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目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!

2021年12月25日 15:20

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 10:42:29.69 ID:VAMcHqsE
或る本に曰く、大阪冬の陣、今福の戦いにおいて佐竹義宣の軍が難儀に及んだ時、後陣に控えていた
堀尾山城守(忠晴)に援兵を要請した所、堀尾は「心得候」と返答した。
この時、幕府の御目付である安藤治右衛門がこの場に在り、堀尾に「(幕府の)御下知も伺わずに
人数を出す事、然るべからず。」と申し上げこれを制した。しかし山城守は

「御下知が無いからと言って、目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!」

と、その勢二千計りを左右にして、勝ち誇っている木村重成の軍勢の所へ、会釈も無く駆け入ろうとした。
ところがその場は堀越にあり、駆け合う事は出来ず、彼等は徒に合戦を見物するのみであった。

堀尾はこの年十六歳にて、天下無双の美男であったと云われる。

新東鑑

堀尾忠晴、見物なんて出来ない!と言って出撃したのに結局見物してしまったというお話



256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 14:26:31.47 ID:HufBNS07
この後のイケメンが気まずそうにしてる顔が見たい
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信濃守が参った時には、合戦は既に

2021年04月04日 17:13

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/04(日) 14:27:56.52 ID:gauDwLhU
(関ヶ原の合戦の時)堀尾信濃守(忠氏)は大垣の押さえに置かれていたのだが、御合戦と聞いて
関ヶ原へ駆けつけた。彼は旗を二つに分け、夫に馬上の者を添えて、大方の早道程に急いだ。
馬上の者が三百ばかりもあっただろうか。

小雨が降り、霧は深く、人馬の息は煙のようで、旗は少し見えたが、馬上の物の具、指物は全く
見えず、轡の音、馬の足音ばかり聞こえた。
旗は黒地の折掛に、上に白い分胴があった。

鑓鉄砲、弓持ちといった歩行の者達は殆ど見えず、御本陣へ遠々と備えを立てた。

信濃守が参った時には、合戦は既に過ぎていた。

慶長年中卜齋記



許可しなかった理由

2017年07月14日 21:24

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/14(金) 21:21:52.34 ID:cbMwyOMP
小田原の陣の時、秀吉が三島に陣を据えていた折、堀尾帯刀(吉晴)が、山中城の出丸を乗っ取りたいとの
望みを申し上げたが、秀吉は許可しなかった。それでも堀尾は是非にと申し立てたが、やはり許さなかった。

秀吉が堀尾に許可しなかったのは、たとえ出丸を取ったとしても、結局は本丸を直に攻めなければ山中城を
攻略できないと見きったためであり、またもし許したとしても、堀尾が出丸の攻略に失敗すれば、それは
秀吉の構想が狂うことに成る故であった、という。

(士談)


松江城のギリギリ井戸

2016年12月16日 08:07

423 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/16(金) 06:13:05.59 ID:cGxjSaEe
松江城のギリギリ井戸

堀尾吉晴が松江城を築かせている最中、表鬼門に位置する石垣だけは何度石を積んでも崩れてしまい、工事が終わらなかった。
吉晴がその場所を掘り返させ徹底的に調べた所、そこから一つの頭蓋骨とそれを貫く錆びた槍の穂先が見つかった。
吉晴はすぐさま神主を招いて二夜三日に渡る大祈祷を行って頭蓋骨を供養した所、以後障りなく石垣造りが進んだと言う。
また、頭蓋骨を掘り当てた場所からは澄んだ水がこんこんと湧き出し井戸となり、この時掘った形が頭のつむじの形に似ていた為、当地の方言でつむじを意味するギリギリからギリギリ井戸と呼ばれる事になった。



松江大橋の人柱

2016年12月16日 08:07

424 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/16(金) 07:00:23.69 ID:cGxjSaEe
松江大橋の人柱

松江城築城にまつわるもう一つの人柱伝説。
関ヶ原の功で雲州に入った堀尾吉晴は月山富田城に入ったものの、城下町形成の為平地にある亀田山の末次城(現松江城)へ本拠地を移城する事を決意。
月山富田城を解体して資材を運ぶには大橋川を通らねばならなかったが、当時はカラカラ橋と呼ばれる竹造りの小さな橋しか無かったので、木造の大きな橋を架ける事になった。
が、洪水や事故などの為工事は難航し、例によって人柱を立てる事に。
人選はこの翌日、一番に橋を渡る者でマチの無い袴をはいた男(横縞の継ぎをした袴という説も)を人柱にすることと決め、その日の朝に運悪くその姿で橋を渡ったのが、足軽の源助だった。
源助は捕まり橋脚の下に埋められ、その甲斐あってか橋は完成、その後、大橋の中央の橋脚を「源助柱」と呼ぶようになったという。
また異聞もあり、人柱を立てる事が決まり人選について皆が悩んでいた際、源助と言う足軽が
「明日、下駄を履いて橋を一番に渡る者を人柱としよう」
と提案。翌日、その姿で真っ先に橋を渡ったのがこの源助当人で、彼は誰もがなりたがらない人柱の役を自ら引き受けたとも言われる。

