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仙石橋 白滝橋

2018年03月09日 11:01

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/08(木) 18:53:20.58 ID:XBnrOpcr
仙石橋

大分県字船頭町より西大分町字勢家に通ずる間にあり
仙石の名称は天正十四年十一月、仙石秀久、秀吉の命を奉じ
兵を率い大友氏を援けるに際し、大友義統、道路を修繕しこの橋を架け
もって秀久一行を迎えた事に因り、名付けて「仙石橋」という

おそらく当時架けられたものは土橋で
現在の石橋に改まったのは承応二年、城主日根野吉明の時である
架橋の竣工なるや日根野吉明、同年五月七日をもって渡橋式を行い
堀川町幸松興右衛門をして一番に渡らせた
その際興右衛門、子孫従僕合わせて八十余人
皆々盛粧してこの橋を渡ったそうだ


白滝橋

長宗我部信親の愛馬は真っ白な鬣(たてがみ)を持ち
馬を走らせると滝の様に流れて見えたため
「白滝」と呼ばれていた
戸次川合戦にて信親は討ち死にを遂げるが
残された愛馬は川のほとりにいつまでも佇み
それがまるで主人の帰りを待つかの様に見えたため
地元の民が逸話として語り継ぎ
この地に橋を架ける際、その名を取って
「白滝橋」と名付けたそうだ

(大分案内記:名勝旧跡ほか)

戸次川合戦にまつわる二つの橋の逸話
仙石橋は大正初年に崩落してしまいましたが
白滝橋は国道10号線に架かる橋として現存しています



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 00:08:22.71 ID:/J7dFos7
>>683
丹生島城の戦いで名付けられた臼杵の甚吉坂(吉岡妙林の子の吉岡甚吉が活躍した小坂)が好きだな
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伊予日振島における戦後処理の逸話

2017年12月13日 19:35

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:36:08.43 ID:RImMcwen
戸次川合戦敗退後、長宗我部元親は伊予日振島に逃れ
桑名将監を使者として、合戦詳細を秀吉公に知らせた
秀吉公はじめてそのいくさの詳細を知り
さても仙石手に合わざる合戦し
信親を討たさつる事の不便さよと仰せられ涙を流された

また合戦の三日後にあたる十二月十五日
大友宗麟は慰問状を日振島の元親に使わし
その内容は以下の通りである

この度のいくさはご挨拶の仕様もないが
無事御渡海の段は安堵に存じます
(長宗我部殿の当方に対する)これまでの様々な件に御入魂の次第は
永々忘却してはならぬ事であります
勝敗については戦場の習いにて、お気になさることもないでしょう
また兼ねて戸次利光城(鶴ヶ城)に差し向けられた鉄砲衆ですが
昨夜全員無事にこちらに帰還いたしました
そちらにお送りしたいと存じますが、船を揃えるのに難儀しており
船便があり次第お送りいたします

天正十五年十二月十五日
                         休庵宗滴判
追伸
 御子息信親戦場の儀については、様々な風聞があり
 未だ実否は分明ならず、奇怪千万な次第です
 こちらで詳細がわかり次第、お知らせ申し上げます

(続く)

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:37:24.97 ID:RImMcwen
(続き)

信親遺骸返却について島津と交渉しつつ
合戦後十三日目には奥長門守を使者とし
宗麟がこもる丹生島城(臼杵城)へ鉄砲隊を派遣した
その際の書状の大意は以下の通り

この度敗戦の成り行き、都鄙において外聞を失い全く無念な次第です
されども今はお城を固守することが肝要であり
自分も加勢に馳せ、共に籠るべき所ですが
退陣口の仕合、覚悟に任せず困難なため
まずは有り合わせの鉄砲の人数を差し出しますのでお頼み申します

天正十五年十二月二十五日
                         長宮元親判

結局元親は土佐本国に帰ることはなく
敗軍を糾合し、丹生島城宗麟と連携を取りながら豊臣本軍を待ち
翌天正十五年三月の秀長軍到来をもってはじめて伊予日振島を出た

(土佐軍記その他)

長宗我部元親、伊予日振島における戦後処理の逸話である



504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:57:19.08 ID:b83ZmTWr
この頃は宗滴と号していたのか

【雑談】そもそも、長曾我部って豊臣にも石田にも

2017年11月08日 20:15


255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 07:28:38.32 ID:QHo92xTP
そもそも、長曾我部って豊臣にも石田にも何の恩も無いよね

