fc2ブログ

一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語

2022年04月24日 15:51

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:51:27.66 ID:5fJXLANX
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6484.html
天正二年、一条康政(たぶん兼定を勘違い)は

上記の話は「大友興廃記」では一条康政(兼定)暗殺の次に出ているが、古今の例については省略されているのでそこも含めて投稿

大友興廃記」より
一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語

一条康政公(兼定)の家滅びて、天正二年甲戌に豊後国に渡海なさった。
御館を出立なさるときに、年来秘蔵の藤に暇乞いのために門前から戻り、馬の鞭で藤の糸を撫で上げなさって
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と遊ばれたあと渡海なさった。
そののち、長宗我部元親が一条殿御自愛の藤を見ようと前述の御所に立ち入ったが、この藤は一房も咲いてなかった。
人々が不審がっていると、蜷川新右衛門尉の末裔で道馮(蜷川親長、道標)という人が元親のそばにいたが
道馮「康政はこの藤に名残を惜しんで
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と詠んだそうなので、もしかするとそのためではないでしょうか」
と申したところ
元親「上代はともかく、今の末代でそのような奇特もなかろう」と同意しなかった。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:53:24.81 ID:5fJXLANX
道馮「それはそうですが、上代に咲く花は末代にも咲くのは道理です。
草木も春は花咲き、夏は繁り、秋は実り、冬は枯れるでしょう。
このように天地のいぶきが中より出るため、花には仏性があるといえるのです。
すべてのものは天理をそなえているのですから、この藤にも心があって、歌の心を天理の性に受けたのでしょう。
その昔、天神(菅原道真公)が筑紫に左遷された時、御跡を慕って梅は飛び、桜は名残を惜しんで枯れたところ
菅相公が不思議がり、哀れに思い
「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」
と詠まれたところ松も飛び参って、今の世までも「飛梅」「追い松」と名を残しています。
また上野岑雄(かんつけのみねお)という人は、別れを嘆き、なれ親しんだ桜の木に対して
「ふか草の 野辺に桜し 心あらば この春ばかり 墨染めに咲け」
と詠んだところ、草木に心はないと世の人は言いますが、ものの哀れを知って墨染めに咲いたと承っております。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:55:09.45 ID:5fJXLANX
また異国でもそのようなことがあります。
田真・田慶・田広(以下「二十四孝」に収められている話。酈食其を煮殺した田広とは別人)という三兄弟がいました。
父の死後、父親の愛した紫珊瑚(花蘇芳)という木を三つに切って形見分けしようとしたところ、木は枯れてしまいました。
三人が「これからは鼎に囲んで見よう」と言ったところ蘇って元の色になり盛んに咲いたということです。
また摩頂松ということがあります。
玄奘法師(三蔵法師)が西域に行く時、霊巌寺の松を撫でていうには
「吾西に去らば汝も西に長ずべし。吾帰らばすなわち東へ向かえ」と約束しました。
はたしてのちに松はたちまち東に向かったため、玄奘の弟子はこれを見て師の帰還を知ったと言います。
康政も「ことしばかりは」と詠まれたので、来春は元のように咲くでしょう、そうなれば歌の奇特と納得されるでしょう」

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 22:00:10.93 ID:5fJXLANX
と和漢の名木の奇特を述べたところ、元親も近習ももっともだとは思ったものの、来春咲くまでは承諾できかねる、と言い合った。
翌年の春、一年がまんしたぶん、藤は三尺ほどに咲いたため
人々は「道馮が去年言ったことは道理だった。道馮の予言通りの奇特だ」と感心した。
元親も我を折って、藤の奇特を認めた。
そののち、この奇特を太閤秀吉公が聞こしめし、この藤を召し上らせて、京都において一条殿(一条内基?兼定の息子の内政の元服を執り行っている)に進上なさったため、大変大事にされた。
あるとき奏聞したところ、天子もこの藤も御覧にいれたそうだ。
されば草木さえこのように振る舞うのに、譜代相伝の臣下が無下に浅ましいことをしたというのも、康政公の御代に一条の家自滅到来の時節だったということだろう。



スポンサーサイト



一条兼定、暗殺事件について

2022年04月23日 16:20

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 20:59:28.49 ID:BLpusYEu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2285.html
一条兼定、暗殺事件
では一条兼定暗殺の実行犯、入江左近は元親に殺されたことになっているが別のパターンもある。

