猿楽の日の論争

2017年03月24日 16:01

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 12:18:57.67 ID:EesewEeL
猿楽の日の論争


三河での話だろうか、(池田輝政が)あるとき御祝の猿楽を設けられた。
そのとき、今日は誰でも大きな音を出して踏み歩くのは構わないが
もし論争などする者があれば弁明させずに処罰するべしと命じられた。

自らも猿楽をなさっていたとき、拝見している者の中で口論が起こり
既につかみ合いになっていたため八田八蔵、梶浦太郎兵衛などが
走っていって取り鎮め双方を預け置いた。

御前に戻ると(輝政が)
「さっきは騒がしかったが何事だ?」
と尋ねられたので太郎兵衛は
「あれは山椒にむせていた者を傍に居た者が介抱していたのです。
 遠くから見ると誠に喧嘩のように見えました」
と申したので、国清公(池田輝政)は承知なさって
「それではもうよくなったか、汝が見て帰れ」
と仰せられたので、太郎兵衛は参り
「もうよくなりました」
と申した。

晩に件の両人が御前に伺候すると
「今日の山椒は"出来事"だったな」
と仰せられたという。


――『池田家履歴略記』



742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 09:45:10.89 ID:5MyGKhHW
山椒でむせるのが戦国なのか
七味でむせるのが江戸
コショーでむせるのが昭和

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 15:28:12.93 ID:UDgSMzCB
後の山椒大夫である

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:29:23.26 ID:G7jiN6nF
江戸時代、うどんの薬味として七味が発明される以前は、
胡椒をうどんにかけていたそうな。
この胡椒がいわゆるブラックペッパーの事かどうかは知らん。

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:37:47.41 ID:CqLihekp
山椒大夫というか安寿と厨子王は江戸時代より前だろう

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:54:11.56 ID:6BVBn8UD
九州の方じゃ唐辛子を胡椒と呼ぶらしいが

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:07:22.55 ID:BUdxZnGN
「胡椒」は唐辛子を意味する古語[1]。九州一部では方言として残り、ここでは一般的な「コショウ」ではなく「唐辛子」の事を指している。なお、「コショウ」は「洋胡椒」と呼んで区別する。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:22:10.84 ID:/jAVy11V
胡椒が日本に伝わったのは唐辛子よりはるかに前

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:32:07.07 ID:cp3xw1UF
落語の「くっしゃみ講釈」
(ある講釈師に恨みを持つ男がその講釈をくしゃみでめちゃくちゃにしてやろうと
最前列で胡椒を燻べようとするが、八百屋で売り切れていたため唐辛子を燻べる、て話)
のオチが九州ではできないな

男「この講釈師、いかさま師、おたまじゃくし
お前のくしゃみを聴きに来たわけじゃないわい」
講釈師「はっくしょん、あんた、私になにか故障(不満)がおありか?」
男「胡椒がないから唐辛子を燻べたんじゃ」

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 20:13:42.58 ID:3QnhJZkp
山椒にむせてたとか信じている馬鹿はいないよねコレ(´・ω・`)
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糞瓶の運上まで取っていく

2017年03月21日 21:06

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 02:13:37.54 ID:ii+BI2aW
糞瓶の運上まで取っていく


石丸令歸とその弟の雲徹は播州にて召し出され[兄弟ともに御噺の衆という]
国清公(池田輝政)の御在国のときは姫路に居て
関東に下られるときには京都に住んでいた。
雲徹は五百石を賜わり、とりわけ気に入られていた。

ある年、雲徹が京より下り御前に伺候していたとき国清公が
我のことを京では何といっているかと尋ねられたことがあった。
雲徹が承って
「『三左殿、大して取るものがないので糞瓶の運上まで取っていく』と
 沙汰しているそうですよ」
と申すと、国清公は予想外に目をいからせ、座を立って奥に入っていかれた。
雲徹は萎縮して宿所に帰った。

明くる日(輝政は)雲徹を呼び出されたので、死を賜うか放逐されるか
いずれにせよ何もないことはないだろうと思いながら行くと
意外にも(輝政の)怒りは晴れていて
「昨日はよく我が知らないことを申したので(後から確認したところ)
 確かに薄田左馬が申し付けて運上を取っていたと聞いた。
 この先は必ず止めよと命ずる。幾度でもためになることは申すのだぞ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』



737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 21:53:51.13 ID:rftHM3d0
権現様「糞瓶の運上が払えないなら焼き味噌を払えば良いじゃない」

中筋村の飢饉 ~妙玄寺縁起~

2017年02月11日 17:06

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 16:06:11.92 ID:DUhfrXD6
中筋村の飢饉 ~妙玄寺縁起~


『宝塚の民話』より
慶長7(1602)年の秋は大変な不作でした。
旗本の渡辺氏が治めていた中筋村も納める年貢に困っていました。
代官からは毎日のように
「あわ、ひえでも良いから納めなさい」と矢のような催促が来ます。
「あわやひえまでも納めたら我々は一体何を食べたらいいんだ。
 全員が餓死してしまうではないか」
村人たちは代官所へ行き、何とか一年待ってもらいたいと願い出ましたが
聞き入れられません。

困り果てていたその時たまたま村人のひとりが
米俵を積んだ舟が淀川筋を登っていくのを見かけました。
聞くところによるとその米は、姫路藩主・池田輝政の幼い息女が亡くなり
その百か日の法事の御供養米として、京都の法華宗・本禅寺へ
お届けする品だということでした。
そのことを知ると村民の代表達が本禅寺へ馳せ参じ事の次第を話し
「村民をお救い下さい」と嘆願しました。

話を聴いた寺の日邵上人は
「お困りなのはよく分かったが、法華宗の宗義として他宗のものには
 米一粒、銭を一銭たりとも援助することはできないのです。
 たとえ何人かの法華宗のものがいたとしても、村全体のために
 米を分けてやる訳にはいきません」
との返答です。

