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「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

2023年03月09日 18:29

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:50:34.21 ID:5gsbhMFH
武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

庵原助右衛門(庵原朝昌)が物語ることには、加藤清正はもちろん抜群な大将であるが、常々もすぐれていたという。
高麗陣のとき、釜山海より二十日ほどの地域は日本勢がかためており、七、八里ごとに城を築いて「繋ぎの城」といっていた。
戸田民部少輔(戸田勝隆)は密陽の城に、清正は全州にいた時に、日本からの指示で清正が帰国することになった。
全州から五日目に密陽には着くことになっていた。
戸田は清正の旧友なのでよろこび、城を掃除して馳走をたくさん用意した。
そして家老である真部五郎右衛門(真鍋貞成)と神谷平右衛門を道まで迎えに出した。
午の刻すぎに真鍋・神谷は密陽の城から四里ほどのところに出ると、清正の先手勢が見えた。
そのころは東西二十日、南北十日の朝鮮の地域は治っており、敵もいなかったため、戸田の家老二人も華やかな羽織袴で鎧を着ることもなかった。
しかし清正の部下たちはいずれもものものしく、箪食(弁当箱)つきの旗指物をなびかせ、鉄砲の火縄にも火をつけ、児小姓まで鎧、面頬までつけていかめしい姿であった。
妙法蓮華教の旗を押し立て、磨いた鉄砲を五百挺真っ先に立てていた。

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:52:41.95 ID:5gsbhMFH
清正は溜め塗りの具足に金の蛇の目を書き、例の銀の長烏帽子の兜の緒を締め、頰当、はぎ当、すね当、飯箪までつけ、草鞋をしめ、
銀の九本馬蘭の馬印を自身の背に指し、月毛の馬に白泡を噛ませて来た。
戸田の家老たちが道を避けて畑の中に下馬しているのを見た清正は
「戸田民部殿の使者か、御大儀である。
おっつけ城に着陣するが、小姓たちも汚れているので、風呂を用意し、下々にまで湯をたくさん浴びせていただきたい。
このよし、民部殿へお願い申す」と声高におっしゃった。
真鍋・神谷は「かしこまりました」と馬に乗り、先に帰って戸田に申し述べた。
ほどなく清正が城に到着したため、戸田が出てみると、大馬印を指していかめしい姿であった。
縁側で戸田の小姓二人が清正の馬藺や草鞋やすね当などを解いたところ、清正が腰につけていた緋緞子袋の口が解けて、座敷の畳に落ちた。
そこには米三升、干味噌、銭三百が入っていてかなり重かった。
戸田はおどろき「十里半里に敵もいないのに、重いものを腰に下げ、しかも馬印まで指すとはいかなることですか」と尋ねると
清正は「そのことだが、とかく一大事は油断より出るものです。
たしかに敵がいなければ安心するものですが、急事が起きて油断するようでは今までの武功も水となってしまいます。
下々の士卒はただでさえ油断しがちなのに、清正の心までゆるむと、下々はよけいに帯の紐が解けて怠けるでしょう。
我が身を顧みず油断がないようにすると、下の者は上の者を学ぶと言いますので、このようにしております。
一人の心が万人に通るとも申しますし」
と言うと、戸田民部は感激して涙を流したという。



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「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則

2023年03月07日 19:00

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 23:10:13.65 ID:h0QaWSzD
武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正福島正則

高麗陣中で肥前名古屋(名護屋)へ注進状を送るため、諸大名が判(花押)をすえることになった。
加藤清正の判形が細かくて手間がかかっていた。
福島正則は「清正の判はむずかしい。だいたい判というのは無造作なのがよい。
重い病となって遺言状に判を書くことになったら困るだろう」と申した。
清正は「われは戦場で国の土を枕として死のうと思うゆえ、病死の時に臨んで遺言状を書くことなど考えもしない。
この判で問題はない」と申したという。

死因が病死なので悪い話の方に投稿しておこう。

加藤清正の片鎌槍について

2023年01月14日 19:12

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/13(金) 22:26:27.80 ID:iXo+cHzD
武家閑談」より加藤清正の片鎌槍について

天正十六年(1588年)霜月五日、加藤清正は天草伊豆守(天草種元)との一戦の時に十文字槍を突き折ってしまった。
それ以来、片鎌になったことは天下が一同に知るところである。
もっとも、元々片鎌だったという説もある。
寺沢兵庫頭忠高(寺沢堅高)の家人が物語るには、清正が鎌を折ったのは仏木坂という所で、その折れた片鎌が今でも仏木坂の社に保管されているという。
所望の人がいれば取り出すことができるそうだ。
また清正の片鎌槍を見た人の話によれば、十文字の月剣であり、志津の作で直刃、さやの穂は熊の毛、横手は黒ラシャだという。
瘧(おこり)を患っている者がいれば、熊の毛を1本抜いて頭に載せれば瘧が落ちるという。



