「この立花の城一円を明け退くことは
無念の至である。只今はこのようになっても、何れも豊筑両国の事は捨て置かない。立花には名誉の士を
五、三人差し置く。」
として、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、坂新五左衛門就清の三人を立花の要害に籠め捨て置き、
各々一同に引き退いた。この時十二月二十九日であった。

宍戸隆家が殿を成した所に、退き口付近の豊後陣より追撃が千騎ほど、道五十町ばかり追い掛けてきた。
隆家は返し合戦して、追手の者百五十余打ち捨て、豊後衆は引き退いた。
これについて、宍戸隆家の事は申すに及ばず、その家中の者共についても『名誉の三合力』と讃えられた。
その中で隆家家臣の北野新左衛門は鑓下にて討ち死にし、以下二十六名が討ち死にした。

そこよりは心静かに毛利一門その他諸大名は、長門国の毛利元就の陣所に走り参り、かくて隆元は元就に
仰せになった
「今度、宍戸隆家が殿を成し、その三合力は比類ないものでした。それ故一門の者達、その他の軍兵も、
難なく退くことが出来ました。またこの隆元は、存ずる仔細在って、桂元重浦宗勝坂就清、彼ら三人を
立花の城に籠め捨て置きました。」

元就はこれを聞くと「隆家の武勇により一門その他が堅固に退いたこと、三合力浅からず、これもひとえに
当家の武運が長久であるという事なのだろう。また三人を立花に籠め置いた事は、隆元がこの元就の考えを
よく理解しているからであって、軍法はかくこそ有るべきである。そしてかの三人は定めて切腹するであろう。
武士の習いとは言いながら、大き中にただ三人残り置いて切腹すべきこそ、神妙千萬、不憫もまた至極である。」
そう感涙を流された。これを見る人聞く人も、皆感涙を流した。そうではあっても、弓矢を取る者の面目であると
各々感じ入った。

908 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:47.06 ID:7j1OFAgQ
さて、立花の城では大将御引退の後、その夜は残った三人が覚悟し、思い思いのあり方で様々に物語などした。
坂新五左衛門申しけるは「この上は武勇の沙汰も無いだろう」と、武具を脱ぎ置き、帯を解き、焚き火に
当たって背をあぶった。
浦兵部は「死するとも歯噛みという下説がある。生頸を抜かれるのも口惜しい次第である」と、用心を呼びかけ
夜廻りをした。
桂右衛門太夫が申しけるは「この城の状況では、中々今夜は押し寄せて来ないだろう。明日、潔く切腹すべし。
このような寒夜に兵部丞が夜廻りするのは無益である。方々、家人を召し連れてこちらに入られ、酒を一つ
まいられよ。新五左衛門、背あぶりも大概にするのがいいぞ。さあ、こちらへ。」と呼び入れ、
「このような時節であり、座の高下は要らぬ。うち乱れて酒を飲もう。」と夜もすがら酒宴した。

新五左衛門が申した「それがし、宵より焚き火に当たっておりましたが、ここでひとさし、舞いましょう。」
そう言ってこの時出合面と錦戸切を舞った。一入の舞の出来に、上下感じ入った。

そのうちに漸次天は晴れ明け、かくて城中より敵方へことわりを申した
『毛利一門、仔細有って悉く退きて候。ここにある拙者たちは、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、
坂新五左衛門就清、城番として罷り在り候。どうか使いを出して頂きたい。切腹仕り、その上で
御城御請取あるべし。』

このように伝えると、敵方よりこのように申してきた
「これより申す事が、御返事となるでしょう。各々敗軍されたように見及び候。さては両三人、その番として
残られたか。名誉の義共に候。しかし御切腹は中々有るまじき義にて候。何方へなりとも、御望み次第に
送り参らすべし。」

それより互いに使者を立てて、「そういう事であれば羽片(博多カ)へ退くべし」と云い、敵方は軍兵百人相添え
彼らを羽片へ送った。三人は心静かに退き、名誉の義と申された。これは筑前国立花の物語である。

毛利元就記

いわゆる多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について



912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:19:23.69 ID:JgMZTM7o
>>907
元就って九州だと苦戦してるイメージあるなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:43:21.26 ID:oQ0XNDO8
西へ行っても備前や播磨は切り取れたと思うけど、畿内大名や本願寺とかは破れなかったと思う
秋月とかは調略してたらしいが、尼子や大内の残党残してたのが運の尽き

