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島津龍伯の弟

2020年08月26日 18:08

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/26(水) 11:39:41.61 ID:c/kOnlNb
慶長十五年の六月頃、丹波国亀山の普請中に、薩州島津龍伯(義久)の弟が丹波国に従い、
そこで煩い付き、伏見に着いたところで病死した。

これは去る庚子の年、美濃国関ヶ原合戦の時、兄の兵庫(義弘)退散の時、負傷し馬も離れ、
歩いての進退も叶わず、死人の上に倒れ伏せた所、奇特の夢想があり、かの夢に云わく
『これより東へ下り、木食(穀絶ちの修行僧)と成り年月を送れ』とのお告げであった。

そうして稀有にして命を全うして関東へ下り、夢想の如く木食となって十ヶ年を経て、去年の春
薩摩に帰国したのであるが、見知った者も無く、これまでの経緯を人に語っても、彼は関ヶ原の
合戦で討ち死にしたと云われており、なかなか思いもよらぬ事であったので、これを本気にする者も
なかった。しかしよくよくその様体を見るに、似ている所もあったので、還俗させて見た所、
紛れもなくその人物であった。

この事は龍伯、并びに又八(島津忠恒)に申し届き、対面して往時を語り落涙した。
さて所領を遣わしそこへ居住した所、今度の不慮の煩いで死去したのだという。

当代記

この「弟」が誰に当たるのかはよくわかりませんでした



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薩摩国の習いは硬口であり

2020年08月12日 17:23

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 16:50:43.48 ID:4yYz9Hx3
慶長十二年六月頃、九州島津の使者が駿河に下り、駿府に在府中に、船に乗り遊君を召し連れ遊んだ。
酒興のあまり、見苦しきことも有ったのだろうか、当時駿府の普請を行っていた普請衆がこれを見て
嘲り笑った。

薩摩国の習いは硬口であり戯言を知らず、笑われた事を恥辱と思い、喧嘩を仕掛け闘争に及んだ。
それぞれの小者たちは退散したが、池田三左衛門(輝政)家中の者たちは残り留まって戦い、島津の使者を
搦め捕った。

後日これは追放されたが、かの者は恥辱であるとして、切腹するので、相手も成敗されるようにと
奉行衆に届けた。奉行衆は「この事は我々では治めがたいものです」と徳川家康に言上した。

こうして池田三左衛門家中で、この時の普請物主と、島津の使者、両人が成敗された。

当代記

喧嘩両成敗ですね。



250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 17:03:28.69 ID:NzwLtqdx
江戸末期とやってること変わらんのか

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 18:21:21.61 ID:mb3/KsK0
島津とかいう蛮族

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 18:21:46.48 ID:tsLUhoru
薩摩弁と播州弁(尾張弁?)の喧嘩か

「夏蔭城」

2020年04月12日 14:52

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:34:55.97 ID:BaNKVLgT
今日、鹿児島市が新たな観光資源として復元していた鶴丸城御楼門が無事完成・開通しました。
島津義久と茅葺の門(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-587.html)
の話しを無視している大変立派な門です。コロナのおかげで影がすごく薄くなりましたが

何でわざわざ門だけ復元と思うかもしれませんが島津忠恒が鶴丸城を建築した時期は
鹿児島城ができるまで・悪い話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-566.html)
↑に書かれてる通り関が原後の微妙な時期に建てられたので天守閣等の目立った物はなく、
館のみという城だったので正門が一番目立つ存在だったそうです。
(鶴丸上跡地自体は美術・歴史館、図書館、博物館、医療センターとなっているので
現在のほうが防御力高そう)

というわけで開通記念に鶴丸城の話をひとつ
鶴丸城はすぐ裏手が山となっていますがそこの防備はどうなっていたのかの話しです。

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:35:21.32 ID:BaNKVLgT
「夏蔭城」

現城山展望台の裏手に位置するここは昔は大きな楠がたくさん茂り、暑さ知らずの高涼地だったので
夏蔭と呼ばれていました。
城山は山自体が城の一部とされていましたが(実際戦になったら城山全体に陣を張る見込みだった)
裏手からの攻撃には無防備でした。そこで裏手から攻められた際の要であるこの地を守る為、
武士が配置されていました。
特に城や砦は設けられず、日光から守ってくれる楠のあるこの地は夏蔭城と呼ばれるようになりました。


