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立花家家臣、樺島家と壇家の断絶と復興

2022年04月22日 17:26

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/04/21(木) 23:14:59.11 ID:dsm5+nL8
立花家家臣、樺島家と壇家の断絶と復興

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元と石田三成の西軍に属して戦った立花宗茂とその一族郎党であったが、 関ヶ原の戦いはご存じのとおり西軍の敗北に終わり、
立花宗茂は残兵をまとめて大坂城に戻り、そこから紆余曲折を経て 領地である柳川に戻り、そこで鍋島・加藤・黒田の軍と一戦交えたのちに開城降伏した。

関ヶ原以後の立花宗茂の紆余曲折
西国無双 吼える
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13139.html
関ヶ原の戦いにおける宗茂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3443.html
名将の降伏
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4344.html

その後、立花宗茂は改易となるが加藤清正はじめとする諸大名からの仕官の誘いを断り、肥後の玉名郡高瀬村の清源寺に入って 加藤清正の客分として遇されることとなり、
正室の立花誾千代は肥後国玉名郡腹赤村に寄宿することとなった。
改易された立花家に代わって柳川藩主として入ったのが田中吉政である。

慶長7年(1602年)7月11日、柳川と肥後の境近くにある面の坂にてこの前日に松風の関で 田中家の関守に捕らえられた松延村の樺島彦左衛門益義と本郷村の壇七郎兵衛忠重と
その一族の者らが磔刑に処され、 彼らの父親、松延村の庄屋・樺島式部(旧松延城主)は自宅にて切腹し、本郷村の庄屋・檀大炊介(旧松延城主)は 矢部川の川原にて斬首と相成った。

そして、樺島・壇両家は庄屋職を解かれた上で断絶となる。

何故にこのようなこととなったか?樺島・壇の両家とその一族は密かに当時は国(藩)をまたいでの 輸送は禁じられていた米と金品を塩と偽って塩俵に隠して、
味噌などと共に大八車に積んで毎月のように 旧主である立花宗茂と立花誾千代に届けていたのである。

肥後側の南関は清正から関守を任された加藤美作が色々目溢しをしていたようであるが、何者かが密告したか たまたまバレたのかは定かではないが、田中家の領内で捕まった樺島・壇の人々は僅か一日で処刑され、
それから3カ月ほどのちにはこの事件が原因かは分からないが、立花誾千代も34歳の若さでこの世を去ってしまうのである。

加藤清正、立花誾千代に兵糧を送る http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13129.html
この逸話もひょっとすると、今回のこの話に絡んでいたのかも知れない。 また、樺島・壇両家の仕送りに対して宗茂は脇差を礼として送っていたとも言い、 立花宗茂田中吉政とその家臣を毛嫌いしていた?という既出の逸話もあり、
今回の逸話のことも 一因だったのではないか?とも個人的には思う。


>>450続き 本スレに投稿出来なかったのでこの場をお借りして

庄屋職を解かれた上に一族断絶とされた樺島・壇の両家であるが、 樺島益義壇忠重、忠重とともに処刑された従弟・久左衛門にはそれぞれ子がおり、
久左衛門の一歳の子は折地村の下川家に匿われて育ち、のちに京で学んで医者となり 同地に戻っている。

また、幼かった益義の一子・益仁と忠重の一子・重貞も方々に匿われて成長したのち、 柳川藩主・田中家による難を逃れ、のちに吉政の死後、
跡を継いだ嫡子忠政が早世して田中家が無嗣断絶となって、立花宗茂が柳川藩主として旧領への復帰を果たした際、目通りを果たし、
それぞれ大庄屋として復帰し、10石どりの士分の立場と帯刀を許され再び立花家に仕えることとなった。
(旧柳川藩志などより)

樺島・壇両家が大八で米を運んだルート
ttps://i.imgur.com/bLMvJfV.jpg
bLMvJfV.jpeg

ちなみに、この事件を機に面の坂はハタモン場(処刑場)となり、度々関所破りが囚われ処刑された松風の関跡は
現在も心霊スポットとして 当地にて語り継がれているのだという。
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   ヽ,'     /   /`,ゝ' ´     ヽ   Y.
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    l    ,イ─- 、.._ ヽ ,, _,.. -─:}   !
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   |  {ト」l|.      : | "    ``: |!トリ  |
.  │  ヽ、|      ;.」_      |'ソ    !
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    ト.    ミ.ゝ ヽ.____./  /  l   /
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「大友興廃記」より「城中水に渇すること」

2022年02月09日 18:18

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:15:24.76 ID:EhFZQJMw
まともな白米城伝説を

