可児才蔵、宝蔵院に槍法を学しこと

2017年03月04日 18:25

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 23:57:05.68 ID:QfILq++Y
可児才蔵、宝蔵院に槍法を学しこと 付宝蔵院槍を持せ 併十文字を月剣と呼ぶこと


 宗耕の話である。
ある時、可児才蔵が宝蔵院に言った。

「我は元来槍法を知らない。槍はいかにして勝を得るのだろうか」

院は答えた。

「上段、下段、相、かぶり、の外になし。」

しかし才蔵は解らなかった。
主人の福島左衛門大夫(正則)へこの術を習おうと報告した。
福島は許し、可児はすぐに奈良に行き数日院からこの術を習った。
帰って戦場へ赴いたが、かえって怯心が起きて進むのが難しくなった。
よってまた奈良へ行き、このことを嘘偽りなく告げた。
院は言った。

「まだ半分しか知っていないな。」

可児はさらに数ヶ月学んで、術を得て帰った。
これより後では敵の槍道を観ること明らかとなり、まさしく我が勝路を得たとか。

 この宝蔵院は今、代替わりのときには関東に下って拝礼をする。
この時僧の供に槍を持たせるとか。

 宝蔵院は退隠したら観音院と号す。
この院では、十文字と称さず、月剣と呼ぶ。
これは元祖宝蔵院は、もとは直槍であったが、あるとき、
八日の月影が水面に映るのを視て、

「あわれ、直槍にこのように横手を加えたいものだ」

と思ったとか。そこで十文字の形を作って、月剣の名があるという。

(甲子夜話三篇)

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2528.html
これの別varかな?


スポンサーサイト

獄司所用の鑓之事

2017年02月23日 10:17

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/23(木) 07:41:29.69 ID:NtmEGZmh
獄司所用の鑓之事

 概して人へ刑罰をおこなうとき、獄司が用いる槍は柄が朱黒の段塗である。
予も引廻し晒し者に行きかかったときに度々見た。
宗耕が言うには、磔罪のときもこの槍で突くという。
 さて、この槍は初めは福島左衛門(正則)の家の槍であったが、
故あって何者かの物となり、それより獄司に転じたという。
その次第は聞いたが忘れた。
福島は違っていないはずだ。

(甲子夜話三篇)


人で葺く

2016年12月26日 16:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 20:41:55.00 ID:rz8P6Z61
名古屋城普請の時、諸大名が福島(正則)のところに集まって
饗応があったのだが、

ことのほか暴雨暴風で、小屋の屋根は持ちこたえられないほど
であったのに、少しの別儀もなかった。

さて、相仕が退去の時に屋根を見なさると、諸侍がことごとく
かっぱを着て、屋根の上に伏していた。人で葺いたのである。

小屋の上であるのに上がる音もせず、咳払いの音もしなかった
ということである。

浅野紀伊守(幸長)はこれを見て、家来の供の者に「これを見よ」
と、申されたということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/26(月) 10:32:15.16 ID:pDCciezT
人間屋根って、男塾に有りそうなエピソードやな

福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

2016年12月14日 16:58

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 06:49:15.78 ID:0su8vjI9
福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

関ヶ原の戦の後、防長へ改易となった毛利家の代わりに福島正則が芸備へ入封。
福島正則は国境の支城築城、国内の再検地や治水などの内政事業を次々と進めていく。
その中で困難を極めた事業の一つが本拠地である広島城下の治水であった。
毛利輝元が太田川下流の三角州を埋め立て作った広島城の周辺は新造の埋め立て地であるが為地盤が弱く当時度々洪水に悩まされており、
その中でも城の北東側に位置する猿猴川は何度工事しても堤防が決壊していた。
土地の者はこの上は川の神様を宥め、強い堤防を造る為には堤防に人柱を入れるしかないと決め、堤防には人柱を埋める事となった。
しかし、それを聞いた福島正則
「それは大変不憫な事である。人柱の代わりに我が持つ八振りの剣を堤に埋めよ」
と、秘蔵の名剣八本を箱に納めて堤に埋めて工事させ、堤防を修復した。
この時埋められた八本の剣の剣霊を祀って、当地には小さな祠が建てられ、今も八剣神社(広島市中区の牛田大橋南詰付近)として福島正則の治世を後世に伝えている。
またこの牛田周辺では7月15,16日の夜に雨夜踊りが行われていた。これは度々堤防の修復が行われ、その堤防を踏み固めて強固にする為、地元の人々を集めて堤の上で躍らせたのが起源であると言う。

(知新集)



419 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 18:19:19.84 ID:OjGZ6yzm
>>415
猿猴「市松っつあん、剣やなあてアンタの好物の酒にしちゃりんさいや」

小倉侯数具足の由来

2016年11月26日 16:34

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 00:03:56.94 ID:XVutE/OC
小倉侯数具足の由来

 当年(天保五年、1834年)二月の火災で、両国橋向こうの小倉侯の別荘で具足のいくつかが焚亡した。
この具足というのは、往年の福島氏が改易されたときかの家の物が散逸していたのを、
小倉侯の収めていたものだという。
よってその具足はみな福島の家紋があったという。

 福島は豊太閤の初めから神祖御成業のときまで、
剛勇武功の人で皆知るところである。
その遺物がこのように亡んだのは、誠に痛感に堪える。


(甲子夜話三篇)


なぜ小笠原さんが正則のものを?