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 08:23:26.49 ID:fLGkSkHf
一応土佐安堵の恩はあるんじゃないの

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 08:27:28.12 ID:eAM3quoG
世間的にはそういうことになるわな
秀吉もめっちゃ宣伝しとるし

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 08:47:13.48 ID:EDsTJapH
取次ぎ役の増田長盛についてっただけでしょ

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 17:19:02.18 ID:NRHpoNbo
どうせ巻き込まれたなら一旗揚げてやる的な感じじゃないかねぇ

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 00:44:26.12 ID:PYoxyBnV
なんとなく、元親が関ヶ原前に死去していれば西軍について関ヶ原本戦にいそう。
元親がまだ存命なら東軍よりの中立ないしは佐竹のようなどっちつかずになってそう。

261 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/08(水) 06:05:13.08 ID:KvFOQlX5
>>260
どっちにしろ詰みやんけ
後者なら改易で大名長曾我部家は維持出来そうだけど

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 06:38:46.15 ID:g1dobNL8
>>260
元親存命なら毛利と伊予を挟撃してそうだな、あとで知らぬととぼけそう。
268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 16:50:45.38 ID:VEWh+6Fb
>>255
どっちかっていうと敵方
柴田のときもそうだし徳川のときもそう
でも四国統一にかまけて秀吉牽制を怠けてるから味方の印象はボロクソ

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 17:42:35.97 ID:3V35s42x
統一できたところで所詮四国に過ぎないしなぁ。石高低すぎ。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 19:40:20.41 ID:Apk8J3Tc
結局統一も成し遂げてないし
自分とこの記録ではちゃっかり達成したことにしてるけど

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 22:03:20.15 ID:exyUzbls
信長の要求飲んで阿波を三好に返して伊予に転進しときゃよかったんだ

元親記による信親の最期

2017年11月07日 09:14

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 17:46:34.12 ID:ewVS0Zz3
折角なので元親記による信親の最期の様子も

長宗我部軍も是非に及ばず陣触れをして、一足遅れて出撃したが、川を渡って
陣容も整わぬうちに、黒雲のように薩摩軍が押し寄せて来た。
年光城攻めを差し置き襲ってきたのだ。これが薩摩と土佐の史上初の激突である。
仙石軍は猛攻を避け、北方の豊前に退いた後だった。

群がり来る敵の中で、信親は馬を捨て四尺三寸の大長刀で八人を薙ぎ伏せ、
さらに刀を抜いて六人を切り据えた。
物の具の上から打ち合うので刀の刃はぼろぼろになっていた。
(信親は)辺りの敵を追い払って腹を切ろうとすると、多勢の者が走り寄り、
同じ場所で次々と自決した。
福留隼人(儀重)と細川源左衛門は元親のそばに駆け寄り、
この世の暇乞いをしてから命を絶った。

(中略)

討死した信親は二十二才だった。身の丈六尺一寸、平素は長船の名刀
三尺五寸の兼光を腰に差し、剣術に優れ、身のこなしの敏捷さは比類なかった。
走り跳びに二間を跳び越え、跳びながらこの刀を抜いた。
これほどの人なので、樊カイにも劣るまいといわれて、元親も最も期待していた。

信親がこの日帯びていた刀は、先年信長公に名をもらった時、その祝儀に
拝領した左文字の太刀であった。

(元親記)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 18:09:41.59 ID:zLyaVyxg
>>247
信長、左文字の太刀とくると義元からぶんどったやつが思い浮かぶが
あれは別に伝わってるから他にもあったのかな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 19:47:28.06 ID:o4NOSjYb
信長に貰った太刀や着ていた鎧兜がボロボロになっていて凄まじかったらしいね
この時、権兵衛が大人しくしていれば後の歴史が結構変わっていたかな?

