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後藤又兵衛が討死と講ずる事は

2022年03月05日 16:09

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/05(土) 13:53:11.96 ID:3+NMX/vT
或る記(難波戦記カ)に、伊予国の人曰く、以前に他国よし来た軍談の旅客があった。
同国道後に於いて浪速乱(大坂の陣)を談じた。当地の村人たちはこぞってこれを聴いた。

彼等は、始めは信じて群参していたのだが、最後の方にかかると「これは虚談である」として、
皆これを信じなかった。これについてかの旅客は「私は全く虚談を述べていない。どういう理由で
そのように言うのか。」と問うた所、村民はこのように言った

後藤又兵衛については、大阪落城後に当所の温泉に来て、傷を治療したのだ。この事を所の別当が怪しみ
問うた所、その切なる事に好感をもったのか、又兵衛は実を以て答えた。別当は聞いて、その功名を崇み、
かつ、又兵衛の活気に懐き、彼を労り親しんだ。

ところが所の者共これを伝え聞き、公聞を恐れ密かに党を結び、不意に後藤を襲った。
又兵衛基次はこれに立ち向かい、奮迅して数人を斬ると雖も、大勢が打ち囲み、既に縄目の辱に合わんとするに
及び、内に駆け入って自害した。

則ちその首を取り、東武(江戸)に献じた所、御沙汰の上仰せ出された事には、『後藤又兵衛については
道明寺に於いて戦死している。然るを再び後藤の首と言って捧げることは紛らわしい。さりながら
真偽を糺すには及ばず。』との趣にて、その功空しくなった。
その後郷民たちは後藤の霊を恐れ、八幡宮の傍らに新たに祠を立て、九月十三日(八幡宮の例祭は八月十五日
である)、五斗の樽祭といって、この小祠を祀る。

であるのだから、後藤又兵衛が道明寺表において討死と講ずる事は虚事である。然ればその外の事についても
きっと虚事を入れているのだろうから、故に信ずるに足らず。」
と答えた。これに旅客は汗顔して口を噤んだという。

新東鑑

後藤又兵衛の生存伝説について



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「博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

2022年02月22日 19:03

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:20:22.88 ID:0oyJsDMd
博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

栗山大膳は日本に類いなき勇気の持ち主で、黒田長政にも見込まれていたが、忠之の代になると「天下泰平の昨今、ただの老人にすぎない」と疎んじられた。
寛永年間の六月に、知行所である嘉麻郡の間津村に出向いたところ、そこには大きな淵があり、日照りの時も水が枯れず、底が知れなかった。
ここに淵の主と言われる大きな魚亀(スッポン)がいて、近年は人をたびたび取って食らっていた。
そのため大膳は淵に赴いて、九尺ばかりあるスッポンを見るや、これこそが人を悩ませている亀だとして、鉄砲を取り出し、二つ玉で首の付け根を射抜いた。
スッポンはたちまち淵の中に沈み、淵は赤く染まった。
そのまま静かになったので、大膳は水練の達者な者を淵に入らせ、亀の首に縄をつけて引っ張ってこさせた。
淵から上げられたスッポンを見ると、身の丈九尺、幅五尺であり、民は大いに喜んだ。
栗山大膳は十六歳の時に武術を残す所なくおさめ、鉄砲を明智日向守光秀から伝来され、六十歳になってもこのような腕前だったと人々は語った。
これについては「武将感状記」にも記されている。
(「武将感状記」巻10「栗山大膳鳥銃の妙を得る事」では栗山大膳は榊の弟子としていて、鉄砲は百発百中の腕前だったとしている
また、栗山大膳は黒田騒動時でも40くらいのはず)

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:27:08.77 ID:0oyJsDMd
ついでに、
雑誌「西日本文化」に連載されていた石瀧豊美の「黒田騒動と『箱崎釜破故』」の第七回と第八回には
「お綱さんツアー・黒田騒動史跡めぐり」として

1.お綱の墓:福岡市東区馬出
2.黒田忠之の墓:福岡市博多区御供所町、東長寺
3.福岡藩刑場跡碑:福岡市中央区天神、福岡県庁跡、空誉上人の霊に悩まされた二十四代福岡県知事が建立
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13372.html
4.水鏡天満宮:空誉上人が住職をしていた智福寺跡
5.お綱門:扇坂御門?お綱が息絶えた場所
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13356.html
6.福岡家庭裁判所:お綱さんが斬り込んだ夫の屋敷跡、長宮院跡
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13366.html
7.鵜来島:箱崎釜破故で栗山大膳が密談した場所
8.空誉堂:福岡市中央区大手門の浄念寺境内
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13339.html
9.左右良(まてら)城:栗山利安が任され、子供の大膳の屋敷が麓にあった
10.龍光山円清寺:栗山利安が主君長政の冥福を祈るために建立した寺

と並んで
11.大膳楠:杷木町にあり、「箱崎釜破故」では栗山大膳が池の精の化身である大亀を射殺した事で運命が暗転するという因果応報譚となっており、
その池がかつてあったところに立っている楠を栗山大膳にちなんで「大膳楠」と呼んでいるという。
が紹介されていた。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:50:11.14 ID:0oyJsDMd
タイトルだけ見て関係がない話だと思ってしまった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4536.html
「大膳崩れ」


過去に出てきたこの話だと、亀を撃った後に大雨が降って土砂崩れが起きているが
博多細伝実録」だと、直後に雨は降ったもののすぐやみ、
淵は年々浅くなって田畑となり民の利益となった、
と書かれているため悪い話にはなっていない



殿様というのは、左馬助か

2022年02月18日 16:17

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/16(水) 20:53:30.92 ID:viqLlJY4
悪い話スレで塙団右衛門の話が出ていたので後藤又兵衛基次の話を書こうと思う。

愛媛県松前町、後藤又兵衛生存伝説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5158.html


後藤又兵衛が生存しており、旧知の加藤嘉明を頼って伊予へ逃れたという逸話は既に出ているが、
伊予へ逃れた後藤又兵衛加藤嘉明のお話。

1615年(慶長二十年)の大阪夏の陣で大阪城に攻め寄せる徳川家康軍に対して、道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛は戦死をしたと伝わる。

しかし当地に伝わる言い伝えでは宮ノ下(現在の愛媛県伊予市)にある長泉寺の住職が伯父であったので、
後藤又兵衛はそこを頼って各地を旅してまわる旅僧の姿となって伊予へと落ち延びてきたという。

そして久万の山中にある岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に隠れ、そこで日々座禅をして過ごしていたという。

