雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

2016年10月09日 12:33

188 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 01:11:35.87 ID:IrCiT5D0
雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

1541年正月14日、前年より吉田郡山城を攻めていた尼子晴久の率いる三万の雲州勢は長き攻防の末、毛利元就と陶隆房率いる大内方の援軍の前に撤退を余儀なくされる。
余勢を駆った毛利元就と陶隆房はそれぞれ芸州の反大内勢力である、佐東銀山城の安芸武田氏と、桜尾城の友田氏を滅ぼし芸州の勢力はほぼ大内方へ靡く事となった。
また、先の吉田郡山城合戦まで尼子方だった芸備雲石の国人13名(三吉広隆、福屋隆兼、高野山久意、三沢為清、三刀屋久祐、本庄常光、
宍道正隆、河津久家、吉川興経、山内隆通、宮若狭守、古志吉信、出羽助森)が陶隆房に
「義隆卿が自ら雲州を攻められるならば、我ら13名は味方し先陣いたします。尼子を退治した暁には備雲石の三国から身分の大小に関わらず今の所領と同じだけの所領を御加増下さい」
と内応を申し出た。
是を受け陶隆房は直ちに主君義隆にこの事を申し上げ、雲州攻めを上申。義隆は叔父の大内高広、杉、内藤、青景以下の家臣や子らを集め相談した。
隆房は他の意見を聞こうともせず、尼子攻めを主張。その主張はこの機を逃しては先の13名の国人どもに義隆様は父君義興公に智勇劣ると侮られ、再び尼子へ掌返され今後当家に味方する者は無くなるでしょう。
1日も早く雲州を攻める決を下されます様にと、大変強い物であった。
誰もが押し黙る中、相良武任が進み出て、
隆房殿の仰る事はもっともながら、幾ら13名の国人が味方しようと今我らが雲州を攻めれば先の尼子晴久が毛利の吉田郡山を攻めた二の舞となるでしょう。
先代義興公も雲州攻めを画策したものの九州の敵が筑、豊を攻めた事に妨げられ、事を為し得ませんでした。また今の尼子方の郎党には英雄豪傑数多く、軍勢も当家が殊更多い訳ではありません。
ここは石州から陥れ、一城ずつ落として兵を堅め徐々に雲州を攻略してはどうだろうか?
隆房殿が戦いを急がれ敵をたちどころに打ち破ろうとするのは戦法として危うい。
先ずこちらが負けぬ工夫をし、戦わずして勝つと常々おっしゃっておられる事こそ、隆房殿の御父興房殿もご存知のところです。
今義隆公のご智勇、先代義興公に劣っておられる筈はありませんが、老功の将と若年の将とでは、世間の対応からして全く違います。
若き義隆公のご武勇のみを頼りに、敵を打ち破る事容易く思い数カ所の敵城を越え月山富田城まで進攻の作戦を立ててもご勝利かどうか甚だ確かではありません。
それにしても隆房殿が武勇を誇り敵を侮られるのは頷けない事です。
今少し他の国人の意見も聞くべきです。
と意見を述べた。次に冷泉隆豊
隆房殿、武任殿お二人の言い分どちらも理にかなっています。隆房殿が言われる通り敵の国人数名が同心して味方に加わりその上敵軍が吉田表で敗軍した折ですから、この破竹の勢いに乗り敵国を攻めるは道理にかなっています。
また武任殿が義興公の遠路ご進行の経験を例に出されたのもごもっともです。私からご両人の議を相兼ている謀りごとを申し上げましょう。

まず芸州へ進攻し、味方に与する国人たち、同じく備後の侍達から人質を取り堅められ、次に石州に暫く在陣して本庄、小笠原、更に雲州の三沢、三刀屋、河津などの人質も取り、
赤穴の城を攻め落として軍士を入れ、その後出雲に攻め入り降る者から人質を取り、敵するものは城を攻め、尼子の本拠を攻め急ぎする事なく、国中の城々を味方で守り堅め、謀りごとを先にして戦いを後にすれば敵は士気衰え、やがて降旗を立てるでしょう
と述べた。満座の者はこの意見に賛同し、その日の評定はこれで決着がついた。
しかしながら、隆房と武任とはこの時の議論に互いに含むところがあり、泥中に荊あるがごとく、たちまち不和となって、これがついには大内家滅亡のもととなったという事である。



189 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 08:24:07.32 ID:Xify1bNh
相良のが陶よりまともな事言ってる気がする

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 08:39:49.17 ID:t9v3aFpB
冷泉発言は後年元就が行った尼子十旗&月山富田城攻略戦そのものだったりする
でも陶の性格からして相良や冷泉のような戦略を取るのは無理だろうな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 11:40:43.39 ID:Oau9qfpR
>>189
ただの慎重論、臆病者あるあるです

192 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 11:49:45.17 ID:YB5Da6Hm
>>191
お晴カス

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 14:26:28.85 ID:Oau9qfpR
>>192
臆病者久幸おつ

197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 15:07:23.02 ID:YB5Da6Hm
>>196
(晴賢の晴だったんだけどなぁ…まいっか)
その臆病尼子比丘尼に救われたのは誰でしたかのう?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:57:38.33 ID:Oau9qfpR
臆病者あるあるですね

199 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/10(月) 07:43:12.23 ID:dtnoel3P
経久「晴久君、ちょっと話があるから雪隠裏行こうか」

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 11:04:09.18 ID:M8uKGH4G
老害おつ
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鷹羽の心根

2016年03月08日 13:11

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:17:29.27 ID:iMfW4Wz6
(大内)義隆公は、ことのほか芸能や美しいものを愛し、講西寺に立ち寄った際に
その境内で演奏をしていた流浪の芸人の笛吹きを召し抱え、さらにはその者の子供が
美童であり鼓に秀でていたため小姓として、鷹羽と名乗らせた。
陶(隆房)殿が兵を挙げると、義隆公は吉見(正頼)殿を頼って長門の大寧寺まで
落ち延びたが、そこで塀に囲まれ自害することとなった。
鷹羽も義隆公に従っていたので同地で殉死するか戦って死んだと思われたが、ある日、
山口の地でこれを見かけた者があった。
「義隆公のお伴をしたのではなかったのか」と問うと、「我が死んだごときではご主君への
恩は返せぬ。かと言って戦う力もないので、私のような者でもご主君の敵を討つことができる
機会を探しているのです」と語った。
それを聞いた相手は、他の者に「命を惜しんであのような嘘をつくとは、生まれが賤しい者は
心情も賤しい」と語り、それを聞いた者たちも鷹羽を臆病者・恩知らずと罵り嘲った。
半年後、陶殿を毒殺せんという企みが発覚し、その下手人として台所に紛れ込んでいた
鷹羽が捕えられた。
陶殿は豪気なおかただったので、主君のために尽くそうとした鷹羽に感心し、右腕の肘から
先を切り落とすだけで、鷹羽の命を許した。
鷹羽が臆病者であるという悪評はおさまったが、片腕となった鷹羽は得意の鼓で稼ぐことも
できず、乞食などして糊口を凌いでいたので、口が悪い人は「身の程知らずのことを企んだ
罰である。元の身分に戻っただけのことよ」と笑いあった。
そうこうするうちに、鷹羽の姿は山口から消え、誰もそのことを忘れてしまった。
弘治元年、陶殿は大軍を率いて安芸厳島に上陸したが、そこで毛利軍に敗れ自害なされた。
厳島から引き揚げの際、毛利軍は自軍の中に見慣れぬ怪しげ者が紛れ込んでいるのを見つけ、
大内方の兵が毛利軍の振りをして逃げ延びようとしているのだと思い、これを殺した。
殺された者は右腕が無く、素性を問われて「義隆公の恩に預かった鷹羽という者である」
とだけ名乗り、後は経文を唱えるだけで何も語らなかったという。
これを伝え聞いた(鷹羽親子が召し抱えられた場となった)講西寺の和尚は、鷹羽の心根を
哀れに思い、小さな墓を建て祭ったということである。
(防長古老説話集)