大友興廃記」より「城中水に渇すること」
永禄十一年十月、毛利の吉川小早川が中国兵十万余騎をもって立花の城に攻めてきた。
立花の城代は鶴原掃部助、田北民部であったが、大友宗麟は戸次道雪、臼杵田原などに筑後の蒲池などを加えて五万五千八百騎の勢力をもって中国勢の後に陣を取らせた。
こうして18余度の合戦があったが立花の城はよく持ち堪えた。
ある時、城から「五月雨では物具にもかびが生えることでしょう、笑止なことです」ということで
「五月まつ はなたちばなの 城ぜめは くさるよろひの 袖の香ぞする」と送った。
一方中国陣からは「すぐに落城の嘆きが思いやられていたわしく思います」ということで
「あはれおもふ 人は矢倉の 夜の雨に なみだをそふる 山しろのうち」と返してきた。
その後、城中は水に渇し、久しく雨も降らなかったため人馬ともに難儀であった。
中国方は金ほりにたくみなものが多く、水の手を全て掘って絶ってしまっていた。
鶴原、田原の下知で白米に灰を入れ、山城高いところで多くの馬を出して湯洗いの真似をした。
(灰が混ざった白米はそのまま馬の飼料になったという)
これはまだ城には水があると敵に見せるための謀であった。
のちには米を袋に入れ、岩根の湿気のあるところに埋め置き、とりあげ、煎って食べた。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:33:26.16 ID:EhFZQJMw
ここから先はいい話

その後、水もなくなり勇力も尽き、こうなれば討死覚悟で撃って出よう、それこそ勇士の本意であろう、しかしその前に宗麟公に申しておこうと
宗麟の元に吉田弥六兵衛という忍びの上手を遣わしたところ
宗麟「思う仔細あり、早々に降参すべし」と仰られた。
城中に戻った吉田からそのことを聞いた鶴原・田北は吉川・小早川に降参した。
なお降参兵は元就の命令でみな宗麟の陣へ送り届けられた。
その後、大内の生き残りの大内輝弘・武弘の親子が宗麟より送られた三千余の兵とともに周防・山口に打ち入ったところ国人の多くが輝弘方についたため、毛利は劣勢となった。
こうして毛利は立花城を引き払い中国に戻ることになったが、誰も後に残ろうと言い出すものはなかったため、御一門の端ということで桂能登(元澄)が残ることになった。
その時、坂田新五左衛門と浦兵部という勇士が後に残ることをかってで、都合三百余人で籠城し、ほかの兵が中国へ戻るまで大友軍の足止めをした。
毛利兵は山口の小郡というところで輝弘軍を破り、輝弘は切腹した。
こうして役目も達せられたため、城中に残った将は切腹しようとしたところ
攻めての道雪は「中国勢残り居候をうちはたさんこと、籠鳥をころすと同じ。今度残り候者は、元就以来用に立ち候ども者なり。
このたびわずかの人数にて敵国に残りし志の勇者を、むざむざと打ち果たすこと、不便の至りなり。
鶴原、田北がこともあれば、中国へ送り届けしかるべき」
と城中に「忠節の至り感じ入り候。城中の衆、城を渡し、中国へおかえりあるべき」と道雪が申したところ、城中は同意した。
こうして籠城していた兵は道雪の志に感動しことごとく中国へ帰還した。
道雪は立花の城を任せられ、それ以来、立花道雪と名乗った。



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/08(火) 22:40:45.56 ID:7DijzLVu
>>326
東伊豆の河津城には少しだけ違った白米伝説がある。

この城は伊勢宗瑞の伊豆侵攻戦で落城したと云われる。
独立した山頂に在って水が乏しい城で、伊勢軍の火矢から起きた火災を消す水が無い。
そこで代わりに大量の白米をかけて消火した、と。

なお、
河津城の考古学調査に於いて十五世紀末期から十六世紀初頭の出土遺物群に不自然なほど多量の炭化穀物粒が認められている。

我に均き者は誰ぞや

2022年01月23日 16:40

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/23(日) 14:41:00.24 ID:bLWM9gEP
戸次(立花)道雪は豊後の鎧岳の城主であった。能く士を愛護した故に、士卒は度々殊功を立てて
彼の危難を救った。

道雪には寵童があった。しかしこれに近侍の士が密かに情を通じた。道雪はこれを知れども
問い糾す事はしなかった。
近侍の士の友人が、道雪が近侍の士と寵童との関係を知っていることを識り、近侍の士を諌めて
出奔するよう促したが、近侍の士はこれを聴かなかった。しかし友人は近侍の士が刑せられることを
恐れて、道雪への夜話の中に、このような事を語った。

「誰とは知りませんが、東国の大将に愛幸の侍童が有りました。しかし大将の昵近の臣が、この侍童と
深夜枕を並べていたのです。大将は怒って昵近の臣に腹を切らせ、侍童は放逐しました。
これは主君の目を晦ました者ですから、理でありましょう。ただこれは商人が物語ったものですので、
その始末は詳細にはわかりません。」

と、作り話をして、道雪の返答を試みようとしたのである。
道雪は曰く

「大将たる者、忌妬の心がある時は狭窄となり、物を容れる度量が無くなる。
物を容れる度量が無ければ、士は悦服しない。
その他の理由で戦うのと、悦服して戦うのとでは、その強靭さは同日にも語れないほどの差がある。

暴悪の如きに対しては国法によって規制されるが、有り難い世俗の習いに染まって、その非を識らないという
類は、詐偽、欺瞞に比すべきではない。どうして命を断つに至るだろうか。」

友人は退いて、これを近侍の士に語った。近侍の士は感嘆斜め成らなかった。

ある年、道雪が薩摩の軍に攻め掛かられる事があった。道雪は城を出てこれを防いだが、薩摩軍に
中を絶たれて城に還り入ることが出来なくなってしまい、士卒の多くが壊乱した。