その返事を聞いて急いで村へ戻ると、村人すべてを集めて訳を話しました。
「食べるものがなくなり、子どもたちまで死なせるくらいなら」
と今度は村民全員で本禅寺へ行き
「村に住む者は皆、法華宗に帰依します。
 これは子々孫々まで変わることはありません。
 このたびの願い、どうぞかなえてください」
と申しあげ、お願いしました。

そして気持ちの変わらない証(あかし)として
一 中筋村に暮らすものは全員、法華宗を守り、子々孫々まで法灯をかかげます。
一 他の宗派から宗旨がえを求められても応じません。
一 前の宗派へ隠れて詣でることもしません。
という証文をお寺に差し出しました。

ようやくのことお米を融通してもらい年貢を納めることができた中筋村は
全員あげて法華宗の陣門流に帰依しました。
それからしばらくして京都に詣でるには道のりが遠いことから
古くからあった村の寺を建て直しました。

その寺の名は、亡くなった池田輝政の息女の法名
"縁了院殿妙幻叔霊"の妙幻に因み"妙玄寺"としました。
その上村の角には"南無妙法蓮華経 法界"と刻まれた法界石を建て
村の宗派が法華宗であることを明らかにしたということです。


以上の話は宝塚市の妙玄寺に実際に伝わる話だが、ここで出て来る輝政の娘は
どうも督姫の連れ子で池田利隆と婚約していた万姫のことらしい。
近年になって鳥取市の正栄山妙要寺に肖像画が発見されたとか。



池田輝政"せいひく舞"を舞う

2017年01月18日 10:09

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 09:25:57.67 ID:hBfDZdGf
池田輝政"せいひく舞"を舞う

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7820.html
↑の話の微妙に違うバージョン

輝政卿と同輩の大名が宴会の座にいるとき
輝政が矮人であることを笑うものがいたので、(輝政は)
「それならば自分は矮舞という新曲をやろうではないか」
と急に立ち上がって、自らせいひく舞を見さいなと打ち返し囃して
「播磨備前淡路の三カ国の主なので"せいひくし"とは思わない」
とうたいながら舞ったので、座中が興に入ったと言い伝わっている。


――『思ひ出草』



池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件

2017年01月16日 10:23

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 17:52:22.35 ID:ryfezp7n
池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件


ある時、伊木豊後(忠次)と若原右京には確執があった。
豊後は第一の寵臣で播州三木の城主であり、若原右京は中村主殿と同じく
領国の仕置を掌っており、その威勢は肩を並べる者はいなかった。
豊後は右京と常に不和だったので、双方の家臣も不通であり
互いに己の主の権勢を恃みにし、何事も負けないと争い合っていた。

右京が姫路に登城しようとして、大手(正門)で馬から降り歩いていると
豊後の鑓持ちの男が両足を投げ出して、打ち仰いで髭を抜いていた。
右京が前に来ても両足を引こうともせず、人がいないような態度でいたので
右京は怒り刀を抜いて、そのままその男の両足を切り落とした。

(右京は)登城せず急ぎ馬に乗って引き返し、己の屋敷に馳せ帰ると
「豊後が程なくして寄せ来るだろうから、その用意をしろ」
と言い、与力の士五十騎、足軽二百人に自分の人数を加えて
屋敷の四方に隙間なく配置し、鉄砲兵はみな屋根に上げて
自らも六文目の鉄砲を持って書院の棟に打ち跨り
豊後が来たら討ち取ってやると待ち構えた。

豊後も右京の大手での振る舞いを聞き、同様に下城して人数を揃えて
右京の屋敷に押し寄せようと鬩いでいたところ、国清公(輝政)の耳にも入り
(輝政は)急ぎ使者を以って先に豊後を呼ばれ
「右京の所業で、そのほうが立腹するのは尤もなことだが
 今押し寄せて攻めるのは、我に免じて堪忍してくれ
 そのほうが遺恨のないように(右京に)申し付けろ」
と仰せられ無理に留め置いたところで、右京を呼ばれた。

右京も豊後が静まったのを聞いて登城したが、(輝政は)右京が普段から
豊後に対し過ぎた振る舞いをしていることを(豊後から)聞いたために
「今日の粗忽は言語道断である。当家にいることは叶わないだろう。
 どこへなりとも立ち退くように」
と仰せられたのですぐに退出しようとしたが
これを聞いた豊後が御前に出てきて
「只今の指図は忝ない仕合わせに存じますが、右京に暇を与えるのは
 私の本意ではありません。右京のような者と権威を争ったと
 他家の人が評論することになるのは恥ずかしく、当惑しています。
 是非とも右京を召し返して下さい」
と申し上げたので、公もお許しになり急ぎ召し返された。

右京は何事だろうと再出し、御前近くに呼ばれこのことを聞いたので
このときから右京は豊後に心服し、懇ろに会釈などをするようになった。
この豊後は東照神君(家康)も懇ろにお会いする者だったので
この頃の勢いは申すに及ばず、姫路では平時の供廻りが三百人いた。
時々摂州(摂津)にも踏み込み、鷹狩りなどをしたのに咎める者がいなかったとか。
その他の事跡については推して知るべし。


――『池田家履歴略記』

あわや大惨事……。



督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術

2017年01月07日 16:46

督姫   
491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 00:05:16.87 ID:bmWHBbtu
督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術


神君(家康)の次女督姫君(諱は風子)は、母は参州西郡の鵜殿善介長忠の娘で
神君の侍女であった。
督姫君ははじめ北条相模守氏直に嫁がれたが、小田原没落の後
太閤のお仲立ちによって国清公(池田輝政)に再嫁された。
文禄3年8月15日(一説には9月とも)、参州吉田の城で婚儀をあげられた。