非力な美少年が、何としてもご主人様の仇を獲ろうとして果たせなかった(あるいは
果たせた?)哀しくも美しい話



439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:49:39.00 ID:ZeNQm+KB
史記の刺客列伝か侠客列伝に出てくるような剛の者だな。
結果、名が高く残ったいい話だと受けとりたい

茶入・玉堂

2016年01月07日 08:17

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 21:52:48.17 ID:H+6WH/5C
 周防の山口太守大内義隆公、陶尾張守の謀反によって、同国の菩提所大寧寺にて自害した。
さらに尾張守は大寧寺を焼き立てて、僧俗によらず切り捨てた。

その内の出家の者であった玉堂和尚は、大寧寺へ義隆公から寄付された名茶入を三、四つに割り、鉄鉢の底に入れ、
危ういところから命からがら助かり都へ上り、茶入をくっつけて売り払った。
この茶入は継ぎ手があるというのでかえって値段も上がったという。

 この和尚は玉堂と申すので、そのまま茶入の名となった。

 この僧は尾張守が滅亡の後、この金子で大寧寺を再興し今も残っている。甚だ殊勝な出家のものである。
(本阿弥行状記)

この茶入と思しきものが徳川ミュージアムにあるのですが、
特につなぎ目みたいなものは見当たりませんでしたね..



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 22:35:33.17 ID:L9nbHTsQ
大寧寺と言う法灯を今に繋いだと言うことか

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 02:53:24.13 ID:VhdIqWPd
そして宗教へと続く

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 03:58:53.66 ID:8GTdO5fn
継ぎといったら古織という勝手な思い込みがあるが、先人がおるんやな

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 03:23:54.44 ID:iX36EQHW
必要もなく壊してくっ付けたのと一緒にすべきなのだろうか

大内晴持の死

2015年04月15日 18:32

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/14(火) 19:58:05.31 ID:xEnJ2PJf
大内義隆による尼子氏の富田城攻めは、大内方として在陣していた備・芸・雲・石の国人である、
三澤、三刀屋、宮山、山名、出羽以下、13人が一同に心変わりし、尼子に内通、
天文12年4月晦日、彼らが一斉に富田城に入ったことで一気に形勢が変わった。
この時尼子に内通しなかったのは、毛利、平賀、三吉、福屋、熊谷、天野、益田と言った人々であったが、
彼らもこの内通劇に驚き、翌5月1日は諸陣以ての外の騒動となったが、ここは陶尾張守(隆房)が
固く下知して、翌日には静まった。

しかしこの事態に、陶は大内家の老臣を集めこう申し述べた
「今度国人達の心変わりによって、家城に残っている彼らの一族が、防州との通路を塞ぎ兵糧を断ってしまえば、
我らが軍士が飢餓に及ぶこと確実である。先ず今回は、この陣を引き払い、再び九州の味方を催して
出陣すべきと考える。」

この事、大内義隆に伺いを立て、5月7日未の刻(午後2時頃)、大内義隆・義房父子は経来木山を引き払った。

義隆父子は、湯屋より別々の船にて退いた。この時、義隆の船に、取り残された者達が乗り込もうと
取り付いたが、冷泉隆豊が長刀で彼らを切り払い、無事漕ぎ出した。

陶・杉・内藤といった重臣たちは、湯屋まで義隆父子を見送って、再びの雲州出陣の為であると、
船には乗らず、その勢三千ばかりにて、白潟に廻って引き退いた。

大内義隆の養子である周防介義房(晴持)の船には、あまりに多くの者達が乗り込み、船子たちは
猶も乗り込もうとする者たちを、櫓で打ち払い漕ぎ出そうとしたが、なおも慕い来て取り付いたため、
ついに船は転覆し、義房を始めとして一人残らず溺死した。

この周防介義房は、土佐の一条大納言房家卿の子息で、義隆姉の腹であったのを、三歳の時より
大内家の養子として、従五位下に叙せられていたが、この年十一歳になられたと聞く。あるいは二十歳という。

異書に曰く、この時義房は雲州得ノ浦に落ちたが、敵が夜に入って大勢にて押しかけて来たため、
味方の者達は周章狼狽し、義房も危うき所に、篠山九郎左衛門という、義隆寵愛の扈従が駆け上がり、
「我こそ周防介である!」と名乗って、手の者2,30人と共に防戦した。

この間に義房は落ち延び船に乗ったが、この船が転覆し溺死したのだという。
篠山は暫く防ぎ戦ったが、従兵達は皆討ち死にし、逃げるべき方法もなく、今は義房も落ち延びたであろうと
考え、自ら太刀を胸に当て、そのまま伏せて倒れ、貫かれて死んだ。

その後、篠山はその浦の祠に祀られ、浜の宮と号し、それは今も存在している。
(芸侯三家誌)





富田城攻めの陣取り

2015年04月14日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 19:36:33.44 ID:WbwXWuQx
大内氏による出雲攻めの時のこと。

異書に曰く、山口勢は出雲の畤地という所に到着すると、評議の上、そこから富田の向こう、経来木という山に
陣を寄せるべきとの話になったが、これに毛利元就が反論した

「尼子は近年、武威が少し衰えたといえども、未だ数カ国を領し、近国の武士の大半は旗下に属し、
そのほか家中の諸士に至るまで、経久以来代々の武備に慣れて、武辺剛者の侍ども、多勢立て籠もって
おりますから、味方に卒爾の働きがあっては、却って落ち度があるでしょう。

であれば、城を急に攻め抜こうとの戦略では、勝敗は甚だ測りがたいと言えます。

ここは、富田より4,5里も隔てて陣を据えられ、諸所に軍勢を分けて置き、近国より尼子への
兵糧運送の通路を差し塞ぎ、防州との通路には、つなぎの城々をかまえ人数を籠め置き、兵糧を運送せしめ、
長々在陣の覚悟にて、次々と奇計を設けて、攻め悩ますようにすれば、敵は次第に弱り、
必ず落城の功を経てられます。これこそ、味方必勝の謀というべきです。」

そう、再三意見を加えたものの、大内義隆の寵臣である田子兵庫助(あるいは豊後)が
「経来木山は地の利完全であり、ここに陣を据えれば、たとえ城中より敵打ち出て付懸ってきても
危うい事はなく、城下の建物を放火して、取り巻いて攻めるにおいては、他所より兵糧を運送することも、
城内に取り入れることも叶わないだろう。ならば城中耐え難く、すみやかに落城するであろう。

そのように敵を、奥深く怖れるように計らうのは、却って味方の勇気を挫く端緒とも成る。」

そう頻りに申すによって、遂に義隆は経来木山に陣を寄せたのだという。

(芸侯三家誌)

結果は言わずもがなである



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 23:56:02.71 ID:i2yHmMl5
大内に従わない豪族が背後を脅かして補給線を寸断したことが敗因ですね
陣地にした山は確かに良かった