ある日のこと、この地を治める加藤嘉明が岩屋寺を訪れることとなり、先走りが寺を訪れ僧達に向かって境内を掃除して清めるように伝えたところ、
この時本堂で座禅を組んでいた又兵衛はこれを聞いてかっと目を見開き

「殿様というのは、左馬助か。」

と、先走りに聞こえる声で呟いた。これを聞いた先走りは無礼な奴だと思ったが、只者ではない雰囲気を放つ又兵衛の様子を見て何も言わずに引き返し、
三坂峠で休憩していた加藤嘉明の前に出ると、このことを報告した。

報告を受けた嘉明は

「もう引き上げじゃ。帰るぞ。」

と言い、岩屋寺へ赴くことなく引き上げたという。その理由は明らかではないが、又兵衛が岩屋寺へ居るのでないかという情報は
その耳にも入っており、親友であった又兵衛を捕えることになるのを忍びなく思った嘉明は引き上げたのではないかとも言われている。

この後又兵衛は伯父のいる長泉寺へ移りそこで地元の人たちと打ち解けこの地で生涯を終えたという。

今では又兵衛のことを書いた碑が長泉寺の境内にあり、その墓といわれるものが長泉寺の下手にある大塚家の屋敷の中にある。
この墓の中には又兵衛が大事にしていた半弓や種子島などもいっしょに葬られてあったという。

なお、又兵衛の笈(旅僧などが、いろいろな物を入れてせおう箱)だけは長泉寺に残されていたともいわれる。

またある言い伝えでは、又兵衛は伯父に迷惑をかけてはいけないと、弟の市郎左衛門の名にかえ、弟になりすまして
松前の筒井に移り住んで妻をもらって帰農したともいう。

そして、重信川の大水で荒れた土地を開いたり水を引くようにしたりして村人のために広い良い田を作ったので、
たいへん喜ばれたともいい、又兵衛夫妻の墓といわれるものが筒井の大智院(伊予郡松前町)にもある。

データベース『えひめの記憶』伊予市誌 四〇、後藤又兵衛 (宮ノ下)より
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/35/view/10150

四国八十八ヶ所霊場 第四十五番札所 岩屋寺
https://shikoku88-iwayaji.com/about.php

\


20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/17(木) 01:22:17.90 ID:SFDxaC0D
岩屋寺の女仙人、弘法大師と術比べしたって聞いたけどそこまでは書いてないようだ
岩窟まではハシゴを登ると行けるけど、5mあるから行く時は気をつけよう

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 21:03:30.61 ID:NCzx1Yos
>>19
この逸話、又兵衛の五男である後藤吉右衛門基が加藤嘉明に仕えてたという縁からだったりするのかな?
加藤家の会津転封にはついて行かずに伊予に土着して医師になったそうだし。

22 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 21:06:36.83 ID:NCzx1Yos
>>21
後藤吉右衛門基芳

星野宗右衛門について

2022年02月08日 16:31

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 18:24:39.04 ID:v+FyJ//b
星野宗右衛門について

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5590.html
栗山大膳と『旅枕』


10年以上前に出たこの逸話で栗山大膳の親友として紹介されている星野宗右衛門
黒田騒動箱崎文庫」や歌舞伎では栗山大膳側の勇士ということで大活躍をしているが、活躍の一つに
親友の有川駿河という軍学者が、倉橋重太夫の陰謀で三百両の借金をさせられ、幕府に禁じられている大船の図面を描いてしまった。
星野宗右衛門が河内屋にかけあって三百両を工面したことで、少なくとも有川は武士の対面を保つことができた。
しかし有川は図面を描き黒田家を危機に陥れたことを詫びて切腹、といった話がある。
黒田騒動箱崎文庫」では上記の逸話の通り、栗山大膳がかつて利休が所持していた「旅枕」を用いて星野宗右衛門の三百両を帳消しにした、としている。
なお「旅枕」を所有している和泉の久保惣記念美術館の旅枕に関する記事には栗山大膳についての記載はないので、この逸話の真偽は不明。
ただ、星野宗右衛門のほかの活躍を見ると、
「星野の大食鍋島家を驚かす事」では星野宗右衛門が鍋島家に舐められないように、
鍋島家が用意した鯛の浜焼きを城下の魚屋全てからかき集めた分だけ食い尽くし
七合入りの盃で酒を七杯呑み、飯を15碗食い、鍋島家の者どもは大いに驚き、忠之から拝領物を賜り、「鯛喰いの宗右衛門」というあだ名がついた
ことになっている。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 18:30:08.99 ID:v+FyJ//b
実はこの話、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13373.html
毛谷主水について


で書いたように「博多細伝実録」に出てくる、元禄の頃に鍋島家で大食を披露した星野助右衛門の話そのままである。
どうやら黒田騒動に栗山大膳側の善玉の豪傑を登場させようと思った「箱崎文庫」系統の作者が
博多細伝実録」の大食漢・星野助右衛門の話が印象的という事で時代を移して栗山大膳の同志にさせたらしい。
というわけで、
関ヶ原で西軍の物見をしてたくさんの饅頭を食べた毛屋主水武久と
元禄に鍋島家に使いに行った時に魚の焼物をたらふく食った星野助右衛門
百年ほど時代の違う二人の大食いが、間の寛永年間に
方や女に籠絡され主家を滅亡させようとした悪玉・毛谷主水
方や主家を守ろうと剣と知恵を振るう善玉・星野宗右衛門
として共演することになったという奇妙な話。

ついでに1936年に公開された映画「栗山大膳」には毛谷と星野の両方とも出てくるが、
毛谷主水の方は、城井一族の復讐を狙うお秀の方に籠絡され、栗山大膳の命を狙う一番の敵役となっている。
(紅陽法師も城井の若様として少し語られている)
星野宗右衛門の方はというと、図面を描いた有川を叱責する以外はたいして出番がない。


浅野彦五郎・新九郎兄弟捕縛

2022年02月07日 15:17

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 00:09:32.56 ID:v+FyJ//b
>>312の前に出てくる話
「吉田家伝録」から浅野彦五郎・新九郎兄弟捕縛

