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当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 01:00:33.06 ID:rNuJGc1p
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:02:34.16 ID:enxJZdyv
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:06:14.65 ID:MVE+KsKB
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 07:19:02.81 ID:EEZk3pD1
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから
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仔細が有り、丹波路を行く

2020年03月26日 17:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 10:09:52.35 ID:++oLtex7
慶長五年、奥州会津の城主・長尾景勝御討伐の時、細川越中守忠興は家康公の御味方にて宮津より出陣された。
父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。

こうして忠興は雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。この折に、御暇乞い申さんと、
田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。

忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。ここに、若州熊川には
近年関所が有るのだが、ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、熊川の関所をいよいよ
堅固にして往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した

「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」

そうして吉坂より取って返し丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された

「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。

また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、勅命とは言いながら、今少し永らえずして
幽斎が城を渡して京都に上ったことを忠興も悦ばなかった。

こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、一日に
二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。

丹州三家物語



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:43:09.56 ID:R6yK/SZl
サイコパス親子

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:52:06.74 ID:/s+X6SpC
命がけの親子喧嘩は戦国あるある

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

小野木縫殿頭切腹の事

2020年03月24日 16:41

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 22:27:15.18 ID:aD4lGeCD
小野木縫殿頭切腹の事

関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた

「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)

家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。

この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。

忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。

丹州三家物語

細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話



「三斎公の蛸壺」

2019年12月19日 16:08

420 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/19(木) 00:36:16.43 ID:4rxsPK0U
有名な逸話らしいけどまだ出ていないみたいなので

細川氏が熊本藩主になってからも、細川忠興は中津の領民との交流が忘れられなかった。
かねてから中津の漁師たちは蛸壺を望んでいたので、忠興は八代の赤土で焼いた蛸壺1000個を藁に包み、
荷駄として漁師に送り届けた。
内径約8cm、高さ約12cmのこの蛸壺は、今でも時折建て干し網にかかったり、台風後の浜辺に打ち上げられたりし、
「三斎公の蛸壺」として村人が大切に保存している。


出典は中津市制五十周年記念刊行会発行『ふるさとの歴史』
昭和54年の本なんだけど流石に現在では地元民も知らない話だろうか?



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/19(木) 01:43:38.31 ID:64OlwEx/
耶馬の史話伝説には釣り場で仲良くなった老人に頼まれて三千作ったという話が載っているらしい

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/19(木) 20:10:35.82 ID:DX9A7xAW
忠興は愛刀の越前信長の拵に蛸の目貫をつけてたというけど
もしかして中津を偲んでのものだったのかな?
家臣が信長拵を真似た拵を作るのは許しても、
蛸の目貫だけは許さなかったというくらい、お気に入りの目貫だったようだ。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/19(木) 20:10:35.82 ID:DX9A7xAW
忠興は愛刀の越前信長の拵に蛸の目貫をつけてたというけど
もしかして中津を偲んでのものだったのかな?
家臣が信長拵を真似た拵を作るのは許しても、
蛸の目貫だけは許さなかったというくらい、お気に入りの目貫だったようだ。

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 12:42:05.56 ID:q0KbXsGL
>>422
中津には30年以上いたから、そりゃ愛着もあったでそ。わざわざ幕府に働きかけて中津城を残して隠居地にしたぐらいだし。

その上、12万石の加増があったとはいえ、熊本は加藤氏が治世に失敗しているしね…

三斎公はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も

2019年07月13日 15:20

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 00:45:39.47 ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:19:11.37 ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ

細川忠興と茶入

2019年07月11日 16:10

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 21:06:40.96 ID:txMoZn0l
寛永十四年十月五日 吉田御屋敷、三斎様御茶湯、御座敷開き
                辻七右衛門殿、久重、誓願寺永玉、守顕。(茶会記略)

