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信友の忠言

2020年06月24日 18:04

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 14:46:54.84 ID:6beaGiQ9
信友の忠言


寛永年中、(鳥取藩士の)佐分利九之丞(成忠)が天草(島原の乱)の御使者として来たときに
朋輩たちの暇乞いで「すぐに首尾よく帰宅できるとよいな」と挨拶する者ばかりだった。

その中で松浦次郎右衛門という老士が、日頃親しくしていたので名残を惜しみ、智頭駅(鳥取県智頭町)まで
見送りにきた。そうして暇乞いとして
「其方六十に及んで、生き延びても何の甲斐もないだろう。天晴死を潔くして高名されよ。
 今生の思い出を気にして、手を空しくしてでも帰宅し拙者に再会しようなどと思われるな!」
と言ったので、九之丞も
「言われずともその覚悟であった。死んだときは心安く思ってくれ」
と機嫌よく大きく笑って立ち別れたという。実に信友の忠言というものだろう。


――『雪窓夜話』

九之丞は原城総攻撃の際に本丸を目前にして戦死し、その功で子孫は千石加増された。



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左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならない

2020年06月06日 17:02

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 12:24:15.65 ID:r7q0Mypy
左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならない


池田家臣の丹羽山城は生涯三十七度の戦で、一度も遅れを取ったことがないという。
信長に仕えていた父・助兵衛が桶狭間の戦いで戦死してしまったので、翌年(山城が十三のとき)
信長が池田恒興に
「丹羽助兵衛のせがれが物になりそうな眼差しをしているので、使ってみるように」
と仰せられたので、伊木清兵衛(忠次)の取次で恒興に召し出された。
荒木との戦で活躍し本能寺の変後に筒井順慶への使者を務め、家老として千五百貫の知行を
得たものの、山城は思うところがあり天正年間に子供と一緒に池田家を立ち退いた。
そうしたところ浅野紀伊守(幸長)に呼ばれ、三千三百石で仕えることになったという。

文禄年中の高麗陣(文禄の役)、木曽城(もくそ城、晋州城の別名)の浅野紀伊守殿の攻め口で
山城が一番乗り、亀田大隅が二番乗りしたが、そこに浅野左衛門佐(氏重)が一番乗りしたと披露した。
山城と大隅は詮議をしようとは思ったものの、左衛門佐は家老で御一族なので沙汰に及ばなかった。

慶長五年、樫原彦右衛門が詰めている砦を紀伊守殿、福島左衛門大夫(正則)殿、そのほか関東勢が
攻めているとき(岐阜城の戦い)、このとき山城は法名の徳入と名乗るようになっていたが
馬上で槍を提げて出たところ、敵方からしっかりした者が一人、徳入を目掛けて一文字に馳せて来た。
徳入は槍で内冑(額)を突き、二度目に胸板を突いて倒し、家来の者に下知して首を取らせようとしたところ
味方からすはだ者が一人来て、自分の高名にするのでこの首を下さるようにと徳入に頼んできた。
徳入が「誰が家人ぞ」と尋ねれば浅野左衛門佐の何とか八郎左衛門と申したので首をやった。
八郎左衛門はこの首を左衛門佐に持参し、その手の中で一番首として恩賞にあずかったという。

ところがその後八郎左衛門は「自分が高名したとき、徳入に奪い首をされそうになりました」と
申すようになったので、その話が浅野家中で知られるようになり
「徳入の日頃の武辺もみな左様に表裏のことをしたのでは」と噂されるようになったので
徳入はそれを聞き左衛門佐にその噂のことを伝えたものの、左衛門佐は取り合わなかった。