565 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/16(月) 16:05:07.58 ID:Z0LWwUBl
>>554
https://bunka.nii.ac.jp/heritage/131010/_478275/131010_478275520837061644187_900.jpg
131010_478275520837061644187_900.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/523895
加藤清正の片鎌槍は、娘の瑤林院が紀州徳川頼宣に輿入れする際に持参した嫁入り道具として紀州家のものとなり、
現在は東京国立博物館に所蔵されています。
常設展示ではありませんがタイミングが合いましたら是非ご覧ください。

「男道不成者之験」清正公の怖すぎる遺言

2022年10月03日 19:09

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/02(日) 19:18:16.99 ID:j4G0KnUe
清正記』より
「男道不成者之験」清正公の怖すぎる遺言

清正は侍従に任じられ肥後守になると、その後は方々への書状などには肥後守と認めた
ただ、何か後代まで残るものには主計頭と記した
ましてや遺言には好んで主計頭と署名した
清正が家中に申し渡した七ヶ条
大身小身によらず侍どもが覚悟すべき条々
一 奉公の道は油断してはならない。朝は辰の刻(午前八時前後)に起き、兵法を学び食事をし、弓鉄砲を射って馬に乗りなさい。武士の嗜みよき者には別に加増する
一 気晴らしに出るなら鷹狩り鹿狩り相撲など、このようなもので遊山しなさい
一 衣類は木綿紬にしなさい。衣類に金銀を費やし生計が成り立たぬ者は曲事である。身分相応に武具を揃える者に助成すべきで、軍用なら金銀を与えよ
一 普段、同僚と付き合うときは客一人、亭主一人以外では話をしてはいけない。(振る舞う)食事は黒飯にしなさい。ただし武芸を行うときは大人数でやりなさい
一 軍、礼、法が侍が知っておくべきことだ。いらざることに美麗を好む者は曲事である
一 乱舞は全面的に禁止すること。大小の刀を手に取れば人を斬ろうと思うものだ。しかる上は万事は心の置き所で決まるのだから、武芸のほかの乱舞稽古を行う者は切腹に処せよ
一 学問は情を入れて兵書を読み、(また)忠孝の心がけをもっぱらにすること。詩歌句歌を詠むことは禁止である。心の賑やかしだの風流だの弱きことを言う者はいかにも女のようになるものだ。武士の家に生まれた以上、大小の刀を手にとって死ぬる道こそ本意である。常々武道を吟味していないと潔い死に方はしにくいものなのだから、よくよく心に(自分は)武士だと刻むことが肝要である
右の条々、昼夜あい守り、もし右の条を守りがたいと思う輩があれば暇を与えよ。速やかに吟味を遂げ、男道ならざる者の験(しるし)をつけて追放することに疑いがあってはならない。よってくだんの如し
加藤主計頭清正在判
侍中


男道ならず者の印、いまに続く破門状の回付なのか、はたまた焼き印かなにかなのか



この事よりいよいよ光広の越度とされ

2022年06月06日 15:28

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/05(日) 21:37:41.84 ID:9WdqWwcm
加藤豊後守光正(光広)の外様の士に、広瀬庄兵衛という虚け者があった。然れども彼の先祖は、
代々武功を顕していたため、家督を継がせ置かれていたのだが、光広は普段から彼の虚気を慰みにしていた。

ある時、光広は広瀬を呼び寄せ言った
「内々一大事を思い立ち、近日挙兵するつもりだ。よって汝を一方の大将と定め、預け置くべき人数も
決定した。その支度をするように!」

これを聞いた広瀬はたちまち驚愕し、赤面して
「こは難儀なることを仰せ付けられ候。この段、偏に御免を蒙らん!」
と、慄えながら申し捨ててそのまま逃げていった。

この様子を光広は大いに悦び、その後、江戸の絵図を調え、広瀬にそれを見せ、その上で

「この間も申した通りに、近日、一大事を思い立った。然れば汝は、何れの口より攻め入るべきだと思うか、
思案せよ。」

と申した。広瀬は「私のような者を一方の大将に仰せ付けられるのでしたら、只今逐電仕らん!」
と涙を流して身を縮めた。
光広はいよいよ興に乗じ、重ねて
「この一大事、この度にわかに思い立ったことではない。先年大阪城普請の手伝いをした頃より思い立ち、
攻め入ること自在なるように、予て下知した上は近日大阪へ行き、御城を乗っ取って立て籠もり、世を奪うのだ!」
と申した

広瀬は言った
「かの御城は日本第一の要害にて、たとえ何万騎の軍勢を以て攻めても、口々を閉じていれば、天魔鬼神も
攻め入ること叶わずと承っています。ですのでこのような仰せを承っても、御前に於いて絶命してしまうでしょう。
この役儀を御免候へ!」
そう、転倒して喚いた。

光広は益々興じ、大名数十人が一味連判している謀書を認めてそれを見せ、また「誰それの書状」と、
自筆で謀書の品々を書き表し、状箱に入れて近臣に持たせ、それを広瀬の方に遣わし、口上にも

