信親忠死の跡なれば

2017年08月31日 16:58

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 14:48:51.99 ID:D/ZmCpnd
去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには

「権兵衛は元来強気無法の者であれば
 敵を侮るな、一人駆けはするな
 衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
 宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
 察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
 この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
 かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
 一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
 我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
 今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
 土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」

そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。

(土佐物語)



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:50:37.09 ID:tjcfsPmD
十河家.....。
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子孫秋月氏と改称す。

2017年02月10日 14:09

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 23:28:32.86 ID:JuuVXvpS
吾が高麗町、土佐秋月氏併唐人街、今薩摩鮮俘、陶器を鬻(すきわい)とする事

 前編五十七に、朝鮮の役で法印公(松浦鎮信)がかの地の人を虜として帰陣された後、
その者達を一ヶ所に住ませて、諸臣が在城しているときの食事を調えさせた。
それを人呼んで高麗町ということを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10527.html

 この頃『征韓偉略』を見ると、
「此の役で、慶州の将朴好仁が来援して城に入て勇戦す。
城陥るに及んで囲を潰て走る。
(長宗我部)元親の兵、吉田政重が彼を捕らえ獲た。
翌年に及んで元親は土佐に帰る。
その良将たるを以て、これを遇るに賓客の礼を以てす。
その身を終ふ。子孫秋月氏と改称す。
その余俘を獲る所八十余人。元親はこれを憐れみ宅地を賜って居らしむ。
皆販売を業と為す。時に唐人街と称す。」

 これらは法印公のことと同じである。
ならばさぞ渡鮮の諸家には、これに類似したことがあるのだろう。

 後にまた聞いた。
今薩摩には
島津氏が朝鮮での戦からの帰陣のときの俘虜を住ませたという村がある。
よって今も鮮国の風を存じていて、
その村の者が皆有髪で陶器を造るのを生業としているとか。
きっと世で薩摩焼と称するものは、この朝鮮の子孫が作っているのだろう。

(甲子夜話三篇)

なぜ、秋月と名乗らせたのだろうか?



612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 09:24:29.95 ID:VHI4AhJD
秋の月が故郷の月と同じだった

桑名弥次兵衛は、長宗我部耳目の臣であった

2016年07月04日 18:41

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:02:44.48 ID:mNniwc6S
桑名弥次兵衛貞敬は、元は長宗我部耳目の臣であったが、関ヶ原の後浪人していたのを、
武勇のほまれが有ったので藤堂高虎が招き物頭とした。

大坂の陣が起こると、長宗我部盛親は家臣の山崎与助に命じて再三にわたって桑名を招いたが、
桑名はそれに従わず、

「盛親公は先主です。恩を被ること厚かったといっても、私もまた、度々の戦功をいたして
それを謝する所ありました。
一方、現在の主人より恩を被ることも、また莫大です。その上近年天下治平にして合戦無く、そのため
新主への奉公は未だ勤まっていません。
ですので、お招きに従うことは出来ません。

ただし、私を招いて頂いたこと、世に忝なく存ずる所です。
ですので、御陣と見れば一番に駆け入って、討ち死にいたしましょう。
これはそちらと敵対を為すに似ていますが、物頭をも仕る私が御手にかかり討ち死にすれば、
御武辺の飾りともなるでしょう。
また、現在の主人に対しても、死を以って恩に報いるという道に叶います。
であるため、今、お召に応じることは出来ませんが、どうぞ死後をご覧下さるべし。」

そう返答したという。

(慶元記)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:23:43.43 ID:br89QJVi
吉成の別名で貞敬なんてあったっけ?

長宗我部家督のこと

2016年05月14日 08:27

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 20:46:22.05 ID:SNQmTQv8
ある記録によると、豊臣秀吉在世の頃、長宗我部元親は京より帰国し、一門衆・家老を集めて言った

「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてから、未だ家督をだれに継がせるべきか定めていなかった。
しかし私も高齢となったので、信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、彼を家督に立てようと考えているが、
お前たちはどう思うか?」

一座の人々は盛親が不肖であることを知っていたが、あえて返答する者はいなかった。
しかし、元親の婿である吉良親実が進み出て

「信親様のご息女を右衛門太郎殿の奥方として、跡継ぎとされるというのは、御嫡子の筋目が立つに
似たりと雖も、三男の津野孫次郎(親忠)殿は既に秀吉公にも見知り置かれ、御器量も優れておりますから、
津野氏の家を誰か別の者に御相続おおせ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられるのが宜しいと
考えます。」

しかし元親はこれを聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、即ち家長久の基となるのだ!」
そう、いかにも不機嫌そうに反論した。

それでも親実は重ねて
「私は両者何れにも親疎があるわけではありません。私がこの様に申し上げるのは、国家静謐の基を
固く定めたく思っているからです!」

家老の比江山掃部助親興も最前よりこの座に在って控えていたが、進み出て
「只今、吉良氏の仰せられたことは、誰かのためというような依怙の沙汰ではありません。
御家繁盛、子孫長久を祈る良策であります。ですので、是非ともご了承なさるべきです!」

