福島正則、散々に叱りつけ

2018年02月22日 18:34

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 18:29:27.56 ID:7/fd5rz0
福島正則が安芸に入部して、広島城の普請のおり、正則は石垣の据え方が悪いと、近江坂本より雇った
穴太衆たちを叱りつけ、さらに石垣の普請を担当する、丹波、石見、久之丞といった者たちにも
「お前たち一人ひとりの首を切ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)と、散々に叱りつけた。

さらに気が治まらなかったのか、元織田秀信の家老であった木造大膳(長政)の持ち場へ行くと
「木造殿は岐阜中納言(秀信)をしたいままにあしらっていたというが、それは間違いだったようだ!」
そう罵り、散々に叱りつけ、それは朋輩たちに対しても恥ずかしくなるほどの叱り方で、木造大膳は
面目無く無念に思い、そのまま宿舎へ帰り

「只今このように主人より叱られた事、不覚である。もはや男として立つことも出来ない。
二万石の所領と軍役の人数をみな返納し、船にて上方へ退く所存である!」

そう言って支度を始めたところ、石見、丹波、久之丞その他組頭の衆がやってきて様々に異見し、
そうしてどうにか、留まることになったという。

(福島太夫殿御事)



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 18:45:54.29 ID:cwMgupbs
市松はほんと人間としての器が小さいな

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 19:11:38.00 ID:8gtNielT
さては、一杯引っかけてたな
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団右衛門を逃がす

2018年02月16日 21:42

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 22:45:59.12 ID:iuGNdXUY
加藤左馬(嘉明)殿の家臣であった塙団右衛門(直之)と申す者を、福島正則が召し抱えた所、
左馬殿より『団右衛門の事は私が深く構い(奉公構)をした者であるので、御扶持は御放しと
されますよう』と申し来た。

正則は団右衛門を呼び、このように言った
「左馬殿より、お主がお構いされていることを申し来た。どうだ、私の肝煎りにて、加藤家に
帰参しないか?」

しかし団右衛門は
「有り難きことと存じます。ですが、どんな事があっても帰参するつもりはありません!」
そう、直に申した所、正則は
「そういう事なら、退去させよう。左馬殿よりの使者の者たちに馳走を出させ、待たせておくように。」
そしてこの間に急ぎ早舟を準備させ、これに団右衛門を乗せ早々に出船させた。

これを確認してから、正則は加藤嘉明の使者を呼び出し、直々に返答した
「塙団右衛門の事、お構いされていることを知らずに召し抱えてしまった。そのため早速、扶持を放した。」
これを聞くと使者たちは直ぐに帰っていった。
しかしこの時既に団右衛門は順風の中、大阪へとはしりぬけ、そこに隠れ住んだ。
加藤嘉明は使者の報告を聞くとすぐに、団右衛門への討手を四方へ派遣したが、ついに発見できなかった
という。

その後、大阪の合戦の時、豊臣秀頼が彼を召し抱え、その時松平安房守(蜂須賀至鎮)の陣所に
夜討ちに入り手柄を成し、明けて夏の陣にて討ち死にした。

(福島太夫殿御事)


過分の扶持

2018年02月14日 18:28

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 21:57:53.00 ID:tsCLngb4
小田孫兵衛という、元森家の武士が落ちぶれて、福島正則の家臣である梶尾出雲という者を頼り、
福島家の広間の御番であってもしたいとの望みを、梶尾より正則へ申し上げた。
梶尾は此のように言った

小田孫兵衛という人物は、森家の武士でありましたが、只今落ちぶれ、御広間の御番なりとも
いたしたいと、御家に仕えることを望んでおります。この者、かつては備中小田の城主でありまして、
少しばかり世間の覚えも有る者でした。また侍道の諸芸にも達している人物で、召し抱えて頂ければ
過分に存じ奉ります。」

正則はこれに答えた
「そういう者であれば抱えよう。追っ付けまみえ、五十人扶持を遣わそう。」

梶尾は驚いた
「さ、左様に過分に下されるような者ではありません!百五十石か二百石下されれば、過分に
存じ奉ります。」

「その方」正則は言った
「先ほど、彼は小城の主をも致した者だと申したのではなかったか!?そのような者に二百石や三百石
取らせても、後日主の役には立たぬものだ。」

そして小田孫兵衛にこう伝えられた、「千石の知行にて召し抱えられる」
孫兵衛は肝をつぶし、「一夜検校(急に金持ちになること)と成った!」と、それまでの
紙子の衣服を脱ぎ捨てて、天晴大名のような出で立ちとなった。
孫兵衛はこの時、72歳であった。
惣じて福島正則は、家中の者の跡目の事についても、親は子のために、一命を捨てて主の用に
立ったのだと、跡継ぎが少年であっても子供であっても、親の知行を相違なく継承させたという。

(福島太夫殿御事)



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 23:01:48.56 ID:3jtaZ7qU
>>634
ほんと、酒さえ飲まなければ

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 14:32:31.02 ID:vSXtVQp5
72歳に千石はさすがにどうなんだw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 15:01:04.96 ID:qAT1fi0C
広く人材を募るなら待遇を良くするのが正道だからね
先ず隗より始めよ、みたいな話じゃね

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 16:16:25.84 ID:G4VisRUK
その千石で兵士を養うんだから問題ない
戦巧者が育てりゃ強いだろ
千石の価値は出る

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」

2018年01月13日 21:10

473 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/12(金) 22:20:42.25 ID:gD8tCq/c
福島正則「石一個に対し米一俵差出候」

