我は常に軍旅の事を

2018年06月24日 14:45

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 21:19:53.04 ID:4kKiA17m
我は常に軍旅の事を


(池田輝政が)あるとき厠に入ったかと思うと、けしからぬ声が聞こえてきたので
お側の人々が驚いて厠に走り入ると、卿(輝政)は笑って
「我は常に軍旅の事を考えているのだが、今も図に当たったなと思ったら
 つい声が出てしまった。怪しまなくていいぞ。沙汰なし沙汰なし」
と仰せられたと、老人が語り伝えている。


――『有斐録』



36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 23:52:48.83 ID:PEJlXB4/
・・・どんな声出したんだよ。側仕えが駆け込んでくるって。
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毛利孫左衛門、村山越中を詰る

2018年06月18日 19:04

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 19:45:36.52 ID:UyI9nnUz
毛利孫左衛門、村山越中を詰る

 大坂冬の陣の時の話。

 池田左衛門督忠継の使番、毛利孫左衛門が先陣に出向いたところ、村山越中が毛利に向
って、「俺、今朝からずっと前線に張りつきっぱなしで疲れたよ。指物も鉄砲に撃たれま
くってボロボロになった」という。

 それに対して、毛利は「俺は、500人の侍の中から選ばれて、母衣を許された者だ。お
前になど騙されない。お前は竹束の陰から出ていないだろう。その証拠に、指物の先の方
しか破れていない」と答えた。
 村山は返す言葉がなかった。

 常山紀談より意訳。

 ばつが悪い話。
 なんで、毛利孫左衛門、こんなけんもほろろな対応なんだろうと思ったけど、この村山
越中さん、かなり評判の悪い人だった模様。
 ウィキペディアの杉原重政の項目によれば、1601年に諫言した杉原重政を上意討ち。同
年、岡山城の金蔵から金を盗み出奔。3年後に池田忠継に仕えるが1616年に私闘で殺人を
犯してまた出奔。加賀前田家に仕える。しかし、周囲と争いが絶えなかったため、翌年暇
を出される。その後、備中で重政の息子、重季に仇として討ち取られる。
 かなりのトラブルメイカーで、おそらく池田家中でも、あちこちで衝突していたのだろ
うなあ。


870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 19:47:11.93 ID:UyI9nnUz
 上でやり込められた村山越中。
 他の軍記では、同じ大坂冬の陣で、剛勇を見せたという記述があったりもする。国会図
書館のデジタルコレクションに収録されている「武人百話:精神修養」という本では、橋
の上で、敵弾の下、友軍が放置した竹木縄を回収して、掃除して、自陣に戻ってみせたと
いうエピソードが収録されている。


今は諸浪人の多くが先知を減じ

2018年06月16日 21:17

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 12:05:27.02 ID:odU49sW/
今は諸浪人の多くが先知を減じ


下方覚兵衛*は元々は蒲生氏郷に四百石で仕え、その後は小早川秀秋に呼ばれ
千二百石で仕えていたが秀秋が亡くなったため、池田家臣の土肥周防の誘いで
慶長八年、池田輝政のもとへ召し出された。

土肥周防が輝政の嫡男・利隆に氏郷時代の知行四百石で仕えるようにと
折紙を渡すと、覚兵衛は
「中納言(秀秋)のことで浪人になってしまったので、ただいま無双の御当家へ
 召し出されるのならば、いかようでもお請けしたいのですが、せめて
 先知(千二百石)の半分は下されるべきでしょう」
と申したため、周防が折紙と違う知行を求めてくるのは困るとして
断ろうとしたところ、輝政が
「今は諸浪人の多くが先知を減じ、そのままで終わってしまうことがあるから
 このようなことを言ったのだろう。この先配慮をしてやるように」
と仰せられたので、翌年から覚兵衛には百俵の合力米が支給された。

覚兵衛はその後出世していき、慶長十六年には光政の守役に任ぜられた。
そのとき輝政と利隆の相談の結果、池田家の譜代同然に扱われることになり
家督を継いだ光政が領国に帰るときには、妻子と一緒に江戸で留守を守った。
元和七年に亡くなるが、最終的には千百石を拝領したという。


