高橋の長刀打

2017年10月17日 16:55

関内記   
325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 12:51:30.84 ID:NnEHy8T9
筑紫広門と高橋紹運の戦いの時、筑紫が兵を出して岩屋へと攻め寄せた時、紹運の家臣である
関内記の長刀持ちが、打物の鞘を外して用意していた所、どうしたわけか実淵勘解由という侍の頬先に
刀の先をひっかけ、流血におよんだ。
実淵は以ての外に腹を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、内記は様々に弁解したが、全く承知なかった。
しかし内記の父・善虎という者がこの騒ぎを聞きつけてやって来て、言葉を尽くしたことで、ようやく
堪忍に及んだ。

この時善虎は内記を叱りつけた
「あれほど多い敵の面を斬らずに、味方の顔を斬るとは言語道断の次第なり!」

しかし内記
「私の存ずるところではありません。長刀持ちの若党の誤りであり、私にはどうにも出来ません。」

「それも其方が常々不覚悟の故に、未だ敵にも逢わぬ内に、早く長刀の鞘を外させていたためだ!
いつでも、敵が近くなってから打物の鞘を外し、敵の顔だけを斬れ!」

内記はこれに一言も反論せず、

「ならば、斬ってみせん」

そういうと長刀を取り陣所を出て大いに戦った。
この当時、関内記の事は”高橋の長刀打”と、九州において大いに評判に成ったという。

(士談)



326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 17:29:10.79 ID:7bJ1dOiZ
いかにも江戸時代っぽ
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【ニュース】 立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」発見

2017年08月29日 21:07

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:38:00.68 ID:XAKbPvrn
立花宗茂のものとみられる甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」が立花家臣の子孫の家から見つかった
柳川藩には、朝鮮出兵時の1593年、邪魔な袖を切り落として戦っていた小野成幸という家臣に
「袖がない具足は見苦しい」と宗茂が自らの鎧の袖を成幸に与えた逸話があるという。
その逸話の袖と思われるものが、2016年に小野成幸の子孫から柳川市に寄贈された。
袖は一対で安土桃山様式。長さ29センチ、幅23~27センチ、重さ720グラム。
鉄の小札に金箔を貼り、透明の漆で仕上げたもので、小札をつなぐ威は紫、紅、白の3色の糸が
交互に使われている。大友宗麟の重臣だった義父の立花道雪または宗茂自身が
大友家から与えられたものとみられ、杏葉紋の金物が付けられている。
(今月の25日に柳川市が発表したらしい)

記事(西日本新聞)
初代柳川藩主・立花宗茂 甲冑の袖発見 「家臣に与えた」逸話証明
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/353603/

立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」
201708260003_000.jpg



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:59:22.89 ID:ciSXwA0A
>>183
400年も残ってたとは凄いな、子孫GJ

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 21:49:02.14 ID:yeu/2L19
>>183
なんとなく宗茂らしいエピソード

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:49:13.72 ID:XAKbPvrn
今日の知恵泉でもこの袖が紹介されたね

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:53:43.76 ID:ZaU8nUoY
やってたな
家臣がわざと取った袖を宗茂が勘違いして与えてしまって
それを見てた別の家臣がさらに宗茂に袖を献上したっつー

微笑ましいなぁ

すると敵は驚き気圧され

2017年08月21日 18:38

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/21(月) 16:59:46.80 ID:uGfwiSOk
立花道雪が筑後にての合戦で、敵が山上の道雪の軍に敗退し、道雪軍はこれを追撃した。

敵がすでに下山した時、道雪は味方に下知して進軍を止め、先に斥候を出した所、
案の定敵は山の下に降り立ち、それぞれに備えを固め道雪の軍を待ち構えていた。

そこで道雪は合図を定め、静かに備えを山下に下ろし、ゆっくりと敵に接近した。
そして槍が届くほどの間近と成った時、合図とともに一斉に鬨の声を発し槍をばっと持ち上げた。

すると敵は驚き気圧され、容易く敗北したという。

(士談)


それが白指山西琳寺である

2017年07月02日 21:30

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/02(日) 20:52:52.10 ID:PL4U7vUW
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/03(月) 02:17:14.03 ID:pm5eutU1
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな

ならばこれからは尚更に

2017年06月22日 15:45

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 17:16:33.93 ID:QqZGxox/
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』


牛頭天王の神慮

2017年06月16日 17:54

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 04:20:17.65 ID:Yt7CmcZ5
立花家の紋所は古来より杏葉紋であったが関ヶ原の後に配流のある時、夜の夢で
筑後国祇園山が自身(立花宗茂)の頭上へ覆いかかる様を見て目を覚ました。

