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「朝野雑載」から筑紫広門、秀吉に謁見

2023年04月10日 19:25

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/08(土) 22:37:02.89 ID:W1P9uE03
朝野雑載」から筑紫広門、秀吉に謁見

筑紫上野介(筑紫広門)は大阪に上って太閤に謁見した。
太閤「筑紫では我のことをどう言っておる?」
上野介「西国においては、上様については人ではなく神のように申しております。
また上様のようなお方を見出された信長公は、なおさら霊妙な御知恵だと申しております」
これを聞いた太閤は
「その方の申すとおりである。しかし信長は片目であった」とおっしゃった。
上野介「信長公が片目だとは聞いたことはありませんが」
太閤曰く「信長は片方の見えている方の眼では我のようなものを見出した。
しかし見えていない方の眼では明智のような悪人を良い者として取り立てたのだ。
まさしく片目ではないか?」



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貝原益軒「朝野雑載」から大友宗麟の和歌

2023年04月06日 19:18

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/05(水) 19:27:04.81 ID:jWaTSmOW
貝原益軒朝野雑載」から大友宗麟の和歌

大友義鎮(宗麟)は諸芸に通じ、歌道にも達していた。
あるとき戯れにオウムの歌を詠んだ
「なびくなよ、しめておく野の女郎花 思ふかたより風はふくとも」
「なびくまじ、しめて置のの女郎花 思ふかたより風はふくとも」
この両首をどうしたわけか天子が聞こしめし、「雪の中の早苗」「蛍火の灰」という難題を豊後国に下されたため、この禁題にて義鎮が詠んだ

雪中早苗
富士うつる田子の浦わの里人は 雪の中にもさなへとるなり

蛍火灰
夜もすがらともす蛍の火も消て いけの真こもに、はひかかりけり

天子より題を下されたるこころを
思ひきや筑紫の海の果までも 和歌の浦波かかるべしとは

この三首を奏聞したため、叡感があったという。

※存斎(貝原益軒の兄)が言うには、終わりの歌は難題二つの歌に対する天子の賞賛の御製であろう

なびくなよ…なびくまじ…の両歌は
細川忠興「なびくなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
ガラシャ「なびくまじ我がませ垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
に似ているが、本歌があるのだろうか

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/05(水) 19:31:53.70 ID:jWaTSmOW
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3316.html
名門武家の若者、後奈良天皇の求めに

こちらの話だと宗麟が若い頃に参内して後奈良天皇の前で「雪中早苗」一首を詠んだことになっていた



佐伯氏伝来の刀剣についての話

2022年09月13日 19:03

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/12(月) 19:20:04.66 ID:cZgjre5a
豊後佐伯氏についての伝承をまとめた「栂牟礼実録」「剣の巻」からそのほかの佐伯氏伝来の刀剣についての話

・手鉾太刀
祖母嶽大明神(蛇神)の嫡子・大神惟基より相伝された。
その昔、承和七年(840年)に惟基が参内したおり、刀を枕元に置いて昼寝をした。
それを見た雅楽之介という公家が「九州の戎とはいえ、刀は名物かも知れぬ」と抜こうとしたが抜けなかった。
そこで雅楽之介はそこを離れ、「惟基の太刀は作り物だろう。銅でも中に詰め込んでるに違いない」
と言いふらし、竹の中に鉄をこめて綿で包んで禁中の庭に立てて
「惟基よ、庭に落ちたものがある。勅定により斬ってみよ」と恥をかかせるために命じた。
惟基が一刀のもとに斬り落としたため、あての外れた公家連中は逆恨みし惟基を流罪にしようとした。
しかしその日禁中で火事が起き、惟基が太刀を使って大扉をこじ開け消火したため、惟基は豊後守に任じられた。
このため手鉾太刀は不抜の太刀とも号している。

・神息太刀
宇佐八幡大神宮が打ったとされる太刀で、寿永二年(1183年)平家追討の功により源義経から緒方惟栄に下賜された。
佐伯惟定の息子・佐伯惟重が伊勢に住んでいた元和九年(1623年)に京に研ぎに送ったところ、息女が急病で危篤となった。
これは神息太刀を京に送ったためであろうと、追いかけさせ大津の駅で取り返し佐伯家に戻したところ、門に入るやいなや息女は快気した。
そのため家を守る太刀であろうといわれている。

・巴作りの太刀
祖母嶽大明神が大神惟基の母に譲り渡した太刀と言われている。
寛永三年(1626年)十月十日、佐伯惟重の主君である伊勢津藩藩主・藤堂高次は惟重に藤堂家の屋敷まで太刀を持参させた。
高次は直接触るのは畏れ多いというので、柄を杉原紙で包んで抜こうとしたが抜けなかった。
代わりに惟重が太刀を抜いて高次に渡そうとすると、いきなり座の板敷が崩れて座中の五、六人が卒倒した。
そのため藤堂高次は太刀を手に取るのはやめ、太刀を祝うために盃を回してみなで歓談した。

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/12(月) 21:16:46.49 ID:cZgjre5a
神息太刀、巴作りの太刀は佐伯惟重関連の逸話なので問題ないと思います
手鉾太刀については逸話自体は平安時代であるものの、佐伯家の重宝ということで入れました
今までも武将の道具について並べた話はいくつか出ていますし、特に問題にはなってないかと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13414.html
二ノ谷は一ノ谷に並び、銕蓋は一ノ谷より上なりという




佐伯氏にまつわる奇瑞

2022年09月09日 19:10

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/09(金) 18:29:09.73 ID:XSLFTUOS
栂牟礼実録」の「剣の巻」から佐伯氏にまつわる奇瑞

・瀬登り脇差:佐伯惟勝の代の時に、船遊びの途中で海に誤って落としたことがあったが、脇差みずから城下の瀬まで登り、水底で光ったため惟勝に発見された。
佐伯惟治の乱の時にも所持されていたが、近頃は行方知れずになっている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13613.html

・飛龍の太刀
この太刀を鞘から抜くとハバキから刃に龍の形が移動し、鞘に刺す時には龍がハバキの元へ帰る

・佐伯氏出陣の時にいつも雨が降るが、蛇の子孫であるため吉例としている。

・佐伯氏は祖母嶽大明神(蛇神)の子孫であるため代々鱗があり、佐伯惟定には三つあった。
惟定嫡男の惟重には元和五年(1619年)十一月二十日に腋の下に一つ鱗が出現したという。

佐伯惟定が元和四年(1618年)六月九日に伊勢で没する三日前、佐伯惟康以来伝来の旗を入れた箱が鳴るという不思議があった。



静御前の薙刀

2022年09月08日 19:13

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/08(木) 17:56:38.17 ID:9uwm008Y
豊後佐伯氏について書かれた「栂牟礼実録」「剣の巻」から「静御前の薙刀」についての話

