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ただ一つ、申したい事

2021年02月24日 19:20

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 17:14:21.51 ID:LWZDkCAy
池田三左衛門(輝政)殿の家老・伊木清兵衛が病に臥して、既に末期に臨んだが、
「我、今生の望みある也。今一度、君の御目にかかりたき也。」
とあれば、これを三左衛門殿聞こし召し驚かれ、急ぎその家に至り、枕に近づいて声をかけた

「いかに清兵衛、一体どうしたのか。これほどの事と知らなかった事こそ、私が疎かった。
思うことがあるのなら、言い置くべし。その望みに従おう。元より、そなたの跡目については、
相違無いこと言うに及ばない。」

そのように、非常に懇ろに仰せになると、清兵衛は頭を上げ、両手を合わせ

「これ迄の入御有り難く、冥加至極です。私の遺跡の事は、愚息の覚悟次第に仰せ付けになって下さい。
兎にも角にも、御はからいによる事ですので、いささかも心にかかる事はありません。

ただ一つ、申したい事と言えば、これを申さぬまま空しくなれば、妄執にもなってしまうでしょうから、
恐れながら申します。

公は常に物事に、掘り出しを好ませられる御病があります。中でも士の掘り出しを専らとされるのは、
よからぬ御病です。
士はその分限よりは、一段よろしく宛行わせ給ってこそ、長く御家を去らず、忠節を存ずるのです。」

そう申すと、三左衛門殿はつくづくとお聞きになり

「只今の諫言、道理至極である。その志、山よりも高く海よりも深い。生前に於いて忘却する事はない。
それについて、どうか心安く思って欲しい。」と、清兵衛の手を取り、涙を流して、名残惜しげに
別れられた。君臣の情のあはれなる有様、その後、家風ますます良くなったという。

備前老人物語

掘り出しというのは、低い身分から急激に取り立てるという事ですかね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 14:04:46.13 ID:X1ui9xHZ
シンデレラストーリーみたいなのはみんな好きだからな
え、私なんかが馬廻衆に?みたいな
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池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話

2021年02月05日 18:11

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:12:06.78 ID:LioMPBtl
池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話


・池田家が姫路城から出た後も、天守閣の五重目に池田輝政の具足や武具が残されていた。
 ところが酒井忠道が、天守閣で怪異に遭ったという理由で神社(刑部神社?)を作ってしまった。
 本当は輝政の甲冑が邪魔なので、しまうための口実が欲しかっただけだろう。

・土人(姫路の民衆)は池田輝政が作った姫路城の堀を「三左衛門殿堀」と呼ぶ。
 池田治政の室は酒井忠恭の娘だが、輿入れしたときに三左衛門堀と呼んでいたらしい。
 土人でさえ"殿"を付けているのに……。

――『思ひ出草』

酒井忠道も忠恭の娘も冠山と同時代の人物だがよっぽど印象が悪かったらしい。



543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:25:47.88 ID:P3bpF9A9
やっぱり転封の時の引き継ぎって揉めるんだな
酒井雅楽頭家は井伊と並ぶ大老を出せる家で表立って文句は言えんだろうし痛し痒し

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 18:28:53.75 ID:l/ixw+YE
>>542
まんが日本昔ばなしでもやってたね
天守の怪談

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 20:54:55.53 ID:ZxrGO+IB
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-193.html
鍋島直茂と佐賀城の幽霊 ・悪い話

こっちの刑部姫はちょっとかわいいのに

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11015.html
池田輝政への呪い

こっちはおそろしい

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5655.html
ついでに妹の猪苗代の亀姫

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:33:41.25 ID:yYnETLgR
>>543
検地帳を燃やしたり青田刈りする気狂いもいるしな

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:51:19.31 ID:Fns5OabQ
>>546
地主とのトラブルが一番ヤバいもんな

丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

2020年12月16日 17:32

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/16(水) 00:15:38.93 ID:12ezX11T
丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

池田家家老の丹羽山城は、四男の兵部を幼少から幕府に証人(人質)として詰めさせていた。
ところが寛永元年(1624年)兵部が18才になったので、76才の山城は江戸に下って
酒井雅楽頭(忠勝)にそのことについて色々嘆いたのでそれが将軍・家光の上聞に達した。

山城には登城とお目見えが仰せつけられて、御前で雅楽頭から
「勝入様(池田恒興)の御討死の様子をくわしく言上するように」
と言い渡されたので、山城は
「慎んで申し上げますが、即座に委細の義を申し上げるのは難しいので考えて言上します」
としばらく考えてから、物覚えの通り有り体に言上した。

