我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから
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牧野成里、池田輝政の仲介により帰参

2017年06月07日 18:54

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 02:05:06.33 ID:MvKnZtxw
牧野成里池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:44:40.99 ID:49cEHkDI
この時輝政も御次の間の襖際に蹲って仰せを聞いていて
「(この上は加増された備前に代えても伝蔵の事を執り成さねば……)」
と思っていたが、(家康が)江戸の者を呼べと仰せられ
(近臣が)鵜殿兵庫重長がおりますと申したところ
「兵庫を江戸に遣わして
 『ここで勇士を一人掘り出したので差し上げる』と申せ」
と仰せられたので、輝政が喜びを堪えることが出来ず
御次の間から走り出て、上意に対してありがたいと感謝すると(家康は)
「成里は大剛の者なので永らえていて喜ばしく思ったのだ」
と仰せられたので、輝政は
「近日召し連れてまみえさせます」
と申せば
「我が会うまでもない。江戸に遣わし将軍家にまみえさせよ
 幸い明日は酒井忠世が井伊直政を連れて江戸に参るのでそれと同道させよ」
と仰せがあった。

輝政が御前を出ていこうとしたところ、近藤石見守秀用の一族の某が
輝政の袖を引き
「秀用の事もこの機会にお許しを願って下さい」
と言った。輝政は
「牧野の事だってかろうじてお許しをもらったのだぞ。秀用の進退など
 どうして気にされることがあるだろうか。我が力の及ぶ所ではない」
と拒めば
「あの方が今日ほど御機嫌のよいことはまたとないことでしょう
 ぜひともお執り成しになって下さい」
と言ったので、輝政が再び御前に出て申し上げると
すぐに恩免をもらえたので、輝政は言うまでもなく
秀用の喜びも尋常ではなかった。

かくして成里は江戸に参り、還俗して旧名に戻り三千石の新地を賜った。
のちに叙勲して伊予守と称したという。


――『東照宮御実紀』『武徳編年集成』

*百人一首に選ばれている藤原基俊の和歌
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」の隠喩。
基俊が息子の官職を人に頼んだが得られなかったときに詠んだもの。



天下は御前に参るでしょう

2017年05月29日 18:37

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 01:32:19.40 ID:N9Ip1c+w
天下は御前に参るでしょう


萬治四年の二月三日、備前において(池田光政が)焚き火をされているとき
五郎八様(池田政種)、信濃殿、八之丞殿、猪右衛門殿に御咄された。

「関ヶ原御陣に大坂の諸大名衆が人質を出したときのこと
 話に出る津田左京は大坂での留守居を首尾よく務めたので
 輝政様は殊の外御機嫌であった」

「その左京は左源太にとってはなんだったか……父か祖父か」
と言って重次郎(左源太の息子)を召され御問いになると
「祖父です」
と(重次郎は)申し上げた。
「父は何と云ったか」
と(光政が)仰せられたので
「彌次右衛門と申します」
と申し上げた。
そこにいて聞くようにとの御意だったので(重次郎は)御前に伺候した。

(光政の)仰せに曰く
その左京は粗忽者だったので輝政様へ
「斯様に御前が御全盛であれば、追付天下は御前に参るでしょう」
と申し上げると、輝政様は殊の外御機嫌を損ねられ
「常の者(無役)ではないので、成敗を申し付けるところだが
 左京は若く子細があるので免じる。
 再び免じることはないので、つつしむように」
と仰せられた。

「子細と仰せられたのは大坂の留守居のことだろう」

「このことについてよく覚えていたので咄したが、その時分は
 輝政様は御威勢が夥しく、姫路はもちろん備前にも諸大名が
 上り下りに寄られた。また輝政様が駿河に御越しのときには
 尾張様(義直)、紀州様(頼宣)などが阿部川まで御出迎えになられたという」


――『有斐録』


養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状

2017年05月16日 16:44

養徳院   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 18:05:48.54 ID:Es7c86KE
養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状


織田信長の乳母だった養徳院は、慶長13年10月16日に94歳で死去した。
非常に長寿だったために、実子と共に義娘である善応院(輝政母)にも
先立たれた養徳院は、慶長4年には輝政に遺言状をしたためている。

時期ごとに計四通あるが、以下は慶長8年に書いた最後の遺言状。
__________________________________

一筆書き置きます。私は八十九になり時間がありませんので申します。
私が果てましたら、長良の真福寺・鵜飼のあたりの知行八百石は
太閤様(秀吉)の御朱印通り相違ありません。
桃巌様(信秀)、総見院様(信長)より長らく知行されていることを
太閤様が御改めになり、そのまま長良八百石を賜ったのですから
妙心寺の桂昌院と護国院に、私が果てましたら寄付して下さい。
もし不届き者が何か申しましても、堅く仰せ付けて下さいませ。

