阿波殿へは御感状を下された

2017年05月19日 08:31

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 06:57:41.17 ID:33GwbRVH
阿波殿(蜂須賀至鎮)の家来・朝比奈右衛門と同右京という者は、
馬口労ヶ淵で下知して功があった(大坂冬の陣・博労淵の戦い)。

佐竹殿(義宣)は家来の働きは良かったが、義宣の支配(指揮か)
は(徳川家康の)御意に入らなかったのだろうか。

阿波殿へは御感状を下されたが、佐竹殿へは家来にだけ下された。

――『武功雑記』


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蜂須賀もとに 澄水の

2017年05月18日 21:17

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/18(木) 02:04:32.57 ID:wFnksFn3
蜂須賀修理大夫正勝は、日頃愛宕山を信仰し、その頃は播磨龍野におられた
ので愛宕山へ参詣なさり、祈念なさっていたところに、どこともなく老人の山伏が

法螺貝を持って来た。山伏は、「宿坊より献上いたします」と言い、法螺貝を差し
置いて帰った。正勝は不思議に思って宿坊に入り一礼を申されたところ、宿院の
僧はこれを聞いて、「左様のことは、こちらは一向に存じ申さず」と言った。

このため僧は、「きっと権現より奉りなさったのでしょう。戦場で貝を吹く事は獅子
の吼えるが如く、この一声には悪魔は降伏して怨敵は退散し、子孫は御繁栄と
なりましょう」と祝した。その夜、正勝の夢の中で山伏と童子が歌を吟じ、

"香をとめよ 蜂須賀もとに 澄水の 濁らぬ世々の 末が末まで" と吟じていた。
これより以後、出身なさって阿波守となられた。

――『明良洪範』


判官殿の鞍

2017年05月11日 18:27

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/11(木) 04:12:26.55 ID:mNj39lOa
蜂須賀阿波守至鎮は古戦の事跡を尋ねて、古物の名のある物を求めなさった。

そんな折のこと、屋島の戦いで義経の身代わりに立った佐藤継信の葬式の時、
義経は秘蔵なさった“大夫黒”という馬を引き連れなさったのだが、

その鞍が志渡の寺(志度寺)にあった。かの寺が大破していたのを至鎮は補修
してその鞍を乞い求めなさった。

それから後年に至って、その鞍を知る者もいないために他の鞍と一所に交えて
しまい置かれた。

ところが、無頼の悪馬がいて誰も乗る者がいないという時、上田半平という者は
馬術の達人であったのだが、この人が言ったことには、

「かようの馬には、古作の良き鞍を置いて乗れば良いであろう」とのことで、鞍を
たくさん出して見ると、その中に極めて古き鞍があった。

上田はよく見て、「これこそ!」と言い、かの悪馬に置いた。この時、上田を嫉む
者がいて、「馬の善し悪しがどうして鞍に寄るだろうか」と、言ったのだが、

三浦次郎右衛門という鉄砲頭の老人も見物しており、かの鞍を見て、「判官殿の
鞍を久々に見たぞ」と、言った。

人々はその故を聞き一同に驚いたが、かの悪馬もかの鞍で快く乗る事ができた
ので、上田の馬術はますます名高くなったということである。

――『明良洪範』


蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌

2017年01月22日 17:12

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 12:54:16.62 ID:CfuXCaQx
蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌


[前略]
(名古屋城普請をする自分の"身のあさましさ"を長歌などで綴っている)


 此の頃常時思いに違はぬことは
一薪の高さ      一真桑瓜 聞いていたものと違ってあしきもの
一美濃鮎 昔からいいと言われているが、思っていたよりめでたいもの
一名古屋の井戸の浅いこと、井戸の水がいいこと、兎角ない物は若衆で
 普請の隙には編笠をきて、小屋垣の隙を覗き歩いても、その方に似て
 いるようなものは一人もいません。路地に水を打ち掃除して、お客を
 待っている者を、口を切りすぐに近づいて、目利きだというので是に
 金を出して知人にもなりましたが、衆道の目利きとはまことではあり
 ませんでした。数寄道具と若衆のような目利きは和尚に直に聞くべき
 なのでしょうか。
 [中略]
 自分のところには執心の人はいませんが、夕べさる方から習ったので
 名古屋のはやり歌を書き付けておきましょう。

