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三好義興の死について

2018年04月12日 16:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 12:32:24.60 ID:rQneZYFw
永禄六年卯月(四月)朔日に、雷がおびただしく落ち京中振動し、東寺の塔へ雷火落ちかかり
たちまちに焼失した。これは、三好家があまりに驕りを極め天下に威勢をふるっているが故に、
天道は満つれば欠ける習いなれば、全ての物に有る、余りに過ぎて溢れる時節が到来したため、
このような天災のお告げもあるのだろう。この上に一体何事があるのか。
そう人々は危ぶみ思った。

そのような中、果たしてその年の八月二十五日、三好長慶の一子、筑前守義興が芥川城にて
死去した。黄疸という病に罹り、たちまち死に及んだという。
父長慶は申すに及ばず、公方義輝も御愁傷限りなかった。

この死について、義興が近くに召し使う者の中に、食事に毒を入れて奉りかく逝去したのである
という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。

長慶は家督相続の子を無くし、十河一存の子息・熊王という者を養子とし家督に定めた。
三好左京大夫義続がこれである。三好家の政道は専ら松永と三人衆の心のままであり、
勅命も恐れず武命(将軍の命令)も用いず我意に任せていた。

(足利季世記)

三好義興の死について



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:33:57.72 ID:R36Ud/OQ
雷の失火まで政治のせいにされてしまうのか
まあ、場所が場所だからなんだろうけど

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:40:53.12 ID:BPEyr8p9
前に国会議事堂に雷が直撃した時、政治がどうのとネタにされてたような

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:53:00.31 ID:OpdJpaR+
>>662
ヨーロッパですらリスボン地震までは天災はキリスト教的に正しい行いをしていないための天罰という扱いだから、
近代になるまでは世界のどこでもそうだと思う。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:56:56.51 ID:BPEyr8p9
リスボン地震の翌日にマリー・アントワネットが生まれた
つまり天罰と言うよりむしろ王朝崩壊の予兆だったのだ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 23:08:39.91 ID:IIMqBX7W
>>661
>という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。
            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
         |  彡   ~~~~ミ      はいはい、わしのせい わしのせい
     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
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誠に多年旧功の主従であり

2018年04月10日 09:49

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/10(火) 08:48:28.09 ID:TUp17M1l
永禄4年(1561)正月十五日、三好修理太夫長慶父子は上洛し、公方様(足利義輝)方へ
出仕あり、子息筑前守慶興は、「義」の一字を賜り義興となり、父長慶と共に
御相伴衆に任じられ、桐の御紋を下された。これは斯波氏の家臣で陪臣であった
朝倉弾正左衛門家(越前朝倉家)を、英林院殿(朝倉孝景)より御相伴衆にした
先例に寄ったのである。

同年三月二十九日、右の御祝いの御悦として、公方義輝が三好館へ御成があった。
御遊あり、御能もあり、その後義輝より三好に対して、細川晴元入道との和親を
促された。

同年五月六日、細川晴元入道一清を、三好より迎え入れ、摂津国富田庄普門寺へ入れ、
富田庄を御知行あるべしと贈呈した。

誠に多年旧功の主従であり、三好殿は旧懐の涙しきりであったという。

(足利季世記)

優しい世界


進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件

2018年04月04日 17:47

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 19:27:55.95 ID:HTQMyVaV
天文二十年二月七日、三好筑前守長慶の家老である松永甚助兄弟(久秀、長頼)、江州志賀表へ
侵出したが、六角義賢勢がこれを聞いてすぐに、琵琶湖を押し渡り攻撃したため、松永兄弟は
この一戦に駆け負け引き退いた。
近江勢は去年より数度打ち負け勢いを失っていただけに、今回の勝利に皆喜んだ。

この頃、公方様(足利義輝)は猶も比叡の法泉寺にあったが、伊勢守貞孝父子は在京し、
万事制法を糺しており、三好も細川晴元への恨み故に公儀に背いたのであるが、将軍に対し
別儀の事無く、伊勢守と公方の帰京について相談を行った。

この事に京中は大いに喜んだのであるが、天文二十年三月十四日、伊勢守貞孝の館にて、
三好長慶への饗応がなされた時、公方衆・進士美作守の甥である進士九郎賢光という者、
伊勢守邸へ来訪すると、即座に走り出て腰刀を抜くままに、二刀まで三好長慶を突いた。

この時、長慶の相伴に同朋の者があったが、彼らが進士九郎を抱き留め、その間に人々が
走り寄ると、進士九郎は自害した。

三好長慶は反応の素早い人であったので、とっさに床にあった枕を取り、これにて刃を受け止めた
ため、一刀は体に触れず、もう一刀も浅手であった。

この進士九郎賢光は大功の人であったのだが、運が尽きたのであろうか、心が逸って仕損じたの
であると、評判された、

この事件は、進士九郎足利義輝より仰せを蒙ったものであるとも、又は彼の本領を三好に
没収されたことを恨んでの犯行であるとも聞こえたが、ともあれ当時、三好長慶を一刀でも
恨まんとした心根は非常に甚だしいものであった。

