603 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:11:37.54 ID:Uq48cXXy
川角太閤記から、秀吉の中国大返しのときの逸話
秀吉は本能寺の変のことを毛利勢に隠して、霊社の起請文を取り交わし
「秀吉が上洛したとしても,裏切りの攻撃をしてはならない。
また、毛利家が引き退いたとしても、秀吉から約束を破ることはない」
という内容を約して、陣を引き上げた後のこと
毛利家には、上方に付けて置いた早打ちが四日の七つ下がり(午後四時過ぎ)に参着した。
「信長公が二日の卯の刻(御前六時頃)にご切腹いたしました。
(信長は)どうして遅々としているのか、と調べてみたら四条堀川の通りに鉄砲が厳しくなりました。
町人もどうしたことかとばかりに呆れ果てて、町々のくぎぬきを堅め一円に人を出さくなりました。
本能寺の事が終わり、明智殿の家臣溝尾少兵衛(溝尾茂朝)殿が、
『町々の者、静まりなされ。別の子細ではない。
惟任日向守殿が今日から天下殿におなりになったので、洛中の地子をお許しになられた。』
と、町々に触れまわっていました。それで明智殿の謀反と分かったのです。」
と申された。
それから吉川駿河守元春の陣屋へ、小早川左衛門尉隆景・宍戸備前守(宍戸元続)が寄り合って談合したことは、
「今日の誓紙は破っても苦しくありません。騙されたのです。」
ということであった。吉川駿河守は、
「このような時にこそ、馬を乗り殺すのです。早く早く。」
と勧めなさったという。
舎弟小早川左衛門尉隆景は、右のことには一言も言わず、しばらく考えて申出されたことは、
「元春の御考えは御尤もではございますけれども、昔より今に至るまでは何事につけても約束をするのは、
書物・誓紙を鏡として使うものであります。父である元就公が御死去のときにいたしましたときに、
『只今の輝元公を兄弟として取り立てよ』という誓紙を仰せ付けられました。
時日の下の判は元春公がなさいました。その次に私がいたしました。
さて、兄弟四人がそのようにいたし、元就公にお命があるうちにお目にかけましたことは、昨今のように覚えております。
その誓紙は元就公がいただき、一つは元就公のご遺言で、
『我が棺へ入れよ、一つは厳島の明神へ籠め奉れ。一通は輝元公へ上げ置き申すことにする。』とされました。
この二通は只今もご覧なさるがよい、条数の内に
『毛利家は、我死して後、天下のことは心に懸けてはならない。』と、一の筆に書かれてあります。」
「今日の御誓文を破られたならば、冥途におられる元就公の別意となる。
一つは厳島の明神の御罰、又は五常の礼儀の二つをも破ることに似ています。
羽柴筑前守が国元の播磨へ帰城されたとの知らせをお聞き届けになり、そのうえで御馬を出されてもよろしいでしょう。」
と語って、兄の元春へ異見を申された。
元春も隆景から道理で攻められ、生合点の形で納得申した。小早川はそれから自分の陣へ戻られました。
604 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:13:00.75 ID:Uq48cXXy
小早川隆景は、舎兄元春の陣屋へ目付けを出された。その目付けが帰ってきて、
「何か存じませんが、御馬屋の馬に鞍を置かせ、家中もまたその通りに見えます。宍戸備前守の陣も同じように見えます。」
と申し上げたところ、隆景は
「異見を申し上げて、すぐに座敷からたち戻ってきたので、それは御立腹もあるだろう。
それは兎も角もしかたない。是非に及ばない次第である。
しかしながら、誓紙をお破りになったことは、必ず一通でも使いを我らのところにお立てになってもよいはずだ。」
と仰られた。
小早川隆景は、陣中を静められるためであろうか、鵜飼新右衛門(鵜飼元辰)・井上又右衛門(井上春忠)の両人を召されて、
「役者のものを召し出せ。肴の台などはどんなものでもよい。鼓などを調べさせよ。早く早く。」
と仰せ付けられました。両人は、
「かしこまりました。」
と申し上げ、さっそく役者のものを召し出した。家中では、
「これはいかなることであろうか。信長公のご切腹を満足だとお考えになって、その祝であるのかと不審が晴れぬ。」
と、下々の者は取り沙汰していた。
役者のものが隆景の御前に伺候し、はや乱舞が始まるかとばかり見えましたところに、
(役者は)めでたいものか、また修羅などのようなものか、どちらを歌いだせばよいのか、心にあきれていた。
そこに鵜飼新右衛門がただちに心得の小謡を一番歌い出しまして、
「四海波静かにて、国も治まる時津風」
と申しました。さて、役者のものは、
「めでたい(ものを歌えばよいのか)」
と、心得の高砂などかれこれ五番(歌い)、その中には三輪がございました。
先の鵜飼新右衛門が次の間を立って見回しましたところ、座頭の破れ衣一つがあったのを、
おっとり(体に)打ちかけて、急なことでありますので、
鼻紙を裂いては木の切れ端に挟み付け御幣の気持ちで次の間から舞い出て、「三輪」を一番舞い納めました。
この新右衛門は何事につけても殊の外しおらしい人でありましたから、ご座敷のようすがよく伝わってきました。
羽柴筑前守殿は天下を取ってのち、隆景が乱舞で毛利の陣を静められたことをお聞きになりました。
鵜飼が小謡を初めに歌ったところから「三輪」を舞ったことまでも詳しくお聞きになったということが聞こえてきました。
上様より小早川左衛門尉に五十二万石を下されましたことは、
「備中の陣のとき、毛利家陣中を乱舞で鎮めたから。」
と、のちに確かに聞こえてきました。
小早川が大名になった子細は、この末尾で詳しく書きつけることにします。
まず、このように書きませんと末尾への過程が申し上げられませんので、まずまずこのようなことにいたします。
吉川陣・宍戸陣には、まず馬の腹帯を締めてひしめいていたが、
「小早川殿の陣では能が始まりました。」
と、とりどりに申しましたところ、
「それならば聞き届けよう。」
と言って、両陣より人を遣わして聞かせたところ、
「能でありましょうか、あるいは座敷の囃子でありましょうか、中の様子は見えませんが、乱舞であることは間違いない。
上下の者達がざわめきあっていると見えました。」
と、使いの者が帰って報告しました。
それで、吉川もさすがに進めることが出来ず、両陣は泣き寝入りすることになったということです。