 <たれか思ふ人は名古屋にござる、長の留守すれやしんくてならぬ
  えいえい、えいさらえいさらと石を引き、えいえいえいといふて
  引く間は夢だんべえな、えいとえいとゆて引くは亡い子かのといふた>

 若きも老いも口ずさんでいるので、是がないと浮世にはならないそうです。
 [後略]


――『徴古雑抄』



ただ紙を漉かせる事はいらざること

2016年12月20日 14:11

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 03:24:51.69 ID:PnlhRuy0
 蜂須賀蓬庵(家政)の代に、土佐の国で土佐紙を漉くという弥右衛門が土佐の国を立ち去って阿波の国へ来た。
諸役人はこのことを聞き及んだ。
「重宝な者が来たものだ。
阿波でも紙を漉かせて商売させたら、ここもにぎやかになって太守の為にも良いだろう。」
以上の次第を奉行人に訴えて居所等もしつらえて、「今にも土佐紙などを漉かせよう」と言い合った。
 この事を蓬庵へ申し上げると
「この国へ来た者を養育するのはもっともである。
しかし紙を漉かせる事は堅く無用である。
理由は古くから土佐紙として土佐の国で漉いていた物を、
ここへ奪い取り、ただ自分の利のために養育するのも不本意である。
だからといって、彼に居心地が悪い思いをさせるのはいかがなことか。
ずいぶんと労ってやれ。ただ紙を漉かせる事はいらざることである。」
と制止されたという。
ありがたい心ばえで、利を見て義を思うことは殊勝であった。
(武士としては)



433 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/20(火) 14:44:05.91 ID:InVZn0qf
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首を晒される事は、武士の本意

2016年12月17日 09:12

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 21:13:47.71 ID:Dl1XCqEh
 蜂須賀阿波守(至鎮)の臣中村右近(重勝)は夜討の時に討死した。
十五歳であった稲田九郎兵衛(植次)が右近の首を取り返した。
右近の子は(後には美作守と号し)そのとき十一歳で、幼少だったので在国していたが、
組子守りの為在所から呼び迎えられた。
阿波守と対面すると右近の討死の事を申し立てた。
かねて阿波守は右近と懇意にしていたから事情を話すと、

「首を晒される事は、武士の本意です。
どうしてその首がここにあるのですか!!
犬死をしてしまったということですか!!!!」

と弁舌明らかに申した。
阿波守は聞いて、

「誠に虎の子は乳を飲む時より百獣をのむ気があるものだ。
心配しなくともよい。
右近の首は稲田が取り返してきたからここにあるのだ。
右近の働きは比類なかったぞ。」

と重ねて言うと、そのときにやっと合点した顔つきとなったそうだ。

(武士としては)

首を晒される事って本意と言われる程素晴らしい事だったんですね。
負けたら隠れて切腹して、首をとられないよう部下に運ばせる話をよく聞くので
首を晒されるのは恥だとばかり思ってました



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 12:16:36.20 ID:2lC0CIdk
首実検されずに捨て置かれたと勘違いしたのであろうな。

蜂須賀家政は庭に松を植えようと思い

2014年03月17日 19:08

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 18:00:34.28 ID:IFrmhOaB
蜂須賀家政は庭に松を植えようと思い、方々に松を探し求めても無かったところに、
図らずも心に叶った松を取り寄せて殊の外秘蔵に思った。すぐに望んだ居間の小庭に
植えたところ、

御庭裁判役人は数寄屋足袋や立付の姿で杖を突いて下知した。家政はこれに立腹し、
自らその松の辺りへ立ち寄り、土を寄せて「秘蔵である!」と言った。

これによって裁判役人は急に働いた。家政は座敷へ上り、立腹の声で、
「この松が枯れた時は、弓矢八幡、裁判人を磔にかける!」と言って入った。

そうして二、三日が過ぎて松の葉の色が悪くなったため、枯れるのではないかと、
御庭裁判人は殊の外気遣った。そして四日目の早朝、家政は件の松を見て御側の面々に
「この松の裏を表へ植え替えさせろ」と言って、内証へ入った。