この話が誰の逸話なのか

2016年08月26日 21:13

116 名前:sage[] 投稿日:2016/08/25(木) 23:35:53.38 ID:TMSmuVQp
誠に申し訳ございませんが
この話が誰の逸話なのか教えて頂けないでしょうか。

話の内容
柴田勝家か福島正則の家臣(違うかもしれません)
無頓着な性格でとりあえずの生活を送っていた殿さまです。
ある日大女(しこめ)が来て殿さまはおおらかな人だから
雇ってくださいというが、頭の悪い家臣ほど雇うなという。
でもその殿さまはまず雇えといい、次に力を見せろといい
家臣に相撲を取らせ、仕事に来てくれよといい、大女を喜ばせる
大女いわく”おらを見るだけでぶさいくだとののしり、
見世物をしたいから相撲をとれと言われ全部勝っても
、次にやっぱり雇わね。そればかりなのに
殿さまはおらを初めに”雇う”といって相撲を取らして
そのうえで採用してくれた。すごい殿さまだ!
殿さまはそんな
こた~ねえよ。明日から仕事がんばれよと…。
大女は殿さまの思いに応え一生懸命に仕事で答えた。
そのうち殿さまの状況が悪化してどんどん家臣が財産を持ち逃げして
逃げだした。殿さまも最後には無一文になって、最後に残った家臣たちと
途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて
真の忠臣と後世の人が言わしめた。
お家の再興のため、尽力し、殿さまが有力藩に呼ばれたのと対象に
どこともなく消えてしまったこの大女の正体はたぶんわからない
と思いますが、せめてこの殿さまが誰かだけでも教えて頂けないでしょうか。

117 名前:sage[] 投稿日:2016/08/25(木) 23:47:29.65 ID:TMSmuVQp
申し訳ありませんsageです
途中話が抜けておりました
【 】の中の話も読んでいただいた上で
教えて頂きましたら幸いです…。

途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて

【倹約や工夫してこっそりためた金だ。
殿さま再興のために全部つかってくんろ。
殿様曰く、これはお前がいろいろ頑張って貯めた金だ
お前の退職金として全部もってゆけ
大女はいらぬという、ならば殿さまは半分ずつ持っていこうと
それでお互い納得したという。その後の大女の行方は分からない】

真の忠臣と後世の人が言わしめた。



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 00:54:00.82 ID:6pNeKdGU
「名将言行録」の福島正則家臣、大崎長行のことだろう
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782779
海音寺潮五郎「史談と史論」の
「仙女伝」では大橋玄蕃とお柳と書かれている

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 01:07:53.50 ID:6pNeKdGU
ついでに「史談と史論」のそのあたりの話(名将言行録もほぼ同じ内容)

庭にあった二抱えほどもある大きな岩を大女のお柳が転がすとその下は穴蔵のようになって奥深い。
お柳は次々に大きなツボを2つ取り出し、座敷で開けるとそれぞれ板銀と小判がつまっていた。
「これは皆殿様のものでございます」
「どうしたのだ、これは?」
「清須からこの国におうつりになりましてから、段々にたくわえておいたものでございます。
殿様はたくわえなどまるでお心掛けのないお方でございますが、何か急なことのある節は、
金銀がなくてはならぬと存じましたので、お家のしおき万事を任せていただいていますのを幸いに、
殿様にかわりまして、ご費用をつつましくしては、投げこんでおいたのが、いつかこんなにたまったのでございます。
されば、これは皆殿様のものでございます」
「さて、その方の心づかい、まことにかたじけない。しかし、これはその方の苦労で出来たものなれば、おれが皆
もろうわけには行かぬ。小判の方なりと、板銀の方なりと、いずれかをその方取れい」
「とんでもないことでございます。これは殿様のものでございます」
「見よ。こうして金銀をひとつにかきまぜた。これを互いに一つかみずつ取っていくことにしようではないか」
こうして、とりわけた。
数日の後、玄蕃は一先ず大阪を志すとて、鞆の港から便船をもとめて去った。お柳はこれを見送った後、
自分も小舟にのって、いずれへか立ち去った。
二三年後、玄蕃は秀忠の命で、紀州家に召し抱えられた。彼は依然として独身であったので家のとりしまりのため、
またお柳を予防としたが、その行くえはまるでわからなかった。



123 名前:116[] 投稿日:2016/08/26(金) 17:02:12.53 ID:zqzBsphw
116です。この度は読みにくい文であるにもかかわらず
ご回答いただきまして誠にありがとうございました。
これですっきり致しました。
お礼申し上げます。

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 19:34:52.46 ID:+d1KeDna
真柄のお秀みたいなものかな?

その刀は皆、正則から賜ったという。

2016年06月21日 21:14

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:24:29.16 ID:sc6DvSW+
今月三田侯〔九鬼長州隆国〕が隠荘を訪れられて、物語をした中で
かの臣に福島正則が除国の後に来て仕えた者が四、五家ある。
その家の何れにも村正の刀を所持している。
その刀は皆、正則から賜ったという。 
どういう故であろうか.
 
と語られたことがあった。
(甲子夜話)

当時の大量生産品だからね、仕方ないね



754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 07:36:13.81 ID:Y/t1TMOa
甲子夜話ができた頃には村正が公儀に差し障りがある、って認識ができてたのか

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:23:19.09 ID:QnhTDb55
村正の逸話は家康存命時代からあったんじゃなかったっけ

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:25:20.99 ID:BeJhKfHh
>>755
無いね。村正が云々言われるようになったのは江戸中期以降。

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/21(火) 20:36:07.02 ID:P9+DT3Zu
中期どころか江戸初期
寛永11年に長崎奉行が村正所持で切腹

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 21:13:22.65 ID:qBcS+riJ
>>757
それ「村正持ってたから」ってのは、後世の解釈じゃなかったっけ?

