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生の松原合戦の事

2023年01月29日 17:35

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/29(日) 16:22:59.59 ID:zGUfX6EG
悪いスレで名前にだしたので
大友興廃記」から「生の松原合戦の事」

筑前国高祖(たかす)から三里離れたところに生(いき)の松原という場所がある。
先年(天正二年、1574年)、原田親種が高祖城で謀反のため誅されたが、原田親秀は高祖城で秋月種実と内通し、大友からの離反を企んだ。
それを知った立花道雪は小野和泉守(小野鎮幸)、由布雪可(由布雪下、由布惟信)を先陣の大将として三千騎余で城下に放火しつつ、高祖城に迫った。
これに対して原田親秀は林慶に六千余騎を率いさせた。
林慶は多勢の力で立花軍を二里半ばかり追い、生の松原に陣取った。
立花道雪は引き返さず、海を背にして陣取った。
原田の軍兵は「こちらは多勢で勢いもあるので今すぐ攻めましょう」と諌めたが
林慶は「今は満潮であり、こちらが攻めると向こうは背水の陣で死に物狂いで戦うであろう。潮がひくのを待つべきだ」と言った。
一方、小野和泉守も立花道雪に対し
「今は満潮でありますが、潮がひいて干潟となれば兵どもにも臆病の心が生じましょう。
こちらは小勢とはいえ、今攻めるべきです。」と諌めた。
立花道雪は「原田勢が攻めてこないのもおそらくそう考えているからであろう。
敵も思慮深い者であるから、しばらく人馬を休めたのちに、こちらから押し寄せよ。」と言った。
そののち小野、由布それぞれ五百騎を率い原田の先陣に撃ちかかり、立花道雪も追撃した。
原田軍は高祖の城下までいったん退却したが、林慶は大剛の者なので、逆に小野和泉守を一、二町追い返した。
そこへ由布が横槍を入れて林慶を取り囲み、ついに小野和泉守の手で林慶を討ち取った。
立花道雪率いる後陣もその勢いに乗り、高祖城の二の丸、三の丸まで攻め込み、焼き立て、勝鬨を上げて帰還した。
この戦で原田勢の手負・死人は千二百余。
それに対し立花勢は手負三十人、死人十人だったという。
潮の干満を兵の剛臆に関連づける分別は、林慶も小野和泉守も同じように持っていた。
しかし立花道雪ほどの人を二里半も追い立てて、そのまま城に引き取っていたならば大勝利と言えただろうに、討たれてしまったとは、林慶の軍配が外れたというべきであろう。



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髑髏敵を取る事

2023年01月29日 17:34

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/28(土) 23:12:19.22 ID:ODKO6Zvw
大友興廃記」から「髑髏敵を取る事」

筑前国生の松原合戦(大友宗麟に誅された原田親種の残党と立花道雪との戦)の三年ほど前、一人の中間がこの松原を通ると、道のわきに一つの髑髏があった。
中間は「これは我が昔討ち捨てた者の髑髏だ。なぜいまだにここにあるのだろう」と嘲笑って蹴回した。
ちょうど持っていた槍の石突で刺し貫いて、抜こうとしたがどうしても抜けなかった。
そこで松の枝に引っ掛けて両手で「えい」と前に引くと、槍の柄が抜けて槍の先端が、中間の肝から後ろに突き抜けたため死んでしまった。
死ぬ前に、ちょうど通りかかった人々にことの一部始終を語ったため、その頃の人たちはこれを聞き
「因果の道理は多いとはいえ、昔から今に至るまで、舎利首が敵をとったためしは少ないだろう。不思議なことだ」
と言いあったという。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/28(土) 23:52:52.06 ID:DwGfU4BG
ちょっといい話にも見える

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/29(日) 10:15:22.26 ID:ZWbxHB0m
自分の体の中心に向けて槍を引っ張ったのかな
不自然なような気もするが、まぁ話だからな

「大友興廃記」より「城中水に渇すること」

2022年02月09日 18:18

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:15:24.76 ID:EhFZQJMw
まともな白米城伝説を

大友興廃記」より「城中水に渇すること」
永禄十一年十月、毛利の吉川小早川が中国兵十万余騎をもって立花の城に攻めてきた。
立花の城代は鶴原掃部助、田北民部であったが、大友宗麟は戸次道雪、臼杵田原などに筑後の蒲池などを加えて五万五千八百騎の勢力をもって中国勢の後に陣を取らせた。
こうして18余度の合戦があったが立花の城はよく持ち堪えた。
ある時、城から「五月雨では物具にもかびが生えることでしょう、笑止なことです」ということで
「五月まつ はなたちばなの 城ぜめは くさるよろひの 袖の香ぞする」と送った。
一方中国陣からは「すぐに落城の嘆きが思いやられていたわしく思います」ということで
「あはれおもふ 人は矢倉の 夜の雨に なみだをそふる 山しろのうち」と返してきた。
その後、城中は水に渇し、久しく雨も降らなかったため人馬ともに難儀であった。
中国方は金ほりにたくみなものが多く、水の手を全て掘って絶ってしまっていた。
鶴原、田原の下知で白米に灰を入れ、山城高いところで多くの馬を出して湯洗いの真似をした。
(灰が混ざった白米はそのまま馬の飼料になったという)
これはまだ城には水があると敵に見せるための謀であった。
のちには米を袋に入れ、岩根の湿気のあるところに埋め置き、とりあげ、煎って食べた。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:33:26.16 ID:EhFZQJMw
ここから先はいい話

