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あるいは曰く勝入が討たれたのは

2019年04月18日 16:16

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 14:49:29.28 ID:r+wjkShL
(長久手の戦いの時)

また長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は額田の北、犬山に本陣を置く。犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。

犬山から額田までは5里程あった。勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、「私が良き人数を率いて
三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにしてその妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできま
すまい」と申した。これに太閤は曰く「思うようにはならん」として許さなかった。しかし勝入は明日
また赴き、固く乞うて曰く「今現在においてこれ以上の謀はありません」と申し、太閤はこれを許した。

勝入父子は共に出発した。しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、まず岩崎に赴
こうとする。勝入は案内者なので道すがらの百姓に「運啓良ければ(勝利したならば)良くしてやろう」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。

犬山と岩崎の間に長久手あり。勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って勝入が
来るのを待つ。(家康は)もっとも案内者なので百姓等に「この度勝利を得れば、3年作り取りにさせ
よう」と言った。勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、「勝入の先手はすぐに岩崎に取り
掛かり、城を攻め破った」との報告があった。大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢
を皆行き過ごし、勝入本陣に取り掛かった。

(原注:一本には大御所以下『東照宮は前夜から長久手に至り給い、勝入が来るのを今か今かと待つ。
勝入は案内者なので百姓等に「この度勝利を得たならば、3年作り取りにさせよう」と言いつつ、長久
手に至ると夜は未だ明けず、東照宮方の軍勢は静まりかえっていた。勝入の先手は同勢を選って東陣へ
取って掛かる。安藤帯刀…』云々と続く)

安藤帯刀(直次)は先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。それが勝入とは知らずに、
帯刀は「坊主首を取っては面目がない」と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。その後
に永井右近(直勝)が来て死首をやすやすと取り、後まで功に誇るという。

――『老人雑話』

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 15:58:30.06 ID:r+wjkShL
>>886
あるいは曰く勝入が討たれたのは、一合戦して勝った勝入が後にまた敗軍して士卒を失い、疲れて1人
での帰りがけに討たれたという。

――『老人雑話』



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丸山豊後は武勇の名あり

2019年03月31日 21:24

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 19:35:04.80 ID:n3TCtUyB
丸山豊後は武勇の名あり。備前宮内少輔(池田忠雄)に仕え、常に直言して忌諱を避けず。

ある日の大臣饗で宮内少輔は起きて衣服を着替え、加藤主膳が刀を取って近侍した。主膳は
宮内少輔から男色の寵を受けていた。豊後はこれに言って曰く、

「用足しに行く時は、大人といえども屁をするものだ。御側に寄るな」
(行便時雖大人豈不氣泄哉勿逼近云)

宮内少輔はこれを聞き、笑って止まなかった。

(原注:一本にはこの一条なし)

――『老人雑話』



池田輝政、晩年に松平氏を賜る

2019年03月14日 16:25

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:48:15.34 ID:F5e/KcLN
池田輝政、晩年に松平氏を賜る


慶長16年(1611年)3月に池田輝政は、二条城での家康と秀頼の会見に同席したが
次の年の1月に中風を発症し、3月には秀忠が輝政の嫡男の利隆に連日書状を送るほどの重態となった。
8月に快復した輝政は、その報告のために13日には駿府で家康に、23日には江戸で秀忠に拝謁した。

快気祝いで、松平氏を賜り参議に推薦されることとなった輝政は、9月4日には再び駿府で
家康に拝謁し、山名禅高、藤堂高虎が茶会の接伴役をし、家康から歓待を受けた。
17日に輝政は朝廷に参内し、正式に松平氏を称して参議に任じられた。
利隆のほか、家康の外孫にあたる忠継、忠雄は元服と同時に松平氏の下賜を既に受けていたという。
その後姫路へと帰ってきた輝政は、毛利輝元に書状を送っている。


わざと啓上します。先ごろ東から帰ってきました。(祝いの)御使者のこと光栄に存じます。
愚礼になりますが早々に、蝋燭千丁、綿百把ならびに鹿毛の馬一疋を進覧させます。
詳しくは使者に口上を申し含めますので事細かには述べません。恐惶謹言。

