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「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて

2022年11月23日 19:10

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 17:45:02.57 ID:FQfy/CRW
豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久長曾我部元親が混同されちゃったようだ



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長宗我部元親の家臣、田中新右衛門の話

2022年06月12日 14:08

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/11(土) 18:36:07.05 ID:E6KPR8lH
「朝野雑載」から長宗我部元親の家臣、田中新右衛門の話

田中新右衛門がいうことには
「我は無筆である。
「臆病」という字をある僧に尋ねたところ、「胸のやまい」と言われた。
これほど尤もな字はあるまい。
戦に臨んで吐く者がいるが、これは胸にその持病があるためだろうか。
臆病は船酔いと同じことである。
舟に乗る時、胸に灸を据え、鼻に橘の皮をさしこめば、小波の時は酔わず、大波の時は胸の内がこみあげて吐いてしまう。
誰でも常の時は、武を嗜もうがみっともない振る舞いなどしない。
苦戦する時は、生まれついての胸のやまいが起こり、心が迷い、義理も外聞も捨ててしまうのだ。」



落人と思しき者があるか

2022年05月03日 15:59

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/03(火) 15:23:45.96 ID:EacVBKZg
或る記に、大阪夏の陣での大阪落城後、蜂須賀蓬庵(家政)の使いである長坂三郎左衛門は、
八幡の茶店にて暫く休息している時、亭主に「すまないがこの辺りに、落人と思しき者があるか」
と尋ねた。亭主が申すには

「されば、不審なる者があります。いかにも忍ぶ人と見え、夜々にこちらの方に来て、食物を調え
帰る人があり、私は覚束なく思いその跡を付けて参った所、葭原の中に隠れ住んでいるようでした。」

長坂はこれを聞くと大いに喜び、茶屋の亭主を案内者として、若党・中間を葭原の中に分け入らせ、
捜し求めた所、長宗我部盛親主従の二人、飢えが迫っていたのか、疲れ伏している所を捜し当てた。
故に忽ち二人を搦め捕ったという。

(新東鑑)



四石取りになど

2021年11月19日 17:27

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 13:00:05.02 ID:furH5ySo
「醒睡笑」とともに落語の元祖とされる「昨日は今日の物語」から

昔、下京に道無というものがいた。
良い娘を持っていたため他人が縁談を勧めた。
道無「相手はどのくらいの身上か?」
「四国の主であったが、今は浪人じゃ」
道無「おかしなことを、十石取りにでさえ惜しむ娘を四石取りになど」
とついに承知しなかった。

四国の主、もしあの人だとしたら縁談進めなくて正解だった気がする



201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 13:34:01.89 ID:825YLhYZ
どうせ今浪人じゃ娘食わせられないことに変わらないし

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 14:05:43.91 ID:tqj7QyJe
大阪城で露と消えそう

かの浪人が甲冑を帯びて発足した

2021年11月15日 17:58

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/15(月) 16:14:38.47 ID:jIwKfpHp
或る本に、豊臣秀頼公が大阪籠城との噂があったため、京都所司代である板倉勝重
長宗我部盛親を招き饗応の上に、

「貴殿の御事は、(関ヶ原とその後の土佐での騒動で)一旦御不審を蒙られたが、私がこのように
有る上は、宜しきように相計らい、帰国のことを執政申すでしょう。
ですので、例え大阪から召されたとしても、決して許諾されないように。」

そう懇ろに申されたので、盛親もこれに同意した。
そして勝重の邸宅より、直に大阪に下ったという。

また或る本に、無禅という人物があり、彼は七歳の時より近衛家に召し使われ、七代の間近衛殿の門を
出なかった奉公人で、百十九歳まで生きたが、相国寺門前に家があった。
また、同町の藪の中に、寺子を取って物を教え、渡世していた浪人があった。

大阪籠城の刻、ある朝、かの浪人が二、三人と共に甲冑を帯びて発足した。
この浪人が長宗我部盛親であったことは、後に知れた。
無禅は同町において、「異なる出で立ちの男かな。」と、盛親を直に目の当たりにしたと語った。

後で聞くと、寺町今出川の辻に於いて、この一行は二、三十騎ばかりになり、馬鑓等を持たせていた。
寺町三条に至ると二、三百騎になり、伏見では大方千騎にもなったと人々は言い合った。
珍事であるので町所より所司代へ訴え出ると、板倉の某は大いに怒り
「それと知っていれば討って捨てていたものを!」と言われたとか。

