鼻の色はかはりにけりな異な面に

2017年02月16日 17:16

651 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/16(木) 00:02:05.81 ID:rG1cVaCH
ある日(島津)忠恒公が徳田大兵衛(侏儒どん)の宅へ御出でになるという仰せがあった、
そこで大兵衛は屋敷を清めるやら庭の掃除の下知をするやら忙しかった、
さて自分も湯に入って潔斎したのち、今か今かとご来駕を待っていた、けれども
仰せでになった時間までにいかなる御都合かして、御出でが無いので、
待ちくたびれて大兵衛は縁側へ寝入ってしまった。
その後程経てから殿様の乗り物がやっと徳田の屋敷に着いた。
すると大兵衛は心地よさげにすやすやと良く寝入っている始末であるから、
近侍の者共が大兵衛を起こそうとする、殿様は「しばらく待て」と制しながら
硯を取り出させ、筆にタップリ墨を含ませて、大兵衛の鼻へ一杯塗り付けさせられた
然る後ち近侍の者をして大兵衛を揺り起こさせられた、大兵衛が不覚の眠りを
詫びるのには耳を貸さずに殿様は
「大兵衛鏡を見ろ」との仰せである。何かは知らねどご上意のまま
自分の顔を鏡に映すと、鼻が真っ黒く塗られている。
殿様は笑いながら、「大兵衛どうじゃ、即座に一首仕れ」と言われると、
例の侏儒のことであるから、言下に次の歌を詠んだ。

鼻の色はかはりにけりな異な面に わが身湯に入り長寝せし間に

これは言うまでも無く、百人一首の中にある小野小町の和歌を詠みかえたのである。
(日当山侏儒戯言)


参考
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
小野小町




654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 06:18:07.98 ID:vJ8/2DEi
>>651
何が起きるかドキドキした
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十三塚原

2017年02月03日 10:56

571 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/02(木) 23:29:57.77 ID:tUuJ8z9c
十三塚原(じゅうさんづかばる)は、鹿児島県霧島市と姶良市に跨る東西6.5キロメートル、南北11キロメートル、
標高210-300メートルのシラス台地です。近くには鹿児島空港があります。
名の由来は13基の塚が数十メートルの間隔をおいて並んでいたことから十三塚原と名付けられました。

十三塚原の由来については次のような伝説がある。かつて国分八幡神社(鹿児島神宮)と宇佐八幡神社(宇佐神宮)の間で
どちらが正統の八幡宮であるか論争があり、大永七年(1527年)十一月、宇佐八幡の神官14名(15名の説もあり)が
鹿児島を訪れ国分八幡の古文書を調査し、正統性は疑わしいとして社に火をかけた。ところが社が猛火に包まれた
その煙が「正八幡宮」の文字を示したことから神官たちは驚きあわてて逃げ帰ろうとした。宇佐逃げる途中、
次々と13名が死亡、残された1名(2名の説もあり)も宇佐八幡に戻って事の顛末を報告し終わると同時に死亡した。
しばらくして死者のために13基の塚が建てられたという。(日当山村史)

この伝説が大永七年(1527年)と書いてあるのは「日当山村史」だけで、その他の史料及び十三塚原にある
十三塚原史跡公園の案内板には長承元年(1132年)となっております。
(「日当山村史」にも「長承元年(1132年)との説もあり」とは書いてある)
実際その頃に国分八幡神社(鹿児島神宮)は火災の為焼失しており、そのため年代がかわったのかもしれないです。
(社は永いことそのままでしたが、島津貴久が再建しております。その時の話がこれです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2677.html
貴久は再建の為に訪れており、日秀上人は再建に携わっておりました)

※鹿児島神宮の案内板には「八幡宮の総本社は鹿児島神宮」と書かれていますが、鹿児島神宮がある霧島市
では「八幡宮の総本社は宇佐神宮」と見解を出しております。



572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 16:32:02.51 ID:Gjqm2/hC
>>571
火災に尾ひれがついたのかな
ずいぶん恐い尾ひれだけどw

578 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/04(土) 20:48:26.85 ID:nqYD0FKg
>>572
文献が思い出せず書けなかったのですが、
記憶が確かならば、大永年間の国分八幡神社の火災の原因は
島津と敵対する武将による“放火”だったはず。
怖い尾鰭がつくのはある意味当然かもしれない。

薩隅の戦国食べ物? ねったぼ

2016年12月21日 17:25

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/20(火) 23:24:58.34 ID:hzpAUNNI
薩隅の戦国食べ物? ねったぼ

ねったぼは蒸した唐芋(サツマイモ)と餅、砂糖などで作る餅で、ぼったぼったと練ってつくことから
その名がついたといわれる、鹿児島県や宮崎県の都城地方などで食べられている郷土料理です。
(砂糖の入ったきな粉をまぶして食べます。餡子が入っている場合もあります)
地域により、からいもんねったぼ、からいものねったぼ、からいもねったぼ、ねったんぼ、ねったくり、
からいも餅、ねりくりとも呼ばれます。

サツマイモの食べ物の話だと、スレ違いではと思われるかもしれませんが、
徳田大兵衛(侏儒どん)のことを書いている文で気になるものがありましたので・・・

「大兵衛殿は五十歳余りの時、都之城なる北郷殿宅にて年かさの餅を喰はせられ、咽喉に引き懸かり、
即ち相果てられし人にて候由」(薩藩舊傳集)

侏儒どんが現在の宮崎県都城市の北郷殿の屋敷で出された「年かさの餅」を咽喉につまらせて
なくなったとありますが、鹿児島で「年かさの餅」(鹿児島弁では「とっかさ」)とは
正月の餅を搗くとき、最後の一くぼ(餅米一臼分)に、煮たさつまいもを入れて搗きあげたもので、
ねったぼと同じものなのです。昔と今とでは違うのではと思われるかもしれませんが、
侏儒どんの話がまとめられている「日当山侏儒戯言」にも、
「年かさの餅とは薩摩独特の唐芋と餅とを搗きまぜたものだという説もあり」と書かれています。
(侏儒どんがなくなったのが、寛永十一年正月十六日(1634年2月13日))