・・・せめて番所位は作ってあげようよ忠恒さん
補足すると元々城山には上山城という城の遺構がのこっていたのでそれを利用する目論見もあったみたいですが
平和裏に徳川へ帰順できたので作られず、変わりに島津歳久の孫の常久が陣を張っていたのですが、
常久が早世した後は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止となったその後の警備の話となります。

結局、島津家が城山を使った防衛システムを活用することはありませんでしたが、
(薩英戦争の時は大砲の射程内だったため別の場所に避難してますし)
西南戦争最後の舞台に西郷軍が防衛システムを使用、そして最後の日に夏蔭城が陥落し裏手から官軍が
雪崩れ込み西郷さん達の最後の突撃が行われることになりました。


御楼門自体は観光の目玉とはなりませんが上の通り周辺は西南戦争関連や歴史館など歴史好きな人向けの
観光スポットとなっていますので是非お越しください。コロナ終わったら

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:35:49.86 ID:BaNKVLgT
忠恒が防備の弱い城を作ったことに関して少しだけフォローを入れますと、
鶴丸城の前の本拠地の内城(現鹿児島市立大龍小学校)(おそらく↑↑の島津義久と茅葺の門の城)
ゲームとかだと立派な城ですが実態はただの館でした。(堀とかもなく塀があるだけだった模様)
近くに前本拠地・前々本拠地(清水城・東福寺城)が後詰の城としてあるとはいえ防衛力は無いに
等しかったんじゃないかと。

決戦指向だったせいかそれとも守りやすい本拠地の現日置市や鹿児島に入る前の
姶良市の城々で止めるつもりだったかはあるかもしれませんが、他の大名よりと比べ本拠地の防備に
無頓着な所は面白いです。



「スッミッ」

2020年02月24日 15:56

於平   
684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 02:30:40.12 ID:JOhHi9yw
「スッミッ」
島津義久の長女お平様(於平)は島津義虎に嫁ぎましたが息子が秀吉の怒りを買いお家断絶となりました。
その後義久の元に帰り、お膝元の上井於御屋敷で暮らすことになります。
そのお屋敷から海までの道は「スッミッ」と呼ばれていて由縁はお平様がお潮を汲みに通ってた道だと伝わっています。
出展 霧島市教育委員会がお墓近くにたてたパネル

パネルを見に行った時近所に住む方にお話しを聞く機会がありまして伺った所、お平様本人が飼っていた魚の為に
侍女と一緒に自身で汲みに行っていたというのが伝わっているそうです。

嫡男死んでお家断絶している状態ながらも意外と元気そうに暮らしていたのでこちらへ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 02:56:43.60 ID:JOhHi9yw
於平様自身は1603年52歳で没していますが、よく考えれば長男以外の子供は元気に生きていて、、
嫡男も朝鮮出兵サボタージュの理由は独立して大名として扱うよう直訴したことが却下されたことなので
取り潰し無くても伊集院家みたいにその後粛清される可能性も有った事考えると割と幸せな部類だったかもしれません。
お子さんお孫さん寿命短かったりトラブルに巻き込まれたりしがちなので波乱万丈な血筋ですね



薩摩の王の紋章は、我が十字架と同形の十字

2019年06月08日 10:16

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 09:56:48.79 ID:duvn8OWm
埋め代わりに

薩摩の王(島津氏)の紋章は、我が十字架と同形の十字であるが、彼らが我等の主キリストを知り、
キリストの紋章としてこれを崇拝するに至る前兆であろう。ただしこの国においては坊主達は大いなる
勢力を有し、下(九州)の何れの地方よりも跋扈しており、悪魔はその策略と戦争を以て大いに
我等に反対しているが、デウスと戦わんとする者の努力は無益に終わるであろう。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

なお



998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 21:12:00.20 ID:22j3Cruj
>>995
ちっとは成果あったんだろうか

999 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/08(土) 21:56:20.95 ID:oWa7vQg1
>>998
薩摩だと隠れ念仏は有っても、隠れキリシタンはいなかったわけじゃ無いだろうけど、あまり聞かないからそんなに成果は無かったんじゃないですかね?

