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巨盗に下されるのと同じこと

2022年03月12日 16:33

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/12(土) 12:58:33.65 ID:fmgbaJGW
長久手の役にて、池田勝入(恒興)、および嫡男の紀伊守(元助)が戦死したが、これに対し秀吉は、

「勝入は我に属すと言えども、その心中を察するに忠実では無かった。嗣を絶って勝入の家臣である
伊木清兵衛に六万国を与えよう。」

と、伊木清兵衛へその内意を伝えた。この伊木、元の氏は香川であったが、これより先、尾州伊木山の
群賊を滅ぼすという大きな武功を為した事を以て、苗字を伊木に改めたのである。

秀吉の内意に対し伊木は
「嫡男であった紀伊守様が既に没したと言えども、次男である古新様(輝政)には、将たるの器量が有ります。
願わくばこの古新様に勝入様の領地を賜り、池田の家を継がせて頂ければ、それは私のような田舎者を
大国に封ぜられるより超異の御恩となります。」

そう伝えたが秀吉は聴かず、これを受け入れるようしばしば厳命が下った。

伊木は大いに悩み
「命に従えば富貴を得、命に違えば死を選ぶか、追放されて亡ぶかのどちらかでしょう。
しかし主君の遺跡が絶えるのを患わず、自利を得るというのは、貧暴邪匿の凶人の成すことです。
そしてそのような者に郡邑を下されるというのは、偏に巨盗に下されるのと同じことであります。」

そのように歎き訴え続けると秀吉も、伊木の類い少ない忠貞節義に感じ入り、これによって
池田家の後継ぎとして古新を立てたのだという。

(志士清談)


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池田兄弟の活躍

2021年06月28日 19:16

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/28(月) 18:32:44.66 ID:5p3QGKF9
大阪冬の陣の際、
池田武蔵守(利隆)は、播州姫路より尼崎に取り付き、神崎川を渡り、中津川を越えようとした時、
御検視であった城和泉守(昌茂)がこれを止めようとし、池田家の家老と武論の言い合いをし、
武蔵守は止まること無く、船橋・投げ筏を以て中津川を越え、天満表より仕寄った。
後の城和泉守改易はこの為であった。

池田左衛門督(忠継)は備前より軍を発し、これも神埼。中島筋より取り寄せ、自身の采配にて、
大和田の渡を越えて、大阪より出撃した敵を数多く討ち取り、尽く追い崩して、野田・福島を取りしぎ、
その後仙波へ廻り、蜂須賀と陣を列した。
緒軍に勝れた働きによって両御所様(家康・秀忠)より御感状が下された。彼はこの時十六歳であった。

管窺武鑑

大阪冬の陣の緒戦における、池田兄弟の活躍について


彼は人体静かにして、公儀つきも良く

2021年05月13日 17:49

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/13(木) 16:20:17.66 ID:HSTG9AXZ
生駒左近(光政様ノ家士也)はかつて、織田常真(信雄)に小々姓として仕えていた時、
信雄は何かの用があって左近に、「ここより内に人を入れてはならない。」と申し付けた。
そこで左近がその口で番をしていると、信雄家中で出頭の者がそこを通ろうとしたため、
先に信雄より申し付けられた事を申して止めたが、それを聞かず通ろうとしたため、
左近は彼を斬り殺した。その後、若輩では有るが理に当たるとして、褒美が与えられた。

彼は人体静かにして、公儀つき(上の覚え)も良く、それ故か武州様(池田利隆)より、
光政様の御守として付けられた。しかも、少し私曲があり、その故か、その頃生駒家が断絶
しそうになっており、当主の死も間近であるということで、左近がそれを相続するよう
仰せになられた。庚申(1680年)十一月十九日、備前西の丸御内所にて御物語された。

烈公間話



ヒハヒハして難儀をしたのだ

2021年05月11日 18:14

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/11(火) 15:42:42.15 ID:mvGajSim
ある時、信長公より御成敗人(信長ノ舎弟、武蔵(織田信勝)ト云)をする事を仰せ仕ったものの、
手討ちに失敗し(三人に仰せ付けたが、討ち損じたという)、かの者が逃げた所を、廊下において
勝入様(池田恒興)が刺殺された。