関ヶ原の後紀伊守殿が諸士に一献を進められる酒の席があり、その席に左衛門佐と徳入もいた。
徳入が
「よい機会なので、私の表裏の噂の実否について左衛門佐に伺いたい」
と申すと、左衛門佐は
「ちょうどそのことだ。家来八郎左衛門が心馳せの働きをいたしたとき、奪い首をしようとしたと聞き
 徳入には不似合いのことなので、日頃の武辺も表裏なのだろうかと思っていたところだ」
と申した。徳入は
「さては事実だと思っていたのか。その八郎左衛門が取った首は内冑に槍傷がある。かの八郎左衛門は
 すはだで腰刀一つを頼みにしている者なのに、取った首に槍傷があるのだ。吟味もしていなかったとは!
 初めからこのことを申し上げてもよかったのだが、一度取らせた首なので二度は申さないことにしていた。
 私は内冑と胸板に槍傷を二ヶ所負わせたが、八郎左衛門が来たとき、すはだのような者が戦場で首を取り
 高名を望むのはもっともだと思って、首を取らせた。八郎左衛門は下臈なので悪口を申すのは仕方ない。
 しかしこの席でこのことを申し出たのは、左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならないと思ったからだ。
 日頃心にはかけていなかったが、表裏のことと言えば(左衛門佐が)高麗陣で木曽城一番乗りと申したことは
 隠れなき表裏だったと一番乗りの私と二番乗りの亀田大隅は知っている。だからこれも偽りなのだろうなあ」
と詰めたので、左衛門佐は一句も告げずに赤面し、喧嘩になりそうな様子になった。

紀伊守殿が座中へ目を配りながら「徳入老、聞き届けたので堪忍してくれ」と仰せられたので
双方共に引き下がった。その後八郎左衛門は斬罪になったという。紀伊守殿が紀州へ転封になった際も
徳入はお供したが、同年の十二月に播磨宰相様(輝政)が徳入の帰参について紀伊守殿に断りがあり帰参した。
慶長六年に四千石、十年には千石加増され五千石となり、徳入は寛永九年に八十四歳で亡くなったという。


――『吉備温故秘録』



267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 12:29:06.97 ID:crlImcgN
ニワスケベエ

「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」

2020年05月27日 18:19

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 16:35:46.90 ID:rwYxnWI8

池田家臣の若原右京は殊の外肥満した大兵で、顔に指で押せそうな程の疱瘡の痕がびっしりとあった。
月代を半額にし長い刀を携えいかつい見た目ながら、弁舌鮮やかなゆゆしき男であった。
国清公(池田輝政)の御威勢が増していくにつれ、(池田家は)諸国の浪人を数多く扶持することになった。

ある日後藤又兵衛(基次)、明石掃部助(全登)、小倉作左衛門(行春)らが姫路に登城し
広間に陣太鼓が数々あるのを見て、又兵衛が
「当家で貝太鼓を司る者は誰であろうか」
と聞くとみな「知らず」と言った。ちょうど右京が縁側に通りかかったので再度聞いたところ
又兵衛が言い終わらないうちに「我が司っています」と右京が言った。
掃部が「武者奉行は誰であろうか」と聞くと、右京は
「某が承っています。諸法度相詞、物見のことまでみな我から申し付けています」と言った。
作左衛門が「陣場奉行は誰であろうか」と言うと、右京が「某です」と言ったので
各々のお尋ねはここまでとなった。

「総じて当地(姫路)は上方への往来があり、海陸肝要の所です。しかも近くには諸浪人の集う大坂が
 あり、秀頼公は若輩なので関東(幕府)の御内存が将来どうなるか分かりません。もし変があればと
 輝政は先手の旗本軍勢一切の備配りを兼ねてから定め置かれています。そのほか三カ国の国法軍法
 御不審のことがあれば尋ねてください」
と右京が言うので、三人は不興顔で言葉もなかった。
そこに「殿様御召しなり」と右京が呼ばれ、座を立った。掃部助は
「さてさて、尊大なことを言う憎き奴かな。あの男の働きといえば、関ヶ原一戦のみである。
 我らの前で、まるで人がいないような過言をするのは出しゃばりではないか」
と憤った。又兵衛は
「右京の無礼は譬えられないくらいだが、さりながらあの頬玉や人を手のひらに握り込むような
 様子は只者ではない。この家中で一人当千の者だろう。只今吐いた広言程度はやれぬ者ではない。
 太守は人を選び取る上手である」
とかえって感嘆したという。

それゆえ(右京は)播磨の童謡に
「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」
と謡われたという。これにてそのときの権勢思いやるべし。


――『池田家履歴略記



雀部與作、先祖の領地で

2020年05月05日 16:54

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/04(月) 19:28:04.66 ID:l3w2F9Wf
雀部與作、先祖の領地で