その後、水もなくなり勇力も尽き、こうなれば討死覚悟で撃って出よう、それこそ勇士の本意であろう、しかしその前に宗麟公に申しておこうと
宗麟の元に吉田弥六兵衛という忍びの上手を遣わしたところ
宗麟「思う仔細あり、早々に降参すべし」と仰られた。
城中に戻った吉田からそのことを聞いた鶴原・田北は吉川・小早川に降参した。
なお降参兵は元就の命令でみな宗麟の陣へ送り届けられた。
その後、大内の生き残りの大内輝弘・武弘の親子が宗麟より送られた三千余の兵とともに周防・山口に打ち入ったところ国人の多くが輝弘方についたため、毛利は劣勢となった。
こうして毛利は立花城を引き払い中国に戻ることになったが、誰も後に残ろうと言い出すものはなかったため、御一門の端ということで桂能登(元澄)が残ることになった。
その時、坂田新五左衛門と浦兵部という勇士が後に残ることをかってで、都合三百余人で籠城し、ほかの兵が中国へ戻るまで大友軍の足止めをした。
毛利兵は山口の小郡というところで輝弘軍を破り、輝弘は切腹した。
こうして役目も達せられたため、城中に残った将は切腹しようとしたところ
攻めての道雪は「中国勢残り居候をうちはたさんこと、籠鳥をころすと同じ。今度残り候者は、元就以来用に立ち候ども者なり。
このたびわずかの人数にて敵国に残りし志の勇者を、むざむざと打ち果たすこと、不便の至りなり。
鶴原、田北がこともあれば、中国へ送り届けしかるべき」
と城中に「忠節の至り感じ入り候。城中の衆、城を渡し、中国へおかえりあるべき」と道雪が申したところ、城中は同意した。
こうして籠城していた兵は道雪の志に感動しことごとく中国へ帰還した。
道雪は立花の城を任せられ、それ以来、立花道雪と名乗った。



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/08(火) 22:40:45.56 ID:7DijzLVu
>>326
東伊豆の河津城には少しだけ違った白米伝説がある。

この城は伊勢宗瑞の伊豆侵攻戦で落城したと云われる。
独立した山頂に在って水が乏しい城で、伊勢軍の火矢から起きた火災を消す水が無い。
そこで代わりに大量の白米をかけて消火した、と。

なお、
河津城の考古学調査に於いて十五世紀末期から十六世紀初頭の出土遺物群に不自然なほど多量の炭化穀物粒が認められている。

我に均き者は誰ぞや

2022年01月23日 16:40

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/23(日) 14:41:00.24 ID:bLWM9gEP
戸次(立花)道雪は豊後の鎧岳の城主であった。能く士を愛護した故に、士卒は度々殊功を立てて
彼の危難を救った。

道雪には寵童があった。しかしこれに近侍の士が密かに情を通じた。道雪はこれを知れども
問い糾す事はしなかった。
近侍の士の友人が、道雪が近侍の士と寵童との関係を知っていることを識り、近侍の士を諌めて
出奔するよう促したが、近侍の士はこれを聴かなかった。しかし友人は近侍の士が刑せられることを
恐れて、道雪への夜話の中に、このような事を語った。

「誰とは知りませんが、東国の大将に愛幸の侍童が有りました。しかし大将の昵近の臣が、この侍童と
深夜枕を並べていたのです。大将は怒って昵近の臣に腹を切らせ、侍童は放逐しました。
これは主君の目を晦ました者ですから、理でありましょう。ただこれは商人が物語ったものですので、
その始末は詳細にはわかりません。」

と、作り話をして、道雪の返答を試みようとしたのである。
道雪は曰く

「大将たる者、忌妬の心がある時は狭窄となり、物を容れる度量が無くなる。
物を容れる度量が無ければ、士は悦服しない。
その他の理由で戦うのと、悦服して戦うのとでは、その強靭さは同日にも語れないほどの差がある。

暴悪の如きに対しては国法によって規制されるが、有り難い世俗の習いに染まって、その非を識らないという
類は、詐偽、欺瞞に比すべきではない。どうして命を断つに至るだろうか。」

友人は退いて、これを近侍の士に語った。近侍の士は感嘆斜め成らなかった。

ある年、道雪が薩摩の軍に攻め掛かられる事があった。道雪は城を出てこれを防いだが、薩摩軍に
中を絶たれて城に還り入ることが出来なくなってしまい、士卒の多くが壊乱した。

この時、かの近侍の士が大声で叫んだ

「鏃刀を帯びるのは畳の上で酒茶を喫するようなものだと思っているが、弱敵を破る事に何の
気勢があるだろうか。我等はこのような強敵に遭って命を損じ名を留めようと、兼ねてから言っていたでは
ないか!
今、俄に期せる事が来たのだ。面々、ここを逃げて誰に再び面と向かうことが出来るのか!」

そう勇んで敵を防いで大いに驍勇を奮った。この姿に壊乱していた者達も励まされて踏み留まり、
次々と闘死した。この間に道雪は城に還り入ることを得た。

ここでまた、近侍の士は叫んだ
「悉く城に還り入ろうとすれば。門を閉じることが出来ずこれに付け込まれ攻め落とされる事が有るだろう。
五人でも十人でも、ここで必死を極めて城を全うすれば稀世の忠義たるべし!
私は今、ここに残る。我に均き者は誰ぞや!」

そう言って鑓を膝の上に置いて平座した。これを見て残った者は三人。彼等は皆、敵五人七人を斬って
戦死し、両軍の目を驚かせた。

道雪がこの急難を免れたのは、近侍の士のおかげであった。

志士清談



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/23(日) 15:44:09.34 ID:uoK+KPRM
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2351.html
立花道雪 、若者は斬らず


似たような話を前に見たと思ったけど
近習が女中と不義密通したところ道雪から許されて勇敢に戦死した話だった

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 00:21:45.24 ID:mGEpN3uT
東国の大将って芦名さんかな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 20:03:27.94 ID:inYP3U+d
まあ作り話なんで、ここではないどこか遠くの話、ですな

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 03:34:17.84 ID:nDDm0RyX
フェナリナーサ?