だが、元親は怒りの顔色にて、一言も発せず座を立ち奥へと入り、その日の談合は終わった。

しかし佞臣たちが元親の傍にあり、親実、親興の両人の事を様々に讒言したことで、終に
天正16年10月14日、比江山親興に切腹申し付けられた。吉良親実もこれを聞き、同じく
切腹したと言う。
以後は誰一人元親を諌める者無く、思いのままに盛親を家督に立てた。

(新東鑑)



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:19:35.34 ID:MAGd5jI6
一方武田では…

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 07:51:32.09 ID:Qzbcp+k7
叔姪婚には特に反対はしないんだ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 08:07:45.90 ID:lMYQd5Fe
兄貴たちが死んでしまった表裏さんみたいに、一度別家に入った人間が家督を継ぐのは異例だと思うんだけど、盛親ってそんなに評判良くなかったのかな

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:12:04.97 ID:b93BGPM7
改易されてしまった人を良いように書くわけにはいかんだろ

うまくこの戦争が終わったら

2016年05月06日 17:53

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:26:09.94 ID:YyOFRyTP
毛利安左衛門は長宗我部宮内少輔(盛親)に属して大坂の陣で戦ったが、生命を助かり、
後に人々にこう語った

「戦場の事については、今時の壮士たちが畳の上で推量しているものとは違って、簡単に
高名手柄の成るものではない。

おおよそ戦場においては、昼夜の境なく心は苦しみ、寒暑を防ぐことも出来ず、兵粮と言っては
黒米を食い、おっ立て汁に塩を舐めてようやく飢えを助け、寄せ手は竹束の陰に武具を枕とし、
霜露に晒されながら夜を明かす。

城中ではなおさら、今や攻める、今や討ち死にすると寝食も忘れて緊張している中、色々な雑説が流れ、
何某は内通するとか、誰は敵を手引して今夜火を掛けるとか、様々な危ういことが、
毎日毎日言いふらされていた。そのため膝を並べる同僚の面々であっても油断できず、片時も
安き心で居られず、手柄高名を心がける以前の問題であり、勇気を折る事しか無かった。

普通の喧嘩であれば、互いの怒りから勇気も出て、死も顧みない心にも成れるが、合戦は敵に対して
私の怒りなど無く、ただ忠と義を盾にして争う事であるから、喧嘩ほどの勇気も出ない。
であるから、十人中九人までは、このような状況に日夜悩まされると、高名立身の望みも失せて、

『うまくこの戦争が終わったら武士を辞め、どんな賤しき業をしてでも、一生を過ごすのだ!』

そう思う者ばかりとなるのである。」

(新東鑑)

大坂の陣に、大阪方で参戦した武士の回想。大阪城内の雰囲気が見えるようです。



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:48:54.52 ID:VjacA46w
織田頼長「せやろ?」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 21:50:59.76 ID:tNQfI0do
>>588
大阪の陣って、武士が必要とされなくなる世の中が目前に迫っていて、その恐怖から逃れるために死に場所を求めて参戦する場だと思ってたんだけど

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 22:23:31.74 ID:jl9/eRDb
大坂の陣に参加する人の多くは、成功できなかった人たちがイチかバチかで行ったけど、
周りも似たような人ばっかりだからまとまらないんだよ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 12:19:30.86 ID:DFAR/Q3V
大坂の陣で大阪方に参加したのは、徳川家が改易しまくったせいで無職になってしまった武士たち

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 14:27:09.70 ID:jeuPwFxy
いや再就職出来なかった奴等だろ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 22:22:12.91 ID:mUyupg5Q
>>588
俺この戦争が終わったら武士辞めるんだ(死亡旗)

長宗我部姓の成立について

2016年02月08日 18:01

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 20:13:18.35 ID:njF5l6gN
彼の長宗我部兵部丞文兼の先祖を委しく尋ねれば
秦の始皇帝四世の孫、功満王が仲哀天皇八年に来朝し
その男子は融通王または弓月王とも号した。
応神天皇十四年に来朝、その男子真徳王
仁徳天皇の御宇に姓を賜り、波多と言う。今の秦の字の訓である。
真徳王9代の孫、秦の川勝に至った。
用明天皇二年七月、厩戸の王子、守屋の大連(豪族)を討伐の際
川勝大きに軍功あり。川勝二十五世の孫、秦能俊、土佐長岡郡にて
三千貫を領し、宗我部村岡豊山に城を築きて入城し、氏を宗我部と改めた。
しかしながら、同国香美郡にも宗我部という所があり
領主も宗我部なにがしと号していたので紛らわしいという事で
「長」岡郡にあるを長宗我部と称し
「香」美郡にあるを香宗我部と称することにした。

(土佐物語)
土佐物語冒頭より。
何となく異国の神話やおとぎ話を連想させるような
長宗我部姓の成立についての逸話です。



279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/08(月) 15:42:56.28 ID:ZwZgu0jb
前からいたのに香宗我部に改名はかわいそう
長宗我部の方だけ別の名前に再改名すればいいのに

