「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」
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【雑談】なんでも鑑定団、4つ目の曜変天目について

2016年12月21日 17:30

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 14:10:15.83 ID:gT5l6bqO
なんでも鑑定団に、4つ目かもしれない曜変天目茶碗が出るそうだな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 15:48:02.68 ID:xED4WQmr
マジでけ?と思ってググったらニュースでてた
三好家に伝わる曜変天目らしいね
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161220-00010002-bfj-ent

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 20:58:15.21 ID:q24Q6akh
実休さんあたりがもってたのかな?

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:49:20.52 ID:SFVyxE7w
冬康かもしれん

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:54:57.81 ID:iUZUD3/z
2500万円でした

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:01:21.74 ID:gT5l6bqO
4つ目で、しかも三好の子孫が持っていたという事だけでも十分以上の価値がある
国は、変な所に売り飛ばされる前に保護するべきだな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:05:41.42 ID:iUZUD3/z
某国から返還請求が来ます

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:31:55.28 ID:q24Q6akh
前田家に伝わった曜変ぽいものを含めたら五点目だよね
三好に伝わってるなら宗二とか堺の連中が記録してそうなものだけどないのかな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:54:16.21 ID:ohshcxKd
>>437
やっす、曜変としては大したもんじゃなかったのか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:56:19.89 ID:q24Q6akh
2500万円から競りスタートだよ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:04:53.48 ID:eF7f4Sha
曜変天目の中でも最高峰の稲葉天目は春日局に家光があげたのが
伝わったので稲葉天目

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:21:16.02 ID:iUZUD3/z
番組中に三好氏がさらりとディスられました

青屋に肩衣を着せるような

2016年10月28日 14:03

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/27(木) 20:39:37.87 ID:lY6dUZwu
昔、阿波国勝端の町に青屋太郎右衛門という者が居た。彼は米持ちであり、持明院の旦那になるほどであった。

その頃、勝端の南にたたつ修理という侍が在った。彼は青屋太郎右衛門の娘に米百石の持参金を付けると
いうのを息子の嫁にとったが、息子は間もなく死んでしまった。この事で、「たたつ修理は米百石で子を売った」
と言われ、物笑いに成った。

三好長治の小姓に山井図書という者があったが、彼は大酒飲みで一日に酒を一斗(約18リットル)も二斗も
飲んでも、痛くも痒くもないという人物であり、その飲みっぷりから三好長治の御意を一段と良くし、
長治は彼とともに昼夜酒盛りを行い、酔っ払って正体のない有様であった。

その頃、米持ちである青屋太郎右衛門に肩衣を着せた(侍身分にした)が、この事について人々は、
「酒の故だ」とは言わなかった。
「青屋に肩衣を着せるような真似をする人物だから、ああなのだ。」と申しふらした。

(三好記)




一方、三好殿の衆は、

2016年09月30日 16:46

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/30(金) 15:02:35.59 ID:Zp91inL8
昔、阿波の御屋形様(阿波細川家)は、万事を家老衆に任せて、軍の事を少しもお構いなかった。
彼らは能、蹴鞠、囲碁、将棋、お囃子といった遊びばかりしていた。

一方、三好殿の衆は、兵法、鑓、長刀、弓といった武道ばかりで、とにかく強いことだけを求め、
文道には少しも関心を示さなかった。そして理非をとなえるような人を『よわ者』と蔑んだ。
だがそのために御家は滅びた。
(三好記)



主君のために二代腹切った人

2016年09月28日 17:32

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/27(火) 20:02:53.44 ID:B9t1nf/c
三好海雲(元長)は京での合戦に切り負けて切腹された。

三好喜雲(之長)は和泉国の合戦に切り負けて、堺の町の堅法寺という寺で切腹した。
彼は切腹の際、腹わたを掴んで寺の天井に投げつけた。
その痕跡は諸国の人々が見物し、彼の死に様を褒め称えた。

だが大阪破滅の時(大阪の陣)、堺の町は焼かれ、その天井も焼失してしまった。

昔から今に至るまで、主君(阿波細川家)のために二代腹切った人は稀である。

(三好記)

三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。



131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/27(火) 23:46:08.12 ID:mNSOphMn
>>129
宇喜多「小声でスレを上げる129殿に茶を振舞おうぞ」

>>130
>三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。
TERU「祖父と一緒に叔父sも戦死しているとは裏山」

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/28(水) 16:11:15.27 ID:7ZLbC4ak
>>131
景さま「ああん?体育館裏くるかコラ」

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/28(水) 16:39:45.14 ID:QVxC1CUq
種無しのくせに(笑)

久米の乱

2016年09月26日 16:10

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 09:29:22.17 ID:Ro9cT0DI
徳雲院様(細川持隆)が切腹された時、柴原と申す在所に久米殿という武士が有った。
彼は三好実休の舅であり、細川持隆の家臣であった。
佐野河内という在所の野田義介という武士も、同じく細川持隆の家臣であった。
下八幡の二木日向殿という人は、持隆の一族だった。

彼らは持隆が切腹させられたことを口惜しく思い、必ず三好実休を討ち果たし本望を遂げようと
話し合った。久米殿は三好実休の舅であったのに、主君を殺したのは曲事であると、実休への
反乱を企てたため、これは後に久米の乱と言い伝えられた。

