同じ子にて候えども

2016年10月11日 16:51

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 13:56:46.31 ID:cTGsgr3g
ある時龍造寺隆信の母・慶ギン尼は隆信と衝突して隆信弟の長信の元へ飛び出したことがあった。
その時、隆信から長信に宛てた書状

「ここもとは見限られて候て罷りあられ候間。家中の儀はそのもとにて随分ふるまい申さるべく候。
同じ子にて候えども、そなたは孝行者に候間、申すことにて候。我らどもは子のうちとは申されず候。おかしく候…」

母親に「長信は孝行者だが隆信は子のうちとは言われない」とまで言われてしまったクマー
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』の「配慮と決断、カエサルに似たり」より)





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太閤さま曰く「龍蔵寺隆信という者は」

2016年02月10日 18:52

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 02:49:37.48 ID:CZ/ylyxq
太閤さま曰く

「龍蔵寺隆信という者は名将に違いないだろう。
その理由は、鍋島飛騨守(直茂)に政治を任せているからだ。
これは人を見る力があることに他ならない。
今、飛騨守に会ってみてそれがよくわかった。」

と申された。 【葉隠】



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 10:32:56.23 ID:puLG6I4a
その時はとっくに戦死してるのに名将とは

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 10:49:45.71 ID:1yztIISX
いやだから会った事ないけどこんな男を重用していたならきっと名将だったのだろうという話だろ

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 11:47:43.77 ID:ynrpUDpY
愚者は諫言する家臣を左遷したり誅したりするものですからね

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 13:35:51.50 ID:3eHFHd6C
直茂を諫言で疎んで柳川に飛ばしたって話しも
筑後方面の司令官的な立場を考えると遠ざけたことと違うと思うのよね

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 14:28:39.15 ID:gqS1qBa7
普通左遷なら僻地だもんな
重要拠点なんかに配置しない

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 14:32:49.09 ID:wqpyLFKA
分かってねぇw
平和っていいなぁ

正月の一日二日の事なれば

2016年01月02日 17:32

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 00:04:55.88 ID:yriiHi8D
正月と言えば隆信が鏡神社の大宮司である草野氏を討伐した時に読んだ狂歌がこれ
「正月の一日二日の事なれば草野を焼きて鏡餅かな」
そんな熊さんのちょっと言語センスのいい話



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 11:39:26.48 ID:szi0CsCr
正月早々に戦とかって足軽テンション駄々下がりだろな

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 12:51:14.70 ID:zm4IvZ6I
道雪「だからといって戦線離脱する子は処断だよ」

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 21:26:21.89 ID:xEHA5cdj
貴久「正月早々死にそうになりましたが何か?」

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:14:15.56 ID:po6e0zLa
>>137
隆信は何回か新年あけまして死ね作戦をやってる

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:20:51.12 ID:mQ13eeTc
毛利家臣「幕府を倒す準備が整いました」
毛利「今はまだその時ではない」

そうせい侯が「そうせい」と言うまで繰り返したんだっけ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:35:53.03 ID:oM9JF4Bv
そうせい言うまで幾星霜

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 22:13:39.30 ID:N5kWQ7Ba
こんなのあった

佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 22:22:36.57 ID:mQ13eeTc
>>126

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/04(月) 23:43:38.85 ID:E0f3ljj0
>>140
明けましておめで討か

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 08:04:02.71 ID:Gt/NnWm1
コブラみたいなやつね
ありがと

江上家種は大力量の人であった

2015年12月21日 07:56

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 03:35:21.48 ID:cMTATBTO
龍造寺政家はたいへん愚鈍だったので、母上・慶誾(隆信の母)が国政以下を後見し、
鍋島加賀守(直茂)と土肥出雲守が政事を共和したが、軍事では鍋島が家中の諸士を
率いて、政家の代官となり出発した。政家は年を経て後、病死した。

三男(隆信の次男)の江上家種は大力量の人であった。着ていた鎧の鉄の厚さを5分に
鍛えさせ、刀は4尺8寸、脇差は2尺6寸であった。槍の柄は3間半あり、鉄を延ばして
付けたので、あたかも羊侃の折樹槊とも言えよう。

この槍で敵を突き貫いては投げ、突き貫いては投げなさったが、ある戦場では槍が折れて
柄のみで振るい、薙ぎ回りなさって数十人が打ち倒されたという。常に樫の棒の1尺周りを
八角に作り、筋金を伏せて拵えた。これで薙ぎ倒しなさると、側に近付く者はいなかった。

ある時、秀吉公はその力量のほどを御覧になろうとして家種を御召しになった。家種は
6尺ほどある鉄の棒を杖に突いて赴き、これを玄関の前の庭に押し込んで地面に埋め、
棒の頭を手一束ほど余して置きなさった。後から、小姓衆などが寄り集まってこれを
抜こうとしても、動くはずも無かった。

さて秀吉公が「力量を表されよ」とのたまうと、家種は御前にあった碁石を手に取り、それを
いくらでも柱に押し込みなさった。また、碁盤の隅を片手で取り、百匁蝋燭の火を碁盤で
扇いで消しなさったという。これには秀吉公を始めとした満座が肝を冷やした。

