FC2ブログ

三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを

2021年04月12日 18:03

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/12(月) 16:27:43.98 ID:8nMd6PWi
関ヶ原の合戦の後、宇喜多秀家は近江に潜伏していたが、ここにおいて三右衛門(進藤正次、実際には
三左衛門。以下三左衛門とする)が申し上げた

「大阪へ参上したいと思いますので、御状を遊ばされますように。」

そう言って四寸四方ほどの神に書状を書いて頂き、これを編笠の緒に拠り付けて、二日に大阪に行き着き、
中納言殿(秀家)の屋敷の御台所に這い入ったが、流石に大名の御台所であり、人も多く夥しい様子で
あったが、先の御合戦の沙汰をする人も無く、また殊に三左衛門は新参者であり、誰に申し継ぎを
伝えれば良いかも知らず、一日の間、朝から台所の庭に立ち休んでいたが、これを改めようとする者も
居なかった。

台所より奥へ参った所に番の者が有り、その人を頼み「御局(豪姫)に御目に掛かりたいと呼び出して
頂きたい。」と申した所、程なく局が出て会われた。編笠の緒に撚り結んだ御状を取り出し
広げて見せると、一見された後奥に入られ、黄金二十五枚を持って出てきて、三左衛門へ渡された。
彼は金を受け取り首に掛け、夜通し大津まで走り着いた。この時大御所様(徳川家康)は大津城に、
先手の衆は醍醐山、山科辺りに陣取っていた。

三左衛門は大津の海辺(琵琶湖の浜辺)に出て「船にて参るべきか、陸を行くべきか」と思案したが、
「黄金能き程有り、(このまま秀家を見捨てて逃げて)これを元にして世渡りしても成るだろう。また
中納言殿が御座候所に参りても、もし既に失わられ給っていれば、一体どうすればいいのか。」と
思い悩み、先へ二歩進んでも跡に三歩下がるほどであった。
しかし

「とにかく、中納言殿は新参の私を頼みに思し召されたのだ。船では海上がどのようになるか
解らない。」と、思い切って陸地を歩み、その日に潜伏先に参着したところ、中納言殿は無事であった。

そこで三左衛門はその家の亭主に黄金二十枚を与え、残りの五枚は自分が持ち、翌朝、中納言殿を
駄賃馬に乗せ編笠を着せ、大津、醍醐を通り過ぎ、伏見京橋にて川船に乗せ、大阪天満において、
黄金一枚にて船を借り、「この人を薩摩まで御供申し、あちらに無事着かれたなら、御状を取って
戻るように。」と約束して、黄金二枚を中納言殿にお渡しした。これは、中納言殿が生まれつきの
大名であったため、黄金一枚がいかほどの用を調えられるのかもご存知無かったためであった。

彼を薩摩に送った船主は、御状を持ち上がるようにとの約束の通り、船主は大阪に、御自筆の御状を
持ち帰った。三左衛門の手元に残った二枚の黄金は、江州から大阪まで御供をした折の路銀に遣い、
余ったのもはそのまま自分が持った。

中納言殿が薩摩に落ちられたことを承ると、本多上野介(正純)の所に出て、
「備前中納言殿の最期まで付き従った者であります。」
と罷り出た。秀家が死亡した証拠を尋ねられたが、この時宇喜多家相伝の刀である鳥飼國次を
取り出した。

大御所様は三左衛門に、伊勢国にて知行を与えると仰せに成った、知行の高は御意無く、
これにて心得あるべしとの事であった。

三年過ぎて、三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを諸人も知った。

この時代は万事大雑把であったので、三左衛門が大阪において中納言殿の台所の庭に一日
立ち休んでいても、これを改める者が無く、また奥に参る入り口の番衆も局を呼び出し、
用所を調えるという事がうまく行ったが、これは天下の大小名共に、同じようなものであった。
この頃は屋敷より下々の出入りの札も無く、目付という事もなく諸国は治まり、上下はその
治世を楽しんだ。商人百姓もそれぞれに楽しんでいた。

慶長年中卜齋記



スポンサーサイト



宇喜田騒動とその後の波紋について

2021年04月02日 18:26

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 15:27:20.49 ID:I1Do2lfE
その頃(慶長四年冬)、備前中納言殿(宇喜多秀家)の家老、浮田左京亮(坂崎直盛)、戸川肥後守(達安)、
岡越前守(貞綱)、花房志摩守(正成)の四人が、秀家への申し分が出来、この四人の衆、面々屋敷に
居ることは叶いがたしとして、高麗橋東北の角に、浮田左京の屋敷があったが、ここに引き籠もり髪を剃り、
家臣の者共を大阪町家の詰り詰りに遣わして、『屋敷に鉄砲の音が鳴れば、町中所々焼き立てるように。』
と、覚悟を定めていた。