その頃、三好実休は勝端の町に在住していた。
久米たちに与する小倉佐介という者は、ここで実休の動向を探って来たが、帰る途中、
勝端の野辺において広言を吐いた
「実休を討果すのはいと容易いことである。」

仲間が聞いた「それはどういう事か?」

「彼の周囲には年若き小姓衆20人ばかり、あとは台所の人数だけで、いざという時
役に立つ人間が一人も居ないからだ。」

ところがこの会話を、そこで放牧していた牛飼いたちが聞いていた。
彼らは親方にこれを話し、この反乱計画が発覚する。勝端の町人たちは足具足を着けて
千人ばかりが雑兵姿となり実休の屋敷の警護を申し出、同時にこの小倉佐介の広言を申し上げた。

久米の在所である柴原とこの勝端との距離は一里ほどの近距離であり、また勝端は
久米側の人々の親類縁者も多かった。
そのため実休の所に町人たちが駆け付けたとの情報はすぐに久米側に伝わった。
これを聞いて久米たちは勝端を攻めることを諦め、実休の重臣である一宮長門守(成祐)を
夜討ちすることに方針を変更した。

一宮長門はこの時下屋敷に住んでおり、この四方は大竹藪であった、
夜討ち勢は大勢であったため、たやすく門を打ち破り屋敷に侵入した。
この時、一宮長門家臣に木村備前という人がいた。彼の宿所は一宮長門の屋敷から十町ばかり離れて
いたが、この夜討ち騒ぎを素早く聞きつけ、大竹藪の中をくぐり抜け長門の寝所にまっすぐに
駆け入ると、長門を引き出し藪の中に押し入れた。

夜討ちの軍勢が追い駆けてくるのも構わず、木村備前は長門を連れて逃げた。この時木村備前は背中を
二刀切られたが、藪の中であったので何とか逃げ切った。
一宮長門の妻は三好実休の妹であったので、夜討ちの衆はこれを生け捕り柴原へと連行した。

久米の反乱が発覚して三日の間に、実休の人数が上郡および淡路より、三千人ばかり駆け付けた。
久米方の人数は八百人ほどであり、方々の実休方に対処するため黒田原に軍勢を集結させていた。
そこで実休方は勝端より三千の軍勢で中富尾まで進出したところ、久米方八百人のうち、六百人ほどが裏崩れし逃亡した。
残ったニ百人は、破れかぶれに斬りかかったが、実休方は三千の人数でこれを包囲し、彼らを一人も残らず討ち果たした。

この戦いの中で、久米方の野田内蔵介という武士は普段から七十人力と呼ばれていた。
実休の三千人の人数のうち、五百人ほどが負傷したのだが、その大半はこの野田内蔵介によって
切られたのだと伝わる。

しかしこの野田蔵介も数多の敵に疲労した所に、淡路の住人である野口肥前という人が彼に挑戦した。
野口は二十人力と言われ、淡路においては一番の相撲取りであった。
野口は内蔵介と組み合い、大腰に投げつけた。しかし地力が違い、内蔵介はあっという間に
野口を押さえつけ上乗りとなった。
この時奥野右衛門(一説に左衛門)という者が駆け付け、内蔵介の首を打ち落とそうとして、
彼と組み合っていた野口肥前の手を切り落としてしまった。こうして野口は片手となったが、
死にはしなかった。

(三好記)

三好実休支配下の阿波における、久米の乱についての記述である。



三好実休、良かれと思って

2016年09月25日 17:30

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 17:22:56.44 ID:WSppQdy/
徳雲院様(細川持隆)の北の方は、周防の大内殿の娘であった。
彼女は、岡本美濃守の娘の小少将殿と申す人を小女房として奉公させていた。
ところが北の方には御子がなく、持隆は小少将殿に目をかけられ、やがて若君一人(細川真之)を産んだ。

三好実休細川持隆を切腹させた後、「主君に御腹召させたのは天道恐ろしき事であり、
この若君を置いて前々のように主君として崇めよう。」とし、そうして小少将殿を自身の
妻に据えた。やがて実休とこの小少将の間に子ができた。この子は幼名を千代松といい、
烏帽子名は彦次郎。御名乗を長治という。

(三好記)

三好実休、良かれと思って細川真之を擁立し小少将を妻にした、というお話。なお



120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 19:39:11.35 ID:OjONIPR6
ワハハ奸婦め!

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:01:41.34 ID:pd/6K8CZ
小少将はサゲマンという説が(元親の側室は単に同名のようだけど)

「小少将」の犠牲者の一覧
細川持隆 小少将の最初の夫。細川真之を設けたが、家臣の三好義賢に殺害された。
三好義賢 細川持隆謀殺後に小少将を嫁にして三好長治と十河存保を設けるも、久米田の戦いで戦死。
篠原長房 三好義賢戦死後に弟が小少将を嫁にしたが、弟の讒言により三好長治に攻められて敗死。
三好長治 小少将と三好義賢の子。小少将と細川持隆の子で異父兄の細川真之に討たれた。
細川真之 小少将と細川持隆の子。小少将と三好義賢の子で異父弟の十河存保に討たれた。
十河存保 小少将と三好義賢の子。小少将が側室になった長宗我部元親と共に参加した戦いで戦死。
長宗我部元親 小少将を側室にした四国の英雄。その後長男が九州で戦死し後を追うように病死。
長曾我部右近太夫アンド十河存英(存保の息子) 共に大坂の陣で大坂方について死亡