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸に

2015年12月18日 17:02

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/17(木) 23:27:45.86 ID:N9WvyaUM
原田角之丞は土佐の武士で、大坂冬の陣の時は藤堂高虎の郎党小林伊豆の配下だったが、
元は長宗我部家の譜代の臣であったことから、夏の陣では旧主盛親の下に馳せ参じて戦った。
そして首級一つを挙げただけでなく、長宗我部勢が撤退する際には道路の木戸を打ち破って、
置き捨ててあった玉薬の箱を拾い上げ、それを肩に担いで悠々と城中に引き上げてくるという武勇を見せたのである。

大石内蔵助良勝とその弟の信云は、進藤利英(近衛家家臣、内蔵助の妻の弟)から彼の武功を聞き、
浅野内匠頭長直の耳に入れた。
その結果、角之丞は寛永14年に食禄五百石、足軽頭として浅野家に招かれることになった。
さらにその5~6年後には利英の娘・世牟を娶ることになる。

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸の町に、亡き主君の仇の首級をくくりつけた槍を高々と掲げ、
同志たちとともに泉岳寺を目指す男の姿があった。
赤穂義士・潮田(うしおだ)又之丞高教。角之丞の孫にあたる人物である。
(大石家外戚枝葉伝)



長宗我部国親の死

2015年01月23日 18:51

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:11:47.26 ID:AyTRGkqD
長宗我部国親が病の身を押して本山氏の浦戸城を落とした後のこと

さる程に覚世(長宗我部国親)は、岡豊に帰りなさって、種々の医療をされたが、針灸調剤の術も絶えて、
既に臨終に及んだので、弥三郎(長宗我部元親)を呼び、
「我は病で命が今に迫っている。本山は怨敵の張本なので、報酬の志深いといえども、時至らずして過ぎ去ってしまった。
そうであるので今度彼が領内に入って一戦に打ち勝ち、三つの城を乗っ取ること、生前の本望、死後の思い出である。
なので我が為には、本山を討つより外に供養なし。我が死んだら、十七日の間は、世法に従って、汝が心に任せよう。
それが過ぎたら、喪服を脱いで甲冑に換えて、軍議に専念しろ。この旨を堅く心得よ。」
と言って、永禄三年六月十五日,、五十七歳で、遂に卒去しなさった。
逃れられない別れで悲しいけれども、そのままであるべきではないと、岡豊の東北、千歳山謙序寺に葬った。
こうして元親は、十七日の作善、心の如く執り行い、悲涙が未だ乾かないといえど、亡父の遺言に任せて、吉良退治の評議をなされた。
(土佐物語)

「討つことだけが供養」と言われる程,本山さん恨まれてたんですね



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 14:01:56.78 ID:otEkF0KP
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:14:53.45 ID:vDZk8E/v
異説もあるみたいだけど親爺さんは本山に討たれてるもんね

本山って元から吉良氏なのかね
それとも三木姉小路のように、吉良を滅ぼして名跡を継いだのかな

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:24:14.07 ID:SuH6zLUr
こんな遺言うっかり脳筋に残したら逆に家滅ぼしかねない

チヌの池由来

2014年05月22日 18:51

348 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/22(木) 17:54:20.18 ID:gST4JFnT
天正13年、豊臣秀吉による四国攻めにより、小早川隆景が伊予に攻め入ってきた。

小早川勢に対し金子備前守元宅は、金子城を弟の金子対馬守元春に任せ、自身は軍勢の指揮のため高尾城に入ることにした。
この金子城でのお話。
金子城に籠城した金子対馬守の守りは固く、流石の小早川勢も攻めあぐね、ついに小早川から使者がやってきた。
使者は
「これ以上の戦いは無益です。わが殿も対馬守殿の武勇に感じ入り、決して悪いようには致さぬと申しております。どうか開城していただけませんか?」
と降参を勧めるが、対馬守はとうとう聞き入れることは無かった。
しかし対馬守は、金子城の飲料水としていた大きな池から鯉を釣り、使者へふるまい礼を尽くしてくれた使者へのせめてもの返礼とした。

こうして金子城は最後まで頑強に抵抗したが、衆寡は敵せず落城し、金子対馬守も討死した。傷ついた金子城の兵は最期に水を求め、
多くの者が池のほとりで力尽き死んでいったという。
地元の者は、この池を血塗の池、血の池と呼ぶようになり、転じてチヌの池と呼ぶようになった。

後世に金子城の武勇を伝えていたチヌの池は、明治のころに鉄道の工事のために埋め立てられ、今は無い。




350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 19:25:20.03 ID:b+DpLnDl
>>348
金子元宅は知る人ぞ知る四国の名将ですね
関連逸話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=3456&cr=1d2b913fbdc27e85ff0b0e29ced99dac

「いや~ん、いや~ん」

2014年04月22日 18:47

36 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/21(月) 16:39:19.98 ID:/IcLHN8X
四国霊場五十四番札所、延命寺は天平年間に行基が開基したと伝わる古刹である。
元の寺号は円明寺といったが、五十三番の円明寺と同じで紛らわしかったため、延命寺に改めたという。