この夢より程なくして召し出されて、本国を賜った。これによって牛頭天王の神慮を
(宗茂は)かたじけなく思われ、かの社の守の形を家紋としたのである。

――『明良洪範』


男子これなく候へとも、

2017年06月11日 10:43

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 01:27:24.99 ID:ZNnSTgYf
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編Ⅴ 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例



15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:10:37.92 ID:YQxDzO82
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:12:55.86 ID:GSPWhLoP
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:23:11.93 ID:ZNnSTgYf
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 05:48:10.37 ID:FeToHE5W
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:48:07.31 ID:oqc2RtC1
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

果して、宗茂公は二十年振りに

2016年11月25日 08:19

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:33:07.38 ID:DqhLpzHV
柳川の日吉神社の太郎稲荷大明神由来に似た話があったな

戸次道雪は、稲荷明神の信仰が厚く出陣には、護軍の神として御幣を奉じ毎戦勝利の加護を受けられた。
藩祖立花宗茂公は、慶長五年九月大津城を攻め破り、武勲をたてられたが、
関ヶ原で西軍は敗れ危険な道を切り抜けはるばる西下された。
暗夜、筑後川の岸神代の広い芦原で道に迷われた時、一条幽光が先導したので浅瀬がわかり無事柳川城に入られた。
宗茂公の室誾干代姫は、父道雪公の志を受けついで稲荷明神を守り神と信奉された。
姫は、肥後腹赤村で明神が「夫君守護の為、しばらく姫のそばから離れるのだ」と告げられる夢を見て宗茂公は
必ず帰国されるを確信された。
果して、宗茂公は二十年振りに奥州棚倉藩主から柳川に帰国された。
入城後、直ちに肥後に居た僧金剛院誉を召し帰国して城濠の中の島に稲荷大明神を勧請しお城の守護神とされた。




7歳の女城主誕生

2016年10月12日 14:09

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 11:04:47.29 ID:KK0uFwxp
7歳の女城主誕生

立花山城督・戸次道雪には後を継がすべき男子がいないのが老齢の本人のみならず大友家の
悩みの種になっていた。そこで大友宗麟は道雪の猶子・鎮連の子で実の大甥に当たる男子(統連か?)を道雪の養子として
立花山城督を継がせその男子が成長するまで道雪と鎮連に後見させてはどうかと道雪と鎮連に諮った
しかし道雪はこれを断り次女(長女は夭折)のギン千代に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲った
姫が家督を継ぐのは異例だがこれは然るべき婿養子を迎えるという算段が道雪にあったから出来たこと
道雪には誰を迎えるかの算段がすでにあった。それが宝満山城主・高橋鎮種の長男・千熊丸だった
道雪は弥七郎が幼少のころから目を掛け(スパルタ教育を施し)ていた

一例:ある時二人が食事をしていた時、千熊丸が骨を取りつつ鮎を食しているのを見て道雪は怒り

「武士の子にあるまじき軟弱者!武将たるもの魚は骨ごと食べるべし」

とடりつけたとされる

参照:涙をこらえつつ少年宗茂は
URL:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7089.html

このように厳しい指導を幼少時から道雪から受けていた千熊丸改め高橋統虎は
道雪の婿養子になりのちに「西国無双」と称されるまでの武将に成長する
一方、ギン千代以前の立花山城督になってたかもしれない戸次統連は父が島津への内通を疑われ
義統に誅殺された後に戸次氏の家督を継ぎ名を統常と改め父の汚名を注ぐために島津氏と戦うことを決意する
最後は戸次川の戦いに豊臣勢として参加して長曾我部信親や十河存保らと共に戦死した

ギン千代が立花家を継いだ話を少年期宗茂や戸次統常の話と織り交ぜてアップしてみた




238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 19:29:05.57 ID:zRqAX6S/
>>236
統常は母親が烈女だからなあ
母子揃って最期は壮絶すぎる
仮に親父の無謀が義統の謀略だったらやるせない

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 22:09:56.86 ID:KK0uFwxp
>>238
統常は戸次川に赴く前に自分の子を宗茂夫妻に託して戸次本家の血を残している
ちなみに統常の妻の父が吉弘鎮信だから後年石垣原で戦死した統幸とは義兄弟

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:28:48.33 ID:M+xN9isV
大友家って家臣はすごい人多いのに主がどうしてああなのか

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 20:58:15.04 ID:c64bFhbI
宗麟のDNA

ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

2016年10月10日 10:09

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 16:57:25.24 ID:t9v3aFpB
ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

豊後朽網山野城主・朽網宗暦(鑑康)は息子の宗策(鎮則)ともどもキリスト教贔屓で知られた人物である
1553年には朽網地方に宣教師や修道士が訪れキリスト教の布教が始まりやがてキリスト教日本八大布教地にまで発展していく
翌1554年には豊後で初の教会を建てルイス・フロイス「日本史」にその教会の美しさを絶賛する様子が書かれている