武士の討ち死にすべき所はここにあり

2021年03月31日 17:00

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/31(水) 16:12:19.86 ID:ePGgZhvl
立花道雪の側に仕える女に対し、心を通わす者が有ったのだが、道雪はそれを知りつつ知らぬ体で居た。
ところがこの事を知る者が居り、ある夜の物語の時申した

「東国の大将の、誰とは知らないのですが、寵愛の女に密かに情を通わす者が居たのを誅したそうです。」

そう、あらぬ事を態と言って、道雪の答えを試みた。
道雪はこれに笑い出し

「若き者が色に迷ったのを、必ずしも誅しない事も有る。人の上に居て君と仰がれている以上、
仮初のことに人を殺せば、人が背く基である。国の大法を犯した事とは異なる。」
と語った。
かの者、これを伝え聞いて心に慙じ、また道雪の仁愛に感じ入った。

その後、薩摩との戦で鎧ヶ嶽の城を攻める時、道雪は城を出て戦ったが、大軍が押しかかり危うい状況に
なった。そこにかの者が大音上げて乱れる味方を恥しめて散々に戦った。その間に道雪は城近くへと
引き取ったが、敵はなお厳しく追撃し、城門を閉じることも出来ないほどであった。
そこに、かの者取って返し

「武士の討ち死にすべき所はここにあり!各々、是にて討ち死にすれば、城を敵に奪われまじ!
返せや人々!」

そう言う間に鑓を横たえ踏み留まると、返合する者三人あった。彼らが面もふらず戦って討ち死にする
間に、城門を閉じた。

常山紀談



其方の頸は私が

2017年12月15日 18:36

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/15(金) 17:33:51.39 ID:ydNZ0fJp
天正の初めの頃、天下未だ戦国の時、九州では筑紫家と立花家の領分は入り混じっており、
双方の侍たちで里に住居する者たちは、家族のように朝夕参会していた。

立花家の侍に、中島右京という者があった。彼の所へ、筑紫家の家臣・帆足という者が来て
飲食酒宴の折に、突然の触れがあった

『明日、秋月筑紫の両家が一同に、立花の岩屋表に寄せくる』

立花家の中島も、筑紫家の帆足も驚き、不慮の思いを成したが

「明日は敵となり互いに相戦うこととなった。定めなき世の中にて、
筑紫と立花はまた、手切れと成ってしまった。」

そう言いつつ、連れ立って暇乞いをした。
この時中島は、戯れのように言った

「明日の合戦では、其方の頸は私が取るよ。」

帆足はこれに何も答えず、その日はこのまま別れた。
しかしその後、言葉のごとく中島は帆足を討ち取った。

(士談)


すると敵は驚き気圧され

2017年08月21日 18:38

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/21(月) 16:59:46.80 ID:uGfwiSOk
立花道雪が筑後にての合戦で、敵が山上の道雪の軍に敗退し、道雪軍はこれを追撃した。

敵がすでに下山した時、道雪は味方に下知して進軍を止め、先に斥候を出した所、
案の定敵は山の下に降り立ち、それぞれに備えを固め道雪の軍を待ち構えていた。

そこで道雪は合図を定め、静かに備えを山下に下ろし、ゆっくりと敵に接近した。
そして槍が届くほどの間近と成った時、合図とともに一斉に鬨の声を発し槍をばっと持ち上げた。

すると敵は驚き気圧され、容易く敗北したという。

(士談)


ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

2016年10月10日 10:09

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 16:57:25.24 ID:t9v3aFpB
ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

豊後朽網山野城主・朽網宗暦(鑑康)は息子の宗策(鎮則)ともどもキリスト教贔屓で知られた人物である
1553年には朽網地方に宣教師や修道士が訪れキリスト教の布教が始まりやがてキリスト教日本八大布教地にまで発展していく
翌1554年には豊後で初の教会を建てルイス・フロイス「日本史」にその教会の美しさを絶賛する様子が書かれている

それはさておき、ある戦陣で朽網宗暦・宗策親子が総指揮官・戸次道雪の元へ訪問する際のこと

宗暦「そなたも知るように道雪殿はキリシタンを好まれぬので(胸にかけた)そのロザリオを御目に触れないように隠しておけ」
宗策「……」

最初は父の言に従ってた宗策だが道雪の前にくるや父の言を翻しこれみよがしにロザリオを取り出しはじめた
宗暦はこれを見て慌てて(ちなみに宗暦は以前耳川の件で志賀道輝(親守)共々戦いぶりを道雪に糾弾されたことがあった)

宗暦「この倅は馬鹿者でござる。ここに罷り出るに先立って貴殿はロザリオをお好み遊ばさぬ故に取り外すように注意しておきましたるに取り外すどころかこのようにわざと出してみせる始末」
道雪「ご懸念無用。何となれば優れた兵士は初志を貫徹すべきで後退してはなりますまい」

こう言って宗策の行為をやり過ごし宗暦を安堵させたという

ちなみにこのやりとりをフロイスは
「このことから言い得るのは日本人がいかに理性的で答弁にあたっていかに分別があるか、ということである」と評した

キリスト教嫌いな人物には基本ミソカス(例:ラスボス・爆弾正・信玄・宗麟正室奈多夫人)なフロイスから珍しく褒められた道雪の分別



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:35:49.12 ID:f8T0paXC
フロイス「戸次鑑連はロザリオおkだから許す」
道雪「武士なら初志貫徹すべき」

価値観が交わってないけど利害は一致してるだけのような

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:54:13.67 ID:Oau9qfpR
豪胆な人が好きなだけでしょ
優男なら罵倒してた

立花道雪足疵

2016年06月19日 15:59

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 14:43:24.11 ID:t7BOj0bT
立花道雪足疵

 立花宗茂の父は〔名は忘れた。道雪斎か〕は足の病で馬上におれず、
歩行も不自由なので、出陣のときは台に乗り士卒数人で担がせていた。
戦場に及ぶと、持っている青竹〔これは采配の代わりである〕で台のふちを叩きたてて、
台ながら敵中に持ち込んで、投げこめなげこめと下知したという。

 また上杉謙信の采配も三尺ばかりの青竹で、臨戦のときは鞍の前輪を叩きたてて下知したそうだ。

 神祖も御戦に及ばれるときは、采配を御鞍に打たれて士衆を下知されて、
御指の血が、御鞍に染みたという。

 家法印殿(松浦鎮信)の采配の柄も竹であったが、戦陣では士卒を下知されるとき、
常にらちがあかないと、鞍を打ち口にくわえなさったので、
采配の柄は歯痕で見苦しいほどに傷ついていたそうだ。
(甲子夜話)

行儀が悪い話



751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 21:12:25.78 ID:Yw8Kk2C+
爪を噛むよりええやん

“雷切”