この時、かの近侍の士が大声で叫んだ

「鏃刀を帯びるのは畳の上で酒茶を喫するようなものだと思っているが、弱敵を破る事に何の
気勢があるだろうか。我等はこのような強敵に遭って命を損じ名を留めようと、兼ねてから言っていたでは
ないか!
今、俄に期せる事が来たのだ。面々、ここを逃げて誰に再び面と向かうことが出来るのか!」

そう勇んで敵を防いで大いに驍勇を奮った。この姿に壊乱していた者達も励まされて踏み留まり、
次々と闘死した。この間に道雪は城に還り入ることを得た。

ここでまた、近侍の士は叫んだ
「悉く城に還り入ろうとすれば。門を閉じることが出来ずこれに付け込まれ攻め落とされる事が有るだろう。
五人でも十人でも、ここで必死を極めて城を全うすれば稀世の忠義たるべし!
私は今、ここに残る。我に均き者は誰ぞや!」

そう言って鑓を膝の上に置いて平座した。これを見て残った者は三人。彼等は皆、敵五人七人を斬って
戦死し、両軍の目を驚かせた。

道雪がこの急難を免れたのは、近侍の士のおかげであった。

志士清談



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/23(日) 15:44:09.34 ID:uoK+KPRM
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2351.html
立花道雪 、若者は斬らず


似たような話を前に見たと思ったけど
近習が女中と不義密通したところ道雪から許されて勇敢に戦死した話だった

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 00:21:45.24 ID:mGEpN3uT
東国の大将って芦名さんかな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 20:03:27.94 ID:inYP3U+d
まあ作り話なんで、ここではないどこか遠くの話、ですな

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 03:34:17.84 ID:nDDm0RyX
フェナリナーサ?

西国無双 吼える

2021年08月25日 17:35

464 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/25(水) 06:58:55.01 ID:iSd1b4il
西国無双 吼える

慶長5年(1600年)、9月15日の関が原での西軍の敗報を受けて立花宗茂は弟の立花直次と大坂城に戻り毛利輝元に東軍との決戦を具申した。
しかし、返答が無かったため宗茂は柳川への帰国を決め、先ずは人質となっていた母・宋雲院らの救出を御座船の船頭である鶴田・村田の両人に
命じた。
両人は忍びの術の達人であったため命がけの冒険の末、宋雲院と島津公の夫人(島津亀寿)を救い出して島津夫人を薩摩邸に送り届け、主人・宗茂の元へ
戻り、こうして母子相伴って帰国の途についた。

その途上、犬子島(現在の大阪市西区江之子島)の関にて番卒がこれを誰何し宋雲院を抑留しようとした。
これに対し宗茂は

「さらば番人を悉く踏み殺し急ぎ馳せ過ぎよ」

と大喝し、従士吶喊して番卒を撃破し主従なく乗船して柳川への海路に入り3日後に無事九州へとたどり着いた。
https://i.imgur.com/i0XcWAx.jpg
i0XcWAx.jpg

立斎(公)旧聞記』『柳川史話

鬼武蔵といい、またも理由なき理不尽な暴力が関守を襲った悲しい出来事であった。
いやまぁね、彼らは彼らでただ真面目に勤めを果たしてるだけなんですけどね。
事態が事態、相手が相手だけに仕方ないんだけどね。

恐らくまだ出てなかったと思うのですが、既出だったら相すみませぬ。



465 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/25(水) 07:57:42.48 ID:uqmKi5tY
https://i.imgur.com/Xbw0J6c.jpg

立花宗茂と直次の母・宋雲院

2021年08月22日 16:54

宋雲院   
943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 10:04:55.98 ID:2Egr4wVK
立花宗茂と直次の母・宋雲院

天正14年(1586年)の岩屋城の戦いでは落城後に島津の捕虜になるも救出。

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い時は人質として在坂または在京の身。戦後、宗茂が奪還して柳川帰国のちまた徳川の人質として上洛。

以後、息子・宗茂の浪人時は同行してたのかどうかは不明ながらも慶長16年(1611年)に江戸で死去。

当時はこう言う人生はざらかも知れないけど、凄い激動の後半生だと思う。夫・高橋紹運を死に追いやり、自身を捕虜にした島津勢と旅路を共にした時とかどう言う心境だったやら…

高橋紹運とその許婚・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-410.html?sp

(参考:立花資料館 天叟寺所蔵宋雲院肖像)
https://i.imgur.com/CpPieZt.jpg
https://i.imgur.com/ZIocOtP.jpg
CpPieZt.jpg
ZIocOtP.jpg



立花宗茂、小野鎮幸から借金する

2021年08月22日 16:52

942 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 09:38:05.88 ID:2Egr4wVK
立花宗茂小野鎮幸から借金する

1600年9月、関ヶ原での合戦が終わり大坂城へ戻った立花宗茂(当時は親成)は毛利輝元に東軍との決戦を主張するも、輝元は既に東軍への恭順を決めておりそれを覆すことはなかった。