雀部與作の祖父は三好長慶の家臣であった雀部伊豆であり、父の代から池田家に仕えるようになった。
大坂の陣では池田利隆にお供したが、摂津の大島で焼き働きをすることになった。

しかし大島は先祖の在所知行であったため、住民たちが與作のところに詰めてきて
「何とぞお焼き捨てなさらぬように」
と申し続けていたが、既に決まったことなので與作は許容しないでいた。
與作は香西縫殿の姪婿であったので、そのことを聞いた縫殿が利隆へ申し上げた。

利隆は御前に與作を呼ばれて「大島はその方先祖の知行か」とお尋ねになられたあと
「御陣の障りにもなるまいし、そのままにしておくように」と縫殿に仰せ付けられた。
大島の住民たちはこのことを有り難く思って、御馬のぬかわらを世話したという。


――『吉備群書集成



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 00:56:32.61 ID:Enea/5dy
領地の任官は絶対させないし僭称も許さないと公式にした江戸幕府の意味不明さはなんなんだろうな

池田恒興の父母の婚儀

2020年03月15日 16:17

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 15:40:05.79 ID:TgO80z9z
池田恒興の父母の婚儀


池田政秀(恒興の祖父)は男子がいないので、娘(恒興母、養徳院)に婿養子を望んでいた。
そのころ産婦に巧者の取揚婆々というそこかしこに雇われる者がいて、滝三四郎(滝川貞勝次男という)と
政秀の家にも出入りをしていた。

(取揚婆々は)よく両家のことを知っていたので、ある日政秀に
「滝三四郎殿は元来筋目よき御人です。幸い流浪していらっしゃるので
 御息女を差し上げられるのならば御肝入りしますよ」
と言ったので政秀は
「そうしよう。我等の家は乏しくて譲るような物はないが婿養子にしたいものだ」
と返答したので、この婆々が三四郎殿のところへ行ってあれやこれやの仲立ちをし婚儀が整ったという。


――『吉備史談会講演録



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 21:03:43.17 ID:aVZrvdsR
>>765
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は滝三四郎だ!いいかい、滝三四郎だよ!」

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 10:36:50.17 ID:lJIU+1A0
>>766
こうでは?
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は池田三四郎だ!いいかい、池田三四郎だよ!」

恒興母は信長に乳首を噛みきられなかった人だね

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 11:57:27.66 ID:VPD04LvA
鋼鉄の乳首を持つ女

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 12:35:32.79 ID:VoYlb5wn
小宮三四郎のネタだね。つまんねーから消えろ!

池田輝政、関ヶ原本戦での配置について

2020年02月15日 13:56

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:18:31.52 ID:5WMuj2xH
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について


(関ヶ原の戦いのとき)14日に家康は赤坂岡山に着陣し、池田輝政を召された。

明日の合戦には毛利秀元、吉川広家などが南宮山に陣し、内応があるものの
未だに実否(真偽)が分からないので、それに対して陣するようにとの命であった。

そのとき輝政は南宮山の敵を迎え撃つことは本意ではなかったので
願わくは先鋒に進み、石田、島津などと戦うことを望まれたが許されなかった。

「(輝政は)我の後陣なので、ぜひともこれに従うように」(原文:我後陣なればまげてこれにしたがふべし)
と(家康の)仰せがあったので、仕方がなくこれに従った。


――『寛政重修諸家譜

後ろを任されるのは名誉なんだけど……という話。



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:32:38.01 ID:do7+uUyC
それ良い話?悪い話?