秀吉公は「さて、御辺は国に帰って心のままに休息せられよ。遠路なので重ねての上洛には
及ばぬ」とのたまい、家種を下向させなさった。その後、秀吉公は安国寺(恵瓊)に向かい、
「彼のような大力は大将の近辺に置かないものである」と、のたまったということだ。

また、家種は朝鮮において、かの国一番の相撲の上手と勝負を試みる約束をした。朝鮮人は
籐を腹に巻いて出てきたのだが、家種は大竹をひしぎ腹に巻いて、足踏みなさると大地は
震動した。これを見た朝鮮人は恐懼して相撲をしなかったのだということである。

家種の弟を後藤十左衛門家信という。後藤貴明の養子である。政家の嫡子・駿河守隆房
(高房)は江戸において自害した。心に憤ることがあったといわれている。その子・山城守は
後に白庵(伯庵)と号し、保科肥後守(正之)に寄食した。

――『陰徳太平記』



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 04:49:30.99 ID:zI6t9Yup
家種に野心があればのぉ

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 14:07:13.13 ID:9tKC1H7E
陰徳太平記でなぜ鍋島と並列してマイナーな土肥出雲守の名前が出て来るのかと思ったら、この人対毛利の取次役だったからか
政家の上級家老で生き残った最後の一人だから当時は大物だった筈なんだけど

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 18:24:04.44 ID:/lEmbKkQ
幽斎「碁盤で火を消すのは普通だよね」

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 20:28:46.38 ID:y8HEMUWi
とんと突く

 ころりと転ぶ 幽斎が

如何でこの間に 肉を盛るべき

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 20:43:38.82 ID:AzSQRcTG
ガチムチに 人丸くこそ 見へにけり
ここかあかしの うらの白浪

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/21(月) 23:06:41.32 ID:0uR+WcCN
家信記述少ないな!?

龍造寺と大イチョウ

2014年05月23日 19:05

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 22:46:29.40 ID:/3s+Jnr/
龍造寺と大イチョウ

筑後国三潴郡に、巨大なイチョウの木があった。
この木に朝日がさすと、その陰は筑後川対岸の肥前国寺井(佐賀県諸富町寺井津、北西に3kmは離れている)にまで届く高さで、切り倒すのに七日かかったほどの太さだったという。

村の名はこの大イチョウにちなんで「一木(ヒトツキ)村」と呼ばれた。

『南筑明覧』


この一木村、龍造寺家兼が、そしてその曾孫隆信が雌伏し、見事佐嘉に復帰を果たした。
龍造寺の家運興起の地だと言えるだろう。

ちなみに七日かけて伐ったのは、天正年間筑後に進出した龍造寺隆信の兵である。

隆信の末路はこの大イチョウのタタリか…




龍造寺隆信「織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也」

2013年10月03日 19:29

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/02(水) 21:54:14.93 ID:d4Ijro18
うっかり戦国漫画かいこのブログからおもしろかったので引用

>藤龍家譜に引ける旧記に、
>「隆信公仰被候は、織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也、
> 信長九州へ發向候半は、小倉に於いて面談いたし、盃事の時、我等大ワザト(蓋大盃の名)にて三盃飲差て猶豫致は、
> 四尺八寸の大刀にて、一刀に討ち果たすべしと仰被候由」トアリ
http://awabaya.jugem.jp/?eid=2239

隆信「信長は俺が殺そうって思ってたのによー、明智に討たれるとか残念でならんわ」
隆信公マジ肥前の熊、な話





龍造寺家晴の良い買い物の話

2013年08月14日 19:53

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 08:18:25.15 ID:7ccVNWd2
家晴公の時代に松下小左衛門と言う足軽侍がいた。かの者は武道を心掛け
いつも槍を取り太刀を取っては勝つ事ばかりを考えている者だった。

ある時、小左衛門が朋友のところへ出かけた際に太刀勝負の事について
口論となった。実際に立ち会って小左衛門が勝ったが、続いて相手の父子
が一度にかかってきたので、今度は小左衛門が敗れた。

このやり方をもっての外だと怒った小左衛門はその場を立ち去り、相手を
討ち果たす覚悟を決めた。

小左衛門は一門に人を廻して「珍しい肴が到来したので料理して振る舞い
たい」と告げ、一門の者を呼び集めようとした。この事を横目が聞きつけ
様子をうかがっていたが、怪しい行動であったので家晴公へと報告した。

家晴公はすぐさま小左衛門を高城へと召し寄せられ、直接話を聞かれた所
この間の兵法勝負について憤懣がある事を知られた。「実際にあった事を
残らず申せ」との御意を受けて、松下は全ての事情を申し上げた。

その時、家晴公は「何事も私の為に堪忍せよ」と言い褒美として掛硯から
白銀3包を取り出して手ずから与え「この銀を急いで持ち帰り、一門の者
どもへ酒肴を調えて馳走せよ」と仰せられた。

この有難い措置によって小左衛門は遺恨を捨てた。

その後、家晴公が御近習の者へこの事をお話になられた事があり「この間
は安い値段で良い買い物をしたよ」と仰せられ、御近習の者が「いったい
何を買われたのですか」と尋ねると「役に立つ武士3人を銀3包で召し置く
事が出来たのだ」と仰せになられた。

小左衛門は高麗御陣にもお供してたびたび手柄を立て、帰陣後に家晴公が
他界された際には最初に殉死したと言う。

(古老咄聞書)