源義経は京都堀川から緒方惟栄とともに鎮西に下った時に緒方惟栄に長刀(薙刀)を下賜した。
文治元年(1185年)に土佐坊昌俊が源義経を堀川の御所で夜討ちした時、静御前がこの薙刀をふるい敵を退けたといわれるもので、小屏風と名付けられていた。
穢れのある者がこれに触れると、身がすくむことがたびたびあった。
佐伯惟定の息子、佐伯惟重の時、元和八年(1622年)夏、少し錆び付いてきたため甚三郎という者が三日の精進の後に錆を落とした。
甚三郎は三日目に死んでしまった。
人々は薙刀のためだと言い合ったという。

なぜ弁慶ではなく静御前なのだろう



柴田礼能の最期

2022年08月07日 15:21

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/06(土) 18:39:09.97 ID:ZiJm9/Jl
「大友興廃記」から槍に巧みなため宣教師から「豊後のヘラクレス」と呼ばれた柴田礼能の最期

天正十四年十二月上旬(1586年12月-1587年1月)に、島津家久は臼杵丹生島へ諸勢を繰り出し、大柳の裏の草木や岩陰から大友勢の様子を窺っていた。
そこへ先年南蛮国から渡来した大きな石火矢・国崩しを武宮武蔵守(武宮親実)が大手口より撃ちかけた。
大玉、小玉を二升ほど詰め込んでいたが、その響きは山、海に轟き、大柳の枝より上を打ち折った。
大小の玉に当たったり、大柳に押しつぶされたり、で若干の死人が出たものの薩摩勢は恐れず、かえって勢いを増して臼杵城に攻め込んできた。
豊後方の吉岡甚内は鉄砲を撃ちかけたのち、槍を振るい兜首を五つ討ち取った。また、利光彦兵衛、吉田一祐も高名をとった。
同じく豊後方の臼杵美濃守、柴田礼能は先陣として平清水口で薩摩勢と槍を合わせ、次々と討ち取り、互いに競うように敵を退けた。
しかし薩摩の者が町内の空き家に忍び込んでいて、柴田礼能を馬上から突き落とし討ち取った。
礼能の嫡男・柴田玄蕃丞(允?)は手勢二百騎を率い、敵を退け城中に戻ろうとしていたが、父の礼能が討死したと聞き、首を郎党に渡し「汝は城中に戻り注進申せ」と告げた。
郎党は「城中にお戻りになった方が良いでしょう」と申したが
玄蕃は言い捨てて敵陣へ取って返し、親の仇を討った後、自身も討ち死にした。
そののち薩摩勢も次第次第に引き取ったが、追軍をすると横矢がかかってきそうに見えた。
荒武者たちが追撃を望んだが、宗麟公御父子が仰られるには
「追撃で数十人討ち取ったところでたいして変わらないだろう。
味方に手負いや死人がない方が大利と言える。ことごとく引き取るように」
とのことで、戦は終わった。
そののち薩摩勢が来ることはなかった。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8059.html
柴田礼能については以前、「味方の八幡社ならばともかく、敵方の八幡社であれば敵だから焼いてもいい」と言ってた話が出ていた。



志賀親次の島津との合戦

2022年08月02日 18:30

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/02(火) 17:28:40.91 ID:3Lv4miiH
「大友興廃記」より志賀親次の島津との合戦

島津義久の舎弟、兵庫頭義弘が天正十四年(1586年)の冬、豊後朽網に在陣したため、大友家の大身の将どもは大友家を背き義弘に次々と従った。
ただ義弘は近くの親次の岡の城には攻めあぐねていた。
それどころか志賀親次の手の者が義弘陣所に忍び入り、小屋などをたびたび焼き払った。
また天正十四年冬の初めから翌二月の末まで、親次が攻め滅ぼした城は十五に上った。当時志賀親次は十八歳であった。

また肥後国坂足は豊後の幕下にありながら早々に薩摩勢に降っていたため、志賀親次は天正十五年三月十八日に阿蘇表に出て坂足を攻めた。
このとき志賀勢は宮ノ寺に陣を張ったが、岡城の雑兵の奴ばらは釣鐘を壊し、狛犬を焼き、社壇を破り、鳥獣を殺し、肉食をするなどの邪なる振る舞いをした。
さては軍に物の怪が取り付いたのではないかと人々はおそれた。
そんな折、薩摩勢の新納忠元、伊集院肥後守、入来院、祁答院らの四大将の軍が豊後日田から肥後国小国に到着し、この豊後勢の狼藉について地元の住人から聞き知った。
翌朝、薩摩勢の四大将は宮ノ寺の豊後勢に打ち掛かった。
豊後の先陣として中尾伊豆守、大塚典薬、朝倉伊予守、中尾駿河守、朝倉土佐守などが受けてたった。
しかし前夜に神前を穢し、その身も穢れに触れた奴ばらは、眼前に霧が襲って全く物が見えなくなり、草木を敵と思って斬りかかったり矢を放ったりした。
あたかも自ら首を刎ねてくれと言わんばかりであり、雑兵かれこれ百五十人が枕を並べて討死した。
中尾伊豆守は軍兵に「このたび山谷鳴動し、煙雲が味方を襲ったのはただごとではない。
軍気をうかがって退くべきだ」と言って退却した。
そののち豊後勢はなんとか態勢を立て直し、豊後、薩摩双方とも軍を引いた。
また朝倉一玄は「このたびの阿蘇表への出兵は、親次の勇み足であり、血気の勇に似た振る舞いであった。
若気の至りとはいえ、親次には似合わぬことであった」と言ったそうだ。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/02(火) 17:33:37.41 ID:3Lv4miiH
なお志賀親次は熱心なキリシタンだったそうで。



「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

2022年07月26日 18:10

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/26(火) 18:06:33.78 ID:4M3K0vhM
佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

