・唯落の城の事 本名高城

2017年08月01日 16:36

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 06:43:13.50 ID:0Qt/DYkk
・唯落の城の事 本名高城

立縫の郷・動土村にあり。国府伯耆守親俊の居城である。

大永4年、尼子経久が出雲より伯耆に攻め入り、国中の
城々を攻め立てた時、

当城へは未だに手付かずであったのに、伯耆守は大いに
驚き恐れ、「ああ、敵の多勢が攻めて来る!」と思い、

小勢では籠城も叶わないとして、俄かに城を空け退散した
ということである。

敵が攻めてもいない以前に自ずから落城した故、郷民は
これを嘲って“唯落の城”と呼んだのであるが、

今に至ってもその称あり。本名は高城という。

――『伯耆民談記』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 07:13:23.41 ID:7R2uTJ20
そんな城いっぱいあんのに

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:31:02.73 ID:iziwR2LU
バカな百姓には戦略的撤退とか理解できんし

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:36:59.67 ID:LyWGmxu9
伯耆が放棄

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 12:38:08.25 ID:FqwVfGb3
国府氏って小野流海老名氏なのかな?
伊勢にも国府氏がいるみたいだけど同族か?
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尼子の家の先祖の祟り、外からの恨み

2016年12月18日 09:54

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 06:19:17.29 ID:ljNawsFS
 尼子義久は伯耆国をも手に入れて大身であったが、その気がすわらない人なので物事にとらわれやすかった。
毛利元就が口寄せの市子と申す者に金銀をとらせて、
「尼子の家は先祖の祟り、外からの恨みもあるので久しくは無いだろう。」等と色々誠らしい事を作って凶を告げさせた。
すると、尼子は気にかけて甚だくじけてしまい、その弱みを突かれて遂に亡んでしまった。

 物事の道理をよく考え、迷ってはならない。
巫女山伏に神が乗りうつられるという事は合点のいかぬ事である。
合点のいかぬ事に悩まされるのもなお合点がいかない。
とにかく手前に無理がなければ外よりよこしまな事があろうことはない。
道理を尽くしても悪事となって邪な事が来ても、天命であるとして是非はないと思え。
 自分の弱みを突かれ気が虚けていたら、たぶらかされる事は必定である。

(武士としては)

尼子氏の先祖の祟り、外からの祟り…
思い当たりがありすぎる…



尼子経久と人柱 米原太鼓

2016年12月18日 09:51

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 23:40:02.02 ID:FQR9CdkD
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど



442 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:30:24.35 ID:Ze9a2Qhj
>>440
隣の安来市にある月山富田城にも人柱の話があって、松江城、米子城と共に城の修築が上手く行かずに盆踊りから人柱となる人を拐って埋める所までは共通なんよ。
また米子城にもこの城は我の物~とのたまう妖女が現れ退治された話があって、そちらの正体は人柱ではなく別のモノだったりします。

>>423のギリギリ井戸と松江城の人柱にも異聞があり、井戸の場所から見つかった頭蓋骨を弔うのに堀尾吉晴の知り合いの修験者が呼ばれて供養した。
が、修験者はまだこの供養だけでは地鎮は終わらず城造りの災いは済まぬ。私の子を仕官ないし、面倒を見てくれるなら私が人柱となりましょう。と、修験者が進んで人柱となった話も有ります。

尼子経久と人柱 米原太鼓

尼子経久が山陰の覇者となった頃、月山富田城の修築を始めたものの事故や災難が続き工事が難航した。困った尼子経久が巫女に相談すると

「月の紋が染め抜かれた着物を着た娘を人柱にしたら工事は成功する。」

と神託が降り、盆踊りの場から月の紋が入った着物を着た娘を連れ去り修築場所で人柱にした所、以後の工事が無事終わった。
この人柱の儀式の時、娘の霊を慰める為に太鼓を叩きながら儀式が行われたのだが、娘を人柱にした日が近づくと山頂から城へ太鼓の音が聞こえて来るようになり、人々はこれを米原太鼓と呼んだ。
米原太鼓には米子市にも伝説があり、水に苦労した市内の弓ヶ浜へ水路を引く際、米原まで来た所で工事が難航。
当地の盆太鼓が上手な青年が人柱になり、青年は太鼓を打ち鳴らしながら人柱となった。
また、盆踊りが上手な娘が居たがある年、仕事の後に盆踊りを教えてくたくたになって帰った所、翌朝起きる事が出来なかった。
意地悪な継母が焼き火箸で娘を撃ち殺してしまい、これらの事件の後盆が近づくと地面から悲しげな太鼓の音が聞こえる様になり、米子の人々はこれを米原太鼓と呼んだと言う。
(書籍:本当は怖い日本の城と米子の伝承より)
これにて人ばしRushは一旦おしまい



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:42:42.76 ID:Ze9a2Qhj
>>442
×盆太鼓が上手な娘
○盆踊りが上手な娘
(修正済)
444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 07:53:42.56 ID:0J/EbjXH
人ばしrush

445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:59:45.06 ID:Ze9a2Qhj
>>444
ここ毎日人柱の逸話上げてたもんだからつい…

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 08:28:12.44 ID:sfFYV6q2
盆太鼓が上手なむす… 娘…
http://i.imgur.com/6SrpY29.jpg
6SrpY29.jpg


塩冶興久の化け物退治

2016年12月10日 17:17

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:31:50.90 ID:GsXykw4v
塩冶興久の化け物退治

尼子経久の三男で塩冶氏に養子入りした塩冶宮内太輔興久は不孝・不義の人ではあったが、心栄えは大変勇敢で、
戦えば勝ち、攻めれば落ちないことはなかった。その勇猛さを示すエピソードにこの様な話がある。
月山富田城の甲の丸には桜の間、柳の間という部屋があり、そこは狩野小法眼による柳桜の絵で埋め尽くされていた。
鬼神もその絵に深く魅せられたようで、その部屋はいつしか魔物の出る部屋となった。
何百人もの人が、そこで化け物にたぶらかされ、あるいは気違いになりまたは行方知れずとなってしまい、次第にそこに近づく者はいなくなった。
興久はこの話を聞くと、
「なに、そんなことがあるものか。見る人間が怯えるからこそ、見えるはずのないものが見えたり視界を遮るような気がするのだろう。
一翳眼に在れば空華乱墜す(そうかもしれないと思ってしまえば、眼の中の翳りのように妄想が次から次へとわいてくる)と言うではないか。
吹毛剣について珊瑚枝上の月光を愛でるような心持ちであれば、化け物などどうして現れることがあろうか。
吹毛剣は怜悧な霊光を放って外道天魔といえども手出しができないのではなかったか。私がその変化の者をこらしめてやろう。きっと古狐か古狸が化けているのだろうよ」
と、たった一人でその部屋に向かった。

上座に胡坐をかいてあかあかと明かりを灯して待ち受けたが、宵のうちはとりたてておかしなことも起こらず、
ようやく午前三時くらい(丑三つ時)になって、風がそよそよと吹いた。風は気持ちの悪い冷たさで、しきりに胸騒ぎがするので興久が「これは不思議なことだ」と思っていると、
庭に散り積もった木の葉をハラハラと踏みしだく足音がした。垂木の上にドスンと上がった音がしたと思うと、すぐに妻戸がキリキリと押し開かれる。
「さあ、例の古狸めが、人をたぶらかしに来おったな。ほかの者はどうあれ、この興久は化かされないぞ」
と、外のほうをじっと睨みつけていると、歳は八十を越すかと思われる老婆が二人の童子を伴い姿を現した。
老婆は曲がりくねった茨が雪に埋まっているかのような頭髪を上のほうで結ってカッと乱し、
目は一つだけ鏡を額にかけたようにあって、太陽や月よりもなお明るく光っていた。
鼻は長く垂れ、歯は黄色く上下に長く生え違い、ことさらに両脇の牙は鋭く、剣樹のようであった。
唇は血の池のような赤であり、口は左右の耳まで裂けて、息をするたびにすさまじい煙が風にほとばしる。
両腕に猪のような毛がびっしりと生え、爪は鷹のように長く曲がっている。
破れた衣を着て、大きな竹の杖をつき、十一、二歳くらいの童子二人に手を引かれて、
興久に近寄ってくるのだ。