龍造寺家晴の良い買い物の話




886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 09:26:06.16 ID:6CI0eY2o
(家晴を家康と空見したのは俺だけじゃないはず)

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 10:05:54.56 ID:WtnzsioH
いや、オレは(足利)義晴と...。

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 10:14:09.59 ID:7ccVNWd2
>>886
それ以前に空目じゃないかな

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 11:15:31.92 ID:B20Gs58+
柳川の抑えとして立花高橋と相対して、九州征伐の頃にゃ秀吉から西郷切り取る許可もらった名将ですな

ちなみに龍造寺の家兼さんの親父さんは康家で家康の逆さまだったりする

892 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/14(水) 18:22:03.37 ID:p1kaldgK
>>885
良き「人材」は財産、まさしく「人財」ですなー(^O^)/。

武雄牟田家のお話

2013年07月09日 19:51

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/09(火) 15:23:57.54 ID:662ovtGo
牟田家は代々龍造寺に仕えた武辺の家で、神崎郡に住んでいた。
天正12(1584)年に島原有馬の陣で隆信が戦死したとき、牟田家の紀伊守家式もともに戦死したが、
その次男である信式は、天正4(1576)年のころ讒言により武雄に逃れ後藤家信の家臣となって外助を称し、犬走に五十国の領地を得て、
以降幕末明治に至るまで後藤家に忠勤をはげんだという。

慶長5(1600)年、鍋島家は関ヶ原で西軍に加担したが、家康より許しを得柳川立花家を攻めた。
後藤家信の子茂綱も2500の兵を率いて参陣し、信式の息子である二代目外助もまた弟助九郎とともにその戦列に加わった。
この戦いでは立花方もよく守り戦ったので、鍋島方はどうしてもこれを破ることができなかった。
そこで外助は単身で敵陣に切り込み、軍扇を以て見方を誘導し、ついに立花方を崩すことに成功した。
しかし外助は敵兵のために斬り死に、弟の助九郎もともに戦死した。
兄外助21歳、弟の助九郎は19歳であった。
茂綱はこの兄弟の死を深く憐れみ、その墓を武雄円満寺に建て、厚く弔った。



山内町史(現武雄市)より、武雄牟田家の逸話でした。
ちなみに外助の遺児六兵衛はこの時1歳で、後に茂綱に従って島原の陣に出陣して功を上げ、
茂綱の死去した際には、生前の寵恩に報いる為に殉死したと書いてあります。
子孫は幕末武雄の近代化軍隊の装備充実に貢献し、戊辰戦争でも大砲隊の隊長として活躍したということです。





私は義士と通じて家を立てる

2013年06月05日 19:58

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 06:04:18.24 ID:CPdK6HUg
弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。

一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。

このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った

「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。

一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。

私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)

龍造寺隆信毛利元就の義に感じ通ずる、というお話




399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 07:38:42.03 ID:1sXLC15E
義はともかくとして、大寧寺の変の余波で城を追われて3年間の雌伏を余儀なくされたわけだし
その原因になった陶とそれに与した大友は認めるわけにはいかんよね

龍造寺隆信の相続

2013年06月03日 19:51

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 00:06:53.76 ID:OGuKHfpT
天文17年(1548)3月22日、龍造寺豊前守胤栄が卒去された。
この方は大内氏の推挙により肥前国の守護代を務められ、五千町を加封し人尽く従った。
胤栄公の夫人は龍造寺家門の娘であったが、胤栄公との間には姫が一人あるだけで、
家を継がれる男子は居られなかった。

このため重臣である小川筑後守や龍造寺播磨守などが相談し、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継がれた
龍造寺胤信公に、龍造寺の嫡流を継がせるべしと迎え取り、先君胤栄公の未亡人と結婚させ、
龍造寺の御家督と仰ぎ奉った。

同18年、大内義隆より隆の偏諱を頂いて、龍造寺山城守隆信と名乗られた。
小川筑後守、納富左馬介、福地主計充といった人々が家老として支えた。

御一家は皆、隆信公に拝謁の礼を取ったが、公は普段から不敵な心を持った方で、
威儀を専らにせず事毎に軽々しく振舞ったため、一門の龍造寺鑑兼の周辺などでは
内々にこの新当主を侮る輩も多かった。

また隆信の夫人も、既に御歳も盛りを過ぎ、先公とのお別れで悲しみに沈む中、
公を弔いのため一心不乱の心であった所を、自身を隆信公の御台とされるべき、などと
聞こえてきて、なんと浅ましいことかと思い沈んだのであるが、老臣達によってこの旨が
決せられ、御家相続のためであるため、気分の気持ちを押し殺して隆信公の室と
なられたのである。

だが、夫人は先君のことを忘れられず、明け暮れに思い泣かれ、
隆信公とは親しむ様子もなかった。

このため夫人の周辺の人々にも、隆信公を侮る人々が集まり、これに家老の面々は、
これは御家敗亡の兆候であると嘆いたがどうしようもなく、
龍造寺播磨守などは妻女を通じて夫人に色々とご意見したものの、全く聞き入れようとはされなかった。

後に聞こえたことによると、龍造寺の老臣であった土橋伊賀守栄益などは、最初から
隆信公を侮り、龍造寺鑑兼を家督に立てたいと思い、夫人に対し様々に讒言していたそうである。
(肥陽軍記)

隆信が龍造寺家を継いだ時期の、その家中の不穏さを伝える逸話である。




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 09:18:35.50 ID:FcPZ+TnG
この後大寧寺の変で不満分子によって早速追放されたのは
復帰後に隆信派で固めることもできて
逆に僥倖だったのかもしれないかな?