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 12:18:41.72 ID:m7j9aCCZ
>>756-757
ファミコン版ウィザードリィが流行ってからじゃね?

あの小姓を、彼に恋した男のもとに

2016年05月03日 09:42

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 19:56:28.34 ID:+xSS6T0o
福島左衛門大夫正則は、諸将の中でも、とりわけ物狂わしい人物であった。
猟より帰って口をすすがず、その後の食次の時に「食物の中に砂有り!」と言って
料理人を殺した事も度々あった。あまつさえ、その頸を脇差しで貫き、くるくると回して
興ぜし事もあったとか。
しかし、思いの外なる話もある。

ある日、正則の一門衆集まって酒宴の時、正則の愛する何某とかいう小姓が、懐から
菓子を3つ4つ落とした。
正則はこれを見て、小姓が盗んだのだと考え、激怒した。
彼は小姓を引き寄せると、左手で頭髪を掴み、右手で刀を抜き持って小姓の股を突き刺した。
血がおびただしく流れたが、小姓は少しも動ぜず、何事もなかったかのように再び
給仕をした。

座の人々は何れも、正則の気質を知っているので、この小姓が終には死罪に及ぶことを
惜しみ、片脇へと引かせて「何か申し分が有るのではないか?」と尋ねた。
しかし一言も言葉を発しないため、人々も苛立ち

「侍の子たる者が、どうしてあのような卑劣なことをしたのか?その身が
死罪となっても仕方がない。そして死んでも、父兄弟の面汚しであるぞ!」

小姓、これを聞くと
「申すべきことも有りますが、人の命まで取ってしまうことと成り、それは私の本意では
ありません。その人の生命を助けていただけるのなら、仔細を語ります。
私の命は、許されるべきではありませんが、一門の名折れと仰せられることの口惜しさに、
申すことが出来ないのです。」

人々は何れも誓った
「其方のことは力及ばぬ。しかしこの事について、外の人の命は、我々が命に変えて救おう!」

そこで、小姓は語った
「彼の人も、殿様の御家中である若者ですが、彼は私に恋い焦がれ、数十通の文を頂きました。
しかし私は殿様の御座をも汚す身ですから、それらは取り上げてさえ見ることはありませんでした。
しかし、それから三ヵ年、日々に文を送ってくるその心の切なさに愛おしさを感じ、ある時
彼の姿を見て、その志を感じ、図らずも返事をすると、かの者はいよいよ耐えかね、虚労のように
煩ってしまったと聞いたのです。

私のために人の命を失う事の笑止さに、どうにかして一度逢って見たいと思いましたが、
出仕すれば常に殿のお側に有り、下がっても寄合部屋にて、仲間の目も忍び難く、下部屋にて
なんとか逢おうと思い、かの男を番葛籠に入れさせ、昨日下部屋にその葛籠を取り寄せました。
然れども折り悪く、三日三晩の御酒宴となり、致し方ない状況な上に、かの男が飢えることの
痛わしさに、この菓子なりとも遣わそうと懐中にした所、運が盡き、御前において取り落としたのです。

願わくば、彼の入った葛籠を、何事も無く外に出してください。私は生命を惜しむことありません!」

一門の人々、これを聞いて正則に対し
「あの小姓の命乞いをしても、承知なされないことはわかっています。しかし、彼が菓子を盗んだのは
卑劣な行為ではありません。ですからせめて、死後の恥辱を救ってください。」
そう事の顛末を語ると、正則はたちまち機嫌が直り

「私が側に召し使うほどの者らしく、卑劣の業は成さなかったか。
恋する男に逢おうとするのは、自分の目を盲にするのと似ているが、年少の者にはよくあることだ、
深く咎めるべきではない。
その上、彼の今日の様子、さすがに私の目鏡に違いなしと見えた。よって、彼の死罪を免ずる。
また、彼に心を懸けた者も、私の気質は知っているのに、是非に逢おうというのは、
これも用に立つべき者であろう。
あの小姓を、彼に恋した男のもとに遣わせ!」

そう命じた。この時正則は、大方成らぬ機嫌であったという。
(新東鑑)



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 20:24:41.78 ID:SWwwf+k1
ホモにはみんな優しい

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 00:25:57.83 ID:tK/mOlVU
>>681
ミラクルやん「いいかい市松。人は刀で股を突き刺されたら出血多量で死ぬんだよ」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 07:14:42.33 ID:OvJrnKm4
あんたは太ももじゃろ

秀頼母子は正則の書状に、

2016年01月04日 22:11

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/04(月) 09:24:24.23 ID:KADeL/Yu
慶長19年9月、大阪冬の陣起こる。
10月7日、駿府の大御所・徳川家康は江戸より馳せ来た竹中重利を召して言った

「汝は福島正則と親しく相語る者であれば、我が為に再び関東に趣き正則にこう申してほしい。
今度大阪の軍が起こったこと、秀頼の心とは思えない。これは偏に、織田有楽、大野、木村、渡辺といった
者達の計らいであろう。