このとき諸士はお迎えとして今切(浜名湖今切の渡し)に出ていたが
伊庭惣兵衛という者がただひとり弓を持っていた。
御輿副の人が使いをよこして
「人が多い所にひとり弓を持っているということは、聞いていた伊庭殿だろうか」
と問うと
「どうして尋ねられたのですか、私が伊庭です」
と答えたので、(御輿副の人が)また使いをやり
「それならば、この洲崎にハジロがひとつがい浮かんでいるので
 どうか一矢遊んでくれないだろうか、見物しましょう」
とされたので伊庭は心中で
(難儀なご所望だなぁ、両家の諸士の前で気兼ねするのに……)
と思いながらもしょうがないと矢をつがえて進み寄った。
間は30丈ほどだったが、彼の鳥はしだいに沖に出て遠ざかっていった。

伊庭は弓を十分に引き絞って余りにも長く保っていたので
どうしたのだろうと思って見ていたところに、忘れていたかのような矢が放たれ
ハジロの雄の胴を貫き雌の尻を射切ったので、両家の一同の声が洲崎に響いた。
所望した人がその鳥と矢を欲しいと言ったので持ち帰った。

伊庭の友が
「どうしてずっと放たなかったのか」
と問うと、伊庭は
「今日はご祝儀なので、いっそのこと"つがい"を射ようと思って
 鳥が並ぶのを待っていたが雌鳥を捕えられず残念だ」
と語ったという。

(督姫君は)御子がたくさんいらっしゃり、左衛門尉忠継殿
宮内少輔忠雄殿、石見守輝澄殿、右京太夫政綱殿、右近大夫輝興殿
伊達忠宗殿の御内室(振姫)、京極丹後守高広殿の御内室(茶々姫)など
みなお生みになられた。


――『池田家履歴略記』



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 00:13:41.83 ID:hrJF1YZ5
そして継子に毒まんじゅうを食わせて実子に池田家を相続させようとしたら
実子が継子をかばって毒まんじゅうを食らって死亡し、発狂したという噂話ができると
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3869.html
「風子」なんて「狂人」の意味を持つ名前なんてつけるからそんなことに

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 15:34:22.27 ID:7TcVELI3
婚儀なのに番射るって縁起悪くないのかよw

池田輝政「もし槍先ならば」

2016年12月30日 18:19

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 22:43:08.83 ID:nt8Yb9I9
池田輝政「もし槍先ならば」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-226.html
↑の話の詳しい版

輝政卿の親しい同輩の大名福島正則など二、三人が集まって物語りをしていたとき
輝政へ出入りする盲人がその場にいたので、輝政に申し上げさせるようにわざと
「三左衛門(輝政)は今大国を領しているといっても、畢竟は大御所の婿だからだろう
 我らは槍先で取った国だが、陰茎の先で取ったのは格別だ」
と言ったので、盲人が果たしてこのように告げると、輝政は笑われて
「『輝政が領する国は陰茎にて取ったが、もし槍先ならば天下を取ってしまうので
 槍を用いなかったのだ』と各々にこう申せ」
と仰せられたので、同輩の衆はその滑稽を笑われたのだという。

実際は岐阜城攻めのときに、(輝政は)正則と先を争い共に大功を立てたが
輝政は五十万石を賜ったのに対し、正則には四十九万石だったため
正則がかねがね不満に思っていたのを、輝政は知っておられ
当たらず触らず戯れ言を以って返事なされたのだとか。


――『藩鑑』



淡路国をしてやったり

2016年12月27日 19:10

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 16:00:30.58 ID:7PUV8B8k
淡路国をしてやったり


慶長15年2月、池田輝政は駿府で家康に謁し、淡路国六万六千石を加増された。
これは三男の忠雄殿(このとき9歳)が賜ったところである。

この時に浅野幸長も登城していたので、世上の風聞では
「今日、池田浅野両家のうちどちらかに淡路を賜うだろう」
と言われていたので、両家の伴人は皆耳をそばだてて待っていた。

輝政が玄関から出てこられ、お供の士の安藤牟三郎をお呼びになり
「お前はどこそこに行って『今日御前において淡路を我にお預けになった』
 と言ってくれ」
と仰せられたので安藤は承り走り出たので、呼び返しになられて
「お預かりと申せ、拝領とは申すな」
と命じられたが、其の頃の天下諸士は闊達であるのが流行っていたので
安藤が下馬の橋を走り出たのを、傍輩が立ちふさがって
「安藤いかにいかに」
と言葉をかけると、牟三郎は扇を開いて頭より上に高くあげ大音声で
「淡路国をしてやったり、してやったり」
と叫ぶと、池田の士が不覚にも一度にあっと声を出したので
下馬中の一同はどよめき声は静まらなかった。


――『池田家履歴略記』



ある日、姫路城の池田輝政に手紙が届きますた・・・

2016年12月24日 09:54

455 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 00:09:06.06 ID:vAaOz2Je
池田輝政の死因

      ある日、姫路城の池田輝政
       手紙が届きますた・・・
          _____
         / ヽ____//
         /   /   /
        /   /   /
        /   /   /
       / 刑 /   /
       / 部 /   /
      /   /   /
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

         | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
         |                    |
         |   前略 池田輝政 様   |
       /    ̄ ̄ ̄ ̄     /____
       / 呪いを掛けました /ヽ__//
.     /        殺すぞ   /   /    /
.     / 死にたくなかったら/   /    /
    / 大八天神を祀れ___   ./   /    /
   /        刑部   /  ./    /
 /             /   /    /
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/   /    /


スルーした池田輝政は徐々に体調がおかしくなり、慌てて言う通りにしましたが時すでにお寿司。そのまま悶死したそうな。めでたしめでたし。
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、     
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
   (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  困った時の神頼み!
    |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 
   │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| とよく言うが、
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 困った時に神頼みしても
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  手遅れな場合もあるから気をつけるんだぞ!
   |  irー-、 ー ,} |    /     i      
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 普段から神様祭事慶弔行事は大事にするんだぞ!