※入江生存パターン
大友興廃記」より
一条康政公は長曾我部元親により四国を追われ、豊後に逃れた。
このとき康政公の御台所(大友宗麟の娘)は土佐に置かれたままだったため、宗麟公は元親と交渉し、御幼少の姫君を豊後に返してもらった。
そののち康政公は豊後でわびしい暮らしをしていたため再起をはかり、伊予国の住人で法花津の城主・播磨守則延の援けで元親にしたがう三ヶ城を落とし、伊予戸島に居住した。
この時の書状
「二三年之間御弓箭を尽くし、懇意の段、悦喜浅からず候。
わけて干戈を方々に取り鎮められたるを以って、一城を預け置くべき者なり。
 三月八日 康政
  法花津播磨守殿」
そんな時、土佐において元親は康政公の侍・入江左近を近づけ、予州戸島へ入りて康政公をうつべしと言い含めた。
左近はかたじけなくも譜代の家臣でありながら元親に同心し、戸島に入って康政公に言うことには
入江「代々主従の縁を忘れがたくそうらえば、ここまで参り候」
康政公は企みとは思し召さず御喜悦して
康政「うちの侍にもうとみ果てられて、尋ね来るものなきに、入江ばかりは神妙なり」と信じてしまった。
こうして種々の物語をしているうちに夜がふけると
入江「今晩は私が番をいたしましょう」と言ったため、その他の御近習は皆宿所に帰ってしまった。
康政公が枕につき、側には児扈従一人だけとなった頃、入江は近づき康政公に一太刀浴びせた。
しかし夜着が厚く、切れなかった。
康政公は早業を習得していたため、刀を抜こうとしたところ、入江は二の太刀で左腕を打ち落としてしまった。
康政公は太刀を膝の間に挟んで、入江に一太刀入れたところ、入江は妻戸をくぐって浜に出て、船に飛び乗って逃げ延びた。
駆けつけてきた康政公の侍たちが追おうとしたが、他の船のともづなはとうに入江により切られていたため、他の船は全て流れてしまっていた。
こうして入江は難なく逃げ延びた。
そののち、康政公は法花津則延により道後に送られたが、そこで病死してしまったという。

※「大友興廃記」では一条兼定の名前を誤って、文書発給者の源康政の名前にしている。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 21:03:48.02 ID:BLpusYEu
※入江が狼に食い殺されたパターン

貝原益軒朝野雑載」より
一条関白房家公の子孫にして、土佐の公方である一条頼房公は、元親の逆心により追い出され、縁続きの豊後の大友義統を頼った。
しかしここでも追い出され、伊予の栗木に要害を構えたところ、一条殿の家臣である入江兵庫太夫というものが頼房の首を斬り、元親に捧げてほうびを得た。
ある夜、兵庫が山路を通っていると、狼が数百出てきて兵庫を食い殺し、白骨さえもなく、刀脇差だけが残った。
そののち長曾我部もだんだんに滅んだということだ。

朝野雑載」には「大友興廃記」から採ったとおぼしき話が色々あるが、この出典は別っぽい。
入江の最後も、前に出た話では元親に斬られたことになっているが、こちらだと狼に食い殺されている。
しかし一条頼房という名前はどこから出たのだろう



私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかった

2018年10月24日 18:19

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 22:56:21.95 ID:3ItfLnKv
私は昨年の書簡で、豊後の王(大友宗麟)の甥にして婿である土佐の王(一条兼定)が、豊後に於いて
キリシタンと成りしことを報告した。この王は一人の家臣(長宗我部元親)が反乱したためその国を逐われて
豊後に滞在していたが、前の書簡に認めた如くその国に帰り、短期間に国を回復した。

彼は豊後に在った3,4ヶ月間デウスの事を聴き、よく事理を理解する人であったため、多くの質問をなして
キリシタンとなる決心を成すにいたり、しばしば私に洗礼を請うたが、考えることがありこれを延期していた。
そのような中私は下(ximo)の地方巡察に行くこととなり、もし土佐の王が私が帰る前に病に罹り、又は
その国へ帰る事態となれば、府内にとどまるパードレ(ジョアン・バウチスタ)に洗礼を授けるよう
予め定めておいた。

我らの主は、土佐国の大身たちがその国を統治するため、人を遣わして彼を招くに至らしめ給いしが故に、
直に洗礼を授け、彼はその国を悉くキリシタンとする決意を成して出発した。その国に着きて、我等の主の
御加護により短期間に土佐全国を領し、暴君(元親)は多数の兵とともに守っていた主要な一城のみを有した。

王は我等の主が彼に与えた御恵を忘れず、甚だ良き町に立派なるコレジョを建てることを命じ、その町、
およびその他の地において6,7千クルサド(1クルサドは銀40匁に当たる)の収入を得るべき地を寄進し、
又国内の主要なる町々には大なる家を建て宣教師に説教を始めさせた。

かくして土佐の多数の主だった者たちはすでにキリシタンと成らんとせしが、デウスの隠れたる裁断により、
破滅が近づくのを悟った坊主達が努力したため、形成はたちまち一変し、王は一戦において敵に破られ逃げ、
味方の大身の城に入った。王は同所に在って私が臼杵に着いたのを聞き、書簡を託して人を私のもとに
派遣した。書簡の訳文は次のとおりである

『尊師が下より帰られたのを聞き、この家臣を貴地に派遣して私のことを告げ、私のためにデウスに
祈られんことを請はしむ。尊師の出発後、我が臣下の者数人が使いを遣わして私を招き、再び土佐に入国する
途が開けた為、私は尊師の手によって洗礼を受けることを望んでいたが待つこと出来ず、府内のパードレに
洗礼を受けることを請うた。その後私が国に着いて、我等が主デウスの御助により、間もなく
ファタ(Fata・幡多)の城とその町の他は悉く占領した、同所にはトソガミ(tosogami・長宗我部)が
5、6千の兵とともに籠もっていたが、これを守り続ける見込みはなかった。