当時こういった物語が日々数多有り、皆実見の事だという。

新東鑑

長宗我部盛親の大阪入城についての逸話



その後は誰も元親を諌める者は無く

2021年11月14日 18:14

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/14(日) 17:12:00.36 ID:6NTUgv30
或る記に、太閤御在世の時、長宗我部元親は京都より国元の土佐に下り、一門衆・家老を集めて申した
「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてより、未だ家督を誰に継がしむべしとも定めず、私も傾く年齢と成った。
そこで信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、家督に立てようと思う。如何あるべし。」

そのように尋ねると一座の人々は、盛親が不肖であることを知りつつ、敢えて返答する者も無かった所に、
元親の婿である吉良左京進親実が進み出て言った

「信親御息女を右衛門太郎殿の奥方と成して跡継と成されるというのは、御嫡子の筋目立つに似たりと雖も、
津野孫次郎殿(親忠:吉良親実が実際に跡継として推したのは次男・香川親和とされ、ここでは
三男・津野親忠と混同されている)は、秀吉公にも知られておられ、御器量も優れておられます。
津野氏の家を別人に御相続仰せ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられることが宜しいでしょう。」

そのように申すと元親は聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、家長久の基である!」と、甚だ不興げに
申された。しかし親実は重ねて
「私は何れにも親疎はありません。私の申し上げる所は国家静謐の基を固く定めたい為に
考えたところなのです。」と諫言した。すると家老である掃部助元辰(比江山親興)も、
最前よりこの座に在って控えていたのだが、進み出て

「只今吉良氏が仰せに成った事は、誰かのためというような、依怙の沙汰では有りません。
御家繁栄、子孫長久を祈る良策でありますから、是非ともこれをご了承なさるべきです。」
と諌めた。

しかし元親はいよいよ怒れる顔色にて、一言の答えも無く座を立ち、奥へと入った。そのため、
その日の相談は中止と成った。
然るに佞臣たちが元親の傍に在り、親実、元辰両人の事を様々に讒言したことで、遂に
天正十六年十月十四日に掃部助に切腹を仰せ付けられた。親実もこれを聞いて、同じく切腹したとか。
吉良親実の切腹は実際には天正十七年九月以降と考えられる)

その後は誰も元親を諌める者は無く、思いのままに盛親を立て、家督としたという。

新東鑑

「七人ミサキ」の話に繋がる、長宗我部家盛親家督相続についてのお話



讃州十河城落去記

2021年09月26日 16:19

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/26(日) 16:01:29.54 ID:diCd1wL4
讃州十河城落去記

天正11年(1583)5月、元親(長宗我部元親)は東方利運となって平木城に到り、
十河城を攻めるべしと大兵を向かわせた。すると、城守の三好隼人佐(十河存之)より
阿州岩倉城主の長宗我部掃部助方(比江山親興)へ伝をもって頼んで来た。

「この城の運、今時に到りぬ。道口を開けて給わらば城を明け渡し申すべし」との通達
で、掃部助より元親に達す。元親は曰く「この城は阿讃両州の悪党どもが寄り集まって、
境目で狼藉をなし盗賊をなした。この時に悪人の根を絶たねば、何の時を期すべきぞや。
救うべからず」と仰せになった。

隼人佐の重ねての申しようは「私は三好の末に生まれて盗賊の名を得るべき者にあらず。
去年より附城を構えられ、海陸の通路を絶たれ、領内の秋毛も3年の間費耗されて衆兵
は餓死に及んだ。故に糧食を奪って身命を続けたのだ。

武士は勝って盛るも運、負けて衰えるも運である。元親は弓矢を取って達人なのだから、
これの程を観察なさるべきではないか。ただし死を賜るといっても、私は逃れるべき身
にあらず」と申し述べられた。元親も哀れに思われ、屋島の浦へ送り遣わされた。

四国は元親の領国となり立ち寄る陰もなければ、隼人佐はまず備前を目指して渡られた。
事窮まる時は死を恐れぬ習いなれば、千余人は1人も離れずに付き従い、屋島の奥庵治
浦まで退いた。

さてまた、十河城へは長宗我部右兵衛尉親吉を城主として、組与力多兵を付けられ入城
した。中讃州綾部鷲ノ山の城主、新名内膳を殺害してその城を入交孫右衛門に遣わし入
城した。この新名に罪は無く、城を取らんがためと聞く。入交は当国の目付である。

