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老人雑話は忠興に厳しい

2019年04月15日 18:03

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/15(月) 15:52:31.57 ID:gYpH4/WZ
・小田原開陣の後、太閤が諸将を会して宣うには、「会津は関東八州の要地、優れた大将を置いて鎮めなけ
 ればならない地である。各々は遠慮なく所存を書き付けて見せよ」と言った(原注:今はそのような事を
 “入札”という。その頃は“かくし起請”という)。
 
 すると「細川越中守(忠興)が然るべき」という者が10人中8,9人であった。太閤は開き見て曰く、
 「汝らは愚昧も甚だしい。私が天下を容易く取ったのも道理である。この地は蒲生忠三郎(氏郷)でなけ
 れば、置くべき者なし」と言い、忠三郎を会津に置いた。

・額田と小牧は皆尾張の内なり。小牧は東、額田は西にある。太閤は額田に陣を取りなさった。常真(織田
 信雄)と大御所(徳川家康)は小牧におられた。
 
 この時、太閤方の先手は蒲生飛騨守(氏郷)と細川越中守なり。敵と相向かう時、額田の東2里ほどの二
 重堀という所で、越中守は飛騨守を捨てて敵に追い下ろされた。飛騨守は踏み止まって敵を防ぎ、太閤の
 陣へ敵は来なかったということである。

・細川越中守はついに戦功なし。一度信長死去の年に、「甲斐国の合戦で良き陣を張った」と太閤が褒美し
 たが、この一事のみという。

――『老人雑話』

老人雑話は忠興に厳しい



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三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに

2019年04月13日 21:37

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 19:26:00.37 ID:IjfD7tgB
丹後には一色という屋形(一色義定)あり。信長は天下を得て後、細川幽斎に丹後一国を与えた。
一色を幽斎の婿にして、幽斎の所領内に僅かな領地を与え、弓木という城に居住させた。

信長死去の明日に三斎(細川忠興)は御屋形を呼び寄せ、手討ちにして城をも取った。御屋形は
三斎の姉婿である。

その時、米田監物という者は刀を持って来て、誤って三斎の右側の傍に置いた。三斎が刀を取る
のに利便が悪く、米田は悟って傍へ行くついでに過ちを装って足で刀を蹴り、取り直す様子で左
の傍に置いた。

そして盃酒の間に三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに斬ったという。

――『老人雑話』



細川忠興、結城秀康に行列の先を譲る

2018年11月07日 19:37

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 08:53:33.90 ID:xWVo5T5h
細川忠興結城秀康に行列の先を譲る


慶長8年3月25日、征夷大将軍となった家康は御所に参内し拝賀の礼を行った。
その参内の行列のうち、武臣の参議少将の衆は塗り輿で供奉した。
越前参議(結城)秀康卿、豊前参議(細川)忠興卿、若狭参議(京極)高次卿、
播磨少将(池田)輝政朝臣、安芸少将(福島)正則朝臣である。

結城秀康卿は従四位の参議にて、忠興君が上首(従三位の参議)であったので
秀康卿の上に列するところを、(忠興君は)ご辞退なさろうとしたが
家康公は「官位の次第は乱すべきではない」と仰せられた。
しかしそのように取り計らおうと、(家康公が)前もって奏上されたため
秀康卿は(同年の2月25日に)従三位に叙され、忠興君はその次に付けられた。
これは家康公が(忠興君の辞退に)感心されたからだという。


――『細川家記』


小出吉政ノ内通

2018年07月19日 17:56

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 16:28:39.69 ID:byt+X2Jt
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

2018年07月14日 16:36

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 21:00:22.32 ID:j2a9VVjX
忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

6月27日、忠興君(細川忠興)は宮津で御門出(会津征伐のため)となった。御万様(烏丸光賢室)が
もってのほか御病気のため御見合わせになられて今日まで御延期されていた。昼は田辺<今ノ舞鶴>にて

御暇まで御饗応をなされた。その夜は若狭国安濃津に御泊りになって、2日御逗留されて御歯の御養生を
なさった。29日の暁に近江今津浦より夜舟に乗られて、あくる日の出に朝妻に御着船された。忠興君は
御人数を召し連れなさって、朝妻にて(後続の軍勢を)御待ち受けなさった。