その頃、豊後国内では苗字の騒動が起こり、人々が争うようになっていた。
佐伯の家は緒方惟栄(平家物語の緒方惟義とされる)の後裔であり、代々巴紋の旗を掲げていた。
戦の度に大友家の杏葉紋の旗と巴紋の旗が並んでおり、あたかも大将が二人いるようであったため、国中の侍が嫉妬した。
また子息・千代鶴を御曹司と呼ぶのは主君・義鑑公をないがしろにする行いであると非難する者もいた。
(これは文徳天皇の頃(850-858)より勅定で佐伯の家は御曹司と呼ぶことに定められたという)
とうとう佐伯惟治が祖母嶽大明神を勧請したのも逆心の表れであるという噂が出てきて、義鑑公の御耳に噂が達した。
義鑑公は惟治に使者を送り問い詰め、惟治は弁明の書状を何通も出したものの、讒者が書状をとりつがなかった。
そのため惟治は共に槍の名手である深田伯耆守・野々下弥左衛門尉を弁明のために府内に送り出したが、義鑑公により両人とも誅殺された。
そのまま惟治居城の栂牟礼城攻めとなったが、峰高く谷深く、難攻不落の地であった。
惟治も金の軍配で城兵を鼓舞し、また深田らの弔い合戦ということで士気が上がり、攻め手の大将・臼杵長景も苦戦した。
長景は城の堀を死人で埋め、雲梯・飛楼を造って城を攻めたがどうしても落ちるように思えなかった。
長景はかくなる上は武略で城を落とそうと使者を出して
「このたびの戦は私の本意ではありません。ただ義鑑公の御下知に従っているだけのことです。
しばらく豊後から日向に立ち退かれ、国を隔てて逆心のない旨を仰せられれば、この長景が謀叛の誤解を解くために全力を尽くしましょう」と再三申した。
惟治は疑っていたが、長景が熊野牛王宝印の神符に起請文を書いて送ってきたため、神仏を軽んずるべきではないと、小勢で御曹司千代鶴丸殿と共に日向に退散した。
残る城兵は降人となったが、中には「具足が欲しければ大将に渡そう」と長景に具足をほうり投げた直後に腹を切って死ぬ者もいた。
惟治が日向に退散の途中、黒沢というところで多田弥四郎の娘、若狭という女に水を所望したところ、若狭はわざわざ新しい柄杓で水を汲んできて馬上に捧げた。
惟治は喜び「再び帰ってきたら礼をしよう。それかお前を人に名を呼ばれるような者として取り立てよう」と約束した。
しかし惟治一行が日向に入ったところ、あらかじめ長景に内意を含められていた日向の新名党という者どもが襲ってきて、惟治一行は全員切腹した。
時に大永七年(1527年)十一月二十五日。惟治三十三歳、子息千代鶴殿九歳であった。
惟治は生前魔法を修めていたためか荒人神となって祟りをなした。
先の黒沢の若狭という女房も惟治遠行の後さまざまな奇特を現した。
そのため宮を作って惟治を富尾権現として祀り、黒沢ほか豊後のうちに十社、日向に六社建立し今に至るまで祭礼を行なっている。
日向の新名党は惟治を討って十日もしないうちに滅んだ。
臼杵長景も偽の起請文を書いた天罰のためか、惟治の祟りのためか、ほどなく死んだ。
このたび長景は才覚にはやりすぎたため、無実の惟治を殺してしまった。忠に似て不忠の至りである、と人々は言い合った。
そのため義鑑公は佐伯の家を惟治の伯父惟常に命じて継がせなさり、佐伯家は今に至るまで続いている。



「大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

2022年07月25日 17:36

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 17:21:07.54 ID:Z+mqbH+B
大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

大友義鑑公幕下の臣、佐伯惟治は豊後国祖母嶽大明神より二十一代の孫で家名が高かった。
また文武両道相備え、諸芸の風流人であり、豊後海辺郡佐伯栂牟礼の城主であった。
惟治は幼少の子息で御曹司と呼ばれている千代鶴に継がせ、府内に出仕させ、自分は在府も出仕もしないようになった。
あるとき惟治は山上寺の住持春好を師匠にして魔法を行う契約をなした。
こうして上半月は清浄潔斎の身となり魔法に専念したところ神変奇特があった。
身によりそう影が生じ、打てば響き、呼べば答え、あらゆることが思い通りとなった。
累代相伝の家老は何度も諌めたが、いっそう魔法に力を入れた。
また先祖の祖母嶽大明神を佐伯迫田に勧請し、金銀を散りばめた荘厳巍々たる神殿を造営した。
またその他さまざまな宮が荒れていたのを建立、再興した。
あるとき惟治は魔法の師匠の春好が穢れをなしたとして猪の肉を食らうよう命じた。
春好は「髪を剃り僧衣を着て以来潔癖の身であるのに破戒などしたらこれまでの修行も無意味になります」
と抵抗したが、惟治が刀を喉に当てて脅したため、仕方なく鹿の肉を食したところ吐血してしまった。
そののち惟治は春好を生害した。なおその討ち手はほどなく大病で死んだという。
またあるとき惟治は家臣に「あの白鷺を捕らえよ」と命じた。
家臣「弓矢もないのにどうして捕らえましょうや」
惟治「弓で射るのではない、抱き抱えて捕らえるのだ」
家臣はしかたなく白鷺に近づいたが白鷺は動くことなくそのまま捕らえられた。
それを見た家臣たちは「延喜の御代に醍醐天皇の命で鷺が捕らえられたため五位を授けられた話はあるが、このたびは魔法によるものである。
当家の行く末はいかばかりであろう」と嘆いた。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 17:23:12.83 ID:Z+mqbH+B
このあと大友義鑑に滅ぼされる話が続くが長いのでここまで。
この前、戎光祥選書ソレイユから出た稙田誠「寺社焼き討ち」には「栂牟礼実録」出典で同じ話があるのでたぶんそちらが元だろう。
その本にも書かれているが、この佐伯惟治の先祖とされる祖母嶽大明神は蛇で、
平家物語巻八「緒環(おだまき)」では緒方惟義の先祖が豊後の女と大蛇との間に生まれた大男の五代孫となっている。
(三輪山の神と倭迹迹日百襲姫命の伝説そっくり)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13594.html
大友興廃記」より「遣唐使の事」
こちらの稙田玄佐(植田玄佐)も蛇の子孫で紋も佐伯惟治と同じ巴紋なのに、美濃斎藤氏だったり蛇が雌だったりしてるのは伝承の過程でオスがメスにでもなったのだろうか。



「大友興廃記」より「遣唐使の事」

2022年07月11日 18:33

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/11(月) 18:20:37.96 ID:cem3OHMR
大友興廃記」より「遣唐使の事」

