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「八幡の藪」事件

2022年04月14日 16:32

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/13(水) 22:48:27.28 ID:v2cJDMcC
広島県三原市八幡町字野串の山中に存在する宝篋印塔墓には、一つの伝説が伝わっている。

天正15年(1587年)、河野通直が二十四歳で没し、河野宗家滅亡。これに四十名余りの家臣も殉死したとされ……しかし、河野宗家の血は未だ絶えていなかった。
先代通宣の庶子、通昭。母方が荒木村重の一族である彼は、河野氏の改易後は山城の国芹川村で暮らしていたが、通直が死に遺臣一同の運動にも豊臣秀吉には河野氏再興を許す意思がないと判断するや、遂にその暗殺を決意。
当人は計画を実行する前に老齢で死去したので、これも高齢な長男通許六十二歳ではなく、次男通軌がこれを引き継ぐ。

文禄元年(1592年)4月9日、九州に下向する秀吉が備後国御調八幡宮に立ち寄って戦勝祈願をすると知った通軌は、一族の得能備後、和田左衛門、栗山因幡、土居兵庫父子、松本美濃ら河野氏の遺臣と神社の藪に潜み秀吉を狙撃しようとしたが、立ちどころに露見。
全員が秀吉が訪れる前に討ち果たされてしまったと言う。その際、討ち果たされた通軌の墓こそ字野串の宝篋印塔墓で、周囲の小ぶりは墓群は共に討ち果たされた遺臣達のものであると。

……この事は「河野家譜 築山本」や郷土史、貫心流剣術などの伝承に大同小異な異説が記されており、三原市は史実ではない伝承と市史で疑問を呈したり、史家によっては毛利家が不祥事を揉み消したのだろう等と推測したりもしていますが……。

一説に、この時に御調八幡宮の藪に待ち伏せていた河野氏の遺臣は三百人とか。
……斬り込みではなく狙撃で三桁も待ち伏せる必要があったのかと思いますが、そりゃ事前に露見しますよ。

尚、計画を何も知らされていなかった長男の通許は連座を恐れ、苗字を母方の築山姓に変えて諸国を流浪の旅に出る事で族滅を免れた。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/13(水) 22:52:55.72 ID:v2cJDMcC
以上、「八幡の藪」事件とも呼ばれる秀吉襲撃未遂事件。

この場合、河野氏遺臣団の手際の悪い話か、六十を超えて計画は知らされていなかったのに父と弟のせいで諸国を流浪する破目に陥った長兄の運の悪い話か?



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末まで磨く玉鉾の道

2022年02月12日 15:36

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/12(土) 09:33:18.17 ID:nZ1BKNY5
戦国時代のころ、来島城主久留島氏丹後守康吉(村上康吉)の家臣に、田坂槍之助(鑓之助)貞掾という
武芸に秀でた来島水軍切っての豪勇無双の武士がいた。

槍之助という名は主君より命名されたもので、槍之助の槍の妙技はすばらしいものであったということだ。

ある時、来島瀬戸を十反帆ばかりの船に乗った芸州・佐伯氏の家臣二十数名が、海の通行税である帆別銭を払わずに
来島海峡を強引に通過しようとしたことがもとで、槍之助と決闘になった。

小舟に乗って佐伯の船を追いかける槍之助
(# ゚Д゚)「帆別銭払えやゴルァ!天下の法を蔑ろにするんじゃねぇ!」

一人と見て舐め腐った態度の佐伯家臣
( ´∀` )「この広い海に関所を設けようとは笑止。帆別銭が欲しければどこまでもついてこい」

(# ゚Д゚)「んんんんんー、許るさーん!!」

怒った槍之助は相手の船に乗り込み遂に佐伯の家臣と決闘に及んだ。刀を抜いて応戦する佐伯の家臣達であったが舟の戦に慣れた槍之助の敵ではなく
ただちに2名が突き伏せられ、船が潮に流され潮に流されて船が桜井(今治市)の志々満が原のあたりから江口の浜辺に着いた時には、
八人が突き倒され、六人が深手を負わされるという有様、佐伯の家臣らは船上での戦いは勝ち目がないと考え、陸上で勝負をしてくれるように槍之助に頼んだという。