私が果てましたときには、人の知らない内にすぐに焼いてしまって
志の事はあり次第で茶湯料にもすること
宙外(桂昌院の住持)へ申し置きます。
儀式よろずのこと御無用と、宙外へは堅く申し置きますので
後々の二寺のこと御油断なく御心懸けなさって下さいませ。

総見院様の御為に桂昌院は建てました。
護国院は勝入(恒興)の為、六親(親族全体のこと)の為に建てました。
ですから御油断なく御肝煎りして下さいませ。
其れ様皆々が御繁盛されているのを拝見してから
仏になることに満足しています。
返す返す二寺のことを頼みますので、詳しく申し上げておきます。

慶長八年三月廿一日の天赦日に書き置きます。めでたくめでたくかしく。

なお、今の大府様(家康)も、私に御目を懸けて下さいますので
(このことを)詳しく御申し上げになって下さいませ。
__________________________________

同年の2月12日、家康の将軍宣下の同日に輝政は少将に昇進している。


天下の干城

2017年05月09日 21:31

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/08(月) 22:35:32.82 ID:QgdMaSn8
天下の干城


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9934.html
↑の話の別バージョン

国清公(池田輝政)は烈祖(家康)の愛婿である。
播備淡三国を領し、恐れ多くも時の人はさかんに西国将軍と呼んだ。

人となりは剛毅にして沈静で、上には恭順に勤める。
倹素で珍玩を嗜まず、婦女を近づけない。
かつて亡命していた材武の士を招いて
米穀・金帛をもって撫養し、危急のときの備えとした。

常に人に語っていたことは
「人主は多くの士を養い、厳しく武備して
 天下の干城の材にするべきで、財を繋ぐべきではない」


――『池田志』

材武:「史記」から、才能と勇武があること。
干城:〔「干」は楯の意〕「詩経」から、楯となり城となって国を守る武人のこと。


我と等しき芹好き

2017年04月02日 16:46

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:13:42.79 ID:6QFGocbe
我と等しき芹好き


(池田輝政は)常に芹を嗜まれて、備前国御野郡に生えるものを上品として
この芹を取ることを禁じられた。
ある士がこれを盗んだので、百姓達はそのことを萩田庄助に訴えた。

庄助がそれを(輝政に)伝えると
「さてさて憎きことかな、それはただ取ったのか、あるいは盗んだのか」
と仰せられたので、庄助は盗んだのですと申した。
「我が留め置いた芹を、強引に取ったのならひとしお憎いことだが
 盗んだということは、きっと我と等しき芹好きではないだろうか
 そのままにしておくべし」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』


猿楽の日の論争

2017年03月24日 16:01

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 12:18:57.67 ID:EesewEeL
猿楽の日の論争


三河での話だろうか、(池田輝政が)あるとき御祝の猿楽を設けられた。
そのとき、今日は誰でも大きな音を出して踏み歩くのは構わないが
もし論争などする者があれば弁明させずに処罰するべしと命じられた。

自らも猿楽をなさっていたとき、拝見している者の中で口論が起こり
既につかみ合いになっていたため八田八蔵、梶浦太郎兵衛などが
走っていって取り鎮め双方を預け置いた。

御前に戻ると(輝政が)
「さっきは騒がしかったが何事だ?」
と尋ねられたので太郎兵衛は
「あれは山椒にむせていた者を傍に居た者が介抱していたのです。
 遠くから見ると誠に喧嘩のように見えました」
と申したので、国清公(池田輝政)は承知なさって
「それではもうよくなったか、汝が見て帰れ」
と仰せられたので、太郎兵衛は参り
「もうよくなりました」
と申した。

晩に件の両人が御前に伺候すると
「今日の山椒は"出来事"だったな」
と仰せられたという。


――『池田家履歴略記』



742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 09:45:10.89 ID:5MyGKhHW
山椒でむせるのが戦国なのか
七味でむせるのが江戸
コショーでむせるのが昭和

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 15:28:12.93 ID:UDgSMzCB
後の山椒大夫である

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:29:23.26 ID:G7jiN6nF
江戸時代、うどんの薬味として七味が発明される以前は、
胡椒をうどんにかけていたそうな。
この胡椒がいわゆるブラックペッパーの事かどうかは知らん。

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:37:47.41 ID:CqLihekp
山椒大夫というか安寿と厨子王は江戸時代より前だろう