――『吉備温故秘録』

* 祖父が小豆坂七本槍の下方左近であったことから、蒲生氏郷に仕える。
 氏郷の死後、堀秀治に仕え越後にいたが、小早川秀秋に召し出される。
 光政とは家族ぐるみで交流があり覚兵衛の死後、妻は岡山城の水の手に
 屋敷を拝領し、光政から"水の手の祖母"と呼ばれ慕われた。


南部越後母衣串をぬかざりし事

2018年06月05日 18:00

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:47:03.08 ID:HI+KkJjp
南部越後母衣串をぬかざりし事

岐阜の城攻に、池田家の士南部越後門際に押詰めたるに、門の潜戸狭く、懸けたる母衣に
支えて入り得ず、側より、母衣串を抜いて入るべし、と言え共、否々たとえ入り得ずとも
此母衣は脱ぐまじ、と呼はる。其中に門開きて馳入りたり。其武者振甚だ見事なりし、と
其時の人言いしとなん。
(常山紀談)

 ちょっと、かっこ悪い話。
 くぐり戸に、母衣が引っかかってじたばたしているシーンを想像すると、ちょっとかわ
いい。武士は目立ってなんぼやな。




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:49:14.84 ID:Q/kW/O78
入ってからあとは見事だったんか

我が孫に似合いたる申し付け様なり

2018年05月25日 20:08

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb
そんなことできるのは伊達さんだけ

池田輝政の立身について

2018年04月19日 18:28

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 17:03:26.34 ID:IiAJoYMQ
池田輝政の立身について


備前宰相殿(輝政三男・忠雄)は光政様(輝政嫡孫)に輝政公の御立身について

「輝政公の御立身は古今にないことだ。遠国を数ヶ国公方より恩領した人は
 いるかもしれないが、輝政公は自身の武功によって切り取ったのだ。
 輝政公が家康公より備前播磨淡路三ヶ国を残らず拝領したことは無類の
 ことである。その上美作は森武蔵守殿(輝政の姉婿)の縁者が治めていて
 阿波国は家臣の出羽(輝政甥・由之)と縁続き*で隣国に姻戚がいるのに
 数ヶ国下されたというのは、無双の事である」

と仰せられていたという。


――『烈公間話』

*池田由之の正室は蜂須賀家政の長女


後陣も雲霞のごとく

2018年03月24日 21:13

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 01:52:20.88 ID:W5c89APP
後陣も雲霞のごとく


(明智光秀が謀反した後)秀吉は姫路から出陣してきたので
信輝(池田恒興)は兵庫で秀吉を出迎えた。
先公(信長)の不慮の傷害に互いに涙をこらえられずにいたが
力を合わせて光秀を討つことを決め、秀吉と昵懇の間柄となるために
秀次を信輝の婿にし、次男の輝政は秀吉の養子にすることを約束した。

秀吉が尼崎へ着陣すると、池田父子、中川(清秀)、高山(右近)、
惟住(丹羽長秀)らで軍評議があった。信輝は秀吉と共に剃髪し勝入と号し
「さて一番合戦は勝入仕るべし」
と言うのを秀吉が聞いて
「先公がいらっしゃらずとも、先公の御法に任せられよ」
と言ったので、勝入はそれに従い"どのようにでも"と申された。
そういう訳で高山と中川が一番を争い、同士討ちのようになったところで
秀吉が仲裁をして、高山が一番合戦、中川が二番合戦となった。

天神馬場まで軍勢を押し詰めて、すぐ合戦しようという話にもなったが
御弔合戦ということで信孝を待つことになった。翌日、信孝の手勢が
見えたので秀吉と池田で出迎え、互いに涙を流した。

段々軍勢を山崎表へ押し出し、中筋正面は高山、堀久太郎。
南の方の川端は池田勝入父子。天王山の手は堀尾茂助、木下小一郎(秀長)、
同勘解由、黒田官兵衛、神子田半左衛門(正治)、前野新右衛門(長康)。
それより後陣も雲霞のごとく連なった。