大内義隆の娘・珠光

2014年09月14日 18:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:08:41.55 ID:8tyGaRkz
大内義隆の娘・珠光


大内義隆のいえば、陶晴賢の下克上を受けた人、陶晴賢とアッー!した人として有名である。
彼は衆道も好きだが女道も好む両刀使いであった。
そんな彼にも子供はいた。

長男・義尊、次男・義教(問田亀鶴丸)、そして長女・珠光である。

珠光の母は不明であるが、珠光は成長すると、家中でも美貌がとても評判の娘になった。

時は1550年、大内家中が不穏な空気に包まれていた中、相良武任はこちらも美貌で
評判になっている娘を陶隆房の子・長房に嫁がせようと画策した。
しかし、隆房は格の違いを理由に拒否。
更に大内家中は混沌とした空気となってしまった。

年は明け、1551年になると義隆は決断する。
自分の娘を隆房に嫁がせてやろう、と。
しかし、隆房は適当な理由をつけてこれを辞退してしまう。

そこから先は義隆はほとんど対策もとらないまま運命の8月を迎えてしまった。

20日に隆房挙兵、29日に山口を放棄。珠光は父に従い大寧寺に入った。

9月1日、大寧寺も落ち、義隆は子供たちに落ち延びるよう促す。
嫡男・義尊は若年の武将・小幡義実に託した。
次男・亀鶴丸も他の武将に託し、長女・珠光にも落ち延びるよう促した。
しかし、珠光はこれを拒否して父らと運命を共にする決断をする。

かくして大内義隆・珠光父娘らは自害して果てた。
珠光は享年わずか15歳の若さだったという。



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:25:51.01 ID:cbRYxJFg
あーあ田亀丸かわいそう

学問も悪く学んでは

2014年06月16日 18:58

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 23:23:36.67 ID:JL0uWGGY
学問をするものは、その国その家の知性であるのだから、何よりの宝である。
しかしこれも、悪く学んでは、中国の大内殿のようになってしまう。

どういう事かといえば、大内義隆殿は書籍に関してどんなものでも暗いということがなく、
七書などは空で覚えて、「良将は戦わずして勝つ道理なり、また戦って勝っても不慮の勝ちである」
などと言って、はかりごとの沙汰ばかりをしていた。
そのため大内殿の家中の者達は、近習も外様も皆、はかりごとの吟味ばかりしていた。

せめて一手の大将をするほどの者であれば、はかりごとを心にかけるのも当然であり、
開戦して討ち取れない敵にはかりごとを入れるが、こういう事は大将、あるいは家老、侍大将が
行うことである。
もし外様の侍たちが、計略を心がけて戦場での働きを心がけないなら、その大将の下に槍を突く者は
いなくなってしまうであろう。

学問をするのは良きことである。しかし、大内義隆殿の学問は滅亡の原因となった。
それは、大内家の大身者である相良遠江守、陶尾張守という二人が不和となったが、義隆殿は
相良を愛して、陶を殺そうとした。そのため陶は大軍を擁し義隆殿を攻めると、義隆殿は
かねてから心がけていたはかりごとをすることも出来ず、打ち負けて石見国の吉見氏を頼って、
その勢二千あまりで落ちていった所を、陶が追撃したため落ち延びることが出来ず、ついに
自害した。

しかし、もし日頃から槍の柄を取って戦う心がけのある士がいたなら、時の運で合戦に負けたとしても、
義隆殿の身はつつがなき様に防いで落とすことは容易かったであろう。
ところが、いらざる知略の工夫建てに年を暮らした為に、属し、従う武士まで言い甲斐のない死を
してしまったのである。

このたぐいの学問は、しないほうが良いのである。
(武道心鑑)


「学問で滅んだ」大内家に関してのお話しである。




521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 23:44:12.83 ID:27sVN4UV
朝廷や幕府に対するはかりごとだろうな
公家化を戒める内容だ

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 00:41:25.49 ID:isHC7Fml
宇喜多某「謀ばっかやっとったらアカン言うこっちゃ」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 02:30:02.46 ID:ihIZy5HE
あほう
大内のと田舎侍の宇喜多のとでは次元が違うわ

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 02:37:32.72 ID:Z2Z46jPS
× この類の学問はしない方がいい
○ 直接戦う人間は学問より武芸の方が重要

あと、陶を殺そうとしたことは不問なのが興味深いな。

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:09:15.53 ID:2H/v/CvX
謀反を正当化されたら困るでしょ

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:38:12.16 ID:wUphW9SS
平安時代には、とにかく大地から芽ばえたものはなかった。
武家が公卿に代わったというは、腕力が観念に代わったという意味にとられてならぬということは、さきにちょっと記した。
武家は腕力をもってはいたが、武家の強さはそれではない。
武家の強さは、大地に根をもっていたというところにある。
武家はいつも大地を根城としていたのではない。武家は腕力はある、武家と腕力とは離れられぬ。
が、大地に根ざさぬ限り、腕力は破壊する一方だ。
公卿文化は、繊細性の故に亡びる。
武家文化は、その暴力性・専横性などの故に亡びる。
腕力と大地とは一つものではない。腕力だけしかないものもある。
公卿たちでも大地が顧みられていたら、平安時代のようなことはあるまい、この点を深く考えなければならぬ。
平安時代に取って代わった鎌倉武士には、力もあり、またそのうえに霊の生命もあった。
力だけであったら、鎌倉時代の文化は成立しなかったであろう。
鎌倉文化に生命の霊が宿っていたということは、その宗教方面に見られる。
平安時代は、あまりに人間的であった。鎌倉時代は、霊の自然・大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめたと言ってよい。
『日本的霊性、鈴木大拙、岩波文庫より抜粋』

この文章を第二次世界大戦敗戦直前(昭和19年、東條内閣解散の年)に書いて出版した鈴木大拙

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:39:45.02 ID:wUphW9SS
>>526は>>520の関連レスね
もちろん逸話投稿ではない

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 12:31:13.34 ID:L2n+DHhu
>>525
神君氏真公「えっ」

謀聖、終生のライバルと夜襲

2014年05月02日 19:17

陶興房   
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:16:48.94 ID:w/ilQyvt
謀聖、終生のライバルと夜襲

大内家家老、陶興房。大内氏譜代の重臣陶家の陶弘護の3男であるが、父が暗殺された後に起きた長兄・武護と次兄興明の争いで次兄興明が死に、
後に長兄武護が主君大内義興に誅殺されたことにより陶家の家督を継ぎ、長じて大内家の家老として文武両面で主君義興を支える存在となる。
戦場で常に主君義興を補佐し、大内軍の副将として各地で戦ってきた興房は1511年、船岡山合戦で一人の戦国大名と出会う。
足利義稙を擁する大内義興、細川高国に従い上洛した山陰の尼子経久である。
敵方の足利義澄方が陣取る船岡山を囲んだ大内連合軍であるが、その直前に擁する足利義澄が病死したにも関わらず
戦意旺盛な敵方を攻略するために尼子経久は大内の副将たる陶興房に一つの提言をする。

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:40:25.99 ID:w/ilQyvt
経久「敵方に夜襲を仕掛けてはいかがか?我が軍が先陣となれば敵兵全て葬って差し上げよう。」

