fc2ブログ

「臆したる仰せかな」

2021年10月30日 16:24

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/30(土) 16:16:27.50 ID:tQVtBhVS
天文9年(1540)、近年元就朝臣(毛利元就)には尼子民部大輔晴久に様々憤る事があると
大内義隆と陶入道道麒(興房)は聞き及び、棹させば流されると喜んで、
「大内の幕下に属されれば、これからは水魚の思いをなし申さん」と厚く礼和を言って申し越された。

元就朝臣はいかが思いなされたのかやがて了承し、
芸州にいた尼子一味の侍どもの城を一時攻めに5ヶ所乗り崩し、晴久と手切れの色を立てなさる。
これにより晴久は吉田へ発向の旨を評議し、祖父経久(尼子経久)へも聞かせ申してこその事と思い、
しかじかの由を申された。
これに経久は「吉田出張の儀は無益である。まず石備両国を従えて国人どもの人質を取り堅め、
深固の利をもっぱらとしてその後に吉田へも出張するべきだ」と理を尽くして申された。

しかし晴久は、経久は老耄なされたので「御意見至理に存じ候」と謹んで申されながらも
内心では「臆したる仰せかな」と思い、ひたすら吉田へ出張の用意をするのみであった。

(中略。以下吉田郡山城の戦いの時)

吉田勢(毛利勢)はようやく3千に過ぎないため、城中の女童下部までことごとく堀際へ差し出て
竹の先や棒の先に箔紙を付け、あるいは金銀の扇子などを結い付け持たせて置きなさった。

宮崎では吉田勢が向かうと見て、一陣に控える高尾豊前守2千余騎(尼子勢)は柵際まで出て待ち受けた。
吉田勢が少しも臆さず攻め近づき柵を押し破り切り入ると、出雲勢もここを先途と防戦するも、
ついに叶わず左右の谷へ引き退き、二陣に続く黒正甚兵衛尉の1千5百余騎が渡し合って防戦した。
一方で陶、杉、内藤の宮崎の陣(大内勢)は、「元就は容易く勝利を得られることだろう。
それならば本陣の晴久と一戦するぞ!」と、2万余騎を三段に分けて青山猪山へ押し寄せた。

尼子下野守(久幸)は思慮深き侍で、必勝の見切り無くしては危うき合戦を慎んだので、
世人は“尼子比丘尼(臆病野州とも)”と言った。この人は何と無く、怒る様子もなかったのだが、
心深い憤りがあったのか居丈高になって言われるには、
「今日の戦はこれ以上ない程の味方の大事だ。何にせよ1人踏み止まって討死しなければ、
晴久の御開陣も成り難い。内々に口武辺なさっている人々は一手際のところである!誰か彼か!」

だが答える者は1人としていなかった。その時に下野は雑言吐散し、
「尼子比丘尼は今日の討死なり!御免あれ!」と打ち立ち、手勢5百余騎程が青三猪ヶ坂へ掛け出ると、
河添美作、本田豊前、已下下野に励まされ我先にと進み出た。

そうして陶の先手深野平左衛門尉、宮川善左衛門、末富志摩守2千余騎と入り乱れて戦い、
山上へ追い上がる時もあり、周防勢が追い下され三日市まで引く時もあり、終日隙間なく攻め合えば、
陶の先手の深野と宮川は討たれ、末富は深手を負ってやがて下人に助けられ味方の陣に入った。

元就朝臣の家人中原善左衛門は宮崎からどのようにして来たのか陶の手にいたのだが、
尼子下野に渡し合って大雁股を野州の眉の外れに射込み、馬から落ちるところを走り掛かって
首を取ろうとした。野州の同朋は主の首を探させまいと前に進み打って掛かるが、
中原は物の数ともせずに一太刀で打ち捨てた。しかし、その隙に下野の死骸を若党どもが
肩に掛けて味方の陣に逃げ入ったので中原は思う首を取れず、同朋の首だけを討って帰った。

――『安西軍策

安西軍策は江戸初期成立の軍記物で陰徳記の原資料といわれる
臆病野州は前段で吉田出陣に反対した久幸を晴久が臆病と罵倒したことに由来するとされるが
尼子比丘尼は世人の評由来で、晴久が臆していると思ったのは経久になっている



スポンサーサイト



尼の子と成って以来

2021年10月25日 17:47

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/25(月) 16:28:47.23 ID:1KOF0XaZ
尼子の家は宇多源氏佐々木の一流、塩冶判官高貞五代の後胤である。塩冶高貞が讒死した時、三歳の
幼子が有り、八幡太郎と言ったが彼は母親の元から出され、密かに養育し、この時尼の弟子と成して
命を助け、その後出雲国に入り月山富田城に住し、やがて子孫が出雲、伯耆、因幡、石見、隠岐の五ヶ国を
領した。

尼の子と成って以来、家が再興された事により、氏を改め尼子と名乗り、この由緒を忘れない事を示した。
尼子家は山陰道の守護職に補任され、武威を他国に振るい、それだけではなく旗を山陽に動かし
備後、備中、安芸の大半に鉾先を傾け、関西に於いては大内尼子の両家に肩を並べる者は無かったが、
右衛門督晴久の代に至って逸遊を好み、治国撫民の徳を失い、蒙昧にしてそれまで親しかった者たちを
遠ざけ、他人を近づけ、君臣共に奢侈となり、花車風流のみにふけり、武道を忘れ文を試みず、
忠臣は志が齟齬する事で身を奉って退き、又は讒言に遭って死んだ。そのようであったので分国も
日々に侵食され、遂に家を失った。

嗚呼、尼子を滅ぼす者は尼子であった。元就には非ざる也。

宍戸記

尼子氏は近江国甲良荘尼子郷が名字の地とされていますが、先祖が尼に育てられたから尼子、という
話もあったのですね。



尼子勝久・通久兄弟の切腹

2020年03月17日 18:03

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 12:10:13.79 ID:DxVeY+n/
上月城の戦いの終盤

吉川治部少輔元長は山陰道の勢二万余騎を率い、卯月(四月)十一日の朝陽に、織田の援軍の在る高倉山へ
討ち向かい、有無の合戦と憤る。その来鋭奮発として、大地震え山裂けるが如し。北國武者の勇気は氷雪の
気色を表し、烈々として厳しければ、佐久間右衛門尉(信盛)、瀧川左近将監(一益)らは

「あの手の者達はどうやら鬼吉川の勢のようだ。彼と戦い、例え利を得たとしても、上月城を囲んでいる
十万余騎の敵は、それを見て我等に討ち掛かることをどうして堪えるだろうか。
若大将である織田信忠を、生死知らずの者共の鋒前に掛けてはならない。早くこの陣を引くのだ。」

として、高倉山の陣を引き払ったが、吉川元春はこれを追い、同国書写山に追い詰めた。

こうして上月城では、後詰めの味方が敗軍したと聞くと城兵の大半は落ち散り、防ぐべき戦術も盡きた。
尼子孫四郎勝久、助四郎通久兄弟は「今はもはや自害せねば」と思い極め、山中鹿介幸盛を呼んで

「如何に御辺は、今一度降人となり、芸州長田に御座す、前伊予守義久入道瑞閑を忍び出し、再び
素懐の旗を立て給え。
先年、秘蔵せし松虫の轡を捧げて、織田信長の憐憫を得た。今また、尼子家の什宝である荒身國行の太刀、
並びに大海の茶入を進ぜよう。これは我等の形見とも、又は武略の種ともし給え。」

そう遺言し早くも自害の用意急であれば、幸盛は涙を流し
「さても無念の次第です。これも尼子の家運が滅びるべき時が至ったのか。であれば、人手に掛かるよりも
疾く自害されますように。幸盛は今一度、思う仔細がありますから、御跡に留まって後世を弔い進ぜます。」
そう言って酒を進め、宴など催し。天正六年五月二十九日(筆者注・実際には七月三日とされる)、
勝久通久兄弟、自害して名を滅亡の跡に留めた。哀しいと云うも愚かである。

雲州軍話首

尼子勝久・通久兄弟の切腹についてのお話。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 14:00:05.78 ID:uq7TRT/o
織田勢転戦しすぎててちょっと記憶が薄いんだけど
佐久間と滝川と信忠って山陰の方出張ったっけ

今、その第十の計りを用いる

2020年03月16日 18:45

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 17:32:14.14 ID:vH5vpMMx
元亀二年の頃に成ると、尼子再興軍は毛利相手によく戦ったものの、兵糧は既に尽き、今は天下の扶助がなければ
どうやって大敵に打ち勝つことが出来るのかと、諸城を開け退き、或いは再び降人となって毛利方に出頭した。
このため、今や尼子勢は五千余騎に過ぎぬ有様であった。

