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小田原城包囲の様子

2019年11月16日 17:15

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 05:58:00.15 ID:vWED/vaX
小田原の陣のさなか豊臣秀吉は、小早川隆景が老武の物知りであるとして、尾州清須より呼び下した。
彼は塔峰の艮(北東)の方角にある鍋曲輪という山手に陣を張り、安国寺恵瓊長老を相備として、
二万騎ばかりにて在陣した。これ以前に、関白殿下の陣営を一夜に紙にて張り立てたのも、隆景の
工夫より発起した謀略であった。

そのような中、秀吉公は隆景を本陣に呼び寄せ雑談する中に
「今の状況では小田原城が早速に落城するとも思えない。そして諸軍には長陣に退屈の色が見える。
であれば所々に附城を築き、この本陣には私の名代として近江中納言秀次にそなたを付けて差し置き、
軍勢の大半は(徳川)家康殿に委ね、私は京に帰り一両月ほども滞留して上方表の仕置を沙汰し、
その後また下向したいと考えている。これについてそなたになにか思うところ有れば、心底を残さず
異見してほしい。」

隆景は答えた
「貴命を承りました。ただし、不肖ながら私の考えは、理不理を弁えていないのかも知れませんが、
今回の長陣は間違いなく御勝利の基であると思っています。であるのにこちらを捨て置いて、この時期に
御上洛されるというのは、在陣の諸将から鋭気をくじき、弓矢に怠りが生まれてしまうでしょう。
ただそのままに在陣され、急いで敵城を攻められようとはせず、弓鉄砲の鳴りを鎮めて、各仕寄を
丈夫に手当し、敵からの夜襲などを懸けられないように、諸隊に用心を専らとさせ、さらに倍の長陣の
覚悟を決意すれば、城中は日を追って困窮すること疑いありません。

またこれにおいて退屈させないように、若者たちに命じて小唄を唄わせ踊りなども促し、乱舞音曲の
遊興をなさしめれば、味方が長陣に倦まないように出来るでしょう。」

これを聞いて秀吉はうなずき
「そなたの父である毛利元就が生きている時に、これに似た城攻めの例は有ったのだろうか?」
と尋ねた。

「父である元就の代にも、出雲の尼子右衛門佐義久との対陣の時(月山富田城の戦い)、小唄、踊り、
能、囃子を催して長陣を張り、ついに敵を攻め破りました。その他にもこのような形の調略は度々に
及びました。」

「なるほど、元就は軍謀密策において並びなき達人である。」
秀吉はそのように激賞し、それより上洛を中止した。

その頃は五月雨が降り続いており、諸陣も湿っぽく物寂しい様子であった所を、秀吉は自らの陣営に
仮の数寄屋を設え、喫茶の会を興行した。橋立の壺、玉堂の茶入といった名物を取り出して、
徳川家康を始めとして、北畠信雄、上杉景勝も招待し、長岡三位法印(細川幽斎)父子、小早川隆景
津川三松(斯波義銀)、前波半入(勝秀)、羽柴下総守(滝川)勝利、有馬兵部卿法印則頼、
安国寺恵瓊長老、施薬院法印全宗、大村由己、利休居士、等を加えられ折々の会席あり、その陣中に於いて
古き新しきを取り交えて、はやり詞、戯れ歌などを言い触れるなかに、西行法師の詠んだものであるとして
誰も彼もが口ずさんだ歌が

 星ひとつ 見つけたる夜の嬉しさは 月にもまさる五月雨の空

さらに近習外様の若者たちに命じて、流行歌音曲を促すと、もとより上方生まれの遊興に親しんだ
者たちであったから、得たり賢しと、ありふれた小歌に様々な新作を加えて、水無月(六月)の初めの頃より
この山かの平地と群れ出て涼みがてらに謡ぞよめき鬱を散らした。後には秀吉を始めとして、尾張内府(信雄)、
黄門秀次、宇喜多秀家、蒲生氏郷などまでも、手拍子にて小歌の遊興が有ったが、躍りは未だ興行しなかった。

小田原の城中ではこれを聞いて、
「寄手は長陣を決意し、あのように遊楽に日を暮らしているのだ。この戦いは一体いつに成ったら
終わるのか。」
と気を屈し、心を労して、滅入らない者はいなかった。

(関八州古戦録)

小早川隆景の提言による小田原城包囲の様子。



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 08:59:41.74 ID:lGo0pu+2
氏康「小唄踊りに紛れて敵を討つのだ!」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 12:55:17.35 ID:HeMAIOet
付け入られて落城か
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漢家三傑に比すべき家臣

2019年11月01日 17:38

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 11:04:43.93 ID:p2MQ/1GV
豊臣秀吉は小田原への進軍の途中、小早川隆景を尾州清須に残したのを残念に思い、急にこれを呼びにやった。
この隆景は知勇兼備の勇士で、上杉景勝の臣である直江山城守兼続、堀左衛門督秀政と共に、漢家の三傑
(蕭何、張良、韓信)に比すべき大切な家臣であった。そこで駿河清見寺に滞在中、飛脚を飛ばしたのである。

これに隆景は取るものもとりあえず下向し、この日沼津に到着した。
その隆景の家来の中に、十八反の大母衣をかけた武士と、もう一人三間もある大指物を靡かせた武士がおり、
大変に人目を引いた。この事は秀吉の耳にも達し、彼らを垣間見ると、近習に命じてその名を尋ねさせた。

ところが近習が彼らに追いつき名を尋ねると、答えず黙って行ってしまった。近習は不快な顔で、戻ってきて
秀吉に報告した。秀吉は聞くと笑って

「軍中礼なしという。それは何か急な用があったか、それともお前が馬を降りずに名を聞いたのではないか?」

そう近習をたしなめ、別の近習に馬を降りて名を聞くように命じ、再度走らせた。この者が下馬して
この二人の武士に名を尋ねると、大母衣の侍は
小早川隆景が家臣、樽崎十兵衛である。」と答えた
大指物の侍は
「我は同じく隆景家臣、河田八郎である。」
と言った。


