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立花宗茂と舞

2019年07月18日 13:46

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 01:57:19.10 ID:tnxIIaJa
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 10:36:52.65 ID:L637dIKf
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w


101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 10:44:59.33 ID:cnhTDBxw
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 12:59:56.13 ID:SUvmqEbQ
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人
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夫の留守を守った妻

2018年03月09日 11:00

685 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/09(金) 04:06:05.15 ID:VpSRa6pd
夫の留守を守った妻

市川局。
石七郎兵衛尉経守の娘。一説に宮荘下野守基友の娘とも。
正確な名前は伝わっておらず夫は毛利元就の重臣、市川経好で周防、高嶺城番

1569年、毛利は九州へ上陸し豊前を攻略し筑前立花城攻略に向かっており
大友軍と激戦を繰り広げていた。

大友宗麟は毛利軍の背後をつくため元々周防を治めていたに大内氏の一族である大内輝弘を密かに周防へ上陸させた。
上陸した大内輝弘は大内の残党を糾合。
高嶺城へ襲いかかった。

夫、市川経好は九州へ従軍しており城中は留守を預かるわずかな兵と市川局や女中達のみであった。
しかも高嶺城は主郭を中心に、四方に郭を配している山城で、守りには不向きな構造。

しかし市川局は徹底抗戦を決意。
自ら総指揮をとり女中を従え,女中ともども甲冑を帯び,下知を加え,長刀をもって戦った。

大内軍は毛利軍が九州から戻る前になんとしても周防を制圧したい。
大軍で攻めるがどうしても高嶺城を落とせない。
焦った大内軍はとうとう諦めて包囲を解いてしまった。
守り抜いたのである。

その後毛利軍が北九州から救援に到着。
大内輝弘は敗れ自害した。


のちに毛利輝元から「比類なし」と称され感状を与えられた。
が褒美はなぜか夫の経好に。
長男の元教は大友宗麟に内通した罪で殺害される。

天正13年3月6日死去。 『萩藩閥閲録』



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 12:21:13.51 ID:2sJpI6MT
>>685
最後のオチが酷いw

高橋鑑種、謀反の意思

2018年03月07日 18:42

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 17:43:25.01 ID:ctbP89i7
高橋三河守鑑種は、大友家の貴族、一満田殿の二男にして高橋家を継ぎ、筑前三笠郡を領し、
宝満、岩屋の城主でもあった。

そのころ、天下は戦国の最中であったので、四海九州で乱のない場所はなかった。鑑種は
才覚勇猛の武将であり、このような中で家の名を引き上げた。鑑種の弓箭の名は世上に響き、
三笠周辺の4,5郡も横領し、家も大となりその威勢は近国に並ぶもの無かった。
その驕慢の望みは豊後へと至り、遂には大友家への謀反の意思が生まれたのである。

鑑種はあまりに驕り、大友の御恩を背き、秋月種実、龍造寺隆信の語り合い、芸州(毛利)と
一味して豊後を敵とした。しかしその仔細を尋ねると、鑑種の舎兄である一萬田殿(鑑相)の妻女は
無双の美人であったのだが、御屋形(大友宗麟)がこれにお心を移され、自身のものとするため
謀って一萬田殿を誅殺したのである。この遺恨により、鑑種は大友家への逆意を含んだのである。

(高橋紹運記)


御このミ候て可被下候

2017年12月18日 17:38

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 15:39:43.58 ID:+fdPV11u
慶長の役の時、日本軍が南原城を攻略した際、釜山にいた立花宗茂
毛利高政に戦勝の祝状を送ったのだが、その返書で高政から鉄砲の手配を頼まれた。
それに対して宗茂が送った書状が次のものである

於南原之御感状之御祝言申入候処、御懇報上戦状を承乃候、数度之御手柄弥以被聞召届、
近々御朱印可為御頂戴候、御大慶、御祝言重々可申承候、目出度存候、仍鉄砲之儀、
ゑなミや(堺の榎並屋か)所可被仰付之由、承乃候、一つ書候て申入候、
一 四文目丸 長さ其外様子は貴殿様御このミニまかセ申候、 壱ちやう
一 三文目丸 右同前 一ちやう
一 又壱ちやう、これハいかやうにも、貴殿様御分別ニて、御このミ候て可被下候、
何もやをミ流仕度存じ候、よくよくねんを入、あたりを専ニ仕度候、
何も明日京へのほセ候者を、それへ可進之候間、能々被仰付可給候、恐惶謹言、
十一月朔日(慶長二年)                                   立花親成
(佐伯 毛利高政文書)