「ああ苦しい。老いて衰えることほどつらいものはない。これでも十六歳になるまでは、華のかんばせと評判で、
楊貴妃の眉よりも西大后の紅顔よりも美しかったというのに。朝には鏡に向かい眉を書いて容貌を磨き、暮には鳳のかんざしを取って
蝉翼(蝉の羽のように美しく曲げ整えた髪)に仕上げて優美な容色に整えたものじゃ。
いつのころからか老いが日々重なってゆき、容貌が衰え体がだるくなっていくばかりでなく、
孤独で貧しい身の上じゃ。肌を隠す衣もなく、朝晩食べるものにも事欠く有様で、
砂を噛んで水をあおるほかに、飢えを紛らわす方法もありはしない。ああ苦しい。めまいがする。胸も苦しいぞえ」と、
しわがれ声を震わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と老婆が呟く声が聞こえた。

さしものつわもの興久も、身の毛もよだつほど恐ろしく感じたが、少しも騒がずにいた。
この老婆は興久をキッと見て、「おやおや、こんなところに殿御がいらっしゃる」と、かしずいた。
「さてさて、お若い御大将、ようこそここにいらっしゃいました。ここにはこの老婆が折りにつけて参っておりますので、人は皆、
『老いさらばえた老女の顔の醜いことよ、聞き苦しい言葉つきよ』などと言って、私を怒らせたものです。
それだけでなく、このごろは一人としてこの座敷に近づきません。この老婆も、年老いて心細くなってまいりましたので、いっそう人恋しく、
昔話の一つも誰かに語って聞かせたいと思っておりました。よくここにいらっしゃいましたなぁ。昔の迦葉仏のときのことまでよく知っている老婆でございますよ。朝まで昔語りをして差し上げましょう」と
老女が言っても、興久は返事もせず、大きく開いた目でじっと老女を睨みつけていた。

394 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:47:35.87 ID:GsXykw4v
老女は「この殿御もこの老婆の面相が醜いと思っているのじゃろう。声をかけても返事すら返さぬとは。おまえたち、行ってあの方の御足を揉んで差し上げなさい」と、傍らにいた童子に命じた。
一人の童子が「かしこまりました」と老女のそばを離れ、興久の足元に座った。
興久はこの童子を斬ろうと思ったが、「待てよ、どんな化生の者といっても、
私の力なら、殴るだけでも眩暈がすることだろう」と思いとどまり、
拳を堅く握って童子の頭をしたたかに打った。
すると童子は老女の元に走り帰って、「ばばさま、あの方が殴ってきました」と泣きつく。
老女はもう一方の童子に「ならばおまえが行ってまいれ」と命じ、この童子も興久に近寄ってくる。
興久は少しも怯えていないところを見せてやろうと思ったのか、「童よ、ここに来い」と声をかけた。
ソロソロと寄ってくる童子を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、大きな石のように重い。
たまらず童子の頭を続けざまに二度打って、乱暴につかむと「えいやっ」と放り投げた。

老女はこれを見て「こんなにいたいけな子供たちに、なんと思いやりのないことをするのですか。お恨みいたしますぞえ」と怒ってつかみかかってくる。
「これはかの有名な三途の川の脱衣婆か、安達が原の黒塚に棲むという鬼が現れたのに違いない。そうでなければ山姥というものだろう」と、興久は魂が抜けそうなほど仰天した。
真っ黒な手を伸ばして頭をつかもうと飛び掛ってくるところを、それでも少しも声を上げずに、腰に挿していた初桜という刀を抜いて、
眉間と思しきところを、二度続けて斬りつける。
「アッー!」という声がしたと思うと、辺りが雷のように光って、老女と童子たちは虚空へと姿を消した。

「どんな妖狐や古狸の類であろうと、あれだけ思う存分斬りつけてやれば、
そう遠くには逃げられまい。早く夜が明けぬものか」と興久が待っていると、
東の空が白々と明るくなってきた。
早速若党たちを招集して、「昨夜、妖怪変化を斬ったぞ。跡をつけてみろ」と命じるが、
目印など何もないので、若党たちもどこを探していいかわからない。
興久が言うには、縁の下に入ったように思うとのことだったので、
縁の下にもぐってみると、大きな穴が見つかった。
そこでその穴を広げ、三間(5.4メートル)ほど掘り進むと、
底から高さ九尺(2.7m)くらいの五輪塔と、二つの三尺(90cm)程度の五輪塔が掘り出された。
その三尺の五輪の頭には血がついている。
これは、興久が拳で殴った際に、指の皮が破れて出た血が付いたものだろう。
また、九尺の五輪には頭に刀傷が二つあった。

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:47:50.04 ID:GsXykw4v
塩冶は言う。

「その昔、唐の国に王伯通という人があった。屋敷を一軒建てたが、そこに泊まった人は必ず死んだという。
伯通はしかたなく門戸を閉ざして誰も泊まらせないようにしていた。
嵆康という人がやってきて、どうしてもそこに泊まらせてくれというので屋敷の中に入れたところ、
嵆康は夜になってもずっと琴を掻き鳴らしていて、
真夜中(午後十一時ごろ)になると嵆康の前に八人の鬼が現れたそうな。
嵆康は最初こそ怯えて乾元亨利貞(法呪のようなもの)を唱えていたが、数度唱えた後で鬼に問いかけた。
『王伯通がこの屋敷を建て、人が泊まることがあると必ずその人は死んでしまうという。おまえたちが殺したのか』

すると鬼は、『まさか、私が人を殺すなんて、とんでもない。
我らは舜(中国神話に登場する賢帝)の時代に、楽をつかさどる官吏だった。
兄弟が八人いて、伶倫という者だ。
舜は、邪な佞臣の注進を受けて、我ら兄弟を無実の罪で殺してここに埋めたのだ。
王伯通が我らの塚の上に屋敷を建てたので、重くてかなわない。
だから、人が来て泊まってゆくのを見ると、その人にこのことを伝えようとしたのだが、
人は皆我らを見て肝を潰して死んでしまう。殺そうと思って殺したわけではないのだ。

先生にお願いしたいのは、伯通にこのことを伝えて我らの骸骨を掘り起こし、
よそに葬りなおしてほしい。そうすれば、半年後に伯通は本国の太守となるだろう。
先生には、広陵の一曲を教えて進ぜよう。訴えを聞いてくれたお礼だ』と言った。
嵆康は大変喜んで、持っていた琴を鬼に与えた。鬼が一度弾いただけで嵆康はすっかり覚えてしまったという。

さて、夜が深まり、心配になった伯通が屋敷に様子を見に行くと、
嵆康が掻き鳴らしている美しい琴の音を聞いて、どうしたことかと嵆康に尋ねた。
嵆康から先ほど起こったことを詳細に聞き出すと、伯通は翌日すぐに人夫を手配して地中を掘らせる。
果たして、ついに骸骨を見つけた。
別に棺を作らせて、清浄な場所に葬ったそうだ。
後晋の文帝が即位すると、伯通は鬼の予言の通りに太守となり、嵆康は中散大夫に昇進したとな。