大明国より唐船が豊後に天文十年(1541年)、同十二年、同十五年、永禄年間、天正三年(1575年)とたびたび到来し、猛虎四頭、大象、孔雀、鸚鵡、麝香、書画、錦繍綾羅、伽羅、猩猩の皮などがもたらされた。
そのため大友宗麟公もいろいろ進物を集め、金札銀札を調え、遣唐使を立てるために文武両道の達人を選ばれた。
ここに生国美濃の住人、齋藤某というものが国が乱れたため和泉堺に居住していたのを宗麟公が聞こしめし、使者をあもってめしだされた。
そののち入道して稙田玄佐と号した。
宗麟公より遣唐使を命じられ、いろいろ辞退したけれども再三の貴命、断りがたく了承し、金銀の王札、音物を携えて、数千里の海を越えて唐帝のもとで朝礼を拝した。
帝王より日本の勅使並みの扱いを受けたが、にわかに重病となり、帝より名医が差し向けられたが薬石効なく逝去した。
帝はこれを憐れみ国中の僧たちを集め丁重に供養し葬ったのち、玄佐の家人に種々の重宝を下賜した。
残りの者たちは帰りに嵐に遭い難破し、命からがら二十余人が宝物とともに帰朝した。
玄佐の嫡男虎松丸は三歳より母共に宗麟公の援助を受け、七歳の春より大友義統公に奉公しながら成長した。
なお稙田玄佐の先祖は清和源氏で多田満仲の頃より渡辺氏に入り(?)、藤原実綱と縁を結び、美濃斎藤家を継ぎ、数代を経たところ不思議なことがあった。
どこともしれぬ容姿に優れた女があらわれ奉公人となったが、一を聞いて十を知る聡明さであり、領主が言わぬうちから思い通りの働きをしたため、おおいに寵愛を受けた。
やぎて懐妊し、出産する段になって女は産室を作らせ、
「七日の間、どなたも入りませんよう」と伝えた。
三日を過ぎて領主は怪しみ、隙間からひそかに見たところ、恐ろしい姿の大蛇が子供を抱いて、赤い舌を出して子供を舐めていた。
領主は肝を潰し、人を集めて産室の扉を破って入ったところ、赤子だけで蛇は行方知らずであった。
産室は池となり、風の匂いがすさまじくなった。
その子を育てたところ、背中に巴の紋があり、子孫代々同じところに巴の紋が現れるようになったという。
これが稙田の起りであり、今に至るまで背中の紋は続いているという。

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/11(月) 18:28:06.43 ID:cem3OHMR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13394.html
一祐働きの事 付、月山の長刀
こちらの話に出てくる「植田玄佐鎮定の嫡男で善三郎」が虎松丸のことだと思われる。
同じ「大友興廃記」出典ではあるが、「稙田」と「植田」で字が異なっている。
ついでに新井白石「西洋紀聞」では豊後の領主とフランシスコ・ザビエルについてシドッチが語っている箇所で
https://ja.m.wikisource.org/wiki/西洋紀聞
按ずるに、フランシスクスは、漢に波羅多伽兒人、佛釆釋古者といふもの、卽此也、
豐後の屋形は、大友左衞門督入道宗麟也、其使せしものは、植田入道玄佐(玄佐、もと淸和源氏にて、渡邊の家をつぎ、又齋藤の家をつぐ、家紋巴なり、其子名虎松、時に三歲也といふ)もとは、美濃國齋藤の族也、
天正十二年に、宗麟がために使して、ローマに死す、西人懷にせし册子に、一道人の甁を持て、童子の頂に灌ぐ所を、繪かきし圖を指示て、これ豐後の大名の子の、法を受くる圖也といふ、但し豐後の屋形、其使等の姓名を問ふに、其姓名は、つたはらずといふ

と植田玄佐が明ではなくローマに行ったとしている



小笠原宗忠、大神見介、臼杵主税介、渡唐の事

2022年07月03日 15:32

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/02(土) 19:17:50.79 ID:sNNpHE3Q
大友興廃記」から「小笠原宗忠大神見介臼杵主税介、渡唐の事」
小笠原晴宗の次男、宗忠は浪人として豊後で年月を送っていたが、これまたいたずらに浪人の日々を過ごしていた大神見介臼杵主税介とともに
「無為に過ごすよりは唐に渡り見物をしよう」ということで三人とも肥前長崎から海を越えて明の大王の都に渡った。
もともと大友宗麟公は明の大王と通交して遣唐使や明の勅使の往来もあったため、三人が宗麟公の御判の状を持参すると
明の天子も「懇切に遇せ」との綸言を発してくれたため、言語は通じないまでも文字により数日を暮らしていた。
あるとき禁中から遠くないところで謀叛が起きたため、御誅伐の綸言が将軍たちに申し付けられた。
宗忠たち三人は「われわれ三人に先鋒を仰せつけください。官軍は後陣で遊ばされよ」と申したところ、天子からのゆるしがでた、
三人はよろこび先手となり、わずか九十三人が籠る城へと向かった。
宗忠は小笠原の末子ではあるが軍法を極めており、槍の秘術を会得していた。ほかの二人も一流の槍の使い手であった。
城から出てきた敵兵を三人で六十八人討ち取り、大将も討ちふせ首をとった。
逃げた者どもは後軍の官軍が退治した。
明の天子の叡慮は浅くなく、望みの褒美を与えようと仰られた。
三人が言うには「先年、信長公が安土におわしたとき、道坊と言うものが
『信長公への一日の進物をください。自分の運を試そうと思います』
と申したところ、その日の進物は銅銭一貫文だけだったので、信長公は道坊を憐れんだということです。
明であればそのようなことはないでしょうから、一日の御調物を下されたく思います」
と奏聞した。
しかしその日の御調物は常々よりも少なかった。
かわった風流者だったためにこのような果報だったのだろう。
そんなこんなで明の都に一年滞在したのち、対馬・壱岐の間で嵐に逢いながらも壱岐についた。
宗忠「あら波に 船も酔へるかのみ吐て 危なき命 生(いき)の島かげ」
こうして三人とも大明国に武勇を残し、異国見物をして帰朝した。

小笠原宗忠の兄の小笠原晴定についての話は以下参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13514.html
信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13522.html
小笠原晴定誅伐の事


272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:29:49.56 ID:2nwEiHig
>>271
調物の件の意味がよくわからんのだが、誰か親切な人解説してもらえませんか?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:38:32.31 ID:htPLDiVZ
>>272
貢ぎ物のことだよ
あと安価ミスってるよ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:56:12.62 ID:ZJgGd5kV
租・調・庸の調

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 11:53:21.91 ID:48uUtX46
ありがトン

賀来の騒動

2022年06月28日 18:21

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/27(月) 20:23:11.28 ID:g8wvbc94
両豊記」から豊後に鉄炮が来た享禄三年(1530年)に起きた「賀来の騒動」