(# ゚Д゚)「よかろう」

義理人情に厚い槍之助は船上から砂浜に場所を変え、残った7、8人ほどの佐伯の家臣と渡り合い、
ここでも5,6人を突き伏せ手傷を負わせたがいかに槍之助が強いとはいえ多勢に無勢、最後は力尽きて
討たれ、首を取られてしまった。

とはいえ生き残った佐伯の家臣は5人、無傷の者は1人だけと言う有様だったという。

佐伯の家臣らは槍之助の首を塩漬けにして安芸の国へ持ち帰り、主人の佐伯公に槍之助の首を見せ事の次第を説明したところ・・・


(#^ω^)「天下の法を破った上にたった1人に後れを取るとか情け無さ過ぎんだろJK」

この家臣らは佐伯公に全員追放されたという。

338 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/12(土) 09:47:35.56 ID:nZ1BKNY5
今治の里の人たちは法を守るため、身命を顧みなかった槍之助を称えてその亡骸を桜井の入り江の浜にねんごろに葬った。

その後、槍之助の墓の前を馬に乗って通り過ぎる者があれば不思議と悶え苦しむということが相次いだため、
里人はこれを槍之助の迷える魂の祟りではないかと考え、小さな社を立てて江口八幡宮(入江の八幡宮)と呼んで
その霊を丁重に祭った。

現在、この小さな社は沖浦(旧桜井町沖浦)の江口山(俗に明神山ともいう。)の頂のながめのよい所にあり、
現在桜井の網敷天満宮の境内にも小祠が設けられていまる。またこの小さい社を設けた時に、次の一首を献納して神体としたということだ。

‟槍水の流れ涼しき田坂氏”
 末まで磨く玉鉾の道

今治地方の伝説集 43.槍の名人 田坂槍之助
https://www.imabaricci.or.jp/%e4%bb%8a%e6%b2%bb%e5%9c%b0%e6%96%b9%e3%81%ae%e4%bc%9d%e8%aa%ac%e9%9b%86/#yarinomeizin



泉光寺不動像由来

2021年11月22日 16:57

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/21(日) 16:01:22.28 ID:Fvc+5BzI
大永年中に河野四郎通直(弾正少弼。伊予の名族)は予州の氏族を滅ぼしてその領地を併せ持ち、
自家を大きくして国中の兵将を押し靡かんと望んだ。まず不服の氏族を攻めて軍諍を始め、
この時に今岡、重見、河野の一家など同姓の輩が他国に分散した。
(中略)各々弱は強に制せられてその領地を削られ、あるいは殺戮され、追放された。

ところで、河野家の祖先に“息方(ヲキガタ)”という人がいたがこの人について異伝がある。
往昔の河野家に右衛門三郎といって門戸を守る者がいた。その気性は強暴で哀愍の情は少なく、
乞食人を嫌って門戸に入れなかった。四国は弘法大師出生の地で、仏法流布の境域である。
真言を宗とする者は四国辺路を物乞いし、霊仏を巡礼して菩提を祈ったが、
右衛門三郎はこうした人をも門内に入れなかった。

右衛門三郎が年老いて臨終の時、僧1人が来て曰く「汝は生涯強暴にして慈悲心もなかった。
しかしながら潔白にして正直であった。何であっても未来の願があるならば、叶えて取らせよう」
右衛門三郎は曰く「我が何を願い、何を憂いようか。我に願うことはない。
しかしもし願って叶うというならば、我が君河野殿の子に生まれることだろうか」

僧は「その願を合えん」と言うと白玉を出して左手に握らせ、死に赴かせた。
果たして河野の子は白玉を握って出生した。これを息方というのである。
息方は成長後に河野家を継ぎ、不動の像を造ってその白玉を玉眼とし、これを崇信して氏の証とした。