私が思うに、この骸骨も伶倫と同じようにこの家に押し潰されて、苦しくなって姿を現したのだろう。
よそに移して手厚く葬れば、私も末は一国の守護ともなろうよ」
興久はそう決めて、通安寺の墓所に埋葬した。
その五輪塔の下に埋められていた者は、生前の宿業が深く四生六道に迷うだろうと、
如形の供養までしてやったという。

(陰徳記より)

長文スマソ

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 18:36:01.08 ID:GsXykw4v
追記
本堂平四郎、東雅夫著・怪談と名刀/1の富田城怪異の間、初桜 光忠の話として、同じ話が載っています。
そちらによると柳桜の絵の作者は狩野小(古?)法眼ではなく、雪舟ともただの貧僧とも
また、興久が退治する以前の妖怪の為した祟りが生々しく描かれています。



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/09(金) 19:00:50.99 ID:4pniS/q8
>>393-396
そのまま日本昔話で放送してもおかしくないクォリティ

399 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 23:07:39.78 ID:rmBYu3Ob
>>393-395
結局このババアと童の正体は何だ?
城の人柱にしちゃあ、迦葉仏のときまでよく知っているって言うし、神代の人間か国津神の類かよ

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 11:27:41.74 ID:EzzOhga2
西太后て清末以外にもいたのか

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 12:20:56.46 ID:gEo18Caq
>>403
西王母の事ちゃうか

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 12:53:25.64 ID:EzzOhga2
時代的におかしいから東と西でいろいろいるのかとおもいきや
西王母のこととは思わなかった

尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ ~美甘塚由来~

2016年10月03日 14:56

150 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 01:38:24.33 ID:Om5w01zA
尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ ~美甘塚由来~

1571年、吉川元春の軍勢6000に囲まれた山中鹿介と神西元通の籠る末石城。
僅か500程度の城方に対し三層の櫓を組むと石礫や鉄砲、矢を撃ち込み攻撃する吉川勢。
守る城方も土塁を築き必死に抵抗し、3日に渡り激戦が続いた。
その中、吉川勢は和議の使者として地元の所子と言う所に住む美甘与一右衛門(みかもよいちえもん)と言う血気盛んな勇士を送り込む。
毛利氏の依頼を受けた美甘与一右衛門は目付の中原善左衛門と共に城へ入るが、和議に刀は不要と入り口で刀を取り上げられた。
交渉は順調に進み、和議成立となり歓待の宴が開かれる。宴も終わり、2人が退出しようとしたところ城方の兵士は不意に美甘と中原に斬りかかる。
未だ刀を返されていなかった美甘は身近にあった石を手に立ち向かうが、敢え無く中原と共に討たれて死んでしまう。
数日の後宍戸隆家、口羽通良を通じて城方は降参を申し出た為吉川元春は城を受け取った後、亡くなった美甘与一右衛門の義を讃えると共にその死を悼み、碑を建て厚く葬った。
現在も末石城跡には美甘塚が残り、美甘家の人が与一右衛門が城方に立ち向かった時の石を力石として碑の近くに保存供養を続けているとの事である。

当地に残る美甘塚の案内板などより



151 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 06:46:55.58 ID:FrR4NjML
>>150
中原「ワシは何回死ねばええんじゃ…」

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 19:18:04.90 ID:+ZXcHLbM
>>150
未だに供養が続いてるって凄いな。

神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

2016年10月02日 15:27

140 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:27:18.87 ID:6qfdtbzd
神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

伯耆の国、末石城の城将神西元通は元は尼子十旗の一つで第七、出雲神西城の守将であったが
毛利家の出雲侵攻の際に降服し、月山富田城の落城後は毛利家の命で毛利の目付中原善左衛門と小寺佐渡守とともに、
伯耆の末石城に籠っていた。

1569年、毛利家が北九州立花で大友家との争いを繰り広げていたころ、その隙をついて
尼子勝久を擁した山中鹿介・立原久綱らの尼子再興軍が海路より出雲へ侵攻を開始。
島根半島に上陸して忠山の砦を占拠した尼子再興軍はそこから尼子旧臣らに檄を飛ばしたところ、
同心するもの数多く、尼子再興軍は急激にその勢力を拡大していった。

そんな中、神西元通は末石城に籠り沈黙を保ったままであったがある日、山中・立原の両将から使いが訪れる。
そして扇を出すと「これに一筆頂きたい」と言う。何故か?と問う元通に使者は
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、昔のよしみは忘れられず、懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」

と、鹿介より言付かった通りに返答すると、元通は「山中・立原との昔のよしみは深く、私にとっても忘れ難いならば一筆書きましょう」
と答えると扇に「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて使者を返した。これを見た鹿介と立原はこの歌が古今和歌集の、
『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに)』
から来ていることを見て、元通に脈ありと見て再度使者を送ると、案の定元通は尼子再興軍に味方することを約束して使者を返した。

141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:28:20.59 ID:6qfdtbzd
神西元通はこの事を表に出さず固く秘して隠していたが、いち早くこれに気付いた者が居た。
毛利から目付として付けられ一緒に末石城へ籠っていた中原善左衛門である。
彼は吉田郡山の戦いで一矢にて尼子経久の弟である尼子久幸を討ち取るなど、歴戦の勇士であったが
また智にも優れた者であった。

中原は神西元通の変心に気付いたがそ知らぬふりをし、密かにかつ迅速に対処しようと同じ目付の小寺佐渡守を呼ぶと
「神西について何か気付いたことはないか?」と尋ねた。小寺は「何も気付いたことはない」と答えた。
中原はそれに「いや、神西はどうも逆心を抱いているように見える。しかし、何の証拠もなしに彼を討っても胡乱の極みと人から笑われるだろう。
そう思い見過ごしてきたが、このままでは神西はそろそろ事を起こし、私と貴方を討ち果たそうとするだろう。これまでは無闇に波風立てまいと貴方には
黙っていたが、もう神西の逆心は疑いなく思えたので貴方に教えたのだ。私はここで神西と刺し違えて討ち死にしても元就様の厚恩に報いようと思う。貴方はどうだ?」
と、尋ねると小寺はつくづく思案して「中原殿の覚悟、実にその通りだ。だがこの城で無駄に討たれても意味なく思う。だから命を全うし、再び元就様の役に立ちたいと思う。」
と答えた。

中原は冷笑し「あなたの言うことはもっともだ。今ここで討たれて勝久へ首を捧げられるのは実に悔しい。
しかし一隅を守る私は何の才覚・智謀なくこの城に籠った日から神西に野心あれば刺し違え、
毛利に忠を尽くし敵に囲まれるなら神西と共に自害せよと命じられたと考えている。だから気にすることはないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。

小寺はやがて神西に「両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は喜んで、すぐに城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、また老後になってから本国に帰ってきたという。
(異説では軍議の為、城を出て安芸へ向かったとも言われる)

この後中原は神西と刺し違えようと思い決めていたが、証拠もなしに神西を討てば人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と、下人一人を故郷へ帰したのだった。

こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。

神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。
(陰徳記)

142 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 02:49:09.71 ID:6qfdtbzd
ちなみにこの中原善左衛門であるが、末石城跡とされる場所にある碑には
この逸話の2年後の1571年に吉川元春が末石城を囲んだ際、和議の使者となった
在郷の勇士と共にその目付として城に入り、和議成立を偽装した城方に寄って騙し討ちされ
退去の際に丸腰の所を使者と共に斬られたとされている。