前に鹿児島大学の焼酎学の先生から、
1611年に琉球征伐の後始末に残っていた薩摩の兵が薩摩芋を土産に持ち帰った。
1615年には琉球から種子島家に薩摩芋が送られた。
と聞いたことがあるので、栽培は出来てなくても手に入れることは出来たようなので、
貴重なものとして、正月用の祝いの餅にまぜこんだのかもしれません。

「日当山侏儒戯言」では、
「侏儒が正月北郷殿へ行って餅か出た時、ナニ此の位のなら唯一口で喰はれるとか何とか言って
喰ったところが、ソレが咽喉に閊へて遂に命を落としたのではあるまいか、若し予の想像通りとすれば、
彼は遂に滑稽の為に死んだのである」と書いてあって切ない。



448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 06:47:03.33 ID:Ex3Uxlra
>>447
餅は古来よりの殺人食ってはっきりわかんだね

下野の野州野州と申せども

2016年12月01日 16:19

365 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/30(水) 20:45:41.79 ID:NL2AuYia
島津家久(忠恒)時代の国老島津下野守は知行一萬三千石、権威並ぶものなし、
而も長大肥満の人なりしか。かつて徳田大兵衛(侏儒どん)に向かい
「徳田めが 大兵衛とは 名のれども 名には似合はぬ 小さき人かな」
大兵衛これに応して曰く
「下野(しもつけ)の野州(痩せう)野州(痩せう)と申せども
名には變(かは)りて肥えた人かな」
(日当山侏儒戯言)

※侏儒どんの名前の由来の一般的な方の説では、生まれたときから
小さかったので大きくなるよう願いをこめて両親が大兵衛と名付けたとあります。

※別な本には、侏儒どんと島津下野守は同じ連歌の会に出ていたりするので、
こんなことが言い合えるほど仲が良いのかもしれない。



そこに一人の山伏が現れた。

2016年11月24日 14:36

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:47:03.80 ID:GifEEbwp
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)



346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 10:30:52.61 ID:1sU8tIY/
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 13:44:40.94 ID:3l/VneXT
薩摩まで船でいけないんだな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:48:30.13 ID:8D69oZrn
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:19:13.59 ID:R0KKCQ/z
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:49:07.97 ID:8D69oZrn
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 22:19:18.84 ID:DqhLpzHV
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:06:03.85 ID:7ZS6/8Wc
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている

天吹(テンプク)

2016年11月18日 16:46

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/18(金) 00:02:23.28 ID:gKlDuncp
天吹(テンプク)という薩摩で伝承された縦笛があり、薩摩の武士の間で大いに愛され、吹かれていた。
名称の由来は、大祓いの祝詞「天の八重雲吹き放つことの如く」からきているとも言われている。
一番盛んだったのは、戦国の頃といわれ、戦国ちょっといい話・悪い話まとめ にも
島津の退き口と北原掃部 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5053.html
天吹についての話が載っております。今回は細部が少し違うバージョンを紹介します。

関ヶ原の合戦に島津方として参加した武士に北原嘉門助という者がいた。
島津の退き口の際に、家に代々伝わる天吹を陣中に置いてきた事に気付き、
「このまま置いていっては先祖に申し訳がたたぬ」と彼は天吹を取りに戻りますが、
東軍の兵に捕らえられてしまいます。
「何故、戻ってきたのか?」と問われ「笛を取りに戻ってきた」と答えると
「薩摩にもお主のような軟弱な者がおるのか」などといわれ、首をはねられることと
なってしまいましたが、
「この笛を取りに戻ってこのようなことになったのだ、せめて最後に一曲吹かせて欲しい」と言い
天吹を吹くと、その音色と北原嘉門助の堂々とした態度に東軍の者たちは感嘆し、
首を刎ねる事もあるまいとの意見が出てきました。
このことを知った徳川家康の側近の山口直友は「このような者を死なせるには惜しい、薩摩に戻して
やってもいいのでは」と考え、家康に進言しその結果、北原嘉門助は薩摩に戻ることが出来、
彼の命を救った天吹は「助命器」と銘打たれて大切に保管されたという。

・・・これで話が終われば好かったのだが、薩摩に戻った北原嘉門助は
「自分は首を刎ねられるはずだったから」と切腹して果ててしまいました。
一方「助命器」の方は江戸末期までは大切に保管されていましたが、明治になり北原家に
嫁いで来た若奥さんが、ごみと間違え燃やしてしまうという悲しいことになっていました。

※鹿児島市の城山にある西郷隆盛像と忠犬ハチ公像(初代)を手がけた安藤照氏の母方の実家が
北原家になります。(忠犬ハチ公像(2代目)を手がけたのは息子の安藤士氏)

(「明治維新150周年まであと2年!薩摩アフタヌーンティーパーティ」というイベント内で
あった「薩摩の楽器「天吹」700年で知る島津の歴史シンポジウム」での話より)



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 09:14:27.63 ID:JKeteUbK
>>312
なんというまさにちょっと悪い話
やっぱお宝というものはものものしい器に収めとかないと駄目ってことね

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 17:02:34.45 ID:865MJPbR
>>312
せっかく拾った命を捨てた過ちを燃やして浄化されたのだ