その後、御家来共に物語された
「脇差はどうであっても重いものを用いるべきだ。先の手討ちの時、薄い脇差を差していたため、
ヒハヒハして(原文ママ、ヒラヒラか)難儀をしたのだ。」
そのように言われ、その後新身を大道(刀工、陸奥守大道か)に、重ね厚く、大平に御打たせ、それを
御陣刀に用いられた。これは御討死の時まで御指しになられ、今は永井家に伝わっている。

烈公間話



すぐに恒興公は

2021年05月07日 17:23

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 15:33:36.81 ID:c8NMKRSI
長久手の戦いの時、(信雄・家康方の)岩崎城には丹羽勘助(丹羽式部先祖)が取り籠もっていた、
しかし勘助は出陣しており、留守としてその舎弟・次郎助が在った。

池田信輝(恒興)公はこの岩崎城を攻め落とし、城中の人兵を斬り滅ぼした。次郎助は土肥飛騨が
討ち取った。

「ここにて一端、御備えを据えるべきです。」と、池田家の御家老共はたって申し上げたが、
恒興公は「少しでも早く三河の岡崎を取りたい。」と思し召し、お急ぎの故、先行させた先手は
矢作の橋の際まで行き着いていたという。しかしこの時、跡より鉄砲の音聞こえたため引き換えされたが、
すぐに恒興公は討死なされたという。

烈公間話



大殿様は御討死されてはおりません

2021年05月05日 17:49

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/05(水) 15:56:59.97 ID:EaH3ck5c
長久手合戦にて、池田勝入公(恒興)が御討死に成ったと輝政公がお聞きに成り、敵陣へ
駆け込もうと成されたのを、伴道雲(大膳父ナリ)が御馬口に取り付き

「大殿様は御討死されてはおりません、御退きに成られたのを、私は見ました!
こちらの方にお越しになってください!」

と申し、無理に御馬を引き退かせた。

烈公間話



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 10:27:33.03 ID:saBtFYXk
物知らずで申し訳ないんだけと、池田さんとこの大膳とはどなた?

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 11:11:11.57 ID:y9wa6Qwj
番(ばん)大膳景次
この逸話の番藤左(右?)衛門は輝政に助けたことを恨まれて恩賞をもらえなかったけど、
輝正の息子の利孝隆の代で恩賞を貰ったとか

岐阜城主十代衆

2021年05月04日 17:08

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 01:10:47.30 ID:ME61kjQd
(岐阜城の戦いの時)

時に池田三郎左衛門尉輝政は当城の案内者なので、城山の後ろ水手口から攻め上った。
さてこの輝政は案内者たること理なり。この頃“岐阜城主十代衆”と言い伝える事がある。

その衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍、斎藤右兵衛大夫龍興、織田弾正忠
平信長、同三位中将信忠、同三七郎蔵人侍従信孝、池田勝三郎信輝(恒興)、同三郎左衛門
輝政、羽柴少将秀勝、中納言秀信なり。

輝政は右の十人衆の内なれば、よく案内を知る故についに攻め落とした。

――『美濃国諸旧記』



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 17:49:08.99 ID:xJbwI1WL
どうしても腕を組みながら高速で走り抜けるジャイアントな絵柄しか思い浮かばないのであった

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 00:24:03.94 ID:VLdNf4zT
厳密に言えば
信孝没落後、恒興は大垣城に入って嫡男の庄九郎元助が岐阜城に入ったわけだが
1年程の話だから誤解、もしくは忘れ去られてるんだろうな

尾張家はこのように、御入魂であったのである。

2021年05月03日 19:08

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/03(月) 16:53:05.12 ID:xtvZpTjR
池田輝政様の御逝去の時、武蔵様(池田利隆)は江戸に在った。
帰国のための御暇を得る時分であったため、武蔵様にはこの事を申し上げず、お聞き無きように、と
御老中の内意であったため、御暇が出た後にお聞きになり、これへの御愁傷は大方成らないものであった。

直ぐに帰国の途につき、成宮にて尾張大納言殿(徳川義直)より、成瀬隼人正が御使として出られ、
その他にも御家来衆が武蔵様を迎えるために御出になった。

武蔵様の御愁傷の様子を隼人正は見て
「左様に御愁傷されていては、幼少の御舎弟たちを、今後お取り立てなさることも出来ません。
御酒を参らせられますように。」
と、御酒を乞い、先ず自分が中椀にて二つばかり呑み、武蔵様へ進上した。武蔵様が無理に呑まれた時、