「かように大名数十人が一列している以上、以前より申す如く、汝一方の大将として、覚悟せよ。」
と申し送った。

広瀬はこの書状等を見て、肝を冷やし身震いし、固唾を飲んで思った
「これは、この事を一々御老中に申し上げ、主人の謀反を意見させて止めなければ!」
そう思い詰め、土井大炊頭利勝の邸宅に、かの状を持参して、以前よりの事共を残らず申し上げ、
「この事について意見を御申し下されますように。」
と申した。

大炊頭は多いに驚き、上聞に達した、広瀬庄兵衛は殿中に召され、御老中列座にてお尋ねの所、
彼は光広の申したことを一々に言上した。
然れども、この者魯鈍であり、三歳の童子の口上と変わらない有様であり、「彼が臆病なのを見て、
豊後守が興ある慰みにした者なのだろう。」と御評定あったのだが、自筆自判の謀反状、ことに
御城の絵図を出し、攻め入るべき方便、その他江戸中を焼き払い、将軍家、大名、町人まで途端に
迷わせる手段を考えていたことは、流石に捨て置くことは出来ないとして、この事よりいよいよ
光広の越度とされ、流刑となったという。

新東鑑



494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/05(日) 22:50:08.71 ID:1dRitSW5
主従ともにアホだったと

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/06(月) 09:12:34.72 ID:vyJx6K0k
命がけのコントやるなよw

「大いに快きかな!」

2022年03月17日 18:20

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/17(木) 18:07:38.72 ID:JSQj1OF4
加藤清正の股肱の臣である庄林隼人(一心)、森本義太夫(一久)は共に直鑓を好んだ。
庄林は黒鳥毛を以て鞘とし、森本は白鳥毛を以て鞘とした。時の人は彼等を並び称して、これを
「黒鳥白鳥」と云った。

加藤清正が木山弾正の居城である天草城を攻めた時、森本は清正の前での軍議の序において、
「臣は小勇なれども、組討する事は壮力によりません。ただ心を剛にしてその術を知ること、
それだけです。」と申した。

清正は、森本の勇をたのむの気を抑えようとされたのか、「組討の勝敗は偶然である。必ずという
事はない。」とその言葉を制した。
その翌日、森本は衆を離れて敵と遭遇すると、彼は馬上の達者であったので、敵を横ざまに乗り倒し、
飛び下って忽ち首を掻き落とした。そして清正に「臣が言葉、違っていたか否か!」と申すと、
清正も感嘆したという。

朝鮮の役の時、流れ矢が森本の尻に当たった。庄林がそこを駆け過ぎようとしたのを森本は呼びかけた
「矢に当たって耐えられないほど痛い!この矢を抜いてくれ!」
庄林は立ち返ってこれを抜いた。すると森本は

「大いに快きかな!」

との言葉も言い終わらぬ間に自分の馬を引き寄せ騎乗し一鞭打って
「庄林殿、跡に続かれよ!」
と即座に駆けて一番に首を獲った。

志士清談

加藤家三傑とも言われた森本義太夫(一久)についてのお話




398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/17(木) 19:10:43.42 ID:r/VwdZXg
常山紀談にもあるようだ
志士清談のほうが時代的に早いっぽいけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8669.html
「なんとまあ、快いことだ!」

加藤清正と小野鎮幸の一局

2021年08月20日 00:17

935 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/18(水) 20:33:00.77 ID:f9XqlVy3
加藤清正小野鎮幸の一局

関ヶ原の戦いの後、立花宗茂の元を辞して加藤清正に仕えた小野鎮幸が清正と将棋を指していた時のこと…

突如、隣の部屋にいた近習達が喧嘩を始めた。

近習A&B「ギャフベロハギャベバブジョハバ」

    \      ☆
             |     ☆
             ⌒ヽ   /    ボカ
    \  (´⌒  ⌒  ⌒ヾ   /
      ('⌒ 彡⌒ ミ ⌒ ::⌒ )      ボカ
     (´  ( `・ω・)      ::: ) /
  ☆─ (´⌒;:    :: 彡⌒ ミ  )
     (⌒::   ::   (・ω・´ )  )  ::⌒ )
    / (       ゝ  ヾ      ) ─

少しして清正
清「ちょっと俺、アイツらの喧嘩止めてくるわ。」
おもむろに立ち上がり席を外そうとする清正。
(実はこの時、局面は清正の敗色濃厚であった。)

これを聞いた鎮幸は

鎮「殿、主君たる者がこの程度で立ち上がられてはいけませぬ。某が何故にここに居るか。もしもここまで押し入って来る者あらば、不肖なれどこの老人めが取り押さえます故に殿は落ち着いて其処に居て下さりますように。」

