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拙者の人数はいよいよ繰り越しで

2022年12月18日 16:21

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/18(日) 10:10:32.74 ID:ZivHAIKe
関ヶ原の後(色々あって)、九州では立花左近(宗茂)殿の御城は肥後守殿(加藤清正)が接収した。

これに出兵していた黒田如水も、この扱いによって事済んだのだが、その夜に入ると同時に、立花に対した陣を
引き払うと薩摩へと取り掛かり、肥後の先、佐賀関という場所に陣を替えた所で、島津殿は居城へと入った。

この事について、如水の分別によって、金吾殿(小早川秀秋)の御国である筑前の仕置を申し付け、
三千石の金吾殿の御蔵米を借り受けたのだが、それは薩摩陣への用意であると言われた。

三千石の兵糧は早くも佐賀関に到着した。案の定、(徳川家康より)薩摩陣と仰せ出された所で、
肥後守は如水へこのように断りを入れた

「薩摩への入り口は肥後国です。如水の御国は後方ですから。先手は私が仕るべきでしょう。」

これに対して如水の返事は
「我々は(薩摩との国境に)既に到着しております。そちらがこちらに着けば、拙者の人数は
いよいよ繰り越しで先に出陣すべきでしょう。」

この返事について肥後守殿の分別は
「御所様(家康)が現状の御分別を変更し、突然扱い(和平)となる可能性もあるのに、如水は
指し争い早くも薩摩に入ろうとしている。これは指示を受ける下の立場の者が事を破るにも似ている。」

そのように考え様子を見ていた所、案の定、島津陣は来年の春と仰せ出になったために、如水も国へ引き取った。

川角太閤記



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是式の事は中々不苦候

2022年11月23日 19:11

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 20:54:01.75 ID:NkZpqg5g
天正十四年十二月二十日時分に、豊後国より早打ちの飛脚が到来した。その内容は、
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。

十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。

これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」

川角太閤記

川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。



近国の野郎の種を断つことが

2022年11月22日 19:14

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 22:56:41.53 ID:kbOd9V3r
戌の年(天正十四年)は天下の御普請があり、国々の大小名が洛中に満ち満ちて伺候した。
その時までに九州は(秀吉に)属しておらず、そのため毛利(輝元)殿を豊前へ渡海するよう
仰せ付けられ、御横目として黒田官兵衛。豊後へは千石越前(秀久)、長宗我部父子が派遣された。

(中略)

右の陣所より四里隔たった宇留津という城があったが、ただしこれも高橋(元種)に従っていた。
この城主は”かく”と申し、都合三千計りで立て籠もっていた。

この”かく”は野郎大将であり、その国の所々の案内をよく存じていた。そして毛利陣のはしばしへ、
毎夜夜討、強盗を隙き無く仕った故に、以ての外に陣中も騒然と成った。

この時、黒田官兵衛殿の分別には
「薩摩よりこの地の悪党ばらが、この城に立て籠もっていると聞いた。これを残らず
討ち果たせば、近国の野郎の種を断つことが出来る。」
そのように主張し、討ち果たすことに議定した。

十一月六日、毛利殿臣下の吉川、小早川、宍戸、この三人に官兵衛殿同道して小舟に乗り、
城廻りを押し回って視察した。この城は海より十間十二、三町も隔たっており、よくよく
見聞に及んでその日の内に各陣屋へ帰り、談合の次第に、その日の夜半の頃より人数を繰り出し、
明日七日の五ツ時分(午前八時頃)、この城を取り巻いた。

大手口は黒田官兵衛の寄せ口であったが、即時に大手より攻め破った。
毛利陣の者たちはこれを見て攻め掛かり、その日の七ツさがり(午後四時過ぎ頃)には、
一人も残らず撫で斬りにして討ち果たし、頸数二千あまりであった。

その頃の首実検は天下様より派遣した横目付が担当するものであったので、官兵衛殿が
これを行うようにとの挨拶があった。しかし官兵衛殿からは「ただ毛利殿が御実検されるように」と
互いに相手に対しての挨拶が果てなく続いた。
結局、毛利殿より官兵衛殿へたっての御断りがあり、これらの頸は黒田官兵衛殿が御実検された。

また、彼らの妻子どもも翌日八日に、千ばかりも浜の方で磔にされた。

川角太閤記

秀吉の九州征伐の序盤、豊前方面の様子。



小河内蔵允の出世

2022年11月19日 19:12

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/18(金) 20:38:56.88 ID:NfUjnO14
黒田藩草創期について老僧が語るという体裁の「古郷物語」から黒田藩家老の一人・小河内蔵允(小河之直)の出世

聞き手:小河内蔵允という人は国中の仕置きを一人でなさったそうですが、さぞ知慮分別に優れ、武勇もあったのでしょう。
老僧:内蔵允はもともと吉田善兵衛というものが「生計が立たないので草履取りにでも召し使ってください」と黒田長政公に差し出した喜助という者です。
当時、いかにもうつけのようで利発なところがなかったため小姓・傍輩からいじめられていました。
しかし根気が常人より強く、昼夜主人のそばを離れず、居眠りもせず、居ずまいも崩さず、寒いそぶりも暑いそぶりも見せませんでした。
老いても足袋をはかず、蚊が飛んできても手で優しく払うだけだったそうです。
ほかの小姓がいなくても喜助はそばにいるので、自然と長政公は喜助に用を言いつけるようになり、十四、五の頃には出世頭となりました。
そこで長政公は朝鮮にも召し連れ、武功を挙げたならばそれを理由に出世させようと思われたのですが、不運なことに喜助が行くところとは別のところに敵が現れ続けたため、一度も武功を上げることがありませんでした。
とはいえ臆病があったわけではないため、男子なくして当主が死んだ小河家に婿養子として入り、五千石をとることとなりました。
ふつう出世するとおごるものですが、内蔵允については小姓の時の心持ちを変えなかったため、憎むものはいませんでした。
関ヶ原にも参陣したのですが、これまた運悪く武功を挙げられませんでした。
長政公、筑前国拝領の時に八千石に加増し、国中・家中の仕置きを一手に任せました。
元来おごりというものを知らず、暗い内から訴えを聴き、百姓町人であっても門より直に通し、雨の時は裸足で縁側に行き、下々の訴えを聴きました。
上の判断が必要な時には年寄衆と話し合った上で長政公に尋ね、のちのち独断で問題となることもなかったため、年寄衆も「他家には内蔵允ほど慈悲正直が天理に叶っている出世人はいないだろう」とよろこびました。
こうして筑前入国五年目には二千石加増され、一万石取りとなったのです。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1801.html
小河内蔵允、主君黒田長政に・いい話

