水野勝成宛消息

2017年01月22日 17:17

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 19:49:01.33 ID:k/8ijvKT
水野勝成宛消息

http://gallery-so.co.jp/artistwork/%E3%80%8C%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90%E5%AE%9B%E6%B6%88%E6%81%AF%E3%80%8D
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伊達政宗から勝成への手紙といえば、こんなのもあるらしいが
俺には読めない
だれか偉い人翻訳してくださいな



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鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)

2016年08月29日 17:06

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:20:58.43 ID:N4wM4BOK
元和5年に福島正則が改易されると、
備後には水野勝成が10万石で入封されることとなった。
備後には古くより神辺城が存在していたが、
新たな領国経営のためには北方に過ぎると思われた
幕府より新規築城の許可を得た勝成は、
西国偃武の地としてふさわしい場所を選ぶべく領国内を巡検し、
最終的には陸路・海ともに近接している常興寺山に築城することとなった。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:21:19.20 ID:N4wM4BOK
ただし、常興寺山の北には山が存在しており、そこからの砲撃には防御が脆弱であることが懸念された。
「私ならば一日で城落として御覧に入れましょう」と言う家臣に対し、
勝成はこう答えたという。
「その事を一番分かっているのはわしである。
しかし、今回の築城では幕府の威容を示し、
この勝成が西国の中心で諸大名に睨みを効かせるのが重要である。
天守の北面には鉄板を貼って防御とすればよい。」

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:21:40.70 ID:N4wM4BOK
こうして築城された福山城は、幕府の援助もあり10万石としては破格の巨城となった。
そして、天守の北面は鉄板で覆われていた。
かくして、正式名称は鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)と呼称された。

縄張り図では南面に防御が分厚く、北面は守りが弱かった。
これは、勝成が幕府に遠慮してわざと北面を薄く作り、代わりに寺社を置いて防御の助けとしたため、とする説がある。

時は過ぎて戊辰戦争の際、福山城は長州藩に攻撃を受けた。
その際に城の北面からの砲撃を受けたが、天守の鉄板に弾き返されたという逸話が残っている。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:27:36.70 ID:N4wM4BOK
ちなみに福山城天守は戦前に国宝として指定を受けていたが、
惜しいことに太平洋戦争時の空襲で焼失してしまった。
現在の再建天守は、原型を留めない残念なものとなってしまっている。

縄張り図を見ると、南に重厚な防御を備えているのに北方は極端に弱い。
上記の幕府に遠慮した説のほかに、予算不足という説もある。

ただし、幕府も積極的に資金援助した江戸時代最後の大規模築城である事を考えると、
予算不足のみならず、技術者不足などもあったかも知れない。



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:43:28.21 ID:IBJrkX0/
いや、なんで福山城を長州が攻めるんだ。 第2次長州征伐の時の芸州口は大竹市から東は戦場になってないぞ。 そもそも芸州浅野は長州に同情的で中立だし。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:59:17.27 ID:N4wM4BOK
長州征伐じゃなくて戊辰戦争ね。
福山藩は歴代譜代大名が入ってて、幕末には阿部正弘が老中として活躍してる。
そのせいか幕府方とみなされて攻撃されかかってるし、実際に小規模な戦闘で死傷者も出てる。
恭順姿勢見せたから、全面対決は生じなかったけど、以降は新政府方の先鋒としてコキ使われたみたい。

「汝は我跡を相続する者ではあらず」

2016年02月27日 17:40

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:46:04.34 ID:Wke8w9Jz
天正の末、参州水野和泉守の嫡男、水野六左衛門は
太閤秀吉公の扈従であったが、相撲の諍いによって傍輩を殺して出奔した。
秀吉公大いに怒って、諸国を尋ね求めてこれを殺さんとした。
六左衛門は勇敢身に備えたる人であったので、九州へ下向し
姓名を改め、所々の戦闘に参加し功があった。
名が既に顕れたので、ここも逃げ去り、糧食も尽き、身も塞がってしまったので
漢の韓信が釣りを垂れる苦しみであった。
美作国へ往き、安藤という百姓の聟(むこ)となった。
しかし農作を勤めず、朝夕川に臨んで網釣を事とし
山へ登って禽獣を狩ってばかりいた。
安藤、これを見て「汝は我跡を相続する者ではあらず」と大いに怒り、追い出した。
恥辱と思ったのだろうか、刀を抜き刺殺し、ここをも走り去り、三村紀伊守を頼った。

(西国太平記)



245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 10:38:18.43 ID:r+I6p6vK
>>244
毎度お馴染みの水野さん

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 10:42:43.56 ID:mTZkIgw9
どの話でもだいたい大筋の流れ同じだからやっぱり本当にDQNだったのだろう

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 14:14:58.07 ID:4EbOraoe
>>244
水野「ヒャッハーッ!血だ!血を寄こせ!」

各地でこれだもんな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 00:26:07.39 ID:+mnejghW
>>244
水野勝成は今で言うADHDっぽい。
衝動性や他人への共感性の欠如や
自伝での虚言癖等、当てはまる要素が多い。
ADHDは適性に合った職や環境に出会うと改善するが
勝成の場合、家督を継いで小藩を治める、というのがそれだったんだろう。

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 06:02:43.25 ID:8i+MnqKv
>>253
それ言いだすと、鎌倉時代以降~元禄期までの武士はADHDだらけだぞ。
毎日人を殺さないと気が晴れないとか、生首を飾ってないと機嫌が悪いとか、悪口から周囲を巻き込んで殺し合いとかごろごろしてる。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 07:02:41.61 ID:5s/MLQ/I
当時はそれが仕事だから

256 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 07:53:29.36 ID:MPqumkkl
>>244
これでも水野一族ではまともの方なんだよな
勝成さん以外の水野一族の方々も
表に出てないだけで勝成さん以上の無茶ぶりをやらかしてるし
三河では勝成さんクラスのDQNが当たり前だから
たまたま勝成さんは奉公構えで全国を彷徨ったから目立っただけだから
ただこの狂気な水野一族の血脈から天下人が出て来たから
ある意味勝ち組何だが

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 09:00:58.75 ID:xgbWrhES
それが当たり前なら、勝成を始めとする水野一族を
無理に持ち上げなくてもいいような気がするんだけど。
どうしても高く評価されないといかんのか?