これに対して扱い(調停)人として、大谷形部少輔(吉継)、榊原式部大輔(康政)、津田小平次の三人が
当たったが、式部大輔の扱い様悪しきとして、家康公の御気色を蒙り、関東に追い下された。
一方、大谷刑部少輔、津田小平次はこの時は家臣ではなかったため、御構い無かった。
大谷刑部少輔に対しては、殊の外御懇ろにて、折々に御相談の相手に成っていたのであるが、この頃より
御相談相手とされることは止んだ。彼が後に敵と成ったのも、この時の意趣からであると云われた。

(後の関ヶ原の折)、小山まで浮田左京、戸川肥後守は御供をした。岡越前守、花房志摩守も罷り下りたいと
様々に申し上げていたが、家康公は思召し有りとして、大阪に残し置いた。
そして四奉行が敵と成った時は、両人大和の郡山で、右衛門尉(増田長盛)の元に付け居られた。
これは、元より右衛門尉が家康公と裏で通じ合っていた故(下心能御座候故)である。

慶長年中卜齋記

宇喜田騒動とその後の波紋について



吉光の刀

2021年03月09日 18:36

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/09(火) 16:25:26.53 ID:rJk2FzJg
大阪夏の陣に於いて、石川主殿(忠総)の部隊が回収した名作の吉光の刀を、京都において
権現様(徳川家康)に献上した所、殊の外の御機嫌にて

「この刀は秀頼より明石掃部(全登)に授けられたものである。これを持った者を討ち取った時、
どのような様子であったのか」

とお尋ねに成ったため、この吉光の刀を取ってきた権太夫という者が急ぎ京都に召された。
しかし御問について「(明石掃部という人物は)見知り申さず候」との事であったので、その通りに
申し上げた。

その後、五、七年も過ぎた頃、台徳院様(徳川秀忠)の御咄に
「大阪で回収された吉光の刀は、明石掃部が所持していたものであった。その後、明石掃部の行方は
解らぬままであり、である以上、その時討ち果たされた者の中に有ったと考えるべきであるのだろうが、
あの刀を回収した主殿頭の者共は三河筋の者達で、上方の侍を見知らぬ故に、惣首数の内に押し込めて
しまったのだろう。」との上意であった。

『冬夏難波深秘録』



宇喜多秀家の身柄受け渡し

2020年12月25日 17:00

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/25(金) 15:58:29.84 ID:I0dSoLUQ
慶長七年、島津忠恒は上洛し関ヶ原での事を謝罪、家康は島津を本領安堵とした。
そして御暇を下され帰国の時、島津家との取次である山口勘兵衛(直友)に対し、このような内談をした

「備前中納言(宇喜多)秀家は、関ヶ原の敗北以後、薩摩に逃げ下り我らを頼って来た故に黙し難く、
領地の端に押し籠めています。どうか彼の一命を御助けに成るよう、次回にも御訴訟申し上げたいの
ですが、いかが仕るべきでしょうか。」
これに対し勘兵衛は「これについては本多佐渡守(正信)と内談し、重ねて申し越します。」と申した。

その後、勘兵衛の与力である和久甚兵衛が差し下され、『秀家を直ぐに差し上がらせるように。訴訟に
ついては本多佐渡守が取り持つ。』との旨を忠恒方に申し越した。
これにより、家臣の桂太郎兵衛という者に警護致させ、正興寺文之と申す出家を相添えて、秀家を
差し上らせた。慶長八年、八月六日に薩摩を発足し、同月二十七日、伏見に到着し、山口勘兵衛の
所まで案内した。

その頃、本多佐渡守は関東に下っていたが、本多上野介(正純)まで勘兵衛より連絡すると、
上野介より上聞に達し、
『秀家については、叛逆の棟梁であり本来は助け置くべき者ではないが、島津家よりの訴訟
黙し難く思し召され、死罪を宥し、駿州久能に召しおくべき』旨の上意があった。
これにより、忠恒より、一族の島津摂津忠政を以て御礼申し上げた。

その後秀家については、八丈島に流罪になったと承っている。

島津家譜

宇喜多秀家の身柄受け渡しについて



明善寺合戦の結果とその後

2020年04月06日 18:31

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/06(月) 11:46:11.89 ID:BkVvfKNP
宇喜多直家による三村家親暗殺を受けての、三村と宇喜多戦い、妙善寺(明善寺)合戰において、
三村家は大敗した。)