425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/16(金) 07:11:56.86 ID:cGxjSaEe
ちなみに、このマチの無い袴と言うのは
「まち」がない袴を「行灯袴」と呼びおもに下級武士や足軽が用いたもので、現在は女子が用いる袴はすべて行灯袴であることから「女袴」ともよばれる。
http://i.imgur.com/OzaHeU6.jpg
http://i.imgur.com/6aUvzxK.jpg
OzaHeU6.jpg
6aUvzxK.jpg

万一偉いさんが通っても人柱にならない様に配慮したってはっきりわかんだね




「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」

2016年08月22日 12:39

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 03:26:52.13 ID:hhsYaD5R
堀尾信州(忠氏)は23歳で関ヶ原陣を勤めなさって功があった。
信州は帰陣以後に出雲・隠岐を拝領した。

信州は自らの縄張で城を築き、父・帯刀(吉晴)の後見を受けず
して完成させた。

信州が言うには、「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」との
ことであったが、ひとつの過ちも無かった。

その信州は26歳で死去した。

――『武功雑記』



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 08:12:16.67 ID:+u2AfNLo
人柱の祟りですな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 04:34:45.80 ID:WpCl8dTq
段階踏んでどーこーじゃないよっての
いい例なんだよね実際

水野忠重謀殺と堀尾吉晴

2013年08月28日 19:53

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 18:43:14.87 ID:vQh5f4kg
上杉征伐の時、徳川家康から石田三成と北国上方の様子を注進せよと命じられた
堀尾吉晴は、越前国に向かう途上で三河国池鯉鮒に至った。

時に水野忠重は吉晴と信友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。
この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。

日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。すると突然、秀望は忠重を斬殺した。
太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。事態に気付いた忠重の
家臣達は刀を振るって吉晴に向かって来た。

吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、
堀をつたって逃れた。吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。

忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。
これを聞いて徳川秀忠は「吉晴と忠重の二人に限って逆意を企てるはずがない」と言ったが、

日あらずして飛脚が来たり「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。
それには『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える』と
ありました。ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです」と報告された。

よって吉晴の子息忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、家康も吉晴に御書を与えて、
その傷を見舞った。

――『寛政重修諸家譜』





吉晴はそのように深く感じ入った

2012年09月26日 20:29

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/26(水) 00:10:22.99 ID:wMkph5TO

山崎の戦いの際、堀尾吉晴の家臣・則武三太夫は首を取って
吉晴の前にやって来た。

「おお三太夫、思ったよりもやりおったな」

(思ったよりも…?)

吉晴の言葉に怒った三太夫は首を持って進み寄ると、

「こんな時には大将の目も暗くなるものですな!
則武三太夫が取りし首をもっとよく御覧になられよ!」と、吉晴を罵った。

三太夫の非難に吉晴も怒ってしまい「憎い奴め!」と言うままに
三太夫を斬りつけると、三太夫の兜の星が削れてしまった。

すると、三太夫は一直線に敵の中へと馳せて行き、またも首を取って
帰って来た。吉晴は「絶対に三太夫は討死しただろう」と悔やんでいたので、
三太夫の帰還を大いに喜んだ。

「とにかくお前を誉めようと思うあまり、つい『思ったよりも』
などと言ってしまった。剛の者にかけるべき言葉ではなかったよ。
私の過ちではあったが、お前の二度の先掛けは誰よりも大いに勝っているぞ」

吉晴はそのように深く感じ入ったという。

――『名将言行録』

なお元ネタは常山紀談の模様。




640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/26(水) 00:56:56.70 ID:jWnoSq73
先の>>572堀尾吉晴が武勲を子どもに言わなかったのは、こういう失敗がいっぱいあったからなのかw?
間違いを認めて正すのは美徳だけどね。