7月朔日の日の出に朝妻を御出立され、その夜に美濃美江寺に御陣を取られた。御人数は合渡に陣取って、
同2日、美濃鵜沼の町で御昼休みになられ、町はずれの船渡しで向かうと、犬山の城より少し川上に舟は
着いたのであった。御人数は川向いに立って忠興君の御渡りを待ったので、忠興君は、

「これからは左様にはせず、予定通り先へ押し進み申すように」との旨を仰せ渡された。その晩、忠興君
は太田<一本ニ戸田>の宿に御陣を取りなさった。翌日3日、忠興君は御嶽<一本ニ見竹>の宿において
御機嫌が悪くなり、与一郎様(細川忠隆)との御仲は御不快となった。

その詳細は、忠隆君が先陣として若狭小浜の城下を御通りになった時、城中より使者が来て「城の周辺は
御避けになって下道を御通りくだされ」と申したので、その意に任せられて脇道を御通りになられた。

それから二番目に玄蕃殿(細川興元)が御押し通りになると、城中よりまた前述の趣を断りに遣してきた。

玄蕃殿は「出陣の門出で端の道を通るなんてことがあるか。異議に及ぶならば、打ち破ってでも通る!」
と仰せになって進み行きなさった。城内からもこれを妨害する支障もなく、玄蕃殿は押し通りなさった。

忠興君はこの事を御聞きになって玄蕃殿に御褒美なされ「与一郎は軍法を知らぬ!」と御怒りになられた。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


あれでも能の上手か!?

2018年07月08日 18:20

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 22:15:35.57 ID:9Qmq/53U
細川越中守忠興の家臣に、中村庄兵衛といって千石を取りし侍が有ったが、その子である左馬介は
能の脇を良くして、役者にも勝っていると、その時代の評判であった。

有る時、法楽の能で船弁慶を勤めた時、白洲の見物の中から「あれでも能の上手か!?」と、声高に
あざ笑う声が聞こえた。左馬介はこれを聞きとがめ、能が済んだ後、これを言った者を引き止めどう言うことか
尋ねた所

「私は船頭ですから、能の事は良く解りませんが、ただし波風の荒い時の船の漕ぎ様は、ああではありません。
艫の押し方、抱え方、間違っています。
またいくら弁慶と言っても、波風の荒い時はあのように船中に立つことは出来ません。」

これを聞いた左馬介は、彼から波風の荒い時に船中で立ち応える方法、並びに船の漕ぎ方を詳しく尋ね、
以降の船弁慶にこの心得を活かした。

左馬介は後に中村靭負と名乗った。何事もこのように、その道の人間に尋ねるべきである。

(渡邊幸庵對書)




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 22:39:49.02 ID:8XKizmlU
左馬介「悪口言ってたのはお前か」
船頭(やべえ…)

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 23:05:53.00 ID:nc14XRd9
いつ血生臭い話になるかとドキドキした

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 09:01:24.43 ID:ETD5YrSf
途中まで、ぶった切る話かと思ったw
芸の道と武士のメンツは、違うということか。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 09:44:35.67 ID:9qBl9iy9
観客の中にプロがいて、劇中の役柄に文句をつける

役者が真摯に教えを乞うて芸が一段上がる




これ芸能の故事によく出てくるテンプレの流れな

秀頼公が降らせたとしたら

2018年03月04日 21:07

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 18:25:56.35 ID:dDdfXZzE
寛永八年五月八日、江戸にて霰が降る。
この霰はとても大きく屋根をつきぬけ死人が出たほどであるという。
この日は豊臣秀頼の十七回忌であり秀頼の祟りであると皆噂した。
そんなときに三斎様が忠利への手紙に書いた一言
「秀頼公が降らせたとしたら小米ほどの霰にしかならねーだろ」

ひどい言いようである。



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 21:52:24.34 ID:1/g86kDk
>>575
面白いw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 02:35:05.49 ID:WZikKtO0
なんで小米なのか説明よろしく

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 08:12:54.52 ID:SRBMFBnt
小物だから、てことじゃダメなのか

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 20:27:09.16 ID:+GYwg/Yu
普通に考えて 、秀頼は高く評価仕様がない

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 22:42:42.32 ID:E7L7esSF
確かにひどいなw

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:10:37.02 ID:22URxcVa
後のシャオミである

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:12:06.25 ID:ib5vEmNz
信雄や足利義昭のようにはいかなかったんだな。

尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

2017年02月14日 10:09

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 01:09:14.70 ID:BgQ72oq0
尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

 大阪の乱のとき、塩賊は尼崎侯の葵紋がついた兵器や提燈を観て驚愕落胆した。
この尼崎の祖先は御当家松平の御同族で信定といい、三河国桜井城に住んでいた。
よってその子孫を桜井の松平家と称す。このためであろうか桜花を家紋としている。
しかし松平の族なので葵が元来の家紋である。

 しかし桜花の家紋には違う理由があるのだとか。
あるとき彼の祖先の誰かが、細川三斎〔忠興〕の宅に行って碁をしていたが、
その時に神君に招かれるということがあった。
すぐに赴こうとして、その者が三斎に

「今、それがしが今着ている服は殊に汚れている。
よろしかったら君の衣を借りて着たいのだが。」

と言うと三斎は喜んで彼の家の服を与えた。
よって今桜井の家は九曜星の紋を用いるのはこれから始まったという。
〔細川氏の家紋は、今も九曜星である〕

 また桜井の家は今はもっぱら九曜を用いているが、もとは葵葉が正式の家紋なので、
この家の者は皆は正式の時には葵紋を用いている。
葵紋を用いるのは変事に限らないという。

(甲子夜話三篇)
参照:桜井松平家『桜井桜』
桜井桜



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 02:16:00.22 ID:clIcZdKw
塩賊がわからん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:37:43.53 ID:+WvvCSyd
塩の密売人

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:42:04.94 ID:clIcZdKw
それとこれがどう関係するん?

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 08:06:11.49 ID:RoaBpj1c
大塩平八郎の一党の事じゃないの>塩賊

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 16:59:51.38 ID:8P63j5pE
超時空関羽のことだよ

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 20:20:51.66 ID:mYu93Acq
塩派とタレ派で騒動があったんだよきっと

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 22:56:32.10 ID:4eHEPjx1
俺塩派

朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

2017年02月01日 09:18

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:28:57.14 ID:BhaUGTgD
朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

 細川氏の家で作られているものに、朝鮮飴と呼ぶものがある。
予は時々彼の家の知り合いの者からもらっている。
 ある日思った。
これはきっと彼の祖が朝鮮討のときに、渡海してかの国から伝えてきたものである、と。
 そこで肥州(松浦熈※松浦静山の息子)に細川氏の者に尋ねさせた。
支家の細川能州(利用)が答えられるに、
「本家の二代越中守忠興が、文禄元年〔壬辰〕に、秀吉の命により朝鮮へ渡り、翌年冬に帰国しました。
そのときから製法が家伝したと思われます。」
とのことであった。
ならばやっぱりかの俘囚から得たものか。
 予の家の陶器(平戸焼)と同類である。

(甲子夜話三篇)



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:35:06.58 ID:FoQj+jav
ウィキみると清正由来だな

この清水の作の脇差を帯び、

2016年12月08日 17:18

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 00:12:35.81 ID:J91C5wri
>>390の続き

 寛永中、細川三斎入道忠興は、帰国の際に別辞を述べるため猷廟(家光)と対面し
そこで御馬を贈られた。
それから西の丸に登り、台廟(徳川秀忠)の御前に召された。
旅中に服用するようにと御薬を与えられ、直接清水藤四郎の御脇差を下された。
その時の仰せで

「我が前にお前たちと共に太閤の前にいて談話していたときから、お前はこの脇差を見て、
『ああ、この清水の作の脇差を帯び、利休の尻膨れ茶入がある茶事を催せたら、
生涯の至楽に足れるのに』
と申していたな。
その言葉は今も耳底に残っていたのでお前にこの脇差を授けたのだ。」

とあり、忠興は感謝して退いたという。
〔この頃には尻膨れの茶入が既に細川家の物となっていたという〕。


(甲子夜話)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 10:36:20.98 ID:Db/1OrV5
>>394
これ忠興は利休に散々「茶室に脇差差して入るな」って注意されてたのに
その教えをガン無視して、利休の茶入れで脇差差して茶会やるっていう悪い話でもある

細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

2016年10月08日 21:10

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 22:16:35.47 ID:ydBTguYg
細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

軍講者宗耕の話である。

 大坂陣起ころうとする前、細川三斎は領国にいた。
宇土から熊本に行く途中、何者かが馬上で深網笠をかぶって行く者に会った。
三斎はその者と間近くで行き過ぎざまに振り返った。