宗茂は人質となっていた母・宋雲院を奪取すると本領柳川を目指して進発。同じく薩摩へ撤退する島津勢と道中共にし、柳川へ辿り着く。

宗茂の帰着後の10月半ば、柳川へも東軍側の黒田、加藤に西軍から降った鍋島の三軍が攻め寄せて来る。
家康への恭順姿勢を見せるため宗茂は出陣せず小野鎮幸が大将として出陣し、殺る気満々の鍋島軍と激戦を繰り広げた末に鎮幸は銃創と矢傷で重傷を負い、立花軍は数々の犠牲を出しながらもよく持ち堪え、
最終的には家康からの宗茂と弟の直次らに対する「身上安堵之御朱印」が届いたことから黒田如水と加藤清正の説得に応じ、10月25日に降伏した。
この時、連れ帰っていた母・宋雲院を徳川への人質として再度上洛させることが決まっていたのだが、度重なる戦への出費で宗茂は手元不如意であった。

(´-ω-`)和泉ごめん、母上上洛のために銀10貫ほど貸して。国替えになっても来年の秋には返すから…

( ´-ω-`).。oO(命は助かったけど、最悪国替えだろなぁ)

開城時点ではこの様に考えていた?宗茂であったが…
   ____
   /ヽ__//
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  / 改 易 /_//
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     ̄ ̄ ̄
現実(家康)はより非情であった…

  (=゚ω゚)
   ( x)
   )ノ
   (
   )

c⌒っ。ω。)っ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こうして永きに渡る立花宗茂の愉快… じゃなくて苦労一杯の浪人生活が幕を開けることとなったのである。

(参考:立花資料館所蔵 立花親成書状)
https://i.imgur.com/mXdwK7M.jpg
https://i.imgur.com/W8XgnUL.jpg
mXdwK7M.jpg
W8XgnUL.jpg



944 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 16:32:14.15 ID:fo84XfBI
>>942
清正や三歳様はじめ東軍側の色々な人からの取り成しもあったんだろうけど、秀吉の小田原攻めの時の大道寺政繁みたいにならなくて良かったと思う。

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 22:38:32.40 ID:2Egr4wVK
宗茂「借りた金返せねぇぞ♪はした金じゃねぇぞ♪ orz」

加藤清正、立花誾千代に兵糧を送る

2021年08月19日 17:13

441 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/19(木) 13:04:28.11 ID:3psnQ4c0
加藤清正立花誾千代に兵糧を送る

1601年に書かれたと推定される加藤清正小野鎮幸に宛てた書状より

「左近殿御内儀へ御兵粮まいらせ候ところ、御礼として飛脚給うについて御状に預かり候、誠に御隔心がましき御礼など候へば、かえって迷惑せしめ候、しかるべき様に御心得頼み入り候、左近殿御身上落着の儀、到来候はば示し預かるべき候」

関ヶ原の戦の後、食客的立場で肥後の加藤清正の元にいた立花宗茂は故あって少数の家臣達を連れて清正の元を離れた。
清正に仕えた旧立花家臣団のまとめ役として肥後に残った宗茂の元家老である小野鎮幸に対して清正が送った書状には、鎮幸の旧主の奥方である立花誾千代に"兵糧“を差し入れたことなどが記されている。

左近(宗茂)殿の奥様に兵糧を送りました。御礼の書状が飛脚で届きました。気兼ねさせてご迷惑かけることになってないかな?(´・ω・`) 以下略


当方、古文に疎いため拙い意訳なのでアレですが加藤清正立花宗茂立花誾千代、その旧臣達に色々気遣いしていたことが判る書状が残っている。詳細翻訳は詳しい方お願いします。

しかし、立花誾千代への差し入れに対し"兵糧"って書いてるのはよほど関ヶ原後に清正が攻め入った時の立花誾千代の姫武者ぶりが強く印象に残ってるのか、洒落なのか?

立花誾千代の出陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-365.html



小野鎮幸宛加藤清正書状 小野文書141より』(立花家資料館所蔵)



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 13:06:23.32 ID:CHsfUeX3
>>441
原文はネットにあるのかな?


450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:00:33.64 ID:YfJQA42z
>>443
https://i.imgur.com/L2FACvx.jpg
L2FACvx.jpg

原本自体はGoogle Arts & Cultureで加藤清正書状と検索すると出て来るよ。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 14:29:06.72 ID:DBOy4uXM
>>443
翻刻はネットにはないんじゃないかな
柳川市史 史料編V 近世文書(前編)には収録されてたよ

武士の討ち死にすべき所はここにあり

2021年03月31日 17:00

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/31(水) 16:12:19.86 ID:ePGgZhvl
立花道雪の側に仕える女に対し、心を通わす者が有ったのだが、道雪はそれを知りつつ知らぬ体で居た。
ところがこの事を知る者が居り、ある夜の物語の時申した

「東国の大将の、誰とは知らないのですが、寵愛の女に密かに情を通わす者が居たのを誅したそうです。」

そう、あらぬ事を態と言って、道雪の答えを試みた。
道雪はこれに笑い出し

「若き者が色に迷ったのを、必ずしも誅しない事も有る。人の上に居て君と仰がれている以上、
仮初のことに人を殺せば、人が背く基である。国の大法を犯した事とは異なる。」
と語った。
かの者、これを伝え聞いて心に慙じ、また道雪の仁愛に感じ入った。