そうしたところ、前々から聞いていたことと少しの相違もないので(家光が)神妙にお思いになり
山城は上意で御紋付きの御羽織を拝領した上、証人も御免になったので
兵部を鳥取へ連れ帰ることが出来たという。

――『吉備温故秘録



謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



池田光政の少年時代のこと

2020年11月02日 16:30

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/02(月) 14:21:50.00 ID:gpMCPYrC
公(池田光政)が東照宮(徳川家康)に御目見得有ったのは、五つの御歳であった。
その時、御脇差を拝領し、公が御膝下近くに居られたのを、東照宮は公の鬢髪をかきなでて

「三左衛門(池田輝政)の孫であるか、早く人になり給え」

と仰せになった。この時公は、御拝領の脇差をするりと抜いてご覧になった。東照宮は「これは危ないことだ」
と、ご自身で柄を持たれ、鞘に納められた。

公が退出される時、「眼光のすさまじき、只人ならず」との東照宮の上意が有った。

公が未だ幼き時、夜ごとに寝床に入られても、眠られること無く、夜明け頃にわずかに枕に伏された。
近侍の人々は怪しみ、「いかなる事でしょうか?又は患われている事でもあるのでしょうか」と尋ねたが、
しかじかと答えられなかった。

ところがある夜より、非常に良く寝られるように成った。そこで近侍の人々も又々その故を問うた所、

「私は父祖のお陰で、このような大国を賜っっている事は、自分の分に越えた事だと思っている。
然れば、この国民をいかがして治め養うべきかと、様々に心を尽くして思慮していたために、久しく
寝られなかったのだが、思いついたことが有って、昨日論語を読ませて聞いたが、そこで私は
『君子の儒となりて、国産を教えやすんずべき』という事を知った。
これを決断した上は、別の思慮も無く、良く寝られるようになった。」
と仰せになった。
(御歳十四の御時の事という。一説には公が学問を思し召し付かれた最初である)

有斐録

池田光政の少年時代のこと



信友の忠言

2020年06月24日 18:04

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 14:46:54.84 ID:6beaGiQ9
信友の忠言


寛永年中、(鳥取藩士の)佐分利九之丞(成忠)が天草(島原の乱)の御使者として来たときに
朋輩たちの暇乞いで「すぐに首尾よく帰宅できるとよいな」と挨拶する者ばかりだった。

その中で松浦次郎右衛門という老士が、日頃親しくしていたので名残を惜しみ、智頭駅(鳥取県智頭町)まで
見送りにきた。そうして暇乞いとして
「其方六十に及んで、生き延びても何の甲斐もないだろう。天晴死を潔くして高名されよ。
 今生の思い出を気にして、手を空しくしてでも帰宅し拙者に再会しようなどと思われるな!」
と言ったので、九之丞も
「言われずともその覚悟であった。死んだときは心安く思ってくれ」
と機嫌よく大きく笑って立ち別れたという。実に信友の忠言というものだろう。


――『雪窓夜話』

九之丞は原城総攻撃の際に本丸を目前にして戦死し、その功で子孫は千石加増された。



左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならない

2020年06月06日 17:02

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 12:24:15.65 ID:r7q0Mypy
左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならない


池田家臣の丹羽山城は生涯三十七度の戦で、一度も遅れを取ったことがないという。
信長に仕えていた父・助兵衛が桶狭間の戦いで戦死してしまったので、翌年(山城が十三のとき)
信長が池田恒興に
「丹羽助兵衛のせがれが物になりそうな眼差しをしているので、使ってみるように」
と仰せられたので、伊木清兵衛(忠次)の取次で恒興に召し出された。
荒木との戦で活躍し本能寺の変後に筒井順慶への使者を務め、家老として千五百貫の知行を
得たものの、山城は思うところがあり天正年間に子供と一緒に池田家を立ち退いた。
そうしたところ浅野紀伊守(幸長)に呼ばれ、三千三百石で仕えることになったという。

文禄年中の高麗陣(文禄の役)、木曽城(もくそ城、晋州城の別名)の浅野紀伊守殿の攻め口で
山城が一番乗り、亀田大隅が二番乗りしたが、そこに浅野左衛門佐(氏重)が一番乗りしたと披露した。
山城と大隅は詮議をしようとは思ったものの、左衛門佐は家老で御一族なので沙汰に及ばなかった。