静かに強く怖い顔で清正を睨んでこう言った。

清「はい…(;゚Д゚)」

喧嘩の仲裁に座を立ち、勝負を流局に持ち込もうとした清正の魂胆は見抜かれていたのである。
清正はただただ赤面して恥じ入るのみであったと言う。

ネットで拾った話にて出典元は不明ながら加藤清正と小野和泉主従の珍しく清正公がカッコ悪い話。
どなたか出典元知ってたら補足お願いします。



936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/19(木) 21:26:55.19 ID:uBu4jL7q
>>935は古雄逸談に有りました。

正式なタイトルは「清正臨終の譫語」
この出来事を清正は死の1日前に悔いたとされ、清正公とそのファンにはお辛い話かも知れない。

国立国会図書館デジタルコレクション(19Pにこの逸話有り)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/32?tocOpened=1

937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 00:01:49.82 ID:ewp9KiJx
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/19?tocOpened=1
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/20?tocOpened=1

清正赧然その軽率を悔い座に着き然れども此の時深く愧ずる処ありしと見へ将に死せんとするの前日
我も天下の勇士にして何人にも許されしに唯老いぼれ和泉に我が腹中見ぬかれし事の口惜しさよと齒切之を久しふす
良い話の清正が立花誾千代に兵糧を差し入れて、その報告の手紙を小野鎮幸に送った逸話や鎮幸の六十の手習いの話が良い話だけに
ちょっと切ない・・・。
あくまで後世に書かれた軍記物や創作の話と思いたいなぁ。

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 00:19:50.34 ID:csAkJawM
>>937
くたばる前の日にもなって昔のことを口惜しがって止まない、てぇのがリアルだねえ。
本当の噺なんじゃねえかな。
通り一遍の薄っぺらな英雄像よりよっぽど良い。

939 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 00:34:42.10 ID:ewp9KiJx
>>938
個人的には加藤清正のファンでもなければ所縁の地の者でもないから特段擁護したりとか
いう気持ちは無いし、むしろ小野鎮幸みたいな人の方が好きでその行動にこそ共感するんだけれど、
加藤清正が生前に立花宗茂や誾千代を気遣った気持ちは噓ではなかったと思いたいし、家臣となった
小野鎮幸との交流も心からの物で最後にその晩節を汚すような言動は無かったと思いたいんだよねぇ・・・。

これは我家相続の方便である

2021年04月18日 16:12

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 01:15:41.14 ID:MVa/nSU9
加藤清正は常々不養生であったという。加藤左馬助(嘉明)が彼に申した
「足下は常々不養生である。養生に油断せず、長命するように。」
さて、左馬助が退参した後、清正は側に居た人に云った

「私は不養生をして早く死ぬべく覚悟をしている。何故かと言えば、存命している間に
乱世に及び、家康公が秀頼公と御合戦有れば、恩主故、秀頼公の御方を仕る事が当然である。
しかし秀頼公の御軍が、どうして家康公に対し得るだろうか。だからといって家康公に
随い奉るのは不義である。

私が早死し、我が子の代になっていれば。ともかくも家康公に随い奉ってもその咎は軽い。
これは我家相続の方便である。」

と伝わる。『清正記』という書にもそのように有る。また左馬助は長命を願い存命して、
二心有って家康公に奉仕すると云々。

清正の覚悟は忠義ではない。左馬助については評するにも及ばない。
両人供勇将であると雖も、惜しいかな道徳の志がない。

このように池田光政様は仰せに成った。

烈公間話



665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 10:49:40.16 ID:SUJSDCEt
どうしろと?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 11:02:25.59 ID:zeGAD6FL
1609年生まれが偉そうに

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 14:26:22.66 ID:/9AHysH2
池田光政は何が言いたかったんだ

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 16:44:24.80 ID:7MqbF1gq
清正 主君・秀頼に従って滅亡したくないから早く死にたい
嘉明 家康に従って主君・秀頼を滅ぼすため長生きしたい

池田光政の政治思想や、日本における陽明学の受容に詳しいわけじゃないから自信ないけど
清正は「するべきこと(=秀頼のために戦う)」を分かっているのに実践しようとしない、それは忠義とはいえない
嘉明は旧恩ある豊臣家を滅ぼす助けをしようというのはそもそも言語道断
そんな感じじゃないか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 19:24:16.68 ID:7lxIuqFT
清正にしろ嘉明にしろ確かにこの時の選択は胸を張れる物ではないかもしれない
とはいえ同世代の秀頼に付いて死んでいった奴らに言われるならまだしも
後世の3代目くらいの連中にアレコレ言われる筋合いなど無いわ!って所だろうなぁ
ご先祖の池田輝政もそんなご立派な人ですか?と…

至極の道理

2021年02月08日 18:22

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 15:17:28.34 ID:bwMuxoOj
加藤故肥後守(清正)殿に、奉公を望む浪人が三人あった。一人は仙石角左衛門であり、
その他はその名定か成らず。

三人のうち、角左衛門は立身を望んだ。
一人は度々の用に立った人物であったが、今は老いて何の望みもなく、少しばかりの扶持を給わり、
心安く一生を送りたいと言った。
もう一人は若者で、いかにも物の用に立つべき者であると、周りの人々も見立てていた。