これに対し、丹波で合流したばかりの西国の兵を信用できなかったのか、直前に赤松義村が裏切ったこともあってか興房は

興房「我が大内軍は夜襲が苦手でな・・・」

と、夜襲の提言を退けたと言う。なお、その船岡山合戦の結果は・・・

大 内 軍 が 先 陣 と な っ て 夜 襲 

した事で大内義興・細川高国連合軍が勝利。京は足利義稙側の手に戻っている。
興房が尼子経久の夜襲の提言を退けた後、自分達の手柄とする為に大内軍が夜襲を仕掛けたのか、それとも尼子経久が義興に直談判して
夜襲を決意させたのかは定かではない。
ただ、山口県文書館蔵の義興の手紙には大内軍大将の義興自身が先陣に立ち、夜襲軍を率いていることなどが伝わっていることから
義興は夜襲にノリノリで賛成したのではないかと思われる。

この数年後に尼子経久は中国地方へ覇を唱えんと、義興不在の山陽地方に手を出すのであるが、この時経久の提言を退けた陶興房が
何度となく彼の前に立ちはだかる事となるのである。

終生のライバル同士の初の出会いにして相手の手柄を横取りしたようなされたような、ちょっとだけバツの悪い話。

182 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:58:07.28 ID:w/ilQyvt
>>180-181に追記。
この時、陶興房は尼子経久の夜襲の提言を
「大内軍は夜襲が苦手ゆえ・・・」

と断っているが、実際に1524年に安芸・佐東銀山城の戦いで援軍の尼子方・毛利元就連合軍の夜襲を受けて破れたりしている。
夜襲(されるの)は確かに、苦手だったのかもしれない。
しかし、この戦で毛利元就の存在とその武勇、安芸における重要性を知った陶興房は、先に毛利家で起こった、元就と
弟元綱の家督争いで尼子家と毛利家の関係の危うさを見抜き、翌1525年に調略により毛利家を大内側に寝返らせることに成功している。

名将は転んでもタダでは起きないのであった。




202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 19:07:58.69 ID:I+S/6sjV
>>180-182
こういう逸話好きだなあ

大内とは目出度名字今知れり

2013年06月21日 19:51

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 17:46:09.97 ID:6zvdUWEe
大内義隆は防州山口鴻の嶺の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに
磨き立てて夫人を移し参らせ、築山の御前と名付けて大切に扱った。

けれども姫君は都を恋しく思って事の折に触れては口に出すので、
義隆は、それならば当所に都を移そう、と一条より九条までの条里を割り、
四ヶ国の大身小身の屋形を甍を並べて造った。

京、堺、博多の商人は軒を争って建て続け、領国の諸侍は朝暮に出仕を遂げ、
囲繞渇仰は記すに遑なく、これに加えて諸門跡を始め公卿殿上人、
または五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌管弦の遊び、

またある時は詩連句の会を明け暮れの業とし、その他、京都、南都よりも
猿楽の名人を呼び下して能芸を尽くさせ、さては茶湯を興行し、和漢の珍器を集めて
弄んでいるうちに、国々より諸商人が山口へ到来して日毎に京町が立った。

そのため防州は時ならぬ春が来て花の都と唱えた。京都はむしろ廃れ果てて
及ぶはずもなかった。故に、山口一条の辻に何者かが、九重の天はここにありとして
「大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは」と表現したほどであった。

――『室町殿物語』

夫人は持明院基規の姫君ということになってるが、たぶん万里小路秀房の間違い。




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:23:44.97 ID:RnYjbJRF
夫人を大事にする義隆さんだと・・・・

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:36:41.69 ID:Lt0Z5tqH
ここまで大事にした嫁さんなのに、子供が生まれなくて嫁さんの侍女に手出して離縁されちゃったりするのが義隆クオリティ。
別にガチホモってわけじゃないんだぜ?
衆道は上流階級のたしなみです(キリッ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 11:41:21.16 ID:I7iHMNEh
>>549
それ知っちゃうと何だかな~

大内滅亡のこと

2013年04月07日 19:02

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:46:13.00 ID:PtH2bR3D
中国の大内殿は、阿波の徳雲院(細川持隆)殿の舅の御家であったが、この御家が滅んだ様には、
こんな事が有った。それは天文20年(1551)の事である。

大内(義隆)殿が御茶数寄をなさろうと、堺の町のせうおう(武野紹鴎か)と申す侘び数寄の者を呼び下し、
四畳半の数寄屋を建てて、茶の湯を行った所、御内の家老に須江(陶隆房)殿と申す人があり、この人が

「大内家は16ヶ国の守護であるのに、四畳半ばかりの場所で茶の湯をするなど、沙汰の限りである!」

そう申して、陶殿は自分の茶の湯のやり方を紹鴎に見せた。
彼は大きな広間にかんす(茶釜)を数多据え、茶臼を数多取り並べ、大勢の小姓に茶を轢かせて
点てさせ、運ばせて紹鴎に飲ませ、

「陶が数寄はこの如くである!」

と言い放った。これに紹鴎は面目を失い、大内殿に暇乞いすらせず堺へと帰った。
このことは大きな遺恨と成り、大内殿は陶に対して悪心を起こし、また陶の方もそれを感じて、大内殿に対して悪心を持った。
そして両者の悪心は重なっていき、終に陶は大内殿を切腹させ、16ヶ国を陶が進退したのである。

ところが森(毛利)殿は陶に従わず、このため陶が毛利殿の城を取り囲んだ所、伊予の野島、来島といった者達が
毛利殿の味方をし陶殿の兵糧船を遮断したため、兵糧が欠乏し、陶軍が撤退を始めた所を毛利は討って出て
陶殿を討ち果たした。

これ以後毛利殿が中国西国13ヶ国を、太閤様の御代頃まで持ち伝えられた。
(三好記)

三好記より、大内義隆の滅亡についての逸話である




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 16:55:51.90 ID:lWQzATh/
毛利が13ヶ国・・・だと

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 17:25:42.09 ID:QgSSx+3i
大内16ヶ国って確実に大友と尼子の領地も入れてるだろ

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 18:28:00.18 ID:WEgCBbGA
陶が居なきゃ、元々大内は持たなかったんじゃないの

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 19:01:24.04 ID:6e0cDLXg
最後の当主<筒だっけ

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 21:37:29.78 ID:CrUnkdXS
>>196
んなこともねえだよ。内藤とか実績のある重臣は他にもいる。
毛利は陶とやる時にそいつらを切り崩すのに全力を突っ込んでる。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 23:13:19.35 ID:jTQp3WsN
てか、元就は隆房につく気満々じゃなかったっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 00:24:39.86 ID:mnZw7MK7
毛利側資料によれば、陶から義隆を諌めるために隠居させ、嫡子に跡を継がせるから協力して欲しい、という要請があって応じたけど、蓋を開けてみたら主殺しだったので引いた、ってことになってる。
かけらも信憑性無いけどな

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 07:21:10.48 ID:LZJGEpGb
>>199
元就は陶につくと見せかけて他の国人調略のために時間稼ぎしてた
反旗翻してからの行動が非常に鮮やか

二人の義死

2013年03月27日 19:53

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:34:52.29 ID:IpqSO+4J
大内義隆の家臣に、宮部久馬介浅茅鹿馬介という、二人の小姓があった。
義隆はこの二人を別して大切にしていたのだが、ある時、とある女中からの支え口(中傷)により、
この鹿馬介を討つようにと、義隆より宮部久馬介に命ぜられた。