                    松   三左
  後十月廿六日             (輝政印判)
   宗瑞様(毛利輝元)人々御中
 
 未だに手が震えているので、勝手ながら印判で失礼します。以上。

――『毛利氏四代実録 考証論断』

年が明けて慶長18年、中風が再発した輝政は1月25日に数え50才で亡くなった。


中村はそれに逢迎

2019年03月07日 16:52

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/07(木) 11:44:19.44 ID:iijwI8SO
豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、池田三左衛門輝政は、船奉行の中村九郎兵衛に命じて、兵粮を
肥前名護屋に送らせた。中村は名護屋へ出港する前に、提灯2,300,太鼓3,40を買った。
そして船を出し間もなく名護屋という時、時刻は巳の刻(午前10時頃)で潮の状態も良かったにも
かかわらず、玄界灘の島に船を止めわざと日の沈むのを待ち、亥の刻(午後10時頃)になって
船を漕ぎ入れた。この時、船の周りに取り付けた2,300の提灯に火を灯し、3,40の太鼓を
一斉に敲くと、火の光は海面に映り、太鼓の音は城の上にまで響いた。

秀吉は使いを遣わして何事かと問わせた所、「輝政家来中村九郎兵衛、兵粮を漕するの船なり」と答えた。
秀吉という人は素より華美を好み、中村はそれに逢迎(こびへつらうこと)して、甚だ秀吉の心に叶った。
その後秀吉は中村を朝鮮に渡海させたが、彼が朝鮮に至った頃には既に和平が成立していた。しかし
日本軍の兵粮は盡きかけており、諸将は大いに喜んだ。

(武将感状記)


鶏鳴より取巻いて攻めれば

2019年02月18日 17:35

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 00:37:47.82 ID:d2+p9LT9
鶏鳴より取巻いて攻めれば


信長公が山門(比叡山延暦寺)を攻めたとき、九月十一日には諸将に命じて既に攻めかかろうとしたが
護国公(池田恒興)が
「今日はもう日も牛の後に及んでいるので、(そのまま)夜になれば悪逆の衆徒が逃げてしまうでしょう。
 明日鶏鳴(午前二時ごろ)より取巻いて攻めれば、一人も生き残らないでしょう」
と言われたので、もっともだということでその日の戦を止められた。

さて夜半よりあんなにも大きな比叡山を隙間なく取り巻いて、四方の手合いが合図の法螺を吹き立てると
一度に閧をドウとあげて攻め、山門もここを専らと防戦したものの、四方八方より焼き立てたので
ついに(延暦寺は)根本中堂を初め一宇も残らず灰燼となった。

(諸将は)老僧児童の首をはねたり生捕りにしたので、猛火の中に飛び入って焼死する者も多かったという。


――『池田家履歴略記』


まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り

2019年02月07日 09:38

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 03:00:58.11 ID:/3anshgn
まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り


(花隈城の戦いのとき、池田恒興は事前に所々に向城を建てて家臣を詰めさせていた)

花隈城から生田の森(生田神社の後方の森)の西の金剛寺山(現在の大倉山)を攻め取ろうと
足軽が出てきて、(家臣の)伊木清兵衛、森寺清左衛門が出陣し大いに戦った。
北の諏訪山に布陣していた信輝公(恒興)、之助公(元助)はこれを見て出陣し、固まって
戦っていると敵はたちまち浮立って旗色が乱れた。

そこを之助公、古新公(輝政)が轡を並べて真っ先に馬を入れて敵を追い散らされたので
敵はこらえかねて、すぐに下知をして城中に逃げ入ろうとした。
両君もすぐに追い詰めて、城の柵際で御兄弟は共に敵を組み伏せ、それぞれ首一つ討ち取って
本陣に帰ろうとしたが、城兵がこれを無念に思ってか、多くが後を追いかけてきた。
両君も危ういところだったが、御先手の秋田加兵衛、堀尾與左衛門、竹村小平太、岩越久左衛門
高木宮など多くが駆けつけて奮戦したので、再び敵を城内に追い込んだ。
このとき、加賀半七があまりに勇んで戦っていたためか討ち死にした。

城兵はまだ屈せず防戦しており、その上五輪作右衛門という大剛の勇士が古新公を
討ち取ろうと駆けて来たので、古新公は引き受けてしばらく戦った。
そこを高木宮が駆け塞がり、一緒に切りかかった。
主従はまだ若年だといえども、その勢いは甚だ勇猛であった。
五輪もここを第一と戦い、勝負は未だ決することがなかった。

