朝比奈弥太郎という勇士がいた。

2014年05月26日 18:57

20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/26(月) 14:24:05.42 ID:AnjE5Rax
讃岐の香川氏の家来に朝比奈義秀の末裔、朝比奈弥太郎という勇士がいた。
朝比奈弥太郎は大力無双の豪傑で、甲山城を築城したと言われている。

永禄元年、三好義賢(實休)が香川之景を攻めた善通寺合戦に際し、弥太郎は甲山南麓で三好勢を迎え撃った。
弥太郎は勇戦し、190人もの敵を討ち取った後に力尽き討死したという。

弥太郎の最期の地のそばには池があり、朝比奈池、弥太郎池と呼ばれ、その水利で田畑を潤していたが、どういうわけか池に落ちて死んでしまうものが後を絶たなかった。
これは討死した弥太郎の祟りではなかろうかと、村人は池の中州に弥太郎の墓を築き供養した。すると池に落ちる者はいなくなったという。
昭和のころに池は埋め立てられ、野球のグラウンドになった。
今では同地に記念碑が残されている。

また、甲山には朝比奈弥太郎を祀る朝比奈神社がある。
古くから力をくれる神様として親しまれ、今では試験や選挙の前に力をもらいにくる者も多いとか。

徳川の家来の朝比奈弥太郎は同名異人です。念のため。





21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 00:09:47.71 ID:UZJ9zVGj
そのグラウンドでは
フォークボールがよく落ちるようになるという祟りが起こるかもしれない

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 06:54:31.25 ID:R4x/uPLU
いわくのある土地をなんかして祟られても、まつってあげればおkなのって日本的

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香川之景(信景)の籠る天霧城が

2014年05月06日 18:59

885 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/05(月) 18:00:53.12 ID:wcJH7pzk
香川之景(信景)の籠る天霧城が長曽我部に攻められた時のお話。

天霧城は頑強に抵抗したが、多勢に無勢。いよいよ最期の時がやってきた。
之景は近習の森久右衛門を呼び出し、一人娘の姫を守って城を落ちのびてくれと頼んだ後に討死した。
主命を受けた久右衛門は、燃え落ちる城から姫と共に落ち延び、大見の宮脇で姫を守りながら隠れ住んだという。

つづく

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 18:08:19.18 ID:wcJH7pzk
つづき

時は流れ、世の中もすっかり平和になったころ。
帰農した久右衛門は、行くあてのない姫を妻として娶り、農業を営む傍ら村の若者らに弓を教えて暮らしていた。
ある年の春、藩主の生駒高俊が大見へ鷹狩りに来た時、どうしたわけか鷹の足につけた紐が大木の枝にからまり身動きができなくなってしまった。
あまりに高い枝のため、弓で鷹の紐を切ろうという話になったが、殿さまの鷹に傷をつけては・・・と誰も名乗り出るものがいない。
御付の者が地元に弓の達者はおらぬかと庄屋に尋ねると、庄屋は森久右衛門のことを言上し、直ちに久右衛門が召し出された。
期待にたがわず、久右衛門は雁俣の矢でもって見事に紐を射切った。
高俊は鷹が戻ったことを大いに喜び、その後は上機嫌で観音寺へ狩りに出かけたという。

その年も押し迫った頃、庄屋を通じて久右衛門に高俊から褒美をとらすので希望があらば申し出るようにと沙汰があった。
久右衛門は未開の地を開拓したい旨を言上し、荘内の伊砂子庄を賜ったそうな。

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 18:14:21.71 ID:wcJH7pzk
昔話なので突っ込みどころも多いのですが、「こんな話もあるのね」ぐらいで読んでください




888 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/05(月) 19:53:18.99 ID:OZ2pLUDk
香川氏って親和婿養子にして元親の配下にならなかったっけ?