三斎は左右に問うた。
「今の馬上の士、お前たちは何者かを知っているか。」

「知りません。」

「あれは塙団右衛門だ。どうしてこの地に来たのか。
我はあやうく打ち捨てようと思ったが、そのままにしておいた。
もしかすると、遠からず変事が起こるだろう」

 果たして、その後間もなく大坂の乱が起こったという。
後に思うと、塙は薩摩へ行く途中であろう。そうならば大坂の戦の最後で
秀頼も薩摩へ落ちて行ったが、なにか薩州と由縁があるのだろうか。
神君にも御弁えられていることなので、捨て置かれしとのことなのだろうかと。

 またこのことをある席上で細川の留守居へ問うと
「この話にでてくるのは、まさしく三斎である。」
と言ったそうだ。
薩摩の留守居も居たが、
「これはどうしたことであろうか、よく知りません。」
と答えたそうだ。
思うに、薩摩の留守居は憚ったのだろうか、そもそも知らなかったのだろうか。
(甲子夜話三篇)



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 23:46:30.86 ID:hBlmd/qS
細川の肥後入りって大坂の陣より後じゃね?

ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

2016年08月25日 14:55

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。



細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)



通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。




だから越中に謀られたのだ

2016年06月17日 17:55

732 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/17(金) 11:15:30.85 ID:GEmWGYBE
三成の柿の話は綿考輯録(細川家譜)だろうからたしかに違うがこのコメント4も訂正しないので自分が
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-886.html

慶長4(1599年)年3月26日家康は向嶋の屋敷に移動した。
これより以前三成はどうしても忠興を味方にしないと家康を倒せないと考え、多くの人に頼みその中には前田玄以もいて
「忠興と仲が悪いのは大いなる誤りで何とかして和睦できるよう、お頼み申す」とひたすら頼まれたので玄以は忠興の所に行き、このことを告げた。
しかし忠興は許さないので玄以は重ねて「太閤の大恩をもし忘却してなければ私恨を捨て三成と和睦してください」と再三説得してきたのでついには納得して三成と会うことを決めた。

長束大蔵大夫(正家)は和睦のことを聞き大いに喜び、「忠興から三成の所に行くのも、三成から忠興の所に行くのもどうかと思うので、我が屋敷にて共に会って和解するといいでしょう」と
と玄以を通して申し入れたので、日を定めて行くことになった。

三成は早くから来ていて手には盤上の柿を忠興の前に仲直りの挨拶もせずに置き、三成は「以前好物だと聞いていたので持ってきました。
お先に召し上がりください」と言うので忠興は挨拶してから柿を食した。
その席にて三成が内府の専横を数えあげては言い「これをそのままにしては天下は穏かならずことになり終いには天下は内府を主とするに至るでしょう。
まことに遺憾で何とかして秀頼公に奉公仕り権勢を欲する内府をを討ち果たべきと決意しました。
太閤への大恩を忘れてなければ我々に味方してはくれないでしょうか
秀頼公への忠節に対しては、お望み次第にどこでも好きな国を二ヶ国を拝領することを三成が周旋することをお誓いしよう」と丁重に言うと
(忠興も)「我々に目をかけてそのようなことを頼むことに大変嬉しく思う。この上は不肖を捨て一命をかけ、お味方しよう。さて、内府を討つ手立ては?」
(三成は)「こんな時のために、太閤存命の頃から内府の屋敷を取り巻き、味方の面々の屋敷を変えさせました。
今夜即夜討ちをするつもりで宮部善祥坊(宮部継潤)と福原右馬助(福原長堯)は家康の近隣で屋敷が高いところにある。
これらのところから火矢を打ちかければ火が出て何の備えもない家康方は慌てて屋敷を出るところを井楼から一人一人鉄砲にて討ち取る。
僅か二千の兵と聞いているので仮に逃げだす者がいても、こちらの多兵をもって討ち取る算段なので何の手間もいらないので(忠興にも)兵を出していただきたい」

