隅州高城、日州耳川での大友家敗北により

2017年02月01日 09:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 18:51:07.68 ID:n10zVkN4
この年(天正6年(1578))、隅州高城、日州耳川での大友家敗北により、国々の城主、郡主は
大友家から背いた。

肥前の龍造寺隆信は、肥筑を討ち平らげ、大友・島津もろとも滅ぼそうと謀った。
同国の小田重光を謀って閨の中に殺し、筑後の蒲池鎮漣舞楽に事寄せ、肥州与賀宮にて殺した。
両人とも、隆信の婿であった。

また龍造寺は松浦、波多、大村、有田などを攻めた。或いは降参し、或いは籠城して大友に加勢を
乞う者もあった。

筑前では秋月種実が、肥後五箇山の城主・筑紫広門と同心し反逆を企て、城井、千手、長野、上原、
原田、麻生、杉、宗像などに手を付け、筑前、豊前を治めようとした。

肥前・肥後では、宇土城、川尻、合志、詫摩、赤星、和仁、相良、有動、小代、隈部、本山、天草山、
山田、津守といった者達が大友の下知に従わず、島津に内通し、あるいは龍造寺に同心した。

筑後では田尻、蒲池、三池、江上、豊持、豊穣、黒木、斎藤、草野、大鳥井らが皆龍造寺隆信
打ち負けて、隆信の幕下となった。
生葉郡井上城の問註所一族と、高良山良寛法印ばかりが、終始大友の味方として忠を成した。

(大友公御家覺書)

耳川合戦以降の、九州の有様について。



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 20:03:55.01 ID:OjIdd8mX
隆信の西肥前勢攻めと鎮光忙殺は耳川前だなあ

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 23:50:32.13 ID:S12jdg3l
耳川後にしないと格好がつかないもんな
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大友宗麟の日向出陣に

2016年10月30日 20:58

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 20:13:58.54 ID:D/qq4jRl
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」

これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。

そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。

龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。

それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」

そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った

「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。

宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。

今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。

吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。

島津中務(家久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」

これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。

(大友記)

大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。



浅はかというのも愚かである

2016年10月08日 21:09


智有る者達はこの行為を恐れ


大友宗麟





183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 19:08:46.94 ID:6k9oMf0i
天正6年(1578)3月、大友家は評定によって、日向に侵攻した島津勢に対する攻撃を決定し、支配下の国々に
その旨を伝達した。

この決定以降、大友一門や重臣の面々は日夜あちらこちらで寄り合い、会合を設け珍膳を尽くした饗宴ばかり
行い、また茶の湯の会、酒宴と暇もない有様であった。これは彼らが、大友家の武運が徐々に傾いていることを
理解していたので、それぞれ討ち死にして生前の報恩として、死を以って報いようと一途に思い定め、
その最期の名残として、このような宴を設けたのだと言われた。

こうして大友宗麟は3万5千3百の軍勢にて豊後府中から出陣した。
そして、まず戦場に向かう門出であると、豊後一宮である柞原八幡宮に「矢を一筋奉れ」と命じた。
すると足軽2,3百が打ち出て弓鉄砲を揃えて、八幡宮に射かけた。

また行軍中、道の悪しき場所では仏神の尊容を取り壊して、これを踏んで通るようにさせた。
これらは前代未聞の悪行である。

いにしえ、高師泰は石川河原に陣取り楠を攻めた時、彼の配下の悪逆無道の者共が仏塔の九輪を外して
帷子に鋳たという。

また延文四年の夏の頃、畠山入道が楠を攻めた時は、その奴たちが神社仏閣に乱入し神宝を奪ったという。
この時の狼藉はもはや制止がきかず、獅子や狛犬も打ち割られ薪にされ、仏教典は売り飛ばされ
その代金で魚鳥を購入したそうだが、これなどは師泰の悪行に百倍する稀代の罪業であると書き残されている。

しかしこの度の大友勢のやったことは、それと比べてすら千倍する。浅はかというのも愚かである。
心無い者はこのような悪行に却って勇んだが、智有る者達はこの行為を恐れ、
「今度の合戦ははかばかしく成らないだろう。」
そう囁き合ったという。

(大友記)

耳川の戦いに至る大友軍の日向出陣について



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/08(土) 03:05:23.56 ID:fSd8+Dwx
道長「…」

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/08(土) 10:06:15.64 ID:uu7ZPwxT
まるでISIS.....

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/08(土) 19:02:49.06 ID:Z6eeHzVq
宗麟「わしキリシタンだから神社仏閣を壊してもノーカン」

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/08(土) 19:52:30.77 ID:9bgS062b
高山重友も同じことしてたぞ!

入田丹後の最後

2016年10月07日 15:19

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 19:39:45.16 ID:HlWdKe1k
大友義鑑が津久見美作、田口らに斬られ最後の体となった事は、早馬によって別府に湯治に出かけていた
大友義鎮へと注進され、義鎮は早急に帰還した。

義鑑にその三男到明子の擁立を勧めていた入田丹後守(親誠)は身の危険を感じ、一類を語らい己の居城に
立て籠もろうとしたが、戸次伯耆守(立花道雪)、斎藤重実の手の者がこれに追撃をかけたため、
入田は入城できず、彼は肥後国阿蘇惟豊が舅であっったので、彼を頼って落ちていった。

しかし、雨の中頼む木の元にも雨が漏っていた。惟豊は入田丹後に向かってこう言った

「あなたは御屋形様の咎を蒙り、討手を下された。
大軍を引き受け一戦を遂げ討ち死にすれば、亡き後までも面目であった。
しかし甲斐のない命が助かるために私を頼って来ることは、卑怯の至である。

代々相伝の主君に盾突いた悪逆人を、婿であるからと言って助けるべきではない。」

そして袈裟懸けに入田を斬った。
その首は豊後へと送られ、獄門に晒された。

その後、程なくして大友義鎮は、大友十八代目の探題となった。
若いが仕置宜しく、豊筑肥六ヶ国の上下万民は共に、この主君を上に戴いたことを喜んだ。
行儀作法は他国に優れ、いかなる世の末までも、誰がこれを傾けようとするだろうか。
目でたかりし世の中と成ったのである。

(大友記)