それはさておき、ある戦陣で朽網宗暦・宗策親子が総指揮官・戸次道雪の元へ訪問する際のこと

宗暦「そなたも知るように道雪殿はキリシタンを好まれぬので(胸にかけた)そのロザリオを御目に触れないように隠しておけ」
宗策「……」

最初は父の言に従ってた宗策だが道雪の前にくるや父の言を翻しこれみよがしにロザリオを取り出しはじめた
宗暦はこれを見て慌てて(ちなみに宗暦は以前耳川の件で志賀道輝(親守)共々戦いぶりを道雪に糾弾されたことがあった)

宗暦「この倅は馬鹿者でござる。ここに罷り出るに先立って貴殿はロザリオをお好み遊ばさぬ故に取り外すように注意しておきましたるに取り外すどころかこのようにわざと出してみせる始末」
道雪「ご懸念無用。何となれば優れた兵士は初志を貫徹すべきで後退してはなりますまい」

こう言って宗策の行為をやり過ごし宗暦を安堵させたという

ちなみにこのやりとりをフロイスは
「このことから言い得るのは日本人がいかに理性的で答弁にあたっていかに分別があるか、ということである」と評した

キリスト教嫌いな人物には基本ミソカス(例:ラスボス・爆弾正・信玄・宗麟正室奈多夫人)なフロイスから珍しく褒められた道雪の分別



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:35:49.12 ID:f8T0paXC
フロイス「戸次鑑連はロザリオおkだから許す」
道雪「武士なら初志貫徹すべき」

価値観が交わってないけど利害は一致してるだけのような

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:54:13.67 ID:Oau9qfpR
豪胆な人が好きなだけでしょ
優男なら罵倒してた

立花道雪足疵

2016年06月19日 15:59

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 14:43:24.11 ID:t7BOj0bT
立花道雪足疵

 立花宗茂の父は〔名は忘れた。道雪斎か〕は足の病で馬上におれず、
歩行も不自由なので、出陣のときは台に乗り士卒数人で担がせていた。
戦場に及ぶと、持っている青竹〔これは采配の代わりである〕で台のふちを叩きたてて、
台ながら敵中に持ち込んで、投げこめなげこめと下知したという。

 また上杉謙信の采配も三尺ばかりの青竹で、臨戦のときは鞍の前輪を叩きたてて下知したそうだ。

 神祖も御戦に及ばれるときは、采配を御鞍に打たれて士衆を下知されて、
御指の血が、御鞍に染みたという。

 家法印殿(松浦鎮信)の采配の柄も竹であったが、戦陣では士卒を下知されるとき、
常にらちがあかないと、鞍を打ち口にくわえなさったので、
采配の柄は歯痕で見苦しいほどに傷ついていたそうだ。
(甲子夜話)

行儀が悪い話



751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 21:12:25.78 ID:Yw8Kk2C+
爪を噛むよりええやん

大津の死骸返し

2016年06月17日 17:56

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 04:02:05.70 ID:i6P555yl
大津城の戦いの時、立花宗茂は使者を城中に派遣し、

「今日、味方で討死した者の中に“十時伝右衛門”と申す者がいます。
取り分けて不憫に存じているのです。遺体をお返しください」

と言って、十時の物具の色を書いて言い送ると、やがて十時の遺体が
返された。また城中からも、

「“山田三右衛門”の首をお返しください」

と望んだので、冑を添えてその首を送った。これを“大津の死骸返し”
といって、勇士死後の誉れとした。

――『常山紀談』



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:54:07.40 ID:PtZ7CRgp
誉れなのかぁ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 01:26:54.93 ID:qsZH8YMt
>>860
「とりわきて不便に存るなり骸を返し給はり候へとて物具の色を書て…」(原文)

骸(首なしの死体)と首を交換したってことだね


“雷切”

2015年12月18日 17:01

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 02:20:05.09 ID:DWiYqAIF
豊後国南部藤北の鎧ケ岳の城主・戸次伯耆守鑑連入道道雪は、元来大友の類葉で、
親秀の次男・戸次左衛門尉重秀の末孫である。

累代武勇を励んだが、中でも鑑連は大友家にあって肩を並べる者がいないばかりか、
隣国にも類少なき士大将であり、智謀と驍捷を兼ねて達し、堅を砕いて利を破り、
奇正応変にして過ちはなく、

