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矢の根と草履

2013年02月04日 19:51

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/04(月) 16:51:09.27 ID:yx4ABkb8
元亀元年(1570)、織田信長による越前朝倉攻めの際、朝倉方の金ケ崎の城兵達はこれに立ち向かいよく防いだものの、
ついに打ち負け撤退を始めた。
しかしここで、朝倉家臣の三須崎勘右衛門と言って、高名なる精兵が殿をし、敵が近づけば即座に打ち倒し、
味方を助けつつ引き退いた。

そして首坂まで至った所で、羽柴秀吉の軍勢がこれに襲いかかった。真っ先に進んできたのは
山内猪右衛門一豊である。と、三須崎勘右衛門、それを坂中で弓引き固めて待ち構えていた。
しかし一豊はそれに少しも構わず槍を振り上げ駆け寄った!三須崎勘右衛門は三間ばかりの距離でひょうと撃つと、
その矢過たず、一豊の左の頬から右の奥歯に突き刺さった!

が、一豊、これにもちっとも構わずそのまま突進!谷を飛び越え三須崎勘右衛門と組み打ちを始めた!
上になり下になり、二〇間ほども転げまわった所に、三須崎勘右衛門の弟が駆け寄って一豊を
斬ること六ヶ所。これは危ない、と見えた所に織田方が大勢駆けつけたため、三須崎勘右衛門の弟は
兄を捨てそちらの方と戦い始めた。

そうしている内に一豊と三須崎勘右衛門は坂の下の小溝に重なりあって落ち、ここで一豊は終に三須崎勘右衛門を
刺し殺した。しかし一豊自身も、大矢で射られ、かつ、致命傷ではなかったものの六ヶ所も刀傷を受けており、
すでに息絶え絶えであった。

こんな所に織田方の大塩金右衛門正貞がやってきて、三須崎勘右衛門の頸を斬って息絶え絶えの一豊に渡し、
自身はそのまま撤退する敵を追いかけていった。親切なんだかそうでもないのか良く解らない。

こうしている内に、一豊の家臣である五藤吉兵衛為浄がようやく追いついた。
一豊はこれを見ると「矢を抜け!」と叫んだ。見ると矢柄は組んで転んでいる時に砕け、根本ばかり残って
少し見える程度。抜こうとしてもなかなか抜けず、業を煮やした一豊は「足で踏んで抜け!」と怒鳴った。
吉兵衛は畏まって草履を脱ごうとしたが、一豊「いいからそのままでやれ!」と言ったので、山の岨に寄りかからせ、
草履を履いたままで一豊の顔を踏みつけ矢を抜いた。

それから吉兵衛は一豊を背負って本陣に向かって退いていたが、途中、月毛の馬を引いて行く者と出会った。
吉兵衛が「その馬はどこの殿の馬か?」と聞くと、誰々の馬である、と言う。これを聞いた吉兵衛

「お前のあるじはさっき討ち死にした!そんなわけでその馬よこせ!」(扨は汝が主は只今討死しけるぞ。其馬此方へ)
と奪い取り、これに一豊を乗せて帰った。

三須崎勘右衛門の頸は吉兵衛から秀吉を通して信長の実検を受け、越前に隠れなき強弓精兵の頸と認められ、
信長は、一豊にこれで傷を治療するようにと、手ずから薬を吉兵衛に下された。

この時の矢の根は、今も五藤の家にあり、その時の草履も、主君の面を踏んだものとして、矢の根に添えて、
家の宝として代々伝えているそうである。
(土佐物語)




293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/04(月) 17:25:23.04 ID:AXVTYMah
馬強奪w

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/04(月) 18:28:15.73 ID:GzsmtK3Z
馬主の実際の消息が気になる

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/04(月) 18:57:44.13 ID:2h8EQDMS
信長「おい、どうしてお前がそのような立派な馬を持っている」
一豊「こ、これは・・・つ、妻が持参金でわたしのために」
こうして伝説が生まれたのであった

しかし土佐物語って長宗我部のことだけ書いてるのかと思ってた

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/04(月) 19:59:44.28 ID:UBS/ItA8
一豊「ふがふが~」
吉兵衛「顔を踏めですね!」
一豊「ふがふが」
吉兵衛「馬ですね!」