それより元親、香西氏が城に来たり「中讃岐にして手次よき城である」として2万人の
内の足軽人夫をかけて西の方に二重堀を掘らせて堅固に取り固めさせ、仕置あって西長
尾城に到り、国中の兵将はこれより在宅の暇を賜って各々自分の居城へ引き退き、初め
て軍労の心を緩めた。

――『南海通記



今も親しく語らい合う仲である

2021年03月04日 18:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 14:22:47.53 ID:835zJEu+
長宗我部の家人に、廿牧勘解由という武功の人があった。この人が人に語ったことによると

「大阪八尾にて、藤堂殿と長宗我部殿が戦ったが、朝の合戦の時に私も似合いの高名などしたものの、
後の合戦に味方打ち負けて、私も鑓を引き退いた。
この時、和泉守殿の母衣頭に名村岩石見という武功の者、私を見かけ、「返して勝負をせよ!」と
罵った。しかし「駆け引きは時によるべし。おのれのくそを喰らえ!」と言って退いた。

その折ふし、私の妹婿である伊尾木権兵衛という者が、「影湯殿、私もここに居る。返し合わせて
勝負しましょう。」と言ったため、鑓の準備をして二人共に引き返した。

その時、敵である石見はどう思ったのか、または功者であったためだろうか、南の方にゆく落人があり
さしかかって勝負すると見えた。その落人は、何の何某と申したが、その名も忘れた。
彼は終にそこで討たれた。
私たちはほど近くに在ったので、助け合わせたいと思ったが、敵は大勢に見えたため退散した。」
と言った。

堀伊織という人、これも藤堂にて母衣を預かる人であるが、ある時私に
「其の方は、今はいかなる浪人衆と話すのか」
と尋ねられ、廿牧勘解由の事を言って、彼が物語した内容を語った所、横手を打って
「さてもその事は、石見がいつも語っていて、「私に糞を食わせて退きし者があった。」と言っていたが、
誠であったのだな。その人を呼ぶことなるまいか。」

そう言われたので、「やすき事なり。」と廿牧を呼びにやって、石見と伊織と、勘解由と私の四人にて、
かの時のことを語った。笑い話と成り、
「偽りが無ければ、互いに物語しあえるものである。」などと言って、酒など飲んで立ち別れた。
これを交わりの初めとして、何れも親しくなった。

伊織の子供は、松平越前守殿の元に二人ある。今も親しく語らい合う仲である。

備前老人物語



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 17:31:47.95 ID:Dp28Kb2/
八尾の戦いというと
元長宗我部家臣で改易ののちに藤堂家臣となった桑名弥次兵衛吉成の
旧主と戦うのに忍びず、一人突撃して戦死した話が印象的

真田一人の出丸のように

2020年12月10日 16:51

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 02:05:05.67 ID:bcPmQbhp
大阪冬の陣で、八町目に有った真田ヵ丸と申す出丸は、長宗我部と真田が
半分に割って持っていたのであるが、世間は真田一人の出丸のように風聞している。

長澤聞書

今でもそうだな



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 11:19:31.97 ID:rQHSFasw
長宗我部は長いから
短い真田でいいや
ってことだったり

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 17:15:20.90 ID:WqAn93fS
長宗我部は名前が当時的に呼びづらいか認識しづらいで公家の日記でめっちゃ読み間違いされてなかったっけ

ちょうすがめ・・?ちゃうすかめ・・・?もういいわ!真田丸!
ってなったかもしれない

太刀受けの阿弥陀如来

2020年10月22日 18:16

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/22(木) 00:31:52.31 ID:AywwUuma
ではその香川から

太刀受けの阿弥陀如来

戦国時代、土佐の長宗我部元親が讃岐を平定しようと、阿波から乱入してきた。そして本山寺を
本陣としようとしたが。この時の住職は
「ここは殺生禁断の地であり、立ち入られては困る。」
と言って、長宗我部軍の要求を拒否した。
すると兵士たちは、やにわに住職を、一刀のもと斬り殺した。

そして寺院の中に入ろうとすると、先程斬り殺したばかりの住職が本堂の縁側に立って、兵の侵入を
拒んでいた。これは不思議なことだと思って彼等がよく見ると、赤い血の跡が点々として、本堂の
内陣の中まで入っていた。尚もその跡を辿ったところ、厨子の中にまで血の跡は続いていた。

厨子の扉が少し開いていたため中を覗くと、脇仏の阿弥陀如来の、右の肘から血が流れていた。
「さては阿弥陀如来が住職の身代わりの成ったのか」と恐ろしくなり、長宗我部の軍は早々に
引き退いていったという。