堀尾吉晴は深く慎み

2012年09月23日 20:40

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 18:22:07.02 ID:BpCeoGsi

堀尾吉晴は十六歳より従軍して四十年あまりの間に大小の戦に臨み、
自ら先駆けて多くの敵を討つこともあれば、士卒を下知して城を落とし、
陣を破ることもあった。

しかし、吉晴はそれだけの武勇がありながら深く慎み、子息にさえ
己の武勇を詳しく話そうとはしなかった。それでも自然と世に知られた
高名は二十二度といわれる。

ある人が吉晴の子・忠氏に吉晴の武功について尋ねた。忠氏は父の武功に
ついて詳しく知らなかったので答えなかった。

この時、その人が「この道の嗜みがないから知らないのだな」という様子
だったので、忠氏は深く恥じて、吉晴に大坂貝殻塚を一人で取った時のことを

教えて欲しいと言った。吉晴は答えなかったが、忠氏が他人にその道を
好まないのだと思われたくない一心で重ねて尋ねると、ようやくあらましを語った。

親子の間ですらこのようであったから、他人に語ることはなおさら無かった。

――『名将言行録』




573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 18:43:07.33 ID:h3S9/X5f
堀尾吉晴って名前自体が温和な雰囲気あるよな。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 18:45:11.51 ID:OMEEsOQL
謙虚さがより武名を高めたいい話
現代でも自分から武勇伝話す人は大体ハッタリ気質だよなw

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 18:59:00.04 ID:4Cw0SdeS
謙遜は美徳かもしれないが、
黙ったまま死なれると子孫や歴史家は困るんだよ。
ある程度の政治家や軍人は回想録ぐらい書いておいてくれ。
公開は死後でいいから。

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 19:09:33.54 ID:OMEEsOQL
>>575
たしかに歴史家は困るな
子孫は知行の面ではその通りだけど、
先祖の武名が高いと比べられたり同輩からの嫉妬で苦労しそうではあるかな

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 19:19:57.86 ID:QuUwL04t
仏の茂助と呼ばれてるけど、山内一豊の例のやつにも切れなかったのかな...(´・ω・`)


578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 22:30:21.21 ID:aXDYE3V/
普段は凄く物静かなのに、ハンドル握ると人が変わるみたいな


579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 01:28:56.19 ID:yjCdr72Y
>>577
土佐に移ってからも両家には行き来があったらしいし
特にキレなかったんだろうね…えらいね…
もともと、それだけ仲良しだったってことなのかもしれないが

「私の見立てに狂いはなかった」

2012年09月11日 20:33

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 18:36:57.61 ID:kKNGOlHu

岐阜の役の時、堀尾吉晴の子・忠氏は戦功を立てた。
吉晴はこの日の勝利の報告を聞き、首帳を見たところ、
「首一つ、十五歳、山田多門兵衛」とあるのを読みも終わらず、

「近頃まで竹馬に乗っていた童がもう功名を立てたかぁ。
父親が存命ならどれほど喜んだことであろうか…」と涙を流した。

また「梯子権八の功名が記されていないのは何故だ。
討死したならともかく、功名については上から三番目以内に
入っているはずの者なのに」と怪しんだが、やがて飛脚がやって来て、

「権八は一番に続いて首を取りましたが、手負いのために
首帳に記すのが遅れました」と告げたので、

「私の見立てに狂いはなかった」と言ったということだ。

――『名将言行録』





豊臣秀吉は堀尾吉晴に曰く

2012年08月27日 20:51

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 21:10:25.62 ID:AeQrmEyE

小田原の役の後、豊臣秀吉堀尾吉晴に曰く

「わしが藤吉郎と名乗っていた頃から、お前はわしに仕えてきたが、
数度の戦場を経験して、今までに一度も負けたことがないな。

今、わしは天下の主宰となり、最高の地位についた。
それはひとえに諸将の粉骨砕身によるものだ。
しかし、その中でもお前の功労は万人に勝っている。

その昔、源頼光には四天王がおったが、お前はわしにとっての四天王だ」

そのように言うと秀吉は吉晴を浜松城に封じたという。

――『名将言行録』




244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 21:23:18.35 ID:vKQcB3K3
羽柴四天王とは何だったのか

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 21:29:54.74 ID:HGSRZv5C
1人で四天王は新パターンだな

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 13:56:45.10 ID:zECnmT/a
そして浜松城は権現様に

松江城普請の記録

2012年02月29日 21:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 17:48:17.35 ID:DN5SVbqq
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦功として出雲を賜った堀尾吉晴月山富田城に入る。
翌年、吉晴の嫡男・忠氏並びにその家臣たちは、島根郡末次郷の極楽寺山を見立て、ここに新たな城を
建設する計画を立てた。

ところが忠氏はにわかに病に侵され、ついに逝去する。忠氏の子、忠晴は未だ10歳にもならなかったので、
この新城築城は中断された。
これを見た堀尾吉晴は家老たちにこう宣言する

「忠晴は未だ稚く、私はすっかり老いてしまった。そして新城を築くことは忠氏の志であり、
父が子の志を継ぐというのは順ならずと言うものである。
しかしこれらは全て私の為のことではない。天下のための事業である!新城築城を止めるべきではない!」