野中良明の事

2013年01月17日 19:51

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 09:32:29.23 ID:c9uPLLm2
 後に土佐の大名となる山内一豊の妻の千代にはお合という妹がいた。
お合は山内一豊に仕える美濃侍 野中権之進良平と結婚して息子の良明を産んだ。
一豊は一人娘のよね姫と甥の良明を婚約させ、ゆくゆくは養子にして後を継がせることにしたが、
よね姫は天正13年に幼くして亡くなってしまったため、婿養子の話は白紙に戻ってしまった。
 それでも、一豊は良明への愛情を失わず、土佐の大名になった時には良明に2万9千石を与えて
厚遇した。
 一豊の死後、家督を継いだのは弟の康豊の息子にあたる14歳の忠義である。忠義の実父である
康豊が後見人として山内家を治めることになった。康豊は一時でも後継者候補だった野中良明を
うとましく思っていたのか、山内一豊の四十九日法要が済んだ後で良明を呼び出し、2万9千石の
知行のうち1万8千石を返還するように要求した。
 この理不尽な要求に立腹した野中良明は怒りのあまり、わずかな家来を連れて土佐から出奔した。
そして、数年の流浪の果てに京都で亡くなった。
 もし婚約者のよね姫が長生きしていれば婿養子として山内家を継ぎ、存分に手腕を発揮することが
出来ただろうに惜しい話である。


 ちなみに良明の一人息子は後になって山内家の家臣となり、藩政改革で大いに活躍した。この
一人息子こそ土佐藩を建て直した名家老の野中兼山である。




188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 10:13:56.96 ID:mQsqxy5j
野中兼山次の藩主に嫌われて失脚、幽閉で失意のうちに死亡。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 12:19:41.85 ID:mzEsTvx/
ガチで男系が絶えるまで幽閉されてたのな、こええ

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 12:27:42.08 ID:xGWKjNeo
あの山内だからねw

191 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/17(木) 17:17:05.13 ID:kNCidfLH
山内ってなんか頭の回転鈍いけど、やることは徹底するよな。

昔、土佐の山内家が幕府から

2010年12月27日 00:00

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/26(日) 20:01:02 ID:jfQfQCRL
昔、土佐の山内家が幕府から貰った百二十四万石与える
という文書があった。

ところが鼠が百の字をかじってしまったので、与える幕府は
百万石丸儲けとなり山内家は百万石丸損となってしまった。

以来、幕府では鼠を福の神として祭り殺さなくなったという・・・

                       南方熊楠 十二支考



突っ込みどころが満載だが熊楠に言ってくれw





168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/26(日) 20:12:45 ID:OPkWKtQG
その昔、南方熊楠伝てんぎゃんという漫画を連載してた少年週刊誌があってだな…

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/26(日) 20:17:38 ID:Ln9ZiUuz
>>167
政宗「幕府は約束を反故にするから信用出来ないよな」

大塩金右衛門の男の気配り

2010年11月04日 00:02

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 18:33:20 ID:1zdyFUTe
大塩金右衛門の男の気配り

元亀元年四月二十日、朝倉義景征伐のために羽柴秀吉配下として山内一豊も従軍していた。
金ヶ崎の戦において、強弓をもって織田軍勢を追撃する朝倉軍に先頭に立って進んだ山内一豊は、敵の矢を受け
左眥(まなじり・目じり)から右奥歯に貫通する深手を負いながら、
槍を振るって立ち向かい、朝倉一門の大剛三段崎勘左衛門を組みしいた。
しかし顔の重傷と疲労困ぱいのため、首級をあげる気力を失って呆然としているところを
友人で味方の兵将大塩金右衛門が通りかかって首を打ち落とし、
「加勢したまでで手柄は貴殿のもの」と言いおいて先へ進んだ。

大塩「手伝っただけだもん」




「それ、オレの・・・」

2010年11月04日 00:01

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 18:41:45 ID:1zdyFUTe
「それ、オレの・・・」