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 10:02:18.56 ID:LfsNoNs8
それでも島津軍法みたいなのは基地だと思う
おかげで島津軍の通ったあとの九州各県は兵だけでなく
片っ端から村人殺されペンペン草も生えない大虐殺だらけで
薩摩以外からはいまだに嫌われてる
まあ黒田とかも好かれてないが

259 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 13:48:59.74 ID:sDx5l1XY
水野一族は変わり者が多いからな
天保の改革で有名な水野忠邦なんか
老中になりたいが為に実質20万石以上ある
唐津藩を捨てて6万石程度の浜松藩に転封したぐらいだからな

260 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 15:03:20.59 ID:RTpfv5yA
松平の血で中和出来たんだろうか?
でも諸々のエピソード聴くと短気なところは受け継いでるな

水野忠胤の悲劇

2016年02月20日 12:53

186 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/20(土) 02:44:55.17 ID:jvV7FCmr
水野忠胤の悲劇
三河水野藩藩主である水野忠胤が
遠江浜松藩主松平忠頼を自宅招いて茶会を開いていたが、
忠胤の与力である久米佐平次と服部半八郎の両名が囲碁の
勝敗をめぐって口論となり、刃傷事件に発展した。
この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったのだが、
逆に仲裁に切れた佐平次が、よりによって忠頼を殺害してしまった。
佐平次は忠胤によって切り捨てられたが
その事件によって忠胤は切腹を命じられ水野藩は改易になった。
ちなみに長男の勝信(織田信長の孫)はこの後に
徳川忠長に仕えた
(妙蓮寺旧記)



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 09:54:31.55 ID:KZwAhx2/
水野藩って聞いた事がないなと思ってググッてみたら
どこにあったかもわからないらしい w

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 09:56:52.54 ID:fZRPebE5
>>186
忠胤が切腹する理由はなんやねん
実在はともかく気になる

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 10:05:31.20 ID:fgf6N03W
それまでも不手際あったらしいからスリーアウト的な改易かね

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 12:06:40.75 ID:6H2FGaXT
>>189
部下同士の争いで部下が大名を殺したんだから十分な理由だよ
全く与り知らないところならいざ知らず

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 06:10:51.84 ID:8tZiaW+w
>>186
似たような話を関が原の時(前夜?)あったような気がするんだが
重い打線

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 07:35:04.13 ID:0hhC4clU
水野忠胤の父親の水野忠重が関ヶ原直前に堀尾吉晴や加賀井重望と三人で飲んでたら、
なぜか加賀井重望が水野忠重を殺害して、堀尾吉晴にも傷を負わせ、
堀尾吉晴に返り討ちにあった、て話では?
(徳川実記だと、加賀井重望は石田三成の刺客だったそうだが真偽は不明)

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 09:19:05.90 ID:8tZiaW+w
おーそれだ!

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 10:48:42.25 ID:5wqhA/F9
命がけの日々を送っていると
PTSDでおかしいやつらがそこら中に発生するんだね

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 11:41:27.73 ID:esA0ZeQ1
親兄弟が死んでる森長可のことですね

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 11:47:11.23 ID:0LMYINhw
政宗の父親や弟も悲劇的な最期を遂げてるから政宗がああなったのか

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 11:59:23.35 ID:SDvQUnR0
>>211
政宗の弟は政宗自身が殺したんだがな

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 18:32:22.20 ID:GQLxreIm
二本松義継「輝宗の死因は銃撃ですよね?」

「憎っくき今の言葉かな、思い知らせてくれん」

2016年02月02日 16:17

73 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/02(火) 10:13:31.55 ID:8nDx0e9s
>>68
の続き

この後勝成、乗乃助と名を変えて、毛利が家人、備中国の住人三村紀伊守という
三千石を領する人の家に行き、十八石の禄を受けて仕え、この国にて子息美作守をもうけた。
あらたまの春となり、三村が家に椀飯の事があり、饗膳をはり、茶を賜る事があったが
下様の人には及ばなかった。
勝成、さすがに昔を思い出し、どうにかして飲みたいと思ったので
茶を点てる童坊に近寄り、手をつかねて、事なさげに
「我にもお茶をたまわれ」と言うと、この童坊
「これはうえさまの人々に給はるもので、おこと等にまいることは叶わず」
勝成これに対して
「さればである。それゆえこうして望んでいるのだ」と言ったが
つれなく聞き入れられず
勝成「侍ほどの者に飲食の物にて恥は見せぬものだ」と言うと
童坊カラカラと笑って「おことも侍の数に入るのか、ああおかしい」と言ったので
勝成、大いに怒り、大の眼に角を立て、はたと睨んで
「憎っくき今の言葉かな、思い知らせてくれん」とつぶやきつぶやき立ち出でて
この童坊が茶の事終わりて帰る所を、ただ一刀にて斬り捨て
ここを去りて都を指して登って行ったと言う事である。