この寺の梵鐘は古くから素晴らしい音色で知られ、近見太郎と呼ばれた名物だった。
梵鐘は伊予の国に長曽我部元親が乱入した時に略奪されてしまい、兵たちにより船に積まれ持ち去られた。
しかし洋上に出ると、誰も叩かぬのに
「いぬ~いぬ~(帰る帰る)」
と唸りをあげ大きく動き出し、とうとう船を傾け海中へ転がり落ちてしまった。
これを見た長曽我部の者たちは
「鐘が自ら動き、略奪を拒んだのだ。」
と不思議な仏力に恐れおののいたという。

その後、梵鐘が無くては不自由だということで、当時の住職が私財で梵鐘を鋳造した。
この二代目の鐘は近見次郎と呼ばれ、やはり音色の良さで知られたが、松山城に時鐘として持ち去られることになった。
しかし、いざ運ぼうとした時、誰も叩かぬのに
「いや~ん、いや~ん」
と唸りをあげたので、置き去りにされたという。

この次郎は引退し、今は三代目の近見三郎が使われているが、除夜の鐘だけは今でも近見次郎が使われ、その音色を響かせている。

関連
「いぬ~いぬ~」


37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 16:59:23.34 ID:lgWi0JxU
なお今年は四国霊場開創1200年
ゴールデンウイークはぜひ四国でスタンプラリーをとステマしてみる

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 19:35:21.76 ID:ahGkrcyI
今年の日程で遍路巡りは厳しくないですかね

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 21:37:51.56 ID:5YRmUs0n
さすがというかなんというか四国の鐘はよく喋るなぁw
しかも「いや~ん、いや~ん」ってw
「嫌よ嫌よも好きのうち、男心をくすぐる良い音でなく鐘よ」
とか言い出すのがいなくてよかったね

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 23:23:43.22 ID:WaJ0rS+K
愛媛と呼ばれるだけあってなんとも卑猥な音を出す鐘よ

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 09:53:22.86 ID:K6SPwjmj
ところで近見三郎はどう唸るんだ?

47 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/22(火) 14:05:20.89 ID:MjRFUtAj
どすこい

万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴

2014年04月11日 18:54

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 18:44:29.57 ID:bHuZaDVA
長宗我部元親はかねてより秀吉公の御成(おなり)を願い
その準備に二・三年をかける程であり
金銀珠玉を費やしたその普請の結構な事、言うことなしであった。
さて既に普請も完了し、御成の日時も決定した所に
どうして誤ったのであろう、御門の寸法が低く、御車の出入りができないとわかった。
これを聞いた元親、大いに怒られたが、余日もなかったので
俄に白木にて御門を建てた。
始めの門は毀ち置かれたが、元親卒去の後、土州吾川郡長濱に菩提寺を建てた際
これを流用し今もあると聞いている。
(土佐物語)

万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴、という逸話。
ちなみに慶長元年4月に秀吉は元親伏見邸に無事御成となり
以下の超豪華メンバーが一同に揃いました。
江戸大納言、筑前中納言、加賀中納言、安芸宰相、大野宰相、越中宰相
結城少将、若狭侍従、郡山侍従、伊賀侍従、吉川侍従、出羽侍従
大崎侍従、安房侍従などなど。




948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 10:55:33.78 ID:cleLH+iX
>>943
えっと、ラスボスと随行が家康・隆景・利家・秀元・信雄・忠興・秀康・木下勝俊
秀保・筒井定次・吉川広家・(´・ω・`)・正宗・里見義康
こんなメンバーの中で恥かいたら....

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 12:00:38.42 ID:vY3+eKpC
そらもう金の十字架よ

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 13:47:17.37 ID:kYjoAw2H
大崎侍従にいじられる

西内喜兵衛、大いに笑って

2014年03月01日 18:45

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:14:28.54 ID:E46mrwC0
西内喜兵衛という者は国中武辺の強力(ごうりき)であった。
長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。

さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。

「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。




491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:51:53.20 ID:pUH9TpJ/
>さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
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虎の爪

2014年02月27日 19:09

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:16:14.48 ID:aiM0GJBc
長曾我部元親が朝鮮の唐島という所に在陣した時の話である。

この頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。

ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:18:59.16 ID:aiM0GJBc
虎は七三郎を打ち捨てて、市左衛門の首にただ一口に食らいついたが
かたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。

さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。

「土佐物語」
[2/2]




466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 19:21:47.80 ID:V1cIhpSV
朝鮮てなんか動物しか存在しないサファリランドだな。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 21:00:26.04 ID:xt96hlO6
>>464
朝鮮どんだけ虎の楽園なんだよ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:21:40.32 ID:egPFUAPb
>>464
朝鮮武勇伝ネタで虎じゃないのはないのか?w