143 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 03:18:36.35 ID:7qJmlchd
林 阿弥「解せぬ」

尼子義久の降伏

2014年11月10日 18:56

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 00:36:56.01 ID:+UuGUWA/
毛利による尼子氏の本拠地月山富田城攻めは、永禄3年より始まり今永禄9年(1566年)に至って、
およそ7年の間続いていた。
その間、尼子方の城兵達は、あるいは討ち死にし、あるいは落ち失せ、あるいは降参したため、
今は僅かに300人ばかりが留まり残っているに過ぎなかった。その上兵糧も乏しく、
もはや落城も遠からじと風説されていた。

ところがこの5月の末、毛利元就が風気を患い、徐々に悪化して、様々に薬術を為してもその効なく、
病は日々重くなっていった。

そんなある夜、吉川元春小早川隆景の兄弟が全く同じ夢を見た。その内容は、
老翁が一人枕の上に立って

『今度の元就の煩いを治したいのなら、尼子の命を助けよ。
我は富田の八幡である。』

と宣ったのである。

この奇妙な出来事に元春・隆景兄弟は話し合い、元就の側まで行って相談した。
その結果

「先年、大樹義輝卿より、聖護院准后を以って、毛利・尼子和議すべしとの上命があった。
尼子はこれを了承したが、元就は八ヶ条の懸念があると上意を返されたが、その内容は
尤もなことであったので、義輝卿もこの件を一旦戻して扱われていた所、三好左京大夫義継、
松永右兵衛佐久通らが義輝を弑し奉るによりて、この和議については完全に停止した。

然れば今度、その旨を以って尼子の命を助け、下城させるべし。」

そう決定し聖護院准后道增の弟子である道澄に、元春・隆景はこの趣を言い含めた。
道澄は米原平内兵衛を以って、尼子方の立原源太兵衛尉に申し入れた

「先年、公方義輝卿が、毛利・尼子の和議を取り扱われましたが、尼子義久殿はこれを了承し、
誓詞の提出にまで及びました。その草案もここにあります。であれば、今この城を明け渡し、
諸士の一命を救われる事こそ然るべきと、義久殿に説得すべきである。」
そう詳しく説明した。

立原は帰ってこれを尼子義久に伝え、義久は家の子郎党を集め意見を聞いた。
各々はこう申し上げた
「当家は数年の籠城の間に、味方尽く敵に降り、残卒わずかに300ばかりになりました。
ではありますが、この城は無双の要害であり、今まで残り留まった者達は、義によって
身命を投げ出し、城に残った勇者たちですから、志を一つにして防ぎ戦えば、すぐに落城することは
無いでしょう。

ですが、兵糧は尽く尽きかけています。また諸方に後詰をしてくれる味方も有りません。
このような、行く末頼りない城にこもって餓死されるよりも、先ず一旦はこの和議を受け入れ、
時節をお待ちになるべきです。」

皆一同にこう諫詞したため、義久も同意し、その故を聖護院に返答したため、道澄もすぐにこれを
三家(毛利・吉川・小早川)に連絡した。
これによって永禄9年7月6日、尼子右衛門督義久、同九郎倫久、同八郎四郎秀久、
数代の居城を出て、毛利元就に降伏した。

元就は福原左近将監貞俊、口羽形部大輔通良が、二千余騎にて富田城を受け取った。
そして義久、倫久、秀久の兄弟3人は、侍7,8人を召して、元春。隆景の手のもの一千余騎が警護して
安芸国長田に送られ、そこで内藤下総守が請け取って、同所圓明寺という禅院に押し込め置かれた。
彼らの警護は念を入れられ、二重三重に柵をめぐらし、この他に元就からは桂少輔五郎、元春より
二宮木工助、隆景よりは宗近加賀守が付け置かれた。

(芸侯三家誌)

尼子の降伏に関する逸話である。




白鹿城の若林兄弟

2014年11月07日 18:46

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 19:55:59.77 ID:yx1gvT8B
永禄6年(1563)毛利元就が尼子方の出雲白鹿城を攻めた折のこと。

この城内に、尼子の勇将と知られた若林伯耆守の孫、宗八郎・宗五郎という兄弟があった。
彼らはこれが初陣であったが、城中より打ち出て比類無い働きをしたものの、首を打ち取ることは出来ず
城に帰った。

この姿を見て、彼らの母が言った
「そなたたちの祖父伯耆守殿は、世に鬼神のように言われた人でした。その子孫として、
兄は十七、弟は十五になった者が、初めての合戦で首の一つも取って来られないとは言う甲斐も有りません。」
そのように強く辱めた。

兄弟はこの言葉を聞いて、再び戦場に取って返し大勢の敵の中に駆け入って
「若林伯耆守が孫宗八郎!同じく宗五郎である!」
と名乗り、大いに手柄をなし、遂に討ち死にした。

(芸侯三家誌)



700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 21:56:35.36 ID:E+L8e5vu
これが元就の調略か

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 13:43:42.92 ID:IkAxpfpU
>>699
小松「母親の言う言葉だとは思えませぬ。」

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 16:22:06.07 ID:9k1123KI
義姫「せやな」

目黒の娘

2014年11月05日 18:53

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 02:32:09.65 ID:lw8gvYNi
永禄4年(1561)、尼子攻めを行っていた毛利元就は、謀略により石見の有力国人である
本城越中守(常光)を寝返させることに成功した。

このことを知った尼子晴久は驚愕して言った
「本城が敵に降ってしまっては、この石州の味方が力を落とし、尽く攻め滅ぼされ、もしくは
降参してしまうだろう。

本城については、きっと二心を抱く事は無いと深く頼み、様々な重宝を与え、本領も倍にしてこれを遣わし、
特に、容色勝れているとして私の妾にしていた目黒の娘を、越中守に嫁がせて、我が婿として
扱っていたのに!

この女は、昔、宍戸左馬助が私に恨みがあって、刺し違えようと思い、ただ一人ある宵の内に、
私の居室まで忍んだ。彼と私はいとこ同士なので、怪しむ者もなく思うままに忍び入りて隠れ、
私が寝入った夜半に、外より戸を押し破ろうとした。

しかし私はそれを聞きつけ、そのまま起きて板戸を押さえたが、宍戸は聞こえる大力であったので、
腕に任せて押すほどに、私も叶い難く、一旦押し込みそのまま手を離すと、宍戸は戸板の上に乗って
伏せた形で倒れた。

そこを私は押さえつけたが、宍戸も私にしがみつき、上に下へと組み合ったが、私もさほど微力という
わけでもないので、遂に上になって押さえつけたが、搦め捕る物が無いので「なんでも良い!紐をもってこい!」
と言ったが、そこに宿直しているのが皆女であったため、周章てるばかりで縄を持ってこようとする者もなかった。

しかしその中で、この目黒の女は気の利いた者であったので、小鼓の紐を解いて私に渡したのだ。
その紐で宍戸を縛め、その夜、首をはねた。

このような仔細のある女であったが、本城の心を取ろうと思い、愛念を捨てて与えた所、
彼も抜群の軍功を励んだので、よもや二心は無いと深く頼み、石州山吹城は敵地に隣接した
肝要の地であるので、彼を籠めて守らせていたというのに、たちまち敵に一味したことの
腹立たしさよ!」

そう激怒したという。

(芸侯三家誌)

尼子晴久本城常光に与えた女性についての逸話である。




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 07:41:43.41 ID:wQ4cajNj
なんなんだこの逸話は
俺と女の思い出話じゃねーかw
しかも与えたっても妾だしなー