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/03(月) 11:01:26.18 ID:0qGhBGw1
後家になって自ら鍋島清房に嫁いだ慶誾尼とは対照的だな

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 06:47:26.20 ID:psKLVZ+m
我が子の為、との思いの有無が大きいんじゃね?
あと当の慶誾尼とソリが合わなかったとか


広橋一遊軒は台所の下男であった

2013年05月23日 19:50

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 14:41:32.16 ID:6FYwgCS7
広橋一遊軒は台所の下男であった。
ある時、相撲で揉めて相手を七、八人斬り殺した。
一遊軒は自害することが決まったが、
龍造寺隆信さまがそれをお聞きになり、
「今は乱世であるから、剛の者は大切だろう。
この者は剛の者にちがいない」
とお許しになった。
そして、姉川での合戦へ一遊軒を連れていったところ、
真っ先に進み、比類なき働きをみせた。
高木での合戦では、あまりに敵方へ深入りするので、
隆信さまは心配なさり、お馬のそばにいるよう命じたが、
先手が進まなくなると、一人駆け出し突撃していくので、
しまいには一遊軒の鎧をつかみ離れないようにした。
このとき一遊軒は、頭部を数ヵ所斬られ、割れていたが、
傷口に青葉を押し込んで、上から鉢巻で締めていた。
当時、一遊軒黒薬という膏薬があった。
まだ当国に外科医などのいないころである。
腫物のできた者はその薬をつけていた。
その黒薬とは、へそのゴマ、塩、米、を練り合わせたものだ。
腫物を切り裂いてそれを押し込むから、
たいていの者は気絶したとのことである。
直茂さまの腕に腫物が出来たとき一遊軒が、
「お見せください」
と言ってきたのでお見せになると、
一遊軒は突然、針を取りだし不意に切り裂いた。
直茂さまが思わず、
「何をする!」
と叫んだところ、
「これくらいで痛いのですか」
と言ったので、直茂さまは針を取り上げ、
一遊軒の頬を切り裂いた。
二人は気が合わず、顔を合わせば喧嘩をしていたという。
天正二年須古の平井攻めのとき、一遊軒は討死した 【葉隠】




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 15:08:01.95 ID:hNNWNmJw
とくに落ちがあるわけじゃない所がまたいいな

682 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/23(木) 15:22:00.04 ID:EGxVCoOf
へそのゴマ、塩、米を練り合わせたものって・・・

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 15:46:56.09 ID:UL3DuNNu
垢を丸めた先祖伝来の薬だってあるんだ、問題ないって勝成さんが…

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 16:19:16.92 ID:rYD0kCrI
小十郎「まーくんの目玉取ってやったぜ!痛み止め?そんな軟弱に育てた覚えはないぜ!ワイルドだろ♪」

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:22:53.95 ID:YqZIn6op
クロカン「目薬いらんかね?」

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:32:24.22 ID:rYD0kCrI
ダンジョー「お茶でも飲んで逝きなさい」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:40:13.55 ID:1BFd76bf
>>680
姉川じゃなく耳川じゃね?

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:07:10.00 ID:06GvmBN2
龍造寺が耳川で戦うことはないよ
肥前にも姉川という地名があるんよ

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:10:04.64 ID:cRSA1gOa
>>687
なぜ?
耳川より姉川のほうが自然だが…

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:27:56.12 ID:06GvmBN2
同じ地名と言えば佐嘉の北、現在の脊振山地一帯である山内の入り口にある城は春日山城といって、謙信の居城と同名だな。

そんな四天王の、ちょっと滑舌の悪い話

2013年04月25日 19:52

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:14:40.29 ID:dDW/kxPV
先日龍造寺四天王の散り様をいい話スレに投下したが、その中の一人江里口藤七兵衛信常。
この男、島津家久に手傷を負わせた際、「江里口藤七兵衛!」と名乗りを挙げて切りつけたのだが、
短い叫びだったためか聞き間違えられ、薩摩では勇士「”井口”藤七兵衛」として語り継がれているらしい。

そんな四天王の、ちょっと滑舌の悪い話



387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:20:25.02 ID:prA9+65Z
川上シロンベロンといい、薩摩ではわざと滑舌の悪さを語り継いでるんじゃなかろうな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:26:23.78 ID:3GgiHJ2e
相手の滑舌が悪いのではなく、聞いた方が正しく発音できずに単語が変化してしまったのが方言だからな

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:24:31.20 ID:zH4SnQ+T
薩摩と佐賀じゃ言葉が違うんじゃないの

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 19:26:23.78 ID:3GgiHJ2e
相手の滑舌が悪いのではなく、聞いた方が正しく発音できずに単語が変化してしまったのが方言だからな

龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話

2013年04月23日 19:52

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 13:39:00.96 ID:VpP9+GPo
先日『戦国大名の四天王列伝』という文庫本を買った。

ちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。

・・・スレ違いでゴメン。




99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 15:50:02.41 ID:5QSpVB8x
それじゃあここで意外と今まで出てはいなかった、
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか

成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる

百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた

江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた

円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した

木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない




100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 18:08:31.89 ID:2UmPyGJY
百武さんの子孫には百武兼行がいて、分家の子孫と言われてるのが旧軍の百武三郎(海軍大将)、源吾(海軍大将)、晴吉(陸軍中将)なんだよな

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 19:49:32.10 ID:Zc0/cTF9
四天王、みんな死に様がかっこ良いな

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:13:20.07 ID:g26aoxZV
てっきり沖田畷で死んだのが後世四天王扱いにされたかと思ったら
みんな相応の武士だったんだな

志田吉之助は竜造寺政家さまの小姓であった

2012年11月20日 19:56

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 00:36:13.38 ID:V9cxuDJi
志田吉之助竜造寺政家さまの小姓であった。
勝茂公の時代になり石田慶春に家督を譲り隠居となった。
多久美作殿と仲が良かったという。
美作殿は吉之助の人物を高く評価していたので、
隠居となった吉之助にひそかに国のことを相談していた。
美作殿は吉之助の隠居の身をもったいないと思い、
どうにか大禄で召し抱えてもらえるようにと考えていた。
吉之助はそんな美作殿の心のうちを見抜いたので、
わざと馬鹿を演じ、強欲者のように振る舞い、
自家製の目薬を作り商売を始め、
その金をもとに質屋金貸業をするようになった。
普段の態度も猛犬のそばを歩くときは裾からげして、
「人間の傷は治るが、着物の傷は治らない」
などと真面目な顔で放言していた。
けれど美作殿も吉之助の作り馬鹿を見抜いて、
ますます奉公させたいと思うようになった。
吉之助はその美作殿の気持ちを知ると、
今度は腰抜けのふりをするようになった。
鳥居の下をふざけながら走ったり、
お堀のそばを通るときなどは、
「通り魔に出くわしたら、お堀に飛び込めば命が助かる」
と言ったり、
「斬首と磔なら磔を選ぶ。
なぜなら磔のほうが死ぬまでの時間が長い」
などとも言い出し、
「生きるか死ぬか迷ったらとりあえず生きておく」
と言いながら結局最後まで奉公しなかった。
しばらくしたあるとき、筑後へ目薬を売りにいく途中、
山賊に囲まれたが三人を斬り殺し、
二人に手傷を追わせて追い散らした。
吉之助はこの事を隠していたが、
そのうち目撃者によりだんだんと知れ渡るようになり、
やはり剛の者であったかと評判になった。
吉之助は、
「拙者は剛の者などではない。
臆病者ゆえ、斬り殺されそうになったから、
命を惜しみ、相手より早く斬っただけなのだ」
と言い訳をした。
このような事がその後もたびたびあったのだが、
老後は竜泰寺を建て、政家さまの霊廟の横に庵を結び、
そこで余生を終えた。
とうとう一生、欲深と腰抜けを演じきり、
本心を隠し通したわけである 【葉隠】





480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 10:03:37.62 ID:fNMicOWF
>>479
これはまた派手に面倒くさい男だなw

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 12:52:26.80 ID:5+5hIUKs
素直に奉公すりゃいいだろうにw
政家への忠義が篤かったのか

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 13:18:25.90 ID:1D2JHR74
そういうところだろうなぁ。
まあ、隠しきれてない気もするがw

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 18:35:17.10 ID:BOCFkGLI
>>479
福岡藩「目薬屋disってるの?」

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 20:03:55.30 ID:ZVMNtgdK
>>488
如水グランパも目薬屋から財成して金貸し屋始めたからなぁ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 20:54:39.77 ID:egQyUtaH
そこまで嫌がってるなら美作も諦めろよw

太閤様も認める九州の強者竜造寺

2012年04月24日 21:29

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:39:31.49 ID:j7ofBqol
太閤様も認める九州の強者竜造寺

山本常朝
『太閤様が薩摩を攻めておられたとき、
軍奉行の人たちから、先陣の竜造寺、鍋島の佐賀勢が軍法に背いた進軍をしているので、
けしからないことでありますから、どうか軍列を正すように、と太閤様に申し上げた。すると、

秀吉公
「戦をするのに決まった型や軍法というものはない。敵に勝つことを軍法とするのだ。
竜造寺は九州でも有名な強者たちである。
きっと、あのままで自信があるのだろう。
なまじ下手なことを言うと恥をかくぞ」

とお叱りになったとのことだ』


関連
鍋島の行列がみっともないのは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4623.html


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:41:23.35 ID:lDpP4tws
鍋島の者どもはくそ弱いので壊走するだろう
そこで加藤主計がかかっていき(ry

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:50:48.12 ID:h79d/JCj
竜造寺さんの反応早すぎてワロウタw

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:59:52.42 ID:WeBW0wgi
まぁ九州征伐終結後に鍋島は軍隊の体をなして無いと
秀吉から、軍事顧問を派遣され軍制改革を強いられちゃうんですけどね
その後の史実にまでつなげちゃうと悪い話になっちゃうなw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:08:50.15 ID:4GNPk3x1
軍制改革なんてものがあったのは初耳