女性だけが参加できる神事「持明祭」

2016年11月05日 17:33

亀寿姫   
294 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/04(金) 22:04:09.52 ID:tmdEyaJP
DQN四天王を祭る神社
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3329.htmlでは、
> 島津忠恒…鶴嶺神社(鹿児島県鹿児島市)
と書かれていますが、鶴嶺神社の御祭神は忠恒だけでなく
初代薩摩大隅日向国守護職、島津忠久公はじめ島津氏歴代の当主とその家族、玉里島津家の当主と
その家族で、従神は(忠恒の)家臣五名と殉死者四十五名の大所帯です。
鶴嶺神社は島津氏歴代当主の菩提を弔っていた福昌寺が廃仏毀釈の憂き目にあい、その代わりとして明治2年11月に
29代当主の島津忠義が鹿児島郡坂本村山下鶴峯(現鹿児島市照国町)に祖先を祀る神社を創建しこれを竜尾神社と
号したのに創まります。(大正六年に現在の場所 (鹿児島市吉野町)へ移された)
特に16代当主義久の三女である亀寿姫(持明院様、じめさぁ)を祀る神社として有名で、多くの女性が参拝に訪れます。
(鶴嶺神社で分けていただいた紅でお化粧をすると女児が美しく育つ、またはお参りすれば美しい女性になれると
いう言い伝えがあります)
亀寿姫が亡くなったのが1630年(寛永7年)十月五日なので、毎年月遅れ命日に当たる11月5日には
女性だけが参加できる神事「持明祭」が行われます。
(以後の文章は2015年に「持明祭」に参加した知人の話と地元テレビのニュースを参考に書いております)

まずは、神社に隣接する尚古集成館で学芸員さんによる、持明院様に関する歴史講座があります。
内容は、「豊臣秀吉に人質として捕えられているとき、亀寿姫が本当に義久の娘か、と疑われた際に、秀吉側の人から
脅されてもなお落着き払った態度を示し、その美しさも相まって、本物に違いないとされた」
「鹿児島市立美術館にある石像は亀寿姫ではない」
(参考 ジメサア http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10253.html
「家久(忠恒)とは仲が良くなく実子には恵まれなかったが、19代当主になる光久の後見となった」などです。

次に日本の伝統文化である(唯一の紅屋の紅ミュージアムの方による)「紅」の講座です。内容は
「原料には、山形県産の最上紅花を使用し、咲いた紅花の花弁を摘み取り、「紅餅」に加工してから紅屋などに卸されます」
「紅匠(紅職人)は、幾工程もかけて紅餅から純度の高い赤色色素を取り出し、長年の経験で培った熟練の勘で、玉虫色の
紅を作り上げます」
「玉虫色の紅を下唇に重ね塗りし、緑色(笹色)にする化粧法「笹紅(ささべに)」が文化文政(1804-1829)の一時期に流行」
「現在紅匠は男性二名のみで、工場は女人禁制です」などです。

次に鶴嶺神社の拝殿に移動し、持明院様の神事に参列して、美と健康を祈願します。
島津家の神事なので、神事には現在の島津家当主の島津修久氏も参加されます。
(女性の為の神事なので拝殿に入る男性は神主さんと島津修久氏だけで、スタッフの方とテレビ局の人は外で待機です)
(拝殿には壁がないので神事の進行やテレビ撮影に不都合はありません)

その後は、隣接する仙巌園に移動し美容と健康をテーマに旬の食材をふんだんに使った限定御膳「美人御膳」を食べて
終了となります。
(「持明祭」に参加した人には紅が入った紅御守と持明院様絵馬が授与されます)

※「紅」の講座が行われているのは、紅屋の人が観光で仙巌園を訪れた時に持明院様の話(持明院様が祭神の鶴嶺神社で
分けていただいた紅でお化粧をすると女児が美しく育つ)を知り仙巌園に企画を持ち込んだそうです。

296 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/05(土) 18:58:47.58 ID:gMaZk05K
294の追加
鶴嶺神社は明治以降ですが、江戸時代には島津家の敷地内に持明院様
を祀るお社があり、島津家の女性がよく詣でていたそうです。
また亀寿姫に所縁のあるお寺にも(江戸時代から)多くの女性が
詣でていたそうです。


295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/05(土) 17:45:26.35 ID:QVN5kFO/
>>294
結構新しいんだな

ジメサア

2016年09月29日 12:08

亀寿姫   
134 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/29(木) 09:58:51.10 ID:UKcAPjuH
鹿児島市の西郷隆盛銅像の裏手、鹿児島市立美術館(鹿児島城(鶴丸城)二の丸跡)の一角に「ジメサア」と呼ばれる
お化粧をした変わった石像があり、毎年十月五日前後の日にお化粧が行われるのが恒例行事となって、その様子は
地元のテレビや新聞でも毎回報道されています。
案内板には「この石像は、島津家18代家久(忠恒)の奥方持明夫人像『ジメサア』の名で親しまれています。
持明院様は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が尊敬され、人々は
『器量はすぐれずとも、心優しく幸せな家庭を築いた』夫人の人柄を慕い、毎年10月5日の命日には、この像に
おしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるようにおまいりするならわしが残っています。」と書かれています。

この石像にはこんな話があります。(文中の家久を忠恒に変えた以外は原文ママです)

