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龍造寺の鍋島がしたようなこと

2021年02月11日 17:34

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 15:23:52.39 ID:YM5HVdd6
龍造寺の鍋島がしたようなこと ―毛利秀元


関ヶ原合戦後の吉川広家は、家康・秀忠から当主親族の証人(人質)を置かないことを許されていた。
ところが元和三年の人質改めの際、当主・毛利秀就は吉川家に対して急に人質を出すように迫った。
秀就は同じく証人を免除されている重臣の福原から、事前に証人のことについて知らされていたものの
「福原が何か騒いでいる」(『吉川家文書 一三一九号』)と思って聞いておらず、仰天したらしい。
一方、そういう事情を知らない広家は、この命令が毛利秀元の陰謀によるものだと思ったらしい。
息子の広正へどう心がければいいか、書状を送っている。以下長いので要点だけ意訳。

申しにくいことですがあなたのために書きます。返事のときにこちらへ返して下さい。

一、むこう(秀元)は、私達や福原・児玉・益田の一類に対し、公儀や長門様(秀就)に申し妨げて
  公界に出づらくさせて、後々どうにでもなるように図っています。
一、吉見広長の帰参は、私が数年榎本元吉に申し上げても成らなかったのに、秀元が申したら
  (輝元は)対面して、扶持米をやられたそうです。
一、御家の家臣の面目を潰して、公儀のことを自分一人でやって肩を並べる者がいないようにして
  公儀や内儀のことを自分のしたいようにするつもりです。
一、人々は「龍造寺の鍋島がしたようなこと」で、よそではありえないことだと囁いています。
一、あの人(秀元)は黒田長政のことをどう申し妨げたのか、近年は不通になっているそうです。
  (長政は)殿様(輝元)や私にこのことを申されました。
一、あなたが直接公儀にすがれないようにしてくるでしょう。そうなればいくら殿様が頑丈で
  いらっしゃっても明日を知らぬ身なのですから、ゆくゆくは大事になります。
  大夫殿(福島正則)が隣国なので、何かがあれば讒言してくることもあるかもしれません。
  このことをこれから破滅のもとだと思って、油断なく心遣いして下さい。
一、あの人は人質を出させることで、あなたを宍戸殿や山城殿同然にしようとしているのです。
一、私は若いときから病み疲れて正体をなくし、くたびれてしまいました。あなたが御家や身上のため
  外聞を失わないように気遣ってくれれば、どんな孝行をされるよりずっとありがたいことなのです。
一、右のことはあなたの心に合わず思うこともあるでしょうから、ちゃんと話しましょう。
一、そちらでは乳母をはじめどんな人にも、このことを話さないように。用心して下さい。

これは大事の書物なので、そう心得て扱うこと。
      以上
(元和三年)九月三日    廣家(花押)
左介殿(広正)    参

――『吉川家文書 一三一三号』

結局吉川家は、広正を秀就付きにして江戸で奉公させることで対処した。



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吉川元長、弟・経言の現状について苦言する

2021年01月12日 16:44

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/11(月) 19:21:09.41 ID:SZMnZVxW
吉川元長、弟・経言の現状について苦言する


かつて吉川経言(のちの広家)には、尼子旧臣の小笠原長旌の婿養子になる縁談があったが
両家の間で話をし輝元に相談するところで、輝元の強い反対に遭い破談になったことがあった。
特に経言は破談になると外聞が悪いので、嫁取りだけはしたいと元長を通し輝元に伝えたが
輝元は「経言のせいで三家が滅ぶ」「(元春が)経言を操って養子入りを強行しようとしている」などと
聞く耳を全く持たず、最終的には「(養子入りを止めるために)この命を賭ける」という反応だった。
元々、小笠原氏は経言の弟の松寿丸を養子にしようとしていたが松寿丸が亡くなってしまったため
代わりに経言を貰いたいとの話であったので、元春・経言親子はあまりのことに驚き沈黙した。

以下は騒動から二年後、経言が秀吉への人質として送られる際の兄・元長の起請文。
宛先は隆景と毛利家重臣の福原氏。例によって長い書状なので、大意だけ意訳。

~~~~~
(輝元は小笠原家と吉川家には筋目がないと言われましたが)長雄(長旌の父)の妻は新庄(吉川家)の出です。
(元就夫人の妙玖も吉川家の出なので)つまり元春は(長雄の妻から見て)伯母の子にあたる訳です。
小笠原家に実子が出来ないから(吉川家が)改易する話ならともかく、養子入りさせて残そうとしているのに
非難されるのはよく分かりません。朋輩衆の養子契約はよくあることです。隆景は小早川家を継いでいますが
これは小早川興景の妻が毛利の出であるからですし、元春は吉川興経の養子になって吉川家を継いでいます。

経言の養子入りは小笠原の家中から出た話ですが、そうとは言えあの家の意見が一致しておらず
元春や私が道理に外れたことをしたと申し上げる者がおり、嘲りを受けることになったのは仕方ありません。
しかし御当家(毛利家)の御意を違えて、我ら一類の進退を失うような問題になるのは理解できません。
どこにでも養子や養父はいるのに、私や元春に対して(輝元の)なさりようはどうなのでしょうか。

御当家に対して隆景・元春が奔走するのは当たり前です。とは言え元春が(自分の家の都合を差し置いて)
日頼様(元就)の戦に今日に至るまで気遣いしてきたのは、皆々ご存知のはずです。
私の兄弟の一人でも引き立てていただければ、少ない分限で長年日夜を問わず苦労してきたことを
(輝元が)分かって下さったのだと(元春は)ありがたく思ったでしょう。
国衆の次男・三男でさえ過分の扶助を与えられています。取り立てての扶助は要りませんが
養子契約をしてよいか申し上げることも出来ないほど、万事遠慮しないといけないのでしたら
扶助して頂くことは無理ですね。

このことはすぐに言うべきでしたが、いまこのときになって言うのは、経言が上国するので
私の内心を明かしておきたいと思ったのと、経言が不憫だと申したいからです。
元春と経言はあの家(小笠原家)のことについてもう申し上げないと(輝元に)約束しました。
経言が上国するのに難渋したくないからですが、私はそんな約束はしていないし
遠慮ばかりして後悔したくないので、心中のことを残らず申し置くことにします。

今度の上国命令についてですが、経言は外聞を失ってしまったので今後出仕出来ない覚悟でいました。
そこに(人質として上国し)御用に立つようにとの命令がありましたので、(その覚悟を)忘れないように
(経言は命令を)お受けしました。今後経言が帰ってこられるか分からないので、(経言の)進退のことを
私は申すべきではないかもしれませんが、このような進退になってしまった経言が
その身をなげうとうとしているのが、不憫でならないのです。

ですから申します。元綱(小早川秀包)にはあれこれと扶助していますが、経言とどう違うのですか。
二人一緒に上国するのですから、(経言)一人で高名をするように申す訳ではないのですが
人質になる身上ですので、公私ともに心残りのないように上国したいと思っているようです。
私と元春も同じ気持ちです。

経言は(進退を失ってしまったので)元春の老後の話し相手にでもしようと思っていたのですが
(輝元の)御気遣いで御用に立てることになったので、人質として差し出すことにしました。
このような元春と私の心底を思いやって、(輝元に)口添えしてもらえないでしょうか。

そもそも経言の進退について今申すのがおかしいと言われるのなら、その旨を元春・経言に
申し聞かせます。たとえ経言に御憐憫の目を向けていただけなくても、我々父子の御当家に対する
奉公は変わらないということを、内々に申し分を伝えたくこのようにしました。

――『吉川家文書 一二四七号』



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/14(木) 15:34:24.13 ID:+EdODEIp
確かに経言のせいで三家が滅びそうになったね

豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣う

2021年01月03日 17:31

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 11:30:14.77 ID:/Zw9/wbf
豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣う

吉川経言(のちの広家)の兄・元長は秀吉の九州征伐に従軍し天正15年6月5日に病没した。
このことに関連する二つの書状を抜粋して意訳。

6月4日 秀長から経言への書状 『吉川家文書 八六五号』

一、元長が病気で奉公していないとのことですが、(病気は)おろそかにするべきではありません。
  公儀のことは私が引き受けます。第一元長は若年なのですから油断なく養生するべきです。
  早々に都郡(とのこおり)に連れて行って、その方もそこへ退がり用心するべきです。
一、都郡では元長の陣屋を探すのに難渋していると疋田(秀長家臣)から聞きました。是非もないので
  どこの寺でも家でもいいので良きところに、この書面を見せ押し入って下さい。
  元長の家中まで陣取ることが大切です。

6月7日 秀長から蜂須賀家政への書状 『吉川家文書 八六七号』

書状を見ました。最近便りがなかったので嬉しいです。雨が止まないと下々は迷惑しますね。
島津中務(家久)の不慮(死去)は是非もありません。又七(豊久)に心づけをするのは尤もだと思います。
次に元長のことですが、ずっと患ってはいましたがこんなにすぐ亡くなってしまうとは思いませんでした。
元長は親父(元春)以来、関白殿(秀吉)のために奔走してくれていたのですから、私もあの蔵人(経言)に
対して少しも気を利かせないということはありません。とりわけ蔵(経言)はこのごろ細やかに
罷り越してくれるものですから、知音になったのです。その方も(経言と)入魂になって下さい。
輝元と隆景の心中は察入します。あとは(疋田)九兵衛が語ります。
____

二つ目の書状が吉川家文書にあるのは、恐らく家政が広家に渡したのだろう。



吉川元春と陶隆房の兄弟の昵契

2018年07月21日 18:14

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/21(土) 17:06:40.52 ID:t7W75aUO
天文18年8月3日、毛利元就、隆元、吉川元春小早川隆景の父子四人は山口へ下向した。
熊谷伊豆守、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、山田の一族である羽仁己斐以下の者達も
これに従って下向した。大内義隆はこれを大いに喜び、毛利に随従してきた者達には安芸への帰国を許し、
毛利父子四人は山口に逗留させた。この時、大内義隆は家臣である内藤氏の娘を養女とし、毛利隆元との
婚姻を望み、婚約を調えた。

また吉川元春と陶隆房に兄弟の昵契を結ばせた。
この時吉川元春からは吉光の脇差が引き出物として出され、陶隆房からは、天下無双の名馬である「近江黒」が
出された。この馬は近江の六角氏より将軍足利義晴へ奉られ、柳営より大内義隆に下されたのを、陶隆房が
給わり、この度元春に進められたのだ、と聞き及んでいる。

(安西軍策)

陶隆房と吉川元春が義兄弟とされた時のお話


坌銭と頸銭

2017年11月12日 16:29

392 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 22:56:26.21 ID:+P/PnjQW
坌銭と頸銭

羽柴秀吉が鳥取城を兵糧攻めにした時の事。
城将、吉川経言(家)と主立った将士数名が切腹する事と引き換えに城兵や住民の助命が決まり、和議が成った。これにより鳥取城の出城であった丸山城も経言の助命嘆願の甲斐なく奈佐日本助、佐々木三郎左衛門、塩冶周防守らが切腹の上開城する事となった。
その丸山城開城の折の事である。丸山の諸卒が城を出る時、寄せ手の羽柴勢の者らが木戸をふさぐと

「城を明け渡した側は、坌銭(ほこりせん)と言って一人銀五分ずつ出す決まりだ。これは京都流の戦争のやり方だ。もしこれに背く奴らは、一人残らず切り殺すぞ」

と、脅しをかけた。「これはいったいどうしたことか」と皆々は顔色を変えたが、境与三郎右衛門と言う男は一人平然と笑って

「美濃・尾張や五畿内の腰抜けたちが、命の惜しいあまりに、武士の法を知らず、そんなものを出すのだろう。中国筋ではそれを頸銭(くびせんという。
いやしくも、武士たるものが、頸銭を出すということがあるものか。こんな恥辱を受けて命ながらえてもいたし方ないこと、城中の者どもよ。おれと一緒に切り死にしよう」

と言って、鎗を提げてすっくと立ち上がると、羽柴勢を睨め付けた。その有様はどんな鬼神でも敵とならば、ど真ん中を突き抜くべき面構えなので、気をのまれた寄せ手は

「こちらのしきたりを申しただけのことです。どうぞ通って下さい」

と言ったので、境は真っ先に立って場外に去った。

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 22:56:57.56 ID:+P/PnjQW
(陰徳太平記)



394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/11(土) 23:58:54.14 ID:OkFOnrZc
>>392
格好いい

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 00:51:38.85 ID:sY2WlIKM
>>392
津本陽作品の雰囲気

鳥取籠城のこと

2017年07月06日 18:37

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 11:00:41.67 ID:shzTRTJ6
 鳥取の城は六月下旬頃から固く取り囲まれ外への出入りはできない状態で籠城し、
頼みの西国の後詰を待っているけれどその気配さえなく徒に日数を過ごしていた。
夏も過ぎ秋も暮れ行く十月の声を聞く頃になると、城中上下関係無く、気遣い窮屈で精魂疲れ果て弱り果てていた。
第一に諸人兵糧に乏しいので生気がない。下々の者は、山中をうろつき食べられる木草蔦等の葉をむしり、
皮を剥ぎ、根を掘っていた。諸人毎日こうやって咽を潤し辛い毎日に命を長らえたが、
早々食べられる草木は無くなり。飢えるばかりなので、口に入るものは、犬、猫、狐、狼、虫けらまで掘り出して食べた
最後には、死人の遺体の肉をすき取って食べれば、味が良かったのだろう、これを見て我も我もと食べたので死体が出ると肉を
切って食べれば骨だけが残る。
(中略)
十月下旬になると城中の兵糧尽き果て餓死する者も続出、身分に関係なく、今は飢死する者も続出、
身分に関係なく、今は餓死するのを待つだけの状態になった。
城の大将吉川式部少輔(吉川経家)は、芸州より後詰有ると待っていたが今日までその沙汰はなく、
城は固く取り囲まれて兵糧もなくなった。頼む者は他になく、今はただ死を待つ状態になってしまったが、
命のあるうちに降参して、自分の命と引き換えに、憐憫を得て今まで苦労困窮させた城内の諸人の命を
助け城を出そうと、心に決め、そのことを城中諸卒にも言い聞かせた。
(因幡民談記)


岩国の白蛇

2016年12月29日 16:19

472 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/29(木) 05:25:12.47 ID:apC56xYr
吉川広家の姫様が城の近くで遊んでいると、一匹の白蛇が姿を現した。
白蛇の澄んだ瞳に惹かれた姫様は白蛇を大層可愛がっていたが、父広家の岩国転封の為共に米子を去って行った。
この時、姫様が可愛がっていた白蛇も引っ越して行く吉川様の一行に見え隠れしながら岩国へついて行き、錦川のほとりに住みついた。
その子孫は今も岩国の地に生きており、現在では国の天然記念物となっている。

(米子の伝説)

ただし、岩国の白蛇の最も古い文献記録は岩邑年代記によると1738年のことであると言う。

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 07:27:09.50 ID:wiFOOTs2
ちなみに、岩国の伝説では、
吉川藩の米蔵の米を食べたネズミを食べた蛇が、米の白さで白くなったのが白蛇です。

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/29(木) 07:44:31.86 ID:apC56xYr
>>473
補足ありがとうございます



吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪

2016年12月17日 21:16

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 13:08:32.96 ID:edoflzSk
吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪

1591年に太閤秀吉の命で叔父、末次元康の代わりに出雲伯耆隠岐の支配を任された吉川広家は、城下町を作るのに不便な月山富田城に代わる本拠地として米子の飯山城に目を付けた。
隣接する湊山に天守閣を建てる計画を立て、米子城の築城が始まり二の丸三の丸の建造は順調だったものの、天守閣の石垣を組もうとすると、その度豪雨に見舞われ石垣は崩れてしまい工事は進まなかった。

この事態に人夫達から人柱を立てねば祟りが続いて工事はままならないと声が上がり、吉川広家は普請奉行の祖式九右衛門らと相談して人柱を立てて地鎮を行う事にした。

そして、町で開かれていた盆踊りの場から久米という名前の美しい娘を無理やり、または口車に乗せ連れ去り人柱にしてしまった。
この後、吉川広家は関ヶ原の敗戦で岩国へ転封となり後に入った中村一忠の代に米子城は完成したものの、天守の石垣付近では人柱にされた久米の幽霊が度々現れ人々を恐れさせたと言う。
また、米子の人々は人柱にされた久米を偲んで米子城の事を久米城と呼ぶとともに、盆踊りを開くと人攫いが現れ人柱にされてしまうと噂し、近世まで米子では盆踊りが開かれる事がなくなった。

久米が人柱として埋められてから暫くして、米子の町では夜に厠へ入ると毛むくじゃらの腕が現れ尻を撫でられると言う事件が多発した。
そこで一人の力自慢の侍が退治してやろうと夜に厠へ入るとやはり毛むくじゃらの手がにゅっと出て来て侍の尻を撫で回す。
侍は手を掴むと一刀の元にその腕を切り落とし、家に持ち帰った。
すると、河童が侍の前に姿を現しもう悪戯しないから腕を返してくれと頼むので、腕を返すと河童はそのお礼として侍にどんな傷も治すと言う薬を渡して米子を去り、日野町の黒坂へ移りそこで悪戯をする様になったと言う。

米子の人々はこの河童を久米の生まれ変わりではないかと噂したそうな。




433 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 13:45:45.24 ID:gUr9WE8G
美少女に生まれたけど人柱にされて河童に生まれ変わっておっさんのケツ撫で回す人生とかどんな罰ゲームだよ

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 13:50:28.31 ID:FgX/RKrK
人柱にされた美少女は実は痴女で、イケメン侍の尻を撫で回していたと思おう。

435 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 14:12:34.44 ID:edoflzSk
http://i.imgur.com/YcHQjVX.jpg
YcHQjVX.jpg

黄桜河童なら…

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 16:56:51.14 ID:LFsLigeo
>>432
話が混じりすぎてカオスw

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 23:40:02.02 ID:FQR9CdkD
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど

妙玖の方、吉川家臣を説得

2016年10月05日 11:53

妙玖   
156 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 07:57:16.26 ID:5J8+ztnF
妙玖の方、吉川家臣を説得

1550年、毛利元就の命令で布川(現広島市安佐北区深川)に隠居していた吉川興経は謀反の疑いを受け天野、熊谷率いる手勢により殺害された。
この報を受けた吉川家重臣、吉川伊豆守(吉川経世?)と森脇和泉守は直ぐさま郡山の城へ駆け付け、2人は元就に涙を流し抗議し
「興経を討ち果たすのであればどうしてお知らせくださらなかったのですか。
隠居蟄居の身となったのですから、どうして反逆など企てられましょう。
こうして誅罰なさるとは、なんともお情けのないことです。
私たちも、興経に対して私怨があってこのように(興経から元春への家督相続)したわけではありません。
吉川の家のことを考えたからこそ、一旦は主従の間を乱すような振る舞いをしたのです。
確かに興経に楯突いたと同じようなものですが、本当は家のためを思い、
それに興経の不義を正すために行ったのです。
こうなったら私たちも、縁側の片端を汚して自害させていただきます」と大騒ぎした。

元就はあれこれとなだめたものの、二人はまったくおさまらない。
その騒ぎを聞きつけたのか、元就の北の方が姿を現し、
「伊豆守殿にとって興経は甥ですが、わたしにとってもまた甥です。
甥を殺されたのが無念だといって自害なさるのなら、私も女の身ではありますが自害すべきでしょう。
伊豆守殿、どうか私に免じて自害を思いとどまってください」と、
一度は怒り、一度は涙を流して説得した。
吉川伊豆守はこれにしぶしぶ自害を思いとどまったので、森脇和泉守も強行することができずに涙を抑えて自害をやめた。
(陰徳記)

ちょっとツッコミどころの有る逸話なので悪い話に持って来ました。




157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 08:09:09.82 ID:w5JhOUZD
切る切る詐欺か

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 08:29:12.59 ID:5J8+ztnF
>>157
違う、そこじゃない

159 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 11:18:22.35 ID:3PMHM5EC
妙玖(みょうきゅう、明応8年(1499年) - 天文14年11月30日(1546年1月2日))は、戦国時代の女性。
毛利元就の正室。妙玖は法名で本名は不詳。父は吉川国経、母は高橋直信の娘、兄弟には吉川元経、吉川経世ら。
子に長女(高橋氏人質、夭折)、毛利隆元、五龍局、吉川元春、小早川隆景。


あっ…(察し)

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 13:20:12.96 ID:7Lcaw4B2
んー?わからんぞ

161 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 13:24:48.02 ID:o/sCiXIJ
>>160
えぇ…
>>159の初めの辺りをよく読んで再度>>156を読めば分かる筈…

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 16:16:28.54 ID:QTk5iYVv
黄泉返りなんて日常茶飯事

164 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 17:44:42.46 ID:YH2lTrzx
MTHR「ウチの嫁が不細工とか適当書いてんじゃねーYo」

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 18:56:59.20 ID:aJPKN53C
大女だったんだろ

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 19:33:13.35 ID:QTk5iYVv
>>164
お前んち、大嫌いなんだもん

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 19:40:19.74 ID:c3gMfmgy
周瑜は美人の妻を娶ったために早死にした。
一方孔明は不美人の妻を娶った。
よって孔明の方が賢かった。

というような評と同じく、むしろ元春が女色に溺れなかったことを褒めてたんじゃなかったっけ

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 05:33:39.65 ID://aE3BIv
>>167
留守中に浮気してないだろうか?