そして建築地を見てまわると、そこでは古より、宇賀ノ宮三所の荒神を祭っており、亀井田村(今の亀田村の事だろうか)、
奥谷の民たちによって春秋の祭りが怠らずに行われ、五穀の成就を祈り奉っていた。
彼らは吉晴に、この神をどうか他所に移させて欲しい、と伝えた。吉晴は「誠に然るべきことではあるが神慮のほども
測りがたい」と、この地の社司・門脇肥前定久を召し、神慮を聞かせ鬮を伺うと、3度まで鬮が当たったので吉晴は大いに喜び、
吉日を選んで宇賀ノ宮三所荒神を、亀田村奥谷の春日大明神のそばに移し、今に至るまで春秋の祭りは怠らないという。

また、築城予定地には巨大な榎があって、これも荒神であると言われていた。またそこは、大人塚といって
古代の人の物だという塚があったのを整地した土地でもあったためか、色々怪異の事が多く起こり、築城工事も
滞った。そこで意宇郡蘆高の神職・松岡兵庫に命じて祈祷をさせ、荒神は島根郡法吉村に移し、大人塚は同郡一成村に
移して、今宮と号し祭った。

その後三日二晩にわたり地割の祈祷を行った。今でも本丸において毎月二十八日に祈祷をするのはここから来ているという。

慶長12年に普請が始まり、同16年までの5年間の工事により、ついに城は完成した。
そして城下の末次、白潟の二邑をもって『松江』と名付けた。この理由は、外国の呉という国に松江という場所があり、
そこには鱸という魚と、ヒ菜という水草があって名物なのだが、これらが城下の宍道湖にもあって同じく名物であったため、
ここを松江と名付けた、と伝わっている。

この松江城は、湖から東西南北に堀を掘り入れたため船の走らないところはなく、往来自由でしかも後ろに高山を控え
前に大湖をたたえ、まさに天険の要害であった。

ただ、この城は外郭が未だ完成する前に吉晴が死去し、忠晴が家督を継いだといっても未だ幼年であり、
また幕府から特にこれといった仰せもなかったので、外郭の総門、木戸などは未完成のまま、今に至る。
(雲陽志)

出雲らしく、神々に気を使いながら築城したことの解る、松江城普請の記録である。




103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 18:27:50.78 ID:1PP4EUDD
>>101
松江築城の時に人柱にされた娘が『この城をよこせ~』って言って化けて出て来るのに困った
後の城主の松平何とかさんが

つ コノシロ(魚)

でズバッと解決したなんて話もあるなw

それはさておき松江城いい城だよね、実戦的でいかにも茂助さんらしいというか


104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 21:22:38.27 ID:/B7S0P0A
松江歴史館の説明だと、要害に築城しようとした義晴と平地に築城しようとした忠氏が対立してたけど、
忠氏が死んだ後、義晴が忠氏案を採用して今の場所になった、とのことです。

http://www.matsu-reki.jp/

堀尾吉晴「もし秀次が出頭を拒否した時は」と問われ

2012年01月02日 22:01

221 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/02(月) 01:56:32.34 ID:/iIKiTgO
1595年、豊臣秀吉は謀反を噂されていた甥で関白の豊臣秀次に出頭を求める事ととし、
堀尾吉晴前田玄以らにこの事を伝える使者に任じた。この時、吉晴は秀吉から

「もし秀次が出頭を拒否した時はどうするか?」

と問われ、これに吉晴は

「ご安心ください。適当に処置しましょう。」

と返答。もしもの場合は秀次と刺し違える覚悟を見せた。それまでにも自分の為に幾度も吉晴を
命の危険にさらしてきた
秀吉は、この言葉を聞いて涙ぐんだという。そして秀次の元に向かう途中、吉晴は

「用事がある。」

と言って玄以らを先に行かせた。そして吉晴はなじみの店に顔を出すと、

「もし自分が帰らなければ、注文した品の代金は払えなくなるが、その時は息子の忠氏に請求するように。」

と伝えたが、最終的に秀次は吉晴たちの説得で秀吉の召喚に応じたため、最悪の事態は免れたという。




九戸の乱の堀尾吉晴

2011年12月18日 22:01


九戸の乱の堀尾吉晴

堀尾吉晴 九戸政実 蒲生氏郷


405 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/18(日) 03:35:11.46 ID:prH6312C
堀尾吉晴は主君の豊臣秀吉の命で、九戸城で反乱を起こした九戸政実の討伐戦に参加した。
この時吉晴の役目は後方で軍勢の動きを監督する事だったのだが・・・