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:24:07.37 ID:B1JE84mz
加藤清正の家臣が虎を退治して苗字が「金玉」になったり
虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:31:53.98 ID:Zhf3pNOF
敵兵がそれほど強くなかった分、虎退治がより大きく扱われてるのもあるな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 01:05:34.78 ID:onJgSEDK
虎がいるのに平然と昼寝するジミー加藤の虎逸話もあるね

長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

2014年02月23日 18:59

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:06:06.55 ID:GO9A0zPx
長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。

「土佐物語」

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:45:31.03 ID:f27vMd/J
コブラみたいなガラガラヘビの大きなやつかな?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 22:39:05.06 ID:QphLMAUJ
朝鮮に渡った諸将が散歩で遭遇するのは虎といにしえから決まっている

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:14:10.77 ID:U2GCbk1u
耳のあるヘビ?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:33:22.46 ID:cWrDbmU5
コブラの腹の広くなってるところじゃね?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:24:31.29 ID:vrRx5zHc
コブラは熱帯の生物だから、半島じゃ寒すぎないかな?

図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:39:48.99 ID:3rGzu6Jd
落ちてた鱗はおそらく目の鱗だろうな。
現存してるのかな?

俵兵衛の鉄砲

2014年02月21日 20:41

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:04:23.94 ID:VVpA5cFN
文禄元年、朝鮮陣の頃の話しである。
壱岐島の海辺に福島左衛門大夫正則、戸田民部少補氏繁、蜂須賀阿波守家政、生駒雅楽頭近世、長宗我部宮内少補元親の五大将が集まり
対馬への渡海について詮議していた。

この時、沖の方で鳥が飛び回っているのが見えたので
正則が「昔、本間孫四郎(南北朝期の武士)は沖の鳥を敵船へ射落としたそうだ。当世ではいかがであろう?」
と言ったところ、元親が「近代は昔と違い、弓の射手は少なくなりました。
しかし鉄砲ならば昔の射手に劣らぬ者がおりましょう」と答えた。

正則これを聞き「土佐の士には鉄砲の名人ありと伝え聞いています。いずれかを召して
あの鳥を撃たせて見せてくださいませんか?」と言い出した。
元親は「家中に鉄砲を撃つ者は数多いが、飛んでいる鳥を撃てる程の者は知りません」と断ったが
正則が「いやいや、たとえ外れたとしても苦しからず、ただ慰みに撃たせてみせてください」と重ねて言うので
元親はそれならば、と足軽の俵兵衛を呼び、あの鳥を撃ち落とせる者を呼んで来いと命じた。

すると俵兵衛「わざわざ人を呼ぶまでもありません。私にお命じ下さい。
常日頃飛ぶ鳥を撃っているので、あの程度の鳥ならば必ず仕留めます」と申し上げた。
元親は打ち笑い「諸将の前を憚らぬその心意気や良し、たとえ撃ち外したとしても恥辱にはあらず。やってみろ」と
命じた。
四人の大将を始めとして、その下の諸士がみな集まり見物となったので、これ以上の晴れがましさはなかったが
元親はもし外れたのならば恥辱とはならずとも、場が白ける事は必至であると内心穏やかではなかった。
                                                (1/2)

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:05:38.15 ID:VVpA5cFN
さて、俵兵衛が飛び回る鳥を狙いを定め打つと、寸分の狂いもなく鳥の体の真ん中に当たり、白毛がばっと散り
沖の方の岩の上へと落ちていった。
大将を始め、皆一同に「やや!撃ち落としたぞ!」と叫び、その賞賛はしばらく鳴りやまなかった。
されば間(距離)を打たせるべしと縄を張らせたところ、おおよそ五十八間であった。

正則は感極まり、昔の那須与一にも劣るべからずとして着ていた羽織を俵兵衛に賜ったので
残り三人の大将もこれにならって羽織を下された。
元親も悦に堪えず、また諸将への返礼なればとして俵兵衛をその場で士分に取り立て
太刀一腰を与えたので、当家他家の面々でこれを羨ましく思わないものはいなかった。

「土佐物語」 (2/2)




426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 17:36:03.92 ID:xCa6m9ns
酔ってなくても気前のよい正則

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 19:37:09.59 ID:3Cg7k0Cq
飛ぶ鳥を落とす勢いの出世だな

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 12:20:21.36 ID:1dTZhzw9
100m越の狙撃とかすっごいやん!