山中鹿介の籠もる末石城内も飢饉に及び、士卒は軍務を尽くさず、夜々に落ち散る者多かった。
このような状況の中、鹿介幸盛は軍士を呼び集めると、このように申し渡した

「私は若年の初めより、勝利十法をよく学び得て、敵に当たるたびにこれを用い、勝たぬという事はなかった。
今、その第十の計りを用いる。

この幸盛、敵を偽り、降人となって衆命を助け、粮を求め、重ねて蘇兵を挙げる期を得ようと思う。
であるので面々は皆、故郷に忍び、時を待ち給え。」

そう命ずると、十月二十五日の朝、城門を推発すると、鹿の角の前立を指し挙げ「矢留である!」と呼びかけ、
ただ一人打ち出る。甲をうちかけ鑓を杖し、吉川元春の陣門にかき入り、仁王立ちし、大音にて言った

山中鹿介幸盛、弓折れ矢盡きて、今は衆命を助けるため、降人となって出て候!
願わくば、元春、元長の御慈悲を以て、鹿介の一命を助け、後扶助を預かれば、今後は大忠を尽くすと、大将へ申せ!」

そう高声に呼びかけると、陣門の警護、宿直の武士たちは大いに驚き、陣中の騒動は千車の轟に異ならず、幸盛を
討って大賞を得んと、我も我もと進み出て、彼をその真中に取り囲んだ。
しかし幸盛の勇気は項羽の武威を越えるもので、とうと青眼をむけ大きな怒りを含み

「我武運盡き、軍門に降る上は、汝等が心に任せよ!」
と、鑓を投げ捨て太刀を抜き、
「これぞ今、降人の現れである。早く大将に告げよ!」
と呼ばわると、その声は獅子の吼えるが如くであった。

しばらく有って「大将見参すべし、これは御入り候へ」と、勇士三十余人が、鹿介の左右の腕袂に取り付き、
陣屋の中に入れようとしたが、鹿はまた怒って、両手を振りほどくと左右の手に取り付いていた勇士たち
三十人は将棋倒しに倒れ、躓き伏せ、赤面して立った。

鹿介は吉川元春を前に跪き、頓首平伏した。この時駿河守(元春)は幸盛のその姿を見て
「昨日まで雨を施す龍王も、雲を得ずしては死した蛇にも劣る。御辺は日本第一の豪傑と雖も、兵粮が尽き、
兵が分散した故に降人として出てきたか。痛ましいことだ。

私は正兵を守り奇を用いない。降る敵を捨てず、一人を助け万人を喜ばせるための賞としよう。」

そう真心を以て語りかけ、鹿助に伯耆国尾高庄、周防国徳地ノ庄、併せて二千貫を宛行った。
こうして山陰道は再び元の如く、大江(毛利)の幕下となった。

鹿介は喜び無く、まもなく尾高庄に入部し、蟠龍が来復の気を呑んで、時を窺っていた。
そのような中、尼子孫四郎勝久が隠岐国に渡り、軍の用意を怠らなかったが、これが敵方へ聞こえ、
「早く討手を差し向け、芽のうちにこれを断つべし」と評定で決した。

鹿介はこの事を聞くと、急ぎ隠岐国へ飛脚を遣わし、勝久にかくかくと告げようとした。
所が彼の飛脚は割符を持っていなかったので、諸所の関所を通らず向かったが、伯州境にて彼の国の関守、
杉原播磨守盛重の廻国の警護の者たちに、怪しい奴とこれを通さず、搦め捕り拷問にかけた所、この飛脚は
白状し、笠の緒の中から、鹿助より勝久への密書が一つ出てきた。

「これは疑う所なし、あの鹿助を誅殺しなくては、またどのような世の変転が起こるかわからない」と、
急ぎ追手を向けたが、その時鹿介は既にこの事を伝え聞き、またかねてより妻子を、婿である亀井武蔵守(茲矩)の居る
京都へ上らせ置いており、直ぐに尾高を忍び出て、但馬国へ赴き、隠岐へ使いを立てて尼子勝久兄弟を招き寄せ、
濃州岐阜へと落ちていった。

雲州軍話首

第一次尼子再興運動の失敗と、山中鹿介の偽りの降伏についてのお話



919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 11:52:39.52 ID:nKpdqadR
因幡では鹿介ら山賊となり村々を略奪しては女を凌辱又は奴隷市で売り軍資金を稼いでいたそうな
今でもこの地域には埋蔵金伝説がある

尼子再興軍による月山富田城攻略失敗

2020年03月15日 16:14

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 00:54:43.96 ID:BEc4Klcp
永禄十二年、尼子再興軍により山陰道は悉く翻り、山中鹿介は石州に働き入り、黒岩、戸屋ノ尾の二城を築くと、
その軍勢は四万余騎となって、既に雲州の月山富田城を囲んだ。
米原平内左衛門尉広綱は、今度、毛利の立花の戦線より馳せ帰って尼子方に帰伏し、その勢三千余騎にて高瀬の城に
立て籠もった。

しかし、毛利方で月山富田城の守将、天野中務大輔隆重は頑強に防衛し、またこの時、殊更に大雪が降り、
数丈の高さに降り積もって陣屋を埋めたため、空しく月を移り日を暮らした。

年が明けて永禄十三年、東風は潤い谷の氷を解かし、春雨は満峯の雪を潰した。
「今は時を得たり、急ぎ城を攻めよ!」
尼子の軍営ではそのような声が高くなった。

ところが、正月七日暮天、備後国より早馬が来て告げた

『大友左衛門入道宗麟、立花の軍で利を失い、継いで耳川にて島津義久に討ち負けた。(筆者注:ここでは永禄十二年(1569)
の多々良浜の戦いと、天正六年(1578)の耳川の戦いを混同している)
また防州においては、舎弟の太郎左衛門尉輝弘が討ち負け(大内輝弘の乱)、その死後は九州も悉く翻えって
大江羽林(毛利元就)に与力し、備後国の一揆も、軍に利無く終に討ち負け、一人も残らず滅し、見方は一騎も
無くなった。敵の軍勢は馳せ集まり、程なく八万余騎となり、近日、雲州に向けて発向すると聞こえる。
内々御用意有るべし。』

尼子勢はこれを聞くと、「なんと事々しい注進であろうか、敵が立花城を落としたその足で、防陽の軍勢が如何
蘇長したとしても、そのように俄に大軍を催せるものだろうか。」と疑義していた。

そんな中、同月十二日、毛利方の吉川、小早川は八万九千騎を率いて雲州津賀庄に侵攻し、多久和の城へ押し寄せ、
四方八方から騒動した。
多久和の守将は秋宅庵介、尤道理介であったが、僅かな小勢で城に立て籠もっても、大軍に囲まれては、ただ
追われた鼠が穴に入って蹲っているのと異ならず、そのような状況下で、どうして城を出て合戦をすることが
出来るだろうかと議して、同日の深夜、城に火を掛けて落ち去った。

この時、何者かが書いた落書が立った

 『秋やけて 落は尤道理介 如何に庵を春やけにする』

多久和城の者たちは、富田の陣営をへと落ちていった。この自体に尼子勢は
「当家三軍中より選び出した庵介、道理介の両介が一支えも出来ず敗北した上は、大敵が襲来し、その鋭鋒を防ぐのは
難しい」と群士は固唾をのみ、衆議喧々となった。

この状況に山中鹿介幸盛は「萬衆一和ならぬ合戦をして、古今勝利を得たる例無し。」と、富部の城に引き退き、
月山富田城の囲みを解いた。

雲州軍話首

尼子再興軍による月山富田城攻略失敗についてのお話。秋宅庵介、尤道理介は、いわゆる尼子十勇士の一員ともされる
人ですね。



915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 09:59:35.09 ID:yh2KYrWm
まとめの5419
「雲陽軍実記」より、尼子十勇士っていったい

にはほかに2パターンの狂歌が
「城を明落ち葉の頃は道理なりいかに伊織を春焼にする」
「城を明け落葉尤(もっとも)道理なり いかに庵を春焼にする」

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 10:18:10.96 ID:rOhCHn6o
キワモノ揃いの十勇士w

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 15:14:16.06 ID:Wk0EwnES
秋宅庵ノ介、尤道理ノ介といえば
滝沢馬琴「燕石雑志」の「苗字」の項に

「正親町院の永禄のころより諸国の武士にて奇異なる名おほかり。
山中鹿ノ介幸盛、秋宅庵ノ介、寺本生死ノ介、尤道理ノ介、藪中荊ノ介、小倉鼠ノ介、山上狼右衛門(以上尼子の家臣)
この餘、朝倉家の十八村党、河野家の十八森党、大内家の十本杉党、吉見家の八谷党、尼子家の九牛士、里見家の八犬士
枚挙にいとまあらず。
こはみな軍陣に臨みて名告るとき敵にわが名をおぼえさせんため為るとぞ。
戦世には武備あまりありて文備なし、その名の野なる心ざまの猛きさへ推しはからる。」