慶長五年、樫原彦右衛門が詰めている砦を紀伊守殿、福島左衛門大夫(正則)殿、そのほか関東勢が
攻めているとき(岐阜城の戦い)、このとき山城は法名の徳入と名乗るようになっていたが
馬上で槍を提げて出たところ、敵方からしっかりした者が一人、徳入を目掛けて一文字に馳せて来た。
徳入は槍で内冑(額)を突き、二度目に胸板を突いて倒し、家来の者に下知して首を取らせようとしたところ
味方からすはだ者が一人来て、自分の高名にするのでこの首を下さるようにと徳入に頼んできた。
徳入が「誰が家人ぞ」と尋ねれば浅野左衛門佐の何とか八郎左衛門と申したので首をやった。
八郎左衛門はこの首を左衛門佐に持参し、その手の中で一番首として恩賞にあずかったという。

ところがその後八郎左衛門は「自分が高名したとき、徳入に奪い首をされそうになりました」と
申すようになったので、その話が浅野家中で知られるようになり
「徳入の日頃の武辺もみな左様に表裏のことをしたのでは」と噂されるようになったので
徳入はそれを聞き左衛門佐にその噂のことを伝えたものの、左衛門佐は取り合わなかった。

関ヶ原の後紀伊守殿が諸士に一献を進められる酒の席があり、その席に左衛門佐と徳入もいた。
徳入が
「よい機会なので、私の表裏の噂の実否について左衛門佐に伺いたい」
と申すと、左衛門佐は
「ちょうどそのことだ。家来八郎左衛門が心馳せの働きをいたしたとき、奪い首をしようとしたと聞き
 徳入には不似合いのことなので、日頃の武辺も表裏なのだろうかと思っていたところだ」
と申した。徳入は
「さては事実だと思っていたのか。その八郎左衛門が取った首は内冑に槍傷がある。かの八郎左衛門は
 すはだで腰刀一つを頼みにしている者なのに、取った首に槍傷があるのだ。吟味もしていなかったとは!
 初めからこのことを申し上げてもよかったのだが、一度取らせた首なので二度は申さないことにしていた。
 私は内冑と胸板に槍傷を二ヶ所負わせたが、八郎左衛門が来たとき、すはだのような者が戦場で首を取り
 高名を望むのはもっともだと思って、首を取らせた。八郎左衛門は下臈なので悪口を申すのは仕方ない。
 しかしこの席でこのことを申し出たのは、左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならないと思ったからだ。
 日頃心にはかけていなかったが、表裏のことと言えば(左衛門佐が)高麗陣で木曽城一番乗りと申したことは
 隠れなき表裏だったと一番乗りの私と二番乗りの亀田大隅は知っている。だからこれも偽りなのだろうなあ」
と詰めたので、左衛門佐は一句も告げずに赤面し、喧嘩になりそうな様子になった。

紀伊守殿が座中へ目を配りながら「徳入老、聞き届けたので堪忍してくれ」と仰せられたので
双方共に引き下がった。その後八郎左衛門は斬罪になったという。紀伊守殿が紀州へ転封になった際も
徳入はお供したが、同年の十二月に播磨宰相様(輝政)が徳入の帰参について紀伊守殿に断りがあり帰参した。
慶長六年に四千石、十年には千石加増され五千石となり、徳入は寛永九年に八十四歳で亡くなったという。


――『吉備温故秘録』



267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 12:29:06.97 ID:crlImcgN
ニワスケベエ

「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」

2020年05月27日 18:19

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 16:35:46.90 ID:rwYxnWI8

池田家臣の若原右京は殊の外肥満した大兵で、顔に指で押せそうな程の疱瘡の痕がびっしりとあった。
月代を半額にし長い刀を携えいかつい見た目ながら、弁舌鮮やかなゆゆしき男であった。
国清公(池田輝政)の御威勢が増していくにつれ、(池田家は)諸国の浪人を数多く扶持することになった。

ある日後藤又兵衛(基次)、明石掃部助(全登)、小倉作左衛門(行春)らが姫路に登城し
広間に陣太鼓が数々あるのを見て、又兵衛が
「当家で貝太鼓を司る者は誰であろうか」
と聞くとみな「知らず」と言った。ちょうど右京が縁側に通りかかったので再度聞いたところ
又兵衛が言い終わらないうちに「我が司っています」と右京が言った。
掃部が「武者奉行は誰であろうか」と聞くと、右京は
「某が承っています。諸法度相詞、物見のことまでみな我から申し付けています」と言った。
作左衛門が「陣場奉行は誰であろうか」と言うと、右京が「某です」と言ったので
各々のお尋ねはここまでとなった。