ある時は韓信が旗幟を変えて趙城を落とした計略を追い抜き、ある時は薛仁貴が三箭を
発して天山を定めた勇に続いたので、攻め取る戦の功は優れていて数え切れない。

ある時、鑑連が庭の木の陰で涼んでおられると、にわかに空は掻き曇り、黒雲白雨を
帯びて降り来る。雷霆はしきりに轟き、雷火がたちまち落下して、庭中を奔走した。

鑑連は側にあった“千鳥”という刀を取って飛び掛かり、抜き打ちに雷火を丁と切って
飛び去った。それからはこの刀を“雷切”と改名した。

しかしながら、鑑連も雷の余炎に当てられて身体のあちこちを負傷し、片輪者になって
しまった。そのため、出陣の時も乗り物に乗って軍士を下知なされた。

(原注:『岩屋物語』には“雷が左足に落ち掛かるところを、すかさず備前長光2尺5寸の
刀をもって抜き打ちに切りなさり、雷光は2つに切り割られて左右に飛び去った”とある)

――『筑後将士軍談(陰徳太平記)』




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 11:06:56.17 ID:Iqvf/N9q
鑑連は雷火を切って飛び去った・・・!?!?

「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

2015年10月12日 18:35

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/11(日) 23:07:28.70 ID:4uDhfPts
柳河の町やその近在では、旧暦の10月に亥の子餅といって亥の子の日にお餅をつきます。
このお餅を食べると、歳を一つとることになるのだそうです。
これはどこの国でもおんなじことですが、ただひとつ柳河には他と異なった行事が残っております。
これがお話しようという「えいぎょうえいさつ(愛嬌挨拶)」なのです。
亥の子の日には、柳河のどこの家でも、お店でも、入り口のお部屋や上がり口にお台やお膳をすえて、
その上に一升桝にお赤飯を山盛りにし、その山のてっぺんに白菊や黄菊を挿します。
そのそばの大きなお皿やお鉢には、大根と人参とのお膾が盛ってあります。そうして、
柳の枝をそぎっぱなしにした一尺五六寸ほどの大きな箸が、別々に2とおりそえてあります。
すると、表の方から、子ども達が二人とか三人とかてんでに手をつなぎあって、

「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

と、歌い歌い入って来るのです。そうしてどの家にでも上がって、そのお台の前に
すわると、とても大きな柳箸で、お赤飯をその山から欠いてすくうと、それを左の手にのせ、
その上にまた膾をはさんでのせ、それを食べてしまうと、手をふき、お行儀よくその家を出て行くのです。
一軒出るとまたお隣に入り、次から次に「えいぎょうえいさつ。仲のよかごと」と歌いお祝いして歩きます。
どこのお家へ入ってもかまいません。子どもたちのためにごちそうしてあるのですから、
柳河では、おひな祭りでも端午のお節句でも、まるで展覧会のように自由に見て歩けます。
知らないお家でもかまわず入れます。「えいぎょうえいさつ」も、子どもの頃どんなにうれしかったかわかりません。
ほんとうにみんな仲良くなるような気がしました。「えいぎょうえいさつ」とは愛嬌挨拶ということで
「仲のよかごと」とは、仲のよいようにという訳で、とにかく、仲のよいようにと挨拶して歩くのだと思います。
これは昔、立花左近将監さまが、関ヶ原の戦いの時、石田方へお味方なさったので、徳川家康公から
柳河のご領地13万石を取り上げられ、一時、肥後の加藤清正公のところへ食客をしておられたことがありました。
慶長8年のことですが、左近将監様は家臣たちと関東の方へお出かけになり、その途中亥の子のお節句に
おあいになりましたが、お茶碗もなければお箸もありません。
で、しかたがなく、有り合わせの枡に菊の花を添えたお赤飯を盛って、それを手の甲に受けて膾を乗せ、
柳の枝を箸にして皆で心ばかりのお祝いをなすったということが言い伝えになっております。
宗茂公は、それからまた柳河のお殿様として帰ってこられました。それで、あの時の記念に、
皆が仲のよいようにと、柳河のどの家でも、亥の子の日にはそうした「えいぎょうえいさつ」
をすることになったのでした。
(柳川の行事について北原白秋が書いた文)



824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/12(月) 00:36:23.33 ID:0k8U1Wba
白秋ブランドや!