921 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/08(水) 20:52:46.13 ID:TpSfU/aE
元就はしゃらくさいことしか言わないな
嫌われてたのも当然というべきか

943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/10(金) 01:09:40.24 ID:jWZEcqZB
>>907
大友家も異常だよね
この戦いのあとは家老3家に豊後1国を任せちゃうとかさ
下剋上の時代にその忠誠度はどこから来てるのか謎すぎる

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 11:27:16.20 ID:wni+Wks1
>>943
上杉謙信と一緒で国政を司るのが嫌になったんじゃねーの?
キリシタンに傾倒するのもこの辺からでしょ
そもそもコイツに戦国大名としての器はないよ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 12:07:58.69 ID:jWZEcqZB
>>947
確かに宗麟は当主になれたのは後の重臣たちのおかげという負い目があったのかもな
配下が優秀すぎてお飾り当主になっていたのかも

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 13:05:44.59 ID:cs1WhzJ5
若い頃はボンクラ、二家老に擁立されたら強豪、二家老死んだらボンクラ
二家老がすごかっただけじゃね理論成立しちゃうよね

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 14:51:03.68 ID:wfT8RyTh
息子のダメさ加減がその説の後押しになりそう

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 15:53:36.03 ID:tmPlr+RY
二家老しんだあとの宗麟って完全隠居してて一切政策に関わってないってのが最近の研究じゃ?
あとキリシタンに傾倒してないって話と

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:02:20.64 ID:jWZEcqZB
>>951
信長と毛利せめる約束してたり秀吉に泣きついたり動きは活発だと思うけど

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:21:28.18 ID:tmPlr+RY
>>952
泣きつきはむしろ家臣たちが完全隠居してた宗麟に泣きついて一瞬だけ復帰してもらったようであるって話
どうも隠居中に一切裁許とかを出してないようなのよね、宗麟

毛利の家 鷹の羽を継きははしら

2020年04月07日 17:11

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/07(火) 01:42:34.40 ID:GTsReKHF
毛利弘元には三人の男子が有った。
嫡子は毛利庄太郎興元と申す。二男を元就と申す。三男を弘成(元綱)と申す。
毛利太郎弘元の本領は、芸州高田郡吉田であり、かれこれ併せて三千貫の地であり、城は郡山であった。

弘元の死去後、家督は嫡子庄太郎(少輔太郎)興元が継いだ。次男元就には多治比七十五貫の地を分け与えて
猿掛に在城した。三男元綱は如左の地を分け与え。相合に在城した。

しかるに、興元は若くして死去し、興元の子を幸松丸と言ったが、これも八歳にて死去した。
これによって毛利家の家老諸士は相評議したが、元就に家督を継がしめんと云う者もあり、
また元綱を守り立てようという者もあり、未だ詮議まちまちであった所に、元就は兵を起こして
相合押し寄せ、元綱に腹を斬らせ、その一味の者共悉く生害し、その勢いに郡山へ入城して
毛利の家を相続した。時に大永三年八月十日であった。(相合元綱の没年については諸説あり)

元就はその夜の夢に。『毛利の家 鷹の羽を継きははしら』との発句を得て、
翌日万願寺ににて連歌を仰せ付けた。

毛利元就記

いわゆる「元綱事件」と、毛利元就の家督継承について。



美作ハ親以来之忠節存不忘

2019年12月27日 16:25

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/27(金) 01:21:38.89 ID:djal1Yy+
関ヶ原の合戦の後、宗瑞公(毛利輝元)は大阪木津に居られ、私を含めた五三人(十五人)に御暇を下され、
「早々に国元に罷り下り、妻子等を(広島より)引き退かせるように。」との御意を示された。
そして「今回、諸所にて辛労をして貰ったことに対し、感状を遣わしたいが、時分柄如何かとも思うので、
追ってこの事は申し出よう。」
との御意により、三村孫兵衛、村上八郎佐衛門、私(清水景治)の三人が国元に罷り下っていた所、備中水島の
あたりで西国への飛脚船に出会った。これによると
「毛利殿の御身体について、色々悪しく取り沙汰されている。」
と承り、いかにも心もとなく思ったため、そのまま大阪へ取って返し、飛脚船に聞いた話を申し上げると、
重臣の福原越後(広俊)、堅田大和(元慶)が御広間まで迎えに来て、御前へと召し出され、
「有間敷志である」と御意になり、兼光の御腰物をお手ずから拝領した。