(藩翰譜)



74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/02(火) 13:36:56.89 ID:SLtLAPZq
水野勝成はほんと生まれる時代を間違えなかった

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/02(火) 14:56:38.29 ID:/5a0my5b
>>73
ただ、勝成に限らず戦国時代に侍を挑発すれば、切り捨てられてもまあ当然。

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/02(火) 21:41:31.05 ID:euXDDpox
これでも水野家ではまともな人だったわけだが

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 11:18:19.84 ID:zF8xJyop
>>73
勝成は水野側の資料(主張)がホント酷い。
例えば大坂夏の陣では後藤・真田・明石・薄田等
名だたる武将は全部水野家が討ち取り
越前松平、家康の窮地をも救って大坂城内一番乗りとかそういうレベル。
白石先生は藩翰譜でそういうホラ話は採用せずに淡々と記述してるが、その点はさすが。

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 19:39:36.83 ID:IZjFTMLJ
白石と羅山、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い

81 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/03(水) 19:43:52.65 ID:DQrJ04RJ
徳川家の半分は水野家のDQNの血統で出来てます。
特に越前家に濃く出てます。

82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/03(水) 20:02:37.17 ID:DQrJ04RJ
≫79
そんなの言ったら真田の方が酷いだろ
真田十勇士とか無茶苦茶じゃないか

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 20:56:53.62 ID:zF8xJyop
水野の場合は家伝、つまり藩の公式見解がぶっ飛んでるってこと。
松代藩の記録には十勇士が出てこないでしょ。

水野勝成は天正十五年

2016年02月01日 21:40

68 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/31(日) 20:46:40.25 ID:Kg5LzJi3
水野勝成は天正十五年、関白殿が筑紫に向かった時、肥後国に渡り
(都にて闘争し、人を討ったので肥後に行ったとも言う。本当であろうか?)
佐々陸奥守成政に仕えて、国人等が乱を起こした際所々の戦にて高名した。
成政が滅んだ後、小西摂津守行長に仕え(千石を領すると云う)
そこを出て(また人を斬って退去とも言われている)
加藤主計頭清正に仕えるが(千石を領すると云う)
またここも去って(ここにても人を斬ったと云う)
豊前の国へ行き、黒田甲斐守長政に仕えた(千石を領すると云う)。

長政が船に乗って大坂に上がる際、勝成を召し、帆柱にある縄を解けと命じた。
勝成は「自分は心が猛しと言えども、このような技に慣れていない。
これほど走る船の帆柱に登れとは奇怪な事を言う人だ」と腹を立てたが
断るのもさすがに口惜しと思い、帆柱に登り、縄を引き解いて下り
「このような辟事を言う主に仕えるに益なし」と
その夜、船が着いた所より立ち去った。
このような事であったので、畿内も九州も皆たたずむべき所がなくなり
備中国に隠れ住んだ。

(藩翰譜)



【雑談】あの水野勝成がまともとは

2015年12月31日 20:22

838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 16:52:09.97 ID:3blqlJbH
司馬遼太郎の城塞に書いてあったのだが
家康の生母である於大の方が
水野勝成が水野家相続の際に
水野家にやっとまともな跡継ぎができたと発言していた

あの水野勝成がまともとは水野家ってどういう一族なんだ

840 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 17:17:07.66 ID:fZ/Ev4YU
>>838
「水野家の尺度」でまとも、なのかもしれない

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 17:49:35.36 ID:rIuphc3Q
>>838
マッドマックス2て映画見なよ。あれ水野家がモデルの話しだから。

842 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 19:18:56.50 ID:3blqlJbH
投稿した本人だが
水野家の血筋とは恐ろしいな
徳川一族の血筋は松平家と水野家で出来てるから
松平家の短命な血筋と水野家の狂気な血筋で
よく天下を取れたな
越前家が思いっきりその血統を受け継いでいるな

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 20:11:34.28 ID:lHD2I5DJ
秀康の母ちゃんが於大の妹の子供という説もあるんだっけ

844 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 21:00:16.16 ID:gGSKT1AH
水野家って勝成以外
まともな死に方しなかったな

845 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 21:04:42.09 ID:gGSKT1AH
勝成以外の一族は悲惨だな
伯父や父親は暗殺だし
弟一族は不運過ぎるし
孫はDQNで切腹だし
88歳まで生きて畳の上で死ねた
勝成って強運だな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 21:16:39.00 ID:8T4/FNzT
五霊鬼「理不尽に勝成に殺された恨み、はらさでおくべきか
でも勝成を呪い殺すとあの世で酷い目に遭わされるからほかの水野氏を呪っとこう」

847 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/31(木) 22:35:08.24 ID:gGSKT1AH
勝成以外まとも死に方してないな
直系の一族も断絶だもんな
おまけで別家が1万石程度で残る程度だし

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 22:48:46.94 ID:9x5kbZ3m
>>845
水野一族の命運を見てると結局は斬ったもの勝ちなのかも知れない

863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/01(金) 22:53:54.49 ID:FCPabeuo
水野勝成って真田丸に出てくる可能性はあるの?

