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侏儒どんの年齢

2016年01月30日 17:45

230 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/29(金) 19:34:58.61 ID:9p1svj2Z
侏儒どんの年齢

侏儒どん(徳田大兵衛)は小男のうえに、いつも朗らかな性格であったので、いつまでも若々しくて
年取った様子が見られません。
それでいつも人が集まると、侏儒どんの年齢が話題となっておりました。
ある十五夜の月見の宴の席上で、また侏儒どんの年齢が話題になりました。
「どうにかして侏儒に年齢を言わせてみようじゃないか」
「よかろう、しかし簡単に言うような奴じゃないな、どうやって言わせるかな」
良い方法がないかと一同協議を始めますが中々良い案がありません。
やがて殿様(島津忠恒)が、
「よし、俺に任せておけ、俺が言わせて見よう」
そこに丁度折りよく侏儒どんが入ってまいりました。
「侏儒よいところに来た。今お前の年齢が問題になっているが歌で答えられるか?」
かねてから負けず嫌いの侏儒どんのこと策に乗せられるとも気付かず、即座に
「暗の夜の梨の梢に虫が寄り、今宵の月には波は引くなり」
と声高らかに口ずさみました。
一同は何が何やらわからずポカンとしております。やがて殿様が
「侏儒!!そんな歌ではわからないではないか」
「わかりませんか、さてさて・・・」
侏儒どんは仕方がないと云わぬばかりに説明を致します。
「暗(八三)の夜(四)の梨(七四)の梢に虫(六四)が寄り(計三十六)、
今宵の月に(十五夜で十五、合計五十一)そして波(七三)は引くなりで、
五十一から七三(十)を引いて実際の年齢は四十一歳でございます」
これには一同、大爆笑、大拍手
(日当山侏儒どん物語抜粋五編集)



231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 01:28:37.70 ID:rSbT1qMA
そはだいよw
いっと知らんがおw

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 09:04:34.70 ID:vzsMFvWl
>>230
こんなんあらかじめ準備してたんじゃね?ってレベルですごいわ

秀頼公の御味方に参ることは

2015年12月14日 16:33

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/14(月) 05:41:18.14 ID:KJNAxOqs
豊臣秀頼は薩摩へ河北庄右衛門と高屋七蔵の両使をもって貞宗(正宗とも)
の脇差を遣わし、味方にと頼った。

これに島津は、「先年の関ヶ原の時、家康公に御敵申し上げましたものを、
御許しくださったので御恩は忘れ難く、今となってはもう秀頼公の御味方に
参ることは罷りなりません」と言い、脇差を大野修理(治長)まで返進した。

――『武功雑記』



あれ?この話どこかで・・・牛の置物

2015年12月04日 13:57

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/04(金) 00:31:37.50 ID:4kp9LciP
あれ?この話どこかで・・・牛の置物

島津の殿様(忠恒)は朝から機嫌が悪かった。
「だれかある」
小姓があわてて殿様の前に出てきました。
「あれを見い。床の間の置物を見い!」殿様は怒鳴った。
小姓は「おお、これは、えらいことになったぞ」と思いました。
牛の置物が大きく壊れていたのだ。
この置物は佐賀藩から贈られた陶器の牛で中国から渡来したものであった。
殿様はこの陶器がことのほかお気に召し、この焼き物を眺めながらお茶を飲まれるのであった。
その牛の置物の尻が大きく壊れているのであった。
「牛の置物を壊したのはそちか」
「いいい、いいえ、わたくしではござりませぬ」
「誰がいたしたのじゃ」
「わわわ、わたくしめには、わわわ、わかりませぬ」殿様の怒りがあまりに激しい為、言葉もすらすら出てこない。
「重役を呼べ!」
「はははっ!」
重役たちが恐る恐る御前に出ると、
「この牛の尻を見い!」と殿様は大きな声で怒鳴った。
重役たちも答えようがなく「ははあ!」と頭をさげただけだ。
「牛の尻をこのようにしておきながら、黙っているとは不届きな奴じゃ。手討ちにしてくれる。呼び出してまいれ!」
手討ちにされるのに「わたしが壊しました」と名乗り出てくる者はいない。
重役たちも手討ちになるのは気の毒ことだと思っていたので、熱心に犯人を捜そうとはしなかった。
時間を稼ぎ、殿様の怒りが静まるのを待っていたのだ。
ところが殿様はますますいらいらして、
「何をぐずぐずいたしておる!この部屋に入って来る者は決まっているはずじゃ。限られた者の中から
犯人を捜すのにこのように時間をかけるとは、まことに能力のないでくの坊ぞろいじゃ!」
犯人を探し出せば、お手討ちになるし、探し出さなければ殿様のそばに仕える者たちが罰を受けるかもしれない。
困った重役たちはある人物にこの一件を頼み込むことにした。

少しして、侏儒どんこと徳田大兵衛が殿様の前にまかりでた。
殿様は侏儒どんの顔を見ると、
「この牛を見てみい。情けない姿じゃ」と怒りが収まらず大きな声で言うのであった。
「まことに、醜い牛とあいなりました。牛も尻が欠けると仰せのように情けない姿でございます」
侏儒どんも負けない様に大きな声で言うのであった。
「腹が立って、腹が立って、たまらぬのじゃ」
「わたくしも、一目見ただけで、腹が立ってまいりました」
「まことにもって、ふとどきなやつじゃ」
すると侏儒どんは、つかつかと牛の置物のところに歩み寄った。
「殿様、かかるふとどきものは、厳しく処分いたさぬと癖がつきます」
「厳しく処分いたすつもりじゃ」
「いえいえ、殿様のお手をわずらわすまでもございませぬ。わたくしが処分いたしまする」
と侏儒どんは牛の置物を両手につかんで、頭よりも高く持ち上げた。そして、
「殿様の御前に醜い尻をさらしおって、この無礼者め消えうせろ!」
と叫ぶや否や、牛の置物を庭石めがけて力いっぱいなげつけた。

ガッシャーン

牛の置物は木っ端微塵に砕けてしまった。
殿様も、あまりのことに怒りも忘れて、ただ仰天するばかりであった。

(参考 椋鳩十全集24『日当山侏儒物語』など)

家久(悪)、唐代の牛の焼物を壊されて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2471.html


こちらだと、中馬大蔵重方がその役割ですな。



島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」別バージョン

2015年09月30日 14:18

756 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/29(火) 22:25:01.20 ID:prgC4d6J
島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」別バージョン

昔、日当山の地頭に徳田大兵衛(おおひょうえ)という人がおりました。
大兵衛は「侏儒(しゅじゅ)どん」(小さい、一寸法師というような意味・大兵衛は90センチほどの背丈だったそうです)
と呼ばれ、とんちで人を喜ばせたり、やりこめたりしていました。
ある日、島津の殿様(忠恒)によびだされ、
「侏儒、屋敷の周りに庭木を植えようと思うが、何がいいか言ってみよ」とたずねました。
侏儒どんは即座に、
「それは茶にかぎります。垣根になるばかりか茶も取れます」
「なんじゃと、茶の木ともうすか」
「はい。茶の生垣にございます」
「ふむ。それは名案。ところで茶はさし木だったかのう」
「いえ、種から、実からでございます」
「おう、そうだった。ところでそちの所は茶の名所だったのう」(ニンマリ)
「さようで、日当山はお茶の名所でございます」
「(こいつ、まだ気づいていないな。今頃茶の実などあるはずないのに。日ごろ奴のとんちでやられているから、
今度こそはやりかえしてやろう・・・)」
「おぬしにまかす。さっそく茶の実をもってくるのじゃ」
「へへっ」
と、ここで侏儒どんは今頃茶の実などあるはずないことに気がつきましたが、もうおそかった。
得意そうに殿様の鼻がひくひく動いているのを見ると、負けずぎらいな侏儒どんは日当山に帰り着くまでにいいことを
思いつき、日当山で一番お茶を飲むおばあさんの所に行き、
「ばあさん、一度鹿児島に行きたいと言ってたな。明日連れて行くから準備してくれ」