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 20:16:18.73 ID:hnPtJm7D
>>248
年光じゃなくて利光だろう

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 21:12:51.84 ID:ewVS0Zz3
>>251
一応原文ママだよ
まあよくある当て字だね
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-066306&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%85%83%E8%A6%AA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=62

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 22:25:40.59 ID:JfPQ4w+X
>>250
関ヶ原のとき盛親じゃなくて信親だったらってとこか。なかなか渋いif

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 04:16:34.83 ID:qysCJnfh
案外、旗幟鮮明にして最初から西軍参加でやっぱり関ヶ原戦場で壮絶な討ち死に遂げてそう。

戸次川合戦長宗我部信親の最期

2017年11月06日 17:27

242 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:27:04.80 ID:STEkgEWa
戸次川合戦長宗我部信親の最期

去る程に信親は、味方皆打ち負けて散々になり
元親の生死も知らざれば、今はこれまでとただ一途に思い定め
上下心を一致して龍粧(戸次川地名)に備を配り
静まり返って敵を待ち受けた

勇気最盛なる新納勢は、僅かな長宗我部勢が控えているの見て
ここはいささかも休むべきにはあらずと、三手に別れ閑閑と打ってかかる
信親七百余騎、三手に颯爽と別れて駆け合い
汗馬東西に駆け違い、旌旗南北に開き分かれ
追いつ返しつ、巻きつ巻きられつ、互いに命を惜しまず七、八度と戦い
新納が五千余騎、残りわずかまでに討たれたが
長宗我部勢も大半が傷をこうむり、(血で)朱になってその場にとどまった

伊勢兵部丞一千余騎、戦い屈したる長宗我部勢を
弊に乗って討たんとして横合いに駆け向うが
信親もとより思い切った事なれば、相懸かりに懸りて
弓手に側め、馬主に背け、打っては駆け通り、突いては押し払い
四武の衛陣堅きを砕き、揉み違い入り乱れ、喚き叫んで戦い続けた
敵味方の討たれた者は数知れず、互いに龍虎の争いなれば
このいくさ、いつ果てるのかもわからなかった

(続く)

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:29:50.91 ID:STEkgEWa
新納武蔵守は槍を取り、猪の怒れる如く大きく猛って突いて回る
細川源左衛門これを見て、願う所と槍を提げて向かい
武蔵守、物々しやと人を交えもせずに戦ったが
源左衛門に左腕をしたたかに突かれ、危うくなったところに
郎党二人駆け来たり、武蔵守を押し隔てて戦い
さらに伊勢兵部丞が馬を駆け寄せ、源左衛門に槍を付けたので
源左衛門ようやく若党に首を取られ討ち死にした

信親はあまりに手広く駆り立て戦う内に、乗り換えたる馬は三頭
平頭三太刀斬られて、犬居にどうと臥した
敵これを大将と見知ったので、駆け寄せ討ち取らんと進み近づくが
信親四尺三寸の大長刀を提げ、大勢の中へ割って入り
籠手・薙手・開手・十文字、八方乱して切りつけ
強靭の兵二十四、五騎を薙ぎ払ったので、長刀の柄は中より折れてしまった

(続く)

244 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:40:06.17 ID:STEkgEWa
敵二人得たり賢しと両方から飛びかかり打つ太刀を
信親さっと飛び違え、二人共に同じ枕に蹴り倒し、太刀を抜き胴を切り捨てた
新納これを見て、一騎打ちの勝負は叶うまじ
総軍一度に懸かれと下知すれば、蟻の如く集い、蜂の如く行き合い
信親の上に重なって前後左右より押し取り巻き
穂前を揃えて突く槍を、ひらりと飛び越え
持って開いては丁と切り、飛び違えては、はたと切る
されどもその身鉄石にあらざれば、精力疲れ、ついに鈴木内膳に討たれた
信親行年二十二歳、その死を惜しまぬ者はいなかった

吉良播磨守、本山将監、石谷兵部少輔らも何のために惜しむ命ぞやと
真っ先に敵の中に駈け入り、枕を並べて討ち死にした
これらを始めとして、桑名太郎左衛門……
(以下数頁に渡り延々と討ち死にした者の列挙が続く、下画像参照)
https://imgur.com/a/krw3g
https://imgur.com/a/2iU01
seGpd7c.png
NovRfsD.jpg


……この他精兵都合七百余人、我先にと駆け出で駆け出で
一騎も残らず皆斬り死にした
味方の討ち死には二千七百二十七名と聞いている

(土佐物語)



245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 14:30:51.09 ID:TScJL+6v
センゴクすごく悪い話だ

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 14:54:27.14 ID:uHhFmV3f
>>242-244
脚色もあるんだろうけど凄まじい、描写が詳しくてこのまま剣劇にできそうだ。