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:54:11.56 ID:6BVBn8UD
九州の方じゃ唐辛子を胡椒と呼ぶらしいが

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:07:22.55 ID:BUdxZnGN
「胡椒」は唐辛子を意味する古語[1]。九州一部では方言として残り、ここでは一般的な「コショウ」ではなく「唐辛子」の事を指している。なお、「コショウ」は「洋胡椒」と呼んで区別する。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:22:10.84 ID:/jAVy11V
胡椒が日本に伝わったのは唐辛子よりはるかに前

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:32:07.07 ID:cp3xw1UF
落語の「くっしゃみ講釈」
(ある講釈師に恨みを持つ男がその講釈をくしゃみでめちゃくちゃにしてやろうと
最前列で胡椒を燻べようとするが、八百屋で売り切れていたため唐辛子を燻べる、て話)
のオチが九州ではできないな

男「この講釈師、いかさま師、おたまじゃくし
お前のくしゃみを聴きに来たわけじゃないわい」
講釈師「はっくしょん、あんた、私になにか故障(不満)がおありか?」
男「胡椒がないから唐辛子を燻べたんじゃ」

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 20:13:42.58 ID:3QnhJZkp
山椒にむせてたとか信じている馬鹿はいないよねコレ(´・ω・`)

糞瓶の運上まで取っていく

2017年03月21日 21:06

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 02:13:37.54 ID:ii+BI2aW
糞瓶の運上まで取っていく


石丸令歸とその弟の雲徹は播州にて召し出され[兄弟ともに御噺の衆という]
国清公(池田輝政)の御在国のときは姫路に居て
関東に下られるときには京都に住んでいた。
雲徹は五百石を賜わり、とりわけ気に入られていた。

ある年、雲徹が京より下り御前に伺候していたとき国清公が
我のことを京では何といっているかと尋ねられたことがあった。
雲徹が承って
「『三左殿、大して取るものがないので糞瓶の運上まで取っていく』と
 沙汰しているそうですよ」
と申すと、国清公は予想外に目をいからせ、座を立って奥に入っていかれた。
雲徹は萎縮して宿所に帰った。

明くる日(輝政は)雲徹を呼び出されたので、死を賜うか放逐されるか
いずれにせよ何もないことはないだろうと思いながら行くと
意外にも(輝政の)怒りは晴れていて
「昨日はよく我が知らないことを申したので(後から確認したところ)
 確かに薄田左馬が申し付けて運上を取っていたと聞いた。
 この先は必ず止めよと命ずる。幾度でもためになることは申すのだぞ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』



737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 21:53:51.13 ID:rftHM3d0
権現様「糞瓶の運上が払えないなら焼き味噌を払えば良いじゃない」

中筋村の飢饉 ~妙玄寺縁起~

2017年02月11日 17:06

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 16:06:11.92 ID:DUhfrXD6
中筋村の飢饉 ~妙玄寺縁起~


『宝塚の民話』より
慶長7(1602)年の秋は大変な不作でした。
旗本の渡辺氏が治めていた中筋村も納める年貢に困っていました。
代官からは毎日のように
「あわ、ひえでも良いから納めなさい」と矢のような催促が来ます。
「あわやひえまでも納めたら我々は一体何を食べたらいいんだ。
 全員が餓死してしまうではないか」
村人たちは代官所へ行き、何とか一年待ってもらいたいと願い出ましたが
聞き入れられません。

困り果てていたその時たまたま村人のひとりが
米俵を積んだ舟が淀川筋を登っていくのを見かけました。
聞くところによるとその米は、姫路藩主・池田輝政の幼い息女が亡くなり
その百か日の法事の御供養米として、京都の法華宗・本禅寺へ
お届けする品だということでした。
そのことを知ると村民の代表達が本禅寺へ馳せ参じ事の次第を話し
「村民をお救い下さい」と嘆願しました。

話を聴いた寺の日邵上人は
「お困りなのはよく分かったが、法華宗の宗義として他宗のものには
 米一粒、銭を一銭たりとも援助することはできないのです。
 たとえ何人かの法華宗のものがいたとしても、村全体のために
 米を分けてやる訳にはいきません」
との返答です。

その返事を聞いて急いで村へ戻ると、村人すべてを集めて訳を話しました。
「食べるものがなくなり、子どもたちまで死なせるくらいなら」
と今度は村民全員で本禅寺へ行き
「村に住む者は皆、法華宗に帰依します。
 これは子々孫々まで変わることはありません。
 このたびの願い、どうぞかなえてください」
と申しあげ、お願いしました。