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 11:20:29.37 ID:GEmWGYBE
忠興もこれはもっともな手段だと思ったが、少しも合点がいかないふりをして、
「いやいやそれでは駄目だろう。火矢を打つのは地の高下とは限らない。
内府も堀裏に走り、櫓などを付け、火矢の用意もあるだろう。その上近辺の諸将には、常に忍を置いていると聞くので今夜の企みもはやくから知っているだろう。
こちらから火矢を10射出す時、向こうからは100も射かけてくるだろう。そうすると、敵の屋敷より味方の屋敷が先に燃えてしまいます。
内府は数度の武名を顕し、場数の勇士も多い。2000人が心を一つにして必死の働きをすれば、討つことは難しい。
その内に彼と親しい諸大名が聞き付けて駆けつければ、却って御味方の敗北は疑いようがない。
例えその状況でなんとか勝利を得ても、『弱きの巧みな臆病なる手立』などと後々まで嘲りを受けるのは大変悔しい。

しかしながら、それほどまでに思い定めているのなら、私に一策があるので聞いていただきたい」と言い三成も「その意見を承る」と返した
「今夜の先手を私に命じろ。無二無三に切り入るから各々は二の目を取れ。そうすれば内府を討ち取ることもあるだろう。
例え敗死したとしても、潔い英名は後代に残る」

と申したところ三成はそれを聞かず「あなたを捨て駒にしてそのようなことはできません。お願いだから最初に私が提案した意見にしてください」というが
忠興は納得せずお互いに意見を引かないため論争になった
「忠興殿もあのように言うしどのような意見でまとめるにしろ時間も大分過ぎて夜も深いし、今夜はお開きにしませんか」と提案があったのでそのとおりとなってその日は皆帰った。

後日この話を聞いた小西行長の反応は
「なんて口惜しいことだ。五奉行は世間事には賢い者達だが軍事には拙い。だから、越中(忠興)に謀られたのだ。もはや内府を討つ事など思いもよらないことだ」と、言い頭を抱えて悔いたと聞いた。

忠興はその夜、幽斎を通して「このような事があったので、向嶋に立ち退くように」と言ったが、「彼らにどのようなことができるのか」との返事だった。
翌日忠興自ら家康の所に赴き、そのことを全て話して早く向嶋に立ち退くようにと提案した。
家康はその計画を知り大いに驚き、「命を落とす所だった。この御恩は子々孫々までも忘れない」と語ったという。

関連
柿と三成と忠興・悪い話


あの兄弟が振る舞いに

2016年03月26日 17:47

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 11:26:39.93 ID:sD2szMy3
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老名某も、
河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任(明智)光秀、
筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。

ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。

しかし片岡城の者達は河内国でも聞こえ有る兵であったので、全く騒ぐことなく彼らを防いだ。
しかしこれを見た長岡家の郎党たちは「あれを討たすな!続けや!」と我先に駆けつけ、これもあって
兄弟は良き兵たちを討ち取り、それを見た藤孝は両眼をうるませた。

筒井順慶、惟任光秀もこれを見ると、士卒に向かって
「あの兄弟が振る舞いに、恥じない者は居るか!?この程度の城にいつまで手間取っている?
早々に乗り入れろ者共!!」
そう大音声を上げ目を怒らせて罵ると、皆々「尤もである!」と螺鐘を鳴らし喚き叫んで攻め入った。

それでも片岡城の兵たちは、義を重んじ命を軽んじて「一歩も引くな!」と、
それぞれが担当した場所から少しも引き退かず防ぎ戦った。しかし織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに
攻め立てさせたため、死傷者多く出て残り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は
腹を十文字に掻っ切って伏せ、残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。

信長は與一郎、頓五郎の働きを聞くと、即座に感状を下した。
兄弟が感状を頂戴したことは、天晴勇々の事であると、羨ましがらない者はいなかった。

(甫庵信長記)

細川忠興・興元兄弟の片岡城攻めのお話



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 13:42:16.65 ID:EmgUfXaA
片岡城て大和じゃないのか?

細川三斎の時、衆道の停止を申し付けたが

2015年09月14日 14:12

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/14(月) 13:20:38.12 ID:Sov8g0eq
細川三斎(忠興)の時、衆道の停止を申し付けたが、「命をかけ切腹の覚悟である!」と励むため、
厳しく申し付けるほど、いよいよ衆道は止まなかった。そして三斎秘蔵の小姓と近習の者が、
兄弟の契約をいたしたことが訴えられた。

三斎は両人を呼び出すと、言った
「衆道の事、これ程までに厳しく申し付けても、一命をかけて契約したこと、天晴、健気である。
その健気を以って戦場において粉骨を成すなら、なお一層目に立つべき者であれば、許し遣わす。
よって兄弟の交わりをなし、忠勤を励むべし。」
そう懇ろに申し、両人に加恩を与えた。