次の日、意気揚々とお城にのりこんだ侏儒どん。
「殿様、さっそく持ってまいりました」
「おう、そうか」(こいつ、強情なやつだな)
「そちが持参した茶の実を出してみよ」
「へへっ。ここに」
「なんだと。このばあさんが茶の実だと」
「へい、確かにこのばあさんが、村一番の茶のみでございます。朝はよから、夜遅くまで茶がなければ
日が暮れませぬ。日当山一の茶のみでございます」
まじめな顔で、平気で侏儒どんはもうしました。
今度ばかりは侏儒どんも困ってまいるだろうと、内心ほくそ笑んでいた殿様は一本とられてしまいました。
殿様は笑いながら
「いや、参った。だがまてよ、生垣にするのだが、その茶のみでは生えぬではないか」
ところが、侏儒どんは
「ほら、ばあさんそこの座敷をはってみなさい。殿様が見たいそうだ」
おばあさんが座敷を這ったので、これには殿様開いた口がふさがらなかったそうな。
(参考 「鹿児島のむかし話」)

また、「茶のみ」の話には続きがあるパターンがあり、
(おばあさんが座敷を這ったので、これには殿様開いた口がふさがらなかったそうな。のあと)
「いや、殿様にものを申し上げると緊張してのどが渇きます。すみませぬがお茶をいただけますか?」
「いやいや、のどが渇くのはそちではなくばあさんだろう。だれかばあさんに水をやれ」
「殿様、茶のみに水ではかわいそうでございます」
「なんの、あの茶のみは、はえるのであろう。早く水をやれ、水をやれ」
「これは一本とられましたな」
「「ハッハッハッ」」
(参考 「日当山侏儒どん物語」「日当山温泉湯けむりガイド2011」)

関連
島津家久(悪)「当山で一番の茶の実を持って参れ!」・悪い話


757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:15:01.05 ID:N2PpKGL1
何この193と将軍さま

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:37:37.68 ID:hXJatZKr
いつ斬られるか、ハラハラしたw

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 23:42:18.35 ID:D+AAVOft
隣の部屋に東郷が控えてるよね

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 09:43:52.00 ID:z/jP00gW
貞子の様に座敷を這いずり回る婆さんの横でこの漫才。
想像すると無茶苦茶シュールだ...。



761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/30(水) 13:13:12.20 ID:l6MdiJ3I
すみません756ですが、這うと書きましたが
原文では「はう」とひらがなで書かれていました。
参考にした本にはありませんでしたが、別の本の挿し絵にはおばあさんは四つん這いで書かれていました。
・・・四つん這いでもシュールなことにはかわりありませんが。



763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 22:21:50.90 ID:Mrh64YM5
>>756<
お茶ドゾー
  ∧ ∧                                    (ハハ)
 ( ´・ω・)                                  (ヮl` ) 
 ( つ旦O                                 O旦⊂ヽ
 と__)__) 旦   旦   旦    旦      旦    旦    (_(_つ
      濃茶  薄茶 大腸菌 足尾鉱毒 豚インフル 出涸し 日当山一のちゃのみ

                            ;; コポ
       旦   旦   旦    旦    旦 コポ 旦      旦    旦    旦
      砒素  雑巾汁 烏龍茶 加藤茶 ウラン  鳥インフル  タブン VXガス 石見銀山


       旦  旦    旦     旦    旦    旦    旦      旦
       緑青 鉛 プルトニウム サリン 工場廃水 紅茶 福寿草  ミユキのお手製太陽バクバク茶

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/01(木) 06:17:31.96 ID:MrdFkbNK
知覧茶や霧島茶がないですよー!!

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 10:59:44.13 ID:abkOZLQC
薩摩人乙

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:13:48.31 ID:fmcSmK7x
>>763
ウッキーさんはお呼びじゃないです

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:40:40.01 ID:1yLYRkQi
はぶあないすでぇー

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 11:44:39.58 ID:XwpcueLV
子どもにはわからんネタをw

769 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/01(木) 13:18:28.02 ID:iAINpaQB
ウィッキーさん、懐かしいなあ。

金吾様踊りと焼酎「金吾さあ」

2015年08月14日 14:27

552 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/13(木) 23:16:54.55 ID:h/7Hm2BC
金吾様踊りと焼酎「金吾さあ」

鹿児島県薩摩郡さつま町中津川地区には祁答院島津家の祖で島津十五代貴久の三男金吾左衛門尉歳久
を祀る大石神社がある。
「大石神社」は武の神・安産の神・稲作の神として崇敬されていて、4月と9月に大祭があり、
特に9月は金吾様踊りが奉納され、近郷近在の参詣客で賑わいます。鳥居に掲げてある額には、
島津家の定紋である『丸に十の字』が彫り込んであり、また社殿最下部の軒瓦には一枚毎に、やはり
丸に十の字の定紋をうった瓦が並べてあります。ご神体は、1.5mの大石で、その下方に歳久と渋谷良重
(歳久の前の領主)の法名が刻み込まれています。
金吾様踊りは、大石神社秋季大祭・奉納踊りのことで中津川地区の6集落で約400年踊り継がれてきたとされる
伝統の舞で、「六尺棒踊り」,「鷹刺し踊り」,「三尺棒踊り」,「兵児踊り」,「虚無僧踊り」 などを披露され、
中津川小学校の文化財少年団による「俵踊り」や恵光保育園児による「鹿児島ハンヤ節」も披露されます。
9時半頃から午前の部で演目全てが披露され、12時頃からお昼休みとなり、13時から午後の部(午前と演目同じ)
が行われます。
お昼休みにはお楽しみ抽選会があり、賞品には焼酎「金吾さあ」があります。

焼酎「金吾さあ」は地域興しのため市民団体が企画立案したもので、かつて薩摩地方を治めた島津歳久公の
奉納踊り金吾様踊りの実行委員会の皆様が造ったもので、原料はもちろん地元のもので地元の全住人が芋掘りし、
米麹の原料にいたっては約250人が少しずつ薩摩米を持ち寄って造りました。
また焼酎のビンに書かれている丸に十の字のお馴染み薩摩のマークは現在の島津のご当主より許可を頂き作り上げたそうです。

この焼酎が造られるようになったのは、今のご時勢だんだん人口が減ってきてお祭りを行うことが危うくなりつつあるので
地域活性化と金吾様踊りの資金確保の為だそうです。
(続く)

553 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/13(木) 23:35:51.60 ID:h/7Hm2BC
(続き)
昨年金吾様踊りを(日帰りバスツアーで)見に行った時は雨だったので近くの中津川小学校の
体育館で見ました(午後から)ので焼酎「金吾さあ」は見ていません。
金吾様踊りの様子の感想は中津川地区の皆さんの生活に密着しているお祭りだと感じました。
「俵踊り」が終わった子供たちが踊りの格好のまま観客席に来て次の踊りの人を応援したり、
「兵児踊り」の人がアドリブで「虚無僧踊り」の人を切ったり(次の人も合わせて切られたふりをする)
最後に踊りの人全員が「鹿児島ハンヤ節」を踊るとき(観客も飛び入り参加あり)
踊りの人が「○○さん、こっちこんねー」と見ていた知り合いに声をかけたりと・・・
金吾様踊りを見ていて和んじゃいました。

2015年は9月20日の日曜日に行われるそうです。
(参考 金吾様踊りのパンフレットやツアーのときに聞いた話など、焼酎「金吾さあ」のことは検索しました)

554 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/13(木) 23:44:10.44 ID:h/7Hm2BC
歳久の誕生日(天文6年7月10日(1537年8月15日))と命日(天正20年7月18日(1592年8月25日))がもうすぐなので書いてみました。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 11:12:34.80 ID:xzgFMRc5
キンタマ蹴る踊りかと思ったよ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 11:57:03.57 ID:2vA3bygj
え、ちがうの?