梅北一揆顛末

2019年03月05日 18:07

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:41:18.44 ID:CvS0qjxX
加藤清正が朝鮮に赴いている時に、その跡にて薩摩人の梅北国兼が肥後の地を侵掠した。(梅北一揆)
境善左衛門は熊本に留守居として佐敷城に居たが、肥後の国衆は多くが梅北に従い、兵勢いよいよ盛んであった。
境はこれと戦っても力で匹敵することは出来ないと判断し、一旦偽って梅北に降伏する体にして、
彼を刺し殺そうと思い、城を梅北へ渡した。

梅北は入城したが心許さなかった。そこで境は「今日より臣令を取るの始めなれば、祝詞のため御盃を頂き
候はん」と、梅北を饗した。この時梅北の心を和らげようと、酌取りに美女を出した。

梅北先ず飲んで、境にさし、座を立って肴を与えた。
境は「かねてこの時斬ろう」と企んでいたが、その威におされたか、手出しできずに座に帰ってしまった。
しかし「この時を過ぎては叶わじ」と思い、短刀を抜き飛びかかり、梅北を刺殺した。

その場にあった者たちは手々に刀を抜き放ち境に斬ってかかろうとしたところを、境は目をいからし
声を励まし

「汝等狂せりや!?梅北は賊である。彼に属するのが本意であるのか?
私と心を同じうして、彼が与党を討てば、清正はお前たちの咎を宥し、これまでの非を改め、
むしろ賊を討つの功を賞せられるだろう。
これを拒否すれば、秀吉が汝等の三族を梟首とするのに数日とかからないだろう。
汝等は、わきまえないのか!?」

これを聞いて、皆境に同意し、北梅の手の者たちが逃げるのを追いかけ切り伏せ、この乱を鎮めた。

境善左衛門の知行はそれまで二百石であったが、清正は後に十倍の二千石を与えた。

(武将感状記)



平田宗次セブン

2018年12月28日 18:20

551 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/27(木) 15:24:03.69 ID:WAd4eUEx
平田宗次セブン

島津氏の家臣に薩摩平田氏という一族がいる。
嫡流筋の7代当主・平田光宗は家老になるほどの家柄に成長した。
そんな平田氏にスポットをあてたいと思う。

過去にサイトでは朝倉教景が5人いたと紹介されたが、ここ薩摩平田氏には同時期になんど7人も諱かぶりがいた。
まあ通称とか官職などで呼ばれてたから別にいいんだけどね。
だが、同時期に7人も同じなのは狂気の沙汰である。


それはともかくとして、選手を紹介していこう。死亡した順番で紹介いく。

(1コース)又十郎・・・1558年に曽於郡にて戦死。
(2コース)源太/新助・・・日向福島にて戦死。
(3コース)平次郎・・・朝鮮出兵で戦死。
(4コース)三五郎・・・大隅財部にて男色相手と共に出陣するが、相手が戦死したため敵中に突入し戦死。
(5コース)万兵衛・・・関ヶ原合戦で戦死。
(6コース)新次郎・・・日向野尻の狩りで伊集院忠真と馬を交換したが、忠真謀殺を狙う島津忠恒の配下による誤射されて死亡。
(7コース)左馬頭・・・9代当主・増宗が島津忠恒によって上意討ちされると、2年後に連座で処刑される。

結局7人全員まともな死に方してねえじゃねえか!
誰1人とも枕の上で死んでない。

↓系図はこちら↓
https://i.imgur.com/PrOIwht.jpg


鹿児島県の史料集などから抜粋


島津家大永の内訌

2018年04月22日 21:18

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 03:52:33.20 ID:469vx5k8
大永7年(1527)、島津貴久は守護職を継いで鹿児島清水城にあり、養父で前守護職の島津勝久
伊作に移って隠居した。ところが島津実久が勝久と通じ、貴久の実父・忠良と勝久の離間を図った。

実久が伊集院城と谷山城を攻略して鹿児島へ向かうと、忠良は加治木・帖佐の地に勝久を移そうと船で
鹿児島に向かったが、戸柱まで来た時に不穏を見て取り、田布施へと帰った。実久は貴久に守護職の

返還を求めたが、貴久はこれを拒否して清水城を死守しようとした。しかし鹿児島に内応者がいるとの
風聞により、貴久は夜に城を抜け出して園田実明の宅に隠れ、実久の追手を逃れた。

のち勝久は実久に擁されて清水城に帰り、島津氏は勝久・実久派と忠良・貴久派に分かれて内訌に陥る。
享禄2年(1529)、島津忠朝は両派の和解のため、新納忠勝・禰寝清年・肝付兼演・本田董親・

樺山幸久・島津運久・島津秀久・阿多忠雄らと会して勝久に謁見し、事態の解決を図ったものの、勝久
の態度は要領を得ず、皆怒って帰ってしまった。

勝久は忠朝の跡を船で追って大隅に至ったが、むなしく帰ることになったという。

――『鹿児島市史』


唐人松の伝説

2018年04月14日 18:10

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 01:39:43.01 ID:Ejka1ruV
渕田集落の松ヶ平に唐人松の伝説を伝える松がある。現在朽木一株があり、その下に墓がひとつある。