今回備前に押し入った三村勢二万余の人数は、大方(部隊を分けた)三方にて討ち死にし、生き残って
備中に帰った者は十の内二つばかりであった。これは『備前の妙善寺崩れ』といって、宇喜多直家
一代の間、所々の合戦は数限りなく度々であったが、敵を多く滅ぼしたことは、この合戦を第一とした、
直家一代の勝利であった。

さて、三村は是非無く備中へ帰陣して鬱憤未だ散ぜず、毛利家へ訴えて、いかにもして宇喜多を討たんと
謀っていた所に、直家は毛利家へ段々と手を入れ、諂って旗下になり、
「別心なく上方案内して。天下に御旗上げらるるに、御先手仕らん」
と言い込んだ。

その時分、三村家は、また毛利家に少し快からぬ事などがあり、その関係は睦まじからず、
そして丁度宇喜多より「三村を御放ち下されれば、愈々御旗下に参らん」と云ってきたため、
毛利家は終に宇喜多の望みに任せて宇喜多と和睦して備前美作を宇喜多に渡し無事と成った事に、
三村は愈々立腹して毛利家へ恨みを含み、終に三村は毛利家のために備中松山の城にて討たれた。

さて、備前と毛利家が和談と成って後、毛利家より
「いつぞや三村勢備前へ乱入の時、妙善寺(明善寺)城、また上道郡にて備中の諸士が数多く
亡くなったこと、それらは皆毛利家への奉公の者であり、不憫に思う故、弔いをしたいと思う。」
との意向が備前へと申し来た。これに直家も「尤もである。」と申され、多くの僧に供養させ、
討死の諸士の亡魂を弔った。

そして宇喜多より申し付け、『湯迫村、出田村辺の者共、毎年七月十四、十五日には、その辺りで大勢
討ち死にした諸侍の亡魂の弔いのために、万燈を燈して生霊を慰めるべし』と申し付けられ、これより
毎年七月に、万燈を燈すこと怠らないと聞こえる。
そして澤田の西と八幡村の北のあたりに、かなたこなたに有る首塚は、皆この時の塚である。

妙善寺合戰記

明善寺合戦の結果とその後



895 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/06(月) 13:53:37.03 ID:Xm3x3/d+
宇喜多も三村も毛利の手のひらで転がってた小物くさいな

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/06(月) 18:15:39.49 ID:iVPuV+9Z
尼子が滅びてバランス崩壊

三村家親暗殺事件について

2020年04月05日 17:13

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/04(土) 19:49:08.24 ID:q+WRfr9i
備前、美作は残らず、播磨国数郡、備中の河東残らず、合せて百余万石を従えたのが、宇喜多和泉守直家、
岡山の城主である。

直家が未だ備前一国を手に入れて居ない時、上道郡沼城におられた。しかし備前は既に大方手に入れており、
徐々に美作国所々を切り取った。その頃、美作は雲州尼子家の支配下に有ったが、尼子は安芸の毛利に
押し落とされ、作州も毛利の手下に属した。その隙きを見て宇喜多は所々切り取り、備前に奪い取った。

毛利はこれを聞くと、毛利家より備中松山の城主、三村紀伊守家親に申し付け
『作州へ出勢して、作州を鎮めるように』
として、紀伊守は一万余の人数にて出勢して、宇喜多を討ち果たし作州を取り鎮めようとしている、
との事が備前に聞こえた。宇喜多直家はこれに思った

「今、所々で取り合いをしている最中に、三村は大敵であり、簡単に取りひしぐ事はできない。
である以上、謀を以て討ち取らん。」

そう考えると、遠藤喜三郎(秀清)という侍に密かに申した

「其の方は三村家親が備中成羽に在城していた時、其の方も成羽に在って、良く見知っているという。
今度、三村の元へ密かに忍び入り、討ち取る手立は無いか?一重に頼み入る。」

このように申されると、遠藤は心安く請け合い、喜三郎の弟、修理(俊通)とただ二人で作州へ忍び行った。
三村は作州穂村興禅寺(興善寺)という寺に屯して居たのを、遠藤兄弟は忍び入り、頃は八月十八日の夜、
宵の内に三村は家臣を集め、物語していたのを、障子紙を破りひそかに鉄砲にて三村家親を撃ち殺し、
恙無く退出して、兄弟とも備前に帰った。

直家は大いに喜び、喜三郎には十万石の知行を宛てがい、彼は遠藤河内守と名乗った。
弟の修理には三千石の知行を給わった。
三村勢は主を討たれて、作州より崩れて備中へと帰った。