その持ち主の名をしるして

2017年10月31日 18:02

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 17:31:16.90 ID:jQaAtfFj
長宗我部元親が土佐において弓矢の盛りであった頃、家中の者、各役の道具番は道具にその持ち主の
名をしるして置いた。
このため普段も取り違えること無く、戦の場においても、取り落とした様が無作法であれば、その者の
誤りとなった。
これによって、持ち主たちはそれぞれ、一層心を尽くして疎かにしなくなったそうである。

弓矢の詮議が詳細な家では、心の付けように工夫があるものなのだ。

(士談)



信親忠死の跡なれば

2017年08月31日 16:58

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 14:48:51.99 ID:D/ZmCpnd
去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには

「権兵衛は元来強気無法の者であれば
 敵を侮るな、一人駆けはするな
 衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
 宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
 察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
 この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
 かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
 一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
 我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
 今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
 土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」

そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。

(土佐物語)



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:50:37.09 ID:tjcfsPmD
十河家.....。

子孫秋月氏と改称す。

2017年02月10日 14:09

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 23:28:32.86 ID:JuuVXvpS
吾が高麗町、土佐秋月氏併唐人街、今薩摩鮮俘、陶器を鬻(すきわい)とする事

 前編五十七に、朝鮮の役で法印公(松浦鎮信)がかの地の人を虜として帰陣された後、
その者達を一ヶ所に住ませて、諸臣が在城しているときの食事を調えさせた。
それを人呼んで高麗町ということを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10527.html

 この頃『征韓偉略』を見ると、
「此の役で、慶州の将朴好仁が来援して城に入て勇戦す。
城陥るに及んで囲を潰て走る。
(長宗我部)元親の兵、吉田政重が彼を捕らえ獲た。
翌年に及んで元親は土佐に帰る。
その良将たるを以て、これを遇るに賓客の礼を以てす。
その身を終ふ。子孫秋月氏と改称す。
その余俘を獲る所八十余人。元親はこれを憐れみ宅地を賜って居らしむ。
皆販売を業と為す。時に唐人街と称す。」

 これらは法印公のことと同じである。
ならばさぞ渡鮮の諸家には、これに類似したことがあるのだろう。

 後にまた聞いた。
今薩摩には
島津氏が朝鮮での戦からの帰陣のときの俘虜を住ませたという村がある。
よって今も鮮国の風を存じていて、
その村の者が皆有髪で陶器を造るのを生業としているとか。
きっと世で薩摩焼と称するものは、この朝鮮の子孫が作っているのだろう。

(甲子夜話三篇)

なぜ、秋月と名乗らせたのだろうか?



612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 09:24:29.95 ID:VHI4AhJD
秋の月が故郷の月と同じだった

桑名弥次兵衛は、長宗我部耳目の臣であった

2016年07月04日 18:41

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:02:44.48 ID:mNniwc6S
桑名弥次兵衛貞敬は、元は長宗我部耳目の臣であったが、関ヶ原の後浪人していたのを、
武勇のほまれが有ったので藤堂高虎が招き物頭とした。

大坂の陣が起こると、長宗我部盛親は家臣の山崎与助に命じて再三にわたって桑名を招いたが、
桑名はそれに従わず、

「盛親公は先主です。恩を被ること厚かったといっても、私もまた、度々の戦功をいたして
それを謝する所ありました。
一方、現在の主人より恩を被ることも、また莫大です。その上近年天下治平にして合戦無く、そのため
新主への奉公は未だ勤まっていません。
ですので、お招きに従うことは出来ません。

ただし、私を招いて頂いたこと、世に忝なく存ずる所です。
ですので、御陣と見れば一番に駆け入って、討ち死にいたしましょう。
これはそちらと敵対を為すに似ていますが、物頭をも仕る私が御手にかかり討ち死にすれば、
御武辺の飾りともなるでしょう。
また、現在の主人に対しても、死を以って恩に報いるという道に叶います。
であるため、今、お召に応じることは出来ませんが、どうぞ死後をご覧下さるべし。」

そう返答したという。

(慶元記)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:23:43.43 ID:br89QJVi
吉成の別名で貞敬なんてあったっけ?