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:41:39.15 ID:YOONVF6X
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 嫌な奴に小少将を押し付ければ!
    (つ久秀丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:46:31.79 ID:OjONIPR6
>>121
篠原長房じゃのーて一族の自遁な

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:51:16.34 ID:OjONIPR6
サゲマンて言うなら通じた奴の名で十分やろ

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 21:50:10.39 ID:baLYiMg9
篠原長房の弟が自遁だから、>>121も>>123も合ってるよね。
一宮長門守(成祐)は後に三好実休(義賢)と小少将の息子三好長治を殺す側に回ってる。
一宮長門守(成祐)の妻である三好実休の妹はこの後どうなったか三好記に記述はありますか?

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 22:01:51.02 ID:8NuzwDHO
>>126
残念ながらサゲマンというのはエッチした男じゃないとその効果は発揮しないのだよ
だから篠原長房の死は小少将とは無関係であって自遁にとって長房の死は得なのでサゲマンじゃのーてアゲマンとなる

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 22:34:56.02 ID:baLYiMg9
>>127 そっちの話ね。失礼しました。

ところで阿波の小少将については、息子たちを仲裁しようとして細川真之の元に
行く途中、真之の家臣たちに襲われて落命した話もあるようだけれど、
これも出典が分からない。

表裏して主君を果たした事は

2016年09月22日 21:29

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 14:26:37.91 ID:Dv6EZXBZ
天文22年、阿波守護である徳雲院様(細川持隆)は腹立ちの事があり、奉行人の四宮与吉兵衛という者と
談合し、

三好実休を相撲があると知らせ呼び寄せ、討ち果たそう』

そう仰せに成った。この時、相談相手の四宮与吉兵衛が実休に返り忠をしているとは、持隆は夢にも
知らなかった。
持隆は用心もなく勝端の町の北の河端に、龍音寺という寺が在ったが、そこに遊山に出かけた所、
実休は上郡の人数二千を呼び寄せこの付近に集結させた。

これを知った持隆は肝を潰し、そこから堅昌寺という寺に移ったが、お供の者達は藪へ隠れ方々に
逃散して、最後には星相殿と蓮池清助という者の2人のみがお供をしているという有様であった。

ここで実休は持隆の無道を悪み、「たった今、お腹を召されよ」と申し付け、これにより
星相殿が介錯をして切腹された。蓮池清助という者は不肖者ではあったが、常々持隆の悪しき点を
申し上げ諫言していたため、御意に違い御扶持も枯れ枯れの状態であったにもかかわらず、
「お供申す」と立ち腹を切って果てた。この清助の最後を褒めぬ者は居なかった。

実休はこの後、返り忠をした四宮与吉兵衛に知行を与えたが、1年間召し使った後に成敗した。
この時実休はこう言った
「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」
この処分を人々は褒め称え、また四宮与吉兵衛を悪まぬ者はいなかった。

(三好記)




94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 20:13:44.66 ID:5ZQAlpas
>「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」

爆弾正「果たしてそうでござろうか?」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 21:11:25.97 ID:aXC+X0IO
持隆の側室を妻にした下剋上男が何を言うか

槍中村

2016年04月11日 18:03

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 16:11:56.56 ID:IoCtMYLU
松永久秀が三好三人衆との戦いで南都多聞城に籠城した時、三人衆は三好日向守、岩成主税介を大将として
大仏殿に陣取っていたが、松永はここを夜討ちし、槍中村と呼ばれた中村新兵衛を討ち取って、大仏殿を
焼いたが、これは松永久秀が切腹したのと同じ10月10日であったという、不思議な事である。

所でこの中村新兵衛とは、当時隠れなき勇士であり、三好の一党が四国より攻め上がって、京都畿内での
合戦で、毎回のように先駆け殿の働きをし、寡を以って多に勝ち、万死一生を出ること多く、
槍中村と異名された。

後に三好一党が彼を大将に選出した時、固く誇示したがかなわず、大仏焼き討ちの時には大将の号を
得ていた。

彼は松永の攻撃から逃げようと思えば逃げることが出来た。しかし

「私を選んでくれたことに応じなければ、生きた印がない」

そう言って義名を清めて討ち死にした。その姿は誠に剛死と呼ぶべきである。

(甫庵信長記)



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 17:36:29.39 ID:6nxEBH5I
東大寺を本陣とした三好と東大寺に夜襲した松永、どちらが卑怯だろう
生き残るために悪名を取った松永は偉いと思う

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 21:13:44.25 ID:EBCmPijS
中村新兵衛ってどっかで聞いたなと思ったら
菊池寛の小説に出てくるやつか

自分の鎧だか陣羽織を貸してやった若武者が
新兵衛のネームバリューにビビった敵相手に無双して
普段と違う出で立ちの新兵衛は相手も気後れせず立ち向かってきて討ち取られるってやつ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 21:48:53.58 ID:6VygWZv8
「形」の元ネタ話なら数年前に出てた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-805.html