質素な逸話だけど一方でうなぎの蒸籠蒸しとか何が発祥だったんだろ柳川

立花宗茂の家は、常に分かれていた

2015年08月26日 16:56

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 03:07:40.90 ID:/MvixQL9
立花宗茂の家は、小野和泉(鎮幸)と立花三河(薦野増時)の両家老の二派に、常に分かれていた。

小野和泉は若年よりその武勇人に越え、九州においては隠れなき武人であった。
彼の生まれたちは卑しく、物を言う様子も全く下郎たちと同じで、分別もなく、
普段は何の役にも立たない人物のように見えるのだが、度々の手柄は肩を並べる者も居らず、
そのため六千石を取り一の家老となり、その威勢を誇っていた。

立花三河は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人に越え、田舎侍には稀なる人材であると、
同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
今は物事を素早く進行させるのが良いと思う時代であるが、とりわけこの者ははややかであった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。

しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、
今の世の習いである。そして人は、分別がなく傍若無人なことを言いまわり、大抵は愚鈍で
子どもじみた作法の者を、武辺者と言うことが多い。これは珍しいことではないが、

立花三河も、能力のある人物であることは確かなのに、利根であることに押され、武儀は二番のように、
家中でも特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたそうだ。

このようであったので、小野和泉派の者達は、何時も武辺事ならば我らの出番であるとし、
立花三河派の者達に対してが、それが誰であっても武辺事に仕る者とは常に思わなかった。
そして親しき友人、あるいは兄弟においてこの2つの派閥にわかれた者達の間では、
小野和泉派は相手を「比丘尼組」、立花三河派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、
それぞれに腹を立てさせることもあったという。

(古郷物語)

立花宗茂の家中が2つの派閥に分かれていた、というお話。



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 13:27:59.41 ID:rXq/zYu8
脳筋と能吏に別れるのは当主が盗賊まがいの脳筋のせい
福島しかり

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 22:30:30.65 ID:rhG4BBZU
柳川の戦いの時にこの二派の対立を直茂に突かれたりしている

荒井の船橋

2015年07月19日 15:39

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:30:41.18 ID:BFyGo3JW
将軍徳川秀忠が上洛の時、荒井の渡を通過して本陣に入ると、井伊掃部頭(直孝)を召し出して言った

「今度の上洛につき、荒井の渡に船橋が駆けられていたが、一体誰が命じたのか?老中共の指図であるか!?
昔より、頼朝公を始めとして権現様までも、箱根荒井というのは関東第一の関所である。それに船橋をかけ
平地にしてして渡った例はない。であるのに、今度私の沙汰無しにこのような事をするなど、不届き千万である!
一体どうしてこのような事に成ったのか、直ぐに詮議して報告するように。
それが済まないうちは行水も食事も不要である!」

殊の他の立腹に、老中たちもどう説明すべきか分からずあぐみきった中、ついにこの結論に達した

「そうだ!立花飛騨守(宗茂)を呼ぼう!」

即座に早馬を出し『急に御用これあり、御本陣へ早々御出あるべし』と呼び出した。
宗茂の宿舎と本陣の間は1里ばかりも離れていたが、宗茂も何事かと馬で駆けつけると、老中たちから
「実はかくかくしかじかこういう事で、どうにも出来ないのです。飛騨守殿、どうか上様が、機嫌を直し
行水なされ御夕食を取られるようしていただけないでしょうか?お頼み申す!」

宗茂「はあ…。私を呼んだのは誰の指図でしょうか?」

老中たち「我々が頼んだのです!もはやこの上は船橋のことは言わぬ。ただ上様がお湯に入り
御膳を召し上がって頂ければ、それでいい!だから御機嫌の事についてのみ、偏にお頼み申す。」

しかし宗茂
「ですが、私が申し上げて機嫌が治るかどうか解りませんが…。とにかく、私がこちらに罷り越したことを
上様にお伝えいただかないと…」

「大丈夫!上様は貴殿の咳払いをいつもよくご存知である!」
「咳払い…?これですか?ゴホンゴホン」宗茂、試しに咳払いをしてみたところ
秀忠「!、その咳払いは立花ではないか。我が前に出よ!」
即座に呼ばれた。

宗茂早々に御前に出ると、秀忠から問われた「其方、どうしてこちらに罷り出でたのか?」

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:31:25.68 ID:BFyGo3JW
「はっ。本日ここまで、ご機嫌よくご到着されたこと目出度いと存じ奉り、そのため宿舎からこちらに
参ったのです。」
「いや、今日は散々なことがあった。ここの渡に船橋をかけたのは不届き至極であるので、必ず糾明するよう
命じた。この詮議が解らぬうちはこのままここを動かぬつもりだ。」
そう言う秀忠の機嫌はまったくもって悪い。ここで宗茂

「さてさて、日本国を治められている将軍様と、私のような者の所存とは白黒の違いがありますな。
荒井の関所を、公方様のご威光に寄って船橋をかけられたために、平地のように感じられ上下誰もが安々と
これを渡れること、真に公方様のおかげと、私もありがたく思いながら宿舎に到着いたしました。」