近習は帰ってこの事を報告すると、秀吉は「健気なる武士である」と感じ入った様子であった。

その後まもなく、樽崎は病死した。
河田八郎は隆景が死去した後は浪人となり、後に池田三左衛門輝政に仕え河田太郎左衛門と名乗り、
摂州難波の戦いで鉄の盾を振り回して戦い、見る者皆舌を巻いた。そして今なおこの勇士の名は、
人々の口に語り伝えられている。

(関八州古戦録)

小田原の陣における小早川隆景とその家臣について。



299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 15:09:00.72 ID:L131GxwK
鉄の盾を振り回して戦いってだけで戦国無双でキャラとして立てるな

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 15:32:38.63 ID:s7/hLmJu
名将言行録の天下の三陪臣の元ネタ?

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 20:57:17.02 ID:IclFUXMt
どっちが時間軸として先にあったかは知らないが
「本営前で下馬しなかった上に捨て台詞まで吐いた」、花房助兵衛は縛り首にしようとして、
この、「聞いた近習の礼儀がなってないから、陪臣の無礼を不問にした」ってエピソードと比べると
秀吉もそこまでご無体な老君主じゃなく、きちんと礼儀上は一貫してるように見えるな

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 23:52:40.98 ID:EXYR56kw
無言と罵詈雑言じゃ対応が変わるのは当然

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/02(土) 07:43:33.75 ID:dDdSc6I8
>>298
>鉄の盾を振り回して戦い
漫画みたいな超人がサラッと書いてあって草

竹束の仕寄

2018年12月10日 18:44

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 17:48:12.50 ID:ldA590QC
関ヶ原戦役における伏見城の戦いに、金吾(小早川)秀秋の先手である松野主馬、平岡石見、彼らは
一万石づつ知行していた。

彼らは先手として城に向かって仕寄(城攻めのための構造物)を築いたが、松野主馬の仕寄の竹束は、
城内よりの火矢にて焼き立てられた。この様子に坂崎出雲は「城内より激しく防がれ、仕寄の構築は難しい。
暫く様子を見てから竹束を付けよう」と言った。

しかし村上三右衛門、その頃は宇右衛門と言ったが、彼は
「この竹束の焼け跡に、もう一度竹束を付けずに引くということ有るべきか!」と、直ぐにまた竹束を
付けさせ、松野と相談して、竹束の上に、防火のため壁の下地と成る土を塗るべきだという事になり、
「外に出るのを遠慮したいという衆は内にて土をこねられよ!外に出るという衆は、出て壁の下地を
塗るように!」と呼びかけた。

松野主馬の組より八人が出て壁の下地を塗った。その他歴々の侍も皆土をこねた。そこで主馬は
「組の足軽共のうち、この土を塗った者は、中間凡下の者であっても侍に致す!」と宣言したところ、
中間足軽の内8,9人出て壁を塗った。それ以後、竹束の仕寄は焼けなかった。
(士談)

ボク「もしや最初から土を塗った竹束を用意しておけばよかったのでは。」


【雑談】そいえば、秀秋は

2018年10月22日 17:30

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 20:08:15.54 ID:l6TmlEzq
アル中も広義なら乱心だろうな
当時アルコール依存症なんて知識がなかったらなおさら

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:01:31.74 ID:fQNGXS9/
>>386
知識はともかく、酒の飲みすぎで頭がおかしくなったって例はいくらでもあっただろうに

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:06:18.12 ID:bOTpVV6R
他家の侍に日本号プレゼントしちゃう人とかな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:33:42.13 ID:1TmMPqVb
酒毒って表現はあったね
どこで見たか忘れたけど酒毒に当たって死亡=急性アル中って意味だったはず

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 00:25:09.34 ID:kx6ciQNW
十代前半
北政所「夜な夜な仲間集めて酒盛りするのやめなさい。飲みすぎっ死にますよ」
十代後半
曲直瀬玄朔「黄疸出てます。みぞおちにしこり有ります。めちゃ喉乾くのは肝臓死んでるからです。辞めないと死にますよ!」
二十歳
家臣「酒毒で死にました。」

華麗なる酒人生。十代で肝硬変末期

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 06:49:39.98 ID:yKUCirf5
毛利元就も兄が酒に溺れて死んだかなんかで酒には気をつけろって言ってなかったっけか

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 15:16:12.39 ID:fLV0Og3E
>>390
これじゃあまりにみっともないから大谷の祟りのほうがマシだわな。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 15:38:06.47 ID:5Fi/S/5C
毎日少しずつ毒盛っとけば酒のせいになるね

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:05:08.05 ID:UEIwRKoO
近衛信尹「昔から飲みまくってたぞ」

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:20:29.91 ID:Wnd/eiZN
まぁ娯楽の少ない時代アルコールの刺激に溺れるのはわかる
阿片とか戦国時代の武将間で広まってたら、とんでもないことなってただろう

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:25:24.50 ID:UbRF9N6P
大麻とかは喫われてなかったのかな

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 22:41:47.14 ID:9c9gis6s
自生の麻があるのに何故か日本では喫煙は山仕事をしてる人の一部で知られてた程度で一般には広まらなかったらしい

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 00:48:41.90 ID:HJTZraBO
この時代は食中毒で死ぬ人もいるな
毛利隆元や森忠政

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 05:32:53.71 ID:DKmMm+br
そりゃ、誰かに飲まされたお茶で死ぬのもいるしなんでもあり。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 08:35:51.88 ID:DRwuk6d3
如水「鮭が病に悪いなんて知らなかったんや!俺は悪くヌェー」