私は我等が主デウスより受けた御恵を思い、パードレが当国に来るために、直ぐに会堂を建てることとし、
これに大いなる収入を永久に寄進し、国内の他の町々に大いなる家を建て、説教を始めさせる事とした。
臣下の多数は、私がキリシタンと成った後、我等の主より大いに保護を受けたのを見て、キリシタンと成らんと
決心したため、人を遣わして説教を成す者の派遣を請わんとしたが、この時意外にも形成一変し、私は再び
追い出され、今は長島(Nangaxima)の城に在る。

私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかったが、それにもかかわらず、何故にこの不幸が
起こったのか疑惑を持たざるを得ない。我等の主が、もし私が罪人であるため罰し給うたとするなら、
敵は異教徒であり、その主君に謀反を起こした者であり、更に大なる罪人である。この故に、尊師に請う所は
この疑惑を解き、また私一人異教徒の間に居るが故に、デウスの事に関する書籍を送付される事である。

私は一人だが、今日まで日曜日(の礼拝)を忘れた事は無い。当所に、昔山口においてキリシタンと成りたる
トビヤス(Tobias)という盲人が有る。彼と語ることで喜んでいる。

我等の主デウスに、私のために祈り、常に書簡を送り給え。私も又これを成すべし。』

右の書簡に対し返書を送り彼を慰めた。デウスがしばしば、最も愛する者に艱難を与えたもう事を述べたが、
彼はこれにて慰められ、すぐに他の書簡を送り、已に安心し疑惑も懐かず、デウスに祈ることを請うた。

(1576年9月9日(天正4年8月17日)付パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)

一条兼定が宣教師に送った、四万十川の戦いでの敗北を受けての書状の内容である。


兼定にも歴史に残す人物に仕える娘が

2014年10月02日 18:52

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 16:45:36.09 ID:aa7IVZBs
武将じゃないけど更にご長寿キャラを1名投下

何かとネタにされる一条兼定
そんな兼定にも歴史に残す人物に仕える娘がいた。

崇源院(江)に仕える按察使局であった。残念ながら正式な名前は不詳である。
一条兼定を父にもち、宇都宮豊綱の娘を母にもった女性である。
彼女は1603年に千姫の婚礼の際に上洛した崇源院に仕えた。
何故彼女がそんなところにいるのかと言うと、関ヶ原の戦いによる長宗我部氏による没落で甥・政親と共に京都あるいは大和国に随伴したためであった。

その後家光・家綱と仕えたという。
そして1669年に死去したとされる。

wikiでは『彼女が生まれた数年後に両親は離縁している。』としていながらも1565年生まれとしている。
しかし、上の一文が正しいのであれば生年が間違いとなる。何故なら両親が離婚したのは1564年である。
つまり、彼女が生まれたのは実際よりもその前となる。

元来同腹の兄とされている内政が1562年(1557年説あり)なのでもしかすると内政が同腹の弟となる可能性もある。
ま、もしかしたら1561年生まれとなる可能性もあるんだけどね。

でもよくよく考えたら仮に本当だったら化け物じゃね?




937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 16:50:19.86 ID:bp8VYrNr
一条さん家柄は問題なく良いんだっけ。家柄のいい娘ならいいところに就職はできるわなw

一条兼定の放蕩

2013年02月01日 19:51

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/01(金) 14:54:04.30 ID:lgQ/A4q5
一条従三位権中納言兼定卿はその頃、御諱を改められ康政と号せられた。

この卿は元来から性格が軽薄であり、常に放蕩を好まれ、人の嘲りも顧みず、日夜酒宴・遊興に耽り、
男色女色しへつらいを受け、又は山河に漁猟を事とし、軽業、相撲、異相の者に熱中し、
近習の輩とは主従の隔てがなく、まるで親友同士のように肩を押し膝を組む有様であった。

ある時は男女を集めて踊りを踊らせ、その中に立ち交ざり、祭礼の場や説法の道場にも、
深編笠をかぶり頬かむりをして人々に交ざり、男に触り女にもたれかかり、様々な戯れをされていたが、
人々がそのことを知らないとでも思われていたのだろうか、外様の人々に向かっては、立ち振舞・行儀重々しく、
目を見返すことすらセず、軽々しく言葉もかけなかった。

鷹狩、巻狩などの折に、往来の旅人がそのことを知らず、傘をかぶったまま、あるいは馬に乗ったままで通りすぎようとする
者があれば、奇怪であると鉄砲を撃ちかけ弓を射かけ、又は人を駆けさせその者を打擲させた。
無礼不義を許さぬと、僅かな罪であっても許すことがなく、大小上下、心を安んずる時がなかった。

老臣である、土居、安並、羽生、為松といった人々は、主君に不義があるのを見て諫言をしたものの、
これを受け入れることもなく、慢心のままに振舞われていた。
(土佐物語)

長宗我部の立場からの記事であるが、一条兼定の放蕩についての記録である。




380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/01(金) 15:17:23.05 ID:MNSsPeLy
康政って、まんま源康政と諱がかぶるじゃないかw

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/01(金) 18:18:19.65 ID:2RXaVO+b
>>379
一条兼定ってツンデレだったのか