「俺だって前線に出て武功を立てたい!だが軍議に出席してしまうと、立場上そこで決まった
 配置に従わなきゃならんし、先陣争いも出来なくなる・・・」

そこで吉晴は考えた。

「だったら軍議を仮病で欠席すればいいじゃないか!」と。

そしてその翌日には先陣に決まっていた蒲生氏郷に先んじて九戸城に出撃した。迎え撃つ敵を
次々と討ち取り、九戸軍を追い詰めた吉晴は

「決死の覚悟をした者を攻めれば味方の被害もばかにならんな・・・」

と考え、

「本丸を明け渡せば命は助ける。」

と降伏を勧告した。

城兵がこの言葉を信じ本丸を明け渡すと

「城は手に入った。お前らにもう用は無いわ!」

とばかりに全員処刑したという。 「太閤記」より仏の茂助さんのちょっと悪い話。

ちなみに、吉晴より処刑した兵の首を届けられた秀吉は

「さすがは吉晴!お前こそ日本無双の剛の者よ!」

と吉晴を賞賛したという。





406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 04:25:29.15 ID:8efod3Ub
大河化決定

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 06:09:58.84 ID:9g4rH4p8
後にこれの祟りにより改易

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 08:21:57.38 ID:wgu0H4cm
>>407
改易っつーか、一族が死に絶えたよね

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 10:05:03.96 ID:Sl3FZuBx
相手を仏にする茂助

堀尾忠晴15歳、大阪冬の陣で諸先輩を唸らせる

2011年05月18日 00:02

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:01:30.81 ID:VuWajU97
では堀尾さんところの、いい話なんだろうけど、なんというかw

慶長19年(1614)、大阪冬の陣。
11月29日、大阪の水口方面にて佐竹義宣の軍は後藤又兵衛・木村重成率いる大阪勢と激戦となる。
両軍に多くの死傷者を出し、大阪方は「後藤・木村を討たせてはならない!」とさらに千四・五百の
軍勢を繰り出す。
これを察した義宣は待ち受け向かい討たんと自ら長刀を手にし堤の影に軍勢を隠し敵の到来を待つ。
その時の佐竹義宣の姿は虎が風に毛を振るい、獅子が獲物を喰らわんと歯噛みするようであった、と伝えられる。
敵が、来た。今や掛からん!と、その時である

並びの陣に控えていた、当時若干15歳の堀尾山城守(忠晴)勢が突然、横から大阪勢に斬り込んできたのだ!
堀尾勢は大阪の新勢を散々に切り乱す。
さらに上杉景勝勢が堀越に押し寄せ鉄砲を激しく打ちかけたため大阪勢はたまらず、城内へと引き返した。
この時大阪勢は、三千人余りが討ち死にしたという。

さて、この結果に佐竹義宣は激怒した。
自分が待ち構えていた敵を横から奪われたのだ、それも当然であろう。義宣は堀尾忠晴に使者を立て抗議した

『城の内から敵をあぶり出し討とうという作戦であったのに、あなたが横合いから勝手に槍を入れられたため
敵を再び城内に追い込んでしまった!あなたは軍法に背くおつもりか!?
あなたは未だ15歳であり、若気の至りということもあるでしょう。であれば1度だけは許してあげましょう。
が、重ねて此の様な振る舞いは、一切御無用でござる!』

堀尾忠晴はこれを聞くと直ぐに、その使者に佐竹義宣への返事を託した。それに曰く

『あなたの仰せは尤もです。ご存知のように私は此の様な若輩であり、軍法のことも詳しくは存じておりません。
ただし目の前に敵を見れば、いつ何時であってもそれへの攻撃を我慢するということが出来ません。
なので今後も私は、粗忽なことをしてしまうでしょう。どうかその度に、お許しいただけるようお頼みします。』

この言葉に義宣は絶句し
「頼みきっていた家の子郎党たちを数多く敵に討たせながら、その敵を人の手柄にさせてしまい、
損の上に損をしてしまった!」
と嘆いたという。

さて翌日。堀尾忠晴は将軍秀忠の御前へと伺候し、前日の手柄を賞された。
と、この時軍奉行である安藤次右衛門(正次)が進みでて、荒々しく言い放った

「山城守殿(忠晴)の昨日の働きですが、手柄はたしかにその通りですが、佐竹軍がわざと誘いだした敵を
横から入り討ったのは軍法を破っており、狼藉であると考えます。佐竹殿も大変不本意に思っておられることでしょう。

山城守殿、あなたは未だ御若年なので今回は見逃しましょう。
ですが、重ねて此の様な粗忽なことをされれば過失として軍法に照らし罰を与えねばなりませんぞ!」

この安藤の強い言葉に、忠晴はニッコリと笑って

「仰せのように私は若輩ですから、軍法も詳しく理解しておりません。…ですが昔から、源平の合戦や
元弘建武の乱に置いても、目の前に進む敵を『これは誰々の受け持ちだから』などと言って
討たないで見過ごすという法があったでしょうか?珍しいことを承るものです。