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 02:29:16.12 ID:GA4N5e0v
>>398
それを考えると秀吉に季節はずれのデカイ桃を献上しようとしたテルは
やっぱ軽率ではあるな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:11:44.67 ID:vu86f/YA
品種改良した桃の炎上商法か

大将がこのように傾いては

2018年01月23日 17:09

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 00:13:15.55 ID:XYFiAA4T
関ヶ原の役、西軍による伏見城攻めの時、惣郭はたやすく破れたが、本丸において激しい抵抗が
行われた。ここで小早川秀秋重臣の松野主馬が、一人立って下知をし、そこに向かって城より矢弾が
雨のように降り注いだ。

瀧権右衛門という者、主馬の振る舞いがあまりに傾き、猛々しいと、両手で主馬を
押し据えた
「大将がこのように傾いては、諸卒にも手負いが多く出ます!」

ところがこの時、主馬を押さえつけていた瀧の両手に銃弾が当たり負傷した。
しかし主馬に当たることは無かった。

(士談)



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 07:36:00.58 ID:yWfCI47D
>>587
これはどっちか言うと悪い話のような…

いつの時代も上司が妙に張り切りすぎると部下が割をくうんだなあ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 07:51:42.48 ID:5r6YpFWm
蒲生氏郷「せやな」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 17:07:51.52 ID:jffKaeJ3
かぶくのを悪く言う奴にはバチが当たるいい例

最早五十万石を領知する者は

2017年12月13日 19:35

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 14:06:45.28 ID:rieLt3zD
最早五十万石を領知する者は


ある時、権現様(家康)の御前で本多上野介(正純)が
松平武蔵守(池田利隆)の噂を申し上げると(家康は)
「武蔵守は筑前中納言(小早川秀秋)によく似ているな」
と上意があったので、上野介は
(関ヶ原で、秀秋が約束通り御味方したことを言っているのだろう)
と考えて
「上意の通り、随分律儀な人ですからね」
と申し上げた。

「いや左様ではない、最早五十万石を領知する者は
 親兄弟にも目をかけることがよいことなのだ。
 律儀だからといって済むことではない」
との上意だったという。


――『岩淵夜話』 



506 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/13(水) 18:37:50.95 ID:oD7YlylU
>>505
そう言えば小早川秀秋は西軍について改易された兄を客分として養ってたんだっけか
何故か2人同日に亡くなったらしいが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 20:14:50.18 ID:FMASO97P
>>506
今川氏輝「身内が同日に死ぬとか恐いわ」

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:17:40.71 ID:gc0M6H9p
これは世話をしろってことなの?油断するなってことなの?

こうすれば地下人共が立ち上がり

2017年12月12日 18:09

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:28:20.92 ID:I55SSOBF
豊臣(小早川)秀秋が関ヶ原の後、家老の歴々を成敗ありし後に、何某とかいう大身の者、
家を立ち退くことがあった。
白昼に、妻子を引き連れ弓鉄砲で前後を固め立ち退いた事に、秀秋は以ての外に怒った

「白昼に城下を、あのような体で引き払わせるとは武家の恥辱である!急ぎ討ち取れ!」

しかしこれを、家老の松野主馬が諌めた

「彼らのような僅かな人数が立ち退くのを成敗するのは、何より易きことです。
しかし殿は前々に、誰々を御成敗されましたが、これについて世では然るべからざる事だと
取り沙汰しています。であるのに又彼らを害せば、人々からの批判は止まらなくなるでしょう。
ただ、黙って捨て置くべきです。

ですが、どうしても害するべきであると言われるのなら、私は人数を持っていませんが、
申し付けて討ち取ります。」

秀秋は不思議に思った
「汝は彼らを打ち取る人数を持たぬのに、どうするというのだ?」

松野は申し上げた
「これより町人在々にこう触れ回します。

『落人あり。討ち取って衣装をはぎ道具を取れ。それらは全て下される。』

こうすれば地下人共が立ち上がり、即座に討ち取ることでしょう。
どうしても彼を討ち取ると決心されるのであれば、御手を下されずともこの謀にて討ち取れます。
結果として同じことですから、小さな違いは気になさらないべきです。」

これを聞いて秀秋も心和らぎ
「私の落ち度にならないということなら、かまわない。」
と許可した、結果松野の考えた通りとなった。

(士談)



406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:41:04.06 ID:0s4pVCV4
松野主馬って関が原の時に「裏切りなど恥である」って戦線離脱してそのまま立ち退いたのだと思ってた

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:53:27.12 ID:R8XTGHbK
>>405
許可するんかい!

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 22:24:45.14 ID:e+ZOOM01
>>405
金吾の小物っぷりっぽい逸話

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/12(火) 13:38:13.00 ID:2OqDdFQV
何?、元家臣が追い剥ぎや盗賊にあって殺害されただと!
きっと宇喜多の残党だよね、大義名分得たし討伐すっか

特に動揺はなかったという

2017年11月25日 15:27

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 14:01:56.38 ID:JplSg2Nq
関ヶ原で東軍が勝利した後、近江佐和山城を筑前中納言小早川秀秋、小川(祐忠)、朽木(元綱)、
脇坂(安治)などに、城の請取が命ぜられた。
諸手面々が取り囲んで攻めたため、佐和山城では持ちこたえる手段無く、各々自害して天守に
焼草を入れ置き、発火のための鉄砲の火薬2,3石ほどを入れた。

この時、櫓の防衛に当たっていた手の足軽大将の元にあった火薬に、どうしたわけか火がうつり、
櫓ごと爆発した。
爆発の衝撃と黒煙のため、そのあたりでは目がくらみ敵味方の見分けもつかぬ状態となり、
攻め手の中の、とくに若い者たちは不覚にも崩れ、その不名誉は後に人の口に上ったという。