持明の方(ジメサー)
鶴丸城のあと、二の丸に市の美術館がある。庭のかたすみ、こんもりとしげった木の下に女の顔をほった
大きな石がある。まっ白な顔、黒いまゆ、口べにのついたくちびる。
そこにはいつも色とりどりの花がそなえられていて、通りすぎる女の人が、その顔をなでていくのを見かける。
さて、この石にどんな話がかくされているのであろうか。
話は、今からおよそ四百年以上のむかしにさかのぼる。
島津第十六代藩主義久のむすめは、十八代の忠恒に持明の方(ジメサー)として縁付いた。
ある朝、持明の方が鏡に向かって化粧していた時、通りかかった忠恒が、「その顔で・・・」とあざけった。
持明の方はいろいろなやんだすえにとうとう自殺してしまった。忠恒も後悔してみたが、今となってはどうにも
ならない。それで、墓を福昌寺にたててとむらった。
ところがある晩、寺のおしょうさんの夢に「ここにはいたくない。わたくしを二の丸にかえしてくれませんか」と
持明の方がでてきた。おしょうさんはおどろいたが、そのとおりにするわけにもいかないので、大きな石を
錦江湾から引き上げてきて、女の顔をきざんで二の丸にすえて供養した。
ところがまた夢で、「もう少し私の顔を美しくしてくれませんか」という。それで城の女の人たちが、おしろいなど
を毎日ぬってやったら、もう夢にはでてこなかった。
そこでこの顔をなでると、顔が美しくなり、きれいな女の子がうまれるといわれるようになった。
(「鹿児島の伝説」 昭和五十二年発行より)

いろいろとツッコミどころのある話ですが、この話の一番のツッコミどころは
「この石像は、持明院(亀寿)の石像ではない」というところです。
島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」と歴史作家の桐野作人氏が再三
違うと言ってるのですが、未だに「持明院(亀寿)の石像」として伝わっています。
尚古集成館側と桐野作人氏の説明では、あの石像は大乗院(現・鹿児島市稲荷町・清水中学校)にあった
「白地蔵」と呼ばれていた石像だそうです。
江戸後期の紀行文「鹿児島ぶり」では
「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉をぬるなりと云う」
と書かれています。
この石像が大乗院から現在の場所に移ったのははっきりしませんが、明治以降から戦後すぐあとではないか
と推測されています。
石像と亀寿と結びつけられてしまったのは、亀寿が大乗院に本尊の千手観音をはじめ、勝軍地蔵、毘沙門天
や経典などを寄進したという由緒と関係があるのではないかといわれています。

亀寿の容姿について、尚古集成館側は美人説、鹿児島市立美術館の案内板には不美人説が取り上げられて
いますが、世間一般には不美人説が強いらしく天文館アーケードに無料配布してある「天文館史跡めぐりマップ」
には鹿児島市立美術館の案内板と同じ内容が書かれていて、アーケード内の数箇所にマップが張られています。

※美人説・不美人説について桐野作人氏は「どちらの説も確証が得られていない」とおっしゃってました。

さつま人国誌「再考・ジメサアの由来」
http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=423




一年に一日だけの臨時駅 ~「心岳寺参り」~

2016年07月28日 09:33

992 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/27(水) 23:20:11.45 ID:FxsOh3OW
一年に一日だけの臨時駅

天正二十年(1592年)七月十八日、島津歳久、帖佐郷竜ヶ水(現在の鹿児島市吉野町平松)にて
自害す。享年五十六歳  戒名 心岳良空大禅伯
歳久の首級を確認した義久は号泣したという。
遺体は帖佐の総禅寺に埋葬され、義久は秘かに歳久の廟を島津家の菩提寺福昌寺に建て、
墓を同寺内の恵灯院に建てました。(現在、福昌寺の貴久の石塔の後方に歳久の石塔がある)
秀吉が没した後の慶長4年(1599年)に義久によって歳久の最期の地に菩提寺が建立され、
歳久の戒名の一部を取って曹洞宗滝水山心岳寺と号された。
歳久の命日には参拝の人々が多く集まり(「心岳寺参り」)島津忠良所縁の「日新寺参り」、
島津義弘所縁の「妙円寺参り」共に心岳寺に詣でることが大流行した。それぞれの命日に
それぞれの菩提寺に詣でるこの習慣は「鹿児島三大詣り」と呼ばれた。
「鹿児島三大詣り」は、実際は「お参り」というより鹿児島から夜を徹して長距離を徒歩行軍し
目的時間に到達する「軍事教練」に近いものであり、特に心岳寺への道は江戸時代までは
海岸沿いの街道(磯街道、現在の国道10号)及び鉄道(日豊本線)は全く無かったために
西側の裏山から断崖絶壁を下るという厳しいものであった。
(明治3年(1870年)に寺号を廃して神社へ改め、平松神社となる)

1908年(明治41年)「心岳寺参り」へのアクセス目的として、その日だけ使用される「心岳寺駅」が
重富駅 - 鹿児島駅間(現在の重富駅 - 竜ヶ水駅間。当時竜ヶ水駅は未開業)に設置された。
大正元年八月十九日付の鹿児島新聞には、
「十七日夜の客車は一回平均十一台を連結し、最も多く連結せしは、十一時三十分の
十五台なり。午後三時半頃より小児と老人多く、一般拝客は午後九時、十時最も多かりしと、
当夜の乗客は六千六十人・・・」
露店が数十軒並び、「猫も杓子も集まり、幅広き街道が身動きだもならず」
警察も「警視以下二十五、六人」整理にあたった。と当時の「心岳寺参り」の様子が記されている。
(また当日は垂水丸という船が鹿児島、平松間を一晩中往復運航していて、船首から船尾まで
電灯で飾られ満員状態、国道10号線は往く人帰る人の行列の波だったそうです)

歳久は「戦の神」として祀られた一方、「安産の神」としても信仰されていましたが、戦後は
「戦の神」いう側面がなくなり、心岳寺詣りが急速に衰退すると駅の利用客も激減したため、
1967年(昭和42年)に廃止されました。
(「島津歳久の自害 増補改訂版」「昔の鹿児島―かごしま 新聞 こぼれ話―」など)

「心岳寺参り」も行われなくなってしまっていたが、これを惜しみ伝統行事及び青少年鍛錬として
心岳寺詣りを山下りも含めて復活させようという試みも近年出てきています。

「心岳寺詣り」(平成23年11月23日開催)を紹介します!
http://archive.is/wl1i#selection-1171.0-1171.29 



993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 07:50:45.52 ID:N+kdMWZx
自害理由:秀吉に謀反を企てたと思われたから
ってのも書いたほうがわかりやすいような

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 09:23:11.61 ID:U/gwoNap
お寺詣りというのが、戦後の日本でずいぶんハヤっていたんだな。
連想した他のお寺詣りの宗派についてはここでは言わないけど。

島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し

2016年06月30日 16:04

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/30(木) 00:04:29.52 ID:3X+PEQ8D
伊達政宗が金箔の十字架背負って上洛したのは有名ですが、それより先に金箔十字架背負って
秀吉に降伏した人がいるのをご存知でしょうか?

