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お綱門

2022年01月20日 19:09

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 08:47:08.92 ID:6ofPMtyB
西日本新聞社編「福岡県の昔ばなし」の「お綱門」のあらすじ

大名には江戸の正妻とは別に国元に第二夫人を置くことが認められていたため、忠之が参勤交代の帰路、大坂の花街で見初めた芸者に采女という肩書きをつけて博多に連れ帰る
家老の栗山大膳が「身分の低い者を側室にするなどもってのほかです」と諌めたため仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ
お綱には暮らしのための金銭も届かないようになり、明日は雛祭りだというのに幼い娘の支度もできないと下働きの善作を本宅に使いを出しお金の無心をさせる
浅野は「すでに絶縁!」とけんもほろろ、奥方を哀れに思った善作は遺書をしたため千代の松原で首をくくる
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を手にかけ子供たちの首を包み腰にさげ、薙刀を持って、下屋敷から大名町の本宅に
浅野は登城しており、留守を預かっていた浪人明石彦五郎が怪しみお綱に切りつける
重傷をおったお綱は薙刀を杖代わりにして城内にはいるが扇坂門の扉に手をかけたため死亡、寛永七年三月三日のことであった

近年、老朽化した「お綱門」を取り壊すことになり丁重な供養をした後、長宮院という寺でお綱親子の霊を祀る
長宮院は空襲で焼け、今は福岡家庭裁判所となっているが位牌は疎開させてあったため無事で
東湊町の真光院で「お綱大明神」として家庭円満、良縁祈願、水子供養で訪れる人が多かった
真光院は今は福岡県糸島郡二丈町に移転、今なお香煙は絶えない

「お綱門」の後日談
後世になりさまざまな怪談話を生み出した
太平洋戦争当時、福岡城址は福岡第24連隊の兵営となったが「お綱門」で立番をする兵士は心身の異常を訴えたという
また鬼のような上官のワラ布団の下にこの門の近くの小石をこっそり隠し入れると、上官は悪夢にうなされたり病気になったという



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 11:56:16.35 ID:vAkwOalY
福岡んおごじょはすごかね

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/27(木) 10:43:06.26 ID:noXl88DO
>>281
>仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
>浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ

殿様の女なんじゃないの?どういうこと

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 11:33:29.56 ID:UuGmdRex
>>290
同じ西日本新聞の昭和48年8月13日号から19日号で
「怪談 福博の夜ばなし」という連載があって
第一回が「お綱さんばなし "たたりますわョ" ナギナタ持った凄幽霊」でほぼ同じ話が掲載されているが
「采女はお側役の浅野四郎左衛門に下げ渡された。」となってる
なおお綱はひどい醜婦(箱崎釜破故でも)とされている。
ついでに後日談もあり、お綱が城に入ろうと飛びついた
「土塀のカワラは、何度ふきかえてもズリ落ちた。
お綱さんがナギナタでササを切り切り走った薬院(中央区)は、道の片方のササが生えてこないとか、タケが高く伸びないといわれる。」
このあとお綱さんを祀っていた長宮院が戦後に家庭裁判所となったことが書かれているが
「その工事中、お綱大明神のあった真上の梁から大工が落ちて死んだ。
いまも、その位置は何べん修理しても雨漏りがするそうだ。」
また、原田種夫氏(「黒田騒動」についての本を出している)に取材したところ、お綱母子の墓の近くにお綱ヶ池があったが魚を取ると祟られると恐れられた、と言われたそうだ。

294 名前:290[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 23:30:01.37 ID:ollerr9a
>>292
サンクス、そういうことか
とはいえ、殿様から下げ渡されたのなら采女を粗略に出来ないしなぁ
だからといってお綱に納得しろというのも酷だし
誰も得しなかった悲話だな

「箱崎釜破故」より麻井(浅井)四郎左衛門の妻お綱のこと

2022年01月14日 17:27

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:08:56.97 ID:oR2DBSob
箱崎釜破故」より麻井(浅井)四郎左衛門の妻お綱のこと
(数種類のバージョンがあるようだが広島大学図書館が往来物(寺子屋の教科書)として公開しているものを元にした)

黒田忠之には北の方(采女)という愛妾がいたが、新しく江戸から十六の愛妾を二の丸に住まわせたため、
采女の方は自身が取り立てた麻井四郎左衛門という侍に妻として下げ渡すことにした。
四郎左衛門にはお綱という妻と二人の幼少の男子がいたため断ろうとしたものの主命ということで断りきれず、お綱は離縁となった。
四郎左衛門も離縁後しばらくはお綱の元に忍んで行ったものの、お綱の嘆き繰言をするのをうるさく思うようになった。
また先妻に通っているのを後妻の采女が禁止したため、せめて二人の男児だけは引き取ろうとしたが、
「血のつながっていない子を後継にはさせません。実母に養育させればいいでしょう」という采女の意見に押され、それ以降お綱のもとに通うことはなくなった。
四郎左衛門が通わなくなり二年が経ち、援助もないため、お綱は生活も事欠くようになった。
寛永七年霜月二十七日の夜、絶望したお綱は南無阿弥陀仏と称名を唱え、短刀を二人の息子(四歳と六歳)の胸に刺した。
息絶えた二人にお綱は
「恨むなら父上と父上を寝取った女を恨みなさい。母も敵を討ったらお前たちのところに行くからね」
と言って、装束を改め、鉢巻を締め、長刀を持って四郎左衛門の屋敷に向かった。
お綱を見た門番は仰天し「夜中に何者なり?」と声を上げたが一刀のもとに切り伏せられた。
お綱が寝屋と思われる方へ進んでいくと、浪人浅野彦五郎というものが刀を持って参じ、しばらくお綱と切り結んだ。
そのうち彦五郎の刀がお綱の左肩に打ち込まれ、お綱は「口惜しや残念やただ一歩のところで」と怒りの声を上げて斃れた。
お綱の死に顔は眼を見開き歯を食いしばり、というものすごい形相であった。