2015年12月18日 17:01

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 02:20:05.09 ID:DWiYqAIF
豊後国南部藤北の鎧ケ岳の城主・戸次伯耆守鑑連入道道雪は、元来大友の類葉で、
親秀の次男・戸次左衛門尉重秀の末孫である。

累代武勇を励んだが、中でも鑑連は大友家にあって肩を並べる者がいないばかりか、
隣国にも類少なき士大将であり、智謀と驍捷を兼ねて達し、堅を砕いて利を破り、
奇正応変にして過ちはなく、

ある時は韓信が旗幟を変えて趙城を落とした計略を追い抜き、ある時は薛仁貴が三箭を
発して天山を定めた勇に続いたので、攻め取る戦の功は優れていて数え切れない。

ある時、鑑連が庭の木の陰で涼んでおられると、にわかに空は掻き曇り、黒雲白雨を
帯びて降り来る。雷霆はしきりに轟き、雷火がたちまち落下して、庭中を奔走した。

鑑連は側にあった“千鳥”という刀を取って飛び掛かり、抜き打ちに雷火を丁と切って
飛び去った。それからはこの刀を“雷切”と改名した。

しかしながら、鑑連も雷の余炎に当てられて身体のあちこちを負傷し、片輪者になって
しまった。そのため、出陣の時も乗り物に乗って軍士を下知なされた。

(原注:『岩屋物語』には“雷が左足に落ち掛かるところを、すかさず備前長光2尺5寸の
刀をもって抜き打ちに切りなさり、雷光は2つに切り割られて左右に飛び去った”とある)

――『筑後将士軍談(陰徳太平記)』




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 11:06:56.17 ID:Iqvf/N9q
鑑連は雷火を切って飛び去った・・・!?!?

道雪の墓守

2014年05月07日 18:45

897 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/07(水) 01:54:43.27 ID:6sn+TDjP
道雪の墓守

立花山麓にある曹洞宗の古刹梅岳寺
立花道雪の墓所である
中央に母養孝院の墓所、右に道雪、そして何故か左に一回り小さな異名の墓石

主君から恩賞として死後も使えることを許され同じ墓所に葬られた
名を菰野増時という

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/07(水) 02:12:41.79 ID:6sn+TDjP
ミス 薦野だ
福岡県の現在地名だと新宮あたり
柳川立花藩改易後黒田に使えた理由の一つだとも
地味だけど忠誠が高い九州武将の典型だと思う




フロイス「日本史」より、立花道雪の話

2013年11月26日 19:01

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 16:14:42.98 ID:/L3nXWsc
立花道雪の話

二万近い兵士を擁する豊後勢は、先に筑後国で叛旗したクロギ(黒木)という城を包囲するために出動した。
(豊後勢は)優れた指揮官を欠き、隊列も整わず、十分な協議もせずに襲撃したところ、
城中の兵士は猛烈果敢に応戦して、豊後勢に三百名の死者と七百名ほどの負傷者を出さしめたので、
残りの者は意気阻喪し、怖気づいて、我先に豊後へと敗走し始めた。
だが豊後にいた他の諸城の指揮官たちは、退却してくる彼らを襲って全滅させるように打ち合わせていたので、
彼らは前進することも後方へ退くこともできなくなった。(※)

この事態はタチバナ城の城主に伝えられた。
七十歳をいくつか越えたこの老いた城主は、人々が語るところによれば、
ただちに豊後随一の優れた槍の鞘を払い、
「(某の)鎧に封印をせよ。かの城、および他の城を占領するまで、某はこの鎧を体から外さぬ」と言ったということである。
そして六、七千名の有能な兵を率い、筑後の国内を通過し、途中、通行を妨げる幾人かの敵と戦い、
難なく彼らを制圧し、四、五日の旅の末、ついに不安におののいている豊後勢がいる場所に着いた。
豊後の軍勢は、差し迫ったこの危機から自分たちの救出に駆けつけてくれた彼を見て、この上もなく喜んだ。
老人は、ただちに軍勢の指揮官たちを招集し、一同を厳しく叱責した後、激怒しながら言った。
「お前たちは。
 もし女なら、なぜ逃げぬのか。
 またもし男なら、卑しくも兵士と言われながら、なぜ戦わぬのか。
 よいか、合戦において卑怯な態度を見せたり、『豊後へ帰りたい』などと言いだす輩は、
 某が自ら殺してしまうから、よく覚えておくがよい」と。

(彼は)時を移さず、幾日もの旅の疲れを物ともせず、自ら先頭に立って、
地の利といい籠城している兵士の勇敢さといい難攻不落と思われた城に対し、果敢な襲撃を試みた。
最初の攻撃で彼らは城内に突入し、城内にいた敵の大部分を殺害した。
この間、味方が被った損失はごくわずかに留まった。
彼はこの勝利を得ると、気力を失い臆病風にとりつかれていた豊後の兵士たちを感奮させようと、
さらに他の二城を彼らと一緒に攻撃した。
それらの城はいずれも彼の武威に屈した。

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 16:15:48.91 ID:/L3nXWsc
この老人は深い思慮を備え、戦においては著名な指揮官であったが、異教に凝り固まっていたのでデウスのことを嫌悪していた。
その頃、豊後の殿の一人を父に持つ若者が(キリシタンの)説教を聴いていたが、突如出陣することになったので、
さしあたっては洗礼を受けることができなかった。
彼は自らの慰めとして、コンタツを首にかけて出陣した。
陣営では、朽網殿と称する異教徒である彼の父が、老いた総指揮官を訪問しようと思って息子を同伴した。
その際、父親は息子に、
「そなたも知るように、タチバナドノはキリシタンをあまり好まれぬので、そのコンタツを目に触れないように隠しておけ」と注意した。
若者はそのように見せかけたが、父と一緒に総指揮官のいるところに入ると、これ見よがしにわざとコンタツを表にとりだした。
父親は息子の仕業に赤面して言った。
「この倅は馬鹿者です。
 ここに罷り出るに先立って、貴殿はコンタツをお好み遊ばされぬゆえ、取り外すよう注意しておきましたが、
 このように出して見せる始末です」と。
老人が答えて言うには、
「貴殿、御懸念には及ばぬ。
 なぜならば、優れた兵士は初志を貫徹すべきで、後退してはなりますまい」と。