「総じて当地(姫路)は上方への往来があり、海陸肝要の所です。しかも近くには諸浪人の集う大坂が
 あり、秀頼公は若輩なので関東(幕府)の御内存が将来どうなるか分かりません。もし変があればと
 輝政は先手の旗本軍勢一切の備配りを兼ねてから定め置かれています。そのほか三カ国の国法軍法
 御不審のことがあれば尋ねてください」
と右京が言うので、三人は不興顔で言葉もなかった。
そこに「殿様御召しなり」と右京が呼ばれ、座を立った。掃部助は
「さてさて、尊大なことを言う憎き奴かな。あの男の働きといえば、関ヶ原一戦のみである。
 我らの前で、まるで人がいないような過言をするのは出しゃばりではないか」
と憤った。又兵衛は
「右京の無礼は譬えられないくらいだが、さりながらあの頬玉や人を手のひらに握り込むような
 様子は只者ではない。この家中で一人当千の者だろう。只今吐いた広言程度はやれぬ者ではない。
 太守は人を選び取る上手である」
とかえって感嘆したという。

それゆえ(右京は)播磨の童謡に
「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」
と謡われたという。これにてそのときの権勢思いやるべし。


――『池田家履歴略記



雀部與作、先祖の領地で

2020年05月05日 16:54

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/04(月) 19:28:04.66 ID:l3w2F9Wf
雀部與作、先祖の領地で


雀部與作の祖父は三好長慶の家臣であった雀部伊豆であり、父の代から池田家に仕えるようになった。
大坂の陣では池田利隆にお供したが、摂津の大島で焼き働きをすることになった。

しかし大島は先祖の在所知行であったため、住民たちが與作のところに詰めてきて
「何とぞお焼き捨てなさらぬように」
と申し続けていたが、既に決まったことなので與作は許容しないでいた。
與作は香西縫殿の姪婿であったので、そのことを聞いた縫殿が利隆へ申し上げた。

利隆は御前に與作を呼ばれて「大島はその方先祖の知行か」とお尋ねになられたあと
「御陣の障りにもなるまいし、そのままにしておくように」と縫殿に仰せ付けられた。
大島の住民たちはこのことを有り難く思って、御馬のぬかわらを世話したという。


――『吉備群書集成



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 00:56:32.61 ID:Enea/5dy
領地の任官は絶対させないし僭称も許さないと公式にした江戸幕府の意味不明さはなんなんだろうな

池田恒興の父母の婚儀

2020年03月15日 16:17

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 15:40:05.79 ID:TgO80z9z
池田恒興の父母の婚儀


池田政秀(恒興の祖父)は男子がいないので、娘(恒興母、養徳院)に婿養子を望んでいた。
そのころ産婦に巧者の取揚婆々というそこかしこに雇われる者がいて、滝三四郎(滝川貞勝次男という)と
政秀の家にも出入りをしていた。

(取揚婆々は)よく両家のことを知っていたので、ある日政秀に
「滝三四郎殿は元来筋目よき御人です。幸い流浪していらっしゃるので
 御息女を差し上げられるのならば御肝入りしますよ」
と言ったので政秀は
「そうしよう。我等の家は乏しくて譲るような物はないが婿養子にしたいものだ」
と返答したので、この婆々が三四郎殿のところへ行ってあれやこれやの仲立ちをし婚儀が整ったという。


――『吉備史談会講演録



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 21:03:43.17 ID:aVZrvdsR
>>765
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は滝三四郎だ!いいかい、滝三四郎だよ!」

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 10:36:50.17 ID:lJIU+1A0
>>766
こうでは?
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は池田三四郎だ!いいかい、池田三四郎だよ!」

恒興母は信長に乳首を噛みきられなかった人だね

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 11:57:27.66 ID:VPD04LvA
鋼鉄の乳首を持つ女

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 12:35:32.79 ID:VoYlb5wn
小宮三四郎のネタだね。つまんねーから消えろ!