入田丹後の最後についてのお話。



入田家の後日談

2016年10月07日 15:17

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:37:00.52 ID:1rBePjzd
入田家の後日談

親誠の嫡男・義実(宗和)は若年につき赦され永禄末から元亀の頃(天正8年(1580年)頃説もあり)に宗麟から旧領の一部である筑前国鞍手郡若宮庄350町分を安堵された
宗麟に笠木城勤番を命じられたりするなど父のこともありながら宗麟時代はそれなりに信頼された義実だが義統時代になると俄然大友家での立場は悪化する。
天正12年から14年にかけて不仲だった戸次統貞(玄珊)の讒言によって大友義統と対立し討伐を受け居城を栂牟礼城を逃れて緩木城に移していた。
そんな義実に対して島津義弘は新納忠元を通じて宗和に寝返りを進めてきた。しかし宗和は最初「武門の素意に非ず」と断っていたが結局島津への内通を決意する。
天正14年(1586)豊薩合戦の際、南部衆の志賀親度(道益)・南志賀鑑隆(道運)や一萬田紹伝らは入田宗和主導でで島津氏に内通して大友氏の敗北に一役買った。
その後豊臣軍の豊後上陸後、宗和は岡城の志賀親次さらには豊臣秀長たちの軍に追われ豊後から薩摩に撤退し以降は日向に所領を貰い島津家臣として仕え家は斉彬や久光の時代まで続く

参考:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)ほか



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 02:48:56.69 ID:rn89lw8F
>>175
栂牟礼城は佐伯氏の居城だから入田の居城は津賀牟礼城の間違えだろうな

大友義統悪逆の事及び彦山の意地

2016年10月04日 17:42

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 23:42:14.17 ID:9IRF6OyF
大友義統悪逆の事及び彦山の意地

天正九年秋、義統は大友家に反目する彦山を襲撃する。かつて大友氏の監視下にあった彦山だがこの頃は秋月種実との関係を強めていた
義統は嗣子に恵まれない十四代座主舜有の後嗣に自身の弟を押し込もうとしたがこれを嫌った舜有は娘婿・秋月種長の子を後嗣にと取り決めたことで
義統の狙いを封じた。そして義統への返答として彦山は義統の使者を殺害する
これに激怒した義統は清田鎮忠と上野鎮俊を大将に、彦山を滅ぼすべく日田郡へ陣を進めた
清田上野の両将は、まず彦山に降参勧告を行ったが彦山は拒否し戦いになる
秋月さらには龍造寺の援軍を得た彦山は一歩も引かず善戦したものの
激戦の末に大講堂を占拠した大友勢は一山の宗坊悉くに火を放つと彦山は一宇も残らず炎上した
この時山伏二人は「大友七代までも怨霊とならん」と罵り腹掻っ切り火中へ飛び込んだ。
こうして一ヶ月に及んだ大友の彦山襲撃で彦山は大きく勢力を失った
しかし彦山はその後も秋月氏さらには龍造寺氏と連携して反大友軍事同盟を結成し戦い続けることになる
さらには秀吉の九州征伐時には島津氏とも連携し豊臣(&大友)勢とも戦うが最後は衆寡敵せず豊臣勢に降った

参考資料:大友記、豊筑乱記、筑前戦国史など

ちなみにこの話は

宗麟公悪逆之事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9168.html
の別バージョン

焼討を命じたのが義統だったり焼討後も義統に屈さず秋月・龍造寺・島津と連携して戦い続けているところなどが相違点





大友義鑑の死

2016年10月01日 19:10

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/01(土) 18:33:01.29 ID:hdHYlRFK
大友義鑑には3人の子があったが、惣領である義鎮(宗麟)に家督を譲ろうとしなかった。
彼の後妻が産んだ、到明子殿という末子に家督を譲ろうと考えていて、義鎮に対しては普段から
対面することもなく、到明子殿への本意は深かった。

身分の高い者でも低い者でも、継子継母の関係ほど難しいものはない。
到明子殿の母は義鎮を失わせ、どうにかして到明子殿を大友家の当主に立てたいと日夜胸を痛めており、
彼女は家老の入田丹後守親誠を頼った。丹後は心得、それからはいつもよりも義鑑に忠を尽くし、抜きん出た
奉公をして義鑑から高い信頼を得、義鑑は何事も丹後に相談するようになった。

ある時、義鑑は丹後を召して問うた
「義鎮については、私は思うところがある。到明子に代を譲るのはどうだろうか?」

丹後、畏まり
「ご質問でありますから申し上げます。ご兄弟の皆様は何れも御器用にてあられますが、中でも
到明子御曹司は世に超えた人物であるところ、人々は広く沙汰しています。大友中興の祖である
親世公の生まれ変わりではないかとすら思われます。」

などと様々に褒め上げると、義鑑は大いに機嫌を良くした。

その後、義鑑は義鎮に対し、湯治のため別府へ出かけさせた。
そして重臣である斎藤播磨守、小佐井大和、津久見美作、田口といった人々を召して言い渡した
「私は到明子に家督を譲ろうと考えている。」

この言葉に一同は驚き
「一体どういう理由で義鎮様を差し置いて、後末子の到明子殿に家督を譲られるのですか!?
御意ではありますが心得かねます!」そう、一斉に反対した。
これに義鑑は何も言い返せず、機嫌を悪くし、重臣たちはそれぞれ御前を下がった。

義鑑は
「あの者達を誅殺し心のままにせん」と、その日の暮れに斎藤、小佐井の両名を召して、大門において
誅した。
この時、津久見、田口の2人も召されたのだが、詐病をして登城しなかった。彼らは斎藤、小佐井が
殺されたことを聞くと、
「我々ももはや逃げられぬだろう。ならば」

彼らは密かに大友屋形の裏門から入って二階の間に入ると、「到明子殿に久しくご対面していない。
さぞかし成長された事だろう。少々御目見得をさせて頂きたい」警備の者達にそう言いながら奥の高間へと
強引に入ると、そこに居た到明子を一刀に斬り殺し、引き取る刀で彼の母も害した。
そして一の台にいた局たちを一人残らず切り伏せ、田口は二階の間から居間へと通り、義鑑が上段に居たのを
駆け寄って斬った。
田口はお側の衆に討ち取られたが、大友義鑑もこれで深手を負い、天文19年2月9日、遂に儚くなった。
どういう御分別だったのだろうか。実に浅ましい事である。

(大友記)



139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/01(土) 22:27:51.55 ID:+ELXDe/8
>>138
その後の宗麟の酷さを見ると義鑑の考えが正しかったような…。
いやそんな事があったから歪んだというべきか?