本当は怖い日本の城より

456 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 00:35:11.91 ID:vAaOz2Je
>姫路城の怪異と輝政の死・天守の五層目に、夜な夜な怪しい灯火がともされたり、真夜中に突然大きな太鼓の音とともに悪鬼が現れて人々をとり殺したり、
あるいは夜半に大勢の女子供の泣きわめく声が突如として、湧き起こったりした。さらに若い女中がさらわれたり、白昼傘をさしたまま侍が空中に吊り上げられるなど、
不気味な事件が昼夜の別なく城内のあちこちでありました。
ついに怪異は、輝政本人をも襲いました。輝政の枕元に現れた美しい上臈が、近日中に病気になるだろうと予言した。天守閣が完成した直後の慶長十四年には、実際に奇妙な書状が届けられた。
『播磨主大天神東禅坊・都の主千松』なる人物から輝政・督姫・輝政の母に宛てた文で、『此九月にもな、物にくるいつるおな、きつねよなとかつてん(合点)しつるかな、
これもとうとみのくに(遠江国)の天神そや、すなわちくわん(願)あかりてな、三りんほうが、はやはやよりんほうになりたるそや伝々』
と言う様な呪いの言葉が、書き連ねられていた。その要旨は、『遠江の四りん坊なる天神(天狗)が三りん坊なる天神を誘って姫路城の鬼門から侵入し、輝政らの命を奪おうとしている』
この呪いから逃れる為には、城の鬼門に『八天塔』すなわち『八天大塔護摩堂』を建立し、大八天神を祀って護摩の秘法で祈祷を納めなければならない。
と言う様な意味でした。この怪文書は、現在、小野市浄土寺と多可郡円満寺に所蔵されていると言います。
剛毅な輝政が打ち捨てていたところ、城内で怪異がつづき、とうとう輝政自身も病の床についた。さすがに気味悪く、輝政は八天堂を建立、
円満寺の僧を招いて悪魔調伏の護摩修法を行った。だが時すでに遅し、輝政は外出中、にわかに苦しみだし、急ぎ帰城する途中、輿にカラスが次々にぶち当たって来た。
この後、輝政は一時的に回復したが、病室の障子や壁に群れをなしたカラスが突き当たってはバタバタと、地上に落ちて死ぬなど不吉な現象が続き、慶長十八、ついに帰らぬ人となった。

おそらくは中気の再発だろうが、ただ、吐血して突然死を遂げた事から、毒殺の噂が立ちました。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1268371737

後、祥伝社文庫の『江戸の怪』中江克己 著
にも少し内容が異なるけど池田輝政怪死の話が載ってる模様




457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 07:18:59.17 ID:dgj9qo97
どうせなら鴉じゃなくて蝙蝠にすりゃええのに

458 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 08:23:15.36 ID:vAaOz2Je
>>457
    (\_/)
  /( (゚(M)゚) ハ 日中仕事するとか眠たい
 / | Y (゚Д゚)Y|
`| |  (ノミミミ|)||
 \(⌒Yミミミノ⌒)/
     ∪∪

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 08:36:03.66 ID:dgj9qo97
いや、石燕は蝙蝠と一緒に長壁姫を描いてるからさ

てか、知恵袋から引っ張ってきたのか

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 09:23:19.51 ID:aP1ZLklG
根岸鎮衛「知恵袋とは耳嚢(みみぶくろ)のようなものですか?」

461 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 09:27:49.94 ID:vAaOz2Je
>>459
知恵袋は書き込んだ後で見つけた。
祥伝社文庫の本に載ってるのとでまた若干細部が違うし、池田輝政 死因 呪い とか、姫路城 呪い でggってみるとよろしよ

462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 11:47:20.54 ID:vAaOz2Je
>>460
左様ですな、現代に於ける様々な人々の言葉が詰まったさながら塵袋、芥袋と呼ぶに相応しき物かと存じます

鏡石神社

2016年12月18日 10:46

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 10:41:21.49 ID:Wpo5C6J5
鏡石神社


岡山県備前市八木山にある鏡石神社の御祭神は日乃星照の命(池田輝政)で
その縁起は以下のようになっている。

八木山村に住んでいた八木浄慶は、この地方の蝋石を発見したといわれ
蝋石で仏像を造ることをなりわいとしていた。
備前市三石光明寺・西片上真光寺・蕃山正楽寺などに伝来する大日如来坐像
大滝山実相院の虚空蔵菩薩像などが浄慶作として知られる。

『備前孝子伝』によると、慶長7(1602)年に岡山藩主だった池田忠継の父輝政が
浄慶の親孝行の志が篤いことを聞き浄慶を褒め称え、永代扶持の高六石を与えた。
感激した浄慶は、その後慶長18年(1613)年に輝政が没したことを聞くと
蝋石で輝政の像を刻み、朝夕これを拝礼して輝政の恩に報いた。
また死に臨み、その子八木左衛門に僧となって輝政の像を祭祀するよう遺言した。

八木左衛門は父の遺言に従い出家して輝政像を祭祀することにしたが
母への孝心が厚いことを聞いたその時の岡山藩主池田光政が
「お前が出家して子孫が断たれるのは親への不孝のはじまりで
 輝政像を祀る者も絶えることになろう」
と諭したところ悔い改めたので、還俗させて八木左衛門復善と名乗らせ
十三石余を加増して二十石の土地を与え、八木山山中に祠を建てて
輝政の像を納めさせたので、左衛門の子孫が代々お祀りするようになったという。

池田輝政の像は今も同社の御神体として祭祀されており
万治三(1660)年に光政が与えた感状などが鏡石神社の神主の八木家に伝来している。


――『岡山県総合文化センターニュース No.412』



425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 10:54:08.32 ID:W3oghmAZ
>>424
MTMS「†悔い改めて†」
八木左衛門 彡(゚)(゚)「おかのした」

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/19(月) 10:50:32.72 ID:Gv33q/C1
父の遺言に従ったら親不孝の始まりといわれて悔い改めるとかいろいろ大変だ

一乱の前年に逝去したのは

2016年12月01日 16:20

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 17:24:29.85 ID:uyfCbhaP
一乱の前年に逝去したのは


池田輝政の妹は秀次の御台所だったので、そのことから
秀次が持っていた薬師院肩衝を輝政が所望したことがあった。
太閤はそれを聞いて
「その茶入は三左衛門(輝政)に与えなさい、その代わりに投頭巾の茶入をあげよう」
と言って秀次に投頭巾の茶入をやったが、秀次は薬師院の茶入を輝政に与えなかった。