この三人は皆、家老である庄林隼人(一心)に因み頼んだため、隼人がこの事を申し上げた所、
肥後守はこのように申した

「仙石が立身を望むのは、侍の本意であるのだから、召し抱えるべきである。

年老いた人物について、彼が数度の用に立った事、私もよく知っている者である。然れども
今生の望み無く、後世一遍に心安く茶を飲み、当家を死所と定めたのは、殊の外踏み外したものである。
人は死ぬまで望みの有る者こそ頼もしく、何の望みも無い者は、抱え置いても要らざるものではあるが、
若きものへ示すためにも、抱え置こう。

もう一人については、その方の申す所、その方には似合わぬものであり、沙汰の限りである。
その理由は、『用に立つべき者』であると諸人が見立てれば抱え置く、となれば、我が家の若者どもは
用に立ちまじき者どもと見立てたのに似ているではないか。そうなれば当家の若者どもは、その方を
恨むという事にもなりかねない。

若い時に用に立った者を、年老いて高い知行を与え馳走するのは、そういった事を若き時に
見及び、聞き及び初めて、武道を励ますためである。
またその方などは、一言の発言も大事となる立場であるのだから、よくよく分別あるべき事である。」

と有ると、隼人も至極の道理に責められ、言葉もなかったという。

備前老人物語



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 15:29:34.61 ID:QqyOOfkf
毎度お騒がせでお馴染みの仙石一族

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 17:55:47.78 ID:GbdOq5m6
うんだ

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 18:05:21.81 ID:RWyApXzb
仙石家の庶家が加賀藩に2000石で仕えてるけど人持組に上がらずにずっと寄合組に居るのも闇が深い。

もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!

2021年01月15日 18:08

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/15(金) 16:13:29.20 ID:STTwyufl
小西摂津守(行長)が宇土を居城にしていた時、加藤肥後守(清正)、さる仔細あって押し寄せ
攻められたことが有った。この時清正は、仕寄り場を巡見して、「今夜城より夜討ちに打ち出る事も
有るだろう。面々の持ち口用心有るべし。」と下知して本陣へ帰られた。

この時期は夜寒の頃であり、軍勢は皆具足の上に、或いは夜着を着、或いは小袖を着ていたが、
その中に、名字は忘れたが、その名は長兵衛といった兵は、具足の上に蒲団を打ちかけて居た。

城中より俄に、どよめく声が上がった。かねて予想されたことであったので、「すわ、敵こそ
出れ!」と、我も我もと騒ぎ立ち懸け出ようとするが、上に着ていた夜着や小袖が具足にまとわりついて
すぐに脱げず、もたついている間に、長兵衛は上にかけていた蒲団を投げやり、一番に馳せ出、
「もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!」
と、声高に名乗った。

およそ、常に心かけていた武辺は、真実の武辺である。
そうではない武辺は、たまたまの仕合に過ぎない。
武士のことは言うに及ばず、農工商、出家沙門に至るまで、その道を嗜み、心懸有る上で
不幸になってしまうのは、力が及ばなかったという事なのだろう。
長兵衛は常に心懸けがあった故に、その時、鑓を出そうとした者は多かったが、一番鑓になったと
言うことである。

備前老人物語



加藤清正の少年時代

2019年11月18日 18:53

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 06:53:51.37 ID:D2HS3BAP
かつて加藤因幡守藤原清信という人が尾州犬山に住んでおり、彼は美濃斉藤家の幕下であった。
美濃斉藤家と尾張の織田家が犬山に於いて戦った時、この清信は討死した。彼には子息が一人あり、
鬼若と言って二歳であった。彼は母方に引き取られ、尾州愛知郡中村という所で成長し、後に
弾正右衛門兵衛(清忠カ)と号した。この弾正は三十八歳で死んだ。

弾正も一人の男子を遺した。この時三歳で、虎之助と名付けられた。母に育てられ、五歳までは
この中村に住した。また、後の太閤秀吉公の母公と虎之助の母は従姉妹であった。このため、虎之助の
母はこう考えた

「今、木下藤吉郎殿は近江の長浜にて五万貫の領地を知行され、稀なる出世を遂げられている。
この子がこのまま田舎で育っては。武士の作法も知り難い。ただただ、秀吉殿を頼み奉らん。」

そのように決心し、虎之助を召し連れて長浜に至り、秀吉公の母公に委細を申し入れたところ、
母公は殊の外歓迎し、両人共に藤吉郎殿の御目にかけ、母公のお傍にて養育された。

虎之助は十五歳の時、母にこのように言った
「私は御蔭を以てこのように成長しました。年齢は十五ですが、背も同年の者たちより高く、故に
前髪を落として元服し、奉公を勤めたいと思います。」

