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転生したらお殿様だったでござる の巻

2022年02月23日 15:46

42 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/22(火) 20:55:29.29 ID:V3AWK7vN
転生したらお殿様だったでござる の巻

どこかで見たこと有るようなタイトルだとかそういうことは置いといて、
四国・高知の足摺岬には足摺七不思議と言われる場所がある。

今日はその11番場所である「犬塚」(犬の墓)に伝わる話を物語りたい。

七不思議なのに11番ってどういうことだよ あーっ

と思った貴方、足摺の七不思議は21あると言われているんだ。悔しいだろうが仕方が無いんだ。
土佐清水市のホームページにも※七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味です。

と記載があるので言葉の意味はよく分からんが、とにかく足摺の七不思議は21あるんだと覚えておけばいいと思います。知らんけど。

さて、当地の看板には以下の様に記されている。

その昔、日の本が乱世の時代のこと、この地には一人のお坊様がいらっしゃった。
乱世を嘆くお坊様はある日、一つの願いを掛けて足摺岬から飛び降りたとも、補陀落渡海に出たともいわれている。
その願いはこうである。
「この乱世を立て直すため、一国一城の主となって生まれ来たらん」

お坊様はこういうと手のひらに南無阿弥陀仏の文字を書いて握りしめ、断崖から飛び降りた(または補陀落渡海に出た)という。

このお坊様を慕う一匹の犬がおり、犬はお坊様が姿を消したあと、その場を一歩も離れず飲まず食わずでその場にとどまりお坊様を待ち続けたという。
そして、遂にはその場で犬は息絶えてしまい哀れに思った近隣の村人たちはその場所に犬塚を建てたのだという。

それから幾百年の時が過ぎた・・・。

この土佐の地を治める殿様の手のひらには黒い生印があった。殿様はこの話を聞いて自分はこのお坊様の生まれ変わりではないか?
と、思うようになったという。その殿様の名は・・・

                 山

                 内

                 忠

                 義

土佐山内家の二代藩主にして、土佐の大酒豪様であり幕府の破戒者である。
江戸城で酒宴があれば飲み過ぎてゲーしたり二条城で酒を飲めば帰路、駕籠に仁王立ちになって京をの大路を練り歩き、
紀州徳川家屋敷で飲んで鎌髭の男を見れば髭を掴んで離さない悪絡み・・・

太平の世を築くことを願って足摺から飛んだあのお坊様は幾百年の月日を経て、この様に立派な酒らn・・お殿様に生まれ変わって土佐に戻って来たのである。

んなわけねーだろ
と言いたいところであるが、本人がそう言っているのでそういうことなんだろう。ひょっとするとこの話を聞いた際は一杯飲んだ後だったのかもしれない。
もしくは寄付するための口実というかその場のノリとか勢いだったのかもしれない。

(素面の時の)山内忠義公は足摺山金剛福寺を深く信仰し、度々参拝に訪れ本堂・仁王門・十三重の塔など数多くの寄進を行っている。
そしてこの時以降、金剛福寺は山内家と同じ三ツ柏の家紋を頂いているのである。

土佐清水市 足摺の七不思議
https://www.city.tosashimizu.kochi.jp/kanko/g01_7fushiji.html
足摺の七不思議|足摺国際ホテル
https://www.ashizuri.co.jp/sightseeing/nanahusigi.html

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/22(火) 21:04:59.71 ID:V3AWK7vN
山内忠義公の酒が入った時のお話はこちら

山内忠義と鎌髭のお話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13087.html
山内忠義の酒豪伝説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13157.html



45 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/23(水) 04:57:47.34 ID:fLcecSJp
第38番札所 蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺
https://88shikokuhenro.jp/38kongofukuji/
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雨森九太夫と観音岩

2021年09月26日 16:17

73 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/26(日) 15:40:16.03 ID:mrf8lI+2
雨森九太夫と観音岩

>>63で島原の乱参陣中に銃創を受け土佐へ帰国することとなった雨森九太夫であったが、その船路で重体になった時、一条の光が船を陸へと導き、九太夫はたどり着いた柏島で亡くなった。

この時船を導いた光はこの観音岩から発せられたと言う。

https://i.imgur.com/CVW7cY6.jpg
CVW7cY6.jpg
https://i.imgur.com/cxZpaCQ.jpg
cxZpaCQ.jpg


高知県観光サイトよさこいネット
https://www.attaka.or.jp/kanko/dtl.php?pcflg=PC&ID=6759
一般社団法人 大月町観光協会
https://otsuki-kanko.jp/tourism/content5



雨森九太夫最期の戦い

2021年09月24日 16:58

63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 23:15:50.72 ID:uA6ewj70
雨森九太夫最期の戦い

元和偃武より22年が過ぎた寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原の乱が勃発。
幕府は板倉重昌を上使、副使として石谷貞清を任じて九州諸藩の軍の指揮を執らせ、原城址に籠った一揆軍の討伐にあたった。

この時、九州諸藩だけではなく多くの藩が使者の名目で名代の将に少数の兵を付けて島原に派遣し、討伐軍に加わった。

土佐山内家からは先ず、先代藩主・一豊の母衣武者を務めた板坂利正が代表として派遣されることが決まったが
利正が病に罹ったため(のちに死去)、代わりに雨森九太夫が代表となり鉄砲足軽30名と小頭2名(池田嘉兵衛と鈴木彦大夫)、
さらに九太夫預かりの弓足軽を数十名随行させて現地へと向かわせた。

山内忠義はさらに参陣した諸将への慰問の使者として中老の仙石但馬久勝父子と九州出身の馬周り・毛利久八吉次(父は豊前巌石城主の出羽守吉勝)を
後から派遣した。

12月29日に現地へ到着した雨森九太夫率いる土佐藩の部隊であったが、3日後の寛永15年元旦の板倉重昌指揮による総攻撃に参加した。

山内家資料所収の「南路志」と「御家中名誉」によって描写は異なるのだが、「御家中名誉」では三の丸まで攻め入ったところで、

そして「南路志」にては総攻撃で深く攻め入った板倉主水正(重矩)が進退ままならなくなってしまった。これを見兼ねた板倉重昌は
一揆軍へ掛出さんとした。九太夫はその鎧の袖を取って

九太夫「ここは大将が出る所ではありません。戦は駆け引きが肝要です。一旦引いて軍法を定め勝利しましょう。」

と、諫言した。しかし板倉重昌は

「その言葉尤もである。しかし、目の前で愚息の重矩が死なんとしているのを見捨てることが出来ようか!」

と叫んで九太夫の手を振り払って駆け出した。九太夫はこの老骨、力及ばずもお供申さん!と重昌に続いて駆け出した。
これを見た諸国の武士は、我劣らじと九太夫に続いて駆け出したが或は手負い或は討死し、重昌も遂に弾丸を眉間にぶち込まれて討死した。
この時、九太夫と共に参陣した山内家の鉄砲小頭池田嘉兵衛も銃弾で深手を負い、九太夫の郎党2名(若党・井澤仁左衛門と小者六助)も相果てた。

そして九太夫にも遂にその時が訪れた。

一揆軍の放った一発の銃弾が馬上の九太夫の股根を打ち抜いたのである。

幕府軍の総攻めは失敗に終わり、収容された九太夫であったがあまりの重傷であったため、翌一月二日に着陣した仙石久勝と代表を代わり、
一月七日に九太夫は土佐へ船で帰還することとなった。