(足利季世記)

進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件について



655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 23:50:03.95 ID:W+UsiL5z
長慶は腕も立つ方だったのか

今をさかりの みよしのの花

2018年03月29日 20:45

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/28(水) 05:12:19.77 ID:fjPerZTv
(細川澄之討伐後)

さて、京都は静謐の様子となり、澄元(細川澄元)も近江より上洛された。京都の成敗は
万事につけて三好(之長)が務めた。そのため次のような落書が作られた。

「はけしかりし 嵐の風は 音たへて 今をさかりの みよしのの花」

(吉野山に咲き誇る花の如く、三好の権勢は絶大なものとなった。今や之長に刃向かう者
など、誰一人として存在しないのである)

――『瓦林正頼記』


三好之長切腹

2018年03月21日 11:58

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/21(水) 04:18:50.68 ID:MTdHNTUu
さて、同年(1520)2月27日に難波より三好筑前守之長が京へ上りなさり、都での威勢は
申しようもなかった。同3月16日、神咒寺より澄元(細川澄元)は伊丹城へ御入りになった。

「この分ならば千年万年」と諸人は思い申していたところに、また高国(細川高国)が近江国の
両佐々木殿(六角定頼・京極高清)を御頼みになって同5月3日に京東山白川表へ上りなさった。

この由を三好筑前守之長は聞きなさり、二条・三条・四条・高倉表へ陣取って心は猛く、樊カイ
の勇みをなされたが、敵は猛勢3万余騎、味方は5千に満たなかった。殊に頼みの香川・安富・

久米・川村は高国へ降参致したので、三好之長は叶わないと5月5日に賀茂の祭りを見捨てつつ
方々へ落ち行きなさった。そうして三好之長父子3人は曇華院殿へ忍び申されたのである。

澄元(細川澄元)は摂津伊丹城で御歓楽されていたが、京の合戦のことを聞こし召し、他を差し
置いて同7日早朝より生瀬口へ落ち行きなさったところ、瓦林対馬守(正頼)は堺津にいたが、

早くも船を拵えて渡海し、逃げなさる御跡を追っ掛けて雑兵以下2百人ほどを討ち取った。しかし
ながら澄元は支障なく播磨へ御退きになった。瓦林方より数々の首が京へ上げられ高国の御感あり。

さて三好之長父子3人は運が尽きてしまったのだろう、その夜の内にどこへも落ち行きなさらず
曇華院殿に忍びなさることは隠れなく、この寺を二重三重に取り巻かれたため、之長父子3人は

腹を切らんとなされたが、「今一度命を長らえねば」と思いなさり、高国へ御詫言を申されて、
誠に儚きことだが降参に参られた。子息・芥川次郎(長光)と同じく弟の孫四郎(三好長則)が

まず寺を出て同10日に高国へ御対面なさり、上京安達の宿所へ入りなさる。同11日に高国は
之長と三好新四郎(新五郎)も御許しになるとして、両人は曇華院殿を出なさった。

しかし、淡路彦四郎殿(細川彦四郎。父は淡路守護の細川尚春で前年5月11日に之長によって
殺害された)が「まぎれもない親の仇だから」と申し乞いなさり、之長は上京の百万遍(知恩寺)

で腹を切りなさった。三好新四郎がその介錯をして、御自身も腹を切った。淡路守殿(尚春)の
迎えり月(一周忌?)にこのようになったため、「ただ人間の因果が巡るのは早きものかな」と

人々は申したのである。同じく子息の次郎と孫四郎のことも、彦四郎殿より高国へ色々と申され、
「降参人を殺すのはいかがなものか」と高国は思し召されたが「それならば生害させなされよ」

と御返事があったので、彦四郎殿の御家来衆はかの兄弟の宿所へ同12日に押し寄せて「御親父
の之長は昨日百万遍で腹を切りなさった! 方々も只今腹を切りなされ!」と申したところ、

兄弟は親のことを聞いて涙を流して、「同じ腹を切るならば一緒に死んだというのに」と嘆き、
ややあって申して「人々よ、しばらく御待ちくだされ。国へ文を送りたいのです」として硯を
乞うと、2人は思い思いに書き留めてある人の方へ渡された。

その有様は、古の早離・即離兄弟が海岸波濤にいた時(南伝大蔵経の説話)もこうだったのかと
思い出されて、一段と哀しみも大きなものであった。そうしてまずは孫四郎が腹を切りなさり、

