御小人共討ち果たし候事

2014年01月04日 18:53

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/03(金) 19:10:32.89 ID:Zu8XzJ1n
一、御小人共討ち果たし候事

一、同年(慶長7年(1602))、伊達政宗公は伏見に行かれ留守中であった3月16日朝5時頃(現在でいう8時頃)
  茂庭(鬼庭)綱元屋敷の前の堀普請をしていた。金森隠岐・勘平父子がこの普請の奉行をしていたが、
  堀底に小人が一人寝ていたのを見つけ、人足がさぼっていると思いこれに縄をかけて置いた。

  その後、金森隠岐が茂庭綱元の所に行っている間に、御小人衆が騒ぎ出し、捕縛された小人の縄を解いた。
  これに気がついた奉行の金森勘平が「そのものを取り逃がす気か!?」と叫んだ所、小人たちは
  勘平を一鑓で突き殺した。さらに奥山出羽の屋敷前に居た、あの小人に縄をかけた小人の頭を斬り殺した。
  そして勘平の死骸とともに置いた。

  この時、60余人が囲んでいる中、中島大内蔵が罷り出でてきて、小人達に「慮外者め!」と叱りつけたが
  逆に散々に罵詈雑言を浴びせられた。片倉小十郎の屋敷では、大身衆であるというのに、どう思ったか
  引き退こうとしていた。こういった所に、遠藤但馬が騎馬で鎧を着て現れ、「小人の頭人を6,7人も
  討ち殺しましょう!」と言ったが承知されなかった。

  しかしここで茂庭綱元が「仙台に引き退くような者は残らず討ち果たせ!悪逆無道を成した者達は
  許されない!」と、歩兵20余人を召しつれ屋敷から出撃し、8,9人を討った。
  綱元の配下も6,7人死んだ。この時ともに出撃した玄蕃(桜田元親)も、唇や目を負傷したが
  比類なき働きをした。

  そのうちに小人衆百人余が覚範寺に入りそこに籠った。そして切って出たところを、茂庭たちは
  押し込んで戦ったが上手く行かず、ついに鑓隊を下がらせ鉄砲隊を出し一斉に射撃した。
  これによって討ち果たされた者、131人に及んだという。

  この戦闘で、小田辺大学は頭と肘を負傷し、秋保摂津守は両股を、堀江越中守は肘を負傷。
  宮崎隼人は腕、小塘源左衛門は顔を刺された。
  岩崎弥太郎の弟・太郎八、丹野惣内は死んだ。

  資福寺祝峰の言うところでは、その日、虎哉和尚は保土原に行っており、留守であったそうだ。
  そしてこの日の死者は、総数で178人であったという。

(政宗君治家記録引證記)

慶長7年の、仙台城築城時に起こった暴動とその鎮圧に関しての記録である。




192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/03(金) 20:45:21.53 ID:qbBWMUch
>>190
よくわからんが、奉行の金森父子が憎まれていたのかな?

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/03(金) 21:04:44.10 ID:vkwwKi2N
片倉使えねえ・・・

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/03(金) 21:11:16.77 ID:Zu8XzJ1n
>>192
一般的には、仙台城築上の時の過大な賦役に対する反発から起こった事件だとされています

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/03(金) 21:15:49.18 ID:JiFTWixP
みんなイライラしてたんだろうな かわいそうに

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/03(金) 22:47:24.36 ID:HNZgHw7m
後味の悪い話だ

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/03(金) 22:55:40.77 ID:jxj1oDaY
>>193
使えないというより、片倉は平穏に収めようとしたんだろ。鬼庭綱元が強攻策を取った結果、鎮圧は出来ても
170人以上も死者が出る大惨事に成ったわけだし。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 00:40:44.63 ID:ow5GGc3T
全体的にみんなキレ過ぎと思ったら
>>194みたいな背景があるのか

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 02:45:59.12 ID:Inv/0oJW
発端の奴もサボって寝てたんじゃなくて疲労で倒れてたのかもな

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茂庭家の寿命・いい話

2009年01月12日 00:04

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/11(日) 02:31:21 ID:Oh9JU+rj
>>39で茂庭綱元の話が出たのでついでに

綱元は朝鮮出兵のおり、名護屋留守居役に命じられて政宗の名代を務めていた
秀吉は大層綱元がお気に入りで、ちょくちょく城に呼ばれていたらしい
ある日、秀吉が一言「鬼庭家は代々長寿の家系だそうだな?」と聞くと

綱元「はい。しかし、運悪く父・良直は73歳で早死にしてしまいました」

と答えたから秀吉仰天
是非あやかりたいと、綱元を風呂に入れてその残り湯を飲んだとか

綱元も鬼庭家の例にもれず長生きをしている
18歳の頃に政宗が生まれ、政宗の死後4年後まで生きた
数え年で92年の長寿であった

そして、なんと綱元の命日は政宗と同月同日の5月24日である
その日を狙って逝ったのかはわからないが、忠義篤い人物であったと伝えられている



鬼庭綱元と捕虜・いい話

2008年10月16日 10:58

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/21(木) 01:15:41 ID:8nj9Q1lL
伊達政宗の老臣鬼庭良直は、1585年に葦名・佐竹連合軍との人取橋の合戦で3倍の相手に奮戦するも
岩城氏家臣の窪田十郎に討ち取られた。

のち十郎は捕らえられ、良直の息子綱元の元に引き出された。
父の仇とばかりに十郎は処刑されるかと思いきや、綱元は十郎を恨んではいないと言い、
「捕虜を斬るのは士道に反する」と、十郎を釈放した。
十郎はこれに感じ入り、綱元の家臣になっている。