この時に懲りた故か、その後天守に火が付き、火薬のため爆発したが、特に動揺はなかったという。

(士談)



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 15:05:58.50 ID:fRRJNyEY
鳥羽伏見の戦いで大坂城がほとんどもぬけの殻になった後
民衆が略奪しまくってたら城が爆発炎上した、て話を思い出した
某司馬遼太郎作品では薩長軍はそれを見越して後で悠々と城入りした
てことになってたけど、本当だとしたらこういう話を知ってたんだろうか

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 15:11:15.31 ID:b86Bif5A
幕末までは日本人もちゃんと略奪とかしてたんだな

留守は要らない

2017年08月09日 15:35

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/09(水) 15:01:12.11 ID:Gqo3zfNg
関ヶ原の時、金吾(小早川秀秋)は松尾山を占拠したが、その占拠に向かう折、それまで陣を張っていた小屋に
澤角図書という者を残した。ところがこの澤角は後に残るのを迷惑として、秀秋に供奉することを望んだ。
そこで秀秋は、澤角に小屋を棄てて供をするよう命じた。

これに老臣たちは反対した。「御陣屋には留守が居なくてはならないものです。」
しかし秀秋は

「留守はいらぬ。何故なら東軍が必ず勝利するのだから留守を置くに及ばない。
万一西が勝てば、猶以って留守は要らない。そのまま差し置くべし。」

そう云ったという。

(士談)



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/09(水) 15:48:56.97 ID:3ROO509T
関ヶ原開戦前に裏切りを決めてた説か
開戦時には大谷隊に掛かっていたって続くのかな?

三原城石垣の紋

2016年11月21日 17:33

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 00:43:23.79 ID:UCg95lBi
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?



【ニュース】肝臓は大切にね!

2016年06月27日 17:34

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:14:32.30 ID:/MqLJVh3
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160627-00050028-yomidr-soci
「小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?」


肝臓は大切にね!



776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:35:48.54 ID:3JLjvA8Y
これなら関ヶ原後数年で死んだのも説明つくな

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 14:31:31.81 ID:KCWhgknx
というか医者の記録で酒飲みすぎで死んだって判明してなかったっけ

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 15:45:50.91 ID:/MqLJVh3
三成の亡霊に悩まされたってのもあったよね。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:16:22.03 ID:+qPXwI3K
>>775
今年の真田丸だと三成と大谷の霊が交互に襲いそうなんだがw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:55:27.76 ID:TO7QrSDN
亡霊になって呪えるなら家康の方にいけばいいのに
そんなんだから関ヶ原で負けるんだ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 19:58:33.34 ID:FwSunThd
亡霊=アル中の妄想だったか

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 15:40:48.51 ID:uBSLhsAz
>>775
ドラマの秀秋役というと色白びょうたんてのが定番だったけどこれからは色黒になるのかな

たいめいけんのシェフとか?

「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」

2016年04月08日 14:00

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 10:47:21.12 ID:E4HK9LdF
毛利元就が厳島の合戦で陶氏の大軍を破った後、勢いに乗って次々と陶氏の城を落としていき、
ついには都濃郡須々万まで兵を進めたが、盆地にある須々万城は四方から川が流れ込む沼城で攻めにくい場所である。
毛利2万の軍勢を2つに分けて毛利元就が北側の緑山に陣を張り、息子の小早川隆景が正面から攻めることになったが、
城を守る大将の山崎伊豆守も勇将であったのでなかなか落ちなかった
弘治元年(1555年)の年末から攻め始めたが、にらみ合ったまま時は過ぎて、とうとう弘治3年の春となった

おぼろ月が見える春の夜、城のそばの沼地にあやしい人影が見えた。なんと水をたたえた沼の上を一人の若い女が
歩いていたのだ。それを見た攻め手の兵士たちは幽霊ではないかと騒ぎ立てたが、その若い女は沼の真ん中で立ち止まって
城へ向けて「おまえさまあ」と呼びかけ、「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」と歌を詠んだ。
彼女は城内にいる恋人に会いにきたのである
相手が敵方の女と知った毛利側の兵たちは鉄砲でその女を撃とうとしたが、大将の小早川隆景はそれをやめさせて様子を見た。
すると城の中から鉄砲の音がして女は倒れて水しぶきがあがった。味方によって女は撃たれてしまったのだ。そこへ小早川隆景
大声で、「みなのもの、見たか。女の通ったところが浅瀬だ」と叫んだ。
その声で我にかえった兵士たちは、女が通ったところに竹のすのこや むしろなどを重ねて道をつくり、一気に沼を渡って攻め入った。
あれほど守り続けていた城もこの攻撃には耐え切れず、とうとう須々万城は陥落した。
恋人に会いたい一心だった女の振る舞いが自分や恋人だけでなく、須々万城まで滅ぼす悲劇を招いたわけだが、この女性を憎む話は
伝わっておらず、誰もがあわれなことだと噂しあったそうである



小早川隆景「私の父である毛利元就は」

2016年03月29日 17:41

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:18:00.92 ID:DemqXdSQ
北条討伐により、豊臣秀吉は小田原城を攻め立てたものの、小田原は音に聞こえた名城であり、
落城する様子は見えなかった。秀吉は小早川隆景を召して言った

「この城を数ヶ月攻めているが、未だに陥落しない。この上は総攻めにしようと思っているが、
お主はどう考える?」

隆景答えて
「総攻めと命ぜられましたら、即座に攻め落とす事でしょう。ただし、味方も多くの死傷者が出るでしょう。

私の父である毛利元就は、数か国を乗っ取った者でありますが、父は城を囲んで弱らせる時は、
城中を割る謀を巡らせました。この時、仮に我らと語らった者共が、我々に同心しなかったとしても、
語らったという事実は漏れ聞こえ、城内の者達にに疑心暗鬼を生じさせ、程なく落城におよび、
人も損ないません。