これ以後、その阿弥陀如来は「身代わりの阿弥陀如来」と呼ばれるようになった。

『巡礼と遍路・寺々の物語』



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/22(木) 07:59:12.36 ID:JQqpQXTA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5989.html
同じ話は前にも出てた

長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆について

2020年01月03日 16:57

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/03(金) 15:32:01.50 ID:09lJbNmQ
慶長五年霜月の頃であっただろうか、長宗我部元親はこの度、石田三成の企てた逆心に同意し、
濃州関ヶ原を退散して土佐国へ下り、連々と公儀に、井伊兵部少輔(直政)を通じて弁明に
尽くし(使いは盛親家来・立石助兵衛、横山四郎兵衛)、兵部殿より盛親の自国居住を
仰せ入れになった。

盛親は霜月に上洛したが(ただし詳しい月日は知らず)、兵部殿を以て命が下り、土佐国を此の方に渡すよう
仰せ入れになった。盛親は、土佐国を引き渡す旨の判形を家来に持たせ遣わし、兵部殿より御家来(鈴木平兵衛)を
差し下した。

この時、山内対馬守(一豊)に土佐国が下される事になっており、先立って鈴木平兵衛と同年の冬、土州へ
差し下した。ところがこの時、長宗我部家来達が城を明け渡すことは出来ないと一揆を催し、鈴木平兵衛を
雪蹊寺に取り囲んだ。しかし盛親の家老たちが「主人が上方に有りながら一揆を起こせば、盛親の身上が
果ててしまう。すぐに明け渡すべし」旨を申したため、異事無く渡したのだと、この一揆に参加した者共は
申し伝えている。

(長曾我部覺書)

長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆についての記録



長曾我部元親の降伏

2020年01月02日 15:46

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 02:30:52.93 ID:4TxiWVEV
天正十五年の夏、太閤様(豊臣秀吉)より四国に御討手の勢が下ることを、長曾我部元親公は聞き及ばれ、
防衛のため城ごとに御手分けを成され、一宮へは江村孫左衛門(親俊)、谷忠兵衛(忠澄)の両頭が
仰せ付けられた。

ここには上方勢の内、大和大納言殿(豊臣秀長)が向かわれたが、大納言殿はこの城に入った谷忠兵衛が
知慮有る者と聞き及ばれており、未だ城攻めを行わない先に、谷に対し
「自分が扱いをするので、長曾我部元親へ降伏するよう伝えるように」と仰せ付けられた。
谷は江村孫左衛門と相談し、秀長軍と矢留(停戦)を申し合わせ、神文の一札を請い、羽久地(白地)の城へ
参ると、この事を詳細も報告した。

ところがこれを聞いた元親公は以ての外に立腹され、谷忠兵衛は即時に面目を失った。しかし谷は、これが
一大事の儀であると理解しており、終夜に渡り長宗我部家の総老中と相談を極め、何れも谷に同心した。
谷は三日間この城に留まり、総老中たちは元親公へ御諌め申し上げた、終には元親公もこれに同意した。
そして谷忠兵衛と老中の一札を取り、一宮に帰ると大納言殿へこの事を申し上げ、降参の首尾は相調った。

これ故に城中の者達も外に出て上方勢と出会ったが、上方勢は第一に馬が大きく、物具等も花やかで、
千騎が二千騎にも見えた。
それに対し四国勢は、第一馬細く、物具等も侘びしく、千騎が五百騎ほどにしか見えなかったと伝え聞いている。

同年十月、太閤様へ元親公の御降参が成った時、谷忠兵衛もこれに御供をし、太閤様に御目見得仕り、
家助の御刀を拝領した。この時人は皆、「谷忠兵衛は特に侍名利の者である」と褒め称えたという。

その後、谷忠兵衛は中村の城主を仰せ付けられ、この中村で相果てた。現在も正福寺にその位牌がある。
この谷忠兵衛の嫡子は豊後陣にて長宗我部信親公の御供をし、一所にて討死した。信親公御死骸の
御迎えにも、この忠兵衛が遣わされたと伝えられている。

なお、先にある神文の一札とは、美濃守殿(豊臣秀長)より元親公の御身上について、四国の内三ヶ国は
御取り上げになり、本国土州一ヶ国にて御断成されば、自身がその扱いを成すと申され、この時に
江村孫左衛門と申し合わせ、谷忠兵衛が元親公を諌め奉る為に頂いた神文一札なのである。