そして気持ちの変わらない証(あかし)として
一 中筋村に暮らすものは全員、法華宗を守り、子々孫々まで法灯をかかげます。
一 他の宗派から宗旨がえを求められても応じません。
一 前の宗派へ隠れて詣でることもしません。
という証文をお寺に差し出しました。

ようやくのことお米を融通してもらい年貢を納めることができた中筋村は
全員あげて法華宗の陣門流に帰依しました。
それからしばらくして京都に詣でるには道のりが遠いことから
古くからあった村の寺を建て直しました。

その寺の名は、亡くなった池田輝政の息女の法名
"縁了院殿妙幻叔霊"の妙幻に因み"妙玄寺"としました。
その上村の角には"南無妙法蓮華経 法界"と刻まれた法界石を建て
村の宗派が法華宗であることを明らかにしたということです。


以上の話は宝塚市の妙玄寺に実際に伝わる話だが、ここで出て来る輝政の娘は
どうも督姫の連れ子で池田利隆と婚約していた万姫のことらしい。
近年になって鳥取市の正栄山妙要寺に肖像画が発見されたとか。



池田輝政"せいひく舞"を舞う

2017年01月18日 10:09

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 09:25:57.67 ID:hBfDZdGf
池田輝政"せいひく舞"を舞う

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7820.html
↑の話の微妙に違うバージョン

輝政卿と同輩の大名が宴会の座にいるとき
輝政が矮人であることを笑うものがいたので、(輝政は)
「それならば自分は矮舞という新曲をやろうではないか」
と急に立ち上がって、自らせいひく舞を見さいなと打ち返し囃して
「播磨備前淡路の三カ国の主なので"せいひくし"とは思わない」
とうたいながら舞ったので、座中が興に入ったと言い伝わっている。


――『思ひ出草』



池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件

2017年01月16日 10:23

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 17:52:22.35 ID:ryfezp7n
池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件


ある時、伊木豊後(忠次)と若原右京には確執があった。
豊後は第一の寵臣で播州三木の城主であり、若原右京は中村主殿と同じく
領国の仕置を掌っており、その威勢は肩を並べる者はいなかった。
豊後は右京と常に不和だったので、双方の家臣も不通であり
互いに己の主の権勢を恃みにし、何事も負けないと争い合っていた。

右京が姫路に登城しようとして、大手(正門)で馬から降り歩いていると
豊後の鑓持ちの男が両足を投げ出して、打ち仰いで髭を抜いていた。
右京が前に来ても両足を引こうともせず、人がいないような態度でいたので
右京は怒り刀を抜いて、そのままその男の両足を切り落とした。

(右京は)登城せず急ぎ馬に乗って引き返し、己の屋敷に馳せ帰ると
「豊後が程なくして寄せ来るだろうから、その用意をしろ」
と言い、与力の士五十騎、足軽二百人に自分の人数を加えて
屋敷の四方に隙間なく配置し、鉄砲兵はみな屋根に上げて
自らも六文目の鉄砲を持って書院の棟に打ち跨り
豊後が来たら討ち取ってやると待ち構えた。

豊後も右京の大手での振る舞いを聞き、同様に下城して人数を揃えて
右京の屋敷に押し寄せようと鬩いでいたところ、国清公(輝政)の耳にも入り
(輝政は)急ぎ使者を以って先に豊後を呼ばれ
「右京の所業で、そのほうが立腹するのは尤もなことだが
 今押し寄せて攻めるのは、我に免じて堪忍してくれ
 そのほうが遺恨のないように(右京に)申し付けろ」
と仰せられ無理に留め置いたところで、右京を呼ばれた。

右京も豊後が静まったのを聞いて登城したが、(輝政は)右京が普段から
豊後に対し過ぎた振る舞いをしていることを(豊後から)聞いたために
「今日の粗忽は言語道断である。当家にいることは叶わないだろう。
 どこへなりとも立ち退くように」
と仰せられたのですぐに退出しようとしたが
これを聞いた豊後が御前に出てきて
「只今の指図は忝ない仕合わせに存じますが、右京に暇を与えるのは
 私の本意ではありません。右京のような者と権威を争ったと
 他家の人が評論することになるのは恥ずかしく、当惑しています。
 是非とも右京を召し返して下さい」
と申し上げたので、公もお許しになり急ぎ召し返された。