大阪夏の陣・桑名弥次兵衛の最期

2013年10月31日 19:17

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 20:09:13.61 ID:vPGML2T9
慶長20年(1615)5月6日、大阪夏の陣で藤堂高虎の軍と長宗我部盛親の軍が激突した、
八尾・若江の戦いでのこと。

桑名弥次兵衛は元々長宗我部譜代の重臣で、幡多郡中村の城主であり、合戦のたびに武功を上げた、
天下に名の知れた勇者であったが、慶長5年、関が原の戦いの結果長宗我部家が没落すると、
桑名には井伊家や蜂須賀家などから仕官の誘いがあったが、かつて秀吉の四国征伐の時、
彼の降伏を周旋された縁を以って、藤堂高虎に7千石で使えた。

そしていかなる不思議であろうか、この日、八尾において旧主たる長宗我部盛親の軍と
戦うことに成ったのである。

桑名弥次兵衛を始めとして、その嫡子将監一久、そして杉立九郎左衛門、市田十右兵衛、鶴原善左衛門、
入交助左衛門といった、旧長宗我部配下の土佐組は、群がる敵を次々と突きたて、
先手を置い崩し、長宗我部旗本にまで切り入った。

長宗我部譜代の者達は皆、互いに見知った相手であった。
長宗我部の旗本たちは桑名を見るや、口々に叫んだ

「お主は桑名ではないか!」
「それ逃がすな!桑名弥次兵衛を討ち取れ!」

そういって我も我もと桑名に切ってかかった。中でも近藤長兵衛が先に進み、
無二無三に突いて掛かり、桑名弥次兵衛の槍を突き折った。

そこで桑名は刀を抜き近藤と打ち合ったが、刀も打ち落され、最期は短刀を握ったところを
近藤の槍に貫かれた。

多くの土佐組の面々も、組頭である桑名弥次兵衛と、同じ場所で討ち死にした。

『彼らは新主への奉公もはたし、また旧君への志も立てたのだ。』

合戦後、人々は彼らの戦いに感じ入り、そう言い合った。

長宗我部盛親も哀れに思ったのか、夜に入り、桑名弥次兵衛の首を嫡子将監の陣所に
送り返してきたと伝わる。

(元和先鋒録)




622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 22:15:59.34 ID:eSNBBkKf
盛親の隊って、夜になる前に壊滅してるよね?

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 07:14:19.20 ID:uRpDfnGO
してないだろ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 09:44:19.74 ID:DhARhHe+
部隊としては壊滅してたが首一つ届けられないような文字通りの全滅してた訳ではないだろ

今どき畳の上では想像も出来ないことだろう

2013年10月20日 19:13

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 11:03:07.98 ID:o9prHf2z
これは毛利安右衛門という浪人が
大阪の陣で長宗我部盛親の手勢に属して戦ったときのことを
嘘偽りなく、ありのままに語ったことである。


「今どき畳の上では想像も出来ないことだろう。
戦というものは昼夜油断なく心を苦しめ、夜は露霜に犯され安々と眠ることも出来ず、
いざ攻撃というときに、竹束の陰にいて夜を明かすまでの心持といったらない。

城内の者は昼夜油断なく守って、食事はただ飢えを助けるまでのこと、
うまい、まずい、などとは寝言にも出せず、なかなかに浅ましいことである。

喧嘩なら互いの怒りの上の事で、死んでもそれまでだが、合戦には怒りはない。
ただ主君への忠を思って働くまでのことである。

城の中でも寄せ手の中でも流言飛語を放ち合い、
誰々は逆心を企て敵に内通したとか、やれ何だとか、
毎日毎夜さまざまな風説が立って人の心を驚かす。

さて敵と取り結び、互いに鑓を合わせる時は、土煙が立ってすさまじいものである。
一命を捨てての合戦なれば、人々の心は朧月夜に夢路を行くが如くで、
場なれて武功のある人などは、場数少なき者とは違い、
少々は目もあいて、はっきりしているであろうが、
『それでも朧月夜のようになることは同じだ』と、場数を踏んだ士もよく物語った。」

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 11:04:01.82 ID:o9prHf2z
「我らは鴫野堤の合戦(八尾の戦い)に、堤の下に皆々折り敷いて鑓を伏せていたところが、
藤堂和泉守高虎の軍勢が寄せてきた。
だんだんと寄せ太鼓の音が近くなってくる。
大将、長宗我部盛親は『采配を出すまで、必ずともに静まって控えておれ!』と
馬を乗り回して下知をする。

この時、思わずわなわなと震えがこみ上げて来た。
これは口惜しい事かな、と思って周りを見るに、やはりみな震えているではないか。

やがて間近くなって、鑓を合わせるとなると、たちまちに震えが止まった。
この時、藤堂勢の先手では、歴々の人が討死にをされた。

戦場で討死にと言えば、ただ戦って死んだとばかり思うだろうが、
なかなかそうではない。

目を廻したところを首を掻かれたり、手傷を負っているところを押し伏せられて首を取られたり、
あるいは長柄の鑓で叩き殺され、または踏み殺されなどして、いろいろの死にようがある、

それを討死にとさえ言えば、世間では互いに勝負して死んだものと思っているのだ。」


『二川随筆』より





534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 14:20:07.11 ID:fcksWb1h
流石に真に迫る物が有るな・・・

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 14:32:01.94 ID:Y2EKd+Ow
逆に乱戦の中で背中に傷を負ったりしたら臆病者にされたりするんだろうか

長宗我部盛親、旧家臣との会合

2013年07月02日 19:58

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 22:24:52.03 ID:4xg1CQW2
関ヶ原による長宗我部家改易後、近江に流れ井伊家家臣となった福富親政
大阪冬の陣にも出陣した。