(長曾我部覺書)

長曾我部元親の降伏について



どうして信長の命を受けられようか

2020年01月01日 17:32

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/01(水) 05:18:10.53 ID:f2m7axWc
長宗我部元親は、織田信長が上洛する以前より、明智光秀を通じて音信を成し、また斉藤内蔵助(利三)は
元親の小舅であり、故に斎藤、明智は専ら信長に対し、元親との和睦を進め、また元親は加久見因幡守を
使いとして太刀、馬、黄金十枚、鷹を献上した。信長はこれを悦び、元親の嫡男彌三郎に「信」の字を
賜った(これは明智がかねてより信長の申し述べていた故であった)。またこの献上の謝礼として太刀、馬を
元親に贈り、且つ四国は元親の切り取り次第とする朱印状も賜った。

ところが信長の上洛後、讒言をする者があり、「元親の勇名、彼は四国を平らげた後、必ず天下の患となります。」
と説いた。信長はこれに同意し、使いを遣わして元親にこのように伝えた
「阿波半国(南郡)、土佐は元親の領分とする。讃岐、伊予の二州は信長に献ずべし。」
これを聞いた元親は大いに怒った
「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命を受けられようか。」と、返報すらしなかった。
これに対し、明智はまた使いとして、斎藤利三の兄である石谷兵部(頼辰)を遣わし、「和議を破るべきではない」
と述べたが、元親の怒りは堅く、明智よりの信長への使いも絶えた。

信長の子である三七信孝が四国を領するために出発し、三好笑岩がその先鋒とされた。信孝は陣を泉州岸和田に
敷き、五月下旬に、三好笑岩が先に阿波に至り勝端を攻め落とし、一宮蛮山に城を築いた。

六月二日、織田信長明智光秀のために弑せられた(四国の違変によって、斎藤利三がその身に災いが及ぶ事を
思い、明智に謀反を決意させたのだと言う)

(長曾我部譜)

いわゆる本能寺四国説ですね



721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 00:24:37.47 ID:8UXIolu7
>>713
長宗我部の国は俺のもの
俺の国も俺のもの

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 03:02:16.34 ID:GqVm1U9D
>>721
まあ、本能寺陰謀論はあくまで陰謀論だからどうでもいいとして、
この頃の信長は北条に対しても非常に高圧的な態度だったのがちょっと不思議。

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 06:26:47.36 ID:OtrX6ndU
北条が甲州征伐で役に立たなかったから?

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:04:35.65 ID:Wcs3LzPY
>>723
むしろ甲斐制圧したからじゃないかしら。
信長って、武田や上杉、毛利に対しても最初は低姿勢だったけど本願寺降したり勢力拡大や地盤固めしていくに連れ高圧的になってくし。

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:08:11.91 ID:Wcs3LzPY
>>724書いてて何となくジョジョの奇妙な冒険3部のDIO思い出した。

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 08:38:24.09 ID:i89aLd10
低姿勢にしてた武田上杉毛利に裏切られて
下手すれば滅亡に追い込まれかけたんだからキレてもしゃあない

727 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:52:34.82 ID:xZSYssKi
>>726
盟友焼き味噌ダヌキを攻めた武田はともかく、上杉は自分からちょっかい出してませんかね?
毛利も安芸門徒の総本山たる本願寺に頼まれたら嫌とは言えないし。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 09:50:29.58 ID:Uvjf7L6k
>>724
信長だけじゃなくてあの時代のほとんどの武士のメンタルだと思うぞ

香川氏と言えば…

2019年09月14日 18:12

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/14(土) 16:42:55.97 ID:V/euPfCo
香川氏といえば香川県の戦国大名で、信長の野望や太閤立志伝で三好氏や長宗我部氏のおまけとして知られていますね。
その名から香川県土着のイメージを持たれがちですが、実は相模国高座郡の香川荘出身の一族です。
現在の神奈川県茅ケ崎市にも香川の地名が残り、香川駅や香川小学校があります。

細川氏の家臣として讃岐国の守護代に任じられたのが始めですが、東讃の安富氏、西讃の香川氏と、西半分だけの守護代でした。
そういうわけで東讃の香川郡(現在の高松市周辺)とは関わってもいないという・・



399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/14(土) 19:37:28.46 ID:GFzkYziS
>>396
こういうのは長井氏なんかもな