むくいのつみやめぐいくるらん

2015年09月12日 15:20

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 18:45:59.04 ID:G6QpP7XT
まず、阿波国に屋形があった。細川三周(讃州?)公(細川持隆)といい、彼を三好實休が
生害させ、実休が阿波の惣主となった。屋形には子が一人もなく、實休は屋形の御台を自分の妻とし(小少将)、
この腹に若君一人産まれた。後に長治と称する。この母が三周公の御台であったので、實休は長治を
屋形と号し籠め置いた。
實休は威勢おびただしく成り、天下に上り威を振るった。また實休には本腹の男子が多数あった。

年を経て、和泉の久米田を實休は本陣として、明日は一戦すべきという夜、實休が寝ていた
枕元に彼が殺した細川持隆が立ち、歌を詠んだ

『草からす 霜またけふの日に消て むくいのつみやめぐいくるらん』

實休は夢から醒め、あたりにいた人々に「明ければ討ち死に疑いない」と言い、案のごとく
敵に囲まれて實休は自害した(久米田の戦い)

三周公生害の日が三月二十一日、實休も三月二十一日に果てたのだという。

(十河物語)




阿州宗論

2015年09月09日 13:11

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 08:22:48.47 ID:Ffahu+be
天正3年、三好長治は阿波一国の人々は、産まれたばかりの子まで日蓮宗とするよう命じ、
法華経を頂かせ、他宗の寺に出入りすることも許さなかった。

ここにおいて、持明院という真言宗の寺院が頭と成って諸宗が協力し、宗論の訴訟をした。
訴訟は許可され、阿波の国中の真言宗三千人が集まり、根来の智識である「ゑんしょう」を
乞い下した。

日蓮宗側も堺の妙国寺、経王寺などが馳下り宗論に及んだ。

先に、根来の「ゑんしょう」が、書物を一冊書いて日蓮宗側に送った。日蓮宗の学頭たちは
本行寺に集まりその書物を披見したが、彼らはこの書に書かれたことへの返答に詰まってしまった。

真言宗の三千人は、これにて自分たちの勝利であるとし、日蓮宗を破却すべきであると蜂起した。
しかしここで三好家重臣の篠原自遁が扱いに入り、森志摩守に警護させ、妙国寺、経王寺の者たちを
堺に送り返した。

日蓮宗は宗論に負けたようなのに罰もなく、真言宗は勝ったようなのに利生もなく、
阿波一国ではいよいよ日蓮宗が繁盛した。

(三好別記)



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 08:31:50.44 ID:lTBzLL9D
法華は大体負けてるな
290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 08:57:40.36 ID:1HDmTpOJ
他宗に比べて経典への研鑽が薄いからじゃないかえ?
現代でも日蓮宗は倪下様と、二重敬語を尊敬の現れだからと平然と使うし
敬語を重ねても敬意が増すわけじゃないのに

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 10:07:34.75 ID:6LO0Pq6W
>>289
理屈に合わないからこそ、それに惹かれる狂信者を生むんだろ

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 11:24:27.52 ID:uLuujW4j
空海王国四国に挑むとは

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 17:27:05.36 ID:8jlPEhx3
いや…挑んでるのは真言側じゃね

篠原長房と十河一存の対決の顛末

2015年07月20日 13:17

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 02:31:08.71 ID:e5AVgIyj
三好実休が事実上の国主として阿波を治めていた頃のこと。
実休やその弟・十河一存をはじめ多くの家臣が新当流の内藤
太郎兵衛という武士から武芸を習っていたが、篠原孫四郎は上方
からきた式部なる者から指南を受けていた。

ところがあるとき式部が「新当流は実践の役に立たない」と批判したことが
実休の耳に入り、それならばと、それぞれから教えを受ける一存と孫四郎に
立ち会いをさせ、それが事実かどうか確かめようということになった。
試合の結果は、孫四郎があっさりと勝利し面目を施したが、悔しいのは
敗れた一存である。

その後、御番として一存が妙永寺に勤めていた時に式部が見廻りに来た
ときのこと。一存は悔しさから「なんとかならんか」と家臣の十河新左衛門に
ささやいたが、これを聞いた新左衛門は式部を殺すように命じられたものと
合点し、式部を不意打ちして斬り殺してしまった。

武芸の師範を殺された孫四郎は激怒し、「一存を討つ」と息巻いて、2日のうちに
五十騎が孫四郎のもとに参上する事態となった。
この状況に実休は「一存のことについては、長房の納得の行くように処置する
ので、今回のことは堪忍してほしい」と長房をなだめるとともに、彼を惣侍頭に
取り立てて事態の解決をはかった。

すると、一存の配下にあった者達が軒並み一存の元を離れて孫四郎の配下に
なることを望んでしまったため、やむを得ず実休は侍衆を二分し、半分を孫四郎配下に、
もう半分を叔父の三好康長の配下にしたのだった。
なお、この孫四郎こそ、後に三好実休・長治父子のもとで手腕を発揮し、畿内で活躍することに
なる、篠原長房の若き日の姿である。

『昔阿波物語』より、篠原長房十河一存の対決の顛末。それにしても、鬼十河さん、カッコ悪いっす・・・



84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 23:21:36.49 ID:adbEZRuN
>>80
なんかこう、何とも言いがたい微妙に悪い話…
鬼十河にはとても悪い話なんだろうけど。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 02:12:14.56 ID:GULIsTHj
さすが篠原さんは若い頃から人望あるな

