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安宅冬康謀殺

2020年06月13日 17:25

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/13(土) 16:52:47.32 ID:7qGqU/gu
永禄3年(1560)より同4年の間、苅屋衆(水野氏)と岡崎衆は競り合うこと度々であった。
そこに信長より水野下野守(信元)をもって、元康へ色々と和談の扱いあり。互いに起請文を書
き取り交わして和談が済み、岡崎衆と尾州の戦いは無くなったのである。

またその頃は京都の諸司代・三好修理大夫長慶の領分は五畿内、播磨、但馬、淡路、阿波、以上
10ヶ国。その侍は下知に従い、公方様や管領と申せば名のみばかりで権勢も無し。

永禄5年の春、かの三好殿の家老・松永弾正は、三好殿の弟・安宅摂津守冬康と不和なので冬康
に逆心ある由を申し遣わしたが、三好殿はまったく臆し給わず。

その時、松永は謀を巡らして安宅殿の右筆の侍が浪人していたのを頼み、叛逆の廻状を作って謀
判を致し、数十通を取り出して三好殿に密かに見せ奉った。これに三好は驚き給い、淡路から冬
康を呼び越して、道で松永衆が生害した。誠に無残の次第なり。

――『松平記



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『三好の平和』

2020年06月05日 17:43

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/04(木) 21:22:46.04 ID:zooui/se
天文二十四年(1555)正月、三好長慶は明石、三木表を帰伏させ播州も平治せしめると、
同二月二十七日、帰郷した。摂州、淡州、阿州の諸勢各々凱旋し皆帰国した。

そのような中、長慶の武威は日を逐って遠近に振り響き、今は畿内近国に相手に足る者も無きが如く、
三好家は次第に繁栄した。

同年十月、改元有って弘治元年となった。

同二年正月二十七日、夜半より彗星出現し、人々は皆「また世に何事か有らん」と言い合った。
六月十五日、長慶の亡父である故三好海雲居士元長の、二十五年の遠忌であり、この追善を修せんが為に、
長慶自ら泉州堺の津へ下向し、故国である阿波からも親族が数多上津して、当津の顕本寺において、千部の
読経、十部の頓写、その他様々の作善を行い、威儀正しき法事を行った。
この顕本寺は故海雲最期の場所であり、彼は自害のとき、腸を繰り出し仏殿の天井に投げつけた。
その跡は明白に、今以て残り、諸人これを見て感歎した。
法事が済むと、各々退散した。

同七月十日、長慶の執事である松永弾正久秀が、布引瀧山城に準備をして、主君長慶を請い侍り、
その他一家の衆中も会し。饗応奔走の上に、種々の遊興を催し、猿楽の能が果てると百韻の連歌があった。
三好長慶は本より乱舞堪能の聞こえあり、連歌に至っては都鄙に隠れ無き名人であった為である。
その後各々帰府した。

さて、この布引瀧山城は河州(摂津の間違い?)において代々楠家の居城であったが、近年楠氏は
浪人の身と成り、この城を退去したために、松永はこの城を居城とした、山中には故正成を始めとして
楠先祖代々の墳墓が現在も有るという。

そうして、近年三好家の武威を以て近国は暫く無為に帰し、今年翌年と、うち続き兵革の煩い無く、
このため京都には警護の武士を遣わし置き、長慶自身は芥川に在城して多年の軍労を漸次休息し、
千句の連歌を興行して心を慰め気を養い、二、三ヶ年安居した。

續應仁後記

畿内における『三好の平和』の様子



芥川孫十郎の裏切り

2020年06月01日 18:13

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/01(月) 13:32:21.62 ID:oLIH1Ibq
細川晴元入道は、元来愚蒙にして心軽き人物である故、今度の是非無く三好長慶と将軍・義輝の和睦が成立し、
心ならずも遁世者と成ったために、その心安からず、またかの家の浪人共は身の置所も無いままに、猶も
野心を含み、ややもすれば一揆を企て、騒動更に止むこと無かった。

そのような中、三好長慶はこの年、近国の乱を鎮めんとして、天文二十一年(1552)四月二十五日、自身
五千余騎を率いて丹波国へ発向した。摂州上下郡の者共も同じく丹州へ陣立てし、当国の波多野弥兵衛尉晴通
の館である屋上の城を攻めた。

ところが、如何したのか三好長慶の妹聟である芥川孫十郎は俄に心変りして、摂州の池田出羽守、小川某などと
語らい、羽多野と内通、一味して長慶への謀反を企て、剰え晴元方の諸浪人を語らい集め、晴元入道をも
一方の将に立てんと催した。