妙善寺合戰記

三村家親暗殺事件について



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/04(土) 21:29:31.17 ID:CHhZfdrW
100万石って、盛りに盛ったな…

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/05(日) 00:13:22.74 ID:PDO/dKKm
「ひとえに」って漢字で書くなら「偏に」だぞ

951 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/06(月) 20:41:35.34 ID:ecJp4yJv
まーどう考えても百万石は無いw

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/06(月) 22:55:54.42 ID:SU3aREEw
明善寺合戦記っていつ頃の刊行だっけ

「宇喜多の狐憑き」について、甲子夜話

2019年05月25日 19:26

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 09:39:09.14 ID:rLzlw2E3
『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 10:53:54.78 ID:pkUWqy7a
狐のくせに四国には狐がいないを知らないとか

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:07:47.02 ID:SLI61bsq
>>64
>蟲狐
なんかすげー怖い…。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:19:44.25 ID:8K1a1MKB
こきつね

少しも汝らが気遣いすることはない

2018年11月01日 17:05

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 15:59:21.53 ID:eJY+p62H
宇喜多が毛利との、中国での合戦の時は、宇喜多は少勢にて毛利と対峙せざるを得なかった。
ある時、宇喜多は地下人を備のあとに立たせて軍勢とした。地下人たちは戦に出ることを
好まなかったが、宇喜多はこのように説得した
「少しも汝らが気遣いすることはない。敵の顔すら見ることはない。何故ならお前たちは、
味方が勝てば後ろからそろそろと進めば良いし、負けた場合は最初に退却するからだ。」

(士談)




430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 16:31:56.92 ID:OYaNoOus
地下人は生産人口だから死なれたら困るよね

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 16:36:18.42 ID:UpUBIf1J
数を多く見せたってこと?

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 17:07:05.79 ID:erVV7GEK
ただし弁当代は自費で

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 17:28:41.04 ID:mZ1OB+Xd
俺は戦に参加したんだぜ!って土産話を貰えたな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 10:28:49.46 ID:N+dkrhef
>>433
そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。「ああ、この人は勇士だ!」と。

このたぐいか

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 12:41:06.54 ID:vMEsZMso
浮田の場合は明禅寺合戦だな

宇喜多直家は言葉巧みに

2018年07月27日 10:01

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 00:03:21.50 ID:nvc+W+Pq
備中国の住人、三村修理亮家親の子、元親、実親という兄弟があった。父家親は1年前に
宇喜多和泉守直家の為に殺され、その後この兄弟2人は芸州毛利家へ使いを下した

『親である家親は御味方に参り、ひたすら忠勤を成しました。しかし宇喜多直家に欺かれ、
益無く討たれたのです。父の敵である直家を何としてでも滅ぼしその恨みを晴らしたいと
考えていますが、我ら兄弟の力だけではいささか難し相手であり、御太刀影(助太刀)を
お頼みしたいのです。宇喜多を滅ぼし父が死んだ恨みを散らし、我ら生前の鬱屈を晴らしたいのです。
家親の忠志を思し召し、お忘れでないのなら、御憐憫を給われば、我ら二人もいよいよ御手に属し、
忠節を励まします!』

これを吉川元春に対して嘆き申し上げた。

ところが、宇喜多直家は三村兄弟が毛利へ訴えを行ったことを知るや、毛利を敵に回してはかなわないと
考え、洲波隼人入道如慶という者を小早川隆景の元に参らせ、また安国寺恵瓊を深く頼み
『三村浦上を退治し、備中一国を尽く輝元公に差し上げるでしょう。』と訴え申し上げた。

この時毛利元就は既に老病の中にあり、元春、隆景に対し「能くはからえ」と言うだけであった。
元春は「三村は父家親の時代より当家馳走の者である。宇喜多は一旦言葉巧みに、良きように
言ってきても、それを彼ら三村氏と取り替えるなど考えもできない。その上宇喜多は表裏の者である。」
そう再三に渡り主張したが、宇喜多は安国寺恵瓊などを通して様々に小早川隆景に哀訴し、ついには隆景も
「人質などを出す上は別儀無いであろう。」と、宇喜多の望みを叶えた。
小早川勢は南方(山陽)の担当であったため、山陽の勢力のことについては、隆景の判断に
任されていたのである。

その後、三村はついに宇喜多によって討たれたという。
(安西軍策)

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 01:45:54.66 ID:GayH9LlL
宇喜多に対するため織田と結んだ三村
織田に押されて織田に降った宇喜多