三好長治の最期

2015年03月09日 18:42

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/09(月) 09:41:18.66 ID:x1Ydy5is
阿波の三好長治は大酒遊覧を好み、甚だ無道な人物であった。
天正3年(1575)5月5日の夜、長治の屋形の上に、五丈(約15メートル)ばかりの巨大な山伏が現れ
終夜立っていた。
同7日酉の刻、西方より光る物体が複数現れ、相戦って消えた。
同18日、宵より彗星が出現した。その光は月日のようであった。
同夜、月明かりの無い中、大麻山より大船が二艘虚空を渡り、焼山寺の峰にかかったところで消えた。
人々は皆、いったい何事が起こるのかと恐れた。

長治の異父兄である細川掃部頭(真之)殿は、長治が驕り、様々な無礼をすることに遺恨浅からず、
これによって天正4年12月5日の夜、勝端城を忍び出てた。お供は仁木伊賀守、林喜内、そして中間2,3人ばかり
召し連れ、伊井谷まで落ちて福浦出羽守を頼った。
福浦は、里に近い場所では危険だと思い、仁宇山の奥に要害を構え真之をここに隠し置いた。
細川真之に旧功の侍である大栗右近、服部因幡、森監物、粟田宇右衛門、中津野六郎左衛門、
その他義士が数多集まりこれを守った。

三好長治はこのことを知ると軍勢を集め、天正5年3月上旬に荒田野口に在陣した。
ところが仁宇川は難所であったため、寄る事もかなわず徒に日を送った。

そういう所に細川真之勢は、一宮長門守成助、伊澤越前守頼俊を大将として後詰を仕掛けた。
三好長治の勢はこれは叶わないと判断し、火縄銃も残したまま、長治は重臣の篠原玄蕃頭の今切城に
引き退いた。そして篠原と相談し、再び軍勢を集め仁宇川まで押し出そうとしていた所に、
細川真之を大将として、一宮、伊澤、吉井左衛門大夫行康、多田筑前守吉次らが二千騎あまりで
今切城に押し寄せた。

篠原玄蕃は叶わぬと思い、城を捨て郡勘助の宿所へと逃げ落ちた。勘助は篠原を浅い古井戸に隠したが、
その上でこれを敵に知らせ討たせた。

一方、三好長治は土佐の国人である森志摩守を頼り落ていった。
長治と森志摩守は合図を決め、助任川に迎えの船を遣わしたが、その時期、弥生の雨の名残で
霧に霞み、船の水主が山を見違えて佐古の山下に乗り入れてしまった。
長治は助任川で迎えの船を尋ねたものの、これを見つけることが出来ず、そのため別宮へと移動し、
その里の庄を頼った。しかし里の庄は敵方に注進した。
一宮、伊澤ら二千騎あまりの細川勢が馳来て長治の宿舎を十重二十重に取り巻くと、
長治は最期の時世に

 三好野の 梢の雪と散る花を 長治とや人の云らん

そう詠んで天正5年3月28日辰の刻、自害して果てた。姫田佐渡守の介錯であった。
浜隠岐守、梶井又五郎(18歳)、原弥助正道も同じく自害した。

三好式部少輔康俊という人があった。彼は長治所縁の者で近習を勤め、長治に折々諌めたため、
金言耳に逆らうの習いだろうか、外様のような扱いをされていた。
しかし昔の情を感じ、一首を詠んで共に自害した。

 三好野の 花の数にはあらねども 散るには洩ぬ山桜哉

(三好家成立之事)

三好長治の最期についての記録である。




543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/09(月) 10:34:31.57 ID:y02EE4gA
真之は長宗我部の支援を受けてるのに土佐に逃げようとしたのか

天文20年・三好長慶暗殺未遂事件

2015年02月11日 17:23

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 23:28:24.88 ID:9EBoU/Mx
天文20年(1551)3月14日、京の勢州(伊勢伊勢守貞孝)の邸宅に三筑(三好筑前守)長慶を招いての
酒宴が行われた。
酒も半ばというところで、公方衆の進士九郎という人物が突然刀を抜き、長慶に向かって二刀まで突いたが
長慶はとっさにこれを避け無事であった。暗殺に失敗した進士九郎は、たちまちその場で自害して果てた。
この報が聞こえると、京も田舎も、仰天する他言葉も無い有り様であった。

この事件について、朽木に逃れていた御所様(将軍義輝)が仰せ付けたものであるとも、また所領を失った
恨みからであるとも、この両説が言われた。

勢州はせっかくの、入魂の接待の場でこのようなことが起こり、もうどうしようもないといった様子であった。

(細川兩家記)

三好長慶暗殺未遂事件についての記事である。
三好長慶は何度か暗殺の危機もうまく逃れて、武芸も達人であったと言われていますね。




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 05:47:56.45 ID:2NZUPEZN
かわいい鴨の子を見せればよかったものを

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 08:45:28.41 ID:pVKppLYp
三好長慶の生涯って波乱万丈次から次に襲いかかる危機を
紙一重で切り抜けて大逆転の連続なんだけど
なぜか無茶苦茶地味な印象だよね。

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 09:44:06.48 ID:OyDfpt1N
長生きしてりゃなー
兄弟ともに短命だから没落が早い