子供は俺の子だろうか?

悩みの種が無くならないね

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 05:45:34.63 ID:sSiOXkFU
晋恵帝「嫁が不細工な上に残虐で辛いです」

吉川興経、化ける。

2016年10月04日 17:36

214 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/04(火) 06:52:46.62 ID:vWVS0nj4
吉川興経、化ける。

>>208-209の続き。この白犬が亡くなった後、吉川興経は怨霊となって人々を悩ます事となった。
興経と思しき葦毛の馬に乗った武人の人影に出くわした者は十人中十人が皆気絶して再び起きる事はなかった。
百人に一人、助かり目覚めた者があったとしても心身脳乱して正気のままではいられずに狂ったようになり、恐ろしい言葉ばかり言ったそうだ。
そこで興経の鎮魂の為に一宇の社壇を建立して御崎大明神として崇め、その無念を慰めようとしたのであるが、よほど怨みが強かったのか、
なおも亡霊は人々を悩ませ続けた。
そこで京都の吉田殿(吉田神社の神主または吉田 兼右?)に人をやり、この事を申し上げたところ、社壇の名を御崎大明神から光大明神に名を改める様にと言う事で、その様に名を改めた所、
今度は葦毛の武人の霊の代わりに光る傘状の物が社壇から現れ飛散し近隣を惑わせることになった。
この事を再び吉田殿に相談したところ、
「光と名付けたので光るとは。なかなか柔軟な対応である。今後は柔軟大明神と名を改めると良かろう。」
と答えられたのでその様にした所、怨霊は収まり武人の霊も光る傘状の物も現れなくなったと言う。なお、興経の愛犬もまたその神社に祀られたそうだ。

(陰徳記)



215 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/04(火) 07:03:55.99 ID:h50eKO5w
10人中10人が意識不明になって、助かった人も基地外になってるのに何で葦毛の馬に乗った人の霊とか姿形がしっかり伝わってるんですかね?(名推理)

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 10:19:41.83 ID:lktpLyDN
だから不思議な話なんだよ(棒

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 11:36:03.94 ID:nw8Tn9RF
光る傘状の物・・・UFOですかね

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 12:20:52.69 ID:501/voiM
>>214
恐い話かと思ったら笑い話じゃねーかw

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/04(火) 14:06:34.55 ID:K/BboOIy
神の使いとか荒御霊を意味する御崎(ミサキ)はともかく、光る大明神とか柔軟大明神とかけったいな名前つけられたせいでこの世に厭気さして成仏したんやろなあきっと…

>>218
一応人死んでんねんけどな

220 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/04(火) 14:30:28.94 ID:rRd4tLPX
柔軟大明神吉川興経「そこでこのエンブリー」

吉川興経の墓と犬塚

2016年10月03日 14:57

208 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 07:41:08.16 ID:oSdUBz+T
吉川興経の墓と犬塚

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4213.html
↑1550年、吉川興経が毛利元就の命令で隠居地の布川にて天野、熊谷の手勢に殺害され、吉田にて元就の首実検を受けた後に土中に埋められ石を積み上げ墓が建てられ大勢の僧にねんごろに弔われた。
墓が建って少し後、興経が飼っていた白い犬が興経の墓所に現れると墓の傍で石を枕に眠りだした。
初めの数日は誰も気にしなかったが、4,5日経ってもそのままなので人々は不思議がって犬に餌を与えようとしたが、犬は見向きもせず7日目に飢え死にした。
人々はこの犬の忠義を讃えて主人の墓の傍に犬塚を建てて弔うと共に、興経が襲われる際に彼を裏切って弓の蔓を切ったり青江の刀を刃引きして潰した近臣の村竹宗蔵とこの犬の忠義の魂が入れ替わっていたらと噂したと言う。
(陰徳記)

209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 07:52:54.72 ID:oSdUBz+T
>>208にはまた別の話があり、興経が布川(広島市安佐北区深川)で首を切られた瞬間、その愛犬(家臣とも)が飛び出し首を咥えると主人が生前懐かしんでいた郷里(北広島町新庄)へ向けて駆け出して行った。
しかし犬は途中で力尽きてしまい、目前の中山で死んでしまいそこで主人興経の首と共に墓が建てられ、犬塚が建った。
この時興経の首が転がって少し下の位置に落ちた為、犬塚は興経の墓よりやや上に建てられたと言う。

続き
吉川興経、化ける。


212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 19:15:30.97 ID:+ZXcHLbM
>>208-209
(U˘ω˘)

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 21:18:18.74 ID:LX0KEQma
>>209
ちなみに、興経の首塚より犬の塚が上にあるのはどう考えてもおかしいので、「犬の塚」ということにして処刑された興経の子どもの墓を立てたのではないかと、推測している郷土史家もいる。

播州佐用郡より以徹尊老禅室下へ 黙然(吉川元長)

2015年06月18日 18:46

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/17(水) 23:42:17.52 ID:SvDsH68R
播磨の上月城攻めに出陣中の吉川元長が、非常に親しい間柄である西禅寺の以徹に書き送った書状がある。
そこからは対織田最前線の戦況とともに、意外と御茶目な元長の人柄を垣間見ることができる。


播州佐用郡より以徹尊老禅室下へ 黙然(吉川元長

お送りいただいた翠の硯を拝覧いたしました。恐悦であります!恐悦であります!恐悦であります!恐悦であります!!
お互いに伊勢物語の歌のようにございますな!おもふ事も我にひとしき人なければ、言わで止み申し候。誠にをかしいですね!