この時、御次の間では老中たちが秀忠の機嫌を案じ、宗茂との会話の様子を耳を澄まして聞いていた。

秀忠「いや、そうではない!頼朝卿、神君までも、人馬の渡河する拠点であるから殊の外大切になされていた。
そんな場所に船橋を心の儘にかけて往来する事は、畢竟神君のお心入れを浅ましく扱っているようになり、
何とも是非無き次第ではないか。」

「恐れながら」宗茂は反論した。「私のような者の考えは、そうではありません。
そもそも頼朝卿や権現様の時代に、関東の要衝である荒井川に船橋をかけゆるゆると渡るような事をすれば、
何方より横矢を射掛けられるか解りません。ですから、そういったことを恐れて大切にされていたのです。

しかし、御当代の御代は、弓を袋に、太刀を箱に納める、千秋万歳の時代です。御上のご威勢ますます強く、
それ故全国津々浦々まで、今度のご上洛を陰ながら喜んでいます。
下々まで喜び、ご威光強く、また御仁徳も備わられている将軍様というのは今までに無かったことです。
この事は唐土まで聞こえ、東朝の誉れ、これに過ぎません。
そういう時代なのですから、荒井に船橋をかけても、お気遣いなされることは少しもありません。
そこを将軍様が渡られ、ここまで無事にお着きになった事は、平和な時代を象徴した、誠に目出度い
事であると存じます。

私も御次の間で老中の方々から、この船橋のことに関して色々とお聞きしました。
しかし私は、これほど目出度いことはないとご挨拶いたしました。」

「…」秀忠はこれを聞いて、何の意見も言わなかった。しかし「飛騨守は夕食はもう取ったのか?」
「私は宿舎に到着して直にこちらに参りましたから、未だ食事はとっておりません。」
「そうか、では相伴せよ。私は先に行水をする。」

そして入浴し食事が済むと、井伊直孝を呼び出し
「先程言った船橋のことだが、飛騨守の言うことを聞き、尤もに思った。
今度の上洛も目出度いことなのだから、船橋はあのまま差し置くように。」

こうしてこの一件は相済んだ。それより酒宴が始まった。宗茂は元より上戸であるので大いに飲み
「これほどの御喜びの時節ですから、私の仁王舞を上覧に入れ申す!」
と舞始めると、秀忠も殊の外喜び、希代なる飛騨守であると、秀忠自身も酒を過ごし、
夜九つ(深夜0時頃)まで続いた。やがて宗茂が退出する時、老中たちは彼を待ち受け
「今日は不意な事にてご苦労千万でした。貴殿の取り成しのお陰で早速ご機嫌も治り、
我々も大いに安堵いたしました」と、厚く礼を述べ、また宗茂の宿舎にも使者を出して
感謝を伝えたという。

(明良洪範)




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:49:17.15 ID:OLvomVf/
忠長「大井川に船橋をかけて兄上(家光)の上洛をしやすくしよう」
家光「大井川は関東第一の要地であり権現様でさえ浮橋を使わず渡ったのに何事か」
忠長「・・・」

このときまだ秀忠も宗茂も生きてたのに何が悪かったんだろう

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 00:15:53.68 ID:xyAb/G9H
権現様が絶対正義やもん
そこから外れたことは出来ん

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:11:03.53 ID:76uak5PJ
そう、権現さまが味噌と申されたからには味噌なのでございます

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:32:50.94 ID:2eE22z30
>>412
やくざと一緒

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:06:26.03 ID:6+kB7YtG
>>415
さくざと一緒?

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:19:06.45 ID:GpAykuLV
鬼393

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 10:13:40.80 ID:aFpPCIlN
>>411
宗茂の元主君と比べたら秀忠はかなり扱いやすそうだな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 11:45:07.35 ID:hGSWm65G
舟橋なら有事にはすぐ撤去できるしそこまで問題視する必要無い気が

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:07:31.09 ID:uwCXzDg7
信長公記、天正十年四月十六日の条だと

家康が甲州征伐から戻る信長のために、奉行人三人に命じて
「甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、
川の面寒、渺貼として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず」
と説明されている、天竜川に舟橋を架けさせるなど、信長を歓待するために
大変な気を配って尽力したため人々に賞された、
と書かれているのに。

権現様もしたことを息子や孫が批判するとは

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:21:47.47 ID:+TMhyEgo
本拠地がどこにあるかで違う
安土なら瀬田か

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:25:15.80 ID:zpVlv4rz
秀忠ってホント宗茂好きだよな

水田長光

2015年03月14日 16:13

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/13(金) 19:06:54.01 ID:SJaR7R4M
水田長光