故に早速植え直してその旨を申し上げると、家政は出て見たうえで「これでは枝付きが悪い。
この枝を切れ」と、望んだ五枝ほどに付紙をした。そのため、早速枝下ろししたところ、
その翌朝、また松を見て「なんとまあ、枝下ろしが物の数寄を仕損じて枝振りが悪くなった。
根から切って捨てろ」と命じて、眼前で土際から切らせたとのこと。

この事を、その節に沙汰して「植木に人を替えなければならない事情も無いということ、
また、御誓言も無かったことにするべきではないとの御思案ではないか」と恐察した。

――『尊語集』




648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 18:21:26.47 ID:N9X7t7tY
なるほど
枯れる前に捨ててしまえば、裁判人を磔にしなくて済むし、八幡大菩薩への誓いも嘘にはならない。
裁判人も怒られてからは一所懸命に松育ててるしな。
なにも最初の発言通りに枯れるまで待って反省した者を磔にする必要はない。
蜂須賀さんは良い大将だね

蜂須賀家の家老に不和な関係の者がいた時

2013年10月14日 19:44

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 14:45:50.53 ID:46He+r5z
蜂須賀家の家老に不和な関係の者がいた時、蜂須賀家政はそれぞれを
西の丸へ呼び出した。そして家政は、

「おのれの威を振るわんがために家老たちの仲が悪くなることは
大きな不忠である。大名が身の上を潰すような国を危うくする出来事が、

家老の不和に基づいて起きた例は少なくない。この中にも不和な間柄の者が
いると聞いた。今後は、そのような者(一本志)のないようにせよ」と言って、

刀を左の膝に敷いて、機嫌を悪くして怒った。そして酒を持って来させて
「おのおの盃を致せ」と命じ、それぞれ盃をして退出したという。

――『尊語集』




478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 19:26:58.70 ID:Ve7k81C6
家老「チッ、うっせーな」

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 20:51:04.34 ID:X/J4rbZ0
「刀を左の膝に敷いて」とは、どういう状態?
怒ってるぞ!ってこと?

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 20:57:17.45 ID:GRINmup/
いつでも抜けるようにしてってことか?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 21:20:17.09 ID:8fHQ++1g
手打ちにするか、手討ちにされるか

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 21:37:33.47 ID:X/J4rbZ0
臨戦態勢ってことか
ありがとう

この仕置きによって岩屋は治まったという

2013年10月10日 20:34

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 19:13:52.24 ID:/yWrti/2
江戸にいる蜂須賀家政のもとに淡路岩屋の百姓達十人ばかりが訴えてきた。

その子細は、岩屋に置かれた伏屋源兵衛は普段から万事辛く沙汰を行い、
その上、失態もあった。この数々を紙面で願い上げたが取り次ぐ者がいないので、
夜に岩屋より抜け出し、紙面を江戸に持参して直訴したのだという。

家政はこれを聞いて百姓達に向かい「皆々がはるばる参上して、この坊主を
取りはからうに足りる者と頼りに思ったことを満足に思う。私が帰国の上で
速やかに糾明しよう。

長旅にさぞ苦労したことであろう。ここで緩々と逗留して労を休めて、私より先に
帰るがよい」と言って、懇意の意向を示し、料理を与えた。百姓達は大喜びして
淡路へ帰った。

さて、家政は帰国すると「速やかに岩屋の百姓達は残らず参るように」と命じ、
百姓達は喜んで早々に参上した。この時、家政は国奉行をもって「お前達は先頃、
江戸へ参上した時に、どのようにして関所を通ったのだ」と尋ねた。

これに百姓達が申し上げるには「伏屋殿から隠れて仮屋より船で大坂へ参り、
それから江戸へ参上いたしました」とのことだった。

これを聞いた家政は「不届きな奴らめ。国法に背いて関所を破った罪は免れない。
ことごとく磔にせよ」と命じた。この仕置きによって岩屋は治まったという。

――『尊語集』





蜂須賀至鎮、加藤嘉明と片桐且元の争いを仲裁すること、二話

2013年10月09日 20:03

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 18:07:47.67 ID:JoV1z0ES
ある日、加藤嘉明、蜂須賀阿波守、片桐市正は天龍川に集まり、宴会を行った。