名前だけでもおぼえてもらうためにそういう名前にした、と書かれていた。
しかし尼子九牛士というのも十勇士の他にいたということになるが、
馬琴先生、「雲州尼子九牛伝」ではかっこ悪いと思って「南総里見八犬伝」を書いたのだろうか

尼子再興軍挙兵

2020年03月14日 15:07

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 02:56:33.70 ID:HrhviztH
尼子伊予守義久の伯父である、孫四郎久勝、同弟・助四郎通久は(正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか)、さる永禄九年十一月、雲州富田城が没落した後は、ここかしこに身を潜め、
牢屈の悲しさに涙が尽きる日もなかった。洛陽(京都)東福寺に隠蟄し、出家遁世の姿に身をやつし、時が来れば
義兵の旗を挙げ素懐の恨みを晴らさんと、年月を風に吟し月に嘯き、怨みを山陰の雲に憤って明け暮れて座していた。

その頃、尼子一族譜代の郎従である山中鹿介幸盛。立原源太兵衛久綱、加藤彦四郎経盛も、京の嵯峨の辺りに居たが、
大江羽林(毛利元就)が九国(九州)を攻めて大乱に及ぶと聞くと、「今こそ、義兵を起こし鬱憤の旗を押し立て、
山陰道に討ち向かい、尼子累代の本領を取り返し、勝久兄弟の素懐に達するのは如何か」と議した所、
みな「尤も」と了承したため、急ぎ二条の御所に参り、委細を訴え出た。

織田信長はこれを聞くと、大いに喜んで言った
「関東では武田信玄が陰謀を呑み、西國では大江羽林が毒石を含んでいる。天下始終の魔障は、彼ら両勇である。
昔、漢の高祖は義帝を立てて秦の代を滅ぼし、周の武王は木主を作り殷の代を傾けた。幸いにいまここに、
勝久、通久の兄弟がいる。早く彼らを大将に立て、義兵の旗を挙げるべし!」

そう応じられ、御教書を調え、丹波、但馬の勢二千余騎を以て加勢に付けた。これに尼子孫四郎勝久、助四郎通久の
兄弟は、蟄望たちまち発し、虹龍が一陽の気に乗って天に上る如きであった。
尼子譜代の郎従に一言、芳恩の武士への催促を促した所、恨みを一刀の刀に掛けた兵たちが馳せ集まり、程なく
七千余騎となった。

雲州軍話首

しかし信玄と元就で「天下始終の魔障」とは、また偉い言われようですね。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 07:31:17.81 ID:OFEQsci3
>>760
>天下始終の魔障
>虹龍が一陽の気に乗って天に上る如き
言い回しがいちいちかっこいいwこういうのが講談の元になったというか発展したのかな
現代にも講談→小説→漫画としてつながってる気がする

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/14(土) 10:43:25.29 ID:CEi3z3Cr
>>760
>正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか

「はとこ」と言う

山中鹿介、品川狼介、勝負の事

2020年03月13日 16:37

746 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:22:59.54 ID:72oODjjo
ここに石見国住人、品川半平という者があった。彼は吉川元春の陣に進み出てこのように言った
「この頃、関東には勇士があると言いますが、西国には鹿(山中鹿介)を討つ人もいない。私が一勝負仕り、
軍の睡りを醒しましょう!」
そう声高に訴えた。

彼の形相を見ると、身長は七尺(約212センチ)を越え、両眼は鬢(耳ぎわ)まで裂上がり、
手足は熊、目、口は虎に異ならなず、鉄をくり抜き。鐘の如くなる鎧を着、六尺(約180センチ)あまりの太刀を帯び、
彼が大将である吉川の陣に望んだその姿は、そのまま仁王の荒作り、又は当八毘沙門が貴見城の門に立って修羅を
攻め給う姿もかくやと怪しまれ、軍使悉く身を跪いて恐れをなした。

この時、吉川駿河守元春の長男・治部少輔元長は、その頃世に隠れ無き形相の人物であり、人は皆「鬼吉川」と
呼ぶほどの血気にて、仁義も勇も逞しき勇将であったので、彼は半平を一目見て
「さても汝の形相は、いかなる天魔鬼神も挫き、孟賁(秦の武王に仕えた勇士)の骨を砕くべき血気なれば、鹿介を
討たん事容易いであろう。先ずは受領を進むべし。」と、即時に『狼介勝盛』(鹿を狩る狼、また山中鹿介幸盛に勝つ、
という意味であろう)と名を与え、「早速敵陣に赴き、勝負を決すべし」と下知された。

狼介は喜び勇み、勇者の面目、且つ鹿を取ると名が明らかなのは自明の理であり有り難しと打ち笑い、
鋒より長い鑓を取って、大場谷の坂に望み、囲いを抜いて三度「誰人にても一人これに出給え!」と、
大音にて呼んだ。その声は余りに高く、谷峰を震わし山彦が響いて聞こえぬ所無かった。

城中では驚き、「これは如何なり、獅子象王の呻声か、事々しき音声である。早く出て事の仔細を聞くべし。」
と下知をした。そこで今川鮎介が飛ぶように走って見てみると、そこには閻魔大王に些かも劣らない大男が、
三間ばかりの鉾を携えて立っていた。

今川は驚き、「汝何者ぞ、化生か鬼か、名乗れ!」と言うと、狼はこれを聞くとあざ笑い
「我は鬼神にも非ず、石州益田住人、品川狼介勝盛という者である。御辺は誰か、名乗れ。」
鮎介はそう言われるとカラカラと笑った

「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

そういって鮎介は山中に駆け入り、山中鹿介幸盛に、かくかくと告げた。
鹿介は目を閉じ黙然とし、上帯に太刀をおさめ、十文字の鑓を取って提げ、已に出向こうとした。
これに鮎助は走り寄り、鎧の組紐に取り付いて
「不覚なり。御辺は大将の身として、一騎の勝負は避けられるべきだ。」と鑓を取って控えさせると、
鹿はあざ笑って

「敵も我も同じ人である。例え本当に鬼だったとしても、どうしてそれを見て逃げるだろうか。
況や同じ人間であれば、私の鑓に先に懸って、いわゆる夏の虫と成るだろう。凡そ勝負には、勝つも負けるも
ここにあり。」

そう言って胸をホトホトと叩いた。これに鮎助は打ち笑って「もはや勝ったな、鹿殿」と誉め称え馬に乗せた。

747 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:23:19.18 ID:72oODjjo
鹿介は急ぎ谷口に表れ出て
「いかに狼殿、鹿は大将の身であるから一騎の勝負は不覚で有るのだが、末世まで勇士の名を立てるために
ここまで出てきた!さあ、一鑓仕らん!」

そういうと狼聞いて

「さても、勝負を決するのであれば太刀打ちの勝負をしよう!」

と、鑓を投げ捨て太刀を真っ向にかざし躍り出た。その形相はただ、閻魔大王が呵責の鬼を怒るのもこの時かと
訝しむほどの形相であった。
上の山には寄手大将吉川小早川、左右の峰には伊予河野、備中の三村、大旗小旗を靡かせ「狼、鹿取れ!」と
声援し、その声はまた、大地を震わし大山が裂けると錯覚するほどであった、

鹿も馬より下りて太刀討ち合いを暫く戦った。その間狼は、右の小鬢に痛手を負い流血、その血が目に入った。
このため「今は叶わじ」と思ったのか、太刀をカラリと捨て、無手となって組み付き、鹿を取って引き敷いた。
幸盛は元来気早なる勇者であったので、下より二刀差し通し跳ね返すと、狼はまた下になって鹿の向こう脛を突き、
双方手負いとなって別々にわかれた。しかし狼は深手であり、終に空しくなった。

さても世は定めなき習いであるので、鹿を取るべき狼が鹿に取られること無惨なりと、敵の毛利勢は眉をひそめて
音も無かった。

その後、何者が書いたのか、大場谷に落書が立った

『狼が 鹿に取らるる世となれば 負色見ゆる勝久の陣』
(狼が鹿に命を取られるような、世の常の道理が逆に成った世であるのだから、道理に従えば本来は勝つはずの
尼子勝久の陣営に敗色が見える、という意味であろう。)

雲州軍話首

山中鹿介品川狼介の勝負について。プロレスか格闘技の試合みたいですね。

前話
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:11:21.08 ID:+eHnhGXZ
「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

突然こんな芝居かかった長いセリフを思いついてスラスラ言えるのだろうか

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:12:23.93 ID:hC0ZPjal
このまま漫画化できそうw

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:01:06.96 ID:7eHWEYO2
身長デカ過ぎ、台詞男臭過ぎ、原哲夫の漫画かよ

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:38:07.91 ID:pCfeW8zQ
まとめの4357
尼子さんの家の記録による、鹿之助vs狼ノ介
と同じ話?