その後秀次は生害し、聚楽の御殿は破却され宝物は悉く伏見の御城へ上り
薬師院の茶入も伏見へ上っていた。諸大名の内で秀次へ一味した者がいないかと
ご吟味があり(輝政は)誓詞を仰せ付けられた。

ある人が
「三左衛門は秀次の縁者なので一番にご吟味されるべきだ!」
と言うと、太閤は
「三左衛門が一味ではないのは明らかである。
 その訳は(輝政が)所望の茶入の代わりを(秀次が)受け取りながら
 三左衛門に与えなかったというこの恨みは深いので疑う所はない」
とし、その後太閤は薬師院の茶入を三左衛門に与えられたという。

以上のことは真田将監(池田家臣)が物語したことだが、池田家譜で
秀次から拝領したとしているのは誤りだろうか。
秀次の御台所は一乱(秀次事件)の前年に聚楽で逝去していたので、
そのことを池田家の吉事と言ったという。


――『古老物語聞書』



伊木清兵衛、池田輝政に家督を継がせ

2016年11月09日 13:37

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 01:44:51.50 ID:eCKCRg+Q
伊木清兵衛池田輝政に家督を継がせ


(小牧・長久手の戦いの後)ある人が語ったところによると
参州(三河)への中入りは勝入(池田恒興)が再三願ったから
(やらせたのに)そのせいで秀次は大いに敗軍した。
勝入と嫡子(之助、輝政の兄)などは猛将勇士といえども討ち死にし
秀吉は大いに(勝入が)不覚を取ったことを怒っていたので
勝入の跡目はどうなるだろうと危ぶまれていた。

勝入の家臣伊木清兵衛は元来秀吉と情が厚かったので
(輝政に継がせるように)度々申していた内に
(秀吉の)陣屋に輝政や他の家臣を伴って参上するように
指示があったのでいずれも参上した。

陣屋は秀吉がいる間は八畳、次の間は十二畳あるところで
輝政は敷居の内際、清兵衛は敷居の外際、森寺清右衛門・土倉四郎兵衛・
片桐半右衛門・日置猪右衛門・和田八郎等は清兵衛のあとに並んで俯伏していた。

「勝入の今までの居城、大垣は輝政に与える。
 輝政は年若なので老功の清兵衛を勝入同然に思うように。
 家老どもも清兵衛の差図に背くことなく輝政に忠勤をするように」

と(秀吉が)おっしゃったので、各々拝礼をして退出するときに
清兵衛が喜びの余り臥し転ぶ(体を地に投げ出して、あちこちと転げ回った)のを
秀吉が見て、喜びが身に余って見えるのは忠誠心からなのだなぁと感心して褒めたという。


――『池田軍功記』



307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 02:50:49.10 ID:DAC+KoZN
まるで犬

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 05:57:38.99 ID:UIGOKJU/
たそがれはかわいいなあ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 09:45:18.72 ID:ywcH1qs3
武者は犬ともいへと?

「これは危なきことよ」

2016年06月15日 13:14

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 03:36:11.83 ID:nrusAHo5
池田光政徳川家康に御目見したのは5歳の時だった。その時、彼は脇差を拝領し、
家康の膝元近くにいた。家康は彼の鬢髪をかき撫でて、

「三左衛門(池田輝政)の孫である。早く大人になり給え」と、言った。すると光政は
拝領した脇差をするりと抜いて見つめた。家康は、「これは危なきことよ」と言って、
自ら柄を持ち、鞘に納めた。

それから光政が退出した後に家康は、「眼光の凄まじさは常人ではない」と、言った。

――『有斐録』



池田輝政は数百人の牢人を扶助し

2016年04月25日 18:33

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/25(月) 14:05:16.66 ID:uDiaW7d3
池田三左衛門輝政は、その寵臣である若原右京、中村主殿をして、諸国の牢人の中で
武名才気ある者へは常に米穀、あるいは金銀を与えて扶助し、その数は数百人であった。
思う所あってその米穀金銀は出納を通さなかっら。

これは大阪に変が有れば、関東の出馬を待たず、播磨、備後、淡路の兵にこの牢人を加え、
自ら率いて一人でこれに当る事を欲したためであった。それは、彼が関東より殊遇されていたため、
殊忠を致さなければならないと思っていたためである。

この為、彼は自ら婦女への愛や器物への愛玩等の費えを禁じた。
彼は人に常に言っていた

「今日、大国に封じられた者は礼遇にのみ篤く、手足の労を以って仕え難い。それゆえ
私はただ多士を育んで天下の干城にならんと思い、これによって自分の娯楽を抑損して、その財を以って
武備に散ずるのだ。」

実に輝政の如きは忠尽の将と言うべきであろう。
(慶元記)



池田話三連発

2016年04月10日 10:04

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/10(日) 00:04:29.42 ID:bPmoY5Ei
昨日になってしまったけど今日は小牧長久手戦の日ということで恒興の話に便乗して
池田話を三連発で。
(悪い話かなと思う微妙なのもあるけどそこは恒興の命日に免じて許してくだされ)

その壱
恒興が10才になった頃信長の遊び相手として信長に仕えることになった。
その頃、母養徳院は吉法師の麻上下(肩衣と袴と思われる)を拝領しており恒興が
仕えるにあたり信秀と謁見することになった時にこの上下を着用させた。
信秀はその恒興を見てその上下がとても似合っていると言ったという。
この上下には織田家の紋である蝶紋が入っていたが池田家でも代々蝶の紋を用いることを
この時に許されたそうな。

(池田勝入斎信輝公少伝)