この時、阿波守は嘉明に賤ヶ岳の軍状を尋ねた。しかし、嘉明は、
「私は普段よりも酒を飲みすぎてしまった。市正、どうかあなたに頼みたい」と言って、
酒に酔ってよい気持ちになりながら、あおむけになって寝てしまった。

そこで阿波守は市正にこれを尋ねる。市正はとても得意気に当時の戦況を語った。
その語りが嘉明の事に及んだ時、嘉明はたちまち起きて反論した。

「貴公の如きはもともと七人の中に加わるべき者ではなかった。それを私達諸将と
相談して太閤にお願いし、曲げて先鋒に列しさせたのだ。あの石子兵助の伏屍を
踏んで敵将を刺し殺したのは他でもない、この私だ!」

市正もまたこれに反論して譲らず、意色甚だ悪し。しかし、阿波守が二人の間に立って
調停したので大事には至らなかった。

――『鹿深遺芳録』

慶長八年、将軍宣下拝賀のために蜂須賀至鎮が江戸へ向かった時、ちょうど天龍川が
増水していて渡れないので、至鎮はしばらく滞留して減水を待った。

そこへ加藤左馬助、片桐市正(或は福島左衛門大夫とも云う)もまたやって来た。
ある晩の話の折、至鎮は賤ヶ岳先登のことを質問した。すると、二人の語る事が食い違って
互いに譲らず、終いには刀傷に及ばんとした。

至鎮は祖裼して二人の間に入って辞謝し、「それがしは無益の問を起こし、
おしはからずに公等の忌諱に触れました。本当に、このまま放っておくわけには参りません。

まずは、それがしが切腹して罪をお詫びします。その後で二公は良いように
事を処理してください」と表情を改めて決意したので、二人は大いに恥じて先非を悔い、
和解して事なきを得た。

程なくして川は減水したので、共に川を越えることができた。至鎮は二人を旅館に招き、
盃酒を勧めて別れたという。

――『峻徳公略伝』




287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 07:42:22.11 ID:ddF5PZEH
こんなんで切腹してたら戦国武将なんてやってらんねえだろうな

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 08:03:03.73 ID:hQ0qrR0v
わかっててやってるだろよししげw
(やっぱこうなったしwww)って

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 12:13:48.06 ID:kXmB4JVh
(´・Д・)。○(ちょろいぜ)

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 15:00:39.62 ID:BrbjmR+T
どちらかが嘘つきというよりは、両方誇張して話してるから噛み合ないんだろうなー

ただ、感戴の心を持って

2013年09月14日 19:59

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 17:51:50.23 ID:bupZ0KhP
井伊直孝は初め上野二万石を領した。蜂須賀家政は阿波に封じられるや、
直孝の器識卓越を見て、三女を直孝に嫁がせた。後に直孝は大坂の役で功あって
彦根三十万石となった。直孝は深く主恩に感激して、つねづね人に対してこれを語った。

家政はしばしばこれを諌めて「ただ、感戴の心を持って、その終わりを全うするべきだ。
盛んにこれを言い立てるよりも、黙々と胸中に銘じたほうが良い」と、言った。
直孝は深く感謝して、これを常に徳とした。

――『蜂須賀蓬庵』




119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 17:57:35.68 ID:aKzFUpsv
井伊ハナシダナァ

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 18:00:10.24 ID:6dKoS9sY
釣りバカ家政様か

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 18:48:17.27 ID:yUnyqPrA
これ以外にも家政の見識や寛大さを伝える話が色々残ってるのに、
なぜヤツはこの人のことを「古狸」なんて言ったんだろうw

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 18:58:55.35 ID:XLGnFnct
「阿波の古狸」はよく聞くけどアレの出典はなんなんだろうね。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 19:05:57.03 ID:1coYmZzv
政宗が家政評した話の出典?