――『池田氏家譜集成』


阿房丸

2018年03月19日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:27:53.64 ID:1KNxa5v1
阿房丸


慶長年中、池田輝政が大船*を高砂川で作ったものの
その船を出すことがなかったので、朽ちるままになっていた。
福島(正則)殿がこれを笑って、その船を阿房丸と名付け天下の嘲弄とした。

(その後大坂の陣が起こったので)輝政の智謀は測りがたいと言われたという。


――『翁物語』

* 『池田家履歴略記』によると長さ三十三尋、横十三尋の大船と一緒に
  千石余りの大船を数百艘作ったとされる。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:55:47.57 ID:EcVepkc3
正則も「ああ輝政のように船を用意しなかったばっかりに
むざむざ大坂の福島屋敷の兵糧を秀頼公の籠る大坂城に運び入れられてしまうとは」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 11:52:44.73 ID:uRoEdMkP
幕府の許可もなく大船を持つとはけしからん内地に国替えさせよう

紀伊守殿は利口ぶっている

2018年03月02日 18:04

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/02(金) 00:03:44.89 ID:P+np5evY
紀伊守殿は利口ぶっている


浅野紀伊守(幸長)殿は(池田)輝政公の妹婿であるが、仲はよくなかった。
(輝政公は)紀伊守殿は利口ぶっていると言って嫌っていたという。

尾張の名古屋城普請の時、紀伊守殿が口の上手い者を使者にして
輝政公のところによこして
「このたびは名古屋普請ですので、駿府や江戸に向かわれる際は立ち寄って
 普請を見ていかれるべきだと存じます。輝政公も御立ち寄りあるべし」
と申し伝えてきたが、輝政公は同心されなかったので、その使者を呼ばれて
「いかにももっともなことです。浅野殿は尾張殿(徳川義直)の御筋目に
 なられたので一段と分別が付いたのですね。私も立ち寄った方が
 首尾よく進むのでしょうが、私は不知恵者なのでこのようなことを
 するべきだとは気が付きませんでした。このような分別を一度しても
 続けられるとは思いませんから、立ち寄ることはないでしょう」
と拗ねた御返答をした。

浅野殿はこのような拗ねた返答はあんまりだとご立腹されたという。


――『烈公間話』


天下に名ありし者ども

2018年02月11日 16:32

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 03:48:33.01 ID:kn27m74I
天下に名ありし者ども


関ヶ原の戦いの後は、功名がある浪人が多くいるようになった。
池田輝政公は播州へ御入国された後、"天下に功名を顕す者"と聞けば
禄の多少を選ばず、その人相応に召し抱えられていたので
我も我もと浪人が御当家を望んで来るようになった。

浪人の取次は若原右京に仰せ付けられていたので、表向きは若原が
勝手に奉公構の浪人などにも堪忍料を遣わしたことになっているが
実は輝政公の御意向からしたことであるという。

輝政公が御逝去された後、御葬儀の場で大勢の浪人たちが
「今世に希なる名将と別れたことは身の不幸である。最早世に望みなし」
と御霊柩を拝し、御儀式が終わると姫路城下から離散した。
このときの浪人の家が因幡(鳥取池田家)には多くあるが
これは忠継公忠雄公光仲公の御代に改めて召し出されたのである。

浪人を密かに扶持しておいたのは"天下に名ありし者ども"だからだろうと
古老が物語したのを國府内蔵之丞が聞き及んだので、話の由を聞いた。


――『因府夜話』



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:42:30.03 ID:JSpUq3d3
>>630
忠継と忠雄は岡山時代に召しだして国替えの時にまんま鳥取に
移動したのか長吉(恒興三男で初代鳥取藩主)やその息子と
利隆や光政が召しだしたのが鳥取に土着していて国替えの時に
鳥取藩士として残ったのかそのあたりがよーわからん
少なからず忠継と忠雄が鳥取藩主として召しだしたというのは
まずあり得んのは確かだけどな