上記の話は、うっかり戦国漫画かいこ様サイトで知ったことですが、「逸話文庫」という本に載っていて

伊達政宗、奥州一揆の時、秀吉の疑を受け、金箔打ちたる磔柱を荷はせ、上京せしと云ふ。よく人の知る所なり。
然るに是より先き秀吉九州を征せし時、島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し
『若し赦さゞる時は此の磔の木にかゝるべし』と云へる由、南海道記に見えたり。(逸話文庫)

南海道記を探してみたのですが見つからず、この話の出典元はわからなかったのですが、
島津家に関する展示があるところで九州征伐での黒田如水の紹介文に
「黒田家の記録に島津義久が金の磔木を持ち、秀吉に降伏したことが書かれている(後略)」
とあるので、学芸員の方に聞いてみると、
「この話は黒田家譜に書かれていて、初出も(おそらく)黒田家譜です」と言われました。

島津義久髪をそり、墨の衣を着して、名を隆伯と号し、磔木を金みがきにして眞先に持せ、
太平寺に行て秀吉公の陣へ降参し、その罪を謝す。(原文ママ)
若御憤ふかく、御免有まじく候はゞ、此磔木かゝり申べき為、持せ参て候と申上ける。
秀吉公是を感じ給て、其罪をゆるし、却て御懇意を加へらる。(黒田家譜巻之四)

教えていただいた学芸員の方に「何故このようなことをしたのでしょうか?」と聞いてみると
あくまで個人の考えですがと言われた後、
「薩摩は海外の貿易が盛んだったので、金の磔木を見せることでそのことを豊臣方に
思い起こさせ、降伏を認めた方が(豊臣方の)得になると思わせようとしたのでは」と・・・

義久だと違和感あるから、やっぱり金箔十字架は伊達政宗の方が似合うな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 16:04:13.10 ID:sv5Jc6ie
>>784
島津の家紋が十字だしただの偶然?でも宣教師九州に多いし知ってて当然か。
政宗がこれをまねしたのかな?

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 16:21:18.83 ID:O2r7q+WV
まさむねが初めてじゃなかったんだね

情けある事である。

2016年06月10日 13:09

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 21:51:54.21 ID:WhuxB23e
豊臣秀吉の九州征伐の結果、伊東祐兵が飫肥を拝領し日向に復帰すると、山田匡得は早速、
豊後から祐兵の元に帰参した。

この山田匡得の妻子は、伊東家が日向を没落した時、薩摩軍の捕虜となったのであるが、島津義久

『名のある武士の妻子である。疎略に扱ってはならない。』

と、自らの殿中において召し使っていたのであるが、匡得が豊後より日向に帰った聞くと、
義久はこの妻子に金銀衣服を与え、匡得の元に送り返した。
情けある事である。

(日向纂記)



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 23:22:12.47 ID:uF7Wiswo
>>820
疎略じゃなくても結局召し使うのか?

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:12:36.79 ID:QvQElJKz
>>822
召使っていれば自分の目が届きやすいだろ。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:27:35.35 ID:5eiexPJT
粗略に扱うのなら牢屋にぶち込むか南蛮に売ってる

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 12:34:17.77 ID:dsKdPzyC
>>822
わしの女扱いしておけば部下が手出しができないだろ
さすが島津公!

ふらずはいかで 天が下とは

2016年06月10日 13:08

821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/09(木) 22:12:46.34 ID:JQnODw8/
慶長九年(1604年)の夏の初め鹿児島では月を跨いでも雨が降らず水が枯れて民が非常に難儀しているので
島津義久が早鈴神社に詣でて、
「五月雨は 雲重なりて 日比ふれ なへて早苗の うるふはかりに」
「山廻る 雲の誘はば 雨をちて 大御田小田の 早苗うるほせ」
と雨乞いの祷をこらし詠せ玉ひけるところ、即日盆を覆すが如く大雨が降り旱魃を免れることが出来た。
是より、この所の民は此御歌を短冊に写し、旗の端につけ、金鼓を鳴し舞踊をして祈祷すると
雨降らずということなく、寛政九年(1796年)夏より雨少なく民苦しむ時にも、この詞で雨乞いすれば、
即座に雨が国分一郷に悉く降り二百年以上旱魃の憂いはなし。
(文化六年(1809年)には義久の雨乞いの様子が書かれた雨乞いの碑が建てられる)
また、国分城に居住の頃(慶長九~十六年)も雨乞いを行っており、大穴持神社にて
「てるとても ことわりなれや 日の本に ふらずはいかで 天が下とは」
と和歌を奉納してます。
(「鹿藩名勝考」「国分の古蹟」「広瀬の歴史資料」)

利根川のダム貯水率過去最低と聞いたので水不足解消祈願で



826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/11(土) 14:08:18.02 ID:HS/lanIb
>>821
    伊奈忠次
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 水がないなら引けばいい
    (つ  丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/11(土) 14:23:39.20 ID:nCt3Ho3I
藤堂高虎「水が無いならため池いっぱい作って貯めよう」