「そろそろ潮時が良いでしょう。早く御船に召してください。」

と言って、実は未だ潮時の前であったのだが、御船を召された。しかし潮時前であったので
船が出されぬままであったのを、隼人正は股立を高く取り自身海に飛び込み、武蔵様が召した船を
押し出した。隼人正がこのような体であったので、他の尾張家の諸士も各々海に飛び込み船を押した。
これにより船は浮き出た。

池田輝政公の御妹は浅野紀伊守(幸長)の室であり、また尾張殿は紀伊守の聟君であった。
然れば、尾張殿の御内室は武州様の姪子である。それ故に、尾張家はこのように、武蔵様に対して
御入魂であったのである。

烈公間話



可児郡池田の城主 池田織部正輝家

2021年05月01日 18:39

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 17:32:56.21 ID:9P2krZ2J
可児郡池田の城主 池田織部正輝家

当家も明智の一家にして、元祖は明智遠江守光朝の三男・三郎左衛門尉輝継が
初めてここに住し、それより以来、輝家まで当城主なり。

右の織部正は光秀に属し、後に城州伏見の城を守り、天正10年6月14日、
羽柴の大軍を引き受けて討死しける。

右の他にも明智の一家にして、隠岐・溝尾・奥田・三宅・藤田・肥田・池田・
瀬田・柿田・妻木などと申し、数代血脈の一門多くして皆ことごとく嫡家光秀
に属し、後には天正10年、山崎の戦にて滅びたりぬ。

明智光秀は信長に仕えて、わずか15ヶ年にして60万石余の大名となりぬ。
按ずるにかくの如く良き家臣等が皆もって一門たる故、身命を捨てて働きある
ために、自然と武功も優れてありしと見えたりという。

――『美濃国諸旧記』



池田輝政の死

2021年04月30日 16:56

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/30(金) 14:31:25.20 ID:s9vSCkNd
ある年の十月、物語されたことである。
池田輝政様が姫路に於いて右京殿(池田政綱)の屋敷にお越しになり、その日より御気色悪しく、
御城へと帰られたが、この時鳥が多く飛び来て、御駕籠に当たったという。これは春の事であった。

まもなく御快気され、江府(江戸)へ御参勤成された。同八月頃に御帰国、翌慶長十八年に、
また御気色が悪化し、その時、座敷の書院、床の障子にまた、鳥が数多飛んで来て当たったという。

まもなく、逝去された。これは加藤九左衛門が覚えており、光政様に物語申し上げた内容である。
輝政様の逝去は、慶長十八年正月二十五日、享年五十歳であった。

烈公間話



693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 21:01:22.25 ID:ADexeFwu
弱った輝政を見て喰ろてやるチャンスだと思ったんやな

南部越後について

2021年04月27日 18:20

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/27(火) 14:20:54.68 ID:EBmutGnO
南部越後について、彼は滝川殿(一益)の侍であり、滝川縫殿(当家番頭家次)の父出雲(辰政)の
父である。武勇有る能人であった。

かつて信長公が「小田原その他の敵を押さえるように。」と仰せに成られたが、南部越後
滝川家に従っての初合戦に参加しなかった。その時滝川は、使者を以て「どうして合戦に参加
しないのか」と、厳しく尋ねた。南部は答えて曰く
「御家中の士、この戦で皆武功をなされており、私ごときがここで働いても目に立たないためです。」
と答えた。そして重ねての軍で大きな手柄をしたのだという。

またある時、敵の城を攻める時に、柵際へ味方が大勢付いたが、ここで南部越後は「この柵をくぐって
行き、敵城に乗ろう」と考え、兜をくぐらせて見た所で、敵は門を叩き鬨の声をあげた。
その大音に驚き、味方はどっと逃げた。ところが越後は、大きな前立てを打った兜を着け、
その前立てを傾けて柵を潜ろうとしていた時であったので、前立てが柵にひっかかり、味方の勢が
敗走した中、南部越後一人がこらえて留まっていると見えた。
これを見た味方の勢は引き返した。これも大いなる功名となった。