こうして、明日の合戦で裏切りを行い、長慶とその執事である松永弾正(久秀)をも討ち取ろうと企んだが、
猶も味方を語らんと、摂州の住人である有馬源次郎重則を頼んだ所、有馬は元より無二の長慶の味方であり、
すぐにこの企てを長慶に告げた。長慶は驚き「さては味方無勢なり。明日の軍は叶わじ」と、
同五月二十三日の夜、たちまち軍を引き払って密かに摂州の有馬郡に引き取った。
このため逆心の者共は手を空しくして屋上城中には引き入り後悔した。

このように、晴元方の浪人共は騒動し、また晴元入道も未だ野心を含めているという様々の雑説があり、
長慶は思慮を廻らせて、晴元の嫡男である聡明丸を京都に置いたままにしては敵徒に奪い取られ、後難出来る事
有るべしと考え、同六月三日、聡明丸を京都より鳥羽まで出し、船に乗せて川を通り、摂州の尼崎へ
差し下し、同五日、越水城へ入れ置き、ここにおいて養育し、聡明丸が成長するのを待った。

續應仁後記

芥川孫十郎の裏切りについて



99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/01(月) 13:41:06.73 ID:HA9CZNui
昨日は妹婿の芥川が今日は敵、まこと畿内情勢は複雑怪奇

将軍義輝の帰洛

2020年05月30日 17:08

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/30(土) 13:22:42.00 ID:pexHAR2w
明けて天文二十一年(1552)春になると、去年以来、佐々木六角義賢より三好筑前守長慶へ様々の計議を
廻らせて、公方家(足利義輝)御入洛の義を取り扱い、この春に又、楢崎某を使いとして猶この事を催した。
長慶方よりも、日野上人を使節として色々の陳答有り、徐々に和平が相調った。
この時、三好長慶の申し述べる趣きは

『私は公方家に対し、元より異心はありませんが、私の父の仇である細川右京兆晴元が猶も私を亡ぼそうと
される故に、度々合戦に及び、この時公方家も晴元に一味ましますに依って、私は心ならずも御敵と成った
事は、世の通知する所です。然れども、公方家の御命の危うい時は、私はわざと陣を引き去って忠志を立てた
事多い。

然るにかの晴元は、私の一族である宗三入道(三好政長)の讒言を信じて、亡父海雲入道(三好元長)が
忠功の者であるのに、忽ちに殺された。その恨みは骨髄に徹するものではありますが、元来晴元は主君の
筋目であり、その上、私は武功を以て宗三を討ち取ったので、先ず父の仇は報じたるものであります。

今は、晴元が世に望み無く隠居され、その御子に家督を譲った上でこの長慶に渡されるという事であれば、
三好家が後見してその御子を取り立て参らせます。そうなれば、我等は晴元の御命を失うまでの事は
要求しません。この条件に同心され、晴元が剃髪の姿と成って居館を開かれれば、現在の管領には
細川氏綱を申し成し、右京太夫に補任有らしめ、その後、晴元の御子成人の時、管領職を与奪せしめ、
再度かの御子に京兆の家を相続させ、管領に申すべきです。

この条件を受け入れ、公方家は元のように御入洛され、御政務有るべし。』

長慶が申す趣、愚ならずして、公儀御内談一決の上で、御約条を交わし、和睦はここに調った。
これによって、同正月二十八日、公方家は江州朽木谷を立って御帰洛され、元の如く二條の御所に
お入りに成った。

この時、細川晴元の嫡子・聡明丸(細川昭元)といって五歳であるのを御供に召し連れられ、人質のようにして
三好家に渡された。これは六角定頼の息女、義賢にとっては妹の儲けた一男である。二男は義賢の元に
預かり置かれた。この時、六角義賢も公方家の御供をして上洛し、御帰京の義を賀し申した。

細川右京兆晴元は、心ならずも髪を剃り、永川斎心月一清と名を改め、江州堅田より父子相別れて流浪した。
晴元の家人たちも、思い思いに髻を切り、出家の姿と成った者は八十人余りであった。
主従散り散りに落魄し、皆人に哀れを催した。

さて、三好長慶は日時を移さず公方家に出仕を勤め、洛中に権威を振るった。
同二月二十六日、細川次郎氏綱が上洛有って、故武州禅門常桓(細川高国)の跡目と号し、則ち家督を
相続して管領職に備わると、同三月十一日には右京太夫に補任された。舎弟の四郎藤賢も同日、右馬頭に
任じられ、典厩の家を相続した。誠に栄枯一時に変じ、皆人奇異の思いを成した。