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 12:14:42.18 ID:H2n6JpLG
>>139
一次資料だと案外まともなんだけどな宗麟は

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 12:33:26.78 ID:zc7ZWW+f
>>138
頼朝「兄より」
信長「すぐれた」
秀忠「弟など」
(●∀゚)「存在しねぇ!!」

(´・ω・`)「弟など存在しない…」

146 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 12:37:06.65 ID:zszeXnAQ
>>145
隆元「ウチは弟達の方が優れてましたよ(胃をキリキリさせながら)」

147 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 12:49:26.79 ID:hxDXM2tQ
元就「兄より優れててすみません。皆さん弟は大事にしましょうね」

148 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 13:55:37.76 ID:zszeXnAQ
>>145
TDIE「皆々様の仰る通りでございます。兄より優れた弟などこの世に存在致しませぬ」(鎖帷子を着ながら)

国主の若い息子は

2016年07月15日 15:44

858 名前:御存じ豊後の大友さん家が、キリスト教にハマるきっかけ。[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 20:31:40.10 ID:VYAaTYrJ
宗麟パパは熱心なキリシタン信者として有名だが、それは彼が晩年になってから。
確かに若い頃からキリスト教に興味津々で、教会に対しても面倒見がよかったが、
1575年以前までは、本人がいちばん熱中していたのは禅の教え。
臼杵にでっかい禅寺(寿林寺)を造らせ、京の大徳寺から偉いお坊さんを招聘して、
次男の親家を、成長後はそこの住持にさせようと考えていたという。しかし…


「国主の若い息子(次男)はなんとしても仏僧になりたがらなかった。彼は僧院で書物から学ぶどころか、
 武器をとり、撃剣、相撲、その他それに類した修錬に専念して、
 もし国主が自分を無理やりに僧侶にするつもりなら、 切腹して果てるか海で投身自殺する、と言った。
 国主は息子がどんなに恐るべき、かつ激しい性格か知っていたので、彼にとって息子のことは
 重荷であり憂慮の種であった。そこで彼がこの件でフランシスコ・カブラル師に助言を求めた時に、
 司祭は彼に、その息子が冷静になり、その激しく頑固な性格が克服されるためには、
 殿下が彼をキリシタンにさせる以外の救済法とては思い浮かびませぬ、と説いた。
 この忠告は国主には望ましいものに思われ、フランシスコ・カブラル師はその息子に
 理解力に応じて教えを授けた後、臼杵において洗礼を授けた。
 そして彼にドン・セバスチアンの教名を与え、国主は受洗の際に列席した」 
 (フロイス日本史・豊後編Ⅱ)


性格矯正のきっかけを与えられめでたしめでたし、と言いたいところだが、
結局この次男は「もともと性格が頑迷すぎる」上に虚栄心も強すぎたので
改宗も大して効果がなかった、と本書でバッサリやられてる。
親心を理解しない次男に対してもフロイスさんはじつに手厳しい。




859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 23:19:46.26 ID:60TOaBpq
そんなにバトル派だったのに
朝鮮で逃げた卑怯者って言われちゃうのか

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 00:44:28.04 ID:YKycFMfZ
>>859
君主の命令は絶対だからね

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 01:49:02.09 ID:62hdoRhR
>>859
朝鮮で逃げて、天下一のヘタレ言われたのは
例の長男じゃなかったけか?
この話の主役の次男も、朝鮮で一緒に逃げてたのか?

大分名物、だんご汁事始

2016年04月20日 17:24

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 11:46:00.47 ID:IUZy39Ty
九州の雄、大友宗麟はアワビの腸が好物で常日ごろから食していたが、
あるとき戦場で食べたいと言い出した。
それを聞いた家臣たちはアワビを探しに出かけたが、
場所はあいにくと山の中、見つかるはずもない。
困った彼らは小麦粉をこねて伸ばし、「アワビです(すっとぼけ)」として出したところ、
たいそう喜ばれたという。
これが大分県の名物、だんご汁の始まりとか(諸説あり

先の地震で由布院のあたりにも被害が出ているようですが、
お前らもだんご汁を買って被災地を応援するがよい。うまいよ。
http://www.rurubu.com/season/special/gourmet/img/gourmetphoto/G00434_1.jpg




609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 12:22:43.13 ID:b/bo/+I+
今日のおやつは、朝鮮飴を食べて応援♪

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 17:35:49.46 ID:aUHcehPc
>>608
それ宗麟の悪い話な気もするが

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 17:57:55.63 ID:IUZy39Ty
>>610
現代まで伝わる名物を生み出したということで、そこはひとつ…

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:12:34.86 ID:CQRPzq1v
しかし練り物とアワビの肝を間違えるとは
宗麟はかなりのバカ舌なんだな

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:21:49.30 ID:U55pfKwR
宗麟「アワビ大好きっ!」

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:22:08.51 ID:IUZy39Ty
宗麟様の名誉のために別パターンも。

あるとき、宗麟は菊池氏の家臣を居城に迎え宴を行った。
(両者はドンパチやってたような気もするが逸話ではそうなってる)
その日のメインディッシュはアワビの腸だったのだが、
菊池氏の従者の数が想定していたより多く、アワビが足りない。
困った彼らは小麦粉(略
これが大分県の名物(略


615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:50:19.69 ID:ELGMQhwz
ノブはアワビの醤油付けが好きなんだっけ?