だが、九太夫は徐々に容態を悪くし船が本国土佐の柏島に着く直前に船の中で亡くなり、同島にて埋葬された。

雨森九太夫氏康、享年七十五歳。戦国の世を生き抜いた男は安寧の世に突如起きた大乱で受けた戦傷でこの世を去ったのである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意

続き
仙石久勝最後の戦い


64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 23:54:43.72 ID:WzdF+2m1
何でそんな老人を、と思うが戦を知ってる者って事なのかね
てか仙石久勝って仙石秀久の兄か、長生きだな

65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 10:10:52.54 ID:8xw8xQ9O
>>64
当初派遣予定の板坂利正も掛川以前からの歴戦の士だったみたいだし、雨森九太夫と仙石久勝も資料には旧主の石田三成や福島正則の元での武功の評価されてるからそう言う所を期待されてのことでしょうね。

67 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 12:53:12.46 ID:EadEZBQZ
>>64
補足として九太夫の山内家部隊はこの総攻撃の時、御家中名誉では松倉長門守勝家の仕寄りを借りた(板倉内膳重昌の仕寄りとする書もあると補足有)とされる。

また、負傷した九太夫は参陣していた長崎奉行・榊原職直の医師・道與から薬を出され、一報を受けた国元の家老・野中兼山からも休齊という医師が派遣されることとなったが、帰国の船路にて亡くなったとのこと。

雨森九太夫の強弓

2021年09月23日 16:26

567 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 08:51:07.75 ID:uA6ewj70
雨森九太夫の強弓

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの後、山内一豊の新規家臣召し抱えに応募して採用された雨森九太夫であったが、14年後の慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に主君・山内忠義に従って出征した。

城中に向けて矢を射込む際、九太夫は矢柄に自身の姓名を漆書したものを放ち、その内の一本が城内に届いた。

大野半次(南國遺事では或は天野仁之助)という大坂方の武士がこれを見つけ、

「か樣の矢は奇特の嗜に候、大阪には珍らしく候」

と書き添えて直に打ち返した。

このことによって九太夫の強弓の名が敵味方に賞されたという。

『続 土佐偉人傅』『南國遺事』『土佐武道史話』より

568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 13:42:37.54 ID:uA6ewj70
>>567
ちなみにこの大野半次、天野仁之助については土佐武道師話によると、随筆「笑い草」に置いては土佐へ流れて来て武士に弓術を教え、九大夫の弓の師となっていた天野半之助(尾張徳川や松倉、広島藩に仕えたのと同一人物?)とする話があるようである。

この天野半之助、その名声を聞いた山内忠義から召抱えの声が掛かったけど、知行に不足を感じて承諾せず姿を消したと言う感じの話があるようなので、資料を探して詳細が分かればまた書き込みしたいと思う。



568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 13:42:37.54 ID:uA6ewj70
>>567
ちなみにこの大野半次、天野仁之助については土佐武道師話によると、随筆「笑い草」に置いては土佐へ流れて来て武士に弓術を教え、九大夫の弓の師となっていた天野半之助(尾張徳川や松倉、広島藩に仕えたのと同一人物?)とする話があるようである。

この天野半之助、その名声を聞いた山内忠義から召抱えの声が掛かったけど、知行に不足を感じて承諾せず姿を消したと言う感じの話があるようなので、資料を探して詳細が分かればまた書き込みしたいと思う。

569 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 16:08:40.36 ID:CmRyn9h7
>>568
徳川家や浅野に仕えた天野半之助は元の名が中根左源次と言い、年齢的に関ヶ原で12歳だし、大坂では松倉麾下で後藤又兵衛隊相手に奮戦してるので後の名が一緒の別人だと思われる。

雨森ニテハ無之大盛ニテ候

2021年09月16日 15:10

539 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 22:46:33.25 ID:EnSSGzM9
雨森九太夫と大盛りの赤飯

>>530に書いたように、山内家に600石で召し抱えられた雨森九太夫であるが、
召し抱えた山内一豊とのエピソードを一つ。

慶長七年(一六〇二年)十月、土佐の山内家菩提寺・真如寺にて法事が催された時のこと

寺から出された赤飯を大盛りにて2杯、主君・一豊の眼前で食した九太夫であった。

これを見た一豊は

「雨森ニテハ無之大盛ニテ候」

と言い、九太夫にもう一杯赤飯を食べるように声をかけた。

九太夫はもう一杯赤飯を食べると

「此九太夫強勇ニテ戦場ヘ赴ク時ハ朝ニテモ晩ニテモ五人前ノ飯ヲ食シ二日程ハ無食ニテ相戦候者故三盛モ食シ候筈」

と言われたと言い、豪勇の士として主君・一豊にも親しく知られていたとのことである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意
山内家資料 第一代 一豊公紀収 真如寺記録509頁
何処の廉頗やねん・・・



雨森九太夫のこと

2021年09月15日 17:42

530 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 22:39:53.85 ID:eGQD6OyZ
雨森九太夫のこと

土佐雨森氏の初代である雨森九太夫氏康は元は近江の人で親子で石田三成に仕え、小田原の陣から朝鮮の役など
秀吉の数々の戦に参加した兵である。

石田家に仕えた時分は九兵衛と名乗っていた。隙を見て契約を迫る白いアレではない/人◕◡◡◕人\ボクトケイヤクシテマホウアシガルニニナッテヨ。

関ヶ原の合戦でも当然西軍に属し、前哨戦である九月十四日の大垣表の戦では2つの首を取って島左近に称賛されたという。
翌十五日の関ヶ原本戦でも奮戦したが苦戦し、そして彼の属する西軍は敗北・潰走する。

生き残った他の西軍将兵と同様に戦場を離脱しようとする九兵衛であったが、落ち武者を捕えんとする東軍の検閲は厳しく多数の元仲間たちが
次々と囚われていた。

そして九兵衛の前に立ちはだかったのは・・・
人斬り兵部が率いる井伊の赤備えであった。

(# ゚Д゚)「何者だ!?」

赤鬼どもに強く詰問される九兵衛。絶体絶命である。

(;゚Д゚)「そ、それがし・・・」

(# ゚Д゚)「あぁん!?」

(;゚Д゚)「山内対馬家中の者でござる!!!」

九兵衛は己が知己に山内家の者がいたことを思い出し、思いっきり嘘をついた。

( ゚Д゚)「なんだ味方か、よし通れ。」

(;゚Д゚)「失礼仕る」

こういうやり取りだったかどうかは定かではないが、いずれにせよ山内家の家臣を詐称したことで彼の命は関ヶ原の露と消えることはなかった。

雨森九兵衛氏康はのちにこう語っている。

( ゚Д゚)「山内家の御威光を借り不思議と命助かり申した。」

そして戦の論功行賞も終わり、慶長六年(1601年)山内一豊は遠江国掛川・5万1000石から土佐一国・9万8000石への加増転封となった。
この時、雨森九兵衛は山内家に仕官し関ヶ原の縁があってか召し抱えられることとなった。

石田家時代に450石だったが600石での召し抱えであったという。

九兵衛は九太夫と改名し、山内家によく仕えてのちには大坂冬の陣や福島家改易の際の広島城受け取りなど、大いに働きその天寿を全うすることと・・・

はならなかった・・・。

今宵はここまでに致しとうござりまする

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意



532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 23:45:30.33 ID:oB2QnFu8
土佐の酒乱王となんかあったのかな