後で南部は云った「私は勇気があってこらえていたのではない。先に言った通り、やむを得ず
ああなったのだ。」

しかしこの言葉によって、猶々手柄と成った。日頃武功が多かった故である。

この越後は、武蔵様(池田利隆)御家に罷り在り、大阪御陣の時、片桐市正(且元)の
大阪よりの退き口において、大阪方がこれへの追尾を行った。
尼崎には建部内匠(政長)が居り(当時十二歳)、武蔵様よりその補佐として南部越後
遣わされ、彼も尼崎に居た。

この時、尼崎勢は市正を助けず、この事を市正は東照宮(徳川家康)へ
『武蔵守は大阪に内通しているのではないか』
と申し上げた。
そのため、これに対して番大膳が東照宮の元に罷り出て、申し訳を仕った。

東照宮の仰せに曰く
「武蔵守の手に南部有り。しかも彼は尼崎の城に在って、なにか理由も無く片桐且元
助けないということは有るまじきと思ったのだ。」と仰せになった。

烈公間話



141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/27(火) 19:04:23.09 ID:fKzeA+2Y
南部越後は北勢四十八家の一つ、富田城主南部家の人物とされ
蒲生氏郷の配下の時代にキリシタンになったといいます
浪人後に輝政に三千石で召しだされたと

鳥取藩のキリシタン史で名前の出てくる医師森元交(もりげんこう)も南部越後の子だとか

ただ一つ、申したい事

2021年02月24日 19:20

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 17:14:21.51 ID:LWZDkCAy
池田三左衛門(輝政)殿の家老・伊木清兵衛が病に臥して、既に末期に臨んだが、
「我、今生の望みある也。今一度、君の御目にかかりたき也。」
とあれば、これを三左衛門殿聞こし召し驚かれ、急ぎその家に至り、枕に近づいて声をかけた

「いかに清兵衛、一体どうしたのか。これほどの事と知らなかった事こそ、私が疎かった。
思うことがあるのなら、言い置くべし。その望みに従おう。元より、そなたの跡目については、
相違無いこと言うに及ばない。」

そのように、非常に懇ろに仰せになると、清兵衛は頭を上げ、両手を合わせ

「これ迄の入御有り難く、冥加至極です。私の遺跡の事は、愚息の覚悟次第に仰せ付けになって下さい。
兎にも角にも、御はからいによる事ですので、いささかも心にかかる事はありません。

ただ一つ、申したい事と言えば、これを申さぬまま空しくなれば、妄執にもなってしまうでしょうから、
恐れながら申します。

公は常に物事に、掘り出しを好ませられる御病があります。中でも士の掘り出しを専らとされるのは、
よからぬ御病です。
士はその分限よりは、一段よろしく宛行わせ給ってこそ、長く御家を去らず、忠節を存ずるのです。」

そう申すと、三左衛門殿はつくづくとお聞きになり

「只今の諫言、道理至極である。その志、山よりも高く海よりも深い。生前に於いて忘却する事はない。
それについて、どうか心安く思って欲しい。」と、清兵衛の手を取り、涙を流して、名残惜しげに
別れられた。君臣の情のあはれなる有様、その後、家風ますます良くなったという。

備前老人物語

掘り出しというのは、低い身分から急激に取り立てるという事ですかね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 14:04:46.13 ID:X1ui9xHZ
シンデレラストーリーみたいなのはみんな好きだからな
え、私なんかが馬廻衆に?みたいな

池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話

2021年02月05日 18:11

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:12:06.78 ID:LioMPBtl
池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話


・池田家が姫路城から出た後も、天守閣の五重目に池田輝政の具足や武具が残されていた。
 ところが酒井忠道が、天守閣で怪異に遭ったという理由で神社(刑部神社?)を作ってしまった。
 本当は輝政の甲冑が邪魔なので、しまうための口実が欲しかっただけだろう。

・土人(姫路の民衆)は池田輝政が作った姫路城の堀を「三左衛門殿堀」と呼ぶ。
 池田治政の室は酒井忠恭の娘だが、輿入れしたときに三左衛門堀と呼んでいたらしい。
 土人でさえ"殿"を付けているのに……。

――『思ひ出草』

酒井忠道も忠恭の娘も冠山と同時代の人物だがよっぽど印象が悪かったらしい。



543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:25:47.88 ID:P3bpF9A9
やっぱり転封の時の引き継ぎって揉めるんだな
酒井雅楽頭家は井伊と並ぶ大老を出せる家で表立って文句は言えんだろうし痛し痒し