立花宗茂は、長光の名刀を二振所持していた、一つは父である高橋紹運より贈られたもので、
これは宗茂が死去するまで身に帯びていた。
もう一刀は水田長光といった。

文禄年間の朝鮮の役の折の事、宗茂の家臣に風斗就澄と言う者があったが、彼が敵十余人に囲まれ、
五人を斬り斃したがそこで刀が折れ、脇差でまた一人を斬りその場を切り抜けた。
宗茂はこの奮戦を見て感服し、風斗にこの、水田長光を与えた。

その後、船軍があった時、一人の敵が船から海へ飛び込み逃げようとしたのを、風斗は船中から
その腰を斬った。敵は海に入り少し泳いでいたが、そのうちに二つになって死んだ。
また、死骸を二つ重ねて斬った所、一撃で四つになった。
それほど鋭利な刀であって、風斗も秘蔵していた。

ところが慶長五年の関ヶ原の戦いによって、宗茂は西軍に与していたため柳川の領地を召され
牢人と成った。為に風斗就澄も、摂津の片田舎に隠遁した。

そこに、藤堂高虎が使いを寄越した。『長光の刀を私に贈れば、千石を与えよう』との申し入れであった。
しかし風斗は
「この刀は、主君手ずから賜った物です。たとえ一万石下さるとも、お断りいたします。」
と、これを辞した。

その後、宗茂は棚倉一万石で大名に復帰し、続いて柳川の旧領十万石を賜った。
そのため風斗も直ぐに江戸に赴き、宗茂に面会した。
この時宗茂は風斗に「水田の刀は今も所持しているか?」と聞いた。
風斗は水田長光を取り出して見せ
「私がもし利欲のためにこの刀を失えば、再び今日の拝顔も無かったでしょう。」
そう、涙ながらに申し上げたという。

(刀剣談)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 07:35:26.22 ID:ytOcIGjf
>>717
少し泳いでから2つに切れるって、南斗水鳥拳みたいな感じか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 08:09:38.55 ID:qzi+CGtZ
森長可「てめぇらの血は何色だぁー!!」

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:25:43.97 ID:kfrRa2Oi
水野勝成「ヒャッハー!名刀だぜ!」

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:56:50.34 ID:zURkGJU+
リアル北斗の拳だからいやだよ戦国時代

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 11:11:34.32 ID:+GY/xPYT
名刀、名槍には命名の由来になった逸話があって楽しいね

人間無骨とか三十六歌仙とか圧し切長谷部とか...

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 11:55:19.47 ID:0jczleXd
立花宗茂が所持していたとされる刀剣って
剣・長光
笈切兼光
波遊ぎ兼光
劔切貞宗
粟田口則国
菊御作
豊後正宗
とか色々あるけど、水田長光は知らなかったな
波遊ぎ兼光も似た話だったと思うけど

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 15:02:18.03 ID:kfrRa2Oi
三歳さんもたくさん持ってるな。手打ち関連の名前が多すぎるがw

下和白「安河内家」の始まり

2015年01月11日 17:08

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 12:06:52.41 ID:1kJkdqwW
下和白「安河内家」の始まり


『九代延昌、後に三郎左衛門虎昌と改む。
筑前国立花城主戸次丹後守鑑連道雪の幕下に所属し、忠勤をぬきんで戦功多し。
道雪養子立花左近将監宗虎より諱の一字を授く。
のち虎昌と改め、粕屋郡下和白村を領す。是イミナ屋形を下和白の里に建つ。』

今日の福岡市東区和白における安河内家の興りである。
ちなみに虎昌が拝領されたのは1570年の出来事である。

彼は3年前の上和白の戦いで宗像水軍相手に戦功があったため、道雪より下和白村を拝領したという。
現在安河内家は和白地区一帯にくまなく広がっている。

ちなみに読みは「やすこうち」である。「やすかわち」と読まないように。


http://i.imgur.com/yNFu07n.png

(出身小学校の120周年記念誌から抜粋)



538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 12:22:36.21 ID:M5c4hDke
>>537
佐村も佐村河内も、広島・山口近辺に多い姓
佐村河内は、安芸の国人・佐村氏のうち、河内守を称した人の家系が
佐村河内を名乗るようになったと言われている
安河内も、「安氏の河内守を称した人」の家系なのかね?
安氏は在日にも多いが、藤原氏系や安国造系など、昔から存在している氏でもある

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 09:02:10.06 ID:1E2dvOhz
>>538
それはよくわからない。
7000傑のサイトでも出自不詳と出ている。

1つ言えることは広島・山口は『こうち』読みが多いこと。
墓地をブラブラすることはないけども、家紋が複数あったから特定はできない……。

もしかしたら嵯峨源氏の渡辺氏系統かな………?