信輝公はこれを見て多勢を横合いから駆け入らせたので、城兵は辟易し敗れて逃げ入った。
五輪もただ一人戦っていたものの、味方が引くのを見て引き下がろうとしたので、古新公と
高木宮は一緒に追いかけたが、前に蓮の池があって進みにくかったため城に入られてしまった。
このとき宮はあまりにも身を揉んで働いたので、短刀が鞘走って難所に落ちてしまったが
敵を追い払って、落とした短刀を拾い上げ鞘に収めてしずしずと帰ってきた。
天晴勇士の骨柄かなと人々は感動したという。(高木宮は)時に行年十三歳であった。

信輝公もその勇猛をお褒めになり、(高木宮は)名刀を賜った。
名刀は和泉守(兼定)の長さ二尺二寸のもので、子孫が相伝し家の宝としている。
宮は成長して高木外記*と名乗った。
また信輝公は今日討ち取った首実検を行ったが、之助公廿二歳、古新公十七歳のまだ若年の身で
それぞれ敵を討ち取り、首を提げて並んで出てこられた。
信輝公はこれをご覧になって、強くお喜びになり不覚にもホロリと感涙された。
御側にいる人も、共に感涙をそそいだという。


――『池水記』

* のち鳥取藩士。池田光仲が幼少の際に鳥取城代を務めた。


829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/25(木) 02:51:49.68 ID:cabIDRZ6
平成21年に各務原市へ寄贈され解体した時に
大垣城の門と解ったのも驚きだが
移築先が伊木清兵衛縁の鵜沼であった事に
歴史のロマンを感じる

池田恒興の清兵衛への恩に酬いる気持ちが
この現代に巡ってくるとはなぁ

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/25(木) 05:20:16.23 ID:cabIDRZ6
>>829
https://www2.og-bunka.or.jp/bunka/news/data_466.html


池田恒興の犬山城略取に対する恩賞

2019年01月31日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 14:48:21.48 ID:BCfrZ7lK
池田恒興の犬山城略取に対する恩賞


賤ヶ岳の戦いの後秀吉と織田信雄の関係は悪化し、天正12年3月13日に池田恒興が犬山城を占拠した。
下記はそのことに対する恩賞について、秀吉から恒興の母(養徳院)に送られた手紙。

今度の勝三(恒興)の犬山の御手柄は、中々お礼を申せるようなことではないのですが
尾張一円(一国)を勝三に差し上げるつもりです。また藤三郎殿(長吉)に美濃稲葉の知行を相添えます。
それゆえ、あなたさまにまで一筆進上しました。恐々謹言。
 勝九郎殿(元助)へはあなたさまに内密に申し上げた通りですので、御心を安くしてください。以上。 
  
    三月廿三日           秀吉(花押)
               秀吉
おおちさま(養徳院)            ちくせん


――『原富太郎氏所蔵文書』

恒興と元助が小牧・長久手で討ち死にしたため、実際には尾張一国を貰うことはなかった。


三の重宝

2019年01月08日 18:16

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/08(火) 16:17:28.91 ID:NOce0VTW
池田輝政公によると、武将の重宝とすべきは、領分の百姓と、譜代の士と、鶏の三品であるとした。
その理由として、百姓は田畑を作り我が上下の諸卒を養う、是れ一つの重宝なり。
譜代の士、たとえ気が合わず扶持を放したとしても、敵国においては、かの者が実際に扶持が放れたと
思わず、間者として入ったのではないかと疑い、故に敵国に逗留すること出来ず、終には我が国に帰って
我が兵と成る。故にこれ二つ目の宝である。
また、目に見える合図、耳に聞こえる合図では、敵の耳目にかかりやすく、敵国の中では簡単には
出来ない。しかし鶏鳴は誰もそれが合図だとは思わないが故に、即ち敵国の鶏鳴にて、一番鶏にて
人衆を起こし、二番鶏にて食し、三番鶏にて打ち立つなどと合図を決めておけば、敵もその合図に
気が付かないという徳がある。これが三つ目の重宝であり、これらを三の重宝と立てたのだ、と
言われた。

(常山紀談)


626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/08(火) 21:05:40.78 ID:Kf8Bs6YY
>>625
鶏は大事な食糧かと思ったら時計あわせか

どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか

みだりに人数を殺すのみを武と思うのは、

2019年01月02日 19:07

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 21:20:45.80 ID:mQpvXqZI
大坂落城の日、興国公(池田利隆)の家臣である斉藤織部は黒母衣をかけて、西国道に落ち行く敵を
追撃し、既に討ち取らんとした時、この敵は振り返って叫んだ「落武者の頸取られたりとも、さばかりの
武功とも言うべからず。どうか助けてくれ!」

これを聞いて斉藤は、従者に指させていた相印の腰指を彼に与え
「さあ、落ちられよ。もし見咎める者が居れば、池田の家中、斉藤織部という武士の従者であると言われよ。」
そう教えると、彼は忝ないと謝して落ちていった。

斉藤が帰陣した後、彼の友が来てこう語った
「大坂の落ち武者の中に、私にゆかりのある者が居たのだが、貴殿に助けられ、相印まで与えられたため
逃れることが出来た。その後、彼は密かに私の所に参って、この事を申したのだ。」

斉藤はこの事について、後に人にこう語った。
「私がその時、あの武者を討つのは容易かったであろう。されども落武者が降参するのを斬ったとしても、
母衣武者である私にとっていかほどの功名となっただろうか。今は却って奥深く覚える。みだりに人数を
殺すのみを武と思うのは、大いなる僻事である。」

(常山紀談)



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 06:33:39.94 ID:GWdJevgd
最終戦争だもんな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 21:41:43.99 ID:jxPNPj0i
クリンゴン人「戦う気の無い者を討ったところで何の名誉が得られようか」

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 22:07:18.62 ID:MThnkwH5
>>612
戦場と比べて落ち武者の首は評価低いのか、まあ勝ち確定の状況だしそりゃそうか。

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 22:22:52.84 ID:GFepOi2A
>>615
落ち武者刈りなんて百姓の仕事だしなぁ

池田長吉と犬狩

2018年12月30日 16:39

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 15:01:21.19 ID:QgRtDTK3
池田長吉と犬狩


慶長8年、池田備中守殿(長吉)は犬狩を行った。
巨濃郡湯山(現・鳥取市)の砂漠(海浜)の四方を海の方は開けて一辺五町で囲い
犬が通れないように、竹の菱垣を縛って催すことにした。
家中でお触れがあり、家臣の面々は日頃嗜んでいる武具を締め、馬を持つ者は
馬具を鮮やかに飾り、馬を持たぬ端侍は歩立になり弓槍を持って美を争い出立した。
その日になると、城下領内の者はもちろん国中遠里深山の者まで聞き及んだ者は
稀代の物見と思って、老若貴賤男女の区別なく竹垣の外に立ち並んでいた。
長吉公は高櫓を架けて、そこから見物していた。

飼い置かれていた数百匹の犬どもを少しずつ放し、かけ声をあげ追い立てると
群衆に恐れをなして、あちらこちらに逃げていった。
犬に当てようと矢比を測り馬を駆け回し、矢叫の声をあげて犬を射ると
当たって倒れる犬もいれば、当たらず逃げる犬もいた。
馬の逸足で追いつかれて、手元で矢に当たり倒れた犬もいた。
槍持ちに追いかけられ、槍で刺される犬もいた。
犬どもはあまりに追い回されるので、逃げる所がなくなり海へ逃げ込み泳いでいた。

備州公(長吉)は侍の立ち回りや弓槍の良し悪しを書き留めていた。
武者の駆け引きを試していたので、この場に出た侍たちは好機であった。
終日の騎射の面白さに諸人は心を慰めて目を覚ましたので、日が暮れて晩になり
太守(長吉)が帰城したところで見物人も退散した。
三日間の犬狩の間、諸人が行き交うのは言語を絶する壮観だったという。
長吉公が珍しき遊覧を行い諸人の目を驚かしたのは、ひとえに武道調練の嗜みを
家中の者に稽古させるためであると伝わっている。


――『因幡民談』
もうすぐ戌年も終わるので……。



554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 15:40:05.75 ID:99p8w06u
>>553
一般大衆の娯楽でもあったのか、ワンチャンカワイソスと思うのは現代人のおごりかなぁ~
>飼い置かれていた数百匹の犬ども
世話してた人、情が移ってそう

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 17:04:00.85 ID:EJ7XcMUV
美味しくいただきました!