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 10:09:29.24 ID:b1XVBnD/
長慶や長宗我部元親は終わりが微妙すぎて創作物の主役になりにくいし

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 17:49:14.54 ID:N8LSZkV5
終わりが微妙だとハッキリしてる人はやりづらいよね。
秀吉を扱う物語は多いが、晩年が超アレなだけにぼかしたり途中で強引に終わりにするケースも少なくない。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 20:44:42.64 ID:0tKMqMqe
松永久秀「せやな」

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 12:24:42.75 ID:sNMXKtjp
三好長慶を書くといつの間にか弾正が主役になってるの多いキガスw

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/12(木) 13:04:07.90 ID:RewOE8VV
国盗り物語みたいに前後半で主役交代すればいけるかも

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 16:36:44.79 ID:3NgPh+lS
長慶の場合は一次資料を俯瞰して研究できない状況にあるから何ともしがたい
確か東寺が大量に持ってるけどほとんど未公開に近い状況なんじゃなかったかな
今東大の史料編纂所が頑張って活字化してるみたいだが

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:00:35.02 ID:Ae1GIFRU
>>396
すごく興味あるなあ
東寺って凄く格式高いとこだし、おいそれとホイホイ公表したがらないのかな
もったいねえ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:13:01.02 ID:lIexy3PB
皇室関係も多いし東寺側も慎重になるだろ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:21:17.75 ID:7SRVjEeI
東寺の持ってる文書は、ここでその内のかなりの数(百合文書)の写真が見られるよ。
差出・宛・年月日・キーワードは入力してあって、検索できる。
翻刻が終わってないから、自分で文字起こしするしか無いけど。

ttp://hyakugo.kyoto.jp/

百合文書は、所蔵が京都府で、東寺じゃない。売っちゃったから。
東寺文書自体は、他に京大に流出したのとか、東寺が手放さなかったのとか、いろいろあるけどね。

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:22:58.92 ID:7SRVjEeI
連投になるけど、三好は最近『戦国遺文三好編』の刊行が始まって、文書が通観できるようになりつつある。
ただ、日記史料とつきあわせて読まないといけないから、そもそも研究が難しいのよね。

江口の戦い

2015年02月10日 18:45

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 04:29:36.01 ID:9EBoU/Mx
細川晴元とその近臣三好宗三(政長)は、三好長慶と対立し、ついに戦端が開かれ摂津において対峙した。
天分18年(1549)5月28日、細川晴元は三好宗三の後援のため摂津三宅城に入る。
すると6月17日、三好宗三は味方の諸勢を催促して三宅から、中島の江口に陣取った。
三好長慶はこれを見て言った

「愚か者め。夏の虫が飛んで火にいると言う古人の言葉があるが、まさにこの事だ。
先手を打って三宅と江口の間の通路を封鎖せよ!」

そう、十河民部(一存)、安宅(冬康)、および淡路衆に命じ別府の川方に陣取らせたため、
たちまち宗三軍への兵糧を運搬する通路が塞がった。これに三好宗三は、川船を使い
近江の六角勢の救援を要請した。

6月23日、三好長慶は中島に諸士を集め評議をした。ここで十河民部が言った
「進撃するのに何の異論がありましょうや!義を見てせざるは勇なきなりと申します。
敵が攻撃を我等に躊躇させるほど勇猛であるとも聞きません。一方で、もし江州(六角)勢が
到着すれば、味方が利を失うことも考えられます。
急ぎ、京北の諸勢は三宅城を攻め立て、細川晴元に腹を切らせ、そこから江口に押し寄せ
平攻めに攻めて勝つ。何と心地よいことではありませんか!」

これに一同同意した。長慶は、主君晴元に腹を切らせるのは本意ではないと思案していたが、
十河民部はそこから終夜軍勢を進め、翌24日には河内衆、三好方衆は一気に江口に陣取った。

これに三好宗三勢は一戦にも及ばずたちまち崩壊し、日中に江口から逃げ出した。
長慶勢は彼らを追撃し、宗三勢は三好宗三入道、先の将軍ご一家天笠弥六、高畠甚九郎、平井新左衛門、
田井源助、波々伯部、豊田弾正といった名のある人々を始め、八百人が討ち死にしたという。
この敗戦は誠に天罰自滅であると、世間はそのように言った。

この三好宗三の敗戦により、榎並城に籠もる右衛門太夫、河原林衆対馬守をはじめとした軍勢も
方々へ落ち逃げた。この人々の親類際しの嘆いたこと、なかなか言葉にも出来ない有り様であった。

この時江州六角勢は京の山崎まで進出していたが、そこで江口合戦の結果を聞きみな帰国した。

問題の細川晴元は、三宅城にいたたまれず、味方の淡路衆に守られ丹波越して京に入ったが、
京も危険だと判断し、将軍義輝および大御所義晴を連れ近江坂本へと逃亡した。

(細川兩家記)

三好長慶が畿内の主導権を掌握した。江口の戦いについての逸話である。



安宅冬康は常に連歌を好んだ人だった

2014年06月21日 20:27

564 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/21(土) 17:00:52.91 ID:vfRkyEkP
阿波の三好家、安宅冬康は常に連歌を好んだ人だった。
ある時