殊更、この小田原城は大軍が立て篭もっていますから、必ず人心を統制することは出来ません。
籠城において人が多すぎるのは保ち難いものであると聞き及んでいます。
御計略によって、程なく落城させることが出来るでしょう。」

秀吉はこれを聞くと「兼ねて聞いていたことに増して、毛利元就とは謀略深厚な人物であることだ。」と
感心した。

そうして秀吉は富田将監を召し
「汝は北条氏政の老臣、松田尾張守と親しいのだから、これこれの通り松田に申し伝えよ。」

富田は松田に遣いを立て、『御味方に属せば伊豆相模両国を与える。』と密かに伝えた。
松田はたちまち心を変じ、味方する旨を返事し、嫡子新六郎、次男左馬助を呼び寄せ斯くと語った。
しかし次男左馬助は思う仔細有り、密々に主君氏政・氏直にこの事訴えた。

氏政は大いに驚き、松田を誅殺した。しかしこれにより隆景が考えた通り、城中の諸将兵士、
軽卒に至るまで、各々が疑心を持つようになり、城中騒乱して、今や諸軍の心は個々に立ち隔たる
有様と成った。

このように成っては防戦を遂げることも出来そうになく、城を保つことは難しい事態と追い込まれたため、
氏政・氏直父子は独夫の義勢も尽き果て、是非なく剃髪して秀吉の軍門に下った。
これによって関八州は併呑され、小田原に滞留し残党を征した。

(伊逹秘鑑)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:23:21.47 ID:JZcHoAiY
本阿弥「親や兄を裏切るなら松田憲秀が誅殺された時点で自害しろよ」

小早川秀秋「この恩に必ず報いるでしょう。」

2016年01月01日 17:00

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 13:18:33.90 ID:v6oP3eQM
慶長3年4月4日、小早川秀秋は朝鮮より大阪に帰還した。
翌5日、伏見の城に参上した。秀秋に従った7人の軍奉行、並びに加藤嘉明も同行した。
伏見に在住していた大名が尽く参集し、秀秋の凱陣を賀した。
やがて太閤秀吉が現れ、対面のあと、太田一正が秀秋の朝鮮での合戦の模様を詳細に弁じた。これを聞いた秀吉は言った。

「いやいや、大将軍が自ら諸軍と戦功を争って軽々しく戦うなどけしからぬ!
ワシは秀秋を差し向けたことを、返す返すも後悔している!」

秀秋は聞くやいな、押し返し申し上げた
「世の常の御使であれば、幼弱の身でありますから、辞し申したでしょう。追討の御使なればこそ、仰せを承ったのです。
しかし今、人々が聞く所で、御後悔の旨を承ること口惜しい!
この秀秋に不覚のことがあったのなら、軍奉行の人々よ、いま御前において率直に申し上げ、
速やかに秀秋の首を召され、御憤を散じられるよう計らうように!」

しかし秀吉は何も言わず座を立って内に入り、石田三成が参って秀秋の家老である、
杉原下野守、山口玄蕃充に向かって言った
「上様の御気色宜しからず。先ず御屋敷に帰られるように。」
秀秋は怒り、三成の首を落とそうとするように、打刀を取って立った。

ここで、その間に徳川家康が入り秀秋を制した。そして彼の屋敷へと伴うと、そこに秀吉よりの
使者として尼の孝蔵主が訪れ秀吉の仰せを伝えた

『さても去りし頃、蔚山の戦いにおいてる軽々しき振る舞いをし、また先程申した事も
甚だ奇怪の至りであった。この上は至急筑前国を返却し、越前の地に移るように』
秀秋は激怒し
「やあ尼よ!この秀秋の身に国を奪われるほどの罪を負った覚えはない!この生命あらん限り、
筑前を返すつもりはない!よって速やかにこの首を刎ねるようにと太閤殿下に申せ!」

そう言って追い返した。しかし家康は帰ろうとする孝蔵主に密かに言い含めた
「秀秋殿は『仰せ謹んで承ります』と言ったと報告するように。」
「内府様…。この上は内府様の御計らいこそ頼りです。北政所様へも、そのように申します。」

孝蔵主が屋敷を出ると、家康は秀秋に向かって説得した
「今は兎にも角にも仰せに従うことこそ大切です。その間に北政所が嘆かれれば、太閤殿下もいつまでも心強くはいられません。」
しかし興奮している秀秋は
「ならば、私自ら三成の首を斬った後で内府の言うとおりにいたしましょう!」
そう言って聞こうとしない。家康も、今は強いて本人を説得すべきではないと思い、家老の
杉原、山口を密かに呼んで言った
「先ずは家人を少しだけ、越前に派遣するのだ。」

そこで彼らは外様の侍を少人数さし下した。そこで家康は、前田利家とともに秀秋について嘆願しようとしたが、利家はそれを断った。

それより家康は毎日秀吉の前に参上したが、何を話すということもなかった。
秀吉は気になり「どうしてそのように毎日参るのか?」と尋ねると、
「秀秋殿が国を移されること、痛ましく覚えて、その事について申し上げようと参っているのですが、
どのように申し上げれば聞いていただけるかわからず、このようにしております。」

そう答え、その後も毎日参上した。秀吉は再び最初のように尋ねると、家康もまた最初のように答えた。
これに、秀吉も遂に根負けし
「そこまで思われているのなら、秀秋のことは内府の計らいに任せよう。」