三斎公(細川忠興)が薄茶入を出された時、辻七右衛門殿が「この茶入はなんと言う名でしょうか。」
とお尋ねになった所、三斎公は「吹雪と申します。」と答えられた。

「この茶入の形は三斎様のお好みであると、世間では言われています。」と七右衛門殿が申されると、
「いやいや、これも利休が形を切り出されたものです。しかし最初に私が写したので、世間でそのように
言われているのでしょう。」と答えられた。

三斎公は、唐物茶入を持たずに、瀬戸の山の井肩衝(古田織部が天下一と称賛した古瀬戸肩衝)ばかりを
秘蔵していてもいかがかと思われ、唐物を持った上で、瀬戸を唐物よりも秘蔵すれば良いとして、
古田織部に、彼が所蔵する勢高肩衝(織田信長が所持し、本能寺で罹災した)を所望した。

すると織部は「金子二千枚頂ければ進上いたします」と返答した。三斎公が「肩衝に金子二千枚も出す
取引は聞いたことがない。」と申されると、
「それでは金千枚と、山の井肩衝を残りの千枚分として頂きたい。」と言った。

これに三斎公は
「それは駄目だ、勢高肩衝を所望したのも山の井のためであり、それは出来ない。」
とお答えになったという。

(三斎伝書)



安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』
安国寺肩衝・異聞


老人雑話は忠興に厳しい

2019年04月15日 18:03

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/15(月) 15:52:31.57 ID:gYpH4/WZ
・小田原開陣の後、太閤が諸将を会して宣うには、「会津は関東八州の要地、優れた大将を置いて鎮めなけ
 ればならない地である。各々は遠慮なく所存を書き付けて見せよ」と言った(原注:今はそのような事を
 “入札”という。その頃は“かくし起請”という)。
 
 すると「細川越中守(忠興)が然るべき」という者が10人中8,9人であった。太閤は開き見て曰く、
 「汝らは愚昧も甚だしい。私が天下を容易く取ったのも道理である。この地は蒲生忠三郎(氏郷)でなけ
 れば、置くべき者なし」と言い、忠三郎を会津に置いた。

・額田と小牧は皆尾張の内なり。小牧は東、額田は西にある。太閤は額田に陣を取りなさった。常真(織田
 信雄)と大御所(徳川家康)は小牧におられた。
 
 この時、太閤方の先手は蒲生飛騨守(氏郷)と細川越中守なり。敵と相向かう時、額田の東2里ほどの二
 重堀という所で、越中守は飛騨守を捨てて敵に追い下ろされた。飛騨守は踏み止まって敵を防ぎ、太閤の
 陣へ敵は来なかったということである。

・細川越中守はついに戦功なし。一度信長死去の年に、「甲斐国の合戦で良き陣を張った」と太閤が褒美し
 たが、この一事のみという。

――『老人雑話』

老人雑話は忠興に厳しい



三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに

2019年04月13日 21:37

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 19:26:00.37 ID:IjfD7tgB
丹後には一色という屋形(一色義定)あり。信長は天下を得て後、細川幽斎に丹後一国を与えた。
一色を幽斎の婿にして、幽斎の所領内に僅かな領地を与え、弓木という城に居住させた。

信長死去の明日に三斎(細川忠興)は御屋形を呼び寄せ、手討ちにして城をも取った。御屋形は
三斎の姉婿である。

その時、米田監物という者は刀を持って来て、誤って三斎の右側の傍に置いた。三斎が刀を取る
のに利便が悪く、米田は悟って傍へ行くついでに過ちを装って足で刀を蹴り、取り直す様子で左
の傍に置いた。

そして盃酒の間に三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに斬ったという。

――『老人雑話』



細川忠興、結城秀康に行列の先を譲る

2018年11月07日 19:37

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 08:53:33.90 ID:xWVo5T5h
細川忠興結城秀康に行列の先を譲る