このことから言い得るのは、日本人がいかに理性的で、答弁にあたっていかに分別があるか、ということである。

(フロイス日本史より)
※の行の内容については、なぜ豊後の城主たちが豊後勢を攻撃しようとするのか、訳者いわく「事情を理解しがたい」とのことですが
 そのまま書きました。




712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 17:37:25.05 ID:gYfr5t4H
異教だってだけでクソミソなフロイスさんが武勇や思慮を称えるとか道雪さんとこは色々ぶれねぇなぁ・・・

立花道雪は嘆いて曰く

2012年10月15日 20:12

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/15(月) 18:16:55.99 ID:pi3BwCFp

立花道雪は瀬高口の陣を引き払い、嘆いて曰く、

「天晴れ、鍋島は智仁勇の大将だ。わしは多年、肺肝を砕いて
謀ってきたが、彼は謀られなかった。運を天に任せて時を待とうとしても、
鍋島は若く健全であるのに比べ、この道雪は年老いたうえに病身だ。
口惜しき仕合だよ」と首を垂れて悔やんだ。

その苦労は日々積もり、道雪は高良山の陣中で死去した。
鍋島直茂はそれを聞いて落涙して惜しんだということだ。

――『名将言行録』




869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/15(月) 18:39:42.16 ID:x0Hbw+K8
>接触地雷
火種が火薬に落ちて爆発みたいな装置かな?

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/15(月) 22:08:01.15 ID:2zrkV/YM
直茂さんはみんなから褒められるな

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 09:30:26.73 ID:uMDhT37n
性格は悪いけどな…

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 10:53:28.71 ID:PPMG4kC8
悪いっけ?

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 13:45:05.15 ID:5/7HctCV
クマさんと間違えてないか

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 14:56:35.08 ID:wzzjPIjZ
遺族マ「そーだそーだ直茂性格わるいぞー」
鍋島(…おまえらもっと動けよ…)

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 15:10:31.48 ID:3X4XDR/b
直茂の竜造寺引継ぎは貧乏くじ引いたようなものだからなぁ

それが戸次道雪という武人

2012年08月22日 20:51

174 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 08:06:12.10 ID:P4yn8byU
秋月種実の大胆不敵な行動、あくまでも騙し討ちを嫌う戸次道雪

ある時秋月種実は僧に変装して博多に歌舞伎見物に出向くことにした。しかし博多はあの戸次道雪の勢力圏内にある。
種実からすれば道雪は父兄の仇だが道雪から見ても種実は弟や一族の仇である。種実の行動は大胆不敵ではあるが、
同時に危険極まりない行動である。この行動が戸次家中に気づかれないわけもなく戸次家中は色めきたった。
家臣の一人は道雪に「私めにお命じくだされば(種実を)討ち取って見せます」と囁いた。
すると道雪は怒ってその献策を退け、秋月城に急使を差し向けた。
「お忍びで博多へ出向かれるのを、わが家臣で狙う者がいるやもしれませぬ。ご用心なされよ」
例え相手が弟たちの仇であっても騙し討ちは嫌い相手に注意を促す、それが戸次道雪という武人。
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』に載ってた話)




道雪とはなんと、武士冥加の強い侍なのだろうか

2012年08月18日 20:51

114 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 19:18:05.85 ID:BGjsCREX
戸次道雪が立花城に移って以来、方々での働きにおいて手柄忠節の多さにより、豊後の大友家より
感悦の使者が送られた。しかし筑後路も敵領であり、通路がないので、豊前より船で海路をもって
遣わされた。

さて使いより道雪には、第一の褒美として旗竿を遣わすとの旨が伝えられた。これはとりわけ道雪のため、
吉日を選びこの使者が帰国して報告を次第、船にて送り遣わすとの事であった。
道雪はこれを承り悦び申すこと限りなく

「さて旗竿の事、家の面目、一代の名誉、老後の本望、いったい何事がこれに匹敵するでしょうか。
出来る事なら御本国へ伺候して頂戴したいのですが、方々の敵が隙を伺っている状況です。
そこで、幸いにもご舎弟の田原殿(大友義統の弟・大友親家)が、御代官として筑後黒木城に
御座なされております。ですので旗竿を黒木まで届けて頂ければ、この老体が彼の地まで罷り越し、
田原殿の御前において頂戴仕ります。私は大きすぎる冥加は恐ろしいと考えています。御使者によって
ここに直接に送られるのはどうか御免なされるようにお願いいたします。」

この様にたって申し上げた。
使者が豊後府内に帰ってこの旨を伝えると、大友義統の周りは困惑した。

「道雪が恐縮するのはともかく、立花城から黒木城まで行くのに、筑後までの七里余りは大敵秋月の領分であり、
特に城下一里余りの所を通り、また筑後の問註所氏(一族の一部が寝返っていた)の領内を四里ばかり、
これも城下半里ほどの場所を通ると牛島という巨大な坂があり、これはいかなる鬼神でも通れないような
場所である。

道雪め、自分の手柄の程を人に知らせんがため、広量な御請を申し上げたのだろう。
そんなふうに言ってもどうせ、まさか黒木に送るとは思っていないだろう。」

その様に言って、再び使者を添えて、船にて立花城に直接送った。
この時の道雪への批判は、府内にも多くの道雪贔屓の人々が居たので、彼らから道雪へと伝えられた。


115 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 19:18:40.73 ID:BGjsCREX
さて、立花城にて道雪は旗竿を受け取り、その祝宴も終わり使者が船で帰っていったその翌夜半、
道雪は立花城の館を出て、翌日は高橋紹運の領地である三笠郡に逗留、下々の足を休めると、また
夜半に打ち立ち、秋月領である長者町と言う所で夜が明けた。そこかた甘木という町を通り筑後川を越えた。
甘木は秋月城から一里半ばかりの場所であったが、秋月城からこの道雪の一行に向かって
軍勢が駆けつけることはなかった。これは、その頃侍たちは何れも知行地に召し置かれており、
普段は百姓をやっており、軍陣やその他、人の要る時だけ呼び出し召し使うという時代であった。

