西江左足のきゝし

2017年09月05日 17:28

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 10:20:51.55 ID:aCPiblhV
西江久右衛門という者が島津中納言(忠恒)に仕えていたある時、忠恒が家来を叱りつけ、
その脇に西江が平伏していた。

叱責をしている内に忠恒の目の色が変わり、この者を手討ちにしようと考え、刀を抜こうとした、
しかし叱責されていた者もこれを見て、身を沈め刀に手をかけた。

この時、脇に居た西江はとっさに、この者の刀のこじり(鞘の末端部分)をそっと持ち上げた。
このためこの者が前に倒れた所を、忠恒が手討ちにした。

忠恒はこれを感じ入り、「西江は左足がきく(西江左足のきゝし)」と賞賛した。
左足で刀の鞘を持ち上げたのであろうか。

忠恒はこの手討ちの時、顔色いささかも常と変わらなかったとのことである。

(士談)



96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 10:44:07.14 ID:UYv4oUVb
基地外すぎるw

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 12:12:14.33 ID:JxXPtsVL
>>95
さすが島津…w

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 15:29:07.38 ID:K7LHrv19
平伏状態から左足?
例えじゃないのか
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祁答院河内守良重、妻に殺されること

2017年07月08日 21:05

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 20:37:56.91 ID:PrBVm7dg
城巡りをしている鹿児島の親戚が「鹿児島には夫を殺した怖い姫様がいる」と言ってたので調べたらこんな話があった。
薩摩藩の「本藩人物誌 国賊伝」より
祁答院(けどういん)河内守良重、妻に殺されること

祁答院氏は渋谷氏の一族であり、良重は13代当主で妻は島津薩摩守(島津家の分家)義虎の姉。
「人となり驍勇にして能く強弓を引く」
入来院、東郷、蒲生等と徒党をなして数年島津貴久公に叛いていた。
蒲生氏が島津の加治木城を攻め、島津貴久が良重の籠もる岩剣城を攻めたところ、
良重の嫡子重経が蒲生軍とともに2千人を引き連れて、貴久と戦うが戦死。
岩剣城が陥落したため良重は逃亡、帖佐城、祁答院と落ち延び、蒲生や東郷とともに再起を図るが
島津貴久軍に敗北。

永禄九年正月十五日、良重夫人の為に殺せらる。
良重、生来放逸荒淫。夫人、その所業を諌めれども用いず。
ここにおいて、この夜酒を勧め酔い伏したるを夫人、手ずから良重を刺殺す。
この時良重が小姓、村尾亀三、左右に宿直す。
則ち屏風を以て夫人を押さえ、また刺殺す。
ここに至りて祁答院氏滅ぶ。享年四十一。祁答院の所領悉く入来院重嗣の有となる。



943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/09(日) 22:20:50.89 ID:1EgqCX8r
>>938
小姓の村尾亀三は後に義久公に召し上げられ、元服後は村尾源左衛門と名乗る。
(祁答院記)
元服後、村尾源左衛門と名乗り、入道の後は笑清と名乗る。義弘公の下高名
を得る。(宮之城記)
祁答院良重についてこんなサイトを見かけました。
秋津島舞(アケスメロ)(鹿児島県さつま町)
http://www.senjudou.com/blog/ppBlog/index.php?UID=1377062519

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 22:32:02.21 ID:XNinJIxW
貴久、義久に通じていた村尾が二人を殺して
「夫人が良重様を殺したから自分が夫人を討ちました」
と偽装工作した、てことだったりして

皆さん歯を大事にしましょう。

2017年06月24日 18:43

54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/24(土) 18:19:04.41 ID:s9WvoSYg
鹿児島県鹿児島市にある松原神社。松原神社は、天文館という鹿児島で一番の繁華街にあります。
ここは島津家の15代当主
島津貴久(靖國崇勲彦命(クニムケイサタカヒコノミコト))を、主祭神として祀っています。

かつて、このあたり一帯に、名刹・曹洞宗福昌寺の末寺である松原山南林寺がありました。
南林寺は、弘治二年(1556)島津家15代貴久によって建立され、大いに賑わっていたといいます。
貴久の死後天正十年に義久が南林寺を貴久の菩提寺に定めました。
明治二年(1869)の廃仏毀釈によりとりつぶされ、翌年、跡地に松原神社が建立されました。

松原神社には他にも戦国武将が祀られております。その人物について、神社内にある、
鹿児島県歯科医師会によって建てられた説明板には、次のように由来が書かれています。
「祭神は島津貴久公の臣 平田純貞 元亀二年(1571)三州平定途上、急死の主君の無念を思い出家諸国を遍歴、
元亀四年亡君命日六月二十三日殉死の作法に従い、うつろ舟に乗り蓋を釘付けに海に流させた。読経歯ぎしりの音、
三昼夜壮烈な殉死をげた。遺体の歯は抜けていた。当時歯痛に悩む人は自分で歯を抜いていたが、
自然に歯が抜けた純貞は、歯の神様と崇められるようになった。」

また、別の説として、鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)では次のように記載されています。
「島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、
九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く
統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛は
あるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。」

なお、うつろ舟については、次の資料を見つけました。
「空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、
その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、
万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。」

純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、
これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。
その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社が
その西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというの で早速これを西向に改めたところ、
忽ち天地が元のように晴朗になったという。
何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。

鹿児島県歯科医師会では、1960年頃から毎年6月4日に松原神社で”抜去歯”の供養祭とともに
「歯の神様」の祭礼を行っています。
(2017年は60人ほどの参加あり)