(伊勢物語の歌・・・「思ふこと言はでぞただにやみぬべき 我と等しき人しなければ」)

一、この山に陣を張って以降、通信が不自由で誠に心外ななか、御音信をお預けいただいたこと心より感謝しております。何分遠方ですのでご容赦くださいませ。
書面を見るに具合が悪いようですが、いかなることかと心細く思っております。
ご来翰の際にはぜひ詳細をお教えください。

一、この山に陣取ったのは4月18日、敵が陣取ったのは5月4日です。

一、老臣が申すところによると、こちらの人数は3万に及ぶとのこと。敵は1万以内と見受けられるとのことです。

一、この陣の普請、陣取、切搦にあたった諸侍に対し、公方様が真木島昭光を通じて感状を差し出されました。各々ありがたく思い、お役に立つべく覚悟を新たにしております。
この様子、そして陣中の若者たちを尊老のお目にもかけたいものです。

一、我らごときものが申すことは、皆に取り上げられませんでした。追って詳細を申し上げます。

一、この山陣はことのほか霧が深く、用心が悪いです。でも風情はありますね。

一、城内には(尼子)勝久・(立原)源太・鹿以下の者が籠っておりますが、水・兵糧は全く無いと落人が申しております。

一、敵陣にいるのは羽柴筑前守先木下藤吉郎・荒木以下です。

一、この間、伊勢の滝川と申す者と佐久間の両人の所と、羽筑(秀吉)・荒木の所へ狂歌を送ったと聞きました。

あら木弓はりまのかたへおしよせて いるもいられず引もひかれず

なにしおふさよ(佐用)の朝霧たちこもり 心ぼそくも鹿やなくらん
一笑々々

一、尊老のことを朝夕懐かしく思っておりますが、目的はもちろん果たしますよ。
色々と取り乱しておりますゆえ書面は整っていませんが、我らはことのほか気分よく過ごしておりますのでご安心ください。
なお後の喜びを期しております。恐惶謹言。

(天正六年)五月晦日 花押



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 10:26:13.57 ID:soOODYAu
>笑々々

これはwwwという意味だな?

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 21:42:46.88 ID:I2LVEqUk
>>202
「一笑々々」だよw
意味はあってる。

川角太閤記から、秀吉の中国大返しのとき

2015年01月30日 18:40

603 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:11:37.54 ID:Uq48cXXy
川角太閤記から、秀吉の中国大返しのときの逸話
秀吉は本能寺の変のことを毛利勢に隠して、霊社の起請文を取り交わし
「秀吉が上洛したとしても,裏切りの攻撃をしてはならない。
また、毛利家が引き退いたとしても、秀吉から約束を破ることはない」
という内容を約して、陣を引き上げた後のこと


毛利家には、上方に付けて置いた早打ちが四日の七つ下がり(午後四時過ぎ)に参着した。
「信長公が二日の卯の刻(御前六時頃)にご切腹いたしました。
(信長は)どうして遅々としているのか、と調べてみたら四条堀川の通りに鉄砲が厳しくなりました。
町人もどうしたことかとばかりに呆れ果てて、町々のくぎぬきを堅め一円に人を出さくなりました。
本能寺の事が終わり、明智殿の家臣溝尾少兵衛(溝尾茂朝)殿が、
『町々の者、静まりなされ。別の子細ではない。
惟任日向守殿が今日から天下殿におなりになったので、洛中の地子をお許しになられた。』
と、町々に触れまわっていました。それで明智殿の謀反と分かったのです。」
と申された。

それから吉川駿河守元春の陣屋へ、小早川左衛門尉隆景・宍戸備前守(宍戸元続)が寄り合って談合したことは、
「今日の誓紙は破っても苦しくありません。騙されたのです。」
ということであった。吉川駿河守は、
「このような時にこそ、馬を乗り殺すのです。早く早く。」
と勧めなさったという。

舎弟小早川左衛門尉隆景は、右のことには一言も言わず、しばらく考えて申出されたことは、
「元春の御考えは御尤もではございますけれども、昔より今に至るまでは何事につけても約束をするのは、
書物・誓紙を鏡として使うものであります。父である元就公が御死去のときにいたしましたときに、
『只今の輝元公を兄弟として取り立てよ』という誓紙を仰せ付けられました。
時日の下の判は元春公がなさいました。その次に私がいたしました。
さて、兄弟四人がそのようにいたし、元就公にお命があるうちにお目にかけましたことは、昨今のように覚えております。
その誓紙は元就公がいただき、一つは元就公のご遺言で、
『我が棺へ入れよ、一つは厳島の明神へ籠め奉れ。一通は輝元公へ上げ置き申すことにする。』とされました。
この二通は只今もご覧なさるがよい、条数の内に
『毛利家は、我死して後、天下のことは心に懸けてはならない。』と、一の筆に書かれてあります。」

「今日の御誓文を破られたならば、冥途におられる元就公の別意となる。
一つは厳島の明神の御罰、又は五常の礼儀の二つをも破ることに似ています。
羽柴筑前守が国元の播磨へ帰城されたとの知らせをお聞き届けになり、そのうえで御馬を出されてもよろしいでしょう。」
と語って、兄の元春へ異見を申された。
元春も隆景から道理で攻められ、生合点の形で納得申した。小早川はそれから自分の陣へ戻られました。

604 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:13:00.75 ID:Uq48cXXy
小早川隆景は、舎兄元春の陣屋へ目付けを出された。その目付けが帰ってきて、
「何か存じませんが、御馬屋の馬に鞍を置かせ、家中もまたその通りに見えます。宍戸備前守の陣も同じように見えます。」
と申し上げたところ、隆景は
「異見を申し上げて、すぐに座敷からたち戻ってきたので、それは御立腹もあるだろう。
それは兎も角もしかたない。是非に及ばない次第である。
しかしながら、誓紙をお破りになったことは、必ず一通でも使いを我らのところにお立てになってもよいはずだ。」
と仰られた。

小早川隆景は、陣中を静められるためであろうか、鵜飼新右衛門(鵜飼元辰)・井上又右衛門(井上春忠)の両人を召されて、
「役者のものを召し出せ。肴の台などはどんなものでもよい。鼓などを調べさせよ。早く早く。」
と仰せ付けられました。両人は、
「かしこまりました。」
と申し上げ、さっそく役者のものを召し出した。家中では、
「これはいかなることであろうか。信長公のご切腹を満足だとお考えになって、その祝であるのかと不審が晴れぬ。」
と、下々の者は取り沙汰していた。

役者のものが隆景の御前に伺候し、はや乱舞が始まるかとばかり見えましたところに、
(役者は)めでたいものか、また修羅などのようなものか、どちらを歌いだせばよいのか、心にあきれていた。
そこに鵜飼新右衛門がただちに心得の小謡を一番歌い出しまして、
「四海波静かにて、国も治まる時津風」
と申しました。さて、役者のものは、
「めでたい(ものを歌えばよいのか)」
と、心得の高砂などかれこれ五番(歌い)、その中には三輪がございました。
先の鵜飼新右衛門が次の間を立って見回しましたところ、座頭の破れ衣一つがあったのを、
おっとり(体に)打ちかけて、急なことでありますので、
鼻紙を裂いては木の切れ端に挟み付け御幣の気持ちで次の間から舞い出て、「三輪」を一番舞い納めました。
この新右衛門は何事につけても殊の外しおらしい人でありましたから、ご座敷のようすがよく伝わってきました。

羽柴筑前守殿は天下を取ってのち、隆景が乱舞で毛利の陣を静められたことをお聞きになりました。
鵜飼が小謡を初めに歌ったところから「三輪」を舞ったことまでも詳しくお聞きになったということが聞こえてきました。

上様より小早川左衛門尉に五十二万石を下されましたことは、
「備中の陣のとき、毛利家陣中を乱舞で鎮めたから。」
と、のちに確かに聞こえてきました。
小早川が大名になった子細は、この末尾で詳しく書きつけることにします。
まず、このように書きませんと末尾への過程が申し上げられませんので、まずまずこのようなことにいたします。

吉川陣・宍戸陣には、まず馬の腹帯を締めてひしめいていたが、