す々きにまじる蘆の一むら

という句に冬康が句をつけようと思案している折、緊急事態だと文箱が届いた。
冬康が手紙を読んでいると、座にある人々が何事が起きたのかと尋ねた。
冬康は

沼水のあさきかたより野となりて

と言った後に
「それがしの弟、実休が討死した。と伝えてきたのです。」
と言い暇乞いし、すぐさま敵と戦い名誉の高名をあげたそうだ。

備前老人物語


これって三好長慶の逸話であったような・・・というか実休ってお兄ちゃんだったような・・・


関連
三好長慶、飯盛城での連歌の会にて



1568年、キリシタンがらみの冒涜事件とその波紋

2014年03月10日 19:12

699 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:07:13.61 ID:yTRAgnE7
1568年のこと

この頃、天下の主君である三人のトノス(殿)(三好三人衆)が、交戦している松永久秀に対して、
大和国奈良において陣営を構えていた。ところが奈良の町では、その国の主な神である春日大明神に
奉納されている夥しい人に馴れた鹿が街路を彷徨する古来の風習が有る。そして、それらの鹿を殺したり
何らかの危害を加える事は、死罪を以って禁止されていた。ところがこのようなことが起こった。

かなり多くの兵士を有する三木判太夫というキリシタン武士は、それらの鹿の一頭が道に迷っているのに出くわし、
それを射殺させ自分の兵士たちに馳走した。だかこのことは秘密にしておけず、早速天下の三人の執政の
耳に達した。彼らの内最悪人で、とりわけ最も残忍なキリシタンの敵であった一人(三好政康)は、それは
自分に加えられた侮辱であるとみなした。彼は三木判太夫が神に加えたこの侮辱に極端な憤激ぶりを示し、

「あのように大胆な行為は、判太夫が、自発的にやったのでは決して無い。堺に住んでいる伴天連たちが、
彼に鹿を殺して食べるように勧告したのに違いない。それゆえ私は堺意外の場所でなら、どこで伴天連に
出会おうとも即座に殺すことを誓っている!」

そして彼は激昂して、それを幾度と無く繰り返し語ったので、それ以後キリシタンたちは、司祭が内密にか、
または十分な護衛を付けて出ないと堺意外の地へ説教や告白のため出かけることに同意しなかった。何故なら
その暴君は自分の反対意見には全く耳を傾けようとしなかったためである。

700 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:07:55.98 ID:yTRAgnE7
次に、数日前、司祭は革島ジョアンという若い貴人に洗礼を授けた。彼は前記三人の執政たちの内、司祭と
キリシタンたちに好意を示した唯一の人である三好日向守(長逸)の甥であった。彼は当時18歳位の青年で、
父親から多額の封禄を相続することを目論んでいた。

ところで彼は、どこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。彼らが皆、
摂津国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、
西宮という非常に大きな神社に赴いた。そこは多くに人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている
霊場であった。他の若い異教徒たちは、キリシタンになったジョアンを愚弄して、
「貴殿はあのような邪悪な宗教を信じ、また日本の神々を愚弄する言葉を吐いたのだから、きっと近いうちに
神々の懲罰を受けるであろう。」

ジョアンはそれに答えて言った
「私が、死んだ人間や、石木にすぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。
ところで私がそれらをどれだけ恐れていないか、また悪魔の像を表徴しているに過ぎない彫像を拝むことが
どんなに笑止の沙汰であるかをお前たち皆が解るように、これから私がそれらをどのように敬うかを
見られるがいい!」

こう語ると彼は、非常に高く、全て塗金されている偶像に登りその頭上に立ち、そこで一同の前で
偶像に小便をかけ始めた。

これをあきれ果てた暴挙、また前代未聞の神聖冒涜と見なした他の連中は、この事件を彼の叔父である
日向殿に報告した。日向殿は極度に激昂したものの、自分の甥が、そのような行為を伴天連の同意なり
是認なしに行ったとは信じられなかった、他の二人の執政は、その若者を呼び出し、伴天連がお前に
そうするように命じたのか、それともキリシタンの間ではあのような習わしがあるのかと尋ねた。
なんの恐れも知らなかったその若者は

「伴天連様はあの事に全く関知されていない。伴天連様が自分に進めたのでもない。仲間共がひどく自分を
怒らせたので、自発的にやったまでのことだ。それが懲罰に値するというのなら、それを受ける覚悟がある。」
と答えた。

三人のうちで最もキリシタン宗門に敵意を持っていた下野殿(三好政康)は、先にキリシタンに鹿を殺された
事件でひどく感情を損ねており、今度の事件について
「あの若者が自分及び他の執政たちの親類のものでなかったら、疑いなく即刻磔刑にするところだ。命だけは
助けてやるが、あの若者は今後、親族から除外され、申すまでもなく相続請求できる封禄も没収されるものと
心得るが良い」と言い渡した。そこで若者は下の地方(九州)に赴こうと早速堺に向かって乗船した。

こうしてひとまず事件は落着したが、以後、かの殿たちは皆司祭や教会のことには全く耳を貸さなくなり、
彼らのもとで司祭の帰京問題に解決の道を見出すことはもはや不可能となった。
けれども1年と立たぬ内に、この下野殿は奇禍に合い哀れな死を遂げたし、二人目の岩成友通殿は
織田信長が殺させ、彼の城も奪われた。そして老人であった日向殿も同じく財産を失い、追放されて死んだ。
かくしてそれら三人は、皆それぞれに相応しい最後を遂げたのである。

