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三の重宝

2019年01月08日 18:16

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/08(火) 16:17:28.91 ID:NOce0VTW
池田輝政公によると、武将の重宝とすべきは、領分の百姓と、譜代の士と、鶏の三品であるとした。
その理由として、百姓は田畑を作り我が上下の諸卒を養う、是れ一つの重宝なり。
譜代の士、たとえ気が合わず扶持を放したとしても、敵国においては、かの者が実際に扶持が放れたと
思わず、間者として入ったのではないかと疑い、故に敵国に逗留すること出来ず、終には我が国に帰って
我が兵と成る。故にこれ二つ目の宝である。
また、目に見える合図、耳に聞こえる合図では、敵の耳目にかかりやすく、敵国の中では簡単には
出来ない。しかし鶏鳴は誰もそれが合図だとは思わないが故に、即ち敵国の鶏鳴にて、一番鶏にて
人衆を起こし、二番鶏にて食し、三番鶏にて打ち立つなどと合図を決めておけば、敵もその合図に
気が付かないという徳がある。これが三つ目の重宝であり、これらを三の重宝と立てたのだ、と
言われた。

(常山紀談)


626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/08(火) 21:05:40.78 ID:Kf8Bs6YY
>>625
鶏は大事な食糧かと思ったら時計あわせか
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どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか

みだりに人数を殺すのみを武と思うのは、

2019年01月02日 19:07

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 21:20:45.80 ID:mQpvXqZI
大坂落城の日、興国公(池田利隆)の家臣である斉藤織部は黒母衣をかけて、西国道に落ち行く敵を
追撃し、既に討ち取らんとした時、この敵は振り返って叫んだ「落武者の頸取られたりとも、さばかりの
武功とも言うべからず。どうか助けてくれ!」

これを聞いて斉藤は、従者に指させていた相印の腰指を彼に与え
「さあ、落ちられよ。もし見咎める者が居れば、池田の家中、斉藤織部という武士の従者であると言われよ。」
そう教えると、彼は忝ないと謝して落ちていった。

斉藤が帰陣した後、彼の友が来てこう語った
「大坂の落ち武者の中に、私にゆかりのある者が居たのだが、貴殿に助けられ、相印まで与えられたため
逃れることが出来た。その後、彼は密かに私の所に参って、この事を申したのだ。」

斉藤はこの事について、後に人にこう語った。
「私がその時、あの武者を討つのは容易かったであろう。されども落武者が降参するのを斬ったとしても、
母衣武者である私にとっていかほどの功名となっただろうか。今は却って奥深く覚える。みだりに人数を
殺すのみを武と思うのは、大いなる僻事である。」

(常山紀談)



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 06:33:39.94 ID:GWdJevgd
最終戦争だもんな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 21:41:43.99 ID:jxPNPj0i
クリンゴン人「戦う気の無い者を討ったところで何の名誉が得られようか」

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 22:07:18.62 ID:MThnkwH5
>>612
戦場と比べて落ち武者の首は評価低いのか、まあ勝ち確定の状況だしそりゃそうか。

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 22:22:52.84 ID:GFepOi2A
>>615
落ち武者刈りなんて百姓の仕事だしなぁ

池田長吉と犬狩

2018年12月30日 16:39

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 15:01:21.19 ID:QgRtDTK3
池田長吉と犬狩


慶長8年、池田備中守殿(長吉)は犬狩を行った。
巨濃郡湯山(現・鳥取市)の砂漠(海浜)の四方を海の方は開けて一辺五町で囲い
犬が通れないように、竹の菱垣を縛って催すことにした。
家中でお触れがあり、家臣の面々は日頃嗜んでいる武具を締め、馬を持つ者は
馬具を鮮やかに飾り、馬を持たぬ端侍は歩立になり弓槍を持って美を争い出立した。
その日になると、城下領内の者はもちろん国中遠里深山の者まで聞き及んだ者は
稀代の物見と思って、老若貴賤男女の区別なく竹垣の外に立ち並んでいた。
長吉公は高櫓を架けて、そこから見物していた。

飼い置かれていた数百匹の犬どもを少しずつ放し、かけ声をあげ追い立てると
群衆に恐れをなして、あちらこちらに逃げていった。
犬に当てようと矢比を測り馬を駆け回し、矢叫の声をあげて犬を射ると
当たって倒れる犬もいれば、当たらず逃げる犬もいた。
馬の逸足で追いつかれて、手元で矢に当たり倒れた犬もいた。
槍持ちに追いかけられ、槍で刺される犬もいた。
犬どもはあまりに追い回されるので、逃げる所がなくなり海へ逃げ込み泳いでいた。