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 19:14:43.78 ID:XLGnFnct
>>123
それそれ。
自分が不勉強なのだろうけど、出典が良く判らんと言う。

「あなたは何故自分の功を言わないのだ」

2013年09月10日 19:55

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 17:22:58.46 ID:94lW3wVa
蜂須賀家で、大坂冬の陣での諸臣の論功が行われた時、倉知由久は自身の功を語らなかった。
ある人が「あなたは何故自分の功を言わないのだ」と、尋ねると、

由久は「夜戦の射は功となすに足らず」と言った。その後、由久の射た矢を送って来た者がいて、
矢には漆でその姓名が記してあり、蜂須賀至鎮は由久を呼んでこれを示した。

由久は矢を取り、灯火に照らしてじっと見ると、「字が剥がれています。恐らく私の名では
ないでしょう」と言って、その賞を辞した。

――『峻徳公略伝』




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 23:45:26.17 ID:DhDE9OYD
控えめにも程が過ぎるだろw

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 00:11:01.16 ID:scoqACeA
豊臣を攻める戦が気に食わなかった?

福島正則、幼い蜂須賀至鎮を評す

2013年08月24日 19:53

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 15:43:47.11 ID:FYzGJQbF
蜂須賀至鎮が幼い時、福島正則が来訪した。この時、諸々の談話があったのだが、
至鎮は始終じっと聞いているだけで、まったく明弁しなかった。

正則は退いて至鎮の老臣に向かい「私はこれまで多くの人を見てきたが、
威徳の備わっている人を見たことがない。将来、天下の名将となるであろう者は、
唯々、長門守である」と語って、痛く感嘆したという。

――『峻徳公略伝』





蜂須賀家政はついに忠英と

2013年08月22日 19:52

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/22(木) 17:22:05.43 ID:A+4h7HRK
蜂須賀忠英が江戸にいた時、祖父家政が病気になった。知らせを聞いた忠英は許可を得て
国に帰り、家政を見舞った。しかし家政は喜ばず、近臣を介して、

「参勤は公事であって私的なことではない。一度国を出れば、生死はわからないものだ。
武士の出門は常に決別と知れ。故に今になって対面することは不要。早く帰って公事を怠るな」

と告げて、ついに忠英と会わなかった。

――『蜂須賀蓬庵』

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/22(木) 17:29:38.98 ID:NHyKSG+7
忠英ってあまり聞かないから何代目か調べたら二代目阿波藩主だったか
正勝(小六)、家政、至鎮と初代阿波藩主っぽいのが三人いるからややこしい

「私がどうして豊臣家に背くだろうか」

2013年08月20日 19:51

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 17:58:24.84 ID:pWR2sAz7
徳川家康が上杉景勝を征伐する時、蜂須賀至鎮もこれに従おうとした。

この時、増田長盛のもとより、太閤の旧臣の立場で家康に属することは不当である、
と至鎮へ申し送られてきた。至鎮はこれに、

「私がどうして豊臣家に背くことだろうか。ただ汝等に与しないというだけだ」と答えて、
五千余騎を率いて大坂の居邸に入り、凶徒等の攻撃に備えた。その勢い当たるべからず。

このために長盛等は和議を乞うたので、結局、至鎮は家康に従って下野国小山に至り、関ヶ原の陣にも従った。

――『寛政重修諸家譜』





殿は、湯漬をたてつづけに三杯おかわりした

2012年10月21日 19:29

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 19:20:40.21 ID:i8J/WV84
慶長5年(1600年)7月、家康を弾劾する『内府ちがいの条々』が
全国の大名諸侯にばら撒かれたときのこと。
弾劾文を受け取った大名のひとり蜂須賀家政は、
大坂の屋敷で考え事をしていた。


――嫡男の至鎮は内府の娘を娶ったし、今は内府について会津にいる。
蜂須賀家が内府に組みすると見られているのは間違いない。
――だが、藩主の自分と蜂須賀の兵がこっち(上方)にいるとなると、
いずれ大坂城(西軍)に取り込まれるのは避けられない。