そのため道雪の一行の直接に見、あるいは聞きつけた者たちだけが在々より集まり、「道雪は
少人数で通るのなら、これを討ち取るべし!」と前後から攻めてきた。

さて道雪はあらかじめ「大勢を引き連れていくのはかえって良くない」と、精鋭を300人ほど、
何れも徒歩にて召し連れ、きっと手負いも出るだろうと馬も少々引き連れ、自身は例の手輿に乗り
先手と手廻りの二手に分け、先を塞ぐ者たちは先手が追い払い、後ろからくる敵には自身がとって返し
蹴散らし、道雪に向かって来るもの達は打ち捨てにした。

この様にして秋月領内を難なく通りぬけ、筑後に入り問註所の城下半里ばかりの所を踏みつけ通り、牛島という
大坂を越えて、何事も無く黒木までたどり着いた。即座に大友親家に面談し、

「御旗竿をお預け頂き、これによる家の面目、弓箭を取るほどの者ならば皆望む程のものです。
老後の本望を遂げ、忝く存じ奉ります。
本来ならば御国元に参上して御礼申し上げるべきなのでしょうが、それがしが今他へ行ってしまえば
方々の敵たちが力を得てしまうと考え、ここまで罷り越しました。
貴方様は御屋形様の御代官であり、特に御兄弟でありますから、御屋形様を拝み奉るのと同じ事です。」

この様に御礼を懇ろに申し上げると、次の日早朝に黒木の城を出立する折、黒木城の軍勢は
問註所の城のある妙見獄を攻めることが決まっていた。
道雪一行は諸勢に先立ち妙見獄を通り過ぎ、問註所の領内を静々と通ったが、問註所の方では
防衛のため城に集結していたため在々に人はなく、心静かに秋月領まで進んだ。

秋月領内の者たちは、普段道雪に手ひどくやられているため、藪の中に隠れながら道雪一行を
監視する、といった有様であった。これによって道雪は何事も無く立花城に帰り着いた。

黒木において、大友親家に付き従っていた豊後の者たちは
「大軍勢で合戦をし、敵を蹴散らせばようやく通れるような場所であるのに、
わずか300人ほどの人数で、敵領12,3里の間を心静かに通り、道すがら遭遇した敵も打ち捨て、
しかも味方に負傷者もなかった。道雪とはなんと、武士冥加の強い侍なのだろうか。
あの人には軍神が乗り移っているのではないだろうか。」

そう、感嘆したそうである。
(古郷物語)




116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 20:09:07.80 ID:1W5Q48/b
鬼武蔵に思慮があればこんなふうになれるのかな?

戸次道雪が常々言っていた事に

2012年08月15日 20:53

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 09:06:30.60 ID:/k4Ik1zx
戸次道雪が常々言っていた事に

「侍に臆病な者はいないと確信している。もしそういう者が居たら、それはその当人の科ではなく、その主人の
使い方が悪いためである。悪しき主人を頼んだばかりに、惜しいかな侍を捨ててしまったのだ。
どうしてそんな事が言えるのかといえば、私に従ってくれている者たち(申合わせ候衆)は、侍身分は申すに及ばず、
中間・小者に至るまで度々手柄を立てない、という事は無いからなのだ。
他家において臆病の名高き者たちよ、かわいそうに、私のもとに参るが良い。私のもとで指導してみたいものだ。
仮に一度目は悪くても、二度目には必ず手柄を立てさせるだろう。」

実際に道雪のこの広言に違わず、道雪の配下に度々手柄を立てないような者はいなかった。

道雪がある時、とある若き者が初陣の合戦で遅れを取ったという悪口を言われている、と聞くと、彼を近くに召し寄せ

「其の方は昨日の合戦で些か遅れを取ったようだが、武辺の事は、そういう事が有るものなのだ。それは
全く以て臆病だからではない。出来・不出来・明・塞があるのが武辺なのだ。
特に其方が臆病でないことは、私は老巧でな、能く解っている。

さあ、明日にもまた合戦がある。其方、人に煽られて粗忽の働きをして、討ち死にしてはいかんぞ!
それはこの道雪に対し、最大の不忠である!
身を全うして敵を討つ分別こそ肝要なのだ。お前のような者たちが従ってくれるからこそ、この老いぼれも
口をきけるのだよ。偏に頼み入るぞ。」

その様なことをいかにも親しく、懇ろに申し聞かし、酒など飲ませ、自身の喉輪か脇引きといった小具足を取らせた。

次に合戦のあった時、この若者は火の散るほどの働きをした。そこで道雪は彼を大勢の前に呼び出し

「この者を見よ!お前たち、この道雪が見損じることはなかったぞ!
困ったことには、この者は逸り過ぎて討ち死にしてしまうのではないかと、片面では悔やんでいたのだ。
この者は今、牙に血をつけ面白く嬉しく、また思ったよりも武功を立てるのは簡単だと思っているだろう。
こういった若者が、これから次第に経験も重なり、この道雪の家において5人7人を争う武者になることも多いのだぞ。」

と、褒め称えた。

また道雪が平時に侍を召し使っている時、客人が訪問して、その侍に大いなる仕損じがあった。
普通の主人ならばしたたかに叱りつけるか、又は追放するほどの不調法をした時、道雪は打ち笑って

「御覧になって下さい、私に従ってくれている者たちはいずれも無調法にてなんとも困ったものなのですが、
こういう事になった時には、いつでも火花が散るのですよ。」

そう言って槍を繰り出す真似をした。客はこれを見て、「侍にとってそれより他に、何が必要でしょうか?」と
深く感じ入った。
無調法をした侍は、これによって当座の恥をすすぎ、かたじけなく思い涙を流した。
(古郷物語)

戸次道雪の人使いについての逸話である。






関連
立花道雪と家臣の使い方・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-245.html
立花道雪の主従・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-107.html

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 11:50:10.49 ID:8nFl45AV
>>79
その逸話 イイネと!君は言ったけど
三つまとめて 既出記念日