母はこれを聞くと「大人びたことを言うものかな。」と、藤吉郎殿へ細々と申し語ると、藤吉郎殿は
ひときわ機嫌を良くして「内々にあの者の眼差しを見るに、能く祖父である清信殿に似ておられると
思っていた。よろしい、前髪を落とさせよう。」

そう言って元服させ、加藤虎之助と名付けて、初めて百七十石の領地を給わり奉公の身となった。

その頃藤吉郎殿身内に、塚原小才次という兵法者があった。これは塚原卜伝の縁類の武士であった。
虎之助は彼に従い兵法修行をなした。

ある時、長浜の町人の家に、人を殺して立て籠もった者があった。このため町中は大いに騒ぎたったが、
虎之助はこの様子を聞きつけ、常々伝授の兵法はこの時の為であると思い、かの町人の家に走り行くと、
四方に大勢の人が集まっていた。この中を潜り入り、虎之助は狼藉者を打ち倒して縄を懸けた。
手傷は一箇所も無く、搦め捕ってその家から出た。
立て籠もった者は秀吉公の足軽で、市足久兵衛という者であった。

この首尾を秀吉公は聞かれ。「常々かの者は常の若者のようではなく。物の役にも立つだろうと
思っていたが、よくも仕ったものだ。」と仰せになり、二百石の加増が有って、木村大膳組の
小物見役に仰せ付けられ、虎之助は朝暮勤仕した。

(續撰清正記)

加藤清正の少年時代について。まあ清正の母が秀吉の母の従姉妹、というのは怪しいところではありますが。



353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 06:57:14.78 ID:XRmh7v0l
清正大河があるなら一話目に使える

一人も洩らさず討捨てたるは一段と気味能き

2019年09月17日 16:04

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 12:07:27.33 ID:rA55nKy+
天正17年(1589)小西行長加藤清正による、肥後。本渡城攻めの時のこと。

加藤清正の軍勢が本渡城の本丸に攻め入った時、敵30人ほどが、具足・甲を着て、鑓長刀を持って
一斉に切って出たのを、追い取り包みて、一人も残さず討ち取った。そしてその者達を見ると、
討ち取られた者に男は一人もなく、皆女であった。故に首を取らず斬捨てとした。

彼女らと戦った時に手疵を負ったものが5,7人あった。これに対し清正の近くで、いかに働いたと言っても、
女人に斬られ突かれたというのは弱いというように取り沙汰していた者があった。これを清正が聞いて

「定めてそれは、不吟味なる若輩者共の申し分である。たしかに女人は、逃れがたき所であっても
命を惜しむというのが世の中における習いのように言われているが、あのように死を軽んじ、思い切って
出た心中は、却って男子より堅固であろう。それと戦って手疵を負ったのも越度ではない。
さりながら、彼女らの戦働きは、男ほどには出来ないのだから、これを討ち取ったと言っても
高名には成り難い。

ではあるが、一人も洩らさず討ち捨てたのは一段と心地よい(然りと雖も、一人も洩らさず討捨てたるは
一段と気味能き)」と仰せになった。

(續撰清正記)



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 15:16:00.10 ID:++DeFL0F
どこが悪い話なんだ?文句つけた奴がいることか

権左衛門の従者を打捨てに仕るのは

2019年09月15日 15:06

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/15(日) 12:35:05.53 ID:v9elAh5k
木村又蔵は、元々加藤清正の徒の者であったが、清正が熊本に於いて城廻りをする時の供に、
これに扈従する時期臣たちの中に、その者たちの内の者共(陪臣)がみだりに入って来ないための
押さえとして、又蔵にその役を命じた。

しかし又蔵は、清正に従う小身者の草履取り中元などが自然に入ってくるのを、見ぬ体にしていた。

ある時、新美権左衛門という出頭人配下の若党が、直臣の者たちの中に入ろうとしたのを又蔵が
咎めた所、この物は主人の出頭を傘に着て、常々何事にも驕っており、又蔵に対して口答えをした。
これに又蔵は即座に斬って捨て、それから清正の元へ行き、直にこの時に様子を申し上げた。

清正はこれを聞いて
「なんともこの者は丈夫なる者である。今どき世の常なるものは、主人の前に能く出頭する
者に対しては権勢に恐れて、その者が法度を背いても知らぬふりをして見逃し、逆に時に合わない者、
小身なる者などの草履取り鑓持たちの不作法を見つけ出して、主人にも聞かせ、又は法度の違反として
訴えるなどするのが、世の中の常である。

然るに権左衛門の従者を打捨てに仕るのは、きっと役に立つべき者である。」

そう仰せに成り、知行百石をその後程なく下され、馬廻りに組み入れられた。

(續撰清正記)



196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 11:53:09.68 ID:C4HOaIOB
さすが清正

馬の怨霊

2019年09月14日 18:12

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/14(土) 15:18:57.23 ID:IDvnMKBp
上州館林の榊原遠江守(康勝)は、加藤清正の婿であるゆえ、清正はある時見舞いに行き、そこから江戸へ
帰る途中、くつという所で、高麗陣の頃より乗ってきた葦毛の馬が俄に煩い付いたため、その在所の
名主を召し出し、直に宣うた