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 10:17:14.61 ID:ghE1b98K
まるで娘か妹を嫁がせてやったみたいな言い方だな w

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:31:10.14 ID:QVCiANud
>>686
セリフなげーw

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 17:26:50.76 ID:wG/NflWx
>>686
板戸を押しあう武将の図もシュールだな

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 23:13:06.58 ID:0CuTu/ZT
ダンジョー「しかし剣豪相手にでもそれは有効なのだよ」

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 02:44:32.76 ID:hp51Z4OA
>>686
頼芸「妾をくれてやったのに裏切るとは…許せん!」

祝甲斐守の滅亡

2014年10月27日 18:43

祝貞近   
641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 16:13:01.37 ID:9bjUCH30
>>639で旗返城関連の話題が出たからその直前の話題を・・・

初代天下統一で備後の武将で「祝甲斐守」という人が登場する。
この人は実際にいる人で祝甲斐守貞近(ほうり・さだちか)と言った。

祝職(ほふり)をしていたために苗字を祝とした。
ちなみに本姓は武田といい、安芸武田家の一族であった。

祝家は江田家に属し、高杉城を拠点としていた。

1553年4月に江田隆連が尼子方につくと祝家もこれに従った。
しかし、7月に毛利元就が約六千の兵を率いて高杉城を攻めた。
祝方は江田からの援軍などを併せてもわずか七百余であった。

元就はこれを一気に攻め込み約六百余の首を挙げて祝甲斐守をはじめ、父・高貞と次弟・高智は討死してしまった。
三弟・高家と四弟・広縄は毛利方についていたため、一家断絶の憂き目はあわずにすんだ。

※高杉城の案内板には『尼子方の本項では1552年に毛利父子に攻め落とされました』と書いてある。
※司馬遼太郎は祝家・高杉城を高杉晋作のルーツであると指摘している。

(広島県の歴史、陰徳太平記)の一部から


もし祝家が江田家に従わずに大内・毛利方にずっとついていたならばこんな目にあうこともなかっただろう。





毛利元就を欺いた男

2014年10月08日 18:55

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/07(火) 23:29:39.84 ID:asngUhsT
毛利元就を欺いた男

郡山城の合戦も終わりに近づく天文10年1月13日、毛利勢3千が宮崎に陣取る尼子勢に攻撃を開始した。

宮崎に陣取った尼子勢第一陣の高尾豊前守率いる2千の兵は散々に矢を射たが、毛利勢はひるむことなく柵を押し破り、
高尾率いる2千の兵はとうとう打ち負けて左右の谷へ引いていった。

第二陣に控える黒正甚兵衛の兵1500は弓を射て、敵のうろたえた所を襲いかかろうと待ち構えていたものの、大内の3大将の率いる
兵2万余が毛利との約束どおり吉田の城近くへ打って出た。

これで毛利勢が勢いづいた為、黒正率いる二陣はよく持ちこたえたものの切り崩され、続く味方も皆逃げてしまい、
黒正甚兵衛も逃げるに逃げれぬ状況と相成った。そこで黒正甚兵衛は鹿の角の冑の立物と笠印を抜いて捨て、正体を隠し、
味方の首一つ引っさげて毛利勢の中へ紛れ込み、元就の実検に備えた。

元就は旗本勢も備えを崩してかかって行っており、わずか14,5騎で控えていたが、黒正が持ってきた首を見ると
「一段と見事な首じゃ」と、声をかけた。
元就の実検を受けた後、黒正は首をその場に捨てると陶の陣へ紛れ込み、そのまま姿を消した。

その後、毛利勢は長時間戦い続けた疲労と空腹のために第三陣の吉川興経の陣を崩すことはできず、その日の戦は終いとなる。

さて、先の黒正甚兵衛はそのまま大内勢に紛れ込むと翌朝の大内勢の尼子本陣攻めにもついて来ていたが、乱戦のさなか尼子勢の
川副美作守と名乗って戦う者を見つけると走り寄って相手の槍を打ち払い、勢に加わろうとした。
川副が敵だと思って黒正の頬当て目掛けて突きかかると、「黒正じゃ、目を開けてよう見よ」と言うので、川副も槍を引き、
黒正はそのまま走り入り、味方と一つになって、危ういところで命を助かった。そののち、黒正は

「当家に人も多い中で、川副以外に目を開けて敵味方を早う見分けるものもあるまいと存じ、美作守に巡り合うまでと、折を待って
いたが、かねて思うていたとおり、川副に会うて命が助かったことだ」

と後日語ったということである。

(陰徳太平記)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 13:56:53.64 ID:7uNGXIsp
捨ててくれてありがとおおおおおおおおい!! 

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 19:54:17.73 ID:GJvp27M/
>>472
陰徳太平記には載ってなかったけど、後にこの黒正甚兵衛という武将が第一次月山冨田城戦で
大内勢の敗因となった、吉川、三刀屋、三沢の寝返りに関わったとwiki先生が言ってた。

余勢城と裏切り者とドウショウ坂

2014年08月16日 18:51

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 22:00:09.78 ID:fEDArLrs
余勢城と裏切り者とドウショウ坂

尼子家に仕え文武に通じると評された、多胡氏の城である。現在この城の跡には当時の歴史を記した
碑文が多数並ぶ、碑公園となっている。

1559年に吉川元春と小早川隆景が城を攻めた際には城主多胡辰敬の弟、多胡正国と家老沖弾正正藤
の働きによって撃退される。
1561年に吉川元春が再び攻めるが、この時も城側の夜討ちにより児玉興三郎はじめ500の戦死者を出した
吉川軍は一時退散。戦死者500はかなり盛った数字と言われるが、吉川元春がこの城を攻めあぐねたのは間違いない。
同年12月、吉川元春は三度目の攻城を開始。
二度に渡り煮え湯を飲まされた元春は城側の重臣別所小三郎宗晴を調略。
1562年1月1日、別所は多胡正国の息子・秀光を殺害し、城の裏門を開いて吉川勢を城に入れた為、
城兵500は殆どが討ち死にし、生き残った多胡正国ら7名は隣の郡山城へ逃げ、家老沖弾正は城に火を放ち自害。
この後、郡山城もあっさり落とされ多胡正国は兄辰敬の岩山城へ逃亡するも、そこも落とされ多胡兄弟は自害し
多胡氏は滅ぶ。この多胡辰敬の娘が亀井茲矩の母であり、後、津和野藩を興す藩祖の父となるのであるが、それはまた別のお話。

なお、多胡氏を裏切った別所宗晴は毛利元就に信用されず、後に死を賜ったという。
毛利に敵対した主家を裏切った武将が辿る何時もの末路であった。

この余勢城から1kmほど行ったところに西隆寺という真言宗の寺がある。ここは多胡氏の菩提寺として
伝わる寺であるが、この寺の裏手にドウショウ坂と呼ばれる鬱蒼とした森に囲まれた坂がある。
この坂の途中にある杉の木の茂る場所は、かつて城の処刑場として用いられ、また吉川の余勢城攻めの時に
敗残兵が処刑された場所とも伝わり、実際ここには朽ち果てた五輪墓の跡が幾つも残り、近隣では恐怖のスポットとして知られ、
通る時にこの坂を上ろうか上るまいかどうしようか?と悩むことからドウショウ坂と言う名が付いたという。




946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 22:58:51.55 ID:Bs48ykLc
弾正が、どうしょうになった、て話もなかったっけ

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/16(土) 08:11:25.13 ID:6ZJ9Kvda
読んでから最初の感想が
「血塗られた地名なのに鬼武蔵が関わった話じゃないなんて」なのは色々と毒されたようだ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/16(土) 10:36:12.27 ID:oZ8TZBKa
前に鬼武蔵が関わってるのにいい話が投稿されて、
ありえないだろ!とか言ってたら、実は悪い話バージョンがあったことが
明らかになってワロタ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4700.html

949 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/16(土) 10:50:00.75 ID:4Y8NqYJl
           |
            |  彡^ミ
           \ (´・ω・`)また鬼の話してる
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 07:12:28.77 ID:6cNQD05V
鬼の話をしていると来年が来ちゃうぞ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 10:55:06.72 ID:kmmLxem8
????「クビオイテケ・・・ソノクビオイテケ・・・」

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 13:14:55.03 ID:lsq+fZgL
豊久乙!