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/14(金) 19:07:33.85 ID:kzh71wmE
キンタマ?

563 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/14(金) 23:56:13.23 ID:vJe7nlBP
>>558さん、これを参考にしてください。

小早川秀秋の死に方いろいろ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/6073-5f976e22


564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 01:05:03.43 ID:eboqfsz8
近江八幡市で秀次は名君として慕われてるね

568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/15(土) 23:43:24.79 ID:8iBRHnmX
552・553・554の追加
大石神社の名前の由来は歳久が石で切腹に及んださいに、妊婦の出産もこのように痛むのかと
案じたことから、別名御石様と呼ばれたので御石が転じて大石になったようです。
あと、歳久の史跡・遺跡は、神社が15箇所、供養塔が14箇所、墓・墓跡が8箇所、
位牌が6基確認されています。
秀吉に最後まで抵抗していたということで戦前・戦中時には武の神として祀られ
神社や供養塔に祈願をしてから出征する人が多かったそうです。

薩隅の戦国お菓子 ふっかん(後日談)

2015年08月08日 13:01

163 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/08(土) 00:07:11.41 ID:qaOkfToR
薩隅の戦国お菓子 ふっかん(後日談)

2ヶ月ほど前に、いい話スレに
薩隅の戦国お菓子 ふっかん
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/9316-5f927eff

を書いたものですが、新しくわかったことがあるのでこちらに書かせていただきます。
7月末に「ふっかん」を買いに和菓子屋さんに行って来て、そこの奥さんに「鹿児島県民ですけど、
TVではじめて知りました」と言ったら「(最寄り駅の)駅周辺までいくともう知らない人ばかりですよ」
「前に市役所の人が文献がないかと、県立図書館にまで行って調べてくれたのですが見つからなかった
そうなんですよ」と・・・奥さんが、「ふっかん」がなぜ浜之市周辺だけで口伝えでしか知られていないか
教えてくれました。

昔は黒砂糖は大変貴重なものだったので、なかなか庶民の口には入らなかった。

富隈城が出来、義久が来る前に城の門番(か倉庫番)が黒砂糖を城の倉庫から盗んだ。

盗んだ黒砂糖でお菓子を作り家族や知り合いに振舞った(まだお菓子に名前はない)

義久が富隈城にきて、浜之市の港を発展させたので黒砂糖が手に入りやすくなる。

(どのような経緯でかわからないが)殿様にお菓子を献上することになった。

「殿様に献上出来るような名物がない…」「あのお菓子はどうかな?」

殿様に献上したところ大変喜ばれ、自分だけでなく多くの民にも食べてほしいと言われたことから
人々に福が訪れる”福の羹(かん)(羊羹(ようかん))“ で「ふっかん」と呼ばれるようになる。

こんな経緯なため、義久が「自分だけでなく多くの民にも食べてほしい」と言ったのに
浜之市にしか伝わらず、文献に遺すわけにもいかず、和菓子屋さんが40年ほど前に作るようになったときには
「富隈城に(島津)義久公がいらした時に献上されたお菓子で」
「皆に福が来るようにということで福+羹(かん)でふっかんです」
としかわからなくなっていて、前に市役所の人が(ふっかんを市報に載せる為に)きた時に文献がなくて
県立図書館まで行ってもみつからなかったので、ご主人が聞いている話を載せたそうです。
そのしばらく後(今から数年前)鹿児島大学の先生が「ふっかん」を調べに来て文献調べるけど見つからない
ので浜之市の人たちから聞き込みをして現在まで残っている口伝えを調べたそうです。
その結果を先生が和菓子屋さんに伝えて、今回自分がその話を聞くことが出来ました。
…なんか義久の気持ち(皆に福が来るようにということ)を思うと知りたくはなかったかも
けど、口伝えでしか残ってないし、前に「ふっかん」のこと書いたから書いておかないと…

「ふっかん」を食べた感想は外郎7割、羊羹3割な感触でさっぱりしていて黒糖の味がしっかり
でてました。原材料は小麦粉・黒糖・片栗粉のみで本日中にお召し上がりください
となってました。



164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/08(土) 00:23:25.16 ID:vFyxtPXh
単に日持ちしないから普及しなかったような気がする

165 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/08(土) 23:55:11.71 ID:qaOkfToR
日持ちする薩隅の(戦国関係の)お菓子はあくまきぐらいなもんですよ。
ふっかんが本日中にお召し上がりくださいなのは、今は田植えのときのお茶菓子なので外に持っていくからでしょう。
義久に献上した頃もクーラーも冷蔵庫も無いのですから、夏の鹿児島の日差し&気温なかなかのものですよ。
日持ちよくする為工夫されたお菓子もありますが(戦国関係ないですが)

けせん団子・・・小豆(あずき)団子に「けせん(ニッキ)」という鹿児島や沖縄でとれるシナモンの木の葉をつけてつくられたお菓子で、
地元ではお茶菓子として、また贈答用として広く知られています。ほんのりとにけせんの香りが広がります。
けせんの木の葉に殺菌効果があることがわかり、団子に葉をつけたのがけせん団子の始まりといわれています。

かからん団子・・・棘のあるサルトリイバラの茎を触らないようにと言う「かからん(鹿児島弁で"触らない")」から葉を「かからん葉」と言い、
「かからん団子」となったと言われています。かからん葉には殺菌作用があるので、団子も傷みにくいそうです。もう一つ、「かからん」は
「病気にかからん(かからない)」という言葉にもかけられているようです。

鹿児島県垂水市、新田(あたらだ)神

2015年07月02日 15:40

271 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 21:53:40.35 ID:/gYb3G0s
鹿児島県垂水市に新田(あたらだ)神社という神社がある。
昔、漁師が海中に網を張っていたところ、網の中に光るものがあり海上を照らした。
その網を収めると中に布の幣帛と石とがあり、石の光明は止まなかった。ある老人が、
これは海宮の神で邑里を加護するために出現されたものと告げたという。人々はこれを
霊異として尊崇し、社殿を建立して阿多羅多大明神と称え、後新田と改めた。
一説に、この石は竜宮より出現したという。

この神社には、こんな話があります。
島津義久が垂水に来臨し、梅雨で降り続く雨で出帆出来ず滞留した際に、
「五月雨の 雲の名残も おさまりて ながめ尽きせぬ 西の海原」という
和歌を詠じて短冊に書き、新田神社に奉納したところ、忽ち晴れ渡り順風を
得て帰ったという。(短冊は残念ながら焼失したそうです)
(参考 「垂水市史」「薩隅日地理纂考」)

これ以上大雨による被害が出ませんように…




272 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 23:12:06.04 ID:CQUGjNOU
…「沈めェ~ 沈めェ~」

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 23:21:19.48 ID:lmB6mT5K

>>272
ひしゃく要ります?