立花家の今村五郎兵衛さんのお話

2014年10月28日 18:41

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 13:16:28.28 ID:4vDE5H6o
初めて投稿します。
立花家の今村五郎兵衛さんのお話。
高橋紹運の岩屋合戦の時、高橋統増は宝満城においてわずかな高橋・筑紫両家の兵と籠城していた。
父・紹運の岩屋戦死後、宝満城内は、寄り合い所帯であり兵数も少ないことから戦意に乏しかった。
そこに、島津勢が一万の大軍で迫ってr来る。しかも、軍の前面には岩屋城で捕えた婦女子を押し立てている。
城内が動揺する中、島津氏の使者がやってきて、

「紹運殿も岩屋城にて討ち死にされ、筑紫広門殿もわが陣にある。これ以上の抵抗は無駄である。
今、開城すれば統増殿ならびに城兵一同、命はお助けいたそう。」

という。
このままでは、筑紫広門を捕えられている筑紫の兵が反乱をおこし、宝満城は自壊しかねない。
そこで、統増の前で軍議を行った。

「開城などすれば、岩屋城にて討ち死になさった紹運様に申し訳が立たん。世人も我らを嘲笑うであろう。」

との意見もあったが、

「立花城の宗茂様と合流し、下知を仰ぐべき。」

と決まって、返事を出した。

「われわれの立花城撤退を認めれば開城致す。拒まれるならば岩屋城同様、最後の一兵まで戦いますぞ。」

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 13:22:37.80 ID:4vDE5H6o
これに対して島津側は、籠城衆すべての立花城撤退を認め、証拠として誓紙を差し出した。

源右衛門は使者に対して、 「統増公を立花城へ帰城させて頂けるのであれば和議致し開城しましょう。
もしそれが出来ないのであれば、城を枕に討ち死にするまでです。」
と返答した。島津側はこれを了承し、誓紙を持って保証した。
8月6日、統増以下家中の者は宝満城を下城する。しかし島津方は統増一行を取り囲み、立花城へは送らず、
天拝山の麓にある武蔵村、帆足弾正の屋敷に軟禁するのである。
「約束が違う」と島津将に詰問する源右衛門に、 「島津の慣習として、弓矢の前では、空誓紙もあり得る。」
とうそぶいたという。自らの甘さに高橋家中の者は悔しさに泣いた。

郎党が武蔵村へ連行される時の事である。
一行が道を進んでいる時、野道の方からキジが1羽飛び立ち、丁度一行の上を横切ろうとした。
この時、高橋家中の臣・今村五郎兵衛が四尺六寸の大太刀を抜き放ち、一刀の許、真っ二つに
斬り裂いたのである。薩軍の将はあまりの早業に唖然としたという。今村五郎兵衛の憤りと
怒りの成せる技だったのだろうか。


今村五郎兵衛さんのかっこいいんだか悪いんだかよくわからないお話。




島津軍と二人のババァ

2014年05月27日 18:50

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 23:18:07.90 ID:A5iNOr3E
島津軍と二人のババァ

岩屋城を攻めあぐねた島津軍は、老婆に金をやり、岩屋城の水源を聞き出した。
水を断たれた岩屋城の将兵は力を落として玉砕、城将の高橋紹運も散った。

戦後、紹運を慕っていた領民はこの老婆を憎み、水源に石で生き埋めにした。
現在でも岩屋城の背後、古代山城・大野城跡の一角に「石こづんばば」と呼ばれる
石積みがある。

実際には、その石積みは大野城に関係する古代のものらしいのだが、近年まで麓の
村には、山に入るとき、石を持って登り、「石こづんばば」に積むという風習が
あったという。

ちなみにこの老婆、島津軍の陣跡地に化けて出て村人に祟り、そちらでは「陣の尾
ばば」と呼ばれ忌まれた。



一方、岩屋城から南に4kmほど、島津軍本陣の近くに二日市八幡宮と言う神社があった。
当時の軍勢にとって、寺社を略奪するのは当然だった。御神木といえども木材になる。
二日市八幡宮の御神木も、島津兵によって切り倒されることになった。

しかしここで、一人の老婆が島津軍兵の前に立ちはだかった。
「御神木ば切るなら、ワシを斬ってからにせんね!」
勢いを恐れたか意気に感じたか、島津兵は御神木の銀杏を切りかけたまま、去った。
現在でもこの銀杏は健在で、切りかけた斧痕も残っているそうだ。




383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 06:58:15.40 ID:R4x/uPLU
次の大河ドラマは戦国ババア伝説で

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 07:49:56.89 ID:ue6OUBYC
家康が最も恐れたババア

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 10:47:08.06 ID:N/8n1Nn3
>>384
食い逃げしようとしたら「金払えっ!」って追っかけて来たババアだな

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 18:17:55.27 ID:aNldT3ir
あれって民間伝承が出典でいいのかね?
「この本が出典」ってのを聞いたことがないんだが