右京は何事だろうと再出し、御前近くに呼ばれこのことを聞いたので
このときから右京は豊後に心服し、懇ろに会釈などをするようになった。
この豊後は東照神君(家康)も懇ろにお会いする者だったので
この頃の勢いは申すに及ばず、姫路では平時の供廻りが三百人いた。
時々摂州(摂津)にも踏み込み、鷹狩りなどをしたのに咎める者がいなかったとか。
その他の事跡については推して知るべし。


――『池田家履歴略記』

あわや大惨事……。



督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術

2017年01月07日 16:46

督姫   
491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 00:05:16.87 ID:bmWHBbtu
督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術


神君(家康)の次女督姫君(諱は風子)は、母は参州西郡の鵜殿善介長忠の娘で
神君の侍女であった。
督姫君ははじめ北条相模守氏直に嫁がれたが、小田原没落の後
太閤のお仲立ちによって国清公(池田輝政)に再嫁された。
文禄3年8月15日(一説には9月とも)、参州吉田の城で婚儀をあげられた。

このとき諸士はお迎えとして今切(浜名湖今切の渡し)に出ていたが
伊庭惣兵衛という者がただひとり弓を持っていた。
御輿副の人が使いをよこして
「人が多い所にひとり弓を持っているということは、聞いていた伊庭殿だろうか」
と問うと
「どうして尋ねられたのですか、私が伊庭です」
と答えたので、(御輿副の人が)また使いをやり
「それならば、この洲崎にハジロがひとつがい浮かんでいるので
 どうか一矢遊んでくれないだろうか、見物しましょう」
とされたので伊庭は心中で
(難儀なご所望だなぁ、両家の諸士の前で気兼ねするのに……)
と思いながらもしょうがないと矢をつがえて進み寄った。
間は30丈ほどだったが、彼の鳥はしだいに沖に出て遠ざかっていった。

伊庭は弓を十分に引き絞って余りにも長く保っていたので
どうしたのだろうと思って見ていたところに、忘れていたかのような矢が放たれ
ハジロの雄の胴を貫き雌の尻を射切ったので、両家の一同の声が洲崎に響いた。
所望した人がその鳥と矢を欲しいと言ったので持ち帰った。

伊庭の友が
「どうしてずっと放たなかったのか」
と問うと、伊庭は
「今日はご祝儀なので、いっそのこと"つがい"を射ようと思って
 鳥が並ぶのを待っていたが雌鳥を捕えられず残念だ」
と語ったという。

(督姫君は)御子がたくさんいらっしゃり、左衛門尉忠継殿
宮内少輔忠雄殿、石見守輝澄殿、右京太夫政綱殿、右近大夫輝興殿
伊達忠宗殿の御内室(振姫)、京極丹後守高広殿の御内室(茶々姫)など
みなお生みになられた。


――『池田家履歴略記』



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 00:13:41.83 ID:hrJF1YZ5
そして継子に毒まんじゅうを食わせて実子に池田家を相続させようとしたら
実子が継子をかばって毒まんじゅうを食らって死亡し、発狂したという噂話ができると
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3869.html
「風子」なんて「狂人」の意味を持つ名前なんてつけるからそんなことに

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 15:34:22.27 ID:7TcVELI3
婚儀なのに番射るって縁起悪くないのかよw

池田輝政「もし槍先ならば」

2016年12月30日 18:19

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 22:43:08.83 ID:nt8Yb9I9
池田輝政「もし槍先ならば」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-226.html
↑の話の詳しい版

輝政卿の親しい同輩の大名福島正則など二、三人が集まって物語りをしていたとき
輝政へ出入りする盲人がその場にいたので、輝政に申し上げさせるようにわざと
「三左衛門(輝政)は今大国を領しているといっても、畢竟は大御所の婿だからだろう
 我らは槍先で取った国だが、陰茎の先で取ったのは格別だ」
と言ったので、盲人が果たしてこのように告げると、輝政は笑われて
「『輝政が領する国は陰茎にて取ったが、もし槍先ならば天下を取ってしまうので
 槍を用いなかったのだ』と各々にこう申せ」
と仰せられたので、同輩の衆はその滑稽を笑われたのだという。

実際は岐阜城攻めのときに、(輝政は)正則と先を争い共に大功を立てたが
輝政は五十万石を賜ったのに対し、正則には四十九万石だったため
正則がかねがね不満に思っていたのを、輝政は知っておられ
当たらず触らず戯れ言を以って返事なされたのだとか。


――『藩鑑』



淡路国をしてやったり

2016年12月27日 19:10

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 16:00:30.58 ID:7PUV8B8k
淡路国をしてやったり