出羽国長井荘(山形県長井市)の大江姓長井氏

武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)の藤原姓長井氏

相模国長井郷(神奈川県横須賀市)の平姓長井氏

伊達氏に本拠地奪われた大江姓長井氏が武蔵国(八王子市)に移ったもんだから、武蔵国長井荘は
もともと大江姓の本拠地とか言われるようになってしまったし

江戸時代の旗本の系譜には、自分の家は平姓長井氏で武蔵国長井荘が故郷なんですよ、という家までw

長曽我部元親の3女阿古姫は

2019年07月20日 18:04

阿古姫   
291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/20(土) 17:51:58.27 ID:xNepVVg0
長曽我部元親の3女阿古姫は大坂の陣の際に夫や盛親に従って幼い子たちを連れて大坂城に入ったが、夏の陣で落城に見舞われた
この時夫は戦死したが阿古姫親子は伊達政宗軍に捕らえられ、戦後そのまま伊達家家臣となった
阿古姫の次男が有名な柴田外記である
土佐のあたらしい国主の山内氏は長曽我部氏やその旧家臣を低く置く措置をとっていったため、先代の阿古姫たちを頼って
長曽我部一門やその家臣の一部が集まり一種のコミュニティーを作り仙台藩に仕えたという
江戸時代、多くの長曽我部一門は幕府に遠慮して苗字を変えていたが、多くが明治維新後に長曽我部などに戻したという



293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 21:51:24.68 ID:qLU8C8qo
>>291
龍馬とかが物語の開幕で郷士とかいじめられるあれか

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 21:56:07.62 ID:tvy6NoWG
なお幕末の土佐藩執政吉田東洋も長宗我部侍の模様。

龍馬は長宗我部とは何の関係もない模様

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 22:37:47.16 ID:QYh0WFsm
東洋は備後守重俊の子孫だよね

信長四国征伐の事情

2018年10月08日 18:37

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 17:44:01.59 ID:N7Ecm7CH
元親(長宗我部元親)は天正4年(1576)よりおよそ7年の間に四国を切り従え、天正10年には元親が
ことごとく押領した。(原注:長曽我部記・土佐軍記)信長公はこれを御聞きになって元親に対し、

「土佐・阿波両国は与えよう。伊予・讃岐は献上せよ」と仰せ遣わされた。元親は「これは思いも寄らぬ仰せ
かな。それがしが四国を押領したのは、まったくもって信長から恩賜されたわけではない。すべてそれがしが

数年武力をもって切り取った国々である。何の子細があって信長に進上することだろうか。仮に討手を差し
下されようとも、どうして容易に避け渡すことであろう」と返答した。これに信長公は、

「元親は猛勇に誇り、不礼の返答をしたことは捨て置けぬ。それならば武力をもって討ち滅ぼすべし」と仰せ
になって三男・三七信孝に四国を拝領なされ、「手柄次第に切り取るべし」と丹羽五郎左衛門長秀・

織田七兵衛信澄(津田信澄)・蜂屋伯耆守頼隆を差し添えなさった。この輩は「近日中に四国へと押し渡って
長宗我部の領国をことごとく切り取り、元親のこの頃勝ち誇る矛先を挫く」と大軍を引き連れ摂津住吉の浦に

参着した。折しも梅雨の晴れ間もないので大坂の城で人馬を休め、雨が晴れて順風の時節を待って過ごした。

古写本の長曽我部記、ならびに土佐軍記を捜索するに元親は四国押領の後は織田殿へ5,6度も使者を出して
ますます昵懇との旨を記し、織田殿がとかく争論したとは見えない。まして信孝の四国拝領のことも聞こえず。

今その事情を按ずるに、元親は明智光秀の被官・斎藤利三の妹婿である。それゆえに元親がその初め織田殿へ
通じた時も光秀の計らいであっただろう。とすれば光秀の救援となるのは元親の右に出る者はいない。

織田殿は近頃光秀を快しとされなかったために、その助けとなるであろう元親をまず除きなさらんとの内意で
元親へは御指図もなく信孝らをただちに討手に遣わされたのか、または三好笑岩(康長)は秀吉の甥・秀次を

養子としたわけだが、いま四国で元親に従わないのは三好一族ばかりであった。その三好が元親に攻められて
危うきこと旦夕に迫るゆえに、笑岩から秀吉の備中の陣へそのことを申し送って愁訴し、秀吉から織田殿へ

四国征伐を勧めてにわかにこの事が起こったのか、この二つの内どれかだろう。元親の側ではその事を知らず、
その内に織田殿も横死され、信孝らも大坂まで出軍したのみでこの事は止んだために、四国の側ではこの事に
ついてまったく取り沙汰さなかったものであろう。