次郎が介錯をなさった。その後に御自身も腹を切られ、次郎が「侍はお互い様、誰でも介錯なさ
ってくだされ」と申されると、しばらくして槍長刀でその首を取った。

見た人が皆々涙した出来事や、かりそめながら人が死んだ出来事はこれまで七千余(大蔵経)に
記されている。もしこれを御覧なさった人は念仏の一遍も御唱えして供養なさって頂きたい。

あなかしこあなかしこ。

――『細川両家記』



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 04:46:27.17 ID:pTCzHqK1
>>620
息子たちの別れの手紙はちゃんと届けられたのかな?
硯を渡すくらいだから届けたとは思うけど

三好家落人の島

2018年01月04日 17:28

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/03(水) 18:27:12.08 ID:DNcERBxF
 香川県善光寺市沖に伊吹島という島がある。
 さて、この島は落人の島でもある。それ自体は瀬戸内にはよくある話だったが、この島は少し毛色が違うところもあった。
 というのも、この伊吹島は西国に数多存在する平家伝承の島ではなく、戦国期三好家の落人の島だというのである。

 天正元年のこと、義兄である第十五代将軍足利義輝に従って反織田信長の兵を挙げた三好義継は摂津若江城で自決、
三好宗家はこれにて滅んだ。
 しかし義継の死に先んじて子の義兼、義茂の二人は家臣に擁せられて四国へ落ち延びていた。
 四国でも三好家の形勢よろしくない中、弟の義茂は何時の時にか讃岐の沖合にある伊吹島へと逃れた。
 ところがこの地には讃岐国衆大平氏に仕える合田氏が先に開拓に入っていた。
 大平氏は善通寺合戦等でも西讃側に属した反三好党だったことも災いしたか、後から入植した三好残党との関係は急速に悪化。
 このため後に三好義兼が八十騎を率いて島外より来援、合田氏と合戦に及んだのだという。
 しかし合戦は双方の痛み分けに終わり、三好残党の大将義兼は討ち死に。
 合田氏側もその後、主君大平氏共々戸次川で没落しており、三好党を追い落とすほどの力を保てなかったようで、
以後三好党は島の東部に、合田氏は島の西部の勢力分割が確定した。
 両家の集落間では婚姻禁止や交通の制限等の相互敵対の掟が近世まで残っている。

 また新たに義茂を当主に担いだ三好党も合田氏同様、四国本土の三好勢力が戸次川で壊滅した上、讃岐新国主の生駒氏は
当初在地勢力に極めて厳しく当たった為か義茂、正継は早世、自決と続き、孫の義浄の代にようやく島の有力者として認められ、
以後幕末まで政所と呼ばれる地位(庄屋相当?)にあって島政に携わった。

 ○○家の子孫を名乗るのは珍しくなくても、集落丸ごと落人の村というのは戦国時代では珍しく思ったので投稿。
 でもって近代まで伊吹島の三好系住民と合田系(先住系)住民は仲悪かったそうなので悪い話に。



451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 13:37:30.11 ID:BiI5NWw0
>>450
そこまで一応共存できたのは仲が良いのか悪いのかw

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 13:40:58.66 ID:Qlprx8oR
力が拮抗してたんでしょうな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 15:11:02.38 ID:DwCVvaBO
>>450
どの辺のどんな島かなと思って調べたら、
1950年 5000人
2010年 700人
2017年 400人

って人口推移データ出てきてそっちのが目を引いたわ
限界集落やべぇな

戸次川合戦後の讃岐について

2017年11月10日 21:30

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:19:14.92 ID:2QZmOQNt
戸次川合戦後の讃岐について

ある時十河猪兵衛に会い、豊州利光川の戦(戸次川合戦)
存保戦死について問うたところ
猪兵衛曰く、我は幼主千松丸に属せられ参陣せず
父の猪右衛門、十河但馬、松田宗閑などの忠臣は皆死をもって従った
存保の命を伝えて来る者もあり、死亡を逃れて来る者もあるゆえ
我が見ていない事を語っても益はないだろう、と前置きし語り始めた

存保筑紫にて戦死の日は十二月十二日である
その日の八つ時分に、兵卒三百人ばかりが旗十流ばかりを靡かせ
十河の城に入るのを田畝に耕す農人が見た
次の日、近境の者どもが還陣を賀そうとやって来たが
城中の者はそのような有様を知らず、不思議な事だと言い合った
そんなことがあった数日後に、豊州戸次川にて
存保が戦死を遂げられた報告が届いたそうである
家人どもは十河家息男千松丸に付き従い、十河の城に留まり
仙石秀久は豊州の敗軍を恥じて讃州に入らず
直に高野山に入ったと聞いている

(続く)

