583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 19:59:47.88 ID:UK3kv2yK
「明赫記」続き
球磨方の相良頼房(義陽)が大軍を率い大口城に入城。
島津忠長、肝付兼寛、新納刑部大輔忠元で大口城を陥すことにしたが苦戦が続き
新納忠元は肥後八代の勇士的場・後藤と互いに斬り合い、六箇所に傷を受けるまで奮闘した。
(なお「箕匂記」によれば、新納忠元が戦勝祈願のために薬師如来の堂に歌を一首書こうとしたところ、
大口城から敵方の軍勢が押し寄せてきた。
それでも歌を書こうとしたが郎党の久保・尾崎に「犬死にする気ですか?」と引きずられた。
この時、肥後八代の住人の的場五藤兵衛が斬りかかってきた)
584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:02:57.42 ID:UK3kv2yK
続き「伏兵を以て凶徒を大いに敗る事」
戦争は膠着状態が続き、相良軍によっていくたびも味方の足軽が負けてしまったため、相良軍は島津をあなどるようになった。
そこで平泉の新納忠元・肝付兼寛は「勝ちに驕っている兵は滅し易い、伏兵を置けば簡単に討ちとれるでしょう」
と進言したところ、新納・肝付隊が第一の伏兵隊として冨神ガ尾に、大野駿河守・宮原筑前守が第二の伏兵隊として稲荷山に埋伏することになった。
永禄十二年五月六日、囮部隊の大将として中務大輔家久が雑兵四、五百人に兵糧隊を装おって糠袋を馬や兵に積み、
軍兵千余騎に警護させて平泉を通過したところ
大口城からこれを見た敵方は「平泉方は当番交替のようだ、積み荷を奪ってしまえ」と足軽や雑兵が思い思いに駆け出し、
敵方の深水三河守は計略ではないかと疑ったが、我先にと駆け出す味方軍の後を追いかけるしかなかった。
家久は一合戦しては退き、防戦しては退き、を繰り返し、疲弊することは言うも愚かであった。
第一の伏兵隊は「家久がこのままでは討たれてしまう」と思い、一度に動こうとしたところ、
新納・肝付は「時期尚早である」と怒り、軍配を横にして下知したところ、飛び出そうとした伏兵はその場にとどまった。
家久はいろいろ気配りをして敵軍を誘引し、とうとう両伏兵隊の真ん中に入り込んだ。
第一の伏兵が一度に鬨の声を上げると、第二の伏兵も一度に動き、敵軍を真ん中に取り囲んだため、相良・菱刈勢はことごとく敗北し
島津勢は百三十六人の将、八百余人の雑兵を討ち取り、無数を切り捨てた。
こうして家久の武名は比類なきものとなった。
討ちもらした者たちは大口城に逃げ、固くこもった。
585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:08:51.08 ID:UK3kv2yK
続き「祁答院の長野を攻める事、付 菱刈降参の事」
同月二十五日、渋谷党の祁答院の長野城を攻めた。
この時、祁答院新兵衛という者が城内より討って出て矛を合わせ勝負を決しようと四方八方に斬って回った。
味方の税所宮内少輔、仲俊坊、貴島源五郎、村原新介、村原左衛門五郎、深野平六、上床源六兵衛、岩下主殿、鍛冶屋新左衛門、尾上五郎、田実右京亮、肝付権助、等が斬りかかったが皆枕を並べて討ち死にした。
しかし味方の軍兵が退却の色を見せず奮闘したため、敵も弱り、勝鬨を上げて退陣した。
(「箕匂記」によればこの後、大口城の菱刈方が滅亡寸前となったため、
相良頼房から「もともと島津殿は国の太守のため敵対すべきではなかった、多くの士を失ったため引き上げる。
ただ菱刈氏を本城に存続させる事で頼房の面目を保たせてほしい」と和睦が提示されたため、同年九月十四日和睦となった。
九月二十日、大口城を受け取り、新納忠元に大口城の地頭職を授け武蔵守と成した。
また、真幸・菱刈・牛屎(「うしくそ」もしくは「ねばり」)を皆退治したためそれらの城もことごとく武蔵守を地頭とした。)
関連