――『改正三河後風土記』


仙石橋 白滝橋

2018年03月09日 11:01

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/08(木) 18:53:20.58 ID:XBnrOpcr
仙石橋

大分県字船頭町より西大分町字勢家に通ずる間にあり
仙石の名称は天正十四年十一月、仙石秀久、秀吉の命を奉じ
兵を率い大友氏を援けるに際し、大友義統、道路を修繕しこの橋を架け
もって秀久一行を迎えた事に因り、名付けて「仙石橋」という

おそらく当時架けられたものは土橋で
現在の石橋に改まったのは承応二年、城主日根野吉明の時である
架橋の竣工なるや日根野吉明、同年五月七日をもって渡橋式を行い
堀川町幸松興右衛門をして一番に渡らせた
その際興右衛門、子孫従僕合わせて八十余人
皆々盛粧してこの橋を渡ったそうだ


白滝橋

長宗我部信親の愛馬は真っ白な鬣(たてがみ)を持ち
馬を走らせると滝の様に流れて見えたため
「白滝」と呼ばれていた
戸次川合戦にて信親は討ち死にを遂げるが
残された愛馬は川のほとりにいつまでも佇み
それがまるで主人の帰りを待つかの様に見えたため
地元の民が逸話として語り継ぎ
この地に橋を架ける際、その名を取って
「白滝橋」と名付けたそうだ

(大分案内記:名勝旧跡ほか)

戸次川合戦にまつわる二つの橋の逸話
仙石橋は大正初年に崩落してしまいましたが
白滝橋は国道10号線に架かる橋として現存しています



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 00:08:22.71 ID:/J7dFos7
>>683
丹生島城の戦いで名付けられた臼杵の甚吉坂(吉岡妙林の子の吉岡甚吉が活躍した小坂)が好きだな

伊予日振島における戦後処理の逸話

2017年12月13日 19:35

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:36:08.43 ID:RImMcwen
戸次川合戦敗退後、長宗我部元親は伊予日振島に逃れ
桑名将監を使者として、合戦詳細を秀吉公に知らせた
秀吉公はじめてそのいくさの詳細を知り
さても仙石手に合わざる合戦し
信親を討たさつる事の不便さよと仰せられ涙を流された

また合戦の三日後にあたる十二月十五日
大友宗麟は慰問状を日振島の元親に使わし
その内容は以下の通りである

この度のいくさはご挨拶の仕様もないが
無事御渡海の段は安堵に存じます
(長宗我部殿の当方に対する)これまでの様々な件に御入魂の次第は
永々忘却してはならぬ事であります
勝敗については戦場の習いにて、お気になさることもないでしょう
また兼ねて戸次利光城(鶴ヶ城)に差し向けられた鉄砲衆ですが
昨夜全員無事にこちらに帰還いたしました
そちらにお送りしたいと存じますが、船を揃えるのに難儀しており
船便があり次第お送りいたします

天正十五年十二月十五日
                         休庵宗滴判
追伸
 御子息信親戦場の儀については、様々な風聞があり
 未だ実否は分明ならず、奇怪千万な次第です
 こちらで詳細がわかり次第、お知らせ申し上げます

(続く)

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:37:24.97 ID:RImMcwen
(続き)

信親遺骸返却について島津と交渉しつつ
合戦後十三日目には奥長門守を使者とし
宗麟がこもる丹生島城(臼杵城)へ鉄砲隊を派遣した
その際の書状の大意は以下の通り

この度敗戦の成り行き、都鄙において外聞を失い全く無念な次第です
されども今はお城を固守することが肝要であり
自分も加勢に馳せ、共に籠るべき所ですが
退陣口の仕合、覚悟に任せず困難なため
まずは有り合わせの鉄砲の人数を差し出しますのでお頼み申します

天正十五年十二月二十五日
                         長宮元親判

結局元親は土佐本国に帰ることはなく
敗軍を糾合し、丹生島城宗麟と連携を取りながら豊臣本軍を待ち
翌天正十五年三月の秀長軍到来をもってはじめて伊予日振島を出た

(土佐軍記その他)

長宗我部元親、伊予日振島における戦後処理の逸話である



504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:57:19.08 ID:b83ZmTWr
この頃は宗滴と号していたのか

【雑談】そもそも、長曾我部って豊臣にも石田にも

2017年11月08日 20:15


255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 07:28:38.32 ID:QHo92xTP
そもそも、長曾我部って豊臣にも石田にも何の恩も無いよね

