清正の花押筆画多かりし事

2017年01月31日 15:47

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 23:54:08.09 ID:eGddXOW8
清正の花押筆画多かりし事

朝鮮より、諸将が連判の書を太閤秀吉に送るという時、加藤清正の花押が特に画数が多く、
書き上げるまでやや時間がかかったのを、福島正則は苦笑して
「こんな事では、仮に病が重くなって、いざ遺言を書くという場合にも差し障りがあるだろう。」

清正はしかし
「私はそうは思わない。戦場に屍を晒そうとも、汚く逃げてしとねの上に死のうとは考えもしていない。
であれば遺言状など問題ではない。」


これに正則は返す言葉もなかったという。
(常山紀談)

しかし

清正の花押
http://i.imgur.com/E988uIr.jpg
SnapCrab_No-0103.jpg

正則の花押
http://i.imgur.com/zBL2r6X.jpg
SnapCrab_No-0104.jpg

それほど手間に違いがありそうには見えないがw




567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 08:39:47.30 ID:NzQiGzf/
>>566
その花押はあからさまに家康に影響されたタイプだから、唐入りの頃とは違うでしょ。

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隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

2017年01月25日 09:22

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 23:37:54.21 ID:4iYdPd+f
隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

 予の臣で佐賀の領の武雄の温泉に行った者がいる。
そこで武雄氏(武雄氏、本氏は後藤。佐賀侯の属臣)の臣の某と会って以下の話を聞いた。

 佐賀侯の先祖が朝鮮に渡って戦をした際、武雄氏の祖先も従軍していた。
そこで加藤清正から特に知遇を得て、
互いに帰国できたら自ら佐賀の地で城の縄張りをしようと清正は約束したとか。
結局、お互い無事に帰れたので言葉通りに清正の指揮でかの城を築いたという。
肥後の熊本は平山城、佐賀は平城。
この両城は、清正が全て縄張りしたといい伝わっているとか。


(甲子夜話続編)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 00:15:15.04 ID:oMhVRivl
武雄なら家信のことなんだろうけどそれで佐賀城?

朝鮮攻の節、香蘇散の験

2017年01月11日 17:48

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 23:22:56.32 ID:XIXVpzdu
朝鮮攻の節、香蘇散の験

 朝鮮攻のとき、渡海のうえ軍人達はかの国の水土に慣れていないためか多くが病を得た。
従軍の医師は正気散を用いたものの治らなかった。
時に清正の医が香蘇散を用いると、その陣は皆験を得た。
よって他の陣もこれを聞いて、その法を用いて治癒できた。
 その清正の医にその理由を問うと、

「軍中では病は鬱気から生じる。なのでこの方法を用いた」

人は皆その意見に服したという。

(甲子夜話続編)



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 09:46:08.98 ID:nl2Kp85n
えっと、香蘇散の効能はというと
・体力があまりなく、胃腸が弱い人の風邪の初期
・胃腸虚弱で神経質な人への風邪の初期
                   なんやらよくわからん.....。

ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする

2017年01月10日 17:49

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 00:45:25.05 ID:vf+7CHFY
ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする
http://i.imgur.com/SXF4eyC.jpg
http://i.imgur.com/3dDl9OC.jpg
SXF4eyC.jpg

3dDl9OC.jpg


愛宕に武運を

2016年12月23日 21:10

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 22:21:14.83 ID:QUkoz0tZ
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)



加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

2016年12月15日 14:56

413 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 05:59:58.19 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-52.html
で既出になるかも知れないけど

その昔、横手五郎と言う15人の人を一度に抱え上げる程の大力の男が居た。ある時、加藤清正公の行列が道を塞いだ牛の為に立往生して居たところに通りかかった五郎は牛を持ち上げどかして行列を通してやりました。

その後、熊本城を築いている最中、五郎の大力を見込んだ清正公は五郎に石垣を築かせたり井戸掘りの仕事を任せ、五郎はその大力を活かして他の誰より早くそれらの仕事をこなしました。

しかし、ある日清正公に五郎はかつて清正公が討った天草の木山弾正の息子であると耳打ちした者が居ました。
それを聞いた清正公は五郎は父親の仇討ちに来たのか、それにあの大力は石垣や抜け穴など城の秘密も知っとるしいつか城を乗っ取られるかも知れん。
と、疑いを抱き五郎を殺す事にしました。

そしてある日、五郎が井戸を掘っている所を狙って上から大石を落とさせ五郎を殺そうとしますが、それを知らない五郎は大石を何度も井戸から投げ返します。

しかし、何度も投げ込まれる石に五郎も遂に自分が殺されようとして居る事に気付き、覚悟を決めて大声で叫びました。

ワシを殺すなら石じゃダメじゃ、砂利ば投げ込め!