長宗我部家督のこと

2016年05月14日 08:27

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 20:46:22.05 ID:SNQmTQv8
ある記録によると、豊臣秀吉在世の頃、長宗我部元親は京より帰国し、一門衆・家老を集めて言った

「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてから、未だ家督をだれに継がせるべきか定めていなかった。
しかし私も高齢となったので、信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、彼を家督に立てようと考えているが、
お前たちはどう思うか?」

一座の人々は盛親が不肖であることを知っていたが、あえて返答する者はいなかった。
しかし、元親の婿である吉良親実が進み出て

「信親様のご息女を右衛門太郎殿の奥方として、跡継ぎとされるというのは、御嫡子の筋目が立つに
似たりと雖も、三男の津野孫次郎(親忠)殿は既に秀吉公にも見知り置かれ、御器量も優れておりますから、
津野氏の家を誰か別の者に御相続おおせ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられるのが宜しいと
考えます。」

しかし元親はこれを聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、即ち家長久の基となるのだ!」
そう、いかにも不機嫌そうに反論した。

それでも親実は重ねて
「私は両者何れにも親疎があるわけではありません。私がこの様に申し上げるのは、国家静謐の基を
固く定めたく思っているからです!」

家老の比江山掃部助親興も最前よりこの座に在って控えていたが、進み出て
「只今、吉良氏の仰せられたことは、誰かのためというような依怙の沙汰ではありません。
御家繁盛、子孫長久を祈る良策であります。ですので、是非ともご了承なさるべきです!」

だが、元親は怒りの顔色にて、一言も発せず座を立ち奥へと入り、その日の談合は終わった。

しかし佞臣たちが元親の傍にあり、親実、親興の両人の事を様々に讒言したことで、終に
天正16年10月14日、比江山親興に切腹申し付けられた。吉良親実もこれを聞き、同じく
切腹したと言う。
以後は誰一人元親を諌める者無く、思いのままに盛親を家督に立てた。

(新東鑑)



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:19:35.34 ID:MAGd5jI6
一方武田では…

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 07:51:32.09 ID:Qzbcp+k7
叔姪婚には特に反対はしないんだ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 08:07:45.90 ID:lMYQd5Fe
兄貴たちが死んでしまった表裏さんみたいに、一度別家に入った人間が家督を継ぐのは異例だと思うんだけど、盛親ってそんなに評判良くなかったのかな

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:12:04.97 ID:b93BGPM7
改易されてしまった人を良いように書くわけにはいかんだろ

うまくこの戦争が終わったら

2016年05月06日 17:53

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:26:09.94 ID:YyOFRyTP
毛利安左衛門は長宗我部宮内少輔(盛親)に属して大坂の陣で戦ったが、生命を助かり、
後に人々にこう語った

「戦場の事については、今時の壮士たちが畳の上で推量しているものとは違って、簡単に
高名手柄の成るものではない。

おおよそ戦場においては、昼夜の境なく心は苦しみ、寒暑を防ぐことも出来ず、兵粮と言っては
黒米を食い、おっ立て汁に塩を舐めてようやく飢えを助け、寄せ手は竹束の陰に武具を枕とし、
霜露に晒されながら夜を明かす。

城中ではなおさら、今や攻める、今や討ち死にすると寝食も忘れて緊張している中、色々な雑説が流れ、
何某は内通するとか、誰は敵を手引して今夜火を掛けるとか、様々な危ういことが、
毎日毎日言いふらされていた。そのため膝を並べる同僚の面々であっても油断できず、片時も
安き心で居られず、手柄高名を心がける以前の問題であり、勇気を折る事しか無かった。

普通の喧嘩であれば、互いの怒りから勇気も出て、死も顧みない心にも成れるが、合戦は敵に対して
私の怒りなど無く、ただ忠と義を盾にして争う事であるから、喧嘩ほどの勇気も出ない。
であるから、十人中九人までは、このような状況に日夜悩まされると、高名立身の望みも失せて、

『うまくこの戦争が終わったら武士を辞め、どんな賤しき業をしてでも、一生を過ごすのだ!』

そう思う者ばかりとなるのである。」

(新東鑑)

大坂の陣に、大阪方で参戦した武士の回想。大阪城内の雰囲気が見えるようです。



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:48:54.52 ID:VjacA46w
織田頼長「せやろ?」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 21:50:59.76 ID:tNQfI0do
>>588
大阪の陣って、武士が必要とされなくなる世の中が目前に迫っていて、その恐怖から逃れるために死に場所を求めて参戦する場だと思ってたんだけど