数年前の新聞の記事では抜去歯の数は二万本ほどだったそうで、皆さん歯を大事にしましょう。

松原神社
https://www.matsubarajinja.com/




55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:32:37.43 ID:B5sHcQLP
島津斉彬の照国大明神、ててっきり天照大神に対抗して東照大権現になった徳川を倒した薩摩が
「東」より広い「国」にでもしたのかと思ってたけど
島津貴久が「靖國」だったからてだけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:44:27.62 ID:D++bK00K
うつろ舟と言ったらこれ?
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Utsuro-bune.jpg
Utsuro-bune.jpg

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 20:46:04.57 ID:TUR15A8h
補陀落渡りでもするのかと思った

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 21:14:45.36 ID:B5sHcQLP
補陀洛といえば
ポータラカ→補陀落→ふたら→二荒→にこう→日光
となったというのを近頃知った

権現様も補陀落に眠ってるということか

彼らが通過した後には、何一つ

2017年05月29日 18:40

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE
もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を


中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、
嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。
それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。
これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。
中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕
彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、
立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。

薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、
打ち壊し蹂躙し始めた。
彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。
またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、
とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。
これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。
彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。

(フロイス日本史)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:17.08 ID:12qJD4CN
>>799
キリスト教が嫌いな佐伯さんが勝ってるのは無視される

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど

溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



ひえもんとりの話し

2017年05月14日 21:29

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 02:09:12.49 ID:+pXIAOKs
祖母が高祖父から聞いた幕末の薩摩のひえもんとりの話しです。
戦国の話ではありませんが、出回っている話しと幾分か違ったので書かせたいただきます。

幕末の頃、寺町の関所横(割と城下町の真ん中)に処刑場があり、毎年年末の29日にまとめて処刑を行っていた。
その日になると吉野方面(鹿児島市北部の山間地帯)の農家の人はふんどし一丁に
小刀をさしただけの姿になり待機をする。
処刑が始まると大太鼓がどーんどーんどーんと三回鳴らされ、その音は静かな時代、遠く吉野のほうまで鳴り響き
それを合図に皆、処刑場まで走り出す。
互いを傷つけたりしてはいけず、いくつかある死体の肝臓に一番早く触った人がその肝臓全部の権利を得ることが出来た
との事でした。手に入れた肝臓は漢方の材料として売って収入源に、残った遺体は遺族へ渡されるか無縁仏として葬られたそうです。
なお、ルールとして肝臓以外に手を出してはいけなかったとの事です。

祖母の家は上士の家系だったのですが高祖父曰く、士分のものや町民は一切参加しなかったとの事です。
(吉野方面の農家って郷士だったんじゃとも思うのですが…)
その日は婦女子は出来るだけ出歩かないよう、又 餅もついてはならないと教わったそうです。

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 02:22:52.30 ID:+pXIAOKs
派手に話されている ひえもんとりの話しも実際はもっとマイルドな話しだったんじゃないかなと
話しを聞いてみたのですが、マイルド?な話しを聞くことが出来ました。
祖母が聞いた話では死刑囚の肝臓が無くなるのは当たり前のことで他の藩でも普通だったとの事です。
山田浅右衛門の人胆丸みたいに役得となるかイベントとなっているかの違いだけ?じゃなかったのではないかと話していました。

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/14(日) 02:43:27.25 ID:+pXIAOKs
書き忘れですが、処刑自体は処刑人が行い、死体を噛み千切るとかそんな事はしなかったそうです。
疑問点としては街中の関所横に処刑場というのは他の藩でも普通だったのでしょうか?



778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 06:03:16.94 ID:P6hbbHdU
>>775
興味深く拝見しました。
刃物を持っている人同士で、怪我しないように競って罪人の腹を割くとか、どんな光景なんでしょうね。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 07:50:55.97 ID:yFll/uYs
>>777
うちの宿場(下総船橋)は入り口に処刑場があったと言われてる
いまじゃ街の中心部だけど

780 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2017/05/14(日) 09:48:01.08 ID:5jSUW0GA
>>775
江戸時代 全国的に民度が上がったから ひえもんとりも嫌がる人がほとんどだったのかな
戦乱が続いてたら やる人が多かったのか
戦国時代の人々からしたら ひえもんとりって魚さばくのみたいなもんだったのか

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 09:50:00.10 ID:5jSUW0GA
>>775
あと死んですぐの肝臓じゃないと漢方薬にならない気がするが

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 09:54:52.69 ID:5jSUW0GA
>>781胆汁酸とかビタミンBとか

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 09:55:59.69 ID:gXRMVWjO
現代なら有害物質の塊だろうな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 10:08:37.30 ID:yFll/uYs
ふっと思い出した
最近、南アフリカ近海のシャチがホホジロザメの肝臓だけを食いちぎる事件が相次いでいるとか

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 10:24:51.33 ID:5jXpkcOs
幕末になってもひえもんとりやってたんだ

そんな最近までやってたなら鹿児島伝統のエクストリームスポーツとして
現代風にアレンジしてレクリエーションに取り入れられないかな

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 10:40:10.00 ID:dzos3kiU
>>775
面白い!幕末にもなるとひえもんとりも落ち着いて?そうなるのだろうか…。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 12:36:49.85 ID:rtum+u/v
>>785
海音寺潮五郎によれば
西南戦争で鹿児島にやってきた政府のスパイにもやってたとか
毅然として死んだんで海音寺潮五郎の祖父の知り合いが死骸が置かれてるところに行って懐を探ったが
すでに誰かにとられてたとか書いてた