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:51:43.97 ID:fhHu8Jbn
>>613
人妻のか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 20:46:47.62 ID:aUHcehPc
畠山義続「アワビは若いのに限るのに…」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 21:01:11.45 ID:ELGMQhwz
人によっては小さいモノより大きいモノのほうがいいらしい

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 04:29:16.50 ID:vt3vGCzo
義隆 義隆 盛隆「ふん!アワビなど大した事ないわ!」

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 05:27:26.78 ID:QRy/Q4FX
政元「せやな」

賀井宗運「私が果てれば、肥後国には」

2015年10月07日 08:01

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 23:55:49.58 ID:USoE7/SI
島津勢が肥後国立花山に進出してきたところに、同国三船の大友方、賀井鑑隆入道宗運が
軍勢を出しそれを撤退させた。
しかし島津勢は重ねて軍勢を出し、天正10年6月中旬に、竹ノ井原に陣取った。
賀井宗運は即座に駆けつけ、島津勢を追い崩し、敵300余りを討ち取った。

そして首実検をしている所、にわかに大雨降り、山水おびただしく出て、賀井宗運が床几に
腰掛けている場所にもしきりに押しかかった。

この時、宗運の嫡子である鎮隆はこの水から逃れようと、あちらこちらの高台を目指してうろつき
回った。これを見た宗運は激怒した

「日本一の不覚なる仁である!この程度の水に恐れ騒ぐ心では、強敵に向かって一体何の役に立つのか!?
私が死んだ後、おめおめと薩州の幕下になるだろう。何と口惜しいことか。
そうなれば南方の敵を、一体誰が防ぐというのか?ともあれ、宗麟公の御運の末こそおいたわしい。」

そう言って、その場より豊後に使者を立て、鎮隆不覚の次第の書付を添えて
『私は今日から、鎮隆を不快に仕りました。そうして、私が果てれば、肥後国には
南方の敵を防ぐものは一人もおりません。この事を判断材料にしていただくため申し上げます。』

これを宗麟近習の田原紹恩まで届けた。

その後程なく、賀井宗運は死去した。跡を継いだ鎮隆は一戦する事もなく、弱々と薩州の軍門に下った。
あまりに言う甲斐もない次第である。

(大友記)



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 01:07:49.59 ID:1xH6qmmt
臆病になるか勇敢になるかは教育に依るところが大きいだろうな

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 02:27:59.24 ID:N54iHfZG
親父が教育してたわけじゃねーし

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 03:30:16.09 ID:oLH+EMfC
漢は漢の背中を見て育つものよ

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 04:01:42.71 ID:ZqHjIqi9
ガチホモ道ですか?小生には無理です。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 07:57:24.98 ID:BWaRqLqE
最後にオチか

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 08:11:02.02 ID:vdUzC4zx
信玄の尻を見て育つ勝頼

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 08:41:14.47 ID:HrkzhnAN
オチワロタ

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 09:08:25.61 ID:a+C8R4Xw
単純に大友から心が離れてただけじゃないの?と言いたくなる

418 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/07(水) 09:45:43.35 ID:NM1zdpB1
大友最強

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 14:48:50.73 ID:ryTEwD7T
やっぱり宗運の子は島津に降る運命なんだな
てか、加藤忠弘て"甲斐"宗運の血を引いてたんだな
"賀井"宗運をググってて意外なモノを拾った

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 17:03:54.73 ID:vIRV7BMw
この戦の時期がよく分からんけど天正六年以降の大友は肥後に軍を派遣する能力も無いから仕方ない
たぶん天正十年じゃなくて八年にあった合戦の事だと思うけど
同年にあった龍造寺が赤星の人質処刑した事と関係あるのかな

421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/08(木) 12:14:45.09 ID:zQMGvikz
葉を見れば木の状態はおおよそ分かる

義統様の科ではない

2015年08月23日 11:16

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:03:40.48 ID:olujKR/6
大友家累代の佳名を失ったのは、全くもって義統様の科ではない。

彼の父上である宗麟様は仕合良く、九州の内六ヶ国を旗本に属し、豊後の府内は、大内氏の山口と共に、
西国の都はどちらかと言われるほど繁栄し、御威光浅からぬものであった。

ところが老年に成って切支丹宗になられ、分国残らずかの宗門に引き入れ、神社仏閣を破却し、
寺社領を横領し、仏の画像にて鼻をかみ、あまつさえ尻を拭き、石仏・木仏を雪隠の踏み石とするのを、
彼は手柄とし、氏神先祖の菩提所を崩し、仏壇、社壇の材木で雪隠を作り、先祖の位牌も打ち刻み、
牛や鹿を焼いて食い、悪逆の至り、語り尽くせぬほどである。

まして出陣の時も、吉日・吉方という事を選ばず、その出発に際し、どういう意味があるのか、
彼が崩した氏神の古宮の跡に籤入りを遣わすような所業をした。

そのようであるから、向かう所ごとに負け、ようやく本領の豊後だけは残ったが、これも島津に蹴散らされ、
府内の居城さえ守ることが出来ず、豊前の妙間嶽まで逃げ籠もり、府内の城も焼き払われ、一名危うい時に、
太閤様がご人数を出されたため島津は撤退し、その跡に入れ替わりに入って高名顔をしていた。
そして猶も悪行強く、大友の家が滅ぶべき時極まったのである。

高麗にて、唐人と戦わず、小西摂津守を捨て、聞き逃げをし、黒田甲斐守(長政)の先手伝の城に
ほうほうの体で逃げてきたのを、甲斐守先手、小河伝右衛門、勇士なれば城を堅固に保ち、
小西・大友両家の軍勢を引き受け、様々に働いたため、ようやく太息をつき、それより小河は名を上げ、
大友は日本一の臆病者と御接感情が出され、豊後国を召し上げられ、その家臣であった我も人も、
その時から乞食となり、いまこのように成ってしまったが、これも全くもって義統様の科ではない。
また前世の因果とも言いがたい。何もかも、悪事の根源は、皆これ切支丹宗のせいなのだ。

(古郷物語)

なんもかんも切支丹が悪いんや!という、古郷物語にある大友旧臣の述懐である。




192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:11:14.99 ID:PF18INwR
義統様を庇うつもりが無いだろ、コレ

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:32:20.39 ID:rQWpT49o
宗麟が酷いのは分かった
小河伝右衛門がすごいのも分かった
あれ?義統様は?