續應仁後記

将軍足利義輝の帰洛について。



三好長慶暗殺未遂事件

2020年05月29日 17:14

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/28(木) 23:38:04.73 ID:x6GpqbkU
天文二十年(1551)春、公方家(足利義輝)は洛外の宝泉寺に御座有って、萬松院殿(足利義晴)の
御追悼に、乱世を兼ねて御嘆息され、日々心腑を悩まれた。管領の細川右京兆晴元、彼の舅である
六角父子(定頼、義賢)は無二の味方を申し上げて、随分に守護し奉った。
御敵徒である三好筑前守長慶は去年より在京して、五畿内に甚だ威を振るい、この頃は江州をも退治
せんとて、この二月七日に、家人松長甚助(松永長頼)兄弟を軍将として人数を差向け、江州志賀郡の民屋を
放火した。当国の守護、六角義賢は家臣の堀伊豆守、鯰江相模守に三百余騎を付け、湖上を渡ってこれを防ぎ
戦うほどに、松長兄弟は打ち負け帰洛した。

さて、洛中には公方家の寵臣である伊勢守貞孝父子(貞孝、貞良)が在京していたのだが、三好長慶
細川晴元にこそ遺恨は有っても、公方家に対して異心なしとの事で、貞孝父子に諸事相談し、互いに
心底を隠さず、是非を糺して政道を執り行ったため、京中は平和に治められ、諸人安堵の思いを成した。

このような中、同年三月十四日、貞孝は館に長慶を招き饗応した。その酒宴も半ばの時、公方家の小侍である
進士美作守晴舎の甥である、進士九郎賢光という者が、貞孝の元に寄宿していたのだが、その座に走り出て、
腰刀を抜き持って、三好長慶を二刀突いた。

長慶は元来早業の人であったので、床に有った沈香の枕を持って、刀をひしと受け留めた。そのため一刀は
身に当たらず、二刀目は当たったが浅手であった。

そこで進士九郎は迫り詰め、引き組まんとした所を、ここに長慶の同朋衆である何阿弥という者が相伴に侍って
いたのだが、そのまま進士九郎に抱き着いた。それより座中に有った人々、我も我もと走り寄って、進士九郎
斬り伏せ、刺殺した。
進士九郎は大剛の者とは見えたが、運命が尽きたのだろう、本望を遂げずして亡失した。

その頃の巷の説に、「これは進士九郎が、窮迫している公方家の御内意を蒙り、長慶を殺そうとした」とも云い、
また「本領を没収され、遺恨が有った故である」とも沙汰され、その理由については一致しなかった。
しかし何れであっても、当時威強き三好長慶に、独夫にして突き殺そうと企んだ事は、大勇の者と言うべきであろう。
そして三好長慶は運が強かったのだろう。危うき命を助かり、しかも浅手であったので、その疵も程なく平癒した。

同年七月、細川晴元方の多勢が坂本より出張して相国寺も陣取ったが、同月十四日の早旦、長慶自身が
押し寄せ、火を放って攻めると、晴元勢は打ち負け江州へ引き返した。
その後洛中には戦乱無く、この年は無為に暮れた。

續應仁後記

進士九郎による三好長慶暗殺未遂について



231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 00:14:58.43 ID:R/rUf/c4
浅野内匠頭は不意を打って一方的に抜刀までしといて標的仕留めそこなうとかダッサと当時言われてたみたいだけど
進士賢光は大勇なのね

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 00:31:53.41 ID:eUQEf23X
長慶さんが不得意なことはないのか

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 01:18:33.39 ID:CFsNOVjD
>>232
長生き

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 01:31:13.84 ID:IczLibkM
>>231
多分浅野内匠頭も、討ち損なった後その場で切腹するなり斬死するなりしたら
評価は全然違ったと思う。

三好元長の滅亡

2020年05月14日 17:20

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 01:04:19.56 ID:xkIpefxS
享禄五年(1532)、細川晴元の要請による一向門徒一揆の輩は、畠山義堯を討つと、その勢いで
三好元長入道海雲を討ち取らんと堺へ向かった。

六月十九日の夜、元長は妻子を近づけこのように申した
「敵は今にも攻め寄せ、多勢が路を遮るため、落ち行くことは難しい。私はこの寺にて腹を切って死ぬ。
其の方は如何にもして、嫡子千熊を伴い急ぎ阿州へ落ち行きて、ここの有様を讃州持隆へ申し上げ、千熊を
預け奉って家の運を待ち給え。」

と暇乞いをした。妻女は名残を惜しみつつ「同じ枕にて死に遂げん」と涙を流して申されたが、供の侍が
押し分け妻女も千熊も疾く疾くと追い立て、小舟に乗せて漕ぎ出し、阿波国へ落ちていった。
海上遥かに隔たった頃、夜はほのぼのと明けた。この千熊丸、成長の後は四国五畿内、おしなべて天下に
威を振るった三好修理太夫長慶と云われた人である。