大友家の譜代外様家臣の姓は三つに分けられる。
大友の先祖から血筋がつながっている一族を「御紋の衆」と言う。
いにしえより九州にあった丹部(田部)、漆島(辛島)、宇佐、大島の四姓や、そののち土着した藤原氏や清原氏を「国衆」と言う。
大友家先祖・大友能直に従って当国に来た諸士の系統を「下り衆」と言う。
こうして三つの衆に分かれ、それぞれ同じ衆の者と交際していた。
府内の大番役所では諸士が当番・非番で交互に勤めていた。
享禄三年の春、家臣たちの勤務状況を記した帳面に何者かが墨で線をひき「御紋の衆」の姓名がいちいち塗りつぶされていた。
さてはこれは国衆の何者かがなしたことだろうと御紋の衆の若輩の者どもは腹を据えかねた。
大友義鑑公も案じたものの、かえって騒動になってはいけないとそのままにしていた。
ここに国衆ではあるが、大友家に忠義を尽くしたために取り立てられていた本荘・中村というものがあった。
二人は御紋の衆の妬みを買っていた。
そのため清田越後守という若者に率いられた御紋の衆の若輩者、二百人が二人の屋敷を襲撃した。
本荘・中村両人とも奮戦したが、力及ばず切腹した。

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/27(月) 20:25:57.50 ID:g8wvbc94
翌朝、調子に乗った清田たちは千五百余人で賀来左衛門太輔という大身の国衆を討ち果たそうと押し寄せた。
賀来氏は大神氏であり、同じく大神氏の橋爪・大津留に加勢を頼んでいた。
清田勢が賀来の宿所に鬨をあげて突入するまさにその時、駆けつけた橋爪丹後守は三百余騎を率いて清田勢を追い散らした。
清田勢は多勢であったが驚きあわてたため、我も我もと逃げようと
増水していた川に飛び込んでしまい、溺れた者は数知れなかった。
橋爪は敵三十二人を討ち取り、川を渡った残党も討ち果たそうと追いかけたが、清田配下の加南田兵部という侍が三人張りの弓で矢数五百を次々と射立ててきたため深追いはしなかった。
賀来は橋爪のおかげで難を逃れたとはいえ痛手を負っていたため、翌日死んでしまった。
橋爪は家人たちに「このたびの働きは言語に尽くしがたいほど見事であった。
しかし君命に従ってこの手柄ならば厚恩にも預かるべきであるのに、理由もない遺恨のせいでこのような闘諍におよぶとは嘆かわしいことよ。」
と涙ぐんだところに大津留常陸介鑑康が二百五十騎を連れて到着し
「そこもとからの伝令が遅れてしまい、やっと到着した。首尾やいかん」と問うてきた。
橋爪が合戦の経過を語ると、大津留は肝をつぶし「比類なき大手柄かな」と讃嘆した。
とはいえ大友義鑑公のお怒りは大きく、大津留、橋爪とも勘気をこうむった。
ただ大津留は一戦もしていないということでほどなく帰参を許された。
この府内の騒動は国内に伝わり、ここかしこから府内にそれぞれの一族が集まってきた。
しかし古老たちが「君の御安全が一番の大事である。また国中が騒動するだけでなく、他国の嘲笑の的となろう。
姓氏について取り沙汰するのはやめよ」と申したため、
双方共にしばらく出仕を止められただけで騒動はおさまった。



異国船着岸 附・鉄炮の事

2022年06月26日 14:40

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/25(土) 22:49:22.14 ID:POeF0AOd
両豊記」より「異国船着岸 附・鉄炮の事」

享禄三年(1530年)の夏、南蛮国から大船九艘が豊後府内に着岸した。
商売目的であり、絹布・薬種そのほか重宝の珍物が数えられぬほどあった。
このことが諸国に知れ渡ったため、国々の商人が金銀を持ちきたって、我も我もと買い争った。
言語も文字も通じなかったが、南蛮人の方はあらかじめ予測していたのか大明の儒者を雇っていた。
こちらが保首座という禅家の学匠をもって書を遣わしたところ、三官という儒者が読んで、筆談で意思疎通をした。
儒者が言うには「我は大明国の者であるが、通訳のために雇われて来た。
船頭水主以下の者どもはみな南蛮人である。
我も南蛮のことについてはよく知らないのだが、船中を見るに、上下の礼儀がなく、
朝夕の食事も大勢が一つの大きな器から手づかみで食っていて、言葉にできぬありさまだ。」と申した。
この南蛮人どもは屋形に種々の重宝を献上したが、その中に兵具が二つあった。
長さは三尺余で鉄炮と言ったそうだ。
これが豊後における鉄炮の始まりである。
南蛮人どもは商売がうまくいったため順風満帆で帰国した。
そののち天文二十年(1551年)に着船した時には、南蛮の商主から石火矢という大きな鉄炮が献上された。
のちに臼杵丹生島で大友と島津が合戦した時、この大筒で薩州勢を撃ち殺し、落城を防いだということだ。
(「大友興廃記」では南蛮から大砲・国崩しが到来したのは天正四年(1576年)としている)

種子島以前とはいえ鉄炮を量産したわけではないようだ



足立河内守の沙汰

2022年06月15日 19:38

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/15(水) 19:22:14.33 ID:5g8e6ETv
「救民記」より足立河内守の沙汰

救民(朽網)の家臣、足立河内守という者は初めは馬医を業としていたが、猛武勇力があり、身長六尺余、眼中も常人と違った。
(別本によれば「眼のうちにニクミあり」とあるので重瞳か)
そこで若侍といえど剣術を教え、朽網鎮則公より、冬田一反を与えられていた。
鎮則公が筑後御陣から凱旋された時、河内守はお迎えに出たが、身分に過ぎた出立ちで、徒士の者十二人、若い女十二人、美色を揃えて鎮則公を甚だ豊美に饗応した。
鎮則公も不審に思い検分したところ、領地を甚だしく横領していたため、誅殺すべきと決まった。
そこで中須の館で馬の治療をせよ、と河内守を呼び出し、甲斐右馬助と岩屋勘解由左衛門に殺させた。
河内守の妻子は驚き、仇敵の国にはいられないと肥後国阿蘇山の麓に居住した。
ただ朽網没落の後は故郷を忘れがたかったのか帰って住居していた。
右馬助は剃髪して一朴と称して居住していたが、
「足立河内守の息子の源助も今は故郷に帰っているようだが、我を見れば心得違いにも親の仇と思うだろう。」
といっそ自分から源助の家を訪ね、いきさつを丁寧に話し
「上意と言いながら、そなたの父の首を討ったのは我であるので、快く我を殺して亡父に報いよ」
と言ったところ、
源助は「元来、我が父に罪があって主君により誅殺されたのに、どうしてそこもとに仇を報ずる理がありましょうや」と言った。
こうして一朴・源助両人は相親しみ、交際するようになった。