宮部は承って自分の宿舎に帰り考えた

「それにしても、なんと黙し難い仰せを被るものだろうか。私は鹿馬介と一緒に奉公仕り、
片時も放れたことはなかった。本当に入魂浅からぬ関係であるのに、彼にこんな事を一言も
知らせずして空しく討ち果ててしまえば、草葉の陰で、自分たちの契りはこんなものではなかったはずだと
どれほど恨むだろうか。

彼に知らせるなら、我も諸共に死ななくては面白くない。どうせここで死ぬのも主のため
なのだから、悪いことではない。」

そう思い定めると、浅茅の部屋へ行き、彼に言った

「私は大変情けなき仰せを被ってここに来た。義隆公より、それがしにあなたを討って来い、との仰せを
受けたのだ。しかし日頃から、親しくしていること他に異なる程の仲であるのに、一言も
あなたに知らせず、空しく討ち果たしては、冥土にて私は必ず恨まれるでしょう。
その上、あなたを討った私のことを、朋輩たちがどのように思うか、如何とも辨え難い。

こうなればあなたと刺し違えて、死出の旅路に赴こうと思う。」

浅茅はこれを聞くと

「さてもさても、日頃から互いをなおざりにしない関係であったのが、今ここに現れたのであろう。
あなたの心底は長く後の世までも忘れてはならない。
そして、かの女中の中傷に対して、真実を主君に申し開きをして死のう、と思ったが、
女を相手に論じても意味があるだろうか。

私は自害をしようと思う。なのであなたには、介錯を頼む。」

宮部はそのように言われて、笑い出して言った

「私の胸中を定めないまま、どうしてこの事をあなたに知らせるでしょうか?
仏神三宝も御照覧あれ!私はあなたとともに、相果てなければならない!」

浅茅、このように言われ「それならば仕方がない。であれば…」と、二人共に思い思いに
その意趣を細々と書き置きし、川の中瀬に行き、二人はしっかりと体を組んで、川の中に飛び込み
立つ白波と消えた。彼らの死を人々はみな、なんと殊勝な義死を遂げたものかと、褒めぬ者は
居なかった。

義隆は彼らの書き置きを見て千悔したが、もはや取り返しのつくことではなかった。
彼は中傷をしていた女を召し出すと、「あの者たちの追善にせよ」と、彼らが入水した中瀬にて
柴漬け(ふしつけ:簀巻きにして水中に投げ入れること)にして水の中に投げ捨てた、
と言われている。
(義殘後覺)




77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:43:58.53 ID:esRjIJAv
義隆絡みだとどうしても女中が言い寄っても衆道一筋で目もくれなかったので逆恨みとかそういう痴情のもつれとかの想像をしてしまう

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 21:38:31.77 ID:q4qhv8R/
>>75
こういう名を重んじる潔さはいいね。

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 22:20:11.63 ID:po4Uwlxd
義隆さんは調べもしないで気分でお裁き

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 22:21:54.59 ID:5gvxey5X
>>75
:::::::::::::::男 は こ            {::::::{
:::::::::::::::坂 て の      _ ,-v   、::::::、
::::::::::::::::を し       _/rァ  ̄ヽn  ヽ::::::ヽ
::::::::::::::::よ な     -こヽ__)ヽ へフ -‐':::::::::::}
::::::::::::::::::  く   /::::::://, 7′:::::::::::::::::::::/
::::_n_  遠   、:::::::::ー' //-‐  ば の よ オ
:::`ニl lニ  い   ヽ::::://\   か ぼ う  レ
::::`フ \:::::::::ヽ __ ノ:::ー':::::::::::::ヽ  り  り や 達
/'´|_|`ニ_::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l  だ は く  は
:::::::ノ'r三7/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::} か じ
::::::::`フ, 匸/l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/  ら め
:::::: ̄´::: ̄´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/   な  た


大内義隆公の山口退去

2013年01月17日 19:51

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 01:57:41.77 ID:Qg3I4pHf
最近ものの本を手に入れたので、陶隆房の謀反から変な意味で有名になってしまった
大内義隆公の山口退去までを。

天文二十年八月二十八日、陶隆房は遂に謀反の軍を挙げ、それぞれ山口の西と南西より兵を進発させた。
山口の大内氏館に集った義隆方の緒将はここで一戦し館を枕に自刃することを主張たが、館は
防ぐに向いていないため法泉寺に拠を移すことを薦める者も居た。
また寵臣ら(纏めにあるアイツとか)がそれを推したため、義隆は館を捨て、大内氏館の北、山間の
法泉寺に入ることを決した。
それに従った兵三千余。本営を法泉寺に定め、迎撃のため冷泉隆豊らの緒将を近隣に配した。
ところがその夜、大内氏館退去を聞いた内藤興盛は叛旗を翻して陶方に参陣し、また
法泉寺にあった義隆方の兵はその多くが逃散してしまった。

明けて二十九日、本営の守りを補強するため隆豊ら緒将を本営に呼び戻すことになったのだが、
その使者に立ったのが阿川隆康
義隆の侍大将・先手衆であり、平素より自ら十人力を誇っていた人物である。
皆その最期の戦闘はどれほどのものになるかと期待していたのだが、彼は本営召還の命を隆豊らに伝えた後、
鎧兜を脱ぎ捨てて逃亡してしまった。
衆これを見て更に意気消沈したという。
昼頃になり、山口へ陶方の兵が押し出してきた。その数五千余。
それを迎えた隆豊らの緒将がいざ最期の戦と出戦しようとしたその時、ついと一人の兵士が進み出で、
陶方の不忠を罵り責めた。
陶方の兵はこれに恥じ入って進まず、また義隆方も敢えて出戦せず、矢戦のみ行ったあと
互いに退いたという。
その日、義隆は捲土重来を期して長門に逃れることとなる。
法泉寺に残った陶隆康(隆房の伯従父)は義隆の名を騙って陶方を引き付け、
その嫡子隆弘や貫隆仲と共に戦死した。

名があろうとあるまいと、その人の生き様は土壇場に現れるのだなぁと思った次第。




冷泉隆豊の最期

2012年11月29日 19:50

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 18:05:53.89 ID:iGTjITmr
大内義隆が無念の死を遂げた大寧寺の変の際、冷泉隆豊は最期の戦を
奮戦して敵に目に物見せてやろうと、五郎入道正宗がうった乱刃の
抜けば玉散るばかりの太刀三尺二寸を軽々と掲げ、多勢の中に打って出た。

隆豊は活人剣、殺人刀、向上極意の妙剣、十字手裏剣、沓ばう身などの
兵法の術を尽くして斬り廻ったので、もはや手先に向かう兵もいなくなった。

隆豊は「もう相手になる敵もいないか。雑兵なぞを太刀汚しに殺しても仕方ないな」
と立ち帰り、仏前で鎧を脱ぎ短冊を一枚取り出して
「見よや立つけぶりも雲もなか空にさそひし風のあとも残らず」と辞世を残す。

黄門定家卿の末流とはいえこのような時に歌を詠むとは思いもよらなかったが、
歌道に入魂したのでこのように口ずさんだ。優美な心である。

かくて隆豊は腹を十文字に切り、返す太刀で胸もとを突き立て夕の露と消える。
その死を惜しまない人はいなかった。

――『室町殿物語』





546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 18:31:49.44 ID:MIYs+5wb
囲いを突破してきたなく生きて再起を図ればいいのにな

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 18:59:30.64 ID:CG4P9gBD
定家の子孫ってことは公家なのかこの人?