「すわ、例の音頭が出たぞ!懸かれ!」

2012年08月15日 20:53

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 12:16:24.57 ID:/k4Ik1zx

戸次道雪は若いころ雷にあたったため、歩行することが出来なかった。
そのため常に手輿に乗り、二尺七寸ばかりの高田打の刀、種子島の鉄砲一挺、三尺ばかりの手棒に腕貫をつけて
いつも手奥に入れ、また長刀だけを持った若侍を、定衆と名付け、これを100人、徒歩にて召し連れていた。

合戦が始まると道雪はこの定衆に手輿を担がせ、敵との距離が近くなれば、手棒にて乗り物の縁を叩き、
自身で

「えいとう!えいとう!」

と声高に音頭を取った。この拍子に合わせて

「輿を担ぎ、あの敵の真ん中に担ぎ入れて、そこに捨てよ!」

と、いきり立った。
手棒の拍子より少し遅いと思えば後先の担ぎ手を手棒にて打ち、打たれたものは敵の面前で
逃げたかのように互いに笑われたので、彼らは面も振らずに輿を担ぎ入れた。

輿を担がないものは長刀を抜き先に進んで攻めかかった。
先手の者たちは道雪の拍子が聞こえてくると、「すわ、例の音頭が出たぞ!懸かれ!」と、
優れた勇士たちが斬りかかるので、いかなる堅陣と言えども、駆け破られない、ということはなかった。

しかし戦の習い、道雪の戦において先手が追い立てられることも度々あった。それでも旗本が堅く踏みとどまるため
幾度も追い返し、最後に勝利しない、ということはなかった。
この様であったので道雪の家来には合戦のたびに、今日は幾度も槍を突いた、と言うものが大変に多かった。
(古郷物語)

戸次道雪の戦ぶりについての逸話である






82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 12:55:08.40 ID:KpQmkjq1
>>81

無粋でスマンです、戸次音頭の逸話もまとめサイトにあった(ただし別の逸話の中のお話だけど
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3445.html

でもどちらの逸話もより詳しく描かれていてGJですよ
古郷物語って黒官のお話ばかりだと思ってたけど道雪の逸話もあるのか
読み応え十分じゃないか

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/15(水) 13:05:55.34 ID:GYCJKnb3
道雪の本拠地が黒田領になってるから旧臣とかも多かったろうし
いろいろ話残ってたんだろうね

道雪は板輿に乗ったまま口を開いた

2012年08月14日 20:51

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 21:36:00.63 ID:MZsX/QvQ
天正12年(1584)、「龍造寺隆信、沖田畷に死す」の報を受けた大友宗麟は、次男親家・三男親盛へ龍造寺氏に
奪われた筑後の平定を命じた。二人は筑後の各城を攻略していったが7月、猫尾城を攻めるに及んで戦線は膠着。
数十日経っても好転しない事態に、宗麟は立花道雪高橋紹運の両将に援軍を要請した。

8月18日、猫尾城への急行・奇襲を目指し居城を発った立花・高橋勢が夜を迎えたところで、
高橋家の家臣が紹運に申し上げた。

「もはや夜半を過ぎ、月も傾きました。このまま進めば、筑後川辺りで夜が明けまする。明るい日差しのもと、
見通しの良い河原端を敵中行軍するのは、いかがなものでしょうか?」
「ならばその事、道雪殿に相談して参れ。」

紹運よりの使者・萩尾大学が口上を述べ終わると、道雪は板輿に乗ったまま口を開いた。

「ああ、早く夜が明けぬものか?!我らを見つけて寄せる者、みな撫で斬りにしてくれようぞ!!」

興奮した道雪は板輿の縁を叩き出し、あわてて自軍に戻った萩尾は、
「つまらぬ使者をして、恥をかいたではないか。」とグチをこぼした。(常山紀談より)


結局、両将は強行軍を敢行。途中、本当に筑後川の河原で城方の物見に会ったり、秋月勢と交戦したりするも
これを蹴散らして猫尾城に到着。9月1日には城を落としてしまったという。

まあ、これを見た親家・親盛が「ツマンネ。あとは二人でよろしく」とグレて帰ってしまい、老体をおして
筑後国を転戦せにゃならなくなったベッキーは翌年死んじゃうのですが・・・




72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 21:43:48.89 ID:P5RY1qih
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6453.html
ツマンネといった親家・親盛にベッキーがあきれた話
(まとめスレの関連リンク用に)

(管理人:ありがとうございますm(_ _)m)
73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 21:59:17.34 ID:pO2U2TVn
カミナリ様の心意気を示すいい話なんだろうがソーリンの倅どもは本当に…

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 22:00:29.42 ID:UaTtOTGh
まあホントに、信長の所以上におもいっきりダメ息子だらけだよねw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 22:42:39.94 ID:94udm6dJ
息子が全員常真様みたいな言い方しちゃイヤン

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 22:47:30.69 ID:z2gHxsM2
>>71
いい話?

立花道雪「豊後もここまで…」

2012年05月28日 21:00

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 00:38:13.62 ID:p2y0Ubt2
耳川の戦いの後、筑後の国人たちは大友を見限り竜造寺・秋月勢に寝返るものが続出した。
そんな中、数少ない大友方に残っていた問註所統景より一族の問註所鑑景との戦いにさいし大友家に援軍要請が入る。

筑後回復の機は今とばかり宗麟次男・三男の田原親家・親盛を大将副将に約7千の軍勢で筑後になだれ込んだ。
が、初戦の猫尾城攻略から苦戦、黒木氏の猫尾城には竜造寺からの鉄砲隊が援軍として入場しており、城方の反撃悩まされていた。
豊後勢は耳川で歴戦の武将の多くが戦死しており、若い武将ばかりなのも苦戦に拍車をかけていたのだった。

城攻め1ヶ月で業を煮やした大友軍は立花道雪高橋紹運に出陣を要請、形勢は一気に逆転する。
両将は筑前より一直線に猫尾城へ進軍、立ちふさがる竜造寺・秋月連合軍を片っ端から蹴散らすのであった。
竜造寺からの増援軍も激戦の末に破り(この激戦で道雪の弟戸次次右衛門など戦死)、即猫尾城攻略に取りかかる。
そしてこの猫尾城もすぐに落城。城主黒木家永は13歳の娘に介錯され自害している。
その後も山下・谷川・辺春・兼松・鷹尾などいくつもの城を攻略。
そんな中、竜造寺もさらなる援軍を繰り出し柳川城で戦線は膠着するのだった。