小早川は先を見る目がないな



955 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 05:07:03.62 ID:G0Ciaoxc
この数年後に毛利は播磨で織田と戦う事になるけど、背後の岡山は宇喜多家の元で漸く安定しかけてたところだったから、
1575年に元春の言を容れて三村攻めずに宇喜多攻めてたら完全に叩けてたかは分からないし、下手したら織田の中国侵攻はより早いものになってたんじゃない?
隆景に先を見る目がなかったとは思わないけど

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 05:39:13.12 ID:DXVfv2KC
神の視点ではなんとでもいえる。最終的に維新を成し遂げたのは長州だしな。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 09:53:30.89 ID:ZiRbSX6d
小早川は長州じゃないwww

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:27:07.00 ID:LPTjxN7n
揚げ足とり子猿

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:33:56.52 ID:LPTjxN7n
小早川家は最終的に毛利家から養子もらってんだけど

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 12:43:23.48 ID:IaLFv6CX
長州「うるせー、やんのかコラ」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 12:59:24.32 ID:p3aDYfYw
>>960
橋本はもう居ないんだ…

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 18:11:46.66 ID:MkEPw/Kf
結局宇喜多のが良いコネ持ってたってだけの話だな
その良いコネを掴むのも実力のうち

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 18:29:19.50 ID:UiD44MF2
>>953
別に毛利家は義理人情に厚いわけじゃないし(むしろ…)三村と宇喜多でどっち選ぶかといったらねぇ。

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 19:12:48.21 ID:N/22wCO0
とはいえ相手に恩義を感じさせれば裏切らない駒が出来るわけで
わざわざ恨みを買って敵に回すのはアホのやること

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 19:27:59.40 ID:vgKHLEqs
元春さんは情と付き合い(と宇喜多直家の腹黒さ)を重視して三村氏を
隆景さんは現実的と言うか実利的に判断したって感じかな?

後々も対秀吉で意見が食い違うこの兄弟だけど、2人の将としての資質や思想の違いも垣間見えた逸話な気がする。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 20:24:45.44 ID:z/aV9ADT
鶴田もマサ斎藤もいない…。それどころか、三澤や冬木もいない…。
なのに、猪木はまだいる。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 20:36:55.33 ID:yleoGLak
>>966
天龍「俺は?」

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 21:16:31.42 ID:N/22wCO0
>>963
当時の勢力図を念頭に入れてから発言したほうがいいな
余りにもバカ過ぎる発言だ
それに三村を討ったのは毛利だし宇喜多が毛利と結ぶようになったのは天正に入ってからだろう

【ネタ】このスレの民は、そのニュースを聞いて、ほぼ全員

2018年05月01日 21:09

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 08:02:07.25 ID:gjR9drO4
「海を泳いで渡った」愛媛・今治の脱走受刑者 逮捕の地点は島から西に70キロ

ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180430-00000513-san-soci


某「泳いで参った」


ちょっと悪いどころじゃないですね、すいませんm(__)m


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 11:23:42.98 ID:h+IK6oFg
>>701
このスレの民は、そのニュースを聞いて、ほぼ全員その言葉が浮かんだと思うよ w

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 14:26:37.41 ID:f58LFITG
戸部新左衛門「なぜか人を斬りまくったとか、蛙だけは斬れなかったとか変な伝説が残ってしまった」
花房すけべえ「泳いでこないでいいです、ちゃんと米あげますから」

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 17:47:12.27 ID:r3vDUENS
戦国立志伝では秀家復帰があったよね
大阪の陣にも参戦する仮想なかったっけか?

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 21:46:50.46 ID:GEYW4P21
山を越えてまいった佐々成政と海を泳いでまいってない宇喜多秀家
どこで差がついたか

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 07:53:12.40 ID:Rfh9zVr+
泳いだのは仙谷だろ

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 12:39:33.02 ID:kAASAv65
>>707
それは政治家だ

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 20:19:30.90 ID:RbxcQx5/
???「空を飛んで参りたかった」

宇喜多秀家流罪に及びしこと

2017年02月17日 21:21

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:53:42.57 ID:29qev1l+
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?