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 13:47:07.49 ID:aukyqnVg
>飼い置かれていた数百匹の犬ども

太田三楽斎「(∪^ω^)」

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 14:49:19.90 ID:abDIRCtt
数百匹って凄いね、金かかって大変だろう

池田光政、お見舞いのお菓子を作る

2018年12月29日 17:15

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/29(土) 16:10:06.29 ID:0XdPBbAf
池田光政、お見舞いのお菓子を作る


御大老の酒井雅楽頭(忠勝)が(病気で)御不食のとき、御大名方が珍味を贈り物に
していたので、公(光政)も何か(雅楽頭に)差しあげたいと思われた。
御膳奉行を呼んで相談したところ、浮麩*がよいということになったので、赤小豆をすり
米粉を取り寄せて、御自身で拵えて小さい重箱に入れられた。
(光政は)御留守居役を使者として遣わしたが、余りにも少ししかないので(雅楽頭が)
気分を害されるかもしれないと使者は思いながら参った。

御口上を申し入れると、御使者へ逢われるそうなので待つようにと言われ暫くして
奥へと段々通され居間の襖障子が開くと、そこに(雅楽頭が)いらしゃった。
「新太郎殿(光政)の御使者に、懇意の贈り物のお礼を申せそうにありません。
 最近は何も食べられなかったのですが、御親切のお礼に食べてみせますよ」
と仰せられ、快く一つ分を召し上がった。

このことを帰ったら申し上げるように伝えられていたので、(光政は)殊の外お喜びに
なり、御使者も存外の首尾で帰ってくることが出来た。


ーー『率章録』


池田忠継 「鬼孫なり」

2018年12月03日 21:03

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 21:57:47.67 ID:c+sukp8m
池田忠継 「鬼孫なり」


龍峰寺様(池田忠継)御歳16歳、慶長19年大坂冬の御陣のときに初陣であった。
とりわけ美男であったが兼ねてから御病身でもあったので
陣中での機嫌(体調)を気遣われていた。
しかしながら、御家老・荒尾但馬(成房)、荒尾志摩(隆重)、和田壱岐(正信)を初め
諸士の大将・諸物頭などを大広間に集めて、御軍令を仰せ渡された。

(忠継は)此度の軍を天下泰平の御一戦と思われていたのか
「御当家は将軍家の御恩により、別に立てることが出来た御家であるので
 此度の御一戦限りと一心に思い出陣すれば、いずれも忠義を遂ぐべし」
と仰せられたので、但馬、志摩を初めみなその御忠志の程に感銘を受け、上下一同
感涙の涙を流したことを、瀏節但馬(荒尾成利・成房の長男)がよく覚えていて
興禅院(池田光仲・忠継の甥)へ御物語申し上げたと、伝えられている。

(中略)

大坂冬の御陣で忠継が大和田を御渡りになるとき、傅役の喜多村織部を先乗りさせ
敵陣を見た後、御馬を(川に)入れて御渡りになった。
御勇気比類なく敵を追い討たれた事を、権現様(家康)がお聞きになり
「鬼孫なり」
と褒め称えられたので、秀忠公より鉄楯を給わったという。


――『因府録抄』

家康は忠継に対して即刻感状を出したため、冬の陣の諸大名と比べて誰よりも早い
11月7日付け(ほかは12月24日付け)の異例の感状が残っている。
(参考:図録『館蔵品選集Ⅱ』鳥取市歴史博物館)


皆々家一つで育った片口者なので

2018年11月22日 18:12

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 13:45:43.46 ID:kEbWa5TN
皆々家一つで育った片口者なので


若原右京は(池田家臣の)若原勘ヶ由の甥にあたり、関ヶ原の戦で功があった。
段々出世し禄四千石になり、中村主殿と共に国政を執って過分の威勢を持っていた。
国清公(池田輝政)が薨じた後、右京と主殿は奢侈に流れて仕置もよくないと
関東に伝わったので、神君(家康)はとてもお怒りになった。
それにより安藤対馬守(重信)、村越茂助(直吉)両人が上使として姫路に来たる。
時に二(三)月十五日、池田の御一族ならびに老臣物頭どもの列座にて、右京と主殿の
御不審のことなどについて御穿鑿があった。