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:10:45.59 ID:oR2DBSob
翌日、四郎左衛門が采女に「まあ、あいつも生き恥を晒すよりは死んだ方が幸せだったな」と語っていたところ、屏風の影からさわさわという音がした。
屏風を開けるとお綱が生前の姿のまま立っており、采女は「あっ」と一声叫ぶや、舌を三寸ほど噛み切って死んでしまった。
四郎左衛門は忠之に対して采女の死因について病死であると届け出たものの、ことのなりゆきが忠之の耳に達し、
忠之は怒り、お綱の死骸を暴いて竹の串で貫き、路上に晒した。
往来を通る者で「嫉妬ゆえこのように晒されることになった」と嘲った者どもが数十人あったが、どの者も言った途端に狂ってしまった。
忠之はますます怒り「にくき女め」と穢多に命じて死骸を微塵に打ち砕き、川に流すよう命じた。
この役を行った穢多十二人は、たたまち様々な恨み言を述べて狂死したため、この十二人を一箇所に葬った。今日ではこの塚を穢多塚と言っている。
お綱の死骸を打ち砕くのを見分した役人も即時に発狂して、帰るや門の礎に頭を打ち砕いて死んでしまった。
その後、四郎左衛門は怨霊に悩ませられ痩せ衰えてしまい、これを聞いた忠之は不憫に思い四郎左衛門の元を訪れた。
四郎左衛門のあまりの変わりように忠之は驚き、詳しく尋ねると
「毎夜子の刻に前妻が苦しげな様を見せつけてきて熱が出てきます」と答えたため
忠之が「よし、われが邪気を退けてやろう」
とうけあったところ、四郎左衛門は涙を流し喜んだ。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:12:21.01 ID:oR2DBSob
こうして忠之は浅野彦五郎を含めた勇士二十四人を選び、
日光一文字の刀(北条早雲が日光二荒山から貰い受け、北条氏降伏の際に如水に贈られた)、岡本正宗の短刀(忠之の元服祝いに家康から下賜された)、
碇切(長政が朝鮮で碇ごと間者を斬った)、返切(へし切り長谷部)、安宅(如水の四国攻めの際に敵将安宅貴康を斬った)、権藤の長刀(如水が朝鮮で虎に襲われた時に権藤という武士がこの薙刀で虎を仕留めた、もしくは高橋元種の部下・権藤平左衛門が18人を斬った)
といった黒田家の名刀を持たせ、正宗の刀は四郎左衛門の枕元に置くように手配させた。
勇士たちは霊魂よ来るなら来い、と豪語していたが、夜になり、二十四、五才ほどの女がほほと笑って病人の枕元に近づいても、おのおの身の毛がよだち、腕がすくみ、身動きが取れなくなった。
四郎左衛門がしばらく熱で焼けるほど苦しんだ後に女は出ていったが、勇士たちはまたも身動きが取れなかった。
われながら情けなく思った勇士たちは翌夜、名誉挽回を期し、彦五郎は自ら正宗の短刀を抱いて四郎左衛門と寝床に臥した。
丑満の頃、生首が出現し四郎左衛門の上を通ったところ、四郎左衛門は一声うめくや、むなしく息絶えてしまった。

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:19:46.55 ID:oR2DBSob
忠之は麻井四郎左衛門夫婦の追善供養をしたものの、麻井の跡目を継ぐものがなかった。
そこでお綱を殺した褒美ということで浪人浅野彦五郎に麻井の跡目二千石を相続させた。
しかし彦五郎は「悪口を言った者、死骸晒しの時に立ち会った役人までも狂死しているのだから自分も祟られるかもしれない」
と檀那の寺で相談し、六ヶ寺でお綱の仏事を行うこととした。
このことは隠密であったがなぜか忠之の耳に達し「言語道断、われの敵の女が肩を持つか」と忠之は怒った。
そのとき佞人があり、彦五郎が正宗を抱き臥した後返していない、と忠之に告げた。
忠之からの詰問に驚いた彦五郎が家中をくまなくさがしたところ、麻井家の箪笥のなかに置いたまま失念していたことが判明し
失念していたと忠之に申し上げたものの、盗人ということで平人に落とされ、五歳の男児ともども釜煎の刑に処せられた。
また六ヶ寺の住持は皆衣を剥ぎ取られ俗名に戻され流罪にされた。
一説にはお綱の幽霊が正宗を箪笥に忍ばせ、彦五郎に殺された恨みを果たしたのではないかと言われている。
(このあと黒田騒動の話になる)

なお「箱崎釜破故」の他のバージョンでは彦五郎に請われてお綱の供養を行ったのは空誉上人であり、
そのために忠之により背を割り鉛を流し込まれるという刑罰を受け、浄念寺の和尚がこっそり放置されていた死体を持ち出し自分の寺に葬ったことになっているようだ。
荒唐無稽な話でお綱自体も創作だと思われるのだが、
福岡城の扇坂門はかつて「お綱門」と呼ばれていて、その門に男が手を触れると熱病にうなされたという伝説があったとか。
福岡市中央区の「お綱さんばなし」というページによれば、大筋は同じだが四郎左衛門は登城していたため屋敷にはおらず、
浪人「明石」彦五郎に斬りつけられたあと、四郎左衛門のいる城に行こうとしたが扇坂門に手をついたところで息絶えたため「お綱門」と呼ばれたことになっている。



「寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと

2022年01月13日 16:40

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/12(水) 19:27:57.50 ID:4OnqiQbH
高要もしくは空誉上人の異説
寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと

安養寺別当の紅陽法印は実は岐井谷安芸守友房(城井朝房?)の次男であり大友宗麟にとっては孫であったが、
岐井谷滅亡の後京都智積院紅道大僧正の弟子として真言密教を修行して天満宮の別当となる。
山中での修行後に下山した際、赤子の泣き声が聞こえたため行ってみると、猟師が出てきて
「私の子供なのですが、母親が死に、乳がなくて困っております」
と答えたため不憫に思い、猟師の話をくわしく聞いてみると、かつては大友に仕えた定村種時の息子、定村種春であり、
祖父大友宗麟からの感状も持っていることがわかったため、祖父の引き合わせだと感動し引き取ることにした。
子供は女児であったため、表向きは男子ということで寺小姓としておいておいた。
十数年たち成長した後には要人(かなめ)と名付けたが美しく育ったため、いつしか男女の仲となってしまった。
あるとき黒田忠之が安養寺に来た際に、要人が茶を立てたところ忠之は気に入り、たびたび紅陽を城に召すようになった。
そのころ忠之は奇術を用いる大盤和尚という者を気に入り、折々召し出していたが
忠之の面前で紅陽と大盤が問答をしたところ、大盤は言い負かせれたうえ、切支丹であることが露見した。
栗山大膳が大盤を拷問したところ切支丹であることを白状し、獄門にかけられた。
これ以降、忠之は紅陽と大膳を恨むようになっていたが、天神の祭礼日には家中の者があちこち訪ねる習わしになっていたため
寵愛していた倉橋重太夫(倉八十太夫)に安養寺へ行かせ、定村要人の様子を見てくるように命じた。
倉橋は安養寺に行ったものの要人は出てこなかったため怪しく思い、寺の奥まで押し入り、
逃げようとする要人の胸ぐらを掴んだところ、柔らかいものがふれ、要人が女であることが露見した。
帰城した倉橋からこれを聞いた忠之は奉行に要人を捕らえるように命じたが、紅陽によって要人は父親のところに送り出されていた。
奉行は紅陽を尋問したが「要人は出奔しました、所在は知れません」というばかりであり
二の丸の裏庭をお白洲の代わりにして、煮えたぎった油をかけるなどの拷問をしたが紅陽は口を割らなかった。
そこでとうとう破戒僧ということで、四本の杭に手足を縛り、背中を反らせ刀で引き裂き、そこに塩湯を流し込み、
皮肉をひきつらせて溝を作らせ、融けた鉛をその溝に注ぎ込んだ。
奉行が「これでも白状しないのか」というと
紅陽は両眼をかっと見開き、「おのれ、忠之が無道、要人が色香に迷い、これを奪い取らんと拷問にことよせて我を殺さんとし
また我を匹夫とはもっとも慮外至極なり。そもそもわれは岐井谷安芸守が二男なり。
我は父祖重々の怨敵たる黒田家なれども昔仇を忘れ恨みもせざりしに、
さる頃、汝が帰依なせし大盤が邪法をばくじきしことを遺恨に含み、今要人のことによせ、いまだ天下に行われざる非道の責(せめ)をなしたるべし。
たとい女犯のつみあろうとも死刑にあたらんや。この恨み思いしらさでおくべきか」
と四本の杭を引き抜き悪鬼の形相で死んだ。

このあと黒田騒動の話になっていく



「博多細伝実録」より僧高要の祟り

2022年01月06日 19:21

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/06(木) 18:19:38.97 ID:7ZpPPo9o
博多細伝実録」より僧高要の祟り

忠之の短慮についてであるが、天台宗の僧・高要という者が太宰府の近くの寺の別当をしていた。
この出家は破戒僧であり、十六才の寺衆の美婦を小児姓といつわって仕えさせていた。
ついに目付けにばれ、本来ならば遠島を申しつけられるところを、
忠之により、法外不仁であるということで生きながら骨を割られ殺された。
忠之は城より二里半ばかりの崇福寺に、毎月祖父如水の忌日に寺参りをしていたが
暁方に馬で向かったところ、高要法師が忽然として煙の人形のごとく馬の前に現れ白眼をむいた。
忠之が「坊主めが、推参なり」と言うや煙の如く消失した。
高要の死から一年もしないうちに、高要の破戒を見出した目付けはもちろん、その時とらえた場に居合わせた者十三人が一人も残らず死んでしまった。
そこで福岡の大工町に一社が建立されたが、色道の罪で殺されたため、誰ともなく縁切りの願いを叶えてくれる、ということになった。



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/10(月) 01:02:57.34 ID:ll8UQZEV
>>264
の僧高要の話についてまとめサイトのコメント欄で質問があったので調べたら異説があった。
博多細伝実録」には「霊を福岡大工町浄念寺の間に社を建立の者為て高要権現と称し」
と書かれていたが、福岡市中央区大手門2丁目(かつての大工町)に存在する浄念寺について福岡市中央区のHPで見たところ、
境内には空誉上人を祀る空誉堂があり、後藤又兵衛の身代わりになって黒田忠之に処刑された、としていた(長政ではなく)
また、中央区の「今泉天神通りの3か寺」のページだと、
安養院の寺小姓を気に入った忠之が差し出させようとしたところ
住職の空誉上人が断ったため釜茹でにしたとしていた。
実際「博多細伝実録」だと「骨を刻、体?を鋳(に)こみ」と書かれているようなので名前も近いし高要=空誉と思われる。

城には後藤という鋭将がある

2022年01月01日 17:19

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/01(土) 13:38:14.04 ID:G5eAbucL
大阪冬の陣、大阪方が十一月三十日に天満、船場を自焼して城内へ撤退した時、天満、船場は
高家華麗に甍を並べていたため、火も甚だ盛んであり、明日まで燃え続けた。
この時後藤又兵衛が曰く

「(池田忠継の)備前勢が、この撤退を追撃して天満に入ってくるだろう。そのため壮士たちを
烟の下に伏兵として置いて、敵が侵入すれば不意に発して功名すべき。」旨を下知したため、
勇壮の士がここかしこに伏していたが、備前勢はみだりに近づくような事は無かった。
この予想の相違に対して悉く、後藤が己の武勇を誇って、恣の下知を下していると嘲る色が見えた。
しかし又兵衛は

「何事も時に依っては見積もりが相違するものだ。備前勢が必ず付け入るべき所で、疑義したのには
理由がある。池田忠継の相備に、花房助兵衛(職秀)が未だ存生で来ているのだろか。であれば
彼の意を加えたのであろう。」と言った。