また、↑のような話もあり、猛々しい長政公でさえ内蔵允の柔和の前では取って回されてしまうと、皆不思議がっておりました。



479 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 09:37:49.54 ID:c1b3DFvx
父は小寺・黒田とも血縁のある英保常久、母は小河信章の姉で、父が亡くなり流浪の後、母は黒田二十四騎・桐山信行と再婚(後妻)する。
母に従い桐山家に世話になった後、叔父の婿養子となる(生前からか末期養子かはちょっと不明)。黒田騒動では藩主忠之を補佐。


小河之直の経歴は実際のところこんな感じらしいのですが、古郷物語が編纂されるまでに黒田家中はどうなってたんでしょうね?

480 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 20:38:42.75 ID:rRD8bnz+
筆頭家老格の人物が実は下民の出だったってのは、格式固まって以降だといろいろ言われそうなんだが
実際の血筋が毛並みもいい人なのにこんな書きかたされるというのは、もしかして誰も文句言わないようなお家断絶だったの?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/19(土) 23:12:48.94 ID:47ZLOosC
以前紹介した「小河内蔵之丞噺覚書写」についての本によれば九州大学所蔵の「小河内蔵允殿咄覚書写」の家譜には
「天下へ御敵申したる者の子に候間、成程喃々に仕、いにしへ家頼の子の由育置十歳余り迄丹波所へ居申」
とあるので、小河之直の父の英保常久が播磨攻めの時に秀吉軍に抵抗したことが「古郷物語」の記述に関係しているのでは、としていた。
また吉田重成関連で以前出てきた「吉田家伝録」にも吉田知年の妻は小河内蔵允の娘というので小河内蔵允の出自についても書かれていて
阿保(英保)常久は天正の頃に羽柴秀吉によって追い出され、伊予国で没去した、と同様のことが書かれているので出自については世間に広まってなかったのかもしれない。
古郷物語」の筆者はとりあえず吉田家と姻戚にあるからと吉田姓ということにしたのではないかと。

こちらは相応の礼をしたなら

2022年09月06日 19:06

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/05(月) 18:57:07.57 ID:ufOQ8BTK
小河内蔵之丞噺覚書写全」から

ある時、城内で栗山大膳と小河内蔵丞(小河之直)が出くわした。
二人とも乗物であったため、内蔵丞は乗物から降りて相応の会釈をしたが、
栗山大膳は乗物に乗ったまま「御免なされそうらえ」と言ったまま通りすぎた。
これを見た野村隼人(野村祐直。母里友信の甥)は、内蔵丞と対面した時に
「身代の差はあれど、小河様も栗山様も同じ家老であるのにあの態度とは、侮っているように見えます。
今後は小河様も乗物に乗ったまま挨拶されるべきでしょう」と言った。
しかし内蔵丞は「あちらが無礼な振る舞いをしたのはあちらの過失であり、こちらは相応の礼をしたなら、こちらの一分は立ったと言えます。
相手方の無礼などどうでもいいことです」と言ったという。



小河常章の飼っていた鶉の話

2022年09月02日 19:38

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/02(金) 16:09:09.81 ID:AsvhKVAq
小河内蔵之丞噺覚書写全」から小河常章(小河之直の嫡子)の飼っていた鶉(うずら)の話

小河常章がまだ部屋住みで左京と言っていた頃、鶉をたいへん可愛がっていた。
籠を開けて鶉を出すと部屋を飛び回り、左京が手を差し出せばその手に留まるほど飼い慣らしていた。
ある日、左京が留守の時におそばの小姓たちが鶉を座敷に出して遊んでいたところ、猫が物陰から出てきて食ってしまった。
左京は短気であったため、帰ってきたらどうなるだろうと恐れ、まず内蔵丞にことの次第を告げた。
内蔵丞「笑止なことをしたものだ、左京が聞いたらひどく罰するであろう。
まずは町に行き鶉を一羽買ってきてその籠に入れよ」と言うと
小姓たちは「いくら内蔵丞様といえど、町の荒々しい鶉を手飼いの鶉のように見せかけられようか」
と思ったものの、町で鶉を一羽買ってきて籠に入れた。
さて左京が帰宅するや内蔵丞は早速左京を呼んで
「お前の鶉の評判は聞いていたが、いろいろ忙しくてこれまで見てなかった。今見せてはくれぬか」
と言うと、左京はすぐに籠を持ってきて、籠の口を開け、鶉を出した。
いつものように手を出して留まらせようとしたが、鶉はあたりを見回すと、そのまま縁側から外へ飛んでいってしまった。
左京が残念がって「いつもは手に留まりますのに逃げるとは、惜しいことです」と言うと
内蔵丞は「道理を知っている人間でさえ、重恩を忘れて逃亡するのはよくあることである。
ましてや今まで鳥が逃げ出さなかった方が不思議だ。
まああの鶉も生きているうちに故郷に戻ったと考えれば、慈悲を施したといえよう」と慰めた。
こうして内蔵丞の機転により小姓たちは大難を逃れたため、これを聞いた小姓たちの家族は涙を流して感謝したそうだ