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 00:31:31.09 ID:HHIRukF0
大河板で聞いた方が良い

水野家の関ヶ原後の恩賞

2015年12月07日 14:24

87 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/06(日) 18:51:57.80 ID:pR+7aHjN
水野家の関ヶ原後の恩賞
関ヶ原後に水野勝成に対して加増はなかったが
水野勝成の弟2人に各1万石の加増があった。
関ヶ原の前年に徳川家康の仲介で水野勝成が水野家に復帰した
そして関ヶ原の直前に水野家当主である
水野忠重の暗殺によって水野家の家督争いが勃発仕掛けたが
丁度その時に関ヶ原の戦いになった。
水野勝成は関ヶ原の戦いに直接参戦せずに
大垣城攻略に廻された
その際に九州3武将の調略をして無事に大垣城を落城させ
父忠重の仇を倒した
その後の恩賞は勝成自身じゃなく弟2人に各1万石を与えられた
これは家康のファインプレーである。
この事により水野家の家督争いが無事に解決できたのである。



水野日向守は目薬をさすとき

2015年11月11日 08:30

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 18:16:23.03 ID:ZsdUPDCe
水野日向守(勝成)は目薬をさすとき、片目ずつさした。

(武功雑記)

何故これが逸話として残っているのか?というか昔の人は両目いっぺんに目薬したのか?



614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 18:21:55.75 ID:K0FucBaa
目薬の品質や毒が混ざってるかを警戒していたとかなんだろうか

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 18:42:06.37 ID:vJqyXwjv
両眼差して目をつぶってるときに何かあったら困るだろ。片方指して時間置いてもう片方指すんだよ!ってことじゃないのかにゃ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 18:52:22.27 ID:1N3bzgi5
ほかの四天王はどうさしたかな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 19:36:29.08 ID:2W+l2UW8
両目うるうるして視界見えないとやばいから片目ずつ時間おいたんだな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 20:20:57.69 ID:hL7p8s2L
そんな紛いモノはやめて我が家秘伝の眼薬を使うがよかろう
それと万々が一のために左手は空けておくがよかろうぞ?

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 10:18:17.79 ID:aIcu+Idj
そういや、かなり以前に業界誌にこんな話が載ってた。
ある人が眼を患い視力が落ちて来た。
と、そこへ「目医者でござ〜い」と1人の男が触れ回って来たので治してもらう事にした。
治療が始まると、なんとその男はいきなり眼球に針をブスリ!
あまりの痛さに悶え苦しみ、やっと落ち着いた頃には、その男は既にいなくなっており
その人の目は見えなくなったとか。
戦国時代の目医者の話だそうだ。

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 14:43:01.65 ID:ss8ii6li
ヒエッ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 16:21:50.01 ID:xLRzxji3
>>619
病草子にも描かれてる白内障の治療法だね
http://home.nms.ac.jp/page/magazines/ikikenko/byoukinorekisi/menotiryou.html

目の中の濁った水晶体に直接針を刺して破壊するリスキーな治療法で
古代から洋の東西を問わずあるよ。
音楽家のバッハやヘンデルも晩年この治療法を試して失明してる

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 16:34:38.66 ID:Z5vXwdXR
土生玄碩もシーボルトに、ベラドンナ(瞳孔を開くため美人ベラ・ドンナに見える薬)がないと
白内障の治療は危なっかしくて無理と言われたし
戦国時代じゃ仕方ないか

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 17:11:50.16 ID:Z6bkiv/M
>>623
バッハ、ヘンデルは同一のインチキ医者のせいで失明

水野勝成「ちょっと待ってくれ戸田殿」

2015年11月01日 13:14

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 20:04:57.97 ID:4yIZAUwm
寛永16年、島原の乱で幕府軍が一揆を攻めあぐねる中、幕府より松平伊豆守信綱が派遣された。
将軍徳川家光は、信綱を派遣するに当たりこう仰せ下した

「(水野)日向守勝成は名にし負う古兵である。彼ら父子が参陣するまでは、ただ遠巻きにせよ。
合戦をして兵を討たせてはならない。」

信綱は現地に到着すると、軍を留めて勝成の到着を待った。勝成はわざと日数をかけ、2月22日に
到着した。

同24日、幕府軍の諸将は信綱の陣に集まり軍評定を開いた。ここで戸田氏鉄進み出て、
「我らは将軍家から、相構えて兵を討たすな、謀を巡らせて城を攻め落とせとの仰せを承った。
である以上、このまま遠攻めにして城中の兵糧の尽きるのを待つべきだと考えます。」
これを聞いて信綱は勝成の方に向き、尋ねた「日向守殿のお考えを承りたい」

勝成
「今は天下一統の世となって、一揆の奴原に力を合わせようという者は一人もいない。
何の恐れることがあるだろうか?ただ面をも出させず、干し殺してやるに若くべからず。
大御所も昔高天神の城を、そのように攻められたものだ。
殊にこの原城は古よりの名高き城であると、この勝成が若いころ、鎮西に流浪した時に承っている。
あたら武士の命を、土民百姓たちのために失うというのは謀ではない!」

戸田氏鉄我が意を得たりとばかりに
「尤もです!敵の兵糧が尽きるのを待つべきです!」

ところが勝成、これを聞くやいなや
「ちょっと待ってくれ戸田殿、私が言っているのは、今日まで遠攻めして味方を討たせないようにしたのが
良い謀だ、ということだ。」

「は?」

「城の奴原は一揆が勃興してから、100日も立て籠もっている。ならば今はもう兵糧も矢弾も尽き果てて
いるだろう。であれば、この後一体何を待つというのか?