家康は大いに悦び、秀秋の元に出向き、杉原、山口を召して越前へ下した侍たちを呼び戻させた。
程なく6月2日に、家康は秀秋を伴って登城すると、秀吉はこれに対面し、饗宴の儀を開き、
また両名に多くの引き出物を下された。

秀秋はこの日、長崎伊豆守を徳川家に使いさせ、
『今回の御芳恩はいつまでも忘れません。この恩に必ず報いるでしょう。」
そのように伝えた。

(藩翰譜)



130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 16:18:26.54 ID:7z8qiSfe
見事な関ヶ原フラグ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 16:28:24.10 ID:mjKAu8Ji
実際はフツーに越前に転封してるけどねぇ…
藩翰譜の頃にはあれこれ分からなくなってたんだろうな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 17:26:27.04 ID:wII7VMDj
徳川家だったらサドの守あたりがやりそうな話
やはり内府様も三河者だなめんどくせー

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 20:36:43.22 ID:+Bnqog12
秀秋は朝鮮で実際には前線切り込みなんてしなかったそうだし、
三成下げ家康上げの為の逸話だわな

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 20:54:20.74 ID:21XobQQ6
でもこうやって裏で動いてると楽しいんだよなぁ、俺やってるぜ感が半端無い

金吾殿のお振る舞い

2015年12月29日 15:24

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/29(火) 13:35:23.32 ID:iXIovZrU
慶長3年正月4日、小早川秀秋は蔚山城の後巻にて真っ先に進み、秀秋自身の手で
騎馬武者13騎を斬って落とし、軍全体で一万三千二百三十八の首を取り、太閤秀吉に献じた。

この使者は同月24日伏見の城に到着した。太閤は合戦の様子を聞いて大変に機嫌を良くした。
ところがこの時、石田治部少輔三成が密かに申し上げた

「金吾殿のお振る舞い、誠に雄々しくも聞こえます。さりながら、既に上様の御代官として向かわれた
御身が、自ら釜山の城を出て深く敵の中に入り戦われたというのは、あまりに軽率に存じます。
敵がもしこの隙を伺って、釜山城を攻め取ってしまえば、本朝との通路は最早自由になりません。
今後は、かかる振る舞いは然るべかざる旨を仰せ下されるべきでしょう。」

これに太閤も尤もと思われ、秀秋の功を賞することはなかった。

(藩翰譜)



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 10:04:54.66 ID:ReyZh93h
>>824
お付きの者の支援があったとはいえ、小早川秀秋も個人的武勇は
人並みにあったんだろうな
ゲームだと武勇が20ちょいぐらいしかない
個人的には、宇喜多秀家と小早川秀秋は、性格において格差があるけど
能力においては同じぐらいじゃないかと思っているのだが

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 17:12:10.72 ID:Y1JvnBG+
>>837
ノブヤボ覇王伝では戦闘66ぐらいで平均よりそこそこ上だったけどな
政治と采配が忍者武将並にズタボロだったけど

ただ秀秋は肥の能力査定が作品ごとに結構ブレてる印象がある
比較対象の秀家は群雄伝こそ過大だったけどそれ以降は、武勇がほんのり高めのほぼ平均値で固まってるのにだ

小早川秀秋には国替えの望みがあった

2015年10月22日 10:44

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:07:05.80 ID:0j+Esrwt
金吾(小早川)秀秋は、小早川隆景の養子となって跡を継いだことを、内心おもしろからず思っていて、
国替えの望みがあったのだが、豊臣秀吉がこれを察し、秀秋に

「石高が減っても国替えを望むか?」

と聞いた。これに金吾殿「勿論です!」

「ならば備前。備前に国替えしようか。」

そう内意の沙汰があることを金吾は聞いて、筑前から侍を数多呼び寄せた。
そんな時、秀吉は発病し、国替えのことも中断してしまった。

金吾は『御前(秀吉)の方では決定しているのに、石田三成が謀って事が不調になっているのだ!』
そう考え、三成に強く恨みを抱いた。

そんな時、徳川家康が金吾に異見した
「あなたが呼び寄せた家中の武士たちを、少々国元に戻されるべきです。」
しかし金吾は聞かなかった
「私の国替えのために呼び寄せた侍たちを、何の面目があって戻せるでしょうか!?」
これに家康
「ならば、私が申し聞かせる。」

そして直々に金吾の家来たちと対面し
「今回、金吾殿が各々を呼び寄せたのは、粗忽であったからではない。これこれの仔細があっての事なのだ。
しかし現在、太閤殿下は御病気中であり、そんな時期に大勢が詰めかけているのは、金吾殿の為にも
いかがかと考える。であるので、何れも国元に戻る方向で、相談してはくれないだろうか?」
そう仰せ聞かせた。

この事で、金吾は外聞まで宜しくなったとして、以後家康に一層傾斜し、三成に対しては
猶もって恨み深かった。
関ヶ原にて家康の味方となった時も、家康からの書状に対し男道(武士道)の儀について、
近年申合わせた通り少しも違いなく、よってこの合戦に家康は勝利したのだという。

(武功雑記)



853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:16:00.83 ID:zMeGdL5U
宇喜多が納得するとは思えないがな

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 00:46:04.47 ID:OjVdeQG2
本物のアホだったのか?