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 18:28:53.75 ID:l/ixw+YE
>>542
まんが日本昔ばなしでもやってたね
天守の怪談

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 20:54:55.53 ID:ZxrGO+IB
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-193.html
鍋島直茂と佐賀城の幽霊 ・悪い話

こっちの刑部姫はちょっとかわいいのに

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11015.html
池田輝政への呪い

こっちはおそろしい

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5655.html
ついでに妹の猪苗代の亀姫

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:33:41.25 ID:yYnETLgR
>>543
検地帳を燃やしたり青田刈りする気狂いもいるしな

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:51:19.31 ID:Fns5OabQ
>>546
地主とのトラブルが一番ヤバいもんな

丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

2020年12月16日 17:32

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/16(水) 00:15:38.93 ID:12ezX11T
丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

池田家家老の丹羽山城は、四男の兵部を幼少から幕府に証人(人質)として詰めさせていた。
ところが寛永元年(1624年)兵部が18才になったので、76才の山城は江戸に下って
酒井雅楽頭(忠勝)にそのことについて色々嘆いたのでそれが将軍・家光の上聞に達した。

山城には登城とお目見えが仰せつけられて、御前で雅楽頭から
「勝入様(池田恒興)の御討死の様子をくわしく言上するように」
と言い渡されたので、山城は
「慎んで申し上げますが、即座に委細の義を申し上げるのは難しいので考えて言上します」
としばらく考えてから、物覚えの通り有り体に言上した。

そうしたところ、前々から聞いていたことと少しの相違もないので(家光が)神妙にお思いになり
山城は上意で御紋付きの御羽織を拝領した上、証人も御免になったので
兵部を鳥取へ連れ帰ることが出来たという。

――『吉備温故秘録



謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



池田光政の少年時代のこと

2020年11月02日 16:30

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/02(月) 14:21:50.00 ID:gpMCPYrC
公(池田光政)が東照宮(徳川家康)に御目見得有ったのは、五つの御歳であった。
その時、御脇差を拝領し、公が御膝下近くに居られたのを、東照宮は公の鬢髪をかきなでて

「三左衛門(池田輝政)の孫であるか、早く人になり給え」

と仰せになった。この時公は、御拝領の脇差をするりと抜いてご覧になった。東照宮は「これは危ないことだ」
と、ご自身で柄を持たれ、鞘に納められた。

公が退出される時、「眼光のすさまじき、只人ならず」との東照宮の上意が有った。

公が未だ幼き時、夜ごとに寝床に入られても、眠られること無く、夜明け頃にわずかに枕に伏された。
近侍の人々は怪しみ、「いかなる事でしょうか?又は患われている事でもあるのでしょうか」と尋ねたが、
しかじかと答えられなかった。

ところがある夜より、非常に良く寝られるように成った。そこで近侍の人々も又々その故を問うた所、

「私は父祖のお陰で、このような大国を賜っっている事は、自分の分に越えた事だと思っている。
然れば、この国民をいかがして治め養うべきかと、様々に心を尽くして思慮していたために、久しく
寝られなかったのだが、思いついたことが有って、昨日論語を読ませて聞いたが、そこで私は
『君子の儒となりて、国産を教えやすんずべき』という事を知った。
これを決断した上は、別の思慮も無く、良く寝られるようになった。」
と仰せになった。
(御歳十四の御時の事という。一説には公が学問を思し召し付かれた最初である)

有斐録

池田光政の少年時代のこと



信友の忠言

2020年06月24日 18:04

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 14:46:54.84 ID:6beaGiQ9
信友の忠言


寛永年中、(鳥取藩士の)佐分利九之丞(成忠)が天草(島原の乱)の御使者として来たときに
朋輩たちの暇乞いで「すぐに首尾よく帰宅できるとよいな」と挨拶する者ばかりだった。

その中で松浦次郎右衛門という老士が、日頃親しくしていたので名残を惜しみ、智頭駅(鳥取県智頭町)まで
見送りにきた。そうして暇乞いとして
「其方六十に及んで、生き延びても何の甲斐もないだろう。天晴死を潔くして高名されよ。
 今生の思い出を気にして、手を空しくしてでも帰宅し拙者に再会しようなどと思われるな!」
と言ったので、九之丞も
「言われずともその覚悟であった。死んだときは心安く思ってくれ」
と機嫌よく大きく笑って立ち別れたという。実に信友の忠言というものだろう。