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:20:29.39 ID:2QZmOQNt
また天正十五年正月、讃岐の国を尾藤甚右衛門尉賜いて入部し
兵卒を催し、筑紫陣(秀吉の九州平定)の用意をすることになった
去年の年貢は残っておらず、今年の収穫も先のため、手だてなければ
寺社領、神社仏閣の敷地まで検地を入れ、軍中の資用を宛て課した
国中の商家遊民に課役をかけて催促したが
はかばかしく財産も集まらなかった
仙石氏出陣の時と比べ、三分の一の形相にも及ばずして
九州へと赴いた事を思えば、高城の夜戦の際(根白坂の戦い)
尾藤氏が痩せたる兵をもって島津方の逞兵にあたり
固く守りて出なかったのは、己を知る者であったからである

神子田中左衛門は信長卿の御家にて
竹中半兵衛と両半と言われし弓矢巧者であり
この度、秀長卿の介添として日向の国に発向したが
高城の夜戦の際、善ヨウ坊を救わずをもって
改易されると言う人あるが、我はその実否を知らない

292 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:21:17.92 ID:2QZmOQNt
それ小軍夜に紛れていくさを起こし挑む事は、大軍にとって大事である
総軍皆出でて戦う時は、彼我を分かたずして、同士いくさするものだからだ
各陣固くして夜の明くるを待ち、敵の退き口について朝合戦をなすべきで
これぞ大軍の手だてである
秀吉公は勇戦を好まれるがゆえに、その時勢を糾さずして
尾藤が落ち度として讃州を没収されたのである

(南海治乱記)




戸次川合戦讃岐勢の最期

2017年08月26日 13:22

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 20:21:18.15 ID:7I3kQIYN
戸次川合戦讃岐勢の最期

ここにおいて仙石、いくさに敗れ、土佐讃岐の兵卒混一になって崩れた
桑名太郎左衛門、信親に使者を馳せて曰く
「今すぐお引き返しください、少しも遅れてはなりませぬぞ」

槍を入れる信親存保、撤退の下知をしたが及ばず、共に押し立てられ
存保が家人に言うには

「阿波の守護だった頃、信親と戦う事数度にして
 一度は長宗我部が首を見んと切望していたが
 その遺恨は今である。信親に呼びかけて討死させ
 我が思いを晴らすとしよう」

(続く)

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 20:22:48.65 ID:7I3kQIYN
信親に使者を馳せて曰く

「今日の戦いは仙石の謀(はかりごと)の拙さによるとは言え
 恥辱は先手の将帥にあり。
 引き返して勝負を決したまえ。存保も加勢申すべし」

存保馬に鞭を打ち馳せ行くと
信親も勇壮の将なればもっともであると承諾し
両将共に取って返し、敵の中へ馳せ入れ
火水の如く戦いて、晴れなる戦死を遂げられた。

香川民部少輔、安富肥前守、羽床弥三郎
阿波の矢野、河村などの軍将数十人
勇名ある者数百人、総兵千有余人
皆力のある限り戦い、そして死んでいった。

「南海通史」



81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:19:54.39 ID:kEYXRfFo
>>59
>「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
一人で討ち取られちゃえばよかったのに

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 14:21:09.45 ID:l1s1q4Vz
信親と長宗我部家が不憫でならない…。

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 14:48:49.94 ID:2DOcTq0a
次男三男死なずにすんだかもな

戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

2017年08月22日 17:58

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 09:21:39.91 ID:W9FCLw1N
戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

戸次川合戦が開始されると仙石・十河両軍は島津の先陣とぶつかり
これを川へ追入れて一旦踏み止まった。
十河存保は弓矢功者だったので彼我の虚実を察し、急ぎ仙石の陣へと馳走して曰く
「今、敵の先陣敗れたりと言えど、これは実の敗軍ではなく味方を引っ掛けるはかりごとである
 後陣の大軍は村々に満ちて我らに備えており、川向こうに伏兵があるから渡るべきではない
 勝ちいくさの勢いをもって一旦引き揚げ、兵卒を立ち直らせ、陣を固めて次のいくさを待つべきである
 敵は決して川を渡って来ないから、その間にこちらの方便もしやすくなるだろう」
仙石はもとより勇猛で怒りやすく、人の言を容れない性分だったため、存保の献策を用いず、大いに怒りて
「この勢いを持って敵を追撃せねば敵はまた持ち直すだろう。急ぎ川を渡り追伐すべし」
そう言うなり自ら槍を取って進発した
存保は苦笑して(原文:悪ク笑イテ)「今思い知ったわ」と言い捨てると自陣に戻り、郎従数人を呼び寄せ
「汝らは国へ帰り、千松丸(存保嫡男)を連れて上京し、このいくさのあり様を申して秀吉公のお目にかけよ
 これが専一の忠節であるぞ」そうしかじか言い捨てると、手勢に下知し川を渡って行った。

「南海通記」



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 10:45:11.73 ID:bjVqcGPk
ブラック戦国武将

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 18:12:50.38 ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 18:12:50.38 ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 19:32:15.47 ID:dLLmZWq5
そらそう書くしかないわなw