討ち死にするため罷り来たり

2014年08月13日 20:33

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/13(水) 00:59:15.26 ID:OohdeqJC
天文9年(1540)、尼子晴久が毛利元就を攻めた、吉田郡山城の戦いの折のことである。

尼子方の重臣、牛尾遠江守幸清の家臣に、琢阿弥という大力の剛の者があった。
彼は牛尾遠江守の子息である、湯原弥二郎に従ってこの吉田郡山城の戦いに出陣したが、
現地で風邪をひき寝込んでいた所、その日、主人である湯原弥二郎は討ち死にしてしまった。

琢阿弥は彼に従って出ることが出来なかったことを口惜しく思いながらも、
病身であり心に任せることが出来ず、日を送っていたが、そんな中ようやく少し回復した様子を覚えたため、
早速郡山城近くまで寄せ来ると、城に向かって叫んだ

「私は牛尾が近習の者である!主人である者が討ち死にした時、所労の事によって
その場に居合わせることが出来なかった!只今、討ち死にするためこちらに罷り来たり。

毛利勢よ、討ち取りに出て来られよ、勝負せん!」

この呼びかけに、郡山城から井上与三右衛門が出て、名乗りを上げ、
終にこれを射落とし首をとったという。

(芸侯三家誌)

吉田郡山城の戦いにおける、討ち死にに来た男の逸話である、



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/13(水) 17:36:43.68 ID:1OqoGbPe
射落としたのか、まあ死にに来た奴なんかと組み合うと危ないよな

尼子経久・興久親子不和の事

2014年06月23日 18:54

567 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:25:46.77 ID:ze51xFkb
去る天文元年、出雲では尼子経久が三男・興久と不慮の事態によって親子確執に及んだ。
その理由は以下の様なことである。

尼子興久は亀井能登守を通して経久に訴え、同国原手郡700貫の所領を望んだ。しかし経久は、
『原手郡が本拠である月山富田城の近辺であるので、与えることは出来ない、であるので別の場所において
千貫の所領を与える』という旨の返答をした。これに興久は納得できず

「私は思う仔細があって原手郡を望んだのだ。別の場所であれば何満貫であっても望むことはない。
きっと今度の所望が叶わなかったのは、偏に亀井能登守が讒言して妨げたに違いない!この上は
能登守を討って我が本望を達するべし!」

激怒してそのように言った。その頃、尼子経久は杵築(出雲大社)において法華経一万部を読誦させられ、
亀井能登守はその奉行として杵築に滞在していた中、興久は3000騎を擁して杵築に押し寄せる、という
風聞が広まった。これを聞いた経久は

「興久に訴えたいことがあるのなら、先ず私に言って来るべきなのに、亀井を討とうとするとは心得られぬ。
これは偏に、能登守を討つという口実で、私に弓を引こうという企てなのだ!」

そう考え、牛尾当遠江守、同三河守、卯山飛騨守に2000人余をさし添えて杵築に遣わし、能登守を伴い
道中の警護をさせて、無事、富田城に引き取った。

興久はこれを聞いて大いに憤った
「たとえ私に非分があったとしても、親として子の事を思わず、逆に郎党を助けるとは有っていいことか!」
そこで乳人の米原平内、亀井新次郎を呼び

「私は今、親子不快という状況になったが、これは偏に亀井能登守の所業のためである。この上は、
あやつはいよいよ父上に対し私を讒言し、罪に陥れようとするだろう。よって、今より一心に思い切り、
富田城に押し寄せ晴久を討ち経久を押し込め、亀井能登守は鋸挽きにしてこの無念を晴らそうと思うが、
いかがか!?」

両名はあまりのことに、暫くは目と目を合わせ閉口していたが、「正しき父に弓を引き甥に対して
剣を振るうなど、冥王の照覧も恐ろしく、不義不孝の名も末代まで朽ちないような所業です。たとえ一旦の
憤りによって経久様が仰せ付けられたのだとしても、興久様はどうかそのお考えを改めてください!

能登守はこの亀井新次郎の兄ですが、だからと言ってこのように申し上げているわけではありません。
彼に関しては、私がその宿舎に行って、兄弟で刺し違えましょう。ですので、これによって憤りを鎮められ、
父子御不快の事は是非にも止めていただけますよう。」

このように諫止したが、興久は

「私は経久を討つべしと思っているわけではないのだ。ただ富田城を乗っ取り晴久を討って、私がこの
尼子家を相続し、亀井能登守の首を刎ねた後は、父子和解して考順なすであろう。
しかし、父に盾をつくのは不孝だからといって、首を延べて軍門に下ってしまえば、能登守はたちまち私を
討つであろう。父を敬うからといって。家人に頭を刎ねられる者があるだろうか!

私は経久の軍の先陣にあって、伯耆において山名との合戦4度、その他各地の城を落とし敵を打ち倒したことは、
何度あったか数が知られぬほどだ。その私の戦果故に、いま近国は経久になびき、従っているのである。
いま私が生命を惜しまず思い切って富田城に攻め入れば、軍勢の多少によらず、ただ一時に揉み破ることが出来る
だろう。もし運が尽きて合戦の勝利を失ったのなら、富田城を枕として討ち死にし、仏とも神とも成って、怨霊として
亀井に復讐するだろう。

であるが、お前たちは経久の譜代重恩であり、特に新次郎は能登守と兄弟であり、私に与するような事は些かも
ありえないだろう。お前たち両人が急ぎ経久のもとに参りこの事を知らせるというのなら、その時私は検使を
申し請い、涼しく切腹するであろう。さあお前たちは、早々に富田に帰るが良い!」
そう、声を唸らし畳を打ちながら叫んだ。

568 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:26:36.26 ID:ze51xFkb
これを聞いた両名は俯いていた頭を少し上げ
「お言葉を返すのは恐れ多いことですが、仰せのように興久様が近国に武威を振るわれた事に関して、それを
知らぬものは居りません。しかしそれゆえに驕慢となり天魔の心が入り込み、このような悪逆を思し召しに
なられたのだと見て取りました。

興久様が尼子家を相続するといいますが、貴方様は騎将の器には当たりますが、数カ国を収める
数万の軍勢の大将の器には当たりません!何故かといえば、強剛勇猛のみで、五常の道をご存じないからです!
父君に対して弓を引き楯突くような御仁ではありませんか!