275 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 23:27:56.94 ID:/gYb3G0s

>>272さん
ひしゃくどうぞ、穴開いてますけど。

284 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/02(木) 22:13:24.44 ID:tAa6nbpC
271の追加
新田(あたらだ)神社の御祭神は
•上筒男命(ウワツツオノミコト)
•中筒男命(ナカツツオノミコト)
•底筒男命(ソコツツオノミコト)
の住吉三神(海の神、航海の神、また和歌の神とされる)

示現流と家久公の奥方

2015年06月29日 14:05

亀寿姫   
255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 23:04:54.18 ID:2+qsOagc
示現流と家久公の奥方

 現在は鹿児島県民以外でも学ぶ事の出来る示現流兵法。但し、女性の入門は受け付けていないそうで、戦前は東郷宗家の女性でも稽古を拝見する事も出来なかったそうです。

 が、かつて島津家久(彼と島津斉興だけが、示現流で免許皆伝に相当する四段の段位を授けられたそうです)の奥方が示現流を修行し二段まで習得。
 殿方が城を出た後の城を守る為の心得として、示現流の小太刀の技や他流の薙刀の技などを奥向きの侍女や奥女中にも習わせたそうです。

 数年前、示現流史料館で説明役の御婦人が詳しくお話ししてくださり、「鹿児島の古武道」という昭和61年に先々代の御宗家が講演された時の史料も(写しを)拝見したのですが…。

 この史料にも「奥方」というだけで、実名の記載はなかったと記憶しているのですが、これはやはり正室であり嫡女であった亀寿なのでしょうね。

 江戸中期に記された久保之英の「示現流聞書喫緊録」によると、昔の門弟は両度(七つの段位で下から二番目の段位。鑓留を含む)なら本当に槍を止める事が出来たが、今は三~四段でも本当は鑓留が出来ないと嘆いているので、夫婦ともに本当に強かったのでしょう。

 ……この「奥方」が本当に亀寿だとして、本当に「殿方の留守」を守る為に武芸を修めて……いえ、何でもありません。



260 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 00:10:53.27 ID:/gYb3G0s
亀寿が示現流を修行したのは自分が島津本家の家督を決定する権限もしくは拒否権を有していたから
責任がある身の上なのでかも。(桐野作人先生の講演会で亀寿が家督を決定する権限を持っていたと
おっしゃってました)
この話を読んだら、前に個人の人のサイトで見た義久が国分城を作ったのは「亀寿を守るため」ではいう仮説を
言ってましたが、なんとなく納得できるかも。
その前に住んでいた富隈城にくらべて格段に国分城のほうが防御力があるもの。
(富隈城も国分城も館作りの平城ですが、国分城は後詰めの城「隼人城」があります
この隼人城は隼人の反乱の時に使われた’曽於乃岩城’(そおのいわき)という説が
あり篭城するのに向いています)
義久が国分城下は京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を太平の世向けに整備したのに、
城をこんな感じ(戦国の世向け)に作ったのは自分が亡くなった後亀寿の「拠り所」を用意したのかな…

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 00:45:02.67 ID:FXoHaFYy
戦国屈指の名将、島津義弘の息子なのに何であんなに陰険で屈折してるのか
毛利元就の息子とかなら納得出来るのだが…

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 00:57:27.51 ID:RrEm5voZ
子は親を写す鏡
義弘の本性がじつは陰険だったのさ

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 01:09:26.25 ID:tjIhPMHR
子は親を写す鏡
貴久の本性もじつは陰険だったのであろう

264 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 01:09:38.74 ID:/gYb3G0s
別に子供が親に似る場合ばかりではないと
思うけどね。悪久の場合は、伯父と父と兄への
コンプレックスと自分が権限を持っていない
ことの苛立ちのせいでしょね。
子供が親に必ず似るのだったら宇喜田さん家
はどうですかね?

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 01:21:00.86 ID:i7nOamuV
土井利勝「むしろ子が親に似てないことの方が多いよな」
豊臣秀頼「せやな」

薩隅の戦国お菓子 ふっかん

2015年06月13日 14:24

178 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 18:26:48.14 ID:NF0l0HPn
薩隅の戦国お菓子 ふっかん

少し前に見た、鹿児島のテレビ番組で地元のタレントさんが鹿児島各地の
商店街などを巡るコーナーがあるのですが、とある和菓子屋さんに
「浜の市名物 ふっかん 期間限定」と書かれた看板が…
タレントさんが、お店の奥さんに「ふっかん」のことを聞いてみると
「富隈城に(島津)義久公がいらした時に献上されたお菓子で」
「皆に福が来るようにということで福+羹(かん)でふっかんです」
といわれてました。
ふっかんを検索しましたら、とあるHPでは

ぷるぷるつるんとして、もちもちの食感。口の中に広がる黒糖の風味は、
何だか懐かしさを感じます。「ういろう」にも似たその食べ物は「ふっかん」
といい、隼人町の浜之市で昔から作られてきた伝統菓子です。

ふっかんを製造・販売している○○庵(隼人町富隈地区)の(和菓子屋の
ご主人)さんは「浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので、
それを使って作るようになったようです。富隈城のお殿様に献上したところ
大変喜ばれ、自分だけでなく多くの民にも食べてほしいと言われたことから、
人々に福が訪れる”福の羹(かん)(羊羹(ようかん))“ と呼ばれる
ようになったという説もあります。私の母が商品化しましたが、母の死を機
に販売を辞めたところ、続けてほしいと多くの声をいただきました。
地域の食文化と食べてくれる人のうれしそうな笑顔を守らねばと今も作り
続けています」と話します。

HPには家庭用にアレンジされたレシピも載ってました。
ふっかん(20個分)
〈材料〉
小麦粉300g、黒砂糖(粉状)300g、片栗粉20g、水700㏄

〈作り方〉
1.小麦粉、黒砂糖(粉状)、片栗粉を混ぜ、ふるう。
2.1. の中に水を入れ、ざるでこし、型(直径7㎝程度のわん型)に流し入れる。
3.20 ~ 25分蒸す。
4.冷めたら竹串を使って型から取り出す。

タレントさんが食べたときの感想は「さっぱりしていて、餅と羊羹の
間みたいな感触です」
このお菓子は浜の市地区でしか知られてないお菓子で、田植えの時の
お茶菓子として昔は各家庭で手作りしていたそうです。
お昼ごろには売り切れる人気商品で、田植えの時期から7月くらい
までの期間限定品だそうです。
(MBC 南日本放送 ズバッと!鹿児島 のぶらり商店街2015年6月6日
放送分より霧島市隼人町の「霧島市はやとサン・シティ通り篇」)




179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/12(金) 18:36:01.47 ID:5Afn7Ytw
春駒を思い出した
(黒くて太長いから「馬の魔羅」と呼んでたが薩摩殿様にその名で献上するのはちょっと、
てことで「春駒」に名前が変えられたういろうっぽい菓子)

180 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 19:41:09.87 ID:K8meW4ni
(´・ω・`)由来はともかく春駒も美味しいお



181 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/12(金) 20:15:23.31 ID:NF0l0HPn
春駒については、とある鹿児島のお菓子屋のHPでは
>明治五年時の明治天皇が鹿児島に行幸された際、このお菓子を献上した処、
この名前をお尋ねになり、県知事がとっさに「春駒」とお答えしたと云う
エピソードが今も伝えられております。
となってますね。