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:41:49.72 ID:tuUo6M3j
大友といい龍造寺といい嫡男はどうして暗愚なのか…

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 05:25:23.65 ID:5sHVmbwv
九州にはバカ世継ぎが
生まれやすいんですね

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 06:05:31.98 ID:mgYyhY0x
城焼いたうえに幼子を殺して意気揚々と死地に向かう戸次一族とかもおるしなあ(実際には悲壮だったんだけど、某やる夫のせいでキにしか思えなくなった)

源五郎の名

2015年04月02日 18:24

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/01(水) 20:38:45.41 ID:o8IDB0Fr
筑前の長尾城に秋月種実が人数を入れ籠らせた所を、大友方の石松源五郎詰めかけ、戦うたびに
一度も遅れを取らなかった。その忠功によって、彼は未だ郎党であったが御屋形たる大友宗麟の御前に
召し出され、石松の苗字を許され、以後石松隼人と名乗った。

ところが、その後も石松は秋月勢と戦ったのだが、石松隼人の名乗りを聞いて
「さては源五郎は向かってこないぞ!」と一斉に攻めかかってくる。
石松はこれを先途と戦うものの、敵は事ともせずに打ち掛かって来るので、石松は支えかねて引き退いた。

この戦いのあと石松は
「さても今度の一戦に打ち負けたのは、隼人の名に変えた故であろう。」
そう思って下された名を戻し、元の源五郎とした。

こうして、重ねて秋月勢と戦った時は、件の源五郎と名乗って突撃した所、秋月勢は踏み留まることも出来ず
忽ち敗軍した。

されば、人に知られた名は変えるべきことではないと、当時の人々は皆言っていたそうである。

(大友記)



大友宗麟と怪異

2015年03月26日 18:44

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 20:07:16.68 ID:Y/d1PWex
大友宗麟がある時病を患ったことがあったが、この折、屋敷の天井に血のついた巨大な人の足跡が出現した。
しかし宗麟は、かねてからこのような事を気にしない人物であったので、これが報告されても少しも臆する
様子もなく、

「私の煩いも平癒した。やがて体力も回復するだろう。」

などと言って、驚くことすら無かった。

またある日、お座敷の塀から、小さな松の木が少し顔を出した、かと思うと、にわかに大木と成って
枝を垂れ葉を繁らした。
これに当番の侍が慌てて駆けつけると、この松は次第に細くなり、うつつのように消えてしまった。

人々はこれこそ稀代の珍事だと思ったが、その後のある夜に大友宗麟の座していた畳の間から、
六尺ほどの屏風が自ら出ていき消え失せた。

当時、これだけでなく様々な不思議なことがあった。
人々は、これはきっと不吉の前兆ではないかと、なにか悪いことが起こるのを待ち受けるような心地をしたという。

(大友記)



607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 20:11:22.62 ID:1uV8E8O4
前兆で記録終わりかよw

宗麟公悪逆之事

2015年03月25日 18:41

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 00:03:33.69 ID:Y/d1PWex
宗麟公悪逆之事

豊後の国の鎮守である須原八幡宮の神事は、毎年8月14日から明けて15日まで、放生会御祭として行われた。
所がその年、祭りの最中に恐ろしいことが起こった。
供僧たちが運んでいた御輿がにわかに重くなり、まるで巨岩のようになったためそのまま持ち上げることが出来ず、
御輿は地面に落ちてしまた。
供僧たちは慌てて再び持ち上げようとしたが、動かすことすら出来ない。困り果てている所を、
老僧が一人現れ輿の前に畏まり、三度首を傾け御神体を取り出して、神事の行われる場所へと戻した。
実にただごと成らぬ有り様であった。

この報告を聞いた大友宗麟は言い放った
「そのような世の差し障りなる祭りを渇仰すべきではない!よいか、私はただ、その祭りを今回は中止しろと
言っているのではない。永遠に止めよと言っているのだ!」

これを聞いた人々は困惑した。その祭りは豊年の年にも増やさず、凶年にも減ずること無く、
上古より今まで欠けること無く執り行われてきた祭礼なのだ。それを今に至って捨て去れば、
神慮もいかばかりであろうかと考えたのだ。しかし宗麟は

「それら仏神は、我が宗にとっての魔である!しかれば国中の大寺大社一宇も残らず破却せよ!」

そう言って、先ず第一に住吉大明神の御社の破壊を、山森紹庵に申し付けた。
紹庵は馳せ向かうとこれを焼き払い、御神体を打ち崩した。
紹庵はその後3日を過ぎずに死んだ。

次に豊前国彦山に、清田鎮忠に三千の兵をつけて遣わした。
彦山山中の三千の山伏たちは身命を捨ててこれを防いだが、命知らずのあぶれ者たちが弓鉄砲を揃えて
攻め寄せてきたので、山中の衆も山々谷々に逃げ散った、
鎮忠は上宮まで上り、一宇も残さず灰燼となした。

そんな所に、山伏二人が現れ声高に言い放った「我ら、大友七代までの怨霊となる!」
そう罵倒すると腹を掻っ切り、猛火の中に飛び入った。

さてまた、万寿寺の破却を命ぜられたのは橋本正竹であった。彼は寺に向かうと山門より火をかけた。
その時丁度辻風激しく吹きかけて、回廊、本堂、東行堂に燃え尽き、寺中は瞬く間に灰燼となり、
仏像、経論、聖教はたちまちに寂滅の煙と成って立ち上った。
東堂西堂の人々はこの事態に、わけも分からず裸足のまま、行く末も定めず逃げ惑った。

誠に稀代不思議の悪逆であると、眉をひそめぬ者は居なかった。

吉弘内蔵助には、国中の佛神を薪にせよと命じた。
内蔵助は山々在々を駆け巡り、仏神の尊容(仏像)を日々五駄十駄と集めては打ち割り薪となした。

ある時内蔵助が、阿弥陀観音釈迦如来の仏像を取り集めて湯を沸かそうとした時、釜の中で鉄砲を放った
ような響きがあった。下人たちはこれを怪しみ、内蔵助に報告したが、彼は
「それは膠の焼ける音だろう」と、少しも騒がなかったが、今度は雷が落ちたかのように揺れて鳴り響き、
風呂を沸かしていた仏像の燃え指しが一つ、屋根の上に飛びあがった。