関ヶ原の戦いの後、安芸と備後を与えられた福島正則が広島城を中心として国内の要地に多くの支城を築いたのは二つの逸話で既に語られているが、その一つで西の毛利に備えて築いた小方城(亀居城)の築城にまつわるお話。

1603年、福島正則は周防との国境付近の小方(広島県大竹市)にある海に面した標高88メートルの山に築城を開始した。
城の石垣を作るため、福島正則

「石一個に対し米一俵差出候」

との御触れを出したところ、小方の海に石をどっさりと積んだ船が現れた。しばらくは石と交換で米を振舞って居た福島正則だったが、
ある程度石と米を交換したのを見計らうと、
「もう石は余るほどになったので持ち帰ってくれ」
と言って、石と米の交換を止めてしまいました。

約束が違うと腹を立てた船頭は、小方の入江に、石を投げ捨てて帰って行きました。

船が去ったのを見届けた福島正則
「さぁ、石を陸揚げして城の石垣を築け」
と命じ、捨てられた石を人夫に拾わせ小方城の石垣を組ませ、その後五年の歳月をかけて完成した小方城は亀の形をしていたため、亀居城とも呼ばれ、
11の郭(「本丸」・「二の丸」・「三の丸」・「有の丸」・「なしの丸」・「詰めの丸」・「松の丸」・「名古屋丸」・「捨ての丸」・有りの丸の南に「鐘の丸」・亀の頭に当たる海に突き出ているのが「妙見丸」)を持ち、
西側は山陽道(西国街道)苦の坂峠、北は懸崖の山が人を寄せ付けず、南は海に面した港を持ち、更に石垣で囲み上げた城壁を加えて、まさに難攻不落の城として完成した。
だが、この難攻不落の小方城は既に語られている通り諸事情により完成より僅か3年で破却される事となったのである。
現在では1977年に調査発掘と整備が行われ、1000本の桜が咲き誇る桜の名所、亀居公園として近隣住民に親しまれている。

http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/



474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 06:31:29.20 ID:8l3z3ru4
せこい

475 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/13(土) 08:34:23.34 ID:Id8JCoMt
>>474
リンク先に
>いつの日か、旅の僧侶が小方の里に入り「この町には異様なものが漂っている。昔お城を築いたとき、たくさんの犠牲者が出ているが、今日まで誰も弔っていない。
だから霊が浮かばれておらず、この町は栄えないのだ。この大事な犠牲者を弔うものはいないのか」と言い残して立ち去ったといいます。


と有るので市松さん、供養費もケチった可能性が…
広島城近くの堤防を作った時は人柱の代わりに自分の剣を8本埋めさせて、更に金出して年一で祭りをやらせて参加者には参加費として、
堤防を補修する為の石を持って来させて、堤防の上で躍らせて堤防を踏み固めさせたと言う逸話もあるんですけどね

彼に使われる者、一人として強兵でない者はおらず

2017年12月20日 18:57

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 06:07:04.23 ID:QZLUeOTl
福島正則が士を愛した話はすこぶる多い。家老の木造大膳(長政)が
病気の時、正則は毎日行水して裃を身に着け、天照大神へ祈願をかけ、

「大膳をいま五年御助けおき下されば、代々神楽を献上します」という
願書を納めて、数十日精進したのだといわれている。

その愛情の深さは、この一事でも知ることができよう。また正則の兵の
強さもつまるところ彼が士心を得た故である。

彼に使われる者は一人として強兵でない者はおらず、一人として忠臣
でない者はいないというのは、当時すでに世に認められたところである。
この一事は他の諸将で決して及ぶ者がいなかったという。

かの伊奈図書(昭綱)の首所望も、思うにこの心より出たのであろう。

――『福島正則伝』


心中では上野介をいかばかり

2017年12月16日 09:57

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 06:32:33.16 ID:X70udXRS
南葵文庫の蔵書によれば、福島正則は死ぬ7日前に刀・脇差・金銀の
目録を作って遺物の分配を定めた。

この事を取り扱ったのは上月文右衛門である。この人は広島で2千石を
領した物頭である。その目録の終わりに、

“右の公儀及び御旗本衆まで分配致すのも、市之丞(福島正利)のため
である。私めのためではない”とある。そのいかに子孫を思う情の厚き
人であるかと知ることができよう。

正則は遺書を記して分配品の目録を作ったが、その中に正則ともっとも
懇親の間柄だった本多上野介への遺物がない。本多の同役たる土井・
酒井・阿部などへはそれぞれ遺物がある。これは甚だもって不審である。

『健斎自言』に、正則の配流というものは、まったく本多上野介の姦計だ
との由が記される。上野介が友を売り、君を売り、もって自己のためを
謀る人物であること世説に定評がある。

よって、その事をよく調べると『福島没落記』という古写本がある。正則の
没落より79年目、宝永2年に肥前大村藩主・大村因幡守純長が筆記した
もので、老人の物語を聞き記したという奥書があるため、正則の没落を
見聞した老人の話に拠ったものであろう。それによれば、

“広島城が洪水で大破に及んだため、正則はかねてより昵懇の上野介へ
相談に及び、破損の場所を普請致したい由を上様へ言上頼み入る旨を
申し出た。

上野介が申すには少しの普請は言上に及ばず、内証にて致すべしとの
指図である。正則はなおも御目付・竹中采女(重義)へ、上野介はかよう
申されるが、しかし念のために他の老中へも

御話致したほうがよろしいかと尋ねた。采女は答えて、上野介御承知なら
他の御老中へ申すに及ばず、上野介は今御威勢至って良く、この御方の
申される事に誰が否と申すだろうか、と言った。