ふっかんについては義久に関連するお菓子が400年以上絶えることなく
残っていた事が嬉しいです。



182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 00:08:51.24 ID:rsqBmLUF
春駒#菓子
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E9%A7%92#.E8.8F.93.E5.AD.90
 > 昔は数十cm程に長く作られた為、その形状から馬の陰茎を指す、
 > うまんまら(馬ん摩羅)と呼ばれていた。
 > 春駒と呼ばれる様になったのは、この菓子が献上され、その名称を
 > 尋ねられた時に、「うまんまら」と言う表現が直接的だった事から、
 > 周囲が閉口してしまった為、言い替えられた物であるとされており、
 > その時に献上された人物については、当時の島津藩主や、行幸で
 > 鹿児島を訪れた皇族等、諸説様々な話が伝えられている。

黒人陰茎とか呼べばいいのに

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 02:43:24.23 ID:jSLh0mmt
武将所縁でも加勢以多や長生殿とかだと茶人だからかお上品なんだよなあ

191 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/15(月) 00:17:21.53 ID:1Qtzb3vr
178・181です。
>浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので
とあるように義久は交易に力を入れていたようです。
秀吉に対して恭順の意を示すため富隈城を築いた…
のではなく、数年前に見た霧島市の情報誌では秀吉は義久には
北薩に行くよう言われていたが、なんやかんやで理由をつけて浜の市に移り
富隈城を築いたと…それは貿易を行う為に浜の市港に目をつけていたのだと…

>その僅かな在城期間に城下の浜之市の港を整備して商人を招き、江戸時代
には坊津、山川等と並ぶ薩摩藩内では栄えた港の一つとなった。この地で
行った開発を義久は国分で引き続き行っており、実験的な城下町の一つだった
と考えられる。(ウィキペディア)

富隈城在城期間に義久は「唐人(外国人)との喧嘩口論禁止」のおふれを
出しています。貿易を円滑に行うための配慮のようです。

曽木の滝では

2015年06月07日 16:27

890 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/06(土) 22:29:47.31 ID:nEHsoC9s
鹿児島県伊佐市にある曽木の滝。この滝では

南の方の武蔵、新納忠元・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/688-9de1da57

に書いてあるが、新納忠元が秀吉を滝壺に突き落とそうとしたこと
が伝わっている。
(昭和32年(1957年)に柳原 白蓮が世界平和運動の講演のために訪れた時に
案内人を務めた郷土の医師から、新納忠元と豊臣秀吉の会見や滝見物の
言い伝え、 川ざらえと薩摩藩の米の流通などの話を聞いた後に歌を詠み
「もののふの昔がたりを曽木の滝 水のしぶきにぬれつつぞ聞く」
この歌の歌碑が曾木の滝にあります。)
そして、曽木の滝にはもう一人戦国の人の話があります。

薩摩のスナイパー2・押川強兵衛
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/7784-f34d239e

押川強兵衛は少年時代、曽木の滝で水練をし体を鍛えていました。
ある日、泳ぎ疲れた強兵衛が、(滝の下の河の中にある)岩の上で
昼寝をしていたら猟師が強兵衛を河童と間違え鉄砲を向けたことが
ありました。そのことからその岩は「カッパ石」と名付けられました。
また滝の左岸には、強兵衛が並べたとされる同じ形の4つの屋形の
巨岩がみられ、「力石」と呼ばれています。
(「カッパ石」と「力石」の場所は忠元が秀吉を滝壺に突き落とそう
 とした「観音渕」の付近です)
参考 曽木の滝周辺資源カード4



891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/07(日) 10:07:27.28 ID:DFE7lzNk
ザビエルハゲの少年だったのか?

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/07(日) 16:38:36.99 ID:ecbDPL9G
>>891
意味は分かるんだが
せめてトンスラと言ってやりなよw

893 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/07(日) 21:57:40.48 ID:RARX4r5x
「カッパ石」と「力石」の場所は、曽木の滝周辺マップを
見ると滝壺のすぐ近くなので普通の人は泳げない所だから
河童と間違えられたのかも。

【話題】島津義弘小説、6月からウェブで公開

2015年05月28日 17:14

84 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 21:48:19.61 ID:9GfvjNwH
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。

大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=66690
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 23:12:39.29 ID:9GfvjNwH
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)

少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 00:35:05.46 ID:LkWj94pc
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 07:26:31.84 ID:Yy790yKb
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 13:38:32.93 ID:w8Exbow6
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:31:42.63 ID:3nQUdxjC
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:36:24.17 ID:3nQUdxjC
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 21:09:57.42 ID:3nQUdxjC
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:15:09.60 ID:1I/mC1ZA
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:59:48.83 ID:kUwDtlwJ
加藤清正のタイガードラマはよ

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 03:12:59.38 ID:6LcORnJI
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 06:26:43.57 ID:05Bd7qhS
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:20:57.75 ID:uBMgoFHx
バカ知事が何か言いそうw

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:51:37.37 ID:X1R2YQCf
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:55:35.24 ID:mcDINiea
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 08:33:20.77 ID:TH6fkjnm
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 10:54:25.41 ID:5bj3lFUm
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 17:01:26.02 ID:zdzYrMsl
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 20:46:50.48 ID:wwV7liSe
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 21:09:32.57 ID:7e3CBtA7
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 02:18:09.14 ID:CWM9Z+LL
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 07:17:33.57 ID:5P1QqS+E
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 00:32:49.85 ID:DaNyHf8r
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:05:45.71 ID:EF3ETCaI
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

【ねこ大好き】島津義弘、近衛前久に猫を贈る

2015年05月08日 18:55

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:26:10.43 ID:Igh/VUP+
【ねこ大好き】島津義弘近衛前久に猫を贈る

慶長年間の事と推定されるが、島津義弘近衛前久に猫を贈った事があった。
その結果近衛前久から礼状が贈られてきたのであるが、その内容は
「本望の至り、年来待っていたところ、ことさら美しく見事で、一段満足している」
という前置きを置いて「さらに猫を頂きたい。」との要求であった。
その理由は
「その猫は夫人に取られてしまい、自分の手元にはいないから、もう一匹送ってもらえないか。決して他人に譲るのではない。娘も懇望しているけれど、それは無視していい。まず自分の分を一匹ほしい」
ということであった。
(「旧記雑録附録二」二七〇号)


まとめサイトのコメント欄で紹介して頂いた逸話なのですが
シャイな※主様が他の人に投稿頼むと仰ってた&猫好き魂を鷲掴みにされましたので
僭越ながら※主様ご紹介の南日本新聞の「さつま人国誌」(2015年5月4日付)を
出典として要約し投稿させて頂きました。
元記事には他にも犬に関する逸話等が記載されております。



953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:29:37.28 ID:B0Sjzqyc
関白のくせに、ペットをねだる調子のいい話?w

954 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/07(木) 20:48:37.66 ID:hya75fci
やはり島津家はNNNの支部だったのか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:54:43.78 ID:xD7IsRlR
>>952
娘の分も暗にねだってるw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:58:46.83 ID:UFTPDb99
なぜかプリンのコピペ思い出した

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 22:42:31.46 ID:jkzHWnJt
薩摩はネコの産地だったのか?朝鮮にも連れて行ってたし

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 00:29:10.45 ID:xc36Xewg
三斎様も忠利に猫クレクレしてたけど、
この時代の猫って貴重で探して捕まえてたんだっけかな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:13:42.34 ID:Y5kEKSGr
ここの猫ってのはペルシャ猫のことかな?
それとも日本には元々猫がいなかったとか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:13:58.72 ID:ARjUb34o
井伊直孝「猫と聞いて」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:02:21.04 ID:Np3grdNi
猫って鼠が殖えるまでは紐に繋がれて飼われてたよね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:21:15.93 ID:HjLXgSyq
板倉勝重「ワシが猫を開放した」

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:35:37.68 ID:MvSWJ74j
最上義光「ぬこ…」
天庵さま「うちの子だって!」

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:48:17.67 ID:MvSWJ74j
これは近衛卿側の逸話になるのかな?