この頃は好みに応じた鉄砲が作れるんだね



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 23:28:33.62 ID:xUCTczY0
>>511
清正も朝鮮出兵中に細々とスペックを指定して発注してたから
鉄砲鍛冶は注文に応じて作ってたんでしょうね。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 00:05:22.26 ID:Ni8MtvjF
朝鮮陣では短い鉄砲のが便利だったっつー話だろ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 12:22:04.46 ID:bqkgk5UT
発注受けて作ってたら数揃えられないだろ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 15:59:42.93 ID:Ii/PF++M
数打ちと特注はまた別やろ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 18:40:29.28 ID:ks1azkFx
毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び
後に自ら伊勢守流を創始している鉄砲の名手で
閻魔王という大鉄砲を好んで使ってたようなんだけど、
小さめの鉄砲を特注で手配してもらってるのが興味深い

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 19:03:22.99 ID:5mdMzvkZ
高政所用の閻魔王は佐伯市歴史資料館に所蔵されてるね

毛利高政所用大鉄砲 閻魔王
SnapCrab_No-0303.jpg
http://saiki-rekishi.com/main_exhibit

其方の頸は私が

2017年12月15日 18:36

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/15(金) 17:33:51.39 ID:ydNZ0fJp
天正の初めの頃、天下未だ戦国の時、九州では筑紫家と立花家の領分は入り混じっており、
双方の侍たちで里に住居する者たちは、家族のように朝夕参会していた。

立花家の侍に、中島右京という者があった。彼の所へ、筑紫家の家臣・帆足という者が来て
飲食酒宴の折に、突然の触れがあった

『明日、秋月筑紫の両家が一同に、立花の岩屋表に寄せくる』

立花家の中島も、筑紫家の帆足も驚き、不慮の思いを成したが

「明日は敵となり互いに相戦うこととなった。定めなき世の中にて、
筑紫と立花はまた、手切れと成ってしまった。」

そう言いつつ、連れ立って暇乞いをした。
この時中島は、戯れのように言った

「明日の合戦では、其方の頸は私が取るよ。」

帆足はこれに何も答えず、その日はこのまま別れた。
しかしその後、言葉のごとく中島は帆足を討ち取った。

(士談)


高橋の長刀打

2017年10月17日 16:55

関内記   
325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 12:51:30.84 ID:NnEHy8T9
筑紫広門と高橋紹運の戦いの時、筑紫が兵を出して岩屋へと攻め寄せた時、紹運の家臣である
関内記の長刀持ちが、打物の鞘を外して用意していた所、どうしたわけか実淵勘解由という侍の頬先に
刀の先をひっかけ、流血におよんだ。
実淵は以ての外に腹を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、内記は様々に弁解したが、全く承知なかった。
しかし内記の父・善虎という者がこの騒ぎを聞きつけてやって来て、言葉を尽くしたことで、ようやく
堪忍に及んだ。

この時善虎は内記を叱りつけた
「あれほど多い敵の面を斬らずに、味方の顔を斬るとは言語道断の次第なり!」

しかし内記
「私の存ずるところではありません。長刀持ちの若党の誤りであり、私にはどうにも出来ません。」

「それも其方が常々不覚悟の故に、未だ敵にも逢わぬ内に、早く長刀の鞘を外させていたためだ!
いつでも、敵が近くなってから打物の鞘を外し、敵の顔だけを斬れ!」

内記はこれに一言も反論せず、

「ならば、斬ってみせん」

そういうと長刀を取り陣所を出て大いに戦った。
この当時、関内記の事は”高橋の長刀打”と、九州において大いに評判に成ったという。

(士談)



326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 17:29:10.79 ID:7bJ1dOiZ
いかにも江戸時代っぽ

【ニュース】 立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」発見

2017年08月29日 21:07

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:38:00.68 ID:XAKbPvrn
立花宗茂のものとみられる甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」が立花家臣の子孫の家から見つかった
柳川藩には、朝鮮出兵時の1593年、邪魔な袖を切り落として戦っていた小野成幸という家臣に
「袖がない具足は見苦しい」と宗茂が自らの鎧の袖を成幸に与えた逸話があるという。
その逸話の袖と思われるものが、2016年に小野成幸の子孫から柳川市に寄贈された。
袖は一対で安土桃山様式。長さ29センチ、幅23~27センチ、重さ720グラム。
鉄の小札に金箔を貼り、透明の漆で仕上げたもので、小札をつなぐ威は紫、紅、白の3色の糸が
交互に使われている。大友宗麟の重臣だった義父の立花道雪または宗茂自身が
大友家から与えられたものとみられ、杏葉紋の金物が付けられている。
(今月の25日に柳川市が発表したらしい)