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:53:04.58 ID:72oODjjo
>>751
すいません書き忘れました。こちらは
>>737
の続きです

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 00:17:54.35 ID:k7HRjE5w
鹿介と狼介に混ざって出てくる鮎介さん
なぜに鮎

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 01:26:39.69 ID:gX2mf2Gn
身長7尺の紹介の段階でかませキャラ感がある

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:23:29.38 ID:VmC0GDNg
この異様に敵の凄さを強調する登場シーンに既視感あると思ったら
モブの反応まで含めてワンピースとかキングダムの世界

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:46:53.84 ID:/E+YrFqV
講談の手法が漫画に取り入れられたのでは

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 16:55:40.94 ID:OASpozdO
>>755
?「鶏を裂くのに牛刀なんかいらんよw」

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 21:05:57.09 ID:jPTP3wxG
>>756
だね
何か普遍のものがあるんだろうね

生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った

2020年03月11日 16:42

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 00:13:04.83 ID:vaIWdH6B
今年(永禄十二年)の、尼子再興軍による山陰道の動乱は、山中鹿介幸盛の仕業であると、吉川元春小早川隆景
忿怒し安からず、
「誰か、毛利八万余騎の軍中、力抜群なる勇者は無きか、あの鹿毛を討ち取れば、懸賞はその望みに任せる。」と
触れ流したが、然し乍ら山中鹿介は日本無双の勇者にて、肢体の逞しき事、その長弓は尺を越え、矢束十八束を引き、
力は十人力を過ぎるほどであった。

天文十四年八月十五日、山中鹿介は雲州鰐淵山の麓、武蔵坊弁慶の育った屋敷にて生まれた。
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った。時の人は彼を『今弁慶』と呼んで恐れた。

今年、彼は漸く二十六歳で、五十六度の鑓を合わせ、謀は子房(張良)を呑み、武威は項王を欺く程の勇者であった。
そのため、前の尼子右衛門督晴久は、その四万余騎の群下の中より大勇十騎を選び出し、その第一の
定め初めは、当時山中甚次郎と名乗っていた彼であった。彼は兄甚太郎の鹿の前立の兜を譲られ、それ以降
武功はさらに世に響き名は高く、人呼んで『鹿介』と号した。

これほど名高く鬼神に勝る幸盛を誰が討ち取れるだろうかと、皆舌を震わせて嘯いた。

雲州軍話首

なんか凄いことに成ってる山中鹿介さん

続き
山中鹿介、品川狼介、勝負の事


738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 07:10:57.09 ID:Jz+ipb+7
>>737
盛りすぎだろw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 10:25:09.19 ID:ODpSNoxO
忠義者だし范蠡にも喩えよう
息子は范蠡並の大富豪だし

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 18:53:32.32 ID:aMeG75UG
>>737
勇猛な毛利緒将がガクブルとは
どんだけ強いんだ
良く覚えてないが信長からも傑物と認められてたような

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:00:17.58 ID:DItAZV0j
>>739
三菱UFJの源流の一つだよな
三菱なんかよりよっぽど歴史が長い

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:02:09.13 ID:GSVXddVj
戦闘民族扱いw

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:31:38.40 ID:dCQfvbaT
評判が評判を呼びすぎて花の慶次が武力100になったようなもんだな

尼子義久の芸州下向

2020年03月10日 18:08

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/10(火) 03:15:37.71 ID:L6NogYIg
義久入道瑞閑、芸州下向の事

第二次月山富田城の戦いで、尼子義久は毛利に降伏し開城。そしてその身は毛利の本拠、安芸へと送られた

されば人間盛衰は時を選ばず、栄華の庭に咲く花も風の前に散り尽くし、富貴の門に輝く灯火も栄耀の光衰えてしまえば
草頭の露に消え失せる。昨日は北海の波濤を砕き、今日は山陰夕雲と立ち別れ、玉粧金鋪の台を捨て、身を漂泊旅寄
烟霞遥かの路の末、夢路をたどる心地して、女性や子供たちまで、共にうかれて、出雲路や洗合崎過ぎゆくと、
湖水は滔々として際限もなく打ち寄せる波の数、恨みを空に、掛屋の宿、三澤、赤穴を越え過ぎて、遠き山路に
行き暮れては、石の床、苔の筵に座を囲み、雪霜、雨露を踏み分けて、憂いに名を挙げる高野山の末も三好の里であり、
江の川の霧は路を閉じ、暗路の旅こそ物憂いものである。

義久の御台所が、輿の簾をかき挙げて尋ねた
「ここは何国か」

従う人々は申し上げた
「ここは以前、当方の御分国であった備後国、三好の里であります」

北の方はこれを聞くと、硯を乞い、筆を染めて狂歌を一首詠まれた

『行末は 江の川霧関留て 三好野の道や開けん』

そう詠むと、玉のように散る涙を袂に受け、伏せ転んで座された。

これを見た伊予守義久入道瑞閑は大いに怒り
「されば弓箭に携わり甲冑を帯びる武士は、盛者必衰、安危興亡の身なれば、それは吾一人に限らない!
況や阿修羅王であっても帝釈に討ち負け蓮根の穴に身を隠し。天人も五衰の日に逢うて歓喜苑に呻くという。
おおよそ武士の道とは、身を捨て名を惜しむというものである。私が今、このような憂き目に逢うのも、
妻や子供の故なるぞ!」

そう、涙に咽んで筆を取り

『三好川 霧関込る瀬々に来て 世を渡らんと名をば流しつ』

と詠まれた。哀しと云うも疎であろう。

彼を慕い従う武士は、立原備前守、本多豊前守、同名与次郎、津森四郎、原小次郎、刀石兵庫介、宇山善四郎の、
ただ七騎だけであった。
彼の道中の警護は、天野中務大輔が三百騎にて行った。

同霜月七日に、安芸吉田に到着すると、一日一夜、猿楽、能を催し、珍膳饗喰甚だしく、同九日、同国長田の
延命寺に移されると、内藤下総守、桂少輔五郎を守警として、賄賂賑饗華麗にして、彼らへの尊敬もまた
前に越えており。義久瑞閑入道も、今は身の富楽も心も解いて、己が身の罪に帰した。

(雲州軍話首)

月山富田城の戦いで敗れ、安芸に移された尼子義久についてのお話



はたして後日、言葉の通りに成った

2019年08月30日 17:30

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 11:10:23.81 ID:E1FdUgeV
山中鹿之助は往古、武辺場数類ない武勇の武士であった。ある日、合戦が済んでその日初陣の若武者二人が
鹿之介の前に来て、先ず一人が尋ねた

「私は今回の初陣で敵と鑓合わせをした時、兼ねて思っていた事とは違い、敵に向かっては先ず震えを
生じ、目指す敵をしっかりと見ることも成り難く、仕合せに踏み込み、鑓を付けて首を上げたものの、
その鎧の縅毛(小札を結び合わせる糸や革)の色も覚えていません、初陣というものはこういうものなので
しょうか?」

鹿之助はこれを聞くと
「今後も随分と努力し給え。あっぱれ武辺の人と成るだろう。」と答えた。

もう一人はこう申した。「私はそのようには思いませんでした。」目指す敵と名乗りあい、敵は
何縅の鎧で、何毛の馬に乗っていた事、鑓付けした場所、その他鮮やかに語った。
これにも鹿之介は同じように答えた。

この両人が席を立った後、傍に居た人がこの論を鹿之介に尋ねた所、
「最初に尋ねてきた若侍は、何れ武辺の士と成るだろう。しかし後に尋ねてきた者は甚だ心もとない。
もしかして彼が取ったのは拾い首では無いだろうか。それでもないのであれば、重ねての戦では討たれてしまう
だろう。」

そう言ったが、はたして後日、言葉の通りに成った。

鹿之助の申すには
「私などは初陣、或いは二,三度目の鑓合わせは、最初の若侍が言っていたように、震えを生じ、目を開いて
向こうを見られるようなものではなく、ただ一身に向かって突き伏せようとと思い、幸いにも首を取ったのだ。
度々場数を踏んでこそ、戦場の様子も知られるように成るものなのだ、」と語った。

(耳嚢)



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 11:12:40.31 ID:J8zxYW+w
清正にも似たようなのあったな
新兵にはお決まりの症状だったんだろうな

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 12:15:23.34 ID:hFSa9L6j
氏郷最強か

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 15:12:04.98 ID:o37TWyNP
鬼武蔵は後者のほうだろうなあ