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 20:52:44.68 ID:Sxe+xW1C
この戸次川推しは
とうとうセンゴクで戸次川の戦いまで来たからかな

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 22:49:09.44 ID:dGIwlC76
仙石無能

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 23:27:17.91 ID:fvB7DkEz
>>66
文書集持ってるなら仙石たちを送り込んだときの書状も読んでみると良いよ。
なかなかブラックだからさ

かほのしはすをのべて参らん

2017年05月27日 16:50

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 00:42:17.28 ID:zH6PkXyL
三好修理大夫(長慶)殿に玄理という者が仕えていた。
さる事があって、ある年の春頃に勘気を蒙り、年の暮れまで許しがなかったことがあった。
玄理は三好修理大夫に

参るべき御礼なれども今年より かほのしはすをのべて参らん

と歌を作って捧げた。
この歌を御前の人々へ伝えたらすぐに召し返されて、二人は再び御懇ろとなった。

(戯言養気集)


流石長慶とも言える武将としての優美さ

2017年02月27日 18:30

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:04:36.36 ID:h109Njvy
三好長慶には不義無道の名のみ有りて、風流のことを人は言わない。
たしかに、公方光源院殿(足利義輝)を弑し天下を奪おうという逆罪は論に及ばぬものであるが、
その当時の風俗として、君父を害して国を奪う輩は、挙げて数えがたいほどあった。
戦国に人道を喪うこと、日本に限らず、中華五代の頃の風俗も皆そのようなもので、独り三好松永を
憎む事ではない。

三好長慶は敷島の道に心を寄せ、殊に連歌に高じていた事は、諸書に顕然である。
居城において連歌興行あった時、『薄にまじる 芦の一むら』という句に連座上の句を付けあぐねていた。
やや時移った頃、河内より飛脚が到着し、急を告げた。長慶は書状を見ると、くるくるともとに戻し、
なんでもない体にて

『古沼の 浅き方より 野と成りて』

と付け、その場の者達はこれに感賞した。すると長慶は

「河州に於いて舎弟実休討ち死にの知らせがあった。今日の連歌は是迄である。
弔軍に、今打ち立たん」

そう即座に命じて出陣したという。
変を知りて騒がず、連座が付けあぐねた上の句を果たした後に、変を披露し、しかも即座に
出馬したこと、流石長慶とも言える武将としての優美さではないか。これらは賞すべき事である。

最近、なにげに怪談の双紙を読んだ所、この連歌の付け合いを、宗祇に付け言わせていた。
宗祇が旅行の最中、何れの国の某村に妖しい屋敷が有り、妖しきものが出て
『薄にまじる 芦の一むら』と言う句を吟じ、泣き叫んで止まず、と所の人が語るのを宗祇が聞いて
「私がその屋敷に泊まり、これを止めよう」と、かの屋敷に泊まって様子をうかがっていると、
案の如く丑三つ頃に幽霊が出て件の句を吟じた。この時宗祇、『古沼の 浅き方より 野と成りて』
と一句をつけると、幽霊は感服して消え失せ、その後出ることは無くなった、と書かれていた。

これは浮説である。長慶の事こそ事実である。

その他、高師直なども、太平記には無骨な東夷のように描かれているがそうではない。師直は歌人である。
撰集にも彼の詠んだ歌が入れられている。

伝説というのはこのような御聞が多い。
箱根にある「曾我時致の文」というのも、実際には曾我時致の物ではない。あれは北条時宗の
書いたものである。

(翁草)



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:53:31.13 ID:yHclo49x
諸人之を仰ぐこと北斗泰山
と長慶は敬われていたらしいが

「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」

【雑談】なんでも鑑定団、4つ目の曜変天目について

2016年12月21日 17:30

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 14:10:15.83 ID:gT5l6bqO
なんでも鑑定団に、4つ目かもしれない曜変天目茶碗が出るそうだな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 15:48:02.68 ID:xED4WQmr
マジでけ?と思ってググったらニュースでてた
三好家に伝わる曜変天目らしいね
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161220-00010002-bfj-ent

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 20:58:15.21 ID:q24Q6akh
実休さんあたりがもってたのかな?