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 08:54:51.71 ID:y3SA7FAq
>>888
まぁ、香川之景の娘は親和に嫁いでるし、
之景は秀吉の四国攻めの後は長曽我部にくっついて土佐に行ってるとか

この話、突っ込みどころが満載ですよね。

個人的には永禄のころに三好に天霧城を攻められて、
香川氏が讃岐から追い出された話とごっちゃになってるのかなと思います。

細川成之と一色義直の、三河争奪戦

2010年12月08日 00:00

細川成之と一色義直の、三河争奪戦


細川成之 一色義直


933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/06(月) 23:05:09 ID:UuTp9Kdw
室町時代前半、三河国は一色氏が四代にわたって守護を務め勢力を扶植していた。
60年にわたる一色氏の支配が崩れたのは永享12年(1440年)のこと。
当主である一色義貫が、「ミスター万人恐怖」足利義教に大和の陣中で謀殺されたのである。
一色氏の領国のうち、若狭・三河はそれぞれ謀殺の実行者である武田・細川両氏に奪われた。
残る丹後守護職も嫡流である義貫の子には渡されず、傍系の一色教親へと移ってしまった。

それから四半世紀後。

応仁の乱勃発。

成人した義貫の子一色義直は丹後守護職を奪取し、更に細川成之の領する三河にも一族を派遣、
徐々に勢力を回復していた。当然、反細川の西軍中核メンバーとなり、成之の軍勢と激しく
戦った。

戦いの舞台が地方へ移ると、三河において成之の守護代と一色一族が火花を散らす。

文明8年(1476年) 三河において成之の守護代である東条国氏が切腹
文明9年(1477年) 三河宝飯郡で一色時家が討死、渥美郡で一色政照が没落

文明9年9月、京都において前年敗死した東条国氏の後継者である東条修理亮の屋敷を一色軍が
攻め、一族郎党300人が奈良へ没落する事件が起きる。


しかも、「修理亮を討伐せよ」 という足利義政の御教書により事件は正当化された。


完全に面子を潰された修理亮の主人細川成之は、幕府出仕を拒否、館に引き篭もった。

11月、東西両軍の和睦により、長い戦乱に一応の終止符はうたれたが、細川・一色両軍は
そんなこと何処吹く風という調子で堀を掘って館を要塞化し戦支度に余念がなかった。
一触即発のぴりぴりした状態が続く。さあどうする?

明くる年の2月、成之の館を使者が訪れる。

「一色義直から誓書を提出してもらいました。二度と三河には手を出さないという内容です。
 将軍義尚様は貴方の出仕拒否をひどく心細く思っています。どうかお腹立ちをおさめて
 再出仕くださるようお願いします。」

さすがの成之も辞を尽くしての懇願に負け、幕府に出仕することに同意した。
こうして三河国をめぐる一色・細川の争いは決着がついた?が、この後、同国に守護が任じられた
形跡はなく、同国の情勢はより混迷の度合いを増し、一足先に戦国時代へと突入したようである。


「ご苦労であった」

京都では、やっかいな問題を一応片付けることが出来たとして、使者を労う日野富子の姿があった。



( ゚д゚) あれ?




935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 01:19:46 ID:Lep7ejhJ
>>933
それで幕府や有力守護につながった国人たちの勢力闘いになって松平氏が急拡大したり、
一向宗が一気に信者を増やしたりとカオスな状況になるんだよなー。

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 03:14:54 ID:/+EbqQ+2
東条は東条吉良氏のことで良いのかな?

三河守護を巡っては御料地の経営を巡って将軍家を後ろ盾とする伊勢氏が
暗躍していた様子だね。
一色氏や西条・東条の両吉良氏が地盤固めを抑制された結果、隣国から
今川氏や斯波氏(と被官の織田氏)が浸透を図るようになり、伊勢氏の被官
である松平氏が台頭したわけだね。

八朔の雛祭り

2010年08月30日 00:00

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/29(日) 13:11:36 ID:aKLR2lm7
八朔の雛祭り

八朔とは「8月の朔日」、すなわち8月1日のこと。

永禄の頃より、西讃岐の仁尾、吉津、比地中村といった地域は、仁尾城を居城とした
細川土佐守頼弘によって治められていた。

この細川頼弘、経歴はよく解らないのだが、讃岐らしく細川京兆家に連なる人物だったようである。
この地域は戦国とは言え、それなりに平穏に治められていたらしい。
領民たちも頼弘をよく、慕っていたようである。

天正7年(1579)、その平穏がついに破られる。2月に始まった、長宗我部元親による西讃岐侵攻である。

他の西讃岐の国人と共に、細川頼弘もこれに激しく抵抗した。しかし衆寡敵せず
西尾城は落ち、頼弘は切腹して果てた。
この時土佐兵は、仁尾の街はもとより細川家の菩提寺である金光寺など、すべてを焼き尽くしたそうである。
これは3月3日のことだという。