私は手近に敵が居れば、いつでも粗忽な合戦をするでしょう。そしてその度に、その事についてのご容赦を求めるでしょう。」

と、爽やかに言い放った。これにその場に居た人々

「天晴、山城守はなんと器量骨柄が優れているのだろう。若年の今ですらこうなのだから、
将来は一体どのような人物に育つのか」
と、感嘆したという。

若輩の堀尾忠晴、大阪冬の陣で多くの諸先輩を唸らせる、と言うお話(大阪物語)




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:09:35.43 ID:DfQ0Ba89
息子があれだった中村さんや生駒騒動の生駒さんのところと違って
堀尾忠晴は不肖の子孫じゃなくて有能だったのに、家が絶えたのは残念

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:44:21.70 ID:cXlo0ZrX
これだけ大勢の大名が参加した戦だったから、
先陣だとか、後だとか、むきになるだろうなあ・・

家康伏見入城、堀尾吉晴の行動とそれに対する宇喜多秀家の反応

2011年04月23日 00:00

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 12:55:23.82 ID:4XA++rq6
慶長4年(1599)閏3月、この十一日に、いわゆる七将襲撃事件により石田三成が佐和山に引退している。
それから間もなくのこと。

黒田長政はその邸宅に豊臣家三中老の一人、堀尾帯刀(吉晴)を招き、徳川家康を伏見城へと入城させる
工作を相談。これにより堀尾吉晴は中老、そして三成を除いた四奉行の意見をたちまち取りまとめ、
中老、奉行の「総意」として家康の伏見入場を宇喜多秀家ら大老に提案。秀家らも「中老・奉行らの総意であれば
その通りにするのがいいだろう」と、これを認め、十三日、家康は伏見城へと入った。

さて、伏見城に入った徳川家康は堀尾を召して言った

「私は、貴殿と羽柴越中守(細川忠興)両人の計らいによって、先日の出入り(七将襲撃事件の事か)も無事に
処理でき、今又伏見の城に入ることができた。全て皆の粉骨のおかげである。
そのため、せめて今後の疎略がないように誓紙をもって誓約を成したいのだが?」

しかし堀尾
「今回のことは全て天下の御為にしたことであり、ここで内府(家康)の御一礼を頂き御誓紙を申し受ける
というのは私の本意ではありません。」とこれを辞退した。

が、十七日、堀尾邸を訪ねた家康重臣・井伊直政が取り出した、徳川・堀尾家双方の親睦を記した
血判神文を受け取る。ここに堀尾吉晴は親徳川家康派の立場を明確に表明したと言っていいだろう。

そして堀尾吉晴はそれまでの功により、越前府中五万石を加増された。


さてそんな頃、宇喜多秀家はその家老、明石掃部頭(全登)を側に寄せ、こんな事を言い放った

「堀尾は太閤の御恩を受け、今は中老の職にまでなったというのに、太閤が薨去された後は
他の同僚たちの前もはばから憚らず、一心に内府の前に馬を繋いでおる!(家康に奉公しているという意味)

先日の事だ、内府が伏見城に入った折に堀尾帯刀が内府からの誓紙を辞退したというのは
ご法度を守ったことであると会津中納言(上杉景勝)が堀尾を賞賛していた。

私はそれに全く同意できず、『ならば井伊兵部の誓紙を受納したのも御忠功だといわれるのか!?』
と言ってやった。その場にいた者たちは皆私の言ったことに一言もなく屈服し、『誠に言われる通りである』
などと申していたよ。

今に見よ!
内府の計りとして、加増を受け、大阪・伏見の間で今ときめいておる堀尾は、
若年より人の知りたる武功多く、実力も兼ね備えた者であるが、城付の五万石に己の一心を眩まされて、
既に一生の危うきを取った!彼の将来は暗いであろう!」

この秀家の発言は後年、大坂の陣のおり、明石掃部が人に語ったことだという。

当時の公家や寺社の日記に
『内府、天下殿になられ候。目出候。』『諸人大慶』などと書かれた家康の伏見入城。
この時の堀尾吉晴の行動と、それに対する宇喜多秀家の反応である。





831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 19:51:14.40 ID:V9oXlp3h
この時点で徳川が豊臣にいずれ取って代わるって思ってた人ってどのくらいいるんだろ?