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:49:20.52 ID:SFVyxE7w
冬康かもしれん

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:54:57.81 ID:iUZUD3/z
2500万円でした

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:01:21.74 ID:gT5l6bqO
4つ目で、しかも三好の子孫が持っていたという事だけでも十分以上の価値がある
国は、変な所に売り飛ばされる前に保護するべきだな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:05:41.42 ID:iUZUD3/z
某国から返還請求が来ます

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:31:55.28 ID:q24Q6akh
前田家に伝わった曜変ぽいものを含めたら五点目だよね
三好に伝わってるなら宗二とか堺の連中が記録してそうなものだけどないのかな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:54:16.21 ID:ohshcxKd
>>437
やっす、曜変としては大したもんじゃなかったのか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:56:19.89 ID:q24Q6akh
2500万円から競りスタートだよ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:04:53.48 ID:eF7f4Sha
曜変天目の中でも最高峰の稲葉天目は春日局に家光があげたのが
伝わったので稲葉天目

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:21:16.02 ID:iUZUD3/z
番組中に三好氏がさらりとディスられました

青屋に肩衣を着せるような

2016年10月28日 14:03

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/27(木) 20:39:37.87 ID:lY6dUZwu
昔、阿波国勝端の町に青屋太郎右衛門という者が居た。彼は米持ちであり、持明院の旦那になるほどであった。

その頃、勝端の南にたたつ修理という侍が在った。彼は青屋太郎右衛門の娘に米百石の持参金を付けると
いうのを息子の嫁にとったが、息子は間もなく死んでしまった。この事で、「たたつ修理は米百石で子を売った」
と言われ、物笑いに成った。

三好長治の小姓に山井図書という者があったが、彼は大酒飲みで一日に酒を一斗(約18リットル)も二斗も
飲んでも、痛くも痒くもないという人物であり、その飲みっぷりから三好長治の御意を一段と良くし、
長治は彼とともに昼夜酒盛りを行い、酔っ払って正体のない有様であった。

その頃、米持ちである青屋太郎右衛門に肩衣を着せた(侍身分にした)が、この事について人々は、
「酒の故だ」とは言わなかった。
「青屋に肩衣を着せるような真似をする人物だから、ああなのだ。」と申しふらした。

(三好記)




一方、三好殿の衆は、

2016年09月30日 16:46

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/30(金) 15:02:35.59 ID:Zp91inL8
昔、阿波の御屋形様(阿波細川家)は、万事を家老衆に任せて、軍の事を少しもお構いなかった。
彼らは能、蹴鞠、囲碁、将棋、お囃子といった遊びばかりしていた。

一方、三好殿の衆は、兵法、鑓、長刀、弓といった武道ばかりで、とにかく強いことだけを求め、
文道には少しも関心を示さなかった。そして理非をとなえるような人を『よわ者』と蔑んだ。
だがそのために御家は滅びた。
(三好記)



主君のために二代腹切った人

2016年09月28日 17:32

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/27(火) 20:02:53.44 ID:B9t1nf/c
三好海雲(元長)は京での合戦に切り負けて切腹された。

三好喜雲(之長)は和泉国の合戦に切り負けて、堺の町の堅法寺という寺で切腹した。
彼は切腹の際、腹わたを掴んで寺の天井に投げつけた。
その痕跡は諸国の人々が見物し、彼の死に様を褒め称えた。

だが大阪破滅の時(大阪の陣)、堺の町は焼かれ、その天井も焼失してしまった。

昔から今に至るまで、主君(阿波細川家)のために二代腹切った人は稀である。

(三好記)

三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。



131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/27(火) 23:46:08.12 ID:mNSOphMn
>>129
宇喜多「小声でスレを上げる129殿に茶を振舞おうぞ」

>>130
>三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。
TERU「祖父と一緒に叔父sも戦死しているとは裏山」

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/28(水) 16:11:15.27 ID:7ZLbC4ak
>>131
景さま「ああん?体育館裏くるかコラ」

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/28(水) 16:39:45.14 ID:QVxC1CUq
種無しのくせに(笑)

久米の乱

2016年09月26日 16:10

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 09:29:22.17 ID:Ro9cT0DI
徳雲院様(細川持隆)が切腹された時、柴原と申す在所に久米殿という武士が有った。
彼は三好実休の舅であり、細川持隆の家臣であった。
佐野河内という在所の野田義介という武士も、同じく細川持隆の家臣であった。
下八幡の二木日向殿という人は、持隆の一族だった。

彼らは持隆が切腹させられたことを口惜しく思い、必ず三好実休を討ち果たし本望を遂げようと
話し合った。久米殿は三好実休の舅であったのに、主君を殺したのは曲事であると、実休への
反乱を企てたため、これは後に久米の乱と言い伝えられた。

その頃、三好実休は勝端の町に在住していた。
久米たちに与する小倉佐介という者は、ここで実休の動向を探って来たが、帰る途中、
勝端の野辺において広言を吐いた
「実休を討果すのはいと容易いことである。」

仲間が聞いた「それはどういう事か?」

「彼の周囲には年若き小姓衆20人ばかり、あとは台所の人数だけで、いざという時
役に立つ人間が一人も居ないからだ。」

ところがこの会話を、そこで放牧していた牛飼いたちが聞いていた。
彼らは親方にこれを話し、この反乱計画が発覚する。勝端の町人たちは足具足を着けて
千人ばかりが雑兵姿となり実休の屋敷の警護を申し出、同時にこの小倉佐介の広言を申し上げた。