目黒新右衛門の切腹

2018年07月22日 16:32

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 13:33:33.51 ID:6O0Iyn2X
備後神辺城は尼子方である山名氏の重臣、杉原氏がこれを守っていたが、大内方の圧迫に耐えきれず、
天文19年10月13日、ついに城を明け渡し、出雲へと撤退をした。

ところが、丁度その頃、尼子晴久は家臣の目黒新右衛門に、兵500を付けて命じた
「神辺へ向かい、杉原を救援するのだ。」
目黒はこの命に感激し、畏まりて

「御家人多き中に私に仰せ付けられたこと、この御厚恩何を以て報いるべきでしょうか。今回
城を助けることが出来なければ、私は二度と当国の土を踏みません!」

そう誓言して出発したが、その途中で、撤退中の杉原の一行に出会った。
目黒は驚き「これは如何に?」と問いただすと、杉原は開城したことを説明した。
目黒も尼子晴久より救援の命を受けた旨を説明したが、「今は軍勢を率いて馳向かっても無益である」と、
軍兵達は杉原に付けて出雲に下らせ、自身は一人で神辺へと向かった。

そして城へ付くと、神辺城を接収した大内方の平賀氏へ検使を出すことを要請した。
「主君との一言の約によって、臣が百年の齢を誤る。」
そう言って腹を十文字に掻っ切って頸を伸ばして待ち、平賀よりの検使である坂新左衛門が首を打ち落とた。

その後、頸は出雲へと送られた。

この目黒新右衛門には二人の息子があったが、尼子晴久は「目黒家は小身であるから」と、目加田の家を
継がせた。この目加田采女、弾右衛門尉兄弟は、父にも劣らぬ勇者として聞こえたという。

(安西軍策)

ええ…、これで腹を切るのか…。



937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/22(日) 13:40:21.31 ID:m/v//j6z
武士のメンツを意地でもたてるいい話やないすか

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 18:21:32.24 ID:LdInRxkq
>>936
気がくるっとる(^p^)

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 21:53:41.33 ID:EZ86dxyM
狂ってるも何もこれが武士やろ

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 11:07:49.30 ID:TwFnC8JM
武士がこうするのにも理由と言うものがあってな

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 14:08:39.46 ID:Y77Y/Kca
本人のせいでないのに負け戦巻き込まれを回避しつつ面目躍如で子孫も安泰
変に突っ込んで討ち死にせずに敵の保証までつくという計算高さも素晴らしい

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 14:17:37.42 ID:Oug0IF5q
面子>>>>>>>>命だから、命を捨てても面子が立つのなら、それでOKだからなぁ。

雨月物語 菊花の約

2018年05月21日 17:21

931 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:15:50.96 ID:IVDC596W
播磨国、加古の宿に丈部左門と言う儒学者が年老いた母と暮らしていた。
左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
万事簡素に暮らしていた。
左門の母も賢母ではたを織る事を仕事として左門の志を助けていた。左門には妹が1人いたが、同じ里の裕福な家へ嫁いでおり、
妹婿一族は左門親子の性格を慕って何かにつけ生活の援助をしようとしたか、左門はそれを断り、母に孝行し、質素な暮らしを続けていた。
ある日、左門は知人の家で病に苦しむ旅の武士に出会った。
知人が言うにはこの武士に宿を求められ、貸した所その晩から病に倒れ、3-4日が経ち困っていると言う。
左門は看病を申し出たが、知人は流行病だから左門に罹ってもいかぬと止めたが、左門はそれを押し切り懸命に武士を看病した。
その甲斐あって武士は快復し、左門に礼を述べ素性を語った。
武士は赤穴宗右衛門と言い、出雲の富田城で城主の塩谷掃部介に招かれた軍学者であったが、密使として出雲の国主を務める近江の佐々木氏綱の元へ遣わされていた時、
出雲では塩谷掃部介が尼子経久に城を乗っ取られて討ち取られ、宗右衛門は佐々木氏綱に塩谷の仇を討つ事を申し出たが氏綱は動こうとしないどころか、
宗右衛門を近江へ押し留め、何とか抜け出して出雲へ帰ろうとした所、この加古の宿で病に倒れたとの事だった。
2人は意気投合し、親交を深め遂には歳上の宗右衛門を兄、左門を弟として義兄弟の契りを結ぶに至った。
宗右衛門は左門の家に逗留し左門の母にもよく尽くした。左門の母も息子に良き義兄ができたことを喜んだ。
3人の生活が始まってから春から初夏に差し掛かった頃、宗右衛門は一度元の目的地であった出雲へ帰る事を左門に告げた。そして出雲の様子を見届けたらまた必ず帰って来ると。
左門の何時戻るかと言う問いに、宗右衛門は九月九日、重陽の節句を約束の日と固く決め、2人は再会の約を定め宗右衛門は出雲へ旅立った。

932 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:22:08.19 ID:IVDC596W
月日が経ち約束の重陽の節句の日が訪れると、
左門は家を掃き清めて菊の花を飾り、酒肴を用意して宗右衛門の到着を待った。
しかし、夕刻になっても宗右衛門は姿を見せない。左門の母も遠方のことだからと慰めたが、
左門は夜になっても外で宗右衛門の到着を待った。
そして深夜、左門が諦めかけた時、生温かな風と共に一人の人影が左門の前に現れた。それはまさしく宗右衛門であった。
左門は嬉々として義兄を招き入れ、酒肴の席につかせたがその義兄は義弟の顔を見てもどこか暗く、
消沈した様子で左門が出した酒肴に対しても顔を背け左門が母を起こしてこようと言うと、首を横に振り漸くその口を開いた。

出雲に帰った宗右衛門だが、もはや出雲の国人どもは皆尼子経久に靡いてしまい誰も塩谷の恩を顧みる物は居らず、
従兄弟の赤穴丹治が富田の城にいるので訊ねたが、丹治は宗右衛門を経久に仕えさせようとした。
仮にその言葉を受け入れて、よくよく経久の所業を見申したが、万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。
暇を請い左門と菊花の契りがあることを話し去ろうとすると、経久は丹治に命じ宗右衛門を城に幽閉したのだという。

そして幽閉されたまま、ついに今日という日が来たが左門との約を違える事を苦に思った宗右衛門は、自らの命を絶ち、
魂魄と成って百里の道を越えて左門との約束を守る為来たのだと語った。
そして、宗右衛門は左門と眠っている左門の母に永遠の別れを告げるとふっと姿を消した。

左門は慟哭し、その声に目を覚ました母に今あったことを告げると、
当初は信じなかった母も息子の様子に只ならぬものを感じ、共に泣いた。

左門は宗右衛門の弔いをする為、妹婿一家へ母を預けると出雲へ旅に出、
義兄の死の一因となった赤穴丹治に面会すると、丹治の行いを非難し一刀のもとに丹治を斬り殺すと姿をくらました。
大騒ぎとなったが尼子経久はこのことを伝え聞くと、兄弟の信義の篤さを哀れに思い、
あえて左門の跡を追わせなかったと言う。

雨月物語 菊花の約

元々は中国の逸話だけど、尼子経久がディスられてる逸話だったので



933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 23:24:58.41 ID:6DQdr9AC
>>左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
>>万事簡素に暮らしていた。

情熱大陸とかプロフェッショナル仕事の流儀に出てそう

934 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:30:47.27 ID:TZDOqU9w
しかし戦国の時代にあって儒学者ってどうやって食い繋いでたんだろう?

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 23:35:10.66 ID:clAtfEj5
最後の追わせなかったあたり、尼子経久が情を分かる人間扱いだったのではなかろうか。

936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:52:25.79 ID:IVDC596W
>>935
長いので略したけど、一応経久さんがこの兄弟の行いを美しいと感じ入り、
また自分の行いを反省して追っ手を出さなかったという事になってます。

後、冒頭と最後に軽薄な人と友情を交わすものではないという趣旨の文が入ってます。
これでもかなり端折りましたので菊花の約(契)でググると全文の現代訳を載せたサイトがいくつか出てくるので、
そちらを読むこともお勧めします。現代的に言うとBL的な話にもなるそうなんですが・・・

937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/21(月) 00:31:06.56 ID:qWRQBKFt
ひょっとして>>932の
>万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
>智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。


これを知っていたからこそ尼子経久は天性無欲の人と言われるくらい何かある度に家臣に自分の物を分け与えて、心を繋ぎ留めようとしたのかも…
後世の創作話だから必ずしもその当時の実情と一致はしないかも知れないが

【web記事】古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨

2018年05月16日 21:35

755 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 17:18:18.01 ID:u9u3Mv61
山中鹿之介の最期と埋葬地について記事があったのだが、どうやら未出の様なので貼っておく
記事はかなり長いので各自読んで見られたし

古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4952




760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 22:12:53.29 ID:7w2utxgu
>>755
荼毘に付したとされているのに、原型をとどめた遺骨がでてきてるのおかしくね。
実は、弥生時代の人骨なんじゃ?