そして五郎は井戸に生き埋めにされて死んでしまったそうだ。

その後、城の基礎が出来上がりその後の工事の無事を祈る為に修験者が京より呼ばれ、祈祷をしたのだが、修験者は五郎が生き埋めにされた井戸の秘密を見抜き、
「この地には二つの呪いがかかっております。井戸に生き埋めにされた人足とその父親の呪いが」
と言いました。怒った清正公は
「ならばお前が人柱となり、呪いを解いてみせよ」
と、その場で修験者を手打ちにしました。しかし、修験者は今際の際に
「私を人柱にしても呪いは解けません。加藤様の家は呪いのせいで絶えてしまうでしょう。」
と言い残して亡くなったそうです。

熊本城内にはこの大力の横手五郎が運んだとされる五郎の首掛け石が宇土櫓の側に今も残っており、
また玄海町には太閤秀吉が名護屋城築城の頃に築城奉行だった清正公に従い築城に従事し、当地では無双(みそ)五郎と呼ばれた大力の若者が投げ落とした船繋ぎ石と言われる直径6mの巨石が有浦川に残っています。

414 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 06:22:27.82 ID:pzCQt+x1
ちなみにこの修験者に関しては別に、京から呼んだ龍蔵院と言う山伏であり、築城の際に清正公が地鎮祭を行わせ教示を受けたが、
城の完成祝いの宴で城の縄張りの事をうっかり喋ってしまい、清正公の命を受けた家臣に帰途殺害されたと言い、熊本市北区にある山伏塚はその墓(処刑場とも)であると言われ、熊本の心霊スポットでもある。



417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 14:43:37.25 ID:VnJLJLbL
>>414
http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20161021-001.html

震災復興の祈願とは言え、殺された坊さんの行った法要や祈りを再現しようと言うのはちょっと理解に苦しむ…


422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 23:51:47.04 ID:CukiuDjr
http://i.imgur.com/fTbXTqO.jpg
http://i.imgur.com/flvt7Vs.jpg
fTbXTqO.jpg
flvt7Vs.jpg

加藤清正と人柱2

2016年12月15日 14:55

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 07:13:08.77 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱2

加藤清正公は肥後に入国した翌年から菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。
この干拓で最も困難だったのが「石塘」の築堤工事であった。
横島-久島山間(400m)は底が深く潮の流れが速くこの瀬戸に渦巻き、遠い昔から「丹倍ヶ淵」の名で舟人等を恐れさせた場所でした。

この築堤には大勢の人員と多くの石材、木竹、土むしろ、更に墓石に至るまで大量の資材を用いましたがことごとく流されました。
もはや堤の完成の為には人力だけでは覚束ない、古例にならって人柱を立てたらとの提案があり人選をして人柱を立てる事になりました。
その人柱になる人物の条件として、

「横布を当てて袴をつくろっている者」

が選ばれる事となり、その条件を満たす者がただ一人だけ見つかり、慶長十年(一六〇五)十一月二十五日、いよいよ潮止めを迎えると、その人は村人たちの見守る中、水中に立ちました。
横島山の頂上では大勢の僧侶たちがその冥福と工事の成功を祈って法華経を読経し、その人は土石の下に姿を消しました。
これにより難工事も見事に成功し石塘が完成しました。この石塘築堤工事により古来海上の一孤島であった横島が玉名の陸地と接続詞広大な新地が完成し、
最初の鍬入れの天正十七年一月から石塘築堤17年の歳月をかけ小田牟田新地干拓が終わりました。
 横島の伝説によると人柱に立ったのは大園村の庄屋伝作であったとされており、別に「藤公遺業記」によると中富手永(郷)千田村(鹿本郡)の者人柱に沈むとなっています。
また、鹿本郡植木町のとあるお宅には先祖が横島で人柱に立ったと言い伝えられています。
いずれが事実かはハッキリしないものの、人柱の歴史は事実であり石塘の人柱が立ったところには
「鎮魂慰霊」と刻んだ小さい祠が建てられ、現在では「人柱之碑」が建てられています。

これらの事から当地には昔から「横布を使うと人柱に立たされる」という言い伝えがあるそうです。
また、一番大掛かりだった石塘の築堤工事に基づき読経した経本を埋めたところを経塚と言い、この築堤工事に当たり多くの犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神であり、
深夜にこの場所の近くを通ると、小石が転がってきたり・・カチカチと音が鳴ったりするなどの、怪奇現象の報告例が後をたたないという。