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 12:48:46.31 ID:+pXIAOKs
「人胆丸」は結核に効くと信じられていましたし需要は大きかったんじゃないでしょうか。
明治3年に公的に販売が禁止されたそうなので闇市場では需要・価格共に上がっていたんでしょうね。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 23:00:17.73 ID:E6ADoo4Z
>>779
東京の板橋宿では近藤勇が処刑されてたり

新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


島津豊久が関ヶ原にて討ち死にしたのは

2017年04月27日 18:00

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 17:55:42.21 ID:aWpfotaT
島津豊久が関ヶ原にて討ち死にしたのは、彼が討ち死にせねば島津の総勢が撤退すること困難だったためで、
彼とその配下500ばかりが一ヶ所において討たれた。忠死というべきであろう。これによって島津の兵は
事故無く引き取れたのである。
ただし大勢が、豊久が討たれたその場で腹を切って死んだ、と云うのは嘘である(大勢その場にて腹を切て
死せしと云は嘘也)。

(士談)

豊久が死んだその場で薩摩軍集団割腹、という話も当時あったらしい。



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 18:33:32.53 ID:cU26TiUR
そら豊久は異世界のエルフのとこ行っちゃったからな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 18:43:28.30 ID:MbjlmIMI
>>859
足止め役なのに全員切腹したら意味ないしなw

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 22:04:33.99 ID:UdAgxPiJ
明治になるまで薩摩ってこんな顔の奴ばかりだったんだろ
http://i.imgur.com/S4Y3T.jpg

間宮林蔵は良く潜入出来たな

苦辛城(くららじょう)

2017年04月26日 08:39

753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/25(火) 23:26:56.85 ID:NnyzUZ9A
鹿児島県鹿児島市皇徳寺台には苦辛城(くららじょう)と呼ばれる自然の川や崖を利用した連郭式(れんかくしき)山城があり、
郭には土塁が見られ,緩やかな斜面には郭を守るための帯曲輪(おびくるわ)の取り巻きがあります。
昭和56(1981)年団地造成の為全面発掘がおこなわれたところ、15箇所の曲輪と20箇所の空堀、27棟の建物跡、水溜跡、
竈跡のある大規模な城跡と判明しました。
苦辛城の名前の由来はくらら(苦参)というマメ科の薬草からで、城の周りに自生していました。
健胃、利尿、解熱、回虫駆除に効果があり、飲むと目くらがむほど辛いという。

大永七(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いは、天文八(1539)年に島津忠良・貴久父子は
加世田・川辺・市来を攻略、また紫原の戦いにも勝利し、その後三月十四日苦辛城を攻略し翌日は神前城を落とし、
薩州家の島津実久を撤退させた。
以後、実久の勢力は衰え、天文十四(1545)年に貴久は一族・庶家から「三国守護」の承認を得て南九州を支配することになる。

このため、苦辛城周辺にある皇徳寺ニュータウンでは「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」と伝わり、
苦辛城の施設跡にある皇徳寺小学校では「城には処刑場があり幽霊が出る」という学校伝説がありますが、
苦辛城城主平田宗秀は、紫原の戦いで貴久が勝ったことを知り、伊集院忠相の仲介で貴久を城に迎え入れているので
苦辛城では戦いは行われてはいません。

この城を苦辛城と表記するようになったのは江戸後期の島津家の記録からで、それより前には「鞍良城」と記されていました。
かつて敵の城であったが、島津忠良・貴久父子が勝って手中に収めたことを強調する為に意図的に“鞍良”から“苦辛”へ
書き換えたのではないかといわれています。

書き換えられた上に、
・くらら城跡地の案内板には「苦辛城」の記載しかない。(案内板は団地の開発業者が設置)
・くらら城周辺は新興住宅地の為、古くからの住人が殆どいない。
そのため、「苦辛城」の字面だけで「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」だとか
「城には処刑場があり幽霊が出る」という話が勝手に出来てしまうという、住人や発掘に関わった人たちにとって悪い話。
(くらら城跡地で発掘に関わった大学の先生から聞いた話)

島津本家の家督争いについての記述
島津忠良(日新斎)島津貴久について
https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/kyoiku/4tadayosi2.html

※くらら(苦参)は全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強く量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては
呼吸困難で死に至ります。素人が安易に手を出すのは非常に危険である薬草です。
佐賀県では絶滅危惧種、鹿児島県では準絶滅危惧種となっています。

※皇徳寺台の由来は皇徳寺という曹洞宗の総本山の永平寺直轄の末寺からで征西将軍宮懐良親王と島津義弘の息子
久保の菩提寺です。




754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 02:18:00.34 ID:lWKlcsT4
くららが建ったー

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 02:27:08.64 ID:3FRxF8FJ
島津兄弟の不可解な死はこれの中毒であったか

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 06:10:30.99 ID:PjRiQsEH
灰寺城

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 13:31:20.43 ID:D3F2saet
http://i.imgur.com/lkzhYhv.jpg
lkzhYhv.jpg

薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

2017年03月31日 21:44

710 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/31(金) 13:20:31.22 ID:9PH8Y6mL
薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