その時、魔風が炎を吹きたて、猛火と煙があっというまに十方全てを覆い尽くした。
内蔵助は慌てふためき逃げようとしたが、逃げ場を失い終に焼死した。
内蔵助の屋敷の者達は七転八倒し、女が泣き叫びながら焼死する有様は、話に聞く八大地獄の罪人が
剣樹に貫かれ、猛火鉄湯に身を焦がす姿というのは、このような物かと思えるほどであった。

(大友記)

関連
大友義統悪逆の事及び彦山の意地


603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 09:59:24.78 ID:AoB6rU9A
山伏「七代祟ろうとしたら保たなかったでござる」

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 12:11:36.07 ID:ArryPMjm
明治の廃仏毀釈より酷い弾圧はかつて無い
日本の文化大革命と言うべき蛮行

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 18:20:19.23 ID:4zrWmo/w
松永ボム正「つまりワシは微罪」

大友宗麟の入信

2015年03月22日 16:08

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/21(土) 17:30:00.70 ID:gnSwSeyw
南蛮国よりキリシタンという宗旨が伝わり、豊後国の府内丹生島に一寺を建立してその宗旨を布教した。
大友家中の清田鎮忠、田原近江守らはこの宗教に入信し、日夜聴聞した。

大友宗麟はこのことを聞いて、田原近江守を召して吉利支丹宗の事を尋ねた。
近江守は九州一の弁舌の人であったので、切支丹の外道(寺社を認めない事)の仔細を、さも面白く語った。
これを聞いた宗麟は

「昔、源頼朝公の仕置にも、神仏を鎮めよという内容は第一に見える。そのような大法であるので、私も神仏を
渇仰している。所がそうしているのに、良き事はなく世の災いは多い。
そのような役に立たぬ諸寺諸社を破却するには、外道宗でなければ成り難い。」

そう言って、切支丹に入信した。

この事について、ある年、豊後国内の社家の者が、宗麟を調伏するという事があった。
この事が宗麟の耳に入ると彼は激怒し
「私の武運長久の祈祷などこそすべきであるのに、そうではなく私を調伏するとは、手飼の犬に
脛を噛まれるとの言葉通りだ!事を良くしようとして返って悪くすると言うのはこういう事だ。
この事件に関わった者は、一人残らず死罪にせよ!」

そう命じたが、これを重臣である吉岡宗観が留め、領内からの追放処分で済ませた。
しかしこの事で宗麟の憤りは却って深くなり、それがあって切支丹に成ったのだという。

(大友記)



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/21(土) 19:59:52.45 ID:vQ+0f67r
吉岡宗歓が生きてる間はまだキリスト教に入信してないんだけどな

大友宗麟調伏事件

2015年03月08日 16:07

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/08(日) 07:55:30.98 ID:ZcJkqeU1
大友義鎮公の不行儀を、その御簾中(正妻)は深くお恨みになり、調伏させた事こそ愚かである。
国中の社僧山伏らをここかしこに集め、昼夜の境もなく祈ること夥しかった。
「いかなる祈祷であるのか」と、人々は皆不審しあった。

このことは深く忍んで行われていたが、ついに義鎮公の耳に入った。
義鎮公は大いに立腹し、「これに関わった者は一人残らず成敗せよ!」と仰せになったが、
吉岡三河守の詫び言により、国内からの追放となった。

その後、不審なことが起きた。義鎮公の姿が突然見えなくなったのである。
家中の者達が国中を探すと、府内間近のクコミ浦と言う場所で見つかった。
そこは大変粗末な柴の庵で、豊後の国主たるものが少しでも住むべき所とは見えなかった。
「このような場所に、お伴を一人も無い軽々しい有り様、一体どういうことですか!?」
と申し上げると、

「それがな、紅葉の景色に惹かれて、心ならずも浮かれ出でたのだ。
府内には思う仔細がある。上ノ原に御座所を移すように。」
そう仰せ下した。

これに重臣である戸次伯耆守(道雪)、臼杵越中守、斉藤兵部少輔を始め、ご一門中その他は話し合ったが、
「確かにお心をはかられての事なのだろうが、上ノ原の普請と言っても、あの場所は御屋形様が
御座を移されるべき場所ではない。どうにかして府内に帰っていただかなければ。」
そうまとまり、様々に申し上げたが、義鎮は同心せず、上ノ原に滞在した。しかしそこは探題御座所では
なかったので、臼杵丹生島に移られた。

その後、義鎮公は御髪を下ろさせられ、宗麟公と名を変えられた。
御一門の老中も思い思いに法体となった。
宗麟公は御患いのようであったが、様々な御養生にて本復し、その後府内へと帰られた。

(大友記)

大友宗麟調伏事件とその出家に関する記事である。




戸次道雪、大友義鎮を諌める

2015年03月07日 16:52

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/07(土) 16:47:23.10 ID:5liutiCy
当屋形である大友義鎮公は、幼少の頃より政道正しき大将であり、儒学の達者にて堯舜湯武の古き跡を
御尋ねになり、何事も、廃れた道を改め、古式の例に任せて御仕置をされた。
かねてより怪力乱神といった徒な事を聞くことはなかった。

所が、このような大将であったのに、いつの間にか性格が変わってしまった。
ある時、御簾の間に移って御酒宴の御慰があったが、その後踊りを見物したいと、国中から二十歳前後の女を
すべて踊り子にするため召し出した。義鎮公が行ったこのような事は限りなかった。

義鎮公は相手がいかなる野人であっても、色良き女をさえ差し出せば、機嫌よく御前に召し、財宝を与えた。
都より楽の役者を召し、酒宴、乱舞、詩歌、管弦に日を送り、偏に好色に傾いた。
美女に対する潰えは万民の苦しみであり、侍の権威は女に掠め取られた。これこそ傾城傾国の基であり、
次第に、日々猥らとなり、いつしか礼儀を忘れ、偏に好色に傾けば、国家滅亡となるであろうと、
これに眉をひそめぬ者はなかった。

戸次伯耆守(道雪)はこれを悔やみ、どうにかして制止したいと日々登城するも、御簾の内に入るのは
許されなかったため、どうにも出来なかった。
そこで戸次は踊り子を用意し、御簾の間にで日々夜々に踊りをした。