その後裔は今度の内乱で郷里を去る時、不動像を背負って讃州坂田庄室山の下に来たり、
一宇を安置して泉光寺と号した。この名は清泉があったことが由来である。
天正年中の大地震(天正地震)により天下悩乱し、大地は割れて白水を出し、大山は崩れて郷里は埋まり、
平陸は破れて海底に沈むことがあった。この時、室山は崩れて泉光寺は地の底に埋まった。

河野氏族は深く嘆いて掘り出そうとしたが力足らずして止め、ここに新たに堂を立て不動像を造り、
旧所に安置して河野氏族の氏寺とした。その一宇は今も存在する。その部類はなお多い。

――『南海通記

異伝は空海と衛門三郎の伝承に酷似しているが通直に追われた河野氏族に伝承されていたものか



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/21(日) 16:17:25.55 ID:mcu/nSEA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11862.html
この下の方にも衛門三郎と空海の話があるな

仏さんに閉門を申しつけた男

2021年08月29日 15:17

991 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/29(日) 01:27:52.83 ID:yFDY/hbU
仏さんに閉門を申しつけた男

愛媛県今治市に伝わるお話。
昔、町谷の歓喜寺の近くの街道に小さなお堂があった。そのお堂には河野源六とその一族の供養塔が祭られていた。

だが、当の河野源六がそのお堂の前を馬に乗って通ると何故か決まってそこでだけ必ず落馬してしまうのであった。

ある日、遂に腹を立てた源六は仏さんに向かって

「閉門申しつける!」

と叫んで2枚の板を持ち寄り、お堂に×の字に板を打ち付けた。これ以降源六がこのお堂の前で落馬することは無くなったと言う。

お堂のあった場所の街道はは今では狭いあぜ道程度の細さとなってしまい、この場所にあったお堂や河野一族の供養塔は撤去されて歓喜寺に移され、跡地には『河野源六一族之墓跡』(昭和三十四年十一月建立)と言う石碑が建っている。

実際は、宝篋印塔で供養塔の一つだが、歓喜寺に移す時に人骨が多く出たということでお墓として祭られているのだそうだ。

源六の経歴については一切わかっていないが、歓喜寺には『源光院徳巌圓智居士神像』(表)『じ大永七丁亥十一月九べい河野苗裔俗名源六』(裏)と書かれた位牌ががあるため、相当身分の高い武人であったと推定され、大永七年(1527)に亡くなったとされる。
(参考サイト:今治市商工会)

ちなみに、この河野源六通明は下記参考サイトによると大宇多山城の城主であったそうで、そちらで紹介されている文献では中国勢の武田家や小笠原家の攻撃を受けて城は落城したものの、その後も原野で敵を相手に戦い続けた源六であったが、遂には馬より転んで落ちて戦死したのだと言う。


参考サイト
今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話44)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu

古山城・今治市朝倉上 大宇多山城跡を歩く①
https://ameblo.jp/girou88/entry-12653243759.html



992 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/29(日) 06:53:45.25 ID:WSNlkNfl
藤原廣當 筆
https://www.touken-world.jp/search-calligraphy/art0002110/
落馬した金砕棒を持った武者が敵の一太刀を首に受ける瞬間が描かれている。

笹ヶ峠の合戦

2014年06月04日 18:51

440 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/03(火) 21:37:05.61 ID:qswNWPmO
河野家の家来、大除城主大野直昌の弟に大野直之という者がいた。

直之は菅田城を守っていたが、長曽我部元親と通じ河野家に叛いた。
しかし謀叛は失敗し、降参。直之は小田町で具足5両分(300石)の地を与えられ、兄直昌に厳しく監視されることとなった。
しかし直之はこの処置を不服として、妻子を連れ長曽我部を頼って逐電した。