尤も正則は元より故太閤のゆかりであり秀頼にも親しく、又この家康父子にも疎いわけではない。
ならば、正則の身にとっては、何れの方に与すべきとも考えられないだろう。
正則がたとえ我々父子に与しなくても、大阪に味方するという疑いを持つことはない。
ただ、暫く正則は関東に留まり、嫡子備後守に軍勢を付けて参らせてほしい。」

同月11日、大御所は駿府を出立し、13日中泉に至った時、福島正則の使者が、竹中重利
書状を持って馳せ参った。
書状の中で竹中は、正則の発言の旨をこのように述べた

『仰せ、謹んで承りました。私も、今度の大阪で兵の起こったことは、最も不思議と言うべきだと考えます。
であれな仰せ下さったように、秀頼母子がこのような事を思いつくとも考えられず、近習の輩の計らいに
よる事、疑いありません。
である以上、私はかの御母子を諌め参らせるため、二人の使者を立てて我が方の消息を通しました。』

本多正純が、正則が大阪に送ったという書状を取って見るとこのように書かれていた。

『今度の大仏修造の事について両御所を怨まれるという判断は、只事ではありません。偏に御家運を
傾かせられる時が至るだけです。ただ、速やかに御母子の御心を改められ、過ちを謝し申されんため、
御母上をして駿府か江戸に参らせ置かれるべきです。

正則は近年、関東の御恩蒙る身となり、二心を思いません。また妻子も関東にあります。
いま諌め参らせた旨に従われないのなら、この正則は天下の軍勢に先立って馳せ向かい、
速やかに大阪城勢を打ち破って見せるでしょう。その時になって後悔なさっても最早意味がありません。
御家運のめでたく渡らせ給うのも、そうならないのも、そちらの御計らい次第なのです。」

同16日、再び正則の使者が、大御所の岡崎の陣に馳せ参り一通の書状を献じた。
正則が先陣を賜って馳せ向かい、速やかに大阪勢を誅すべき事を望む、という内容であった。
大御所は
「正則の申す所神妙である。ただ、其の儘に江戸に在って妻子尽く城中に参らせ置くように」
と仰せになり、使いを返した。

22日、大御所は永原の陣に竹中重利を召され、「急ぎ正則の領国に下り、備後守正勝と共に
軍勢を催して大阪に向かうように。」と命じた。

翌23日、都に入った日に、正則の使者が大阪より帰って参上した。
「秀頼母子は正則の書状に、何も答えなかった。」と報告し、また江戸へと下った。

(藩翰譜)




何れにしても正則の心の中は

2016年01月03日 18:10

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 18:04:03.86 ID:ygS9hngH
関ヶ原の後、慶長6年に結城秀康が越前の地を与えられ入部した時、福島正則は自ら
北庄に赴きこれを賀した。そこで、秀康の家臣の方を向いてこんなことを語りかけた

「私はこの後も常に門下として伺候したいのだが、滞在する家がないのでそれがかなわない。
家を作るべき土地を給わりたい。
また、その後正則が年来の好を忘れて参らなくなったとしても、守殿(秀康)に天下の御大事が
あれば、正則は必ずお味方仕るだろう。

さりながら、私には太閤殿下より仰せ置かれた旨があるので、この身が秀頼公の世にあるかぎりは、
なかなか心に任せることも出来ない。」

そういうと暇を請うて帰っていった。

私(新井白石)が想像するに、秀康公は太閤秀吉の養子であったので、正則はその好を思っていたのでは
ないだろうか。また秀康公の御身に天下の御大事あらんと言ったのは、秀康公は秀忠公の兄であったので、
家康公がお亡くなりになれば、必ず天下をめぐって争いが起こると考えたのではないか。

何れにしても正則の心の中は測りがたいことである。

(藩翰譜)

そして目が覚めると清右衛門を呼んだ

2015年12月05日 17:51

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 17:42:42.38 ID:VxVL3kuy
福島正則が帰国するときは、いつも鞆の浦に着船していた。この時、そのまま小身の者は
木綿の衣服に着替える作法となっていた。

ある年、鞆の浦の船中において、福島正則は酒に酔っていたのだが、突然激怒して叫んだ

「先ほど木綿に着替えるように触れよと、柘植清右衛門に申し付けたのに、未だにそれを
触れていないようだ!清右衛門にくき奴!!」

しかし当の清右衛門はそのような命は受けておらず、家老なども出て
色々と詫び言を申し上げたが

「とにかく、清右衛門に腹を切らせよ!奴の頸を見せなければ船より上がらない!」

正則はそのように言いはった。
日は暮れに及び、清右衛門は「私一人のせいでこのような事になり、勿体なき儀です。」
そういうと船から町家に上がり、そこで切腹した。

こうして清右衛門の頸が届くと、それを見た正則は機嫌が直り、そのまま高鼾で一睡した。
そして目が覚めると清右衛門を呼んだ。

家老たちは、最前の委細を語った。正則はこれを聞いて肝をつぶし、声を上げて泣いたという。

(武功雑記)



734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 17:47:40.00 ID:51NqAZBJ
>>733
バカすぎるだろw

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 18:36:06.64 ID:yF8visZP
>>733
酒さえ飲まなければ…

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 18:57:34.89 ID:hTL4TeBu
正則の酒乱逸話まだあったのかよw

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:04:28.59 ID:bq4BMTJC
>>733
酒のことがなければ名君なのになー

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:30:17.76 ID:X8JR6zUL
取り合えず寝てしまうまで粘れば良かったのに…
つか泣くのがまたうぜえw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:34:10.06 ID:Vm9DgHVh
シグルイのエピソードにありそうな残酷無惨ぶりに草しか生えない