内蔵殿風

2022年09月01日 19:02

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/01(木) 15:30:45.48 ID:ugOBGEFV
小河内蔵之丞噺覚書写全」および「古郷物語」より「内蔵殿風(内蔵允風)」

小河内蔵丞(小河之直)が上方に上った折に途中の瀬戸でちょうど順風が吹いたので、船頭や侍衆は「上々の日和ですな」と喜んだ。
しかし内蔵丞はまったく喜ばず
「上りの船はよいが、下りの船にとっては向かい風であり、急いでいる者もいるであろうのに難儀なことである。
上る者にも下る者にも船での往来が良くなければ「よき日和」と言えるだろうか」と言った。
そののち播磨灘で上下の船とも帆を張ることができる風が吹いたため、これこそが「内蔵殿風」だと言いあった。
そののち瀬戸の者どもはこれを聞き、けだし名言だと思い、上下共に帆を張れるような風を今でも「内蔵殿風」だと言っているそうである。
まったく徳の厚い性分であり、人々に対して好悪の情を持つことがなく、平等に考える人であった。



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/03(土) 20:56:01.72 ID:xme28juG
>>346
全体最適ってのが分かってるんだな

二、三十人でさせるような仕置きを

2022年08月31日 18:55

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/31(水) 13:47:28.43 ID:9t7KSC9U
小河内蔵丞(小河之直)は栗山大膳らとともに黒田忠之の家老として精勤に励んだ人物であるが、その若い頃の話

内蔵丞がまだ喜助と言っていた十六の時、領内の百姓の馬を牛が突き殺してしまった。
馬主は「牛主に弁償させるべきです」
牛主は「牛主が不在の間に牛がしたことです。畜生のしたことですので牛主の責任ではありません」
と互いに水掛論となり、公事となったが決着しなかったためとうとう黒田長政の耳にまで達した
長政は「どっちももっともであるので、馬が百匁の値であるなら半値の五十匁だけ牛主が弁償してはどうだ?」
と裁定されたので、両者とも不満に思ったものの渋々帰っていった。
これを聞いていた喜助は朋輩衆に対して「このたびの判決は理非をわきまえぬ判決である」と言った。
朋輩衆「歴々の方がなされた判断であるのに何を言うか?」
喜助「牛主や馬主が牛や馬を繋いでいた間に起きた、とあるが繋いだ時間に前後があるはずである。
牛は相手に向かって突くのが習性なので、後で繋いだ飼い主に責任があると言えよう」
これを聞いた朋輩衆は手を打って讃嘆し、これが評判となり長政の耳に達した。
そこで改めて馬主、牛主を召喚すると、先に馬主が繋ぎ、後で牛主が繋いだことが判明した。
こうして牛主は全額百匁を馬主に払うこととなり、馬主は当然喜んだ。
牛主は最初の判決より五十匁多く払うことになったものの、今度は理屈が通っていたため、納得して帰ることとなった。
こうして長政は喜助を「常の人物ではない」と認め、十七の頃から評定衆に入れ、そののち小河伝右衛門の養子として名を内蔵丞と改めさせた。
長政のから忠之の代まで、今であれば二、三十人でさせるような仕置きを内蔵丞一人に任せたが、上からも下からも一言も苦情が出なかった

出典:竹下稔著・福田泰隆校訂「福岡藩初期家老 小河内蔵丞之直「小河内蔵之丞噺覚書写全」を読む」



今、そのような事をするのは無用である

2022年08月03日 18:28

558 名前:sage[] 投稿日:2022/08/03(水) 16:02:14.92 ID:1Htktg65
黒田筑前守長政が、常々人に語られていたことによると。

「私は十四歳の松千代と言っていた頃から、手を下した手柄は度々に及んでいたが、父・如水に
高名があった故に、人はこれを賞美しなかった。

浅野幸長については、天下の上下が勇者と誉める。これはその父である弾正(浅野長政)が、
分別才覚は優れていても、さほど武辺が無い故である。」
と申された

また、小瀬甫庵が太閤記(甫庵太閤記)を作る時、諸家より書付けを遣わして、その家々の武名を
書き入れるべし、とあった。この時黒田家の老臣たちもこれを聞き伝え、

「御祖父以来の御武功、現在、天下に隠れ無しと雖も、後世に至っては埋もれてしまうことも
計り難いものです。幸いにこれらの事を小瀬甫庵に話して、足利義昭公、信長公、秀吉公より
賜った数多の御感状、その他異国本朝にて隠れなき御武功を、書物に著し給われるべきです。」

と申し上げたのだが、長政は更に承認しなかった。

「凡そ将士が武功を立てるのは主君の為であり、私の名を求めるためではない。
殊更太平の世となっては、武を隠すのが本意である、と聞いている。
今、そのような事をするのは無用である。」

そう言って、遂に甫庵に書付けを渡さなかった。それ故に、かの太閤記において黒田家の武功が
多く漏れていたのだという。

新東鑑



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 16:27:19.19 ID:Sg3FcvIH
こんな上司はイヤだな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 17:01:10.29 ID:YqfozYQV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2893.html
小瀬甫庵、取材する

こっちでは立花宗茂とセットで出ていた

この香は破れ笠

2022年06月18日 16:11

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/17(金) 19:06:51.60 ID:lpnKPrs/
福岡・博多の地誌「石城志」から組香(香の聞き分け)の名人の話
(享保の頃に書かれた鶴田七右衛門「博多記」出典という)