761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 22:35:56.88 ID:riG18fly
>>760
現代だと密閉した火葬炉が有って重油などの燃料を使った火葬が一般的だけど、戦国当時は野焼きの方が一般的だったみたいだから遺体の焼き上がり方や炭化の度合にも差が出たとか?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 12:51:36.94 ID:Hj+5d5xo
あの時代に火葬なんてしたの?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:16:12.68 ID:ck0GM2gO
>>762
平安時代以降、貴族ですら普通に火葬してる。
貴族の場合、火葬した場所に火葬塚作る。

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 13:17:34.43 ID:vJ5I+qQ+
>>762
鎌倉室町で火葬が一般に普及して明治の廃仏毀釈の際、一時的に土葬になったらしい

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:22:47.97 ID:C9wJF8gd
後の時代からすれば土葬が色々細かいことが分かって助かるんだけどねえ
疫病と土地の関係で生きてる人間の都合からすれば火葬一択なんだけど

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:52:18.28 ID:Hj+5d5xo
>>763-764
ありがと~、時代劇なんかだと桶に遺体入れてたから土葬のイメージだったわ。

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 14:20:48.56 ID:h59oOBe5
>>765
そう言えば秀忠は土葬だったから戦傷とかで、実は前線での戦闘経験もある武人肌の大将だと分かったんだっけ

尼子の強弓坂田原蕃、一矢七殺

2017年11月29日 23:02

349 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 21:11:23.00 ID:Pev+23F+
尼子の強弓坂田原蕃、一矢七殺

 旗返城主江田隆連は、これまで毛利氏と同盟関係にありましたが、庄原の山之内氏に誘われ、4月初旬山陰の尼子氏に味方しました。
この事を知った毛利元就は山口の大内氏に援軍を求め、たちまちのうちに江田領に進攻して来ました。
7月には隆連の家臣で神杉の武田氏が守る高杉城を全滅させ、その勢いで1万数千の兵をもって、1千百人が守る旗返城に攻め込んできました。
 旗返城は堅固な山城であったため、毛利軍は、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を築き、食糧や水を断つ作戦をとったと思われます。
 隆連の唯一の頼りは尼子氏の援軍でしたが、毛利軍に阻まれて容易には来られませんでした。
 城中にはすでに尼子晴久の家臣で強弓で知られた坂田原蕃(げんばん)を差し向けていましたが、ある日、旗返城の東方を見ると、数十の敵兵が攻め寄せて来るのを確認して、
坂田原蕃は弓を満月の如く引き絞り、よき敵ござんなれと、ひょーと打ち放てば前方よりの7人が田楽刺しに一矢で射ぬかれました。けれどもこれは手柄でもなんでもなかったのです。

 射抜かれた武士は、隆連救援のために駆けつけた尼子の援軍だったのです。(言い伝えによると、高杉城の援軍だったともいわれている)
後、邑人は(むらびと)は、このあわれな武士たちを厚く葬りました。これを七森(盛)塚と呼ぶようになりました。
(圃場整備により現在位置に移されたが、元は高さ1m・直径5mくらいの塚の上に祠が建っていた。)

 旗返城は、水と食料を断たれ、遂に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

    川西郷土史研究会”
(当地の看板より)



・唯落の城の事 本名高城

2017年08月01日 16:36

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 06:43:13.50 ID:0Qt/DYkk
・唯落の城の事 本名高城

立縫の郷・動土村にあり。国府伯耆守親俊の居城である。

大永4年、尼子経久が出雲より伯耆に攻め入り、国中の
城々を攻め立てた時、

当城へは未だに手付かずであったのに、伯耆守は大いに
驚き恐れ、「ああ、敵の多勢が攻めて来る!」と思い、

小勢では籠城も叶わないとして、俄かに城を空け退散した
ということである。

敵が攻めてもいない以前に自ずから落城した故、郷民は
これを嘲って“唯落の城”と呼んだのであるが、

今に至ってもその称あり。本名は高城という。

――『伯耆民談記』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 07:13:23.41 ID:7R2uTJ20
そんな城いっぱいあんのに

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:31:02.73 ID:iziwR2LU
バカな百姓には戦略的撤退とか理解できんし

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:36:59.67 ID:LyWGmxu9
伯耆が放棄

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 12:38:08.25 ID:FqwVfGb3
国府氏って小野流海老名氏なのかな?
伊勢にも国府氏がいるみたいだけど同族か?

尼子の家の先祖の祟り、外からの恨み

2016年12月18日 09:54

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 06:19:17.29 ID:ljNawsFS
 尼子義久は伯耆国をも手に入れて大身であったが、その気がすわらない人なので物事にとらわれやすかった。
毛利元就が口寄せの市子と申す者に金銀をとらせて、
「尼子の家は先祖の祟り、外からの恨みもあるので久しくは無いだろう。」等と色々誠らしい事を作って凶を告げさせた。
すると、尼子は気にかけて甚だくじけてしまい、その弱みを突かれて遂に亡んでしまった。

 物事の道理をよく考え、迷ってはならない。
巫女山伏に神が乗りうつられるという事は合点のいかぬ事である。
合点のいかぬ事に悩まされるのもなお合点がいかない。
とにかく手前に無理がなければ外よりよこしまな事があろうことはない。
道理を尽くしても悪事となって邪な事が来ても、天命であるとして是非はないと思え。
 自分の弱みを突かれ気が虚けていたら、たぶらかされる事は必定である。

(武士としては)

尼子氏の先祖の祟り、外からの祟り…
思い当たりがありすぎる…



尼子経久と人柱 米原太鼓

2016年12月18日 09:51

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 23:40:02.02 ID:FQR9CdkD
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど



442 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:30:24.35 ID:Ze9a2Qhj
>>440
隣の安来市にある月山富田城にも人柱の話があって、松江城、米子城と共に城の修築が上手く行かずに盆踊りから人柱となる人を拐って埋める所までは共通なんよ。
また米子城にもこの城は我の物~とのたまう妖女が現れ退治された話があって、そちらの正体は人柱ではなく別のモノだったりします。

>>423のギリギリ井戸と松江城の人柱にも異聞があり、井戸の場所から見つかった頭蓋骨を弔うのに堀尾吉晴の知り合いの修験者が呼ばれて供養した。
が、修験者はまだこの供養だけでは地鎮は終わらず城造りの災いは済まぬ。私の子を仕官ないし、面倒を見てくれるなら私が人柱となりましょう。と、修験者が進んで人柱となった話も有ります。

尼子経久と人柱 米原太鼓

尼子経久が山陰の覇者となった頃、月山富田城の修築を始めたものの事故や災難が続き工事が難航した。困った尼子経久が巫女に相談すると

「月の紋が染め抜かれた着物を着た娘を人柱にしたら工事は成功する。」

と神託が降り、盆踊りの場から月の紋が入った着物を着た娘を連れ去り修築場所で人柱にした所、以後の工事が無事終わった。
この人柱の儀式の時、娘の霊を慰める為に太鼓を叩きながら儀式が行われたのだが、娘を人柱にした日が近づくと山頂から城へ太鼓の音が聞こえて来るようになり、人々はこれを米原太鼓と呼んだ。
米原太鼓には米子市にも伝説があり、水に苦労した市内の弓ヶ浜へ水路を引く際、米原まで来た所で工事が難航。
当地の盆太鼓が上手な青年が人柱になり、青年は太鼓を打ち鳴らしながら人柱となった。
また、盆踊りが上手な娘が居たがある年、仕事の後に盆踊りを教えてくたくたになって帰った所、翌朝起きる事が出来なかった。
意地悪な継母が焼き火箸で娘を撃ち殺してしまい、これらの事件の後盆が近づくと地面から悲しげな太鼓の音が聞こえる様になり、米子の人々はこれを米原太鼓と呼んだと言う。
(書籍:本当は怖い日本の城と米子の伝承より)
これにて人ばしRushは一旦おしまい



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:42:42.76 ID:Ze9a2Qhj
>>442
×盆太鼓が上手な娘
○盆踊りが上手な娘
(修正済)
444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 07:53:42.56 ID:0J/EbjXH
人ばしrush

445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:59:45.06 ID:Ze9a2Qhj
>>444
ここ毎日人柱の逸話上げてたもんだからつい…

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 08:28:12.44 ID:sfFYV6q2
盆太鼓が上手なむす… 娘…
http://i.imgur.com/6SrpY29.jpg
6SrpY29.jpg


塩冶興久の化け物退治

2016年12月10日 17:17

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:31:50.90 ID:GsXykw4v
塩冶興久の化け物退治