備州公(長吉)は侍の立ち回りや弓槍の良し悪しを書き留めていた。
武者の駆け引きを試していたので、この場に出た侍たちは好機であった。
終日の騎射の面白さに諸人は心を慰めて目を覚ましたので、日が暮れて晩になり
太守(長吉)が帰城したところで見物人も退散した。
三日間の犬狩の間、諸人が行き交うのは言語を絶する壮観だったという。
長吉公が珍しき遊覧を行い諸人の目を驚かしたのは、ひとえに武道調練の嗜みを
家中の者に稽古させるためであると伝わっている。


――『因幡民談』
もうすぐ戌年も終わるので……。



554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 15:40:05.75 ID:99p8w06u
>>553
一般大衆の娯楽でもあったのか、ワンチャンカワイソスと思うのは現代人のおごりかなぁ~
>飼い置かれていた数百匹の犬ども
世話してた人、情が移ってそう

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 17:04:00.85 ID:EJ7XcMUV
美味しくいただきました!

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 13:47:07.49 ID:aukyqnVg
>飼い置かれていた数百匹の犬ども

太田三楽斎「(∪^ω^)」

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 14:49:19.90 ID:abDIRCtt
数百匹って凄いね、金かかって大変だろう

池田光政、お見舞いのお菓子を作る

2018年12月29日 17:15

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/29(土) 16:10:06.29 ID:0XdPBbAf
池田光政、お見舞いのお菓子を作る


御大老の酒井雅楽頭(忠勝)が(病気で)御不食のとき、御大名方が珍味を贈り物に
していたので、公(光政)も何か(雅楽頭に)差しあげたいと思われた。
御膳奉行を呼んで相談したところ、浮麩*がよいということになったので、赤小豆をすり
米粉を取り寄せて、御自身で拵えて小さい重箱に入れられた。
(光政は)御留守居役を使者として遣わしたが、余りにも少ししかないので(雅楽頭が)
気分を害されるかもしれないと使者は思いながら参った。

御口上を申し入れると、御使者へ逢われるそうなので待つようにと言われ暫くして
奥へと段々通され居間の襖障子が開くと、そこに(雅楽頭が)いらしゃった。
「新太郎殿(光政)の御使者に、懇意の贈り物のお礼を申せそうにありません。
 最近は何も食べられなかったのですが、御親切のお礼に食べてみせますよ」
と仰せられ、快く一つ分を召し上がった。

このことを帰ったら申し上げるように伝えられていたので、(光政は)殊の外お喜びに
なり、御使者も存外の首尾で帰ってくることが出来た。


ーー『率章録』


池田忠継 「鬼孫なり」

2018年12月03日 21:03

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 21:57:47.67 ID:c+sukp8m
池田忠継 「鬼孫なり」


龍峰寺様(池田忠継)御歳16歳、慶長19年大坂冬の御陣のときに初陣であった。
とりわけ美男であったが兼ねてから御病身でもあったので
陣中での機嫌(体調)を気遣われていた。
しかしながら、御家老・荒尾但馬(成房)、荒尾志摩(隆重)、和田壱岐(正信)を初め
諸士の大将・諸物頭などを大広間に集めて、御軍令を仰せ渡された。

(忠継は)此度の軍を天下泰平の御一戦と思われていたのか
「御当家は将軍家の御恩により、別に立てることが出来た御家であるので
 此度の御一戦限りと一心に思い出陣すれば、いずれも忠義を遂ぐべし」
と仰せられたので、但馬、志摩を初めみなその御忠志の程に感銘を受け、上下一同
感涙の涙を流したことを、瀏節但馬(荒尾成利・成房の長男)がよく覚えていて
興禅院(池田光仲・忠継の甥)へ御物語申し上げたと、伝えられている。

(中略)

大坂冬の御陣で忠継が大和田を御渡りになるとき、傅役の喜多村織部を先乗りさせ
敵陣を見た後、御馬を(川に)入れて御渡りになった。
御勇気比類なく敵を追い討たれた事を、権現様(家康)がお聞きになり
「鬼孫なり」
と褒め称えられたので、秀忠公より鉄楯を給わったという。


――『因府録抄』

家康は忠継に対して即刻感状を出したため、冬の陣の諸大名と比べて誰よりも早い
11月7日付け(ほかは12月24日付け)の異例の感状が残っている。
(参考:図録『館蔵品選集Ⅱ』鳥取市歴史博物館)


皆々家一つで育った片口者なので

2018年11月22日 18:12

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 13:45:43.46 ID:kEbWa5TN
皆々家一つで育った片口者なので


若原右京は(池田家臣の)若原勘ヶ由の甥にあたり、関ヶ原の戦で功があった。
段々出世し禄四千石になり、中村主殿と共に国政を執って過分の威勢を持っていた。
国清公(池田輝政)が薨じた後、右京と主殿は奢侈に流れて仕置もよくないと
関東に伝わったので、神君(家康)はとてもお怒りになった。
それにより安藤対馬守(重信)、村越茂助(直吉)両人が上使として姫路に来たる。
時に二(三)月十五日、池田の御一族ならびに老臣物頭どもの列座にて、右京と主殿の
御不審のことなどについて御穿鑿があった。