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 22:23:31.74 ID:jl9/eRDb
大坂の陣に参加する人の多くは、成功できなかった人たちがイチかバチかで行ったけど、
周りも似たような人ばっかりだからまとまらないんだよ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 12:19:30.86 ID:DFAR/Q3V
大坂の陣で大阪方に参加したのは、徳川家が改易しまくったせいで無職になってしまった武士たち

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 14:27:09.70 ID:jeuPwFxy
いや再就職出来なかった奴等だろ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 22:22:12.91 ID:mUyupg5Q
>>588
俺この戦争が終わったら武士辞めるんだ(死亡旗)

長宗我部姓の成立について

2016年02月08日 18:01

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 20:13:18.35 ID:njF5l6gN
彼の長宗我部兵部丞文兼の先祖を委しく尋ねれば
秦の始皇帝四世の孫、功満王が仲哀天皇八年に来朝し
その男子は融通王または弓月王とも号した。
応神天皇十四年に来朝、その男子真徳王
仁徳天皇の御宇に姓を賜り、波多と言う。今の秦の字の訓である。
真徳王9代の孫、秦の川勝に至った。
用明天皇二年七月、厩戸の王子、守屋の大連(豪族)を討伐の際
川勝大きに軍功あり。川勝二十五世の孫、秦能俊、土佐長岡郡にて
三千貫を領し、宗我部村岡豊山に城を築きて入城し、氏を宗我部と改めた。
しかしながら、同国香美郡にも宗我部という所があり
領主も宗我部なにがしと号していたので紛らわしいという事で
「長」岡郡にあるを長宗我部と称し
「香」美郡にあるを香宗我部と称することにした。

(土佐物語)
土佐物語冒頭より。
何となく異国の神話やおとぎ話を連想させるような
長宗我部姓の成立についての逸話です。



279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/08(月) 15:42:56.28 ID:ZwZgu0jb
前からいたのに香宗我部に改名はかわいそう
長宗我部の方だけ別の名前に再改名すればいいのに

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸に

2015年12月18日 17:02

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/17(木) 23:27:45.86 ID:N9WvyaUM
原田角之丞は土佐の武士で、大坂冬の陣の時は藤堂高虎の郎党小林伊豆の配下だったが、
元は長宗我部家の譜代の臣であったことから、夏の陣では旧主盛親の下に馳せ参じて戦った。
そして首級一つを挙げただけでなく、長宗我部勢が撤退する際には道路の木戸を打ち破って、
置き捨ててあった玉薬の箱を拾い上げ、それを肩に担いで悠々と城中に引き上げてくるという武勇を見せたのである。

大石内蔵助良勝とその弟の信云は、進藤利英(近衛家家臣、内蔵助の妻の弟)から彼の武功を聞き、
浅野内匠頭長直の耳に入れた。
その結果、角之丞は寛永14年に食禄五百石、足軽頭として浅野家に招かれることになった。
さらにその5~6年後には利英の娘・世牟を娶ることになる。

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸の町に、亡き主君の仇の首級をくくりつけた槍を高々と掲げ、
同志たちとともに泉岳寺を目指す男の姿があった。
赤穂義士・潮田(うしおだ)又之丞高教。角之丞の孫にあたる人物である。
(大石家外戚枝葉伝)



長宗我部国親の死

2015年01月23日 18:51

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:11:47.26 ID:AyTRGkqD
長宗我部国親が病の身を押して本山氏の浦戸城を落とした後のこと

さる程に覚世(長宗我部国親)は、岡豊に帰りなさって、種々の医療をされたが、針灸調剤の術も絶えて、
既に臨終に及んだので、弥三郎(長宗我部元親)を呼び、
「我は病で命が今に迫っている。本山は怨敵の張本なので、報酬の志深いといえども、時至らずして過ぎ去ってしまった。
そうであるので今度彼が領内に入って一戦に打ち勝ち、三つの城を乗っ取ること、生前の本望、死後の思い出である。
なので我が為には、本山を討つより外に供養なし。我が死んだら、十七日の間は、世法に従って、汝が心に任せよう。
それが過ぎたら、喪服を脱いで甲冑に換えて、軍議に専念しろ。この旨を堅く心得よ。」
と言って、永禄三年六月十五日,、五十七歳で、遂に卒去しなさった。
逃れられない別れで悲しいけれども、そのままであるべきではないと、岡豊の東北、千歳山謙序寺に葬った。
こうして元親は、十七日の作善、心の如く執り行い、悲涙が未だ乾かないといえど、亡父の遺言に任せて、吉良退治の評議をなされた。
(土佐物語)