天正二年、一条康政(たぶん兼定を勘違い)は

2012年06月05日 21:03

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 23:06:32.87 ID:98g3iC7p
天正二年、一条康政(たぶん兼定を勘違い)は家臣たちによって追放されるこ
とになった。

館の門を出た康政は何を思ったか、門内に駆け戻った。
そして馬上のまま、日頃愛でていた藤のもとに向かい、鞭で藤の枝をすくい
上げながら、歌をささやきかけた。

植えおきし 池の藤なみ 心あらば 此の春ばかり 咲くな匂ふな



翌年、その藤は全く花を咲かせなかった。人々は奇怪なことだと騒いだ。
そこに蜷川新右衛門さんの子孫、道馮という者が、古今の例を引いて
「草木に心は無くとも、人が愛情をこめればそれに答えるものだ」
と解説した。
歌の通り、藤が花を咲かせなかったのはその年(此の春)だけで、次の年から
はまた美しい花を咲かせるようになった。

この藤は評判になり、のちにラスボスが掘り返して京に取り寄せ(一条に植え
られ)、天皇もご覧になったという。




632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 23:25:02.52 ID:gg6hl+Nu
>>629
心あらば咲くな匂うなに対して心は無くとも答えるってなんだかもやもやする

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 23:32:01.99 ID:/FGGKZf4
>>629
愛情込めて咲くなと言うのはどうなのよ

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 23:34:02.85 ID:zsEaBLwX
>>632
本人がそー思うんだから仕方ねーよ
心ありと思うも、心なしと思うもさ

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 23:35:03.63 ID:laKVpQs2
なにそのチューリングテスト

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/05(火) 00:12:24.40 ID:KNQuwp/P
>>629
最後の1行で悪い話に見えてきたwww

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/05(火) 00:15:32.52 ID:btliQDcR
じゃぁ愛情いっぱいにドクダミを育ててみることにする。
そして葉をすくい上げながら「臭いまくれ」と…

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/05(火) 00:54:34.39 ID:FpAXEG29
>>637
ラフレシアの方が効果的

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/05(火) 01:04:38.75 ID:a/zcz1vK
>>638
日本の気候で育つのか?

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/05(火) 08:00:21.45 ID:4lDpt7zb
人の手ではまだ栽培に成功してなかったと聞いた

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/05(火) 08:50:16.85 ID:IGkpAKhq
>>637
薬マニアの権現様がアップをはじめました

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/05(火) 17:40:11.93 ID:9AcVg/yD
>>641
最終的にはアレで天下取ったような物。

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/05(火) 19:01:24.94 ID:yqckujSM
>>629
当前のごとくラスボスって書くなw

そんな一領具足の国のお話

2010年01月01日 03:33

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 22:57:10 ID:b+q7JUZA
その年の土佐は不作であった。
困り果てた土佐の農民たちは領主一条氏に嘆願をした。
年貢を軽くし頂きたい、春までの食料を供出してはもらえない、できれば徳政をしてはくださらぬだろうか…




と言うのではなく、
「大将貸して大将。これから伊予に略奪に行くから」
これに一条氏は
「儲けの半分はよこせよ?」

そんな一領具足の国のお話。




452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 23:10:12 ID:bOZIaC2B
微笑ましいじゃないかw

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 23:11:19 ID:2b7V2utu
半分って多くね?
でも大将は大事だよね

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/01(金) 15:49:31 ID:zLOtJsXn
年貢と同じ扱いじゃね?

蓮池城攻防の顛末。

2009年11月03日 00:08

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/02(月) 08:50:17 ID:UaqSJ1nA
>>746-747の続き

さて、蓮池城反乱の報を聞いた一条兼定、「穏便な手段をとろうとして失敗したか!」と、
弘治三年四月中ごろ、仲平兵庫、福井玄蕃を先鋒とさせ、三千余騎の討伐軍を発進させた。

これを知った蓮池城の大平山城守はその勢一千余騎を二手にわけ、鉄砲足軽二百を
ふんぎり橋へと差し向け、残りの八百は自身が率い、橋から十町ばかり離れたところに控えた。

さて、橋へとやってきた寄せ手、そこに構える蓮池勢を見て「あの城の連中なんてたかが知れている。
あそこにいるのが全軍であろう。かまわないからひと揉みに蹴散らせ!」

と、一斉に攻撃を仕掛ける。蓮池勢は少々鉄砲を撃ちかけたくらいですぐに撤退。
これに寄せ手は、追い討ちをかけようと陣形を乱して追いかける。
勿論罠である。

追撃戦で寄せ手の陣形の乱れたのを見て取った大平はそこに突入。備えの出来ていない
一条軍は散々に蹴散らされ、多くの者が討ち取られ、戸波の城へと撤退した。

一条軍はそこで四、五日人馬を休め、再度の蓮池攻めのための軍評定を行う。
仲平兵庫申すに

「古人の言葉に、大敵を欺き、小敵を侮らず、と言う言葉があります。しかし先の戦では
蓮池の大平勢を心底侮り、不覚を取りました。こんな事が世間に広まるかと考えると、
恥辱この上ありません。
再度の蓮池攻めでまた、先のように敗軍すれば、万人に嘲笑される事でしょう。
相構えて、おのおの身命を軽んじて、以前の恥をそそぐべし!」