第一に、右京は四千石の身上で騎馬の士を百人召し抱えているのは甚だ不審である。
第二に、良正院殿は神君の御女であり、その御腹の君達は御孫である。しかし右京は
良正院殿を初め幼君達に対し、無礼過分の振る舞いがあったこと。
第三に、池田の一族、歴代の家老どもを差し置いて、おのれ一人威勢権柄を振るい
諸事ほしいままに執り行ったこと。
この条々について申し分があるかと、村越安藤両人が上意として申し渡した。

右京は承って

「上意の如く心馳せの浪人どもに、後々三左衛門(輝政)直参として召し出されると
 申し聞かせ、優れた百人を自分で召し抱えたことは確かです。これは三左衛門が
 当国を拝領したとき莫大の御恩を忝なく思い、内々思うところがあったのでしょう
 当地は海陸肝要の所でその上関東より御心懸けがある国なので、とりわけ大切だと
 その任に当たるべき者を選ばれ、国法軍法を拙者一人に申し付けられました。しかし
 小身では叶わないからと加増をすると、家老初め譜代の者が恨み憤ることは必至。
 そのため蔵入五万石の地代官に申し付けられ、知行代わりとして心のままに取り
 計らうように命じられたからなのです。浪人どももそのために召し抱えていました」

「第二に、奥方子息などに無礼慮外を仕ったとありますが、これは三左衛門が奥方の
 暮らしが華美に過ぎるときは家の破れる元である、子息の方も同じことだ、左様の
 ことがあれば遠慮なく取り計らうよう、内々に申し付けられたからです。大御所様の
 御姫君、御孫であっても、過分の御振る舞いがあるときは恐れながら諌めましたのは
 確かです。武州(利隆)は別腹の惣領で、左衛門督殿(忠継)は当腹の愛子、その次々の
 子息の方も同じことですが、ややもすれば武州を越えて若輩が奢り、全てのことが
 過分になったときに異見をし、差し止めたので無礼と聞き及びになられたのでしょう。
 不敬と言い立てる程の事柄は、露ばかりもございません」

「第三に、一門家老どもを踏みつけたとのことですが、上意の如く池田出羽(由之)は
 池田の嫡家で一城の主、その他家老どもも多くは城主郡主です。このような一門譜代の
 歴々が国中の仕置などに召し使う才略があれば、それが一番よいことだったのですが
 皆々家一つで育った片口者なので、その任に付けるのは難しかったものですから
 三左衛門の思いのままに、国政軍法を某に申し付けられましたのは周知のことです。
 これについては何の子細もございません」

と申したところ、丹羽山城入道(右京の親戚)が末座より進み出て
「上使の御前にて高声無礼である」
と叱ると、右京は(丹羽の)眼を見て
「なんだ徳入、無礼とは何事か。亡き殿が御在世のときに我に対して、左様のことを
 言い張るべきなのに、今更出てきて我を折檻する方が無礼だ」
と言ったので、丹羽は言葉もなく引き下がった。

右京の申し開きは悉く立ったが、国政に相応しい者ではないと、将軍家は播州から
右京を御改易にし、主殿も同罪になったという。


――『池田家履歴略記』

右京が改易になったせいで、加増や召し抱えが反故になった士も多かったとか。


扇でお顔をしたたかに打って

2018年11月10日 16:45

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 10:25:29.90 ID:5FRsjJ5D
扇でお顔をしたたかに打って


八田豊後*は無銘二尺三寸の郷(義弘)の刀を所持していた。
国清公(池田輝政)は右の刀を指し上げよと度々仰せられていたが、そうしなかった。
ある夜お酒を飲んだ後(国清公は)豊後を呼んで、度々所望の刀を出せと仰せられた。

豊後は
「度々お断り申し上げる通り代々所持している刀で、これをもって
 御馬先を仕るべしと心がけていますので、指し上げることは出来ません」
と言った。その時国清公はお怒りになり長押にある薙刀を取られたので
豊後は扇で(国清公の)お顔をしたたかに打って退出した。

元来お酒に酔った後の話なので、御側の衆が(国清公を)取鎮め
「豊後のことは我らに仰せ付けて下さい」と押し留めた。
その後しばらくして酔いが覚められた後、深酒されていたものの豊後を呼んだ。
豊後はお手討ちだろうと覚悟してすぐに登城し、直に御寝所へと通された。

「我は酒に酔い其方を手討ちにしようとしたが、我の誤りであった。
 其方いささかも心にかけてくれるな」
と(国清公が)仰せられたので、豊後は不覚にも落涙して退出した。
国清公の御行跡は、大方この類が多かったとか。