往時鹿児島県喜入に来住していた唐人たちは長い年月が経って古郷が恋しくなり、唐船の入港を待ち
わびていた。ある日、待望の船が港についた。唐人たちは喜んだが、いざ入船するという時に

1人足りなかった。あちこち探しても見つからず、あれほど帰りたがっていたのを、置いていくのは
可哀そうだが、航海の都合もあるので後ろ髪を引かれる思いで出航した。彼が港にかけつけた時には

船はすでに沖合遥かに煙っていた。彼は地団駄を踏んで悔しがったが、どうにもならず悲しさの余り
だんだん上のほうにあがり松ヶ平まで来た時、船の姿はついに海空のかなたに見えなくなった。

彼は悲嘆の余りに、松の枝に首を吊って死んだ。以来、村人たちはその松を“唐人松”と呼ぶように
なった。彼には知覧に恋人がいて、帰国にあたり別れを告げに行っていたのだと伝えられている。

なお知覧町桑代集落には唐人松にかかわる次のような話が残る。唐人松の下に自然石の墓がひとつあり、
この墓に毎年の盆正月、春秋の彼岸の年4回墓参りに来る人たちがいた。知覧町桑代の人たちである。

桑代集落の祖先は佐多に居住して禰寝家に仕えていた。禰寝氏は文禄4年(1595)、吉利に移封
されて与えられた知行は約3700石で旧領の約4分の1であった。禰寝重張は一族郎党数百の家臣

を伴って吉利に移ったが、当時の吉利は田地が少なくむしろ未墾の地であった。重張に従って移住した
ものの、その多くが生活に困って旧領地へ引き返す者も少なくなかったという。

その中の一族・桑代家も旧領地へ引き返す途中の旧暦12月30日夕方、知覧町の桑代に辿り着いた。
明日からは峠を越えてさらに何日かを費やして帰っても、そこは既に他家の領地であり、土地も家も

没収されていることは分かっていた。いろいろ思案の末、ここに留まって居住地とすることにした。
桑代を中心に上之町(松尾家)、中福良(田中家)に居を定めることにした。翌日は元旦だったが、

長い旅続きで蓄えもなく、正月は何も飾ることはできなかった。以来、今日まで正月の松飾りなどは
しないしきたりになっている。桑代一帯に落ち着いた一族の長老は、その死に臨んで、

「自分が死んだら、これまで過ごした佐多の地が見える所に埋めよ」と言い残した。遺族たちは遺体
を桑代に埋めたが、その遺言を守って大隅の地が望める松ヶ平の唐人松の下に墓を建て、以来、

三集落の若者が2人ずつ年4回の墓参りを欠かすことなく続けて、太平洋戦争中も女性が代わりに
続けてきたという。ところが昭和30年代に入り、若者が都会に出て行って戸数も人口も減少し、

やむなく歳をとった女性が墓参りを続けていたが、目印の傘松は枯れ、造林によって林相は変わり、
かつての知覧街道も荒れ果てて、通る道すら分からなくなってしまった。

このため昭和52年(1977)、桑代集落の墓地改造を機に、唐人松の墓地をこの墓地に移すこと
にして共同墓地の中央に“桑代氏祖先之墓”を建立し、昭和53年(1978)1月29日改葬され、
ここで永久に村人たちを見守り、また村人たちが見守ることになった。

薩摩藩領内には“唐”のつく町名・港名などが多い。唐はもちろん外国の意味で薩摩が立地・気象・
海流など海上交通の条件に恵まれ、古来から中国・朝鮮・東南アジアとの往来が盛んだったからで
ある。本町でも旧市の唐人潟、唐人松に何らかの由縁を感ずる。

――『喜入町郷土誌』



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 01:49:49.69 ID:b2XKvRfw
産業で頼む

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 07:56:39.51 ID:ZJ5kSamD
むしろ長文がダメな人が来る所じゃないような

諸塁はたちまち日新公に

2018年04月09日 18:17

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/08(日) 21:19:04.62 ID:F5+CTd0X
天文5年(1536)11月29日夜、島津忠良は兵を率いて下神殿に向かった。下神殿から上神殿
にかけては島津実久方の諸氏が塁を構えていたが、忠良に降を請うたための出陣であった。