池田輝政、関ヶ原本戦での配置について

2020年02月15日 13:56

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:18:31.52 ID:5WMuj2xH
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について


(関ヶ原の戦いのとき)14日に家康は赤坂岡山に着陣し、池田輝政を召された。

明日の合戦には毛利秀元、吉川広家などが南宮山に陣し、内応があるものの
未だに実否(真偽)が分からないので、それに対して陣するようにとの命であった。

そのとき輝政は南宮山の敵を迎え撃つことは本意ではなかったので
願わくは先鋒に進み、石田、島津などと戦うことを望まれたが許されなかった。

「(輝政は)我の後陣なので、ぜひともこれに従うように」(原文:我後陣なればまげてこれにしたがふべし)
と(家康の)仰せがあったので、仕方がなくこれに従った。


――『寛政重修諸家譜

後ろを任されるのは名誉なんだけど……という話。



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:32:38.01 ID:do7+uUyC
それ良い話?悪い話?

御両君の御心合し候

2020年02月11日 12:36

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 01:15:59.58 ID:AgX5X1rx
御両君の御心合し候


興国公(池田利隆)が備前にいらっしゃったとき、黒母衣の指番が一人欠けてしまったので
このことを姫路に窺うことが二度あった。
国清公(池田輝政)の仰せは、武州(利隆)の旗本の士でその器に当たる者であればこの職を命じて
構わないので、予の指図には及ばないとのことであった。

このとき興国公は津田将監を呼ばれて
「此度汝を姫路に遣わす。指番母衣の事を予ではなく大殿の御指図を承って帰ってくるように。
 弓矢のことは重きことなので、若輩のそれがしの愚眼の証とはしたくない」
と仰せられた。
津田は仰せの通り慎んで命を承ったが
「されども大殿の御前で、君の御底意はどうなのかと仰せがあったら誰と申し上げるべきでしょう」
と申したところ、興国公は
「もしそうであるなら、我が旗本の沼市蔵がこの役を勤めるべきである」
と仰せられた。

津田は御前で料紙を乞い沼の姓名を書き記して懐に仕舞い、姫路に参り国清公の御前に出た。
件の指番のことを申し上げると、国清公は
「武州は性質律儀第一、念の入った弓矢の沙汰をするので、そうであるなら沼市蔵を命じるべきだろう」
と仰せられたので、津田は頭を畳に付けて「御両君の御心合し候」と言って、件の書き記した沼の姓名を
扇に据えて差し上げたので、国清公は大いに津田の御用意の程に感心され
「汝の岐阜での働きは今でも覚えている。若き武州によく仕えよ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 02:06:41.23 ID:H65jIjyD
>>639
三河野郎並みに面倒くさい

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、一器量あり

2019年09月16日 16:11

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 16:04:14.18 ID:YGXmz8gp
去る人は酒飲みで上戸だという。しかしながら、他所では飲みなさらなかった。

無理に一盃を盛れば「没義道好き」と毀ち、座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、
一器量ありと見え申したのである。

その人の名を(池田光政は)仰せられたが、忘れてしまった。小身の御旗本衆ではない。

――『烈公間話』

戦国期の人ではないかもしれませんが



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 22:48:38.12 ID:XdcEiAyO
>>406
本多正純「してその者の名はなんと?」φ(`д´)メモメモ

伴道雲が御馬口に取り付き

2019年09月02日 15:53

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 21:03:18.90 ID:J7AQ/r7P
長久手にて勝入公(池田恒興)が御討死致されたと輝政公(池田輝政)は御聞きになられ、
敵陣へ駆け込もうとなされた。

これを伴道雲(原注:大膳の父である)が御馬口に取り付き、「大殿様は御討死ではあり
ません! 御退きになられたのを私は見申した!」と申して、「こちらへ御越しなされ!」
と申し、無理に御馬を引いて退いたという。

――『烈公間話』



重ねを厚く、大平に御打たせなさり

2019年08月26日 19:36

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 18:02:06.81 ID:lxfhKvwH
ある時に信長公は御成敗人(原注:信長の舎弟・武蔵(織田信勝)という)を仰せられた。仕手
(刺客)は討ち損じて(原注:3人に仰せ付けたが、討ち損じたという)かの者が逃げるのを、
廊下で勝入様(池田恒興)が刺し殺しなさった。

その後、(恒興は)御家来どもに御物語りされ、「脇差は何が何でも手強きものを用いるべし」
と仰せられ、前述の時は薄き御脇差で、ひわひわして(細く弱々しい様)御難儀であったとして、
その後に新身を大道(刀工の名)に重ねを厚く、大平(大平造)に御打たせなさり、御陣刀に御
用いとなられた。

御討死の時まで御差しになられ、今は永井家にあるはずである。

――『烈公間話』



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 12:56:02.40 ID:lqWpBlnz
まあ実際使うのは脇差の方かもしれんな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 13:19:00.08 ID:4VVq4NdH
上意討ちされても脇差でなら反撃してもいいとか面白い決まりあるよね