どうして一張の弓をもって

2018年02月04日 17:19

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 11:42:28.57 ID:RnpmeMsj
どうして一張の弓をもって


(池田輝政の)船奉行、菅若狭*1は雪荷*2が村取り*3した良弓を持っていた。
国清公(輝政)がそれをご覧になり
「さても引き心地のよい弓かな」
と言われたので数日弓を留め置いた後、弓を返した。

そのとき(若狭が)この弓を大久保何某に贈ってしまったので(輝政の家臣の)
中村主殿がこのことを、(輝政と)話をしたときに何気なく申し上げたところ
(輝政は)意外にもお怒りになり、悔しいことと仰せられた。

丁度そのとき菅が出仕してきたため、伺候していた者は手に汗をかいたが
(輝政は)菅を呼び出すと、普段より懇ろに菅と談話され、鴨の羹を与えられた。

その夜、主殿が伺候して
「あのように気遣いされるのは、御軽薄なことです」
と申すと、国清公は笑われて
「どうして一張の弓をもって、勇功の士に換えられるだろうか」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』

*1 淡路水軍の菅達長の次男で小早川秀秋に仕えていたが、その死後輝政に仕えた。
*2 弓術の流派、日置流雪荷派の祖の吉田雪荷のこと。
  雪荷の村取りの技術は天下に名高いと言われていた。
*3 和弓の額木や関板を鉋や小刀で削って仕上げること。


池田利隆、生母との逢瀬

2017年12月07日 18:58

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 19:44:01.42 ID:wehhV3dI
池田利隆、生母との逢瀬


池田輝政の正室絲姫(中川清秀の娘)は、天正12年に利隆を出産し
その後病気になり実家の中川家に帰ったとされる。
『池田家履歴略記』では、絲姫は利隆の出産後に出血が収まらず
物狂いのようになってしまい、遂に治らなかったという。
真偽はともかく、輝政が督姫を継室に迎えた後も池田家と中川家には交際があり
関ヶ原前には絲姫の弟・秀成が輝政の仲介によって家康に忠誠を誓ったりするなど
池田家側からの一方的な離縁でなかったことだけは確かである。

『中川氏御年譜』でも、慶長13年に
中川家の大坂屋敷に住んでいた性寿院様(清秀の正室で絲姫の母)が
岐阜様(絲姫。輝政と共に岐阜城に住んでいたことがあった為そう呼ばれた)と
小長様(秀成の兄秀政の娘)と一緒に中川家の領地の岡へ向かう前に
"松平武蔵守利隆様"が三人の送別の為に饗応をしたとの記録が残っている。

利隆は絲姫のことを引き取りたいと、中川家の家老にまで書き送ったものの
大阪の陣前後の騒がしい時期であったため、遂に叶うことのないまま
絲姫は元和元年岡城において五十歳で亡くなり、西光寺に葬られた。



池田輝政への呪い

2017年10月29日 19:16

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/29(日) 18:50:14.36 ID:TyHBz7w9
池田輝政への呪い

1609年(慶長14年)、城が完成して間もない12月12日の日付で、池田輝政に宛てた不気味な手紙が届いた。

それには輝政と夫人に天神(天狗)が取り付いて呪いを掛けようとしている。
「その呪いを解いて欲しいのなら、城の鬼門に急いで八天塔を建てて、大八天神を祀れ」と書いてあった。

これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。
そこで輝政はさっそく刑部神社を場内の三門内にお迎えし、祀ることにした。

ところがそれからも悪いことが続いた。
1611年(慶長16年)には、輝政がついに重い病気に倒れた。
そこで今度は、呪いの手紙に書いてある通りに、呪文を解く護摩祈祷を行い、
八天塔を刑部神社の横に建てると、輝政の病状は回復した。
その喜びも束の間、1613年(慶長18年)輝政は呆気なく亡くなり、その子供たちも次々に若死にした。