606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:57:21.76 ID:7heINWbt
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ

そして今もまだ生きていると聞いている。

2016年11月19日 14:24

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。

八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。

この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。

この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。

但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。

八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。

これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。

(老人雑話)

宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:03:28.64 ID:865MJPbR
>>317
どこのアーサー王だw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:06:53.08 ID:Limq/1QQ
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:58:59.29 ID:gql9sLLB
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 23:33:46.68 ID:Ad/x7wny
2ch発祥ネタじゃねえか

明石掃部介の子は

2016年05月08日 13:31

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 19:18:39.93 ID:TtGhYx1x
明石掃部介全盛(全登)は大阪落城の時、戦場より逃走し潜居した、という説がある。
これによると、大阪合戦の3年後、籠城の者御免という事と成り、明石も押して晴れたる身となったが、
既に老衰におよび、遂に病死した。

その子は明石の苗字を憚り、三方次郎右衛門(或いは三郎左衛門)と名乗った。
物に馴れた者であったが、元和年中に幕府が金山開発を発表した時、気のことを願い
佐渡の金山を掘る事への許可を得た。そこで彼の国に赴き掘り立てたが、金の鉱脈に当たらず、
父が蓄えた金をこれのため残らず失い、京都に帰ろうとした。

その道すがら、座頭の者が、官を進むための金を持って、同じく京に向かう所に行き会った。
三方はこの者に

「その金を是非貸して頂きたい!もしその気がないのなら殺害する!
我が願いが成就すれば即座に返済して官を進ませよう!」

そう命を捨てて言い放った。
座頭も、否といえばたちまち殺されると察し、力なくその金子を渡した。
三方はこの金を持って佐渡に立ち返り、再び掘りかけると、金脈に当たり、
これによって分限者となった。

こうして最前の座頭に早速返済し、検校の位に進ませた。
この座頭も、約束の信義を失わなかった三方に感じ入り、その後入魂の間柄と成った。

金山も次第に繁盛し、三方次郎右衛門は後に帯刀を御免あって、従者に槍など持たせて往来した。
その頃になると三方但馬と称し、裕福にして京に居住して生涯を終えた。病死の後妙覚寺に葬られ、
そこには今も彼の塔があるという。

このように、彼は佐渡において御用の役に立ったが、扶持は下されなかった。
しかし代官同様の待遇であった。

彼の息子は後年禁裏に仕え、深尾左近将監と名を改め、その子も将監を称し、孫は
左近将曹といって、従六位上であったが、享保13年(1728)に病死した。

(新東鑑)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 20:58:48.37 ID:Qdu+qghk
明石全登といえば
子孫がロシアにわたって反乱を扇動し
その後台湾の支配者になったとかいう伝説が

昨日、不始末をし叱った坊主を

2016年01月27日 18:37

42 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/27(水) 08:33:42.92 ID:QK5rajFN
土井大炊頭が、坂崎出羽守愛用の三池典太の脇差を所望し、家臣の寺田某を
坂崎の屋敷に遣わした。寺田から話を聞いた出羽守は
「大炊様から脇差を所望されたのは、名誉なことである。斬れ味
を確認して頂いた上で進呈することとしよう。」
といい、家老を呼び、罪人がいるかどうかを尋ねた。
家老が
「今日はいません。」
と答えると、出羽守は
「昨日、不始末をし叱った坊主がいるだろう。そいつを
連れてこい。」
といい、連れてこられた坊主を木に吊るし、その脇差を抜き打ち
に胴切りにし、坊主の体を両断した。その一部始終を寺田に
見せた上で、脇差を渡した。

坂崎の凶暴さとともに、脇差の抜き打ちで胴を一刀両断にする
恐ろしい腕の冴えを伝えるお話し。

「元禄世間話風聞集」



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/27(水) 10:07:02.40 ID:bmM4omYX
試し切りされる程の不始末ってどの程度の物なんだろ?
三才様家の庭師レベルなんだろか?

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/27(水) 12:27:56.12 ID:+L0D7x0A
銘「大炊、刃に丸」

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 01:54:28.78 ID:jd9xfX/V
土井利勝に刀をもっていかれてムカついたんだろうなコレw

このような時は、武功をなすべきである。

2016年01月12日 18:23

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 02:40:22.81 ID:8ZqBou7N
朝鮮出兵の折、戸川肥後守(達安)の父・戸川平右衛門(秀安)
の家士・馬場重助という者が南天門の棟へ上って中を見ると、
人が1人もいない。

時に、重助は味方を顧みて招いた。同家士の宍耳太郎兵衛は
続いて上り、

「大門の一番乗り、宍耳太郎兵衛!」

と名乗った。これによって、重助は功を空しくした。このような時は、
武功をなすべきである。

――『常山紀談』




931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 10:03:34.52 ID:D8+SgqqM
山内一豊のような強かさ

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 17:22:34.35 ID:jBoLvV2e
あれを笑って許すのが器量ってやつだよなぁ

鉄砲と馬場重助

2014年12月04日 18:32

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 19:21:36.61 ID:bpM16S3p
宇喜多直家のある戦でのこと