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 19:22:44.14 ID:oQXW4n1B
公家→武家のパターン
一条さんとこと同じ

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 19:34:57.38 ID:oQXW4n1B
>>546
中国にはそのタイプの英雄が多いな。
まあ、広大な大陸だから逃走しながら闘争する戦術使いやすいのだろうな

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 19:42:51.96 ID:ynFq+kSp
母方に冷泉家の出身者が居た程度じゃなかったっけ

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 19:52:20.56 ID:dqla+REu
>>546
しかし再起を図ろうにも
周囲は大友・毛利・尼子だぞ?

これが、現代にも伝わる宮島踊りである

2012年11月22日 19:57

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 22:51:07.72 ID:79AnIxRV
良い話で踊りの話が出てたから、悪い話でも踊りの話。

1503年、大内義輿が上洛する前の頃、安芸の厳島神社の祭礼にやってきた時の話。
お祭りと言えば酒である。
祭礼に来ていた参加者たちもどうも呑んだらしい、しかもベロベロになるまで…。
酔ったら気が大きくなるのは今も昔も変わらない。
彼らは酔った勢いで神社で行われている神事に対して悪口放逸をし始めた。
これに怒った厳島神主支配下の神領衆は暴れてた人々を十人ほど殺してその船を沈めた。
神社の勢力なのに過激な事である。

ところでこの殺された人たちの中に、
伊予の豪族であった多賀江(多賀谷とも)氏の郎党も含まれていた。
多賀江氏も宮島と同じく大内の傘下に居たため、神社の祭礼に参加していたのだろう。
それで祭礼に参加して殺されたのでは、カチコミに至るのは当然だろう。
…そして蒲刈島を出発した160~170隻の船が厳島を襲った。
島に上陸して火を点けて回るなど暴れ放題。
まさしくヤクザの抗争である。
と、奇跡的なタイミングで風雨が強くなってきた。
さすがにこれは帰らねば、と、暴れた者の中の一人、
多賀江氏の勇士として知られた多賀江兵部小輔は神社に軽く拝礼して船に乗り、
神社の鳥居の前まで漕ぎ出して…。

船が沈没し24人の郎党と一緒に海中に消えた。
※ ついでにその後来た多賀江氏の親戚である重見氏の船も沈んだ。

で、この時死んだ多賀江兵部達が悪霊となって厳島の住民を苦しめたので、
その霊を慰めるために念仏踊りを始めたという。

これが、現代にも伝わる宮島踊りである。
ttp://www.miyajima.or.jp/event/event_odori.html
と奇麗に纏めてみたけど、味方同士での抗争で死者まで出た上、
悪霊にまでなってしまったという悪い話。




453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/22(木) 00:23:18.91 ID:KaHK7Kje
そして誰もいなくなった…

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/22(木) 08:29:09.23 ID:+Jo1HRuw
由来を知るとなんか馬鹿馬鹿しくなる踊りだなw

山口築山館の怪異

2012年04月27日 21:18

848 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/27(金) 06:55:28.68 ID:q7I+YgjL
史料価値なんて知ったことか!
ってことで角川書店の日本の伝説 35巻をソースにして一つ。

かつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた山口の築山館。
その庭園には「月見の松」なる名木があり、
その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであった。

さて、天文十五年。大内義隆公の御世のことである。
この築山館にて松の枝に掛かる秋月を肴に義隆公が月見の宴を開いていたところ、
館の塀の上に怪しげな影の一つ、蠢くものがあった。
義隆公は大いに怪しみ、急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じる。
命ぜられた武士、松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、
射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちた。
この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、
これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したという。

だが、常日頃になき妖怪の出没は、周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせた。
そして果たして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆公は太寧寺に自刃に追い込まれ、
件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのである。

大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、
はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたか、
どっちにしてもいい話じゃなさそうなお話




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 09:10:13.58 ID:iboM5bqg
認知症の婆ちゃんが迷い込んだだけだったりしてな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 12:27:53.45 ID:ElSl2FII
>>849
ありうるw

大内義興帰国問題と朝廷

2012年03月31日 21:42

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 14:20:14.87 ID:/BGKpUzg
永正5年(1508)6月、足利義尹(義材)は大内義興らのの援助と細川高国の支持を受け、足利義澄を没落させ入洛、将軍位に復帰。
ここに将軍義尹を細川高国大内義興が支える体制で、畿内は一定の安定を築けるように見えた。…だが大内義興は直ぐに帰国を望み、
これに将軍足利義尹は勿論、朝廷も大いに慌てその慰留に務めた。
以下、三条西実隆の日記、『実隆公記』より、朝廷側の動きを見てみよう


・7月23日
晴れ。夜になって小雨。
(略)

午後、阿野季綱が来る。大内義興の周防への帰国は決定的だという。帝が勅命で留まるようにおっしゃらないのは好ましくない。
この事について、内々に申し入れをする。帝直筆の女房奉書を発給して頂くこと、そして大内義興のもとに伝奏を派遣して頂くこと、
また私も内々に義興の元に参上するということの詳細などを内談した。そして、夜になってから小直衣に浅葱色の指貫を着て、
義興のいる六角の宿所に向かった。そこで勅書の旨に任せて対話をした。
神代紀伊守(貞綱)が出て来たので、彼に対して重ねて、京に在留することを説得した。そのうちに右大弁相公(勧修寺尚顕)も
やって来て、私と同じく勅命の内容を伝えた。その間のことについては、ここに記すことはしない。

今夜、大内義興の元に参上するという行為をすることに、我々の間にためらいがなかった訳ではない。しかし、確かに世間の称賛や
そしり受けることは確かに堪え難いことだが、今は天下のために、全ての事柄を忘れて行ったのである。
『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
これは古の賢人の格言であるらしい。実に厄介なことである。浮世の交わりとは誠に無益なものである。

帰宅の途中に、長橋局に直接参上し、勧修寺尚顕と三条西公条も同道した。私の家で、冷泉政為、甘露寺元長、姉小路済継らが、
先の件について聞いてきたので、おおまかな事情説明をした。

・24日
晴れ。
早朝、帝が新大典侍(庭田源子)を通じて、私が昨夜、義興を慰留した件について、色々と感謝の意を伝えられた。

・25日
賀茂在重が来て、大内義興が先日の夜の一件について、大変忝なく思っているということを語った。今日、大内雑掌を召し寄せて、
義興に帝の勅命の詳細を伝えたということらしい。

・28日
晩になって、阿野季綱が使者を送ってきて、

「今日、大内家家臣の陶興房と神代紀伊守(貞綱)らが室町殿(足利義尹)のもとに参上して、もろもろの御裁許を恐れ多い事だと申された」

と伝えてきた。これで大内義興の帰国は確実に無くなった。非常に目出度い事だ。
また、河州での合戦で(義尹派の)尾張守(畠山尚順)が勝利した。実に神妙な事である。

・30日
曇り。夜になってから激しい雨。早朝に賀茂在重が来て、ちょっとした報告があった。

阿野季綱から使者が来て、本日、大内義興が我が家を訪問するという事を、内々に知らせた。

夜になってから、大内義興が太刀を携えてやって来た。彼は先日の夜の事に感謝の意を表した。私は、この訪問について武家伝奏を通じて
詳細を報告する事を語った。義興は神妙なおももちで、重々しく感謝の意を表した。


大内義興は烏帽子をかぶり、自ら携えた太刀を私に贈った。私は、座った敷物の上で大内義興が帰るのを見送って感謝の意を表した。
その後、大内義興が来られた旨を、手紙で勾当内侍(東坊城松子)に報告した。

今日は、玄清庵で宗祇の追善連歌が行われた。私は発句を所望されたので、それを送った。そして、酒一荷三種も送った。

発句の内容はこうである

『とをき世もかゝらは風の葛葉かな』






482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 19:17:19.21 ID:p+D/YpwV
>>478
この辺、西国の歴史の大きな分岐点の一つだよねえ

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 22:08:57.71 ID:BMM6zWVr
>>482
戻っていれば、尼子の膨張はなかっただろうからねい。

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 00:53:12.53 ID:kqNjbGIi
義興が存命なうちは経久も大人しくしただろうか

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:09:50.44 ID:s7Ilnh3F
>>478
>『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
今も昔も、まつりごとは大変だな

伊香賀隆正の立ち腹

2011年10月29日 22:02

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:25:21.40 ID:max6tfAO
自分は訳も解釈も自信がないけど投下するぜ!