吉田重成は捕物(罪人を生捕)を三十余度行ったという。
その昔、浅野彦五郎というものがいて長政君に千石を与えられ、財利を量る才に抜きん出ていたため、唐土との交易に携わっていた。
しかし私腹を肥やしていたことが露見し重成の家に預けられることとなった。
重成「尋問するので吾に預けられることになった。礼儀のため刀と脇差を吾に預けよ」
彦五郎「我が異国に渡った時に受け取った金銀の勘定が相違しているため、罪が行われるのは必定。
今吾子(ごし)を討ち果たそうと思ったが慇懃に礼を尽くされたため刀と脇差を預けよう」
そのあと彦五郎は菅正利に預けられたが、二、三日して長政君からまたお召があり
「彦五郎の弟の新九郎も同罪のようなので重成の家に呼んでからめとらえよ」とのことだった。
彦五郎が菅に預けられたのち、新九郎が放火して奪い取ろうとするような風聞があった。
そこで重成は家人の村山理兵衛を呼んで策を授けたあと一人で新九郎の家に向かい、
「彦五郎の尋問が終わるまで、新九郎は我が宅に預けられることとなった」と言った。
新九郎は家族へ別れを済ませたのち白帷子で雑談をしながら重成の屋敷にきた。
新九郎が重成に続いて入ろうとすると、掃除をしている用人のふりをしていた理兵衛が後ろから新九郎の足を捕らえ、
重成は振り向きざま新九郎の髻を捕まえて引き倒した。
新九郎は力量が優れ、相撲を好んでおり、力を入れて脇差を抜いたが、重成と理兵衛から縄をかけられ捕らえられてしまった。
のちに彦五郎も新九郎もともに誅されたということだ。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 00:36:38.92 ID:v+FyJ//b
と、これだけなら別に悪い話ではないのだが、
実はこの浅野彦五郎、お綱さん話で釜炒りにされた浪人と同姓同名?なのである。
また、お綱さんの夫であった麻井四郎左衛門だが、「箱崎釜破故」では元は「礒之丞」という名前で小姓となり四郎左衛門という名前が与えられたとされる。
(さすがにサザエさんの磯野とは関係ないと思うが)
ついでに元々の伝承では明石四郎左衛門という名前で(「黒田騒動箱崎文庫」のお綱さん話でも)、伝承の過程で浅野彦五郎と苗字が逆になった説もあるとか。
その場合、実は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13255.html
残金は後でやるぞ

この「博多細伝実録」の、黒田長政が通りに足を出している町人を斬った話で出てくる小姓の名前が明石四郎左衛門であり
「寛永箱崎文庫」ではこの話を、黒田忠之が通りに足を出していた鬼河原源蔵という暴れ者に小姓の明石四郎左衛門が代金を聞く話にしちゃっているので
(ついでに斬ったのは倉八十太夫で喜んだ忠之が八千石与えた設定)
お綱さん話に出てくる浅野彦五郎も明石四郎左衛門も実は黒田長政の時代の人物ではないか?という疑惑が

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 01:22:18.06 ID:v+FyJ//b
考えたら「箱崎釜破故」で浅野彦五郎を処刑するための釜をつくれと命令をされたが、どの鋳物師もやりたくないもんだから
博多・甘木・芦屋の三ヶ所の鋳物師が籤を引いて、当たった芦屋の太田氏が釜を鋳造する場面があった。
博多の鋳物師の代表格が礒野家だとしたら、タイトルの「ふばこ」にわざわざ「釜破故」と「釜」をあてているし
四郎左衛門こと礒之丞が箱崎で美男と噂になるところから物語が始まっているから
礒之丞の名前を考えるにあたって博多の礒野を念頭に置いている可能性はあるか


下野九兵衛の最期

2022年02月06日 15:18

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/05(土) 23:07:33.73 ID:kxU3JDkp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1861.html
黒田長政と家臣たちの異見・いい話


黒田長政の「腹立たずの会」のきっかけとなった下野九兵衛の最期を
「福岡藩 吉田家伝録」から

大坂の陣の際、長政君は大阪屋敷に下野九兵衛というものを置き、筑前から大坂へ上る米穀の管理を任せていた。
九兵衛は内々に秀頼卿に通じ、ひそかに蔵を開いて多くの米穀を大坂城に入れていた。
秀頼卿は大いに悦び九兵衛に金子と感謝の書状を渡していた。
大坂城没落ののち、長政君が米穀の勘定を九兵衛に命じたところ、露見は免れないと思い九兵衛は妻子とともに逐電した。
なお孝高君(如水)・長政君ともに秀吉公に忠義を尽くしたことは世に知られていたため、九兵衛の独断ではないだろうと言う人もあったとか。
長政君は深く憂え、吉田重成に九兵衛の捕縛を命じた。
重成は瘧を病み、まだ癒えていなかったが長政君の許可を得て無紋の帆を上げた船を出し、家臣三人とともに福岡を立った。
こうして酒樽や魚籠の商人の扮装で兵庫を探索していると下野九兵衛が長く使っていた下人がいたため村山理兵衛が尾行し、山上の小さな寺に入ったのを確認した。
病が小康に入った重成は大いに喜び、寺に行き様子を伺うと、九兵衛は臥して謡をうたっていた。
重成は直ちに庭の戸を開け入ると九兵衛は確認するや刀を取り
「吾子(ごし)尋ね来たるべしと兼ねて思いもうけたり」と刀を抜いて立ち向かってきた。
重成も刀を抜き、家臣三人も棒や刀で取り囲んだ。
九兵衛は重成に斬りかかってきたが重成も刀で受け、理兵衛は九兵衛の右腕を掴み、後の二人も前後から抑えて縄をかけた。
九兵衛の家人三人も裏から出てきて脇差を抜いて斬りかかってきたが、重成と家臣たちが立ち向かうと逃げていった。
こうして九兵衛、その妻、幼い娘、下女二人をからめとり船に乗せて筑前に帰還した。
長政君は大いに悦び、九兵衛を怡土郡高祖村に籠居させ、門番に堅く守らせ、駿府にことを告げた後、誅伐なさったという。



毛谷主水について

2022年02月01日 16:21

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/01(火) 15:53:57.91 ID:4m5caflV
空誉上人が乗り移ったとされる毛谷主水について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8719.html
毛屋の本氏


で関ヶ原で西軍の物見をして東軍の士気を高めたため家康から饅頭をもらい、全て平らげた毛屋主水武久がモデルと思われる。
色気より食い気の方がふさわしい毛屋主水がなぜ美女のお相手役にされたかについては

貝原益軒「黒田家臣伝 毛屋武蔵」に関ヶ原や加増や武蔵改名の後の話として
ここに豊前国城井中務(鎮房)が家人に、鬼木掃部という者は、大剛強力の者なりしが、長政に背いてほろぼされけり。
そのむすめ、弟妹両人をつれて落人となりていたりしを、長政の命にて、武蔵これを娶る。その生まれる所の子を太右衛門という。
武蔵が妻の弟は、鬼木惣左衛門という、黒田美作に武蔵が所託にて仕えしむ。いまにその子孫あり。
武蔵、寛永五年七十五歳にして筑前にて病死す。