久米の在所である柴原とこの勝端との距離は一里ほどの近距離であり、また勝端は
久米側の人々の親類縁者も多かった。
そのため実休の所に町人たちが駆け付けたとの情報はすぐに久米側に伝わった。
これを聞いて久米たちは勝端を攻めることを諦め、実休の重臣である一宮長門守(成祐)を
夜討ちすることに方針を変更した。

一宮長門はこの時下屋敷に住んでおり、この四方は大竹藪であった、
夜討ち勢は大勢であったため、たやすく門を打ち破り屋敷に侵入した。
この時、一宮長門家臣に木村備前という人がいた。彼の宿所は一宮長門の屋敷から十町ばかり離れて
いたが、この夜討ち騒ぎを素早く聞きつけ、大竹藪の中をくぐり抜け長門の寝所にまっすぐに
駆け入ると、長門を引き出し藪の中に押し入れた。

夜討ちの軍勢が追い駆けてくるのも構わず、木村備前は長門を連れて逃げた。この時木村備前は背中を
二刀切られたが、藪の中であったので何とか逃げ切った。
一宮長門の妻は三好実休の妹であったので、夜討ちの衆はこれを生け捕り柴原へと連行した。

久米の反乱が発覚して三日の間に、実休の人数が上郡および淡路より、三千人ばかり駆け付けた。
久米方の人数は八百人ほどであり、方々の実休方に対処するため黒田原に軍勢を集結させていた。
そこで実休方は勝端より三千の軍勢で中富尾まで進出したところ、久米方八百人のうち、六百人ほどが裏崩れし逃亡した。
残ったニ百人は、破れかぶれに斬りかかったが、実休方は三千の人数でこれを包囲し、彼らを一人も残らず討ち果たした。

この戦いの中で、久米方の野田内蔵介という武士は普段から七十人力と呼ばれていた。
実休の三千人の人数のうち、五百人ほどが負傷したのだが、その大半はこの野田内蔵介によって
切られたのだと伝わる。

しかしこの野田蔵介も数多の敵に疲労した所に、淡路の住人である野口肥前という人が彼に挑戦した。
野口は二十人力と言われ、淡路においては一番の相撲取りであった。
野口は内蔵介と組み合い、大腰に投げつけた。しかし地力が違い、内蔵介はあっという間に
野口を押さえつけ上乗りとなった。
この時奥野右衛門(一説に左衛門)という者が駆け付け、内蔵介の首を打ち落とそうとして、
彼と組み合っていた野口肥前の手を切り落としてしまった。こうして野口は片手となったが、
死にはしなかった。

(三好記)

三好実休支配下の阿波における、久米の乱についての記述である。



三好実休、良かれと思って

2016年09月25日 17:30

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 17:22:56.44 ID:WSppQdy/
徳雲院様(細川持隆)の北の方は、周防の大内殿の娘であった。
彼女は、岡本美濃守の娘の小少将殿と申す人を小女房として奉公させていた。
ところが北の方には御子がなく、持隆は小少将殿に目をかけられ、やがて若君一人(細川真之)を産んだ。

三好実休細川持隆を切腹させた後、「主君に御腹召させたのは天道恐ろしき事であり、
この若君を置いて前々のように主君として崇めよう。」とし、そうして小少将殿を自身の
妻に据えた。やがて実休とこの小少将の間に子ができた。この子は幼名を千代松といい、
烏帽子名は彦次郎。御名乗を長治という。

(三好記)

三好実休、良かれと思って細川真之を擁立し小少将を妻にした、というお話。なお



120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 19:39:11.35 ID:OjONIPR6
ワハハ奸婦め!

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:01:41.34 ID:pd/6K8CZ
小少将はサゲマンという説が(元親の側室は単に同名のようだけど)

「小少将」の犠牲者の一覧
細川持隆 小少将の最初の夫。細川真之を設けたが、家臣の三好義賢に殺害された。
三好義賢 細川持隆謀殺後に小少将を嫁にして三好長治と十河存保を設けるも、久米田の戦いで戦死。
篠原長房 三好義賢戦死後に弟が小少将を嫁にしたが、弟の讒言により三好長治に攻められて敗死。
三好長治 小少将と三好義賢の子。小少将と細川持隆の子で異父兄の細川真之に討たれた。
細川真之 小少将と細川持隆の子。小少将と三好義賢の子で異父弟の十河存保に討たれた。
十河存保 小少将と三好義賢の子。小少将が側室になった長宗我部元親と共に参加した戦いで戦死。
長宗我部元親 小少将を側室にした四国の英雄。その後長男が九州で戦死し後を追うように病死。
長曾我部右近太夫アンド十河存英(存保の息子) 共に大坂の陣で大坂方について死亡

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:41:39.15 ID:YOONVF6X
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 嫌な奴に小少将を押し付ければ!
    (つ久秀丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:46:31.79 ID:OjONIPR6
>>121
篠原長房じゃのーて一族の自遁な

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:51:16.34 ID:OjONIPR6
サゲマンて言うなら通じた奴の名で十分やろ

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 21:50:10.39 ID:baLYiMg9
篠原長房の弟が自遁だから、>>121も>>123も合ってるよね。
一宮長門守(成祐)は後に三好実休(義賢)と小少将の息子三好長治を殺す側に回ってる。
一宮長門守(成祐)の妻である三好実休の妹はこの後どうなったか三好記に記述はありますか?