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 21:05:49.00 ID:aNSoQ4St
関白秀次が死んだ時点でもうみんなそう思ってたでしょ、後継者がいないんだもの

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 22:53:27.01 ID:qcyYrpiR
拾丸「やっぱり捨てられる運命にあったということね」

堀尾家水口略奪事件顛末

2011年03月30日 00:01

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 01:14:34.69 ID:4YtqyzhV
一応いい話として記録されているのだが…

堀尾信濃守忠氏の近習に、揖斐伊兵衛、堀尾作左衛門という者があった、何れも400石ずつの
知行であったという。

さて関ヶ原の決戦の後、堀尾家の家臣たちが、既に降伏していた長束正家の所領、
水口城下において略奪を働くという事件があった。
この事件に対し人々は、水口は落城した以上既に味方の地となっており、そんな所で
略奪をするような連中には、関ヶ原での武功もなかった事にされるだろうと、もっぱら噂し合った。

そんな噂を聞き及んだ揖斐伊兵衛は、同僚の堀尾作左衛門にこう語った

「今度我軍が略奪を行ったこと、後悔先に立たずと言いますが、このままでは我が堀尾家の、
江渡(河田木曽川渡河の戦い)での功も無効となるかもしれません。

ところで我らは信濃守(忠氏)様の旗本でありながら、さしたる功もありませんでした。
そこで今回の略奪の張本人であると名乗り、その責任をとって切腹すれば、堀尾家としての
責任は回避できるのではないかと考えます。いかがでしょうか?」

これを聞いて堀尾作左衛門

「それは尤もな事です。そういたしましょう!
しかし二人とも死ぬというのは詮のない事です。ここはクジで切腹するものを決めましょう。」
と伊兵衛に同意したうえで、さっそくクジを作り始めた。ところが揖斐伊兵衛、これに

「作左衛門殿しばし待たれよ。もし私がクジに当たって切腹いたせば、それがしは
死に得でござるが、貴殿は信濃守様の御一門であるのに伊兵衛に切腹させた、などと言われては
武士の面目が立たず生き損となります。

そうである以上、貴殿が切腹なされて私が生き残ることこそ、あなたの御為にも良いことでは
ないでしょうか?」

堀尾作左衛門はこの言葉を聞くと感激の涙を流し

「あなたのおっしゃることは一段尤もである!ええ、私が切腹いたしましょう!!」

と、盛り上がっているうちに堀尾家の方に徳川家康から、略奪の事赦免の御内意がもたらされ、
切腹のことも無くなった。

後に堀尾作左衛門は主君堀尾忠氏に
「我が事を話すようですが、お為になることと存じます。揖斐伊兵衛がいかに知恵深きものか、
という話です。」
と、この時の顛末を語り、これに感動した忠氏は、堀尾作左衛門、揖斐伊兵衛の両名を
三千石に加増したという。

と、いい話なんですが…、
揖斐伊兵衛さんのレトリックと、それに感動する堀尾作左衛門や堀尾忠氏がどうしても納得できない
わけで。基本口八丁で「作左衛門さん一人で責任とって死んでくれや」って事を言っている
だけではないか、と。

そんなモヤモヤとした気分の残る、しかしこの時代的にはこれでいいのですかねえ?
堀尾家の水口略奪事件におけるエピソード。




386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 01:53:42.25 ID:TP3R1ulM
うーん、確かに現代人から見ると揖斐が汚い立ち回りをしてるように見える
だけど主筋の一門を死なせるわけだから揖斐にもそれなりの覚悟がいると思うんだよな

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 02:30:30.02 ID:8rXibiK8
うーん
うーん
うーん
なんとも言いがたいな

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 03:15:40.33 ID:Tv/4GtKA
>>386
関ヶ原では、主君の九鬼嘉隆を切腹させたら、義弟の九鬼守隆に
鋸挽きで斬首の上さらし首にされた豊田五郎右衛門の例があるわけだしね。

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 03:16:16.12 ID:WIE5PMuG
家のために死ぬことの方が、生き残ることより価値がある

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 04:03:07.68 ID:1HIW+/X9
ひとの命の価値がめっちゃ安かったからなあ

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 06:07:51.88 ID:tdksv+0t
死ぬより生きるほうが難しい時代だったんだな

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 12:27:22.77 ID:54mYD9XN
>>390
考え方だよなぁ、命を的にご奉公。
うまくいくと、広大な領民付きの領地・・・結構いい値段だよな命

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 14:10:40.62 ID:jl621Qg5
まあ家康が戦後処理に忙しい間に事が上手く進んで良かったジャマイカ

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 14:26:41.43 ID:1HIW+/X9
>>393
保険金みたいなもんですからね>死後の恩賞
医療技術も発達してないから日本人全体が余命半年みたいな感覚でいたのかもしれませんな

堀尾吉晴、少年の頃

2011年03月27日 00:01

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 23:06:28.03 ID:D3qnQPAP
堀尾吉晴はその幼名を仁王丸といい、彼の家は尾張国内で信長に長く抵抗した、岩倉織田氏の
家臣であった。