正則はこのため他の老中へは申さず普請致したところ、上野介は佞人で
正則は天下の御大法に背き、城普請仕り候と申し上げたため、御改易
となってしまったのである。

広島へ城を受け取りに参った衆中は「僅かな普請である。これ式の事で
両国を召し上げられることは、いたましいことだ」と申されたという。”

しかるに正則は御咎めを受けた折、流石は武士なれば上野介の指図にて
仕り候とは言わなかった。涙を呑んでそのまま御受け申し上げて大人しく
両国を差し上げたが、心中では上野介をいかばかり恨んでいたか計り難し。

――『福島正則伝』




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 07:04:04.11 ID:Rz51mSaN
>>411
最後の思い出に一杯やったんかな

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 09:43:40.61 ID:tVG1WpAW
>>411
実際は無届けで修理してたんだから正純にとってはとんだ風評被害だな。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 09:55:14.70 ID:qlVFd2SG
>>413
葵三代だと、家光政権下で正純は干されかけてて、話を通してても意味が無かった、って解釈になってたな

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 10:21:27.09 ID:tVG1WpAW
>>414
さすがに古いから今の通説とは真逆の話(猪熊事件)とかもあるけど、あれは良い大河だった。
微妙な内容は視聴者に判断を委ねたり、何をやってもうさんくさく見える津川家康の名演とかね。

話を戻すと正純は家光が将軍になる前に失脚しとるので、秀忠の代の話ですな。
取次を務めてる大名は多かったけど、権勢は確かに土井利勝などの秀忠側近へと移ってますね。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 21:48:10.32 ID:yZGRFt92
それなら本多派の福島を土井らが陥れたとも言えるな
土井らへの遺品分配は付け届けとも取れる

御陣所の体、味方の様子、見及んだ所

2017年06月06日 11:48

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 06:17:02.79 ID:+AAANm8Z
関ヶ原の時、西軍の船手・村上彦右衛門(通清)、菅右衛門(達長)は、9月12日の晩に桑名浦に乗り付け、
13日の早天に両人関ヶ原に出て毛利陣に入った。この時安国寺恵瓊と対面したが、村上は言った

「御陣所の体、味方の様子、見及んだ所、私としては大変心もとないものと言わざるを得ません。」

これに安国寺
「私もそう思っているが、東軍一人に上方勢十人のつもりであり、4,5日も持ちこたえれば
必ず味方の勝ちと成るだろう。」

村上重ねて
「味方の山取りの体、山高く取り上がり、しかもまばらで密度が薄く、これでは戦の仕様がありません。
あのように高く取り上がって居ては、敵に即座に応戦することは不可能です。東軍は少勢でも、
戦に熟練している故、軍勢も厚く見えます。その上東軍は、一両日のうちには戦いを仕掛けてくる様子と
見及びました。どうか油断ありませんように。」

そう言って帰った。
果たして、西軍は間もなく敗北した。村上は津まで直に出て関ヶ原の様子を聴き。九鬼大隅守(嘉隆)の
所に行って詳細に次第を語り、上方へと撤退した。

(士談)



834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 06:58:09.40 ID:hEgxlXVG
水軍なのに陸の戦争をよく知ってるな

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/06(火) 07:00:36.03 ID:gFGqNdAf
水軍も陸戦はするからな

船手のあしらい神妙なり

2017年06月04日 19:38

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 17:36:56.32 ID:8oGghPA5
羽柴秀吉による中国退治の時、村上彦右衛門(通清)は船手の案内を命ぜられ、浅野長政に付けられた。


長政は備前児島を攻めるべしと、児島に上がり様子を窺った。村上も手船一艘にて同道し、塩飽より下津井の
浦まで行き、山に上り児島の様子を見て回っていた所、敵が大勢出てきた。

村上は申し上げた
「船は陸と違い、急に乗ることが難しいものです。先に船に乗ってください。後は某におまかせあれ。」

そして長政を引き立て船に乗せると、自身は後を取り鎮めて居た所、敵2,3百が打ちかかってきた。
しかし村上が山影にわずかの手勢を待ち伏せにしているのを見て、敵も警戒しかかってこず、
少々の近づいてくる敵も皆追い払って船に乗り込んだ。

そこに敵も追々襲来したが、船と陸のことであれば、別状無く引き取ることが出来た。
秀吉はこのことを聞いて、「船手のあしらい神妙なり」と、感状並びに陣羽織が与えられたという。

(士談)


岐阜城攻めと城受け取りの時の争論

2017年04月15日 18:59

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:19:54.21 ID:84ycGhCm
岐阜城攻めと城受け取りの時の争論


岐阜城攻めの日にあたり、大手の主将(福島)左衛門大夫正則を初め
細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高
蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政が萩原の渡りを越え
敵地の家屋に放火して太郎堤に陣した。

搦手の主将は池田輝政で浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏
一柳監物直盛などは河田川岸を臨む所にいたのだが
岐阜城からは百々越前守(綱家)が三千ばかりの人数で新加納に出張して
川端へ備えを出して持ちこたえようとしてきた。

一柳直盛は(尾張国)黒田城主なので、川口の渡り瀬を心得ており一番に
川へ乗り入れ、その配下が瀬を渡っていくのを見てから、輝政は先手に
伊木清兵衛を初め家中一同を上の瀬に渡らせた。
したがって浅野、堀尾などその他の軍勢も各々川を渡り向こう岸へ馳せ上る。