「小早川殿の陣では能が始まりました。」
と、とりどりに申しましたところ、
「それならば聞き届けよう。」
と言って、両陣より人を遣わして聞かせたところ、
「能でありましょうか、あるいは座敷の囃子でありましょうか、中の様子は見えませんが、乱舞であることは間違いない。
上下の者達がざわめきあっていると見えました。」
と、使いの者が帰って報告しました。
それで、吉川もさすがに進めることが出来ず、両陣は泣き寝入りすることになったということです。




お前は大不敵者だ 毛利元春の初陣

2014年10月04日 18:50

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 21:59:23.08 ID:Y3CfXWJH
お前は大不敵者だ 毛利元春の初陣

まとめ見たら以外にもまだ出てないようだったので投下、もしも既出だったらす万谷。

1539年(天文8年)11月、尼子晴久は祖父・経久や一族衆らの反対を押し切り、毛利元就
居城である吉田郡山城攻めを決意、翌1540年(天文9年)8月、尼子晴久は自ら3万の兵を

率いて月山富田城を出陣し、毛利家の吉田郡山城を包囲した。城に籠る毛利勢は近隣住民
も城に入り、総勢はおよそ8千。
尼子勢は城下に度々付け火したりして毛利方を城から誘い出そうとしたが毛利方は兵も民
も誘いに乗らず、逆に尼子勢を時には奇襲し、時には地の利を活かして戦い、寄せ手の尼
子勢に一歩も譲らぬ姿勢を見せた。
そうこうしている内に同年十二月初めには毛利元就からの支援要請を受けた多々良(大内)
義隆から派遣された陶隆房・杉重政・内藤興盛を大将とする兵2万が到着。
これを受け尼子勢は将兵共に士気が下がり、毛利勢は大いに息を吹き返した。とはいえ時節柄
寒さ風雪も強く、両軍ともに決戦に至ることなく年明けを迎えることとなる。
そして翌1541(天文9年)年1月12日、毛利元就から援軍の3大将に手紙が届く。

元就「翌13日に、宮崎に陣取る高尾豊前守・黒正甚兵衛・吉川治部少輔(興経)の陣を私の
愚息に命じて切り崩させます。敵に背後に回られては大事となりますので城近くへ兵を出
していただき、備えを堅めて尼子勢を防いでください。」
これを受けた山口の3大将はこれを承諾。元就は更に3将の使いと綿密に打ち合わせをし
て城へ戻った。
さて、翌13日卯の刻(午前6時)のことである。城内の兵3000余騎が堀の際まで打って出
た。元就はこの日、鎧を着ずに小袖を着て床几に腰かけ敵軍を見まわしていた。
そこに一人の少年が駆け寄ってきた。名を少輔次郎元春、後の吉川元春。当年12歳の少年
であった。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 22:00:21.70 ID:Y3CfXWJH
元春「このほどもたびたびの合戦のありました折、わたくしも馳せ向かおうと存じました
がお許しのないまま、むなしく控えておりました。今日は、ぜひともにお許しをこうむり、
お供いたしましょう。」
元就「先々にも言い聞かせてきたとおり、お前はまだ若輩だ。まずこのたびは留まってお
かれ。かさねて合戦のときには、必ず相具してやろうぞ。」
元春「弓矢取る身の幼いからとて、敵に向かわぬことがございましょうか。是非にお供い
たします。」
引かぬ元春に、元就は井上河内守に「少輔次郎を連れて帰れ」と命じるも、元春は大いに
腹を立て
元春「いやいや大人にも劣るまいものを、何という情けない仰せごとか」
元春は世にも恨めしげに元就を見やり、涙をはらはらと流した。これを見た井上河内守は
井上「少輔次郎殿は獅子翻睨の眼を具し、龍駒千里の威を抱いておられる。さすが元就さ
まのご子息よ。ご成長なされたならば、天下一の大剛将になられよう。さ、帰りますぞ」
と、大いに感じ入った後城内へ連れ戻そうとしたが、
元春「お前はわたしをやるまいとするのか!」
と言って、太刀を抜いたので、そののちはあえて留める者もいなかった。
元春は士卒を引き連れて、父元就に追いつき
元春「このうえは是非共にお許しをこうむり、お供いたします。」
と言った。
元就「お前はまだ幼いくせに大不敵者だ!」
と言いながらも、いかにも嬉しげに元春を見て「ここまで来たのなら、もはや連れてゆこう」
と、元春の初陣を許した。

陰徳太平記、文の大半は原本現代訳より




947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 23:40:04.19 ID:u5DFSmdZ
>>944
なんか本多鍋之助の初陣を巡り元康に拒否られたのを彷彿とさせるな
鍋之助は確か10歳で拒否られたんだったか

吉川元春の嫁取り

2014年08月17日 21:01

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/16(土) 22:23:07.18 ID:xsgsEIHY
ある時、毛利元就は家臣の児玉三郎右衛門尉を呼んで、この様に言った
「我が子元春には未だに妻室が無い。誰の娘を娶るべきか、元春の心を聞いてきてほしい。」

そこで児玉が元春にこれを聞くと、元春は
「それに関しては、唯父元就の命に従うだけだ。ただ、私に選べというのなら、熊谷伊豆守信直の娘が良い。」

児玉はこれを聞くと
「熊谷の娘は、憚りながら悪女であると聞き及んでおります。もしや聞き誤り、かの娘が容貌美しいと思われて
いるのではありませんか?」

「いや、私も醜いと聞いている。しかれども今中国に、熊谷信直に勝る侍大将は居ない。
私が彼と親しくなれば、信直はいよいよ元就に対し忠志を尽くすであろう。
彼と私が元就の先陣にあって謀戦を励むにおいては、いかなる強敵・堅陣であっても、これを破るのに
難しい事があるだろうか。

これは父元就に対しては孝であり、私自身においては、武功を顕す謀ともなるであろう。」

児玉はこれを聞いて感じ入り、すぐに元就の元へ行きこの事を説明すると、元就も大いに喜び、
終に熊谷の嫡女を、元春のために娶られたという。

(芸侯三家誌)

吉川元春の嫁取りの逸話である。




541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 01:45:30.42 ID:bLgdl1H3
ブス専だっただけ
理由は後付け

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 02:32:54.03 ID:Q9NvVqIk
悪女って醜女の意味なのかな

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 02:38:39.62 ID:xR3u/Nfx
名字に熊とか入ってるから
ヤワラちゃんみたいなのだったんだろう

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 02:45:09.50 ID:ke4jFHHh
戦国版勇者谷かよ

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 04:58:26.87 ID:jAAhxmxl
>>543
猪熊柔
羨ましい

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 08:54:57.46 ID:60h2dRZF
吉川晃司って末裔だろ。要素入ってるのかねw

548 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/17(日) 09:43:55.87 ID:LA87lVqN
吉川広家が生きてた頃に纏められた書物には不美人とは書いてなく、少し後の陰徳記と陰徳太平記から不美人と言う記述がなされとるんよね。
また、武田光和に嫁いだ新庄局の叔母は美人だったと言われるし、陰徳記を書いた香川氏は熊谷氏の同僚(武田時代)から後年毛利傘下になってからはライバル視してたと言う話も有るし…
実は不美人ではなかったんじゃないかと思う今日この頃。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 09:50:44.70 ID:2DmfOBk9
当時の美醜の価値観って現代とどれくらい違うの?