それと鶴が逃げても動じなかった秀吉が、猫が逃げて衰弱してるからおそらく秀吉も猫好き。

検索したら猫好きの人の性格が出て来た。

「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」な傾向とか。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:01:11.95 ID:MvSWJ74j
日本猫(和猫)は、8世紀頃に大陸から経典を鼠から保護するために日本に伝わったとされるが、長崎の弥生時代の遺跡からも古来の猫の骨が見つかっている。
889年(昌泰2年)宇多天皇の唐の黒猫の飼育日記があったり、花山天皇が皇太后に愛玩動物として猫を贈った話もある。

東南アジアや琉球から貿易を経由して日本に都度都度猫が入り、日本に家猫や野良猫が定着したのは江戸時代頃とも言われる。
日本猫で代表的なものは、「白猫」「黒猫」「サビ猫」「トラネコ」「ブチネコ」「三毛猫」の6種類。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:17:09.22 ID:0PPEkGvE
(⌒▽⌒)

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:20:18.99 ID:9cl0PIMM
鍋島直茂「ネコなんて大嫌いだあああっ!!」

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/08(金) 10:28:05.42 ID:At7WWQV/
天久院「猫程度にうろたえるとは軟弱な」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 12:25:01.99 ID:MvSWJ74j
>>952
犬の話も気になる

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:28:01.94 ID:MvSWJ74j
「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」

猫ブロガー宇多天皇、豊臣秀吉、近衛前久、伊達政宗、最上義光、小田氏治、井伊直孝…

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:31:42.47 ID:MvSWJ74j
A=B=C、つまりA=Cである

A=伊達政宗
B=猫好き
C=細川忠興

つまりまーくんは三才様だったんだ(違います)

今日コンビニで流し読みした本に

2015年03月11日 18:49

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/11(水) 00:59:34.04 ID:UMymFHmr
今日コンビニで流し読みした本に書いてあった鹿児島城の話

築城が1602年、島津家久
義久の末弟と記載

統率の義久・武勇の義弘・反逆の歳久・地味久と4兄弟1、事績に乏しい家久に光が当たったいい話。




708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 02:03:19.95 ID:FElBlykQ
それ悪い話や

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 02:11:11.78 ID:DFTw6Kpf
島津四兄弟の序列って
義弘>>>家久>>>義久>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>歳久だろ

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 09:31:11.21 ID:AomUNZR4
>>707
悪久のことかー


※当然ですが、鹿児島城を築城したのは島津義久ではなく忠恒ですw

敵の船をネギる。

2014年12月15日 18:48

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 09:13:16.01 ID:+mpcXuzM
敵の船をネギる。


 慶長二年(1597)二月。再開した慶長の役により集結した日本勢。

 その軍議の席。豊臣秀吉の軍令は、全羅道(チョルラド)の征服を第一目標とするものであった。

 自然と攻撃目標として明からの援軍三千名も含め、六千の籠る南原(ナムウォン)城の攻略が盛んに議されたのだが。

「唐島(巨済島:コジェド)表には番船数百艘が漕ぎ出でて、日本より往反の船を遮っておる」

「されば、この番船を追い退けてこそ赤国へ相働くべけれ」

 全羅道の明朝連合軍の拠点を攻略する前に、朝鮮水軍を撃滅して半島南岸と日本との制海権を確保する事で議定一決。

 諸将は大鉄炮や焼き草から熊手に撃鑰(打鉤)など遠近両用の装備を調え、七月十五日の夜半に出撃。

 この戦いには藤堂和泉守高虎・加藤左馬助嘉明・脇坂中務少輔安治・小西摂津守行長の諸将と共に、島津家の家中も参陣。

 閑山島(ハンサンド)より出撃する朝鮮水軍が、巨済島と漆川島(チルチョンド)の間に流れる漆川梁(チルチョンリャン)を通過する時を狙い、陸海で挟撃する作戦だった。


 そして、加徳島(カドクト)より移動して陸路で待機する島津義弘・忠恒父子の軍勢三千余名が。唐島の碁石浜で刻限を待っている時。
 
 予定よりも早く戦闘が始まった。

「父上、舟手より時の声(鬨)が?」

「吾らも鬨を上げよ。陸と海より大鉄炮を打掛ぃ!」

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 09:14:01.80 ID:+mpcXuzM
 兼ねて用意していた島津忠豊の率いる水軍は、予定より戦闘開始が早く、且つ余りにも朝鮮水軍の攻撃が猛烈であった為、纜を解く余裕も無かった。

「構わん、碇を切り捨てぃ!」

 解纜の暇がなかった大方の船で、次々と纜が切断された。既に漕ぎ始めていた船は、抑えていた碇が無くなるや一挙に加速。吾が船、遅しと押し出す。

「彼の船に漕ぎ雙(なら)べ。各々一度に切り乗らん!」

 忠豊の下知に、朝鮮水軍で三番目の巨船に接舷する島津の船。

「殿、お先に御免!」

 真っ先に斬りこもうとした主君を差し置いて、樺山文之助という十九歳の近習が一番に敵船に飛び乗る。……そして鎧の胸板、その外れを射られて海に落ち、忽ちに死ぬ。

「おのれ!」 「殿、御免!」

 近習の死に、今度こそ自分が乗り込もうとする忠豊だが、またしても甲斐正助という士が主君に先立って乗り込む。

 三度目の正直、と忠豊が今度こそ敵船に乗り込んだ時には、既に手勢多数がほぼ同時に乗り込み、白兵戦を展開して行った。

 中でも、足軽ながら忠豊が常々目をかけていた大倉兵衛という剛の者は、この時も主の期待に違わず舟矢倉の下に入り込み、えいやと声を上げて敵兵数多を斬り捨て、更に多くの兵が恐れをなして海に飛び込み溺死に追い込んだ。


 かくして、この巨船は乗っ取られ、即座に日本に差し渡して秀吉の台覧に供された後、慶長の末年まで大坂に繋がれる事となった。

 又七郎忠豊に賜う台書
   
  このたび唐島表において番船百六十四艘伐り捕りのみぎり。その方、自身の手を砕き(敵兵を)切り棄て、三番目の船の唐人を残らず切り棄ての由。手柄の段、比類なく候。
  殊更、その船を焼かず日本へ差し渡す儀、御感ななめならず候。何れも帰朝のみぎり、ご褒美くわえらるべく候。なお増田右衛門尉(長盛)・石田治部少輔(三成)・長束大蔵大輔(正家)・徳善院(前田玄以)申すべく候なり。