小山評定の際に徳川軍に参戦する武将達が如何に誠意を示すかを話し合っていた。

山内一豊「戦働きで活躍を示すなんて皆言うよね。」
堀尾忠氏「オレだったら居城も民も皆徳川殿に差し出すくらいの誠意を見せるよ。」
山内「ほう・・・(ニヤリ)」

石田三成が兵を挙げたと聞くや
諸将が東軍西軍への去就に迷う中、一豊は真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し
その歓心を買った。

要領の良い人間とタイミングを逸した要領の悪い人間の話。




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:01:22 ID:6u8abJFa
>>306
しかし関ヶ原後の論考で言うなら

堀尾忠氏出雲24万石>>>>>>>>>>>>>(色々と越えられない壁)>>>
>>>>>>>>>>>>>>山内一豊土佐9万8000石(後に一豊自身の検地でも20万石)

なのだが。

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:05:14 ID:QYIbabVW
権現様「おや、土佐は50万石くらいはあると思っていた。悪いことしたのお」

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:15:59 ID:nwaLBOb2
堀尾も山内もほぼ倍増だから結果は同じか

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:24:48 ID:ngad/fgT
>>312
しかし堀尾さんの浜松12万石→出雲24万石は、畿内に近いことから言っても文句なく栄転だが、
山内さんの掛川5万1000石→土佐9万石(20万石)が栄転とは言いがたいんだよなー。
高知の人には申し訳ないけど当時の土佐って、僻地中の僻地の一つだし。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:50:13 ID:v0z4I7VC
当時で栄転というと、近畿、東海道、北九州あたりですか

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:54:09 ID:nP9pUT1O
>>306
こんな有名な逸話がまだ出てなかったのか・・・
大河ドラマにすらなったのに、どんだけ戦国板の連中には人気ないんだ、一豊w

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 20:05:27 ID:EPHfTlkX
>>314
土佐の長曾我部が四国統一をしたのは、讃岐、阿波、伊予からしてみたら、土佐に侵攻するだけの価値が無かったから
という話もあるね。他の三国を押さえたとしても、それからは土佐以外の方向に進出した方が利益になるから

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 20:07:54 ID:QYIbabVW
三好長慶「やっぱり畿内だよねー」

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 21:04:22 ID:PV1r30AC
>>417

逆だよ逆、有名すぎてドヤ顔で書き込んだと思われるから
有名すぐる逸話はみんな書き込まないんだよ

山内一豊の土佐入国

2010年11月04日 00:00

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 18:51:06 ID:1zdyFUTe
慶長6年、掛川から土佐に移封となり大幅な加増があった山内一豊
余所から入部してきた大名はただでさえ人手も足りなくなるので
地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、
一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し
土佐国内で多くの紛争を起こした。
これに対し一豊は重要なポストを外部からの人材で固め、
家康の敵であった長曽我部元親の遺臣らを桂浜の角力大会に招待しておいて
捕縛し73名を磔にして殺すなど、あくまで武断措置を取ってこれに対応した。
この為一豊は常に領内で命を狙われる危険性があり、高知城の築城の際などには
6人の影武者と共に現地を視察した。

上士・郷士のしがらみが後の明治維新の原動力になったとはいえ、長宗我部遺臣にとっては非常に性質の悪い話。





310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:12:20 ID:/yTZ2qap
>>307
最近では長宗我部の一族が、山内の家臣として普通に存在してることが確認されたり、
山内家の旧長宗我部家臣差別政策は本当に存在したのか?
って疑問も提示されてたりするよね。
ぶっちゃけ、新領主に対して従わずに武力蜂起して潰される話なんて、豊臣政権期には
それこそ日本中にあるし、武装蜂起した連中が処刑されただけ
だとするとそれほど特異なケースじゃなかったんじゃないかと思う。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:12:30 ID:6u8abJFa
>>307
> これに対し一豊は重要なポストを外部からの人材で固め、

これも実際は、一豊は山内家中に長曽我部旧臣をかなり取り込んでるんだよね。
幕末の上士、郷士のしがらみはかなり別の話。

つーか幕末に上士に対抗した「土佐郷士」、とくに土佐勤王党の連中は長曽我部侍というより
新たに経済的に成功して郷士株を買った「新興武士」がその中心。

幕末、由緒正しい長曽我部以来の郷士は、実はほとんど上士についていた。

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:20:55 ID:1zdyFUTe
>>310>>311
トンクス
県外に居ると通説を鵜呑みにしてしまう。
家臣団の血筋とか貫高は無視して能力で査定していたのでしょうか?
バツの悪い俺の話。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:54:09 ID:nP9pUT1O