しかしその後は、彼らに役職も言い付けず放置したため、何となく不埒者のような立場に成り、
以後は心やすく出会うことも無いようになり、彼らの衆道関係は自然と止んだ、という。

(明良洪範)



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/14(月) 20:18:40.63 ID:6Dlbalmf
秘蔵の小姓というワードから
NTRの腹いせ的なにおいがほんのりしないでもないような

細川忠興による、ふんどしについての諸注意

2015年04月27日 18:32

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 19:34:04.08 ID:ktoPhFL4
伊藤三白という老医の話に、先年、細川三斎老(忠興)に、戦場のことについての話を承った時、
ついでに乗じて聞いたことがあった

「総じて、合戦の時に重症を負った者、または討ち死にした者は、いずれも下帯を付けていないと、
諸人申し伝えています。大阪なつの御陣の時にも、安藤治右衛門殿であったそうですが、討ち死にされた
死骸を3人で引き担いで退いているところを見た者の話では、たった今討ち死にしたのに、下帯がなかったと
申しておりました。
どうしてそのようになるのか、不審に思っております。

たとえ死骸から分捕りをされたのだとしても、甲冑か大小の類こそ取るでしょう。何とも合点の行かぬことです。」

すると三斎老は言った
「なるほど、下帯が無くなることは本当である。であるがそういうことは、医者であるならその理由に
心付くべきことであるぞ?」

「しかし、一向に存じ当たりがありません。」

「ふむ。概ね人の体というものは、血気によって保っているものだ。血気が体の内にある間は、
上帯下帯というものも結ぶことが出来る。しかし、上帯下帯を結んだままであっても、死んだ時は
五体よりたちまち肉が落ち、しまりがないものとなる。
その中でも、戦死の者は血も多く出ているため、病死したものとはまた大きく違う。
それ故に、結びつけた物もそのまま固定できず、下帯も落ちてしまうのだ。

されば、巧者なる心掛けのものは、下帯の結び目の前に紐を付け肩にかけ、あるいは前の垂れた部分のはしに
紐を付けて首にかけ、もっこ褌と称して用いている。
これらは皆、死後抜け落ちないようにとの用心なのだ。」

と、申された。

(明良洪範)

細川忠興による、ふんどしについての諸注意である。



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 19:42:39.19 ID:ZKTYc+Vu
へうげもので変な褌履いてた人がいたけどこうゆうことだったのか

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 19:42:52.63 ID:C7u7dSDN
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-996.html
細川三斎「パンツじゃないから」・いい話

出典は違うが既出か

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 19:45:53.28 ID:fNnU3KMe
パンツじゃないから恥ずかしくないもん

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 20:21:51.37 ID:+AWbzzJC
そのアニメの誤爆のついでに書かれた逸話だし
しかし、飛行士だの艦隊だの武将だの剣だの城だの、
戦争に関わるものを女にしすぎ
次は寺社あたりが標的になりそうで怖い

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 22:52:56.46 ID:w+wLg4Ti
もっこり越中褌

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 09:48:44.58 ID:RMbewNLp
確かに武将の肖像画ggrと出てくるのは萌え絵ばっかりで
肝心の画像が出て来ないもんなぁ(´・ω・`)

【画像】歌仙兼定

2015年04月17日 18:03

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 07:26:11.62 ID:k7fJJ03a
http://pbs.twimg.com/media/CCdf3-RUAAAxt6D.jpg
http://pbs.twimg.com/media/CCdf3vNUIAAFUKr.jpg
CCdf3-RUAAAxt6D[1]

CCdf3vNUIAAFUKr[1]

荒木村重の女房たち

2015年03月27日 18:02

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/26(木) 23:16:08.80 ID:4eV+rYEN
有岡城から荒木村重が逃げた後、村重の妻子一族は織田方に捕らえられ、処刑されることになった。
京都にて磔にされる時、細川忠興は奉行としてその場にいた。
村重の女房たちは忠興と顔見知りだったので、「与一郎様頼みまする」と声々に泣き叫んだ。
光秀の娘が村重の息子に嫁いでいて、村重謀反の際に離縁し、戻されたという経緯があるが、
忠興は光秀の娘を通じて女房たちと顔見知りになったらしい。
(その娘はのちに明智左馬助に嫁いでいる)
忠興はその時のことについて、度々「哀れなことだ」と述べていたらしい。