   八月九日御朱印(秀吉)
        嶋津又七郎とのへ


 海戦に敗れた朝鮮水軍は巨済島に上陸。この時点で、水夫以下は体力の限界まで船を漕いで疲労困憊の上、飲料水の枯渇で嫌でも敵地に上陸せざるを得なかったらしい。

 そんな彼らを待っていたのは、島津・小西の軍勢だった。特に島津勢は海上の戦況を観た義弘の下知で、碁石浜から島崎までの十五~六里に三千の兵を分散配置していた。

 三道水軍統制使の元均(ウォンギュン)以下の将兵は悉く殲滅され、磯近くで留まる敵船は熊手・撃鑰を打ち掛けて曳き割り、撃ち割り、焼き沈めていった。

 『征韓録』では「番船大方根切」、と形容している。

 島津家中には、忠豊(のちの豊久)が先駆けようにも同着三位になるような勇士が少なくなかったのですね。




364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 10:09:48.05 ID:P/IbXQS/
このぱくった船はのちの何になったんだろう。

君子 三の戒

2014年12月15日 18:45

15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:19.05 ID:+mpcXuzM
 君子 三の戒

 慶長二年(1597)の八月。全羅道(チョルラド)の南原(ナムウォン)城を攻略すべく、宇喜多秀家を大将とする左軍の軍議が行われ、議定一決して諸将が陣に戻った後の事である。
 (ちなみに右軍の大将は毛利秀元、総大将は釜山の小早川秀秋)

 島津義弘は、忠恒とその近習を召し寄せ、こう語った。

「君子三の戒にも、その壮なるに及んでや血気まさに剛(こわ)し。これを戒める事、闘いあり」

 是、文宣王(孔子)の格言にして千歳不易の論なり、と義弘が説いたのは、論語の一説だった。

 孔子曰「君子有三戒。
 少之時、血気未定。戒之在色。及其壮也、血気方剛。戒之在闘。及其老也、血気既衰。戒之在得」。

 君子は、少壮の時は色欲、壮年の時は闘争欲、老いては利欲を戒めなければならない。

「今や忠恒は壮にして、血気もっとも盛んなり。然れば分捕りの高名、独り懸け等これを戒めよ」

 自身が兄・義久の守護代として参陣しているのに対して、忠恒は義久の女婿として三州の太守を嗣ぐ身である以上、軽々しく敵陣で分捕りや一騎駆けに出るな、と戒めたのだ。

「吾、久保を唐島(巨済島)の地に亡くし、追憶未だ止まず」

 最後に実父として子に先立たれる辛さを述べるや、左右の家臣は皆が落涙し、忠恒も父の説く理に納得した。

16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:56.75 ID:+mpcXuzM
 そして、八月十三日より南原城への攻撃が開始された。

 三日間の攻城戦の末、小西行長の計略により城兵が油断した十五日夜の奇襲で南門が破られると、明軍の副総兵・楊元の率いる遼東兵が西門より脱出した為、遂に落城。

 その退路には、全州(チョンジュ)の城から南原に後詰の軍勢が来る事を警戒していた島津義弘と加藤嘉明の軍勢が待ち伏せていた。

 戦死者と逃亡者により、遼東兵が思肆館まで撤退した時には、残存兵力は百人余りに減じていた(その為、楊元は明軍で処刑され漢城の南大門で獄門にされた)。

 この時、島津勢が討ち取った首級は四百二十一、佐土原勢(島津忠豊)が十三首。

 特に、島津勢の首級のうち三首は、義弘自身が斬り獲ったものだった。

 その事を聞いた途端、忠恒の中で何かがキレた。

「老巧(ママ)すらかくの如し。吾、壮にして何ぞこれを忍びんや!」

 と叫んで、制止する近臣を振り切り、単騎突出。

 その勇姿に、向かう敵は一人もなかった。……既に、戦闘は終結していたので。本当に、敵はいなかった。死体以外に。

 故に握刀の功なくして、ようやく払暁に至り帰還する。その憤怒は猛然としていたと『征韓録』は記す。

 『征韓録』の「南原之城陥事、附全州城明退事」より抜粋。義弘の活躍と(忠恒と連名ながら)秀吉より賜った戦果を賞する朱印状に続いて、忠恒の個人戦果なしの逸話を乗せ、〆に忠豊の朱印状を持ってくる構成。

 作者(編纂の総裁は島津久通)は、忠恒(家久)に含むところでもあったのだろうか?




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 20:09:59.98 ID:6REdTz3o
>含むところ

忠恒の場合心当たりが色々とありすぎるからなw

久保主従の虎狩り

2014年12月12日 18:35

346 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/12(金) 02:00:14.52 ID:on4xVGIO
 久保主従の虎狩り

 文禄元年(1591)初冬の頃。江原道(カンウォンド)の金化(カムファ)に在番する事になった島津義弘・久保父子。
 
 この城は咸鏡道(ハムギョンド)・江原道・慶尚道(キョンサンド)の三道が交わる敵地の只中。
十二月に永平(ヨンピョン)から島津勢が移動して以来、金化城の背後に聳える高山に敵の大物見が現れて久保自ら馬上二十騎、
鉄炮足軽二百を率いて敵兵二十九人を討ち取る(『島津久保と木に吊るした首』参照)ような油断できない状況に置かれていた。

 そんなある日。

 久保は鷹狩りを行う為、城外の広野へ。ところが、勢子を勤めさせようとした現地の樵や草刈りの者らは、「この山中には虎が出る」と
口々に訇(ののしっ)て静止した。

 ここにおいて久保、

「ならばその虎、射止めん!」

 と下知して自ら大鉄炮を下げて山へ。こうなると供奉の人々も此処彼方(ここかしこ)に馳せ散って暫時の間に虎が潜む小山を取り囲んだ。

 二~三町の距離まで包囲の輪を縮めた時、山の頂に巨大な虎が姿を現す。その姿は猛虎が山岳で吼える姿そのもので、眼光は鏡の如く煌き、
尾を揺かし身を縮めたかと見るや、疾風の如く小山の頂から久保まで突進を開始。

 供奉の人々が手に汗を握り、固唾を呑み硬直する中で、真っ先に動いたのは大山新藤だった。

 彼は久保の御前に跪き、

「殿! 御鉄炮を某(それがし)の肩にかけられ、あの虎――」

 自身の肩を大鉄炮の筒先を固定する支点として、あの虎を撃ち遊ばされよと言い終わる前に、久保も新藤の意を察して彼の肩に銃身を据える。
(こんな事をすると鼓膜は避けるし顔も火傷するけど、覚悟の上なんだろうな…)

 が、虎は迅い。早すぎて発射が間に合わないと、誰もがあわやと思った瞬間。

「蓬(きたな)し! こなたに来たれ!」

 供奉の一人、大田吉兵衛忠綱が眼前を横切る虎を怒鳴りつけたのだ。抜刀して怒鳴りつけてくる大田に、
突進していた虎が反応して身体ごと振り向こうとした瞬間。

 その静止の間を久保は見逃さなかった。

 久保の大鉄炮が虎の頭部を打ち貫く。急所を一撃され、宙に躍り上がる虎の巨体。その身が地面に落ちるよりも早く、大田の一刀が虎口を鍔本まで貫いていた。

 主従の同時攻撃を受けて、さしもの猛虎も即死していた。

 以上、『征韓録』より「久保主虎を射る事」の抜粋です。




騎射放鷹の禁止

2014年12月12日 18:34

994 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/12(金) 02:42:16.58 ID:on4xVGIO
 騎射放鷹の禁止