去るほどに、明ければ六月二十日、和泉、河内、摂津三ヶ国の一揆十万余人、馳集まって三好元長の陣所、
堺の津南ノ庄へ取り掛かり、鬨の声を上げて攻めかかった。三好山城守(一秀)、塩田若狭守等は随分
防ぎ戦って、一先ずは一揆を追い散らしたが、寄せ手は限り無い大勢が、幾重とも無く取り囲んで、入れ替わり
入れ替わり、息をも継がせず攻めかかった。また元長の陣所である南ノ庄の者たちも、一揆勢に説得されm
俄に心変わりし所々より敵を引き入れたため、もはや何処を防ぎ留めるという事も出来なかった。

三好元長は、「軍には取り合わず、敵を防ぐに及ばず」と、日頃信仰している日蓮宗の顕本寺に立て籠もり、
「これこそ閑所なり。思いのままに腹切るべし」と云っている所へ、ここにも敵は寄せてきて、四面を
取り巻いた。そのころ、阿波の御所である足利義維は河内国四条の道場に居られたのだが、これも顕本寺に
入られており、一揆等はこれも取り込めた。

三好元長は当寺の本堂に端座して、腹十文字に掻っ切り、腸を繰り出して天井へ投げつけ、臨終正念に
死去した。その腸の跡は、近年まで顕本寺本堂の天井に残っていたと聞いている。
三好山城守一秀も、お伴申さんと続けて腹を切って死ぬと、塩田若狭守、同子供二人、加地丹波守父子、
その他都合二十余人、尋常に居並んで腹を切って死んだ。御所侍の上杉等も八人自害した。
この日、三好方死亡の者上下七十余人。一揆の寄手等も三十余人討たれた。
阿波御所(足利義維)も既に御腹を召されようとした所を、晴元方より使者が来て御刀を奪い参らせ、
人数多警護し奉って元の如く四条の道場へ送り入れ奉った。誠に危うきことであった。

さても細川晴元は、言う甲斐もない者共の讒言を信じて、老臣である三好元長を殺した事は、一家の衰運、
このような事が何事があろうか。例えて世の諺に言うならば、天竺に有ると聞く銘々鳥という鳥、胴は
一つで喙は二つ有り、二つの喙が互いに餌物を争い、一方がもう一方の喙を喰い伏せれば、残る喙も胴も
一度に倒れ死す。今晴元のやったことは、この鳥に異ならず、遠からず滅亡するであろうと、心有る人は
言い合った。

續應仁後記

三好元長の滅亡について



阿波国三好之系図

2019年06月06日 15:46

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 21:36:25.57 ID:q6z+kKQZ
阿波国三好之系図

三好の元祖は信濃国の小笠原成由(原注:ある説は長房)の後胤である。阿波国三好郡に居住する故、
三好という。

之長

初めは三好主膳正と号し、細川氏に仕えて後に筑前守と号す。三好に在城す。

三好が天下に名を顕したのは文明の頃。北国勢が2万余騎で都へ攻め上ったのを、細川が対陣の時に
三好は3千騎で先駆けして洛外で合戦した。

北国勢の謀には車菱という物を先手の者に1つずつ持たせ、逃げる真似をして道にまき、その菱を敵
に踏ませて、たじろぐところを討ち取ろうとの企みであった。

ところが三好勢が少ないのを見て、「味方の同勢は待てない。先手の勢だけで三好を討ち取れ!」と、
かの車菱を投げ捨てて掛かって来た。

三好は小勢であるといえども、各々が心を一つにして槍の柄を四方竹に拵え、之長の下知に任せ一同
に掛かったため北国勢は敗北したのだが、捨て置いた車菱を踏み立てて慌てふためいた。北国の後陣
も道を塞がれ、助けに来る者が叶わずに見えるところを追い詰めて1万ばかりを討ち取った。

その後また京都の合戦(等持院の戦い)に打ち負けて之長は切腹した。法名・喜雲。

――『阿州将裔記』




三好義継三家老の別心

2019年05月31日 15:25

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 14:30:07.73 ID:lX7j0Ovy
霜月4日。信長御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。

三好左京太夫殿(義継)が非儀を構えられたことにより、家老の衆である多羅尾右近(綱知)・池田丹
後守(教正)・野間佐吉(長前)の両三人が別心を企てる。

金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので、(両三人は)金山駿河を生害させて佐久間右衛門(信
盛)を引き入れて天守の下まで攻め込んだところ、(左京太夫殿は)叶い難しと思し召して御女房衆と
御子息達を皆刺し殺して切って出た。数多の者に手を負わせると、その後に左京太夫殿は腹を十文字に
切って比類なき御働きをされた。哀れなる有様なり。