――そうなったら、たとえその後の戦で内府が勝っても、蜂須賀家やばくね?
――よし、ならば……。

決意した家政は、ある行動に出る……それは別の機会に。


本題はこちら。
上記は史実を元に家政視点で創作したものだが、第三者の視点では
家政の様子を次のように記している。

「殿は、湯漬をたてつづけに三杯おかわりした。
この大変な時にも食欲を失わないとは、なんと豪胆なことか」

どうやら家政さん、考え事は食事中にしていたようで。
これは創作ではなく、蜂須賀家の家譜に記録された本当の話。


竜頭蛇尾なネタで失礼しました。




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 22:04:37.27 ID:cAR48cti
>>17
創作は勘弁してくれ。

蜂須賀正勝、本能寺の変の報に際し

2011年12月09日 22:03

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:00:21.74 ID:73M5SAMd
天正10年(1582)、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉軍に対し、城将清水宗治と杉原家次は、自分たちの
自害を以って城兵たちの命を救うことを請い、秀吉はそれを許した。
6月、清水たちは切腹し高松城は陥落した。しかし、毛利氏本体との講和は未だであった。

そんな時、秀吉のもとに急報が入った。明智光秀が謀反を起こし、京に軍勢を入れ本能寺において
その主、織田信長を弑した、というのである。

秀吉は驚愕し、配下の諸将を呼び協議を行った。この時進み出たのが、蜂須賀正勝である。
正勝は進言する

「ここは先ず、毛利氏と講和をしてその上で賊を討つべきです!」

秀吉は正勝の方針に従い、毛利氏の寵臣である安国寺恵瓊を呼び出し毛利輝元と講和をしたいと伝えた。
しかしこの時、本能寺の変については伏せていた。

これに蜂須賀正勝は再び、秀吉に進言した

「信長公が弑殺されたという、この大事を伝えずに済ませることは不可能です!
今これを秘密にすれば、他日彼らがこれを聞いた時、我らが怯えていたのだと受け取るでしょう。
速やかにこれを伝えるべきです!
もしこれを伝えたことで毛利が講和をしないというのなら、ここで一戦し勝敗を決すればよいではありませんか!」

秀吉はこれに一言、答えた

「善し」

そこで正勝は自ら毛利氏の元に使いに行き、本能寺の変の事を告げた。その上で、この事態に対し
毛利氏はどのような去就を取るつもりかと聞く。

はたして、輝元は講和の方針を変えなかった。さらに秀吉の陣に使者を遣わして信長の死に対する
弔問を行い、誓書まで残していった。
ここに和平は成り、秀吉は全軍を以て光秀との戦いに向かうのである。

以上、蜂須賀家の記録にある、本能寺の変時の秀吉軍の模様である。
(蜂須賀家記)




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:59:00.97 ID:BhNkB160
ありえないだろ

蜂須賀家政、百五十石の浅田亀之亟に

2011年03月30日 00:01

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 10:26:04.45 ID:ksf/PHhw
>>591 
そういえば蜂須賀家政の話にも
当時の大名の逸話らしく、質素倹約を尊ぶ話が多いんだが、
中に毛色の変わったものがあった
浅田亀之亟という家臣が御用があって料理を頂いていた時
そこに家政が入ってきて雑談していったそうだ
「お前は今知行をいかほど取っているのか」と聞かれたので
百五十石ですと申し上げたところ
「私が織田信長に仕えていた頃も百五十石取っていたが
あれは不自由なものだった
とはいえ、私は元々親が大身であったので、その分家で使っている人間も多く、
それほどでもないところがあったが、その方はさぞ難儀だろうな」
こう言ったあと、ふと付け加えて笑ったそうだ
「その頃私は革袴を持っていて、それを周りの者から随分羨ましがられた
ものだったが、今時ではそんなこともないだろうな」

経済が成長して、ちょっとしたぜいたく品だったものが一般に普及したり
戦がなくなったせいで需要が減ったりしたのかなーと考えさせられた
平和な時代だと、武士もいざという時のためにひたすら貯め込んでおく必要性薄れるだろうしね




608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 10:52:14.91 ID:IrkOfTjv
戦時だと軍役が定期的にあるから。
刀も消耗品と、一本あればいい平時では同じ収入でも余裕が違う。