これを義鎮公が聞き及び、「伯耆守は月見、花見、酒宴、乱舞といったものを大いに嫌っていたのに、
今踊りを好むとは不審なことだ。きっと私への馳走のつもりなのだろう。見物したい。」と言い出し、
戸次の元へと出向いた。戸次伯耆守は大いに喜び、踊り子たちに三拍子という踊りを三度踊らせ、
それが首尾よく済むと、義鎮に向かって申し上げた

「恐れ多きことですが、請い願わくばその御不行儀を止めて頂きたい。
かつて、御父君である義鑑公の時代は、ご領内六カ国においてさえ、猥らがましきことばかりでしたが、
御屋形様がご若年で家督を継がれてからは、程なくその風潮も収まりました。これも偏に、御屋形様の
ご威光が浅からぬ故でしょう。

さりながら、近年は何事も御政道を投げ打たれ、御簾の間に移られ、家臣たちの言うことは何も聞きたくないと
仰せられました。これでは悪しき事も良き事も申し上げる方法がございません。

毛利陸奥守(元就)は立石合戦で利を失い、御屋形様を恨み、様々な武略を巡らせ、当家を滅ぼす時節を
待っております。
只今の大友家の御様態、御幕下は内より御屋形様を疎んでおります。
義鑑公の時代のように、世間で再び兵乱が始まってしまっては、なんと御勿体なき儀ではありませんか。」

そう、涙を流し申し上げると、義鎮も「ありがたし」と改心した。
翌日は七夕の御礼の儀があったが、諸士が登城すると、義鎮は例年通りの儀式において、
家臣たちと対面し御礼を請けた。このことに、豊後の国中喜悦の思いをなしたのである。

(大友記)



698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/07(土) 20:46:37.55 ID:P9TUOMNt
大友って盟主的な扱いだから義鎮本人の能力が分かりづらい
直接指揮した合戦もなさそうだし今川氏真と大差無さそう
あるいは一条兼定なみか

佐伯氏の栄光

2015年01月22日 18:42

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 01:45:49.13 ID:IbeNvmuu
佐伯氏の栄光

 豊後佐伯氏といえば祖母嶽大明神の末裔たる大神一族である。
 源平時代には、緒方惟栄が平家を大宰府から追いやる大活躍をしている。
 大友宗麟の元では惟教が活躍し、耳川合戦で戦死。
 島津の豊後侵攻の際には、惟定が佐伯を守って、島津家久指揮の島津軍を寄せ付けなかった。
 大友氏改易の後、惟定は藤堂高虎に仕え、安濃津藩の家老となった。
 そんな一族の伝承を、杉谷宗重という人物が記録している。

○鱗のこと
 蛇神である祖母嶽大明神の末裔である佐伯氏の当主には、代々鱗があった。
 佐伯惟定は、鱗が三つ出たという。
 また、惟定の子・惟重は、元和五年十一月二十日に出たので、私自身が記録した。

○旗のこと
 元和四年六月七日、緒方惟栄以来相伝する旗が、雷のように鳴動した。
 家臣たちが怪しんでいたところ、その三日後に惟定が亡くなった。

○神息の太刀のこと
 緒方惟栄が義経からもらった太刀であり、佐伯家に伝承された。
 元和九年、惟重が研ぐために京都へ上らせたところ、娘が急病で危篤となった。
 慌ててこの太刀を佐伯家の屋敷に戻したところ、娘の病気はたちまちよくなったという。

○巴作の太刀のこと
 藤堂高次がこの太刀を一覧したい、ということで、寛永三年十月十日、惟重は太刀を城中へ持っていった。
 高次はじかに持つことをおそれ、杉原紙を手に敷いた上で扱おうとしたが、刀が抜けない。
 仕方なく惟重が抜いて、高次に渡そうとしたところ、突然座が鳴動して、床板が崩れ落ちてしまった。
 翌朝、修理しようとしたところ、床板が崩れた形跡は少しも残っておらず、上下みな驚きかえったという。

 こんな由来のある佐伯家であるが、寛永の末に祖母嶽大明神から二十六代にして家が絶え、名字ばかりが続くだけになってしまった。
 それを悲しんで、これを記録するのである。

以上、『大友興廃記』より。
 名族というのは、やっぱり物持ちがいいのだなぁ、という話。




587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 06:07:09.84 ID:sdz2KnuV
>>586
鱗ってどこについてたんだろうか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 07:31:40.56 ID:21LKpoSr
目じゃね?

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 08:50:06.53 ID:t06pxzlq
ただの皮膚病だろ

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 20:34:21.68 ID:N4/2OkIR
>>586
大神一族は平家物語でも蛇神の末裔として書かれてる由緒ある中二病一族だよなあ
非業の最期を遂げた10代惟治は魔法使いだったり、祟りをおこしてトビノオ様と
いう神として神社に祀られたりしてるし、
惟定の弟の子孫に緒方洪庵がいたりと結構面白い一族なんだよな

佐伯家の剣だと他に飛龍の太刀、手鉾の太刀(不抜の太刀)、瀬上りの脇差、
小屏風長刀というのもあるね

「大名に臆病者あり」

2014年06月09日 18:50

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 21:31:39.48 ID:z+Y76WGw
太閤秀吉が、加藤左馬介(嘉明)に出した感状に、

「大名に臆病者あり」

という事を書いたものがある、これは、豊後に大友という大名があるが、その大友の事であるということだ。

(老人雑話)

義統の事がよっぽど悪印象だったのでしょうね…





吉弘嘉兵衛尉統幸の事

2014年02月28日 18:50

592 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 20:14:49.01 ID:l7Nk7iCb
吉弘嘉兵衛尉統幸の先祖は大友の一族であり、代々先手の侍頭であった。
祖父も父も、みな吉弘嘉兵衛尉と名乗った。祖父は日向にて討ち死にし、父は後に宗甚と号し、
彼は高橋紹運の兄であり、すなわち吉弘統幸は紹運の甥である。
立花左近将監統虎(宗茂)は紹運の子であるので、立花宗茂吉弘統幸は父方のいとこである。

先年、豊臣秀吉によって大友義統が豊後を召し上げられた時、吉弘統幸も浪人したのだが、
黒田如水が彼を豊前に招き、重臣である井上九郎右衛門に預け置き、しばらく井上の領地に逗留していた。