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:35:27.63 ID:GbYcR55m
酒関係の悪い話はいくつあるんだろうか

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:40:06.00 ID:LqCB9C7n
嫌いな同僚を殺しても酒に酔った市松の命令でやった事にすれば完全犯罪だ

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 20:04:06.22 ID:xRQfYwNK
酒のことがなければ名君とは言うものの本当の名君なら1,2回酒でやらかしたら自重するだろw

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 20:10:11.27 ID:Cyu6sGEK
やらかしても懲りずに繰り返してこそ市松

女の怒れるほど凄まじき物はない

2015年09月29日 11:52

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 06:04:17.73 ID:myTpkx7X
福島左衛門大夫正則は、世に聞こえし強勇の将であったが、ある時内室が、嫉妬のことより怒って
長刀を取って斬ろうとした。

正則は色を変じて表座敷まで逃げ出した。そこで近習に語ったという
「私は戦場において敵に後ろを見せたことはないが、今日は畳の上にて敵に後ろを見られてしまった。
さても、女の怒れるほど凄まじき物はない。」

(明良洪範)



371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 09:57:59.62 ID:GWwdflwa
頷いておられた真田伊豆守様が小松殿に連れられて退室されました

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 10:07:17.21 ID:zAG5g3VK
夫婦喧嘩の仲裁は俺に任せろー のぶ

大阪冬の陣の時の、福島正則

2015年09月08日 18:28

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 12:18:48.56 ID:Hk+BZSPx
慶長19年8月下旬、徳川家康は片桐市正(且元)を江戸に呼び出し、秀頼の奉納した
大仏の鐘の事悪しきとして(方広寺鐘銘事件)、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るようにと
片桐に申し付けると、片桐は大阪に参り、「御袋様にも秀頼様にも、どうにかしてお下りなされるべきです」と
申し上げた。

秀頼は片桐まで心変わりして大阪に戻ってきたかのように思い、色々あって、福島正則にこの件について意見を
申すようにとの求めがあり、正則は大阪によしみのある堀田角左衛門という武士を上らせ
秀頼に意見を申し上げた

「御袋様が江戸にお下りになり、家康公と御対面した上で再び大阪に帰る事こそ尤もです。
江戸において、御兄弟方とも参会されるのがよろしいでしょう。」

しかし秀頼はこれに同意せず、殊の外立腹し
「重ねてそのような意見を言ってはならない!」との返事であった。

さて、正則はこの使いの堀田角左衛門に、予めこう申し付けていた
「大阪より御返事を取れば、それを私に報告するより先に、直に家康公に差し上げるのだ。」

家康は堀田より届けられた秀頼の返事を見ると、殊の外立腹し、早速京都に出陣することとなった。
諸大名衆も尽く大阪に馳せ向かったが、この時正則は家康に申し上げた

「私には、秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(忠勝)を上らせ、私には
江戸留守居を仰せ付けられますように。」

家康もいかにも尤もであると思い、「では備後守を急ぎ上らせるように」との事で、
備後守は大阪に上った。

(福島太夫殿御事)

大阪冬の陣の時の、福島正則の対応である。



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 21:01:51.23 ID:eUZyDxLo
御兄弟方って誰?
御姉妹の間違いで、江の方のこと?

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 23:52:28.26 ID:Hk+BZSPx
>>284
原文のままだけど姉妹のことだろうね


くだんの酒のよしみである

2015年09月07日 10:08

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/06(日) 21:59:44.39 ID:XjpplL1f
ある時中村伯耆守(一忠)より、神部甚右衛門という者が使者として福島正則のもとに派遣された。
正則は彼に直に対面すると、盃を出し甚右衛門に盃を指した。
甚右衛門はこれを頂戴すると、臆面もなく一杯を飲み干した。
正則も上戸であるので、この甚右衛門の飲みっぷりを殊の外気に入り、
「その盃を返杯してくれるか?」「畏まり候」
そうして正則も酒を飲み干すと、甚右衛門に二杯目を進める。
そして肴を挟んだ後、さらにもう一杯盃を指した。

この時正則は中村伯耆守への返事に、『今後私の方に御使者を遣わされるときは、必ず
この甚右衛門を下していただけますよう』申し入れた。

その後、中村伯耆守が病死し、中村家が無嗣断絶となったとき、この神部甚右衛門
福島正則が召し抱え、三百石にて供番となった。
人々はみな、くだんの酒のよしみであると語り合った。

(福島太夫殿御事)

福島正則、他家の家臣を酒の飲みっぷりで気に入る、というお話。



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/06(日) 22:49:13.02 ID:obgJbM5z
本当に基本的な部分は名君なんだよなこの人…

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 00:33:08.66 ID:85ayoEtI
市松さんが飲んでるのに珍しくいい話しやね

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 01:50:39.21 ID:sEot3JTO
どうしても盃が呑取博多人形みたいな相撲取りの賜杯用サイズで再現されるけど実際どうなん。

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 02:44:04.13 ID:T401pucK
飲んでみろとばかりに指し示すあたり、じゅうぶんでかいように思える
まあ、イメージ先行だけど

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 09:15:35.21 ID:eroRrUSG
でも、下戸だったらどうなってたんだ?