今度は気を入れ油断なく攻め立てた一条軍、ついに蓮池城の防衛線を突破し、城下まで
攻め寄せた!攻城戦にかかる討伐軍は大勢であり、次々と新手を繰り出し、
九日の間昼夜にわたって攻め懸けた。
が、城の兵達も、小勢ながらもとより必死の者達である。攻め寄されれば追い払い、
攻め懸かられれば追い戻す。このように戦が膠着し始めた頃、空、にわかに曇り、
雷が鳴り響いたかと思えば、たちまち空の底が抜けたような大雨となった。

さて、蓮池という土地は水に弱く、東を流れる仁淀川で洪水が起これば、たちまち
水に浸かってしまうような所であった。

寄せ手の一条軍もこの事を知っており、「このままでは洪水の危険がある」と、軍を引いた。
これを見た蓮池城の者達、この上なく歓喜したわけだが、雨のほうは直一層降り続き、
案の定仁淀川は増水で決壊、蓮池を含めた一面、海のようになった。

この頃城兵たちも「元々この城は小城だし、兵糧弾薬ももう少ない。次に敵が押し寄せたときには
流石に持ちこたえられまい。今のうちに…」


さてさて、ついに雨が上がり、これを待ちかねた一条軍、鬨の声をあげ蓮池城に攻めかかる!
…が、城内からは何の反応も無い。皆不気味に思ったが、「とにかく、四方より攻め入ろう」
と、城内に突入してみると、そこには人一人として居ない。
皆、逃げ去っていたのだ。

これに一条軍の津野何某と言うものが

 『蓮池は 花はいつしか散りはてて みはとびぬけて行方知られず』

と詠むと、寄せ手の者達これが笑いのツボに入って、皆大爆笑した、とのことである。


蓮池城攻防の顛末。




930 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/02(月) 11:04:45 ID:mz3T43MV
>>929
まあ、どちらかというと一条側がしてやられたわけで、笑ってる場合じゃないと思うし、そんなんだから… と思っちゃうよな。


931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/03(火) 02:28:36 ID:O3PTh7qo
>>930
本山も長宗我部も一条御所の勢威を軽く上回ってしもたしなぁ..

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/03(火) 15:17:46 ID:Txou6633
一条側にとってこれでいいのかも。

最後までの殲滅戦をやらかせば、相当な損害出てただろう。

土佐、蓮池城謀反

2009年10月26日 00:06

746 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/10/25(日) 15:15:03 ID:oICP9TT8
弘治三年(1557)四月の事である。

土佐の大平山城守は一条氏に属し、高岡郡高岡郷など、四千貫を領していた。
彼の居城、蓮池城は、一条氏に敵対する本山茂宗の所領、吾川郡との境にあったため、
一条氏よりの加勢も入れられていた。

大平たちとこの加勢の者達、最初の頃はよそよそしい風であったが、やがて馴れ合うようになり、
膝を交え思った事もずけずけと語り合うようになった。

そんなある時、大平がこんな事を言った

「おのおの方はどう思われる?

中村の御所の、一条教房卿、房家卿、房冬卿、房基卿は、何れも性質正直、温和にして慈悲深く、
万事倹約を守り、民の費えを嫌われていたものだが、
今の兼定殿は何事も我意に任せ、放逸無慚の御行跡であり、このままでは、行く末
おぼつかない。

どうやら一条家も末になったと思う。このままでは、やがて長宗我部か山本あたりに
その権を奪われてしまう事、疑いない。
皆もあらかじめ、覚悟をしておいたほうがいいぞ?」

これに加勢の番使たちも、「我等もそう思う」と同意した。

最後に大平は小声になって「これはあくまで、隔意の無い雑談であるから、構えて
他に漏らさないようにな。」と、囁いてこの話は終わった。

さて、内緒にするようにと言っても、そうは行かないのが世の常である。
番衆の中にいた船戸左衛門は、常に大平とはそりが合わず、何事にも対立していたのだが、
この雑談を聞いて『これこそ!』と喜んだ。

船戸はにわかに病と称して、町屋で治療をするといって城を出、中村御所へとこれを密告、
その後、さにあらぬ体で蓮池城に戻った。

さて中村御所においての評議では、蓮池の者ども逆心明らかであり、これを討伐すべきとの
声が上がった。これに土井宗三申し上げるは

「今討ち手を出せば、我らが番手に派遣している者達も、一緒に籠城してしまうでしょう。
ここは番手の交代をすると言って、城から出てきたところを皆首を刎ね、蓮池の兵を
少なくし、その上で討伐の軍を派遣すべきでしょう。」

評議の者達これに同意し、早速に偽の交代兵を派遣した。

747 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/10/25(日) 15:15:53 ID:oICP9TT8
番兵の交代の事、蓮池城にも報告されたが、とたんに、不審の念が出た
「番兵の交代は通常十月のはずなのに、今はまだ四月。何か変更がある場合は
先だって理由の説明があるはずなのにそれも無い。なにか秘密があるのではないだろうか?」