416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 13:04:34.58 ID:qYLg94CZ
>>415追記
同じ熊本県の南部に位置する相良氏が藩主を務めた人吉藩で17世紀後半に現在の熊本県球磨郡多良木町に造られた百太郎溝にて人柱となった、百太郎と言う者も庄屋の夢に出た水神の御告げで
はかまに横縞のツギを当てた男を堰をつくる時の人柱にすればよい。
と言う神託に寄って人柱として選ばれたと言う。



梅北一揆の事

2016年11月15日 21:26

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 20:19:39.54 ID:C207vzPJ
高麗の役の時、太閤秀吉は肥前名護屋に御座し。加藤清正は高麗へと派遣された。
この頃、肥後と薩摩の国境に佐布という城があった。清正はそこに、加藤与左衛門という者を
置いていたが、この時は与左衛門も清正に従い高麗へと赴いた。

その後に、薩摩の地より一揆が起こって、この佐布城を乗っ取った。
一揆の大将は梅北宮内左衛門(国兼)、東郷甚右衛門という者達であった(梅北一揆)

しかし佐布城には留守居として、井上弥一郎酒井善左衛門という者が残されていた。
彼らは謀って一揆の大将を討ち取り、城を取り返した。これは天下無双の功名であった。
この一揆が起こったゆえに、秀吉の高麗行きも中止に成った。当時それほどの大事件だったのである。

井上、酒井には殊の外の褒美、感状が下された。
井上弥一郎は肥後にあって知行千石。肥後加藤家改易のあとは、青山大蔵の元で隠居分となり、
その子に三百石が与えられた。最近になって死に、今は孫の代になっているという。

実は太閤秀吉は井上、酒井の功を感じ入り、さらに高い知行を与えようとしたのだが、
これは石田三成が遮って止めたという事である。

(老人雑話)



293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:28:59.24 ID:+JFwenuX
全方向に敵を作るスタイルの三成www

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 10:02:08.52 ID:BlZItxjU
うわあぁ

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:02:07.77 ID:VCJjAYaY
元々加藤を敵に回してるんだからその手下くらいなんでもないんだろ

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:46:41.33 ID:746nQs1x
この程度で天下の大事だったら九州で一揆起こし放題だな
三成はたいしたことねーよと言ってこれ以上の内乱をおさめたのさ

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:52:10.79 ID:VCJjAYaY
乾煎り中の秀吉名護屋在陣のときに九州で大規模な叛乱あったら大事だと思うが…

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 14:30:49.92 ID:zN7Iv9r2
戦国時代の武将って結構妖怪と遭遇するよな。
政宗座敷童子、家康肉人とか

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 16:08:51.54 ID:8GREXPLx
肥後の北側を清正が、南側を行長が統治してたって認識だったんだけど
薩摩に近い佐布は清正が統治してたの?

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 16:37:19.62 ID:746nQs1x
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです

刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

2016年10月20日 17:46

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 15:36:45.82 ID:TbdQOix0
刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

高麗陣にて、加藤清正の軍兵たちが敵を斬りあぐねていた時、清正が
忠告して、「馬上で何人を斬り倒したのだ? 数えてみよ」と言ったところ、

刀がまっすぐであれば当たりが弱く、敵は倒れなかった。反っていれば、
切れないといえども、倒れない者はいなかった。

(刀の直なるにては。あたりよはくて。敵たをれず。そりたるにては
切れずと。いへども倒れぬはなし)

――『武功雑記』



加藤清正一番鑓の話

2016年08月12日 18:57

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 23:50:11.54 ID:7V5ebYgV
加藤清正一番鑓の話

加藤清正が子の某〔名は忘れた〕に語ったと聞いた話である。

「我が秀吉公に従って、初めて一番槍をしたとき、
〔何処であったかこれを忘れた。賤ヶ岳であろうか〕
坂を上ると敵がいた。それと行き合って戦が始まった。
その時の胸中は、向こうは暗闇の如くで何か一向に分からない。
そこで目をつぶり念仏を唱えて、その闇の中に飛び込んで槍を入れると、
何か手ごたえがあると覚え、実は敵を突いていた。
それからはようよう敵味方も見分けることができた。
後で聞けば、その時の一番槍であった。」

(甲子夜話)



71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/12(金) 02:36:40.21 ID:DJLU8aR4
念仏なのか
題目じゃないのか

【ニュース】清正の鎧兜、再現される

2016年07月25日 13:47

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 13:02:27.66 ID:uaW899fi
鶴岡市ゆかりの戦国武将加藤清正が身に着けたとみられるよろいが専門家の手で再現され、
24日、同市丸岡地区の天沢寺(庄司良圓住職)で披露された。
清正と嫡男忠広をしのぶ同日の清正公祭(せいしょうこうさい)に合わせて一般公開された。