『日新公御譜中』によると既に日は暮れて雨が降り、とても暗いので道が分からなくなった。すると
日新公(島津忠良)の左側の足元に蛍火ほどの火が草むらに流れ、だんだん大きくなって蝋燭の火

ぐらいになったものが3つ部隊の先頭に立って道を照らした。日新公は「これは稲荷大明神の御助け
であろう」と誠心誠意祈念し、兵士たちもまた一生懸命に祈った。

このため前途ついに支障もなく塁に到着し、諸塁はたちまち日新公に属したのだという。

――『松元町郷土誌』


一宇治城攻略と狐火

2018年04月05日 17:56

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/05(木) 04:06:15.40 ID:Gk2DZ6cZ
島津忠良・貴久は島津実久方の要害・一宇治城を攻略せんと、同城を守る町田用久を誘ったが、彼は
まったく応じなかった。そこで千余騎を率いて城を攻めたが、堅城ゆえになかなか落とせない。

この時の用久は実久を訪ねておりそこを狙っての攻撃であったが、このままではいずれ実久と用久が
駆け付けて来て貴久らの大敗北は必至であった。夕方になって事態を危惧した忠良は、

家臣で山伏の本田石見房慶俊を呼んで落城祈願を命じた。慶俊が祈願を行うと城の西北部、本陣から
700mほど北方、城麓の振木口という神之川の川辺あたりに狐火が起こり、それが林間を山上へと

上っていった。そこでその跡について行って攻め込んだところ、容易く攻落することができたのだ
という。険峻を頼みにして守備兵を配置していなかった現在ザビエル記念碑のある神明城付近に

突入したのではないだろうか。忠良は石見房の功を賞して城の東方護摩所から東に向けて矢を射らせ、
その矢の落ちたところに稲荷神社を勧請して石見房に守らせた。

上之平の稲荷神社がそれで、石見房は犬之馬場の旧伊集院庁舎一帯に屋敷を賜り、子孫が現在に至る
まで神社を管理している。この稲荷神社は藩政時代に伊集院五社の一つだった。

また本田家は伊集院の四名家の一つに数えられ、石見房の曽孫・吉藤は島津義弘の小姓として関ケ原
の戦いに参加して義弘から感状を賜り、幕末には本田兄弟が西郷隆盛によって墓碑を建てられるなど、
人材を輩出していった。

――『松元町郷土誌』



755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/06(金) 23:18:52.42 ID:7SzY1fCD
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´  狐じゃ、狐の仕業じゃ!  >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
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756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/07(土) 04:18:44.50 ID:iHRMdr3k
by モンゴメリー

敗走した後、残された兵卒はどうなったか?

2017年12月22日 17:41

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 21:58:50.88 ID:JNQX2C1W
天正十五年正月十九日、島津修理大夫義久は戸次川合戦についての弁明および
秀吉への恭順の意を示す書状を豊臣秀長および石田三成に寄せた

先年冬、互いに使者を指し登せ友誼を定めようとしたところに
かくの如くも首尾(戸次川合戦)となってしまい
急使を得て追って飛脚を申し付けいたします

そもそも大友家が他邦と連合し、こちらに攻めてきたのは歴然たるゆえ
分国および日向の境まで発足いたし、防ぎ矢として軍勢を差し向けたところ
仙石殿・長宗我部殿が義統と一致をなされたため、両将に対し

「この度の御下りは関白殿下の御下知であろうが
 当家は大坂に対して毛頭も逆心を構え存ぜざる上は、何卒御引き取りを願いたい」

と申し上げたところ聞く耳を持たれず、我らに攻めかかってこられました
異議に及ばず一戦して勝利を得たものの
敗北した豊後勢が、仙石および長宗我部勢に紛れ区別できなくなり
結果的に数千騎を討ち果たす事になってしまいましたが
これはもとより本意ではありません
しかしながら、我らの間に疎隔が存じていないのは
合戦後、府内において、京・四州の士卒が難儀のところを
我が弟、中務少補家久が大船三・四艘程も調達し
彼らを送り出したことを持っても明白であり
これを証しとして、何卒秀吉公へのお取り成しをお願い申し上げます

(合伝流闘徴禄日本戦史)

軍監が供回りのみを連れて敗走した後、残された兵卒はどうなったか?
という疑問に対する答えが書かれた書状である
当時仙石家にいた後藤又兵衛や庄林一心もこの船で帰ってきたのかも知れませんね



418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 22:59:32.94 ID:7a3MXH0t
ちょっとイラッとしたから数千人ぶち殺したけど冷静になったらやべーわってことで船を何艘か用意したんで許してくれやってことか
さすが鬼島津無茶苦茶やんけ