城内でこのような議論になり、密告をした船戸左衛門は、事が発覚したときの
自分の身の危険を感じたか、にわかに逐電をした。

これに蓮池城の人々は驚き、「船戸はかねてから我らと仲が悪かったが、さては先日
病と称してしばらく城を出ていた事。あれは、あの雑談を中村に密告したのだな!
それでわかった!代兵はわれらを謀り殺すための者に違いない。」

そうはいくかと、皆集まり詮議した。

さて、それから程なく代兵たちが到着。蓮池城の者達は大いに歓迎し
「遠方よりご苦労でございました、暇乞いの杯が用意してあります。どうぞこれを。」
と、珍味を並べた膳を出し、酒を勧める。

そこは土佐である。代兵たちもその使命は言い聞かされてきたものの、酒を出されて
飲まぬわけには行かない。進めるほうもたいへんな大盃で出してくる。
これに皆、前後不覚になるまで酔っぱらった。

「頃は良し」

蓮池の者達、ここでにわかに刀を抜くと、代兵たちの首を残らず打ち落とした。
さらに別室に控えさせていた代兵の下人たちをもなで斬りにすると、城の周りの堀を深くし
逆茂木を並べ、籠城の構えを作ったと言う。


この後起こる一条の討伐軍と籠城衆との戦いも、相当の紆余曲折を経る事になるのだが、
それは又別の話。




続き
蓮池城攻防の顛末。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3095.html

土佐一条氏の高岡郡統一と猟師の幸運

2009年09月12日 00:14

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 18:13:44 ID:6mc8nUKa
土佐一条氏が津野氏を討ち、高岡郡を統一した頃の話。

高岡に住む一人の猟師が、鉄砲を持って山に出かけた。
あちこち獲物を探して歩き回っていると、熊の親子を見つけた。
親熊が大きな石を持ち上げ、仔熊がその下にいる虫をあさっている。

早速木陰から鉄砲を構えた猟師だが、わずかに距離がある。
はて、当てられるか、と悩んでいると、今度は間近に猪が現れた。
猟師、これならば、と猪に発砲した。
が、猪は死ななかった。
手負いの猪は狂ったように暴れまわる。
そして、石を支えていた親熊も、鉄砲の轟音に驚いた。
親熊は石から手を離してしまい、哀れ、仔熊は押し潰されて死んでしまった。

さて、子の死を見た親熊、暴れ狂う猪が原因かと怒り、これに躍りかかった。
一方の猪も痛みに我を忘れ、熊へと突進する。
二頭の獣は争い続け、やがて衰弱して共倒れしてしまった。
隠れて見ていた猟師は労せず二頭の獲物を手に入れた。

帰宅した猟師、やってきた友達に獲物を見せて言った。
「いやいや、こんな身にも御所(一条)と同じ幸福が訪れたわ」
どういう意味か、と問う友達に猟師は説明した。
「もともと高岡は、津野殿と戸波殿が覇を競っておった
ところが両者あい争ううちに、御所が横からやってきて、双方の領地を手に入れた
今や、高岡はことごとく御所のものじゃ
熊と猪の争いで利を得た俺も、御所と同じ幸福にあったということじゃないか」
猟師はそう言い、おおいに笑ったということである




249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 18:38:36 ID:gDzhcA0k
なんだろう、何故か素直にいい話とは思えない・・・

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 19:08:53 ID:Y6FfoxGR
お前は現代の人間で動物に対する同情心があるからだろ
でも戦国時代であってもこの手の狩りは猟師も命がけだろ
この場合でも猪や熊が猟師に向かってくる可能性もあった
そんなことになったら再装填も厳しかっただろう
捕食関係がはっきりしている現代とはまた立場が違うんだぜ

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 19:14:54 ID:D2YrGNIE
いや、土佐一条氏の末路の話だろう


一条教房の下向

2009年08月09日 00:21

180 名前:一条教房の下向(1/3)[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:17:20 ID:V/SJBskU

じゃあ今度はずっと昔の話
以前のレスで応仁の乱後ならまあOKということだったので、
そんな応仁の乱に巻き込まれたあの人のご先祖さまのお話

一条教房は一時は関白も勤めた公卿だったが、応仁の乱に巻き込まれ
奈良の弟の元に身を寄せるなどして漂白の身となっていた
ところが待てど暮らせど乱はひたすらに泥沼の一途をたどるばかりで
挙げ句父やその他の一族も京を捨て奈良にやってくることになり
こうなると当然だが食べるのにも困るようになってきた
当時の貴族にはよくあることだが、名目上の荘園は持っていても
実質支配はしていないから実入りが無いのである
そこで一条家領のあった土佐国幡多荘に下向することにした
これは当然周囲から猛反対された
「前関白ともあろうものが、土佐のような鬼の住む土地に下ろうなど恥ずかしくないのか」
「ああ、あさましいことだ」
などなど散々に言われたのだ
しかしどう言われても、背に腹は変えられぬと
彼はおっかなびっくりながら土佐に旅立った



181 名前:一条教房の下向(2/3)[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:18:11 ID:V/SJBskU
土佐に彼が降り立つと意外なことに地元国人達は彼を歓迎した
これはどういうことなのかというと
当時の土佐は似たり寄ったりどんぐりの背比べな地元の国人達が
ひしめき合って領地の奪い合いをしているような状況だったため
彼等からすると前関白でもある教房の存在というのは、
周囲の国人達と自分達の間に差を付ける圧倒的な材料だったのである
それっとばかりに国人達は教房を御所様と呼び祭り上げた
教房の領地の農民達も鼻高々で自分達の領主の高貴さを自慢した
また当時の土佐人はかなり迷信深かったため
教房が「春日大社に奏じて呪い殺してやる!」と言うと
あっという間に恐ろしがって降参した