池田輝政の最期

2019年08月20日 16:44

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 15:12:23.45 ID:p+fNZlzi
午10月の(池田光政の)御物語り。

輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。

御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。

以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。

――『烈公間話』



328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 20:47:37.86 ID:1pbIn3oQ
輝政はラナのように鳥と話せたのか

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 22:38:50.73 ID:5gUQ1Yuj
例に出すなら公冶長(孔子の婿)にすべき

若輩でそのうえ理に当たる故

2019年08月19日 18:06

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 16:33:51.23 ID:LMV/o/Q5
生駒左近(原注:光政様の家士である)は織田常信(常真。織田信雄)のところに居り申したという。
(生駒が)小小姓である時、(信雄は)何の用あってか居られた場所で「ここより内へ人を入れるな」
と御申し付けであったという。

その口で番をしている時、出頭の者(寵愛を受けた者)が通ろうとしたので、前述の事を申して留め
たが、聞かずに通ったので切り殺した。若輩でそのうえ理に当たる故、褒美されたという。

仁体静にして公儀就き良し。これ故か武州様(池田利隆)から光政様(池田光政。芳烈公)の御守に
附けられた。しかしながら少し私曲があり、それ故か生駒家は絶えた。下方(末裔という意味?)は
真っすぐである故か、今も相続申していると(光政の)仰せであった。

庚申11月19日、備前西の丸御内所での御物語り。

――『烈公間話』



149 名前:148[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 02:51:05.66 ID:/g8X7WjZ
>>148
ググったら下方覚兵衛という光政の傅役がいたようなのでその事みたいです>下方

あるいは曰く勝入が討たれたのは

2019年04月18日 16:16

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 14:49:29.28 ID:r+wjkShL
(長久手の戦いの時)

また長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は額田の北、犬山に本陣を置く。犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。

犬山から額田までは5里程あった。勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、「私が良き人数を率いて
三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにしてその妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできま
すまい」と申した。これに太閤は曰く「思うようにはならん」として許さなかった。しかし勝入は明日
また赴き、固く乞うて曰く「今現在においてこれ以上の謀はありません」と申し、太閤はこれを許した。

勝入父子は共に出発した。しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、まず岩崎に赴
こうとする。勝入は案内者なので道すがらの百姓に「運啓良ければ(勝利したならば)良くしてやろう」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。

犬山と岩崎の間に長久手あり。勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って勝入が
来るのを待つ。(家康は)もっとも案内者なので百姓等に「この度勝利を得れば、3年作り取りにさせ
よう」と言った。勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、「勝入の先手はすぐに岩崎に取り
掛かり、城を攻め破った」との報告があった。大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢
を皆行き過ごし、勝入本陣に取り掛かった。

(原注:一本には大御所以下『東照宮は前夜から長久手に至り給い、勝入が来るのを今か今かと待つ。
勝入は案内者なので百姓等に「この度勝利を得たならば、3年作り取りにさせよう」と言いつつ、長久
手に至ると夜は未だ明けず、東照宮方の軍勢は静まりかえっていた。勝入の先手は同勢を選って東陣へ
取って掛かる。安藤帯刀…』云々と続く)

安藤帯刀(直次)は先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。それが勝入とは知らずに、
帯刀は「坊主首を取っては面目がない」と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。その後
に永井右近(直勝)が来て死首をやすやすと取り、後まで功に誇るという。

――『老人雑話』

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 15:58:30.06 ID:r+wjkShL
>>886
あるいは曰く勝入が討たれたのは、一合戦して勝った勝入が後にまた敗軍して士卒を失い、疲れて1人
での帰りがけに討たれたという。

――『老人雑話』



丸山豊後は武勇の名あり

2019年03月31日 21:24

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 19:35:04.80 ID:n3TCtUyB
丸山豊後は武勇の名あり。備前宮内少輔(池田忠雄)に仕え、常に直言して忌諱を避けず。

ある日の大臣饗で宮内少輔は起きて衣服を着替え、加藤主膳が刀を取って近侍した。主膳は
宮内少輔から男色の寵を受けていた。豊後はこれに言って曰く、

「用足しに行く時は、大人といえども屁をするものだ。御側に寄るな」
(行便時雖大人豈不氣泄哉勿逼近云)

宮内少輔はこれを聞き、笑って止まなかった。

(原注:一本にはこの一条なし)

――『老人雑話』