尼子経久の三男で塩冶氏に養子入りした塩冶宮内太輔興久は不孝・不義の人ではあったが、心栄えは大変勇敢で、
戦えば勝ち、攻めれば落ちないことはなかった。その勇猛さを示すエピソードにこの様な話がある。
月山富田城の甲の丸には桜の間、柳の間という部屋があり、そこは狩野小法眼による柳桜の絵で埋め尽くされていた。
鬼神もその絵に深く魅せられたようで、その部屋はいつしか魔物の出る部屋となった。
何百人もの人が、そこで化け物にたぶらかされ、あるいは気違いになりまたは行方知れずとなってしまい、次第にそこに近づく者はいなくなった。
興久はこの話を聞くと、
「なに、そんなことがあるものか。見る人間が怯えるからこそ、見えるはずのないものが見えたり視界を遮るような気がするのだろう。
一翳眼に在れば空華乱墜す(そうかもしれないと思ってしまえば、眼の中の翳りのように妄想が次から次へとわいてくる)と言うではないか。
吹毛剣について珊瑚枝上の月光を愛でるような心持ちであれば、化け物などどうして現れることがあろうか。
吹毛剣は怜悧な霊光を放って外道天魔といえども手出しができないのではなかったか。私がその変化の者をこらしめてやろう。きっと古狐か古狸が化けているのだろうよ」
と、たった一人でその部屋に向かった。

上座に胡坐をかいてあかあかと明かりを灯して待ち受けたが、宵のうちはとりたてておかしなことも起こらず、
ようやく午前三時くらい(丑三つ時)になって、風がそよそよと吹いた。風は気持ちの悪い冷たさで、しきりに胸騒ぎがするので興久が「これは不思議なことだ」と思っていると、
庭に散り積もった木の葉をハラハラと踏みしだく足音がした。垂木の上にドスンと上がった音がしたと思うと、すぐに妻戸がキリキリと押し開かれる。
「さあ、例の古狸めが、人をたぶらかしに来おったな。ほかの者はどうあれ、この興久は化かされないぞ」
と、外のほうをじっと睨みつけていると、歳は八十を越すかと思われる老婆が二人の童子を伴い姿を現した。
老婆は曲がりくねった茨が雪に埋まっているかのような頭髪を上のほうで結ってカッと乱し、
目は一つだけ鏡を額にかけたようにあって、太陽や月よりもなお明るく光っていた。
鼻は長く垂れ、歯は黄色く上下に長く生え違い、ことさらに両脇の牙は鋭く、剣樹のようであった。
唇は血の池のような赤であり、口は左右の耳まで裂けて、息をするたびにすさまじい煙が風にほとばしる。
両腕に猪のような毛がびっしりと生え、爪は鷹のように長く曲がっている。
破れた衣を着て、大きな竹の杖をつき、十一、二歳くらいの童子二人に手を引かれて、
興久に近寄ってくるのだ。

「ああ苦しい。老いて衰えることほどつらいものはない。これでも十六歳になるまでは、華のかんばせと評判で、
楊貴妃の眉よりも西大后の紅顔よりも美しかったというのに。朝には鏡に向かい眉を書いて容貌を磨き、暮には鳳のかんざしを取って
蝉翼(蝉の羽のように美しく曲げ整えた髪)に仕上げて優美な容色に整えたものじゃ。
いつのころからか老いが日々重なってゆき、容貌が衰え体がだるくなっていくばかりでなく、
孤独で貧しい身の上じゃ。肌を隠す衣もなく、朝晩食べるものにも事欠く有様で、
砂を噛んで水をあおるほかに、飢えを紛らわす方法もありはしない。ああ苦しい。めまいがする。胸も苦しいぞえ」と、
しわがれ声を震わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と老婆が呟く声が聞こえた。

さしものつわもの興久も、身の毛もよだつほど恐ろしく感じたが、少しも騒がずにいた。
この老婆は興久をキッと見て、「おやおや、こんなところに殿御がいらっしゃる」と、かしずいた。
「さてさて、お若い御大将、ようこそここにいらっしゃいました。ここにはこの老婆が折りにつけて参っておりますので、人は皆、
『老いさらばえた老女の顔の醜いことよ、聞き苦しい言葉つきよ』などと言って、私を怒らせたものです。
それだけでなく、このごろは一人としてこの座敷に近づきません。この老婆も、年老いて心細くなってまいりましたので、いっそう人恋しく、
昔話の一つも誰かに語って聞かせたいと思っておりました。よくここにいらっしゃいましたなぁ。昔の迦葉仏のときのことまでよく知っている老婆でございますよ。朝まで昔語りをして差し上げましょう」と
老女が言っても、興久は返事もせず、大きく開いた目でじっと老女を睨みつけていた。

394 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:47:35.87 ID:GsXykw4v
老女は「この殿御もこの老婆の面相が醜いと思っているのじゃろう。声をかけても返事すら返さぬとは。おまえたち、行ってあの方の御足を揉んで差し上げなさい」と、傍らにいた童子に命じた。
一人の童子が「かしこまりました」と老女のそばを離れ、興久の足元に座った。
興久はこの童子を斬ろうと思ったが、「待てよ、どんな化生の者といっても、
私の力なら、殴るだけでも眩暈がすることだろう」と思いとどまり、
拳を堅く握って童子の頭をしたたかに打った。
すると童子は老女の元に走り帰って、「ばばさま、あの方が殴ってきました」と泣きつく。
老女はもう一方の童子に「ならばおまえが行ってまいれ」と命じ、この童子も興久に近寄ってくる。
興久は少しも怯えていないところを見せてやろうと思ったのか、「童よ、ここに来い」と声をかけた。
ソロソロと寄ってくる童子を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、大きな石のように重い。
たまらず童子の頭を続けざまに二度打って、乱暴につかむと「えいやっ」と放り投げた。

老女はこれを見て「こんなにいたいけな子供たちに、なんと思いやりのないことをするのですか。お恨みいたしますぞえ」と怒ってつかみかかってくる。
「これはかの有名な三途の川の脱衣婆か、安達が原の黒塚に棲むという鬼が現れたのに違いない。そうでなければ山姥というものだろう」と、興久は魂が抜けそうなほど仰天した。
真っ黒な手を伸ばして頭をつかもうと飛び掛ってくるところを、それでも少しも声を上げずに、腰に挿していた初桜という刀を抜いて、
眉間と思しきところを、二度続けて斬りつける。
「アッー!」という声がしたと思うと、辺りが雷のように光って、老女と童子たちは虚空へと姿を消した。

「どんな妖狐や古狸の類であろうと、あれだけ思う存分斬りつけてやれば、
そう遠くには逃げられまい。早く夜が明けぬものか」と興久が待っていると、
東の空が白々と明るくなってきた。
早速若党たちを招集して、「昨夜、妖怪変化を斬ったぞ。跡をつけてみろ」と命じるが、
目印など何もないので、若党たちもどこを探していいかわからない。
興久が言うには、縁の下に入ったように思うとのことだったので、
縁の下にもぐってみると、大きな穴が見つかった。
そこでその穴を広げ、三間(5.4メートル)ほど掘り進むと、
底から高さ九尺(2.7m)くらいの五輪塔と、二つの三尺(90cm)程度の五輪塔が掘り出された。
その三尺の五輪の頭には血がついている。
これは、興久が拳で殴った際に、指の皮が破れて出た血が付いたものだろう。
また、九尺の五輪には頭に刀傷が二つあった。

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:47:50.04 ID:GsXykw4v
塩冶は言う。

「その昔、唐の国に王伯通という人があった。屋敷を一軒建てたが、そこに泊まった人は必ず死んだという。
伯通はしかたなく門戸を閉ざして誰も泊まらせないようにしていた。
嵆康という人がやってきて、どうしてもそこに泊まらせてくれというので屋敷の中に入れたところ、
嵆康は夜になってもずっと琴を掻き鳴らしていて、
真夜中(午後十一時ごろ)になると嵆康の前に八人の鬼が現れたそうな。
嵆康は最初こそ怯えて乾元亨利貞(法呪のようなもの)を唱えていたが、数度唱えた後で鬼に問いかけた。
『王伯通がこの屋敷を建て、人が泊まることがあると必ずその人は死んでしまうという。おまえたちが殺したのか』

すると鬼は、『まさか、私が人を殺すなんて、とんでもない。
我らは舜(中国神話に登場する賢帝)の時代に、楽をつかさどる官吏だった。
兄弟が八人いて、伶倫という者だ。
舜は、邪な佞臣の注進を受けて、我ら兄弟を無実の罪で殺してここに埋めたのだ。
王伯通が我らの塚の上に屋敷を建てたので、重くてかなわない。
だから、人が来て泊まってゆくのを見ると、その人にこのことを伝えようとしたのだが、
人は皆我らを見て肝を潰して死んでしまう。殺そうと思って殺したわけではないのだ。