調査を含め、8年かけて制作した名古屋市在住の甲冑(かっちゅう)師、熱田伸道さん(68)は
「武将としての誇りを感じる高価なよろい。再現できてうれしい」と語った。

基となったよろいは1949(昭和24)の発掘調査で、同寺境内に立つ「清正閣」の下から出土した。
熱田さんは2008年に庄内藩酒井家のよろいの調査と修復で鶴岡を訪れた際、清正のよろいがあると知り、同寺に立ち寄った。
生誕地が名古屋である清正に縁を感じ、再現を申し出た。

原形をとどめていなかったよろいの各部を手掛かりに、類似の甲冑(かっちゅう)を調べて全体像を推定。
試作を重ね、今年6月に完成させた。

鉄製で胴高32センチ、重さ6.5キロ。
熱田さんは「動きやすい作りで、縁の一部を金で塗装していた。量産できるよろいにはない」と話していた。
自費で制作し、足軽のよろい2体と陣羽織10着と共に同寺に奉納した。

清正公祭には関係者ら約170人が出席した。
祈とう後、よろいが披露され、熱田さんが特徴や制作工程などを説明した。
庄司住職は「時間と労力をかけ、立派に作ってもらった。感謝している」と話した。

よろいは同寺に展示し常時公開する。

写真:地元住民らにお披露目されたよろい。再現した熱田伸道さんがよろいの特徴や制作方法などを説明した


以下ソース:山形新聞 2016年07月25日 11:43
http://yamagata-np.jp/news/201607/25/kj_2016072500578.php



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 13:23:44.59 ID:ubYqWaTL
意外とハイカラなんだなぁ
自費とはまた熱田さんも徳が高いなぁ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:28:14.08 ID:tUJJnSrs
>>977
足軽の南無妙法蓮華経具足も再現したのか

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:45:21.33 ID:T9VmpO8Z
>>977
この色良いなぁ。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 20:30:51.65 ID:2i2W/QBL
現代でも甲冑師っているんだな。
名古屋住まいで熱田さんって、先祖が熱田神宮ゆかりなのかな?

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:05:59.64 ID:I4E7S5xh
重さ6.5キロでは軽過ぎる。
実戦よりも、装飾性重視の鎧なのだろう。色から見てもな。ブルーかよ。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:20:30.43 ID:1WD3eRzi
ブロンズ聖闘士だなw

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 09:21:16.85 ID:QYRr2myg
熱田伸道は甲冑師名で本名は小川伸夫さん。
独学で先達に教えを受けながらここまで来た人ですね。
http://www.j-armor.com/
http://ameblo.jp/j-armor1/
復元に3年ほどかかったようだ。


色が青いのは、写真を拡大するとわかるけど、縅(糸)の色が青いだけで
甲冑そのものは漆塗りの黒だよ。

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 16:02:32.98 ID:Dc/KJL3l
前スレの清正の鎧の記事、河北新報(宮城県)の記事ではもう少し詳しく描いてあったので一応
こちらの記事の写真だと、先の記事ほど目立つ青色でなく、よくある甲冑画像の様なおとなしめの色合いに見えるね

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160725_75007.html

よろいは室町末期の形状で、清正が青年期に身に着けていたと伝えられる。熱田さんは
「武将の誇りを示そうと、あえて高価で伝統のあるよろいを選んだのではないか」と述べ、
天沢寺によろいを寄贈した。
再現したよろいは胴部分の高さが約35センチ、重さ6.5キロ。室町末期以降、鉄砲の
威力に対抗するため作られた当世具足(とうせいぐそく)の一種「最上胴丸」で、複数の胴板を
ちょうつがいで止めてある。
よろいをつなぐ糸の色は判別できなかったため、甲冑の色として当時流行したあさぎ色で再現した。
鶴岡市は清正の死後、長男で2代藩主忠広が配流された地で、忠広が天沢寺で清正の遺骨を葬ったとされる。
オリジナルのよろいは1949年、ばらばらになった状態で掘り起こされ、現在も境内に保管されている。
8年前、知人の紹介で訪ねた天沢寺でよろいの存在を知った熱田さんは約3年かけて再現作業に当たった。
欠損部位を同時代の甲冑などから推測し、2領の試作を経て完成に至った。
熱田さんは「作業を通じて清正が胴長体形だったと思われる証拠などの発見があった。よろいは加藤家に
繁栄をもたらした武具として忠広や清正の妻が埋めたのではないか」と語った。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 16:41:55.25 ID:eC7NYJ1C
ぜんぜん発色ちがうねw

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 17:11:38.20 ID:7z8Vcp0+
>>9
鎧を埋めるって珍しいような気がする。遺骨と一緒に埋めたんだろうか。