「明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事
「明赫記」続き
球磨方の相良頼房(義陽)が大軍を率い大口城に入城。
島津忠長、肝付兼寛、新納刑部大輔忠元で大口城を陥すことにしたが苦戦が続き
新納忠元は肥後八代の勇士的場・後藤と互いに斬り合い、六箇所に傷を受けるまで奮闘した。
(なお「箕匂記」によれば、新納忠元が戦勝祈願のために薬師如来の堂に歌を一首書こうとしたところ、
大口城から敵方の軍勢が押し寄せてきた。
それでも歌を書こうとしたが郎党の久保・尾崎に「犬死にする気ですか?」と引きずられた。
この時、肥後八代の住人の的場五藤兵衛が斬りかかってきた)
584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:02:57.42 ID:UK3kv2yK
続き「伏兵を以て凶徒を大いに敗る事」
戦争は膠着状態が続き、相良軍によっていくたびも味方の足軽が負けてしまったため、相良軍は島津をあなどるようになった。
そこで平泉の新納忠元・肝付兼寛は「勝ちに驕っている兵は滅し易い、伏兵を置けば簡単に討ちとれるでしょう」
と進言したところ、新納・肝付隊が第一の伏兵隊として冨神ガ尾に、大野駿河守・宮原筑前守が第二の伏兵隊として稲荷山に埋伏することになった。
永禄十二年五月六日、囮部隊の大将として中務大輔家久が雑兵四、五百人に兵糧隊を装おって糠袋を馬や兵に積み、
軍兵千余騎に警護させて平泉を通過したところ
大口城からこれを見た敵方は「平泉方は当番交替のようだ、積み荷を奪ってしまえ」と足軽や雑兵が思い思いに駆け出し、
敵方の深水三河守は計略ではないかと疑ったが、我先にと駆け出す味方軍の後を追いかけるしかなかった。
家久は一合戦しては退き、防戦しては退き、を繰り返し、疲弊することは言うも愚かであった。
第一の伏兵隊は「家久がこのままでは討たれてしまう」と思い、一度に動こうとしたところ、
新納・肝付は「時期尚早である」と怒り、軍配を横にして下知したところ、飛び出そうとした伏兵はその場にとどまった。
家久はいろいろ気配りをして敵軍を誘引し、とうとう両伏兵隊の真ん中に入り込んだ。
第一の伏兵が一度に鬨の声を上げると、第二の伏兵も一度に動き、敵軍を真ん中に取り囲んだため、相良・菱刈勢はことごとく敗北し
島津勢は百三十六人の将、八百余人の雑兵を討ち取り、無数を切り捨てた。
こうして家久の武名は比類なきものとなった。
討ちもらした者たちは大口城に逃げ、固くこもった。
585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:08:51.08 ID:UK3kv2yK
続き「祁答院の長野を攻める事、付 菱刈降参の事」
同月二十五日、渋谷党の祁答院の長野城を攻めた。
この時、祁答院新兵衛という者が城内より討って出て矛を合わせ勝負を決しようと四方八方に斬って回った。
味方の税所宮内少輔、仲俊坊、貴島源五郎、村原新介、村原左衛門五郎、深野平六、上床源六兵衛、岩下主殿、鍛冶屋新左衛門、尾上五郎、田実右京亮、肝付権助、等が斬りかかったが皆枕を並べて討ち死にした。
しかし味方の軍兵が退却の色を見せず奮闘したため、敵も弱り、勝鬨を上げて退陣した。
(「箕匂記」によればこの後、大口城の菱刈方が滅亡寸前となったため、
相良頼房から「もともと島津殿は国の太守のため敵対すべきではなかった、多くの士を失ったため引き上げる。
ただ菱刈氏を本城に存続させる事で頼房の面目を保たせてほしい」と和睦が提示されたため、同年九月十四日和睦となった。
九月二十日、大口城を受け取り、新納忠元に大口城の地頭職を授け武蔵守と成した。
また、真幸・菱刈・牛屎(「うしくそ」もしくは「ねばり」)を皆退治したためそれらの城もことごとく武蔵守を地頭とした。)
関連
「明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事