綱輪町に沈香屋宗有というものがいた。
香をきくこと、世に名人と称されていた。
ある時、黒田長政公が彼を召して香を聞かせなさった。
宗有は「これは肥後殿が貯えなさっている「破れ笠」と号する名香でしょう」と判じた。
長政公は驚き、どうしてその香を知っているのかと問いなさった。
宗有が答えて言うには、
「三十年以前、伏見で女が焼いている香を聞いたところ、名香であったため、出所を尋ねたのです。
すると肥後殿近習の士からもらった破れ笠という香と申しておりました。
この香は破れ笠に相違ありません」
と申したそうだ。



黒田騒動と破れた釜

2022年06月17日 20:29

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/16(木) 23:15:06.01 ID:AyjVTV65
黒田騒動の講釈の種本となった「博多細伝実録」(宝暦から明和初めに成立とされる、福岡藩内のできごとを著した書)を読んだら
これまで何度か出ていた浅野彦五郎にもちょっと触れていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13348.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13381.html

黒田騒動で栗山大膳が幕府に黒田忠之の謀反を訴えた時、
博多細伝実録」では忠之の不行跡・二十八ヶ条を訴え出たことになっていて
その中でも特に重い三ヶ条として
一、壱万石余の大船を造りし事
一、真言の沙門、不行跡を憎みて脊を割り鉛を鋳込し事
一、浅野彦五郎といへる者、継母を犯せるにより、油釜の死罪にする事
が挙げられている。浅野彦五郎の罪状は上記の投稿とは違うが。

また「石城志」という明和二年(1765年)成立の博多の地理誌によれば
「寛文(1661-1673)の末まで、松原閻魔堂西の川端に大なる破釜あり。
忠之公の時、家臣浅野彦五郎(食録千石)罪ありて釜烹の刑に処せられる。
この時、釜を新たに鋳させるべしとて、市中の冶工に命ありしに、おのおのこれを辞しける故、くじ取りになりし処に、芦屋釜師くじにあたりとて釜を鋳けり。
これによりその家絶えたりという」

約百年後の記録とはいえ、破れた釜が残っていた伝承があったようだ。
なお博多の鋳物師の一つに磯野家というのがあり、島原の乱でも黒田忠之に大砲や弾を鋳造させられているので「石城記」の話が事実なら、磯野家もくじに参加したと考えられる。
くじが当たって磯野家が釜を鋳ってたなら浅野彦五郎の恨みは磯野家に行ったかもしれない。
そうなると磯野家がとだえるため、磯野七平氏が1893年に二代目福岡市長となることもなく、その50年ほど後に福岡に住んでいた長谷川町子氏が磯野波平を着想することもなかったかも



514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/17(金) 18:48:21.73 ID:0O2JnBVv
磯野藻屑源素太皆も居なかったわけだな

後藤又兵衛が討死と講ずる事は

2022年03月05日 16:09

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/05(土) 13:53:11.96 ID:3+NMX/vT
或る記(難波戦記カ)に、伊予国の人曰く、以前に他国よし来た軍談の旅客があった。
同国道後に於いて浪速乱(大坂の陣)を談じた。当地の村人たちはこぞってこれを聴いた。

彼等は、始めは信じて群参していたのだが、最後の方にかかると「これは虚談である」として、
皆これを信じなかった。これについてかの旅客は「私は全く虚談を述べていない。どういう理由で
そのように言うのか。」と問うた所、村民はこのように言った

後藤又兵衛については、大阪落城後に当所の温泉に来て、傷を治療したのだ。この事を所の別当が怪しみ
問うた所、その切なる事に好感をもったのか、又兵衛は実を以て答えた。別当は聞いて、その功名を崇み、
かつ、又兵衛の活気に懐き、彼を労り親しんだ。

ところが所の者共これを伝え聞き、公聞を恐れ密かに党を結び、不意に後藤を襲った。
又兵衛基次はこれに立ち向かい、奮迅して数人を斬ると雖も、大勢が打ち囲み、既に縄目の辱に合わんとするに
及び、内に駆け入って自害した。

則ちその首を取り、東武(江戸)に献じた所、御沙汰の上仰せ出された事には、『後藤又兵衛については
道明寺に於いて戦死している。然るを再び後藤の首と言って捧げることは紛らわしい。さりながら
真偽を糺すには及ばず。』との趣にて、その功空しくなった。
その後郷民たちは後藤の霊を恐れ、八幡宮の傍らに新たに祠を立て、九月十三日(八幡宮の例祭は八月十五日
である)、五斗の樽祭といって、この小祠を祀る。

であるのだから、後藤又兵衛が道明寺表において討死と講ずる事は虚事である。然ればその外の事についても
きっと虚事を入れているのだろうから、故に信ずるに足らず。」
と答えた。これに旅客は汗顔して口を噤んだという。

新東鑑

後藤又兵衛の生存伝説について



「博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

2022年02月22日 19:03

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:20:22.88 ID:0oyJsDMd
博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