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 21:01:58.56 ID:c+HJ+kvB
>>17
伊達政宗は墓所の発掘調査で副葬品に甲冑が発見されているし(政宗は例の弦月前立て黒漆の甲冑を同形式でいくつか作ってて、そのうちで一番お気に入りと考えられている)
武田信玄も上杉謙信も甲冑をまとって大甕に遺体を納めたとか、よくある話じゃないですか

妖も鬼も三界火宅

2016年06月29日 10:32

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 22:42:25.66 ID:HtJd3PKa
鳥羽候[稲垣氏]の邸は麹町八丁目にあった。
伯母光照夫人がここにいましたので、予は中年の頃まではしばしばこの邸を訪れていた。
邸の裏道を隔てて、向こうは彦根侯[井伊氏]の中荘で、高崖の上に大きな屋が見えた。
千畳鋪と人はいう。

この屋は以前加藤清正の邸であった時のもので、
屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花が出てくるという。
この千畳鋪の天井に乗物[駕籠だという]を釣下げてあり。人が開き見ることを禁じているという。
清正の妻の屍を入れてある、
もしくは、中に妖怪がいて時として内より戸を開いているのを見ると、老婆の形である者が見える、
といった話を幾人かから聞いた。

しかしその後かの荘も火災の為類焼して、千畳鋪も存在しなくなった。
きっと天井の乗物も焚亡したのだろう。
妖も鬼も共に三界火宅であった。
(甲子夜話)




森本宇右衛門天竺より小人国に往く事

2016年06月26日 17:56

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 00:23:04.18 ID:6jeSAv6P
森本宇右衛門天竺より小人国に往く事

清正の臣森本儀大夫の子を宇右衛門と称す。
儀大夫が浪人の後、宇右衛門は、わが天祥公(松浦重信)のときしばしば伽に出てきて、
天祥公はその咄などを聞かれたという。
この人はかつて明国に渡り、それから天竺に行こうとして、
かの国の境にある流沙河を渡る時に蝦を見たという。殊に大きくて数尺に及んだそうだ。
それから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様を自ら図記して携えって帰った。
〔今その子孫は、我が領内にいる。正しくこれを伝える。しかし今は模写である。〕

また方々をめぐり歩く内に、小人国に至ると、折節小人が集まっていた。
一石を運んで橋に架けようとしていたのを宇右衛門は見て、
自ら一人で石を水に渡したら、小人達は大いに喜んで、
報酬と思しき菓物を多く贈ってくれた。
これも今に伝えているが、年を経たためか、今では梅干のようなものとなったという。
〔初めは多かったが、人に与えていくうちに今はわずか二、三だけである。〕


近頃、ある人が曰く、これらの行ってきたところは、真の天竺ではなく他邦であると。
流沙河もその本当のところでは沙漠で水はない。
なので、我が国で常に聞き及んでいたので、これを名付けたのだ。
また山や舎の如きも皆異所であろう。
かの国にはこの類のことがなお多い。
また小人国も南北所々にあり、この小人はどこのものであろうか。
たしかに外域、はるか遠くの地に至ったのは疑いもないけれど、
その頃は世界四大洲の説もまだ明らかでなかったので、
あいまいで分かり難い。
とのことであった。


(甲子夜話)

実際は、祇園精舎ではなくアンコールワットだそうで
小人国って、ガリバーみたいだなあ



金官の最期

2016年05月27日 17:54

金官   
770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 04:16:31.27 ID:PvxVDWqo
清正は金官(良甫鑑)という朝鮮人を日本へ連れ立って来て、慣例どおり
に親しくして、八木2百石を与えた。

金官は、「清正に離れて一日片時も永らえるべきではない。御供申さん!」
と言って切腹した。

――『清正記』

金官という朝鮮人は、同24日(清正死去の日)に切腹しようと致したが、
2人の子息がこれを見て脇差を取り上げ、色々教訓して止めた。

そして脇差を隠して丸腰にしておいたのだが、14,5日も過ぎたので、
思いとどまったなと子息も思って油断していた頃、箍掛けを呼び入れて、

古桶の輪を掛けさせ見ていたのだが、人のいない時に箍掛けの鉈を取り、
腹を十文字にかき切って死んだのであった。

これをもって見れば、高麗人も純柔純弱兵とばかりは申し難きことである。

――『続撰清正記』




清正の舟奉行を4,5夜眠らせなかった

2016年05月21日 14:52

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 04:58:49.89 ID:TcEpCjsE
関ヶ原の乱の時、加藤清正の北の方(清浄院)も大坂にいたのだが、石田三成が人質を取ろうと
しているという話を聞いたため、

清正から付けられていた竹田善兵衛家正と大木土佐恒持(兼能)は謀を廻らし、轉法口にいた
清正の舟奉行・梶原助兵衛(景俊)に梔子の煎汁を飲ませて、4,5夜眠らせなかった。

そうして疲れ衰えた助兵衛が大病人のようになると、彼を駕籠に乗せて綿帽子(防寒具)を
被せ、前後に衾(寝具)を重ねた。そして、門番の前で駕籠の戸を開き、断って屋敷に行く
ことを度々行った。すると、門番は後には見慣れて、いっこうに咎めなくなった。

一方で、川口で百足船を晩ごとに漕ぎ比べさせた。これも番船は見慣れて後には、「どれは速い、
どれは遅い」などと言って、守りを怠っていた。

そんなところへ清正から、「私には石田に与しなければならない用件はない。なんとしても、
北の方を敵に渡さずに逃げ落ちさせるのだぞ」と、告げて来た。それは大木の計画していた
ことであった。

それから、北の方にこの事を告げて、衾の下に彼女を押し隠し、その上に梶原がもたれ掛かって、
いつものように駕籠の戸を開いて門番の前を通った。大木も後から供をして「もし見咎められた
ならば、北の方を刺し殺して切り死にしよう」と思っていたが、事故も無かった。

そして轉法口に行き、やがて北の方を百足船に乗せて漕ぎ出した。番船の前をさっと行き過ぎて
2,3町にもなると、「あれはどういうことだ!」と騒ぎひしめいたが、その間に鳥の飛ぶが如く、
1里余りも漕ぎ延びた。

番船たちは「謀られたぞ!」と言って、碇を上げて追い付こうとしたが、その間に船は行き過ぎて、
ついには肥後へと下り着いたのであった。

大木と竹田は大坂に居残ってこの事を漏れ聞き、「討手が来たならば思うままに戦おう!」と、
待ち受けたが、敵方は関ヶ原の戦いで敗れたために、思いもよらず難を逃れた。

大木はもとは佐々成政に仕えて、後に清正に仕えた。才略と篤実を兼ね備えた者だったので、
清正の寵愛は厚く、今回のことにより、また2千石の禄を増し与えられたということである。

――『常山紀談』




大木土佐守の殉死

2016年05月21日 14:51

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 05:02:57.54 ID:TcEpCjsE
(清正の逝去により、)国中の士農工商は悲嘆に及んだ。大木土佐守という者は佐々陸奥守(成政)
に仕えたが、陸奥守逝去の後に清正に奉公し、3千石の身の上で勤めた。清正は長年とりわけ大木に
懇志であり、それゆえに大木は、「重恩は感謝しきれない。冥途まで御供申さん!」と言って、切腹した。

――『清正記』

大木土佐が追腹を切ったことは本書(清正記)の如く、6月25日の辰刻に私宅で切腹致した。
その時、家老たちへこの旨を申し達し、いずれの者もやって来て様子を見たところ、

三宅角左衛門は、「なんとまあ、武運に叶った侍かな。異国や日本で数度の忠功を致して御厚恩を
蒙り、いままた黄泉までの御供を致すとは、羨ましき武士である」と言って、土佐の死骸より流れ出た
血を取り、自分の手の上に置き戴いて、嘗めた。

この事の是非は計り難いけれども、この他には聞かないことなので、これを記すものである。

(中略)

葬礼は10月13日に西光寺原において遂げ行い、京都本国寺の住持・日桓上人により引導された。
追腹を切った大木土佐と金官(良甫鑑)の棺も清正の棺に続いて担がせ、同じく宮籬の内に左右に
並べ置かれ、同日桓上人により引導された。

(清正の)廟所は本書の通り中尾山に建てた。前述の両人の者たちの廟も日乗大居士(清正)の廟の
左右の脇に並べて立て置かれたのであった。さてまた、本妙寺はもとは熊本にあったものを取り去り、
中尾山の麓に建てたのである。

――『続撰清正記』




皆女子ばかりの中ゆえに

2016年05月13日 18:05

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 21:02:23.66 ID:L75+RdWl
殊に清正の内室(清浄院)は徳川家に旧縁の女性なので、ひとしお御懇ろであった。
その女性の腹に男女2人が生まれた。

しかしながら、清正は奥方へ入っても刀を放さず、膝元へ引き付けて置いた。
ある時、五条の局という老女が申して、

「表方におられる時はいかにもそうでありましょうが、奥方へお入りの折は
女子ばかりの中ですから、そんなにも御用心には及びませんでしょうに」

と、言った。すると、清正はにっこりとして、

「女子の知ることではあらざれど、不審に思うのならば申し聞かせよう。表方では、
余の一命に代わる家士たちが昼夜怠りなく詰めているので、たとえ無刀でいても
気遣いはない。しかし奥方では皆女子ばかりの中ゆえ、厳重に用心するものなのだ」

と、言ったのであった。

――『明良洪範続編』




717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 22:11:29.24 ID:8K076fGS
>>716
>気遣いはない。しかし奥方では皆女子ばかりの中ゆえ、厳重に用心するものなのだ」

平八郎「女の方がいざとなったら度胸が据わっているぞ」

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 00:17:45.68 ID:DwDDtGoI
そりゃあんたの娘があんなだし

と思ってたら黒田基樹「真田信之」p37に
「いわゆる「犬伏の別れ」であるが、正しくは「天明の別れ」というべきものといえる。
ちなみに昌幸はその帰路の途中、信之の本拠沼田城に立ち寄ろうとしたところ、
信之妻小松殿の対応で追い払われたという有名なエピソードがあるが、これも事実ではない。
小松殿はこの時、大坂で大谷に保護されて不在であったのである。」
と書かれてた
大谷吉継が保護した信之の「妻子」が小松殿でない可能性もあるけど

わが一生は清正に騙されたのだ

2016年05月07日 17:37

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 19:32:50.06 ID:Y602gNMy
加藤肥後守清正は、武勇のみならず能く人を使ったそうだ。彼の家来に、飯田覚兵衛という武功の者があった。

ある本に、飯田覚兵衛ははじめは「角兵衛」と書いたが、朝鮮征伐の時、手柄があったため、
豊臣秀吉の命により、「覚」の字にした。これは文禄二年の事だという。

肥後加藤家が滅亡ののち、飯田覚兵衛は京へ引き込んで、再び奉公もせずに居た時の物語に、

「わが一生は清正に騙されたのだ。最初、武辺を仕った時、その場から帰ってみれば、
私の朋輩たちは皆々鉄砲に当たり、或いは矢にあたって死んでいた。
さてさて危ういことである。もはやこれ限りにて武士の奉公を止むべし。そう思って帰るやいなや、

『さても今日の働きは神妙、言う事無し!』

そう言われて清正より腰のものを給わった。
私はこのように、戦のたびに毎回武士をやめようと思っていたが、清正は時節を逃さず、
陣羽織、或いは加増、感状を与えられ、このため諸傍輩も羨み、讃嘆したため、その空気に
引っ込む事も出来ず、侍大将と言われるほどになった。

一生清正に騙されて、私は本意を失ったのだ。」

そう語ったという。

(新東鑑)




595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 20:36:11.23 ID:MGASwZu/
>>594
ツンデレ過ぎだろ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 11:50:16.78 ID:yCZ3XLCc
>>594
なんつーかツンデレw

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 16:30:48.27 ID:S0r/bwAA
>>594
部下のそういう気配をしっかり察知したのかw

清正の懐剣

2016年04月22日 17:57

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 17:32:58.74 ID:Qlm7sFUg
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が無事に終わり、加藤清正は退出して宿所に帰り寝所に入ると、
肌に隠した短刀を抜き出し、これを暫く眺めてまた鞘に収め、数滴落涙し

「この清正、幸いにも冥加に叶い秀吉公の厚恩を僅かながら報ずることが出来た。
もし、二条城において不慮のことが有れば、御前であるので清正も無腰であるため、
この懐剣を以って働くべしと思っていたが、君も恙無く御帰城され、私もまた今日の安堵を得た。

この短刀は昔、清正が未だ虎之助と言っていた頃、賤ヶ岳の戦いで高名した時、当座の褒美として
秀吉公より下し置かれたものである。
その時秀吉公は、『後日加恩の上は、この短刀は返してもらうぞ。』との上意があったほどの
御秘蔵の名剣であり、だから私はこれを常に肌から離さぬのだ。」

この話は、寛永年中に肥後加藤家の浪人で、庄林隼人の子息である隼之介という者が北条氏長に
語ったものである。

(慶元記)



629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 21:13:02.93 ID:roU5wnxq
>>627
この時の短刀と称するものが現存してるよな

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 21:43:07.08 ID:g5Jihzey
備州長船祐定と清正拵だな

「清正の言葉然り」

2016年04月08日 14:04

506 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 22:53:45.27 ID:p5esZawi
慶長16年、上洛した徳川家康は二条城での秀頼との対面の要求を伝え、この知らせが届くと
大阪城では「これ容易の事に非ず、評定を遂げるべし」と、大寄合を開催した。
列座したのは、織田信雄入道常真、織田有楽斎、大野道犬、大野治長、大野治房、渡辺糺、浅井長房、
織田出雲守、中島氏重、速水甲斐守時之、真野頼包、青木信重、伊藤長実、堀田勝吉、野々村雅春。
郡主馬介良列、生駒正継、三浦義世、千石宗也斎、祝尚玄ら、都合30人であった。
これがこの当時、評定衆と呼ばれた面々である。
しかし、これほどの大事であるのに筆頭の家臣である片桐且元が何故除外されているかといえば、
片桐は大野一族と不和だったためにこれに招かられなかったのである。

このような所に、加藤清正は前日に熊本から大阪へと到着し、この日に大寄合があると聞いて押して
登城した。清正の性質は勇敢にして且つ智謀が有り、故太閤の前であっても心に違うことは憚り無く
発言する人物であった。

暫くして秀頼が大寄合の行われる千畳敷に御出でになった、母堂淀殿も簾を隔てて聴聞した。
しかしこの事は誠に豊家の一大事であったため、何れもお互いに譲り合い、発言するものが
居なかった。

が、ここで大野道犬進み出て
「今回、大御所が秀頼公に御上洛を勧められた事、そこに道理は一つもありません!
どういう事かといえば、官位昇進の御礼を禁裏に仰せ上がるのに、大御所への御対面のついでのように
仰せ上がるのは道に背いています。また、縁者への御礼というのなら、直接の御義父である将軍(秀忠〉を
差し置いて御祖父への御礼とはその意を得ません。
豊国大明神への参内もまた、この対面の理由とすべきではありません。大明神への参拝といっても、
今どうしてもしなくてはならないわけではありません。
であれば、兎に角理由をつけて御上洛の事を引き伸ばし、大御所がどうしても御対面したいのであれば、
以前のように大阪に御下向あるべきです。以上の儀を以ってご返答されるべきです!」

この様に余儀なく言い切ったが、誰もその意見に一言も申しだそうとしなかったので、道犬は声高に叫んだ
「太閤殿下の他界以降も、いつも家康公は大阪に御下向あって対面されていました。それなのに今回に限って
御上洛を促されるというのは、その由緒も全くありません!」

507 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 22:54:17.38 ID:p5esZawi
この時、加藤清正が座の中央に進み出た
「道犬の今の言葉、理が有るに似て非ざる物なり!
大御所も前々のようならば大阪に下向すると言うだろう。だが、庚子の兵乱(関ヶ原〉以後、天下の権勢は
皆関東に帰した。である以上、以前を以って見るべきではない!

殊に我が君(秀頼〉は未だ帝都の土を踏まれておらず、その上外の世界で天下の武士と交わりが無いため、
人はみな、君を懶惰の将軍と言っている。今度の大御所からの招きにも上洛なければ、いよいよ以って
比興の君と評価され、そうなれば一体誰が志を当家に寄せるだろうか?

一方で関東の両将軍は常に天下の大小名に御入魂の事を心にかけられている為、先君の鴻恩深き
大小名も、今は皆関東に帰伏して大阪の廃亡を心にかける者はいません。
今回は、仮にお招きがなくても、久方御対面が無い事に寄せて、御上洛あるべきなのです。
それを幸いにもお招きがあったのですから、速やかに御上洛有るのが当然です!
清正は不肖では有りますが、御供仕ります。その折、藤堂高虎は有馬の湯治からの帰路、天満の屋敷に
滞在していると聞いていますので、彼もお召しあって扈従を仰せ付けるべきです。高虎は先君の御恩を
山よりも高く蒙った者ですから、違背することは無いでしょう。仮に辞退するようなことに成っても、
私が共々に申し勧めます。

もし今、今回上洛しなければ、御難題を仰せかけられ、その禍目の当たりに来るでしょう。ただ一日も早く
御上洛のご返答あってしかるべきです!」

しかし大寄合は両論に別れ結論を出せなかった。清正は居丈高になって言い放った
「道犬は元は浅井家の臣!今は淀の方様に従って当城に在りといえども先君の御代では部屋住み同然にて
評定の席などで見る人物ではなかった!それなのに、いかに当城に人物が無いと言って、このような
重要な評議に、歴々を差し置いて彼のような者が加わっているのはどういうことか!?
その上発言も一々道理に叶っていない。
この清正は人々もご存知のように先君お取り立ての者であるが、既に御門葉にも列しており、どうして
おため悪しき事を申すであろうか?

道犬のような輩の評定は皆以ってこのようだから、それ故に関東の心象を悪くし、そして当家の御難儀と
なっているのだ!
そもそも今日の評議に片桐兄弟が座していないのは不審の第一である!」

そう荒々しく言うと、秀頼も「清正の言葉然り」として、直に片桐を召した。
(慶元記)