鹿児島で「これもち」(一部地域では「これがし」)と呼ばれるお菓子は、小豆餡と米粉をこね合わせた蒸し菓子(棹物菓子)で
漢字では「高麗餅」(高麗菓子)と書き、その名が示す通り朝鮮から伝来したものである。
鹿児島に伝わったのは、慶長三年(1598年)朝鮮の役により、豊臣秀吉の命を受けて出兵した島津義弘が、
李朝の陶工たちを南原(ナモン)から連れ帰った折に陶工から伝えられたとされている。

義弘に連れてこられた陶工たちのうち、四十数人が串木野の島平に窯を開いた。
しかし生活苦や周囲との折り合いの悪さから、五年後には島平から苗代川(日置市東市来町美山)に移住した。
この地に移住した人々は、毎年春秋には周囲で最も高い舞楽岡に登り、遥か遠く海上に浮かぶ甑島の島影を通し故郷を偲び、
望郷の心を慰めていた。在る夜、海の彼方より大きな火の玉が飛来し、蜂巣ヶ谷の大石の上に落ちた。それ以来大石は鳴動し、
夜毎赫々と異光を放ち乍ら宙天に上った。これを見た村人は恐れおののき、筮者にトして貰ったところ、
朝鮮宗廟の神「檀君」が村人を保護するために来国したということであった。
そこで、この自然石を御神体として檀君を祀る神社を創建し(玉山神社)、玉山宮とも高麗神とも称した。

玉山神社では祭事や行事の際に高麗餅を奉納し「高麗餅返し」の儀式を行っていた。
「高麗餅返し」の儀式は祝子(はふり)が執り行い、美山の各家庭で作った蒸し器(セロ)に入ったままのこれもちを
祝詞を唱えながら回し竹籠(バラ)にひっくり返す。バラに近づき、一回転してこれもちの表面が上なら吉、
一度で表にならないと縁起が悪いとされている。
これもちの真ん中を神刃(シンカル)で方形に切り、御幣と柴の小枝を立て、お神酒・新米・刺身とともに高杯に乗せて供える。

玉山神社は今の社殿になるまでは、朝鮮様式で建立されていて、祭事や行事の際の服や言葉や祭器すべて朝鮮様式
で取り揃えていたが、数十年前に最後の伝承者が亡くなると「高麗餅返し」をふくむすべての儀式が途絶えてしまいました。
(「かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品」、美山での史料展示(昭和四十二年頃の写真あり)など)

※鹿屋市笠之原にも「高麗餅返し」があり、美山に移り住んだ陶工の一部の人が、時を経て笠之原に移住している。
ここには陶土がなく陶芸文化は廃れたが、望郷の為に「玉山宮」を建立し、高麗餅を作って儀式を伝えたことが推察される。
笠之原では、高麗餅を「シロ」と呼び、地域の玉山宮では祭事や行事の際に高麗餅「シロ」を奉納し「餅返し」の儀式を行っていた。

※ 小豆をふんだんに用いて餅とサンドイッチ状に仕上げた韓国のお菓子「シルットク」は、祝いや祈願の折に用いられてきました。
古くは五穀豊穣を祈り、現在では転居の際に新居の安全を祈って供えられています。京都や名古屋で製造されている「村雨」や、
鹿児島の「高麗餅(これもち)」の原型が、このシルットクであるといわれています。

参照 高麗餅(これもち)


시루떡(シルットク)
https://namu.wiki/w/%EC%8B%9C%EB%A3%A8%EB%96%A1



アフォンソ・バズという人物一人を殺してしまった。

2017年03月22日 10:38

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:56:50.71 ID:3jA4Kuzq
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:58:52.95 ID:Kls3i0zw
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:18:06.25 ID:XIT09IlA
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:29:14.25 ID:nTvcLbOj
守護大名がか?

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 12:46:46.90 ID:mQ1Lf/Wi
元就は元就で苦労の連続じゃん

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:39:46.44 ID:fDcqyXCX
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:52:19.62 ID:tvp724bG
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 23:52:54.86 ID:qPwsY8gI
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。

鼻の色はかはりにけりな異な面に

2017年02月16日 17:16

651 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/16(木) 00:02:05.81 ID:rG1cVaCH
ある日(島津)忠恒公が徳田大兵衛(侏儒どん)の宅へ御出でになるという仰せがあった、
そこで大兵衛は屋敷を清めるやら庭の掃除の下知をするやら忙しかった、
さて自分も湯に入って潔斎したのち、今か今かとご来駕を待っていた、けれども
仰せでになった時間までにいかなる御都合かして、御出でが無いので、
待ちくたびれて大兵衛は縁側へ寝入ってしまった。
その後程経てから殿様の乗り物がやっと徳田の屋敷に着いた。
すると大兵衛は心地よさげにすやすやと良く寝入っている始末であるから、
近侍の者共が大兵衛を起こそうとする、殿様は「しばらく待て」と制しながら
硯を取り出させ、筆にタップリ墨を含ませて、大兵衛の鼻へ一杯塗り付けさせられた
然る後ち近侍の者をして大兵衛を揺り起こさせられた、大兵衛が不覚の眠りを
詫びるのには耳を貸さずに殿様は
「大兵衛鏡を見ろ」との仰せである。何かは知らねどご上意のまま
自分の顔を鏡に映すと、鼻が真っ黒く塗られている。
殿様は笑いながら、「大兵衛どうじゃ、即座に一首仕れ」と言われると、
例の侏儒のことであるから、言下に次の歌を詠んだ。

鼻の色はかはりにけりな異な面に わが身湯に入り長寝せし間に

これは言うまでも無く、百人一首の中にある小野小町の和歌を詠みかえたのである。
(日当山侏儒戯言)