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/15(水) 19:23:16.94 ID:5g8e6ETv
源助は農民とはいえいまだ武を嗜んでいたが、本田民部少輔が肥後国に転封された時、その従士、三人が源助の家の近くを通った。
源助は田に行っていたため家には源助の妻しかいなかったが、従士たちは家に立ち入り、「食い物を出して食わせよ」と言ってきた。
源助の妻が「貧しい家ですので出せるものもありません」と答えたところ、従士は刀に手をかけて「早く出せ!」と怒った。
そこへ源助が帰ってきたので
従士たちが「その方は亭主か、見れば大弓が架けられているが物好きなことよ。見せてみよ」
と言うと、従士たちの傲慢不遜ぶりを見た源助は
「では見せて差し上げましょう」と大弓を手に取り、一雁股の矢をつがい、ひと引きした。
それを見た三人の従士たちは驚いて逃げ、坂を下ろうとした。
そこで坂の上の柳の大枝を三人の上に射落としたところ、三人は「御免御免」と言いながらかたまりになって逃げたと言う。



「蛇断(へびきり)の太刀」

2022年06月04日 14:20

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 21:16:19.80 ID:IglZJe0y
救民記」から「蛇断(へびきり)の太刀」

弘治(1555-1558)の頃、朽網に竹王という人がいた。
六月ごろ、田の畦切りをしていたところ、誤ってマムシの頭を切り落としてしまった。
その首はどこに行ったか知れなかった。
翌年、竹王はそのあたりを通りかかったが、前年のことは忘れてしまっていた。
なぜかひどく眠気を催して耐えられなくなったため、草に臥して仮眠をとっていると、何かが枕の方でざわめいた気がしたので、目覚めてそちらをみた。
すると、去年切り落とした蛇の頭が、腰に差していた九寸五分の小脇差により貫かれていた。
小脇差は自ら鞘から抜け出したのであった。
竹王はこれをみて大いに喜び、思えば蛇の頭を切り落とした月日も全く同じだと不思議に思い、
蛇の首を貫いたままの状態で、朽網殿にその小脇差をご覧に入れた。
宗暦公(朽網鑑康)は奇瑞であるということで、蛇切と名づけ、つねにこれを佩刀した。
来国統(来国宗?)の銘があり、のちには竹下紀伊守に預け置かれたそうである。

大久保蔵人のこと

2022年06月03日 18:26

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/02(木) 23:19:58.24 ID:NuOKPlYc
豊後国の朽網(くたみ)の歴史を描いた「救民記」から大久保蔵人のこと

大久保蔵人は、朽網家に数代仕え、忠勤に励み戦功も多かった。
あの頭に角を生やした馬鬼を殺した時の長刀は、蔵人の死後に山原八幡宮に奉納したそうだ。
(馬鬼の話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」
参照)
ある年に大友宗麟公は耶蘇の会主の僧を朽網に派遣しようとした。
朽網鎮則は大久保蔵人に命じて梨原で耶蘇僧を追い返した。
このとき宗麟公からはとくに咎めはなかったそうだ。
蔵人は鎮則に従って筑前・筑後の戦でも数度軍功を現した。
朽網氏が(豊薩合戦で島津に降伏し、その後の豊臣による九州平定の際に大友義統から討伐され)没落した後、
大友義統公も朝鮮の陣では、忠臣たちが新参の者どもの讒言により罪を得、戦で敗北することが多かったため、毛利輝元へ預かりとなってしまった。
関東大坂動乱(関ヶ原の合戦)のとき、大友義統公は毛利方として速見郡立石で黒田軍と合戦に及んだ。
大久保蔵人も駆けつけて義統公に拝謁し、軍奉行を命じられ、黒田如水と戦ったが鉄砲に撃たれて死んだ。



高森伊予守、志賀親度に加勢所望のこと

2022年05月26日 16:30

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:11:44.38 ID:yj+RKTrs
「大友興廃記」より「高森伊予守、志賀親度(「道懌」表記を「親度」に統一)に加勢所望のこと

肥後国の高森伊予守は大友宗麟公の幕下であり、先年小原鑑元の逆心が現れ罰せられたのも彼の働きであった。
島津義久公の家老・新納武蔵守(忠元)の計略により、島津方の稲富新助が花山にて甲斐相模守(甲斐親英、甲斐宗運の嫡男)と合戦したが、島津方は敗れた。
その遺恨により新納武蔵守は高森の城を落とそうと、天正十二年十二月十三日(1585年1月13日)に三千騎で高森伊予守の城に攻め寄せた。
伊予守も奮戦し互いに鉄砲を撃ち合ったが、とうとう大手門を破られ、伊予守は降伏し城を明け渡した。
もとより伊予守は武略の上手であったため、これは一旦城を取らせて油断させる策略であった。

十五日に伊予守は樽肴種々の土産を調えて「和睦の盃を酌み交わしましょう」と城に行ったところ、稲富はよろこんで城に入れて宴会となった。
盃をさしかわしながら稲富が言うことには
「われわれも攻城の時、大剛の者が取り囲まれ若干の負傷者や死人が出ました。
詰めの城まで攻めていたならば、最後には落城させていたでしょうが、こちらも過半が討たれていたことでしょう。
伊予守の御芳志により死なずにすみました」
このとき、伊予守はみずからを智慧才覚のない無分別者と思わせるためこう尋ねた。
伊予守「島津義久公は隣国から徐々に智略をめぐらし、諸国の侍に内通させ、彼等が味方についたのちに豊後に御出兵なさるとうかがっております。
武士の習いとして「昨日の矢先に今日はひかゆる(昨日の敵は今日の友、の意?)」と言いますので
それがしも義久公御出兵の時には稲富殿の組に入りたいと思います」
稲富「義久公の豊後御出兵はありません。
肥後は島津の隣国なので、武蔵守が才覚をもっていろいろ調略をしましたが、それでも本当の味方は少数です。
まして豊後は宗麟公が御在国なので調略ののちに出兵など思いもよらぬことです」
それを聞いた伊予守は話題を変えたのち、次のように問うた。
伊予守「さる天正六年の冬、日向国高城において豊後の諸勢に若干の死者が出ました。(耳川の戦い)
敵味方いかばかり討ち死にしたでしょうか?」
稲富「敵味方六万六千人余りの討ち死にだったそうです。
中務(島津家久)が豊後勢の死骸を讃嘆して言うには
「武士の強弱は死骸でわかるものだ。
勝負は時の運。豊後勢は敵陣に頭を向けており、味方に向かった死骸はない」と感じられたそうです。
また、義久公の命令で弔いをしました」
伊予守「おもしろいお話です。私などはただの死骸としか見ないのに、中務がそのように気づかれるとは、屍にとっての面目といえましょう」