182 名前:一条教房の下向(3/3)[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:18:52 ID:V/SJBskU
こんな感じではあるが教房も別に遊んで暮らした訳ではない
彼は土佐に京都風の街並みや文化を輸入し
港を整備し、貿易を推奨した
また農道や灌漑、用水設備の充実などにも積極的だったから
農民達からの人気も高かった
あっという間に土佐一条家は土佐随一の家となり
豊かで平穏な生活を手に入れた教房は、父や親族に手紙を書いた
「土佐はとても良いところです、ぜひいらっしゃいませんか?」
しかしやってくるものは誰もいなかった
その後教房は京に戻らず土佐で生涯を終わる


その後の一条家がどうなったのかは、みなさんご存知の通りである





184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:54:42 ID:3XpSAeB6
自分が持ち込んだモードによって地元民の中から
上方流の知識・教養そして謀略を身につけた男が出ようとは
前関白殿も夢にも思わなかっただろうな

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 12:33:50 ID:uojzGxh0
つい同情して国親を庇護してあげたら、後はごらんのありさまだよ!

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 15:01:24 ID:LdoTzN3H
でもまぁいくら実権を失った公家とはいえ関白にまでなる人は優秀って事だな
カリスマなかったらいくら高貴でも人が付いてこないだろうし
交通網の整備や農地拡大なんてやらんだろう


渡辺教忠の葛藤

2009年07月13日 00:00

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/12(日) 22:10:29 ID:COdHqjm/
渡辺教忠の葛藤

渡辺教忠は伊予河後森城主として1万6千5百石を領し、
西園寺15将筆頭の立場にいたが、彼は元々土佐一条氏の生まれで
一条兼定の伊予進攻の布石として渡辺氏に養子入りしていた。

ある時一条氏が西園寺氏を攻撃した際、彼は主家と実家どちらに加勢するか
苦悩したあげくどちらにも加勢せず、日和見を決め込んだ。
そのため主君である西園寺公広の怒りを買い攻撃され、人質を差し出して降伏した。

土佐一条氏追放後は長宗我部氏相手に奮闘するが、敵に寝返った
家臣芝政景により居城を追放され帰農したとも、暗殺されたとも言われる。







吉田孝頼、長宗我部国親に

2009年06月28日 00:08

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 00:30:42 ID:PYisLs/d
一条氏の援助を得、長宗我部国親が岡豊に復帰したころのこと
国親はまさに四面楚歌の状況にあった
仇敵・本山氏とは和睦したものの、依然大きな脅威だった
吉良氏、山田氏ら本山氏とともに岡豊を攻めた家々も健在である
後援者である一条氏の本拠・中村は、地理的に遠い
その上、四散した旧臣達は、国親の実力を測りかね、なかなか集まってこない

「仇敵に囲まれているというのに、仇討ちどころか孤立するばかり
行く末もおぼつかぬ。どうしたら父母の無念を晴らせるか」
国親は日々、嘆いていた

そんな彼に心強い味方が現れる
近隣の領主で、知謀に長けた吉田孝頼である
孝頼は国親に具申した
「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず
大事をなすには、まず人です
人を懐かすため、真っ先になすべきは慈悲をかけることです」

国親は納得し、早速政治を改めた
高すぎた税は引き下げ、法度を緩和し、領民一人一人に目を配る善政をしいた
人々は一斉に国親を称賛し、この評価を聞いた旧臣も次々に帰参してきた

長宗我部躍進の基礎を用意した、天地人の話




827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 01:28:16 ID:qsFADB/g
>>826
ナイスパパン♪ というか吉田のじっちゃまナイスアシストだよね。

吉田一族には大備後って大物も出てくるんだな、なんつーか創業の功臣の鑑というか

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:58:42 ID:vp2JoLH/
>>826
吉田一族は人物が多いね
黒い仕事も道化役もこなす孝頼はえらい


一条兼定と、お雪

2009年06月25日 00:02

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 17:20:52 ID:tF5aaT40
元亀2年(1571年)頃、一条兼定は鬱々と過ごしていた。
長宗我部元親の排除に失敗し、日々一条氏の勢力を浸食されていたからだ。

あるとき彼はこの欝を晴らそうと鷹狩りに出た。その帰途、喉が渇き、
平田村(現宿毛市平田町)の百姓源右衛門の家に立ち寄り、茶を所望した。
しばらくして源右衛門の娘、お雪が茶を運んでくる。
兼定はこの娘の可憐さに、たちまち心を奪われた。

彼はこのお雪に、一首の歌を詠んで渡した。

 汲みてこそ水はやさしきものと知る 流れの末に逢はんとぞ思ふ

これを読んだお雪は、兼定の意を知り、歌を返した

 谷川の水はやさしきものなるに 君が情けをくみて知らるる

この日から、兼定はお雪の恋の虜となった。
彼は毎日のように鷹狩りと称して平田に行き、源右衛門の家に泊まった。
やがて平田にはお雪の為の立派な屋敷まで建てられ、人々はこれを「平田御所」と呼んだ。