栗山大膳は日本に類いなき勇気の持ち主で、黒田長政にも見込まれていたが、忠之の代になると「天下泰平の昨今、ただの老人にすぎない」と疎んじられた。
寛永年間の六月に、知行所である嘉麻郡の間津村に出向いたところ、そこには大きな淵があり、日照りの時も水が枯れず、底が知れなかった。
ここに淵の主と言われる大きな魚亀(スッポン)がいて、近年は人をたびたび取って食らっていた。
そのため大膳は淵に赴いて、九尺ばかりあるスッポンを見るや、これこそが人を悩ませている亀だとして、鉄砲を取り出し、二つ玉で首の付け根を射抜いた。
スッポンはたちまち淵の中に沈み、淵は赤く染まった。
そのまま静かになったので、大膳は水練の達者な者を淵に入らせ、亀の首に縄をつけて引っ張ってこさせた。
淵から上げられたスッポンを見ると、身の丈九尺、幅五尺であり、民は大いに喜んだ。
栗山大膳は十六歳の時に武術を残す所なくおさめ、鉄砲を明智日向守光秀から伝来され、六十歳になってもこのような腕前だったと人々は語った。
これについては「武将感状記」にも記されている。
(「武将感状記」巻10「栗山大膳鳥銃の妙を得る事」では栗山大膳は榊の弟子としていて、鉄砲は百発百中の腕前だったとしている
また、栗山大膳は黒田騒動時でも40くらいのはず)

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:27:08.77 ID:0oyJsDMd
ついでに、
雑誌「西日本文化」に連載されていた石瀧豊美の「黒田騒動と『箱崎釜破故』」の第七回と第八回には
「お綱さんツアー・黒田騒動史跡めぐり」として

1.お綱の墓:福岡市東区馬出
2.黒田忠之の墓:福岡市博多区御供所町、東長寺
3.福岡藩刑場跡碑:福岡市中央区天神、福岡県庁跡、空誉上人の霊に悩まされた二十四代福岡県知事が建立
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13372.html
4.水鏡天満宮:空誉上人が住職をしていた智福寺跡
5.お綱門:扇坂御門?お綱が息絶えた場所
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13356.html
6.福岡家庭裁判所:お綱さんが斬り込んだ夫の屋敷跡、長宮院跡
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13366.html
7.鵜来島:箱崎釜破故で栗山大膳が密談した場所
8.空誉堂:福岡市中央区大手門の浄念寺境内
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13339.html
9.左右良(まてら)城:栗山利安が任され、子供の大膳の屋敷が麓にあった
10.龍光山円清寺:栗山利安が主君長政の冥福を祈るために建立した寺

と並んで
11.大膳楠:杷木町にあり、「箱崎釜破故」では栗山大膳が池の精の化身である大亀を射殺した事で運命が暗転するという因果応報譚となっており、
その池がかつてあったところに立っている楠を栗山大膳にちなんで「大膳楠」と呼んでいるという。
が紹介されていた。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:50:11.14 ID:0oyJsDMd
タイトルだけ見て関係がない話だと思ってしまった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4536.html
「大膳崩れ」


過去に出てきたこの話だと、亀を撃った後に大雨が降って土砂崩れが起きているが
博多細伝実録」だと、直後に雨は降ったもののすぐやみ、
淵は年々浅くなって田畑となり民の利益となった、
と書かれているため悪い話にはなっていない



殿様というのは、左馬助か

2022年02月18日 16:17

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/16(水) 20:53:30.92 ID:viqLlJY4
悪い話スレで塙団右衛門の話が出ていたので後藤又兵衛基次の話を書こうと思う。

愛媛県松前町、後藤又兵衛生存伝説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5158.html


後藤又兵衛が生存しており、旧知の加藤嘉明を頼って伊予へ逃れたという逸話は既に出ているが、
伊予へ逃れた後藤又兵衛加藤嘉明のお話。

1615年(慶長二十年)の大阪夏の陣で大阪城に攻め寄せる徳川家康軍に対して、道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛は戦死をしたと伝わる。

しかし当地に伝わる言い伝えでは宮ノ下(現在の愛媛県伊予市)にある長泉寺の住職が伯父であったので、
後藤又兵衛はそこを頼って各地を旅してまわる旅僧の姿となって伊予へと落ち延びてきたという。

そして久万の山中にある岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に隠れ、そこで日々座禅をして過ごしていたという。

ある日のこと、この地を治める加藤嘉明が岩屋寺を訪れることとなり、先走りが寺を訪れ僧達に向かって境内を掃除して清めるように伝えたところ、
この時本堂で座禅を組んでいた又兵衛はこれを聞いてかっと目を見開き

「殿様というのは、左馬助か。」

と、先走りに聞こえる声で呟いた。これを聞いた先走りは無礼な奴だと思ったが、只者ではない雰囲気を放つ又兵衛の様子を見て何も言わずに引き返し、
三坂峠で休憩していた加藤嘉明の前に出ると、このことを報告した。

報告を受けた嘉明は

「もう引き上げじゃ。帰るぞ。」

と言い、岩屋寺へ赴くことなく引き上げたという。その理由は明らかではないが、又兵衛が岩屋寺へ居るのでないかという情報は
その耳にも入っており、親友であった又兵衛を捕えることになるのを忍びなく思った嘉明は引き上げたのではないかとも言われている。

この後又兵衛は伯父のいる長泉寺へ移りそこで地元の人たちと打ち解けこの地で生涯を終えたという。

今では又兵衛のことを書いた碑が長泉寺の境内にあり、その墓といわれるものが長泉寺の下手にある大塚家の屋敷の中にある。
この墓の中には又兵衛が大事にしていた半弓や種子島などもいっしょに葬られてあったという。

なお、又兵衛の笈(旅僧などが、いろいろな物を入れてせおう箱)だけは長泉寺に残されていたともいわれる。

またある言い伝えでは、又兵衛は伯父に迷惑をかけてはいけないと、弟の市郎左衛門の名にかえ、弟になりすまして
松前の筒井に移り住んで妻をもらって帰農したともいう。

そして、重信川の大水で荒れた土地を開いたり水を引くようにしたりして村人のために広い良い田を作ったので、
たいへん喜ばれたともいい、又兵衛夫妻の墓といわれるものが筒井の大智院(伊予郡松前町)にもある。