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:16:39.85 ID:yj+RKTrs
そののち伊予守は家中の高森右京進を呼び出して
「お前は今回の降伏を無念に思っておるだろうが、これは稲富をだまして討つための策略である。
お前は密かに豊後に行って、志賀親度に我が意志を伝え、加勢を頼め」
と言うと、右京進は了承して豊後岡の城に行き、高森伊予守からの書状を披露した。
親度は書状を読むと、家中七組の頭(省略)に誰を遣わすべきか談合した。
談合の結果、大軍を差しむけ島津方をことごとく討ち取ろうと定まったところで
親度の嫡子・志賀太郎親次はその時十六歳であったが、こう発言した。
志賀親次「高森への加勢のために大軍を差し向けるのはもってのほかであります。
そのわけですが、肥前・肥後も薩摩に味方しているのは明らかです。
このたび高森を攻めているのは伊予守を敵としているのではなく、最終的に豊後をとろうと企てているからです。
わたしは遊山をすると、狩り、釣りの次には敵を討つ方法を考えるようにしておりますが、それは戦は猟に似ているからです。
猪は寝ているうちに勢子で取り囲み、魚は騒がないように遠くから網を回し、それぞれ囲いを狭めていきます。
もし初めから近くに網を回すと魚が騒ぐため、大漁は見込めないでしょう。
薩摩は名高い大将ですので、豊後を取るために周辺の国から大きな網を巡らせているのでしょう。
今、薩摩が高森を攻めているのは網の中の石を取り除いているようなものです。
島津義久は二、三年のうちに豊後を攻めようと考えております。
もしここで肥後に大軍を出しては、いくらか討たれて味方が弱体化してしまいます。
最後に大敵と戦わなければならないのに、いま人数を損なうのは不可であります。」
親度「わしもそう思うが、薩摩勢は三千ばかりあり、高森伊予守が援軍を請うているのだ。どうしたものか」
七組頭一同は親次の言葉に親度も同意したことで、お家の行く末は安泰だと感涙の涙を流し、
「親次様はまだ若いのにこのような名言を仰られるとは、お年を経ればどれだけの御分別が出てくることやら。
おそらくは九州に肩を並べるもののない名大将になるでしょう」と申した。
親度「それでは二千の兵を出そうと思ったが、親次の異見により雑兵を加えて千五百の兵を出そう。
侍大将には親次、朝倉土佐守(「留守の火縄」の朝倉一玄だろうか)、大森弾正を命じる」

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:19:35.96 ID:yj+RKTrs
肥後国高森の近くにきた志賀親次は兵を陰に隠し、使者の高森右京進とともに高森伊予守の宿所を密かに訪ねた。
伊予守「城を攻めれば負傷者や死人が大勢出るでしょう。
一口を空けて夜討ちにして城を焼けば、敵は空いている口から出ようとするでしょうから、
われわれは城の案内はわかっておりますので搦手から詰めかけて尽く討ちましょう」
こうして豊後勢は同士討ちを防ぐため、同じ装備で合言葉を決め、夜討勢を五百、城から出てきたところを討つ伏兵を、志賀勢・高森勢でそれぞれ千おいた。
こうして十二月二十九日の明け方、伊予守はかねて用意していた火矢や松明を忍び口より投げ込んで、城中の大部分を占めていたボロ屋を炎上させた。
そこで前方・後方から鬨の声を挙げたところ、城中の稲富勢は慌てふためき兵を出してきた。
味方の兵は血気さかんに闘い、互いに敵を多く討とうと争った。
稲富勢も命を惜しまず、味方が倒れても顧みず、ここを死に場所と定めて戦ったが、どんどん討たれ少なくなった。
しかし稲富は戦巧者のため、わずかの勢で戦場を横切ったため討ち損じてしまった。
戦が終わり、死骸を数えると千八百余りを討ち取っていた。
志賀勢も負傷者は多数出たが、死人は五、六人もいなかった。
城は再び高森のものとなり、志賀勢は豊後に帰還した。
志賀親次は「このたびの戦では大いなる不覚をいたしました。薩摩勢は多く討ち取りましたが、大将である稲富を討ち損じました。」
と志賀親度に申したが
親度「悔やむでない。戦というものは必ずしも敵を討つのが勝ちではない。殺さずして退散させるのも勝利である。
それにしても高森伊予守の武略のために大勝利を得たものだ」と喜んだ。
そののち伊予守から志賀親度に加勢の礼があった。
親度が大友義統公に詳細を告げると、義統公は大いに感悦した。
義統公から親度と高森に御感状が与えられた。

のち天正十四年に肥後国を新納忠元が、豊後国を島津中書(家久)が討ち入った時、志賀から高森に援護の兵が出され、豊後国に高森を引き取った。
翌年、薩摩勢が退いた後、高森は肥後国に帰還した。
甲斐宗運御逝去ののち、「策を帷幄の中に巡らし、勝ちを千里の外に決す」とは高森伊予守のことであろう。



小笠原晴定誅伐の事

2022年05月18日 16:38

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 20:41:27.78 ID:FCxFjtgU
大友興廃記」から小笠原晴定誅伐の事

古文に「筆は鋭く、墨は筆に次ぎ、硯は鈍い。しかし硯のように鈍いものは寿命が長く、筆のように鋭いものは夭折する」とある
小笠原刑部大輔晴宗というものはもとは義輝公方の家臣であったが、永禄の変で三好・松永により義輝公方が弑された時、たまたま大友家に来住していたためそのまま木付(杵築)に居住した。
晴宗嫡男大学兵衛晴定には人に勝れる大力があり、術芸に優れていた。
たとえば蛇に手縄を付けたものだとしても、馬と呼ぶようであれば乗って見せよう、と大言をはいていた。
天正十二年(1584年)の春の終わりに南郷岡の城主・志賀兵部入道※道懌(志賀親度、道益)のところに見舞いに行った。
なおこの岡の城は山の前後に大河が巡り、岩壁は四面にそびえ滑らかで、大木が盾の羽を並べたように林立し、鳥でなくては登りがたい名城であった。
(豊薩合戦のときに志賀親度の息子・志賀親次は、この岡の城で島津相手に「天正の楠木」と呼ばれるほどの籠城戦を行うことになる)
晴定は「これぞ九州第一の城郭であります」と挨拶し、道懌も晴定を馳走した。
酒宴がたけなわになった折、晴定は酔ったまま冗談めかして
「このような名城にありながら、野心がないとは心の鈍いお方ですな」と述べた。
これに対して道懌は何も発言しなかった。
悪事千里を行くのならいで、この雑言が宗麟公御父子の耳に入り、それから晴定が御前に呼ばれることはなくなった。
天正十四年には道懌に野心の風聞が立った。
そこで天正十六年の春、晴定を誅伐するための討手として臼杵美濃守が選ばれた。
宗麟公は晴定を召し、晴定が居住地の木付から臼杵に向かったところ、途中の産島の茶屋で美濃守は待ち構えていた。
美濃守「今時分に御登城とは、何の御用での御登城でしょうか」
晴定「とりあえず宗麟公のお召に従っての登城である」
その頃、晴定の家臣たちは干潟で潮干狩りをして遊んでいた。
美濃守は禿(かむろ)に茶を点てさせ、自分も飲み、晴定にもすすめて時分を見計らった後、刀をするりと抜き
「上意であるぞ!」と打ち付けた。
晴定も「心得たり!」と三尺八寸の刀を抜こうとしたが、あまりの大刀のため(または「あまりの大力」か)、刀のこじりを茶屋の腰板に一尺二尺突き通してしまい、抜くのが遅れてしまった。
美濃守は続けざまに三刀を入れて討ち取った。
さしもの名のある晴定も力が過ぎたため、かえって刀を抜く速さが遅くなり、無下に討たれてしまった。
ものごとに、過ぎたるは猶及ばざるが如し、というとおりである。
晴定は氏素性といい、骨柄といい、芸能の惜しい武士であったが若さの故このようになった。
ある人が言うには、「尾が剣に変じた牛がいた。牛はその尾を舐めると血の味で甘かったため舐め続けた。すると舌が破れて牛は死んでしまった」
晴定も舌のおもむくままに後先考えず悪言をはいてしまったため、その身を滅ぼすこととなった。牛と同じことである。
人はあまり好きたることに熱中すると過ぎたることになるため、好きでも無いことに心を寄せるべきである。