これより後、西尾の町では頼弘や戦死者の慰霊のため、3月3日に雛祭りを行わず、
かわりに旧暦8月1日の八朔の日に、雛祭りもあわせて行うようになった。

これは「八朔人形まつり」と呼ばれ、店舗や座敷に設えた舞台に、箱庭の山川渓谷を作り、人形で
おとぎ話や歴史上の物語の場面を再現したという。
この風習は久しく途絶えていたが、最近になって復活したのだそうだ。

八朔に雛祭りを行う町と、その由来についてのお話である。




阿波国内で犬神を使う輩がいる

2010年08月28日 00:02

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 00:58:39 ID:0q3CVpYq
徳島でオカルトチックな話題ということで

文明4(1472)年のこと。
阿波守護細川成之の奉行人から三好式部少輔に対して
「近頃阿波国内で犬神を使う輩がいるとのことだが、早々にこれを探し尋ね罪科に
処するように阿波三郡の領主に触れて下知を下すように」という命令が下されている。

さてこの奉書、史料的には三好之長より以前の代の三好氏の活動の様子や地位(おそらく
阿波三郡の守護代)を推定する上で重要な史料だったりするんだけど、
注目すべきはこの内容。

犬神というのは、人に取り付く犬の霊であり、こういった特定の動物の霊を使役して呪詛を行う
犬神使いと呼ばれる人々もいたて、記録によれば「奸険の徒」であり、「その怨嫉するところに
祟る」とあり、「犬神憑き(犬神を使役したり取り付かれたり)」となった家系は通婚を忌避される存在だった
とのこと。

崇徳院が流された地だけあって、この手の逸話が結構多い気がします徳島。





784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 01:25:06 ID:6iGKNzcF
お犬様か。
式神・眷属ってやつだな。

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 01:48:46 ID:N6T1ogM8
>>783
崇徳院は讃岐(香川)のような
それはそうと、讃岐出身とも言われる安倍晴明には、「白狐の子供」という伝承があるが、
これは狐憑きや犬神の一族が意図的に流した噂という説だと聞いたことがある。
英雄視される安倍晴明を自分たちの仲間とすることで、狐憑きや犬神の格を上げ、
差別を排除しようとしたとか

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 12:52:42 ID:mN3TWYaw
憑かせるわけではないけど、
ギャンブルのツキも、あれは狐が憑いていてお金を運んでくるんだよね
昔話の成金話によくあるけど、大抵は欲をかきすぎて自滅するんだけどさ

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 22:48:18 ID:0q3CVpYq
>>785
・・・・あ、そうだ讃岐だっけ。お恥ずかしいw
守護権力がわざわざ取り締まりを命じているのが興味深いよね

昼寝城「残党さんの墓」

2010年05月22日 00:06

892 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/21(金) 13:19:39 ID:CIYnZ1j2
今週は四国の話が多いなwちょうど昼寝城の名前がでたしその話で
「残党さんの墓」

寒川氏は細川氏に仕え讃岐国寒川郡の郡司を務め、東讃岐に威勢を振るっていた。
戦国期にはいると父である元政の死後、家督を継いだ寒川元隣は代々の居城である昼寝城から虎丸城に移し、
昼寝城には弟の光永を入れた。

昼寝城は矢筈山の中腹に聳えた昼寝山頂に営まれたもので平素には居住できないが、一たん籠もると難攻不落で知られ。
昼寝をしていても攻められないという要害であった。しかし天正三年九月(1575年)阿波国の海部友光に攻められ、
昼寝城はたった二日の戦闘で落城してしまった。

この敗け戦の際、ひとりの男が夜陰にまぎれて中津まで落ちのびていた。
男は逃げ続けるうちに夜もふけてしまい、どこかに休める場がないか探していた。その時に一軒の民家を見つけ戸を叩いた。
戸を叩く音に、この様な夜更けに誰かと思いつつも手燭をかかげて出てきた主は息を呑んだ、ふり乱した頭髪、矢傷、
刀傷でボロボロな甲冑に血糊がこびりつき、 死の恐怖におびえた両眼は亡霊そのものであった。主はすぐに
昼寝城の落武者であるとわかった。