「討つことだけが供養」と言われる程,本山さん恨まれてたんですね



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 14:01:56.78 ID:otEkF0KP
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:14:53.45 ID:vDZk8E/v
異説もあるみたいだけど親爺さんは本山に討たれてるもんね

本山って元から吉良氏なのかね
それとも三木姉小路のように、吉良を滅ぼして名跡を継いだのかな

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:24:14.07 ID:SuH6zLUr
こんな遺言うっかり脳筋に残したら逆に家滅ぼしかねない

チヌの池由来

2014年05月22日 18:51

348 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/22(木) 17:54:20.18 ID:gST4JFnT
天正13年、豊臣秀吉による四国攻めにより、小早川隆景が伊予に攻め入ってきた。

小早川勢に対し金子備前守元宅は、金子城を弟の金子対馬守元春に任せ、自身は軍勢の指揮のため高尾城に入ることにした。
この金子城でのお話。
金子城に籠城した金子対馬守の守りは固く、流石の小早川勢も攻めあぐね、ついに小早川から使者がやってきた。
使者は
「これ以上の戦いは無益です。わが殿も対馬守殿の武勇に感じ入り、決して悪いようには致さぬと申しております。どうか開城していただけませんか?」
と降参を勧めるが、対馬守はとうとう聞き入れることは無かった。
しかし対馬守は、金子城の飲料水としていた大きな池から鯉を釣り、使者へふるまい礼を尽くしてくれた使者へのせめてもの返礼とした。

こうして金子城は最後まで頑強に抵抗したが、衆寡は敵せず落城し、金子対馬守も討死した。傷ついた金子城の兵は最期に水を求め、
多くの者が池のほとりで力尽き死んでいったという。
地元の者は、この池を血塗の池、血の池と呼ぶようになり、転じてチヌの池と呼ぶようになった。

後世に金子城の武勇を伝えていたチヌの池は、明治のころに鉄道の工事のために埋め立てられ、今は無い。




350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 19:25:20.03 ID:b+DpLnDl
>>348
金子元宅は知る人ぞ知る四国の名将ですね
関連逸話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=3456&cr=1d2b913fbdc27e85ff0b0e29ced99dac

「いや~ん、いや~ん」

2014年04月22日 18:47

36 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/21(月) 16:39:19.98 ID:/IcLHN8X
四国霊場五十四番札所、延命寺は天平年間に行基が開基したと伝わる古刹である。
元の寺号は円明寺といったが、五十三番の円明寺と同じで紛らわしかったため、延命寺に改めたという。

この寺の梵鐘は古くから素晴らしい音色で知られ、近見太郎と呼ばれた名物だった。
梵鐘は伊予の国に長曽我部元親が乱入した時に略奪されてしまい、兵たちにより船に積まれ持ち去られた。
しかし洋上に出ると、誰も叩かぬのに
「いぬ~いぬ~(帰る帰る)」
と唸りをあげ大きく動き出し、とうとう船を傾け海中へ転がり落ちてしまった。
これを見た長曽我部の者たちは
「鐘が自ら動き、略奪を拒んだのだ。」
と不思議な仏力に恐れおののいたという。

その後、梵鐘が無くては不自由だということで、当時の住職が私財で梵鐘を鋳造した。
この二代目の鐘は近見次郎と呼ばれ、やはり音色の良さで知られたが、松山城に時鐘として持ち去られることになった。
しかし、いざ運ぼうとした時、誰も叩かぬのに
「いや~ん、いや~ん」
と唸りをあげたので、置き去りにされたという。

この次郎は引退し、今は三代目の近見三郎が使われているが、除夜の鐘だけは今でも近見次郎が使われ、その音色を響かせている。

関連
「いぬ~いぬ~」


37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 16:59:23.34 ID:lgWi0JxU
なお今年は四国霊場開創1200年
ゴールデンウイークはぜひ四国でスタンプラリーをとステマしてみる

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 19:35:21.76 ID:ahGkrcyI
今年の日程で遍路巡りは厳しくないですかね

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 21:37:51.56 ID:5YRmUs0n
さすがというかなんというか四国の鐘はよく喋るなぁw
しかも「いや~ん、いや~ん」ってw
「嫌よ嫌よも好きのうち、男心をくすぐる良い音でなく鐘よ」
とか言い出すのがいなくてよかったね

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 23:23:43.22 ID:WaJ0rS+K
愛媛と呼ばれるだけあってなんとも卑猥な音を出す鐘よ

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 09:53:22.86 ID:K6SPwjmj
ところで近見三郎はどう唸るんだ?