第一に、右京は四千石の身上で騎馬の士を百人召し抱えているのは甚だ不審である。
第二に、良正院殿は神君の御女であり、その御腹の君達は御孫である。しかし右京は
良正院殿を初め幼君達に対し、無礼過分の振る舞いがあったこと。
第三に、池田の一族、歴代の家老どもを差し置いて、おのれ一人威勢権柄を振るい
諸事ほしいままに執り行ったこと。
この条々について申し分があるかと、村越安藤両人が上意として申し渡した。

右京は承って

「上意の如く心馳せの浪人どもに、後々三左衛門(輝政)直参として召し出されると
 申し聞かせ、優れた百人を自分で召し抱えたことは確かです。これは三左衛門が
 当国を拝領したとき莫大の御恩を忝なく思い、内々思うところがあったのでしょう
 当地は海陸肝要の所でその上関東より御心懸けがある国なので、とりわけ大切だと
 その任に当たるべき者を選ばれ、国法軍法を拙者一人に申し付けられました。しかし
 小身では叶わないからと加増をすると、家老初め譜代の者が恨み憤ることは必至。
 そのため蔵入五万石の地代官に申し付けられ、知行代わりとして心のままに取り
 計らうように命じられたからなのです。浪人どももそのために召し抱えていました」

「第二に、奥方子息などに無礼慮外を仕ったとありますが、これは三左衛門が奥方の
 暮らしが華美に過ぎるときは家の破れる元である、子息の方も同じことだ、左様の
 ことがあれば遠慮なく取り計らうよう、内々に申し付けられたからです。大御所様の
 御姫君、御孫であっても、過分の御振る舞いがあるときは恐れながら諌めましたのは
 確かです。武州(利隆)は別腹の惣領で、左衛門督殿(忠継)は当腹の愛子、その次々の
 子息の方も同じことですが、ややもすれば武州を越えて若輩が奢り、全てのことが
 過分になったときに異見をし、差し止めたので無礼と聞き及びになられたのでしょう。
 不敬と言い立てる程の事柄は、露ばかりもございません」

「第三に、一門家老どもを踏みつけたとのことですが、上意の如く池田出羽(由之)は
 池田の嫡家で一城の主、その他家老どもも多くは城主郡主です。このような一門譜代の
 歴々が国中の仕置などに召し使う才略があれば、それが一番よいことだったのですが
 皆々家一つで育った片口者なので、その任に付けるのは難しかったものですから
 三左衛門の思いのままに、国政軍法を某に申し付けられましたのは周知のことです。
 これについては何の子細もございません」

と申したところ、丹羽山城入道(右京の親戚)が末座より進み出て
「上使の御前にて高声無礼である」
と叱ると、右京は(丹羽の)眼を見て
「なんだ徳入、無礼とは何事か。亡き殿が御在世のときに我に対して、左様のことを
 言い張るべきなのに、今更出てきて我を折檻する方が無礼だ」
と言ったので、丹羽は言葉もなく引き下がった。

右京の申し開きは悉く立ったが、国政に相応しい者ではないと、将軍家は播州から
右京を御改易にし、主殿も同罪になったという。


――『池田家履歴略記』

右京が改易になったせいで、加増や召し抱えが反故になった士も多かったとか。


扇でお顔をしたたかに打って

2018年11月10日 16:45

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 10:25:29.90 ID:5FRsjJ5D
扇でお顔をしたたかに打って


八田豊後*は無銘二尺三寸の郷(義弘)の刀を所持していた。
国清公(池田輝政)は右の刀を指し上げよと度々仰せられていたが、そうしなかった。
ある夜お酒を飲んだ後(国清公は)豊後を呼んで、度々所望の刀を出せと仰せられた。

豊後は
「度々お断り申し上げる通り代々所持している刀で、これをもって
 御馬先を仕るべしと心がけていますので、指し上げることは出来ません」
と言った。その時国清公はお怒りになり長押にある薙刀を取られたので
豊後は扇で(国清公の)お顔をしたたかに打って退出した。

元来お酒に酔った後の話なので、御側の衆が(国清公を)取鎮め
「豊後のことは我らに仰せ付けて下さい」と押し留めた。
その後しばらくして酔いが覚められた後、深酒されていたものの豊後を呼んだ。
豊後はお手討ちだろうと覚悟してすぐに登城し、直に御寝所へと通された。