データベース『えひめの記憶』伊予市誌 四〇、後藤又兵衛 (宮ノ下)より
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/35/view/10150

四国八十八ヶ所霊場 第四十五番札所 岩屋寺
https://shikoku88-iwayaji.com/about.php

\


20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/17(木) 01:22:17.90 ID:SFDxaC0D
岩屋寺の女仙人、弘法大師と術比べしたって聞いたけどそこまでは書いてないようだ
岩窟まではハシゴを登ると行けるけど、5mあるから行く時は気をつけよう

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 21:03:30.61 ID:NCzx1Yos
>>19
この逸話、又兵衛の五男である後藤吉右衛門基が加藤嘉明に仕えてたという縁からだったりするのかな?
加藤家の会津転封にはついて行かずに伊予に土着して医師になったそうだし。

22 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 21:06:36.83 ID:NCzx1Yos
>>21
後藤吉右衛門基芳

星野宗右衛門について

2022年02月08日 16:31

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 18:24:39.04 ID:v+FyJ//b
星野宗右衛門について

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5590.html
栗山大膳と『旅枕』


10年以上前に出たこの逸話で栗山大膳の親友として紹介されている星野宗右衛門
黒田騒動箱崎文庫」や歌舞伎では栗山大膳側の勇士ということで大活躍をしているが、活躍の一つに
親友の有川駿河という軍学者が、倉橋重太夫の陰謀で三百両の借金をさせられ、幕府に禁じられている大船の図面を描いてしまった。
星野宗右衛門が河内屋にかけあって三百両を工面したことで、少なくとも有川は武士の対面を保つことができた。
しかし有川は図面を描き黒田家を危機に陥れたことを詫びて切腹、といった話がある。
黒田騒動箱崎文庫」では上記の逸話の通り、栗山大膳がかつて利休が所持していた「旅枕」を用いて星野宗右衛門の三百両を帳消しにした、としている。
なお「旅枕」を所有している和泉の久保惣記念美術館の旅枕に関する記事には栗山大膳についての記載はないので、この逸話の真偽は不明。
ただ、星野宗右衛門のほかの活躍を見ると、
「星野の大食鍋島家を驚かす事」では星野宗右衛門が鍋島家に舐められないように、
鍋島家が用意した鯛の浜焼きを城下の魚屋全てからかき集めた分だけ食い尽くし
七合入りの盃で酒を七杯呑み、飯を15碗食い、鍋島家の者どもは大いに驚き、忠之から拝領物を賜り、「鯛喰いの宗右衛門」というあだ名がついた
ことになっている。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 18:30:08.99 ID:v+FyJ//b
実はこの話、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13373.html
毛谷主水について


で書いたように「博多細伝実録」に出てくる、元禄の頃に鍋島家で大食を披露した星野助右衛門の話そのままである。
どうやら黒田騒動に栗山大膳側の善玉の豪傑を登場させようと思った「箱崎文庫」系統の作者が
博多細伝実録」の大食漢・星野助右衛門の話が印象的という事で時代を移して栗山大膳の同志にさせたらしい。
というわけで、
関ヶ原で西軍の物見をしてたくさんの饅頭を食べた毛屋主水武久と
元禄に鍋島家に使いに行った時に魚の焼物をたらふく食った星野助右衛門
百年ほど時代の違う二人の大食いが、間の寛永年間に
方や女に籠絡され主家を滅亡させようとした悪玉・毛谷主水
方や主家を守ろうと剣と知恵を振るう善玉・星野宗右衛門
として共演することになったという奇妙な話。

ついでに1936年に公開された映画「栗山大膳」には毛谷と星野の両方とも出てくるが、
毛谷主水の方は、城井一族の復讐を狙うお秀の方に籠絡され、栗山大膳の命を狙う一番の敵役となっている。
(紅陽法師も城井の若様として少し語られている)
星野宗右衛門の方はというと、図面を描いた有川を叱責する以外はたいして出番がない。


浅野彦五郎・新九郎兄弟捕縛

2022年02月07日 15:17

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 00:09:32.56 ID:v+FyJ//b
>>312の前に出てくる話
「吉田家伝録」から浅野彦五郎・新九郎兄弟捕縛

吉田重成は捕物(罪人を生捕)を三十余度行ったという。
その昔、浅野彦五郎というものがいて長政君に千石を与えられ、財利を量る才に抜きん出ていたため、唐土との交易に携わっていた。
しかし私腹を肥やしていたことが露見し重成の家に預けられることとなった。
重成「尋問するので吾に預けられることになった。礼儀のため刀と脇差を吾に預けよ」
彦五郎「我が異国に渡った時に受け取った金銀の勘定が相違しているため、罪が行われるのは必定。
今吾子(ごし)を討ち果たそうと思ったが慇懃に礼を尽くされたため刀と脇差を預けよう」
そのあと彦五郎は菅正利に預けられたが、二、三日して長政君からまたお召があり
「彦五郎の弟の新九郎も同罪のようなので重成の家に呼んでからめとらえよ」とのことだった。
彦五郎が菅に預けられたのち、新九郎が放火して奪い取ろうとするような風聞があった。
そこで重成は家人の村山理兵衛を呼んで策を授けたあと一人で新九郎の家に向かい、
「彦五郎の尋問が終わるまで、新九郎は我が宅に預けられることとなった」と言った。
新九郎は家族へ別れを済ませたのち白帷子で雑談をしながら重成の屋敷にきた。
新九郎が重成に続いて入ろうとすると、掃除をしている用人のふりをしていた理兵衛が後ろから新九郎の足を捕らえ、
重成は振り向きざま新九郎の髻を捕まえて引き倒した。
新九郎は力量が優れ、相撲を好んでおり、力を入れて脇差を抜いたが、重成と理兵衛から縄をかけられ捕らえられてしまった。
のちに彦五郎も新九郎もともに誅されたということだ。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 00:36:38.92 ID:v+FyJ//b
と、これだけなら別に悪い話ではないのだが、
実はこの浅野彦五郎、お綱さん話で釜炒りにされた浪人と同姓同名?なのである。
また、お綱さんの夫であった麻井四郎左衛門だが、「箱崎釜破故」では元は「礒之丞」という名前で小姓となり四郎左衛門という名前が与えられたとされる。
(さすがにサザエさんの磯野とは関係ないと思うが)
ついでに元々の伝承では明石四郎左衛門という名前で(「黒田騒動箱崎文庫」のお綱さん話でも)、伝承の過程で浅野彦五郎と苗字が逆になった説もあるとか。
その場合、実は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13255.html
残金は後でやるぞ