「美作(清水景治)が親以来の忠節を忘れず、今回の心がけについても感じ入った。追って知行などを
下すであろう。」と御意になった。
(美作ハ親以来之忠節存不忘、今度ノ心掛ノ段感ニ被思召候、追テ御知行等可被下トノ御意)

それから、井伊兵部(直政)殿の元に初めて御成に成る時、その御供まで仰せ付けられた。
その後、「妻子の落ち着く所を見つけるように。」と、御暇を下された。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/27(金) 07:51:27.93 ID:0I996+LY
>>453
それだけで腰の刀くれるもんなのか

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 09:54:13.19 ID:VYx0cm20
>>457
気分次第じゃね?
政宗みたいに盗って逃げても許されてる奴もいるし

筋目の事ですので

2019年12月24日 18:14

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 17:25:07.07 ID:5KvSs45W
筑前中納言秀秋が小早川隆景公の御養子となられ、その節に私(清水景治)も中納言殿に仕えた。
当時、知行三千石であったのだが、山口玄蕃宗永(秀吉より秀秋に付けられた家老)の申す所によれば、
「清水の事について太閤様が度々仰せになられていると承っている。そのような人物に三千石では
隆景公が不足に思われるだろう」という事で、五千石を下された。

その後、筑前中納言殿は越前へ御国替えとなったが、この時私はお暇を頂くことを申し上げ、
「筋目の事ですので、宗瑞公(毛利輝元)に御奉公したいのです。」
と申した所、石田治部少輔(三成)より、安国寺恵瓊が使いとして参り
「宗瑞公に仕える事は断念し、中納言殿の元に参るように。そのようにすれば当面三百人扶持の上、
七千石が与えられるだろう。」
そう申して来たのだが、これを断り、御家(毛利家)に罷り帰った。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

石高増やしてもらっても金吾の所は嫌だったらしい清水さん



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 18:56:03.58 ID:/YRjfqII
>>684
ただの忠義者ではなく見る目もあったなw

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 20:16:09.32 ID:ZCiNnBz+
>>685
無嗣断絶は置いといても、転封が多すぎてやってられなかったろうなぁ…。

丹波亀山 10万石→筑前名島 30万石→越前 北ノ庄 15万石に減封→また筑前でなぜか50数万石に加増→備前岡山55万石。

たったの数年で何回転封してるんだよ…

687 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/25(水) 10:20:38.11 ID:wAqUySn3
七光だけで出世したって言ったら金吾殿に失礼かも知れないが、若くしてあまり苦労や現場経験少なくして大名となった人だから、隆景さんの譜代からしたら不満は多かったろうとは思う。
秀吉系からの家臣ですら諫言した者がムッコロされたりしてるし…

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:21:37.21 ID:PEKeR4Zy
養子ともなれば派遣元からぞろぞろ上層部に入ってきて元々いたのが締め出されるからね
早目に退去するのが正解なんじゃない?それに毛利に帰属すれば地元に戻れるわけだし

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:53:53.99 ID:fTTdlNyz
>>686
現代で言うところの社長のバカ息子(三男)って感じだな…

清水景治と朝鮮の役

2019年12月22日 17:18

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/22(日) 03:32:34.06 ID:KhFbavMu
高麗御陣の時、私(清水景治)は小早川隆景隊に属し辛労を仕っていた所に、高麗の都に至り、
蔚山の城が小西摂津守(行長)に仰せ付けられた。所がここに大明勢数万騎が押し寄せ、これを
攻め破ろうとした。これに備前中納言(宇喜多秀家)が先手をすると仰せになり攻めかかったが、
散々に仕損じたため、代わって小早川隆景に先手が仰せ付けられ、立花飛騨守(宗茂)殿もその
一手として仰せ付けられ、同じ場所で合戦に及んだ。

その時私は、鉄砲百挺を御預けされ、井上五郎兵衛の一手として、一番備にて働いた。二番備は
粟屋四郎兵衛に佐世與三左衛門が鉄砲百挺で在った。

大明勢は大敵であり、味方は一度は踏み留まったものの、中々の強敵であったため叶わず、味方は
崩れ足になった所を、清水五郎左衛門(景治)が踏み留まり鉄砲を撃ち立てたため明軍も引き足となった。
ここで一番備、ニ番備が明軍ともみ合いになり、終に勝利を得た。この時、日本の諸侍は多く討ち死にし、
当家(小早川家)の歴々も討ち死にした。