この時直家家臣の馬場重助は鉄砲を5段に構えていた所に攻め向かい、3段まで切り崩したが、
4段目から打ち出す鉄砲に脇腹を撃ちぬかれた。

しかし馬場はうろたえず、傷口をしっかりと抑え、戦いを田中藤助に譲って家来の肩にすがり静かに
引き退き、幸いにして命に別状はなかった。

後に馬場はこの時のことを語り
「私は鉄砲に撃たれ尻から崩れ倒れたが、この時敵が我が首を討ちに来るなら、ただでは
討たれまいと敵側を見据えたものの、目が眩み物の色もわからない有り様だった。
そこで暫時心を鎮めて居ると、やがて四方はっきりと分かるようになった。」

そう言ったという。

また備前児島合戦の時、宇喜多七兵衛忠家の子、与太郎大将にて出陣の途中、秣を刈っていた時、
敵が付近にいてにわかに攻めかけてきた。

大将の与太郎は人数をまとめようと一ヶ所で輪乗りをしていたが、敵の鉄砲が内甲に当たり落馬した。
同時に中村宗助も鉄砲に当って死んだ。
馬場重助は馬を撃たれて徒歩になっていた。

大将が撃たれ落馬したために、まずは退却しようとしたが、敵はこれに追い打ちをかける。
ここで馬場は馬を乗り換え殿をして、三度敵を追い返して退いた。
この時、槍の穂先を後ろに向けて退いたが、これは追い来る敵が馬に乗りかけないように
する為であったそうだ。

(明良洪範)

鉄砲に関連する馬場重助の逸話である。



303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 19:58:11.80 ID:gunuaIq0
ここにも不死身の馬場が

307 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/05(金) 09:55:20.35 ID:Lgvoh+zw
毛利との戦いの事で、この馬場さん7本槍の逸話に隠れて戦功が認められなくて切れたんだよ
たしか馬鹿にされて火鉢を真っ二つに切ったはず?
毛利との講和がなった時に本当と証明された。

宇喜多直家は岩法師の傷口に自ら口を当て

2014年12月03日 18:45

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 21:00:01.78 ID:nz7+JUBy
宇喜多家において大剛の勇士と世に知られた馬場重助は、奥州の安倍貞任の子孫で、本姓は安倍であるが、
彼は馬場某の娘を妻とし、終には馬場重助と名乗った。

幼名を岩法師と言い、13歳で戸石の城主宇喜多大和守直家に仕え、天文14年の合戦の時、彼は一番槍を合わせ
傷を負いながら首一つ得て砥石城に帰った。この時岩法師14歳であった。
宇喜多直家は彼を賞賛し、岩法師の傷口に自ら口を当てて流れる血を吸った。

(明良洪範)

宇喜多直家の、勇士への扱いがかいま見られる逸話である。




292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 21:30:37.43 ID:FT38r0QY
>>291
呉起の吮疽の仁のエピソードみたいだな

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 21:46:03.64 ID:nUg8iukD
母親が「あなたが吸ったら息子が早死にしてしまいます」
と言うのか

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 22:35:46.35 ID:w6x3Aw/h
何らかの毒物を吸い出している可能性

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 22:45:01.49 ID:Lw/2ge6H
いやいやホントは吸血鬼だったんや

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/02(火) 23:53:52.73 ID:yfEXCVnP
直家って宗景の夜の相手だったわけだし股間を吸ってたのかもしれん

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 00:07:53.00 ID:y4CNBXEE
DIO的な直家様を想像してしまう

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 02:59:20.68 ID:/FVhHBQt
なおいえ!ザ・ワールド

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 07:48:30.20 ID:EpgPGwHl
時を止めて後ろからブスッとかお茶にサラサラとかやるんかな

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 09:44:21.84 ID:L/vbHwrD
そこへルイスフロイス十字架をかざして....。

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/03(水) 18:28:47.18 ID:MwdX6LHM
>>298
草野仁ボイスで脳内再生された

進藤三左衛門正次の節義・別バージョン

2014年09月16日 18:52

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 23:39:17.67 ID:y4jijLvH
宇喜多黄門秀家は関ヶ原の決戦に負けて後、伊吹山へ逃げ入った。この時付き従ったのは、家臣の
進藤三左衛門正次と言う者ただ一人であった。

正次は秀家にこう申し上げた
「日頃、君が御身に付けられし鳥飼国次の脇差は衆人の知るところです。
これを私に賜れば、私は徳川殿の元に参りこれを謀りたいと考えています。
御身はこの地を逃れ、薩摩方に下ってください。」