やはり、刑部大神の祟りに違いない。
「誰も居ないはずの天守閣に夜な夜な怪しい灯りがともり、大勢の人が泣き喚く声が聞こえる」
噂はその後も消えなかった。


ソース元 姫路城周辺情報サイト↓より
ttp://castle-himeji.com/dic/a/osakabe/



206 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 08:06:02.47 ID:YhjL3Wh0
これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。


池田輝政「何で太閤殿下や秀頼公でなく、私が呪われるんですかねぇ?」

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 08:22:55.65 ID:HvVIgT7R
だって引きこもりだよ?
遠出するなんて無理無理

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 11:58:06.47 ID:6fXAveTk
天守閣から年1回しか出てこない刑部姫w

209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 12:00:25.06 ID:p2EHdXT7
>>207
妹は遠く猪苗代から生首持参で遊びに来るくらいアグレッシブなのに、お姉さまの方が干物姉なんですか

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 12:10:47.86 ID:NdoPDHxu
そも狐なのか蛇なのか

211 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 12:18:37.77 ID:G+3TkRin
>>210
妹は亀姫だけど、猪苗代城近所の田んぼで大入道に扮した大狢が退治されたらお城で怪異が起きなくなったとか…
ひ、姫じゃないから別の妖怪だよな…

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 13:10:42.29 ID:awjLPz8q
引きこもりにご利益がある、
とすれば参拝?が増えるかな

鬼松出たか、堀出たか

2017年10月19日 21:18

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 20:19:59.21 ID:QI+GkoqQ
鬼松出たか、堀出たか


細川家臣・堀内傅右衛門は赤穂浪士を預かったときに接待役を勤め
『旦夕覺書』『堀内傳右衛門覚書』などの著書を残した。
曾祖父にあたる堀内構之助池田輝政に五百石で仕えていた。
以下は『旦夕覺書』からの引用。


祖母の妙菴は構之助殿の一人娘で幼少の時に鬼松と名付けられ
とても大切にされていたので十二、三才までは、門前を池田輝政公が
お通りされる時には召し連れてお目通りさせたので
「鬼松出たか、堀出たか」*
と(輝政公が)毎度おっしゃられたと(自分が)幼少のときに聞きました。

老父は昔話が好きで、妙菴に構之助殿のときの備前の名のある侍や
物事を尋ねたときには、誰は知行何程それは番頭足軽頭と
(妙菴が)一々覚えていて話されたことを(老父が)覚えています。
昔は他にも(妙菴と)似たような人が多くいたそうです。
(中略)
昔は女でも武士の子は男子の心を持っていたのでございます。

* 恐らく名字の"堀内"にかけた洒落



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 10:46:43.50 ID:XGaKRpq4
鬼松は何だろうと思って調べてみたら妙菴の幼名かよ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 20:28:54.82 ID:nnJM5Bc+
>>329
ちゃんと本文を読みなされ

池田の力、池水の流れ

2017年09月21日 18:47

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:13:46.10 ID:OnRT8wAe
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』



243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:19:26.80 ID:um2u10wi
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:22:46.98 ID:h/uZFlBu
待って
どっからが書状なの?

245 名前:242[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:45:49.91 ID:OnRT8wAe
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)

輝政公関ヶ原行軍順見の事

2017年09月16日 21:54

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:54:49.52 ID:KtXQnXKS
輝政公関ヶ原行軍順見の事


行軍のとき大将が諸軍を巡り見るのは古法であるが、関ヶ原合戦の行軍のとき
池田輝政公は諸卒の左の方をばたばたと(馬に)乗って走っていき
先陣の一番先で馬を右の方に折って、(前方を通って今度は先陣から)
諸卒の右の方を馬を地道に走らせて後陣まで順見したという。

戻るときに地道に走らせたというのは、(後陣から)先陣まで走らせるときは
諸卒が前へ行くので、早道に走らせないと追いつかないが
先陣の一番先まで行き右の方に折れて行き、諸卒の右の方で
(先陣から後陣へ)走らせるときは地道に静かに乗り戻ったとしても
諸卒は先へ行くので後陣まで地道に乗っても、間を取らないために
残らず順見しやすいからだという。