我らはただ平攻めに攻め破って、奴らを捨ててしまえ!」

こうして幕府軍は総攻めを行うことに決定したのである。

(藩翰譜)



水野勝成は天性凶暴な性格で

2015年10月31日 18:45


562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 19:21:19.42 ID:hj1CYVjj
水野勝成は天性凶暴な性格で、父の不興を蒙り、刈谷城を出て都にのぼり、六左衛門と名乗った。

世に伝わる話によると、勝成は父忠重の納所の役人を召して
「俺は我が家の嫡子であり、終には家を譲られる身である。父が持っている宝は、尽く我が物となるのだ。
お前たちも終には俺に仕えるべき身であろう?

それなのにお前たちが、ややもすれば俺に思う様に金銀を渡そうとしないこと奇怪である。
今後は、いかほどでも、何度でも、必ず渡すように!」

これに役人
「どうして仰せを背くでしょうか?ですが、大殿の御物をわたくしに奉ること、我々が罪を被るのは
物の数では有りませんが、貴方様がお咎めを受けるのをはばかって、お渡しできないのです。
どうか如何にもして、一度大殿の許しを得られたならば、その後は何度でも、仰せに従ってお渡しいたします。」

これを聞いて勝成は激怒した
「父に申すべきほどなら、おのれらにこのように言うものか!」
そう言うやいなや役人の首を打ち落とした。

その後、父忠重の気色、日を追って宜しからず、「このままでは俺も頸が斬られそうだ。」
勝成はそう思い、刈谷を逃げ出したということである。

(藩翰譜)



563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 20:46:22.08 ID:i/5n7PMX
海音寺潮五郎の「かぶき大名」のオリジナルになったくだりかな。
もっとも、小説で勝成は斬りおとした武士の首を、
慌ててすげ直そうとするんだけどw

水野勝成の晩年の話

2014年11月16日 17:27

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:55:51.83 ID:nF9hxvrC
昔の福山の漫画にあった、水野勝成の晩年の話。
備後福山藩士である本庄重政は家禄500石である本庄重紹(しげつぐ)の長子であったが、自らを1000石の器として家督を継ぐを潔しとせずに出奔した。
話を聞いた勝成は、自分の若いころと同様であるとして笑ってこれを許し、本庄家は次男が家督を継いだ。
出奔した重政は山鹿素行と親交を持ち、軍学を学んだ。その際、赤穂藩士と知り合う縁を持ったといわれる。
重政は砲術を極め、本庄流砲術として1000石で自らを諸藩に売り込んだが、時は既に元和偃武にて砲術による仕官は叶わなかった。
結局、後々の加増を条件に岡山藩の池田光政によって300石で仕えることとなったが、4年経っても加増を得られないことを不満に思い無断で出奔してしまう。
池田光政は激怒して方向構えの処置をとり、諸藩に書状を送った。
これを読んだ勝成は重政を心配し、十歳となる重政の長男を仕官させるという名目で1644年に重政を500石で呼び戻した。
1651年に勝成は死去するが、重政は1660年より赤穂藩の塩田技術を取り入れて備後福山藩の神村・松崎の端に塩田作成に着手。
7年の歳月を経てついここれを完成させた。また、同地への商人の招聘にも尽力したといわれる。
重政は沼隈郡・新涯奉行としてこの地に住み、本庄村と称されたが、後に松寿永年にちなみ松永と改名された。
現在まで続く広島県福山市松永町の由来である。

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:58:24.17 ID:nF9hxvrC
794の続き
勝成は、家臣を思いやること非常に篤く、病の家臣は自ら見舞ったといわれる。
また、藩士が自藩を辞めて他家に仕官しようとする際、問い合わせがあった際には
「私に力がなく、待遇を思い通りにしてやれなかった。しかし大切に召し使えばきっと役に立つ男です」と返書を書いたといわれている。

備後福山藩では当時としては珍しく藩士に旅行の自由が認められており、
届け出さえ出せば西は宮島、南は屋島、東は京都・大阪・奈良・堺・伊勢神宮まで旅行ができた。
帰国した藩士が土産を持って拝謁した際には、勝成はその無事を喜び、みやげ話を聞くのを楽しみにしていた。
このため藩は非常によくまとまり、目付と法度無しで国が治まっていた。
目付や法度無しで国が治まっていることを池田光政が不思議がっていたという記録が残されている。



797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 04:56:37.18 ID:fHBYzz2q
この塩田って埋め立て新田のほう?製塩の方の塩田に7年もかからんよな

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:45:04.16 ID:74yGtwhj
最終的に1000石にはなれたのだろうか

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:59:04.65 ID:8FmGoyBr
戦国は終わったのだし1,000石時代は遠くになりにけりってオチだと思う

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:24:08.86 ID:nF9hxvrC
>>797
製塩の方の塩田ですが、埋め立てて作ったそうです。
干潮時しか工事ができなかったそうで、難工事となったと思われます。

ちなみに完成した水路が木材の搬入に便利であったことから、
後に松永はゲタ生産でも有名となります。
その縁で、私が子供のころは日本で唯一のはきもの博物館がありましたが、
今調べたら閉園してた…orz

>>799-800
すいません、最終的に1000石いったかどうかは分かりませんでした。
弟が継いだ分と合わせると、本庄家全体では1000石ですね。
まあ、家督を継がずに出奔して、また500石で召し抱えてもらったんだから御の字かと。

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:29:44.18 ID:nF9hxvrC
ちなみに上記の話は、「まんが物語福山の歴史」(啓文社)という本にありました。
もともとは上下巻で出版されていたのですが、一冊にまとめて2011年に再販されたみたいです。

水野勝成の人生と福山の開発に焦点が当てられた本です。
晩年の逸話なども含まれており、大人となった今でも十分に読める内容でした。
熱心な勝成ファンでしたらぜひ購入をお勧めします。