>>307
こんな有名な逸話がまだ出てなかったのか・・・
大河ドラマにすらなったのに、どんだけ戦国板の連中には人気ないんだ、一豊w

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 21:04:22 ID:PV1r30AC
>>417

逆だよ逆、有名すぎてドヤ顔で書き込んだと思われるから
有名すぐる逸話はみんな書き込まないんだよ

意外な男の意外な甲斐性

2010年05月02日 00:02

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 08:33:33 ID:t0vXp0Eu
意外な男の意外な甲斐性

このスレの住人ならよくご存知の通り、織田信長は最初から尾張一国を支配してた訳では無い。
守護職だった斯波家はまあいいとしても、守護代織田家が、それも二つあった。
その内の織田伊勢守家の当主信安は、信長の弟と組んだり斉藤と組んだりして対抗していたが、
ついには自分の息子に追放されてしまった。
しかしこの息子も信長に敗れ去り、信安には帰るべき家も無くなってしまった。
やがて時は流れ、信安は無害無力であるが故に信長に許された。
が、逆に言えば戦国の表舞台からも置き去りにされ、細々と暮らすだけであった。
やがて信長も本能寺で亡くなり、秀吉も死に、家康が関ヶ原で勝った後、いよいよ窮迫した信安はある男を頼った。
山内一豊。かっての彼の家臣の息子であり、旧臣の中では最大の出世頭であった。

信安「というわけで面倒見てね」
一豊「……(わざわざ掛川から土佐まで来やがるとは……)」

信安は一豊に養われ、土佐でその生涯を終えたという。

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 08:54:17 ID:ck3Aj6K3
>>679
交通が飛躍的に発達してなきゃ、流通よりも地元の食い物の確保の方が大事だしね
群雄割拠の戦国時代に突入したのも、寒冷化による食糧難で広範囲の支配が困難になったからという見方もできるだろうし




山内一豊の気遣い

2009年08月16日 21:00

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 17:36:03 ID:0YE/ZbnV
山内一豊の気遣い

羽柴秀吉が播磨三木城を攻めていたときのこと。包囲軍の将の中に山内一豊がいた。
ある時、家来が焼いた大根を持ってきて一豊に差し出した。
しかし一豊は大根を口にしようとはせず、そのまま下げさせた。
一豊は家来に「これから羽柴様のところへ行く用事がある。大根を食べて口臭を
かがせては、羽柴様に失礼であろう」と言ったという。

どことなく現代のサラリーマンを思わせる話。




485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 17:37:48 ID:FLgyIhjN
程良い小物臭が感じられるな

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 17:50:53 ID:an/nW+VU
大根って臭い消しのほうだとおもってた

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 18:26:53 ID:OLVq46sq
山内和豊のキチガイ

に見えた俺は疲れているのかもしれない

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 20:44:11 ID:+ob/I6yt
当時の大根はそんなに臭かったのか

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 20:58:00 ID:RPaGkKpP
大根を焼くなんて発想無かったわ。
大根なんて単体で焼いてもあんまし味が無いから
味噌か何かを塗ったりしてたのかも。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 20:59:37 ID:4oOkhxPK
食わないほうが胃酸で口臭がひどくなる気もするが
陣中だし保存用の発酵食品の類だったのだろうか

491 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/16(日) 21:08:34 ID:yaD9eTXz
大根って消化酵素に似た成分があるはず。

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 21:33:56 ID:kw35TMGd
歯磨きできない状態だったから飲食を控えた、と。

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 22:17:40 ID:WKuo82Ti
陣中で焼き大根なんて大変なご馳走だ!!
という感覚だったらしいが。

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 22:50:05 ID:hCncACYh
すると、秀吉に「陣中で贅沢なもん食いよって!」などと思われないような気遣いだったと?