記事(西日本新聞)
初代柳川藩主・立花宗茂 甲冑の袖発見 「家臣に与えた」逸話証明
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/353603/

立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」
201708260003_000.jpg



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:59:22.89 ID:ciSXwA0A
>>183
400年も残ってたとは凄いな、子孫GJ

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 21:49:02.14 ID:yeu/2L19
>>183
なんとなく宗茂らしいエピソード

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:49:13.72 ID:XAKbPvrn
今日の知恵泉でもこの袖が紹介されたね

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:53:43.76 ID:ZaU8nUoY
やってたな
家臣がわざと取った袖を宗茂が勘違いして与えてしまって
それを見てた別の家臣がさらに宗茂に袖を献上したっつー

微笑ましいなぁ

すると敵は驚き気圧され

2017年08月21日 18:38

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/21(月) 16:59:46.80 ID:uGfwiSOk
立花道雪が筑後にての合戦で、敵が山上の道雪の軍に敗退し、道雪軍はこれを追撃した。

敵がすでに下山した時、道雪は味方に下知して進軍を止め、先に斥候を出した所、
案の定敵は山の下に降り立ち、それぞれに備えを固め道雪の軍を待ち構えていた。

そこで道雪は合図を定め、静かに備えを山下に下ろし、ゆっくりと敵に接近した。
そして槍が届くほどの間近と成った時、合図とともに一斉に鬨の声を発し槍をばっと持ち上げた。

すると敵は驚き気圧され、容易く敗北したという。

(士談)


それが白指山西琳寺である

2017年07月02日 21:30

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/02(日) 20:52:52.10 ID:PL4U7vUW
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/03(月) 02:17:14.03 ID:pm5eutU1
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな

ならばこれからは尚更に

2017年06月22日 15:45

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 17:16:33.93 ID:QqZGxox/
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』


牛頭天王の神慮

2017年06月16日 17:54

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 04:20:17.65 ID:Yt7CmcZ5
立花家の紋所は古来より杏葉紋であったが関ヶ原の後に配流のある時、夜の夢で
筑後国祇園山が自身(立花宗茂)の頭上へ覆いかかる様を見て目を覚ました。

この夢より程なくして召し出されて、本国を賜った。これによって牛頭天王の神慮を
(宗茂は)かたじけなく思われ、かの社の守の形を家紋としたのである。

――『明良洪範』


男子これなく候へとも、

2017年06月11日 10:43

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 01:27:24.99 ID:ZNnSTgYf
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編Ⅴ 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例



15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:10:37.92 ID:YQxDzO82
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:12:55.86 ID:GSPWhLoP
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:23:11.93 ID:ZNnSTgYf
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 05:48:10.37 ID:FeToHE5W
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:48:07.31 ID:oqc2RtC1
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

果して、宗茂公は二十年振りに

2016年11月25日 08:19

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:33:07.38 ID:DqhLpzHV
柳川の日吉神社の太郎稲荷大明神由来に似た話があったな

戸次道雪は、稲荷明神の信仰が厚く出陣には、護軍の神として御幣を奉じ毎戦勝利の加護を受けられた。
藩祖立花宗茂公は、慶長五年九月大津城を攻め破り、武勲をたてられたが、
関ヶ原で西軍は敗れ危険な道を切り抜けはるばる西下された。
暗夜、筑後川の岸神代の広い芦原で道に迷われた時、一条幽光が先導したので浅瀬がわかり無事柳川城に入られた。
宗茂公の室誾干代姫は、父道雪公の志を受けついで稲荷明神を守り神と信奉された。
姫は、肥後腹赤村で明神が「夫君守護の為、しばらく姫のそばから離れるのだ」と告げられる夢を見て宗茂公は
必ず帰国されるを確信された。
果して、宗茂公は二十年振りに奥州棚倉藩主から柳川に帰国された。
入城後、直ちに肥後に居た僧金剛院誉を召し帰国して城濠の中の島に稲荷大明神を勧請しお城の守護神とされた。




7歳の女城主誕生

2016年10月12日 14:09

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 11:04:47.29 ID:KK0uFwxp
7歳の女城主誕生