533 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 07:23:51.13 ID:EnSSGzM9
>>532
アル中とは特に何もないけど主命に殉じたと言う感じかなぁ。

534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 07:48:23.10 ID:aPQMpRJM
雨森って見ると、はだしのゲンを思い出すのう

おどりゃクソ森! ギギギ…

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 11:00:26.27 ID:4zUx+g5Y
バカボンパパの声を・・

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 13:47:38.18 ID:kME7rw3o
雨森って言ったら浅井氏のトリオユニットの一員だけど
元近江の人って事だし親族だったのかな

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 14:16:33.21 ID:r3+yBC2H
雨森氏といえば、キッセイ薬品の創業者は雨森氏だったそうな
雨森氏の紋が橘紋なのにちなんで橘生化学研究所
のちに読みを改めてキッセイに

538 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 15:17:12.95 ID:bttUh3TW
近江なら山内一豊も長浜にいたことがあるし、その時に何か縁が既に有ったのかも知れないなぁ。

山内家仕官にあたっては山内康豊の推薦もあったみたいだし

540 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 23:45:05.51 ID:j9vATaNG
>>536
>>537

https://kijidasu.com/?p=30981

恐らく一族に間違いはないと思う。

世の中にはよく似た人もいるかな

2021年09月11日 15:45

514 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/11(土) 11:02:29.87 ID:MyteGYwx
>>512の話

山内一豊、領地の掛川城を出発して駿河の国鞠子に着いたときのこと。
大坂城留守のことを心配した一豊は市川山城という老臣を使いに出し、大坂へやった。

山城が君命を帯びて引き返したところ、西軍一味の者どもは相通じており、通行は困難と見えた。

山城は一計を案じ、熱田の禰宜に身をやつして関の通行を試みた。近江の水口に差し掛かったところ、
関にて厳しく見咎められ拘留の身となって取り調べされた。

ここは西軍方長束大蔵大輔の領分であり、折しも番手の中には山城を見知った者がおり、
山城もこれに驚いたがあくまでも

私は熱田の禰宜であり、どこぞの誰かと一緒にされては迷惑千万であると、しらを切りとおそうとした。

そこへほかの者が出てきて、
「若狭の市川(市川山城は若狭の生れという)ならば何処そこの某がよく知っている。そのものを呼んで調べさせよう」
と言い出した。

呼び出された某は山城と目と目を合わせてじっくりその顔を見たが、
「世の中にはよく似た人もいるかな。若狭の市川ならば顔に向こう傷がある。皆様もよく見て見られよ。」
と、声を上げ皆で集まってその顔を吟味したがその様な傷は無いため、人違いで本当の禰宜であったかと
いうことになった。

最後に本物の禰宜か試すため、山城は祝詞の一つでも上げて見せよと申しつけられた。
山城は戸惑ったものの、常々銘剣の経文(原文には著者、いまだそれがどのようなものかは知らず。御奮記のままを出すとある)
を暗誦していたことを思い出し、それを一誦した。

戦国の文字を習わざる悲しさに、誰一人これを偽りと思わず真の禰宜と信じて関の者たちは山城を放免した。
かの弁慶が安宅関の頓智と同一なりと謂うべし。

のちに山内一豊はこのことを聞いて、市川山城を称賛し武夫は神道も心得たほうがためになると左右の者たちに言ったという。
ただし、御奮記には併せて(長いので略)戒めの言葉も載せられている。

また、最後に山城の詮議に呼ばれた某は己の懐に窮鳥入り来ると知って、本当は山城の知人であったが、
山城が捕らえられることが忍びないとの情けから見逃したこと。武夫たるもの殺伐としたことを専らとするが、
この某の様に武士の情けを知ることもまた奥ゆかしきことである。
某の名は伝わっていないのは残念であるが、土佐国畸人伝続編には大庭土佐守とあるので参考とすべし(最後原文ママ)。

こうして虎口を逃れて大坂表へ至った市川山城であった。

この後、大坂城にて見性院の元へ至った市川山城は人質として夫の足枷になるまいと死を選んだ
細川ガラシャのことを知った見性院から介錯を頼まれるも、強くそれを諫め矢文などで城中の情勢を調べ、
ほかの大名各家からも妻子が人質としてとられていることを報告し、のちに山内一豊が追加で送った
大塚藤右衛門や麻田忠左衛門ら屈強の武士と合流して、見性院を守り切ったという。

大塚藤右衛門は道中、中川留にあったが水練の達者であったため泳いで渡り切り、見性院の元に馳せ参じたという。

国立国会デジタル図書館 かゞみ草
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912/13?tocOpened=1



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/11(土) 11:20:28.10 ID:o6LoPAZe
白紙なのにあえて通した冨樫のような器の持ち主

516 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/11(土) 11:56:25.76 ID:MyteGYwx
>>514
書き込んだ後、大庭土佐守を調べたら石田三成の配下にその名があって、

・関ヶ原で戦死した
・関ヶ原戦後に藤堂高虎に仕えた
・大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いで城内の指揮官に名前がある(wikipedia)

てなってるんだけど、どれがその人なのか…
複数人同姓同官が居たのか?

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/11(土) 15:29:03.49 ID:DZLNymr8
>>516
親子なんじゃねーの

千代の笠の緒文

2021年09月10日 20:00

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 22:04:20.53 ID:xIoK6K1r
千代の笠の緒文

恐らくまだ出ていないと思われるので投下。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前のこと。会津の上杉景勝討伐に向かった徳川家康であるが、
のちに関が原で家康と激突する石田三成は家康に付き従った諸大名の妻子を人質として家康らをけん制しようとしていた。

上方ではその様な状況の中、山内一豊の妻・千代こと見性院の元に増田長盛と長束正家の連署で一通の書状が届いていた。

千代の夫である山内一豊に石田三成の西軍へ与力するよう促す内容の書状であった。

使者の言葉通り、夫・一豊にこの書状を届けることにした千代であったが千代はそれとは別に2通の書状をしたため、
一通は未開封の増田と長束の書状と共に文箱に入れ、もう一通は観世よりにして夫への使者である田中孫作の笠の緒により込んだ。

孫作は下野に陣を張る一豊の陣へ向けて書状の入った文箱を持って旅立ったが道中で追い剥ぎに遭い文箱と笠は守ったものの、
自身の大小と衣服を追い剥ぎに奪われてしまった。

孫作は他者から衣服と刀(銘兼元という)を奪って旅を続け、美濃路では鮨屋の床下で二昼夜を過ごしてすし桶を盗んで飢えをしのいで
何とか下野諸川(現在の茨城県古河市)の一豊の陣までたどり着いた。慶長5年(1600年)7月24日のことであるという。

文を受け取った一豊はまず孫作の笠の緒に練りこまれた千代からの文を読んだ後、それを近侍の野々村迅政に焼かせたのちに文箱の封を解かずに
家康に届けさせた。

家康は大坂の状況を知り得たことと同封された千代からの書状に一豊が家康に忠を尽くすよう書かれていたことを読んで感動したという。

ここからは推測であるが、一豊が読んだのちに燃やした孫作の笠に織り込まれた千代からの文には文箱を未開封のまま家康に差し出すよう記してあったのではないかという。

西軍方と千代からの手紙を未開封で家康に差し出し、全ての判断を家康にゆだねたその行動こそが一豊の家康に対する二心の無さの裏付けともなり、翌日の小山評定での掛川城の供出など
戦後の山内家の加増へと繋がった一連の流れへとつながっているとも考えられているという。