この「博多細伝実録」の、黒田長政が通りに足を出している町人を斬った話で出てくる小姓の名前が明石四郎左衛門であり
「寛永箱崎文庫」ではこの話を、黒田忠之が通りに足を出していた鬼河原源蔵という暴れ者に小姓の明石四郎左衛門が代金を聞く話にしちゃっているので
(ついでに斬ったのは倉八十太夫で喜んだ忠之が八千石与えた設定)
お綱さん話に出てくる浅野彦五郎も明石四郎左衛門も実は黒田長政の時代の人物ではないか?という疑惑が

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 01:22:18.06 ID:v+FyJ//b
考えたら「箱崎釜破故」で浅野彦五郎を処刑するための釜をつくれと命令をされたが、どの鋳物師もやりたくないもんだから
博多・甘木・芦屋の三ヶ所の鋳物師が籤を引いて、当たった芦屋の太田氏が釜を鋳造する場面があった。
博多の鋳物師の代表格が礒野家だとしたら、タイトルの「ふばこ」にわざわざ「釜破故」と「釜」をあてているし
四郎左衛門こと礒之丞が箱崎で美男と噂になるところから物語が始まっているから
礒之丞の名前を考えるにあたって博多の礒野を念頭に置いている可能性はあるか


下野九兵衛の最期

2022年02月06日 15:18

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/05(土) 23:07:33.73 ID:kxU3JDkp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1861.html
黒田長政と家臣たちの異見・いい話


黒田長政の「腹立たずの会」のきっかけとなった下野九兵衛の最期を
「福岡藩 吉田家伝録」から

大坂の陣の際、長政君は大阪屋敷に下野九兵衛というものを置き、筑前から大坂へ上る米穀の管理を任せていた。
九兵衛は内々に秀頼卿に通じ、ひそかに蔵を開いて多くの米穀を大坂城に入れていた。
秀頼卿は大いに悦び九兵衛に金子と感謝の書状を渡していた。
大坂城没落ののち、長政君が米穀の勘定を九兵衛に命じたところ、露見は免れないと思い九兵衛は妻子とともに逐電した。
なお孝高君(如水)・長政君ともに秀吉公に忠義を尽くしたことは世に知られていたため、九兵衛の独断ではないだろうと言う人もあったとか。
長政君は深く憂え、吉田重成に九兵衛の捕縛を命じた。
重成は瘧を病み、まだ癒えていなかったが長政君の許可を得て無紋の帆を上げた船を出し、家臣三人とともに福岡を立った。
こうして酒樽や魚籠の商人の扮装で兵庫を探索していると下野九兵衛が長く使っていた下人がいたため村山理兵衛が尾行し、山上の小さな寺に入ったのを確認した。
病が小康に入った重成は大いに喜び、寺に行き様子を伺うと、九兵衛は臥して謡をうたっていた。
重成は直ちに庭の戸を開け入ると九兵衛は確認するや刀を取り
「吾子(ごし)尋ね来たるべしと兼ねて思いもうけたり」と刀を抜いて立ち向かってきた。
重成も刀を抜き、家臣三人も棒や刀で取り囲んだ。
九兵衛は重成に斬りかかってきたが重成も刀で受け、理兵衛は九兵衛の右腕を掴み、後の二人も前後から抑えて縄をかけた。
九兵衛の家人三人も裏から出てきて脇差を抜いて斬りかかってきたが、重成と家臣たちが立ち向かうと逃げていった。
こうして九兵衛、その妻、幼い娘、下女二人をからめとり船に乗せて筑前に帰還した。
長政君は大いに悦び、九兵衛を怡土郡高祖村に籠居させ、門番に堅く守らせ、駿府にことを告げた後、誅伐なさったという。



毛谷主水について

2022年02月01日 16:21

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/01(火) 15:53:57.91 ID:4m5caflV
空誉上人が乗り移ったとされる毛谷主水について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8719.html
毛屋の本氏


で関ヶ原で西軍の物見をして東軍の士気を高めたため家康から饅頭をもらい、全て平らげた毛屋主水武久がモデルと思われる。
色気より食い気の方がふさわしい毛屋主水がなぜ美女のお相手役にされたかについては

貝原益軒「黒田家臣伝 毛屋武蔵」に関ヶ原や加増や武蔵改名の後の話として
ここに豊前国城井中務(鎮房)が家人に、鬼木掃部という者は、大剛強力の者なりしが、長政に背いてほろぼされけり。
そのむすめ、弟妹両人をつれて落人となりていたりしを、長政の命にて、武蔵これを娶る。その生まれる所の子を太右衛門という。
武蔵が妻の弟は、鬼木惣左衛門という、黒田美作に武蔵が所託にて仕えしむ。いまにその子孫あり。
武蔵、寛永五年七十五歳にして筑前にて病死す。