その日の働きについて、清水五郎左衛門は「自身が踏み留まった為に勝利を得た」と申し上げた。
井上五郎兵衛は「某が踏み留まった故に、相組の諸勢も踏みこたえたのだ。」と言上した。
粟屋四郎兵衛は「一番備が崩れたにもかかわらず、ニ番備が堅固に控えていたからこそ、一番備も
大崩れすることが無かったのだ」と申し上げた。

これについては、互いの詮議、上よりの御下知も済まないまま日本への帰陣となり、名護屋に於いて
詮議を成すこととなった。

ここで、右の三人は、同じだけの働きがあったと御詮議相済み、
井上五郎兵衛粟屋四郎兵衛、其方(清水景治)は、同意の働きであり神妙に思し召す』との御感状が
下された。残りの二人(立花宗茂、佐世與三左衛門)にも、同じ御文体にて御感状が遣わされた。
並びに、同日に印二つの御感状下され、一日に両度の御判物を頂戴仕り置いたのである。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

清水景治の朝鮮役での活躍と、戦功の認定が意外とめんどくさいことに成ってたらしいというお話



親の長左衛門はその一命を毛利家の用に立てました

2019年12月21日 19:46

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 11:20:34.49 ID:1c6R1sst
備中高松城の戦いより二、三ヶ年の後、小早川隆景、吉川元家は御上洛され、太閤様(豊臣秀吉)より様々に
饗された。その上で「陸地の仕置」(境目の確定)を頼むとの御意にて、黒田官兵衛殿を差し添えその作業を
成していた頃、清水宗治の遺児である清水源三郎(景治)は、この境目が未だ確定していない状況の中、
所属の決まらない、備中の河辺牢人のような体でそこに在った。

この時、小早川隆景公、黒田官兵衛殿は源三郎の私邸に立ち寄られるとこのように申した
「この度、太閤様の御意に、清水宗治については比類なき者であり、その子供が有るなら御自分の元に差し上げ
るように、知行などを遣わす。との仰せである。」

これに対し源三郎は答えた
「御意の段、千萬忝き儀であります。しかし親の長左衛門(宗治)はその一命を毛利家の用に立てました。
である以上、私も輝元家中に在って奉公仕りたいと考えています。」

これに隆景公、官兵衛殿は
「尤もの申し様であり、比類のないものである。仰せに成ったこと、太閤様に能々申し上げよう。」
と仰せになった。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 20:02:04.90 ID:HFnBUg40
>>428
ボロはきてても心は錦!

カヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候

2019年12月20日 19:07

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 11:30:47.88 ID:dQahfqyj
小早川隆景公が分国を巡廻なさっていた際、高松城にも立ち寄られ、清水長左衛門(宗治)についていよいよ
信頼を深められ、備前岡山との境目を御預けになり、高松の城普請など仰せ付けになった、その他、備中備前の
境目の諸所に小城を吉田衆、三原衆のために置いた。このように大事の境目を預け置かれたのは、隆景公が
清水長左衛門の無二の覚悟を御覧になっての事であるが、長左衛門はさらに  隆景公が御安堵なされる為に、
息子の源三郎(後の美作)を人質として三原へ遣わしたのである。

その後、天正十年卯月(四月)中旬、備前岡山に羽柴筑前守(秀吉)が到着し、翌日、備中の宮内と申す所に
蜂須賀彦右衛門(正勝)、黒田官兵衛(孝高)が使いとして訪れ清水長左衛門に面会し、長左衛門に対し
織田信長公の御誓紙を以て、『備中国を与える、織田方の西国の先手と成るように。』と仰せ聞かせた、

この時、長左衛門はこう返答した
「辱き次第、冥加至極の御意であります。ではありますが、近年私は、毛利輝元、小早川隆景より備中境目の城を
預け置かれております。であるのに今、信長公の御意だと言われても、それをお受け申し上げるとお思いなのでしょうか?
その上、御意に従ったとしても、そのような卑怯者に一国を下し置かれるのは、信長公に対する以ての外の御無礼に
なるかと存じ奉ります。(其上随御意候テモカヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候。)
この事、然るべく仰せ上げください。」
そう申し切ったのである。

これについては、信長公の御誓紙一通、羽柴筑前守殿の添状一通を相添え、輝元公、隆景公へ上記の趣を書状として
調えこれを上げ申した。現在も定めて御註書の中に有るかと思われる。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)