(岐阜方の)兵が弓鉄炮を持って防ぐのだが、大軍が一度に押しかければ
悉く崩れてしまい引き返していった。
また飯沼小勘平(長資)を池田備中守長吉(輝政弟)自身がこれを討ち取った。
城方の主力は新加納に控えて防戦しようとしたが叶わず城中へ引いた。
搦手へ向かう途中新加納での競り合いでは敵の首級を七百余り討ち取り
そのことを輝政が江戸と太郎堤(大手側)にも知らせた。

すると正則は大手の諸将達に向かって
「各々はどう思われるか、搦手へ向かった面々は新加納で首尾よく
 逢えたそうだが、こちらは敵勢が出てこなかったので逢えなかった。
 ただそれだけのことではあるが、明朝の城攻めのとき千万に一つも
 搦手の面々に先を越されてはどうにもならないのだから
 今夜中に岐阜の城下まで人数を押し詰めるのがよいと思う」
と申されたので、みなこれに同意して急ぎ支度を調えて、酉の下刻から
戌の上刻までに繰り出して、岐阜の町はずれ近くまで押し詰めた。

夜が明けるのを待って段々と攻め上っていくところに、搦手も主将輝政を
初めとして着陣し攻め上ってきた。
そこに正則は大手方の諸勢を押し上げるため、大橋茂右衛門、吉村又右衛門に
申し付けてそのまま左右にある家に火をつけて焼いてしまった。
それで煙が山下へと吹きかかるので、池田を初め搦手の軍勢はここから
攻めることが出来なくなったので、輝政は大いに怒って軍勢を引き返させ
長良川のあたりにまわって水の手より攻め上った。

大手口では木造百々津田などが突いて出て坂中で防戦するので
寄せ手は大軍だったが直ちに攻めることはできなかった。
搦手からは城兵が出てこなかったので瑞龍寺の砦まで進んだ。
この砦には石田方から加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助を主将として
二千人余りで守っていたが、浅野左京太夫幸長の家中の者共が一番に
攻めかけたのを見て、搦手の軍勢は一同に攻め寄せ急に乗り入った。
城兵がこれを防ぎかねている所、さらに大手勢が次々に攻め入ったので程なく
出丸は落ちて、樫原彦右衛門を浅野幸長の家人の岸九兵衛尉が討ち取った。
川瀬左馬助は二の丸に行った後本丸にこもったという。

(中略)

さて大手搦手の軍勢が悉く攻め上り、城兵が余りにも多く
討ち取られてしまったので敵は二三の曲輪を捨て本丸へとこもったが
池田家の旗奉行は武功の者だったので城内へ手早く旗を入れた。
したがって岐阜城は輝政が一番乗りしたように見えた。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:20:30.78 ID:84ycGhCm
(織田)秀信の家老の木造左衛門が正則方に降参し、主人の秀信の助命があれば
本丸を明け渡すことを伝えると、正則は差し支えないと返答した。
家人の可児才蔵に使番の侍共を添えて味方に矢留めのことを触れ回らせた。

その後寄せ手の諸将が集まったとき、秀信を助命するのはどうかという話になり
左衛門太夫が
「秀信は自身の不了簡で内府(家康)へ敵対されたが、信長公の嫡孫であることは
 間違いなく、味方の中には信長の厚恩に預かった筋目の方もいるので
 この正則の計らいをよもや悪くは思わないだろう。我は織田を贔屓する
 筋目ではないが助命を承り、左様に心得て返答に及んだことなので
 今更変えようとは思わない。秀信の助命のことが内府卿の心に
 叶わなかったら、我の今度の骨折りを無にしてもらうまでのことだ」
と申されたので、その後あれこれと申す人はいなかった。
秀信は正則の世話で芋洗という所に逗留された後
関ヶ原御合戦後は紀州高野に登山して程なく病死したという。

秀信が出城した後、城受け取りのことについて正則と輝政とで争論があった。
正則は城主秀信から助命があれば城を明け渡すと申してきたので、願いの通り
助命するから城を空けるようにと返答した上は我らが受け取るほかないという。
輝政はそのことはもっともだが、我らの旗を一番に城内に入れたのは間違いなく
弓矢の古法に照らして、城を我らが受け取れないことがあるだろうかという。
大手搦手の諸将はみな並んでおられたが、面々には関係のないことである上
難しき争論の話なので、みな口を閉じ仲裁する人もいなかった。

井伊直政と本多忠勝が二人の間へと入られ、正則に向かって
「先程よりここで聞いていましたが、御双方ともに根拠があることですから
 御両人の御家来を立ち会わせて受け取るのはどうでしょうか」
と申されたが、正則は
「それは普段、人がいる城などを受け渡しする時のことで
 攻め落とした敵の城を受け取るときは、左様にはしない」
と申されて埒が明かなかった。

そのとき本多中務(忠勝)は一柳監物の側に寄り、何事か小声で申した。
輝政は近い所にいたので監物に
「中務はそこもとに何を申されたのか」
と尋ねられたので、監物は
「『今度の逆徒追討で各々命を投げ打たれ
  内府へ合力して下さる以上は、少々の不足があっても
  内府の為によきようにしたいと思って下さるのだと考えていた』
 と申されました。もっともだと拙者なども思います」
輝政はそれを聞かれて
「本当に中務の申されることはもっともだ。内府の為に
 不足を取るべきなのはそれがしより他にはいないのだから
 正則が城を受け取るのがもっともだ」
と言われ事が済んだという。

そのとき正則は
「最初に両人の衆(井伊・本多)が申された通り、両家の立ち会いで
 受け取るので輝政の家人も出されるように」
と申されたが、輝政は
「我らの家来を出すには及ばない。時が過ぎてしまったので
 早々に城受け取りの片をつけた方がよい」
と申されたという。