彼は義士である

2016年05月27日 17:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 21:05:11.45 ID:Fuik+Qgj
天正6年7月6日、島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、伊集院忠棟を大将に大軍を
送ったが、石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、島津勢は500が負傷、
また多くの討ち死にを出し終に撃退された。

同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、さらなる大軍を以って
再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、
講和を受け入れ城を開城することと決まった。

講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。主従の礼を取ろう、ということである。

しかし長倉

「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」

そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。

この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、義弘はそれを制して
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に

「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」

「豊後へ。」

そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。

(日向纂記)



「しずのおだまき」

2016年05月12日 14:37

612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/05/12(木) 14:21:46.75 ID:2HZR3jHL
薩摩には「しずのおだまき」と題名のある本が2冊あり、そのうちの一冊は「賤のおだまき」
「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次(槍の達人)と、文武両道に秀でた吉田大蔵清家
(清盛ともいう、弓の名手)の男同士の愛の契りの物語である。
時代は関ケ原合戦の前年の慶長4(1599)年、島津家の筆頭老中だった伊集院幸侃が島津忠恒に伏見で上意討ちにされたため、
幸侃の嫡男忠真は都城を中心とする庄内12城にこもって反旗をひるがえした。庄内の乱である。
三五郎と清家はともに12城のひとつ、大隅財部城を攻める軍勢に加わった。出陣した2人は帖佐のあたりで辻堂のそばを通りかかり、
その柱に「共に庄内一戦旅(いちせんりょ)に赴く」と筆で書き、ともに千に一つも生きて帰らじと誓った。
庄内へ出陣の途中に門倉薬師堂(現在は醫師神社(いしじんじゃ))に立ち寄り兵士たちが堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。
そこへ遅れて平田三五郎と吉田大蔵が通り、2人も堂へ筆を入れた。しかしすでに堂には平田三五郎が筆を入れる隙も無く
吉田大蔵に抱えられ、堂の高い所に辞世の句を残した。
平田「書置くも 形見となるや 筆の跡 吾れは何処の 土となるらん」
吉田「命あれば 又も来てみん 門倉の 薬師の堂の 軒の下露」
 財部で2人は一緒に戦っていたが、ある日、乱戦のなかで離れ離れになってしまい、三五郎は清家の討ち死にを知らされる。
清家の遺骸をかき抱いて号泣した三五郎は「今は力なし、合戦に隙(ひま)なふ(なく)して後れしこと無念なれ、今生の対面是迄なり」
と告げると、馬にひらりと打ち乗り、敵陣に駆け入って古井(こい)原で討ち死にした。三五郎は清家との愛に殉じたのである。
この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。「本藩人物誌」は三五郎を
「時に十五歳にて卯花威(うのはなおどし)の鎧を着せると云々」、清家についても「慶長四年庄内乱ノ時於財部戦死二十八歳」と、
それぞれ記している。また「殉国名薮抄」という庄内合戦の戦死者名簿には、11月28日条に清家と三五郎の名前が並んで出ていることから、
2人は同日に亡くなったことがわかる。
2人の討ち死には島津方の間で静かな感動を呼んだらしい。歌詠みとしても知られる新納忠元も庄内合戦に出陣したが、
三五郎の死を聞いて「かれは無双の美童なり」と哀傷し、一首を手向けている(「盛香集」)。
「きのふ迄誰か手枕にみだれけん よもきが元にかゝる黒かみ」
(昨日まで誰かの手枕の上で乱れていた黒髪が、いまは荒れ果てた陣所に(遺髪として)かけられていることよ)−という大意だろうか。
 忠元が詠んだように、薩摩武士にとって衆道は不道徳なものではなく、士道の精華として称揚された面もあった。
その理想像こそ三五郎であり、二才たちの間で三五郎に仮託される形で遺風が伝わったのかもしれない。 
(さつま人国誌、薩摩琵琶歌の形見の桜など)

「賤のおだまき」は森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」にも登場しております。
「賤のおだまき」が明治17、8年に「美本仕立て」で出版されたが発禁になったことがその当時の新聞に書かれています



【ニュース】島津義久から琉球国王の書状、伊予にて発見

2016年04月14日 18:51

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 16:08:34.38 ID:7lW748pB
島津義久から琉球国王の書状、伊予にて発見される。

 島津義久が天正18(1590)年に尚寧に宛てたとみられる書状が、愛媛県伊予市の個人宅で発見された。
 
 豊臣秀吉の関東平定を伝え、祝いの為に上洛するよう促す内容。義久の書状を研究する東京大史料編纂所の黒嶋敏准教授(日本中世史)は「同時期の他の文書で使っている義久の花押と同タイプで、原本と確定できる」と指摘している。

 書状は縦約33センチ、横約45センチの斐紙(ひし)に筆書きで「日本天正拾八年仲秋廿一日 修理大夫義久」と記され、義久の花押と朱印がある。
 宛名は「琉球国王」としてある。

 書類がどのように愛媛に渡ったのかは不明。黒嶋准教授は、明治には書状が愛媛にあったと示す記録が残っているという。史料編纂所に残る記録では「下浮穴郡役所所蔵文書」と紹介。
「下浮穴郡役所」は明治の一時期、現在の松山市森松町に置かれた後で合併し「伊予郡下浮穴郡役所」となった。
 当時、全国各地の史料を収集していた修史局(現・東大史料編纂所)の1888年の記録にも、「下浮穴伊予郡役所」から義久が琉球国王に宛てた書状1通を複製作成のため持ち帰ったことが記されている。
 その後、修史局が編纂した古文書複製本「史微墨宝 第二編」(89年)にも収録され、薩摩藩の兵が1609年の琉球侵攻の際に奪い取り、その後、伊予の人の手に渡ったのかもしれないとの旨の推測も記載されている。
 書状は東京で複製を作成した後に返却されたが、長らく所在不明だった。
 今春、松山大の山内譲教授(日本中世史)、伊予高の柚山俊夫教諭(伊予史談会常任委員)らが書状を確認。写真を黒嶋准教授に送り、鑑定を依頼した。