「この馬は高麗陣の中も乗ってきた馬である。俄にこのように煩い出し、引こうとしても一歩も進まない。
随分不憫に思うのだが、帰路の途中であれば致し方ない。この馬を汝に預け置く。然るべき医師を呼んで
養生をさせよ。もしまた死んだならば、薪を求めて焼き捨てるように。畜生ではあるが、数度の用に立った
馬である。野外に捨てて長吏(穢多・非人の頭目)に渡すような事は、絶対にしてはいけない。」

こう述べられ、銀子二枚を名主に渡し、馬取二人を添え置いて江戸に帰っていった。

ところが名主達は清正の馬にはかばかしい養生もさせず。未だ片息のある内に、原中に打ち捨て、
馬取と密談して銀子を分け取り、馬取だけが江戸に帰り「色々養生いたしましたがその功無く終に
死んだため、薪を整え煙に仕りました。」と申し上げた。

そこから一月もたたぬうち、この馬が霊となってかの名主に取り憑き、こう口走った

「我、君の御恩浅からずして、莫大の銀子を下され養生を仰せ付けられたというのに、薬の一滴も
与えないのみか、剰え野原に捨てて、穢多の手に渡したこと、遺恨山々である!子供一人すら残らず
取り殺し、後には名主夫婦もなぶり殺しにせん!」

その言葉の下より名主の子どもたちは煩い付き、ひたひたと死んでいった。
これを見て一郷の者たち集まり、禰宜神子を頼み様々に祈ったが、馬の霊はあざ笑い
「名主の一家を取り殺した後は、この郷中も者共までこの遺恨を遂げる!」
と首を振って声高に喚いた、

これを見聞きした村老野翁、身の毛もよだって恐れ震え、これに近づくものも無かった。
このままでは郷中の者達までも取り殺されてしまう事疑いないと、近隣より貴僧を数多迎え、
法華普門品を千巻読誦して、馬頭観音に祀り、堂を立て、郷中より田地を付け、堂守を起き、様々の
供養をいたした事で、怨霊は静まった。

(續撰清正記)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/14(土) 18:40:05.10 ID:BRDw7U9g
>>395
おうさまさん(´・ω・)カワイソス

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/14(土) 19:17:07.08 ID:cJHKzPeB
>>395
馬強すぎワロタw

400 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/15(日) 09:03:46.71 ID:xjNELu5t
>>395
馬取は無事だったんだろうかな。清正の耳には入らなかったんだろうか

清正公は石垣普請の御上手で

2019年09月12日 16:07

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/11(水) 18:57:04.18 ID:l3Y3NM6l
一、清正公は石垣普請の御上手で、熊本城の石垣は他に無いものという。これにより御本丸富士
  見御櫓台の石垣は大猷院様(徳川家光)も御頼みにされており、(かつて)清正公が御指図
  されたものという。

一、諸大名が屋敷の地を御願した所に井伊家の屋敷はあって、その頃に加藤肥後守清正が屋敷に
  御願された所だった。

  御本丸よりも高い山だがら如何なものかと上意があれば、清正は仰せられ「幸い後ろの方は
  深い谷ですから、谷を引きならせば平地となり申しましょう」と御願の通りに済み、かなり
  の人夫が掛かったという。

  表御門は結構な御普請で御門柱は幅3尺、金彫刻は冠木に金で波に犀の彫物。桜田御門から
  見えて甚だ光る結構な御門だという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



清正は大馬鹿者だ!

2019年08月07日 18:03

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/07(水) 12:41:58.23 ID:NfUoYjq1
石川左近将監(忠房)が大番にて大阪城に在番していた時、毎夏の虫干しが有った。数々の武具、兵具などを
取り出し、その掛りの武具奉行らが取り扱って、御蔵より持ち運ばせたのは加番大名(大番の加勢)の
人足たちであった。

数多の鉄砲の内、群を抜いて重いものが有り、これの搬出にあたった者も甚だ持ち悩み
「多くの内、このように重いものはどんな人が持っていた鉄砲なのか。」などと不満を口ずさんだが、
よく見るとこの鉄砲には『南無妙法蓮華経』と象眼にて彫り入れてあった。これについて、詳しい者が

「これは加藤清正の持ち筒を納めたものだ。清正の武器には題目を多く書き記している。」と言った。
皆々はこれを聞いて「剛勇の清正所持の上は、そのように重いのも当然であろう。」と感称したが、
鉄砲を担いできた人夫は