そんな柳川での対陣中、いきなり田原親家・親盛兄弟が撤退してしまう。その理由は
「自分たちがどんだけ頑張っても手柄は道雪・紹運コンビのものになってしまうのでツマラナイ」
と言うものであった。そのまま豊後まで引き上げる田原勢。
さすがの道雪も
「豊後もここまで落ちぶれたか・・・」
と嘆くのであった。




568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 00:48:02.49 ID:Ll6xSbPx
加藤清正「大友のボンボンどもはわかっていない。戦で名を上げるには目立ってなんぼよ!」

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 01:11:16.55 ID:Wd1uPV5f
>13歳の娘に介錯

これも凄いな。つか当時は山城ばっかで家族は城内に居ないと思ってたよ

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 01:19:26.09 ID:4lp7fMbE
真面目な人って他人にも真面目を強いることが多いからね

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 01:42:39.32 ID:aRqkqxJd
無理せず初めから立花さん呼び寄せとけよ

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 04:41:16.04 ID:cvjlR2ei
宗麟は1人くらい息子を道雪に預けて鍛えて貰えば良かったのに。

多分遠慮なく鍛えてくれる気がする。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 12:11:14.36 ID:Nv1mXfCM
鬼のしごきに耐えられるならいいけど

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 13:39:20.40 ID:qkqExfqv
>>574
なぜか完成したのは全部、量産型立花闇千代で温厚な宗茂がまさかのブチ切れ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 13:55:54.50 ID:wyP/LwPV
でなぜか女癖がそーりんと同じだったりw

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/29(火) 22:28:37.11 ID:TOr99TMh
>>588
周りに敵抱えまくってる時の武将って一体いつ寝てるんだろう・・・
仕事は戦闘だけじゃないはずなのに
[ 続きを読む ]

立花道雪・矢音について

2012年04月01日 21:31

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 14:12:53.25 ID:ZV3FBf7J
四月一日なので、こんなお話を。あ、内容は実際にあるものねw


戸次鑑連(立花道雪)の家臣はみな弓法の心得が深かったが、中でも
四月一日(わたぬき)長蔵、佐藤十三郎、藤村小十郎がその上手とされた。
ある時この三人がうち寄って、矢を当てた時のことについて語り合っていた。

四月一日(わたぬき)長蔵が言うには、「私は26・7間(約50メートル)離れた鳩を、さし矢でもって
『ひゃうふっ』と射殺したぞ!」

次に佐藤十三郎が言うには「私は昨日、屋根にいた雀を、18間(約33メートル)離れた場所から
ふくら矢をもって『ひゃうっは』と射殺したるぞ!」

最期に藤村小十郎は「それがしも、桜馬場にて四寸角(の杭)を、18間離れた場所から剣先の鏃の矢でもって、
矢七筋のうち六つを『ひし』と当てました。そのうち五つは角に当てましたぞ!」

戸次鑑連はこの会話を物ごしに聞いていて、それぞれの矢音の表現がまるで違うことを面白く思い、広間に出ると、
主君が出てきたことに三人はその座を下がって畏まった。
鑑連は彼らにこんな話を始めた

「お前たちが弓の上手であり、細密に命中させる技術を磨いていること、大変良いことである。今後もいよいよ
稽古をして欲しい。ところで先ほどのお前たちの話の中で、矢音の表現が三人とも違っていたな。
しかし、人の聞いている所でそのように間違った事を言っていては恥となる。平家物語などの表現を、
きちんと使って言うべきである。お前たちは記憶力がよく一度聞いたことは忘れない者たちだ。
このついでに習いなさい。

矢音の事は、剣先の鏃の矢で物を射て命中したときは『ひゃうっは』と表現する。射抜いた場合も同様である。
外れたときは『ひゃうする』という音を発したと言う。

狩又の鏃の矢で物を射て当たった場合は『ひゃうふっ』という。射切った場合も同様である。
外れた場合は『ひゃうすか』と言う。

鏑矢にて物を射た時は『ひゃうふっ』と言う。外れた時は『ひすつと言わずして』と言う。

矢頭にて当たった時は『ひゃうし』と射たと言い、外した時は『ひゃうすか』と言う。
矢頭に挟み物をして射た時は『ひゃふはた』と射たと言う。外れた時は『ひすっ』と言う。

四目の鏃にて物を射当てたのは『ひしと射て』と言う。外れは『ひすっと外して』と言う。

匹目の鏃で物を射て当てた場合は『とき射て』と言う。笠懸の矢音、『へし』と射て、と言う。小的の矢音は
『ふしと射て』と言う。三つ的も同様である。大的の矢音は『はたと射て』と言うのだ。

この様な事も、専ら侍の知るべきことである。よくよく覚えておくように。」

これに三人は、殿がこのように親しく座に来てお教えいただき、本当に忝い事だと大いに喜んだという。
(大友興廃記)

しかし矢音だけでこんなに種類があるのですね。こんなの覚えなきゃいけないというのも、
お侍も大変だw


関連
立花道雪、弓を教える
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5521.html


515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 14:23:10.29 ID:bSnAl1rL
外れをスカという語源かな

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 16:33:12.72 ID:MJ/ZJQnF
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5521.html
こっちでは四月一日の名前はないけど

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 19:24:10.11 ID:Yhiv/g4y
元弓道部だが矢音にこれだけの種類が有ったとは知らなかった・・・

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 19:42:44.84 ID:hZbxTPZh
>>514
当たった!


 *     +    巛 ヽ
            〒 !   +    。     +    。     *     。
      +    。  |  |
   *     +   / /   ひゃぅふぅぅぅううぅううっ!
       ∧_∧ / /
      (´∀` / / +    。     +    。   *     。
      ,-     f
      / ュヘ    | *     +    。     +   。 +
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 ガタン ||| j  / |  | |||

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 21:18:37.42 ID:6RCFa9yw
信玄公『ひゃうっは』

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 21:27:50.55 ID:fj+OnCsL
鳩「ぎゃーーー」