慶長15年2月、池田輝政は駿府で家康に謁し、淡路国六万六千石を加増された。
これは三男の忠雄殿(このとき9歳)が賜ったところである。

この時に浅野幸長も登城していたので、世上の風聞では
「今日、池田浅野両家のうちどちらかに淡路を賜うだろう」
と言われていたので、両家の伴人は皆耳をそばだてて待っていた。

輝政が玄関から出てこられ、お供の士の安藤牟三郎をお呼びになり
「お前はどこそこに行って『今日御前において淡路を我にお預けになった』
 と言ってくれ」
と仰せられたので安藤は承り走り出たので、呼び返しになられて
「お預かりと申せ、拝領とは申すな」
と命じられたが、其の頃の天下諸士は闊達であるのが流行っていたので
安藤が下馬の橋を走り出たのを、傍輩が立ちふさがって
「安藤いかにいかに」
と言葉をかけると、牟三郎は扇を開いて頭より上に高くあげ大音声で
「淡路国をしてやったり、してやったり」
と叫ぶと、池田の士が不覚にも一度にあっと声を出したので
下馬中の一同はどよめき声は静まらなかった。


――『池田家履歴略記』



ある日、姫路城の池田輝政に手紙が届きますた・・・

2016年12月24日 09:54

455 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 00:09:06.06 ID:vAaOz2Je
池田輝政の死因

      ある日、姫路城の池田輝政
       手紙が届きますた・・・
          _____
         / ヽ____//
         /   /   /
        /   /   /
        /   /   /
       / 刑 /   /
       / 部 /   /
      /   /   /
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

         | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
         |                    |
         |   前略 池田輝政 様   |
       /    ̄ ̄ ̄ ̄     /____
       / 呪いを掛けました /ヽ__//
.     /        殺すぞ   /   /    /
.     / 死にたくなかったら/   /    /
    / 大八天神を祀れ___   ./   /    /
   /        刑部   /  ./    /
 /             /   /    /
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/   /    /


スルーした池田輝政は徐々に体調がおかしくなり、慌てて言う通りにしましたが時すでにお寿司。そのまま悶死したそうな。めでたしめでたし。
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、     
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
   (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  困った時の神頼み!
    |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 
   │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| とよく言うが、
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 困った時に神頼みしても
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  手遅れな場合もあるから気をつけるんだぞ!
   |  irー-、 ー ,} |    /     i      
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 普段から神様祭事慶弔行事は大事にするんだぞ!


本当は怖い日本の城より

456 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 00:35:11.91 ID:vAaOz2Je
>姫路城の怪異と輝政の死・天守の五層目に、夜な夜な怪しい灯火がともされたり、真夜中に突然大きな太鼓の音とともに悪鬼が現れて人々をとり殺したり、
あるいは夜半に大勢の女子供の泣きわめく声が突如として、湧き起こったりした。さらに若い女中がさらわれたり、白昼傘をさしたまま侍が空中に吊り上げられるなど、
不気味な事件が昼夜の別なく城内のあちこちでありました。
ついに怪異は、輝政本人をも襲いました。輝政の枕元に現れた美しい上臈が、近日中に病気になるだろうと予言した。天守閣が完成した直後の慶長十四年には、実際に奇妙な書状が届けられた。
『播磨主大天神東禅坊・都の主千松』なる人物から輝政・督姫・輝政の母に宛てた文で、『此九月にもな、物にくるいつるおな、きつねよなとかつてん(合点)しつるかな、
これもとうとみのくに(遠江国)の天神そや、すなわちくわん(願)あかりてな、三りんほうが、はやはやよりんほうになりたるそや伝々』
と言う様な呪いの言葉が、書き連ねられていた。その要旨は、『遠江の四りん坊なる天神(天狗)が三りん坊なる天神を誘って姫路城の鬼門から侵入し、輝政らの命を奪おうとしている』
この呪いから逃れる為には、城の鬼門に『八天塔』すなわち『八天大塔護摩堂』を建立し、大八天神を祀って護摩の秘法で祈祷を納めなければならない。
と言う様な意味でした。この怪文書は、現在、小野市浄土寺と多可郡円満寺に所蔵されていると言います。
剛毅な輝政が打ち捨てていたところ、城内で怪異がつづき、とうとう輝政自身も病の床についた。さすがに気味悪く、輝政は八天堂を建立、
円満寺の僧を招いて悪魔調伏の護摩修法を行った。だが時すでに遅し、輝政は外出中、にわかに苦しみだし、急ぎ帰城する途中、輿にカラスが次々にぶち当たって来た。
この後、輝政は一時的に回復したが、病室の障子や壁に群れをなしたカラスが突き当たってはバタバタと、地上に落ちて死ぬなど不吉な現象が続き、慶長十八、ついに帰らぬ人となった。