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 09:52:51.43 ID:9WFaHWzN
太兵衛「神部殿、そこは一旦固辞するのです。」

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 11:30:42.54 ID:M+v9C11i
まあ、あの当時の酒はアルコール度数が今より相当低いからなー

686 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/07(月) 11:45:24.91 ID:YPyh7knj
>>685
そうは聞くけど、実際どんなもんだったのかな?

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 14:11:02.04 ID:GVpyQ25G
福島正則は肖像画の賛に
太平奸賊 乱世英雄 と書かれてるんだよね。
ここまで書かれるんだから、実際有能だったんだろうな。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 14:11:46.29 ID:Ito+i9V6
水臭いの語源は酒に水を混ぜていたからっていうしな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 15:08:02.06 ID:bRR9b8nS
市松さんはやらかしたエピソードが豊富だからな。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 17:50:37.11 ID:NMdfeDTp
>>687
どこの曹操だ(後漢書版の評)

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/07(月) 21:14:21.52 ID:qhFDWKUb
>>688
それは江戸時代の酒が濃縮状態で輸送されてて、消費地で加水して調整してたからだ。
アルコール濃度を高く作ってから加水するのはウィスキーもウォッカも同じ。
ただ、江戸幕府の物価抑制政策に対抗するために、美味しくなる量以上に加水した酒が
出回ったので「水臭い」と言われた。
逆に言うと、原酒の状態だとかなりアルコール濃度が高いはず。
まずいと思うけど。

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 17:20:33.34 ID:iwv10pDV
戦国時代頃には琉球経由で焼酎が伝わってるらしいから
単純に度数の高い酒ならあったんじゃないかな

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 19:21:44.58 ID:Lv18CN1k
>>691
加水が如水にみえた

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 19:58:42.95 ID:IzX9naAR
上善加水
ってパチもんの酒つくったら訴えられるかな

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 10:25:38.61 ID:1HDmTpOJ
>>694
たぶん商標とってるだろうし紛らわしいと客から苦情がきて一発退場

草野介惣の加増

2015年08月27日 12:54

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 20:30:28.75 ID:5Z8Nmoaf
福島正則の家臣に、草野介惣という者があった。彼は正則と同じ在所の者であり、扶持は切米(米の現物支給)で
使われていた。その後正則が安芸備後領国を拝領した時、五人扶持三十石取りとなった。

そんな介惣がある時、正則に対して目安を上げた
『さてさて、最近になって家中に加わった木造(長政)殿には、二万石が下されたそうです。
しかしこの介惣は伊予の頃から御奉公しているのに僅かな切米しか下されていません。この事を
人はみな笑って、なんとも迷惑しています。』

これを読んだ正則は、殊の外機嫌よく大笑いし、その後御咄衆との物語の時

「あの介惣は大の横着者でな、知行などくれてやれば百姓を痛め取り倒してしまうだろう。そのため
少ない知行すら取らせないのだよ。

あの介惣が果報の傷と言っているもの、アレを皆は鑓傷だと思っているようだが、アレはな、
奴の親がつき竿を持っていたのだが、その竿に誤って突かれた傷なんだよ。

あいつにこの前、酒奉行を申し付けたことがあったのだが、あいつは殊の外上戸でなあ、酒を盗み飲んでしまった。
だからその後、飲むことの出来ない油奉行を申し付けたよ。」

そう笑いながら言った。その後、正則は介惣を、十人扶持三五石に加増して取らせたそうである。

(福島太夫殿御事)



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 23:01:49.10 ID:2FSza23c
逸話が出るたびに「市松は素面だったら名君」説を裏付けることとなるなw
てか、気前良すぎだろw

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 00:10:54.87 ID:csNgw4df
十人扶持三五石なら悪化してるがな

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 12:13:48.57 ID:U8VGrv+W
扶持米のことやろ

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 12:22:03.78 ID:EcLGcZqT
お米50俵と35石か

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 13:30:00.36 ID:d703bSfp
30石で5人養ってたのを35石で10人養うって意味じゃないの?

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/27(木) 13:38:28.26 ID:zKBezFLt
>>614
10人扶持の切米で、三十五石の「格」って事よ。
軍役は石高にかかるから、支出は殆ど変わらず収入が倍になった感じ。

吉田九郎左衛門、秋田左内の誅殺

2015年08月09日 10:15

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/09(日) 01:28:14.50 ID:F058AzdF
慶長5年、関ヶ原の勝利の後、福島正則は領国である尾張国清洲に戻り、家臣たちの労をねぎらったが、
この時、吉田九郎左衛門秋田左内という者を誅殺した。

その理由はこういうことだった。清州城から南に行くと、岩塚という所がある。ここに、
吉田内記守氏入道長英という者が在住していたが、彼はかつての尾張守護、斯波武衛家の一族で、
代々岩塚の城主であった。斯波家が衰え信長が勃興した頃には、この吉田入道は隠居し、息子二人と
その他同姓の者達の多数は信長に従っていた。

長男の内記は、永禄11年9月13日に、信長が伊勢大河内を攻めた時、大手の長坂において
織田下総守と共に討ち死にした。その弟、並びに嫡孫二人とも、祖父長英の扶持にて成人し、やがて
織田信雄に仕えた。

しかし織田信雄が後年、小田原の役の時、故あってその領国の尾張、伊勢を没収されると、彼らも牢人となり
また岩塚に引き篭もったが、関白秀次が尾張伊勢を知行すると、その土地の国士を選んで旧領を与えた。
この時長英の嫡孫は岩塚を領した。叔父の石橋彦四郎は、後に吉田修理と号し越前松平家に
京都詰めとして仕え、武辺知謀もあり厚遇された。