 黒嶋准教授は「薩摩が琉球侵攻した1609年以前で、島津家当主から琉球王国への書状の原本が残っている例はなかった。今回見つかったのは大きな成果だ」と評価している。

 書状発見を受け、伊予市文化協会と市教委は16日午後2時から、市中央公民館で黒嶋准教授を招き講演会を開く。演題は「琉球王国と豊臣秀吉―『下浮穴郡役所所蔵文書』の歴史的意義とは」。

 http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20160413/news20160413231.html
(愛媛新聞ニュース)



587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 07:01:52.08 ID:xBj0KzN9
学者さんも史料を研究目的で強奪していくんだろ(´・ω・`)

588 名前:sage[] 投稿日:2016/04/14(木) 12:01:32.74 ID:45ebjxff
 この場合は複製作成後に返却してくれたみたいですけど、悪質な相手だと本物ではなく複製した方を持ち主に返したり、もっと悪質だと借りたまま返さない場合もあるそうですね。

楊貴妃

2016年04月01日 11:34

542 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/31(木) 22:01:32.29 ID:ItdhJ63t
楊貴妃

侏儒どん(徳田大兵衛)が地頭を務めている日当山は、神代にまで遡る(※)といわれる鹿児島最古の温泉地で、
侏儒どんが地頭になった頃は、混浴のところがありました。
そこで侏儒どんは混浴は風紀上よくないから、男女別々にするように、皆と話し合いました。
これには「地頭さあは無粋なお人じゃ」との声も出ましたが、結局混浴はしないことになりました。
が、混浴を止めたら、のぞきが増えた。
毎日のように女性たちから侏儒どんに
「なんとかしてほしい、これではゆっくり温泉に浸かれない」という訴えが続きました。
侏儒どんはいろいろ考えた末、一策をあみだし、鹿児島まで買い物に出かけました。

数日後、侏儒どんは二、三十人の若者たちを集会場に集めました。
「では皆の衆、暑いから扇子でも使いながら、これから面白く涼しい話でもしようではないか」
侏儒どんは鹿児島で買ってきた扇子を一本ずつ配りました。
若者たちは怒られるのではないかと、はらはらして集まったのに、案外くだけた様子にホッとしました。
「ところで皆の衆、温泉といえば有名な楊貴妃を思い出すのではないか」
「楊貴妃とは誰ですか?」
「楊貴妃を知らなかったか。彼女はのう支那の玄宗皇帝のお妃で絶世の美人だったのじゃ」
「へえーそげな美人ですか」
「うむ、その楊貴妃を讃えた詩に“温泉水なめらかにして凝脂を洗う”というのがある。
楊貴妃ほどの美しい人の入浴姿は、さもあるべしと想像されるのう」
「地頭さあも、そんなことを思われますか」
「そりゃ、俺も男じゃからよ。その楊貴妃が温泉からあがった時の姿を書いたものの中に、
楊貴妃が扇子をもって前部を覆っている姿があるのじゃ」
若者たちは、それぞれ手に持っていた扇子を、何か意味ありげに見るのでした。
侏儒どんは続けて、
「あちらでは、薩摩のように手拭などで前を隠さないで、扇子を用いるのが習慣となっているのじゃ」
「へえーそんなに扇子が多いのですか」
「うむ。一般に支那では扇子は紳士淑女の嗜みとして、かねがね持っているのじゃ。それは孔子様の
教えにもあるとおり、君子が見るべからずものを見た時、例えば婦人の裸体姿をうっかり見た時、
扇子で自分の顔を覆い隠して、見ないようにしているのじゃ」
「地頭さあ、要するに教養の問題ですなあ」
「そこじゃよ。気づかれたか」
「はい」
「節穴からのぞく下品さと、扇子の隙間からちらっと拝む上品さと、それだけの違いじゃよ」
「よくわかりました」
「はっはっは、その扇子は一つずつ持って帰りなさい」
(日当山侏儒どん物語)

のぞきをする若者たちに、作り話で諭す侏儒どんのいい話

※日当山の伝承では、イザナギとイザナミの二神が足の立たない蛭子命を天磐橡樟船(あまのいわくすのふね)で
 流し、この地に送り療養させたといわれる。

 日当山のすぐ近くには、蛭子命がついたとされる場所に、蛭兒神社(大隅国二之宮)があり

 蛭子命が流された時使われた「水棹」が活着したと伝えられる珍しい「金筋竹」も境内にある。



命名「猪之助」

2016年02月24日 15:46

369 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/23(火) 23:42:22.80 ID:7TVfVt9h
命名「猪之助」

慶長四年(1599年)島津忠恒が伏見で伊集院忠棟を手討ちにしたことが発端となる庄内の乱。
乱が始まると島津勢は地理がわからず、島津義久の命令で家臣が猪狩りの名人で
山道に詳しい前田利之助の元を訪れ道案内を頼みましたが、
「私は伊集院家の家臣、有難いことではありますが・・・」と断ります。
それでも家臣が是非と頼みますので、利之助の兄の意見を聞いてみますと、
「前田家は島津様に恩になった家、有難いことだ」と言うので、道案内を引き受けました。
戦が終わり、義久は利之助を呼びその武功をほめ、利之助に「猪之助」の名と土地を与え
猪之助の姿絵を島津家の菩提寺の福昌寺に納めたといわれています。
(市報こくぶ昭和62年11月1日号)

権現様ごめんなさい。
手負いの猪が家康に向かって突っ込んできた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6588.html