ルイス・フロイス『日本史』)

1568年の、キリシタンがらみの冒涜事件に関する記録である。




701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:16:09.93 ID:q6Zwvdl7
三好清海入道「あれ、わしが大坂の陣で活躍したってのは」

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 21:31:00.01 ID:vYwalrHz
所詮フロイスw

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 22:15:58.27 ID:AWtOK8wl
>>701
あんたフィクションだし

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 11:12:48.51 ID:c8Oqgbsm
キリシタン「踏絵?全然問題ないぜ!」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 14:38:32.61 ID:afL4KWIZ
イスラム教徒ならなw

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 15:28:56.21 ID:WQkcJ18+
プロテスタントは躊躇なく踏んだとか聞いた
ガリバーは踏まなかったが

そうして御家は滅びたのである

2013年04月15日 19:51

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 19:30:10.93 ID:1XYuPSaZ
昔の、阿波の御屋形様(阿波守護家細川氏)は万事家老衆に任せて、軍の事を少しもお構いなさらなかった。
能く召し使われていた御馬廻の衆も、囲碁・将棋・囃子などの遊びばかりしていた。

逆に三好殿の衆は、兵法・槍・長刀・弓と言った武道には無闇なまでに強かったが、そればかりで
文道は少しも学ぼうとしなかった。それどころか理非を理解しようとするものは弱者であると笑いものにした。
そうして御家は滅びたのである。
(三好記)




269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 21:00:37.85 ID:oJcbyOKA
細川家から三好家へ実権が移るあたりの話って面白いよなー

三好長治様は、真面目な性根など少しもなく

2013年04月01日 19:58

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 22:41:13.64 ID:WegoqeNc
三好長治様は、夜昼の境もなく酒盛りをされ、真面目な性根など少しもなかった。
また、御家を差配していた篠原玄蕃殿は、篠原自遁の子息であったが、これも大酒飲みで
夜昼酒盛りをされ、公事沙汰の取り扱いをまともに行える人がおらず、理を非にして
多くの人の恨みを作っていた。

天正4年12月1日の事である。別宮のある者、村で小舟に乗って居た所、三好長治様が
この辺りで鷹狩をなされていて、この者に対岸に渡るため船を渡せ、と仰った。

この時、この者は「船が汚れております」と申し上げると、長治様はこれを曲事だとお考えになり、
彼を成敗した、という。
(三好記)

三好長治への強い批判の満ちた記録である。




136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 23:14:25.51 ID:EXaq8GOI
長治様は批判されているところしか見た事が無い
味方からすら批判されるおぼっちゃま

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 23:37:01.15 ID:mv/z8Zn1
あの親からよくもまあ、という感じだな。
篠原長房や三人衆の力が強くて、自分の思い通りに家が動かなくてふてくされたのかね?
それとも単に生まれながらの質なんだろうか

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 00:05:32.34 ID:EtSM2KT6
自分のママンが淫売婦だったらグレるだろ

三好長治の最期

2013年04月01日 19:58

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 00:47:06.98 ID:H78FbwLS
三好長治の最期

対織田戦線を主導していた篠原長房父子を滅ぼした三好長治だったが、
篠原父子討伐にかつて長治の父・実休が滅ぼした阿波守護・細川持隆の子
真之を担ぎ出したため、、阿波守護細川氏の軍事動員権復活を許してしまう
事態となった。さらに篠原父子を討ってまでして模索した織田信長との
和睦工作(※)も不調に終わってしまうなど散々な結果になってしまった。

※長房討伐の少し前には、十河存保が織田信長と接触を図っている。
  長治も信長に和睦を請うているが、結局拒絶されてしまっている。

やがて細川真之に攻められた長治は今切城へ逃れ、そこで土佐泊城を拠点とする
阿波水軍の将・森志摩守に救援を要請し、両者は助任川で合流することとなった。
森志摩守は早速船を出したものの、土佐泊から海を廻って河道に入り助任川へ入る
ルートは河道が複雑で潮流の見極めが難しかったらしく、志摩守の出した船は誤って
助任川よりも南の佐古山の麓に進入してしまい、結局長治の待つ助任川へたどり
着くことが出来ず、結局両者は合流しそこねてしまった。

やむなく長治は別宮浦へ向かったが、別宮浦一帯は土佐泊や撫養に比べて、三好
氏の支配が深く及んでおらず、結局長治はこの別宮の里長に密告されてしまい、
自害に追い込まれることになってしまったのだった。

水軍が道を誤ったために長治の予定が狂い、結局追い詰められて自害する羽目になった
というちょっと悪いお話。ちなみに、森志摩守は水軍の長という特殊なポジションから、
蜂須賀氏の阿波入国後も旧三好氏系の豪族ではほぼ唯一、その地位を保ち、蜂須賀水軍の
将として幕末まで阿波藩の上士として存続している。




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 02:21:08.23 ID:mvZbEfP1
吉野川の河口部はいまでも迷路みたいだな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 06:57:32.95 ID:Km/1NTLe
うわーまよっちゃったわーこれじゃえんぐんまにあわないわーこまったわー(棒