御両君の御心合し候

2020年02月11日 12:36

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 01:15:59.58 ID:AgX5X1rx
御両君の御心合し候


興国公(池田利隆)が備前にいらっしゃったとき、黒母衣の指番が一人欠けてしまったので
このことを姫路に窺うことが二度あった。
国清公(池田輝政)の仰せは、武州(利隆)の旗本の士でその器に当たる者であればこの職を命じて
構わないので、予の指図には及ばないとのことであった。

このとき興国公は津田将監を呼ばれて
「此度汝を姫路に遣わす。指番母衣の事を予ではなく大殿の御指図を承って帰ってくるように。
 弓矢のことは重きことなので、若輩のそれがしの愚眼の証とはしたくない」
と仰せられた。
津田は仰せの通り慎んで命を承ったが
「されども大殿の御前で、君の御底意はどうなのかと仰せがあったら誰と申し上げるべきでしょう」
と申したところ、興国公は
「もしそうであるなら、我が旗本の沼市蔵がこの役を勤めるべきである」
と仰せられた。

津田は御前で料紙を乞い沼の姓名を書き記して懐に仕舞い、姫路に参り国清公の御前に出た。
件の指番のことを申し上げると、国清公は
「武州は性質律儀第一、念の入った弓矢の沙汰をするので、そうであるなら沼市蔵を命じるべきだろう」
と仰せられたので、津田は頭を畳に付けて「御両君の御心合し候」と言って、件の書き記した沼の姓名を
扇に据えて差し上げたので、国清公は大いに津田の御用意の程に感心され
「汝の岐阜での働きは今でも覚えている。若き武州によく仕えよ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 02:06:41.23 ID:H65jIjyD
>>639
三河野郎並みに面倒くさい

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、一器量あり

2019年09月16日 16:11

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 16:04:14.18 ID:YGXmz8gp
去る人は酒飲みで上戸だという。しかしながら、他所では飲みなさらなかった。

無理に一盃を盛れば「没義道好き」と毀ち、座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、
一器量ありと見え申したのである。

その人の名を(池田光政は)仰せられたが、忘れてしまった。小身の御旗本衆ではない。

――『烈公間話』

戦国期の人ではないかもしれませんが



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 22:48:38.12 ID:XdcEiAyO
>>406
本多正純「してその者の名はなんと?」φ(`д´)メモメモ

伴道雲が御馬口に取り付き

2019年09月02日 15:53

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 21:03:18.90 ID:J7AQ/r7P
長久手にて勝入公(池田恒興)が御討死致されたと輝政公(池田輝政)は御聞きになられ、
敵陣へ駆け込もうとなされた。

これを伴道雲(原注:大膳の父である)が御馬口に取り付き、「大殿様は御討死ではあり
ません! 御退きになられたのを私は見申した!」と申して、「こちらへ御越しなされ!」
と申し、無理に御馬を引いて退いたという。

――『烈公間話』



重ねを厚く、大平に御打たせなさり

2019年08月26日 19:36

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 18:02:06.81 ID:lxfhKvwH
ある時に信長公は御成敗人(原注:信長の舎弟・武蔵(織田信勝)という)を仰せられた。仕手
(刺客)は討ち損じて(原注:3人に仰せ付けたが、討ち損じたという)かの者が逃げるのを、
廊下で勝入様(池田恒興)が刺し殺しなさった。

その後、(恒興は)御家来どもに御物語りされ、「脇差は何が何でも手強きものを用いるべし」
と仰せられ、前述の時は薄き御脇差で、ひわひわして(細く弱々しい様)御難儀であったとして、
その後に新身を大道(刀工の名)に重ねを厚く、大平(大平造)に御打たせなさり、御陣刀に御
用いとなられた。

御討死の時まで御差しになられ、今は永井家にあるはずである。

――『烈公間話』



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 12:56:02.40 ID:lqWpBlnz
まあ実際使うのは脇差の方かもしれんな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 13:19:00.08 ID:4VVq4NdH
上意討ちされても脇差でなら反撃してもいいとか面白い決まりあるよね

池田輝政の最期

2019年08月20日 16:44

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 15:12:23.45 ID:p+fNZlzi
午10月の(池田光政の)御物語り。

輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。

御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。

以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。

――『烈公間話』



328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 20:47:37.86 ID:1pbIn3oQ
輝政はラナのように鳥と話せたのか

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 22:38:50.73 ID:5gUQ1Yuj
例に出すなら公冶長(孔子の婿)にすべき

若輩でそのうえ理に当たる故

2019年08月19日 18:06

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 16:33:51.23 ID:LMV/o/Q5
生駒左近(原注:光政様の家士である)は織田常信(常真。織田信雄)のところに居り申したという。
(生駒が)小小姓である時、(信雄は)何の用あってか居られた場所で「ここより内へ人を入れるな」
と御申し付けであったという。