その弐
恒興が13歳の時、同列の小姓と口論となった。
この小姓は信長のお気に入りでもあったが恒興が父無し子であったことを
普段からバカにしておりこれを元になじることも度々あったという。
(多分この日の口論もそれ絡みであったと思われるが)恒興は無念に感じながらも
信長の屋形でのことだったので憤りを押し込めその場を去った。
しかし憤りが収まらない恒興はこの小姓を待ち伏せし帰宅途中であったところを
バッサリと造作もなく斬り倒してしまった。
その場に居合わせた小姓の仲間達は一斉に刀を抜くと恒興に斬りかかったという。
近くにいたのか運良く森寺がこの騒然の場に来て恒興に斬りかかる者達を次々と
斬るなどして追い払うと恒興を連れ出奔してしまった。
信長は怒りまくったが帰参を許されるまでの間、森寺は信長の気性を知っていたためか
恒興を故郷の伊勢で匿っていたのだという。

(同少伝及び信長の逸話関連あれこれ等を加味)


その参
輝政は年をまたいで産まれたが生年決定で論議になった。
産気づいたのは子年だが産まれ落ちたのは丑年、さてどうするかといった具合である。
最終的に産土神である中村八幡宮に占って貰うことになり出た結果は子年であった。
そのため、輝政は以降子年生まれとされたという。

(同少伝)

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/10(日) 01:12:10.50 ID:bPmoY5Ei
>580の補足を少し

その壱関連
池田履略で光政によると池田の家紋は蝶以前は釘貫だったらしい。
恒興戦死時に着用していた柿色の布が残っていたらしくそれには釘貫と丸貫の違い紋が
入っていたそうだ。
この布の所在地も書いてあったけど今もあるかはわからん。

その参関連
輝政の出生地、通説では清洲なんだが(池田履略も清洲)こっちでは小牧となっていて
当時の池田の館は小牧山山中にあったとされている。
館跡があるらしくここが輝政の出生地らしい。

その弐関連
こっちにも鉢巻話は載っていた。
戦も年代も違っていたりこの弐とつながっている感じではあるんだけど、具足を
用意しようにも金がないから養徳院に助けを求め彼女が集めた綾といった上質の布や
彼女の持ち物である鏡の類まで森寺は売って金を工面して古具足を調達したが兜はなく
鉢巻で戦に出たと大筋は合致していた。
だからどちらにしても若い頃の恒興が苦労したというのは間違いないなさそうかな。


小牧の日に恒興や池田家についての史料をじっくり見ることになったのも何かの縁だろうけど
個人的に楽しかった。
こういう縁を結んでくれたこのスレや鉢巻話レスに感謝!




池田恒興の若かりし頃のお話

2016年04月07日 13:58

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 00:02:07.84 ID:f9PHNxji
池田恒興の若かりし頃のお話

池田恒興は織田信長の乳兄弟だが、母養徳院が信長の乳母としてまた信長の父信秀の
側室として城に上がっていたため幼い頃より恒興の父親である池田恒利配下の森寺に
預けられ養育されていた。
しかし母親がそのような立場であっても特別に扱われるわけもなくその生活は決して
楽ではなかった。
そして月日が流れ桶狭間の時、周りの同輩の者達はこれが最期の戦になるだろうからと
鎧兜の類を良いもので揃えていた。
養父森寺も恥はかかせたくないとしていろいろ工面し養徳院にも助力を願い鎧はどうにか
用意することができたが兜までは用意できないままいよいよ出陣の時を迎えた。
事情を知った恒興は兜があるとかえって臆病になるからこれでよいと戦勝と安全を祈り
母自らが縫ったという鉢巻を付け今までの恩の礼を述べた後出かけていった。
かくして恒興は鉢巻姿で桶狭間の合戦に挑んだという。(池田略記他)

後世、信長と信忠を祀る建勲神社に池田家家臣が信長の忠臣達として彼らを描いた肖像画を
奉納したがこの中にある恒興の絵はこの逸話に倣い鉢巻姿となっている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自ブログに書こうと思っていたんですがここでは池田家関連はあんまりパッとしない話が
多いのととある池田関連ブログ由来の恒興異常な持ち上げ話が一人歩きしているようなので
牽制の意味も込めて書いてみました。



568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 23:33:56.98 ID:oMmc4p0+
江戸時代にあれ程栄えた池田家の始祖の苦労話

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 23:47:59.15 ID:nN/joG22
池田恒興って遅咲きだよな咲いたら死んじまったが

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 02:28:37.54 ID:YBc4GxC4
臣下の妻女を略奪して側室にするなんて尾張の殿様はキチガイが多いね

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 03:54:19.53 ID:ny74cQy8
恒興は子供時代から信長の遊び相手として召しだされてたというのに、
桶狭間(24歳)の段階でまだ森寺に養育されてたっていう話?
24歳なら信長の弟の元嫁をもらって、すでに所帯持ちなのにと考えると変な話

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 05:55:02.41 ID:3vef3Usw
織田の家中は信長にケツ掘られた奴ばっかやん
だから皆晩婚で若い時に子供が出来ないのさ

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 06:13:29.00 ID:pyx04zEo
利家「せやな」

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 19:13:31.17 ID:Hujt822F
>>571
書き方の問題なんだろうが桶狭間の頃まで養育されていたというわけではなかろう。
森寺は後見も担っていたから用意したとしてもおかしくはないよ。
同輩が立派な備えなのに我が子も同じと思われる恒興が見劣りするのは自分も
恥をかくようなもんだし所帯持ちだからといって立派な甲冑まで揃えられる程
裕福だったとは限らないと思われ。(良い甲冑は当時もかなり高価)

あと幼いといっても信長の元に出仕し始めるのは10歳の頃だしこっちもだからといって
楽な生活だったとは限らないわけで少し恒興を特別視しすぎなんじゃないかと。

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 19:58:30.97 ID:ny74cQy8
特別視してる持ち上げ話の実態を知らないから、話についていけない
でもこの話も眉唾だよね。恒興が桶狭間に従軍したって事実なのか
岳父の荒尾善次が今川方についてるのに

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 20:38:27.51 ID:Hujt822F
俺は逸話を書き込んだ人間じゃないから持ち上げ話は自分もわからない。
特別視と書いたのは信長との関係なんかからそんな貧乏めいたわけがないと
決めつけ前提で書いているように読めたからなんだよ。
もし違ったら謝る、すまない。