とあり、黒田騒動が後世脚色された際に、黒田に恨みを持つ城井氏(寛永箱崎文庫)や鬼木氏(歌舞伎や映画)や大友氏(白縫譚の蜘蛛の妖術使いの若菜姫)などとの因縁が加えられた時に
鬼木氏を妻に持っていたために毛屋主水の名前が使われたのではないかと。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/01(火) 16:03:14.53 ID:4m5caflV
大食漢繋がりで「博多細伝実録」には元禄の頃、鍋島藩への祝賀の使いの際に「他に芸はありませんが大食で鳴らしております!」
と言い放ち、焼き物を20人分平らげ、酒を大盃で五杯飲み、鍋島から賞賛され大いに面目を施したとして、藩主から褒美をもらった星野助右衛門という人物の話がある
幕末に黒田藩士の磯野藻屑源素太皆が、おはぎを38個食べて殿様から褒められたというネタに通じるものが

ついでに「博多細伝実録」には黒田藩家老の黒田美作に仕えた鬼木氏のその後の話として、
元禄の頃、黒田美作(三奈木黒田家三代目の一貫)が佞人を重用し民が苦しんでいた。
重臣の鬼城新左衛門は諫言するも聞き入れてもらえなかったため、家族一員(老母、妻、二人の子供)白装束仕立てで首を斬り、自らも諫言の遺書を残し切腹。
鬼城家は家名断絶となったが、新左衛門の死から二ヶ月もしない間に佞人どもが狂ってたわごとを発するようになった。
こうしてそれまでの悪事が露見したため、みな悉く切腹。
鬼城新左衛門は鬼城大明神として崇められた、という話が記されている。

黒田長政に滅ぼされた鬼木掃部の子孫が黒田藩家老のために諫死し家名断絶という歴史の奇妙さ



怪談 福博の夜ばなし④ 空誉上人

2022年01月31日 17:14

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 17:09:50.18 ID:vLS0rSyE
西日本新聞 昭和48年8月16日号より
「怪談 福博の夜ばなし④ 空誉上人

寛永年間、黒田忠之が安養寺に馬を停めて休憩し、でっかち頭、そのうえ異様に飛び出した目で秋景色を愛でていると美しい寺小姓が茶菓子を運んできた。
一目惚れした忠之が住職の空誉上人(二十代で非常な美男)に寺小姓(秀之丞)を差し出すように命じたが上人は「修行中なので」と断った。
忠之はあきらめきれず間者を放ち寺の様子を探ると、なんと秀之丞は女であった。
「おのれ女犯の売僧めが!」と怒った忠之は上人を大釜に入れ、背中を立ち割り鉛を流し、絶命させた。
秀之丞はお秀(光之の母?)という名で忠之の側室となったが、上人の怨霊が乗り移った黒田藩士・毛谷主水がお秀の方と密通。これが黒田騒動の発端となる。
釜責めが行われた場所は現県庁舎裏の知事公舎の庭にあたり、ながらく釜の形だけ草が生えなかった。

昭和初年の大塚惟精・第24代福岡県知事は胆力のある柔道家であったが夜ごとうなされて眠れず、知事の書生ももののけに取り憑かれたようになった。
そこで釜の形に草の生えない場所に小さな銅ぶきの祠を建てて怨霊を慰め、いまも毎年八月上旬には法要が営まれている。
濡衣山(濡衣を着せるの故事から)松源寺の佐々木滋寛師は「空誉上人の幽霊ばなしを黒田騒動に結びつけたのは、鍋島藩の化けネコ騒動と同じで、藩の内乱を幕府の目からそらせるために利用したんでしょう」と推測している。
一説には空誉上人は後藤又兵衛基次が送ったスパイとか。
お秀の方は黒田如水から滅ぼされた中津の豪族の娘とも伝えられている。
空誉上人は空誉さまとも呼ばれ浄念寺(中央区大手門二丁目)に墓がある。



お綱さんばなしの長宮院について

2022年01月28日 17:46

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 12:12:33.82 ID:A3SptgL0
お綱さんばなしの長宮院について

「箱崎釜破故」の末尾によれば、麻井家を継いだ浅野彦五郎が釜炒りの刑に処せられたのち、狐狸の棲家となり荒れ果てた。
その後、肥後より清戒という僧侶が貰い受けて長宮院を建立したことになっている。

貝原益軒「筑前国続風土記」の「福岡 長宮院」には
「むかしは士人の宅也しが、凶宅なりとて、是に居る人なくして、廃宅となれり。
寛永年中、肥後国より来れる清識と云ふ真言僧、此宅に寺を立んよしを願ひしかば、国主忠之公是をあたへたまふ。」
とあり、

柳猛直「福岡歴史探訪 中央区編」によればこの貝原益軒のいう「凶宅」とは
黒田長政の時代に伊藤団右衛門というものがいてこの家に居住していたが女幽霊に悩まされていた。
そこで小河内蔵允(長政臨終の際、栗山大膳とともに忠之の後見を任された)が勇士を募って団右衛門を警護していたが
丑三つ時に女の生首が現れ、団右衛門の上を通ると団右衛門は死んでしまった。
ということで凶宅とされ、あとからお綱さんばなしが生まれたことになっている。
(この伊藤団右衛門の話の出典は記載なし)

お綱さんの事件が黒田騒動直前の寛永七年で、寛永が二十一年まで続いたから、寛永年間に麻井家が荒れ果てることはあり得るけど
伊藤団右衛門の話によって凶宅扱いされたのであれば、忠之はむしろ霊を鎮めてあげようとしたのに幽霊話の元凶扱いされているような。



お綱門

2022年01月20日 19:09

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 08:47:08.92 ID:6ofPMtyB
西日本新聞社編「福岡県の昔ばなし」の「お綱門」のあらすじ

大名には江戸の正妻とは別に国元に第二夫人を置くことが認められていたため、忠之が参勤交代の帰路、大坂の花街で見初めた芸者に采女という肩書きをつけて博多に連れ帰る
家老の栗山大膳が「身分の低い者を側室にするなどもってのほかです」と諌めたため仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ
お綱には暮らしのための金銭も届かないようになり、明日は雛祭りだというのに幼い娘の支度もできないと下働きの善作を本宅に使いを出しお金の無心をさせる
浅野は「すでに絶縁!」とけんもほろろ、奥方を哀れに思った善作は遺書をしたため千代の松原で首をくくる
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を手にかけ子供たちの首を包み腰にさげ、薙刀を持って、下屋敷から大名町の本宅に
浅野は登城しており、留守を預かっていた浪人明石彦五郎が怪しみお綱に切りつける
重傷をおったお綱は薙刀を杖代わりにして城内にはいるが扇坂門の扉に手をかけたため死亡、寛永七年三月三日のことであった