平安時代のおなごは下膨れが~ぐらいしか知らない

550 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/17(日) 10:08:46.39 ID:jR02EXhj
現代でも
80年代→聖子ちゃんカット

から今までに至るまで髪型から服装とか色々変遷有ったからなぁ…

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 10:12:34.24 ID:lsq+fZgL
つまり戦国一の美人であると言われているお市も現代の人が美人だと思うかどうかはわからないってことだな

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 10:37:04.37 ID:bLgdl1H3
惜しいかな後世、お市の方を云いてお犬の方を云わず

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 06:37:57.44 ID:Wv1ssEGW
>>552
お犬さまって佐治一成の母ちゃんか
畠山昭高に嫁いでいた不詳娘と勘違いしていた

黒田家と吉川家の関係について

2014年05月24日 20:30

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 20:06:29.37 ID:bY0iimsq
黒田如水は元来、吉川元春、その嫡子元長に厚意があった。
その吉川家では、元春が天正15年(1587)に死去し、元長もその翌年に卒した。
家老たちは、元春の次男である元氏を立てようと協議していたが、この時、黒田如水が考えたことには、

『元氏は病弱であり、現在の戦国の時代に家を継ぐべき器量ではない。元氏の弟である広家は、
その家督となるべき器量がある。これに家を継がせるのが然るべきである。』

そして広家の家臣、香川又左衛門と相談し、豊臣秀吉へと言上して、終に広家は吉川毛の家督を
継承した。このころ広家の年齢は二十歳より下であった。

このように、吉川家が黒田家の恩意を被ったのは、関ヶ原で東軍への内通の頼みとしただけでなく、
以上のような由緒もあったのである。

吉川広家は寛永2年(1625)9月21日に死去したが、この時以下のように遺言した。

『私は如水・長政と多年約束をし、一生の間、互いに裏切ったことはなかった。私の没後、
子孫に至るまで親懇の筋目を忘れないようにと思う。
紫野大徳寺龍光院は、如水・長政の菩提寺である。両公の塔の傍に、我が遺骨を葬り、
収めるように。』

そして遺言のとおりに葬られ、石塔を建て、金光院中厳如兼と称した。
それ以後、代々の吉川家は黒田家対し心の入った篤心であること、その先祖の言葉を虚しくしていない、
と言うべきであろう。

(黒田家譜)

黒田家譜より、黒田家と吉川家の関係についての記述である。




12 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/23(金) 20:17:49.12 ID:+AyOeJaT
そんな元氏さんは広家さんより長生きしてたりするからわからんものよね~

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 23:41:32.17 ID:6NDjPT4e
元氏は他家を継いじゃったからな

防長二州安堵顛末

2014年02月15日 19:00

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 21:06:30.66 ID:7BjaOQEG
関ヶ原合戦の戦後処理において、毛利輝元については、今回石田三成に与し、奉行衆もこれに一味して
西の丸に移り、諸方に内通を勧める回状に判形し、あまつさえ四国へ派兵し、その罪は莫大である。
しかしながら一族の吉川広家が、東軍に志を通じたその功績により、輝元は死罪・流刑を相赦し、
広家には中国地方のうち1,2ヶ国を与えるべきである、と議定した。

これにより広家を兵部少輔(井伊直政)宅に召し寄せ、『広家の今度の忠義に感じ入った故に、
中国の押さえとして周防長門の両国を与える』という徳川家康の内意を伝え、毛利家よりの人質であった
粟屋十郎兵衛も差し返した。
しかしこれを聞いた吉川広家

「思いもよらない、身に余る有難き仰せではありますが、もとより今回のことは、自分の身上を考えて
行ったのではありません。あくまで本家である毛利輝元の家を御立て下さるようにと存じ、先にも私は、
私に対しての報奨はお断り申し上げました。

今度のことは、決して輝元の心底より出たものではなく、ひとえに安国寺が策略をめぐらし、
奉行衆の言うに任せて、秀頼様のご命令であると信じてしまったために、是非に及ばず
ああなったのです。輝元に思慮がないことは、内府様も良くご存知のことです。

勿論、輝元のこれまでの分国を相違無きように、などということは申し上げるべきもない話ですが、
私に拝領される予定の国を、輝元に下されますように、どうか取り持ちをお願い致します。
もしこれをお聞き届けないのであれば、私についても、輝元同様に申し付けて下さるように、
幾度でもこれを申し上げ続ける覚悟を決めました。」

この返答に、黒田長政は福島左衛門大夫(正則)、井伊兵部少輔(直政)と相談した上で、
書状を広家に送った。その詞には

『尚々、今回のことは兎にも角にも井兵少(井伊直政)、福左大(福島正則)、そして私の
3人に任せ置いて下さるようにして下さい。さらにこの他に頼るような事は、決して無いようにして下さい。

さてもさても、中国についての事は、今日明日にも決定されます。あなたのご分別次第なのです。
井兵少に仰せになったあなたの御覚悟は、とても不可能なことだと思いますが、必ず、私と福左大が
家康公にお目にかかり、あなたの心底を残らず申し上げます。

しかし、中国の内、せめてあなただけでも大名として残ることは、家祖である毛利元就公に対し
報告するのにこれに過ぎた事は無いでしょう。中納言殿(輝元)と同じ処分を望まれるというのは、
一応二応まではご尤もにも思います。ですがそれで、あなたご自身も滅ぼしてしまえば、元就公に
どのように報告されるのでしょうか?どうか、分別のない考えはしないで下さい。

10月7日     長政 判
     吉殿様参       』

しかし広家はこれでも承知せず、返書に、長政および福島正則に宛てて、起請文を付けて、心底の趣きは
変わらないということを申し越した。この事はついに家康の聞き及ぶこととなり、広家の誠実さを、
律儀至極であると感じ入り、「輝元の今回の罪は莫大であるが、安国寺の策略によってああなったというのは
紛れも無いと、輝元も誓紙を以って釈明したのであるから、この上は広家に与えるはずだった防長二国を
輝元親子に仰せ付ける」と決まった。

(黒田家譜)

毛利家が防長二州を安堵されるまでの顛末である。




366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 22:23:17.97 ID:Nf6SSgKt
とある作品では輝元を減封で留めるために
家康と広家で一芝居うったって事にしてたな

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 16:33:15.67 ID:kB1KU6h5
>>366
黒田家譜読んだら恵瓊も
輝元の泥を被らされただけなんじゃないかと思えたり。

西国で川中島合戦にまつわる論評合戦があったらしい

2013年10月21日 19:45

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 21:53:06.97 ID:0a8ryyVQ
西国で川中島合戦にまつわる論評合戦があったらしい。

毛利元就の在世中、甲斐の武田・越後の上杉から書札を受けていたものの、
当時元就の容態が思わしくなかったこともあり、
山中鹿介擁する尼子勢に手を焼いていた毛利家は、
なかなかその返礼をすることができなかった。
元就が亡くなってしばらくすると、次男の吉川元春は、