しかし秀次事件で秀次が滅亡すると、その家臣は、或いは誅殺され或いは流罪となり、
その他は牢人となり、この吉田兄弟は再び岩塚に蟄居した。

そんな中、清洲城主となった福島正則が徳川家康にお伴して会津征伐に向かうと、その後から
石田三成が挙兵し、これに西国・中国の諸大名残らず一味した。
この発端は、豊臣家の幼主秀頼が徐々に徳川にその権威を奪われ、今双葉の内に切らねば
後の斧を用いても切ることができなくなる、という危機感を秀頼の補佐をしていた者達が考え、
これに故太閤温故の人々の多くも与したのである。

福島正則も豊臣家の厚恩によって民間よりい出て、いまや半国の主となったのだから必ず石田に
与するだろう。清洲で留守居をしていた正則の家臣たちですらそう思ったという。
これによって、吉田兄弟、長男は太郎左衛門、弟は長蔵といったが、彼らは

「我家再興の時が来た!福島正則は石田方への合力のため、近日中に関東を捨て駆け上って
くるであろう。その時、三河国刈谷あたりで城を乗っ取り、関東勢の御先手をつかまつるべし!」

彼らは水野忠重と交流があり、水野と深く談合し、密かに一族旧功の者たちを語らい、
武士30人余に足軽700人を集めた。ところが水野が不慮に加賀井重望によって横死させられたため、
この密約も崩れ如何せんと一族の中で評議を繰り返していた所に、福島正則は家康に味方して
先陣を仕り、現在西軍と戦うため進軍しているとの情報がはいり、更に当初の想定は崩れた。

長兄の吉田太郎左衛門は従兄弟の秋田左内という者に相談し、両人同道して清州城に入った福島正則
元に出向き申し上げた

「私達は御領分の牢人ですが、今度の御大事に罷り出まして、一奉公仕りたいと存じます。
そのために旧功の者ども700人余を従えて参りました。私達を上方への先鋒として
仰せ付けて下さい。」

正則はこれを聞いて、「なるほど、お前たち一族のことはかねがね聞いていた。その志のほど
神妙である。何か案内を申し付けるであろう。」と行ったが、そこで彼らを捕らえ監禁した。
これは正則が、彼らが正則を討つ謀略を進めていたことを既に探知していたためであった。

関ヶ原の戦いの後、正則は下知して二人の首を刎ねた。その表向きの理由は、織田信雄が
家康との旧盟も忘れて三成に一味し、旧領である尾張伊勢の国人、有縁の者たちを扇動したが、
この両名もそれに応じた一揆の張本人であったのだの正則に訴え出たものがあったから、
という物であった。
勿論この理由は偽りである。

(明良洪範)



167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/09(日) 09:55:11.57 ID:4PVOWkND
もちろん、市松はシラフじゃなかったんだな?

関ヶ原の合戦の後、福島正則は常に

2015年06月29日 14:05

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 20:10:17.34 ID:+K7B/dU4
関ヶ原の合戦の後、福島正則は常にこのように申していた。
「家康公におかれては、かように秀頼公を御取立て置きされている以上、別儀はこれ有るまじき事である。
治部少輔(石田三成)がもし関ヶ原の一戦で勝利していたら、却って秀頼公を3日と置くことも
なかったであろう。」

尤もの事と人々も語っていた。

(明良洪範)



福島正則は生来残虐な人であったと言い伝えられているが

2015年06月27日 14:38

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 12:50:26.22 ID:Q+3nj+Cg
福島正則は生来残虐な人であったと言い伝えられているが、その残虐の多くは酒に酔った故であるという。
元来気荒な性格の上に、酒を過ごされたためますます血気登って無法の行いも多かった。
酒気の無い時は、思いの外仁慈の事もあったのだ。
酒が過ぎてしまったために、秀吉公より拝領した秘蔵の鑓を身から離さず所持していたのに、不覚にして
黒田家の重臣毛利(母里)但馬に与えてしまった。こういった類のこと多かった。

正則は関ヶ原後、江戸に屋敷を設けたが、関東は酒が悪いと、上方に申し付け、大阪から江戸に酒を取り寄せていた。
係の役人が酒を吟味し、船に積んで武士一人を奉行として乗船させ、江戸に送った。

ある年、この船が暴風にあい、八丈島に漂着した。波風荒く、4,5日は船を出すことは出来ないと、
そのまま八丈島に逗留していた。この時乗船していた武士が島に上がりそのあたりを歩いて見て回っていると、
年の頃40ばかりの、背が高く色の黒い男が出てきて、武士に尋ねた

「その方はどうしてここに来たのか?」
「私は福島左衛門大夫の家中のものだが、主人の飲む酒を載せて江戸に下る途中である。」
「ほほう。ではその酒を少し私に与えよ。一杯を傾けて今の憂いを晴らし故郷の恋しきを忘れよう。」

武士は聞いて
「その方は何者か?なんの罪でこの島に来たのか?哀れなことだ。」

男、言った
「今更隠してもしょうがないことだ。私は宇喜多秀家の成れの果てだよ。」

武士は驚き、「さてさて、知らずして無礼を申しました。どうか御免あるべし。
酒のことは易き御用です。」そういって秀家の住居を見置いて船に戻り、思案した
『主人より預かりしものを私にするのは道に非ず。また餘多の酒の中から抜き取って遣わしても
知られることはないだろう。人にも寄って、あの方が世にある時は、どうして我らごときに酒の所望など
するだろうか。それを、主人の怒りを恐れて、無下に少しの酒を送らないというのは本意ではない。
いま、このよう所望に合うのも身の不肖の故なのだろう。」