冬の陣の御和睦の後、戸川弥左衛門が後藤又兵衛を招き宴会をした時、又兵衛は聞いた
「今回の戦で、天満、船場の外塁を自焼してその兵を郭の内に引き取った時、どうして
備前、備中の軍勢は城兵を追尾して討たなかったのか。」

弥左衛門曰く
「私の愚兄である肥後守を始め、烟に紛れて付き慕わんと進んだのだが、花房助兵衛がそれを固く制し、
『城には後藤という鋭将がある。恣に追撃して不覚をするべきではない。』
と言った為に、これを討たなかったのだ。」
と答えた。

誠に又兵衛が察したことと相違無かったという。

新東鑑



922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/01(土) 13:59:36.06 ID:oWQyyJs/
慶長十九年十一月三十日は
グレゴリオ暦だと1614年12月30日
2日ずれてたら1月1日だったのが惜しい

「我が君の御運は強し!」

2021年12月27日 16:52

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/27(月) 13:13:00.33 ID:QCMvxcki
大阪冬の陣、今福の戦いでのこと

戦場から川向うに陣していた上杉景勝勢の直江山城守(兼続)は、豊臣勢の中に、部隊を下知している
後藤又兵衛を見つけた

「茜の母衣張で、馬印に黒半月を差して下知しているのは大将分と見えたり!あれを討て!」

そう申すと、若き者共が差し詰めて鉄砲を撃ち掛けた。これに後藤又兵衛の物具にも、弾丸が五、六発
当たり、その中の弾の一つが後藤の左の腕脇を打ちかすった。しかし彼は少しも騒がず、疵を確認して

「我が君の御運は強し!」

と申した。
この言葉を諸軍勢聞いて、「大阪には後藤より他に人無しとする言い分である。」と、これを嘲る者達も
多かったという。

新東鑑



宝はいつでも金銀に限るわけではない

2021年12月24日 16:19

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 21:59:55.29 ID:VMPClW5p
>>905の吉田重成の息子の吉田久太夫について
黒田藩のさまざまな話をまとめた江戸中期の「博多細伝実録」から

黒田忠之の出世頭の侍に吉田久太夫というものがいた。二千五百石取りであった。
十六の時に島原の乱に出陣したが後衛を命じられたため、不満に思い先駆けを願ったが聞き届けられなかった。
武士と生まれて留守番とは口惜しいと思い、抜け駆けし先手に加わり敵を追いかけた。
これを見た忠之は「主人に叛く言語道断の奴ばらめ」と激怒し
翌日、久太夫を呼び「城楼に登って敵味方の様子を見て参れ」と内心殺すつもりで命令した。
久太夫は「かしこまりました」と言うや否や城楼に駆け上り、敵城の内を見渡した。
鉄砲の弾は雨のように降り注ぎ、兜の緒が切れたり、右肩をかすめたりしたが、久太夫は慌てず、こよりで兜の緒を結び直しそのまま偵察し続けた。
敵も味方も「あっぱれな若武者だ」と勇気を賞賛した。
忠之はよけいに立腹し、「汝のようなものはわが陣中には不要である!どこにでも立ち退け!」と告げたため
さてもの久太夫も国を追われ、三年ほど伏見や草津で馬の世話をして露命をつないだ。
その後、松平讃岐守が久太夫のことを知り
「黒田浪人吉田久太夫といえば島原の乱において十六でありながら角前髪を振り乱して勇気を披露し味方を鼓舞した者ではないか。
そのような惜しい士を埋もれさせてなるものか」
と方々に手を回して久太夫を探し出し、紛れもなく本人であると知ると讃岐に連れて行き三千石を与えた。
その後、江戸に諸大名滞在の折、讃岐守の屋敷に忠之も含め国持大名が集まり、料理に舌鼓を打ち、国々の噂や名物について話に花を咲かせた。
この時、讃岐守は忠之に対して「わたしは貴公より小身であり、国の財とてさしたるものもありませんが、近来殊のほか優れたものを見出しました」
と久太夫を忠之の前に出し、外に連れ出して久太夫の巧みな馬術を見せつけた。
世上流布する言葉に「宝はいつでも金銀に限るわけではない」と言う通りである。
忠之は大いに後悔し、久太夫に詫び、讃岐守と交渉して黒田藩に同じ三千石で戻してもらうことになった。
その後も久太夫の家は繁盛し、代々「久太夫」を名乗っている。



これを以て察したのだ

2021年12月22日 17:43

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/21(火) 20:19:38.84 ID:xcIPBiIw
寛永十五年、肥州島原の乱でのこと。二月二十一日、黒田家の家臣である竹森石見貞幸が、
同僚である吉田壱岐守(重成)の陣屋へ夜話に行き、その帰りに及んで
「今夜必ず夜討ちがあるだろう。怠ること勿れ。」
と戒めた。その夜、賊徒が黒田の陣所に忍び来て夜討ちをしたが、兼ねて準備をしていた黒田方に
打ち負けて撤退した。

ある人が貞幸に、なぜ事前に夜討ちのことを知っていたのか問うた所、彼はこのように答えた

「前日に城中が物騒がしく、殊に夜に入って婦女の泣き声が聞こえてきた。これを以て察したのだ。」

二月二十八日、諸手が本丸を攻め破った時、貞幸は一番に黒田の旗を本丸に入れて先登した。

(志士清談)

黒田二十四騎の一人とされる竹森次貞の息子、貞幸の島原の乱での活躍について



私は若き時より、敵に向かって臆したことは

2021年12月08日 17:38

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/08(水) 12:12:17.53 ID:+KDTAwgV
黒田長政の家老である黒田美作一成は、幼名を玉松、後に三左衛門と呼ばれ、晩年に美作と改め、隠居して
睡鴎と号した。彼は肥前島原の役の時に六十八歳であったが、正月十七日、福岡を出陣し島原に至った。

この時、松平伊豆守(信綱)は軍議をしようと彼を召したが、美作は先に城下を打ち廻ってよくよく地勢を
見終わってから、伊豆守の陣所へ行き、
「今日ここに至り、もし愚意を問われても当城の形勢を知らなければ何を申し上げることが出来るでしょうか。
所々を行って廻り見分仕ったにより、すぐには参上しませんでした。」