――『雪窓夜話』

九之丞は原城総攻撃の際に本丸を目前にして戦死し、その功で子孫は千石加増された。



左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならない

2020年06月06日 17:02

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 12:24:15.65 ID:r7q0Mypy
左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならない


池田家臣の丹羽山城は生涯三十七度の戦で、一度も遅れを取ったことがないという。
信長に仕えていた父・助兵衛が桶狭間の戦いで戦死してしまったので、翌年(山城が十三のとき)
信長が池田恒興に
「丹羽助兵衛のせがれが物になりそうな眼差しをしているので、使ってみるように」
と仰せられたので、伊木清兵衛(忠次)の取次で恒興に召し出された。
荒木との戦で活躍し本能寺の変後に筒井順慶への使者を務め、家老として千五百貫の知行を
得たものの、山城は思うところがあり天正年間に子供と一緒に池田家を立ち退いた。
そうしたところ浅野紀伊守(幸長)に呼ばれ、三千三百石で仕えることになったという。

文禄年中の高麗陣(文禄の役)、木曽城(もくそ城、晋州城の別名)の浅野紀伊守殿の攻め口で
山城が一番乗り、亀田大隅が二番乗りしたが、そこに浅野左衛門佐(氏重)が一番乗りしたと披露した。
山城と大隅は詮議をしようとは思ったものの、左衛門佐は家老で御一族なので沙汰に及ばなかった。

慶長五年、樫原彦右衛門が詰めている砦を紀伊守殿、福島左衛門大夫(正則)殿、そのほか関東勢が
攻めているとき(岐阜城の戦い)、このとき山城は法名の徳入と名乗るようになっていたが
馬上で槍を提げて出たところ、敵方からしっかりした者が一人、徳入を目掛けて一文字に馳せて来た。
徳入は槍で内冑(額)を突き、二度目に胸板を突いて倒し、家来の者に下知して首を取らせようとしたところ
味方からすはだ者が一人来て、自分の高名にするのでこの首を下さるようにと徳入に頼んできた。
徳入が「誰が家人ぞ」と尋ねれば浅野左衛門佐の何とか八郎左衛門と申したので首をやった。
八郎左衛門はこの首を左衛門佐に持参し、その手の中で一番首として恩賞にあずかったという。

ところがその後八郎左衛門は「自分が高名したとき、徳入に奪い首をされそうになりました」と
申すようになったので、その話が浅野家中で知られるようになり
「徳入の日頃の武辺もみな左様に表裏のことをしたのでは」と噂されるようになったので
徳入はそれを聞き左衛門佐にその噂のことを伝えたものの、左衛門佐は取り合わなかった。

関ヶ原の後紀伊守殿が諸士に一献を進められる酒の席があり、その席に左衛門佐と徳入もいた。
徳入が
「よい機会なので、私の表裏の噂の実否について左衛門佐に伺いたい」
と申すと、左衛門佐は
「ちょうどそのことだ。家来八郎左衛門が心馳せの働きをいたしたとき、奪い首をしようとしたと聞き
 徳入には不似合いのことなので、日頃の武辺も表裏なのだろうかと思っていたところだ」
と申した。徳入は
「さては事実だと思っていたのか。その八郎左衛門が取った首は内冑に槍傷がある。かの八郎左衛門は
 すはだで腰刀一つを頼みにしている者なのに、取った首に槍傷があるのだ。吟味もしていなかったとは!
 初めからこのことを申し上げてもよかったのだが、一度取らせた首なので二度は申さないことにしていた。
 私は内冑と胸板に槍傷を二ヶ所負わせたが、八郎左衛門が来たとき、すはだのような者が戦場で首を取り
 高名を望むのはもっともだと思って、首を取らせた。八郎左衛門は下臈なので悪口を申すのは仕方ない。
 しかしこの席でこのことを申し出たのは、左衛門佐ほどの人の無穿鑿はあってはならないと思ったからだ。
 日頃心にはかけていなかったが、表裏のことと言えば(左衛門佐が)高麗陣で木曽城一番乗りと申したことは
 隠れなき表裏だったと一番乗りの私と二番乗りの亀田大隅は知っている。だからこれも偽りなのだろうなあ」
と詰めたので、左衛門佐は一句も告げずに赤面し、喧嘩になりそうな様子になった。