――『常山紀談』

地道:馬を普通の速さで進ませること。
早道:馬を速く進ませること。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 03:19:31.94 ID:eamhuJlz
当たり前じゃ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 08:11:09.45 ID:goG3qGCB
戦乱から100年遠ざかっているし、いろいろとわからなくなっていることとかがあるんじゃないのかな

君の為にして自ら為にせざるときは

2017年08月23日 18:23

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 03:06:48.06 ID:0sMZAtSc
秀吉が朝鮮を征伐した時、池田三左衛門尉輝政は船奉行の中村九郎兵衛に命じて兵糧を
肥前名護屋に船で運ばせた。中村は提灯2,3百と太鼓3,4十を買って名護屋へと到った。

時間は巳の刻で潮の状態も良かった。しかし中村は玄海ヶ島に船を止めてわざと日暮れを
待ち、亥の刻になって船を漕ぎ入れた。そして2,3百の提灯に火をともして連れ、3,4
十人が太鼓を打ち立てると、火の光が海中に写り、太鼓の音は城の上に広く響いた。

秀吉が使者を遣わして、「何者ぞ?」とお尋ねになったところ、「輝政の家来・中村九郎兵衛
が兵糧を漕いで来た船である」と答えた。秀吉は元来華美を好んだので中村の迎合は甚だ
秀吉の心に適い、すぐに秀吉は中村を朝鮮に渡海させなさった。

中村が朝鮮に到ると合戦はすでに無くなっていた。(中村朝鮮に到れば軍すでに解けぬ。)
その時、兵糧はまさに尽きるというところだったので、諸将は大いに喜んだ。

これは誠に中村に才略があったとはいえ、虚名であって実際の功ではない。しかし、主君の
ためであって、自分のためにするわけではない時は、少しは認めるべきであろう。

(是誠に中村才略ありと云へども虚名也、実功にあらず。君の為にして自ら為にせざるとき
は少しくゆるすべし。)

――『武将感状記』


督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で

2017年08月03日 18:19

督姫   
33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/03(木) 11:14:05.46 ID:o7Tvq0XV
督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で


兵庫県加古郡播磨町北本荘にある蓮華寺には
古い礼盤(本尊の前で導師が礼拝し誦経するための高座)がある。
ttps://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/rekishi/bunkazai/images/2012122316226.jpg
2012122316226.jpg

平成に入ってから内側に墨書で、宥恵というお坊さんが礼盤の寄進者等の名と共に
慶長14年に見た督姫の行列の様子を記していることが発見された。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/67/5499bb5e4cefffcc252b301616d6ab0e.jpg
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内容を意訳すると
『御前様(督姫)は、かご五、六十、お付の女性は三百人を超え、家臣などを合わせると
 総勢五千人余りの大行列で駿府に向かっていた。お供の贅沢で派手な衣装を見た人は
 目を驚かすばかりで「前代未聞有るまじき」と国中に広まる有様だった』

督姫は実際に慶長14年には息子の忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府に行き
(夫の輝政は恐らく篠山城の普請中)6才の輝澄に松平氏を授かっているが
仮に墨書が本当なら、民衆には余りに大げさな里帰りに見えたのかもしれない。


何宗であっても松を立てよ

2017年07月07日 17:33

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 10:57:24.12 ID:18PP1XD/
何宗であっても松を立てよ


ある年の十二月晦日に興国公(池田利隆)が櫓に上り
家臣の高木内記の家をご覧になったが門松がなかった。
「どうして門松を立てないのか」
と(利隆が)尋ねたので、内記は
「それがしの宗旨は一向宗であるので、いつも松かざりもいたしません」
と答えたが、興国公は
「何宗であっても松を立てよ」
と仰せられたので、すぐに御厨から人が来て門松を立てたという。


――『池田家履歴略記』

浄土真宗の門徒が神道由来の門松を避けていたというお話。



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 15:29:45.75 ID:uVcwbxIo
浄土真宗の人が自分のこと一向宗っていうんです???

我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから