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清正は大馬鹿者だ!

2019年08月07日 18:03

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/07(水) 12:41:58.23 ID:NfUoYjq1
石川左近将監(忠房)が大番にて大阪城に在番していた時、毎夏の虫干しが有った。数々の武具、兵具などを
取り出し、その掛りの武具奉行らが取り扱って、御蔵より持ち運ばせたのは加番大名(大番の加勢)の
人足たちであった。

数多の鉄砲の内、群を抜いて重いものが有り、これの搬出にあたった者も甚だ持ち悩み
「多くの内、このように重いものはどんな人が持っていた鉄砲なのか。」などと不満を口ずさんだが、
よく見るとこの鉄砲には『南無妙法蓮華経』と象眼にて彫り入れてあった。これについて、詳しい者が

「これは加藤清正の持ち筒を納めたものだ。清正の武器には題目を多く書き記している。」と言った。
皆々はこれを聞いて「剛勇の清正所持の上は、そのように重いのも当然であろう。」と感称したが、
鉄砲を担いできた人夫は

「清正は異国までもその名を響かせた人であるが、人を殺すべき鉄砲に題目を書くなど不都合である!
殊にこの鉄砲を担いだおかげで大いに肩を痛めた。大馬鹿者だ!」

そう散々に清正を悪口していたが、俄に心身悩乱して倒れた。程なく起き上がると憤怒の勢いで叫んだ
「雑人の身分として我を悪口なしぬるこそ奇怪なれ!」
それまでの人夫の口上とは全く違い、その凄まじさは言葉にも出来ないほどであった。
周りに居た者たちは色々詫言して宥めたが、まったく承知しようとしない。仕方なく、その時の
加番が松平日向守(直紹)であったため、その小屋にこれを報告した所、日向守の家老が驚いて、
俄に裃などを着し、かの場所へ駆けつけた

「さてさて、不届き至極なる人足かな。事にもよって、故有る武器に対しての雑言、憤りの段尤もであり、
恐れ入り候へども、雑人の義であり、何分宥恕をあい願う。」旨、丁寧深切に述べた所、かの人足は
威儀を改め

「免しがたき者なれども、雑人の義、その主人の断りも丁寧なれば免しぬる。」
そう言うと倒れた。彼は2,3日は何が有ったかわけがわからず人心地も無かったと、左近将監が語った。

(耳嚢)



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清正像の怪異

2019年08月06日 17:46

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/06(火) 16:16:59.79 ID:/b25XDa/
肥後の熊本には加藤清正の廟(発星山本妙寺)が有り、像もあるという。現在の領主である
細川家に於いても厚く尊崇され、供僧などを厳しく付け置き、時々に供膳、香華を備えていた。

この供僧なる出家、ある時膳を据えて亭坊(住職の居る坊)へ下ろうとしていた所、清正の像の覆いに、
鼠が損した所があるのを見つけた。かの僧が言葉に出さず、心にて
『清正は無双の剛勇にて異国までもその名が轟いた人であれば、鼠などが害をなすことはありえないだろう。』
そう思いながら下山し、暫く過ぎて膳具を取りしまわんと、かの山に上った所、配膳のほとりに血が染み、
膳の上に大きな鼠が、五寸釘にて刺し貫かれていた。
これを見たかの僧は、ほとんど気絶しそうに成るほど驚き、ほうほうの体で下山したため、
その他の僧たちが上ってかの場所を清め膳を下げたのだと、これは肥後の者が語った所である。

(耳嚢)



アンコールワットに渡ったという森本一房について

2019年05月24日 14:41

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 11:45:39.91 ID:ISgK1XN7
加藤清正の家臣である森本義太夫(一久)の子(次男)を宇右衛門(一房)という。
牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。

この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)

またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)

近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。

また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。

彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。

(甲子夜話)

アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 13:34:27.02 ID:DIUlQ1Gk
>>61
ガリバー旅行記みたいだなw

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 15:24:00.04 ID:5bhEUb8Y
ガリバー「踏み絵を拒否したら怪しまれた」

この両人は隠れ無き武勇の者なり

2019年04月11日 18:15

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 17:25:17.16 ID:lNjfT+Y9
加藤清正の先手の大将は、森本義太夫(一久。原注:5千石)・庄林隼人(一心。原注:5千石)・飯田角兵
衛(直景。原注:5千石)・三宅角左衛門(原注:3千石)。

飯田・三宅は普請奉行である。この両人は隠れ無き武勇の者なり。

江戸で評議があって「又者(陪臣)で確かな武勇があるのは誰か」と言った時、「清正家中の飯田角兵衛なり。
高麗で天下の人数を引き回したのは、古今においてこの者である」と言われた。

また、吉村吉右衛門という者も清正家中で武勇の者である。

――『老人雑話』



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 17:31:14.19 ID:lNjfT+Y9
>>845
誤爆orz
いい話でした

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:45:11.15 ID:LRQ0nIoS
>>846
まあまあ
でもあれだね。勇将の下に弱卒なしというか
清正ってやっぱり凄い

この二つは最も名誉とされる事である

2019年03月06日 19:41

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 06:16:40.26 ID:REEwPBTX
加藤清正が蔚山において援軍来たらず、兵粮も既に尽きて、馬を殺してこれを喰った。
そこで兵力が完全に疲弊する前に斬って出て闘死せんと議する所に、漢南人もまた
兵粮が続かず、兵を引いて帰った。清正は九死に一生を得たのだ。

その時、夜半に石火矢の発射音が山川を振動させた。蔚山城中では、漢南人が夜に乗じて
攻め入るのかと、持ち口を固めて待ち構えたが、その後は寂として人馬の音もなかった。
夜が明け、漢南人の陣を見ると、夜の間に皆引取って、ただ空営の跡のみ残っていた。
蔚山城より十町も離れていないのに、2,3万ほどの人数を引き取っても、城中にその気配が
聞こえなかったのは、彼らの軍令が能く徹底されていたためで、これは日本兵の及ぶところではない。
その後陣屋の跡を見た所、厠が一つもなく、また糞尿の汚れも無かった。
この二つは最も名誉とされる事である。

(武将感状記)

割と珍しい(?)、朝鮮役の明軍を評価している逸話。



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 11:22:36.66 ID:1Sh+A8XF
明人はウンコしない

我らも御爪の端

2018年05月02日 10:43

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 22:27:36.66 ID:mqhkJOQK
賤ヶ岳七本槍とは、加藤虎之助(後肥後守清正)、平野三十郎(後遠江守長泰)、脇坂甚内(後中務安治)、
加藤作内(後左馬助嘉明)、戸田三郎四郎(後民部勝隆)、福島市松(後左衛門大夫正則)、
糟屋内膳(武則)達であった。

彼らは賤ヶ岳七本槍と成るまで、領地を150石づつ与えられていた。
ただし糟屋内膳は元播州赤松家の家臣であり、赤松死去の後、良き才能を持った者として
500石にて抱えられていた(実際は別所長治家臣)。

賤ヶ岳の合戦の後、七本槍のうち6人には三千石に帷子35枚、黄金5枚づつが与えられた。
しかし福島市松には、五千石に帷子25枚、黄金5枚が与えられた。

彼らには羽柴家の筆頭家老である杉原伯耆がその朱印を渡したのだが、加藤虎之助が激昂し
声高に叫んだ

「市松も御一家なら我らも御爪の端であります!どうして二千石も劣るのでしょうか!?
今度の槍働き、私は市松に少しも劣っていない!これは伯耆様にお返しいたす!」

そういって加増の朱印を受け取ることを拒否した。

虎之助の言葉は声高であったため、秀吉の耳にも聞こえ、
「虎之助は惣じてうつけ者であるな。今回の加増の後に、市松と同等に取らせてやろう。」
そう仰せになった。

後に虎之助には播州姫路において加増が有り、所領は合計して五千石となった。

福島市松は秀吉の甥であり、加藤虎之助は従兄弟である。

(祖父物語)

何故か片桐且元がハブられ戸田勝隆が入っている賤ヶ岳七本槍



840 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/01(火) 23:42:19.05 ID:4jukLEbl
且もっちゃん…

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 06:35:00.00 ID:6zgg/rXt
片桐さんはどこにいってもいじられるそんな存在なのか。真田丸の片桐さん思い出した。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 06:58:00.29 ID:BVgUNKb5
ホントは石河兵助と桜井佐吉も入るんだろ

上下の間の作法を申し付けぬ人

2018年01月30日 18:04

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 00:02:00.17 ID:0It5AjrQ
上下の間の作法を申し付けぬ人


寛永9年12月に、細川忠興が熊本に四男の立孝を呼び寄せたところ
立孝に付くことになった地元の従者が"上下の作法"を知らなかったので
笑ってしまったという話を嫡男の忠利宛てに書き送っている。その手紙の中で

寛永9年12月14日の忠利宛て忠興書状(細川家史料)
『古肥後(加藤清正)は一切上下の間の作法を申し付けぬ人であった。
 高麗などでも左様に見えた』

と40年以上前の話を持ち出して、清正のせいで熊本の侍の
態度が悪いと皮肉っている。よっぽど不快だったのだろうか?



517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 11:39:32.08 ID:+FDuZGLA
下人から成り上がった者は下々と親しく振る舞うからね
将軍に仕えてたお大尽とは接し方が違う

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 12:26:31.16 ID:wMisgGOo
儀礼をわきまえてないのと親しくするのは全然違うことでしょう。
現代でも「親しき仲にも礼儀あり」と言いますからね。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 21:43:00.66 ID:BKmLaQWd
>>518
無礼講って言ってたのに機嫌が悪くなるクソ上司に似てるな

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:03:56.08 ID:rz1wIjlV
>516-517
真田丸で豊臣系の成り上がりの家に不快感を示してたのはこの辺の話がベースだったっぽいね
ただ加藤家が残ってる頃だと黒田家とは違い付き合いは一応してたので
「熊本から贈られた海苔美味しい」とか言ってる三斎様

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:35:45.02 ID:qyN129Vt
>>520
肥後治めるのに清正を最大限立ててもいたしなぁ。結果、熊本で何かといえば全部清正に。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 08:35:08.35 ID:r/L94H6H
>>519
ゴメン。
この話題からその感想は理解不能。

武芸の他に乱舞の稽古をしているような輩は

2017年11月13日 16:44

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 09:55:46.66 ID:QSoFrhPh
加藤清正は、家中の大身小身に限らず、武士が覚悟すべき条目を発したことがある。
その詞に曰く

『奉公の道、油断するべからず。朝は辰の刻(午前7時頃)には起きて兵法の鍛錬をし、食事を取り、
弓を射、鉄砲を撃ち、馬に乗るべきだ。武士の嗜みの良い者には、別して加増を与えよう。

乱舞は完全に禁止する。太刀を手に取れば、人を斬ろうと思うものである。である以上、万事は
一心の置き所から生ずるものなのだ。武芸の他に乱舞の稽古をしているような輩は、腹を切るべきだ。

武士の家に生まれた以上、太刀を取って死する道こそ本意である。常々から武士の道を吟味していなければ、
潔い死はし難いものだ。よくよく心に武を究める事が肝要である。』

(士談)



411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 11:11:34.93 ID:SMfEMYwZ
ですってよ、柳生宗矩様

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 12:31:03.05 ID:6dPD9ssn
>>411
宗矩の甥の利厳「加藤家に仕えましたが何か?」

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 12:37:35.95 ID:K3XZqWFk
>>411
むしろ秀吉に対する挑戦状じゃないかと

414 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/13(月) 13:32:12.44 ID:JiaZg2xL
尼子経久「若い頃、正月の月山富田城で大乱舞大会やったけど、アレは楽しかったなあ」

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 14:07:33.86 ID:CajRvILA
大乱舞ですとな。

416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/13(月) 14:16:12.22 ID:JiaZg2xL
>>415
750人くらいの首が舞った正月の大乱舞ですぞ

印を見せて

2017年08月06日 16:23

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 08:16:22.99 ID:0wSsLWfk
加藤清正が朝鮮の王子を捕虜とした時、王子と随臣たちは数日間食を摂っていなかったので、
清正は王子側に聊かも強く当たること無く、すぐに座を設けて膳を整え、食を薦め饗応した。
酒が三度めぐる頃、清正の近習の兵たちが、肴を用意する為走り回っているのを見て、王子の
臣下たちは驚いた。

「これは清正が王子を欺いて害しようとする謀ではないか!?」

そして半弓を引いて清正の方に向き、彼に矢を放とうとした。

清正はこの誤解を解くため説明するにも、言葉が通じないので聞き入れてもらうことは出来ない。
そこで彼は、印を手にして彼らに見せた。これにて『この印を押した誓約が違わない事』を表したのだ。

これにより従臣たちの心解けて半弓を置いた。この隙に清正側は王子を彼らから離して身柄を確保したため、
従臣たちの興奮も自然に静まったという。

(士談)



127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 12:29:26.67 ID:+WlXfnng
半弓もたせてんの!?w

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 13:57:42.06 ID:4d+IWi5I
昔から何をしても勘違いするお国柄か

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 16:42:24.48 ID:geByxlBJ
捕虜だったらお国柄関係なく殺されるのは警戒するだろそりゃ

夢のお告げの大石を

2017年07月16日 17:23

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/16(日) 14:47:54.59 ID:+Kef9Q/f
朝鮮征伐の時、高麗において漢南の加勢が、百万の大軍にて押し来たるとの情勢の中、
日本軍の兵士たちは疲れ果てており、気は弱り勢いも遅れていた。

この時、加藤清正は早朝に出てきて兵士たちにこう語りかけた

「昨夜、珍しき瑞夢のお告げがあった。今日、押しゆく所の道に必ず大きな石がある。
これを引いて帰れば、戦は必ず勝利するということを、まさしく私は見た!
夢は信じるに足らぬものだというが、合戦に挑む前表、吉凶必ず著しきものなのだ。」

そう大いに喜んで押し行った所、はたして大石があった。清正はこれを見るや

「その形、昨夜夢で見たものと聊かも違わない!天のお告げであること、明らかである!」

そして自身で石の上に上がり、大声を上げて木遣をして兵士たちに引かせた所、諸軍大いにいさみ、
問題なく引いて帰った。そして軍士たちはこれに気をはげまし、大いに勢いを取り戻したという。

(士談)


加藤の亡魂

2017年06月14日 19:00

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:02:25.08 ID:OUrzwPNV
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:05:07.82 ID:e6F4knWm
横領とは酷い表現だな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:34:30.30 ID:WE0HmbYS
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/14(水) 09:53:05.94 ID:xVPK1Uvj
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
          | ヽ |||||||||||||||||||| :|
          ! !;ヽ:||||||||||||||||||||!; |
      .__|  |/|||||||||||||||||||||; |____
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28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:16:45.54 ID:TDMsc1AT
忠広の生霊か

三ヶ条ほどは珍しいことを

2017年05月24日 19:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 18:34:43.68 ID:DnRcAem5
加藤清正が高麗より帰国し、ある夜の物語に、森本儀太夫(一久)、飯田覚兵衛(直景)、庄林隼人(一心)といった
者たちに

「高麗在陣数年の間、何事につけても武功に成るべき筋道を見覚えただろうか?」

そう尋ねた。いずれもこう答えた

「別に珍しいと存ずるような事もありません。ただし、三ヶ条ほどは珍しいことを、高麗において心得ました。」

清正これを聞いて
「私も三ヶ条の心得を得た!であれば各々に入り札を書いて、その実否を糺そうではないか!」

清正は自分の心得を書いて他の面々のものと見合わせた所、その内容は皆、一致していたという。
ある事を詳細に究める時は、自然に同じ理屈に至るものなのだと知るべきだろう。

ただしこの時の三ヶ条が一体どういう内容だったのか知られていない。
ある人が言うには、

『2つの山の間の谷間に蘆の茂った所があった。その山に上がって押し通っていると、唐人3人、
向かい側の山上にいて馬をキリキリと輪乗りにいたし、一人づつ段々に乗り回しているのを見て、
「さてはこれは何かの合図だ」と、下の葦の茂みを探索すると、はたして伏兵を発見した。
馬の乗りようにて合図を致すというのは珍しいことである。』

という内容が、三ヶ条のうちの一つだという。その他は知らぬと、その人は語った。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 18:50:24.34 ID:K4L+UcD/
>>955
肝心なとこ覚えとけよw

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 19:08:41.39 ID:utHa4ctx
そういうところは他人に教えないんじゃない?

加藤清正石垣の上手なる事

2017年05月17日 14:06

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/16(火) 23:23:14.96 ID:9GfvhoH8
加藤清正石垣の上手なる事

 加藤清正は石垣の上手であったという。
今肥後熊本城の石垣はもとから高かったが、
その下から走り上ると二・三間は自由に上れるが、
それから上の所では頭の上に
石垣がのぞきかかって、空は見えないという。
伝わるところでは、清正が自ら築いたそうだ。

 これは熊本に住んでいる者の話である。

(甲子夜話)

加藤清正石垣の上手なりしこと

 加藤清正は石垣の上手であった。
ある人が言うに、
「私が肥後に言ったとき、熊本城の石垣を見ると
高いが勾配がなだらかで上れるように見えたので駆け上った。
四・五間は上れたが、石垣の上の方が頭上に覆って空が見えない。
そのためそのまま駆け下った。」
とのことである。

 この頃ある人が語るに
「大阪城西丸大手、御橋内御曲輪の石垣も清正が築いた。
それは御城御建築のとき、清正は石垣の上手なので台命があって、
清正自身の指図で築いたのだ。」
という。
よって今も、北は西丸大手の角から西は三角矢来までを清正石垣または加藤土居と呼ぶ。

 またこの云々は『白石随筆』、『岩淵夜話拾遺』にも出てくると。
予の物が類焼後、身近な書が焚亡したので、引用することはできない。

(甲子夜話三篇)




906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 00:04:17.26 ID:dJqOT0G2
石垣がカーブしてるのって建築上の理由もあってのことだからね

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 06:03:07.51 ID:2hXqqu9w
ちゃんと設計図ものこってるんだよね。

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 15:55:00.83 ID:OKCN1qvM
この前の地震でも、後年に建てられたり
改修されたとこは壊れて当時のは無事だったらしいな
戦国建築オーパーツ?職人すげー

元来片鎌である

2017年05月16日 16:40

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/16(火) 05:33:47.03 ID:9bONDsWt
清正の片鎌の槍は、木山弾正(正親)を槍付けなさった時に十文字の一方
が折れて片鎌になったという説があるが、そうではない。元来片鎌である。

――『武功雑記』


このせいだろうか、家来に優れた功者は

2017年04月02日 16:46

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:12:46.49 ID:FFz+Fxy5
加藤肥後守(清正)は物見に出る時も、自身で出て行った。

また、小屋などを掛ける時も自身で奉行を仕りなさった。
その小屋割までも申し付けなさった。万事この如くであった。

このせいだろうか、家来に優れた功者は左程出来なかったという。

――『武功雑記』



714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:32:31.32 ID:I/jla4Bs
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10561.html
同じように部下がやるようやことも率先してやるのに
三成はdisられるという