「清正は異国までもその名を響かせた人であるが、人を殺すべき鉄砲に題目を書くなど不都合である!
殊にこの鉄砲を担いだおかげで大いに肩を痛めた。大馬鹿者だ!」

そう散々に清正を悪口していたが、俄に心身悩乱して倒れた。程なく起き上がると憤怒の勢いで叫んだ
「雑人の身分として我を悪口なしぬるこそ奇怪なれ!」
それまでの人夫の口上とは全く違い、その凄まじさは言葉にも出来ないほどであった。
周りに居た者たちは色々詫言して宥めたが、まったく承知しようとしない。仕方なく、その時の
加番が松平日向守(直紹)であったため、その小屋にこれを報告した所、日向守の家老が驚いて、
俄に裃などを着し、かの場所へ駆けつけた

「さてさて、不届き至極なる人足かな。事にもよって、故有る武器に対しての雑言、憤りの段尤もであり、
恐れ入り候へども、雑人の義であり、何分宥恕をあい願う。」旨、丁寧深切に述べた所、かの人足は
威儀を改め

「免しがたき者なれども、雑人の義、その主人の断りも丁寧なれば免しぬる。」
そう言うと倒れた。彼は2,3日は何が有ったかわけがわからず人心地も無かったと、左近将監が語った。

(耳嚢)



清正像の怪異

2019年08月06日 17:46

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/06(火) 16:16:59.79 ID:/b25XDa/
肥後の熊本には加藤清正の廟(発星山本妙寺)が有り、像もあるという。現在の領主である
細川家に於いても厚く尊崇され、供僧などを厳しく付け置き、時々に供膳、香華を備えていた。

この供僧なる出家、ある時膳を据えて亭坊(住職の居る坊)へ下ろうとしていた所、清正の像の覆いに、
鼠が損した所があるのを見つけた。かの僧が言葉に出さず、心にて
『清正は無双の剛勇にて異国までもその名が轟いた人であれば、鼠などが害をなすことはありえないだろう。』
そう思いながら下山し、暫く過ぎて膳具を取りしまわんと、かの山に上った所、配膳のほとりに血が染み、
膳の上に大きな鼠が、五寸釘にて刺し貫かれていた。
これを見たかの僧は、ほとんど気絶しそうに成るほど驚き、ほうほうの体で下山したため、
その他の僧たちが上ってかの場所を清め膳を下げたのだと、これは肥後の者が語った所である。

(耳嚢)



アンコールワットに渡ったという森本一房について

2019年05月24日 14:41

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 11:45:39.91 ID:ISgK1XN7
加藤清正の家臣である森本義太夫(一久)の子(次男)を宇右衛門(一房)という。
牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。

この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)

またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)

近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。

また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。

彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。

(甲子夜話)

アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 13:34:27.02 ID:DIUlQ1Gk
>>61
ガリバー旅行記みたいだなw

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 15:24:00.04 ID:5bhEUb8Y
ガリバー「踏み絵を拒否したら怪しまれた」

この両人は隠れ無き武勇の者なり

2019年04月11日 18:15

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 17:25:17.16 ID:lNjfT+Y9
加藤清正の先手の大将は、森本義太夫(一久。原注:5千石)・庄林隼人(一心。原注:5千石)・飯田角兵
衛(直景。原注:5千石)・三宅角左衛門(原注:3千石)。

飯田・三宅は普請奉行である。この両人は隠れ無き武勇の者なり。

江戸で評議があって「又者(陪臣)で確かな武勇があるのは誰か」と言った時、「清正家中の飯田角兵衛なり。
高麗で天下の人数を引き回したのは、古今においてこの者である」と言われた。

また、吉村吉右衛門という者も清正家中で武勇の者である。

――『老人雑話』



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 17:31:14.19 ID:lNjfT+Y9
>>845
誤爆orz
いい話でした

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:45:11.15 ID:LRQ0nIoS
>>846
まあまあ
でもあれだね。勇将の下に弱卒なしというか
清正ってやっぱり凄い

この二つは最も名誉とされる事である

2019年03月06日 19:41

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 06:16:40.26 ID:REEwPBTX
加藤清正が蔚山において援軍来たらず、兵粮も既に尽きて、馬を殺してこれを喰った。
そこで兵力が完全に疲弊する前に斬って出て闘死せんと議する所に、漢南人もまた
兵粮が続かず、兵を引いて帰った。清正は九死に一生を得たのだ。

その時、夜半に石火矢の発射音が山川を振動させた。蔚山城中では、漢南人が夜に乗じて
攻め入るのかと、持ち口を固めて待ち構えたが、その後は寂として人馬の音もなかった。
夜が明け、漢南人の陣を見ると、夜の間に皆引取って、ただ空営の跡のみ残っていた。
蔚山城より十町も離れていないのに、2,3万ほどの人数を引き取っても、城中にその気配が
聞こえなかったのは、彼らの軍令が能く徹底されていたためで、これは日本兵の及ぶところではない。
その後陣屋の跡を見た所、厠が一つもなく、また糞尿の汚れも無かった。
この二つは最も名誉とされる事である。

(武将感状記)

割と珍しい(?)、朝鮮役の明軍を評価している逸話。



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 11:22:36.66 ID:1Sh+A8XF
明人はウンコしない