「平田御所」に入り浸る兼定に、一条家の心ある家臣たちは眉をひそめ、家老、土居宗珊は
「せめてお雪を、政庁である中村御所にお召しになってください!」と諫言したが。兼定は
「政務はお前達がいいようにすればいい!」と、聞く耳を持たなかった。
他にも諫言する者たちがあったが、それらは皆、閉門を命ぜられた。

これに土居宗珊はついに、一命を賭す決意をする。中村御所にいた兼定の許に行き

「遊蕩を止められるか、この宗珊の頸を刎ねるか、いずれかを選んで頂きたい!」

この頃土佐に、『土居宗珊は長宗我部元親と謀り一条家への謀反を企んでいる』そんな噂が
流れていた。おそらく元親が故意に流したものだろう。無論兼定もこの噂を知っていた。

兼定は土居宗珊を手討ちにしたのだ。

これに一条家の家臣たちは衝撃を受けた、安並、羽生、為松の三家老は申し合わせ、
平田に向かう途中の兼定を捕らえ、中村御所に幽閉。その上で隠居を強要し、
当時僅か14歳の嫡男、内政を家督に据えた。クーデターが起こったのだ。

お雪は兼定が幽閉された事を知ると絶望し、

「再び見奉らんことも叶うまじ、生きて物思わんよりは」

と、平田の淵に身を投げたと言う。

後に水田となったお雪が身を投げた場所には、「南無阿弥陀仏」と書かれた供養塔が、
今も立っている。




648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 17:45:09 ID:Cwl0vrwS
コウモリさんの策だったのでは?

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 19:05:23 ID:mPf4hIIK
>>648半分はね。
硬骨漢で忠臣の土居さんと兼定がモメたら、どう転んでも損にはならないし

でも最初、平田御殿の件は単なる一条御所(国司家の通称)がやらかした放蕩浪費だっしょ

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 19:24:22 ID:l37p1mvK
百姓の娘って言っても歌が上手いなあ。


一条兼定、暗殺事件

2009年06月23日 00:05

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 18:37:13 ID:z9VOiktW
天正三年、渡川(四万十川)合戦で長宗我部元親に大敗をした一条兼定は、
その後宿毛にて抵抗するも長宗我部勢の猛攻の前についにこれを放棄、伊予国戸島へと
逃れた。

しかし、この戸島において兼定は、当地の領主、法華津氏の援助を受けながら一門や家臣団を
糾合。再起の体制構築を進めるとともに、宿毛、平田の反長宗我部勢力を扇動。
元親にとって、重大な脅威となりつつあった。

そこで元親は、かねてから内通していた一条兼定の側近、入江左近を呼んだ。

「兼定公を暗殺して欲しい。」

目的を果たせば莫大な恩賞を与える。入江はこれを承諾した。

数日後、入江は戸島の兼貞の許に現われた。
「御家再興の為、どうぞ私にも力添えをさせてください。」

兼定はこれに大いに喜び、自分に仕えた者たちの消息の話などしながら、
深夜まで歓談したと言う。

やがて寝所に下がる。深夜、入江は兼定の寝室に忍び入り、寝ている兼定に斬りつけた。

手応えはあった。四国軍記によるとこの時兼定は、入江の二の太刀で左肘を
断ち切られたとのことである。

それでも兼定は反撃をし、一太刀を浴びせかけたがかわされた。入江は逃げ出し
海岸に用意しておいた船に飛び乗ると、そのまま沖へと漕ぎ出した。
騒ぎに気づいた兼定の家臣たちが追いかけたが、他の船のとも綱が全て切られており、
どうすることも出来なかった。

そして入江は無事元親の許に帰り、一部始終を説明した。すると元親は

「主君を斬ったような大罪人は、生かしておけぬ。」

と、入江を即刻打ち首にした。

兼定は重症であったが一命は取りとめ、その後八年生き、天正十三年、秀吉による四国征伐のさなか、
「南方にある元親の居城を睨み、憤怒しながら」その生涯を閉じたと言う。

一条兼定、暗殺事件の顛末。





570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 18:40:40 ID:xUo2aow6
>>569
なんか長宗我部ってこんないつわばっかだな

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 19:16:47 ID:pz4U3QP5
むしろ兼定が意外と有能な事に驚いた。
いや、有能じゃなきゃ土佐帰還後に豪族を糾合出来ないんだけど、イメージがね。

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 19:21:38 ID:FhvLkG82
反長宗我部勢力が神輿として担いだだけとも考えられる

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 19:34:39 ID:Zv9qF4NA

>>569
何気に暗殺屋なんだよな元親

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 19:49:01 ID:PM3s1jvj
>>569
直家「まだまだだな・・・」

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 20:15:33 ID:WxOSnuhx
>>574
そうだよな、直家みたいにヒットマンを厚遇しなきゃあ
次のアタックの時、なり手がいなくんらるもんね

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 21:12:48 ID:lLdoTXdX
大事な暗殺は他人任せにしちゃ駄目なんだよ