おそらくは中気の再発だろうが、ただ、吐血して突然死を遂げた事から、毒殺の噂が立ちました。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1268371737

後、祥伝社文庫の『江戸の怪』中江克己 著
にも少し内容が異なるけど池田輝政怪死の話が載ってる模様




457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 07:18:59.17 ID:dgj9qo97
どうせなら鴉じゃなくて蝙蝠にすりゃええのに

458 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 08:23:15.36 ID:vAaOz2Je
>>457
    (\_/)
  /( (゚(M)゚) ハ 日中仕事するとか眠たい
 / | Y (゚Д゚)Y|
`| |  (ノミミミ|)||
 \(⌒Yミミミノ⌒)/
     ∪∪

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 08:36:03.66 ID:dgj9qo97
いや、石燕は蝙蝠と一緒に長壁姫を描いてるからさ

てか、知恵袋から引っ張ってきたのか

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 09:23:19.51 ID:aP1ZLklG
根岸鎮衛「知恵袋とは耳嚢(みみぶくろ)のようなものですか?」

461 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 09:27:49.94 ID:vAaOz2Je
>>459
知恵袋は書き込んだ後で見つけた。
祥伝社文庫の本に載ってるのとでまた若干細部が違うし、池田輝政 死因 呪い とか、姫路城 呪い でggってみるとよろしよ

462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 11:47:20.54 ID:vAaOz2Je
>>460
左様ですな、現代に於ける様々な人々の言葉が詰まったさながら塵袋、芥袋と呼ぶに相応しき物かと存じます

鏡石神社

2016年12月18日 10:46

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 10:41:21.49 ID:Wpo5C6J5
鏡石神社


岡山県備前市八木山にある鏡石神社の御祭神は日乃星照の命(池田輝政)で
その縁起は以下のようになっている。

八木山村に住んでいた八木浄慶は、この地方の蝋石を発見したといわれ
蝋石で仏像を造ることをなりわいとしていた。
備前市三石光明寺・西片上真光寺・蕃山正楽寺などに伝来する大日如来坐像
大滝山実相院の虚空蔵菩薩像などが浄慶作として知られる。

『備前孝子伝』によると、慶長7(1602)年に岡山藩主だった池田忠継の父輝政が
浄慶の親孝行の志が篤いことを聞き浄慶を褒め称え、永代扶持の高六石を与えた。
感激した浄慶は、その後慶長18年(1613)年に輝政が没したことを聞くと
蝋石で輝政の像を刻み、朝夕これを拝礼して輝政の恩に報いた。
また死に臨み、その子八木左衛門に僧となって輝政の像を祭祀するよう遺言した。

八木左衛門は父の遺言に従い出家して輝政像を祭祀することにしたが
母への孝心が厚いことを聞いたその時の岡山藩主池田光政が
「お前が出家して子孫が断たれるのは親への不孝のはじまりで
 輝政像を祀る者も絶えることになろう」
と諭したところ悔い改めたので、還俗させて八木左衛門復善と名乗らせ
十三石余を加増して二十石の土地を与え、八木山山中に祠を建てて
輝政の像を納めさせたので、左衛門の子孫が代々お祀りするようになったという。

池田輝政の像は今も同社の御神体として祭祀されており
万治三(1660)年に光政が与えた感状などが鏡石神社の神主の八木家に伝来している。


――『岡山県総合文化センターニュース No.412』



425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 10:54:08.32 ID:W3oghmAZ
>>424
MTMS「†悔い改めて†」
八木左衛門 彡(゚)(゚)「おかのした」

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/19(月) 10:50:32.72 ID:Gv33q/C1
父の遺言に従ったら親不孝の始まりといわれて悔い改めるとかいろいろ大変だ

一乱の前年に逝去したのは

2016年12月01日 16:20

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 17:24:29.85 ID:uyfCbhaP
一乱の前年に逝去したのは


池田輝政の妹は秀次の御台所だったので、そのことから
秀次が持っていた薬師院肩衝を輝政が所望したことがあった。
太閤はそれを聞いて
「その茶入は三左衛門(輝政)に与えなさい、その代わりに投頭巾の茶入をあげよう」
と言って秀次に投頭巾の茶入をやったが、秀次は薬師院の茶入を輝政に与えなかった。

その後秀次は生害し、聚楽の御殿は破却され宝物は悉く伏見の御城へ上り
薬師院の茶入も伏見へ上っていた。諸大名の内で秀次へ一味した者がいないかと
ご吟味があり(輝政は)誓詞を仰せ付けられた。