参考
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
小野小町




654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 06:18:07.98 ID:vJ8/2DEi
>>651
何が起きるかドキドキした

十三塚原

2017年02月03日 10:56

571 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/02(木) 23:29:57.77 ID:tUuJ8z9c
十三塚原(じゅうさんづかばる)は、鹿児島県霧島市と姶良市に跨る東西6.5キロメートル、南北11キロメートル、
標高210-300メートルのシラス台地です。近くには鹿児島空港があります。
名の由来は13基の塚が数十メートルの間隔をおいて並んでいたことから十三塚原と名付けられました。

十三塚原の由来については次のような伝説がある。かつて国分八幡神社(鹿児島神宮)と宇佐八幡神社(宇佐神宮)の間で
どちらが正統の八幡宮であるか論争があり、大永七年(1527年)十一月、宇佐八幡の神官14名(15名の説もあり)が
鹿児島を訪れ国分八幡の古文書を調査し、正統性は疑わしいとして社に火をかけた。ところが社が猛火に包まれた
その煙が「正八幡宮」の文字を示したことから神官たちは驚きあわてて逃げ帰ろうとした。宇佐逃げる途中、
次々と13名が死亡、残された1名(2名の説もあり)も宇佐八幡に戻って事の顛末を報告し終わると同時に死亡した。
しばらくして死者のために13基の塚が建てられたという。(日当山村史)

この伝説が大永七年(1527年)と書いてあるのは「日当山村史」だけで、その他の史料及び十三塚原にある
十三塚原史跡公園の案内板には長承元年(1132年)となっております。
(「日当山村史」にも「長承元年(1132年)との説もあり」とは書いてある)
実際その頃に国分八幡神社(鹿児島神宮)は火災の為焼失しており、そのため年代がかわったのかもしれないです。
(社は永いことそのままでしたが、島津貴久が再建しております。その時の話がこれです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2677.html
貴久は再建の為に訪れており、日秀上人は再建に携わっておりました)

※鹿児島神宮の案内板には「八幡宮の総本社は鹿児島神宮」と書かれていますが、鹿児島神宮がある霧島市
では「八幡宮の総本社は宇佐神宮」と見解を出しております。



572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 16:32:02.51 ID:Gjqm2/hC
>>571
火災に尾ひれがついたのかな
ずいぶん恐い尾ひれだけどw

578 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/04(土) 20:48:26.85 ID:nqYD0FKg
>>572
文献が思い出せず書けなかったのですが、
記憶が確かならば、大永年間の国分八幡神社の火災の原因は
島津と敵対する武将による“放火”だったはず。
怖い尾鰭がつくのはある意味当然かもしれない。

薩隅の戦国食べ物? ねったぼ

2016年12月21日 17:25

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/20(火) 23:24:58.34 ID:hzpAUNNI
薩隅の戦国食べ物? ねったぼ

ねったぼは蒸した唐芋(サツマイモ)と餅、砂糖などで作る餅で、ぼったぼったと練ってつくことから
その名がついたといわれる、鹿児島県や宮崎県の都城地方などで食べられている郷土料理です。
(砂糖の入ったきな粉をまぶして食べます。餡子が入っている場合もあります)
地域により、からいもんねったぼ、からいものねったぼ、からいもねったぼ、ねったんぼ、ねったくり、
からいも餅、ねりくりとも呼ばれます。

サツマイモの食べ物の話だと、スレ違いではと思われるかもしれませんが、
徳田大兵衛(侏儒どん)のことを書いている文で気になるものがありましたので・・・

「大兵衛殿は五十歳余りの時、都之城なる北郷殿宅にて年かさの餅を喰はせられ、咽喉に引き懸かり、
即ち相果てられし人にて候由」(薩藩舊傳集)

侏儒どんが現在の宮崎県都城市の北郷殿の屋敷で出された「年かさの餅」を咽喉につまらせて
なくなったとありますが、鹿児島で「年かさの餅」(鹿児島弁では「とっかさ」)とは
正月の餅を搗くとき、最後の一くぼ(餅米一臼分)に、煮たさつまいもを入れて搗きあげたもので、
ねったぼと同じものなのです。昔と今とでは違うのではと思われるかもしれませんが、
侏儒どんの話がまとめられている「日当山侏儒戯言」にも、
「年かさの餅とは薩摩独特の唐芋と餅とを搗きまぜたものだという説もあり」と書かれています。
(侏儒どんがなくなったのが、寛永十一年正月十六日(1634年2月13日))

前に鹿児島大学の焼酎学の先生から、
1611年に琉球征伐の後始末に残っていた薩摩の兵が薩摩芋を土産に持ち帰った。
1615年には琉球から種子島家に薩摩芋が送られた。
と聞いたことがあるので、栽培は出来てなくても手に入れることは出来たようなので、
貴重なものとして、正月用の祝いの餅にまぜこんだのかもしれません。

「日当山侏儒戯言」では、
「侏儒が正月北郷殿へ行って餅か出た時、ナニ此の位のなら唯一口で喰はれるとか何とか言って
喰ったところが、ソレが咽喉に閊へて遂に命を落としたのではあるまいか、若し予の想像通りとすれば、
彼は遂に滑稽の為に死んだのである」と書いてあって切ない。



448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 06:47:03.33 ID:Ex3Uxlra
>>447
餅は古来よりの殺人食ってはっきりわかんだね