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 08:23:26.49 ID:fLGkSkHf
一応土佐安堵の恩はあるんじゃないの

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 08:27:28.12 ID:eAM3quoG
世間的にはそういうことになるわな
秀吉もめっちゃ宣伝しとるし

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 08:47:13.48 ID:EDsTJapH
取次ぎ役の増田長盛についてっただけでしょ

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 17:19:02.18 ID:NRHpoNbo
どうせ巻き込まれたなら一旗揚げてやる的な感じじゃないかねぇ

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 00:44:26.12 ID:PYoxyBnV
なんとなく、元親が関ヶ原前に死去していれば西軍について関ヶ原本戦にいそう。
元親がまだ存命なら東軍よりの中立ないしは佐竹のようなどっちつかずになってそう。

261 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/08(水) 06:05:13.08 ID:KvFOQlX5
>>260
どっちにしろ詰みやんけ
後者なら改易で大名長曾我部家は維持出来そうだけど

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 06:38:46.15 ID:g1dobNL8
>>260
元親存命なら毛利と伊予を挟撃してそうだな、あとで知らぬととぼけそう。
268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 16:50:45.38 ID:VEWh+6Fb
>>255
どっちかっていうと敵方
柴田のときもそうだし徳川のときもそう
でも四国統一にかまけて秀吉牽制を怠けてるから味方の印象はボロクソ

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 17:42:35.97 ID:3V35s42x
統一できたところで所詮四国に過ぎないしなぁ。石高低すぎ。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 19:40:20.41 ID:Apk8J3Tc
結局統一も成し遂げてないし
自分とこの記録ではちゃっかり達成したことにしてるけど

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 22:03:20.15 ID:exyUzbls
信長の要求飲んで阿波を三好に返して伊予に転進しときゃよかったんだ

元親記による信親の最期

2017年11月07日 09:14

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 17:46:34.12 ID:ewVS0Zz3
折角なので元親記による信親の最期の様子も

長宗我部軍も是非に及ばず陣触れをして、一足遅れて出撃したが、川を渡って
陣容も整わぬうちに、黒雲のように薩摩軍が押し寄せて来た。
年光城攻めを差し置き襲ってきたのだ。これが薩摩と土佐の史上初の激突である。
仙石軍は猛攻を避け、北方の豊前に退いた後だった。

群がり来る敵の中で、信親は馬を捨て四尺三寸の大長刀で八人を薙ぎ伏せ、
さらに刀を抜いて六人を切り据えた。
物の具の上から打ち合うので刀の刃はぼろぼろになっていた。
(信親は)辺りの敵を追い払って腹を切ろうとすると、多勢の者が走り寄り、
同じ場所で次々と自決した。
福留隼人(儀重)と細川源左衛門は元親のそばに駆け寄り、
この世の暇乞いをしてから命を絶った。

(中略)

討死した信親は二十二才だった。身の丈六尺一寸、平素は長船の名刀
三尺五寸の兼光を腰に差し、剣術に優れ、身のこなしの敏捷さは比類なかった。
走り跳びに二間を跳び越え、跳びながらこの刀を抜いた。
これほどの人なので、樊カイにも劣るまいといわれて、元親も最も期待していた。

信親がこの日帯びていた刀は、先年信長公に名をもらった時、その祝儀に
拝領した左文字の太刀であった。

(元親記)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 18:09:41.59 ID:zLyaVyxg
>>247
信長、左文字の太刀とくると義元からぶんどったやつが思い浮かぶが
あれは別に伝わってるから他にもあったのかな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 19:47:28.06 ID:o4NOSjYb
信長に貰った太刀や着ていた鎧兜がボロボロになっていて凄まじかったらしいね
この時、権兵衛が大人しくしていれば後の歴史が結構変わっていたかな?

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 20:16:18.73 ID:hnPtJm7D
>>248
年光じゃなくて利光だろう

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 21:12:51.84 ID:ewVS0Zz3
>>251
一応原文ママだよ
まあよくある当て字だね
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-066306&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%85%83%E8%A6%AA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=62

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 22:25:40.59 ID:JfPQ4w+X
>>250
関ヶ原のとき盛親じゃなくて信親だったらってとこか。なかなか渋いif

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 04:16:34.83 ID:qysCJnfh
案外、旗幟鮮明にして最初から西軍参加でやっぱり関ヶ原戦場で壮絶な討ち死に遂げてそう。