この時、千代からの使者となった田中孫作がその旅路で奪った衣類についていた紋は田中家の定紋となり、この時のことを孫作は名誉とみなしていたという。
孫作の墓所は一豊夫妻と同じ妙心寺大通院にある。

参考①:国立国会デジタル図書館 かゞみ草
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912

参考②:Wikipedia 笠の緒文
https://ja.wikipedia.org/wiki/笠の緒文

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/09(木) 06:59:49.32 ID:foSPLbJU
どこで読んだか忘れたが山内さんが妻を心配し過ぎて3回くらい大阪に家臣派遣した話好き

しかし西軍の関所どうなってるんだ
上のと合わせて山内家だけで4回突破されるなんて




509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 07:26:12.43 ID:a/jaiCIJ
>>508
この話の場合は西軍側の書状を渡す使命だからその使者と言うことで問題なく通されそうだけど

510 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 14:01:10.46 ID:Bdmlm/6/
>>507
田中孫作は紛れもない勇士だと思うけど追い剥ぎに遭った時、笠と文箱は守ったけど新たな服と刀を奪うまではこんなだったのかな?
https://i.imgur.com/yv65uRz.png

511 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 18:37:08.81 ID:vUaP+85t
?「戦場でも編み笠一つあればいい」

512 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 08:16:00.90 ID:8/hcsJ2h
>>508
>>507の下に貼ってあるかゞみ草の13ページかりそれっぽい逸話が有る。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912

市川山城と言う老臣を派遣したけど、西軍側の関所抜けるのに熱田の禰宜に化けて抜けようとしたら顔見知りがいてバレそうになったと言う。

実はバレてたけど、市川の必死の演技に顔見知りは人違いと偽って通してあげたみたいに書いてある。

513 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 08:23:41.61 ID:8/hcsJ2h
>>512追記
義経と弁慶の安宅の関の話のオマージュみたい

山内忠義の酒豪伝説

2021年09月08日 17:28

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/07(火) 23:03:56.60 ID:OiO5BSeI
山内忠義の酒豪伝説

ある時、大名達の酒宴に参加した土佐藩の2代藩主・山内忠義はひたすら飲んだ。
そして、しまいには高いびきをかいて眠りはじめたという。

また、京の二条城にて酒宴が行われた時のこと。
例によってしこたま飲んだ山内忠義であったが、宴もお開きとなって宿所に帰ることとなった。

「暑っついのう」

山内忠義は衣服を脱ぐと駕籠の上に跨り、あるいはその上に立ち忠義は駕籠をそのまま京の町中を走らせた。
京の町衆はその姿に唖然としたという。
また徳川家光に子どもが生まれた時のこと、忠義は江戸城にてその祝いの宴に参加した。

さて、山内忠義は・・・

飲む!吞む!!飲む!!!ひたすら酒を浴びるかのように吞んでいた・・・。

心配した周囲の者達であったが忠義は

「いやぁ、このような祝いの席では飲まなければ!ハッハッハッ!!(*´Д`)」

と諫める声もどこへやら、とにかく酒を飲み続けた・・・。
そして吐いた
https://i.imgur.com/FcjHWkL.png
吐いた
https://i.imgur.com/WF8H0vf.jpg
盛大に吐いた
https://i.imgur.com/KTmBP9a.jpg
https://ameblo.jp/takashi-x11r/entry-12386660858.html
↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちが自分たちの口でおこなったらしい・・・。
まさにこの後スタッフが美味しくいただきました・・・。

https://i.imgur.com/cIJ57k8.jpg
大河ドラマとかになってもテレビなどでは放送できませんなこりゃ(;゚Д゚)

流澤遺事ほか』

20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 04:42:26.97 ID:xIoK6K1r
>>19
追記
http://www.tosajizakeya.com/event/index.php?id=2&mode=info&group=grp01&level=2



22 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 16:12:46.44 ID:KFLepEEM
山内忠義「俺が酒豪らねばならぬ。」

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/08(水) 16:14:47.32 ID:9rkK0nga
福島正則もびっくり

24 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 16:25:57.53 ID:4f+gG7hW
>>23
こんだけ酒で問題行動起こしといてよく改易ぶち喰らわなかったよなとは思う。

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 08:17:10.64 ID:QvBo8cLd
山内家の家紋これで良いんじゃないかな?
https://i.imgur.com/HZJyQCL.jpg

山内忠義と鎌髭のお話

2021年07月23日 18:01

862 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 05:04:29.21 ID:+Yg+K9lV
山内忠義と鎌髭のお話

土佐藩二代藩主・山内忠義は藩主として、藩政改革に力を入れた人物であったがプライベートでは立派な鎌髭を持った酒豪でありそれ故に酷い酒癖を持った人物であったと言う。

https://i.imgur.com/wvewjNh.jpg
https://i.imgur.com/DuGvMPp.jpg
https://i.imgur.com/ZDdZDcJ.jpg
https://i.imgur.com/WRFaGsk.jpg
https://i.imgur.com/KsfGM14.jpg
https://i.imgur.com/fpCmWtM.jpg
https://i.imgur.com/mGVRbcl.jpg
https://i.imgur.com/eQR5YN6.jpg
https://i.imgur.com/7RGGDjL.jpg
https://i.imgur.com/Z3cjEGz.jpg

サルバドール・ダリの様に自身の鎌髭で遊んでいたかは定かではないが、彼は自身の鎌髭に対して絶対の自信を持ち、その髭を誇っていたと言う。

曰く…

_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 俺の鎌髭、日本一ィィィイイイイ!!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

ある時、酒が入った忠義は鎌髭を蓄えた自身の家臣と遭遇した。
次の瞬間…






家臣は忠義の手によってフルボッコにされた…
  ∧_∧   ∧_∧ しゃあっ
;、(;ω((⊂=(・ω・ ) ボボボッ パンパンパン
 (っΣ⊂=⊂≡ ⊂)
 /  ) ババ(  ヽ
`(ノ ̄∪   ∪ ̄\)

またある時のこと、紀州藩邸でしこたま飲んだ忠義は帰り道で、鎌髭を蓄えた人物とすれ違った…
次の瞬間、忠義は相手の鎌髭を掴んでその場から動かなくなった… 微動だにしなくなった…

慌てた側の者達が殿!飲み直しましょう!殿の鎌髭日本一!などと持て囃したり説得したことで忠義の機嫌は直り何とか場は収まったと言う。

この他にも酒が入った山内忠義には数々の奇行エピソードがあるのだが、そのお話はまた次回…

参考文献:三百藩家臣人名事典・戦国人名事典 コンパクト版、etc



863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 07:53:52.97 ID:tiiPFsbs
酒癖の悪さは土佐の平常運転ではなかったのか

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 15:08:57.45 ID:mQvVlntb
よく伊達政宗がもう少し早く生まれてたら、と言われるが
山内忠義くんも生まれるのが遅すぎたな
戦国真っ只中に生まれてたら細川忠興や森長可に並ぶ四天王の有力候補だったのにな

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 16:18:19.22 ID:ft+ZTD5i
>>864
実は戦国前半期の方が化け物級の傑物や鬼才や大馬鹿野郎が多い。
伊達政宗ごときは余計に埋没してたんじゃねえかな。