あくる年(天正2年)長曽我部元親から大除城に西村左近という使者がやってきた。

元親「先年、我らを頼ってきた直之ですが謀叛を悔やんでおり、貴殿を頼って詫び言を申したいそうです。どうか私に河野家へ帰還の仲介をさせてください。」

この申し出に直昌は大変喜び、元親の計らいに感謝した。
そして使者は往復し、再度大除城にやってきた。

元親「このたび兄弟が和睦したのは大変喜ばしいことです。今月下旬に直之をつれて行きますので、国境で引き合わせます。隣国同士の申し合わせなどもしたく思いますので、私も伺います。」

と申し出があり、国境の笹ヶ峠で会見することとなった。
しかし、これは罠だった。

天正2年甲戌8月25日、両方共に御出馬有り。
長宗我部元親は直之を伴って三ツ石の峠に、大野直昌はそれより50町ばかり離れた秋望田まで出向き、互いに礼儀の使者を向かわせた後に会見の場まで進んだ。
元親はこの時、童子ヶ成の茂みに伏兵を置いていた。伏兵は大野勢が間近くなると、どっと鬨の声をあげて襲いかかった。
思いもよらぬ奇襲に大野勢は混乱したが、大野直昌は士卒を制し

直昌「きたなし元親!尋常の合戦では勝ち目がないと思い、だまし討ちとは愚か者め!」

と、秋望田の軍勢と合流し戦ったが、大野勢は素肌に裃という出で立ちだったため立ち直すことは難しく、瞬く間に300人も討ち取られ手負いも多数。
中でも直昌の弟、大野九郎兵衛、東筑前守城戸六郎、土居下野守をはじめとして嘉土・樋口・林・安持・荒川・近沢などの侍大将や物頭70余人は乱戦の中で悉く討死を遂げた。直昌の秘蔵の少姓船草民丸、梅木弥九郎丸も討死した。
長宗我部勢は家老の長野信濃ノ守兄弟が前備えで討死。 寺町右近をはじめ70余人討死、元親の長男弥三郎信親、三男津野弥次郎が手傷を負うなど激戦だった。
大野勢の尾首掃部、尾崎丹後守、土居式部、日野九郎左衛門の四人が敵を食い止めたため、直昌らは妙見ヶ森まで退却することができた。

その夜、大野勢が戦に疲れ果て休んでいると、近江守直好に北極星が語りかけてきた。

北極星「私は国常立尊なり。今から夜襲したら勝てるぞ。」

夢か現か。直好は驚いて直昌に告げると、直昌は大いに喜んで、すぐさま夜襲を仕掛けた。
一方そのころ、長曽我部の陣では、夜明けと共に大野勢に攻めかかろうと軍議をしていた所、大野勢が襲いかかってきたため大混乱に陥った。
まともな応戦もできず、討ち取られる者数知れず。
しかし元親は心剛の大将だったので、ひしひしと物具をかため、士卒を励まし戦ったが、ついに甫見江坂の東まで五十町ばかり退却し、勝敗は決した。
大野勢は小勢だったため、深追いは避け引き返した。
勝ったとはいえ、大野勢の被害は甚大で散々の体だった。

この戦いを笹ヶ峠の合戦といい、以後この地を大野ヶ原と呼ぶようになった。


442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:07:38.94 ID:ujeKQBOe
長宗我部の西伊予攻めの被害は凄まじいな
わざわざ攻める必要があったの?黒瀬を抑えるだけでよかったのでは

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:35:59.73 ID:hHdCeLBU
長宗我部滅亡の遠因だもんな
久武さんさえ生きてれば…

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:57:21.60 ID:TcYRoZn5
出典何これ
伊予でこんな戦いあったなんて知らないんだけど

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:09:45.84 ID:suBP2CaS
家譜かなんかに記述あるだけで一次資料がないから
未だに実在したと確定されてない戦いじゃなかったか