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 22:01:51.02 ID:8NuzwDHO
>>126
残念ながらサゲマンというのはエッチした男じゃないとその効果は発揮しないのだよ
だから篠原長房の死は小少将とは無関係であって自遁にとって長房の死は得なのでサゲマンじゃのーてアゲマンとなる

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 22:34:56.02 ID:baLYiMg9
>>127 そっちの話ね。失礼しました。

ところで阿波の小少将については、息子たちを仲裁しようとして細川真之の元に
行く途中、真之の家臣たちに襲われて落命した話もあるようだけれど、
これも出典が分からない。

表裏して主君を果たした事は

2016年09月22日 21:29

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 14:26:37.91 ID:Dv6EZXBZ
天文22年、阿波守護である徳雲院様(細川持隆)は腹立ちの事があり、奉行人の四宮与吉兵衛という者と
談合し、

三好実休を相撲があると知らせ呼び寄せ、討ち果たそう』

そう仰せに成った。この時、相談相手の四宮与吉兵衛が実休に返り忠をしているとは、持隆は夢にも
知らなかった。
持隆は用心もなく勝端の町の北の河端に、龍音寺という寺が在ったが、そこに遊山に出かけた所、
実休は上郡の人数二千を呼び寄せこの付近に集結させた。

これを知った持隆は肝を潰し、そこから堅昌寺という寺に移ったが、お供の者達は藪へ隠れ方々に
逃散して、最後には星相殿と蓮池清助という者の2人のみがお供をしているという有様であった。

ここで実休は持隆の無道を悪み、「たった今、お腹を召されよ」と申し付け、これにより
星相殿が介錯をして切腹された。蓮池清助という者は不肖者ではあったが、常々持隆の悪しき点を
申し上げ諫言していたため、御意に違い御扶持も枯れ枯れの状態であったにもかかわらず、
「お供申す」と立ち腹を切って果てた。この清助の最後を褒めぬ者は居なかった。

実休はこの後、返り忠をした四宮与吉兵衛に知行を与えたが、1年間召し使った後に成敗した。
この時実休はこう言った
「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」
この処分を人々は褒め称え、また四宮与吉兵衛を悪まぬ者はいなかった。

(三好記)




94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 20:13:44.66 ID:5ZQAlpas
>「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」

爆弾正「果たしてそうでござろうか?」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 21:11:25.97 ID:aXC+X0IO
持隆の側室を妻にした下剋上男が何を言うか

槍中村

2016年04月11日 18:03

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 16:11:56.56 ID:IoCtMYLU
松永久秀が三好三人衆との戦いで南都多聞城に籠城した時、三人衆は三好日向守、岩成主税介を大将として
大仏殿に陣取っていたが、松永はここを夜討ちし、槍中村と呼ばれた中村新兵衛を討ち取って、大仏殿を
焼いたが、これは松永久秀が切腹したのと同じ10月10日であったという、不思議な事である。

所でこの中村新兵衛とは、当時隠れなき勇士であり、三好の一党が四国より攻め上がって、京都畿内での
合戦で、毎回のように先駆け殿の働きをし、寡を以って多に勝ち、万死一生を出ること多く、
槍中村と異名された。

後に三好一党が彼を大将に選出した時、固く誇示したがかなわず、大仏焼き討ちの時には大将の号を
得ていた。

彼は松永の攻撃から逃げようと思えば逃げることが出来た。しかし

「私を選んでくれたことに応じなければ、生きた印がない」

そう言って義名を清めて討ち死にした。その姿は誠に剛死と呼ぶべきである。

(甫庵信長記)



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 17:36:29.39 ID:6nxEBH5I
東大寺を本陣とした三好と東大寺に夜襲した松永、どちらが卑怯だろう
生き残るために悪名を取った松永は偉いと思う

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 21:13:44.25 ID:EBCmPijS
中村新兵衛ってどっかで聞いたなと思ったら
菊池寛の小説に出てくるやつか

自分の鎧だか陣羽織を貸してやった若武者が
新兵衛のネームバリューにビビった敵相手に無双して
普段と違う出で立ちの新兵衛は相手も気後れせず立ち向かってきて討ち取られるってやつ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 21:48:53.58 ID:6VygWZv8
「形」の元ネタ話なら数年前に出てた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-805.html