1555年、厳島に渡り、宮尾城を攻めていた陶軍数万は、
10月1日未明の奇襲によって混乱し、あっという間に総崩れとなった。
大将の陶入道は踏みとどまって戦い、討ち死にすべしと心に決めたが、側近たちに引き立てられて退却する。
上陸した大元浦まで退いて陣を立て直そうとするも失敗、
捲土重来を胸に浜づたいに逃れ船を探すも、船影一つ見当たらない。

もはや、これまで。
陶入道の手を引き、腰を押して進んできた側近たちも、
情けなくも雑兵の手で討たれるよりは、と覚悟を決めた。
小姓に持たせていた胡餅を分け合って食べ、
松の葉で綴じた木の葉を杯として、酒の代わりに谷川の水を注いで呑み交わし、
脇差を扇に見立てて謡い舞う。別れの宴だった。

入道は石の上に座し、腹を十字に掻っ切った。
腸を掴み出そうとしたところに太刀が振り下ろされ、首が落ちた。

介錯をしたのは伊香賀民部少輔隆正、陶入道の乳人(養育係)を務めた男だった。
伊香賀は刀を取り落とし、入道の遺骸を掻き抱いて、
「あなた様が赤子のころから一日も、片時も離れずに、慈しんで参りましたものを。
日に日に成長されるのがどんなに嬉しかったことか。昔のこともまるで昨日のように覚えております。
私こそが先立つべきなのに、その首をこの手で落とさねばならないとは」
と、泣き崩れた。享年35、早すぎる死であった。

残った者たちは陶入道の首を小袖に包み、岩陰に厳重に隠し終えると、
さて自分たちも、と思い思いに刺し違えて息を引き取った。
伊香賀も入道のそばで死にたかったが、
自分の遺骸が近くで見つかると主君の首も探し出されてしまうだろうと考え、
数百メートルも離れた浜辺で、立ったまま腹を掻き破り、自分で首を押し切って果てたという。




333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:43:51.44 ID:K73uKaNZ
こういう話、いかにも武士らしくて好きだよ
ただ誰が見ていてどうやって記録したんだろうと思ってしまう

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:07:24.96 ID:b9rL1d7r
生き残った人とか近隣の村人とかじゃね

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:09:44.90 ID:ayWuz64l
なんと冷静なツッコミ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:21:14.47 ID:oErLQ1t4
近隣の村人がそんな至近距離に居るわけないだろ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:38:20.35 ID:9Qm7ZXcp
まあ端的に言うと身分ある武士が一人で居るということはありえず、必ず下人などが付いるものなので、
この手の話は伝わるのは生き残った下人などからだろうね。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:13:22.64 ID:uD6DEZs5
久しぶりに逸話らしい逸話を読んだ気がする
ありがとう、>>332

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:15:47.97 ID:eGAHmx0f
伊香賀さんの無念っぷりが泣ける



345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 19:50:16.66 ID:max6tfAO
>>332だけども遅レスすまん。

>>333
これは胡餅を持たされてた陶入道の小姓が生き残って敵方(毛利)に話したってことになってる。
ただ、ここからは悪い話で、こいつは伊香賀民部に
「おまえはまだ幼いから敵も殺しはしないだろう。いいか、絶対に入道の死をバラすなよ。
山口に帰ってから信用できる重臣だけにそっと話すんだぞ。わかったな」
と念を押されたにもかかわらず、自分から落ち武者狩りの毛利勢のところに行って、
「大将首の在り処を教えるから命を助けてください」と、さっそくゲロったんだ。
民部が浮かばれないよう……
まあ出典が「陰徳記」(軍記物)なので、信憑性はアレだけどね。

>>338
べ、べつにアンタを喜ばせるために拾ってきたんじゃな(ry
こちらこそありがとう。


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:21:55.76 ID:qxlDkG4y
船を完全に抑えられて、島全体が「殺し間」と化した厳島から生きて帰れ、
というのも無理ゲーだと思うぜ。
厳島まではフェリーで10分だから、泳ぎが得意なら泳いで帰るのも
不可能じゃないかも知れないが

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:58:56.43 ID:CkTUFiVV
>>346
対岸は毛利の勢力圏だから周防まで泳がなきゃならないしねえ
しかも台風?で荒れてる10月の瀬戸内海を…




対岸で船探せよとか言わない

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 22:24:29.48 ID:XIlXBcBZ
でも秀家さんならw

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:14:40.87 ID:Ve/6I5UE
宮島の鹿って、泳いで本州まで行くんだろ?
鹿も四つ足、馬も四つ足。 鹿にできて馬にできないはずはない。

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:19:03.69 ID:9Qm7ZXcp
>>349
義経公お疲れ様です。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:32:53.90 ID:CkTUFiVV
梶原景時「鹿は偶蹄目で山を移動するのが得意で馬は奇蹄目で平原を移動するのが得意」

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:12:53.85 ID:7hXNx9WP
>>346
というか、毎年何人も宮島から本土まで泳いで渡ってる。
…トライアスロンやってるからな、宮島w
ttp://www.cci201.or.jp/ta/2011top.html

多分ウヨウヨいる毛利勢に見つからずに泳ぎきって逃げ切れるかは知らない。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:29:59.14 ID:S7hOMOuG
>>349
これがホントの馬鹿ってか

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 02:20:17.70 ID:2aqRBeZV
>>352
流石に夏だねトライアスロン

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 02:27:31.82 ID:17zPE6cd
>>352
「泳いで参ったー!」って言っちゃう人でてきそう

部下は隆房に有無を言わせず

2011年10月01日 22:06

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 02:20:18.05 ID:ifv7643A
上の方で株が下がった陶さんの話でも。旧暦だけど10月1日は命日らしいしね。

というわけで厳島合戦のときの陶さん。このときには剃髪して、名を晴賢から全薑(ぜんきょう)に改めていた。
毛利軍の朝駆け(夜討ち?)に虚を衝かれ、混乱し総崩れとなる陶の大軍。
一部は踏みとどまって奮戦防衛するが、
狭すぎて大軍の利が発揮できないどころか、大人数があだになって槍が振るえない。

(#゚д゚)「あんな小人数相手に、何押し負けてんの! 返せ! 戻せ!」
部下A「無理ですよ。狭いんで動けませんて。俺らは逃げます」
(;゚д゚)「大将を、捨てていく・・・だと・・・?」