 いい話スレに投降した島津久保の虎狩り、その続き。
 本当は一つの逸話として悪い話スレに投稿する予定でしたが、長くなったので二分しました。 

 文禄元年(1592)初冬、金化城外の広野。鷹狩りの筈が虎狩りになってしまい、しかし首尾よく猛虎を仕留めた次の瞬間、
悲劇は起きた。

 虎が疾風怒濤の勢いで小山から駆け下りてきた時、咄嗟に反応できたのは大山、大田の両名だけでは無かった。

 ここに今ひとり、羽生(はふ)某と苗字のみ記録されている士も、主君の危機に置いて虎を射止めるべく、鉄炮を発射したのだ。

 今まさに、大田吉兵衛が虎の口に一刀を突き込んだ瞬間に。

 銃弾は誤って吉兵衛の股に命中。
 ……不幸中の幸い、傷は薄手にて傷まずと『征韓録』には記されている(当時というか、幕末でも現代の重傷も浅手なので疑問だ)が、
羽生は一発だけの誤射でも深く恥じた。

「楚忽(粗忽)の至り、面目なし」

 と腹を切って死んだ。


 この虎狩りの顛末を聞かされ、島津義弘は嘆いた。

「暴虎馮河で死して悔いなきとは、君子の取らざる所なり」

 以下、故事成語を引いて戒めた後さらに続けた。

「すべて久保の粗忽の儀、今に始まらぬ事なり」

 かつて忠清道(チュンチョンド)の普天(ポチョン)に在城した時、久保は島津の御家芸である騎射を練磨すべく原野に出た時。
 敵兵の大物見数十騎が出現し、島津家の秣を狩りに出た小者を二~三人ばかり討ち取ったと聞くや、即座に追撃を決意。

「その時も、供の集まるのを待たず一騎懸けで一里余りも追撃したり」

 遂に追いつくや、敵兵二騎を討ち取る。その頃、漸く川上休右衛門久智らの駆けつけたのだが……。

「休右衛門まで一緒になって敵の首を得て帰ってきた」

 往時といい、今日の事といい、彼これ将の器に当らず。能々(よくよく)慎まれるべし、と義弘は久保に騎射放鷹の禁止を申し渡した。

 その後、石田三成まで伝聞で事の顛末を知るや、使者を送って久保に放鷹を誡めた。

 以上、『征韓録』より。



997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/12(金) 23:01:42.80 ID:guHhG1L/
失敗を恥じて切腹するくらいなら敵に特攻して死ぬべきだよな
もう20年くらい昔の侍なら敵地で自害しなかったと思う

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/12(金) 23:16:07.57 ID:M09AsNsX
中川秀政「戦場で鷹狩りとか余裕ですわ」

魔のしょゐか

2014年12月08日 18:23

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/08(月) 00:47:35.46 ID:SywZhC9j
魔のしょゐか天けんおかみ法華教 一向宗にすきの小座敷
(天権を拝んだり法華や一向宗・茶道にハマったりするのは、魔に魅入られたせいである)

日新斎




島津忠豊の春川籠城戦

2014年12月06日 18:54

316 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/06(土) 06:14:24.80 ID:msPvcVEu
島津忠豊の春川籠城戦

 文禄元年(1592)初春。島津又七郎忠豊が守る朝鮮国江原道の春川(チュンチョン)城は、蜂起した義軍六万騎(公称)によって
二重三重に取り囲まれていた。

「奴らめ、撤退したのでは無かったのか」

 実は、春川城に敵軍が押し寄せてきたのは二度目。最初の時は即座に永平(ヨンピョン)の島津義弘に後詰を依頼。
即座に後詰の人数を催し駆けつけてくれたのだが、増援を遠望した敵軍は一戦も交える事なく退却してしまい、義弘勢も漢城などの守備の為に帰還していた。

 だが、撤退した筈の敵軍は後詰が引き上げると再び蜂起し、あっと言う間に春川城を包囲。攻め鼓を打ち、息もつかせぬ攻城戦を開始した。

 この時、城内の兵力は馬上三十数騎、兵五百余り。しかも頼みの城は普請中の未完成で防衛機能は不完全。忠豊は下知した。

「この城、普請も未だ丈夫ならず。殊更、後詰の勢を相待つ間も無し。是、十死一生なり」

 敵は圧倒的大軍で完全包囲され、逃げ場は無い。城は籠城に耐えず、援軍到着までの時間稼ぎは不可能。この絶体絶命の危機に際して、
主従の出した結論は―――

「善く戦う者は死せず! 助かる道は敵を撃滅せぃ!」
「「「チェスト―!」」」

 忠豊は寄せ手が城壁を乗り越えようとするまで接近させた上で、百丁の鉄炮で斉射十連。敵軍先手を敗走させるや、
全軍に真丸になって斬って出るよう下知。縦横無尽に懸け破った。
 敵軍は僅かの小勢に懸け立てられ、這々四方に引き退く。忠豊はこれを少々追い打ちし、軽々と城に引き取った。

 その時、討ち取る首級七十余り、左の耳と鼻を切って名護屋に献上し、感状を賜る。(征韓録)。
 別の史料では五百三十余りを討ち、うち二人は将だったので首塚を築いたとも。

 島津又七郎忠豊、後の豊久の籠城戦である。



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 14:01:45.80 ID:QX5TiB/d
>>315
なんというマッチョw

義久は天の助けに巡り合ったのだ

2014年12月06日 18:53

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 14:14:46.60 ID:/6xIWDLx
島津義久が大友氏を攻めて所々に乱れ入った時、志賀太郎親次は一人、義久に
降らなかった。義久は松の尾の城にいたが、秀吉が大軍で九州に渡ると聞いて
薩摩に引き退いた。

大いに喜んだ親次は「険阻の地に兵を伏せて打ち破れ」と言って、鉄砲の手利き
20人を選び出し、山海が嶺の林に待たせた。

そんな折に、首藤五郎大夫と堀八郎という者が、今回選ばれずに残ったことを
口惜しく思い、密かに道に隠れて薩摩武者2騎を撃ち落とした。

「さては伏兵がいるぞ!」と言う間こそあったが、大軍が林に入り草を分けて
探したので、20人の者たちはやむを得ず、薬を惜しまずに鉄砲を散々に
撃ちかけて、追い来る者たちを撃ち殺して引き退いた。

親次は大きな溜め息を吐き「義久に山海が嶺を決して越させないはずだったのに。
義久は天の助けに巡り合ったのだ」と、言った。

――『常山紀談』



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 20:41:19.01 ID:j5mUhdpM
>>955
多分元になった話だと義久じゃなくて家久で天正15年3月16日の山梅峠合戦の話だと思う。
その翌日にも志賀親次とは別に島津と戦っていた佐伯惟定に梓峠で襲撃されて
「佐伯肩衝」とかを奪われながら命からがら日向に逃げ延びてるんだよな。

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 12:48:48.48 ID:Fa83kjke
>>956
茶器とられたのか…壊れなくてよかったな

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 13:27:25.60 ID:pQak1rhA
とられたというか足利将軍家から宗麟に贈られた茶器じゃ無かったっけ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 21:10:01.73 ID:sBYgMYaU
>>960
足利義輝→大友宗麟→臼杵鎮続→島津の戦利品→佐伯惟定→藤堂高虎→徳川家康
って転々としていった茶器。
惟定が島津から奪い返したことで「佐伯肩衝」と呼ばれた。

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 21:57:43.74 ID:w3202xSl
なんで戦場に茶器持ってってんだと思ったら略奪品かw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 22:29:29.80 ID:HTCupOW+
島津が茶なんて出来るわけがない
茶器オークションが目的

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 22:40:54.18 ID:fXGl/uHn
義弘は茶人でもあるけども

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 23:20:42.72 ID:w3202xSl
義弘は在坂歴も長いからな