※「道懌」であれば「ドウエキ」となり「道益」と同じ読みなので、以前出てきた「道択(擇)」は「道懌」の誤字だと思われる



志賀親度裏切りについて

2022年05月16日 18:08

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/16(月) 15:38:23.73 ID:5/c1FEL1
2020年から新名一仁氏による現代語訳が出版されてきていることでも有名な
島津の老中・上井覚兼による「上井覚兼日記」から>>473の志賀親度(道益)裏切りについての箇所
(現在現代語訳が出版されているのは天正十二年十二月まで)

天正十四年(1586年)二月五日
…豊後の志賀道輝(親守)、近頃大友義統から勘気をこうむったため、迦住城遠方に隠遁となっていた。
そこですでに島津に内通していた入田(義実)と同心のよしを申してきた。

同年同月十六日
志賀道益(親度)と申す者は、道輝の子息である。
かの者は大友義統に召し仕われていた一之対(おそらく妾)を盗み取り扶養していたが、
慮外の振る舞いということで義統の勘気をこうむり、菅迫というところに籠居となっていた。
そこで入田方と一味のよしを申してきて、今年の春中に島津義久公の出兵があれば豊後平定のために案内すると言ってきた。
この者に限らず、大友の国衆はまとまりがなく、統制がとれていないようだ。
そこで使者に見参し、お酒をよこして閑談した。
使者は豊前・豊後国の絵図の写しを持参し、ここかしこの情勢をくわしく話した。
拙者は道益あての書状を託し、内通を承諾したよしを使者に申して帰らせた。
使者の申したことは重要な点も含めて、昨年の入田が内通した時の情報と一致していた。
皆知っているように豊薩和平のことは(天正八年に)京都(織田信長・近衛前久)により定められたが、
昨年の冬以降、大友義統が当家に対して筋目違いが歴然であった…

志賀親度が義統の妾を奪った理由
名馬を事後承諾で貰えたから、味を占めたわけじゃないと思うが



志賀道択、御馬を拝領と偽り取り帰る事

2022年05月14日 16:44

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/14(土) 16:10:03.34 ID:4gpgNxON
「大友興廃記」から志賀道択(志賀親度)、御馬を拝領と偽り取り帰る事

天正三年乙亥二月に信長公が信濃黒という名馬をくださった。
信長公の御意には「去年遣わした鬼月毛は世に過ぎたもので、遊覧用にしかならなかったであろう。
この信濃黒はいつもはのどかな馬で、体を飾って舎人をおおく付けてもなんの反応も示さない体たらくであるが、乗ると意のままになる、足の速い名馬である。
信長秘蔵ではあるが、わざわざ使者を送ってこられたので特別に遣わす」との仰せであった。
信長公の御意よりも優れた馬であったため、宗麟公のお召しの馬の中でも第一とされた。
ここに南郡岡の城主、志賀兵部親教入道道択(志賀親度入道道益)、丹生島登城の時、宗麟公は御機嫌であったので、暇をもらい、吉光の御脇差も拝領した。
道択はすぐに御厩舎の別当・雄城無難を訪ねたが留守だったため、御厩舎の舎人に馬を案内させた。
舎人「これは薩摩鹿毛、肥前黒、龍造寺粕毛、あれは山口黒、河辺岩石落…」と二百余の究竟の逸物の名馬を見せたあと
「これは御召料第一の御馬、信濃黒と申します。この春に信長公より参った馬でございます」
と言うと、道択はしげしげと見て、この馬以上の馬はないと思いいって、
道択「やあ舎人、この馬はそれがしが今朝拝領せよと宗麟公から仰せつかった馬であるぞ」
舎人「お言葉を疑うわけではありませんが、別当の無難も留守なのであい渡すことは、わたくしの分別ではできません」
道択は大いに怒り「殿から拝領を仰せ付けられたのに、無難が留守だからと言って渡せないとは何事だ」
と責めて、鞍をかけて打ち乗って「これは心地がよい」といいながら居城の岡の城に帰ってしまった。
そののち無難が帰ったので、舎人が「しかじかで…」と申した。
無難は不思議に思い、急いで登城しこのことを皆に尋ねると
「吉光の御脇差を拝領したことは聞いたが、御馬のことはなんとも存ぜぬ」と皆が言ったので無難は仰天し、ことのしだいを申し上げた。
吉岡掃部介(吉岡鑑興)、吉弘嘉兵衛尉(吉弘統幸?)、田北新介(田北鎮周には新介の名乗りはないようだ)といった老中衆は談合の結果、
「宗麟公の御機嫌を損ねるのを覚悟でありのままに伝えよう。
十のうち一つは本当に馬を遣わされたのかもしれない、十のうち九は道択がたばかって取ったのであろうが」
ということで、無難と老中がそろって汗をかきながら宗麟公にありのままに申し上げると
宗麟公はしばらく考えたあと「古くから軍の先を駆けんとするものは龍馬を求めると聞いておる。脇差を遣わした時の折紙に、信濃黒についても拝領遣わす、と書いておけばよかったものを」
とかえって興にいったように仰せられた。
思いの外の御返答で、無難も放心したように帰った。
良将の考えなさることは、諸人の智とは違うものだ。

※志賀親度(道益)は豊薩合戦の時に大友を裏切ったため、息子(養子)の親次により自刃させられた