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 12:19:49.29 ID:903fpAuW
そもそも戦場で刀使わないのになんで消耗するんだよ

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 12:25:06.85 ID:ITeY+K8m
>>609
いまどき合戦での刀否定なんて鈴木信者かよ?
普通に使ってたっつーの。

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 12:52:33.36 ID:eRDgox0+
手入れを怠って劣化したり、金に困って売ったりするからじゃないかw>平時の消耗

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 12:55:26.78 ID:4YtqyzhV
馬も高い金出して名馬一頭買うくらいなら、その金で普通の馬3頭買え、
なんて話もあったな。

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 13:16:46.97 ID:Ftar+IRJ
ジミーさんと高虎の運用思想の違いの類型の話やね。

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 14:04:28.75 ID:jl621Qg5
竹中さんが牛に乗り換えました

蜂須賀家政、平家の亡霊におびえる?

2011年02月08日 00:00

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 18:20:58 ID:tdpRK57b
蜂須賀家政、平家の亡霊におびえる?

時は天正15年のこと、前年に阿波に入国した蜂須賀家政は、
領国の経営に頭を悩ませる日々を送っていた。
長宗我部元親を抑え、四国を平定はしたものの、
当時、阿波には未だ多くの有力土豪や山間部の土豪、地侍、三好氏の残党、
土地持ち本百姓の一揆など、また新たに抱えた諸浪人たちが家政に服さないのではないかと心配事は多かった。
そんな中、とんでも無いものが発見された、
山間部、祖谷地方の阿佐家が隠し持っていた、一対の「平家の赤旗」である。
軍旗は戦において非常に重要なものであるが、いくら何でも物持ちが良すぎる、
源平の合戦はこの時既に400年も昔の事で有る。

しかし、いくら古いものとはいえ、軍旗は軍旗、
それを南北朝期には足利幕府をさんざん悩ませた、阿波山岳武士の末裔が所持していたのである、
さすがに見過ごす訳にはいかない、あえなく没収となったのである。


・・・ご存知の方も多いと思いますが、この話、後日談があって、
この平家の赤旗、現在も伝わっております、それも没収された筈の当の阿佐家に。
なんでも、蜂須賀家の手によって掛け軸として表装して返されたんだそうであります。
掛け軸にしてしまえば、軍旗として使えないということなのでしょうが、
ずいぶん気を使った処置ですね、いったい何があったんでしょう?
今となってはわかりません。




696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/08(火) 00:37:51 ID:EO1kr+RX
新聞赤旗・・・いや、なんでもない

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/08(火) 17:17:39 ID:hhreNxhC
共産党は桓武天皇の末裔。

蜂須賀家政と僧侶たちの訴訟

2011年02月02日 00:00

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 22:56:33 ID:Lz/Itk3h
蜂須賀家政が阿波の国で孫の後見をしていた頃、
寺町のある寺の僧侶たちの間でもめ事が起こり、訴訟にまで発展した。
家政はこれを聞いて、その件はそのまま放置しておくよう指示していたが、
その後ふと駕籠で寺町まで赴き、寺に上がり込むと当事者である僧侶たちを呼び出した。
家政は、双方の言い分を聞いた後、こう言い渡した。
「そもそも、お前たち出家は自分たちが人のもめ事を仲裁する立場だろう
そのお前たちが訴訟を起こしたなんて話になったら聞こえがよくない
とにかく今回はやめておけ」
そして硯と紙を借りると、さらさらと歌を書きつけて僧侶たちに差し出し
さっさと帰ってしまったそうだ。

 山寺の春の夕公事来て聞けば 入相の鐘にわけも聞へず

…新古今和歌集に能因法師の「山里の春の夕暮来てみれば 入相の鐘に花ぞ散りける」と
いうのがあるが、これを引き合いに出して
「全く能因法師の言うとおり、私なんか公事を聞きに来たけど、花が散るように鐘の音で
坊主の言い分も聞こえなかったよ、なかったことにしてもいいよね?」と言いたかった…
と、取ればいいのかな。
家政のユーモアを感じて面白かったが、僧侶たちは煙に巻かれた気分だろうなと思って
こっちに投下。