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:27:39.59 ID:fHBYzz2q
>>805
無知ですまんかった、この人その辺の地区の始祖な人だったんだな
猫の額みたいな塩まみれの土地に戦略港湾作ったようだ。こりゃ7年かかるわ
ちず

何か子孫は重政の死後早々に口実つけられて追放とか言う記述があったんだが、事実なら悲しい・・・

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:51:43.37 ID:nF9hxvrC
>811
面白い画像をありがとう。
もと福山市民として興味深く見せてもらったよ。

子孫は追放ですか、確かに事実なら悲しいなぁ。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 22:00:50.60 ID:njtJOn+k
>>811
一番右の入り江に目が行ってしまう
藁江よ。藁江ばいいさ


袖乞いの牢人

2014年10月30日 18:43

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 21:34:23.93 ID:KGer5jbZ
水野日向守(勝成)の家臣であった某は牢人し、その後困窮したため、袖乞いをしようと思い、
鍛冶橋御門の外を通り過ぎると、知己である兼松弥五右衛門に出会った。

しかし牢人某はこの時編笠をつけており、顔が見えなかったため兼松は相手がだれか解らなかった。
またこの某は笠の下から見て兼松だと解ったが、名乗らずに、彼の供の者の袖を引き留め言った

「私は御覧のように尾羽打ち枯らした牢人であり、今日をも送りかねる者です。
どうか、御救助願い奉る。」

兼松はこれを聞くと

「宿であれば救助の仕方もあるのだが、出掛けの途中であり心に任せぬ。
さりながら私を見かけて乞われたのは大慶である。」

そう言って懐中より金入れ袋を取り出し、中も見ずそのまま鼻紙に包んで
「心には任せぬながら、これを」
そう言って渡すとそのまま歩いて行った。

牢人某は袋の中を改めてみると、金が14,5両、銀が10ばかりも入っていた。
某はその中から三分取り出し懐中に収めると、残りを持って兼松を追いかけ、供の者に渡して

「私が今必要なのは三分で足ります。残りは道中の御用に返上いたします。」

兼松は「いや、これは全てあなたが持たれよ」と言ったが、まるで聞かず某はそのまま走り去った。

この牢人某は尾張町に居住していたのだが、借家賃の滞りが三分あったのを、この日兼松より貰った
三分をその夜大家に持って行って返済した。その後、どこかへと行方知れずとなった。
おそらくは遁世したのであろう。

身は零落するといえども、心は清白なる牢人であると、近辺の者達は彼をそう賞したという。
(明良洪範)




勝成、一代の不覚

2014年10月02日 18:52

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 20:38:13.25 ID:i9ZSPCrP
水野勝成が放浪していた壮年の頃、佐々成政の元に居た頃、佐々の家臣に阿波鳴門之助という壮士があった。
彼は度々戦功を成した者であり、その戦功を他人は『越すに越されぬ』という心でその名を付けたと言われた。

水野勝成はそれを聞いて大いに腹を立て、合戦の有る時に鳴門之助に対面して

「貴殿の名は越すに越されぬという心で名付けられたと聞き及びました。明日の合戦、
越せるか越せないか、私と貴殿とで先陣を争おうではありませんか!」

鳴門之助これを聞くと
「それは皆、そんなことを言っている者達の誤りです。私の名は祖父より受け継いだものであり、
貴公の言うような意味ではありません。その上貴公の武勇は比類無いものですから、私ごときが
先陣を争うなど、到底及びの付くことではありません。ですのでその事は、どうか御免下さるように。」

そう自らを下卑した。勝成はそれでも食い下がり、何度も先陣争いを求めたが、硬く辞したため
ついに「この上は」と諦めた。

その夜子の刻(午前0時頃)、鳴門之助は密かに勝成の陣屋に人を送り伺わせ、気が緩み
油断しているのを確認すると、そのまま単騎出陣し敵陣に馬を一文字に乗り入れ鑓を合わせた。

が、当然ながらたちまち多勢に取り巻かれ、数カ所の傷を受け、終に息切れて倒れた。
そこで敵兵が首を取ろうとした、まさにその時、佐々成政の総軍が押しかかった。
これにより敵も首を取らずに引き返し、鳴門之助は従者が肩に担いで自陣へと戻り、幸いにも
蘇生した。

すると鳴門之助は勝成の元へと使いを立てこう伝えた

『今日の合戦の先陣はきっと貴公であった事でしょう。』

勝成はこれに甚だ面目を失い、後年に成っても「あれはこの勝成、一代の不覚であった。」と
人に語っていたという。

(明良洪範)




426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 20:40:47.97 ID:9IR4zcwC
ろくでなしがいつものノリなのはともかくこの人もこの人で戦闘マシーンだったw

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 20:57:47.30 ID:UwA7Wa/z
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5514.html
同じ話だが出典は違うか

日州は捨て殺そうといたされた

2014年07月16日 18:53

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/15(火) 18:29:38.99 ID:yHmW1y3I
丹羽式部(氏信)は大坂陣の時に大和組の中におり水野日向守(勝成)
の一手だった。式部は手勢三百人ほどで味方から十二、三町も離れて
深入りした。

松倉豊後守(重政)はこれを見て、「式部は必ず討ち取られるだろう。
同勢の際まで退かせられよ」と日向守に再三言ったのだが、日向守は
許容しなかった。しかしながら、敵勢も退いたので式部は無事だった。