その後、薩摩との戦で鎧ヶ嶽の城を攻める時、道雪は城を出て戦ったが、大軍が押しかかり危うい状況に
なった。そこにかの者が大音上げて乱れる味方を恥しめて散々に戦った。その間に道雪は城近くへと
引き取ったが、敵はなお厳しく追撃し、城門を閉じることも出来ないほどであった。
そこに、かの者取って返し

「武士の討ち死にすべき所はここにあり!各々、是にて討ち死にすれば、城を敵に奪われまじ!
返せや人々!」

そう言う間に鑓を横たえ踏み留まると、返合する者三人あった。彼らが面もふらず戦って討ち死にする
間に、城門を閉じた。

常山紀談



【柳川・立花家史料館への支援について】

2020年12月12日 17:39

490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/12(土) 10:13:20.65 ID:nKHZzrpm
立花家史料館@TachibanaMuseum
https://twitter.com/TachibanaMuseum/status/1337278690502164482

本年コロナ禍の影響を受け、立花財団は存続の危機にあります。職員一同力を尽くして参りましたが、
次年度解散の恐れも出て参りました。初代戸次道雪から立花宗茂以降連綿と繋いできた立花家3万点の
歴史を柳川の地で守り続けるため、皆様のご支援そして拡散をお願いいたします



管理人氏のツイートで目に入ったがマジ洒落にならん・・
GOTO批判を横目に見てるだけのお気楽な立場でいたいとこだけど、どっちにしろ最適解がないしなあ



491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/12(土) 10:25:05.53 ID:4e9p7RQQ
これは困ったことになりすぎだ


※管理人注

上記ツィートの中にもありますが、現在、公益財団法人立花財団 立花家史料館さんの方では、
クラウドファウンディングを行われています。

立花家史料館さんは、「大友文書・立花家文書」をはじめ、そのコレクションのレベルも高く、
またコロナ以前より、展示だけでなく様々な発信を積極的に行われており、私たちのように、
歴史好き、戦国期、近世に関心のある者にとっても、大変に有益な場であると、理解しております。
それだけに、昨今の情勢下、一史料館の努力ではどうにも成らないことで、このように経営環境が
悪化されたことについて、管理人個人としても、心を痛めております。

このことに関しては、報道などでも扱われているようです。
こちらに収蔵されている史料は、柳川という地域だけではなく、九州、日本全体の歴史の研究においても、
大変に貴重なものであり、それが纏まって収蔵されていること自体にも、やはり大きな価値が有ると考えます。

個人としても、本当に些少ではありますが、ご支援させて頂きました。
この記事などを見て関心を持たれ、支援、協力をしたいとお考えの方は、どうぞ下記のアドレスより
クラウドファウンディングのページに赴いて下さい。

散逸の危機から立花家の重宝を守る|柳川・立花家史料館にご支援を
https://readyfor.jp/projects/tachibanamuseum

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等

2020年09月28日 18:10

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:02:02.01 ID:63wy7W1Q
日本戦史 朝鮮役(経過表・附表附図)参謀本部編 偕行社(大正13)

天正19年立花統虎(宗茂)・高橋統増(立花直次)軍役表

秀吉より浅野長吉をして立花兄弟に命じたもの、統虎8万国・統増2万国に対する軍役である
立花2400高橋600の軍役であるが両家合計

将士
騎士150 
  馬卒300(非戦闘員)
歩士150
  挟箱持150(非戦闘員)

兵卒
鉄砲足軽200
  小者200(非戦闘員)
弓足軽100
  小者100(非戦闘員)
槍足軽500
昇足軽100
  小者200(非戦闘員)
徒差物足軽200

輸卒
手明夫(予備輸卒)650(非戦闘員)

戦闘員1400
非戦闘員1600

計3000

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:03:06.51 ID:63wy7W1Q
兵力の実数で輸送部隊の配分まで書いてあるのはあんまなかったんでちょっと転記してみました
日本戦史 朝鮮役は現在文庫版も出てますが、要約版なので一部図表が省略されています
国会図書館デジタル版を参照ください
でも詳細は別ページって書いてあるのにそのページの画像が抜けてるんですよ国会図書館さん・・

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:06:12.71 ID:63wy7W1Q
同じく

文禄元年(1593)五島純玄隊編成表
五島氏1万5千石のうち1万石での兵賦
軍奉行は参謀役、用人は経理役
小人は将士などの従卒・馬卒、下夫は輸卒

将士
侍大将1(馬1)
奉行(軍・旗・鉄砲・弓・長柄)5(馬5)
使番3(馬3)
用人・大目付2(馬2)
騎士11(馬11)
医師・祐筆・僧侶5(馬5)
歩武者40

兵卒
鉄砲足軽
弓足軽
長柄足軽
旗手
計120

雑卒
小人38
下夫280
船頭・水夫200

計705
馬27



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/27(日) 21:29:54.49 ID:qEYXjif2
>>363
戦う人が少な過ぎるって思うけどこんなもんなんだろうな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 08:20:28.11 ID:sqc6Mded
>>363
1593年のせいか、投石部隊はいないんだな、もしくは刀みたいな予備武器扱いとか?