「我は酒に酔い其方を手討ちにしようとしたが、我の誤りであった。
 其方いささかも心にかけてくれるな」
と(国清公が)仰せられたので、豊後は不覚にも落涙して退出した。
国清公の御行跡は、大方この類が多かったとか。


――『備陽武義雑談』

* 池田家臣。先祖は楠木正成の家臣だったが千早城が落城した後に伊勢へ行き
 北畠家に仕えたという。父の代に北畠具教が殺害され、一緒に浪人となった。
 池田恒興が伊丹城に在城しているときに召し出された。輝政が参議に叙任した際
 太刀持ちが必要だったため陪臣ながら任官した。最終的に三千石を拝領したという。



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 13:36:46.47 ID:Rb9DE5g9
話の中身だけ見ると正則の逸話って言われても違和感無いな

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:39:24.07 ID:sXciHy0v
最後、落涙したあと刀を献上するかと思ったけどそんなことは無かったぜ。
郷はSSRだからね、仕方ないね。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:57:45.30 ID:uqMFgxk/
高虎「やはり酒はいかん。飯、いや餅を食うのが一番良い。」

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 19:40:42.06 ID:p0i+gKso
輝政さんストレス溜まってたんだろうね

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:08:27.04 ID:QjvIsSdR
これがのちのツッコミハリセンになるのか

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 06:34:01.03 ID:Rtctq3rn
下戸の光秀にションベン飲ませようとしたアレだな

彼女は獰猛な牝ライオンのように

2018年10月27日 11:20

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 22:28:54.76 ID:K7WJMRDm
彼女は獰猛な牝ライオンのように


播磨の国の殿(池田輝政)が住む城と御殿に接する異教徒たちが住む町で
悪魔がある女に取り憑くということがあった。彼女は獰猛な牝ライオンのように
家から出て誰も彼女を阻止出来なかった。そしてこの勢いと狂暴さをもって
城に入った。城の女房にさえ容赦せず、ついには無数の狼藉を働いた。
しかしその女房に仕えるあるキリシタン女に出会い、彼女に気づくと悪魔に
憑かれた女は逃げ出し、顔を覆って「キリシタンは恐ろしいものだ」と言った。

女房は腰元(あるキリシタン女)に
「この女はなぜお前から逃げたか」
と問いました。腰元は
「自分が首にかけている守り袋(アグヌス・デイ)のせいだろう」
と答えて、(悪魔に憑かれた)女の上に守り袋を置くと、女は静かになった。
異教徒たちは守り袋を拝むようになり、キリシタンの話を聞くことを望んだ。

その国で受洗した人たちの中に、公方(家康)の息女であるその国の領主の奥方(督姫)に
仕える高貴な若い婦人が二人いた。彼女たちはその御殿の他の女たちが、やはり
以前に行ったように、我らの聖なる教えの真実をよく理解して受洗した。


――『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』



長久手古戦場と白骨

2018年10月18日 19:30

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 00:17:52.70 ID:/dVSBscy
長久手古戦場と白骨


長久手原の御一戦から当年(宝暦4年)まで百七十一年。

戦場の小高い所には悉く白骨、平地も貝殻のように砕けているのはみな人骨である。
この一戦で、秀吉方で討ち死にしたのは一万五千人余り
当家(池田家)で討ち死にしたのは一千七百人余りという。
この合戦後三年の間は田地が死人の血油で肥え過ぎたため、稲は実らなかった。
合戦の翌日に、農夫二十人が物を拾いに行って、残らず死んだという。

(中略)

活賀五郎左衛門という者が牛を放してしまい、勝入塚を突き崩した。
拳が出入りできるような穴が二つ三つ空いたが、その中から多くの白骨が
見えたという言い伝えがある。


――『池田氏家譜集成 長久手古戦場聞書』




324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 05:30:43.76 ID:Dae3Z85n
物を拾いにいったのはなぜ死んでしまったのだろうか

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 11:50:17.72 ID:u71xBUX7
秀吉方の死者って2000人ぐらいでそ。10倍とまではいかなくても、盛っているなぁ。

池田輝政の肖像画、モデルは木像

2018年10月13日 17:08

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 13:30:12.37 ID:9x7iTW91
池田輝政の肖像画、モデルは木像 子孫継政が描く、県立博物館確認(山陽新聞)
ttp://www.sanyonews.jp/article/805266/1/