山崎家盛の妻は

2016年02月01日 21:42

天久院   
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/31(日) 20:14:35.20 ID:QPFGXANS
ある人の語った所によると、山崎家盛の妻は、池田勝入の娘であり、池田輝政
妹であったが、彼女は極めて見目悪く、そして手足の力は人にはるかに超えていた。
そのような女性であったので、夫婦の仲も睦まじいとは言えないものだったが、
彼女はそれに怨む色も見せなかった。

さて、大阪の奉行たちが軍を起こした時(関ヶ原の乱)、輝政は家康とともに東国にあり、
彼の北の方は大阪に置かれていた。この北の方というのは徳川家康の娘であり、家盛の妻からすれば
兄嫁に当たる。
この時、山崎家盛は大阪に留められ、西軍より中の渡の新関の守備を命ぜられた。
しかし、元より東軍に心を寄せており、色々と謀って輝政の北の方を盗み出し、彼女と、
自分の妾、及びそれの産んだ子を、居城である三田の城に落とした。そして奉行たちが
輝政の北の方を奪い取り人質にしようとしたなら、親戚の好によっていかにも欺き、
叶わぬ際には自ら腹切ろうと思い定めていた。

ところがこのような所に、奉行衆が細川忠興の妻を取り損なう事が起き、その後
「東国に下った人々の人質を取るには及ばない。しかし大阪に在る人々は人質を上げるように。」
との命が下った。

山崎家盛は妻を参らせようとしたが、夫からそれを聞いた彼女は、夫に近づくとその手を捕らえ、
守り刀を引き抜いて喉元に当て

「古より、妻が夫の身代わりになった例は珍しくありません。ならばどれほど、普段から情けのない
関係であっても、夫となし妻となったからには、あなたの身に代えるべき人がなければ仰せに従うでしょう。
ですが、これはそういう話ではありません!

先ず、あなたは私の兄嫁を、内府の姫君であるからと、命をかけて盗み出しました。
また愛おしく思っている妾を、幼い子供を付けてこれも同じく落とし、命に代えて守りました。
一方、私はその間留め置かれたままで、今人々の手に渡れと言うのは、あまりに恨めしきお計らいでしょう!

私はそんなつれない人のために命を失おうとは思いません!
それでも行けと言われるのなら、私も思うところがあります。さあ、いかにやいかに!?」

そう刀を突きつけて言われると、山崎家盛は大いに恐れて言った
「あ、あなたがそう言われるのも道理である!私の過ちを許してほしい。
この上はどうしてあなたを人質に参らせるだろうか!」

「ならば、あなたの過ちであったという言葉に、偽りはないと誓って下さい。」

家盛は神仏にかけてとこれを誓った。すると妻は

「私は普段から怨みに思っていなかったわけではありませんが、色に出して見せないようにしていました。
しかし今このように本心を顕した以上、再びあなたとまみえようとも思いません。」

そして供をする侍女2,3人を召し、伝馬を借りてそれに打ち乗るとそのまま三河国へと駆け、
兄輝政の城に下り、やがて尼となり天久院と名乗った。

その後、この人の住む所に盗賊4,50人ほどが押し入ったことがあった。
この時天久院は大薙刀を手に取ると走り向かい、彼女に向かってきた者3人をなぎ倒し、
残る奴原を散々に手負わせて撃退した。
池田勝入のような人の娘であるから、心も剛で、理にも通じた人であったと伝わる。

本当かなあ?(実事なるにや)

(藩翰譜)



69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/31(日) 20:57:33.56 ID:/4NCAMRO
>>67
一方、姉?の池田せんは花隈城主として鉄砲隊を率いてた
もし、鬼武蔵の嫁さんがこっちの妹の方だったら
どんな子供が生まれただろうか

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/31(日) 23:26:42.51 ID:dzmKXgHh
>>67
『犯したる!!』のねーさんみたいな人だなw

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/01(月) 00:02:19.34 ID:xg2IiiUZ
枢斬暗屯子さんかよ

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/01(月) 17:44:54.90 ID:ttxrTago
>>67
作者も疑ってるのが面白い。

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 01:48:20.33 ID:OqS4BgTD
>>67
”羽柴長吉は太閤の小姓、比類なき美少年也。太閤、或時、人なき所にて近く召す。日頃男色を好み給はぬに故に、
人々皆奇特の思ひをなす。太閤問ひ給ふは、『汝が姉か妹ありや』と。長吉顔色好き故也。”(老人雑話)

この話の羽柴長吉って、当時秀吉の養子だった池田長吉のことなんだよね
もし姉妹を紹介してたら、見目の悪い天球院が

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:01:43.88 ID:V/JoKbcb
>>417
天球院の肖像画が残っているが普通に美人さんだよ

池田恒興の家臣森寺政右衛門忠勝は昔

2015年10月11日 19:23

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/11(日) 13:03:43.17 ID:7oCeuLK0
池田恒興の家臣森寺政右衛門忠勝は昔、美濃の豪族高木何某を暗殺したことがあった。
ある時江戸へと使いに行く森寺を高木の息子達が仇を取ろうと待ち伏せしていた。それを噂で聞きつけた森寺、わざわざ待ち伏せ場所にまで見に行くとそこには800人程が待ち受けていた。しかし森寺は堂々とその間を通り抜けていくが、何故か誰もかかってこない。
何事もなく通り過ぎた後、従者を使いに送って
「そこにいるのは本当に高木の倅共か?お前らの親の仇がここにいるぞ?どうしてかかってこないのだ。さあ、来いよ」と伝えさせたが、結局誰もかかってこなかった。
「あーあ、仇を取る絶好の機会だったのに。もう仇はとれないぞwww?」と森寺は笑いながら去っていった。