立花山城督・戸次道雪には後を継がすべき男子がいないのが老齢の本人のみならず大友家の
悩みの種になっていた。そこで大友宗麟は道雪の猶子・鎮連の子で実の大甥に当たる男子(統連か?)を道雪の養子として
立花山城督を継がせその男子が成長するまで道雪と鎮連に後見させてはどうかと道雪と鎮連に諮った
しかし道雪はこれを断り次女(長女は夭折)のギン千代に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲った
姫が家督を継ぐのは異例だがこれは然るべき婿養子を迎えるという算段が道雪にあったから出来たこと
道雪には誰を迎えるかの算段がすでにあった。それが宝満山城主・高橋鎮種の長男・千熊丸だった
道雪は弥七郎が幼少のころから目を掛け(スパルタ教育を施し)ていた

一例:ある時二人が食事をしていた時、千熊丸が骨を取りつつ鮎を食しているのを見て道雪は怒り

「武士の子にあるまじき軟弱者!武将たるもの魚は骨ごと食べるべし」

とடりつけたとされる

参照:涙をこらえつつ少年宗茂は
URL:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7089.html

このように厳しい指導を幼少時から道雪から受けていた千熊丸改め高橋統虎は
道雪の婿養子になりのちに「西国無双」と称されるまでの武将に成長する
一方、ギン千代以前の立花山城督になってたかもしれない戸次統連は父が島津への内通を疑われ
義統に誅殺された後に戸次氏の家督を継ぎ名を統常と改め父の汚名を注ぐために島津氏と戦うことを決意する
最後は戸次川の戦いに豊臣勢として参加して長曾我部信親や十河存保らと共に戦死した

ギン千代が立花家を継いだ話を少年期宗茂や戸次統常の話と織り交ぜてアップしてみた




238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 19:29:05.57 ID:zRqAX6S/
>>236
統常は母親が烈女だからなあ
母子揃って最期は壮絶すぎる
仮に親父の無謀が義統の謀略だったらやるせない

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 22:09:56.86 ID:KK0uFwxp
>>238
統常は戸次川に赴く前に自分の子を宗茂夫妻に託して戸次本家の血を残している
ちなみに統常の妻の父が吉弘鎮信だから後年石垣原で戦死した統幸とは義兄弟

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:28:48.33 ID:M+xN9isV
大友家って家臣はすごい人多いのに主がどうしてああなのか

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 20:58:15.04 ID:c64bFhbI
宗麟のDNA

ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

2016年10月10日 10:09

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 16:57:25.24 ID:t9v3aFpB
ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

豊後朽網山野城主・朽網宗暦(鑑康)は息子の宗策(鎮則)ともどもキリスト教贔屓で知られた人物である
1553年には朽網地方に宣教師や修道士が訪れキリスト教の布教が始まりやがてキリスト教日本八大布教地にまで発展していく
翌1554年には豊後で初の教会を建てルイス・フロイス「日本史」にその教会の美しさを絶賛する様子が書かれている

それはさておき、ある戦陣で朽網宗暦・宗策親子が総指揮官・戸次道雪の元へ訪問する際のこと

宗暦「そなたも知るように道雪殿はキリシタンを好まれぬので(胸にかけた)そのロザリオを御目に触れないように隠しておけ」
宗策「……」

最初は父の言に従ってた宗策だが道雪の前にくるや父の言を翻しこれみよがしにロザリオを取り出しはじめた
宗暦はこれを見て慌てて(ちなみに宗暦は以前耳川の件で志賀道輝(親守)共々戦いぶりを道雪に糾弾されたことがあった)

宗暦「この倅は馬鹿者でござる。ここに罷り出るに先立って貴殿はロザリオをお好み遊ばさぬ故に取り外すように注意しておきましたるに取り外すどころかこのようにわざと出してみせる始末」
道雪「ご懸念無用。何となれば優れた兵士は初志を貫徹すべきで後退してはなりますまい」

こう言って宗策の行為をやり過ごし宗暦を安堵させたという

ちなみにこのやりとりをフロイスは
「このことから言い得るのは日本人がいかに理性的で答弁にあたっていかに分別があるか、ということである」と評した

キリスト教嫌いな人物には基本ミソカス(例:ラスボス・爆弾正・信玄・宗麟正室奈多夫人)なフロイスから珍しく褒められた道雪の分別



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:35:49.12 ID:f8T0paXC
フロイス「戸次鑑連はロザリオおkだから許す」
道雪「武士なら初志貫徹すべき」

価値観が交わってないけど利害は一致してるだけのような

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:54:13.67 ID:Oau9qfpR
豪胆な人が好きなだけでしょ
優男なら罵倒してた