――『備陽武義雑談』

* 池田家臣。先祖は楠木正成の家臣だったが千早城が落城した後に伊勢へ行き
 北畠家に仕えたという。父の代に北畠具教が殺害され、一緒に浪人となった。
 池田恒興が伊丹城に在城しているときに召し出された。輝政が参議に叙任した際
 太刀持ちが必要だったため陪臣ながら任官した。最終的に三千石を拝領したという。



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 13:36:46.47 ID:Rb9DE5g9
話の中身だけ見ると正則の逸話って言われても違和感無いな

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:39:24.07 ID:sXciHy0v
最後、落涙したあと刀を献上するかと思ったけどそんなことは無かったぜ。
郷はSSRだからね、仕方ないね。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:57:45.30 ID:uqMFgxk/
高虎「やはり酒はいかん。飯、いや餅を食うのが一番良い。」

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 19:40:42.06 ID:p0i+gKso
輝政さんストレス溜まってたんだろうね

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:08:27.04 ID:QjvIsSdR
これがのちのツッコミハリセンになるのか

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 06:34:01.03 ID:Rtctq3rn
下戸の光秀にションベン飲ませようとしたアレだな

彼女は獰猛な牝ライオンのように

2018年10月27日 11:20

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 22:28:54.76 ID:K7WJMRDm
彼女は獰猛な牝ライオンのように


播磨の国の殿(池田輝政)が住む城と御殿に接する異教徒たちが住む町で
悪魔がある女に取り憑くということがあった。彼女は獰猛な牝ライオンのように
家から出て誰も彼女を阻止出来なかった。そしてこの勢いと狂暴さをもって
城に入った。城の女房にさえ容赦せず、ついには無数の狼藉を働いた。
しかしその女房に仕えるあるキリシタン女に出会い、彼女に気づくと悪魔に
憑かれた女は逃げ出し、顔を覆って「キリシタンは恐ろしいものだ」と言った。

女房は腰元(あるキリシタン女)に
「この女はなぜお前から逃げたか」
と問いました。腰元は
「自分が首にかけている守り袋(アグヌス・デイ)のせいだろう」
と答えて、(悪魔に憑かれた)女の上に守り袋を置くと、女は静かになった。
異教徒たちは守り袋を拝むようになり、キリシタンの話を聞くことを望んだ。

その国で受洗した人たちの中に、公方(家康)の息女であるその国の領主の奥方(督姫)に
仕える高貴な若い婦人が二人いた。彼女たちはその御殿の他の女たちが、やはり
以前に行ったように、我らの聖なる教えの真実をよく理解して受洗した。


――『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』



長久手古戦場と白骨

2018年10月18日 19:30

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 00:17:52.70 ID:/dVSBscy
長久手古戦場と白骨


長久手原の御一戦から当年(宝暦4年)まで百七十一年。

戦場の小高い所には悉く白骨、平地も貝殻のように砕けているのはみな人骨である。
この一戦で、秀吉方で討ち死にしたのは一万五千人余り
当家(池田家)で討ち死にしたのは一千七百人余りという。
この合戦後三年の間は田地が死人の血油で肥え過ぎたため、稲は実らなかった。
合戦の翌日に、農夫二十人が物を拾いに行って、残らず死んだという。

(中略)

活賀五郎左衛門という者が牛を放してしまい、勝入塚を突き崩した。
拳が出入りできるような穴が二つ三つ空いたが、その中から多くの白骨が
見えたという言い伝えがある。


――『池田氏家譜集成 長久手古戦場聞書』




324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 05:30:43.76 ID:Dae3Z85n
物を拾いにいったのはなぜ死んでしまったのだろうか

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 11:50:17.72 ID:u71xBUX7
秀吉方の死者って2000人ぐらいでそ。10倍とまではいかなくても、盛っているなぁ。

池田輝政の肖像画、モデルは木像

2018年10月13日 17:08

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 13:30:12.37 ID:9x7iTW91
池田輝政の肖像画、モデルは木像 子孫継政が描く、県立博物館確認(山陽新聞)
ttp://www.sanyonews.jp/article/805266/1/

岡山藩池田家ゆかりの国清寺(岡山市中区小橋町)に伝わる、同家の礎を築いた
池田輝政(1564~1613年)の木像が、金山寺(同市北区金山寺)が所有する
輝政の肖像画のモデルであることが12日までに分かった。
画は輝政の子孫、第3代岡山藩主・継政(1702~76年)の筆で、研究者は
「彫刻を基にした肖像画は少ない上、結び付きが証明された珍しいケース」としている。

岡山県立博物館(同後楽園)が19日開幕の特別展「岡山ゆかりの肖像」のため調査。
木像と肖像画は特別展で公開される。

肖像画
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/e52bbd30c95052f37c8e28ba14aeb19e.jpg
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木像
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/316a2843b84eeebb6f10d19ed72ceffe.jpg
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割と目がくりっとしてる?