やはり小物臭が漂う・・・。

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/16(日) 22:55:36 ID:lnhojDWG
>>495
胃薬常備だろうな……

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 00:21:20 ID:pjRAw/cc
上杉景勝って前田慶次が仕官してきた時に大根片手にひょっとこの面をかぶった慶次が
「拙者、ひょっとこ斎でござる」
みたいなこと言って傾いてみせたとき笑ってみせたって話を読んだんだがマジかな?
慶次が仕官してきてくれて嬉しかったのもあったらしいが。

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 00:29:19 ID:HX9tX0uC
慶次「俺は大根のように見た目はむさいが~」の時の逸話か
嘘だと思うな、いやむさいのは本当だろうけどw

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 10:00:45 ID:pjRAw/cc
>>503
やっぱ創作かぁ、つか本当に笑ったのかってゆう疑問自体が結構凄いことだよなw



山内一豊の妻、千代の話三話

2009年06月05日 00:08

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/04(木) 00:35:56 ID:yAwJ7jzN
四国の逸話が少ないというので千代の話を。

山内一豊が近江唐国の領主になった前後のこと。一豊は秀吉から
築城の目付に任じられた。しかしこの仕事、働く人員に食事を振る舞わない
といけなかった。家計は苦しいが他の目付はちゃんと振る舞っているし
どうしたものかと一豊は悩んでいた。

そこで一豊の妻千代は夫を陰ながら支えようと思い立ち、自分の毛髪を
売って食事代に当てた。当時、髪はかつらやつけ髭の材料として需要があったのである。

髪を売った千代はそれを隠す為に頭に手ぬぐいをしていた。一豊もさすがに
気付いて何故手ぬぐいを巻いてるんだと理由を聞いた。
真相を知った一豊はびっくらこいて何も言えなかったが、千代は「これなら
埃が払いやすいですよ」と気丈に答えたそうな。

ちなみに明智光秀の妻ひろ子にも髪を売った逸話があるそうな。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/04(木) 00:43:46 ID:yAwJ7jzN
もう一つ。

結婚してすぐの山内一家は極貧だったらしく、まな板も買えなかったそうな。
そこで千代は枡を裏返してまな板代わりにしたという。この枡は山内家が
大切に残してきたそうで、裏には包丁の跡があったとか。
藤並神社に奉納されていたが戦災で失われたとのこと。

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/04(木) 00:52:06 ID:yAwJ7jzN
最後に。

千代は明からの織物やそれの国産織物の切れを集めてはちまちま縫い合わせて
一つの小袖を仕立てたそうな。

ある日のこと、それを見た客が、千代の小袖が
素晴らしいのでぜひ秀吉様にお見せになってはと勧めた。
千代は謙遜して断ったのだが、客があまり勧めるので思い切って秀吉に
見せてみたところ、
秀吉も小袖の出来に感心したそうな。




228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/04(木) 08:54:36 ID:iBKoDCL8
>>217
やっぱいい女だよなぁ
髪は女の命って時代だしここまでされたらがんばらないとって思うわ
山内一豊自身はあまり好きではないけど

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/04(木) 13:39:57 ID:FI/jFuiz
>>217-219
さすが千代の旦那の妻
こういう良妻を娶りたいぞ

237 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/04(木) 15:39:25 ID:3Wei0X+e

>>234
>さすが千代の旦那の妻
 ↑誰?

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/04(木) 16:32:53 ID:0g6Jrwmf
>>237そのまんま千代ですがな。全てまるっとお見通しな美人賢妻 <だが貧乳だったという(嘘)

>234は「山内一豊の妻」じゃなくて「千代の旦那」のが有名だろうという婉曲な皮肉でjは・・・w

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/04(木) 16:42:41 ID:9anWS+eg
           __
        , ‐' ´   ``‐、             / ̄:三}
.     /,. -─‐- 、.   ヽ        /   ,.=j
 _,.:_'______ヽ、 .!       ./   _,ノ
  `‐、{ へ  '゙⌒ `!~ヽ. !     /{.  /
    `! し゚  ( ゚j `v‐冫   , '::::::::ヽ、/     そんなことより相撲大会しようぜ!
.    {.l   '⌒      ゙ 6',!   / :::::::::::::::/ __
.     〈  < ´ ̄,フ  .ノー'_ , ‐'´::::::::::::::;/ (_ノ)‐-、
.      ヽ.、 ` ‐", ‐´‐:ラ ':::::::::::::::: ;∠.   ヽ_}  ゙ヽ
        ,.r` "´  /:::::::::::::::::::ィ´  `ゝ  !、  /
     /       / :::::::::::::::: ; '´   /´\ /   r'\
.     i      ! ::::::::::::::/一豊| .!::::::::/ヽ、.._!ヽ. ヽ、
     {      {:::::::::::;:イ /   ∥i:::::::/:::::::::::::/  \
.      ヽ       ヽ,.ァ‐'´ /ヽ 二 ,/`ヽ、::::::::: /

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/04(木) 18:22:17 ID:j2ibr27L
なんかあずまんがのちよちゃんで再生したら萌えた

山内忠義と毛利勝永、大阪の陣にて・いい話?

2009年04月18日 00:12

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 11:25:53 ID:+M4yaywc
山内忠義

大阪の冬は寒かった。12月に和議も成りひとまずはやれやれです。
でも後片付けが大変、大阪城の西、船場方面の鰻谷橋の前のわが陣所、
各大名家の荷駄が入れ乱れてのてんやわんや、大忙しです。

橋を渡って、城から一人の武士がこちらにやって来ました。
よく見るとかって知ったる毛利勝永殿ではありませんか。
四国で別れて以来です。

毛利殿「いやあ、山内殿にはすっかりと世話になった上に、こっそり
大阪に入城致しまして、山内殿に大迷惑をおかけしました。そのお詫びに参りました。」
と、頭をかきかき、ばつの悪そうな顔。
和やかにお互いの息災を確かめあったのです。

私が「ところで毛利殿、家康様に会っていきませんか、
丁度今から私もご挨拶に伺うところだったのです、きっと懐かしがるでしょう。」
というと、
毛利殿、真顔になり「いやあ、それは止めておきましょう、武門のならいとはいえ、
関ヶ原で寛大なご処置を頂いた家康様には、ほんと会わせる顔が無いのです。」
といってすたこら去っていきました。

それが最後の分かれと成りました。




800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 13:03:45 ID:OC14IyZD
>>799
アッー!!

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 13:36:36 ID:eSOspI3q
経緯と裏事情知らなきゃいい話なんだがな…

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 14:09:55 ID:JNPoMeRv
>>801
kwsk

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 15:58:52 ID:eSOspI3q
>>804
まんま>>800だがもう少しkwsk言うと
勝永を土佐で預かった時に忠義と勝永がデキてしまったと言われる
つまり実は忠義が元カレに復縁を頼んでるわけでして

勝永の土佐脱出の際も
「忠義様が心配なんで大阪について行きます」
と監視役をだまして逃げたという逸話がありまして…

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 18:24:54 ID:JNPoMeRv
>>805
ああなるほど
それじゃ色々ときついものがあるね
ありがとう



詳細
ちょっと酷いんじゃないか毛利勝永!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5194.html

土佐「泥祭り」事始・いい話

2009年04月09日 00:15

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/08(水) 17:40:10 ID:O9wz0I8B
既出かな?

山内一豊が封じられたばかりの土佐の領内を見廻っていた。
おりしも農繁期だったので、ある農民の牛が泥を蹴飛ばし、一豊殿の
裾に飛んできて汚してしまった。
従卒が「無礼者!」と牛を引いてた農民をしょっ引こうとしたら、一豊、
「すておけ。野良に泥はつきもの。領民が励んでいる証拠よ」と言って
スルーした。

このエピソードが元で、土佐で泥祭りなるものが行われるようになったとか。




596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/08(水) 22:54:10 ID:ezv7jJyg
>>593
そして一領具足がここぞとばかりに

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/08(水) 23:35:27 ID:zoQnAm/l
>>593
後のドロレスである

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/09(木) 19:55:19 ID:qyMZJyfy
>>593
神田祭り(どろんこ祭り)と呼ばれているようだな。
ttp://wakamiya-kochi.com/index.php?topic=kanda