先生にお願いしたいのは、伯通にこのことを伝えて我らの骸骨を掘り起こし、
よそに葬りなおしてほしい。そうすれば、半年後に伯通は本国の太守となるだろう。
先生には、広陵の一曲を教えて進ぜよう。訴えを聞いてくれたお礼だ』と言った。
嵆康は大変喜んで、持っていた琴を鬼に与えた。鬼が一度弾いただけで嵆康はすっかり覚えてしまったという。

さて、夜が深まり、心配になった伯通が屋敷に様子を見に行くと、
嵆康が掻き鳴らしている美しい琴の音を聞いて、どうしたことかと嵆康に尋ねた。
嵆康から先ほど起こったことを詳細に聞き出すと、伯通は翌日すぐに人夫を手配して地中を掘らせる。
果たして、ついに骸骨を見つけた。
別に棺を作らせて、清浄な場所に葬ったそうだ。
後晋の文帝が即位すると、伯通は鬼の予言の通りに太守となり、嵆康は中散大夫に昇進したとな。

私が思うに、この骸骨も伶倫と同じようにこの家に押し潰されて、苦しくなって姿を現したのだろう。
よそに移して手厚く葬れば、私も末は一国の守護ともなろうよ」
興久はそう決めて、通安寺の墓所に埋葬した。
その五輪塔の下に埋められていた者は、生前の宿業が深く四生六道に迷うだろうと、
如形の供養までしてやったという。

(陰徳記より)

長文スマソ

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 18:36:01.08 ID:GsXykw4v
追記
本堂平四郎、東雅夫著・怪談と名刀/1の富田城怪異の間、初桜 光忠の話として、同じ話が載っています。
そちらによると柳桜の絵の作者は狩野小(古?)法眼ではなく、雪舟ともただの貧僧とも
また、興久が退治する以前の妖怪の為した祟りが生々しく描かれています。



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/09(金) 19:00:50.99 ID:4pniS/q8
>>393-396
そのまま日本昔話で放送してもおかしくないクォリティ

399 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 23:07:39.78 ID:rmBYu3Ob
>>393-395
結局このババアと童の正体は何だ?
城の人柱にしちゃあ、迦葉仏のときまでよく知っているって言うし、神代の人間か国津神の類かよ

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 11:27:41.74 ID:EzzOhga2
西太后て清末以外にもいたのか

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 12:20:56.46 ID:gEo18Caq
>>403
西王母の事ちゃうか

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 12:53:25.64 ID:EzzOhga2
時代的におかしいから東と西でいろいろいるのかとおもいきや
西王母のこととは思わなかった

尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ ~美甘塚由来~

2016年10月03日 14:56

150 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 01:38:24.33 ID:Om5w01zA
尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ ~美甘塚由来~

1571年、吉川元春の軍勢6000に囲まれた山中鹿介と神西元通の籠る末石城。
僅か500程度の城方に対し三層の櫓を組むと石礫や鉄砲、矢を撃ち込み攻撃する吉川勢。
守る城方も土塁を築き必死に抵抗し、3日に渡り激戦が続いた。
その中、吉川勢は和議の使者として地元の所子と言う所に住む美甘与一右衛門(みかもよいちえもん)と言う血気盛んな勇士を送り込む。
毛利氏の依頼を受けた美甘与一右衛門は目付の中原善左衛門と共に城へ入るが、和議に刀は不要と入り口で刀を取り上げられた。
交渉は順調に進み、和議成立となり歓待の宴が開かれる。宴も終わり、2人が退出しようとしたところ城方の兵士は不意に美甘と中原に斬りかかる。
未だ刀を返されていなかった美甘は身近にあった石を手に立ち向かうが、敢え無く中原と共に討たれて死んでしまう。
数日の後宍戸隆家、口羽通良を通じて城方は降参を申し出た為吉川元春は城を受け取った後、亡くなった美甘与一右衛門の義を讃えると共にその死を悼み、碑を建て厚く葬った。
現在も末石城跡には美甘塚が残り、美甘家の人が与一右衛門が城方に立ち向かった時の石を力石として碑の近くに保存供養を続けているとの事である。

当地に残る美甘塚の案内板などより



151 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 06:46:55.58 ID:FrR4NjML
>>150
中原「ワシは何回死ねばええんじゃ…」

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 19:18:04.90 ID:+ZXcHLbM
>>150
未だに供養が続いてるって凄いな。

神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

2016年10月02日 15:27

140 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:27:18.87 ID:6qfdtbzd
神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

伯耆の国、末石城の城将神西元通は元は尼子十旗の一つで第七、出雲神西城の守将であったが
毛利家の出雲侵攻の際に降服し、月山富田城の落城後は毛利家の命で毛利の目付中原善左衛門と小寺佐渡守とともに、
伯耆の末石城に籠っていた。

1569年、毛利家が北九州立花で大友家との争いを繰り広げていたころ、その隙をついて
尼子勝久を擁した山中鹿介・立原久綱らの尼子再興軍が海路より出雲へ侵攻を開始。
島根半島に上陸して忠山の砦を占拠した尼子再興軍はそこから尼子旧臣らに檄を飛ばしたところ、
同心するもの数多く、尼子再興軍は急激にその勢力を拡大していった。

そんな中、神西元通は末石城に籠り沈黙を保ったままであったがある日、山中・立原の両将から使いが訪れる。
そして扇を出すと「これに一筆頂きたい」と言う。何故か?と問う元通に使者は
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、昔のよしみは忘れられず、懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」

と、鹿介より言付かった通りに返答すると、元通は「山中・立原との昔のよしみは深く、私にとっても忘れ難いならば一筆書きましょう」
と答えると扇に「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて使者を返した。これを見た鹿介と立原はこの歌が古今和歌集の、
『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに)』
から来ていることを見て、元通に脈ありと見て再度使者を送ると、案の定元通は尼子再興軍に味方することを約束して使者を返した。

141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:28:20.59 ID:6qfdtbzd
神西元通はこの事を表に出さず固く秘して隠していたが、いち早くこれに気付いた者が居た。
毛利から目付として付けられ一緒に末石城へ籠っていた中原善左衛門である。
彼は吉田郡山の戦いで一矢にて尼子経久の弟である尼子久幸を討ち取るなど、歴戦の勇士であったが
また智にも優れた者であった。

中原は神西元通の変心に気付いたがそ知らぬふりをし、密かにかつ迅速に対処しようと同じ目付の小寺佐渡守を呼ぶと
「神西について何か気付いたことはないか?」と尋ねた。小寺は「何も気付いたことはない」と答えた。
中原はそれに「いや、神西はどうも逆心を抱いているように見える。しかし、何の証拠もなしに彼を討っても胡乱の極みと人から笑われるだろう。
そう思い見過ごしてきたが、このままでは神西はそろそろ事を起こし、私と貴方を討ち果たそうとするだろう。これまでは無闇に波風立てまいと貴方には
黙っていたが、もう神西の逆心は疑いなく思えたので貴方に教えたのだ。私はここで神西と刺し違えて討ち死にしても元就様の厚恩に報いようと思う。貴方はどうだ?」
と、尋ねると小寺はつくづく思案して「中原殿の覚悟、実にその通りだ。だがこの城で無駄に討たれても意味なく思う。だから命を全うし、再び元就様の役に立ちたいと思う。」
と答えた。

中原は冷笑し「あなたの言うことはもっともだ。今ここで討たれて勝久へ首を捧げられるのは実に悔しい。
しかし一隅を守る私は何の才覚・智謀なくこの城に籠った日から神西に野心あれば刺し違え、
毛利に忠を尽くし敵に囲まれるなら神西と共に自害せよと命じられたと考えている。だから気にすることはないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。

小寺はやがて神西に「両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は喜んで、すぐに城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、また老後になってから本国に帰ってきたという。
(異説では軍議の為、城を出て安芸へ向かったとも言われる)

この後中原は神西と刺し違えようと思い決めていたが、証拠もなしに神西を討てば人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と、下人一人を故郷へ帰したのだった。

こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。

神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。
(陰徳記)

142 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:49:09.71 ID:6qfdtbzd
ちなみにこの中原善左衛門であるが、末石城跡とされる場所にある碑には
この逸話の2年後の1571年に吉川元春が末石城を囲んだ際、和議の使者となった
在郷の勇士と共にその目付として城に入り、和議成立を偽装した城方に寄って騙し討ちされ
退去の際に丸腰の所を使者と共に斬られたとされている。



143 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 03:18:36.35 ID:7qJmlchd
林 阿弥「解せぬ」