近年、老朽化した「お綱門」を取り壊すことになり丁重な供養をした後、長宮院という寺でお綱親子の霊を祀る
長宮院は空襲で焼け、今は福岡家庭裁判所となっているが位牌は疎開させてあったため無事で
東湊町の真光院で「お綱大明神」として家庭円満、良縁祈願、水子供養で訪れる人が多かった
真光院は今は福岡県糸島郡二丈町に移転、今なお香煙は絶えない

「お綱門」の後日談
後世になりさまざまな怪談話を生み出した
太平洋戦争当時、福岡城址は福岡第24連隊の兵営となったが「お綱門」で立番をする兵士は心身の異常を訴えたという
また鬼のような上官のワラ布団の下にこの門の近くの小石をこっそり隠し入れると、上官は悪夢にうなされたり病気になったという



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 11:56:16.35 ID:vAkwOalY
福岡んおごじょはすごかね

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/27(木) 10:43:06.26 ID:noXl88DO
>>281
>仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
>浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ

殿様の女なんじゃないの?どういうこと

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 11:33:29.56 ID:UuGmdRex
>>290
同じ西日本新聞の昭和48年8月13日号から19日号で
「怪談 福博の夜ばなし」という連載があって
第一回が「お綱さんばなし "たたりますわョ" ナギナタ持った凄幽霊」でほぼ同じ話が掲載されているが
「采女はお側役の浅野四郎左衛門に下げ渡された。」となってる
なおお綱はひどい醜婦(箱崎釜破故でも)とされている。
ついでに後日談もあり、お綱が城に入ろうと飛びついた
「土塀のカワラは、何度ふきかえてもズリ落ちた。
お綱さんがナギナタでササを切り切り走った薬院(中央区)は、道の片方のササが生えてこないとか、タケが高く伸びないといわれる。」
このあとお綱さんを祀っていた長宮院が戦後に家庭裁判所となったことが書かれているが
「その工事中、お綱大明神のあった真上の梁から大工が落ちて死んだ。
いまも、その位置は何べん修理しても雨漏りがするそうだ。」
また、原田種夫氏(「黒田騒動」についての本を出している)に取材したところ、お綱母子の墓の近くにお綱ヶ池があったが魚を取ると祟られると恐れられた、と言われたそうだ。

294 名前:290[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 23:30:01.37 ID:ollerr9a
>>292
サンクス、そういうことか
とはいえ、殿様から下げ渡されたのなら采女を粗略に出来ないしなぁ
だからといってお綱に納得しろというのも酷だし
誰も得しなかった悲話だな

「箱崎釜破故」より麻井(浅井)四郎左衛門の妻お綱のこと

2022年01月14日 17:27

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:08:56.97 ID:oR2DBSob
箱崎釜破故」より麻井(浅井)四郎左衛門の妻お綱のこと
(数種類のバージョンがあるようだが広島大学図書館が往来物(寺子屋の教科書)として公開しているものを元にした)

黒田忠之には北の方(采女)という愛妾がいたが、新しく江戸から十六の愛妾を二の丸に住まわせたため、
采女の方は自身が取り立てた麻井四郎左衛門という侍に妻として下げ渡すことにした。
四郎左衛門にはお綱という妻と二人の幼少の男子がいたため断ろうとしたものの主命ということで断りきれず、お綱は離縁となった。
四郎左衛門も離縁後しばらくはお綱の元に忍んで行ったものの、お綱の嘆き繰言をするのをうるさく思うようになった。
また先妻に通っているのを後妻の采女が禁止したため、せめて二人の男児だけは引き取ろうとしたが、
「血のつながっていない子を後継にはさせません。実母に養育させればいいでしょう」という采女の意見に押され、それ以降お綱のもとに通うことはなくなった。
四郎左衛門が通わなくなり二年が経ち、援助もないため、お綱は生活も事欠くようになった。
寛永七年霜月二十七日の夜、絶望したお綱は南無阿弥陀仏と称名を唱え、短刀を二人の息子(四歳と六歳)の胸に刺した。
息絶えた二人にお綱は
「恨むなら父上と父上を寝取った女を恨みなさい。母も敵を討ったらお前たちのところに行くからね」
と言って、装束を改め、鉢巻を締め、長刀を持って四郎左衛門の屋敷に向かった。
お綱を見た門番は仰天し「夜中に何者なり?」と声を上げたが一刀のもとに切り伏せられた。
お綱が寝屋と思われる方へ進んでいくと、浪人浅野彦五郎というものが刀を持って参じ、しばらくお綱と切り結んだ。
そのうち彦五郎の刀がお綱の左肩に打ち込まれ、お綱は「口惜しや残念やただ一歩のところで」と怒りの声を上げて斃れた。
お綱の死に顔は眼を見開き歯を食いしばり、というものすごい形相であった。

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:10:45.59 ID:oR2DBSob
翌日、四郎左衛門が采女に「まあ、あいつも生き恥を晒すよりは死んだ方が幸せだったな」と語っていたところ、屏風の影からさわさわという音がした。
屏風を開けるとお綱が生前の姿のまま立っており、采女は「あっ」と一声叫ぶや、舌を三寸ほど噛み切って死んでしまった。
四郎左衛門は忠之に対して采女の死因について病死であると届け出たものの、ことのなりゆきが忠之の耳に達し、
忠之は怒り、お綱の死骸を暴いて竹の串で貫き、路上に晒した。
往来を通る者で「嫉妬ゆえこのように晒されることになった」と嘲った者どもが数十人あったが、どの者も言った途端に狂ってしまった。
忠之はますます怒り「にくき女め」と穢多に命じて死骸を微塵に打ち砕き、川に流すよう命じた。
この役を行った穢多十二人は、たたまち様々な恨み言を述べて狂死したため、この十二人を一箇所に葬った。今日ではこの塚を穢多塚と言っている。
お綱の死骸を打ち砕くのを見分した役人も即時に発狂して、帰るや門の礎に頭を打ち砕いて死んでしまった。
その後、四郎左衛門は怨霊に悩ませられ痩せ衰えてしまい、これを聞いた忠之は不憫に思い四郎左衛門の元を訪れた。
四郎左衛門のあまりの変わりように忠之は驚き、詳しく尋ねると
「毎夜子の刻に前妻が苦しげな様を見せつけてきて熱が出てきます」と答えたため
忠之が「よし、われが邪気を退けてやろう」
とうけあったところ、四郎左衛門は涙を流し喜んだ。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:12:21.01 ID:oR2DBSob
こうして忠之は浅野彦五郎を含めた勇士二十四人を選び、
日光一文字の刀(北条早雲が日光二荒山から貰い受け、北条氏降伏の際に如水に贈られた)、岡本正宗の短刀(忠之の元服祝いに家康から下賜された)、
碇切(長政が朝鮮で碇ごと間者を斬った)、返切(へし切り長谷部)、安宅(如水の四国攻めの際に敵将安宅貴康を斬った)、権藤の長刀(如水が朝鮮で虎に襲われた時に権藤という武士がこの薙刀で虎を仕留めた、もしくは高橋元種の部下・権藤平左衛門が18人を斬った)
といった黒田家の名刀を持たせ、正宗の刀は四郎左衛門の枕元に置くように手配させた。
勇士たちは霊魂よ来るなら来い、と豪語していたが、夜になり、二十四、五才ほどの女がほほと笑って病人の枕元に近づいても、おのおの身の毛がよだち、腕がすくみ、身動きが取れなくなった。
四郎左衛門がしばらく熱で焼けるほど苦しんだ後に女は出ていったが、勇士たちはまたも身動きが取れなかった。
われながら情けなく思った勇士たちは翌夜、名誉挽回を期し、彦五郎は自ら正宗の短刀を抱いて四郎左衛門と寝床に臥した。
丑満の頃、生首が出現し四郎左衛門の上を通ったところ、四郎左衛門は一声うめくや、むなしく息絶えてしまった。