下野の野州野州と申せども

2016年12月01日 16:19

365 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/30(水) 20:45:41.79 ID:NL2AuYia
島津家久(忠恒)時代の国老島津下野守は知行一萬三千石、権威並ぶものなし、
而も長大肥満の人なりしか。かつて徳田大兵衛(侏儒どん)に向かい
「徳田めが 大兵衛とは 名のれども 名には似合はぬ 小さき人かな」
大兵衛これに応して曰く
「下野(しもつけ)の野州(痩せう)野州(痩せう)と申せども
名には變(かは)りて肥えた人かな」
(日当山侏儒戯言)

※侏儒どんの名前の由来の一般的な方の説では、生まれたときから
小さかったので大きくなるよう願いをこめて両親が大兵衛と名付けたとあります。

※別な本には、侏儒どんと島津下野守は同じ連歌の会に出ていたりするので、
こんなことが言い合えるほど仲が良いのかもしれない。



そこに一人の山伏が現れた。

2016年11月24日 14:36

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:47:03.80 ID:GifEEbwp
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)



346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 10:30:52.61 ID:1sU8tIY/
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 13:44:40.94 ID:3l/VneXT
薩摩まで船でいけないんだな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:48:30.13 ID:8D69oZrn
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:19:13.59 ID:R0KKCQ/z
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:49:07.97 ID:8D69oZrn
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 22:19:18.84 ID:DqhLpzHV
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:06:03.85 ID:7ZS6/8Wc
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている

天吹(テンプク)

2016年11月18日 16:46

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/18(金) 00:02:23.28 ID:gKlDuncp
天吹(テンプク)という薩摩で伝承された縦笛があり、薩摩の武士の間で大いに愛され、吹かれていた。
名称の由来は、大祓いの祝詞「天の八重雲吹き放つことの如く」からきているとも言われている。
一番盛んだったのは、戦国の頃といわれ、戦国ちょっといい話・悪い話まとめ にも
島津の退き口と北原掃部 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5053.html
天吹についての話が載っております。今回は細部が少し違うバージョンを紹介します。

関ヶ原の合戦に島津方として参加した武士に北原掃部助という者がいた。
島津の退き口の際に、家に代々伝わる天吹を陣中に置いてきた事に気付き、
「このまま置いていっては先祖に申し訳がたたぬ」と彼は天吹を取りに戻りますが、
東軍の兵に捕らえられてしまいます。
「何故、戻ってきたのか?」と問われ「笛を取りに戻ってきた」と答えると
「薩摩にもお主のような軟弱な者がおるのか」などといわれ、首をはねられることと
なってしまいましたが、
「この笛を取りに戻ってこのようなことになったのだ、せめて最後に一曲吹かせて欲しい」と言い
天吹を吹くと、その音色と北原掃部助の堂々とした態度に東軍の者たちは感嘆し、
首を刎ねる事もあるまいとの意見が出てきました。
このことを知った徳川家康の側近の山口直友は「このような者を死なせるには惜しい、薩摩に戻して
やってもいいのでは」と考え、家康に進言しその結果、北原掃部助は薩摩に戻ることが出来、
彼の命を救った天吹は「助命器」と銘打たれて大切に保管されたという。

・・・これで話が終われば好かったのだが、薩摩に戻った北原掃部助は
「自分は首を刎ねられるはずだったから」と切腹して果ててしまいました。
一方「助命器」の方は江戸末期までは大切に保管されていましたが、明治になり北原家に
嫁いで来た若奥さんが、ごみと間違え燃やしてしまうという悲しいことになっていました。

※鹿児島市の城山にある西郷隆盛像と忠犬ハチ公像(初代)を手がけた安藤照氏の母方の実家が
北原家になります。(忠犬ハチ公像(2代目)を手がけたのは息子の安藤士氏)

(「明治維新150周年まであと2年!薩摩アフタヌーンティーパーティ」というイベント内で
あった「薩摩の楽器「天吹」700年で知る島津の歴史シンポジウム」での話より)



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 09:14:27.63 ID:JKeteUbK
>>312
なんというまさにちょっと悪い話
やっぱお宝というものはものものしい器に収めとかないと駄目ってことね

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 17:02:34.45 ID:865MJPbR
>>312
せっかく拾った命を捨てた過ちを燃やして浄化されたのだ

女性だけが参加できる神事「持明祭」

2016年11月05日 17:33

亀寿姫   
294 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/04(金) 22:04:09.52 ID:tmdEyaJP
DQN四天王を祭る神社
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3329.htmlでは、
> 島津忠恒…鶴嶺神社(鹿児島県鹿児島市)
と書かれていますが、鶴嶺神社の御祭神は忠恒だけでなく
初代薩摩大隅日向国守護職、島津忠久公はじめ島津氏歴代の当主とその家族、玉里島津家の当主と
その家族で、従神は(忠恒の)家臣五名と殉死者四十五名の大所帯です。
鶴嶺神社は島津氏歴代当主の菩提を弔っていた福昌寺が廃仏毀釈の憂き目にあい、その代わりとして明治2年11月に
29代当主の島津忠義が鹿児島郡坂本村山下鶴峯(現鹿児島市照国町)に祖先を祀る神社を創建しこれを竜尾神社と
号したのに創まります。(大正六年に現在の場所 (鹿児島市吉野町)へ移された)
特に16代当主義久の三女である亀寿姫(持明院様、じめさぁ)を祀る神社として有名で、多くの女性が参拝に訪れます。
(鶴嶺神社で分けていただいた紅でお化粧をすると女児が美しく育つ、またはお参りすれば美しい女性になれると
いう言い伝えがあります)
亀寿姫が亡くなったのが1630年(寛永7年)十月五日なので、毎年月遅れ命日に当たる11月5日には
女性だけが参加できる神事「持明祭」が行われます。
(以後の文章は2015年に「持明祭」に参加した知人の話と地元テレビのニュースを参考に書いております)