池田恒興、信輝改名説の出所

2018年10月03日 22:34

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 14:15:14.69 ID:666c4AP6
池田恒興、信輝改名説の出所


長年池田恒興(勝入)の諱とされてきた信輝は、一次史料には全く見られない名前であり
現代の研究においては、実際に名乗った名前でないことが定説となっている。

恒興の死後50年以上経った寛永18年、子孫である岡山藩主・池田光政と
鳥取藩主・池田光仲が幕府へ提出するため連名で作成した『池田家系図』では
既に恒興が後に信輝に改名した旨の記述が出てきている。

発端は檜尾神社(現:甲賀市甲南町池田)の棟札であった。
棟札には天正8年に"池田勝三郎信輝"が檜尾神社を造立したと書かれているのである。
また檜尾神社の社家の伝承では、「檜尾大明神は"信輝"の産土神であること」
「"信輝"の父親・恒利は元は滝川氏であり、従って甲賀出身であること」が
伝えられていたという。(『乍恐御尋書付之事(檜尾神社由緒問答)』)

当然現実の恒興は信輝に改名していないので、棟札は本物ではありえず
伝承にも疑問符がつくのだが、これを真に受けて池田家の史料が作られてしまった。
書付では、そもそも産土神であることを証明するようなものが池田家側になく
滝川家の領地とされた村々で、恒利のことを尋ねたが由緒については不明だったとする。
江戸時代の檜尾神社はその"由緒"から、池田家中や池田家の領地の城下町において
配札や祈祷を行い、藩主の参勤交代でもお祓いなどを行っている。

ちなみに檜尾神社の棟札は、池田家関連の展示会で実際に展示される関係もあり
図録の解説等では表立って怪しいものとはされていない。
ただもちろん現在の池田家の研究者で、信輝改名説を採用している人はいない。


督姫、母の供養のために宗旨替えをする

2018年09月29日 18:38

督姫   
324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 11:47:06.40 ID:NRTWlHBq
督姫、母の供養のために宗旨替えをする


慶長14年、督姫は姫路から息子らを連れ駿府に行き、父の家康に拝謁した。
そのときに督姫
「母(西郡局)の御宗旨が日蓮宗であるので、私が宗旨を受け継いでいますが
 松千代(輝澄)に宗旨を譲り、自身は父の御宗旨(浄土宗)に致したく存じます」
と願ったので(家康は)もっともに思って松千代を膝下に召し寄せて
「母の願いなのだから、祖母西郡の宗旨とするのがよいだろう。
 そうであるなら父三左衛門の名字の池田を改め、祖父の名字松平とするように」
との上意により、松千代は松平氏と吉光の脇差、船の形をした黄金の文鎮を
授かった。(『譜牒余録』)(『寛政重修諸家譜』)

西郡局は慶長11年に伏見城で亡くなったが、その際の葬式法事は家康の命により
娘婿の輝政が執り行い、菩提を弔うため姫路城東方の野里に青蓮寺を建立した。
同寺には長谷川等伯筆の西郡局の肖像画や、井伊掃部頭(直孝)、藤堂和泉守(高虎)
土井大炊頭(利勝)連名の木札が納められていたという。(『蓮葉院余光記』)

輝澄は慶長20年に、兄忠雄から領地を分与される形で山崎藩を立藩した。
池田家が姫路から転封された際に、青蓮寺は輝澄の領地に移り(現・宍粟市山崎町)
輝澄の改易後も、その由緒から寺領百石の御朱印を有した。


敵は皆腰印を捨てたるぞ!

2018年09月20日 21:05

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 23:35:47.29 ID:9YaWm/t0
(山崎の戦いの時)

御牧兄弟(量重・量則)は初め一番に敵中に馳せ入って攻め破り、また一方を切り抜けて人馬の息を休めた。

「伊勢(貞興)も諏訪(盛直)も討たれたと見えて旗・馬印は乱れ走っている。近江勢は皆逃げ失せ、天王山に
たむろしていた松田(政近)を初め丹波侍も敗北したのか堀(秀政)と堀尾(吉晴)の旌旗が山風に翻っている。
今や総敗軍と覚ゆるぞ。光秀の先途を見届けるまでもない、ここで討死して光秀を落とすべし!」

このように兄弟は相談して、光秀の方へもその旨を申し送って兄弟一同に敵中へ突き入り死物狂いに奮戦すれば、
池田(恒興)・中川(清秀)らの大勢はこれをあしらいかねて見えた。

その時、池田紀伊守元助はこれを見て鞍壺に立ち上がり旗を打ち振るって高らかに命じた。

「敵は皆腰印を捨てたるぞ! 目当てにして組み合い討て!」

そのように元助が牙を噛んで命じると、総勢がこれに心付いて勇み進んで討つにつれて、御牧兄弟を初めとして
2百余騎の軍士は枕を並べて討たれたのである。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