47 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/22(火) 14:05:20.89 ID:MjRFUtAj
どすこい

万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴

2014年04月11日 18:54

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 18:44:29.57 ID:bHuZaDVA
長宗我部元親はかねてより秀吉公の御成(おなり)を願い
その準備に二・三年をかける程であり
金銀珠玉を費やしたその普請の結構な事、言うことなしであった。
さて既に普請も完了し、御成の日時も決定した所に
どうして誤ったのであろう、御門の寸法が低く、御車の出入りができないとわかった。
これを聞いた元親、大いに怒られたが、余日もなかったので
俄に白木にて御門を建てた。
始めの門は毀ち置かれたが、元親卒去の後、土州吾川郡長濱に菩提寺を建てた際
これを流用し今もあると聞いている。
(土佐物語)

万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴、という逸話。
ちなみに慶長元年4月に秀吉は元親伏見邸に無事御成となり
以下の超豪華メンバーが一同に揃いました。
江戸大納言、筑前中納言、加賀中納言、安芸宰相、大野宰相、越中宰相
結城少将、若狭侍従、郡山侍従、伊賀侍従、吉川侍従、出羽侍従
大崎侍従、安房侍従などなど。




948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 10:55:33.78 ID:cleLH+iX
>>943
えっと、ラスボスと随行が家康・隆景・利家・秀元・信雄・忠興・秀康・木下勝俊
秀保・筒井定次・吉川広家・(´・ω・`)・正宗・里見義康
こんなメンバーの中で恥かいたら....

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 12:00:38.42 ID:vY3+eKpC
そらもう金の十字架よ

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 13:47:17.37 ID:kYjoAw2H
大崎侍従にいじられる

西内喜兵衛、大いに笑って

2014年03月01日 18:45

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:14:28.54 ID:E46mrwC0
西内喜兵衛という者は国中武辺の強力(ごうりき)であった。
長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。

さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。

「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。




491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:51:53.20 ID:pUH9TpJ/
>さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////


虎の爪

2014年02月27日 19:09

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:16:14.48 ID:aiM0GJBc
長曾我部元親が朝鮮の唐島という所に在陣した時の話である。

この頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。

ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:18:59.16 ID:aiM0GJBc
虎は七三郎を打ち捨てて、市左衛門の首にただ一口に食らいついたが
かたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。

さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。

「土佐物語」
[2/2]




466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 19:21:47.80 ID:V1cIhpSV
朝鮮てなんか動物しか存在しないサファリランドだな。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 21:00:26.04 ID:xt96hlO6
>>464
朝鮮どんだけ虎の楽園なんだよ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:21:40.32 ID:egPFUAPb
>>464
朝鮮武勇伝ネタで虎じゃないのはないのか?w

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:24:07.37 ID:B1JE84mz
加藤清正の家臣が虎を退治して苗字が「金玉」になったり
虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:31:53.98 ID:Zhf3pNOF
敵兵がそれほど強くなかった分、虎退治がより大きく扱われてるのもあるな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 01:05:34.78 ID:onJgSEDK
虎がいるのに平然と昼寝するジミー加藤の虎逸話もあるね

長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

2014年02月23日 18:59

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:06:06.55 ID:GO9A0zPx
長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。

「土佐物語」

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:45:31.03 ID:f27vMd/J
コブラみたいなガラガラヘビの大きなやつかな?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 22:39:05.06 ID:QphLMAUJ
朝鮮に渡った諸将が散歩で遭遇するのは虎といにしえから決まっている

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:14:10.77 ID:U2GCbk1u
耳のあるヘビ?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:33:22.46 ID:cWrDbmU5
コブラの腹の広くなってるところじゃね?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:24:31.29 ID:vrRx5zHc
コブラは熱帯の生物だから、半島じゃ寒すぎないかな?

図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:39:48.99 ID:3rGzu6Jd
落ちてた鱗はおそらく目の鱗だろうな。
現存してるのかな?