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:20:22.81 ID:MGbcUGbX
戦国無双4でまんまと色仕掛けに騙された兄弟>大野兄弟
にもこんな勇壮な話が、と思ったら確定してないのか

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:26:49.72 ID:Ko1WAuGx
出典は知らんが家紋のサイトには載ってるな

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/04(水) 11:38:42.48 ID:K/FU7+o2
笹が峠の合戦のことは
大野家四十八家次第、伊豫温故禄、予陽河野家譜などに載ってます

史実かどうかは・・・

大除城(おおよけじょう)

2014年05月25日 18:53

17 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/24(土) 22:54:38.61 ID:jcM12/GD
河野家の旗下にあった伊予の南部、久万山の辺りは仲の悪い小豪族が割拠している状態だったため、しばしば
土佐の一条家が乱入し、悩まされていた。
そのため河野氏は久万山に築城し「大いに敵を払い除く」という願いを込めて大除城(おおよけじょう)と
名付けた。
また、大除城を中心に30もの支城を築き、城主として重臣の大野直家を置き、守りを固めた。

この大野直家の孫にあたる大野直昌のころ、大除城は長曽我部の軍勢に城を囲まれ落城の危機に瀕した。

大野直昌は信仰する山神に加護を求め、小姓衆に山神(ダイバ)の面を付けさせ、太鼓や樽を打ち鳴らし
山神に奉納した。
すると俄かに大雨となり、大野勢は大雨に乗じて打って出て長曽我部勢を破った。
これ以来、大野直昌は山神への信仰を厚くし、山神への感謝と共に、仮面をつけ太鼓を打ち鳴らし
奉納したという。


この大野直昌の故事に着想を得て、昭和59年に創作したものが久万山五神太鼓らしいです。




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 23:15:08.50 ID:vaqFf0dC
山神はたいてい姫をよこせと要求して断られて大暴れするけど、奉納されるものにたいしては機嫌が良くなるんだな

豫州河野家の木鉄砲

2011年05月24日 01:12

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 11:30:39.39 ID:mqf8o2ov
永禄年間(1558~70)、伊予の河野通直は、安芸・毛利氏の拡大に対抗するため
豊後の大友義鑑(宗麟)と同盟した。

さてその頃、鉄砲の技術の先進地といえば永正よりこのかた、豊後大友家だとされていた。
そのため河野通直は友好関係を利用し大友家に頼み豊後府中より鉄砲技術者を派遣してもらい、
家中の者たちに煙硝の採取の仕方、弾薬の製造方法などを学ばせ、火器を大量に生産した。
この鉄砲の大量装備により河野家の防衛力は格段に強化され、その鉄砲術は
「河野流」として東国まで響き渡ったという。

しかして、瀬戸内海で中国、九州と面する長い海岸線を持つ伊予において、
その海邊を守るには鉄砲の砲弾を大きくすること、すなわち大筒の製造こそ
最も効果があると、当時の河野家は考えた。

ではあるが、ノウハウが無い以上すぐに大筒を作ることは無理である。
そのため河野家は大筒製造のため様々な研究を始めた。

ところで河野家が考えたのは、木の砲身の大筒であった。おそらく金属の砲身を作るような
鋳造技術がなかったためであろう。

まず、松の生木を繰り抜いて砲とし、これに金輪をはめてしっかりと固め、
この砲径に合わせた弾丸を作り弾薬を調合して発射実験を行った。
が、これは弾丸を撃ち出すと必ず砲身も破裂し、とても実用に堪えるものではなかった。

次に、同じく松の砲身を今度は縄で巻いた物で試したが、やはり砲身は壊れた。
このように様々な実験を繰り返したものの、どれも上手く行かなかった。

そんな時、ある者が工夫をなして、竹の輪を作って砲身を桶のようにせめ懸けて固め、
これで弾丸を発射。何と、これだと木筒は破損せず弾丸は無事発射された。

この事を喜んだ河野家は、さらに木筒の技術研究を薦め、その運用術も様々に実験した。
そして海邊にこれを多く設置し、敵船が攻め上がってくれば間近まで引きつけた上で
高楼より下に向かってこの大筒を発射。これに当たればいかなる大艦もたちどころに
破壊され、河野の大筒の威力に敵はあえて伊予の海邊に近づこうとしなかったという。