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 20:38:38.52 ID:vEtcmxrj
まぁ政宗ってもう乱世も落ち着いてきた末期に出てきたアレだから
目立ってるってのは間違いなくあるかな
DQN方面じゃなくて真面目な大名としての話でも
三傑の居ない政宗でどこまで飛躍できたかというと怪しい

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/24(土) 08:44:41.32 ID:WFUZ0ilP
>>863
酒癖の悪さもあるけど、この人は自身の鎌髭に自信持ち過ぎて自分以外の鎌髭の人物を(酒入ってる時に)見たら絡みに行ってオラつくと言うクソ面倒くさい悪癖が有る…

更に体躯が6尺有った相撲好きな偉丈夫と言うから手に負えない。

・(鎌髭)ナルシスト
・酒乱
・(当時基準)ゴリラ並の体格
・大藩のお殿様

数え役満と言っても差し支えない人だと思う。
よくぞ改易されなかったもので…

868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/24(土) 08:58:15.54 ID:WFUZ0ilP
>>864
過去に出てる逸話見ると、お手打ちも結構されたみたいで、福島正則+細川忠興のハイブリッドDQNだと個人的には思いました。

大身の方に嫁がせて物入りになれば

2018年04月28日 17:39

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 00:23:20.19 ID:zEPPlm+W
大身の方に嫁がせて物入りになれば


明暦2年、土佐藩主・山内忠義は末娘の重姫を
豊後国森藩1万2500石の領主、久留島通清に嫁がせた。

忠義公が縁組を公にする前、備前の新太郎様(池田光政)がそれを聞き付けて*
「今度御息女を久留島信濃守(通清)に御縁組なされると聞いたのですが
 信濃守は小身者ですので不相応に存じます」
と仰せられたので、忠義公は
「仰せのごとく信濃守は小身者です。貴方様は御大身なので左様には
 思われないかもしれませんが、私は小身ですから大身の方に嫁がせて
 物入りになれば、たくさんの家来を養うことが出来なくなるでしょう。
 それが小身の信濃守に嫁がせる理由です」
とお答えになられたという。


――『南路志』

* 光政の姉妹は忠義の嫡男の正室で、山内家と池田家は姻戚関係にあった



821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 11:25:17.99 ID:sp5yV1iF
>>819
久留島ってたぶん来島の事だろうなあ
大名として残ってたとは知らなんだ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 11:33:17.17 ID:RgCKd3Qt
>>821
元海賊だからと警戒させられて海のない陸にあげられたんじゃなかったかな

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 12:44:37.19 ID:VZTsxhdo
大身同士の縁組みだと金かかって家が大変だから、それを思いやってといういい話ではないだろうか。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 01:57:36.82 ID:3ZBtswZj
>>819
久留島家って末裔が童話作家とかボーイスカウトに尽力してんのね
直系は18代当主が普通に活動してるし

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/30(月) 09:22:39.21 ID:kOb2HE+7
大名として残ったおかげでそういう活動できるのかも
能島や因島の村上氏は毛利の家臣に組み込まれて地味になってしまった

この湘南宗化の功である。

2016年01月18日 13:53

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 22:18:58.56 ID:ztzdwhA7
天正十三年旧暦十一月二十九日の深夜、近畿・東海・北陸一帯を強い揺れが襲った。
いわゆる天正地震である。
この時の近江長浜城主は山内一豊だった。
水辺の軟弱な地盤に築かれた城は城下町ごと崩壊し、各地で火災が起きて死傷者が多く出た。
折悪しく一豊は京都にいて、城は一豊夫人と家老たちが守っていた。
一豊と夫人の間には「およね」という六歳の一人娘がいて二人はこの子を可愛がっていた。
だが地震は夫人と姫の寝ていた長浜城の御殿をつぶしてしまう。

地震直後に駆けつけてきたのは家老の五藤市左衛門だった。
深夜のことで何も見えなかったが、御殿のあった辺りから声がした。
「市左衛門か?」
一豊夫人の声がする。
市左衛門が「はい」と答えると「およねは?」尋ねられた。
夫人は倒壊した御殿からなんとか抜け出ると闇の中で娘を探していたのだ。

市左衛門は姫は無事ではなかろうと思いつつも夫人を避難させるため
「ご無事でございます」と嘘をいって安全な場所に連れて行った。
そしてすぐに引き返して御殿の屋根を切り破って捜索したところ、
棟木の下から姫が乳母とともに息絶えているのが見つかった。

夫人は覚悟していたもののその嘆きは深かった。
やがて急を聞いた一豊も駆けつけてきた。
かつて矢で頬を貫かれても平然としていたこの男は、変わり果てた娘を前に周囲もはばからず号泣したという。


その後一豊夫人は城下で捨て子を見つけた。
藁のかごに入れられて短刀一振があり、武士の子と思われた。
一豊夫人は哀れに思い、その男児に「拾」と名づけて自ら養育することにした。
のちに拾は家臣の北村十兵衛正雄の子だという噂が耳に入っても気にしなかった。
最初はなくした姫の代わりのつもりもあったが、山内夫妻は実子のように慈しみ育てた。
拾は非常に利発な子で一豊は大層気に入り、一時は養子にしようか思案するほどだった。
拾が十歳になったとき、山内夫妻は拾と相談して彼を妙心寺で修行させることにした。
そのとき夫妻は拾の学費として黄金百枚を用意したという。

拾は学才があり、成長して湘南宗化という学問僧になった。
彼の門下からは山崎闇斎が出、山内忠義も門下に加わった。

土佐藩を学問藩にしたのはこの湘南宗化の功である。



山内の兼常

2015年03月30日 18:39

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/29(日) 19:21:49.12 ID:IvT2HKSX
山内の兼常

山内家の先祖、山内一豊が未だ若年で羽柴秀吉に奉公した時分は、わずかに三百石ほどの平士であった。

天正元年のいつごろか、秀吉の旗下であった梶原某という美濃の武士が密かに敵方に内通したとの報が
秀吉の耳に入り彼を成敗することと成った。
この時、彼を放し討ちする事となったが、梶原は勇士であったので一人では仕損ずるかも知れぬと、
三人の部下に命じた。この中に山内一豊も入っていた。

彼ら三人は籤をして、一番を某が、二番を某が引き、一豊は三番の斬手と決まった。

その頃梶原某は、美濃の名抦川の堤普請の指揮をするためその地に出張していたため、三人は
遊山観水のためと称し、梅ヶ寺という山寺へ居たり、梶原に
『折よく弁当も持参しましたので、どうぞお立ち寄りください。』
と使いを出すと、梶原早速やってきた。
三人が門外に出迎えて見ると、家来を十余人も引き連れていて、彼らは主人梶原の傍に付き添い
少しも離れない。三人は梶原とともに連れ立って寺の中に入った。

その時、一豊は少し後に下がって、「梶原殿のお供の衆が混み合っております」と声をかけた。
梶原これを聞くと十間ばかり立ち帰り、家来たちを叱って遠のけた。この時

一豊、「上意である!」と声をかけ、関の兼常の一刀を抜き打ちに斬りつけた。梶原は初太刀を受け損じ、
少し狼狽した所を、他の二名が駆けつけ遂に仕留めた。

この時に兼常の刀は梶原の大骨を断つことが出来なかったので、一豊は少々不満であった。

天正六年、中国にて秀吉が敵城を攻め落とし、自ら乗り込んだ時、明馬屋の内に鎧を着ていない
大男が居たので、秀吉が目ざとく見つけ「それ山内!」と声をかけると、一豊は例の兼常を以って
抜打ちに大袈裟に斬り放った。甚だ見事に斬れたので、秀吉は「素早き太刀風である」と賞賛した。

そののち、天正十五年、一豊の草履取りに不届きなことがあって、一豊は大いに立腹し兼常の刀を持って
追いかけた。すると草履取りは庭口より逃げ出し門前の橋の上から湖水に飛び入ろうとした。
その寸前、追い付くと抜打ちに斬って落とした。
この時も無類の切れ味であったという。

(刀剣談)




我が孫六をまいるぞ!