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:17:11.53 ID:l29HL47o
鍋島さんちには、軍制というか、
軍団長の規定がない(常に殿が同伴する、分隊を編成できない・しない)、
殿からの命令伝達の方法がいいかげん、伝令が大物の前を乗馬のまま横切ったら斬られるw
背命の処罰の規定が敵前逃亡以外まっったくない
などなど、なかなかワイルドだったみたいだよ。

地方豪族のまま(運よく)大きくなった、という事なんだろうな。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:22:33.41 ID:uRlci31j
多少なり組織立ってた部分があっても沖田畷できれいさっぱり崩壊しちゃってただろうしな

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:41:26.47 ID:aGLi9qSg
織豊ですらやっと昭和後期になってから現代人が理屈こねくり回して
軍団制だ職業軍人だというようになったんだから

研究する人がいない地方大名の軍制なんて殆ど分かってないだろうに

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:45:08.82 ID:ozBaKjyZ
最高機密である軍事制度を含んだ軍事全般って、当時は口伝が主じゃないの?
軍学とかを江戸期にでっち上げる連中がたくさん出たが、これが空論ばっかで役立たずだったのは周知。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:47:16.72 ID:c+WrngzQ
九州の周りの大名の軍制はどうだったんだ?というのが気にかかってくる

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:48:34.80 ID:h79d/JCj
そんなに無理矢理繋げたつもりはないが・・・
おねへの手紙や乞食への情けは信長の気遣いの話でしょ。
天下一称号は経済政策や技術者の能力向上の話だから

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 14:32:18.97 ID:tTZ3T335
領主とその支配民の寄せ集めにすぎない軍で、きちんとした編成とか戦術とか無理だと思うが……。

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:16:05.36 ID:4GNPk3x1
封建君主制はどんなに大きくなっても「領主とその支配民の寄せ集め」にすぎないわけだけど

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:26:16.47 ID:76wVVDVV
アメリカ陸軍は州兵の寄せ集め

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:28:04.77 ID:tmxNn1P1
州兵と陸軍は別系統じゃなかったっけ?

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:33:15.73 ID:tTZ3T335
>>791
だから江戸時代で制度が停滞して、いきなり近代化した日本はともかく。
欧州だと国王が常備軍そろえるように変化していったんじゃ?

>>792
州兵も国防総省の管轄下にあるアメリカ国家の軍組織。装備、訓練も統一されている。
歴史的経緯から、平時の指揮権が州知事にあるぐらいじゃ?

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 16:42:39.44 ID:4GNPk3x1
>きちんとした編成とか戦術
という物を用いず個人技や現場の判断といった物を突き詰めていくのが大名軍のような封建制
厳格に制度化規格化を進めていくのが律令軍や国民国家軍のような集権制という違いがあるのみで
優劣はそれこそ技術革新や陳腐化、人口の増減といった時代の流れで変わっていく

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 16:55:34.24 ID:zgDSmMTs
農民までキリングマシーンが存在した時代適当に戦ってる軍が弱いとは限らんからなぁ・・・

まぁ弱将の元の軍が弱いのはいつの時代も変わらないというのを体現した方がおいででもあったわけだが

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:10:01.74 ID:/lvlPHF+
日新斎のせんn……教育のお陰で、薩摩兵児は死を恐れないからそんなの無用です。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:14:07.07 ID:tmxNn1P1
薩摩と土佐は比喩抜きで修羅の国

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:28:30.75 ID:BY1Y6njQ
>>787
城の石落としを本当に石を落とすものだと思ってたらしいなw

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 12:37:31.89 ID:ey9X4Nto
まとめブログの管理人さんの紹介していた本を読んでいたら
フロイス「日本史」西九州編第52章には、沖田畷の戦いに出向く龍造寺軍について
「その隊列は見事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし(戦術)計画を
入手しているかのようであった。彼は一万二千の戦闘員を率いていたが、彼らは豪華(に装い)、
また清潔で気品があり、戦場で練磨された兵士たちであった。」
と書いてあるらしい

>>776や
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4623.html
の権現様やラスボスの感想とずいぶん違う気がする

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 13:20:51.48 ID:ey9X4Nto
上のは両方ラスボスの感想だった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4624.html
島原の乱の時の話もあったか

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 13:59:11.72 ID:VenOIFOI
幕末、西洋風近代軍隊の装いの長州勢をみて、
勝海舟「奴らは紙屑拾いのような格好でやってきた」

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 14:30:12.64 ID:r628FkdX
>>908
要は沖田畷以前と以後とで変わったってことでそ。

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 16:13:22.40 ID:7mCOxMCs
完璧なるものは、わずかなほころびで崩れるのだ(ドヤァ

夢を語るには早すぎた隆信

2012年04月22日 21:51

746 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/21(土) 22:09:24.68 ID:VHzgB3G8
竜造寺本家の当主である胤栄が病死した際、竜造寺から攻められ筑後に亡命していた
少弐冬尚が、復権の好機とみて肥前に侵入してきた。これを受け、家中の話し合いにより胤栄の跡を
継いでいた竜造寺隆信は、重臣を集め

「我が代で国が乱れるのは許せぬ。すぐに出兵しよう。そして少弐家を討ったら東を得よう。次に有馬家を
 討てば西は治まる。それが成功したら、今度は隣国に出陣し菊池家や島津家をも従えて、中国、四国にも乗り出すのだ。」