まずは、神社に隣接する尚古集成館で学芸員さんによる、持明院様に関する歴史講座があります。
内容は、「豊臣秀吉に人質として捕えられているとき、亀寿姫が本当に義久の娘か、と疑われた際に、秀吉側の人から
脅されてもなお落着き払った態度を示し、その美しさも相まって、本物に違いないとされた」
「鹿児島市立美術館にある石像は亀寿姫ではない」
(参考 ジメサア http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10253.html
「家久(忠恒)とは仲が良くなく実子には恵まれなかったが、19代当主になる光久の後見となった」などです。

次に日本の伝統文化である(唯一の紅屋の紅ミュージアムの方による)「紅」の講座です。内容は
「原料には、山形県産の最上紅花を使用し、咲いた紅花の花弁を摘み取り、「紅餅」に加工してから紅屋などに卸されます」
「紅匠(紅職人)は、幾工程もかけて紅餅から純度の高い赤色色素を取り出し、長年の経験で培った熟練の勘で、玉虫色の
紅を作り上げます」
「玉虫色の紅を下唇に重ね塗りし、緑色(笹色)にする化粧法「笹紅(ささべに)」が文化文政(1804-1829)の一時期に流行」
「現在紅匠は男性二名のみで、工場は女人禁制です」などです。

次に鶴嶺神社の拝殿に移動し、持明院様の神事に参列して、美と健康を祈願します。
島津家の神事なので、神事には現在の島津家当主の島津修久氏も参加されます。
(女性の為の神事なので拝殿に入る男性は神主さんと島津修久氏だけで、スタッフの方とテレビ局の人は外で待機です)
(拝殿には壁がないので神事の進行やテレビ撮影に不都合はありません)

その後は、隣接する仙巌園に移動し美容と健康をテーマに旬の食材をふんだんに使った限定御膳「美人御膳」を食べて
終了となります。
(「持明祭」に参加した人には紅が入った紅御守と持明院様絵馬が授与されます)

※「紅」の講座が行われているのは、紅屋の人が観光で仙巌園を訪れた時に持明院様の話(持明院様が祭神の鶴嶺神社で
分けていただいた紅でお化粧をすると女児が美しく育つ)を知り仙巌園に企画を持ち込んだそうです。

296 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/05(土) 18:58:47.58 ID:gMaZk05K
294の追加
鶴嶺神社は明治以降ですが、江戸時代には島津家の敷地内に持明院様
を祀るお社があり、島津家の女性がよく詣でていたそうです。
また亀寿姫に所縁のあるお寺にも(江戸時代から)多くの女性が
詣でていたそうです。


295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/05(土) 17:45:26.35 ID:QVN5kFO/
>>294
結構新しいんだな

ジメサア

2016年09月29日 12:08

亀寿姫   
134 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/29(木) 09:58:51.10 ID:UKcAPjuH
鹿児島市の西郷隆盛銅像の裏手、鹿児島市立美術館(鹿児島城(鶴丸城)二の丸跡)の一角に「ジメサア」と呼ばれる
お化粧をした変わった石像があり、毎年十月五日前後の日にお化粧が行われるのが恒例行事となって、その様子は
地元のテレビや新聞でも毎回報道されています。
案内板には「この石像は、島津家18代家久(忠恒)の奥方持明夫人像『ジメサア』の名で親しまれています。
持明院様は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が尊敬され、人々は
『器量はすぐれずとも、心優しく幸せな家庭を築いた』夫人の人柄を慕い、毎年10月5日の命日には、この像に
おしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるようにおまいりするならわしが残っています。」と書かれています。

この石像にはこんな話があります。(文中の家久を忠恒に変えた以外は原文ママです)

持明の方(ジメサー)
鶴丸城のあと、二の丸に市の美術館がある。庭のかたすみ、こんもりとしげった木の下に女の顔をほった
大きな石がある。まっ白な顔、黒いまゆ、口べにのついたくちびる。
そこにはいつも色とりどりの花がそなえられていて、通りすぎる女の人が、その顔をなでていくのを見かける。
さて、この石にどんな話がかくされているのであろうか。
話は、今からおよそ四百年以上のむかしにさかのぼる。
島津第十六代藩主義久のむすめは、十八代の忠恒に持明の方(ジメサー)として縁付いた。
ある朝、持明の方が鏡に向かって化粧していた時、通りかかった忠恒が、「その顔で・・・」とあざけった。
持明の方はいろいろなやんだすえにとうとう自殺してしまった。忠恒も後悔してみたが、今となってはどうにも
ならない。それで、墓を福昌寺にたててとむらった。
ところがある晩、寺のおしょうさんの夢に「ここにはいたくない。わたくしを二の丸にかえしてくれませんか」と
持明の方がでてきた。おしょうさんはおどろいたが、そのとおりにするわけにもいかないので、大きな石を
錦江湾から引き上げてきて、女の顔をきざんで二の丸にすえて供養した。
ところがまた夢で、「もう少し私の顔を美しくしてくれませんか」という。それで城の女の人たちが、おしろいなど
を毎日ぬってやったら、もう夢にはでてこなかった。
そこでこの顔をなでると、顔が美しくなり、きれいな女の子がうまれるといわれるようになった。
(「鹿児島の伝説」 昭和五十二年発行より)