2015年03月21日 16:27

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 20:40:33.15 ID:VayAq84e
土佐の山内忠義は剛気英邁の人であったが、彼には秘蔵の刀で、常に身から離さず帯びていた名刀があった。
関の孫六兼元の作で、二尺三寸五分。仮名で「かねもと」と銘がある。
非常な大業物で、これで度々家来を手打ちにした。役人などが前に出てなにか気に入らないことを言うと
ハタと睨んで「身が孫六をまいるぞ!」と大声で叱りつける。この剣幕に恐れて、皆唯々諾々として
平伏した。もしこの一言を聞いてなお、反抗しようものなら、抜き打ちに殺されるのである。

ある時、高知城より一里ばかりある荒倉山で、猪狩りが催された。
忠義自ら出馬し、大勢の勢子を配置して、猪を追い出す大網を貼り、一番、二番、三番と勢子を立て、
打ち手は鉄砲を持って要所に控えていた。
忠義も手づから鉄砲を持ち猪を待ち伏せた。

ただし、猪が手負いに成ってかかってくる場合、万一殿様に過失があってはならぬので、忠義が
待ち伏せている背後には、家老たちによって老練の猟師が隠し置かれ、
「危急の場合には撃ち留めよ。必ず殿にお怪我のないようにせよ。」と密かに申し付けてあった。

そうしているうちに狩りが始まり、やがて一匹の大猪が手負いと成って荒れに荒れ、忠義の居る方に
飛ぶように駆けてきた。
元より剛毅な人であったから、忠義は大猪を近くまで引き寄せて撃ち留めようと鉄砲の照準を定めた。
その間に猪が間近くまで来た。その時、傍の藪陰より一発の銃声が鳴ったかと思うと、
その猪は撃ち倒された。

これに忠義は激怒した。「何者が我が当の敵を横合いより撃ったのか!?」
すると、一人の年老いた猟師が這い出てきて頭を地につけ平伏した。これを見ると

「おのれ憎き奴!我が孫六をまいるぞ!」と怒鳴って刀の柄に手をかけた。
が、その老人は、「忝く思います。頂戴いたします。」と両手を出した。
その言葉通り、与えられるのだと思ってしまったのである。

忠義もこの意外な体に少し拍子抜けして刀を抜けず戸惑っていた、
そこに、家老たちが慌てて駆けつけ、「この者は我々より予て申し付け置いたもので、万一危急の場合には
殿に変わって撃ち留めよと申し付けました次第です。」と、詳しく申し上げると、
忠義これを聞いて

「その方らの申し付けとあっては、この者の落ち度ではない。
ただし『孫六をまいるぞ』ともうした時、両手を出したのは妙なやつだ。
さりとて、この秘蔵の刀を遣わすことは相成らぬ。差し替えの刀をあやつに遣わせ。」

そう、その場で別の刀が拝領された。しかしこれは不調法のご褒美というものであろう。

(刀剣談)



581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 20:42:19.86 ID:ExqvmYzk
良い話だ

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/21(土) 01:30:52.16 ID:UV/uEQOC
良い話かあ?

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/21(土) 10:07:24.53 ID:ceRcJez6
高虎さんが両手を出しております

一国兼光

2015年03月15日 16:26

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 00:30:12.10 ID:fqXGeGvU
一国兼光

紀州の徳川頼宣が、土佐国山内土佐守(忠義)の愛蔵している兼光が、世に名高い大業物であると
云うのを聞き伝えて、ある時藤堂高虎に対し頼んだ。
「土佐守の兼光を所望してもらえないだろうか」


高虎は承知し、早速山内忠義を訪ねて、紀伊大納言所望の件を話した。
すると忠義は、元来非常に気性の激しい人でもあったので、大いに反発した

「以ての外のことです!あれは我ら秘蔵第一の刀、進上などは思いもよらぬ!」

そのけんもほろろの態度に高虎も少し腹を立て言い返した

「左様に仰せられても、もし将軍家より御所望と有れば差し上げぬはずはないではないか。」

ところが忠義
「例え将軍の命であっても、あの兼光は差し上げ申さぬ!土佐一国に変えても嫌でござる!」

そう言い切った。これには高虎も呆れ返って二の句も付けず辞して帰った。

ところが、この話が評判となり、土州公の「一国兼光」と呼ばれ、一層名高いものに成ったという。
忠義が国に変えてもと言っただけはあって、この兼光は無双の上作であるそうだ。

(古今名家珍談奇談逸話集)



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 04:13:35.51 ID:5ay60gPF
なぜ刀剣話には高虎がよくでてくるんだろう?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 10:03:04.03 ID:+1AuPQV/
>>733
想像してみろよ。全身切り傷だらけで指が何本か無い身長190cmの大男が
「おう、山内の。紀伊とこの若がお前ぇの持っとる兼光欲しい言うてのお。
何とかならんかのう。」なんて言って来たらどうする?

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 16:52:32.53 ID:e+wSdY8Z
ちびりながら差し出す

「舵取り地蔵」由来

2014年05月27日 18:53

23 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/27(火) 09:38:30.58 ID:RpaT+Y89
四国霊場二十五番札所、津照寺に伝わる昔話。

慶長のころのお話。
土佐の藩主、山内一豊が室戸岬の沖を航海中に突然の時化に襲われた。
船体が悲鳴を上げ、このままでは沈没してしまうと思われた・・・
まさにその時、何処からともなく一人の僧が現れ、巧みに船の舵を取り、船は無事に港へと辿り着くことができた。
一豊が礼を言おうと僧を探したが、すでに僧の姿はどこにもなかった。
近くの寺の僧であろうかと、一豊が探させると、なんと津照寺の御本尊が潮水で濡れているのが見つかった。
この寺の御本尊は地蔵菩薩であり、弘法大師が安置したと言われ、以来「舵取り地蔵」と呼ばれるようになった。

またこの地蔵菩薩は僧に身を変えて火事を村人に知らせ、火難を逃れたという物語もあり、
今でも「水難、火難よけ」の仏さまとして親しまれている。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 11:18:33.07 ID:fLUiDFvx
ちょろいよね

『高知』命名の事

2013年02月21日 20:04

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/21(木) 16:55:37.96 ID:ZKD2zQw0
山内対馬守一豊は、慶長5年(1600)の冬、土佐国を拝領して入部のため大阪を船出し紀州由良にて越年され、
翌年正月2日、土佐国甲浦へ着岸し、そこから陸路を経て同8日に浦戸の城に入られたが、どのよう深いお考えが
有ったのだろうか、大高山の古城を改修してこちらに移ると宣言され、同年の秋より普請が始まり、慶長8年の秋に
成就して、浦戸よりお移りなされた。

雪蹊寺の月峰和尚は、この大高坂の名を改め、河中山(こうちやま)と号された。これはこの地が、東西南北皆大河で
あったためであるが、四方に堤防をなし、淵を埋め地をならして、平らかで広々とした城地となった。
民家は軒を連ね、昔この地にあった、かこが淵、太郎が淵、鱸砦といった場所は一体どの辺だったのか、
今は知る人もいないのである。