とあり、黒田騒動が後世脚色された際に、黒田に恨みを持つ城井氏(寛永箱崎文庫)や鬼木氏(歌舞伎や映画)や大友氏(白縫譚の蜘蛛の妖術使いの若菜姫)などとの因縁が加えられた時に
鬼木氏を妻に持っていたために毛屋主水の名前が使われたのではないかと。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/01(火) 16:03:14.53 ID:4m5caflV
大食漢繋がりで「博多細伝実録」には元禄の頃、鍋島藩への祝賀の使いの際に「他に芸はありませんが大食で鳴らしております!」
と言い放ち、焼き物を20人分平らげ、酒を大盃で五杯飲み、鍋島から賞賛され大いに面目を施したとして、藩主から褒美をもらった星野助右衛門という人物の話がある
幕末に黒田藩士の磯野藻屑源素太皆が、おはぎを38個食べて殿様から褒められたというネタに通じるものが

ついでに「博多細伝実録」には黒田藩家老の黒田美作に仕えた鬼木氏のその後の話として、
元禄の頃、黒田美作(三奈木黒田家三代目の一貫)が佞人を重用し民が苦しんでいた。
重臣の鬼城新左衛門は諫言するも聞き入れてもらえなかったため、家族一員(老母、妻、二人の子供)白装束仕立てで首を斬り、自らも諫言の遺書を残し切腹。
鬼城家は家名断絶となったが、新左衛門の死から二ヶ月もしない間に佞人どもが狂ってたわごとを発するようになった。
こうしてそれまでの悪事が露見したため、みな悉く切腹。
鬼城新左衛門は鬼城大明神として崇められた、という話が記されている。

黒田長政に滅ぼされた鬼木掃部の子孫が黒田藩家老のために諫死し家名断絶という歴史の奇妙さ



怪談 福博の夜ばなし④ 空誉上人

2022年01月31日 17:14

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 17:09:50.18 ID:vLS0rSyE
西日本新聞 昭和48年8月16日号より
「怪談 福博の夜ばなし④ 空誉上人

寛永年間、黒田忠之が安養寺に馬を停めて休憩し、でっかち頭、そのうえ異様に飛び出した目で秋景色を愛でていると美しい寺小姓が茶菓子を運んできた。
一目惚れした忠之が住職の空誉上人(二十代で非常な美男)に寺小姓(秀之丞)を差し出すように命じたが上人は「修行中なので」と断った。
忠之はあきらめきれず間者を放ち寺の様子を探ると、なんと秀之丞は女であった。
「おのれ女犯の売僧めが!」と怒った忠之は上人を大釜に入れ、背中を立ち割り鉛を流し、絶命させた。
秀之丞はお秀(光之の母?)という名で忠之の側室となったが、上人の怨霊が乗り移った黒田藩士・毛谷主水がお秀の方と密通。これが黒田騒動の発端となる。
釜責めが行われた場所は現県庁舎裏の知事公舎の庭にあたり、ながらく釜の形だけ草が生えなかった。

昭和初年の大塚惟精・第24代福岡県知事は胆力のある柔道家であったが夜ごとうなされて眠れず、知事の書生ももののけに取り憑かれたようになった。
そこで釜の形に草の生えない場所に小さな銅ぶきの祠を建てて怨霊を慰め、いまも毎年八月上旬には法要が営まれている。
濡衣山(濡衣を着せるの故事から)松源寺の佐々木滋寛師は「空誉上人の幽霊ばなしを黒田騒動に結びつけたのは、鍋島藩の化けネコ騒動と同じで、藩の内乱を幕府の目からそらせるために利用したんでしょう」と推測している。
一説には空誉上人は後藤又兵衛基次が送ったスパイとか。
お秀の方は黒田如水から滅ぼされた中津の豪族の娘とも伝えられている。
空誉上人は空誉さまとも呼ばれ浄念寺(中央区大手門二丁目)に墓がある。



お綱さんばなしの長宮院について

2022年01月28日 17:46

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 12:12:33.82 ID:A3SptgL0
お綱さんばなしの長宮院について

「箱崎釜破故」の末尾によれば、麻井家を継いだ浅野彦五郎が釜炒りの刑に処せられたのち、狐狸の棲家となり荒れ果てた。
その後、肥後より清戒という僧侶が貰い受けて長宮院を建立したことになっている。

貝原益軒「筑前国続風土記」の「福岡 長宮院」には
「むかしは士人の宅也しが、凶宅なりとて、是に居る人なくして、廃宅となれり。
寛永年中、肥後国より来れる清識と云ふ真言僧、此宅に寺を立んよしを願ひしかば、国主忠之公是をあたへたまふ。」
とあり、

柳猛直「福岡歴史探訪 中央区編」によればこの貝原益軒のいう「凶宅」とは
黒田長政の時代に伊藤団右衛門というものがいてこの家に居住していたが女幽霊に悩まされていた。
そこで小河内蔵允(長政臨終の際、栗山大膳とともに忠之の後見を任された)が勇士を募って団右衛門を警護していたが
丑三つ時に女の生首が現れ、団右衛門の上を通ると団右衛門は死んでしまった。
ということで凶宅とされ、あとからお綱さんばなしが生まれたことになっている。
(この伊藤団右衛門の話の出典は記載なし)

お綱さんの事件が黒田騒動直前の寛永七年で、寛永が二十一年まで続いたから、寛永年間に麻井家が荒れ果てることはあり得るけど
伊藤団右衛門の話によって凶宅扱いされたのであれば、忠之はむしろ霊を鎮めてあげようとしたのに幽霊話の元凶扱いされているような。