岐阜城攻めのときの正則と輝政の争論と世に知られているのはこのことだと
一柳助之進(直良)が語ったのを聞いて書き留めた。
きっと親父の監物殿が雑談されたことがあったのではないかと思う。


――『落穂集』



817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:25:04.56 ID:WMM//8tO
岐阜城は見た目は堅城そうなのに
あっさり陥落し過ぎだよな
http://i.imgur.com/4PTFNsx.jpg
ぎふ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 16:51:46.84 ID:2QxKWdjF
常真さんでも落とせる岐阜城

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:04:45.57 ID:RKT7CIGM
後詰めなけりゃ落ちるわ

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:51:08.08 ID:VwHS4dM6
岐阜城は水源が少なくて大勢で籠城するとあっという間に干上がる、と聞いたことがある。

岐阜城攻めのくじ取り

2017年04月14日 16:35

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:11:05.49 ID:87GdGGbi
岐阜城攻めのくじ取り


岐阜城攻めのとき、(福島)正則と(池田)輝政とで大手搦手の争論があり
井伊直政、本多忠勝が輝政に異見を申したので収まったという様に
旧記等には見られるが、左様ではなかった。

なぜなら大身小身に係わらず敵地へ近いところの領主を
先手と致すのが日本の古来からの武家の定法であるので
尾州清須の城主である正則を一の先手、それに続いて
三州吉田の城主である輝政を二の先手ということにしたのだ。

格別なことなので両人には小山の御陣所で、内府公が
直に仰せ渡したので両人の争論などはなかったのだが
その他の大身小身共には大手七曲り口に向かうことを好み
搦手の寄せ手を嫌うものがいた。

大手、搦手と犬山城の押さえは必要だというのは各々の相談で
決まったのだが、人数割りをどうするかは埒が明かなかったので
井伊本多両人の衆は御列座の衆を二つに分けてくじ取りをさせ
誰は大手、誰は搦手、誰々は犬山の押さえと決めたので
人数割りが差し障りなく済んだという。

この説は旧記とは違うのだが大猷院様(徳川家光)の御代に旗本へ
召し出された大道寺内蔵助[若い時は遠山長右衛門と名乗っていた]は
岐阜城攻めの時は福島正則方にいて大手口で働きなどしていて
老後になってこのくじ取りの物語をしたので書留めた。


――『落穂集』



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:22:29.50 ID:6dYoS0ds
苦労してるな

可児才蔵、宝蔵院に槍法を学しこと

2017年03月04日 18:25

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 23:57:05.68 ID:QfILq++Y
可児才蔵、宝蔵院に槍法を学しこと 付宝蔵院槍を持せ 併十文字を月剣と呼ぶこと


 宗耕の話である。
ある時、可児才蔵が宝蔵院に言った。

「我は元来槍法を知らない。槍はいかにして勝を得るのだろうか」

院は答えた。

「上段、下段、相、かぶり、の外になし。」

しかし才蔵は解らなかった。
主人の福島左衛門大夫(正則)へこの術を習おうと報告した。
福島は許し、可児はすぐに奈良に行き数日院からこの術を習った。
帰って戦場へ赴いたが、かえって怯心が起きて進むのが難しくなった。
よってまた奈良へ行き、このことを嘘偽りなく告げた。
院は言った。

「まだ半分しか知っていないな。」

可児はさらに数ヶ月学んで、術を得て帰った。
これより後では敵の槍道を観ること明らかとなり、まさしく我が勝路を得たとか。

 この宝蔵院は今、代替わりのときには関東に下って拝礼をする。
この時僧の供に槍を持たせるとか。

 宝蔵院は退隠したら観音院と号す。
この院では、十文字と称さず、月剣と呼ぶ。
これは元祖宝蔵院は、もとは直槍であったが、あるとき、
八日の月影が水面に映るのを視て、

「あわれ、直槍にこのように横手を加えたいものだ」

と思ったとか。そこで十文字の形を作って、月剣の名があるという。

(甲子夜話三篇)

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2528.html
これの別varかな?


獄司所用の鑓之事

2017年02月23日 10:17

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/23(木) 07:41:29.69 ID:NtmEGZmh
獄司所用の鑓之事

 概して人へ刑罰をおこなうとき、獄司が用いる槍は柄が朱黒の段塗である。
予も引廻し晒し者に行きかかったときに度々見た。
宗耕が言うには、磔罪のときもこの槍で突くという。
 さて、この槍は初めは福島左衛門(正則)の家の槍であったが、
故あって何者かの物となり、それより獄司に転じたという。
その次第は聞いたが忘れた。
福島は違っていないはずだ。

(甲子夜話三篇)


人で葺く

2016年12月26日 16:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 20:41:55.00 ID:rz8P6Z61
名古屋城普請の時、諸大名が福島(正則)のところに集まって
饗応があったのだが、

ことのほか暴雨暴風で、小屋の屋根は持ちこたえられないほど
であったのに、少しの別儀もなかった。

さて、相仕が退去の時に屋根を見なさると、諸侍がことごとく
かっぱを着て、屋根の上に伏していた。人で葺いたのである。

小屋の上であるのに上がる音もせず、咳払いの音もしなかった
ということである。

浅野紀伊守(幸長)はこれを見て、家来の供の者に「これを見よ」
と、申されたということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/26(月) 10:32:15.16 ID:pDCciezT
人間屋根って、男塾に有りそうなエピソードやな

福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

2016年12月14日 16:58

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 06:49:15.78 ID:0su8vjI9
福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