いろいろとツッコミどころのある話ですが、この話の一番のツッコミどころは
「この石像は、持明院(亀寿)の石像ではない」というところです。
島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」と歴史作家の桐野作人氏が再三
違うと言ってるのですが、未だに「持明院(亀寿)の石像」として伝わっています。
尚古集成館側と桐野作人氏の説明では、あの石像は大乗院(現・鹿児島市稲荷町・清水中学校)にあった
「白地蔵」と呼ばれていた石像だそうです。
江戸後期の紀行文「鹿児島ぶり」では
「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉をぬるなりと云う」
と書かれています。
この石像が大乗院から現在の場所に移ったのははっきりしませんが、明治以降から戦後すぐあとではないか
と推測されています。
石像と亀寿と結びつけられてしまったのは、亀寿が大乗院に本尊の千手観音をはじめ、勝軍地蔵、毘沙門天
や経典などを寄進したという由緒と関係があるのではないかといわれています。

亀寿の容姿について、尚古集成館側は美人説、鹿児島市立美術館の案内板には不美人説が取り上げられて
いますが、世間一般には不美人説が強いらしく天文館アーケードに無料配布してある「天文館史跡めぐりマップ」
には鹿児島市立美術館の案内板と同じ内容が書かれていて、アーケード内の数箇所にマップが張られています。

※美人説・不美人説について桐野作人氏は「どちらの説も確証が得られていない」とおっしゃってました。

さつま人国誌「再考・ジメサアの由来」
http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=423




一年に一日だけの臨時駅 ~「心岳寺参り」~

2016年07月28日 09:33

992 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/27(水) 23:20:11.45 ID:FxsOh3OW
一年に一日だけの臨時駅

天正二十年(1592年)七月十八日、島津歳久、帖佐郷竜ヶ水(現在の鹿児島市吉野町平松)にて
自害す。享年五十六歳  戒名 心岳良空大禅伯
歳久の首級を確認した義久は号泣したという。
遺体は帖佐の総禅寺に埋葬され、義久は秘かに歳久の廟を島津家の菩提寺福昌寺に建て、
墓を同寺内の恵灯院に建てました。(現在、福昌寺の貴久の石塔の後方に歳久の石塔がある)
秀吉が没した後の慶長4年(1599年)に義久によって歳久の最期の地に菩提寺が建立され、
歳久の戒名の一部を取って曹洞宗滝水山心岳寺と号された。
歳久の命日には参拝の人々が多く集まり(「心岳寺参り」)島津忠良所縁の「日新寺参り」、
島津義弘所縁の「妙円寺参り」共に心岳寺に詣でることが大流行した。それぞれの命日に
それぞれの菩提寺に詣でるこの習慣は「鹿児島三大詣り」と呼ばれた。
「鹿児島三大詣り」は、実際は「お参り」というより鹿児島から夜を徹して長距離を徒歩行軍し
目的時間に到達する「軍事教練」に近いものであり、特に心岳寺への道は江戸時代までは
海岸沿いの街道(磯街道、現在の国道10号)及び鉄道(日豊本線)は全く無かったために
西側の裏山から断崖絶壁を下るという厳しいものであった。
(明治3年(1870年)に寺号を廃して神社へ改め、平松神社となる)

1908年(明治41年)「心岳寺参り」へのアクセス目的として、その日だけ使用される「心岳寺駅」が
重富駅 - 鹿児島駅間(現在の重富駅 - 竜ヶ水駅間。当時竜ヶ水駅は未開業)に設置された。
大正元年八月十九日付の鹿児島新聞には、
「十七日夜の客車は一回平均十一台を連結し、最も多く連結せしは、十一時三十分の
十五台なり。午後三時半頃より小児と老人多く、一般拝客は午後九時、十時最も多かりしと、
当夜の乗客は六千六十人・・・」
露店が数十軒並び、「猫も杓子も集まり、幅広き街道が身動きだもならず」
警察も「警視以下二十五、六人」整理にあたった。と当時の「心岳寺参り」の様子が記されている。
(また当日は垂水丸という船が鹿児島、平松間を一晩中往復運航していて、船首から船尾まで
電灯で飾られ満員状態、国道10号線は往く人帰る人の行列の波だったそうです)

歳久は「戦の神」として祀られた一方、「安産の神」としても信仰されていましたが、戦後は
「戦の神」いう側面がなくなり、心岳寺詣りが急速に衰退すると駅の利用客も激減したため、
1967年(昭和42年)に廃止されました。
(「島津歳久の自害 増補改訂版」「昔の鹿児島―かごしま 新聞 こぼれ話―」など)

「心岳寺参り」も行われなくなってしまっていたが、これを惜しみ伝統行事及び青少年鍛錬として
心岳寺詣りを山下りも含めて復活させようという試みも近年出てきています。

「心岳寺詣り」(平成23年11月23日開催)を紹介します!
http://archive.is/wl1i#selection-1171.0-1171.29 



993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 07:50:45.52 ID:N+kdMWZx
自害理由:秀吉に謀反を企てたと思われたから
ってのも書いたほうがわかりやすいような

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 09:23:11.61 ID:U/gwoNap
お寺詣りというのが、戦後の日本でずいぶんハヤっていたんだな。
連想した他のお寺詣りの宗派についてはここでは言わないけど。