家臣の佐々木源兵衛尉を甲斐・越後へと挨拶に遣わした。
そのついでに、両国の情勢なども見て回らせた。

さて、佐々木が安芸に帰国して、見聞きしてきた川中島合戦の様子などを
元春に報告したところ、その話を聞いた杉原播磨守盛重は、
「謙信のこのようなところが油断である、
 信玄のこのようなところが落ち度である。
 いかに良将の聞こえが高くとも、間違いをおかすこともあるのだな」
などと、話に上った川中島合戦の批評をしはじめた。

同席していた天野紀伊守隆重はそれを聞くと、口を開いた。
「なるほど、御辺の意見も一理ある。
 しかし、我らごときの愚昧な考えで批判ばかりしていれば、
 まったく過失のない真の名将などというものは、
 この世に存在しないことになってしまう。
 信玄・謙信がもし、御辺の言うように凡庸な将だったなら、今の名声もないはずだ。

 時も場所も異なるところで何を言ったところで、まったく的外れなのだ。 
 地に伏せて耳を澄まさなければ、地の底を穿つ足音を聞きつけることもできない。
 そのとき、その場にいなかった御辺が、あれこれと批判しても意味はあるまい」

盛重は「もっともだ」とうなずいた。


個人的に耳が痛い話だったのでこちらに。




541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 21:10:22.92 ID:EL6wb5qu
>>537
しかし現場以外無意味とか言ってると戦略や戦術なんてほとんど研究できないわけで



542 名前:537[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 23:53:49.16 ID:cjfZqQ2P
>>537に関して補足をまとめようとしているうちに、昨夜は寝てしまいました。
少し続きがあります。


天野隆重に反論された杉原盛重は、相手の言い分を一応は認めたものの、
「しかしながら、信玄・謙信のような良将を論評すること
 それ自体がよくないと言うのであれば、納得できない。
 信玄・謙信は生まれながらにして一国の将で、その名はこの日本国中に知れ渡っている。
 この私は勇智が信玄・謙信に劣っていなくても、ようやく一郷一村の主でしかなく、
 人に名を知られていない。
 それなら批評するにも何の憚りもないはずだ。
 合戦の評論をする行為自体がよろしくないというのは、納得がいかない」
と食い下がった。

そこで同席していた熊谷伊豆守が、
「二人の論争は、未来永劫決着がつくことはないだろう。
 梅はすべからく雪に三分の白を遜るべし、雪もまた梅に一段の香りを輸すべし、
 という古い言葉もある。
 お互いに優れた言い分を認め合って、腹をおさめるといい」
と諭すと、二人とも大いに笑って退出していった。


以上です。



543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 23:56:02.55 ID:PZYN8Rgz
元春はこの時何を考えていたんだろう

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 01:08:07.03 ID:v/L45Kbq
熊谷伊豆守って孫が豊前守ってことだし、信直かな
年長者だし上手いこと纏めたな、といいたいが天野隆重の方が年上か

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 02:32:01.65 ID:0DXDVwU+
笑ってすまずに殺し合いになる家が結構あるような

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 11:52:35.54 ID:f028Go8Z
囲碁将棋観戦は命がけ

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 13:38:46.16 ID:31RUWkyD
庭師「賭ける程度では生ぬるいわ」

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 18:48:06.83 ID:p8wzde/m
兜持ち「便所いきてー」

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 19:09:46.76 ID:NDrZswl7
>>542
お面杉原が大いに笑った・・・だと?

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 22:45:57.29 ID:kHe1CpjK
お面のような顔は変わらず口から笑い声だけが・・・
見た人チビるな

背中炙りの姿となって

2013年07月08日 19:53

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/08(月) 08:05:31.03 ID:ArubJxJS
石見、出雲、伯耆と言った国々は吉川元春公の管轄する国筋であったため、公は別して
御油断なく、御心を使っておられた。
しかし、それでもその統治には非常にご苦労が多く、下々までも疲弊し根気を尽くしてしまい、もし合戦があれば、
軍は弱体化し敗北に及ぶであろうと、過半の人々が思っていた。

しかしそう言う時に元春公は、帰路の道における橋などを外され、わざと帯紐を解かせ背中炙り(背中に日を当てること。つまり上半身裸)
の姿となって、川を渡るようなことが度々有った。
(老翁物語)

意図が解るような解らないようなお話ですが、たしかになんだか凄そうです。






吉川広家漁火をみて敗兆を知る

2013年05月08日 19:51

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:10:00.33 ID:97/v4Lob
吉川広家漁火をみて敗兆を知る

広家は石田三成に与力していたが、ある日美濃路をさして来る
敗軍の士卒があった。戦いも始まらないのになんびとだと尋ね
させると水口城主長束正家であった。

正家は「あれを見てくれ、海上に雲霞の如く兵船が押し寄せて
敵に取り囲まれたらどうしようかと存じ、あなたと合流してから
戦おうと人数を引き取ってきた」と言う。

広家が水上を見るとそれは漁火の影であった。「これは兵船に
あらず漁火の光です」と告げると正家は言葉も無かった。

広家はこれは衰運のなすところこそと思い、たちまち心を翻し
徳永法印も諭したのを幸いとして遂に関東に味方した。

このたび広家がもし関東に味方せずば、いかに毛利家に西国を
賜うことが出来たであろうか。

知勇兼備よく機変を考え禄を本家へ譲り周防長門の主となったが
自身は退いて陪臣となった。

(近古武談)




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:46:11.03 ID:SeK/Wbwr
美濃路で海上も糞もないだろうに
漁火って木曽川とか長良川の鵜飼の篝火かね?

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:51:33.49 ID:GqUWQBhZ
>>223
多分伊勢路と間違えているんだと思う

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 14:46:59.92 ID:HDRoXa+z
琵琶湖じゃね?淡海ってことで

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 15:17:29.21 ID:cV3DKTfK
伊勢の安濃津城攻めの後だろう

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 15:38:53.99 ID:97/v4Lob
家康と誤認して正家が動揺したと言われるのは、一般的には阿野津攻めの前かな。

史実では8月5日頃に正家と恵瓊が伊勢へ向かい。
広家もその頃までは瀬田で普請をしてて、同じ時期に伊勢に陣替えになった筈。