その口で番をしている時、出頭の者(寵愛を受けた者)が通ろうとしたので、前述の事を申して留め
たが、聞かずに通ったので切り殺した。若輩でそのうえ理に当たる故、褒美されたという。

仁体静にして公儀就き良し。これ故か武州様(池田利隆)から光政様(池田光政。芳烈公)の御守に
附けられた。しかしながら少し私曲があり、それ故か生駒家は絶えた。下方(末裔という意味?)は
真っすぐである故か、今も相続申していると(光政の)仰せであった。

庚申11月19日、備前西の丸御内所での御物語り。

――『烈公間話』



149 名前:148[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 02:51:05.66 ID:/g8X7WjZ
>>148
ググったら下方覚兵衛という光政の傅役がいたようなのでその事みたいです>下方

あるいは曰く勝入が討たれたのは

2019年04月18日 16:16

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 14:49:29.28 ID:r+wjkShL
(長久手の戦いの時)

また長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は額田の北、犬山に本陣を置く。犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。

犬山から額田までは5里程あった。勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、「私が良き人数を率いて
三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにしてその妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできま
すまい」と申した。これに太閤は曰く「思うようにはならん」として許さなかった。しかし勝入は明日
また赴き、固く乞うて曰く「今現在においてこれ以上の謀はありません」と申し、太閤はこれを許した。

勝入父子は共に出発した。しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、まず岩崎に赴
こうとする。勝入は案内者なので道すがらの百姓に「運啓良ければ(勝利したならば)良くしてやろう」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。

犬山と岩崎の間に長久手あり。勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って勝入が
来るのを待つ。(家康は)もっとも案内者なので百姓等に「この度勝利を得れば、3年作り取りにさせ
よう」と言った。勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、「勝入の先手はすぐに岩崎に取り
掛かり、城を攻め破った」との報告があった。大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢
を皆行き過ごし、勝入本陣に取り掛かった。

(原注:一本には大御所以下『東照宮は前夜から長久手に至り給い、勝入が来るのを今か今かと待つ。
勝入は案内者なので百姓等に「この度勝利を得たならば、3年作り取りにさせよう」と言いつつ、長久
手に至ると夜は未だ明けず、東照宮方の軍勢は静まりかえっていた。勝入の先手は同勢を選って東陣へ
取って掛かる。安藤帯刀…』云々と続く)

安藤帯刀(直次)は先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。それが勝入とは知らずに、
帯刀は「坊主首を取っては面目がない」と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。その後
に永井右近(直勝)が来て死首をやすやすと取り、後まで功に誇るという。

――『老人雑話』

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 15:58:30.06 ID:r+wjkShL
>>886
あるいは曰く勝入が討たれたのは、一合戦して勝った勝入が後にまた敗軍して士卒を失い、疲れて1人
での帰りがけに討たれたという。

――『老人雑話』



丸山豊後は武勇の名あり

2019年03月31日 21:24

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 19:35:04.80 ID:n3TCtUyB
丸山豊後は武勇の名あり。備前宮内少輔(池田忠雄)に仕え、常に直言して忌諱を避けず。

ある日の大臣饗で宮内少輔は起きて衣服を着替え、加藤主膳が刀を取って近侍した。主膳は
宮内少輔から男色の寵を受けていた。豊後はこれに言って曰く、

「用足しに行く時は、大人といえども屁をするものだ。御側に寄るな」
(行便時雖大人豈不氣泄哉勿逼近云)

宮内少輔はこれを聞き、笑って止まなかった。

(原注:一本にはこの一条なし)

――『老人雑話』



池田輝政、晩年に松平氏を賜る

2019年03月14日 16:25

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:48:15.34 ID:F5e/KcLN
池田輝政、晩年に松平氏を賜る


慶長16年(1611年)3月に池田輝政は、二条城での家康と秀頼の会見に同席したが
次の年の1月に中風を発症し、3月には秀忠が輝政の嫡男の利隆に連日書状を送るほどの重態となった。
8月に快復した輝政は、その報告のために13日には駿府で家康に、23日には江戸で秀忠に拝謁した。