2018年09月13日 21:12


133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 21:23:53.83 ID:qWWCnxkC
菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

慶長12年6月、駿府城の修築のため江戸から神君(家康)の荷物が送られていた。
国清公(池田輝政)は、船奉行の菅小左衛門に荷物の運送を命じた。
駿州清水で島津家の士が池田家の加子(船夫)に狼藉をして、加子四、五人に
怪我を負わせた後、江尻まで逃げていくということがあった。

そのとき小左衛門は陸にいたが後からこの由を聞くと、たった一人駆け出し
跡を追いかけて、島津家の家来が乗っている船に飛び込んだ。
奉行二人の内の一人と、下っ端を四、五人切り殺し、残った奉行を船の梁に
縛り付けて、自分の姓名をしっかり名乗ってから帰った。

当然このことは問題になってしまったが、(池田家臣の中では)
「小左衛門から仕掛けた喧嘩じゃないし、向こうが狼藉をしたんだから
 やむを得ないことなので、小左衛門は助命されるだろう」
という声もあったが、(幕府直参の)三浦志摩守が国清公の方へ参って
「喧嘩両成敗は天下の御法ですので、お助けすることは出来ないでしょう」
と言ったので、国清公もどうにも出来ず、小左衛門に腹を切らせることになった。

小左衛門はこのとき三十一歳だった。
死に臨み友人の安宅次郎左衛門に、遺言状を書き送った。

遺言状(『菅文書』)で小左衛門は父の惣兵衛について
「惣兵衛は年寄りなので、そちらの家に呼んで毎日慰めてあげて下さい。
 一、二年の間だけでもいいのでお願いします」
と、後事を託している。

小左衛門の子の九郎太郎は三歳だったが、父の知行四百石を与えられた。
九郎太郎が五歳のとき、(国清公は)家臣の石丸雲哲に
「あの九郎太郎は成長しただろうか、お城へ連れてくるように」
と仰せられたので、九郎太郎が登城すると国清公は膝元に呼ばれて
懇ろに仰せられたあと、菅若狭に守り立てるように命じられたという。

国清公が亡くなり興国公(池田利隆)が播磨に入ったとき、新参の者は暇を賜ったが
まだ十六歳で無役だった九郎太郎はそのまま仕えることが許されたという。


――『池田家履歴略記』



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:31:03.63 ID:a5yC5vEo
こんなんどうしたら正解だったんや

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:38:59.57 ID:oPuUvg4k
>>133
>加子四、五人に怪我を負わせた
これで五人も殺したのか…と引いてしまうのは現代の価値観かねぇ。

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:57:17.33 ID:1fmrxVb6
>>134
黙っていたら腰抜けとして処罰
反撃したら両成敗で処罰
詰みである
…仕掛けられないようにつねに警戒してろって事かな
でも向こう見ずな奴はこっちの警戒とかお構いなしだろうしな

>>135
やられたらやりかえせな精神だなぁ…
こういうの見るとハムラビ法典ってなるほど穏健な方なんだなと思わされる

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:03:12.47 ID:MdIF2uXQ
やられたらやり返してよい、ただしそれ以上はやり返すなの精神と
やった方も応じた方も罰なの精神は割りと似ている気がする

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:25:24.85 ID:uGl7Zatq
長崎喧嘩みたいに徹底的に報復した後、先行して死ぬのが精神衛生上良さそう
どんなに精神強い人間でも沙汰待つ時は辛いだろうし

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 05:13:36.68 ID:joeuWfgB
>>135
綱吉による教化は本当に重要だったんだなぁ…

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 10:10:59.23 ID:A3TosaDU
>>134
損害賠償を請求すれば良い。断られたら暴れる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:04:56.52 ID:ErgQINDx
武士の場合、損害より面目の問題なんだよなあ

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:28:59.19 ID:7tKdY49C
鉄砲玉の身分はそうだろうね

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:30:33.38 ID:uzG3c2Dm
室町時代から「故戦・防戦法」で理由の如何にかかわらず先に手出ししたほうを罪に問う、とやっても
ちっとも紛争を予防できなかった挙げ句の「喧嘩両成敗」なわけでな。

ちなみに江戸期を通じて「喧嘩両成敗」を適応した事例は、実は殆どないらしい。
法執行の側も、これが極めて理不尽な法であることを重々承知していた模様。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 16:39:09.53 ID:LoLm7Buv
赤穂事件も喧嘩両成敗の対象にならなかったしなぁ
あれは浅野が罰せられるのは当然とも思うが

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 07:34:05.39 ID:fSDtPYjS
どちらに理があるとか先に手を出したとか理非究明に時間がかかりすぎて評定が滞ったので家中の争いについては喧嘩両成敗にしたと言うのが実情だな