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 23:14:18.95 ID:Q69eCTkr
何を普通だと思ってるのか知らんがどういう解釈だ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 07:50:28.68 ID:PM/fY5US
鬼は鬼畜の意

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 08:34:01.60 ID:q+zFI8EU
お手紙でなんとかしてしまう引きこもり長男最強やん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 09:46:11.23 ID:qpbVehiP
形に残るものでは相手をなだめるのが基本かと

肥後の加藤が来るならば

2017年10月25日 19:07

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 17:50:24.41 ID:pJNNrnk5
薩摩の兵児(へご)の謡に

『肥後の加藤が来るならば、焔硝肴に団子まうそ それでもきかずに来るならば、首に刀の引き出物』

というものがある。
『団子まうそ』とは、即ち弾丸を以て膳に変えるという事である。

当時、加藤清正が肥後国に封じられていたが、島津氏はこれと境を接し、非常に警戒しており、
出水郷に要害を築いた。その時この謡をつくり、人夫たちに歌わせたそうである。

(今古雅談)



340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 18:25:09.83 ID:uHmIUURg
速攻で秀吉に訴えられそうだがw

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 19:04:50.40 ID:Ef10S7lE
NHKのその時歴史が動いたか何かで
「あく巻」ってお菓子といっしょに紹介していたような
秀吉の九州征伐の時の話と言ってた気がするけど、その時はそんなに加藤清正有名じゃないか

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 21:04:01.30 ID:CcjnGyV8
あく巻き、あんまり美味しくなかったなあ
もっと砂糖を使えばよかったかなあ

九州戦の頃の清正って官僚としての役割を期待されていたんだね
ときたまそういうコメントが出てはいたけど、もともと代官職が板についてた人だったんだね

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 21:44:02.95 ID:Sc/A6gmx
小西行長「あの…」

西江左足のきゝし

2017年09月05日 17:28

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 10:20:51.55 ID:aCPiblhV
西江久右衛門という者が島津中納言(忠恒)に仕えていたある時、忠恒が家来を叱りつけ、
その脇に西江が平伏していた。

叱責をしている内に忠恒の目の色が変わり、この者を手討ちにしようと考え、刀を抜こうとした、
しかし叱責されていた者もこれを見て、身を沈め刀に手をかけた。

この時、脇に居た西江はとっさに、この者の刀のこじり(鞘の末端部分)をそっと持ち上げた。
このためこの者が前に倒れた所を、忠恒が手討ちにした。

忠恒はこれを感じ入り、「西江は左足がきく(西江左足のきゝし)」と賞賛した。
左足で刀の鞘を持ち上げたのであろうか。

忠恒はこの手討ちの時、顔色いささかも常と変わらなかったとのことである。

(士談)



96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 10:44:07.14 ID:UYv4oUVb
基地外すぎるw

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 12:12:14.33 ID:JxXPtsVL
>>95
さすが島津…w

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 15:29:07.38 ID:K7LHrv19
平伏状態から左足?
例えじゃないのか

祁答院河内守良重、妻に殺されること

2017年07月08日 21:05

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 20:37:56.91 ID:PrBVm7dg
城巡りをしている鹿児島の親戚が「鹿児島には夫を殺した怖い姫様がいる」と言ってたので調べたらこんな話があった。
薩摩藩の「本藩人物誌 国賊伝」より
祁答院(けどういん)河内守良重、妻に殺されること

祁答院氏は渋谷氏の一族であり、良重は13代当主で妻は島津薩摩守(島津家の分家)義虎の姉。
「人となり驍勇にして能く強弓を引く」
入来院、東郷、蒲生等と徒党をなして数年島津貴久公に叛いていた。
蒲生氏が島津の加治木城を攻め、島津貴久が良重の籠もる岩剣城を攻めたところ、
良重の嫡子重経が蒲生軍とともに2千人を引き連れて、貴久と戦うが戦死。
岩剣城が陥落したため良重は逃亡、帖佐城、祁答院と落ち延び、蒲生や東郷とともに再起を図るが
島津貴久軍に敗北。

永禄九年正月十五日、良重夫人の為に殺せらる。
良重、生来放逸荒淫。夫人、その所業を諌めれども用いず。
ここにおいて、この夜酒を勧め酔い伏したるを夫人、手ずから良重を刺殺す。
この時良重が小姓、村尾亀三、左右に宿直す。
則ち屏風を以て夫人を押さえ、また刺殺す。
ここに至りて祁答院氏滅ぶ。享年四十一。祁答院の所領悉く入来院重嗣の有となる。