このように申すと、伊豆守も「さすが老功の者」と賞美した。そして城へ乗り込む時期について問われると、
こう申し上げた

「只今、城へと乗り込むのは然るべからず。この城を力攻めにすれば、勿論即時に乗っ取ることは
出来るでしょうが、敵の弾薬も沢山あり、寄せ手に多くの死傷者が出るでしょう。今はただ取り巻き
兵糧攻めにして、弾薬を徒に尽きさせ、食も尽き、疲弊した時に乗っ取る事こそ然るべきです。

これについて、もし敵を恐れて申しているのだと思われるかも知れません。しかし私は若き時より、
敵に向かって臆したことはありません。現在、他に変は無く、孤立した一揆の孤城に対して
御人数の死傷者が多いというのは宜しからざる、そのためこのように申しているのです。」

これに伊豆守も諸大将も、一成の意見に同心したという。

志士清談



この湯に浴しただけでも傷が癒えた

2021年12月06日 19:01

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 15:48:26.53 ID:cTQQ2Jd/
秦桐若は黒田孝高に従い度々勇名を得、首三十一を取った。播州の近国の者達は、彼の、長さ一間半ある
唐団扇の指物を見知っており、戦場で近づくことがなかった。秦が指物を隠して敵に近づき、俄にそれを出すと
それだけで敵勢は忽ち敗走したという。

天正十年の山崎合戦の折、彼は重い傷を負い、治療して過半癒えたが、未だ十分に回復していなかったことで、
翌年摂州有馬温泉で湯治をした所、不日に平癒した。この時秦は

「この湯に浴しただけでも傷が癒えた、これを飲めばその効能はいよいよ速やかであろう。」

と、三勺飲むと、腹痛暴泄し程なく傷口が再び破裂して忽ち死んだ。

志士清談

有馬温泉の湯を飲んだばかりに急死した黒田家の勇士のお話。




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 18:23:16.75 ID:DoAv82So
当時は湯も不衛生だったのだろうな

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 18:55:09.70 ID:OH6D94Dy
いや、当時の衛生観念とか考えて妥当の判断だとは思うんだけどね?
どうしてもバカにつける薬飲んだって話思い出しちゃうなこれ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/07(火) 03:02:12.04 ID:iiyy02JR
温泉は湧き続けてたり殺菌効果があれば泉質は保たれるし
山崎合戦の時代なら現代ほど人で賑わう訳でもないだろうから
湯の衛性さには問題は無かったんじゃないか?
この場合むしろ問題だったのは泉質なんじゃないか?
飲める温泉も多いけど含有成分によっては飲んで体調悪化するものもあるだろう

嫡子を改易し、二男を猿楽の相手にされるなど

2021年11月24日 17:19

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/24(水) 16:21:24.98 ID:CiAUbYcD
或る本に、後藤基次(又兵衛)の嫡子左門は、主人(黒田)長政の命に背いて改易させられた。
次男の又市は容色優れ小姓を勤め、また小鼓の上手であったが、博多の祇園神事の能に、
日吉太夫の能の鼓を申し付けられたが、これに又兵衛は立腹した
「嫡子を改易し、二男を猿楽の相手にされるなど心得がたい!」
そう言って遂に国を立ち退いたという。

新東鑑

既出ではありますが出典がなかったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3462.html




残金は後でやるぞ

2021年11月07日 16:13

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/07(日) 00:09:16.84 ID:gNLIs54R
博多細伝実録」という黒田騒動や福岡藩内の怪奇現象など、おもに江戸前期から中期の話が載っている本から
千利休の切腹後くらいに、黒田長政が博多の街を馬で移動していると、
長政の姿を認めているにもかかわらず、両足を通りに突き出して仰向けになっている町人がいた。
長政が馬上から小姓に「あの町人めの足は売り物か聞いてまいれ」
と言ったため、小姓が町人に聞くと
町人「ああ売り物さ、値段だと?そうだな、片足百両、両足で二百両で売ってやるよ」と答えた。
長政は懐中から金三両を出し、
「あいにく今はこれだけしかないから手付金にして、残金は後でやるぞ」
と町人の両足を忽ち切ってしまった。
残金で町人が死んだ後の法事をさせたということだ。



【雑談】家康を潰して黒田が天下を取っていたら

2021年04月04日 17:11

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 22:26:04.16 ID:r5meznFq
来月はこどもの日だなぁとカレンダー見つつ思ったんだが
黒田親子の関ヶ原の左手エピソードが仮に実現したとして、家康を潰して黒田が天下を取っていたら
今ごろ人形店の五月人形コーナーには長政の一ノ谷兜が並び、男の子がいるご家庭では如水の赤合子兜が
飾られるようになっていたんだろうか

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 22:30:06.46 ID:QGTUKS1E
後藤又兵衛「させぬぞ」

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 23:00:32.25 ID:bOLIpJL6
福島正則「返してもらおうか」

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/03(土) 10:57:59.62 ID:7ysYaPU8
母里友信「日本号も頂きますね。」

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/03(土) 11:29:54.08 ID:UYfM+Z2R
この前五月人形見る機会があったけどたまたまあった黒田長政は水牛兜だったな

秀吉との起請文

2020年11月30日 17:35

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/30(月) 15:26:11.84 ID:gfdmzC+B
黒田如水は、元来秀吉と無二の盟友であった上に、互いに片方の身代が良くなっても、片方を
必ず見捨てないという起請を取り交わしていた。

そして秀吉が天下を取られた時、如水には所領として□石を遣わしたが、彼はこれを不足に思い、
諸事やる気の無い体であった。

竹中半兵衛は又、如水と良き知音であった。ある夜、彼は如水のところへ行き、よもやまの話をしていたが、
この時如水が、かの起請の事を言い出した。半兵衛が「それを一度見たい」と言ったため、取り出して
一覧する体で眺めた。この時、火に当たっていたのだが、半兵衛はこの起請を引き裂き、火に入れて燃やした。