喧嘩両成敗を採用した大名も国衆の争いなんかは相変わらず理非究明をうたってるしね

誠に愁嘆止む時無く

2018年09月06日 21:09

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 18:07:05.93 ID:iW3ksRbv
誠に愁嘆止む時無く


小牧・長久手の戦いで、池田恒興と嫡男の元助を始め家臣二十余人が戦死した。
(『池田家履歴略記』では親子の討死をうけ、周囲にいた家臣が切腹したとする。)
家督を継いだ輝政は、戦死した臼井藤丸の父親に書状を送っている。


去る四月九日、尾州合戦の節に父子始め家人二十余人が戦死し
藤丸もその中にあったこと、愁傷お察し致します。
私も父子の最期の次第がありましたので、察して下さいますように。
(後略)

五月三日      照政
               臼井一心老人


以上の書状は、池田輝政の確認されている発給文書の中で最古のもの。
父親の臼井一心は59歳、藤丸は一心の次男で25歳だった。
一心は同年の夏に、藤丸の肖像画と共にその上部に書付を残している。


池田勝入公・元助公に随い、尾陽において天正十二年甲申四月九日戦死。
御両君はじめ廿余人の討死を聞き及び、誠に愁嘆止む時無く、かなしみの余り
愚息が幼像を画して忌日に懸け、香華を手向け、法華を読誦し畢んぬ。


臼井家の子孫は後に鳥取藩士となったため、この書状と肖像画は
臼井家に伝来する資料として、現在は鳥取県立博物館に所蔵されている。


大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話

2018年08月24日 10:15

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:10:59.80 ID:t0gJgy7I
大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話


池田輝政が姫路に入国した際、横河次太夫*は船大将として召し抱えられ
高砂城の築城に際し、巨石を運んだ功があったという。
大坂の陣のときには、輝政の三男で13歳の忠雄の家臣となっていた。

さて、そのときの横河次太夫の水主に高濱十兵衛という人がいた。
この人は元は相撲取りで鉄砧と名乗っていたが、世に優れる大力の持ち主で
あるとき播州の海岸で喧嘩があった際、仲裁し和談をすすめた十兵衛に対して
逆に大勢が掴みかかってきたのを、十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
振り回し、蜘蛛の子を散らすように退散させたことがあったという。

その頃横河次太夫は高砂に住んでいたが、次太夫も相撲好きであった。
それを知った十兵衛が次太夫を尋ねて来たので、次太夫の方も十兵衛を歓迎し
十兵衛は次太夫のところで逗留することになった。
その内に大坂へ出陣する風聞が立ったので、十兵衛が同道したい旨を次太夫に
頼んできたので、水主として次太夫に付いていくことになった。

池田忠雄は、薄田隼人(兼相)が守る博労淵(伯楽淵)の砦を攻めることになった。
隼人はその日神崎の娼婦の家に泊まり込んでいたため、砦を守る兵達も勝手に
知り合いがいる陣屋に行ってしまい、砦には四、五十人程しかいなかった。
蜂須賀至鎮の手勢がまず先に夜討ちを仕掛け、火花を散らして戦ったので
砦の者達の中で犬死を恐れる者がおり、本城へと引き取っていった。

蜂須賀勢も砦を押さえる程ではなく、一旦引き返してくるのと入れ違いで
横河次太夫は川を渡り、向こう岸に着いたと同時に陸に上がった。
夜討ちのときは物が多く落ちているので、逃げ散った者達が戻らぬ隙に
次太夫はなんでもいいから分捕ろうと槍を引っさげて、陣小屋と陣小屋の間を
進んだが城中には一人もいなかった。

実はその頃、本城へと引き取っていった者が三、四十人ほど連れ帰ってきたが
夜は既に白んできており、小屋より上に備前の船印(池田忠継勢)が見えたため
一人も進んでいく者はなく、本城の加勢を頼みに再度退却したという。
次太夫は"一人もやっていない"と言いながら、三、四町ほど追いかけたとか。

さて高濱十兵衛は槍を持たず刀だけ持って、味方の後を少し遅れて付いてきたが
後ろの葦原の中から”やらぬぞ”と声がし、槍で突きかかられた。
十兵衛はそれに気づいて引き返し、突いてきた槍の白刃を左手で引っ掴み
右手で白刃を握り直し手前に引き寄せると、大力の十兵衛に引っ張られて
相手が前の方へうつ伏せでべったり倒れたので、片手討ちにしたという。

そこへ敵を追うのを諦めた次太夫が帰ってきたので、十兵衛はこの旨を告げ
「我は新参の無名の者なので、自分の功には出来ません」
と次太夫に首をあげて辞退しようとしたところ、次太夫は
「その方の働きにて討ち取った敵の首を、次太夫が討ったことには出来ない。
 十兵衛が首を取って、その方の功名にしなさい」
と言ったので、十兵衛が手をかけてその首を取ったという。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:11:23.07 ID:t0gJgy7I
甲を脱がせると五十過ぎの老法師の首に見えたので、何の用にも立たない首でも
今日戦った証になるだろうと、敵の帯びた刀脇差を分捕り本陣へと引き取った。
この次第を申し上げたところ、心馳せの働きをしたことには変わりなく
大御所様への御奉公の証拠になるので、住吉の御本陣で言上するようにと
言われたので、首を高濱十兵衛に持たせ横河次太夫が遣わされることとなった。