豫州河野家、木鉄砲のおはなし。
(南海治乱記)




773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 11:36:11.07 ID:Df+DbdQY
伊予の大名さんは研究好きだね

幕末の伊達も色々やってるけど

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 16:42:10.62 ID:wmKs6MBJ
大坂の陣でも登場するし
木砲って意外と頻繁に使われていたのかな。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 16:52:49.84 ID:s4/UxCrB
木砲良さそうだけど火薬が大量に必要そう
貧乏大名じゃ気軽に発射出来ないな

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 19:34:28.92 ID:Iiy+65HJ
鉄製の大砲は輸送面で問題がでるそうだ。
道は悪いし、山道が多くて、重い鉄製の大砲は避けられたらしい。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 20:05:26.96 ID:/vQHDJKn
モンゴル軍ばりのカタパルトはダメだったのか。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 22:26:20.69 ID:pCDoygft
>>776
携帯に秀でた大砲といやあグスタフ2世アドルフだな
その名も皮製大砲<故障が多かったみたいだがな
だがスピードと破壊力は現代を凌ぐほど凄まじいものがあったらしい、確か検証してた

何とも微妙な河野通直の動物話

2010年02月07日 00:01

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 20:38:30 ID:Xzx3LBeL
動物を助けたからといっていつもいいことがある訳じゃないと思うんだ。
ということで動物話をもう一つ。

何とも微妙な河野通直の動物話。
一杯いる通直さんのうち、以下の話と同じ頃、同じ通直さんの話のようです。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3317.html

通直さんの奥方がある日突然二人になってしまう。
見た目も振る舞いにも違いがなく、どちらが本物なのか全くわからない。
ところが食事を与えると、一方が怪しくガツガツ食うのを見てそちらを捕らえると狐が正体を現した。

怒り心頭の通直さん、さっそく火あぶりにしてしまおうとするのだけれど、そこに大勢の狐たちが現れる。
そやつらは口を揃えて
「貴狐明神の末稲荷の使者長狐という狐の王で、殺してしまうと災いが起こるので命だけは助けてほしい」
と通直さんに頼み込んだ。

それを聞いた通直さんは狐たちが四国からいなくなることを条件に狐の命を助けることに。
誓文を書いた狐たちは四国を立ち去ったとのこと。
めでたしめでたし。

……で、結局四国から狐がいなくなったそうなのですが、
そもそもそんな偉い狐が奥方に化けて何したかったの?、とか
恩を返す訳でもなく追放するだけで何かいいことあったの?、とか
いろいろツッコミどころもある訳です。
挙句に孫の方の通直さんは自分が四国を立ち去る事になって河野氏自体滅んでしまうんですけどね。

ということで、タダのいたずらにしても騙す方、騙される方のウィット成分も少ない、
地味な戦国四国の狐にまつわる悪い(?)話、でした。




320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 21:06:03 ID:1aZx73Ey
>>319
四国といえば狸らしいから、その起源(ただし後付け?)話なのかな?

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 21:17:33 ID:PvfqiWZW
狐が四国から出て行くのは弘法大師の話

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 21:21:35 ID:sfU/cvhk
>>321
それもあるねー。「鉄の橋が架かるまで戻ってこられない」ってやつ。
実際橋効果は絶大なのか、今日もニュースで四国では十数年前から狐の目撃例が増えたと言ってた。
戦国時代にも狐追い出し逸話があったんだ。
やっぱり皆なんで四国には狐いないんだろうと思ってたんだな。