鳥類であっても、梟は不孝の鳥であると、諸鳥はこれを憎むと言われています。とにかく、この事は思い留まる
べきです!」

この諫言も、忠言却って耳に逆らい、おおいに立腹し
「私が一度思い立って、生きている以上、杵築大明神も智見あれ!この弓矢を思いとどまることはない!
しかし面々の異見の趣を背くのも如何なれば、私はここで自害する!
であれば、父に対して弓を引く事にはならず、各々の異見を用いざるにも非ず!」

そう言って刀の柄に手をかけた所を、両人は急ぎ腕を抑えこれを押しとどめた。そして
「この上は力なし。兎にも角にも、仰せの旨に従って共に忠戦を励みましょう。
ただし我等両名は若年の頃より経久様のご厚恩を蒙り、その上一族ことごとく富田に罷りある以上、
御疑心もお有りでしょうが、多年の興久様からの御好みを捨てがたく思いますので、たとえ骨を粉にさせられ、
肉を膾にさせられたとしても、全く恐るべきことではありません」と、両人共に妻子を人質に出し
杵築大明神の牛王の誓紙を書いて、灰にし酒に入れてこれを飲み、一筋に思い定めることを表明すると、
興久も快く、金作の太刀を両人に与えた。

(芸侯三家誌)

尼子経久・興久親子不和についての逸話である。

尼子経久 我が子と相争う

2014年04月26日 18:50

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 00:59:40.83 ID:CIg+fgYk
尼子経久 我が子と相争う

謀聖と謳われた戦国初期の雄、尼子経久
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝にその文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
次男、国久。父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に
その武名を轟かすも、最期は甥晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、新興勢力の毛利元就の謀略により
甥・晴久に嫡男誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。

そして、3男興久。彼は父経久が大内義興に従い上洛した際、山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。
(続く)

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 01:02:28.85 ID:CIg+fgYk
尼子の最前線として隣国の大内やその麾下の勢力、独立した国人衆と相対する塩冶興久の
財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物であった。興久は父経久と腹心
の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下される。

そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで父経久に
対しての反乱を起こす。
中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。が、
その後戦況は一変する。
塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は両者共倒れ
を狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子清久が継ぐ物の大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫、晴久が家督を継いだ後に国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。





山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

2014年04月15日 18:40

970 名前:山口きらめーる2013年12月13日号 vol.263より[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 21:58:40.19 ID:2gIipmt1
山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

1578年7月、3月に渡る吉川元春の包囲の前に上月城に籠る尼子再興軍は降伏。
総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許される。
10年間、尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際
吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束された(三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による)
ものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まる。

この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めた故かは解らぬが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していた。

「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」
(続く)

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:03:42.18 ID:2gIipmt1
(>>970続き)
しかし、その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、
降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に
備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で殺害され、その生涯を終える。

先の三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らず、その為に毛利の手により
鹿之助は殺害されたとされ、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見と
なった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなる。

好敵手を讃え遺品を家宝として残す良い話だけど、吉川家と毛利家の報連相が悪いお話。





尼子経久、月山富田乗っ取り

2014年01月01日 18:57

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 00:05:31.03 ID:jaUgD7Pl
尼子経久はもともと出雲の国の富田の地で七百貫を領していた。
出雲の国は近江の佐々木氏の領国であり、佐々木高詮の時に経久の祖父、持久を守護代として出雲に送った。
この持久、そしてその子清定と二代にわたって守護代に任じ、国務を司り租税を近江へ送っていたのだが
さらにその子経久の代となって、経久がまだ若く又四郎といった頃に近江の佐々木氏の指示に従わず
富田とその近郊の地を奪い、また出雲の国の武士達を攻め従えようとした。
守護佐々木家の六角定頼はこれに大いに怒り、出雲の国侍に命じて経久を攻め追放させると代わりに
塩冶掃部助をもって出雲の守護代とした。

経久は無念であったが、諸国を放浪しついに食うにも事欠くとある山寺で食うために僧形となり修行僧に混じって
暮らしていた。
経久は何とかして富田の城を奪い返して本懐を遂げたいと思うものの、家臣達は皆その妻子を養うため
近江の六角氏に仕えており、出雲に残っているものは山中一族だけであった。
山中を頼るべしとついに秘かに出雲に入ると山中の住まいを訪ねた。
山中は経久を見ると急いで中へ招き入れたが、色は黒くやけ、やせ細り、昔の面影もほとんど残っていない
経久の姿に涙を流した。
ささやかな食事と濁り酒を前に、経久は涙を流して山中をかき口説いた。
「何としても富田の城を攻めて塩冶を討ち取り、本望を遂げたい。もし昔のよしみを忘れていなければ、どうか我に
力を貸してはくれないか?」と。
山中も昔の義理は忘れがたくもあった。
「仰せ、畏まりました。」と諒承すると、やがて一族と語らい17人の一味同志を得ることができた。

さて、しかし塩冶は国の守護代として多くの兵を抱え、威もさかんである。容易に討つことはできない。
思案の末、経久は、河原者(祭や芸事を行う身分の低いものたち)の賀麻党の頭を召し寄せ、言った。
「汝も知るごとく、我、当国を追い出され、耐え難い思いをしている。何としても塩冶を討って遺恨を晴らしたいのだ。
それに付いて、汝に頼みたいことがある。もし我が本望を遂げたあかつきには、褒賞は望みのままに取らす。」
賀麻の頭は平伏して答えた。
「恩のある何百の侍を差し置いて私どもの如き身分賤しき者を頼りにして頂けるとはこれほどの名誉はございません。
この上は、たとえこの身も一族をも亡ぼそうとも恐れはいたしません。何なりと、御指図ください。」
経久は大いに喜び、言った。
「よし、それならば汝らは正月には富田の城の二の丸で例年卯の上刻から千寿万歳の舞を行っているが
来年の正月は時間を早め、早朝寅の上刻に舞を始めるのだ。
そうすれば、本丸の者共も二の丸へ出てきて舞を見るだろう。我々は城の搦手から忍び込んでおいて
方々へ火をかけながら本丸へ打って入る。その声を合図にして汝らは大手より切り込んでくるのだ。
こうして前後から攻め合わせれば、城を乗っ取ることは容易いぞ。」
賀麻の頭は、これを了解して立ち帰った。

さて文明17年大晦日、経久と山中一党の17人、そして昔の恩義を忘れぬ譜代の郎党56人夜中秘かに
塀を乗り越え大手の合図を待った。
明けて早暁、賀麻の一族70人ばかり城の門外より太鼓を打ちながら千寿万歳の舞を始めた。
城中の者たちは今年は例年より早く万歳の舞が入ってきたぞ!急げ!とばかりに皆して二の丸の大庭に集まり
見物を始めた。
ここで経久以下、所々に火をかけ火事だ火事だと叫びまわる。見物の城兵たちは慌てふためくが
そこに賀麻の一党が烏帽子、舞服を脱ぎ捨てると太刀を構えて切り伏せる。
経久らも賀麻一党も散々に奮闘し、ついに塩冶を討ち取ると城兵は散々に城を落ちていった。

尼子経久、ついに月山富田城を乗っ取り730人ばかりの首をとり、多年の鬱憤を散じることができたのである。

(名将言行録)




163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 04:02:10.13 ID:e86knXce
鉢屋弥之三郎とかいう忍者の名前は書いてなかったんだ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 00:30:12.80 ID:6Fgez4Um
>>163
賀麻の頭が鉢屋なんだろうな。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 08:46:15.63 ID:dDxQmTgX
へーだから兜が鉢なんだ

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 09:01:14.64 ID:JMkUl2ZO
忍たまか

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 10:50:11.89 ID:twXKt/gS
山中さんは昔から尼子家臣なんだな 最後まで裏切らないのも納得だ

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 12:46:58.23 ID:n1qb8Zyf
鹿助は先祖の伝説を再現しようとして大失敗した模様