大御所様がこの首をご覧になると
「よく討った、これは平子主膳めの首である」
と上意があった。
この平子主膳という者は、年若き頃より大御所様に恨まれるようなことをし
お憎みが深い者だったので、兼ねてからその行方を尋ねられていた者だったが
此度大坂に籠城して、十兵衛の手にかかり討たれたという。
老いても世に聞こえる大剛の者で、容易く十兵衛に討たれるような者ではないが
急な夜討ちで味方が逃げるのに遅れ、息を切らして葦原に伏していたところ
物音を聞いてガバっと起き上がり、槍を引っさげて十兵衛に声をかけたのだろう。
戦い疲れた老武者が、足が弱って引き倒されたことこそ、運の尽きであった、と。

このときに良正院様(督姫)の御女中から、横河次太夫に御感状が出たが
良正院様は御子様の御初陣に、御家人どもに功名させたいと思われていたので
程なくして大御所様へもその功を仰せあげられたという。
御姫様の御頼みなので、家中では敵の番船を乗っ取った箕浦勘右衛門と共に
次太夫も、大御所様から感状を下されたという。

十兵衛が平子主膳を討ち取ったこともお尋ねになり、事細かに上聞に達したものの
無名の者なので功名にはならず、次太夫の功名になったという。
しかし十兵衛は真実平子主膳を討ち取ったということで、御直参に召し出され
御知行五百石取りになり、子孫も御家中(鳥取藩)では知らぬ者はいないのである。


――『雪窓夜話』



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 20:52:17.21 ID:kogqW73A
>>207
>十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
>振り回し、
宮本武蔵より強そう( ゚Д゚)

その心持ちがないのは不孝だ

2018年07月25日 21:38

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:33:26.46 ID:IOR1qyBx
その心持ちがないのは不孝だ


池田利隆の正室の鶴姫(福照院)は、慶長10年12才のときに
10才年上の利隆と結婚したが、元和2年22才で利隆と死別し尼となった。

嫡男の光政は母親に孝行しようとする気持ちが強く、福照院といるときは
母の心を慰めようとおどけて見せるので、近習や女中が堪えきれずに笑って
しまうことが平生の事であった。

福照院が庭に松を植えたはいいが気に入らず、何度も植え直させたときには
光政自ら鍬を持って、母の好みに合う場所を探し植えた。
また光政は、母が吸うためのたばこを刻む*ことさえあったという。

あるとき福照院が、挟箱を持っている奴の真似が見たいと言ったので
光政はすぐに箒を使って挟箱持ちの真似をした。
そのとき政言(光政次男)も、福照院から真似をするように言われていたが
光政の真似を見て涙を流しながら笑っていたので、まともに出来なかった。

光政は甚だ怒って政言を睨んだが、福照院が笑っているので
母のいるところから離れてから、政言に向かって
「国を領する身であるのに、親の奉養事がこのようでよいのだろうか。
 ただ奉養することを楽しみ喜ぶべきなのに、その心持ちがないのは不孝だ」
と仰せられたという。


――『明君逸事』

* 当時のたばこは刻みたばこで、吸うには葉を刻む必要があった。


池田光政、お尻をつねられる

2018年07月15日 17:56

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 12:18:31.01 ID:LUY+taW2
池田光政、お尻をつねられる


池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。

ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。

ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。

(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。


――『明君逸事』

* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
 有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
 孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。


門出の朝は黒米飯

2018年07月06日 19:10

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 18:24:45.96 ID:eCXlS6rg
門出の朝は黒米飯


あるとき池田輝政公は、出陣の朝に飯炊きに膳を進められたものの
気分が悪く召し上がらないことがあった。

そこで家臣の淵本彌兵衛が下々の飯の内から(黒米を)取ってきて
山折敷に据えて食べさせたところ、(輝政は)大いに喜んで戦に勝利した。
それより後は、門出の朝は黒米飯を山折敷に載せて
彌兵衛が配膳するようになった。

この彌兵衛は美濃国野間にて、腰に鎌をさして道の傍らにうずくまり
「御馬の草苅として奉公させて下さい」
と野を巡っていた信輝公(恒興)に申し上げたので、公が歳を聞いたところ
十六歳と申したので、永禄十年に召し抱えた者だという。

それから彌兵衛は度々功労があり、のちに利隆の正室福照院付きとなって
三百石を賜ったという。


――『備陽武義雑談』『吉備温故秘録』