如水は驚いて、「これは何とするのか」と申すと、半兵衛は
「この起請があるから、秀吉に対しても不足が出来、諸事心に叶わぬことのみとなるのだ。
これがなければそのような事も無いだろう。」
と、申した。

その後は如水も仕合わせ良く、大名になったという。

勢州記事

黒田如水に、政宗の百万石のお墨付きみたいな話があったのですね。



これは正利が天性勇猛で物に動じることが無かったため

2020年01月17日 15:08

菅正利   
533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:47:44.41 ID:goDK3ZeI
寛永六年、菅正利五十九歳、六月の初めより傷暑を病み、二十九日、家にて没した。博多聖福寺の内、
順心院に葬られた。

正利は天性、勇猛人に超えていた事は今まで記していたため、更に記するには及ばないが、
黒田長政公は豊前、筑前に於いて罪過有ることで誅殺される者がある時は、諸士に命じて見逢いに
斬り殺させた。長政公の側近くに呼ばれ、その事を命じられた時、命を聞き終わって退出する姿を
次の間に在る諸士は、その様子を見て、彼が仕者を命ぜられたのだと察したという。
ところが正利の時のみ、人々はそれを察することが出来なかった。これは正利が天性勇猛で、
物に動じることが無かったためである。

また正利は新免無二助(宮本武蔵の父・新免無二の事か)に剣術を習い、その後疋田豊五郎(景兼)にも
学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていた。
長政公が筑前に入国された後、何国の者であったか、剣術の名人であると言って、長政公に仕えることを
求めて来た者があった。この時長政公は正利に命じ、福岡城の本丸に於いて木刀にて仕合をさせられた所、
三度打って三度共に正利が勝ち、剣術者は恥ずかしく思ったのか、いつともなく逐電したという。

正利は身の丈六尺二寸(約190センチ)有り、力も群を抜いていていた。天性勇猛なだけでなく、仁愛の心深く
忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。

(菅氏世譜)

かなり有名な兵法家に教えを受けていた菅正利さん。



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:54:03.34 ID:YRUINvko
平均身長155も無いのに190の怪力手練が殺意を持って殺到してくる恐怖

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 16:16:52.85 ID:MxJGeR6p
江戸時代に急激に縮んだのさ、知らんけど

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 02:56:27.71 ID:Ssi+Cz09
>>533
さすがSAKONを打ち取っただけありますね

百道松原

2020年01月16日 17:44

菅正利   
530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 02:28:32.15 ID:bRzsaQCE
元和四年正月二十五日、黒田長政公は命を下され、福岡の城下、荒戸西の町外れより早良川の遠干潟までの
間広き砂原があり、無用の地であれば松を植えて松原にすべしとて、その事を計り実行させた。
この事業について菅正利が惣司となり、宮崎織部、手塚久左衛門も正利に加えてその事を成さしめた。

博多、福岡、姪浜の町中に命じて、家一軒に付き高さ四、五尺程の松一本を提出させ、これを植えた。
年を経て徐々に成長し、十年後には広い松原となった。その後いよいよ成長し、後には、古より事ふりたる
生の松原にも勝り、名にし負う箱崎の千代松原に等しき地となった。

(菅氏世譜)

福岡の百道松原造成のお話。なおこの松原は戦後切り開かれ宅地として造成された。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 21:54:17.07 ID:rEEY05pW
松根油にされて特攻に行ったんだな。この松の木も、

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 23:49:01.34 ID:B84WcHgd
>>531
ネタだと思うけれど松根油なんて使われてないぞ~~

ただ士の成しおくべき物は武功である

2020年01月14日 17:16

菅正利   
516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 12:14:17.26 ID:2Ea+Petg
慶長二年、豊臣秀吉公は重ねて兵を遣わし朝鮮を征し給った。菅正利(三十一歳)も又、黒田長政公の供をして
先手を勤めた。

秋の頃、大明の大軍が忠清道の内、禝山に在ることが聞こえたため、これを討たんとして九月七日、長政公は
毛利秀元と共にその勢三万余騎にて馳せ向かわれた。長政公は先手であった。
その後、長政公の勢は大明の大将・解生、楊登山、牛伯英、等と戦い、大勢を追い崩した。しかしこの時、
千総、李益、喬把、劉遇節などと云う者たちが大軍を率い、黒煙を立てて救援に来た。
解生はこれに力を得て取って返し戦った。長政公の諸勢もまた勇み進んで攻め戦うと、大明勢の勢いも一時に屈し、
さっと引き取って息をついでいた。

ここに、大明勢の大将と見える者が、西の山の高い場所に兵が多く集まって在るのを長政公が見られ、
「あれこそ大明の陣である!自余の敵どもを多く討つより大将を討ち取るべし!続けや兵ども!」と下知して
旗本をそこに定め置き、井上九郎右衛門(之房)、栗山四郎右衛門(利安)を残して敵が来た場合の防ぎに
備え、自らは手勢の内で一騎当千と思われた人々を選んで召し、供をさせた。その人々は、黒田三左衛門、
後藤又兵衛、野村市右衛門、菅六之助(正利)、林太郎右衛門、堀久七、野口藤九郎、益田与助、等であった。

長政公は彼らを引き連れ真っ先に進まれたため、菅正利を初めとして後に続く兵たちは、我劣らじと敵陣へ
駆け入り、即時に敵の大勢を切り崩して二里ばかり追討ちした。この時、敵勢の中より一騎踏み留まり、
弓馬の達者と見えて、馬を留めて寄り来る者共を射ると、あだ矢は一つも無かった。彼に向かっていった
者は、或いは射殺され、或いは深手を負ったため、味方に手負い、死人多く出た。このようであったので
我討ち取らんと進む者も無く、長政公はこの様子を見て「正利は近くに居らぬか!?」り尋ねられた。

菅正利は丁度敵を討って、首級を大将に御目にかけんと持って帰っていた所であった。
急いで進み出ると長政公は正利に向けて
「汝、行き向かい、あの敵を討ち取れ。」と命ぜられた。