その後、高木は場所を問わず親の仇を取ることを許されたが、森寺にも身を守らせた上、「仇とれなかったら森寺の勝ち」というルールが決められた。
そこで森寺、火縄に火のついた鉄砲五丁・矢を番えた弓10丁、鞘を外した槍5本を持った家来30人を常に引き連れるようになった。秀吉の前に出仕した時も同様であり、殿中での帯刀を許されていた。
伏見城の落成を祝って諸大名が集まる中、周りから「今日こそ危ないからやめておけ」と忠告を受けたが森寺は意に介しない。いつもは持っている刀も従者に預けて手ぶらのまま、広間にいた仇の連中の間を堂々と通り抜けていき、そのまま帰っていった。

その後、慶長4年に病死という最期を遂げたそうだ。

『常山紀談』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8795.html
↑稲葉一徹の前で主君恒興への贈答品を粉砕した男のその後の話



池田長幸が良将となったのは

2015年06月11日 17:14

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/11(木) 00:56:18.40 ID:WFJ6n8Hm
池田備中守長幸の家臣、水野善右衛門は、文武に達し、至忠の老臣であった。

長幸が10歳の時のこと、善右衛門は長幸を強く争諫したことがあった。長幸はこれに大いに怒り、
物も言わずその席を立った。

一時程して、善右衛門は長幸に呼び出された。
「その方の先刻の諫言、心から承知した。
私のこの頃の行いは、甚だ心得違いであった。誤り入るものであった。
今後はその方の諫めの通り、行いを必ず改める。
それについて、その盃を飲んで、私に差し出してほしい。」

主君に盃を差し出すという行為を、善右衛門は僭越なことだと考えこれを硬く辞した。
長幸は再び言った

「その方の先刻の諫言によって、私は本心に立ち返ったのだから、その方は私のための
良き師である。ならば、身分は君臣であっても、道においては師弟である。
師より弟子に盃を与えることを、どうして固辞することがあるだろうか?
さあ、差し出してほしい。」

善右衛門は平伏したまま号泣し、再び頭を上げることも出来なかった。

世の人は池田長幸を良将であると言う。これは水野善右衛門が彼を良将としたのである。

(明良洪範)



169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/11(木) 10:59:26.83 ID:Dq6A5+cE
毒入り盃かと勘繰ってしまった

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/11(木) 17:09:41.67 ID:G2dBjRRI
同じく勘繰った。

盃飲み干して「ぐはっ」
長幸「出過ぎたことを申すからじゃ」
とか思ってたら、そうそういい話の方だったと。
長幸公はお歳の割には老成しておられますな。

「姫路の城、化物の事」

2015年03月27日 18:02

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/27(金) 00:30:34.08 ID:Gi6hkyQT
祝!グランドオープン!ってことで、「姫路の城、化物の事」

池田輝政はある夜、御座の間に家中の者を集め、
「この城の天守五重目に夜な夜な火をともしている怪しい奴がいるのだが、様子を見に行く者はおらぬか?」と問うた。
我こそはと名乗りを上げるものは一人もいない・・・と見えたその時、18歳になるある侍が、「私が見て参りましょう。」と申し出たので、
輝政は彼に提灯を渡すと「証拠としてあの火をこの提灯に灯して参れ。」と命じた。

侍が天守の五重目まで上ると、そこにはただ一人、17~8歳くらい女郎がいて、十二単を着て火を灯していた。
女郎は侍に問いかける。
「汝は何とて、ここへ来たるぞ?」
「私は主人の仰せによってここまで来たのです。どうかその火をこの提灯に灯してくださいませ。」
と彼が答えると、「主命とあれば許してとらせん。」と言って、女郎は提灯に火を灯してくれた。

侍は嬉しく思って御座の間へ帰ろうとしたが、三重目まで下りたところで提灯の火が消えてしまったので、もう一度五重目へ戻り、
「今度は少々のことでは消えぬようにしてくださいませ。」と言うと、女郎は蝋燭を取り換えて再び火を灯してくれた。
さらに「これを証拠にせよ。」と言って一本の櫛を持たせてくれたので、侍は喜んで主君の所へ立ち返り、提灯を差し上げた。

輝政は奇特なことであるといい、提灯の火を消そうとしたがどうしても消えなかった。しかしかの侍が消せばすぐに消えたのである。
「他に不思議なことはなかったか?」
「そういえば、この櫛を預かったのですが・・・」
「ややっ!これは、具足櫃に入れておいた櫛ではないか!」
不思議に思って具足櫃を開けてみると、一対入れておいたはずの櫛の片方が無い!

「なんか凄いじゃないか、うちの城!儂もちょっと行ってくるわ!」
輝政はすぐに単身天守に上がっていったが、そこには女郎などおらず、ただ灯がともっているだけだった。

しばらく天守にいた輝政のもとに、いつも召している座頭がやってきた。
「おい、なんでこんな所にきたのだ?」
「はい。殿がお一人で心細い思いをしているのではないかと思い、琴でも弾いて差し上げようかと参上したのですが・・・実は、この琴の爪箱の蓋が空かずに困っているのです。」
「そうか。よし、儂が開けてやろう。これへよこせ。」
輝政はそう言って爪箱を受け取ると、その爪箱が手に吸い付いてきてどうやっても離れない!
「口惜しや!謀られたか!」と叫んで足で踏み割ろうとすると、爪箱は足にも吸い付いて離れない!

輝政がもがいていると、今度は座頭が巨大化して身の丈1丈ほどの鬼神となり、
「我はこの城の主なり!我を疎かにして尊まずんば、お前を今ここで引き裂き殺してくれよう!」とこの城を魔改造した歴戦の男に脅しをかけた。
さすがの輝政も、両手と足を小箱に吸い付かせた状態ではどうすることもできず、ただただ化物に降参するしかなかった。
すると、爪箱は輝政から離れた。程なく夜も明けた。

我に返った輝政が周りを見渡すと、そこは天守の五重目ではなく、いつもの御座の間だったという。
(播陽諸所古今物語)




611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/27(金) 08:17:56.40 ID:RMyjTiBD
姫路の主ってクロカン?

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/27(金) 09:03:44.72 ID:7X/0UXhu
刑部姫のことでしょ