慶長8年3月25日、征夷大将軍となった家康は御所に参内し拝賀の礼を行った。
その参内の行列のうち、武臣の参議少将の衆は塗り輿で供奉した。
越前参議(結城)秀康卿、豊前参議(細川)忠興卿、若狭参議(京極)高次卿、
播磨少将(池田)輝政朝臣、安芸少将(福島)正則朝臣である。

結城秀康卿は従四位の参議にて、忠興君が上首(従三位の参議)であったので
秀康卿の上に列するところを、(忠興君は)ご辞退なさろうとしたが
家康公は「官位の次第は乱すべきではない」と仰せられた。
しかしそのように取り計らおうと、(家康公が)前もって奏上されたため
秀康卿は(同年の2月25日に)従三位に叙され、忠興君はその次に付けられた。
これは家康公が(忠興君の辞退に)感心されたからだという。


――『細川家記』


小出吉政ノ内通

2018年07月19日 17:56

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 16:28:39.69 ID:byt+X2Jt
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

2018年07月14日 16:36

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 21:00:22.32 ID:j2a9VVjX
忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

6月27日、忠興君(細川忠興)は宮津で御門出(会津征伐のため)となった。御万様(烏丸光賢室)が
もってのほか御病気のため御見合わせになられて今日まで御延期されていた。昼は田辺<今ノ舞鶴>にて

御暇まで御饗応をなされた。その夜は若狭国安濃津に御泊りになって、2日御逗留されて御歯の御養生を
なさった。29日の暁に近江今津浦より夜舟に乗られて、あくる日の出に朝妻に御着船された。忠興君は
御人数を召し連れなさって、朝妻にて(後続の軍勢を)御待ち受けなさった。

7月朔日の日の出に朝妻を御出立され、その夜に美濃美江寺に御陣を取られた。御人数は合渡に陣取って、
同2日、美濃鵜沼の町で御昼休みになられ、町はずれの船渡しで向かうと、犬山の城より少し川上に舟は
着いたのであった。御人数は川向いに立って忠興君の御渡りを待ったので、忠興君は、

「これからは左様にはせず、予定通り先へ押し進み申すように」との旨を仰せ渡された。その晩、忠興君
は太田<一本ニ戸田>の宿に御陣を取りなさった。翌日3日、忠興君は御嶽<一本ニ見竹>の宿において
御機嫌が悪くなり、与一郎様(細川忠隆)との御仲は御不快となった。

その詳細は、忠隆君が先陣として若狭小浜の城下を御通りになった時、城中より使者が来て「城の周辺は
御避けになって下道を御通りくだされ」と申したので、その意に任せられて脇道を御通りになられた。

それから二番目に玄蕃殿(細川興元)が御押し通りになると、城中よりまた前述の趣を断りに遣してきた。

玄蕃殿は「出陣の門出で端の道を通るなんてことがあるか。異議に及ぶならば、打ち破ってでも通る!」
と仰せになって進み行きなさった。城内からもこれを妨害する支障もなく、玄蕃殿は押し通りなさった。

忠興君はこの事を御聞きになって玄蕃殿に御褒美なされ「与一郎は軍法を知らぬ!」と御怒りになられた。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


あれでも能の上手か!?

2018年07月08日 18:20

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 22:15:35.57 ID:9Qmq/53U
細川越中守忠興の家臣に、中村庄兵衛といって千石を取りし侍が有ったが、その子である左馬介は
能の脇を良くして、役者にも勝っていると、その時代の評判であった。

有る時、法楽の能で船弁慶を勤めた時、白洲の見物の中から「あれでも能の上手か!?」と、声高に
あざ笑う声が聞こえた。左馬介はこれを聞きとがめ、能が済んだ後、これを言った者を引き止めどう言うことか
尋ねた所

「私は船頭ですから、能の事は良く解りませんが、ただし波風の荒い時の船の漕ぎ様は、ああではありません。
艫の押し方、抱え方、間違っています。
またいくら弁慶と言っても、波風の荒い時はあのように船中に立つことは出来ません。」