正利は命に従い速やかに馬に打ち乗り馳せ向かった。かの敵は正利が向かってくるのを見て弓を引き堅め
射った矢は正利の右の耳を射切ったが、深手では無かったため事ともせず、二の矢を継がせないと逸足を
出して駆け付け、乗り違えざまに一太刀切ると、刀能く切れ首脇より乳の下にかけて切り落とし、首を取って
馳帰り、長政公の実検に備えると、「武運強き者には矢もたたぬものなのだな。」と雑談され、その武勇を
殊の外感じられた。

ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、先に受けた矢の射切られた所が、当初は何とも
無かったのだが、次第に毒気が皮膚の内に深く入ったのか、後には右の耳の色赤くなり、常に膿、血が出て止まらず、
これ故に顔色もすべて恐ろしく厳しいものとなった。後には小児が泣く時に、正利の名を言って脅すと泣き止む、
などと言われた。かのもろこしの張遼が、小児が泣くのを止めたという故事もかくやと思い知らされる。

さて、このように菅正利は顔より常に膿汁が出て見苦しいものであったが、黒田如水公、長政公は少しもきたなく
思われず、正利が飲んだ盃を取って呑み、濃茶の跡をも召し上がられ、年若き家臣共に常に正利の武勇を語り
聞かせられ、「きたなくとも、あれにあやかれ。」と宣われた。

正利はこれを有難きことに思い、常に子供に対してこのように語り聞かせた。
「私の勇功によらなければどうしてこのように忝き御意に預かれるだろうか。ただ士の成しおくべき物は
武功である。」

(菅氏世譜)

大谷吉継の逸話みたいな話が、菅正利にもあるのですね。



517 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/14(火) 12:43:44.90 ID:a0wdp0Jx
附子の毒とは武士にあるまじき行為、無粋な奴らよ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 13:37:20.44 ID:oH277gGr
膿と茶の話はもともとは利休だっけ?紹鴎だっけ?の弟子の話が元ネタだっけ

毒矢に関しては国によって戦い方が違うだけだからなんとも
日本も矢じりわざとゆるくとりつけて射られた敵の傷口に残るようにして苦しめてた、みたいな話もあるし

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 14:41:41.91 ID:qiXWHE6+
>>518
利休のやつは三成の三献茶の元ネタじゃ無かったかな?
吉継の茶の話はたしか未だに出典不明のはず。真面目にこれが元ネタじゃ
無いだろうか。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:14:10.14 ID:+ig0gkR5
矢じりをゆるくつけると
二重の極み理論で貫通力がUPするらしい
https://i.imgur.com/gEfaFxQ.jpg
gEfaFxQ.jpg

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:18:34.48 ID:bO8Xz5cn
>>516
>ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、

一休さん「附子茶(゚д゚)ウマー」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:42:24.02 ID:dUCx40Wo
まとめの1963
「武田のゆる鏃」と家康・悪い話

まとめな5892
鏃の詰め方

武田の緩い鏃は非人道的だと家康激怒

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 00:15:15.78 ID:riOsz2RF
>>520
三献茶とごっちゃになってました、ご指摘ありがとうございます

にしてもほんとにこの手のお話は有名武将に話入れ替えられるのが多いですなー
江戸時代辺りに話から武将だけ入れ替えるって手法が多かったんですかね

525 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/15(水) 07:36:38.09 ID:A9SObay3
>>518
>>517は本気で異国の戦法を云々ではなく、ちょっと韻を踏んで頂けたら…

『斃秦』

2020年01月13日 16:31

菅正利   
507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 13:49:21.83 ID:FG5Q7KtQ
文禄三年、朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、和議が既に調ったため無用であるとして、
悉く日本へ帰国したが、黒田長政公は機張の城を守って居られたので未だ帰国されなかった。
しかし大明との和議が調った後であり、敵も皆退散したため合戦も無く、いたずらに異国に逗留し、
つれづれの余りに、時々勇士共を引き連れ山に入り虎狩りをされた。

二月十三日、長政公はまた山に入って虎を狩られた。この時長政公、鉄砲に寄って駆け来る虎を間近く寄って
撃ち殺された。その後、猛き虎が一つ駆けてくるのを、長政公がまた鉄砲を構えられた所に、虎は脇に人が
いるのを見つけると、長政公の方へは行かず、菅正利与力の足軽が並び居る所に駆けてきて、一人の肩を咥え
後ろに投げ、一人をその腕を喰らって倒した。これを見る者で恐怖しないという者は居なかった。

この時菅正利は朱塗りの鎧を着ていたため、人多き中にも著しく見えたのだろう、虎は正利をめがけて懸ってきた。
しかし正利(当時二十八歳)はこれを見ても少しも騒がず、刀を抜いて進み、駆け寄る虎を一刀、斬った。
刀能く切れ、虎は一声吼えて即時に倒れようとした所を、また一刀斬って首を打ち落とした。
この時正利の稀代の勇と、その刀の利が無ければ、虎口の害を免れ得なかったであろう。

この刀は備前吉次の作にて長さ二尺三寸一分あり、現在でも相伝わり菅の家にある。
その後、大徳寺の僧・春屋にこの刀の銘を乞うた所、『斃秦』と名付け、今その刀の中子にその刻がある。
秦は虎狼の国と言われるため、「虎を斃す」という心なのだという。

また後に林道春に銘と名を乞うた所、普の周処が南山の虎を斬ったという故事を取り、その刀を『南山』と名付け、
その事を記し銘を書いて与えた。

誠に世には、自分と変わらない敵に向かってさえ恐れて進み得ず逃げ去る者も多く、いわんや怒れる虎は
その猛き事類なく、古よりの口ずさみにも、恐ろしいことを言うのに先ず虎をこそその第一とする。
これに向かい勇み懸って、あまつさえ短刀にてこれを斬り殺すこと、類なき武勇ではないか。
もろこしと言えどもそのためし少なく、いわんや日本には前代にも既に無く、後世にも有りがたるべし。