そう勧めて、正次はその脇差を持って本多忠勝の陣へと参り、
「私は主人の秀家を手に掛けその死骸を深く埋め、差料の鳥飼国次の脇差しを
持参しました。」

忠勝は「なにゆえ検使を受けずして、密かに死骸を埋めたのか?」と問うと、

「厚恩の主でありますから、例え我が手にかけるといえども、どうしてその首級を
敵に渡し、梟木にかけることが出来るでしょうか?
この脇差は、秀家が常に愛して身から離さなかったことは、内府公(家康)にご存知のはずです。
これを御覧にお入れください。」

忠勝がこれを家康の御覧に入れると
「たしかにこれは本物の秀家の脇差である。彼も秀家を害さなければ、よもや当家に降ることはないだろう。」
そう言って進藤正次を御家人に召抱えた。
しかしその頃の人々これに、「主人を害して己が功にするとは、後にはいかなる御誅伐に遭うか図りがたし。」と
囁き合った。

さて、秀家は虎口を逃れ、かろうじて薩摩へと逃れたが、後にそれが発覚し、薩摩へと仰せ言が下り
秀家は召喚された。そして進藤正次の前言との齟齬も究明された。

正次はこれに
「いかにも、はじめは秀家を逃すために偽りを申し上げました。主人のためにこの身を失うことは
元より期しております。この上はいかなる重罪にも処し給われ。」

この事家康も聴き
「己が一命を捨てて主人を救おうというのは、天晴忠義の者ではないか。」
そう賞賛して俸禄をそのまま与えた。

秀家が八丈島へと遠流された後も、正次は旧恩を忘れず、しばしば船舶の便に米金を送っているということも、
後にまた家康の耳に入り、御感に預かり五百石が加増された。

(武家閑談)

進藤三左衛門正次の節義
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8615.html
これの別パターンですね




進藤三左衛門正次の節義

2014年07月17日 18:51

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 22:16:02.06 ID:i5spjsh6
宇喜多秀家の家臣に進藤三左衛門正次という者があった。
彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。

正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。

家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。

さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。

先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。

(徳川実記)

徳川家康宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。

関連
進藤三左衛門正次の節義・別バージョン


宇喜多殿についての事

2014年05月03日 19:03

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 19:44:22.17 ID:EoHCg8jK
宇喜多殿についての事だが、これは元々備前の士であった。当時、浦上という者が備前美作
両国の主であり、宇喜多直家はこの浦上の家臣であったのである。

この直家は悪性の人物であり、国郡を持つ人と縁者などになって、後にこれを殺して奪い取ることを
度々行った者なのである。
最後には主君である浦上をも殺し、終に備前美作両国の主となった。

八郎殿(宇喜多秀家)はこの直家の子である。彼が太閤(秀吉)と非常に良い関係となったのは、
秀吉が備中高松城を攻めていた時、明智光秀による本能寺の変の情報が伝えられ、秀吉は引き返したいと
思ったが、なかなか自由にならなかった。

この時八郎殿は秀吉に味方し、力を添えたので、それもあって高松の城主に腹を切らせ、一気に反転して
上京をすることが出来た。この忠功によって親密な関係となり、秀吉は八郎殿を聟に取った。
ただし秀吉には息女がなかったので、前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟とした。

この時分は、八郎殿は未だ10歳ばかりであった。高松攻めのころは直家も未だ生きていたのだが、
瘡毒のため人前に出ることも出来ない状況にあったため、八郎殿を国主分とし、宇喜多家には
5万石3万石領有する強力な家老たちがあったので、彼らが談合して高松の時も秀吉に協力したのだという。

八郎殿は太閤の聟となりまた官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。治部少輔(石田三成)の乱まで
治部方であったために、関が原が東照宮(徳川家康)の利運となると、八丈島へと流された。
彼は現在も生存しているという。癸卯の年(1663年)、老人(江村専斎)が99歳の時に語った話である。

(老人雜話)

老人雜話の、宇喜多直家・秀家親子についての記述である。




193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 22:41:17.62 ID:WGfCPeAy
>>192
永田徳本「八丈島で不老不死の霊薬が採れると聞いて」

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 22:58:56.80 ID:uD1Xe7rS
>最後には主君である浦上をも殺し、終に備前美作両国の主となった

浦上宗景「あれ、ワシ直家に殺されたっけ・・・?」

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 00:44:22.77 ID:7yiHoIbP
>>194
直家が担ぎ上げていた浦上政宗の孫じゃね?

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 01:14:58.08 ID:Kz69vmly
浦上はむしろ直家台頭後に畳の上で死ねたのが宗景しかいない気が