(#゚д゚)「フ、フン、臆病風に吹かれた者など足手まといよ。三千の精鋭ども、集え!」
部下「えーと、だいたい五百人ぐらいしか残ってませんが」
(;゚д゚)「えっ」
部下「ここでは地の利が悪うございます、一旦引き、陣を立て直してください!
   我らはそれまでの時間稼ぎに引き返して防戦いたしますので」
(#゚д゚)「ヤダもん! わしもここで討ち死にするもん!」
部下「お早く! 敵軍の鬨の声がすぐそこまで迫っております!」
(#゚д゚)「でも」
部下「御免!」
( ゚д゚)「・・・・・・!」

部下は隆房に有無を言わせず、肘をつかんで引き立てた。
反対側の肘も捕らえられ、ズルズルと引き摺られてゆく大将でした。

この先は切なすぎて、笑い話にできないんだよな。





陶氏最期の風景

2011年10月01日 22:05

146 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 17:31:25.80 ID:hMTHCs4a
では、ゼンキョーさんの末路はスッ飛ばして

陶晴賢(隆房)の死後、大内氏は急速に崩壊、2年後の弘治3年(1557)3月には毛利軍が山口まで侵攻した。
大内義長は、重臣・内藤隆世の命と引き換えに長府へ退去する事を許されたが、毛利軍はあっさり約定を破り
長府にも押し寄せ、義長は下関に程近い長福院で最後を待つばかりとなった。

陶氏の家臣・野上隠岐守房忠は、ひとり山口に残された晴賢の末っ子・鶴寿丸のもとに駆けつけ、六歳になる
この幼子をかき抱いて言った。

「義長公は、毛利と申す人のせいで山口を追われ、長府へお出でになりました。今は大勢の敵に囲まれており、
近日中に御自害なさる由にございます。されば敵は若様をも捜し出し、殺さんとするでしょう。
もはや落ち延びる事もかないませぬ。雑兵の手にかかるよりは長府へ参り、主君の義長公とともに逝かれませ。

さすれば『幼少ながら死に場所を知っている、さすがは陶入道の子よ』と、世人こぞって若様を称えましょうぞ。
亡き父上や兄上方も、さぞかし喜びまする。そうお思いになりませぬか。」

涙を押さえて説く房忠に、鶴寿丸が「では、ご主君のおともをして、いずこへゆくのだ?」
と問うと房忠は、
「極楽という良い所です。水面に七宝のごとき花が咲き誇る池のほとりに、金銀瑠璃で飾った楼閣が立ち、
天より音楽が降り注ぎ、世にも珍しい鳥が飛び交う、面白きこと限り無き所にございまする。
その地にて、父上や兄上方にもお会いになり、ともに仏になるのです。」と答えた。

147 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 17:33:29.45 ID:hMTHCs4a
「そうか。そこには、ふねでゆくのか?それとも、うまでゆくのか?」と、なおも問う鶴寿丸。
「どちらでも。舟ならば彼岸への渡し舟が、馬ならば馬頭観音が馬となられて、お迎えに来てくれます。

ただ、その時には敵が太刀を並べて参り、私も太刀で若様を打ちまする。そこで少しも恐れず、笑っておれば
父上様方に会いに行けましょう。もし心残り等して泣いてしまえば、地獄と申す所へ行き、赤鬼青鬼どもの
責め苦を味わい、父上様方に会えませぬ。その上、世人は後々まで『あれが陶入道の子か』と笑うでしょう。」

「そうか。ちちうえにあえるなら、なんでこわがるものか。さぁはよう、ご主君のもとへまいろう。」
「天晴れ!さすがは・・・入道様の・・・・・・」

「?ふさただは、なぜなくのじゃ?主君のおともをして、人にもほめられるのに、なにがかなしいのだ?」
「・・・・・・」
「そ、そうか。わしは、しぬのじゃな。い、いやじゃ!ははうえや、うばとはなれて、しぬのはいやじゃ!」

真相に気づいた鶴寿丸は大声で泣き出したが、すぐに涙をぬぐうと、
「や、やぁふさただ!いまはこうでも長府へまいれば、かなしみも、なきもせぬわ!こころやすくおもえ!」
と言って、顔を赤くしながらも、房忠の隣に立った。

長府で義長と合流した鶴寿丸は見事に殉死を遂げ、介錯をした房忠も腹十文字に切って後を追ったという、
「陰徳太平記」に記された陶氏最期の風景。




149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 22:40:56.42 ID:YkmngnrG
>>146
大内義隆没後は、なんかもう見ていられないよ大内氏
義弘公あたりから延々と積み上げてきた輝かしい歴史が…
史跡こそあれ、山口が西の京と呼ばれてたなんて嘘みたいだ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 03:41:55.86 ID:KLnfSjZa
>>149
義興が上洛なんてしなければ大内はもっと続いただろうなあ

いりこ酒の隆房様

2011年09月26日 22:01

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 22:04:22.92 ID:AQD8nKru
市松さんみたいな人発見w

陶隆房(後に晴賢)は、いりこ酒(ヒレ酒のにぼしバージョン)が山口で大流行したときに、
夜な夜な諸将の主催する酒宴に顔を出してたんだが、ある日、オールで遊んで朝帰りした。
酔いも覚めやらず、寝所の外で鳥の声を聞いていると、家の中から近習が話す声が聞こえてきた。
近習たちは隆房の帰宅に気づいていない様子だった。

「殿はこんな時間まで、どこで何をされているのやら。心配だなあ」
「なに、殿はいりこ酒だ。いりこ酒の隆房様よ!」

馬鹿にされたと思ってカチンときた隆房は、荒々しく障子を開け放つと、脇差を抜いて
「いりこ酒」と言った近習に斬りかかり、反対側の庭まで追い詰めて首を差し出せと迫った。
近習は縁側に上がり「殿の悪口を言ったのではなく、ちょっとふざけただけですが、
そこまでお怒りならどうぞお好きになさってください」と諸肩脱いで首を延べ、
隆房は一も二もなくその首を落としてしまった。

この近習は隆房の乳兄弟で、父親も隆房が赤子のころから養育係として仕えている。
父親を呼んで成り行きを話し、死骸を弔ってやるようにと言うと、父親は息子の遺体を庭に突き落とした。
曰く、「こんな不届き者、私の息子じゃありません。天魔か狐の類でしょう」
この父親、他の人にも悲しみを見せなかったが、夜になるとこらえきれずに涙で枕を濡らした。
それでも、その後も隆房を恨む気配もなく、一途に仕えていたため、
隆房も自分の行いを恥じて、近習を殺したことを悔やんだそうな。

酒癖の悪い主君を持っちゃった家は大変だね。




110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 23:09:16.77 ID:hR4yMktv
>109
乳兄弟を切るなんて嫌な話だ
首を出されたら切らないで引くわけにはいかなかったんだろうな
そもそもその程度でカッとなって斬りかかったのが間違いだろうけど

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 23:49:28.32 ID:YzF229A4
近習は最期の言動を見る感じ
「ああ、この人はダメだ」と思いつつ斬られてそうなのがまた悲しい

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 00:53:45.98 ID:sVDG7Hm8
しかしこの陶さんが西国無双の侍大将って呼ばれてたんだもんなあ
人品は関係ないんだろうな

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 01:39:59.84 ID:qskgS5Z1
信長が舅殿を斬るようなもんか

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 16:21:00.32 ID:jSz+peDf
陶の評判大暴落w

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 19:16:00.10 ID:bXtP2px0
乳兄弟と穴兄弟(アーッ的なほう)

どっちの絆が強いのかね・・・