ある人が
「三左衛門は秀次の縁者なので一番にご吟味されるべきだ!」
と言うと、太閤は
「三左衛門が一味ではないのは明らかである。
 その訳は(輝政が)所望の茶入の代わりを(秀次が)受け取りながら
 三左衛門に与えなかったというこの恨みは深いので疑う所はない」
とし、その後太閤は薬師院の茶入を三左衛門に与えられたという。

以上のことは真田将監(池田家臣)が物語したことだが、池田家譜で
秀次から拝領したとしているのは誤りだろうか。
秀次の御台所は一乱(秀次事件)の前年に聚楽で逝去していたので、
そのことを池田家の吉事と言ったという。


――『古老物語聞書』



伊木清兵衛、池田輝政に家督を継がせ

2016年11月09日 13:37

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 01:44:51.50 ID:eCKCRg+Q
伊木清兵衛池田輝政に家督を継がせ


(小牧・長久手の戦いの後)ある人が語ったところによると
参州(三河)への中入りは勝入(池田恒興)が再三願ったから
(やらせたのに)そのせいで秀次は大いに敗軍した。
勝入と嫡子(之助、輝政の兄)などは猛将勇士といえども討ち死にし
秀吉は大いに(勝入が)不覚を取ったことを怒っていたので
勝入の跡目はどうなるだろうと危ぶまれていた。

勝入の家臣伊木清兵衛は元来秀吉と情が厚かったので
(輝政に継がせるように)度々申していた内に
(秀吉の)陣屋に輝政や他の家臣を伴って参上するように
指示があったのでいずれも参上した。

陣屋は秀吉がいる間は八畳、次の間は十二畳あるところで
輝政は敷居の内際、清兵衛は敷居の外際、森寺清右衛門・土倉四郎兵衛・
片桐半右衛門・日置猪右衛門・和田八郎等は清兵衛のあとに並んで俯伏していた。

「勝入の今までの居城、大垣は輝政に与える。
 輝政は年若なので老功の清兵衛を勝入同然に思うように。
 家老どもも清兵衛の差図に背くことなく輝政に忠勤をするように」

と(秀吉が)おっしゃったので、各々拝礼をして退出するときに
清兵衛が喜びの余り臥し転ぶ(体を地に投げ出して、あちこちと転げ回った)のを
秀吉が見て、喜びが身に余って見えるのは忠誠心からなのだなぁと感心して褒めたという。


――『池田軍功記』



307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 02:50:49.10 ID:DAC+KoZN
まるで犬

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 05:57:38.99 ID:UIGOKJU/
たそがれはかわいいなあ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 09:45:18.72 ID:ywcH1qs3
武者は犬ともいへと?

「これは危なきことよ」

2016年06月15日 13:14

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 03:36:11.83 ID:nrusAHo5
池田光政徳川家康に御目見したのは5歳の時だった。その時、彼は脇差を拝領し、
家康の膝元近くにいた。家康は彼の鬢髪をかき撫でて、

「三左衛門(池田輝政)の孫である。早く大人になり給え」と、言った。すると光政は
拝領した脇差をするりと抜いて見つめた。家康は、「これは危なきことよ」と言って、
自ら柄を持ち、鞘に納めた。

それから光政が退出した後に家康は、「眼光の凄まじさは常人ではない」と、言った。

――『有斐録』



池田輝政は数百人の牢人を扶助し

2016年04月25日 18:33

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/25(月) 14:05:16.66 ID:uDiaW7d3
池田三左衛門輝政は、その寵臣である若原右京、中村主殿をして、諸国の牢人の中で
武名才気ある者へは常に米穀、あるいは金銀を与えて扶助し、その数は数百人であった。
思う所あってその米穀金銀は出納を通さなかっら。

これは大阪に変が有れば、関東の出馬を待たず、播磨、備後、淡路の兵にこの牢人を加え、
自ら率いて一人でこれに当る事を欲したためであった。それは、彼が関東より殊遇されていたため、
殊忠を致さなければならないと思っていたためである。

この為、彼は自ら婦女への愛や器物への愛玩等の費えを禁じた。
彼は人に常に言っていた

「今日、大国に封じられた者は礼遇にのみ篤く、手足の労を以って仕え難い。それゆえ
私はただ多士を育んで天下の干城にならんと思い、これによって自分の娯楽を抑損して、その財を以って
武備に散ずるのだ。」

実に輝政の如きは忠尽の将と言うべきであろう。
(慶元記)

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