関ヶ原の戦の後、防長へ改易となった毛利家の代わりに福島正則が芸備へ入封。
福島正則は国境の支城築城、国内の再検地や治水などの内政事業を次々と進めていく。
その中で困難を極めた事業の一つが本拠地である広島城下の治水であった。
毛利輝元が太田川下流の三角州を埋め立て作った広島城の周辺は新造の埋め立て地であるが為地盤が弱く当時度々洪水に悩まされており、
その中でも城の北東側に位置する猿猴川は何度工事しても堤防が決壊していた。
土地の者はこの上は川の神様を宥め、強い堤防を造る為には堤防に人柱を入れるしかないと決め、堤防には人柱を埋める事となった。
しかし、それを聞いた福島正則
「それは大変不憫な事である。人柱の代わりに我が持つ八振りの剣を堤に埋めよ」
と、秘蔵の名剣八本を箱に納めて堤に埋めて工事させ、堤防を修復した。
この時埋められた八本の剣の剣霊を祀って、当地には小さな祠が建てられ、今も八剣神社(広島市中区の牛田大橋南詰付近)として福島正則の治世を後世に伝えている。
またこの牛田周辺では7月15,16日の夜に雨夜踊りが行われていた。これは度々堤防の修復が行われ、その堤防を踏み固めて強固にする為、地元の人々を集めて堤の上で躍らせたのが起源であると言う。

(知新集)



419 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 18:19:19.84 ID:OjGZ6yzm
>>415
猿猴「市松っつあん、剣やなあてアンタの好物の酒にしちゃりんさいや」

小倉侯数具足の由来

2016年11月26日 16:34

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 00:03:56.94 ID:XVutE/OC
小倉侯数具足の由来

 当年(天保五年、1834年)二月の火災で、両国橋向こうの小倉侯の別荘で具足のいくつかが焚亡した。
この具足というのは、往年の福島氏が改易されたときかの家の物が散逸していたのを、
小倉侯の収めていたものだという。
よってその具足はみな福島の家紋があったという。

 福島は豊太閤の初めから神祖御成業のときまで、
剛勇武功の人で皆知るところである。
その遺物がこのように亡んだのは、誠に痛感に堪える。


(甲子夜話三篇)


なぜ小笠原さんが正則のものを?



この話が誰の逸話なのか

2016年08月26日 21:13

116 名前:sage[] 投稿日:2016/08/25(木) 23:35:53.38 ID:TMSmuVQp
誠に申し訳ございませんが
この話が誰の逸話なのか教えて頂けないでしょうか。

話の内容
柴田勝家か福島正則の家臣(違うかもしれません)
無頓着な性格でとりあえずの生活を送っていた殿さまです。
ある日大女(しこめ)が来て殿さまはおおらかな人だから
雇ってくださいというが、頭の悪い家臣ほど雇うなという。
でもその殿さまはまず雇えといい、次に力を見せろといい
家臣に相撲を取らせ、仕事に来てくれよといい、大女を喜ばせる
大女いわく”おらを見るだけでぶさいくだとののしり、
見世物をしたいから相撲をとれと言われ全部勝っても
、次にやっぱり雇わね。そればかりなのに
殿さまはおらを初めに”雇う”といって相撲を取らして
そのうえで採用してくれた。すごい殿さまだ!
殿さまはそんな
こた~ねえよ。明日から仕事がんばれよと…。
大女は殿さまの思いに応え一生懸命に仕事で答えた。
そのうち殿さまの状況が悪化してどんどん家臣が財産を持ち逃げして
逃げだした。殿さまも最後には無一文になって、最後に残った家臣たちと
途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて
真の忠臣と後世の人が言わしめた。
お家の再興のため、尽力し、殿さまが有力藩に呼ばれたのと対象に
どこともなく消えてしまったこの大女の正体はたぶんわからない
と思いますが、せめてこの殿さまが誰かだけでも教えて頂けないでしょうか。

117 名前:sage[] 投稿日:2016/08/25(木) 23:47:29.65 ID:TMSmuVQp
申し訳ありませんsageです
途中話が抜けておりました
【 】の中の話も読んでいただいた上で
教えて頂きましたら幸いです…。

途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて

【倹約や工夫してこっそりためた金だ。
殿さま再興のために全部つかってくんろ。
殿様曰く、これはお前がいろいろ頑張って貯めた金だ
お前の退職金として全部もってゆけ
大女はいらぬという、ならば殿さまは半分ずつ持っていこうと
それでお互い納得したという。その後の大女の行方は分からない】

真の忠臣と後世の人が言わしめた。



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 00:54:00.82 ID:6pNeKdGU
「名将言行録」の福島正則家臣、大崎長行のことだろう
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782779
海音寺潮五郎「史談と史論」の
「仙女伝」では大橋玄蕃とお柳と書かれている

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 01:07:53.50 ID:6pNeKdGU
ついでに「史談と史論」のそのあたりの話(名将言行録もほぼ同じ内容)