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:19:46.55 ID:oR2DBSob
忠之は麻井四郎左衛門夫婦の追善供養をしたものの、麻井の跡目を継ぐものがなかった。
そこでお綱を殺した褒美ということで浪人浅野彦五郎に麻井の跡目二千石を相続させた。
しかし彦五郎は「悪口を言った者、死骸晒しの時に立ち会った役人までも狂死しているのだから自分も祟られるかもしれない」
と檀那の寺で相談し、六ヶ寺でお綱の仏事を行うこととした。
このことは隠密であったがなぜか忠之の耳に達し「言語道断、われの敵の女が肩を持つか」と忠之は怒った。
そのとき佞人があり、彦五郎が正宗を抱き臥した後返していない、と忠之に告げた。
忠之からの詰問に驚いた彦五郎が家中をくまなくさがしたところ、麻井家の箪笥のなかに置いたまま失念していたことが判明し
失念していたと忠之に申し上げたものの、盗人ということで平人に落とされ、五歳の男児ともども釜煎の刑に処せられた。
また六ヶ寺の住持は皆衣を剥ぎ取られ俗名に戻され流罪にされた。
一説にはお綱の幽霊が正宗を箪笥に忍ばせ、彦五郎に殺された恨みを果たしたのではないかと言われている。
(このあと黒田騒動の話になる)

なお「箱崎釜破故」の他のバージョンでは彦五郎に請われてお綱の供養を行ったのは空誉上人であり、
そのために忠之により背を割り鉛を流し込まれるという刑罰を受け、浄念寺の和尚がこっそり放置されていた死体を持ち出し自分の寺に葬ったことになっているようだ。
荒唐無稽な話でお綱自体も創作だと思われるのだが、
福岡城の扇坂門はかつて「お綱門」と呼ばれていて、その門に男が手を触れると熱病にうなされたという伝説があったとか。
福岡市中央区の「お綱さんばなし」というページによれば、大筋は同じだが四郎左衛門は登城していたため屋敷にはおらず、
浪人「明石」彦五郎に斬りつけられたあと、四郎左衛門のいる城に行こうとしたが扇坂門に手をついたところで息絶えたため「お綱門」と呼ばれたことになっている。



「寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと

2022年01月13日 16:40

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/12(水) 19:27:57.50 ID:4OnqiQbH
高要もしくは空誉上人の異説
寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと

安養寺別当の紅陽法印は実は岐井谷安芸守友房(城井朝房?)の次男であり大友宗麟にとっては孫であったが、
岐井谷滅亡の後京都智積院紅道大僧正の弟子として真言密教を修行して天満宮の別当となる。
山中での修行後に下山した際、赤子の泣き声が聞こえたため行ってみると、猟師が出てきて
「私の子供なのですが、母親が死に、乳がなくて困っております」
と答えたため不憫に思い、猟師の話をくわしく聞いてみると、かつては大友に仕えた定村種時の息子、定村種春であり、
祖父大友宗麟からの感状も持っていることがわかったため、祖父の引き合わせだと感動し引き取ることにした。
子供は女児であったため、表向きは男子ということで寺小姓としておいておいた。
十数年たち成長した後には要人(かなめ)と名付けたが美しく育ったため、いつしか男女の仲となってしまった。
あるとき黒田忠之が安養寺に来た際に、要人が茶を立てたところ忠之は気に入り、たびたび紅陽を城に召すようになった。
そのころ忠之は奇術を用いる大盤和尚という者を気に入り、折々召し出していたが
忠之の面前で紅陽と大盤が問答をしたところ、大盤は言い負かせれたうえ、切支丹であることが露見した。
栗山大膳が大盤を拷問したところ切支丹であることを白状し、獄門にかけられた。
これ以降、忠之は紅陽と大膳を恨むようになっていたが、天神の祭礼日には家中の者があちこち訪ねる習わしになっていたため
寵愛していた倉橋重太夫(倉八十太夫)に安養寺へ行かせ、定村要人の様子を見てくるように命じた。
倉橋は安養寺に行ったものの要人は出てこなかったため怪しく思い、寺の奥まで押し入り、
逃げようとする要人の胸ぐらを掴んだところ、柔らかいものがふれ、要人が女であることが露見した。
帰城した倉橋からこれを聞いた忠之は奉行に要人を捕らえるように命じたが、紅陽によって要人は父親のところに送り出されていた。
奉行は紅陽を尋問したが「要人は出奔しました、所在は知れません」というばかりであり
二の丸の裏庭をお白洲の代わりにして、煮えたぎった油をかけるなどの拷問をしたが紅陽は口を割らなかった。
そこでとうとう破戒僧ということで、四本の杭に手足を縛り、背中を反らせ刀で引き裂き、そこに塩湯を流し込み、
皮肉をひきつらせて溝を作らせ、融けた鉛をその溝に注ぎ込んだ。
奉行が「これでも白状しないのか」というと
紅陽は両眼をかっと見開き、「おのれ、忠之が無道、要人が色香に迷い、これを奪い取らんと拷問にことよせて我を殺さんとし
また我を匹夫とはもっとも慮外至極なり。そもそもわれは岐井谷安芸守が二男なり。
我は父祖重々の怨敵たる黒田家なれども昔仇を忘れ恨みもせざりしに、
さる頃、汝が帰依なせし大盤が邪法をばくじきしことを遺恨に含み、今要人のことによせ、いまだ天下に行われざる非道の責(せめ)をなしたるべし。
たとい女犯のつみあろうとも死刑にあたらんや。この恨み思いしらさでおくべきか」
と四本の杭を引き抜き悪鬼の形相で死んだ。