御相伴の人数は那須久右衛門・岡飛騨守・江川。この3人が追腹仕って名誉の次第はこの節なり。若江
の城は両三人の御忠節に付き、(両三人に)預け置かれた。

――『信長公記』


義詰(義継)

長慶の息男である(実際は十河一存の子)。三好左京太夫と号す。天文の末より河内国若江に居住した。
将軍義昭公の妹婿なり。

天正の初めに義昭公を信長公が配流なされた時に「義詰は義昭公の妹婿で三好の惣頭なれば、とにかく
討ち果たせ」と、信長公が若江の城へ攻め寄せなさると、義詰の家老3人が信長公へ返忠した。

義詰は「この上は戦うべきにあらず」と大手の矢倉に上がって腹を十文字に掻き切り、臓を掴み出して
投げ捨てた。そして遊佐与伝という者を呼んで「介錯せよ」と申せば、与伝は畏まって太刀を振り上げ
るも、兜に妨げられて「介錯ならず!」と申した。

すると義詰は両手で兜を押し上げなされ、与伝は両手をかけて義詰の首を打ち落とし、差し上げて敵に
見せると、矢倉に火を掛けて同じく腹を掻き切って死んだ。

信長公は見なさって「天晴、大将かな。このような主君を持って逆心をなした家老どもの浅ましさよ」
と、惜しみなさったと聞く。

また一説に義詰は病死と言われている。誤りなり(三好義興との混同か)。

――『阿州将裔記』



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 17:07:14.84 ID:iWjrhi5I
>金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので

ここはどういう事を指してるんだろう

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 08:55:47.76 ID:tqmeloYc
オラ達は信長様に逆らっちゃなんねえってあれほど口酸っぱく言ったのに主君を唆してひどい奴だ!そうなんですコイツが悪いんですよ佐久間様!金山責任とれ切腹だ!

国を守護して三好家は繁栄したが

2019年05月29日 18:23

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 00:59:29.72 ID:aWEGs2Wh
右の他に三好家は数多存在し、阿波国の所々に居城す。また五畿内には三好山城守入道笑巌
(康長)・同日向守(長逸)・同下野守入道釣閑斎(宗渭)・岩成主税助(友通)・松永弾
正(久秀)とかれこれ所々に居住す。

讃岐には十河一存・瀧宮豊後守、伊予には真辺・石川、淡路には安宅・野口、これは皆実休
(三好実休)に近き一門なり。

国を守護して三好家は繁栄したが、長治(三好長治)が悪心である故に一類は互いに遺恨が
出てきて、親子兄弟が立ち別れて敵となり味方となり、討ちつ討たれつ相果てた。また土佐
の元親(長宗我部元親)にも大方討たれ、信長公・秀吉公の代にもあるいは討たれ、または
他国へ落ち行き、ついに滅んだ。

――『阿州将裔記』



どうして『天下を進ぜられましょう』と

2019年05月22日 13:19

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:10:48.03 ID:D7yWtb0Y
三好筑前守(義興)。実名存ぜず。長慶嫡子。

摂津芥川に在城。20歳ばかりで病死致されたとの由を申す。

由座(遊佐か)・畠山(高政)が飯盛の城へ押し寄せて長慶は少ない人数で籠城したため、落城と極
まるところに筑前守は芥川の城でこれを聞き申され、松永(久秀)と相談して「後巻致されるべし」
と談合は極まった。

しかしながら、少ない人数のために成し難いため、安宅摂津守(冬康)に「味方に加わりなされ」と
三好下野(宗渭)を使者にして淡路へ差し遣された。安宅は同心申されて、松永・安宅が先手となり
筑前守は飯盛の後巻として出陣、大敵を一戦で追い払い申された(教興寺の戦い)。この時、筑前守
18歳という。

松永と安宅が先陣を争い申された時の筑前守の裁判は肝を潰したとの由を、三好因幡(為三。宗渭の
弟)の話で承った。

この時に下野守が淡路へ参って帰り、筑前守は「安宅は味方を致しなさると申されたか」と、尋ねな
された。これに下野守は申して「いかにも御同心です。しかしながら、安宅殿に似合い申さぬことを
仰せられました。『御合戦が御利運となったならば、どこの国を下されるのか』と御申しです」との
由を物語り致した。

これに筑前守が「返事はどのように申したのだ」と尋ねなさると、下野守は「『御国はいずこなりと
も御望み次第』と請け合い申しました」との由を申した。

すると松永はこれを聞いて「下野殿とも思えぬ返事を申される。どうして『天下を進ぜられましょう』
と申されなかったのか」と申したという。

この由を側で承ったように因幡は話申された。

――『三好別記』



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 10:33:26.45 ID:hDnie7Gp
>>57
天下の望みが本当かどうかの確認ですね