ここは浦戸から2里の入海であり、船の往来は自由で、元より山林にも海岸にも近く、魚鳥菜果は充満し、竹木・米穀
豊穣にて、上下万歳を唱えけり。

これより以前、長宗我部の家臣、吉田備中入道周孝(孝頼:長宗我部国親・元親の重臣。一領具足の考案者とも)は
井口の城主であったが、この大高坂山の南の麓に居を構え、老後の隠居所として常にここに住居していた。
その頃周孝が嫡子の次郎左衛門に常に
「この山は必ず国主の居城となり、一国の首府として繁栄するだろう。」
と言っており、果たして元親も一度岡豊からこの地に移り、しかし一両年して浦戸に移ったのだが、
今また一豊が居城とされ、国府となったのは不思議なことである。

そのようにしてこの地は民家繁盛していったが、一つの難儀が有った。それは度々洪水が出て四方の堤を崩し、
城下の町が浸水したのである。貴賎これを悲しみ、二代藩主の山内忠義
「これは”河中”という地名によるものである。」として、五台山竹林寺の住持空鏡上人に仰せられ、
河中山の文字を改め、『高智山』と号した。

『高智』とは大聖文殊の浄土を申す言葉だそうである。この城地を、何故浄土に比したかといえば、
この城から一里ばかり東に山があり、ここに五台山金色院竹林寺と号す。
これはかの天平の昔、聖武天皇が夢に大唐の五台山を参拝し、これにより行基上人に命じて
唐の五台山を模して建立したのが、この寺なのである。
後には弘法大師もしばらくここに滞在され、中興された。
このような由来により、四国巡礼の礼所となり、六十六部の納経所として、道俗歩みを運ぶ場所となった。

であれば、この城地も文殊擁護の地であると称して、『高智』と名付けたのである。

このおかげであろうか、以後国富み民豊かにして、山内の家運長久にして子孫繁栄翳りなく、
松平の御姓を賜り、万歳の録絶えず、千秋の色とこしえにして、尽きせぬ国となったのである。
(土佐物語)

以上、『高知』の地名が生まれるまでの経緯である。




484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/21(木) 18:50:18.84 ID:rDSnYhpH
>>483
なんというか、自分の祖先(吉田)をこれでもかって感じでプッシュしまくってるね。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/21(木) 22:15:50.07 ID:Dja3HCi9
>>483
日が消えたから没落しちゃったんだな


浦戸相撲事件

2013年02月08日 19:50

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 18:07:15.13 ID:OdiVkhQ9
本山一揆を鎮圧した山内一豊であったが、土佐国内には未だ多くの一揆の与党が隠れ潜んでいる
という情報が多く入ってきた。

参考
本山一揆勃発顛末
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7270.html

そこで一豊は謀をなし、国中に触れをだした

『浦戸において、相撲を取らせ一見すべし!上下によらず、望み次第にまかり出よ!』

これに、男伊達するほどの者は、我も我もと馳集まった。
見物の貴賎も群集しこれを見る。
相撲始まり、上下目を澄まして楽しんでいた

と、ここに、かねてから目付けを付けて監視してあった者達で、この場に来ていた者たちへ
捕手を向け、一揆の残党七〇余人を搦め捕り、種崎の浜にて磔とした。

この時、岡豊の城下、八幡村の名主は、これも一揆に組した者であったが、相撲の場に出向かず
用心の体で自宅に取り籠っていたが、ここにも若侍を差し向け生け捕りにして、同罪とされた。

これにより悪党どもも懲り、土佐は在所在所の山の奥まで、豊かに治まったのである。
(土佐物語)

例の浦戸相撲事件ですが、土佐物語では無差別に鉄砲を撃ちかけたわけではなく、
捕物で捕らえたという、印象で言えば、鉄砲に比べれば穏健なものになっています。




456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 18:40:49.49 ID:NTGNfMNb
指名手配犯を誘き出して逮捕したようなもんか
司馬史観の影響ってこわいなw

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 18:49:53.18 ID:gGGYkKFs
>>455
そりゃ鉄砲で無差別にってのは、司馬さんの創作ですから
他の史料には無いでしょうな。

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 18:50:40.94 ID:iYNC0wg3
山内ってほんと屑だな

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 18:56:50.38 ID:gGGYkKFs
>>455
突っ込み忘れてたので、もう一点だけ。

時系列と顛末がメチャクチャになってる。

本山一揆は慶長8年で、今回のエピソードは慶長6年3月。
この残党は浦戸一揆のものだろう。

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 19:14:07.92 ID:OdiVkhQ9
>>459
土佐物語では本山一揆の残党ということになっていますね

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 21:42:44.33 ID:rPt1Y9ft
鬼武蔵の高遠城銃乱射事件も誰かの創作であって欲しい..

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 23:00:54.09 ID:9eHBeX7i
事実は小説より奇なり って言うじゃないですかwww

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 00:18:31.27 ID:ni7Pero9
一豊が高知で人気がないのは、やったことがあまりにもセコイからな。
長宗我部を弾圧したのが間違いだよ。

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 00:36:36.33 ID:+ZZuHC3h
旧領主関係の弾圧自体は珍しい話じゃないし、山内はうまくやった方

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 00:54:49.54 ID:ni7Pero9
>>465
一豊含めての山内は身分差別を明らかにして、
地の者(長宗我部)とよそ者とを厳然と分けていたが。
平成の今の時代になっても高知で一豊が嫌われていることは事実。

それが発端になって龍馬たちの脱藩から明治維新が起こる、とか言わんでくれよ。

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 01:58:57.53 ID:+ZZuHC3h
>765
逆だ、逆
嫌われるような事をしたのは山内一豊の"当時"としては正しかったと思ってるよ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 01:59:55.60 ID:+ZZuHC3h
訂正 誤り>765 正>467

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 02:12:09.28 ID:ni7Pero9
>>469
いや、正しくないし。当時とか関係ない。
あえて言う、よそ者理論を駆使した一豊は決して正しくない。
地の人間を殺した歴史は覆らない。

山内では山内容堂だけが認められているくらい、山内は嫌われている。
気質も違う。
高知では山内は「…」というところだ。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 08:20:48.32 ID:TQMlNAe3
>>467
申し訳ないが、山内体制下の土佐で長宗我部侍が”差別されていた”ってのも伝説にすぎん。
主な長宗我部の家臣は”上士”として山内家に取り込まれている。
例えば、幕末の土佐藩で独裁権力を握って土佐勤王党に暗殺された、あの吉田東洋も
長宗我部系の家系だ。
差別された層が独裁権力握るとか、そんなことがあると思うか?