と宣言した。所が家臣から

「まだ国内も治まっていないのに、諸方へ手を出しても敗れるだけです。」

と諌められ、隆信もこの意見に激怒して軍議の場から退出してしまった。この一件で、重臣からは

「あれでは国を治めることは出来ない。」

と嘆かれてしまったという。しかもこの後、かねてより隆信の本家相続を快く思っていなかった土橋栄益
謀反を起こされてしまったという。 夢を語るには早すぎた隆信の悪い話。




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/22(日) 06:57:34.20 ID:UiDyQwDU
>>746
肝心の大友家忘れてますよ隆信さん

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/22(日) 10:33:44.01 ID:JYQ44lJM
元就「天下統一を願って、九州統一」

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/23(月) 18:50:35.87 ID:x5GWsWje
>>746
まず朝鮮を討ち、その後は明に討ち入る。
明を制覇した後は天竺だ…


権力者が夢を語るのは時と場合による

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/23(月) 19:51:28.77 ID:bKLn3Mc/
秀吉の場合、朝鮮や明との仲介に立った部下が
「アホくさい……でも素直にそれいったら首が飛ぶし」
と、本当の事を秀吉にも朝鮮にも伝えなかったせいでさらにややこしくなった気がする。
最初の申し入れも、一回目の講和もそうだし。

お安の方の生涯

2012年02月07日 21:53

妙安尼   
16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 16:52:03.18 ID:AaiOcSAR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1008.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html
このあたりで出ている人だが、お安、後に秀の前と呼ばれる女性についてまとめてみたいと思う。

お安は龍造寺胤栄の娘であり、後に龍造寺隆信の養女である。
父の胤栄は水ヶ江龍造寺家当主だったが、病死してしまう。
胤栄の妻は隆信に再嫁し龍造寺家を統合することとなったが、彼女は前の夫を忘れず隆信と不仲であった。
これを憂えた家老小河信安がまだ幼い娘に刃を押し当て、未亡人を諭したのは既に語られているところだが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html
その娘こそ、まさしくこのお安なのである。

お安は美しく成長し、蓮池城城主の小田鎮光のもとに嫁ぐことになる。
この鎮光の父小田政光は、龍造寺隆信によって見殺しにされて戦死しており、
蓮池城は龍造寺隆信によって占拠、鎮光は筑後に落ち延びたという過去を持っていた。
隆信はそんな鎮光を要衝蓮池城にはおいておけないと考えたのか、
蓮池城を弟長信に渡し、鎮光はお安と共に多久の梶峰城へと移ることとなってしまった。
父祖伝来の地を失った鎮光はこれを恨み、大友宗麟が龍造寺家を包囲したときはそれに呼応して
龍造寺家を攻めた。
しかし大友の龍造寺包囲網は瓦解、鎮光はお安を隆信のもとへと戻し自身は筑後へと落ち延びていった。
隆信はお安を使い、鎮光宛てに書状を出させた、改めて詫びるのであれば裏切りを許してやるというのである。
義父の言葉を信じ佐嘉にやってきた鎮光は、そこで隆信により皆殺しにあってしまう。
お安は隆信に謀略の道具として使われたのであった。

鎮光の死後、お安は自害しようとしたが果たせず、次は松浦党の波多氏へ嫁ぐこととなった。
この時からお安は秀の前と呼ばれるようになったという。
秀の前が嫁いだ波多鎮は子がおらず、隆信の孫を養子に受け入れることになった。
さらに九州征伐の折には遅参を豊臣秀吉に咎められ、鍋島直茂のとりなしにより改易を逃れ、
以降龍造寺家に従属することとなった。
波多鎮は朝鮮出兵のときも遅参や軍令違反を犯し、秀吉の不興を買ってしまったという。
一方で秀の前もその美貌からか秀吉に目を付けられていた。
秀吉から、名護屋城へ出向くように使者が送られ、やむなく秀の前は名護屋城へと赴いた。
秀の前は秀吉に対して不服従の意思を示す為に、わざと懐剣を落として見せたというが、
それが災いして大いに秀吉の不興を買ってしまった。
これらにより波多氏は取り潰し、鎮は常陸へと流されることとなった。
秀の前は佐嘉へと戻り、妙安尼と名乗って仏道に入った。
その後寛永元年(1624)まで生き、79歳で生涯を終えたという。


生涯翻弄され続けた武家の女のちょっと悪い話
ところでまとめブログは龍造寺隆信のところにある小河信安の話とかは本人のところに移した方がいいと思うんだ

※直しておきましたー




17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 20:08:35.34 ID:WsVDhmBh
秀吉から見たら脅す気かこやつ、になるからそりゃ不興買うわな

権力者の我侭への意思表示は難しいとは言え

「これこそ武辺の女の心がけぞ」

2011年11月17日 22:09

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/17(木) 18:13:20.61 ID:g52tawlR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2957.html
戦国の押し掛け女房、龍造寺隆信の肝っ玉母ちゃん慶尼
徳川家康は、慶長八年にこの話を側室の阿茶の局にして感心していたという。

そんな慶尼が花も恥じらう80代の文禄元年(1592)、大陸出兵にあたり秀吉は肥前名護屋城に赴いた。
「佐賀上道」と呼ばれる街道を通る秀吉は、道路端の戸板の上の土器に盛られた握り飯に目を止めた。
秀吉は馬を止めて「これは龍造寺の後家殿が命じたことだろう、さすがに気が利く事よ」と言い、
その一つを手に取って「この固い握り様を見よ、これこそ武辺の女の心がけぞ」と称賛したらしい。