そんな村重妻子のうち、郡主馬宗保の娘は乳母に隠され、織田信澄や明智光春のもとを転々としたあげく、玉のところに行き着いた。
それが後の忠興の側室、娘のおこほを産んだお藤(松の丸)である。

綿考輯録より




丹波奥三郡之物成不残在々へ御返し被成候事

2015年01月31日 17:03

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 04:43:36.49 ID:TtK/bThA
関が原の合戦のあと、徳川家康様が細川忠興公に
「所領である丹後が戦乱で亡国となったので、代わりに丹波奥三郡の管理を任せたい。」と仰せになった。
忠興公は飯川豊前殿、左馬充の両人を派遣し、そこから福知山に年貢を納めさせた。
福知山城の本丸には左馬充を置き、二の丸には豊前殿を差し置いた。

徳川秀忠様は会津表からこちらに廻ってこられると、10月末に大阪城に上られた。
そして関ヶ原で働きのあった大名衆に褒美を与えられた。
忠興公へは利休所持の名物、尻に胴の茶入れを拝領された。
その時のご口上は詳しく記録していない。

11月の中旬頃、御国分けがあって、忠興様は豊前に下ることに決まった。
そのため、管理していた丹波奥三郡からの年貢は、残らず在地へと返還した。
(忠興様豊前へ御下相究り申に付、丹波奥三郡之物成不残在々へ御返し被成候事。)

福知山城は有馬玄蕃豊氏殿に与えられた。小野木が目録を作り豊前殿、左馬充両人によって
引き渡された。

忠興様は12月の初め、丹波を出発され、豊前中津に同26日に到着された。

細川忠興軍功記)

>丹波奥三郡之物成不残在々へ御返し被成候事

こことても大切。後の黒田との紛争的に。



338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 04:46:54.65 ID:t90qAm2w
蔵がカラッポじゃあなw
黒田はケチで有名だったからガメられたと思ったんだろう

秀次事件と細川忠興

2015年01月26日 18:44

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 18:01:25.88 ID:WdkrArKW
文禄四年七月中旬に、摂政関白秀次公御身体、果て申す次第

前野但馬守長康殿、同出雲守殿(景定)、木村常陸、白井備後、石河伊豆、羽根長門守と言った人々に、
秀次公は『何事にても、申し付けた事に異議を立てない』との内容を書き物にして提出させていた。

この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤様(秀吉)に申し上げたため、太閤様は秀次公に、
遣いを以ってこの件を糾明させた。

これに秀次公は大いに驚き、聚楽より伏見に御出でになり色々と弁明したものの、太閤様は納得
しなかったので、伏見から高野山へと上られた。
そして福島左衛門大夫正則殿が検使に遣わされ、秀次公は切腹なされられた。
かの書き物を提出した人々も、残らず切腹が仰せ付けられた。中でも前野但馬守殿父子は、中村式部少輔(一氏)
預りとなり、駿河府中にて、但馬守殿、その子息出雲守殿、切腹と成られた。

細川忠興様は右の書き物の件には関係していなかったが、秀次公より別して懇ろにして頂いており、
どういうわけか黄金百枚を拝領していた。その上前野但馬守殿の子息出雲守殿は、忠興様の聟であり
縁者であったため、石田治部少より「彼も一味している」と申し立てられたため、太閤様も是非無く思われた。

聚楽の細川屋敷に忠興様より米田助右衛門殿が遣わされ、伏見より急報が有れば、息子たちを殺した上で
屋敷に火をかけ、助右衛門も切腹するという事に決まったと、忠興様の御意が伝えられた。

黄金百枚の事は施薬院法印(全宗)の肝入で、秀次公より借用したものであり、拝領したものではないとの
弁明を、米田助右衛門が徳善院(前田玄以)を通じて太閤様へ申し上げると、その時太閤様が仰せになったのは

「先年の明智謀反の時、信長公の御恩を知り、明智に一味しなかった。たとえ今回秀次に一味したとしても、
その時の忠節により赦免いたす。」

この言葉が徳善院より仰せ渡せられ、忠興様もご安堵なされた。

細川忠興軍功記)

秀次事件の折の、細川忠興の様子である。