立花道雪足疵

2016年06月19日 15:59

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 14:43:24.11 ID:t7BOj0bT
立花道雪足疵

 立花宗茂の父は〔名は忘れた。道雪斎か〕は足の病で馬上におれず、
歩行も不自由なので、出陣のときは台に乗り士卒数人で担がせていた。
戦場に及ぶと、持っている青竹〔これは采配の代わりである〕で台のふちを叩きたてて、
台ながら敵中に持ち込んで、投げこめなげこめと下知したという。

 また上杉謙信の采配も三尺ばかりの青竹で、臨戦のときは鞍の前輪を叩きたてて下知したそうだ。

 神祖も御戦に及ばれるときは、采配を御鞍に打たれて士衆を下知されて、
御指の血が、御鞍に染みたという。

 家法印殿(松浦鎮信)の采配の柄も竹であったが、戦陣では士卒を下知されるとき、
常にらちがあかないと、鞍を打ち口にくわえなさったので、
采配の柄は歯痕で見苦しいほどに傷ついていたそうだ。
(甲子夜話)

行儀が悪い話



751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 21:12:25.78 ID:Yw8Kk2C+
爪を噛むよりええやん

大津の死骸返し

2016年06月17日 17:56

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 04:02:05.70 ID:i6P555yl
大津城の戦いの時、立花宗茂は使者を城中に派遣し、

「今日、味方で討死した者の中に“十時伝右衛門”と申す者がいます。
取り分けて不憫に存じているのです。遺体をお返しください」

と言って、十時の物具の色を書いて言い送ると、やがて十時の遺体が
返された。また城中からも、

「“山田三右衛門”の首をお返しください」

と望んだので、冑を添えてその首を送った。これを“大津の死骸返し”
といって、勇士死後の誉れとした。

――『常山紀談』



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:54:07.40 ID:PtZ7CRgp
誉れなのかぁ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 01:26:54.93 ID:qsZH8YMt
>>860
「とりわきて不便に存るなり骸を返し給はり候へとて物具の色を書て…」(原文)

骸(首なしの死体)と首を交換したってことだね


“雷切”

2015年12月18日 17:01

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 02:20:05.09 ID:DWiYqAIF
豊後国南部藤北の鎧ケ岳の城主・戸次伯耆守鑑連入道道雪は、元来大友の類葉で、
親秀の次男・戸次左衛門尉重秀の末孫である。

累代武勇を励んだが、中でも鑑連は大友家にあって肩を並べる者がいないばかりか、
隣国にも類少なき士大将であり、智謀と驍捷を兼ねて達し、堅を砕いて利を破り、
奇正応変にして過ちはなく、

ある時は韓信が旗幟を変えて趙城を落とした計略を追い抜き、ある時は薛仁貴が三箭を
発して天山を定めた勇に続いたので、攻め取る戦の功は優れていて数え切れない。

ある時、鑑連が庭の木の陰で涼んでおられると、にわかに空は掻き曇り、黒雲白雨を
帯びて降り来る。雷霆はしきりに轟き、雷火がたちまち落下して、庭中を奔走した。

鑑連は側にあった“千鳥”という刀を取って飛び掛かり、抜き打ちに雷火を丁と切って
飛び去った。それからはこの刀を“雷切”と改名した。

しかしながら、鑑連も雷の余炎に当てられて身体のあちこちを負傷し、片輪者になって
しまった。そのため、出陣の時も乗り物に乗って軍士を下知なされた。

(原注:『岩屋物語』には“雷が左足に落ち掛かるところを、すかさず備前長光2尺5寸の
刀をもって抜き打ちに切りなさり、雷光は2つに切り割られて左右に飛び去った”とある)

――『筑後将士軍談(陰徳太平記)』




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 11:06:56.17 ID:Iqvf/N9q
鑑連は雷火を切って飛び去った・・・!?!?