快気祝いで、松平氏を賜り参議に推薦されることとなった輝政は、9月4日には再び駿府で
家康に拝謁し、山名禅高、藤堂高虎が茶会の接伴役をし、家康から歓待を受けた。
17日に輝政は朝廷に参内し、正式に松平氏を称して参議に任じられた。
利隆のほか、家康の外孫にあたる忠継、忠雄は元服と同時に松平氏の下賜を既に受けていたという。
その後姫路へと帰ってきた輝政は、毛利輝元に書状を送っている。


わざと啓上します。先ごろ東から帰ってきました。(祝いの)御使者のこと光栄に存じます。
愚礼になりますが早々に、蝋燭千丁、綿百把ならびに鹿毛の馬一疋を進覧させます。
詳しくは使者に口上を申し含めますので事細かには述べません。恐惶謹言。

                    松   三左
  後十月廿六日             (輝政印判)
   宗瑞様(毛利輝元)人々御中
 
 未だに手が震えているので、勝手ながら印判で失礼します。以上。

――『毛利氏四代実録 考証論断』

年が明けて慶長18年、中風が再発した輝政は1月25日に数え50才で亡くなった。


中村はそれに逢迎

2019年03月07日 16:52

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/07(木) 11:44:19.44 ID:iijwI8SO
豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、池田三左衛門輝政は、船奉行の中村九郎兵衛に命じて、兵粮を
肥前名護屋に送らせた。中村は名護屋へ出港する前に、提灯2,300,太鼓3,40を買った。
そして船を出し間もなく名護屋という時、時刻は巳の刻(午前10時頃)で潮の状態も良かったにも
かかわらず、玄界灘の島に船を止めわざと日の沈むのを待ち、亥の刻(午後10時頃)になって
船を漕ぎ入れた。この時、船の周りに取り付けた2,300の提灯に火を灯し、3,40の太鼓を
一斉に敲くと、火の光は海面に映り、太鼓の音は城の上にまで響いた。

秀吉は使いを遣わして何事かと問わせた所、「輝政家来中村九郎兵衛、兵粮を漕するの船なり」と答えた。
秀吉という人は素より華美を好み、中村はそれに逢迎(こびへつらうこと)して、甚だ秀吉の心に叶った。
その後秀吉は中村を朝鮮に渡海させたが、彼が朝鮮に至った頃には既に和平が成立していた。しかし
日本軍の兵粮は盡きかけており、諸将は大いに喜んだ。

(武将感状記)


鶏鳴より取巻いて攻めれば

2019年02月18日 17:35

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 00:37:47.82 ID:d2+p9LT9
鶏鳴より取巻いて攻めれば


信長公が山門(比叡山延暦寺)を攻めたとき、九月十一日には諸将に命じて既に攻めかかろうとしたが
護国公(池田恒興)が
「今日はもう日も牛の後に及んでいるので、(そのまま)夜になれば悪逆の衆徒が逃げてしまうでしょう。
 明日鶏鳴(午前二時ごろ)より取巻いて攻めれば、一人も生き残らないでしょう」
と言われたので、もっともだということでその日の戦を止められた。

さて夜半よりあんなにも大きな比叡山を隙間なく取り巻いて、四方の手合いが合図の法螺を吹き立てると
一度に閧をドウとあげて攻め、山門もここを専らと防戦したものの、四方八方より焼き立てたので
ついに(延暦寺は)根本中堂を初め一宇も残らず灰燼となった。

(諸将は)老僧児童の首をはねたり生捕りにしたので、猛火の中に飛び入って焼死する者も多かったという。


――『池田家履歴略記』


まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り

2019年02月07日 09:38

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 03:00:58.11 ID:/3anshgn
まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り


(花隈城の戦いのとき、池田恒興は事前に所々に向城を建てて家臣を詰めさせていた)

花隈城から生田の森(生田神社の後方の森)の西の金剛寺山(現在の大倉山)を攻め取ろうと
足軽が出てきて、(家臣の)伊木清兵衛、森寺清左衛門が出陣し大いに戦った。
北の諏訪山に布陣していた信輝公(恒興)、之助公(元助)はこれを見て出陣し、固まって
戦っていると敵はたちまち浮立って旗色が乱れた。