その後立花宗茂の招きによって、筑後の柳川へ行き、浪人の間の扶持として知行二千石を与えられ、
数年居住していたのである。
この時、大友義統の嫡男である義乗は徳川家康の預りとなり、江戸の牛込という所に居住していた。

このような中、石田三成の挙兵が起こると、これを聞いた吉弘統幸は世の中の流れを考え、
「今回の事態は家康公のご理運となる事必定であろう。幸いにも義乗公は関東におられる。
これより関東に行って義乗公を盛り立て、大友の家の再興を果たそう。」と思い、立花宗茂
暇を乞うた。

宗茂は吉弘の話を聞くと、「その方の志、尤もな事である。」と暇を遣わし、その上道中の路銀として
黄金をいくらか与えた。吉弘はこれに感じ入り、申し上げた

「私は数年の間あなたに扶養して頂いたというのに、その御恩を報ぜず、只今御暇を乞い申した事は、
不義の至であり、本意にも背くことであるというのに、御暇を頂き、その上金子まで、このように多く
下されました。誠にこのお恵みは、忘れがたい事です。
これは我が先祖より伝わる刀でありますが、今度上方において、私もどのように成り果てるかわかりません。
ですのでこれを、形見としてお受取り下さい。」

そう言って忠光の太刀を差し出すと、宗茂は涙を流して

「そなたが義乗を盛りたてるため関東に参られることに、私も感じ入ったのだ。
私もその方のことを、左右の手のように、頼もしく思っていたのだが、義によりては命をも惜しまれぬ
事であるのだから、ここに留めたいとは思うけれども、力及ばぬことである。
また、その方の家に伝わる太刀を形見に賜るのは、感悦なる事である。ここにある私の脇差しも、
私が常に、身から外さず帯びているものであるが、これを、私の形見として受け取って欲しい。」

そう言って腰にさした脇差しを抜いて吉弘に与えた。吉弘はこれを受け取り、しばらくは顔も上げられず
泣いていたが、やがて暇乞し、関東に向けて出立した。

593 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 20:15:39.16 ID:l7Nk7iCb
吉弘が大阪に到着すると、その時丁度、大友義統が差し置かれていた毛利氏の元から泉州堺に
上がって来ていることを聞き、急ぎ堺に行って義統と対面した。義統は

「いかに嘉兵衛尉、久しく相見なかったな。今度毛利輝元、増田長盛より承った事には、
秀頼公より本領である豊後を下され、その上当座の合力として、具足百領、馬百頭、鑓百本、
鉄砲三百挺、銀三千枚を賜り、急ぎ豊後に下り、九州を鎮めよということである。
私のやることは決まった!お前も良い時にやって来た、我が伴をせよ!」

吉弘はこれを聞くと、こう申し上げた
「いやいや、そんな事をすれば殿のお立場をいよいよ悪くし、ただ御運を尽き果てさせてしまうでしょう。」
これには義統も、側に居た木部元琢、竹田津一卜もこれを聞いて興ざめた様子であった。義統は、
「ならば、汝はどう思うのか?」と聞くと

「必ず、天下は内府(家康)の御手に入ることとなるでしょう。此の度の乱は、石田治部少輔の天下を望む
謀計より起こった事です。逆謀に加担して、一旦利運が来たとしても、悪名は末代まで残り、浅ましいことです。
その上これは、御身も御名も共に失ってしまいます。特に、義乗様は内府に属して、江戸に居られるのですから、
御子と共に、内府の味方をする事こそ然るべきと考えます。
これは大事のご分別です。どうか、能くご思案し、御後悔の無いようにお謀りになってください。
私は義乗様を盛りたてるため、立花宗茂に暇を乞うて、関東に参ります。殿も御暇を乞われるべきです!」

しかし義統は同心せず、吉弘は再三諌めたのだが承知無く、義統は豊後に下ろうと、その翌朝大阪へ行き、
そこから船で傳法という所まで出た。吉弘統幸は宿舎に帰ったが、そこで考えたことには、
『今、滅亡に極まった目の前の主君を捨てて、世に出ることになるであろう関東の義乗様のもとに参るというのは、
不義の事である。さて、もはや私の運命も尽き果てたようだ。ならば今、義統様の供をして豊後へ下り、
本国の土に成ろうではないか。』
そう決心し、大阪から船に乗って傳法に追い付くと、義統は大変に喜んだ。

その後、上関で黒田如水の使者が来て、如水からの異見状を吉弘も見て、色々と諫言したが、
やはり同心してはもらえなかった。豊後に下った後は、吉弘は宗像掃部と言い合わせ、快く討ち死にしようと
決心したが、黒田如水との決戦である石垣原の合戦に赴く時、大友義統の前に出てこう申し上げた

「今回の合戦にたとえ打ち勝ったとしても、畢竟、殿のご理運にはならないでしょう。
私はこの度、討ち死にすると決心いたしましたので、一生のご対面は、只今ばかりとお考えになってください。」
そう言うと、涙を流しながら立ち去った。そしてかねてからの言葉に違わず、終に戦死を遂げた事こそ
哀れであった。

吉弘統幸の旧恩を慕って馳集まった士卒も多かったが、彼らも一歩も引かずに討ち死にした。
吉弘のことは言うに及ばず、その家人まで、あわれ惜しき士共なりと、敵も味方も感じないものは居なかった。

その後、小石垣村と南石垣村の間、大家の西の傍らに、吉弘統幸の墓が築かれ、石碑を立て、その姓名を記した。
吉弘統幸は義あり勇あり、名高き士であったため、志ある武士はそこを通る時、必ず馬から降りて礼をなした。
彼が大剛の武士であったので近隣の民は、瘧を患った時はこの墓に祈れば必ず回復すると言い伝えた。

(黒田家譜)

黒田家譜より、吉弘統幸についての記録である。





594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 21:37:51.60 ID:feHyZ+X7
義統ぇ・・・

こんな兵力で九州制圧出来るはずないだろ
どう見ても時間稼ぎの捨石

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 23:48:52.64 ID:InhCTw8n
日向の時もそうだけど大友は下が義に厚いのに上がダメなんだよなあ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 03:10:32.56 ID:hrqRFxMJ
この人と上杉憲政は沢山の貴重な資料を後世まで残してくれた偉人なので大好きです