「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

2015年10月12日 18:35

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/11(日) 23:07:28.70 ID:4uDhfPts
柳河の町やその近在では、旧暦の10月に亥の子餅といって亥の子の日にお餅をつきます。
このお餅を食べると、歳を一つとることになるのだそうです。
これはどこの国でもおんなじことですが、ただひとつ柳河には他と異なった行事が残っております。
これがお話しようという「えいぎょうえいさつ(愛嬌挨拶)」なのです。
亥の子の日には、柳河のどこの家でも、お店でも、入り口のお部屋や上がり口にお台やお膳をすえて、
その上に一升桝にお赤飯を山盛りにし、その山のてっぺんに白菊や黄菊を挿します。
そのそばの大きなお皿やお鉢には、大根と人参とのお膾が盛ってあります。そうして、
柳の枝をそぎっぱなしにした一尺五六寸ほどの大きな箸が、別々に2とおりそえてあります。
すると、表の方から、子ども達が二人とか三人とかてんでに手をつなぎあって、

「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

と、歌い歌い入って来るのです。そうしてどの家にでも上がって、そのお台の前に
すわると、とても大きな柳箸で、お赤飯をその山から欠いてすくうと、それを左の手にのせ、
その上にまた膾をはさんでのせ、それを食べてしまうと、手をふき、お行儀よくその家を出て行くのです。
一軒出るとまたお隣に入り、次から次に「えいぎょうえいさつ。仲のよかごと」と歌いお祝いして歩きます。
どこのお家へ入ってもかまいません。子どもたちのためにごちそうしてあるのですから、
柳河では、おひな祭りでも端午のお節句でも、まるで展覧会のように自由に見て歩けます。
知らないお家でもかまわず入れます。「えいぎょうえいさつ」も、子どもの頃どんなにうれしかったかわかりません。
ほんとうにみんな仲良くなるような気がしました。「えいぎょうえいさつ」とは愛嬌挨拶ということで
「仲のよかごと」とは、仲のよいようにという訳で、とにかく、仲のよいようにと挨拶して歩くのだと思います。
これは昔、立花左近将監さまが、関ヶ原の戦いの時、石田方へお味方なさったので、徳川家康公から
柳河のご領地13万石を取り上げられ、一時、肥後の加藤清正公のところへ食客をしておられたことがありました。
慶長8年のことですが、左近将監様は家臣たちと関東の方へお出かけになり、その途中亥の子のお節句に
おあいになりましたが、お茶碗もなければお箸もありません。
で、しかたがなく、有り合わせの枡に菊の花を添えたお赤飯を盛って、それを手の甲に受けて膾を乗せ、
柳の枝を箸にして皆で心ばかりのお祝いをなすったということが言い伝えになっております。
宗茂公は、それからまた柳河のお殿様として帰ってこられました。それで、あの時の記念に、
皆が仲のよいようにと、柳河のどの家でも、亥の子の日にはそうした「えいぎょうえいさつ」
をすることになったのでした。
(柳川の行事について北原白秋が書いた文)



824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/12(月) 00:36:23.33 ID:0k8U1Wba
白秋ブランドや!

質素な逸話だけど一方でうなぎの蒸籠蒸しとか何が発祥だったんだろ柳川

立花宗茂の家は、常に分かれていた

2015年08月26日 16:56

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 03:07:40.90 ID:/MvixQL9
立花宗茂の家は、小野和泉(鎮幸)と立花三河(薦野増時)の両家老の二派に、常に分かれていた。

小野和泉は若年よりその武勇人に越え、九州においては隠れなき武人であった。
彼の生まれたちは卑しく、物を言う様子も全く下郎たちと同じで、分別もなく、
普段は何の役にも立たない人物のように見えるのだが、度々の手柄は肩を並べる者も居らず、
そのため六千石を取り一の家老となり、その威勢を誇っていた。

立花三河は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人に越え、田舎侍には稀なる人材であると、
同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
今は物事を素早く進行させるのが良いと思う時代であるが、とりわけこの者ははややかであった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。

しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、
今の世の習いである。そして人は、分別がなく傍若無人なことを言いまわり、大抵は愚鈍で
子どもじみた作法の者を、武辺者と言うことが多い。これは珍しいことではないが、

立花三河も、能力のある人物であることは確かなのに、利根であることに押され、武儀は二番のように、
家中でも特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたそうだ。

このようであったので、小野和泉派の者達は、何時も武辺事ならば我らの出番であるとし、
立花三河派の者達に対してが、それが誰であっても武辺事に仕る者とは常に思わなかった。
そして親しき友人、あるいは兄弟においてこの2つの派閥にわかれた者達の間では、
小野和泉派は相手を「比丘尼組」、立花三河派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、
それぞれに腹を立てさせることもあったという。

(古郷物語)

立花宗茂の家中が2つの派閥に分かれていた、というお話。



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 13:27:59.41 ID:rXq/zYu8
脳筋と能吏に別れるのは当主が盗賊まがいの脳筋のせい
福島しかり

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 22:30:30.65 ID:rhG4BBZU
柳川の戦いの時にこの二派の対立を直茂に突かれたりしている