このあと黒田騒動の話になっていく



「博多細伝実録」より僧高要の祟り

2022年01月06日 19:21

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/06(木) 18:19:38.97 ID:7ZpPPo9o
博多細伝実録」より僧高要の祟り

忠之の短慮についてであるが、天台宗の僧・高要という者が太宰府の近くの寺の別当をしていた。
この出家は破戒僧であり、十六才の寺衆の美婦を小児姓といつわって仕えさせていた。
ついに目付けにばれ、本来ならば遠島を申しつけられるところを、
忠之により、法外不仁であるということで生きながら骨を割られ殺された。
忠之は城より二里半ばかりの崇福寺に、毎月祖父如水の忌日に寺参りをしていたが
暁方に馬で向かったところ、高要法師が忽然として煙の人形のごとく馬の前に現れ白眼をむいた。
忠之が「坊主めが、推参なり」と言うや煙の如く消失した。
高要の死から一年もしないうちに、高要の破戒を見出した目付けはもちろん、その時とらえた場に居合わせた者十三人が一人も残らず死んでしまった。
そこで福岡の大工町に一社が建立されたが、色道の罪で殺されたため、誰ともなく縁切りの願いを叶えてくれる、ということになった。



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/10(月) 01:02:57.34 ID:ll8UQZEV
>>264
の僧高要の話についてまとめサイトのコメント欄で質問があったので調べたら異説があった。
博多細伝実録」には「霊を福岡大工町浄念寺の間に社を建立の者為て高要権現と称し」
と書かれていたが、福岡市中央区大手門2丁目(かつての大工町)に存在する浄念寺について福岡市中央区のHPで見たところ、
境内には空誉上人を祀る空誉堂があり、後藤又兵衛の身代わりになって黒田忠之に処刑された、としていた(長政ではなく)
また、中央区の「今泉天神通りの3か寺」のページだと、
安養院の寺小姓を気に入った忠之が差し出させようとしたところ
住職の空誉上人が断ったため釜茹でにしたとしていた。
実際「博多細伝実録」だと「骨を刻、体?を鋳(に)こみ」と書かれているようなので名前も近いし高要=空誉と思われる。

城には後藤という鋭将がある

2022年01月01日 17:19

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/01(土) 13:38:14.04 ID:G5eAbucL
大阪冬の陣、大阪方が十一月三十日に天満、船場を自焼して城内へ撤退した時、天満、船場は
高家華麗に甍を並べていたため、火も甚だ盛んであり、明日まで燃え続けた。
この時後藤又兵衛が曰く

「(池田忠継の)備前勢が、この撤退を追撃して天満に入ってくるだろう。そのため壮士たちを
烟の下に伏兵として置いて、敵が侵入すれば不意に発して功名すべき。」旨を下知したため、
勇壮の士がここかしこに伏していたが、備前勢はみだりに近づくような事は無かった。
この予想の相違に対して悉く、後藤が己の武勇を誇って、恣の下知を下していると嘲る色が見えた。
しかし又兵衛は

「何事も時に依っては見積もりが相違するものだ。備前勢が必ず付け入るべき所で、疑義したのには
理由がある。池田忠継の相備に、花房助兵衛(職秀)が未だ存生で来ているのだろか。であれば
彼の意を加えたのであろう。」と言った。

冬の陣の御和睦の後、戸川弥左衛門が後藤又兵衛を招き宴会をした時、又兵衛は聞いた
「今回の戦で、天満、船場の外塁を自焼してその兵を郭の内に引き取った時、どうして
備前、備中の軍勢は城兵を追尾して討たなかったのか。」

弥左衛門曰く
「私の愚兄である肥後守を始め、烟に紛れて付き慕わんと進んだのだが、花房助兵衛がそれを固く制し、
『城には後藤という鋭将がある。恣に追撃して不覚をするべきではない。』
と言った為に、これを討たなかったのだ。」
と答えた。

誠に又兵衛が察したことと相違無かったという。

新東鑑



922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/01(土) 13:59:36.06 ID:oWQyyJs/
慶長十九年十一月三十日は
グレゴリオ暦だと1614年12月30日
2日ずれてたら1月1日だったのが惜しい

「我が君の御運は強し!」

2021年12月27日 16:52

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/27(月) 13:13:00.33 ID:QCMvxcki
大阪冬の陣、今福の戦いでのこと

戦場から川向うに陣していた上杉景勝勢の直江山城守(兼続)は、豊臣勢の中に、部隊を下知している
後藤又兵衛を見つけた

「茜の母衣張で、馬印に黒半月を差して下知しているのは大将分と見えたり!あれを討て!」

そう申すと、若き者共が差し詰めて鉄砲を撃ち掛けた。これに後藤又兵衛の物具にも、弾丸が五、六発
当たり、その中の弾の一つが後藤の左の腕脇を打ちかすった。しかし彼は少しも騒がず、疵を確認して

「我が君の御運は強し!」

と申した。
この言葉を諸軍勢聞いて、「大阪には後藤より他に人無しとする言い分である。」と、これを嘲る者達も
多かったという。

新東鑑



宝はいつでも金銀に限るわけではない

2021年12月24日 16:19

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 21:59:55.29 ID:VMPClW5p
>>905の吉田重成の息子の吉田久太夫について
黒田藩のさまざまな話をまとめた江戸中期の「博多細伝実録」から