これを聞いた左馬介は、彼から波風の荒い時に船中で立ち応える方法、並びに船の漕ぎ方を詳しく尋ね、
以降の船弁慶にこの心得を活かした。

左馬介は後に中村靭負と名乗った。何事もこのように、その道の人間に尋ねるべきである。

(渡邊幸庵對書)




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 22:39:49.02 ID:8XKizmlU
左馬介「悪口言ってたのはお前か」
船頭(やべえ…)

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 23:05:53.00 ID:nc14XRd9
いつ血生臭い話になるかとドキドキした

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 09:01:24.43 ID:ETD5YrSf
途中まで、ぶった切る話かと思ったw
芸の道と武士のメンツは、違うということか。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 09:44:35.67 ID:9qBl9iy9
観客の中にプロがいて、劇中の役柄に文句をつける

役者が真摯に教えを乞うて芸が一段上がる




これ芸能の故事によく出てくるテンプレの流れな

秀頼公が降らせたとしたら

2018年03月04日 21:07

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 18:25:56.35 ID:dDdfXZzE
寛永八年五月八日、江戸にて霰が降る。
この霰はとても大きく屋根をつきぬけ死人が出たほどであるという。
この日は豊臣秀頼の十七回忌であり秀頼の祟りであると皆噂した。
そんなときに三斎様が忠利への手紙に書いた一言
「秀頼公が降らせたとしたら小米ほどの霰にしかならねーだろ」

ひどい言いようである。



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 21:52:24.34 ID:1/g86kDk
>>575
面白いw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 02:35:05.49 ID:WZikKtO0
なんで小米なのか説明よろしく

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 08:12:54.52 ID:SRBMFBnt
小物だから、てことじゃダメなのか

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 20:27:09.16 ID:+GYwg/Yu
普通に考えて 、秀頼は高く評価仕様がない

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 22:42:42.32 ID:E7L7esSF
確かにひどいなw

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:10:37.02 ID:22URxcVa
後のシャオミである

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:12:06.25 ID:ib5vEmNz
信雄や足利義昭のようにはいかなかったんだな。

尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

2017年02月14日 10:09

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 01:09:14.70 ID:BgQ72oq0
尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

 大阪の乱のとき、塩賊は尼崎侯の葵紋がついた兵器や提燈を観て驚愕落胆した。
この尼崎の祖先は御当家松平の御同族で信定といい、三河国桜井城に住んでいた。
よってその子孫を桜井の松平家と称す。このためであろうか桜花を家紋としている。
しかし松平の族なので葵が元来の家紋である。

 しかし桜花の家紋には違う理由があるのだとか。
あるとき彼の祖先の誰かが、細川三斎〔忠興〕の宅に行って碁をしていたが、
その時に神君に招かれるということがあった。
すぐに赴こうとして、その者が三斎に

「今、それがしが今着ている服は殊に汚れている。
よろしかったら君の衣を借りて着たいのだが。」

と言うと三斎は喜んで彼の家の服を与えた。
よって今桜井の家は九曜星の紋を用いるのはこれから始まったという。
〔細川氏の家紋は、今も九曜星である〕

 また桜井の家は今はもっぱら九曜を用いているが、もとは葵葉が正式の家紋なので、
この家の者は皆は正式の時には葵紋を用いている。
葵紋を用いるのは変事に限らないという。

(甲子夜話三篇)
参照:桜井松平家『桜井桜』
桜井桜



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 02:16:00.22 ID:clIcZdKw
塩賊がわからん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:37:43.53 ID:+WvvCSyd
塩の密売人

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:42:04.94 ID:clIcZdKw
それとこれがどう関係するん?