吉永正春著の九州戦国の女たちという本より、葉隠に記された話らしい




肥前諫早藩の始まり

2011年10月21日 22:00

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 00:42:21.49 ID:0T7PLFJj
龍造寺家晴は龍造寺家一門の武将である
龍造寺隆信の死後に鍋島直茂が佐嘉城に移ったため、彼は柳川城の城主となった
立花道雪らの柳川侵攻には、柳川城の堅城ぶりもありそれらを撃退した

さて、時代は下り豊臣秀吉の九州征伐である
龍造寺家は、豊臣軍に加勢した功績から肥前の所領は安堵されることとなった
しかし、筑後柳川は立花宗茂の領地になったため、彼は所領を失うこととなってしまった
家晴はあきらめずに大阪に帰る秀吉を追いかけ、直談判した

談判の結果、当時伊佐早を収めていた西郷氏が九州征伐に加わっていなかったため
その所領を没収し家晴に与えられることが決まった
家晴は西郷氏を攻めて伊佐早を占領、これを諫早と改めて統治することになった
これがこの後幕末まで続く龍造寺四家、肥前諫早藩の始まりである


龍造寺家晴のちょっとあきらめの悪い話




417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 02:29:14.07 ID:aRWFeUc3
龍造寺四家といえば多久家。
多久家といえば代ゼミの名物漢文講師・多久師。
受験の節は大変お世話になりました。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 11:58:51.95 ID:tt6x6FqA
>>416
所領没収し与えられたとか書いてあるけど自分で攻め取るんだなw

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 12:12:48.20 ID:nNPXazme
>>418
押収する権利もらったって意味じゃね?

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 18:20:39.02 ID:1azyaKN7
オプーナを買う権利をやろう的な

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 18:38:18.20 ID:p6rHkPCJ
最低でもこれくらい諦めが悪くないと大名なんて勤まらんって
天庵さんがゆってた。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 20:04:01.07 ID:ducza9Hw
天庵さまは名門の当主で、しかも足利政知の孫だもんな
あきらめ悪そう

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 21:13:43.45 ID:afRHNNHZ
確かに諦め悪そう
http://www.unicorn-a.com/products/gesen18/sengoku3/char/oda2_uziharu.html

和製カエサルの末の息子、後藤家信のちょっと情けない話

2011年02月28日 00:01

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 00:27:52.14 ID:ZFtXCcQe
異教徒嫌いのフロイスさんから、和製カエサルとまで言われたわれらが五州太守龍造寺隆信、
龍造寺隆信には三人の息子がいて、長男を政家、二男を家種、三男を家信といった。
長男の政家は家督を継いで、龍造寺政家となり、二男の家種は江上氏を継いで江上家種を名乗った。
そして三男の家信は武雄の肥前後藤氏を継ぎ、後藤家信を名乗ることになった。

家信が継いだ後藤氏の領地武雄は、肥前の中央に位置して大村や有馬なんかのキリシタン大名の領地に
近いところにあって、
家信の先代の後藤貴明も大村氏からの養子だったり、西肥前の影響も強い土地だったと思う。
そのためか、この家信一度キリスト教に入信しようとしてキリスト教嫌いの隆信にこっ酷く叱られてたりする。

さてこの家信、ほかの兄弟と一緒に肥後に出征したりして活躍してるんだけども、
ご多分に漏れず沖田畷の戦いにも出陣して戦ってるんだな。
結果はまぁ、言わずもがなで、家信もまた命からがら逃げだして所領の武雄に戻り、
武雄城から要害住吉城に、その居城を移した。
たぶん有馬や島津の侵攻に備えたんだろうなと思う。
そこまではいいんだけど、この家信。親父が死んでから弱気になったのかまたキリスト教に入信しようとして、
今度は家臣に猛反発されて閉じ込められてしまったらしい。
和製カエサルの末の息子の、ちょっと情けない話


ちなみに、この肥前後藤氏、家信の息子の代から鍋島を名乗って、後藤家はそこで途絶えてしまってたりする。
武雄鍋島は幕末の蘭学研究とかで頑張ってるし、そこは別に悪い話でもないかななんて思ったりしますが。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:08:46.74 ID:xSMMZ71R
なんで龍さん家は漏れなく従筋の鍋さんに何事もなかったかの様に臣従したん?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:26:47.17 ID:3Bm3Jvq3
>>21
臣従したというより、事実上の肥前のオーナー一族である龍造寺一門が
鍋島勝茂をお雇い社長として雇い、めんどくさい事を直茂に全部押し付けたと考えたほうがいい。

直茂は龍造寺一門があまりに勝手に動くので「大名なんて辞めたい」と泣き言を言ってる
書状が残ってる。

鍋島が君主権を確立したのはなんのかんので勝茂の時代。
勝茂が地道に家中改革を行った成果。

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:37:24.53 ID:M0dz7/pX
熊さん家臣の無茶っぷりは、ちょっとスレでも結構見かけるしね~
もっと勝茂さんは評価されていいのかもね~

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:59:16.39 ID:c77Pe9IX
龍造寺自体が統治の正当性を主張できるほどの名門でもないしな