紀伊守殿が座中へ目を配りながら「徳入老、聞き届けたので堪忍してくれ」と仰せられたので
双方共に引き下がった。その後八郎左衛門は斬罪になったという。紀伊守殿が紀州へ転封になった際も
徳入はお供したが、同年の十二月に播磨宰相様(輝政)が徳入の帰参について紀伊守殿に断りがあり帰参した。
慶長六年に四千石、十年には千石加増され五千石となり、徳入は寛永九年に八十四歳で亡くなったという。


――『吉備温故秘録』



267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 12:29:06.97 ID:crlImcgN
ニワスケベエ

「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」

2020年05月27日 18:19

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 16:35:46.90 ID:rwYxnWI8

池田家臣の若原右京は殊の外肥満した大兵で、顔に指で押せそうな程の疱瘡の痕がびっしりとあった。
月代を半額にし長い刀を携えいかつい見た目ながら、弁舌鮮やかなゆゆしき男であった。
国清公(池田輝政)の御威勢が増していくにつれ、(池田家は)諸国の浪人を数多く扶持することになった。

ある日後藤又兵衛(基次)、明石掃部助(全登)、小倉作左衛門(行春)らが姫路に登城し
広間に陣太鼓が数々あるのを見て、又兵衛が
「当家で貝太鼓を司る者は誰であろうか」
と聞くとみな「知らず」と言った。ちょうど右京が縁側に通りかかったので再度聞いたところ
又兵衛が言い終わらないうちに「我が司っています」と右京が言った。
掃部が「武者奉行は誰であろうか」と聞くと、右京は
「某が承っています。諸法度相詞、物見のことまでみな我から申し付けています」と言った。
作左衛門が「陣場奉行は誰であろうか」と言うと、右京が「某です」と言ったので
各々のお尋ねはここまでとなった。

「総じて当地(姫路)は上方への往来があり、海陸肝要の所です。しかも近くには諸浪人の集う大坂が
 あり、秀頼公は若輩なので関東(幕府)の御内存が将来どうなるか分かりません。もし変があればと
 輝政は先手の旗本軍勢一切の備配りを兼ねてから定め置かれています。そのほか三カ国の国法軍法
 御不審のことがあれば尋ねてください」
と右京が言うので、三人は不興顔で言葉もなかった。
そこに「殿様御召しなり」と右京が呼ばれ、座を立った。掃部助は
「さてさて、尊大なことを言う憎き奴かな。あの男の働きといえば、関ヶ原一戦のみである。
 我らの前で、まるで人がいないような過言をするのは出しゃばりではないか」
と憤った。又兵衛は
「右京の無礼は譬えられないくらいだが、さりながらあの頬玉や人を手のひらに握り込むような
 様子は只者ではない。この家中で一人当千の者だろう。只今吐いた広言程度はやれぬ者ではない。
 太守は人を選び取る上手である」
とかえって感嘆したという。

それゆえ(右京は)播磨の童謡に
「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」
と謡われたという。これにてそのときの権勢思いやるべし。


――『池田家履歴略記



雀部與作、先祖の領地で

2020年05月05日 16:54

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/04(月) 19:28:04.66 ID:l3w2F9Wf
雀部與作、先祖の領地で


雀部與作の祖父は三好長慶の家臣であった雀部伊豆であり、父の代から池田家に仕えるようになった。
大坂の陣では池田利隆にお供したが、摂津の大島で焼き働きをすることになった。

しかし大島は先祖の在所知行であったため、住民たちが與作のところに詰めてきて
「何とぞお焼き捨てなさらぬように」
と申し続けていたが、既に決まったことなので與作は許容しないでいた。
與作は香西縫殿の姪婿であったので、そのことを聞いた縫殿が利隆へ申し上げた。

利隆は御前に與作を呼ばれて「大島はその方先祖の知行か」とお尋ねになられたあと
「御陣の障りにもなるまいし、そのままにしておくように」と縫殿に仰せ付けられた。
大島の住民たちはこのことを有り難く思って、御馬のぬかわらを世話したという。


――『吉備群書集成



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 00:56:32.61 ID:Enea/5dy
領地の任官は絶対させないし僭称も許さないと公式にした江戸幕府の意味不明さはなんなんだろうな