小早川隆景、城に入る

2015年04月09日 18:36

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/08(水) 21:45:32.14 ID:dF0Y/VTy
天文24年(1555)の厳島合戦。陶晴賢の本拠である岩国に集結した防長豊築四ヶ国の軍勢は、船数500艘にて
宇賀島を先手として厳島に押し渡った。

岩国勢は次第次第に渡海し、陶入道も塔ノ岡と云うところに陣取り、もしかすれば毛利勢の後ろ巻きも
あるだろうと、毛利方の籠もる宮尾城を昼夜の区別なく軍勢を立ち代わり立ち代わり攻め立てたため、
城中は水の手を掘り切られ難渋し、櫓の下にまで金掘を入れられ、もはや落城と思うこと度々であった。

この事が城中より毛利元就に注進されると、元就は廿日市という所に陣取っていたが、そこから
厳島の向かいである火立岩まで打ち出て、そこで様々に評定を行った。

この時、元就はその三男である小早川隆景を呼び出して命じた
「その方、どうにか謀って厳島の城に籠もり、城中の兵に、あと3日落城しないように
固く防ぐよう伝えるのだ。その3日のうちに、必ず後ろ巻をする。」

隆景はこれを聞くと、一言の異論もなく陣所に帰り、漁舟を準備させ、船に心得のある侍二人を
漁師、釣り人に変装させ、自分は船底に隠れ、数百艘の周防兵の船の間を、ゆるゆると魚を売りながら
通り過ぎ、磯近くになると、隆景も櫓を押して船を城の岸際に付けると、城内に駆け入った。

城内はこれに力を得て、喜ぶこと限りなかった。

(中国治乱記)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 04:43:07.38 ID:LrHymSvD
>>812
魚売りに来るとかよくある風景だったのかな

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 08:55:22.80 ID:1FdY/eOk
買う方は戦場に銭もってきてんのかなあ
死んだら全部とられるのによく分からん

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 09:28:18.74 ID:6urWHmJB
死に物狂いで戦って生き残ろう、あわよくば手柄も立てよう
その為にもまず旨いもん食って気合入れようって奴もいたんじゃね

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:23:33.66 ID:E2+xEx5L
陣借りつってな牢人が現地募集してるところに集まって銭と米を貰って参戦するんだわ
持ってないほうがおかしいぜ

あと銭米だけもらってトンズラしようとか馬鹿なことは考えるなよ
周りは人殺し連中だから卑怯者を殺すのに躊躇いはない

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:30:41.49 ID:E2+xEx5L
だいたい金庫なんてもんはねえんだ
留守中に誰が守ってくれるんよ
持っていくのが普通っしょ
女房ひとりなら強盗強姦されちゃって子が産れるってもんよ
だから秀吉に弟妹がいたってのはあり得る話

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 11:02:41.93 ID:XGMpCMnt
現代語訳雑兵物語みたいな

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 13:26:36.08 ID:98gd9DXO
この時代の商人は金儲けに命懸けてたって言うしな

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 19:46:09.00 ID:m2yjwN5M
人が集まれば商売ができるからな。
長陣の最中にはいろんな商人が出入りしてたみたいだし。
陣中で兵糧の代わりに銭を支給することもあったとか。

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 22:06:46.89 ID:xmXMS0v0
そういえば、小田原陣では私娼もだいぶ集まったらしいね

水商い

2015年04月06日 18:30

647 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/04/05(日) 23:27:43.02 ID:NFMptlLG
慶長2年(1597)12月24日、慶長の役、第一次蔚山城籠城戦において明軍の襲撃があり籠城軍はこれを撃退する。
この時、二ノ丸三ノ丸の堀下に、数しれぬほどの敵の死骸が残されているとの報告を受け、
大河内茂左衛門尉をはじめ、田中小左衛門尉、川村十助、林角右衛門尉、近藤甚右衛門尉の5人が同心して
それを見に行った。

その帰り、二ノ丸の門脇に、小さな桶に盃をとりそろえ、声高に水を売る者があった。
大河内が近づいて「いくらだ?」と問うと、その盃一杯の水を代銀15匁であるという。
大河内は同行した者達に、「この水を飲み給え」と進めるが、皆は「代銀を持っていない」と言う。
これに大河内は
「代銀は私が持っている。何れも飲み給え。」

そう言うので皆喜んで飲んだ。
「各々は先に帰られよ。私は代銀を遣わしてから行く。」

そういって一人跡に残り、自身も一杯飲むと、正しくそれは水であった。
しかし大河内『金は無い。ごまかして行ってしまおう。』そう思い、商人に向かって
「これは何ということをするのか!歴々の武士に尿を飲ませたな!沙汰の限りだ!」

そう言い捨て立ち帰ろうとすると、水商人は大河内の鎧の袖に取り憑いて
「大変大きな金額です!どうか支払って下さい!」と大いに嘆いた。
大河内は商人を説得しようと思い

「私は、今は金を持っていないが、皆々合戦で骨折りをした軍士だからこそ水を与えたのだ。
この籠城において武運が開くのを待てば、私に預け於いた金であっても米であっても、望みに任せ
いかほどにも与えるであろう。
逆にもし落城してしまえば、金銀をどれだけ持っていたとしても意味がないではないか。」
そのように様々に言い聞かせたが、商人は納得せず
「ぜひとも支払っていただきたい!」と言う。

ついに大河内も怒り、「おのれは耳の穴も開かぬうつけだ!よし、金をくれてやろう!」
そう怒鳴って鑓を取ってみせた。
これに商人は以ての外に取り騒ぎ、二ノ丸に向かって一目散に逃げていった。

648 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/04/05(日) 23:28:32.91 ID:NFMptlLG
大河内はそうして帰ると、水を飲んだ者達は、御振る舞いかたじけないと、各々一礼を述べた。
しかし田中は、大河内がそんな金を持っていたかと不審に思い、しきりにその事を尋ねると、大河内

「愚かなことを問うものだ。この詰め籠城において、どうして金があって遣わすものか。
理を言ってやったのに聞かないから、鑓でその腹をぶち抜くぞと言ってやった所、足早に
二ノ丸に逃げ入ったよ。」