権現様の名付けは安直な上に普通のネーミングと思ってましたが
義久の名付けを見てこんな時は直球な名付けをするものだとわかりました・・・



島津義弘と道案内役

2016年02月17日 18:17

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 00:29:18.18 ID:OUAq51ED
島津義弘公の決死の関ヶ原敵中突破の後、
道案内役として拉致された文右衛門(恐らく正しくは又右衛門)さんなんだけど、どうやら堺まで一緒だったようです。

後日談があって、慶長16年夏、義弘公77歳の時にわざわざ大隅国加治木まで訪問して再会していたりします。
文右衛門さん曰く、ご存命のうちにもう一度お会いしたかった、とのこと。
もちろん義弘公も大喜びして大歓迎。
関ヶ原の思い出話に花を咲かせて、さらにその後もあの時のお礼と言わんばかりに宴三昧、ご褒美をたくさん与えたようです。

なおこの文右衛門さんですが、どこの国で苗字は何なのか、正体不明のままです。
大小の刀を差していたことから士分であったことは間違いないようですが。

素性がバレて義弘公の逃亡を手伝った罪に問われる事を防ぐため、島津家なりの配慮なのでしょう。

ただそれが敵中突破後の退却路がよく分からん、という結果にも繋がっているのだと思います。

関ヶ原後日談に見る、身分違いも気にしない義弘公とその戦友の良い話。

(帖佐彦左衛門宗辰覚書)



鬨の声、といえば

2016年02月15日 13:53

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 09:41:17.09 ID:IiHzuNCP
鬨の声、といえば悪久か誰か、島津の藩主が狩りをしていたところ
部下の一人が声を立ててしまったために獲物が逃げてしまった
怒った藩主は「今度獲物がいる時に声を立てた者は打ち首にするぞ!」
とののしり、狩りを続行。
ふたたび獲物を見つけたため、藩主が捕らえようとしたところ、なんと部下全員が
「オー!!!」と鬨の声をあげ、獲物は逃走。
藩主が「打ち首にするぞ!と言ったのを忘れたか!」
と罵声を浴びせるが、部下たちは
「島津の兵たるもの、打首が怖くておとなしくしていられましょうや!」
と答えたという。




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 13:08:38.90 ID:jxx97yxz
>>316
馬鹿ってことだな
そりゃ厳しすぎる罰則がいるわな島津は

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 15:53:50.79 ID:UTAvUVaC
面目第一の武士にこんな事を言う方が間違ってるわな


360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 23:32:39.62 ID:ftniuCPl
>>316の鬨の声について薩摩の話を書いた者だけど
元ネタの海音寺潮五郎の「史談と史論」上を読んだら、
元々は「甲子夜話」が出典らしくて、それを調べたら

海音寺潮五郎は「巻狩」と言ってたのに、甲子夜話では実は「軍事演習」で、鬨の声を上げたんじゃなくて銃を撃ってた、
つまり、軍事演習の際にたまたま部下が銃を放ったのに怒った薩州侯が
「今のは大目に見てやるが、今度やったら打ち首だぞ!」と言ったのに、
その後、数十人が銃をぶっ放して
「大目に見てくださったのはありがたく思いますが、打ち首だぞと言われておとなしくしていたのでは、
打ち首が怖くてぶっ放しなかったと思われて本意ではありません」
とわざと銃をぶっ放した、て話だった

おそらく甲子夜話の作者、松浦鎮信と同じ頃だから悪久ではないと思われ


361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 06:06:10.17 ID:KQQNOvRt
配下としては、三河武士とどっちが扱いにくいかな…

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 11:23:52.87 ID:3/pga4/H
どっちもヤダ

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 15:29:04.61 ID:kpw11bYQ
三河武士

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 00:52:02.94 ID:WGYlcrB4
犬のように忠実な三河武士と言われるけど
隙を見ては主人にも噛みつく狂犬

侏儒どんの年齢

2016年01月30日 17:45

230 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/29(金) 19:34:58.61 ID:9p1svj2Z
侏儒どんの年齢

侏儒どん(徳田大兵衛)は小男のうえに、いつも朗らかな性格であったので、いつまでも若々しくて
年取った様子が見られません。
それでいつも人が集まると、侏儒どんの年齢が話題となっておりました。
ある十五夜の月見の宴の席上で、また侏儒どんの年齢が話題になりました。
「どうにかして侏儒に年齢を言わせてみようじゃないか」
「よかろう、しかし簡単に言うような奴じゃないな、どうやって言わせるかな」
良い方法がないかと一同協議を始めますが中々良い案がありません。
やがて殿様(島津忠恒)が、
「よし、俺に任せておけ、俺が言わせて見よう」
そこに丁度折りよく侏儒どんが入ってまいりました。
「侏儒よいところに来た。今お前の年齢が問題になっているが歌で答えられるか?」
かねてから負けず嫌いの侏儒どんのこと策に乗せられるとも気付かず、即座に
「暗の夜の梨の梢に虫が寄り、今宵の月には波は引くなり」
と声高らかに口ずさみました。
一同は何が何やらわからずポカンとしております。やがて殿様が
「侏儒!!そんな歌ではわからないではないか」
「わかりませんか、さてさて・・・」
侏儒どんは仕方がないと云わぬばかりに説明を致します。
「暗(八三)の夜(四)の梨(七四)の梢に虫(六四)が寄り(計三十六)、
今宵の月に(十五夜で十五、合計五十一)そして波(七三)は引くなりで、
五十一から七三(十)を引いて実際の年齢は四十一歳でございます」
これには一同、大爆笑、大拍手
(日当山侏儒どん物語抜粋五編集)



231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 01:28:37.70 ID:rSbT1qMA
そはだいよw
いっと知らんがおw

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 09:04:34.70 ID:vzsMFvWl
>>230
こんなんあらかじめ準備してたんじゃね?ってレベルですごいわ