943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/09(日) 22:20:50.89 ID:1EgqCX8r
>>938
小姓の村尾亀三は後に義久公に召し上げられ、元服後は村尾源左衛門と名乗る。
(祁答院記)
元服後、村尾源左衛門と名乗り、入道の後は笑清と名乗る。義弘公の下高名
を得る。(宮之城記)
祁答院良重についてこんなサイトを見かけました。
秋津島舞(アケスメロ)(鹿児島県さつま町)
http://www.senjudou.com/blog/ppBlog/index.php?UID=1377062519

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 22:32:02.21 ID:XNinJIxW
貴久、義久に通じていた村尾が二人を殺して
「夫人が良重様を殺したから自分が夫人を討ちました」
と偽装工作した、てことだったりして

皆さん歯を大事にしましょう。

2017年06月24日 18:43

54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/24(土) 18:19:04.41 ID:s9WvoSYg
鹿児島県鹿児島市にある松原神社。松原神社は、天文館という鹿児島で一番の繁華街にあります。
ここは島津家の15代当主
島津貴久(靖國崇勲彦命(クニムケイサタカヒコノミコト))を、主祭神として祀っています。

かつて、このあたり一帯に、名刹・曹洞宗福昌寺の末寺である松原山南林寺がありました。
南林寺は、弘治二年(1556)島津家15代貴久によって建立され、大いに賑わっていたといいます。
貴久の死後天正十年に義久が南林寺を貴久の菩提寺に定めました。
明治二年(1869)の廃仏毀釈によりとりつぶされ、翌年、跡地に松原神社が建立されました。

松原神社には他にも戦国武将が祀られております。その人物について、神社内にある、
鹿児島県歯科医師会によって建てられた説明板には、次のように由来が書かれています。
「祭神は島津貴久公の臣 平田純貞 元亀二年(1571)三州平定途上、急死の主君の無念を思い出家諸国を遍歴、
元亀四年亡君命日六月二十三日殉死の作法に従い、うつろ舟に乗り蓋を釘付けに海に流させた。読経歯ぎしりの音、
三昼夜壮烈な殉死をげた。遺体の歯は抜けていた。当時歯痛に悩む人は自分で歯を抜いていたが、
自然に歯が抜けた純貞は、歯の神様と崇められるようになった。」

また、別の説として、鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)では次のように記載されています。
「島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、
九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く
統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛は
あるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。」

なお、うつろ舟については、次の資料を見つけました。
「空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、
その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、
万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。」

純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、
これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。
その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社が
その西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというの で早速これを西向に改めたところ、
忽ち天地が元のように晴朗になったという。
何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。

鹿児島県歯科医師会では、1960年頃から毎年6月4日に松原神社で”抜去歯”の供養祭とともに
「歯の神様」の祭礼を行っています。
(2017年は60人ほどの参加あり)

数年前の新聞の記事では抜去歯の数は二万本ほどだったそうで、皆さん歯を大事にしましょう。

松原神社
https://www.matsubarajinja.com/




55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:32:37.43 ID:B5sHcQLP
島津斉彬の照国大明神、ててっきり天照大神に対抗して東照大権現になった徳川を倒した薩摩が
「東」より広い「国」にでもしたのかと思ってたけど
島津貴久が「靖國」だったからてだけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:44:27.62 ID:D++bK00K
うつろ舟と言ったらこれ?
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Utsuro-bune.jpg
Utsuro-bune.jpg

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 20:46:04.57 ID:TUR15A8h
補陀落渡りでもするのかと思った

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 21:14:45.36 ID:B5sHcQLP
補陀洛といえば
ポータラカ→補陀落→ふたら→二荒→にこう→日光
となったというのを近頃知った

権現様も補陀落に眠ってるということか

彼らが通過した後には、何一つ

2017年05月29日 18:40

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE
もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を


中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、
嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。
それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。
これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。
中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕
彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、
立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。

薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、
打ち壊し蹂躙し始めた。
彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。
またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、
とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。
これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。
彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。

(フロイス日本史)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:17.08 ID:12qJD4CN
>>799
キリスト教が嫌いな佐伯さんが勝ってるのは無視される

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど

溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



ひえもんとりの話し

2017年05月14日 21:29

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 02:09:12.49 ID:+pXIAOKs
祖母が高祖父から聞いた幕末の薩摩のひえもんとりの話しです。
戦国の話ではありませんが、出回っている話しと幾分か違ったので書かせたいただきます。