また三好長春は淫乱不道にして

2019年05月20日 16:51

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 16:33:26.02 ID:0Xfn6F6C
また三好長春(長治)は淫乱不道にして、昼夜酒宴遊興ばかりなれば、酒飲みやおどけ者、軽薄者
ばかりが出世し、少しでも質実な者を「気詰まりなり」と嫌って自分の周りへも寄せ付けず、母儀
の叔父・岡本卜世(原注:岡本美濃守弟)が諫めるけれども聞かず、上下は疎み果てたのである。

また上方よりゑつた(河原者)が下り、本来を隠して勝瑞の町人になった。されども隠れなくして
傍人は付き合いを厭い、そのゑつたを追い出そうと企てたが、かの者の子は生まれ付き優れたので
長春の小姓に使われ出世したためにそれも叶わず、諸人は誹り非難した。

――『三好別記』



59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 10:21:51.76 ID:hDnie7Gp
>>51
ゑつた、つまり穢多のことですね

良き大将でござった由を

2019年05月20日 15:51

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 03:38:02.63 ID:lSOa7hwQ
安宅摂津守冬康。法名・一舟軒。長慶弟。

淡路国守護。度々手柄を致す。良き大将でござった由を申し伝える。隠れ無き歌人でござった。

天下の望みがある由につき、長慶は家老の松永弾正久秀や三好下野守(宗渭)などと相談して、
後には摂津芥川の城において、吉成勘助と申す者に申し付けて成敗致した。

供に参った家子は数百人。安宅の家老・里吉と申す者などは殊の外働き、いずれも討死。味方に
も手負い死人数多ござったとの由を申し伝える。長慶嫡子・筑前守(義興)在世の時と聞き申す。

――『三好別記』



47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 08:17:43.22 ID:BV914y30
安宅冬康「三好池田の安宅屋のあたぎや羊羹でござる」
http://www.atagiya.co.jp
松永「ありがたい、お茶を点てましょう」

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 08:52:01.21 ID:pftXFin2
>>46
>供に参った家子は数百人
合戦だなもうw

主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった

2019年05月13日 15:39

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 22:30:14.96 ID:gJMRiBMX
まとめの10249「久米の乱」という
勝瑞事件の後に三好実休の舅であり、細川持隆の家臣の久米安芸守義広が
三好実休の主君殺しに怒って仇討のために起こした乱(鑓場の戦い、鑓場の義戦)があるけど
自分の娘をさしおいて主君の妾を奪うとは!という動機もあったとかなかったとか。

ついでにこのとき、久米義広に従って三好実休と戦い、ともに討ち死にした者に佐野丹波守(丹後守?)範房という人物がいた。
「源氏赤松之族 阿波佐野氏系図」によれば範房(系図には「丹波守 三好乱軍之節討死」とある)には
持貞という兄弟がいたようだが、佐野持貞については
18世紀末から19世紀初めにかけて徳島藩により成立した「阿波志」第六巻(三好郡)に記述があり、それを読むと

「源持貞 佐野次郎左衛門。赤松の族。三好に従い阪東に戦う。
持貞の子・左馬允範成、平義広(久米義広)の女を娶る。
源義賢(三好実休)が持貞に与えた感状を代々伝えている。」

「持」は細川持隆からの偏諱だろうから
主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった、という戦国らしいどろどろしたお話。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 23:20:42.11 ID:gJMRiBMX
と書いたところで
「義賢」は三好実休のことではなく息子の十河存保(義堅とも称した)のことで
「阪東」の戦いは長宗我部との戦いのような気がしてきた。
これだと代替わりしてそれほど悪い話じゃなかった。申し訳ない。



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:36:38.24 ID:rANbibdw
>>26
妾といえど主君の母なので格が上
なので正室の娘が妾に格下げされたのに怒ったのでしょうね

そこで法体となり“実 休”と呼ばれ

2019年05月13日 15:38

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 21:10:14.32 ID:kaPKSgKx
勝瑞事件後)

さて、細川殿(細川持隆)の妾である岡本美濃守の娘・小少将の腹に男子1人あり(細川真之)。
実休(三好実休)はこれを聞いて男子を主君と仰ぎ、母儀を内室とする。そこで法体となり“実
休”と呼ばれ、殺奪の罪を補った。