庭にあった二抱えほどもある大きな岩を大女のお柳が転がすとその下は穴蔵のようになって奥深い。
お柳は次々に大きなツボを2つ取り出し、座敷で開けるとそれぞれ板銀と小判がつまっていた。
「これは皆殿様のものでございます」
「どうしたのだ、これは?」
「清須からこの国におうつりになりましてから、段々にたくわえておいたものでございます。
殿様はたくわえなどまるでお心掛けのないお方でございますが、何か急なことのある節は、
金銀がなくてはならぬと存じましたので、お家のしおき万事を任せていただいていますのを幸いに、
殿様にかわりまして、ご費用をつつましくしては、投げこんでおいたのが、いつかこんなにたまったのでございます。
されば、これは皆殿様のものでございます」
「さて、その方の心づかい、まことにかたじけない。しかし、これはその方の苦労で出来たものなれば、おれが皆
もろうわけには行かぬ。小判の方なりと、板銀の方なりと、いずれかをその方取れい」
「とんでもないことでございます。これは殿様のものでございます」
「見よ。こうして金銀をひとつにかきまぜた。これを互いに一つかみずつ取っていくことにしようではないか」
こうして、とりわけた。
数日の後、玄蕃は一先ず大阪を志すとて、鞆の港から便船をもとめて去った。お柳はこれを見送った後、
自分も小舟にのって、いずれへか立ち去った。
二三年後、玄蕃は秀忠の命で、紀州家に召し抱えられた。彼は依然として独身であったので家のとりしまりのため、
またお柳を予防としたが、その行くえはまるでわからなかった。



123 名前:116[] 投稿日:2016/08/26(金) 17:02:12.53 ID:zqzBsphw
116です。この度は読みにくい文であるにもかかわらず
ご回答いただきまして誠にありがとうございました。
これですっきり致しました。
お礼申し上げます。

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 19:34:52.46 ID:+d1KeDna
真柄のお秀みたいなものかな?

その刀は皆、正則から賜ったという。

2016年06月21日 21:14

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:24:29.16 ID:sc6DvSW+
今月三田侯〔九鬼長州隆国〕が隠荘を訪れられて、物語をした中で
かの臣に福島正則が除国の後に来て仕えた者が四、五家ある。
その家の何れにも村正の刀を所持している。
その刀は皆、正則から賜ったという。 
どういう故であろうか.
 
と語られたことがあった。
(甲子夜話)

当時の大量生産品だからね、仕方ないね



754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 07:36:13.81 ID:Y/t1TMOa
甲子夜話ができた頃には村正が公儀に差し障りがある、って認識ができてたのか

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:23:19.09 ID:QnhTDb55
村正の逸話は家康存命時代からあったんじゃなかったっけ

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:25:20.99 ID:BeJhKfHh
>>755
無いね。村正が云々言われるようになったのは江戸中期以降。

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/21(火) 20:36:07.02 ID:P9+DT3Zu
中期どころか江戸初期
寛永11年に長崎奉行が村正所持で切腹

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 21:13:22.65 ID:qBcS+riJ
>>757
それ「村正持ってたから」ってのは、後世の解釈じゃなかったっけ?

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 12:18:41.72 ID:m7j9aCCZ
>>756-757
ファミコン版ウィザードリィが流行ってからじゃね?

あの小姓を、彼に恋した男のもとに

2016年05月03日 09:42

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 19:56:28.34 ID:+xSS6T0o
福島左衛門大夫正則は、諸将の中でも、とりわけ物狂わしい人物であった。
猟より帰って口をすすがず、その後の食次の時に「食物の中に砂有り!」と言って
料理人を殺した事も度々あった。あまつさえ、その頸を脇差しで貫き、くるくると回して
興ぜし事もあったとか。
しかし、思いの外なる話もある。

ある日、正則の一門衆集まって酒宴の時、正則の愛する何某とかいう小姓が、懐から
菓子を3つ4つ落とした。
正則はこれを見て、小姓が盗んだのだと考え、激怒した。
彼は小姓を引き寄せると、左手で頭髪を掴み、右手で刀を抜き持って小姓の股を突き刺した。
血がおびただしく流れたが、小姓は少しも動ぜず、何事もなかったかのように再び
給仕をした。

座の人々は何れも、正則の気質を知っているので、この小姓が終には死罪に及ぶことを
惜しみ、片脇へと引かせて「何か申し分が有るのではないか?」と尋ねた。
しかし一言も言葉を発しないため、人々も苛立ち

「侍の子たる者が、どうしてあのような卑劣なことをしたのか?その身が
死罪となっても仕方がない。そして死んでも、父兄弟の面汚しであるぞ!」

小姓、これを聞くと
「申すべきことも有りますが、人の命まで取ってしまうことと成り、それは私の本意では
ありません。その人の生命を助けていただけるのなら、仔細を語ります。
私の命は、許されるべきではありませんが、一門の名折れと仰せられることの口惜しさに、
申すことが出来ないのです。」

人々は何れも誓った
「其方のことは力及ばぬ。しかしこの事について、外の人の命は、我々が命に変えて救おう!」

そこで、小姓は語った
「彼の人も、殿様の御家中である若者ですが、彼は私に恋い焦がれ、数十通の文を頂きました。
しかし私は殿様の御座をも汚す身ですから、それらは取り上げてさえ見ることはありませんでした。
しかし、それから三ヵ年、日々に文を送ってくるその心の切なさに愛おしさを感じ、ある時
彼の姿を見て、その志を感じ、図らずも返事をすると、かの者はいよいよ耐えかね、虚労のように
煩ってしまったと聞いたのです。

私のために人の命を失う事の笑止さに、どうにかして一度逢って見たいと思いましたが、
出仕すれば常に殿のお側に有り、下がっても寄合部屋にて、仲間の目も忍び難く、下部屋にて
なんとか逢おうと思い、かの男を番葛籠に入れさせ、昨日下部屋にその葛籠を取り寄せました。
然れども折り悪く、三日三晩の御酒宴となり、致し方ない状況な上に、かの男が飢えることの
痛わしさに、この菓子なりとも遣わそうと懐中にした所、運が盡き、御前において取り落としたのです。