そこを之助公、古新公(輝政)が轡を並べて真っ先に馬を入れて敵を追い散らされたので
敵はこらえかねて、すぐに下知をして城中に逃げ入ろうとした。
両君もすぐに追い詰めて、城の柵際で御兄弟は共に敵を組み伏せ、それぞれ首一つ討ち取って
本陣に帰ろうとしたが、城兵がこれを無念に思ってか、多くが後を追いかけてきた。
両君も危ういところだったが、御先手の秋田加兵衛、堀尾與左衛門、竹村小平太、岩越久左衛門
高木宮など多くが駆けつけて奮戦したので、再び敵を城内に追い込んだ。
このとき、加賀半七があまりに勇んで戦っていたためか討ち死にした。

城兵はまだ屈せず防戦しており、その上五輪作右衛門という大剛の勇士が古新公を
討ち取ろうと駆けて来たので、古新公は引き受けてしばらく戦った。
そこを高木宮が駆け塞がり、一緒に切りかかった。
主従はまだ若年だといえども、その勢いは甚だ勇猛であった。
五輪もここを第一と戦い、勝負は未だ決することがなかった。

信輝公はこれを見て多勢を横合いから駆け入らせたので、城兵は辟易し敗れて逃げ入った。
五輪もただ一人戦っていたものの、味方が引くのを見て引き下がろうとしたので、古新公と
高木宮は一緒に追いかけたが、前に蓮の池があって進みにくかったため城に入られてしまった。
このとき宮はあまりにも身を揉んで働いたので、短刀が鞘走って難所に落ちてしまったが
敵を追い払って、落とした短刀を拾い上げ鞘に収めてしずしずと帰ってきた。
天晴勇士の骨柄かなと人々は感動したという。(高木宮は)時に行年十三歳であった。

信輝公もその勇猛をお褒めになり、(高木宮は)名刀を賜った。
名刀は和泉守(兼定)の長さ二尺二寸のもので、子孫が相伝し家の宝としている。
宮は成長して高木外記*と名乗った。
また信輝公は今日討ち取った首実検を行ったが、之助公廿二歳、古新公十七歳のまだ若年の身で
それぞれ敵を討ち取り、首を提げて並んで出てこられた。
信輝公はこれをご覧になって、強くお喜びになり不覚にもホロリと感涙された。
御側にいる人も、共に感涙をそそいだという。


――『池水記』

* のち鳥取藩士。池田光仲が幼少の際に鳥取城代を務めた。


829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/25(木) 02:51:49.68 ID:cabIDRZ6
平成21年に各務原市へ寄贈され解体した時に
大垣城の門と解ったのも驚きだが
移築先が伊木清兵衛縁の鵜沼であった事に
歴史のロマンを感じる

池田恒興の清兵衛への恩に酬いる気持ちが
この現代に巡ってくるとはなぁ

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/25(木) 05:20:16.23 ID:cabIDRZ6
>>829
https://www2.og-bunka.or.jp/bunka/news/data_466.html


池田恒興の犬山城略取に対する恩賞

2019年01月31日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 14:48:21.48 ID:BCfrZ7lK
池田恒興の犬山城略取に対する恩賞


賤ヶ岳の戦いの後秀吉と織田信雄の関係は悪化し、天正12年3月13日に池田恒興が犬山城を占拠した。
下記はそのことに対する恩賞について、秀吉から恒興の母(養徳院)に送られた手紙。

今度の勝三(恒興)の犬山の御手柄は、中々お礼を申せるようなことではないのですが
尾張一円(一国)を勝三に差し上げるつもりです。また藤三郎殿(長吉)に美濃稲葉の知行を相添えます。
それゆえ、あなたさまにまで一筆進上しました。恐々謹言。
 勝九郎殿(元助)へはあなたさまに内密に申し上げた通りですので、御心を安くしてください。以上。 
  
    三月廿三日           秀吉(花押)
               秀吉
おおちさま(養徳院)            ちくせん


――『原富太郎氏所蔵文書』

恒興と元助が小牧・長久手で討ち死にしたため、実際には尾張一国を貰うことはなかった。