「講和が成立したため、私は大阪城内に参り、古主である長宗我部盛親公に御目見得いたしました。
盛親公は私への御意に

「この度其の方はどこの攻め口に居たのか?」

とお尋ねに成りました。私が「井伊掃部頭(直孝)の手に居りました」と申し上げると、

「去る4日の朝、土居を攻め立てた人数の中に居たのか?」

とお聞きになられたので、「御意の通りです。4日の朝の掃部頭備のうち、
討ち死にした者の死骸を、ただ今回収しているところです。」とお答えすると

「掃部頭の手勢のうち、あの朝どれほど討ち死にしたのか?」

「17人、討ち死にいたしました。」

「そこは、私の持ち口であった。私への報告も、其方の申す通りである。」

そうして御側衆に仰せ付けになられ、討ち死にした17人の旗指物をお取り寄せに成り、
私に見せて頂きました。井伊家の同僚として近しい者達の指物であったので、それを見ると
涙を流してしまいました。

この時、盛親公は

「この平右衛門の祖父である飛騨と、父の隼人は、その時代非常に活躍し、討ち死にをした
者たちだ。」

と、その傍にいた中内惣右衛門と言う御仁にお話されました。誠に、忝い次第でありました。

それから盃を頂戴つかまつりました。その座には、近藤喜左衛門、川村半助、十池新右衛門
という方々が居ました。

このうち十池新右衛門は、この後紀州大納言様御家に仕えたと聞き及んでおります。」
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

大阪冬の陣の和議の後の、長宗我部盛親と旧家臣との会合の模様である。





「浦戸一揆」

2013年05月30日 19:55

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 04:58:19.68 ID:mfYPus1T
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の結果、土佐国は権現様(徳川家康)によって召し上げられ、
山内対馬守殿(一豊)が拝領されました。

それに先立ち土州請取を井伊兵部殿(直政)が仰せ付けられ、兵部殿から浦戸城請取のため、鈴木平兵衛殿が
遣わされました。平兵衛殿は上下100人ほどの人数で、同年10月中旬に土佐浦戸の湊に到着されましたが、
この城請取の時に紛争が起こり、長宗我部は年寄方(重臣層)と家中方が真っ二つに分れ、大きな合戦が
ありました。平兵衛殿は”みませ”と申す所に居られましたが、年寄衆が相談され、夜中に平兵衛殿を
城に引き入れ、請け渡しを相済ませました。

この事に家中方一揆共は異論を成し、「城を渡す訳にはいかない!」と城に攻め寄せて参り、
浦戸の南、”ヌカワカ”という場所で大きな合戦となり、これに家中方は敗北しました。
私達福富一門は、年寄方でした。

こうして停戦が行われ、程なく土佐の情勢も鎮まりました。そして私は鼓谷という所に引き籠りました。

この家中方一揆の内に、北岡六兵衛・源七という父子があり、彼らは一揆を扇動する徒ら者であり、
とにかくこれらを討ち取らなければならないと年寄衆の間で相談の上決定し、
熊野又右衛門、前田久右衛門、佐和良木理兵衛、北岡宗右衛門、苅屋小左衛門、宇津野孫右衛門、
三谷六右衛門、そして私の、計8人が討ち手として向かいました。

私は一足先に出発し、2番の熊野又右衛門と、北岡の家の正面に向いました。
残りの者達は家の後ろに廻りました。

私と熊野又右衛門が北岡の家に着くと、息子の北岡源七が家から出てきて、私に斬り懸かって来ました。
そして父親の北岡六兵衛も出てきて、こちらは又右衛門と斬り合いをはじめました。

私の方は、胴田貫の刀で北岡源七の頭を割り、源七を討ち果たしました。
北岡六兵衛の方は、熊野又右衛門に腕と細腰(腰の帯を締めるあたり)を斬られ転びましたが、
又右衛門は「頭を斬られて目に血が入り目が見えない!」と申しましたので、私は源七を
討ち取った所から三間ばかり(およそ5.5メートル)もありましたが、そのまま走り寄って
六兵衛に止めを刺しました。
残りの六人は事が終わった後に到着したため、間に合わす無念であると口々に申しておりました。

さて、私が六兵衛を討ち取った時に使った脇差は、その地の地侍である高橋平右衛門と言う者に
与えました。彼に対し

「私は、長宗我部家が改易されたため、きっと他国に退くことに成ります。今後浪々の身になりますが、
もしまたここに戻って来た時は、今回の私の首尾を証言し、証人となって下さい。」

と申し置きました。

しかし最早、高橋の家も子の代になったと思いますが、それすら私は存じておりません。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部家改易の際に起こった「浦戸一揆」についての記録である。





739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 13:11:46.40 ID:+42DkQlr
ちなみに長宗我部氏そのものは国親の三男、親泰が香宗我部氏の養子となった系列が
徳川家臣の堀田氏の重臣として存続している

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 23:49:10.68 ID:h4aiswuR
足立七左衛門(長宗我部康豊)もいるな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 00:17:30.36 ID:gukCAe+o
現在の長宗我部当主の友親さんは国親の四男の島弥九郎(親益)の家系だっけか