――『三好別記』


一、実休は計りをなして讃岐守持隆の子息・掃部頭を取り立てる。掃部頭は阿波国の屋形に居住
  致したけれども、事あるごとに実休の所為に任せたのだという。

一、細川讃岐守持隆の妻女は周防国大内介(大内義興)の息女である。(持隆の自害によって)
  故郷に帰って、発心なされたのである。小少将という持隆の妾女は、岡本美作守の娘である。
  (持隆の)男子を1人生んだ。実休はこれを娶って妻とし、また男子2人女子1人を生んだ。
  長子は彦次郎長治、次男は孫六郎存保(十河存保)と称す。

――『三好家成立記』











例の猩々緋よ、唐冠よ

2019年03月11日 17:14

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/11(月) 09:25:27.29 ID:rW6/n506
摂津半国の主であった松山新介(重治)の家臣である中村新兵衛は度々の手柄を顕した勇将であり、
時の人は彼を「鑓中村」と号して、武者の棟梁と讃えた。

彼は戦場において、羽織は猩々緋、兜は唐冠に金纓を用いていた。敵はこれを見ると「すわ、
例の猩々緋よ、唐冠よ!」と、戦う前から敗れ、あえて向かい近づく者も無かった。
ところがある人が、中村にこの羽織と兜を強いて所望し、彼はこれを与えた。

その後戦場に臨んだ時、敵は中村の羽織と兜を見なかった。これ故中村の部隊に対し
競いかかって切り崩しに来た。中村は鑓を振るって敵を多く殺したが、中村が居ると知らない
敵はこれを恐れず次々と向かって来、彼は遂に戦没した。

これより、敵を殺すのが多いからと言って勝つわけではない、威を輝かして敵の気を奪い、
軍勢の心を挫けさせる事が大切なのだと理解すべきである。

(武将感状記)



781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/11(月) 11:52:08.86 ID:drPnIBZj
初陣の松山重治の若殿に貸したとか、死ぬ間際に後悔したとか脚色はあるが
菊池寛がそのまんま短編にしてるな

和田新五郎の処刑

2019年01月31日 17:25

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 13:45:06.32 ID:h4t6uh2G
天文十三年八月十一日、一条戻橋にて一人の男が処刑された。
男の名は和田新五郎三好長慶の配下である。
新五郎は将軍足利義晴の嫡男、菊童丸(義輝)の世話係の女房と密通した罪で捕縛されたのだ。

新五郎の処刑は後に長慶と対立することとなる義晴・晴元の裁定によって行われたという。
その方法は凄惨なものだった。
新五郎への刑罰は「鋸挽き」と決まったのだが、まずはじめに縛り上げられ身動きの取れない新五郎の右手が鋸で切り落とされた。
次に苦しみ悶える新五郎の左手が切り落とされる。最後に頸を落とされ、漸く新五郎は絶命した。
続いて新五郎と密通した女房も一糸纏わぬ姿で洛中を引き回された上で、六条河原で首を打たれた。
この処刑は当時としても残忍な仕打ちとして都の人々に受け止められ、山科言継は日記に「前代未聞」と記している。

後に長慶は主君・晴元に対して反旗を掲げることになるが、この頃には既に晴元(と義晴)との暗闘が始まっていたっぽい話。


松永「だから言ったのに…」

2018年09月27日 18:55

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 22:51:21.90 ID:iu+zB/OK
永禄三年十二月、十河民部大輔一存と松永久秀はその仲悪しく、常に不快を現していた。
その頃、十河は病を煩い有馬温泉へと湯治に向かったが、この時松永は意見申した
「有馬温泉の権現は葦毛馬を御咎めある神であり、その馬は用いるべきではない。」
しかし十河は松永の申すことを用いず、また松永も十河の言うことを背ける間柄であり、
この時も十河はこれを聞かず、葦毛の馬に乗り湯治のため山を登ったが、案の如く落馬して
たちまち死去したのは不思議な事である。命運尽きるとは言いながら、あえなき事である。

(足利季世記)

松永「だから言ったのに…」



211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++
>>206
警告したから暗殺してもばれないな!ってことじゃあるまいなw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 22:29:03.73 ID:pcpbQ0P5
>>206
上杉定正「落馬して命を落とすとは…」
鬼義重「武士の名折れよ」

源義朝・太田道灌「温泉いいよね!」

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 23:50:11.14 ID:nWlOr0St
>>227
源頼朝「呼んだ?」

三好義興の死について

2018年04月12日 16:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 12:32:24.60 ID:rQneZYFw
永禄六年卯月(四月)朔日に、雷がおびただしく落ち京中振動し、東寺の塔へ雷火落ちかかり
たちまちに焼失した。これは、三好家があまりに驕りを極め天下に威勢をふるっているが故に、
天道は満つれば欠ける習いなれば、全ての物に有る、余りに過ぎて溢れる時節が到来したため、
このような天災のお告げもあるのだろう。この上に一体何事があるのか。
そう人々は危ぶみ思った。