そう思い定めて酒一升にありあわせの干魚を少し取り添えて水夫に持たせかの住居へと行った。
「少しばかりではありますが、主人からの預かり物ですので心の儘にも出来ません。これにて
御徒然を慰ませられますように」と贈り、ほどなく出港し、江戸に到着して台所役人に
酒を引き渡すと、そのまま直に目付役の者の所に行って、暴風で八丈島に吹き寄せられ
宇喜多秀家の所望に寄ってやむを得ず酒一樽を贈ったこと、ありのままに告白した。

「上の許可もなく我儘の働きを仕った上は、どのような罪科を仰せ付けられても少しも恨み申すことは
ありません。」

そう言い置いて宿舎に帰った。
目付役も聞き捨てることも出来ず、これを正則に伝えると、正則はすぐにその者を呼び出した。
役人たちは「短気である正則様であるから、きっと手討ちにするのだろう。」と確信した。
かの武士もそう覚悟して出てくると、、正則は「前へ!」呼ぶ。武士は臆する色もなく
無刀にて出る。近習たちは『これから手討ちに成るのだ、かわいそうに。』と見ていると、
正則は「ここに来い!」と側近くに呼び、少しも怒る様子はなく

「さてさて、汝はでかした!一樽の酒は小分の事であり、もっと多く遣わしても私にとって
事欠くものではない。さりながら、私が指図したことではないのだから、汝が遠慮したのも
尤もである。

もし汝が私の手前をはばかって秀家の所望を断ったなら、きっと、私が吝嗇であるがゆえに汝ごとき
者までも私の前をはばかって与えなかったのだ、などと世の人々に卑しまれただろう。それは無念のことである。

また、他の樽から少しずつ抜き取って与え、この事を隠しておいても誰も気づかなかっただろうに、
その方は律儀なる故、さようなむさき心がないのは神妙である。」

この時の正則の機嫌の良さは存外なものであったと皆々囁いたという。
この他にもやさしき事多くあり、非義の行いは皆、酔狂の故であった。だからこそ改易された時も、
家臣に不義の士は無く、いずれもよく義を守った。これは正則が常に諸士を憐れみ慈しんでいた故なのである。
(明良洪範)



992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 13:18:40.43 ID:Bn5kcBVI
酒さえ飲み過ぎなきゃほんといい人なんすよ…

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 14:21:05.58 ID:bSB2ft1R
森武蔵も酒乱だったのかな

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 17:20:08.10 ID:Aj+F8Rk5
そういえば安芸国廣島にはかつて主君の森伊蔵を勝手に飲んでしまったため
さらし者にされてしまった者がいたそうな

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/27(土) 19:11:59.79 ID:W0VNH1Z7
>>994
キムピンの悪口はそれまでだ

黄母衣の使番

2014年10月23日 18:50

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 21:22:04.39 ID:ArfTlqLq
関ヶ原の戦役の、岐阜城攻めの時のこと。福島正則の家臣で黄母衣の者、先手へ急使に行くとして、
母衣を従者に持てと言いつつ馬を飛ばせて行った。ところがその従者は主人に遅れたのみならず、
母衣を持ったまま途中で逃げ帰ってしまった。

合戦が終わり、先手の者達から「黄母衣の使番が一番乗りでした」と申してきたので、
福島正則は彼に感状を与えようとしたとき、外の使番の者がこのように言い出した。

「彼は一番乗りをしましたが、黄母衣は逃げ帰りました。この事は陣中の者達が皆見た事です。
すなわち彼は黄母衣の名誉を汚したのですから、今日よりこの国から追放すべきです。」

黄母衣の者は、従者に母衣を持たせたことを、越度であると同役の者にかれこれ言われ、
面目を失ったと陣中において切腹し、相果てた。

この話は、使番などを勤める士はよく心得ておくべきことである。

(明良洪範)




福島正頼の事

2014年10月17日 18:51

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/17(金) 01:32:48.85 ID:xGKd6YAm
福島左衛門大夫正則の弟、掃部介正頼は伊勢国長島で1万石を領しており、後に大和国宇多に移り
3万石となったが故あって改易され牢人となり、伊勢国山田に住んだ。
彼が牢人となった理由は、比丘尼祭の資金を横領したことで所領が召し上げられたのである。

その頃、本多上野介正純の家来・寺田勘兵衛という者が牢人となって伊勢に在ったが、これが
ある時、福島掃部介の息子二人と口論の挙句斬り合いとなり、兄弟共に斬り殺したが、寺田自身も
多くの傷を負ったため逃げ去ることが出来ず、所の者達に取り押さえられ奉行所に差し出された。

当時そのあたりを奉行していたのは花房志摩守であったが、彼は福島正則と縁があったので
快からず思い、寺田に切腹させてこの件を落着させた。

後年、福島の後裔として召しだされた福島助六とは、この時殺された兄弟の内、兄の孫であったそうである。

(明良洪範)

福島正則の弟についての逸話である。



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/17(金) 12:32:59.21 ID:FV9650aP
葵徳川で「あいつは兄正則同様、煮ても焼いても食えんwww」って言われてたぐらいしか印象にないわー >正頼