男「すまぬが、暫くかくまってはもらえぬか…」
主「分り申した。さぁ、は早う中へ」
ともかく戸口では怪しまれると思い、主は男を中に入れ話を聞いた。
男「傷の手当てをしたいので、それまで家の倉にでもかくまってもらいたい」
主「どうぞどうぞ、ご自由におつかい下さい。」
男「それから済まぬが茶漬を一杯所望したい。 朝から何も食していないのだ」
主「ただいま家内に茶漬の用意をさせますので。しばしお待ちを」
男「身共は明日の夜にはこの家を出てゆく。済まぬがもし追手がきても他言はせぬように頼む」
主「…分り申した」
その様なやりとりをした後、侍は茶漬をかきこみ、倉に潜んだ。

主は男が倉に入ると、そっと家を脱け出して村長の家に走った。勿論この男について相談しにいったのだ。
村人「そんな落武者をかくまっていたことがわかれば、この村にどんな仕打ちがあるやも知れぬ。」
「早う海部方に知らせた方がええぞ」
騒ぎを聞きつけた村人達の大半口々に男を引き渡すべきといい、主を含め村人達は
男を海部方に引き渡す事で意見はまとまった。
事が決まるとすぐさま使いの者をだし、知らせを受けてかけつけた海部の軍に倉を囲まれ、
男はもはやこれまでと応戦するも討ちとられてしまった。
男は死の間際に「おのれ、恩知らずの村人共め、この中津の村にはこれから先、倉は建てさせぬぞーー!!」
恨みの一言を吐いて息絶えた。それから、中津には倉の建つような富んだ家はなくなり。
土地の人は落武者の祟りと恐れ、侍の霊を祀って「残党さんの墓」を建てそうだ。

長文初めてだから誤字脱字あったらスンマソw




895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 16:57:04 ID:eQwH8P5Z
>>892
ぞっとした
八つ墓村みたいな逸話だな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 18:58:06 ID:NbrDAgnQ
>>892
恩知らずが~!
って言ってるくらいだから、善政してたのかな?


899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 19:11:13 ID:9Xg7pG3z
落ち武者狩りはボーナスステージ

頬切孫右衛門

2009年09月15日 00:07

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 19:43:56 ID:0D8apnLA
頬切孫右衛門

讃岐の上高野村に、孫右衛門という郷士が住んでいた。
彼は屈強な若者で、走れば馬より早く、また力も馬より強いと、地元では有名な青年
だったそうである。

さて、土佐の長宗我部の軍勢が高野城を攻めた時、名刹宝積院を焼き打ちにした。
これに高野城主香川右馬助は反撃、この香川の軍に孫右衛門もいた。

孫右衛門は長宗我部軍の騎馬武者が反撃に恐れて逃げようとしているのを見つけると、
その健脚ですかさず追いつき、馬の尾を掴んで引き止める。
武者はその反動にたまらず落馬した。

その武者の様子を見ると、おとなしく捕虜になる態であったので、孫右衛門は味方のほうに
振り返りはせ参じるよう叫んだ。
ところがこの時武者がにわかに刀を抜き、孫右衛門に討ちかかった。
孫右衛門は頬の辺りに深手を負ったが、このときも健脚を使ってその場を逃れた。
が、合戦後まもなく、この傷が元で亡くなった。

地元の人々は彼を「頬切孫右衛門」と呼んでその武勇をたたえ、墓石を立てて
長く冥福を祈ったそうである。


ところで四国の戦国ネタは無いかと、四国四県の戦国時代の民話なんかを少し調べてみたが、
高知以外は見事に『長宗我部が攻めてきてどうのこうの』って、長宗我部の侵略にまつわる
話ばっかりなのね。
土佐以外の四国の人たちにとって、長宗我部と戦いは、よっぽどの恐怖体験だったようで。




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 20:12:37 ID:O4x7SguU
>>401
走る馬の尾を捕まえて反動で騎手落馬って…
相当のデブだな

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 20:40:25 ID:ivxgyXVW
>>401
なつく前に秀吉の四国征伐があったせいかねー
俺ソガベって妖怪の名前だと思ってたわ小さい頃