そのような中、果たしてその年の八月二十五日、三好長慶の一子、筑前守義興が芥川城にて
死去した。黄疸という病に罹り、たちまち死に及んだという。
父長慶は申すに及ばず、公方義輝も御愁傷限りなかった。

この死について、義興が近くに召し使う者の中に、食事に毒を入れて奉りかく逝去したのである
という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。

長慶は家督相続の子を無くし、十河一存の子息・熊王という者を養子とし家督に定めた。
三好左京大夫義続がこれである。三好家の政道は専ら松永と三人衆の心のままであり、
勅命も恐れず武命(将軍の命令)も用いず我意に任せていた。

(足利季世記)

三好義興の死について



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:33:57.72 ID:R36Ud/OQ
雷の失火まで政治のせいにされてしまうのか
まあ、場所が場所だからなんだろうけど

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:40:53.12 ID:BPEyr8p9
前に国会議事堂に雷が直撃した時、政治がどうのとネタにされてたような

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:53:00.31 ID:OpdJpaR+
>>662
ヨーロッパですらリスボン地震までは天災はキリスト教的に正しい行いをしていないための天罰という扱いだから、
近代になるまでは世界のどこでもそうだと思う。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:56:56.51 ID:BPEyr8p9
リスボン地震の翌日にマリー・アントワネットが生まれた
つまり天罰と言うよりむしろ王朝崩壊の予兆だったのだ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 23:08:39.91 ID:IIMqBX7W
>>661
>という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。
            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
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     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
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  /       z W`丶ノW     ヽ
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誠に多年旧功の主従であり

2018年04月10日 09:49

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/10(火) 08:48:28.09 ID:TUp17M1l
永禄4年(1561)正月十五日、三好修理太夫長慶父子は上洛し、公方様(足利義輝)方へ
出仕あり、子息筑前守慶興は、「義」の一字を賜り義興となり、父長慶と共に
御相伴衆に任じられ、桐の御紋を下された。これは斯波氏の家臣で陪臣であった
朝倉弾正左衛門家(越前朝倉家)を、英林院殿(朝倉孝景)より御相伴衆にした
先例に寄ったのである。

同年三月二十九日、右の御祝いの御悦として、公方義輝が三好館へ御成があった。
御遊あり、御能もあり、その後義輝より三好に対して、細川晴元入道との和親を
促された。

同年五月六日、細川晴元入道一清を、三好より迎え入れ、摂津国富田庄普門寺へ入れ、
富田庄を御知行あるべしと贈呈した。

誠に多年旧功の主従であり、三好殿は旧懐の涙しきりであったという。

(足利季世記)

優しい世界


進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件

2018年04月04日 17:47

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 19:27:55.95 ID:HTQMyVaV
天文二十年二月七日、三好筑前守長慶の家老である松永甚助兄弟(久秀、長頼)、江州志賀表へ
侵出したが、六角義賢勢がこれを聞いてすぐに、琵琶湖を押し渡り攻撃したため、松永兄弟は
この一戦に駆け負け引き退いた。
近江勢は去年より数度打ち負け勢いを失っていただけに、今回の勝利に皆喜んだ。

この頃、公方様(足利義輝)は猶も比叡の法泉寺にあったが、伊勢守貞孝父子は在京し、
万事制法を糺しており、三好も細川晴元への恨み故に公儀に背いたのであるが、将軍に対し
別儀の事無く、伊勢守と公方の帰京について相談を行った。

この事に京中は大いに喜んだのであるが、天文二十年三月十四日、伊勢守貞孝の館にて、
三好長慶への饗応がなされた時、公方衆・進士美作守の甥である進士九郎賢光という者、
伊勢守邸へ来訪すると、即座に走り出て腰刀を抜くままに、二刀まで三好長慶を突いた。

この時、長慶の相伴に同朋の者があったが、彼らが進士九郎を抱き留め、その間に人々が
走り寄ると、進士九郎は自害した。

三好長慶は反応の素早い人であったので、とっさに床にあった枕を取り、これにて刃を受け止めた
ため、一刀は体に触れず、もう一刀も浅手であった。

この進士九郎賢光は大功の人であったのだが、運が尽きたのであろうか、心が逸って仕損じたの
であると、評判された、

この事件は、進士九郎足利義輝より仰せを蒙ったものであるとも、又は彼の本領を三好に
没収されたことを恨んでの犯行であるとも聞こえたが、ともあれ当時、三好長慶を一刀でも
恨まんとした心根は非常に甚だしいものであった。

(足利季世記)

進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件について



655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 23:50:03.95 ID:W+UsiL5z
長慶は腕も立つ方だったのか