岡山藩池田家ゆかりの国清寺(岡山市中区小橋町)に伝わる、同家の礎を築いた
池田輝政(1564~1613年)の木像が、金山寺(同市北区金山寺)が所有する
輝政の肖像画のモデルであることが12日までに分かった。
画は輝政の子孫、第3代岡山藩主・継政(1702~76年)の筆で、研究者は
「彫刻を基にした肖像画は少ない上、結び付きが証明された珍しいケース」としている。

岡山県立博物館(同後楽園)が19日開幕の特別展「岡山ゆかりの肖像」のため調査。
木像と肖像画は特別展で公開される。

肖像画
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/e52bbd30c95052f37c8e28ba14aeb19e.jpg
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木像
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/316a2843b84eeebb6f10d19ed72ceffe.jpg
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割と目がくりっとしてる?



池田恒興、信輝改名説の出所

2018年10月03日 22:34

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 14:15:14.69 ID:666c4AP6
池田恒興、信輝改名説の出所


長年池田恒興(勝入)の諱とされてきた信輝は、一次史料には全く見られない名前であり
現代の研究においては、実際に名乗った名前でないことが定説となっている。

恒興の死後50年以上経った寛永18年、子孫である岡山藩主・池田光政と
鳥取藩主・池田光仲が幕府へ提出するため連名で作成した『池田家系図』では
既に恒興が後に信輝に改名した旨の記述が出てきている。

発端は檜尾神社(現:甲賀市甲南町池田)の棟札であった。
棟札には天正8年に"池田勝三郎信輝"が檜尾神社を造立したと書かれているのである。
また檜尾神社の社家の伝承では、「檜尾大明神は"信輝"の産土神であること」
「"信輝"の父親・恒利は元は滝川氏であり、従って甲賀出身であること」が
伝えられていたという。(『乍恐御尋書付之事(檜尾神社由緒問答)』)

当然現実の恒興は信輝に改名していないので、棟札は本物ではありえず
伝承にも疑問符がつくのだが、これを真に受けて池田家の史料が作られてしまった。
書付では、そもそも産土神であることを証明するようなものが池田家側になく
滝川家の領地とされた村々で、恒利のことを尋ねたが由緒については不明だったとする。
江戸時代の檜尾神社はその"由緒"から、池田家中や池田家の領地の城下町において
配札や祈祷を行い、藩主の参勤交代でもお祓いなどを行っている。

ちなみに檜尾神社の棟札は、池田家関連の展示会で実際に展示される関係もあり
図録の解説等では表立って怪しいものとはされていない。
ただもちろん現在の池田家の研究者で、信輝改名説を採用している人はいない。


督姫、母の供養のために宗旨替えをする

2018年09月29日 18:38

督姫   
324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 11:47:06.40 ID:NRTWlHBq
督姫、母の供養のために宗旨替えをする


慶長14年、督姫は姫路から息子らを連れ駿府に行き、父の家康に拝謁した。
そのときに督姫
「母(西郡局)の御宗旨が日蓮宗であるので、私が宗旨を受け継いでいますが
 松千代(輝澄)に宗旨を譲り、自身は父の御宗旨(浄土宗)に致したく存じます」
と願ったので(家康は)もっともに思って松千代を膝下に召し寄せて
「母の願いなのだから、祖母西郡の宗旨とするのがよいだろう。
 そうであるなら父三左衛門の名字の池田を改め、祖父の名字松平とするように」
との上意により、松千代は松平氏と吉光の脇差、船の形をした黄金の文鎮を
授かった。(『譜牒余録』)(『寛政重修諸家譜』)

西郡局は慶長11年に伏見城で亡くなったが、その際の葬式法事は家康の命により
娘婿の輝政が執り行い、菩提を弔うため姫路城東方の野里に青蓮寺を建立した。
同寺には長谷川等伯筆の西郡局の肖像画や、井伊掃部頭(直孝)、藤堂和泉守(高虎)
土井大炊頭(利勝)連名の木札が納められていたという。(『蓮葉院余光記』)

輝澄は慶長20年に、兄忠雄から領地を分与される形で山崎藩を立藩した。
池田家が姫路から転封された際に、青蓮寺は輝澄の領地に移り(現・宍粟市山崎町)
輝澄の改易後も、その由緒から寺領百石の御朱印を有した。