福富親政、朝鮮役にて

2013年05月25日 19:45

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:36:01.66 ID:W44iJUNB
文禄元年(1592)、その頃私は福富七郎兵衛と名乗り、17歳でした。

高麗陣にて12月5日、長宗我部元親公はこう仰られました
「二手か三手を出撃させ、5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
鼻を削いで御帳に記録せよ。但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように。
もしこの暮六つ迄に帰って来なければ、例え敵の鼻を削いで来たとしても、必ず罰を申し付けるであろう。」
この様に固く仰せ付けられました。私はその時、久武内蔵助の組におりました。一組は16人で
構成されていました。

我々は八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出ました。御本陣は組川(ソセン)という場所に
ありましたが、そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

向うは我らの軍勢を見ると、急ぎ逃げ出しました。我々はそれを追いかけましたが、彼らは松林の中に
逃げ込み、そして唐人たちの姿は一人も見えなくなりました。
我々は皆馬から降り松林の中を探索すると、松林の奥に穴があり、唐人たちはどうも、そこに逃げ込んだ
様子でした。そのため我々は、穴の中を狙って鉄砲を何発も撃ちこみましたが、当たったのか
当たらなかったのか、まるで解りませんでした。

この時廣井嘉右衛門という者が、「唐人を穴に追い込んだのに討ち捨てることも出来ずに帰ってしまえば、
後日、我々への批判はどれほどのものに成るだろうか。とにかく、この穴に入って唐人を探し出そう。」
と言い出しました。
穴の入り口は狭く具足姿では入れそうになかったので、具足を脱いで脇差だけの武装が良いと、皆
支度をしていた所、私が召し使っていた久右衛門と言う者が、私にこのように囁きました。

「今こそ手柄を立てる時です!この穴に一番に入るのです!」

私はそれを聞いて「尤もなことだ」と思い、一番に穴の中に入った所、廣井嘉右衛門が後から入ってきて、
私の帯を掴み、穴から引っ張りだそうとしました。
しかし久武久右衛門と言う者が廣井に、「七郎兵衛は若輩者の志で先に入ったのに、お主が
そのようなやり方で、例え功を稼いだとしても、我々は後日の詮議で、一番は七郎兵衛であったと
証言するぞ!」と申し立てたため、廣井も私の帯を放しました。

こうして先頭が私、2番が廣井嘉右衛門、3番が久武久右衛門という順番で穴に入りました。
その他にこの穴に入ろうというものは、一人もおりませんでした。
穴の中で廣井から、「脇差を抜いて手に持っておけ」と言われ、私も尤もなことだと思い、脇差を抜いて
手に持ち、穴の中を進みました。

穴の入り口は狭かったのですが、奥に行くにつれて広くなり、12,3間もありました。
半ばで地面が盛り上がっており、これでは穴の口から撃った鉄砲など、当たるはずも有りません。

奥に隠れていた唐人たちを発見しましたが、彼らは日本人の鉄砲を恐れていたため、立ち向かってくること無く、
我々の姿を見るや、全員残らず抜け穴から逃げ出しました。しかし穴の外に残った者達が、
それを残らず召し捕りました。
この唐人たちは全部で17人。私達は彼らを斬首し、その上で鼻を削ぎ、穴に入った3人で分けました。
私は鼻7つ、廣井嘉右衛門は鼻6つ、久武久右衛門は4つを手にしました。

そうして本陣に帰ったのですが、時間は既に、夜の九ツ(午後11時頃)を過ぎていました。
これは先の軍法に違反しているということで、特に穴に入った3人には、切腹を申し付けると決定し、
私はその覚悟をしました。

所がそれから3日目に元親公の御意にて、「国元から100人ほどしか高麗に召し連れておらず、
その内では切腹する3人も含めて、10人と言えども大切である。よって今回は助けてやる。」と仰られ、
この旨は出頭人の中内勝助と申される方より発表されました。
そして翌12月9日、私たちは元親公にお目見えを許されました。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部軍の一兵卒から見た、朝鮮の役での一コマである。





702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:46:32.33 ID:8QWdfP/d
「おいでませ野間 歓迎 源義朝公」

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 23:05:36.90 ID:w32lz4E7
福留とか久武とか長宗我部の重臣格の一族名だな

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:40:06.31 ID:Ihe91kgD
>>701
>5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
>但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように
>八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出
>そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

4時間で20km行って戦闘して20km帰って来るの?(´・ω・`)

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:47:52.61 ID:zUSlV+Tv
>>705
八ツ時分が、午後1時ではなく、午前1時~3時の方ではないだろうか?

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:57:07.19 ID:TxFi1cNb
超スケベの一里も4kmでええのんけ?

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 00:44:33.30 ID:HTBPF3WR
一里が約4km定められたのは江戸時代で戦国期の一里は1kmなかったって聞くけど?

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 01:08:17.62 ID:/WDr3SNv
中国だと、一里500mだったってのはよく聞くね