その場に居た太田一吉、浅野幸長の家臣たちはこれを聞くと、一度に手を打って大笑いし
「我々もあの水商人を見たが、代銀が無いから通り過ぎてしまっていたが、そのようにするとは
でかしたことだ!」そう大笑いした。
この大笑いの声が聞こえ、太田一吉、浅野幸長より「喧嘩をしているのか?」との使いが来たほどだった。

所がその中で、田中小左衛門尉だけは笑わずに、草摺をポンと打って
「さても無念、口惜しき水を飲んでしまったものだ。この水は、私が各々に与えるべき水だったのに、
年齢が半分にも満たない大河内に掠め取られてしまった恥ずかしさよ!」
そう言った所、その顔と言葉が面白いというので、一同またも大爆笑した。

太田、浅野、加藤清正の三大将もこれを聞き、「よくやった!あの水を売っていた奴は堀裏の用に
立つものではない。尤もなことである。」と笑った。

その後、清正、幸長は大河内の顔を見るたびに、「いかに大河内殿、この頃は水の買い取りはしていないのか?」
と聞いてきた。すると大河内は「その事ですが、水商人に出会ったら、堀裏を固く守るのは第一としても、
先に水の買い取りに取り組みたいと思っているのですが、あれから商人に会わないのですよ。」と答えた。
両大将はこれに「さても水の買い取りをさせたいものだ」と言うのが、日々の笑い事となったそうである。
(朝鮮記)



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/06(月) 08:34:13.52 ID:VHUSI5Id
15匁って今の価値で言うと1万円ぐらい?

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/06(月) 10:14:24.50 ID:NOAsiFm6
江戸時代中期ぐらいで今の17000円位の価値のようだが
恐ろしい程のぼっただな。

小早川秀秋の出陣

2015年02月06日 18:40

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/06(金) 00:25:26.43 ID:ANvBtwVf
慶長2年(1597)5月21日、筑前の太守黄門秀秋公(小早川秀秋)、朝鮮への出陣のお目見えとして
伏見に登城した。40人余の大小名がそのお供をする中、これに豊臣秀吉は大変機嫌よく様々に申し付け、
秀秋は小袖300,帷子500,反物300,金銀、長光の太刀、備前兼光の御腰物、馬五匹を拝領した。
諸大名衆も尽く、小袖、帷子等の数々のもの、及び金銀を拝領した。

秀秋の御座船は、伏見城下の豊後橋より先陣へと進んだ。各大小名は豊後橋、京橋より船に乗り、
思い思いの馬印を船の正面に立て、母衣、指物、弓鉄砲で船を飾り、家々の紋のある幕を張り巡らせ、
一手ごとに下っていった。

出船の時、兵士たちの妻子は、これが今生の別れだと思い、貴きも賤しきも船の側まで送り出て、
夫の船に取り乗り、鎧の袖や草摺に取付き、「私も連れて行って!」と泣き叫んだ。
順次の出船であったので、彼女らは様々に教訓され、船中から降ろすと、船は急ぎ押し出していった。

彼女らは船を見送ると、はかなき身の上を嘆き、そのまま宇治川へ身を投げ死んだ者もあった。
伝え聞く古の、松浦佐用姫が出征する大伴狭手彦の乗った唐船の名残を慕い、波に袖を濡らし
涙に沈んだという話も、どうしてこれに勝るだろうか。
上古も今も、末代も、例少なき門送りであり、見る者の多くがこれに涙した。

折しもこの日は五月雨であった。空吹く風に誘われて、先頭の秀秋の船が摂津大阪に着いた頃、
諸船は淀山崎当たりを航海しており、後陣は未だ伏見を出ていなかった。
360余隻の船は、川水の波上に錦を晒したようであり、旌旗は日を覆っていた。

(朝鮮記)

朝鮮の役にて小早川秀秋の艦隊が、伏見より出陣した折の記録である。

小早川隆景の宮島渡海

2014年10月09日 18:52

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/09(木) 13:23:18.72 ID:m0ZnlYZL
小早川隆景の宮島渡海

弘治元年(1555年)9月30日、毛利元就はこの日の夜に宮島へ渡海し、翌10月1日卯の刻(午前6時ころ)
一戦と定め、「諸軍士ことごとく元就の本陣へ馳せ来たれ」と、触れを出した。
その夜は突然の暴風雨にみまわれ、水夫も将士も船を出すのを躊躇う所であったが、元就はこれを
周の武王の殷討伐、源義経の屋島攻めをに準え(どちらも大風・雷雨の中敵を撃破している)兵を鼓舞。
悪天候の中見事に宮島へ渡海を果たす。

この時の元就3男、小早川隆景の宮島渡海の様子はまとめに既出のこの話

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3987.html

で、そのまま宮尾城に居残った説と、もう一つのエピソードが菊池寛の厳島合戦、また地元の話に伝わっている。

それによると、小早川隆景は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵軍の船の真っ只中を
正面から進み、敵軍に見咎められると

( ゚Д゚)「誰だ!?」
( ´∀`)「これは筑前の宗像秋月の船で、御味方にまいったものです。」
( ゚Д゚)「よし、通れ!」
(*´∀`)「ちょっと通りますね。」

と、そのまま敵の本陣がある塔の岡に上陸するとその塔の岡の坂下に陣を敷き、翌朝の元就率いる第一軍
と、毛利方の宮尾城に篭る兵と陶軍を挟撃する第二軍を率いる用意をしたという。



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 08:09:17.28 ID:U100Efv5
合い言葉はどうしたんだw

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/10(金) 10:24:27.83 ID:HogXw4s9
>>25
陰徳太平記では出兵前に元就が自軍の合言葉と併せて陶軍の合言葉を集まった将士に伝えてる記述がある
ただし、陰徳太平記では隆景渡海の逸話は載ってなかったと思う。
暴風雨の中だったってんだから、兵が面倒くさがったか油断してたんかもね