幕末の頃、寺町の関所横(割と城下町の真ん中)に処刑場があり、毎年年末の29日にまとめて処刑を行っていた。
その日になると吉野方面(鹿児島市北部の山間地帯)の農家の人はふんどし一丁に
小刀をさしただけの姿になり待機をする。
処刑が始まると大太鼓がどーんどーんどーんと三回鳴らされ、その音は静かな時代、遠く吉野のほうまで鳴り響き
それを合図に皆、処刑場まで走り出す。
互いを傷つけたりしてはいけず、いくつかある死体の肝臓に一番早く触った人がその肝臓全部の権利を得ることが出来た
との事でした。手に入れた肝臓は漢方の材料として売って収入源に、残った遺体は遺族へ渡されるか無縁仏として葬られたそうです。
なお、ルールとして肝臓以外に手を出してはいけなかったとの事です。

祖母の家は上士の家系だったのですが高祖父曰く、士分のものや町民は一切参加しなかったとの事です。
(吉野方面の農家って郷士だったんじゃとも思うのですが…)
その日は婦女子は出来るだけ出歩かないよう、又 餅もついてはならないと教わったそうです。

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 02:22:52.30 ID:+pXIAOKs
派手に話されている ひえもんとりの話しも実際はもっとマイルドな話しだったんじゃないかなと
話しを聞いてみたのですが、マイルド?な話しを聞くことが出来ました。
祖母が聞いた話では死刑囚の肝臓が無くなるのは当たり前のことで他の藩でも普通だったとの事です。
山田浅右衛門の人胆丸みたいに役得となるかイベントとなっているかの違いだけ?じゃなかったのではないかと話していました。

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/14(日) 02:43:27.25 ID:+pXIAOKs
書き忘れですが、処刑自体は処刑人が行い、死体を噛み千切るとかそんな事はしなかったそうです。
疑問点としては街中の関所横に処刑場というのは他の藩でも普通だったのでしょうか?



778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 06:03:16.94 ID:P6hbbHdU
>>775
興味深く拝見しました。
刃物を持っている人同士で、怪我しないように競って罪人の腹を割くとか、どんな光景なんでしょうね。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 07:50:55.97 ID:yFll/uYs
>>777
うちの宿場(下総船橋)は入り口に処刑場があったと言われてる
いまじゃ街の中心部だけど

780 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2017/05/14(日) 09:48:01.08 ID:5jSUW0GA
>>775
江戸時代 全国的に民度が上がったから ひえもんとりも嫌がる人がほとんどだったのかな
戦乱が続いてたら やる人が多かったのか
戦国時代の人々からしたら ひえもんとりって魚さばくのみたいなもんだったのか

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 09:50:00.10 ID:5jSUW0GA
>>775
あと死んですぐの肝臓じゃないと漢方薬にならない気がするが

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 09:54:52.69 ID:5jSUW0GA
>>781胆汁酸とかビタミンBとか

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 09:55:59.69 ID:gXRMVWjO
現代なら有害物質の塊だろうな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 10:08:37.30 ID:yFll/uYs
ふっと思い出した
最近、南アフリカ近海のシャチがホホジロザメの肝臓だけを食いちぎる事件が相次いでいるとか

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 10:24:51.33 ID:5jXpkcOs
幕末になってもひえもんとりやってたんだ

そんな最近までやってたなら鹿児島伝統のエクストリームスポーツとして
現代風にアレンジしてレクリエーションに取り入れられないかな

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 10:40:10.00 ID:dzos3kiU
>>775
面白い!幕末にもなるとひえもんとりも落ち着いて?そうなるのだろうか…。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 12:36:49.85 ID:rtum+u/v
>>785
海音寺潮五郎によれば
西南戦争で鹿児島にやってきた政府のスパイにもやってたとか
毅然として死んだんで海音寺潮五郎の祖父の知り合いが死骸が置かれてるところに行って懐を探ったが
すでに誰かにとられてたとか書いてた

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 12:48:46.31 ID:+pXIAOKs
「人胆丸」は結核に効くと信じられていましたし需要は大きかったんじゃないでしょうか。
明治3年に公的に販売が禁止されたそうなので闇市場では需要・価格共に上がっていたんでしょうね。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/14(日) 23:00:17.73 ID:E6ADoo4Z
>>779
東京の板橋宿では近藤勇が処刑されてたり

新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)