黒田忠之の出世頭の侍に吉田久太夫というものがいた。二千五百石取りであった。
十六の時に島原の乱に出陣したが後衛を命じられたため、不満に思い先駆けを願ったが聞き届けられなかった。
武士と生まれて留守番とは口惜しいと思い、抜け駆けし先手に加わり敵を追いかけた。
これを見た忠之は「主人に叛く言語道断の奴ばらめ」と激怒し
翌日、久太夫を呼び「城楼に登って敵味方の様子を見て参れ」と内心殺すつもりで命令した。
久太夫は「かしこまりました」と言うや否や城楼に駆け上り、敵城の内を見渡した。
鉄砲の弾は雨のように降り注ぎ、兜の緒が切れたり、右肩をかすめたりしたが、久太夫は慌てず、こよりで兜の緒を結び直しそのまま偵察し続けた。
敵も味方も「あっぱれな若武者だ」と勇気を賞賛した。
忠之はよけいに立腹し、「汝のようなものはわが陣中には不要である!どこにでも立ち退け!」と告げたため
さてもの久太夫も国を追われ、三年ほど伏見や草津で馬の世話をして露命をつないだ。
その後、松平讃岐守が久太夫のことを知り
「黒田浪人吉田久太夫といえば島原の乱において十六でありながら角前髪を振り乱して勇気を披露し味方を鼓舞した者ではないか。
そのような惜しい士を埋もれさせてなるものか」
と方々に手を回して久太夫を探し出し、紛れもなく本人であると知ると讃岐に連れて行き三千石を与えた。
その後、江戸に諸大名滞在の折、讃岐守の屋敷に忠之も含め国持大名が集まり、料理に舌鼓を打ち、国々の噂や名物について話に花を咲かせた。
この時、讃岐守は忠之に対して「わたしは貴公より小身であり、国の財とてさしたるものもありませんが、近来殊のほか優れたものを見出しました」
と久太夫を忠之の前に出し、外に連れ出して久太夫の巧みな馬術を見せつけた。
世上流布する言葉に「宝はいつでも金銀に限るわけではない」と言う通りである。
忠之は大いに後悔し、久太夫に詫び、讃岐守と交渉して黒田藩に同じ三千石で戻してもらうことになった。
その後も久太夫の家は繁盛し、代々「久太夫」を名乗っている。



これを以て察したのだ

2021年12月22日 17:43

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/21(火) 20:19:38.84 ID:xcIPBiIw
寛永十五年、肥州島原の乱でのこと。二月二十一日、黒田家の家臣である竹森石見貞幸が、
同僚である吉田壱岐守(重成)の陣屋へ夜話に行き、その帰りに及んで
「今夜必ず夜討ちがあるだろう。怠ること勿れ。」
と戒めた。その夜、賊徒が黒田の陣所に忍び来て夜討ちをしたが、兼ねて準備をしていた黒田方に
打ち負けて撤退した。

ある人が貞幸に、なぜ事前に夜討ちのことを知っていたのか問うた所、彼はこのように答えた

「前日に城中が物騒がしく、殊に夜に入って婦女の泣き声が聞こえてきた。これを以て察したのだ。」

二月二十八日、諸手が本丸を攻め破った時、貞幸は一番に黒田の旗を本丸に入れて先登した。

(志士清談)

黒田二十四騎の一人とされる竹森次貞の息子、貞幸の島原の乱での活躍について



私は若き時より、敵に向かって臆したことは

2021年12月08日 17:38

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/08(水) 12:12:17.53 ID:+KDTAwgV
黒田長政の家老である黒田美作一成は、幼名を玉松、後に三左衛門と呼ばれ、晩年に美作と改め、隠居して
睡鴎と号した。彼は肥前島原の役の時に六十八歳であったが、正月十七日、福岡を出陣し島原に至った。

この時、松平伊豆守(信綱)は軍議をしようと彼を召したが、美作は先に城下を打ち廻ってよくよく地勢を
見終わってから、伊豆守の陣所へ行き、
「今日ここに至り、もし愚意を問われても当城の形勢を知らなければ何を申し上げることが出来るでしょうか。
所々を行って廻り見分仕ったにより、すぐには参上しませんでした。」

このように申すと、伊豆守も「さすが老功の者」と賞美した。そして城へ乗り込む時期について問われると、
こう申し上げた

「只今、城へと乗り込むのは然るべからず。この城を力攻めにすれば、勿論即時に乗っ取ることは
出来るでしょうが、敵の弾薬も沢山あり、寄せ手に多くの死傷者が出るでしょう。今はただ取り巻き
兵糧攻めにして、弾薬を徒に尽きさせ、食も尽き、疲弊した時に乗っ取る事こそ然るべきです。

これについて、もし敵を恐れて申しているのだと思われるかも知れません。しかし私は若き時より、
敵に向かって臆したことはありません。現在、他に変は無く、孤立した一揆の孤城に対して
御人数の死傷者が多いというのは宜しからざる、そのためこのように申しているのです。」

これに伊豆守も諸大将も、一成の意見に同心したという。

志士清談



この湯に浴しただけでも傷が癒えた

2021年12月06日 19:01

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 15:48:26.53 ID:cTQQ2Jd/
秦桐若は黒田孝高に従い度々勇名を得、首三十一を取った。播州の近国の者達は、彼の、長さ一間半ある
唐団扇の指物を見知っており、戦場で近づくことがなかった。秦が指物を隠して敵に近づき、俄にそれを出すと
それだけで敵勢は忽ち敗走したという。

天正十年の山崎合戦の折、彼は重い傷を負い、治療して過半癒えたが、未だ十分に回復していなかったことで、
翌年摂州有馬温泉で湯治をした所、不日に平癒した。この時秦は

「この湯に浴しただけでも傷が癒えた、これを飲めばその効能はいよいよ速やかであろう。」

と、三勺飲むと、腹痛暴泄し程なく傷口が再び破裂して忽ち死んだ。

志士清談

有馬温泉の湯を飲んだばかりに急死した黒田家の勇士のお話。




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 18:23:16.75 ID:DoAv82So
当時は湯も不衛生だったのだろうな

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/06(月) 18:55:09.70 ID:OH6D94Dy
いや、当時の衛生観念とか考えて妥当の判断だとは思うんだけどね?
どうしてもバカにつける薬飲んだって話思い出しちゃうなこれ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/07(火) 03:02:12.04 ID:iiyy02JR
温泉は湧き続けてたり殺菌効果があれば泉質は保たれるし
山崎合戦の時代なら現代ほど人で賑わう訳でもないだろうから
湯の衛性さには問題は無かったんじゃないか?
この場合むしろ問題だったのは泉質なんじゃないか?
飲める温泉も多いけど含有成分によっては飲んで体調悪化するものもあるだろう

嫡子を改易し、二男を猿楽の相手にされるなど

2021年11月24日 17:19

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/24(水) 16:21:24.98 ID:CiAUbYcD
或る本に、後藤基次(又兵衛)の嫡子左門は、主人(黒田)長政の命に背いて改易させられた。
次男の又市は容色優れ小姓を勤め、また小鼓の上手であったが、博多の祇園神事の能に、
日吉太夫の能の鼓を申し付けられたが、これに又兵衛は立腹した
「嫡子を改易し、二男を猿楽の相手にされるなど心得がたい!」
そう言って遂に国を立ち退いたという。

新東鑑

既出ではありますが出典がなかったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3462.html