河野通直、幕府御相伴衆任官まで

2009年12月13日 00:07

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:03:07 ID:MUPBnWCG
天文八年のこと。
権威付けのためか、伊予の河野通直は幕府御相伴衆になるべく、働きかけを行った。
さて、これが結構大変である。

通直は幕府中枢にパイプがなかったらしい。
どういう経緯か、名門公卿・近衛尚通の正室が動いている。
彼女は幕府内談衆の大舘晴光へこの話を持ちかける。
晴光は父親で、同じく内談衆として幕政を動かす大舘常興へ頼んだ。
常興は、将軍・足利義晴を擁立した実力者、近江の六角定頼へ仲介。
ここで初めて、御相伴衆就任についての検討が始まる。
定頼も加わった会議では、河野氏を加えることに反対意見も出たものの、義晴の存念次第と決まる。
この結果は定頼から常興へ伝えられ、常興は晴光に書状を送り、そして尚道正室へ知らされた。

翌年、通直が御相伴衆に任じられることが決定。
通直は御礼として義晴へ太刀と二千疋、嫡男の義輝にも馬と太刀を進上した。
こうして、ようやく通直は念願を果たしたのであった。




71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:37:32 ID:M5JKWG2p
権威付けにしてもその当時の室町幕府それほど権威あったのかな?

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:48:13 ID:NF0/lZXv
>>71
実権はともかくとしても、権威はそこそこ生きていたみたいだよ。
その幕府の権威ゆえに、三好長慶や信長だって苦労することになるわけだし

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 20:15:49 ID:DwFBCdhh
河野通直は河野氏の中では傍流(一説には来島通康の子)であり、
永禄11年(1568)に伊予守護、河野家当主となるものの、本来ならその権利は無かった。

この当時将軍直臣というものは、守護権力の掣肘を受けない権利があり、
通直は守護権力に対する自己の立場の強化も狙って、幕府御相伴衆への就任を
考えたのでしょう。


75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:27:15 ID:A3F3qu0x
>>73の通直と>>70の通直は同一人物ちゃう。河野氏は通直さんばっかりなので間違えないでね!
当主だけで通直3人、通宣2人いるのですよ……。
今の研究だと
1.教通(通直とも、応仁の乱の頃の人)
2.通宣(刑部大夫、何故か来島で死去)
3.通直(弾正少弼、>>70の人、晴通と争って負ける、来島通康に娘を嫁がせる)、>>70はこの辺
4.晴通(かつては分家出身と言われたが今では3.の通直の実子と言われる)
5.通直(数年後の晴通の病死?暗殺?で3の通直復帰)
6.通宣(左京大夫、晴通の弟、同じく分家出身と言われたが、今では3.の通直実子と言われる)
7.通直(伊予守、かつては庶流池原通吉実子と言われたが、最近では来島通康実子説と6.の通宣実子説が有力、かな)



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:29:22 ID:DwFBCdhh
>>75
おおお、勘違いしていたか…
しかし何とややこしいw

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:37:48 ID:A3F3qu0x
>>76
すまぬ、もう一人通直さん忘れてた。
教通の曾祖父、通尭も通直と名乗ったらしい。
通尭さんは戦国時代じゃないが超がつく苦労人。

子供の頃、同じ北朝のはずなのに隣の細川頼之に攻め込まれ父が討ち死に。
家臣に助けられて九州に落ち延びて南朝に転向。
九州で活躍の後、満を持して南朝の助けも得て伊予に帰国。
伊予を抑えると北朝に戻って伊予守護職を義満さんからゲット。
ちょうど中央では細川頼之が失脚。
といっても軍事力山盛りの頼之にやっぱり攻め込まれて伊予の世田山で討ち死に。
幼い子は何とか義満のおかげで伊予守護職を確保したけど……。

伊予は戦国時代の前から守護権力が怪しかったという全然よくない話でした。
スマソ

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 08:19:49 ID:7bT5VcCl
>>77
地元の話題ktkr
世田山は新田義貞の弟が北朝の軍に敗れて自刃したりしてるね。