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 08:06:11.49 ID:RoaBpj1c
大塩平八郎の一党の事じゃないの>塩賊

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 16:59:51.38 ID:8P63j5pE
超時空関羽のことだよ

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 20:20:51.66 ID:mYu93Acq
塩派とタレ派で騒動があったんだよきっと

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 22:56:32.10 ID:4eHEPjx1
俺塩派

朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

2017年02月01日 09:18

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:28:57.14 ID:BhaUGTgD
朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

 細川氏の家で作られているものに、朝鮮飴と呼ぶものがある。
予は時々彼の家の知り合いの者からもらっている。
 ある日思った。
これはきっと彼の祖が朝鮮討のときに、渡海してかの国から伝えてきたものである、と。
 そこで肥州(松浦熈※松浦静山の息子)に細川氏の者に尋ねさせた。
支家の細川能州(利用)が答えられるに、
「本家の二代越中守忠興が、文禄元年〔壬辰〕に、秀吉の命により朝鮮へ渡り、翌年冬に帰国しました。
そのときから製法が家伝したと思われます。」
とのことであった。
ならばやっぱりかの俘囚から得たものか。
 予の家の陶器(平戸焼)と同類である。

(甲子夜話三篇)



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:35:06.58 ID:FoQj+jav
ウィキみると清正由来だな

この清水の作の脇差を帯び、

2016年12月08日 17:18

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 00:12:35.81 ID:J91C5wri
>>390の続き

 寛永中、細川三斎入道忠興は、帰国の際に別辞を述べるため猷廟(家光)と対面し
そこで御馬を贈られた。
それから西の丸に登り、台廟(徳川秀忠)の御前に召された。
旅中に服用するようにと御薬を与えられ、直接清水藤四郎の御脇差を下された。
その時の仰せで

「我が前にお前たちと共に太閤の前にいて談話していたときから、お前はこの脇差を見て、
『ああ、この清水の作の脇差を帯び、利休の尻膨れ茶入がある茶事を催せたら、
生涯の至楽に足れるのに』
と申していたな。
その言葉は今も耳底に残っていたのでお前にこの脇差を授けたのだ。」

とあり、忠興は感謝して退いたという。
〔この頃には尻膨れの茶入が既に細川家の物となっていたという〕。


(甲子夜話)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 10:36:20.98 ID:Db/1OrV5
>>394
これ忠興は利休に散々「茶室に脇差差して入るな」って注意されてたのに
その教えをガン無視して、利休の茶入れで脇差差して茶会やるっていう悪い話でもある

細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

2016年10月08日 21:10

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 22:16:35.47 ID:ydBTguYg
細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

軍講者宗耕の話である。

 大坂陣起ころうとする前、細川三斎は領国にいた。
宇土から熊本に行く途中、何者かが馬上で深網笠をかぶって行く者に会った。
三斎はその者と間近くで行き過ぎざまに振り返った。

三斎は左右に問うた。
「今の馬上の士、お前たちは何者かを知っているか。」

「知りません。」

「あれは塙団右衛門だ。どうしてこの地に来たのか。
我はあやうく打ち捨てようと思ったが、そのままにしておいた。
もしかすると、遠からず変事が起こるだろう」

 果たして、その後間もなく大坂の乱が起こったという。
後に思うと、塙は薩摩へ行く途中であろう。そうならば大坂の戦の最後で
秀頼も薩摩へ落ちて行ったが、なにか薩州と由縁があるのだろうか。
神君にも御弁えられていることなので、捨て置かれしとのことなのだろうかと。

 またこのことをある席上で細川の留守居へ問うと
「この話にでてくるのは、まさしく三斎である。」
と言ったそうだ。
薩摩の留守居も居たが、
「これはどうしたことであろうか、よく知りません。」
と答えたそうだ。
思うに、薩摩の留守居は憚ったのだろうか、そもそも知らなかったのだろうか。
(甲子夜話三篇)



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 23:46:30.86 ID:hBlmd/qS
細川の肥後入りって大坂の陣より後じゃね?

ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

2016年08月25日 14:55

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。



細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)



通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。