366 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/28(月) 16:59:20.13 ID:V8D2h7iY
時期としては朝鮮の役序盤だから、末期は鉄砲の比率がどれくらい高まったものなんかな

それ以前に末期だと戦力を輸卒に振り分けられる余裕があったんだろうか

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 17:10:20.65 ID:oHCG034a
非戦闘員といっても刀振り回す事くらいは出来たと思うし単に身分制度のせいで下っ端の者が請負ってた仕事だったんだろ、知らんけど

子孫に於いて疎略の義は有るまじきと

2020年01月18日 14:51

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 00:33:23.36 ID:YdSzXlXL
高橋紹運公が未だ御若年にて豊後に御在居の時、弥七郎(孫七郎ヵ)と申していた時分、御舎兄の吉弘鎮信公より、
彼を斎藤鎮実の御妹と婚約させたいとの仰入があり、これにより縁談についてはまとまったのだが、その頃豊前表
では中国衆との防戦の最中であり、かれこれと時が移ってしまった所、ある時孫七郎公が斎藤鎮実と対談した。

心静かに挨拶を交わした上で、公は仰せになった
「兄である鎮信より内々に、御妹子を申し請け、私の宿へ迎えることを御契約申し置いていたのに、世上の惣劇の
故に今まで引き延してしまいました。この事について、私は必ず申し請けたいと考えており、その事をお心得に
成って頂きたいと、このように直談いたしました。」

これに斎藤鎮実
「仰せのように内々に鎮信殿と話し合いをし、その通りの首尾となりました。しかしながら、その後妹が
疱瘡を患いまして、見苦しい容姿と成ってしまいました。このままではもご覧に入れる事も難しく、現状として、
この婚姻をすすめるのは叶い難いと思っています。」
このように返答した。これに対し公は仰せになった

「それは近頃、思いもよらぬ御意であります。私は聊かも、好色を求める人間ではありません。
斎藤殿は御先祖以来、豊州家(大友家)において流石の弓取りの名を保っております。であればその血筋を
受ければ、子孫に於いて定めて疎略の義は有るまじきと、頼もしく思い所望したのです。
御辞退の義には及びません。」

これにより、間もなく斎藤鎮実妹との御祝儀があり、この御腹より、統虎公(立花宗茂)、統増公(立花直次)が
御誕生され、御兄弟共に日本国内は言うに及ばず、朝鮮までも隠れなき名将と成られたのは、実に殊勝なる事で
ある。この頃孫七郎公は未だ二十歳にも満たなかったと云うが、その御きざしは衆に異なるものがあったのだろう。
古より申し伝わるように、名人たらん者は幼童より必ず異相著るる者とは、信なのだろう。

高橋紹運記)



538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 00:48:16.10 ID:0JGxBTZh
疱瘡持ちの嫁さん貰うシリーズですか
明智に吉川に高橋紹運と、テンプレートになってますけど何が原典なんでしょうね

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 05:56:14.22 ID:UWi0SAIY
医療が未発達だったからそういう逸話が本当に多かっただけじゃないの

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 06:03:00.48 ID:Zhqw+bSz
>>538
醜女の嫁って、それこそ三国志の孔明の嫁あたりからある話だしなぁ。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 11:34:13.15 ID:2U4nJWKR
周瑜は美人の嫁さんを貰ったから短命に

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 11:58:49.57 ID:dKp/1rIQ
名家の姫と言えば可憐な美少女をイメージするけど、実際にはそうとは限らないわけで…もちろん大事なのは縁と血ではあっても、醜女が過ぎる場合には疱瘡で顔が崩れたと言い訳してるのかも、あるいはそう言い訳するのが暗黙の了解だったとか

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:07:07.59 ID:xSQfNlxX
ほうそういうことですか。
アバターが可愛くても実際はブスというような

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:19:04.75 ID:0LkwBpdk
ブスでもないのに相手にされてない姫もいるわけで

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:50:27.12 ID:JM3woESP
性格も大事っすよ
あと知性も

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 19:49:41.45 ID:oIA+ZnYN
武家の娘は、口吸いといって精子を飲むことも
嫁入り前に教えられてたらしいな。
春画見て勉強したり。

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 20:10:22.07 ID:0JGxBTZh
どうなんだろ、戦国時代以外でも疱瘡持ちの嫁さん貰うって話あるんですかね
いやまぁ貰うのはいいんですけど武家の正室なりが疱瘡って割と風評として最悪な部類な気もするんでわざわざお話にして広めるかなって

立花宗茂と舞

2019年07月18日 13:46

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 01:57:19.10 ID:tnxIIaJa
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 10:36:52.65 ID:L637dIKf
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w


101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 10:44:59.33 ID:cnhTDBxw
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 12:59:56.13 ID:SUvmqEbQ
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人

夫の留守を守った妻

2018年03月09日 11:00

685 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/09(金) 04:06:05.15 ID:VpSRa6pd
夫の留守を守った妻