願わくば、彼の入った葛籠を、何事も無く外に出してください。私は生命を惜しむことありません!」

一門の人々、これを聞いて正則に対し
「あの小姓の命乞いをしても、承知なされないことはわかっています。しかし、彼が菓子を盗んだのは
卑劣な行為ではありません。ですからせめて、死後の恥辱を救ってください。」
そう事の顛末を語ると、正則はたちまち機嫌が直り

「私が側に召し使うほどの者らしく、卑劣の業は成さなかったか。
恋する男に逢おうとするのは、自分の目を盲にするのと似ているが、年少の者にはよくあることだ、
深く咎めるべきではない。
その上、彼の今日の様子、さすがに私の目鏡に違いなしと見えた。よって、彼の死罪を免ずる。
また、彼に心を懸けた者も、私の気質は知っているのに、是非に逢おうというのは、
これも用に立つべき者であろう。
あの小姓を、彼に恋した男のもとに遣わせ!」

そう命じた。この時正則は、大方成らぬ機嫌であったという。
(新東鑑)



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 20:24:41.78 ID:SWwwf+k1
ホモにはみんな優しい

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 00:25:57.83 ID:tK/mOlVU
>>681
ミラクルやん「いいかい市松。人は刀で股を突き刺されたら出血多量で死ぬんだよ」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 07:14:42.33 ID:OvJrnKm4
あんたは太ももじゃろ

秀頼母子は正則の書状に、

2016年01月04日 22:11

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/04(月) 09:24:24.23 ID:KADeL/Yu
慶長19年9月、大阪冬の陣起こる。
10月7日、駿府の大御所・徳川家康は江戸より馳せ来た竹中重利を召して言った

「汝は福島正則と親しく相語る者であれば、我が為に再び関東に趣き正則にこう申してほしい。
今度大阪の軍が起こったこと、秀頼の心とは思えない。これは偏に、織田有楽、大野、木村、渡辺といった
者達の計らいであろう。

尤も正則は元より故太閤のゆかりであり秀頼にも親しく、又この家康父子にも疎いわけではない。
ならば、正則の身にとっては、何れの方に与すべきとも考えられないだろう。
正則がたとえ我々父子に与しなくても、大阪に味方するという疑いを持つことはない。
ただ、暫く正則は関東に留まり、嫡子備後守に軍勢を付けて参らせてほしい。」

同月11日、大御所は駿府を出立し、13日中泉に至った時、福島正則の使者が、竹中重利
書状を持って馳せ参った。
書状の中で竹中は、正則の発言の旨をこのように述べた

『仰せ、謹んで承りました。私も、今度の大阪で兵の起こったことは、最も不思議と言うべきだと考えます。
であれな仰せ下さったように、秀頼母子がこのような事を思いつくとも考えられず、近習の輩の計らいに
よる事、疑いありません。
である以上、私はかの御母子を諌め参らせるため、二人の使者を立てて我が方の消息を通しました。』

本多正純が、正則が大阪に送ったという書状を取って見るとこのように書かれていた。

『今度の大仏修造の事について両御所を怨まれるという判断は、只事ではありません。偏に御家運を
傾かせられる時が至るだけです。ただ、速やかに御母子の御心を改められ、過ちを謝し申されんため、
御母上をして駿府か江戸に参らせ置かれるべきです。

正則は近年、関東の御恩蒙る身となり、二心を思いません。また妻子も関東にあります。
いま諌め参らせた旨に従われないのなら、この正則は天下の軍勢に先立って馳せ向かい、
速やかに大阪城勢を打ち破って見せるでしょう。その時になって後悔なさっても最早意味がありません。
御家運のめでたく渡らせ給うのも、そうならないのも、そちらの御計らい次第なのです。」

同16日、再び正則の使者が、大御所の岡崎の陣に馳せ参り一通の書状を献じた。
正則が先陣を賜って馳せ向かい、速やかに大阪勢を誅すべき事を望む、という内容であった。
大御所は
「正則の申す所神妙である。ただ、其の儘に江戸に在って妻子尽く城中に参らせ置くように」
と仰せになり、使いを返した。

22日、大御所は永原の陣に竹中重利を召され、「急ぎ正則の領国に下り、備後守正勝と共に
軍勢を催して大阪に向かうように。」と命じた。

翌23日、都に入った日に、正則の使者が大阪より帰って参上した。
「秀頼母子は正則の書状に、何も答えなかった。」と報告し、また江戸へと下った。

(藩翰譜)




何れにしても正則の心の中は

2016年01月03日 18:10

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 18:04:03.86 ID:ygS9hngH
関ヶ原の後、慶長6年に結城秀康が越前の地を与えられ入部した時、福島正則は自ら
北庄に赴きこれを賀した。そこで、秀康の家臣の方を向いてこんなことを語りかけた

「私はこの後も常に門下として伺候したいのだが、滞在する家がないのでそれがかなわない。
家を作るべき土地を給わりたい。
また、その後正則が年来の好を忘れて参らなくなったとしても、守殿(秀康)に天下の御大事が
あれば、正則は必ずお味方仕るだろう。

さりながら、私には太閤殿下より仰せ置かれた旨があるので、この身が秀頼公の世にあるかぎりは、
なかなか心に任せることも出来ない。」

そういうと暇を請うて帰っていった。

私(新井白石)が想像するに、秀康公は太閤秀吉の養子であったので、正則はその好を思っていたのでは
ないだろうか。また秀康公の御身に天下の御大事あらんと言ったのは、秀康公は秀忠公の兄であったので、
家康公がお亡くなりになれば、必ず天下をめぐって争いが起こると考えたのではないか。

何れにしても正則の心の中は測りがたいことである。

(藩翰譜)