(菅氏世譜)

虎も斃したら首を打ち落としていたのか。



508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 14:40:18.90 ID:dXipE+7V
周処は曹休を罠に嵌めて石亭の戦いで破ったので有名な呉の周魴の息子だから普じゃなくて晋
(周処の墓からアルミニウムが見つかった!と大騒ぎされたが
発掘の途中で紛れ込んだだけ、という話もあった)

三国志演義といえば菅正利の中国語wiki
https://zh.m.wikipedia.org/wiki/菅正利
戦争で顔に傷を負ってなく子を黙らせるのに使われたことから
「日本之張遼」扱いされちゃってる
張遼の息子は虎なのに

509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/13(月) 16:21:17.88 ID:PjOK7w71
日本や中国も昔は人攫い(を妖怪に喩えたりして)が来るぞって言って泣く子を泣き止ませたとか聞いたことあるけど、謙信または越後軍が来るぞっつったら同義になったんだろうか?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 17:40:39.44 ID:5XRBh6Zd
2箇所に銘を頼んでるのが合見積みたいだ
南山より斃秦のほうがオリジナリティあるな

官兵衛さんもやっていた旗指し物案件

2019年12月01日 15:40

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 11:19:45.27 ID:+TBKw16C
薩摩の島津に対し秀吉公が上洛を命じた所、それを拒否したとのことで島津征伐となり(九州の役)、
毛利家にその御先手を頼まれ、検使として黒田官兵衛が差し下された。
先ず吉川元春小早川隆景が九州に渡海し、翌日毛利輝元公が渡海され小倉城に入られた。

宇留津の城には賀久孫兵衛という者が入っていたが、彼の親類である東堂(引退した禅宗の住職)を
通して、降伏して城を明け渡すよう説得したが、孫兵衛は

「親である宇留津専慶が薩摩方であり、現在香原岡に居るのを捨てることが出来ない。
御公儀に対し奉り御敵仕るのは九牛の一毛(比較に成らないほど小さい)ではありますが、
攻めかかって来ればこれを引き受け、戦った上で切腹仕りましょう。」

そのように降伏を拒絶したため、暮方より城への攻撃が始まった。双方に手負い、死者が多く出た。

この時、城の尾首の高見にあった黒田官兵衛は、攻め口より自分の指物を城の中に投げ入れた。
敵方はこれを取ると、(分捕品という事か)城内にて振り回した。

ところが寄せ手の諸人はこれを見て「はやくも官兵衛は城に乗り込んだか!」と思い、
これに負けじと惣陣より一度に城に乗り込んだ。これは未明より取り掛かり、その日の七つ過ぎ
(午前四時頃)に落城した。城主の孫兵衛を始めとして城方は討ち果たされた。

(老翁物語)

官兵衛さんもやっていた旗指し物案件。



「旌をあおむけたら、たちまちに突き殺す!」

2019年11月17日 17:13

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 18:30:25.39 ID:lNqogFGN
関ヶ原の役で黒田長政はその臣・毛屋主水(武久。黒田家の旗奉行)に旌旗を預けられた。

主水は高き丘を越えて少し低い所に旌旗を立てた。長政はこれを見て「高みに引き立てて立て
るべし」と下知された。

これに主水は「麓へ押し下ろして立てた旗を後へ引いて高みに立てては、味方は負け色になり
敵から敗軍と見えます。しかれば敵方の勇みなりましょう」と、ついに旗を立て直さなかった。

長政の合渡の川越えの折、主水は水際に臨んで旗を押し立て敵と間近くなった時、どうしたこ
とか馬印・旌旗を各々はあおむけて旌色が悪く見えたので、主水は「味方敗軍の色あり!」と
急いで馬から飛んで、下槍の石突をもって旌竿をうつむけた。

そして「旌をあおむけたら、たちまちに突き殺す!」と下知して、岩巻という旗差は強力者で
あったので、取り分けて彼を戒め主水も同じくエイエイ声を揚げて押し立てると、旗色は直り
正々であった。

――『志士清談』



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 18:40:00.33 ID:esdnP8HH
関ヶ原で敵城視察した時に「一見、大軍に見えますがそのうちまともに戦う気なのは2割くらいでしょう」
と言って士気を上げて家康に饅頭貰った人だっけ
同じく黒田藩の磯野藻屑は幕末におはぎを38個食べて殿様からお褒めに預かったそうだけど
毛屋主水の子孫だったりして

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 13:40:53.31 ID:dw0VDGnO
旗ひとつとっても大事なんだね

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 14:50:38.11 ID:ENrq08LC
幕末になると将軍様さえ馬印捨てて逃げちゃうのに

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 22:01:23.18 ID:g2+kOh5h
エイエイ!NGMS!NGMS!

     /\
   /  \
  / ∧__∧ \
/ ( ´∀` ) /\
\ (    )/  \
  \   /      \
   \/ ∧∧∧∧__\
        ( ´/)  ) )\
      /  /  ∧∧∩
   ○(    ○  / ´∀)|
    /ヽ ) ヽ )と  ノ
   (/(__//(__/_ノ> >
/ ̄Y ̄Y ̄|/ ̄Y ̄Y ̄\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 22:18:47.94 ID:HdDGucNp
NGMSの旗見つからないかなw

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 11:07:54.59 ID:cC/oPjqy
>>346
黒田長政の奉公構えって後藤だけじゃなかったんだ
ちいせえ

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 15:57:28.32 ID:EgDuduD8
>>354
奉公構えとはちょっと違うのでは

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 17:09:46.12 ID:cC/oPjqy
>>355
どこが違うの?

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 18:28:29.93 ID:EgDuduD8
奉公構は追放刑で他の大名たちにもこいつを雇わないでくださいって根回しすることだと思ってたが
この毛屋さんは黒田家中に留まって働いてるはず
加藤家から高禄で召し抱えられそうになったのを長政が許さなかったってだけのことでしょう
才能がある人だから長政も惜しかったんでしょう(ならもっと優遇すればいいのにとは思うけれど)