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:50:32.00 ID:n5dsJeVM
部下がやるような仕事を大名がやるのは低能の証拠

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 14:39:24.29 ID:kVLlzw6p
部下がやるような仕事まで清正がやってしまうためなのか
家臣がそれほど育たなかったといわれてるんだから清正も褒められてないだろ

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 23:44:16.84 ID:tNol9CVa
大将が物見だなんて例をあげればきりがないわ

清正の花押筆画多かりし事

2017年01月31日 15:47

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 23:54:08.09 ID:eGddXOW8
清正の花押筆画多かりし事

朝鮮より、諸将が連判の書を太閤秀吉に送るという時、加藤清正の花押が特に画数が多く、
書き上げるまでやや時間がかかったのを、福島正則は苦笑して
「こんな事では、仮に病が重くなって、いざ遺言を書くという場合にも差し障りがあるだろう。」

清正はしかし
「私はそうは思わない。戦場に屍を晒そうとも、汚く逃げてしとねの上に死のうとは考えもしていない。
であれば遺言状など問題ではない。」


これに正則は返す言葉もなかったという。
(常山紀談)

しかし

清正の花押
http://i.imgur.com/E988uIr.jpg
SnapCrab_No-0103.jpg

正則の花押
http://i.imgur.com/zBL2r6X.jpg
SnapCrab_No-0104.jpg

それほど手間に違いがありそうには見えないがw




567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 08:39:47.30 ID:NzQiGzf/
>>566
その花押はあからさまに家康に影響されたタイプだから、唐入りの頃とは違うでしょ。

隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

2017年01月25日 09:22

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 23:37:54.21 ID:4iYdPd+f
隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

 予の臣で佐賀の領の武雄の温泉に行った者がいる。
そこで武雄氏(武雄氏、本氏は後藤。佐賀侯の属臣)の臣の某と会って以下の話を聞いた。

 佐賀侯の先祖が朝鮮に渡って戦をした際、武雄氏の祖先も従軍していた。
そこで加藤清正から特に知遇を得て、
互いに帰国できたら自ら佐賀の地で城の縄張りをしようと清正は約束したとか。
結局、お互い無事に帰れたので言葉通りに清正の指揮でかの城を築いたという。
肥後の熊本は平山城、佐賀は平城。
この両城は、清正が全て縄張りしたといい伝わっているとか。


(甲子夜話続編)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 00:15:15.04 ID:oMhVRivl
武雄なら家信のことなんだろうけどそれで佐賀城?

朝鮮攻の節、香蘇散の験

2017年01月11日 17:48

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 23:22:56.32 ID:XIXVpzdu
朝鮮攻の節、香蘇散の験

 朝鮮攻のとき、渡海のうえ軍人達はかの国の水土に慣れていないためか多くが病を得た。
従軍の医師は正気散を用いたものの治らなかった。
時に清正の医が香蘇散を用いると、その陣は皆験を得た。
よって他の陣もこれを聞いて、その法を用いて治癒できた。
 その清正の医にその理由を問うと、

「軍中では病は鬱気から生じる。なのでこの方法を用いた」

人は皆その意見に服したという。

(甲子夜話続編)



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 09:46:08.98 ID:nl2Kp85n
えっと、香蘇散の効能はというと
・体力があまりなく、胃腸が弱い人の風邪の初期
・胃腸虚弱で神経質な人への風邪の初期
                   なんやらよくわからん.....。

ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする

2017年01月10日 17:49

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 00:45:25.05 ID:vf+7CHFY
ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする
http://i.imgur.com/SXF4eyC.jpg
http://i.imgur.com/3dDl9OC.jpg
SXF4eyC.jpg

3dDl9OC.jpg


愛宕に武運を

2016年12月23日 21:10

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 22:21:14.83 ID:QUkoz0tZ
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)