さて永禄2年(1559)の事、岩倉と織田信長勢との戦いで、岩倉勢は夜討ちを敢行した。

この時未だ元服も済んでいない堀尾仁王丸はまっさきに駆け込んで、名のあるものの首を
取って帰る、という功名をなした。

だが人々、元服も未だの若い仁王丸がそんな手柄を立てられるとは思えず、
「拾い首でもしたのだろう」と、彼の手柄をまるで信じなかった。

そして翌日、今度は岩倉勢が敵に散々に打ち負け総退却となった。
ところがこの中で仁王丸は一人馬から降りて敵のほうに立ち向かった。
仁王丸の叔父の修理亮がこれを見つけ大いに驚き、彼に向かって叫んだ

「どうして味方に遅れるのか!?とにかく直ぐに撤退するんだ!!」

ところがこれに、仁王丸

「若党の一人である山田が未だにこちらに帰ってきません!彼を探します!」

と答え、遂に敵中に残されていた山田を見つけ、連れて帰った。

この仁王丸の勇敢な行為に、「さては昨晩の功名も本当であったか!」と、岩倉の人々
自分たちの不明を恥じたという。

堀尾仁王丸、明年の夏元服し”茂助”を名乗る。


後に豊臣政権三中老の一人となる堀尾吉晴の、少年の頃のエピソードである。




532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/26(土) 07:36:16.11 ID:jbWKCq2Z
>>528
栴檀は双葉より芳し、ですな

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/26(土) 07:42:26.07 ID:KeF/dCJf
仁王丸って凄い名前だ。
んで成人してから茂助とか吉晴とか
なんだろうこのギャップは

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/26(土) 10:34:27.43 ID:jqwJKrcX
>>528
山田もいい主君を持ったな

ああ勘違い

2010年07月29日 00:00

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:29:44 ID:e8vsQOCX
ああ勘違い

1632年に幕府から「亀山城の天守閣を破却せよ」との命令を受けた堀尾忠晴は、さっそく亀山城天守閣を取り
壊しに取り掛かった。

さっそく幕府の奉行が天守閣の解体の検分に来たが、亀山城の天守閣は巍然とそびえ立ったままである。
奉行「忠晴殿には亀山城の天守閣の取り壊しを命じたはずだが、これはどういうことござるか?」
忠晴「おそれながら、幕府の命令通りに『伊勢』亀山城の天守閣はとどこおりなく取り壊しておりまする。」
奉行「・・・。忠晴殿に命じたのは『丹波』亀山城の天守閣の取り壊しであるぞ。」
忠晴「・・・。これは粗忽なことをいたしましたな。」

忠晴は勘違いに気づいて急いで解体工事を中止したが、伊勢亀山城の三層の天守閣はがれきの山と化していた。
天守閣を破壊された伊勢亀山藩主:三宅康盛は、当時江戸在府であったため全く気付かなかったのであろうか。
その後伊勢亀山城に天守閣が築かれることはなかったという。




224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:39:26 ID:nApKwByj
堀尾忠晴「うっかりうっかり」
奉行「うっかりうっかり」

三宅康盛「…」

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:55:33 ID:O7Gtyvmn
やっぱり泣き寝入り?三宅さん

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:01:27 ID:2NoT4d4m
そもそも、当時の伊勢亀山藩は1.2万石の小大名でどう考えても城主格の大名ではない
規模なんだよなぁ。天守を維持するのも大変だったんじゃないかな。


227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:03:50 ID:QafM9W0p
>>226
ならば無くなって良かったんじゃねぇの、これ。

維持費的な意味で。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:09:00 ID:O7Gtyvmn
破却費用も人件費も、堀尾持ちか?後で請求されたら、泣けるかも知れない

232 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/07/28(水) 20:13:37 ID:lcOg1c1H
>>223
知らんかった。オレにとっては最高に悪い話として記憶させてもらう。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:57:45 ID:vZAwLBJ5
秀忠「計画通り(ニヤリ)」

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 21:10:53 ID:2NoT4d4m
>>227
とはいえ、面子のために沼田藩では実高3万石を14.4万石と申告し、
沼田城に五層の大天守を建てたわけで。

ちなみに、天守が取り壊された4年後に三宅康盛は挙母1.2万石に転封、
というか出戻り。

堀尾吉晴、出雲の佐陀江を・いい話

2009年06月17日 00:10

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/16(火) 21:08:09 ID:bE2LgsmF
出雲に佐陀江なる湖があった。ここは堀尾吉晴の家来たちにとって
憩いの場所だった。しかしある時、農民らが「灌漑に使いたいから
銀子二十枚で払い下げて下さい」と求めてきた。

奉行の者はかまわないと思ったのだが、吉晴は奉行を叱って「国に乱が
あった時、敵の中に飛び込んでいく武士たちが楽しむ場所を銀子などに
換えることができようか」と反対したという。