後までこの事を豊後守は人に語り、「なんとまあ、大坂で丹羽式部を
日州は捨て殺そうといたされた」と言ったそうである。

――『武功雑記』




679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/15(火) 18:52:59.57 ID:KJkHmawm
水野勝成の薄情な話ともとれるし松倉重政に戦術眼が無い話ともとれるしどっちなんでしょうかね

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/15(火) 22:44:59.85 ID:5cYWamN6
この頃まではきれいな重政だったか

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/15(火) 23:14:14.60 ID:qqeMSKfX
幕府に大事な収入源の海外貿易を禁じられ、さらに幕府のルソン攻略を睨んで城造りをした結果があれらしいが

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 00:18:45.50 ID:JM2+t/YI
島原へ行くまでの彼は心優しい素直な武将でした

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 11:18:48.21 ID:GJ0XaPYX
>>681
攻撃すんのに城造りする必要あんの?
大概籠城の備えに映るんだが。

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 12:46:43.31 ID:4hbc6oyL
>>685
名護屋みたいな位置付けなんじゃないの?

ところが、三郎兵衛は嘲笑って

2013年09月25日 20:10

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 23:49:21.62 ID:l1i8co3u
水野勝成は福山在城の後、かつて軍術を学んだ三郎兵衛を迎えて政事の輔佐を頼んだ。
ところが、三郎兵衛は嘲笑って、

「貴殿の骨相が普通ではなかったから、百万石、五十万石にも立身するだろうと思い、
奥秘を残さず伝えたというのに、わずかに十万石止まりでしかないのは、
以前から臆病なうえに、人を殺すことをお好みになったからであろう。

過ぎたことはどうしようもないから、今後はお慎みになるべきだ。
私が頼りにされて国の世話をするべき人は、日本に一人か二人しかいないのだ」

と言うと、立ち帰ってしまった。勝成はこういう事にはよく腹を立てる人だったが
その様子も無く、三郎兵衛が存生のうちは時々使いを立てて見舞い、品物を贈ったという。

三郎兵衛は姓名や出身を人に語らず、また知る人もいなかった。
あるいは、かの『どちへんなしの三郎兵衛』(天野康景)ではないかというけれども、
藩翰譜を按ずると年月が食い違う。

この三郎兵衛は野山を眺める時も、人と物語する時も必ず一つの石に腰掛けていた。
『三郎兵衛の腰掛石』といって今もなお存在するという。

――『福山志料』




189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 10:10:55.35 ID:6c8NSRy8
譜代大名で10万石ってトップクラスだよな。

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 14:18:09.94 ID:WhZ0MgL4
譜代と言うかは微妙だけどな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 14:32:22.33 ID:XdIp9GC7
微妙じゃないし

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 14:36:15.79 ID:3sKlWNHh
まあなんだかんだで真田家も譜代大名だしな

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 14:53:17.24 ID:BRZXy2yT
信之は関ヶ原前から徳川の与力大名だったから当然では

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 15:06:39.26 ID:9mi7qrGd
水野は織田、徳川の境目の領主だったから昔から立場が微妙なんだよね。

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 16:07:16.89 ID:RD6s5O5p
おにいちゃんの嫁は本多忠勝の娘でタヌキの養女だしな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 16:18:08.13 ID:/Kc9jkdR
養女ねぇ…

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 16:40:33.39 ID:o2VYhpW8
本当に育てたってわけじゃなくて、
家康の娘として嫁がせたってことだから

家康に限らず、部下の娘を一旦養女にして結婚させるのはよくある
家康自身の嫁さんだって義元の娘ということで嫁いできたんだし

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 19:52:06.65 ID:fqlUL/C/
養女にして嫁がすというのは…
俺の妄想だけど、本当に自分好みの女がいて、一緒になりたいのに身分が…という時の手段のような気がする。
後見人や諸事情を考慮しても丸く収まりそうだし。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 20:12:53.05 ID:Jm6B8kBf
幼女?

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 20:52:35.53 ID:9mi7qrGd
養女にするのは箔付けですね

左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得

2013年09月24日 19:52

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 21:26:46.25 ID:0NWEFxX1
長久手の合戦の時は、卯月九日に小幡を打ち出ました。
その時私(水野勝成)は眼病を散々に患い、そのため兜を付けていませんでした。
それを父の惣兵衛(水野忠重)が見て

「お前の兜はなんのためにあるのか!?こういう時に着けるための兜であるのに、どうして着けないのか?
それで一体何の役に立つというのか!!
そういうことなら使わぬ兜はクソ桶にしてしまえ!!」
(其方か甲ハ何の為に候哉、此時着可申ための甲にて候に、何とて着不申候て何の役にたて申候哉、
左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得)

そういって散々に叱りつけました。私は惣兵衛に

「親だと言ってもそんな言い方は無いでしょう!今日オレの頭を割られても、それはそう言う
運命だったってことだ!是非に及ばぬ事である以上、たった今お暇乞いをいたします!
今日の一番首でも取って…、いいや取ってくる!!」
(親にて候得共左様之御意は無御座事にて候、此上は今日拙者のあたまをわられ申候は則時にて御座候間、
不及是非然上は、只今御暇乞にて御座候、今日の壱番首を取申候歟被取申か)

と言い捨てて馬を引き寄せ打ち乗り、その場から直に敵陣に乗り込みました。
(水野日向守覺書)

有名な話ですが、水野勝成の記憶では、兜をウンコ桶にしろとまで言われていたのですねw




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 22:43:39.66 ID:BsOf9FDc
山岡荘八の徳川家康でとりあげてた気がする。クソ桶