>>167
尼子宗家自体はまだあるのに勝手に別家立てて正統性主張してるからある意味裏切ってる。

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 15:12:28.49 ID:VID8jeDk
軍師官兵衛に勝久と鹿助も出るみたいだね

秋上伊織助、山中鹿介の対面

2013年10月28日 19:48

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:38:39.15 ID:fwUAutZf
じゃあいおりんの話でも。

出雲の国の大宮司、秋上家は無二の尼子方だったが、
勝久が「もし本意を遂げて出雲に入れたら秋上・山中を執事とする」と約束していたにもかかわらず、
次第に山中鹿介の方針ばかりを重んじるようになって、
伊織助の父、三郎左衛門尉は不満を抱いていた。
そこに吉川元春から「うちなら優遇するよ」と揺さぶりがかかった。
三郎左衛門尉は渡りに船と喜び、毛利家に味方する決断を下した。
勝久は慌てふためいたという。

さて、嫡子の伊織助は、たった一人で鹿介の宿所に赴き、面会を申し入れた。
何の警戒もせずにすぐに出てきた鹿介に対し、伊織助は
「こんなことになってしまってから会いに来るなど、面目もない。
 しかしあなたとは少年のころから仲良くしていて、死ぬならともにと約束した仲だ。
 それなのに、愚父は毛利家に属すと決めてしまった。
 明日からは敵になる。こうして会って話をすることもできなくなる。
 あなたとは朋友としていつまでもともにいたかったのに、残念でしかたない。
 これまで仲良くしてくれてありがとう。お別れを言いたくてここまで来たのだ」
と言った。

鹿介は答えた。
「侍は渡りものだ。あなたの父の決断は無理もない。
 あなたは少年のころから私の話し相手だった。今でも断金の友だと思っている。
 あなたが親とともに行動するのを、どうして恨みに思うものか。
 今日ある命も明日には知れないのが武家の習いだ。
 さあ、別れの盃を重ねよう。
 私は明日から、伊織殿を討つための謀略を練る。
 あなたもまた、私を殺す算段をするといい」

二人は盃を出して取り交わし、さしつさされつたっぷりと飲みおさめた。
「ではこれまでだ。明日は戦場の塵となるとも、互いに旧交は忘れまい」
互いに手に手を取り、涙にむせんで立ち別れた。

伊織が森山の城に帰った後、鹿介らは秋上の所領に夜討ちをかけた。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:46:53.13 ID:fwUAutZf
スマヌ、いおりんはミスタイプでした……orz
あと既出チェックしてなかった。
重複だったら切腹で許して。




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:52:50.52 ID:dbBhaRGm
>>603
イイハナシダナー

山中幸盛、光秀の風呂の誘いを断る

2012年10月29日 19:56

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 17:19:53.02 ID:wxR127tI

明智光秀の家臣・野々口丹波山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。

幸盛は「私には分に過ぎたことです。参りますとも」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、

幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。

――『名将言行録』




尼子経久、謀略をもって三澤を討つ

2012年10月01日 20:29

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:44:37.94 ID:PJ3s3G8W
出雲守護代を追われ一時期勢力を減退させた尼子経久だが、長享元年(1486)頃にはその勢力を回復していたと
考えられる。しかし出雲国内には三澤、三刀屋、赤穴といった強力な国人たちがあり、彼らは経久の威令に
従おうとはしなかった。しかし容易に攻め従えることのできるような相手ではなく、
これは謀略をもって討つべきだと、寝食を忘れて考えぬいた。
そしてある時、山中勘ノ充と云う者を近づけ、言った

「私は三澤を騙すぞ!汝は智弁人に超えた者であるので、この謀略をきっと成功させてくれると信じる。
私の言うとおりに行動し、三澤を誑かしてみよ!」

そうして詳細を説明すると、山中は「御諚承り候」と、これに同意した。

さて、この頃経久の歩兵に、死罪になるべき重罪の者があった。山中はこれを喧嘩のようにして
斬り殺し、三澤の元へと逐電した。経久はこれに大いに怒り、山中の妻子並びに老母までを捕縛し詰牢に監禁した。
三澤の元に逃げ込んだ山中は二心無くこれに仕え、三澤も彼を不憫に思い召し使った。

そして2年ほどが経った。「いまこそ謀略が成功すべき時だ。」山中は三澤に向かってこんな事を言った

「私は些かの口論によって、経久の澤田と申す徒歩の者を斬りましたが、経久の奴は私の老母、妻子を捕縛し
牢に入れてしまいました。侍の喧嘩口論で相手を討って退転するなどというのは良くあることなのに、
その罪を妻子父母に及ぼすなど未曽有のことであり、無念至極に思っています。

願わくば私に、精鋭の兵200を付けて下さい!
経久の月山富田城は案内を良く知った城です。夜討ちを行い私の鬱憤を晴らしたいのです!
実は尼子の一門の中に3人、私と思いを同じくする方々がいます。ですので経久の頸を討つことはもはや、
袋の中の物を探るに等しい行為だと考えています。」

このようにいかにも頼もしげに語ったため、三澤も大いに喜び、野沢大学兵衛、三澤与右衛門、梅津主殿助、
野尻、竹田、中原、下川といった、三澤氏配下の屈強の兵たち500人を選び山中に付けた。
山中は「謀略、成れり」と経久にありのまま報告する。報告を聞いた経久は「年来の謀略、一時に叶った!」
と喜び、早速伏兵を3ヶ所に置いて、寄せてくる敵を待った。

山中は三澤勢500の先頭に立って、月山富田城へと急いだ。
軍勢が中チカという場所に忍び上がったところで山中「さて、あなた方は暫くここでお待ちください。
私は合流する一族を手引きしてきます。」そう言って一人出ていった。

残された軍勢は、待っている間に一町でも上がっておこうか、などと言っている時突然、
月山富田城の城門が開き一千余の兵が鬨を作って打出てきた!

寄せ手の三澤軍は、今夜の夜討ちの事を敵は察知していないと全く油断していたため、
この不意打ちに「これは何事か!?山中に野心があったのか!?」と大いに驚き、既に逃げ腰に
なっていたが、流石に三澤の郎党の中でも名を知られた者達だけに、みな一箇所に固まり
ひしひしと撤退していった。

が、ここでまた思いもよらぬことに、今度は後ろから敵が突然現れ鬨を合わせて攻めかけてきた!
三澤軍の者たち「これは山中に騙されたのだ!こうなったからにはただ一方を打ち破って
落ち延びるしか無い!」と叫んで撤退しようとしたが、暗闇の中、道もない場所へと入り込んでしまい
更に混乱し、何も出来ないまま討たれるものもあり、谷や穴に落ちて空しく死ぬものもあった。

そんな中でも三澤与右衛門、野澤といった者達は真ん丸となって襲いかかる尼子勢を打ち破りつつ
撤退したが、3ヶ所の伏兵に逢い、野澤大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などの勇士を始めとして
200あまりが討たれ、なんとか生きて逃げ切ったのは、三澤与右衛門、中原、下川ら100ばかりという有様であった。

かくして三澤は多くの家臣を討たれ、その勢力も凋落した所に、経久から「近日中に三澤を討伐する!」
との声が聞こえてくる。これにはもはや耐えられず、三澤は居城である亀瀧城を出て尼子経久に降伏した。

経久は三澤の勢力を併合すると一気に国中に討って出て、三刀屋、赤穴といった有力国人を尽く幕下に従えた。

尼子経久、謀略をもって三澤を討つ、という逸話である。
(陰徳太平記)




664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:52:49.78 ID:SHcdWNxn
さすが山勘・・・だが既出っぽい
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