市川局。
石七郎兵衛尉経守の娘。一説に宮荘下野守基友の娘とも。
正確な名前は伝わっておらず夫は毛利元就の重臣、市川経好で周防、高嶺城番

1569年、毛利は九州へ上陸し豊前を攻略し筑前立花城攻略に向かっており
大友軍と激戦を繰り広げていた。

大友宗麟は毛利軍の背後をつくため元々周防を治めていたに大内氏の一族である大内輝弘を密かに周防へ上陸させた。
上陸した大内輝弘は大内の残党を糾合。
高嶺城へ襲いかかった。

夫、市川経好は九州へ従軍しており城中は留守を預かるわずかな兵と市川局や女中達のみであった。
しかも高嶺城は主郭を中心に、四方に郭を配している山城で、守りには不向きな構造。

しかし市川局は徹底抗戦を決意。
自ら総指揮をとり女中を従え,女中ともども甲冑を帯び,下知を加え,長刀をもって戦った。

大内軍は毛利軍が九州から戻る前になんとしても周防を制圧したい。
大軍で攻めるがどうしても高嶺城を落とせない。
焦った大内軍はとうとう諦めて包囲を解いてしまった。
守り抜いたのである。

その後毛利軍が北九州から救援に到着。
大内輝弘は敗れ自害した。


のちに毛利輝元から「比類なし」と称され感状を与えられた。
が褒美はなぜか夫の経好に。
長男の元教は大友宗麟に内通した罪で殺害される。

天正13年3月6日死去。 『萩藩閥閲録』



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 12:21:13.51 ID:2sJpI6MT
>>685
最後のオチが酷いw

高橋鑑種、謀反の意思

2018年03月07日 18:42

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 17:43:25.01 ID:ctbP89i7
高橋三河守鑑種は、大友家の貴族、一満田殿の二男にして高橋家を継ぎ、筑前三笠郡を領し、
宝満、岩屋の城主でもあった。

そのころ、天下は戦国の最中であったので、四海九州で乱のない場所はなかった。鑑種は
才覚勇猛の武将であり、このような中で家の名を引き上げた。鑑種の弓箭の名は世上に響き、
三笠周辺の4,5郡も横領し、家も大となりその威勢は近国に並ぶもの無かった。
その驕慢の望みは豊後へと至り、遂には大友家への謀反の意思が生まれたのである。

鑑種はあまりに驕り、大友の御恩を背き、秋月種実、龍造寺隆信の語り合い、芸州(毛利)と
一味して豊後を敵とした。しかしその仔細を尋ねると、鑑種の舎兄である一萬田殿(鑑相)の妻女は
無双の美人であったのだが、御屋形(大友宗麟)がこれにお心を移され、自身のものとするため
謀って一萬田殿を誅殺したのである。この遺恨により、鑑種は大友家への逆意を含んだのである。

(高橋紹運記)


御このミ候て可被下候

2017年12月18日 17:38

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 15:39:43.58 ID:+fdPV11u
慶長の役の時、日本軍が南原城を攻略した際、釜山にいた立花宗茂
毛利高政に戦勝の祝状を送ったのだが、その返書で高政から鉄砲の手配を頼まれた。
それに対して宗茂が送った書状が次のものである

於南原之御感状之御祝言申入候処、御懇報上戦状を承乃候、数度之御手柄弥以被聞召届、
近々御朱印可為御頂戴候、御大慶、御祝言重々可申承候、目出度存候、仍鉄砲之儀、
ゑなミや(堺の榎並屋か)所可被仰付之由、承乃候、一つ書候て申入候、
一 四文目丸 長さ其外様子は貴殿様御このミニまかセ申候、 壱ちやう
一 三文目丸 右同前 一ちやう
一 又壱ちやう、これハいかやうにも、貴殿様御分別ニて、御このミ候て可被下候、
何もやをミ流仕度存じ候、よくよくねんを入、あたりを専ニ仕度候、
何も明日京へのほセ候者を、それへ可進之候間、能々被仰付可給候、恐惶謹言、
十一月朔日(慶長二年)                                   立花親成
(佐伯 毛利高政文書)

この頃は好みに応じた鉄砲が作れるんだね



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 23:28:33.62 ID:xUCTczY0
>>511
清正も朝鮮出兵中に細々とスペックを指定して発注してたから
鉄砲鍛冶は注文に応じて作ってたんでしょうね。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 00:05:22.26 ID:Ni8MtvjF
朝鮮陣では短い鉄砲のが便利だったっつー話だろ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 12:22:04.46 ID:bqkgk5UT
発注受けて作ってたら数揃えられないだろ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 15:59:42.93 ID:Ii/PF++M
数打ちと特注はまた別やろ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 18:40:29.28 ID:ks1azkFx
毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び
後に自ら伊勢守流を創始している鉄砲の名手で
閻魔王という大鉄砲を好んで使ってたようなんだけど、
小さめの鉄砲を特注で手配してもらってるのが興味深い

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 19:03:22.99 ID:5mdMzvkZ
高政所用の閻魔王は佐伯市歴史資料館に所蔵されてるね