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 23:46:14.55 ID:u/H0gC+0
似たもの親子www

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:28:34.93 ID:/ygDX1AN
クビ切り落としてクソ流し込むぞ
とか言わないだけどっかの軍曹よりはお優しい

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:40:55.45 ID:uVVo617r
荒木道糞「俺はもうひでぇクソだぜ」

水底にいたそれは

2013年09月24日 19:51

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 18:21:33.92 ID:l1i8co3u
水野勝成が備中吉井村にいた時、三郎兵衛という人がいて勝成はこの人に従って軍術を学んだ。

ある時、三郎兵衛は鮎を取りに行って勝成もこれに伴った。この時、物が網にかかって
引いても離れなかった。勝成が淵に潜って探ってみると、何か毛のあるものが手に当たったので

勝成は出て来て三郎兵衛にしかじかと告げた。今度は三郎兵衛が潜って引き出してみると、
水底にいたそれは死んだ子牛で、その足に網がかかっていた。

――『福山志料』




381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 18:56:16.29 ID:SPCcdel0
これだけ?
その死んだ子牛が生き返って海老すくい踊りだした、とかないの?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 19:41:51.01 ID:l1i8co3u
>>381
この話はこれだけ
今思ったけど子牛を引き出した三郎兵衛マジ怪力という話…なのか?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 22:53:30.76 ID:M//NfNzX
三郎兵衛マジ水練が上手という話…なのか?

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 04:56:00.93 ID:6FNXoKkA
いい話のほうとセットにしたほうがいいような気も

水野家の家風

2013年09月13日 20:24

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 09:17:32.35 ID:FJ+vx4u1
まとめに載ってる話の別バージョンを見つけたので

水野家の家風

岡崎城主水野忠善は、朝は4時から5時のあいだに起き、冬は自分で氷を割って頭を洗い髷を結う
明け六つの太鼓を待ち構え乗馬訓練。毎日2、3頭は乗りこなし
質実剛健を合言葉に、家中にも厳しく武芸の訓練を言い渡した

ある日、名古屋城の掘端を、深編笠の不審な男が、しきりに城の様子を探っていた
鉄砲玉を結びつけた紐を掘りに投げ込み、大胆にも堀の深さを測り始める
それを見た徳川義直は怒鳴る
「こんな大それたことをする奴は、岡崎の忠善しかおらん!何者であっても打ち殺せ!」

忠善は、岡崎までの道中に用意しておいた七頭の馬を乗り継ぎ
追っ手を振り切って一目散に逃走
岡崎城の大手門を通り抜けようとした時
「何者だ?待て!」と門番の武士が追いすがり、たてがみを掴んだ
忠善は構わず馬を走らせ、門番は引きずられながらも手を離さない
二の丸近くになって、主君と気づき手を離した門番に
「下馬所まで手を離さなかったら、百石ほど増してやったのに」
と流れる汗も拭いもせず、のたまったそうだ。

--『岡崎の歴史物語』より--

大手門から二の丸まで1km弱あるんだが…




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 10:04:09.96 ID:sbwWR3sQ
名古屋城を探るって何を考えてたんだろ?
それも城主の目の前で。

313 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/13(金) 11:59:23.41 ID:WzibEuwq
水野忠善が堀を測る話は、池波正太郎の『戦陣眼鏡』って短編が好きだな。
戦が終わった時代に産まれた殿様の哀れさというか、かわいさというか、そんな感じがよかったなー。

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:27:33.25 ID:72lGd9ja
この頃にはもう御三家なんて将軍家から見ると逆に安心出来ない存在になってたんじゃないだろうか

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:32:27.55 ID:dJ/wW2me
尾張と紀伊は覇気に満ちた性格してるしなw

水野勝成、治療する

2013年07月14日 19:12

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 17:54:58.86 ID:E2EHQAbj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7686.html
こちらに出で来る廣田図書とたぶん同一人物

 水野勝成の家臣に広田儀太夫という者がいた。
 小身で右筆をしていたが、道明寺の戦いで敵の勇士と戦い首を獲って勝成に見せた。
 勝成が歓喜しているところに、儀太夫は何を思ったのか
「失礼だと思うのですが申し上げます。明日の戦いでは側近くに置いていただけないでしょうか」
 と願い出た。勝成は儀太夫の心中を察して側近くに置いた。
 さて、また当日に戦いがあり敵の隊の一つが水野軍の旗本に突撃してきた。
 儀太夫は一番に敵と槍を合わせて討死した。
 勝成自身が槍を振るうほどの状況になったが、やがて水野軍に加勢が来たため敵は退いていった。
 勝成は儀太夫が勇ましく討死したのを不憫に思い死体を確認すると多数の槍傷で体中が真っ赤に染まっていた。
 あまりに不憫に思った勝成が、笄(こうがい、刀の鞘に挿しておく、金属性のへらのようなもの)で儀太夫の口を開けて薬を飲ませると息を吹き返したため急いで医者を呼んで治療させた。
 治療の甲斐あって儀太夫は助かり、有馬温泉での湯治で完治した後に大加増され家老となり広幡図書と名を改めたという。『勇士物語』


 ちなみに水野家を代表する家老に広田図書という人物がいる。
 若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
(戦国武将データファイル99より)

 さらに余談として勝成は、家臣が病気になると、自ら薬を届けた逸話があるが
 勝成は当時、平戸に来る中国人との貿易を行っている(小場家文書)ので漢方薬が入手できたと思われる
 と『福山開祖・水野勝成』に書かれている