そもそも、差別されていた側の勢力とされる土佐勤王党は、長宗我部侍ですら無く、商業などで財力を得た
新興ブルジョア層が新たに郷士株を買って武士になったものが殆ど。
坂本龍馬なんて典型だな。

彼らが上士と対立するのは、新たに財力を持った自分たちの層が政治に影響力を与えられない不満からで、
彼らが勃興した幕末期のごく新しい問題。それを山内系と長宗我部系の対立としたのは、一時苦境に陥った
新興ブルジョア派が支持勢力を拡大するための政治上のプロパガンダにすぎん。長州や薩摩が幕末になって
幕府と対立してから突然関ヶ原の怨念とか言い出したのと全く一緒。

明治維新前後の「維新史観」は、明治以降教育で広まったためかなり強力な影響力を未だに残しているけど、
そろそろそういう意識から離れて正面から歴史を見てもいいと思う。

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 08:49:24.10 ID:goxuAUug
長宗我部家の有力な家臣は山内家に取り込まれたが、そうでない人たちは虐殺されたり差別された
このように長宗我部遺臣といえども一枚岩ではないし、世の中しょせん力のあるものだけが美味しい目にあえるという教訓

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 08:55:40.32 ID:TQMlNAe3
ここでイデオロギー論争するつもりはないが、上士・郷士の身分差(差別ではなく”身分”)なんて土佐に限った話ではないし、
土佐が特にそれが酷かったという証拠も史料もない。
郷士は郷士で権益が有り、上士はそれを犯す真似をしていない。その相互性が身分制でもある。

現代的価値観で歴史を見ないほうがいい。

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 09:33:49.76 ID:qCs64YMW
まあその辺は過去を知り考える上での鉄則だわなあ

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 09:44:41.75 ID:goxuAUug
当事者じゃない限り、歴史の真相なんて誰にもわからないし、現代人の書くそれは憶測でしかないしね
この話題はこれまでにしよう

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 10:07:07.96 ID:+LwKwR4F
>>473
別に虐殺はされてないな。処罰されたのは一揆をおこしたもの限定だよ。


本山一揆勃発顛末

2013年02月06日 19:51

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/06(水) 15:33:58.83 ID:GpFgiqzI
関ヶ原の土佐国主となり入国した山内一豊は、早速家中の者達に知行をあてがい、そのうち
山内刑部一照には本山を与えられ、かれは古城を改修しここに入城した。

さて、この地には高石左馬助・吉之助という兄弟が有った。
彼らは長宗我部氏に属した武士であり、この地の領主であったが、長宗我部盛親の没落後は、旧領の傍・下野に
忍び暮らしていた。

慶長8年(1,603)11月、この年は旱魃が続き、田野に青臭もない状況となり、高石兄弟も年貢を収納することが出来なかった。
山内刑部の役人たちは高石左馬助に使いを出して、年貢を納入するよう求める。
左馬助は様々に詫びたが、使いは「殿がこちらに入部された最初の納入である!今後のためにも、疎かにしてはならない!」
と言って、しきりに左馬助を責めた。左馬助は致し方なく使いに向かって

「今年が凶作であることは、世の中皆知っていることである!私には納入するものが無いのだ!
万物が実らないのは天の業であり、我が力の及ぶ所ではない!」

そう返事をした。
使いは帰ってこの旨を伝えると、役人たちは腹を立て、「そのような奴らの言うことを、そのままに聞いてしまえば、今後
狼藉が絶えないだろう。その者を召し捕り牢獄に入れ、諸人への見せしめとするのだ!」と評議して、再び使いを出し

『誠に納入しないのか、その方に直に仔細を聞きたい。すみやかにこちらに来るように。』

と伝えた。これを聞いて左馬助「心得たり」と出立した。この時、弟の吉之助は「俺も一緒に行こう」と言い出したが、
左馬助
「いやいや、お前は無用だ。どうせ、私を擒にするための企みであろう。
なあに、どれほどの事があろうか。お前は旧交の者たちを集め、瀧山に立てこもる用意をせよ。
私は城下に行き、思うままに言い散らし、近づく奴原があれば、50人でも70人でも踏み倒して、さっさと帰ってくるさ。」
そう事も無げに言って城下へと向かった。

到着し、役人たちの集まっている場所へ少しも臆することなくつつと入り、役人の頭人に膝下近くに畏まり、申し上げた
「それがしを召されたのは何事でしょうか?」
頭人「年貢の収納を、どうするつもりなのか?」
左馬助カラカラと笑い出し

「さてさて道理を弁えぬ人々かな。治めるべき年貢など無いと、何度も言ったというのに、さては使いが申さなかったのか?」

これを「天晴悪き言い分である!」と両方より左馬助を捕えようと近づいてくるのを「心得たり!」と左右に突き飛ばした!

「やあ、ここに留めようと思っているのなら留めてみよ!」

と刀の柄に手をかけあたりを睨みつける。その場の者達、ひしめきながらもあえて彼に手を出そうとはしない。
そこで左馬助は

「なにか私に言うことはありますか?…無いのなら、暇を申し上げる。」

そう言い捨て悠々と立ち去った。

さて、彼の帰りを待っていた吉之助、左馬助の姿を見ると「どうだった!?」と聞いてきた。左馬助
「なあに、大したこともない。だが油断してはならん。」と、同心の者達300人ほどを集め、近郷の家々を略奪し、
そうして瀧山に立て籠った。
これが長宗我部旧臣による最後の武力抵抗となる、本山一揆(瀧山一揆)のはじまりであった。

本山一揆勃発に至る過程である
(土佐物語)




421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/06(水) 18:12:31.45 ID:qA9n4nAv
土佐なら悪い話がいっぱいありそう。あの山内だしw


五藤為浄の討死

2013年02月05日 19:50

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/05(火) 16:00:25.45 ID:niwVIRcY
五藤吉兵衛為浄は、山内一豊譜代相伝の家臣であり、いつも一豊に従い、武功を顕した。
そして天正11年(1583)
小牧長久手の前哨戦として、羽柴秀吉が滝川一益の居城・伊勢亀山城を攻撃した時、
この軍に従った一豊とともに真っ先に進み、大いに武功を表し、そして壮烈な討死をした。
時に32歳であった。

五藤吉兵衛には祖父江新右衛門といって、これも同じ一豊の家臣であり、年来の親友が有った。
吉兵衛が死んで、祖父江はこんな事を、人に語った

「私と吉兵衛の仲の良さというのは、親族以上のものだった。
あいつとはいつも、怒ることもなく、隠すこともなく、戦場に挑んでも共に励んだものだが、
私はいつも、吉兵衛に劣っていたよ。

今度の亀山城攻めの前の夜、私の陣に吉兵衛がやってきて、夜半過ぎまで軍物語をしていてな、
そこで、お互いの今までの手柄を数えてみたんだ。

自身で敵の首を獲ったこと、吉兵衛は26回。私は24回。
生け捕りをしたのは、吉兵衛が15人、私が11人。
敵の城に乗り込んだのは互いに6回。
敵と組み打ちをしたのは、吉兵衛が7回、私が9回であった。

吉兵衛はその時こう言った
『組み打ちはお主に負けたなあ。』

私は言ってやったんだ
『いいや、もう一つ勝っているものがあるぞ』
『それは何だ?』

『私のほうが5つ、歳が勝っている。』

お互いに大笑いしたものさ。
その夜は互いに酒を飲み、物語して別れたが、これを暇乞いにして、翌日、吉兵衛は討ち死にした。

私は、比翼の友(二羽の鳥が一体になって飛ぶように仲睦まじいこと)を失ってしまった!
もはや戦場に挑んでも勇む気持ちになれず、酒宴の席で楽しむ気持ちにもなれないのだ。」

そう、涙を流して語ったのだという
(土佐物語)




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/05(火) 17:33:28.20 ID:SnRRoljf
『比翼の鳥』
一眼一翼の“雌雄のつがい”が一体となって飛ぶという想像上の鳥。
「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」
と詠われているように男女の仲睦まじい様を表す。

アッーーー