毛利高政所用大鉄砲 閻魔王
SnapCrab_No-0303.jpg
http://saiki-rekishi.com/main_exhibit

其方の頸は私が

2017年12月15日 18:36

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/15(金) 17:33:51.39 ID:ydNZ0fJp
天正の初めの頃、天下未だ戦国の時、九州では筑紫家と立花家の領分は入り混じっており、
双方の侍たちで里に住居する者たちは、家族のように朝夕参会していた。

立花家の侍に、中島右京という者があった。彼の所へ、筑紫家の家臣・帆足という者が来て
飲食酒宴の折に、突然の触れがあった

『明日、秋月筑紫の両家が一同に、立花の岩屋表に寄せくる』

立花家の中島も、筑紫家の帆足も驚き、不慮の思いを成したが

「明日は敵となり互いに相戦うこととなった。定めなき世の中にて、
筑紫と立花はまた、手切れと成ってしまった。」

そう言いつつ、連れ立って暇乞いをした。
この時中島は、戯れのように言った

「明日の合戦では、其方の頸は私が取るよ。」

帆足はこれに何も答えず、その日はこのまま別れた。
しかしその後、言葉のごとく中島は帆足を討ち取った。

(士談)


高橋の長刀打

2017年10月17日 16:55

関内記   
325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 12:51:30.84 ID:NnEHy8T9
筑紫広門と高橋紹運の戦いの時、筑紫が兵を出して岩屋へと攻め寄せた時、紹運の家臣である
関内記の長刀持ちが、打物の鞘を外して用意していた所、どうしたわけか実淵勘解由という侍の頬先に
刀の先をひっかけ、流血におよんだ。
実淵は以ての外に腹を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、内記は様々に弁解したが、全く承知なかった。
しかし内記の父・善虎という者がこの騒ぎを聞きつけてやって来て、言葉を尽くしたことで、ようやく
堪忍に及んだ。

この時善虎は内記を叱りつけた
「あれほど多い敵の面を斬らずに、味方の顔を斬るとは言語道断の次第なり!」

しかし内記
「私の存ずるところではありません。長刀持ちの若党の誤りであり、私にはどうにも出来ません。」

「それも其方が常々不覚悟の故に、未だ敵にも逢わぬ内に、早く長刀の鞘を外させていたためだ!
いつでも、敵が近くなってから打物の鞘を外し、敵の顔だけを斬れ!」

内記はこれに一言も反論せず、

「ならば、斬ってみせん」

そういうと長刀を取り陣所を出て大いに戦った。
この当時、関内記の事は”高橋の長刀打”と、九州において大いに評判に成ったという。

(士談)



326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 17:29:10.79 ID:7bJ1dOiZ
いかにも江戸時代っぽ

【ニュース】 立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」発見

2017年08月29日 21:07

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:38:00.68 ID:XAKbPvrn
立花宗茂のものとみられる甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」が立花家臣の子孫の家から見つかった
柳川藩には、朝鮮出兵時の1593年、邪魔な袖を切り落として戦っていた小野成幸という家臣に
「袖がない具足は見苦しい」と宗茂が自らの鎧の袖を成幸に与えた逸話があるという。
その逸話の袖と思われるものが、2016年に小野成幸の子孫から柳川市に寄贈された。
袖は一対で安土桃山様式。長さ29センチ、幅23~27センチ、重さ720グラム。
鉄の小札に金箔を貼り、透明の漆で仕上げたもので、小札をつなぐ威は紫、紅、白の3色の糸が
交互に使われている。大友宗麟の重臣だった義父の立花道雪または宗茂自身が
大友家から与えられたものとみられ、杏葉紋の金物が付けられている。
(今月の25日に柳川市が発表したらしい)

記事(西日本新聞)
初代柳川藩主・立花宗茂 甲冑の袖発見 「家臣に与えた」逸話証明
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/353603/

立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」
201708260003_000.jpg



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:59:22.89 ID:ciSXwA0A
>>183
400年も残ってたとは凄いな、子孫GJ

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 21:49:02.14 ID:yeu/2L19
>>183
なんとなく宗茂らしいエピソード

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:49:13.72 ID:XAKbPvrn
今日の知恵泉でもこの袖が紹介されたね

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:53:43.76 ID:ZaU8nUoY
やってたな
家臣がわざと取った袖を宗茂が勘違いして与えてしまって
それを見てた別の家臣がさらに宗茂に袖を献上したっつー

微笑ましいなぁ

すると敵は驚き気圧され

2017年08月21日 18:38

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/21(月) 16:59:46.80 ID:uGfwiSOk
立花道雪が筑後にての合戦で、敵が山上の道雪の軍に敗退し、道雪軍はこれを追撃した。

敵がすでに下山した時、道雪は味方に下知して進軍を止め、先に斥候を出した所、
案の定敵は山の下に降り立ち、それぞれに備えを固め道雪の軍を待ち構えていた。

そこで道雪は合図を定め、静かに備えを山下に下ろし、ゆっくりと敵に接近した。
そして槍が届くほどの間近と成った時、合図とともに一斉に鬨の声を発し槍をばっと持ち上げた。

すると敵は驚き気圧され、容易く敗北したという。

(士談)


それが白指山西琳寺である

2017年07月02日 21:30

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/02(日) 20:52:52.10 ID:PL4U7vUW
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/03(月) 02:17:14.03 ID:pm5eutU1
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな